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「神」はヒルベルト空間に住む。

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[0] SumioBaba 2014/04/29 19:27 Zp/5y15Xgn5

「神」が持つべき必要十分な性質は、「全知全能」だと思われます。ところがこれは、すぐ矛盾に到達します。仮に「神」を「○○○である」と仮定すると、「神」は「○○○である」を選んだばっかりに「○○○でない」を放棄したことになり、「全知全能」ではなくなってしまいます。「神」が「全知全能」であるためには、「○○○である」かつ「○○○でない」を満たさねばなりません。それを矛盾無くできる唯一の方法が有ります。量子力学の多世界解釈です。
        【「神」の定義】
    「神」とは、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、・・・
    を要素とする集合{M}である。
と考えます。すると「神」は、存在可能なあらゆる心の状態を体験しているという意味で「全知全能」になり、「人間の心」は「神」の分身になります。
 さらに個々の心Mi(i=0、1、2、3、・・・)は、<Mi|Mi>=1すなわち「Miの視点に立つとMiの存在確率は1」ですが、Miと矛盾した情報を持つMjの視点に立つと<Mj|Mi>=0すなわち「Mjの視点に立つとMiの存在確率は0」です。つまり個々のMiは、「存在する」と認識する視点に立てば「存在する」と認識する、「存在しない」と認識する視点に立てば「存在しない」と認識する、のダブル・トートロジーを満たしています。このような在り方を【半存在】と呼びます。「「神」{M}は【半存在】する」もトートロジーになり、そこに謎は何も在りません。
 また、自分の心をM1とすると、M1は自分が住む世界W1で成立している事実○○○に対し、「なぜ○○○なのか?」という謎の存在を実感します。この謎もまた、完全にトートロジーに解消されます。もちろん、「○○○である」と認識する視点に立つと「○○○である」と認識する、「○○○でない」と認識する視点に立つと「○○○でない」と認識する、どちらもトートロジーであり、謎は何も無い、が答です。
    ↓↓↓
「クオリア統一理論」(量子力学で記述する全知全能の神)
― 多世界解釈を土台に「神」と「人間の心」との関係を数式で表現し、「神」が自力で無から有として発生する自存のメカニズムを記述し、「人間の心」が感じるすべての謎をトートロジーに解消する試みです。―
http://qualiatouitsu.blog.fc2.com/

144件のコメント 1番から144番を表示中

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[1] 名も無きザビラー@ザ掲示板 2014/04/29 19:31 Xx/XFmNCWAn

なるほど。

[2] SumioBaba 2014/04/30 18:35 Zp/nBwmbTP4

「クオリア統一理論」の要約

 「クオリア統一理論」とは、量子力学の多世界解釈を土台に全知全能の「神」とその分身である人間の「心」との関係を数式表現し、「神」が自力で無から有として発生する「自存」のメカニズムを記述する理論であり、自分が1人の人間であるという実感は記憶の連続性から来る錯覚に過ぎず、自分の本体は他ならぬ「神」であることを理解することで、人間が全知全能になることを目標とします。

 「クオリア統一理論」とは、これまでの【唯物論】を前提とした科学とは異なり、人間の心が知覚・認識する様々な「クオリア(感覚質)」---「色・形」「音」「匂い」「味」「手触り」の五感、「喜」「怒」「哀」「楽」の感情、「時間感覚」「空間感覚」、「我思う、ゆえに我在り」という自我の存在感覚、---等をたった1種類の「元素クオリア」で説明し、物質世界および精神世界におけるすべての謎を統一的に解明する【観念論】の試みです。

 「クオリア統一理論」では、【究極原理】(人間が疑問を抱くすべての謎はトートロジーに解消できる)を第一原理とし、「なぜ○○○なのか?」という型の謎はすべて、「「○○○である」と認識する視点に立てば、「○○○である」と認識する」、「「○○○でない」と認識する視点に立てば、「○○○でない」と認識する」の両方の視点が存在する中の片方に過ぎないことを示すという方法で、すべての謎をトートロジーに解消します。//

[3] SumioBaba 2014/04/30 19:21 Zp/0Wm1D32Q

[1] クオリア統一理論のシナリオ
 「クオリア統一理論」では、様々なクオリア---「色・形」「音」「匂い」「味」「手触り」の五感、「喜」「怒」「哀」「楽」の感情、「時間感覚」や「空間感覚」、デカルトが「我思う、ゆえに我在り」と表現した「自我の存在感覚」、等々---を、できるだけ少数の(できれば1種類だけの)「元素クオリア」が多数階層的に絡み合って構成された「構造」によって説明することを、目標とする。「元素クオリア」の種類と、それが複雑な「構造」を構成するときの規則さえ解れば、存在し得るすべてのクオリア(の複合体である心)M0、M1、M2、M3、・・・の集合{M}が明らかになるはず。→本論(1)(2)。

[4] SumioBaba 2014/04/30 19:33 Zp/qd1uzgyA

[2] 多世界解釈→量子観念論仮説
 量子力学の「多世界説」(多世界解釈)を支持すると、自ずと[量子観念論仮説]に至ることの論証。二重スリット干渉縞実験で、1個の光子が左の穴を通った世界をWl、右の穴を通った世界をWrとする。どちらを通ったか、時刻t1に友人が観測すると、Wlにいる友人lとWrにいる友人rとは、友人l(t1)≠友人r(t1)となり、友人はどちらか一方の視点にしか立てなくなるため、友人l(t1)ならばWl+Wr→Wl、友人r(t1)ならばWl+Wr→Wr、という波動関数の収縮を体験する。しかし、観測していない私にとっては、Wlにいる私lとWrにいる私rとは私l(t1)=私r(t1)であり、もし時刻t2(>t1)に友人lと友人rとが同一の物理状態である友人l(t2)=友人r(t2)になったとしたら、私は友人lと友人rとが干渉するのを見るはずであり、私にとって波動関数の収縮は起きておらず、私l+私rという重ね合わせの視点に立っていて、世界もWl+Wrという重ね合わせのままである。つまり、波動関数の収縮は個人の心による情報の認識が原因であり、人それぞれみな異なる。→本論(59)~(68)。
 [量子観念論仮説]・・・地球上には数十億人の人間の心M1、M2、M3、・・・、Mn(nは数十億)が存在しているが、物質世界の方も、心M1が住む世界W1、心M2が住む世界W2、心M3が住む世界W3、・・・、心Mnが住む世界Wn、と心の数だけ存在し、すべて異なる(「多世界説」を考慮すれば、n→∞)。心Miが住む世界Wiは、Miが知覚・認識している範囲内でだけ物理状態が確定しているが、Miが情報を持たない領域は何も物理状態が確定しておらず、あらゆる可能性が重ね合わせのままである。WiはMiそのものと見なすことになり(i=1、2、3、・・・、n)、M1=W1、M2=W2、M3=W3、・・・、Mn=Wn。そして、存在するのは、すべての心M1、M2、M3、・・・、Mnの集合{M}だけである(ライプニッツの「モナドロジー」)。

[5] SumioBaba 2014/04/30 19:43 Zp/EK9ySPeJ

[3] 全知全能の「神」の定義
 存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、・・・が現に実在していると考え、これらすべてを要素とする集合が{M}である。個々の心が持てる情報の最大量をNビットとし、個々のビットが独立して「0」、「1」、「?」(=(「0」+「1」)/√2)の3つを取り得るとすれば、全部で3^N種類の心となる。すべての要素M0、M1、M2、M3、・・・を同じ重みで重ね合わせると(和融合)、あらゆる情報が打ち消し合って消滅し、それも要素の1つであると見なして「卵」M0と呼ぶ。個々の要素M0、M1、M2、M3、・・・すべてが融合(積融合)し、これらすべての視点に同時に重み1で立てる心M*なるものが、集合{M}の要素の1つとして存在すると考える。
 「全知全能」の「神」の定義は、【定義1】・・・集合{M}を「神」とする、【定義2】・・・「卵」M0を「神」とする、【定義3】・・・M*を「神」とする、等が可能。物理法則や心・脳問題の答の理解も、すべてはクオリアとクオリアの関係を認識するメタクオリアと見なせるため、メタクオリアをもM0、M1、M2、M3、・・・に含めれば、「神」はあらゆる心の状態を体験し、かつ、それら相互間に生じるすべての謎についての答を理解・認識しており、文字通り「全知全能」である。→本論(83)(84)(85)。

[6] SumioBaba 2014/04/30 19:49 Zp/y18eHqqu

[4] 「時間の流れ」という錯覚
 個々のM0、M1、M2、M3、・・・に時間の厚みは無く、これらはすべて異なる状態であり、どれも「MiはMiである」(i=0、1、2、3、・・・)と自己認識できるだけである。ただし、MiとMjの内積が<Mi|Mj>=√α≠0の場合、「Miの視点に立つ時、同時にMjの視点にも確率αで立っている」が言える。Miが持つ情報を1ビットずらした心をMi’、2ビットずらした心をMi’’、3ビットずらした心をMi’’’、・・・とすると、<Mi|Mi>=1、<Mi|Mi’>=1/√2、<Mi|Mi’’>=1/√4、<Mi|Mi’’’>=1/√8、・・・も言える。つまり、「Miの視点に立つということは、確率1でMiの視点に、確率1/2でMi’の視点に、確率1/4でMi’’の視点に、確率1/8でM1’’’の視点に、・・・同時に立つことである」と言える。これが原因で、Miの視点に立つと、→Mi’’’→Mi’’→Mi’→Mi→Mi’→Mi’’→Mi’’’→という「時間の流れ」が存在するかのように錯覚する。本当は「時間の流れ」は存在せず、個々のMi(i=0、1、2、3、・・・)は、時間を超越した悠久の存在である。→本論(19)。

[7] SumioBaba 2014/04/30 19:56 Zp/LSiKpU0x

[5] 「自己同一性」という錯覚
 すべてのMiについて<Mi|M0>≠0、<M0|Mi>≠0であるから、任意のMiとMjにおいて、Mi→M0→Mk(k=0、1、2、3、・・・)→M0→Mjという時間発展が、確率は小さくても必ず存在する。現在の自分の心をM1、1秒後の自分の心をM2とすると、M1→Mk(k=0、1、2、3、・・・)→M2であり、M1とM2の間にすべての心Mk(k=0、1、2、3、・・・)を経由している(いわゆる「経路積分」)。現在の自分の心M1の一瞬前はすべてのMk(k=0、1、2、3、・・・)であったし、現在の自分の心M1の一瞬後もすべてのMk(k=0、1、2、3、・・・)である。→本論(80)。
 ただし、M1は「自分の一瞬後はM2だ」と予想している意識状態であり、「自分の一瞬前はM1だ」と記憶している意識状態はM2であるため、自分が認識できるのはM1→M2という時間の流れだけとなり、その間に経由したMk(k=0、1、2、3、・・・)を認識できない。これが原因で、・・・→自分(t1)→自分(t2)→自分(t3)→・・・すなわち、「時間が経過しても自分は自分」という1人の人間としての「自己同一性」存続の感覚が産まれる。同時に、「運動量保存則」という物理法則が擬似的に発生する。私が1人の人間だという認識、そして、「運動量保存則」は、記憶の連続性によって作り出された錯覚であり、真の私は他ならぬ「神」{M}である。→本論(78)。

[8] SumioBaba 2014/04/30 20:13 Zp/Sx0aRUZ3

[6] 「神」は自力で自存する
 すべてのMiは、{Mi}={{Mi}、<Mi|Mj>{Mj}、<Mi|Mk>{Mk}、・・・}という「フラクタル構造」を持った集合として表現される。心Miは集合{Mi}であり、しかも自分自身{Mi}を要素として含んでおり、他の要素{Mj}、{Mk}、・・・は、Miから見たMj、Mk、・・・の重み<Mi|Mj>、<Mi|Mk>、・・・を付けた形で、<Mi|Mj>{Mj}、<Mi|Mk>{Mk}、・・・と現れる。「「重み1でMiの視点に立つ」ということは、「重み1でMiの視点に立つ」かつ「重み<Mi|Mj>の2乗でMjの視点に立つ」かつ「重み<Mi|Mk>の2乗でMkの視点に立つ」かつ、・・・」を意味する。
 そこで、何も無いところに左辺の{Mi}を「借金」して来る。それを右辺の{{Mi}、<Mi|Mj>{Mj}、<Mi|Mk>{Mk}、・・・}と見なした上で、右辺の{Mi}を「返済」する。そうすると、{<Mi|Mj>{Mj}、<Mi|Mk>{Mk}、・・・}が残る。{Mi}を現在の時刻t1における自分の心の状態M(t1)だとすると、他の<Mi|Mj>{Mj}、<Mi|Mk>{Mk}、・・・の部分は一瞬後の時刻t2におけるM(t2)に対応する。「M(t1)が存在すると思ったら、M(t1)は存在せず、M(t2)が存在した(t1<t2)」という時間の流れの説明である。→本論(87)。
 特に「卵」M0の場合、{M0}={{M0}、<M0|M1>{M1}、<M0|M2>{M2}、<M0|M3>{M3}、・・・}において<M0|M1>≠0、<M0|M2>≠0、<M0|M3>≠0、・・・であるから、左辺の{M0}を「借金」した上で右辺の{M0}を「返済」すると、すべてのMi(i=1、2、3、・・・)を「無」から「有」として産み出せる。それゆえ「神」{M}は、他者に造って貰わなくても、自力で存在できる(自存)。→本論(83)(84)(85)。

[9] SumioBaba 2014/04/30 20:19 Zp/lvz1B2Xf

[7] すべての謎をトートロジーに解消
 人間が抱く疑問はすべて、「なぜ「○○○である」の方だけが選ばれて実現し、「○○○でない」の方は選ばれなかったのか?」という形をしている。「なぜ神は「存在する」の方であり、「存在しない」の方ではなかったのか?」「なぜ自分は「存在する」の方であり、「存在しない」の方ではなかったのか?」「なぜ現在の自分の心はこのM1であり、他のM2、M3、M4、・・・ではなかったのか?」「なぜ自分が住む世界はこのW1であり、他のW2、W3、W4、・・・ではなかったのか?」「なぜ自分の住む世界の物理法則は、このような物理法則であり、他の物理法則ではなかったのか?」・・・等々。「クオリア統一理論」は、これらの疑問にこう答える。「あなたはたまたま「○○○である」と認識する視点に立っているので、「○○○である」と認識するだけだ。」
 「○○○である」がトートロジーでない場合、「○○○である」と認識する視点と、「○○○でない」と認識する視点の両方が、必ず存在する。そして、「○○○である」と認識する視点に立てば、「○○○である」と認識する。「○○○でない」と認識する視点に立てば、「○○○でない」と認識する。どちらもトートロジーであり、謎は何も無い。→本論(82)。

[10] SumioBaba 2014/05/02 17:12 Zp/p6LCcfS3

[8] 科学の究極原理
 「クオリア統一理論」は科学理論ではあるが、いわゆる経験科学ではなく、純粋な理論科学である。第一原理として、【究極原理】=「人間が疑問を抱くすべての謎は、トートロジーに解消できる」を定め、これが正しいとすれば何が言えるか?という形で真理の探究を行う。例えば、量子力学にはいろいろな解釈が成立し得るが、「多世界解釈」(多世界説)以外だとトートロジーに解消できない謎が残ってしまうため、【究極原理】を正しいと仮定するだけで、自ずと「多世界解釈」だけに真理は限定される。もちろん【究極原理】自体は、数学や論理学における「公理」と同様、証明なしに真だと仮定するものであって、究極の科学に対する信念であり、願望に過ぎない。
 この【究極原理】は、 【{M}の実在】【神の全知全能性】【神の自然法則放任主義】と同値。→本論(129)(130)(131)(144)(145)(146)。

[11] SumioBaba 2014/05/02 17:24 Zp/bUEWRug4

[9] 多世界解釈における確率
 量子力学の多世界解釈(多世界説)を仮定すると、確率の意味が不明になってくる。コインを100回投げ、「表」○が出るか?、「裏」●が出るか?、を観測すると、「表」○の出る確率Pが、P=0.9999999999、P=1/2、P=0.0000000001のいずれの場合も、2^100種類すべての結果が生じる、と考えるのが多世界解釈である。それらの中には、○ばかりが100回連続して出たのを見ている自分○、○と●とが約50回ずつ出たのを見ている自分○●、●ばかりが100回連続して出たのを見ている自分●、の3人も必ず発生する。自分○はP=0.9999999999だと確信し、自分○●はP=1/2だと確信し、自分●はP=0.0000000001だと確信するだろうが、どれが正しいかを決める方法は存在しない。言わば、3人とも正しい。→本論(166)(167)(168)(174)(175)。
 物理法則も同様である。どんな物理法則も、無数の多世界の中には、それが成立している世界と成立していない世界の両方が存在し、どちらも正しい。つまり物理法則とは、心による認識を離れて実在するものではなく、たまたまその心がそのような物理法則の成立を認識しているだけに過ぎない。→【物理法則の観念論】→本論(82)(132)(133)(134)。

[12] SumioBaba 2014/05/02 17:37 Zp/xSrQvrUb

[10] 物理法則の自然発生説
 「クオリア統一理論」では、物理法則は実在せず、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、M4、・・・を要素とする集合{M}だけが実在する。現在の自分の心をMiだとすると、本当に実在するのは「MiはMiである」という自己認識だけであり、特定の時間の流れも実在しない。敢えて時間の流れを考えるなら、Miの一瞬前はすべてのMj(j=0、1、2、3、・・・)だし、Miの一瞬後もすべてのMk(k=0、1、2、3、・・・)である。ではなぜ、物理法則の成立を認識するのか?
 存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、・・・の集合{M}の中で、「物理法則A」の成立を認識している心Ma1、Ma2、Ma3、・・・だけを要素とする部分集合を{Ma}とし、その補集合を{Mx}とする。{Ma}の要素であるMai(i=1、2、3、・・・)の視点に立つと、自分の「過去」も同じく{Ma}の要素Majであり、自分の「未来」も同じく{Ma}の要素Makであると認識するため、補集合である{Mx}の認識が完全に欠落し、「物理法則A」に従う世界Waだけが存在すると認識してしまう。
 自分が住む世界で、どんな物理法則が成立しているかを全く認識していない心Miの場合、すべての「物理法則A」、「物理法則B」、「物理法則C」、・・・が重ね合わせのままであり、Miの「過去」はすべてのMj(j=0、1、2、3、・・・)だし、Miの「未来」もすべてのMk(k=0、1、2、3、・・・)である。自分が住む世界で「物理法則A」の成立を認識している心Maiの場合、物理法則が「物理法則A」だけに波動関数の収縮を起こしているため、Maiの「過去」もMajだけに、Maiの「未来」もMakだけに、波動関数が収縮したのである。→本論(155)(156)(157)(158)(169)(170)(171)(172)(173)。

[13] SumioBaba 2014/05/02 17:43 Zp/r2zJ2E2c

[11] すべての存在は主観的
 「神」は全知全能であるために、存在し得るすべての心Mi(i=0、1、2、3、4、・・・)について、それが「存在する」と「存在しない」の両方を体験することが要求される。任意のMiについて<Mi|Mi>=1であるから、「Miの視点に立つと、Miの存在確率は1である」が言え、「Miは存在する」と認識する視点は確かに存在する。一方、Miと矛盾する情報を持っているMjにとって<Mj|Mi>=0であるから、「Mjの視点に立つと、Miの存在確率は0である」が言え、「Miは存在しない」と認識する視点も確かに存在する。「Miは存在する」と「Miは存在しない」の両方が成立し、すべての存在は「客観的」ではなく「主観的」である。

[14] SumioBaba 2014/05/02 17:56 Zp/2KLh71Tq

[12] 心と物理法則のブーツストラップ
 心は物理法則に支えられて初めて存在し得るし、物理法則は心に認識されて初めて存在し得る。→本論(161)(162)(163)(164)(172)。
    【物理法則=0】
 物理法則が全く存在しない世界(心理法則が全く存在しない心)ψは、自分自身を認識できず、自分ψが原因で、ψと-ψとを発生させ、ψ-ψ=0と自己消滅し、存在できない(?)。→本論(155)(156)(157)(158)。
 物理法則が何も無い世界では、時空全体をB、その一部をB1、残りの部分をB2とするとき(B=B1+B2)、B1の物理状態を知っても、B2の物理状態は何も決まらない。B内部の個々の点をB1とした場合にもそれは言える。このような世界では、心は時空内の個々の点にまで分裂し、消滅してしまう(?)。
    【物理法則=1】
 時空全体Bの任意の一部B1の中に、B全体の物理状態についての情報が不可避的に入って来る「物理法則*」が成立している「フラクタル宇宙」の場合。このような世界では、「B1だけに随伴する心M1」は自ずと「B全体に随伴する心M」になる(?)。
    【0<物理法則<1】
 【物理法則=0】と【物理法則=1】の中間で、我々の住む世界がまさにこれである。このような世界では、時空全体をB、その一部(例えば現在の自分の脳)をB1、残りの部分をB2とするとき(B=B1+B2)、「B1だけに随伴する心M1(≠0)」は「B全体に随伴する心M」とは明らかに異なり(M1≠M)、B1とB2との境界で物理法則が成立していることを利用し、M1はB2の物理状態を確率的に推測できるだけとなる。

[15] SumioBaba 2014/05/02 18:05 Zp/7JwbNoZ1

[13] 他我の認識
    【MiはMjの視点に、重み<Mi|Mj>^2で立っている。】
 i=jのとき、<Mi|Mi>=1であり、これはMi(i=1、2、3、・・・)にとっての「我想う、ゆえに我在り」(自分の心Miにとって自分の心Miは、確率1で存在する)を意味する。
 MiとMjの持つ情報が矛盾している時、例えばシュレディンガーの猫の話で、同一の猫の生きた状態を見ている心をMi、死んだ状態を見ている心をMjとする場合、<Mi|Mj>=<Mj|Mi>=0。つまり、「Miの視点に立つ時、同時にMjの視点に立つ確率は0」、「Mjの視点に立つ時、同時にMiの視点に立つ確率は0」である。
 Miが自分の心、Mjが友人の心である場合。両者は矛盾はしていないとしても、持っている情報のズレが少なくともm=10000ビットくらいは有ると考えると、<Mi|Mj>=<Mj|Mi>=(1/√2)^m=(1/√2)^10000。これはほぼ無限小と言えるくらい小さい値なので、「Miの視点に立つ時、同時にMjの視点に立つ確率は無限小」、「Mjの視点に立つ時、同時にMiの視点に立つ確率は無限小」である。地球上に存在する数十億人の心のうち任意の2つをMi、Mjとすると、<Mi|Mj>=δij〔i=jのとき<Mi|Mj>=1、i≠jのとき<Mi|Mj>=0〕が近似的に成立する。
 さらにもし、オリジナルの「自分」のコピー人間「自分’」が作られ、「自分の心」Miと全く同じ「自分’の心」Mi’が発生したとする場合。Mi=Mi’で、<Mi|Mi’>=<Mi’|Mi>=1、すなわち、「Miの視点に立つと、嫌でも同時に確率1でMi’の視点にも立ってしまう」、「Mi’の視点に立つと、嫌でも同時に確率1でMiの視点にも立ってしまう」である。つまり、「自分」と「自分’」は嫌でもMi+Mi’という重ね合わせの視点に立ってしまい、Mi単独の視点やMi’単独の視点には立てない(不可弁別性)。

[16] SumioBaba 2014/05/02 18:14 Zp/yihrEGY3

[14] 死の超越
 3人の別人をA氏、B氏、C氏とし、5つの異なる時刻をt1<t2<t3<t4<t5とすると、人間は記憶の連続性からくる「時間の流れ」「自己同一性」という錯覚により、以下の流れのどれか1つだけを体験している、と実感してしまう。
    →A氏(t1)→A氏(t2)→A氏(t3)→A氏(t4)→A氏(t5)→   ・・・〔A〕
    →B氏(t1)→B氏(t2)→B氏(t3)→B氏(t4)→B氏(t5)→   ・・・〔B〕
    →C氏(t1)→C氏(t2)→C氏(t3)→C氏(t4)→C氏(t5)→   ・・・〔C〕
それゆえ1人の人間である自分は、平均寿命80年程度の人生を終え、やがて必ず死ぬ、と思い込むことになる。→本論(78)。
 しかしそれは錯覚である。上に出て来た15個の心相互間には時間的前後関係も無いし、空間的位置関係も無い。(「神」がどういう順序で15個の心を体験したと想定してみても、例えば真の体験順序を→B氏(t5)→A氏(t2)→C氏(t4)→だと仮定してみても、A氏(t2)は、自分の一瞬前をA氏(t1)であったと記憶し、自分の一瞬後をA氏(t3)だと推測している心なので、嫌でも→A氏(t1)→A氏(t2)→A氏(t3)→の順に体験していると錯覚するのであり、真の体験順序なるものは無意味)。すべてのMi(i=0、1、2、3、・・・)には「発生」も「消滅」も無く、真の私すなわち「神」は、すべてのMiの視点に立ち、「MiはMiである」という体験をしている。この事実を悟れば、死も錯覚であり、人間は不老不死になれる。自分が生まれる前も、生きている間も、死んだ後も、実在するのは「MiはMiである」(i=0、1、2、3、・・・)という自己認識、すなわち【神の定常状態】だけである。→本論(231)。

[17] SumioBaba 2014/05/02 18:21 Zp/Q1P876im

[15] 悟り・解脱・梵我一如
 人間は、自分が1人の人間だと錯覚する状況に置かれており、自由意志で様々な選択をしながら、自分の一生を体験していくと実感している。現在の自分の心Miが、努力・精進の結果、大成功を収めて喜んでいる心Mjになるのも良し。現在の自分の心Miが、堕落・怠慢の結果、大失敗に終わって嘆き悲しむ心Mkになるのも良し。人生というゲームを楽しみたい人は、思いっきり楽しめば良い。しかし、自分がどちらの人生を送った場合も、「神」{M}は不変であり、「MiはMiである」「MjはMjである」「MkはMkである」という自己認識は、初めから集合{M}の要素として存在している。→本論(135)(136)。
 真の私は「神」{M}であると悟り、1人の人間としての成功・失敗を超越し解脱してしまえば、1人の人間である自分は「神」と一体化でき(梵我一如)、すべての心M0、M1、M2、M3、・・・を体験していることに気付く。「神」{M}とはどういう集合か?という「謎」を解明する「クオリア統一理論」自体もまた、究極まで完成したときにはトートロジーに到達しており、「謎」は初めから存在していなかった事に気付く。→本論(202)(203)(206)(207)(208)。

[18] あめま 2014/05/02 18:23 AC/jThNQJkq

うざ

[19] SumioBaba 2014/05/02 18:30 Zp/TCQiK9hD

[16] 科学と哲学の終焉
 自分の心をM1、自分が住む世界をW1とすると、科学はW1(とM1?)の現状認識および法則性の解明において、大きな実績を残して来た。しかし哲学は、このような方法では最後まで解明できない謎が残ることを指摘して来た。「クオリア統一理論」では、哲学が指摘して来た難問(アポリア)をも、すべてトートロジーに解消してしまう。→本論(202)(203)。
 存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、・・・は、「存在する」と認識する視点に立てば「存在する」と認識する、「存在しない」と認識する視点に立てば「存在しない」と認識する、のダブル・トートロジーを満たしており、このような在り方を【半存在】と呼ぶ。「「神」{M}が【半存在】する」はトートロジーであり、そこに謎は何もない。
 自分はM1の視点に立っているため、ついつい「なぜM1だけが選ばれているのか?」という「謎」の存在を実感してしまうが、これは錯覚である。もし【半存在】するのがM1だけであれば、確かに「なぜM1だけが選ばれているのか?」という「謎」が存在し、これはトートロジーに解消できなくなる。しかし、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、・・・が平等に【半存在】していると考えることで、この「謎」は消滅する。その理由は、「なぜM1だけが選ばれているのか?」という「謎」を認識するためには、M0、M1、M2、M3、・・・の中からM1だけを選ぶ必要が生じるからである。つまりこの「謎」は、「M1だけを選ぶと、なぜM1だけが選ばれているのか?」というトートロジーに変質し、解消されてしまう。「神」はすべてのM0、M1、M2、M3、・・・の視点に平等に立っているのであって、M1だけを選んでなどいない。
 こうして「クオリア統一理論」では、すべての「謎」がトートロジーに解消され、消滅する。科学も哲学も、これで完全に終焉する。

[20] あめま 2014/05/02 19:10 AC/jThNQJkq

だまれ

[21] 第七勢力 2014/05/02 23:27 ba/NsL2qcG0

百歩ゆずってSBの説で科学も哲学も謎がすべて解消されているとしても、宗教=神の謎は解消されてないし宗教は終焉していない

[22] 第七勢力 2014/05/02 23:29 ba/NsL2qcG0

神の定義さえなっていない。

[23] 第七勢力 2014/05/02 23:31 ba/NsL2qcG0

SBさーん、いますかー?

[24] SumioBaba 2014/05/03 12:40 Zp/M0NSKD0O

>>21
「宗教=神の謎は解消されてないし宗教は終焉していない」と認識する視点に立てば「宗教=神の謎は解消されてないし宗教は終焉していない」と認識する。
だし、
「宗教=神の謎は解消されているし宗教は終焉している」と認識する視点に立てば「宗教=神の謎は解消されているし宗教は終焉している」と認識する。
です。
第七勢力さんは、前者の視点に立っている訳ですね。私は後者の視点に立っています。

[25] 第八勢力 2014/05/03 14:31 UK/NsL2qcG0

>>24
横やりだが、それがどうした?
話かみあってないぞw

[26] 幸せ 2014/05/03 15:10 RX/QVjRp1jf

木村沙織が好きすぎて

http://blog-imgs-47.fc2.com/i/m/a/imagepost11/304421cf.jpg

[27] SumioBaba 2014/05/03 16:21 Zp/TCQiK9hD

>>22
第七勢力さんの「神の定義」は何なのでしょう?

[28] SumioBaba 2014/05/03 17:13 Zp/SdKrD6UN

>>22
「神」は全知全能ですから、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、・・・を体験しているはずです。そうでないと、全知全能でなくなってしまいますから。つまり「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、・・・を体験している」は、「神」であるための必要条件だと思います。もし、これ以外にも条件が必要であれば、これは必要条件ではあっても十分条件ではない、ということになりますが、「クオリア統一理論」ではこれ以上の条件は不要と考え、この「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、・・・を体験している」は、「神」であるための必要十分条件だと見なします。「神」についての最もシンプルな定義という訳です。

[29] 第七勢力 2014/05/03 22:17 31/NsL2qcG0

やあ!
>>27
私の定義が問題なのでなくて、少なくとも万人が納得する定義を示さないことにはその定義は間違っていることになるでしょうね

>>28
>「神」が持つべき必要十分な性質は、「全知全能」
なぜそんなことがあなたにわかるのですか?
とてもそれが必要十分だとは考えられません。
反論を示しますと、それが本当なら、「全知全能」という言葉こそ「神」を示すものということになり、「神」という言葉が不要になります。

>「神」とは、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、・・・を要素とする集合{M}である。と考えます。すると「神」は、存在可能なあらゆる心の状態を体験しているという意味で「全知全能」になり、「人間の心」は「神」の分身になります。

そうあなたが考え(仮定し)ているだけでしょ。仮定から解決や終焉は証明されませんよ。
「全知全能」が必要十分な性質だったのではないのですか?「存在しうるすべての心を体験している」=「全知全能」=「神」なら、神という言葉も全知全能という言葉も不要になりますね。3つも「全く同じ」ものがあるのは言葉(=一般化の道具)の存在理由に反しますから。

>「人間の心」は「神」の分身になります。
じゃあ、その1つであるあなたの心は存在可能なあらゆる心の状態を体験している全知全能ですね。
体験していて全能でもあるのなら、ぜひ、本日のオバマ大統領の朝食のメニュー詳細と各品を食べていたときに感じていたことを言ってみてください。それと本日21時ゴロに私が思っていたことも書いてください。
よろしく。

[30] 第七勢力 2014/05/03 22:26 31/NsL2qcG0

ついでに質問もしておこう。
神は全知全能だとあなたはいわれるが、神はあるモノと全く同じモノを作れるのだろうか?たとえば現存しているミジンコAに対して、ミジンコAをもう1匹作れるのかな?

[31] SumioBaba 2014/05/03 22:45 Zp/jK5yGzU2

有名な全知全能にまつわるパラドックスを挙げてみます。→<<クオリア統一理論(234)>>
        【全知全能のパラドックス】
    「神」は、自分が持ち上げることのできない重い岩を、作り出すことがで
    きる(YES)だろうか?、できない(NO)だろうか?
    もしYESであるなら、「神」はその岩を持ち上げられないという意味で、
    「全知全能」でなくなってしまう。
    もしNOであるなら、「神」はその岩を作り出せないという意味で、「全知
    全能」でなくなってしまう。
    YESとNOのどちらを選んでも、「神」は「全知全能」ではなくなってし
    まう。
多世界解釈を利用して、このパラドックスを解消してみましょう。次の2つの心を考えます。
    Ma ・・・ 自分が持ち上げることのできない重い岩を作り出せたと
      実感している「神」(?)の心
    Mb ・・・ 自分が持ち上げることのできない重い岩を作り出せなかっ
      たと実感している「神」(?)の心
MaもMbも、単独では「全知全能」ではありません。Maは、その岩を持ち上げられないので「全知全能」ではないし、Mbは、その岩を作り出せないので「全知全能」ではありません。つまりMaもMbも、単独では「神」とは見なせません。だから、「神」(?)と書いておきました。MaもMbも、単独では「神」失格だということです。では、何が「神」として合格なのでしょうか?
 「クオリア統一理論」では、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、・・・が実在すると想定し、その集合{M}を「神」だと考えました。{M}の中にはもちろん、MaもMbも、M0、M1、M2、M3、・・・のどれかとして含まれています。それゆえ、MaとMbの両方を体験しているという意味で、「神」{M}は「全知全能」になり得る訳です。
 MaとMbとが同一の世界、同一の心の中で成立してしまうと、両者は矛盾してしまいます。真理体系の中に1つでも矛盾が生じると、あらゆる命題の肯定も否定も証明されてしまい、何が真で何が偽かを振り分けする試みは、完全に失敗します。それを避けるため、多世界解釈の立場に立ち、MaとMbとは別の世界に住む心であり、両者は線形の重ね合わせ状態にあって相互作用は無い、と見なします。

[32] 第七勢力 2014/05/03 23:08 31/NsL2qcG0

>>31
あなたの「全知全能」理論はいいですから、「神」についての話に話を戻してはやく29と30の質問に答えてください。
まだ1つも答えをいただいてませんから

ああ、それと、30の質問ですが、ミジンコAと一緒に人間Bの場合も追加して質問しておきます。

[33] SumioBaba 2014/05/03 23:49 Zp/UBgHJWbb

>>29

>>「神」が持つべき必要十分な性質は、「全知全能」
>なぜそんなことがあなたにわかるのですか?
>とてもそれが必要十分だとは考えられません。
>反論を示しますと、それが本当なら、「全知全能」という言葉こそ「神」を示すものということになり、「神」という言葉が不要になります。

 そんなことが言えるでしょうか? 例えば、3×2=6だけれど、だからといって6という表記が不要になるとは思えませんが。

>>「神」とは、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、・・・を要素とする集合{M}である。と考えます。すると「神」は、存在可能なあらゆる心の状態を体験しているという意味で「全知全能」になり、「人間の心」は「神」の分身になります。
>そうあなたが考え(仮定し)ているだけでしょ。仮定から解決や終焉は証明されませんよ。

 何が不満なのか、よく解りません。

>「全知全能」が必要十分な性質だったのではないのですか?「存在しうるすべての心を体験している」=「全知全能」=「神」なら、神という言葉も全知全能という言葉も不要になりますね。3つも「全く同じ」ものがあるのは言葉(=一般化の道具)の存在理由に反しますから。

 そんなことが言えるでしょうか? 例えば、3×2=7-1=6だけれど、3×2、7-1、6の三つの表記は、全部必要だと思いますよ。

>>「人間の心」は「神」の分身になります。
>じゃあ、その1つであるあなたの心は存在可能なあらゆる心の状態を体験している全知全能ですね。

 それは誤解です。「人間の心」は「神」の一部なのですから、全知全能ではありません。全体である「神」が全知全能なのです。

>体験していて全能でもあるのなら、ぜひ、本日のオバマ大統領の朝食のメニュー詳細と各品を食べていたときに感じていたことを言ってみてください。それと本日21時ゴロに私が思っていたことも書いてください。よろしく。

 私は1人の人間であり全知全能ではありませんので、悪しからず。

[34] SumioBaba 2014/05/03 23:52 Zp/y18eHqqu

>>30

>ついでに質問もしておこう。神は全知全能だとあなたはいわれるが、神はあるモノと全く同じモノを作れるのだろうか?たとえば現存しているミジンコAに対して、ミジンコAをもう1匹作れるのかな?

 「現存しているミジンコAに対して、全く同じモノを作った、と認識している心」をMmとすると、このような心は特に存在していけないという理由も見つからないので、存在し得るすべての心の集合{M}の要素として、存在しているのではないでしょうか。そして、「MmはMmである」と自己認識していると思われます。

[35] 名も無きザビラー@ザ掲示板 2014/05/03 23:55 31/NsL2qcG0

>3×2=6だけれど、だからといって6という表記が不要になるとは思えませんが。

そういうことではありません。
3×2と6は全く同じことを意味していませんよね。
6について説明してくださいといわれてそれは3×2です、では説明不足でしょ。3×2と6は全く同じではありません。

[36] 名も無きザビラー@ザ掲示板 2014/05/03 23:56 31/NsL2qcG0

>>33
>何が不満なのか、よく解りません。

それは答えになってませんよ。
そうあなたが考え(仮定し)ているだけでしょ。仮定から解決や終焉は証明されませんよ。

[37] 名も無きザビラー@ザ掲示板 2014/05/03 23:58 31/NsL2qcG0

>そんなことが言えるでしょうか? 例えば、3×2=7-1=6だけれど、3×2、7-1、6の三つの表記は、全部必要だと思いますよ。

ええ、必要ですよ。それらはまったく同一の意味を表してはいないのですから。意味の数だけ言葉やフレーズは必要です。

[38] 名も無きザビラー@ザ掲示板 2014/05/04 00:00 31/NsL2qcG0

>「人間の心」は「神」の一部なのですから、全知全能ではありません。

『「人間の心」は「神」の分身になります。』といったり神の一部といったり、なんともぶれる説明ですね。
どちらか決めて下さい。分身と一部は全く違う意味を表しますよ。

[39] 名も無きザビラー@ザ掲示板 2014/05/04 00:07 31/NsL2qcG0

>私は1人の人間であり全知全能ではありませんので、悪しからず。

あなたは神の一部なんですよね。一部である存在は全体を知る事はできないということでよろしいでしょうか?
もしそうなら、あなたは神を知らないということになる。知らないものをきっちり定義できるはずがない。
逆に、あなたが神を知ることができるなら、あなたの前提した神の必要十分であるところの「全知全能」または「存在しうるすべての心を体験している」を通して、あなたは人の心を体験している「例」を知っているはずです。
いずれにしてもあなたの理論は詰んでますね。

[40] 名も無きザビラー@ザ掲示板 2014/05/04 00:10 31/NsL2qcG0

>>34
回答になっていませんよ。

わかるでしょう?そのような回答では万人にあなたの理論の正当性を支持させることはまったくもって不可能です。
真正面からきっちり回答してください。出来ない理由があるのならそれはそれでそのことを説明してもらう必要があります。

[41] 第七勢力 2014/05/04 00:24 31/NsL2qcG0

コテをつけていませんが、>>35-39は私です

それと、このスレッドは板違いです。神話でも伝説でもありません。
自分で説や話を新たに作って、あなた何してるの?って話です。そんなの神話でも伝説でもありません。それにヒルベルトさん?にも失礼でしょw。

[42] 第七勢力 2014/05/04 00:25 31/NsL2qcG0

というわけで、私のレスは終わりにします。どうみても論破ずみですので。

[43] SumioBaba 2014/05/04 01:26 Zp/xcBxnS7Q

>>40

>>>34
>回答になっていませんよ。

 どこが?

> わかるでしょう?そのような回答では万人にあなたの理論の正当性を支持させることはまったくもって不可能です。

 「万人にあなたの理論の正当性を支持させる」??? 量子力学を理解している人なんて、百人に一人もいないんですよ。量子力学を理解していない人に、私の理論の正当性を支持させることなんか、できる訳が無いでしょう?

>>42

>というわけで、私のレスは終わりにします。どうみても論破ずみですので。

 はい、ぜひそうして下さい。こちらもあなたをとっくに論破済みだと考えていますので。もう、あなたには答えなくて良いのですね。

[44] SumioBaba 2014/05/04 02:53 Zp/lmmc2kCR

>>40

名も無きザビラー@ザ掲示板さんへ

 前以てお尋ねしておきます。99%の「量子力学を理解していない人々」、1%の「量子力学を理解している人々」、あなたはどちらのグループに属する人ですか?

[45] SumioBaba 2014/05/04 09:15 Zp/acf4h377

>>36
>>何が不満なのか、よく解りません。
>それは答えになってませんよ。
>そうあなたが考え(仮定し)ているだけでしょ。仮定から解決や終焉は証明されませんよ。
 「考え」と「仮定」は全く別物です。「仮定」を何も含まず、論理的に演繹する「考え」も有ります。私の論法の中の何が「考え」で、何が「仮定」だと主張されているのか、さっぱり解りません。

>>37
>>そんなことが言えるでしょうか? 例えば、3×2=7-1=6だけれど、3×2、7-1、6の三つの表記は、全部必要だと思いますよ。
>ええ、必要ですよ。それらはまったく同一の意味を表してはいないのですから。意味の数だけ言葉やフレーズは必要です。
 そうです。数学なんかでよくあるでしょう。三つの命題A、B、Cが有って、互いに「必要条件」なのか「十分条件」なのか「どちらでもない」のか、一見してよく解らないのに、よく分析してみたら三つとも互いに「必要十分条件」で同値であることが判った、という状況です。「二等辺三角形」と「二等角三角形」は意味は同一ではないけれど、ユークリッド幾何学では互いに必要十分の関係にある、などもそうです。

>>39
> >私は1人の人間であり全知全能ではありませんので、悪しからず。
>あなたは神の一部なんですよね。一部である存在は全体を知る事はできないということでよろしいでしょうか?
「一部の視点に立っている時は、全体を体験している訳ではない」、です。
>もしそうなら、あなたは神を知らないということになる。知らないものをきっちり定義できるはずがない。
 これが間違っていると思います。1人の人間であるSumioBabaは、オバマ大統領の心を体験はしていません。しかし、「オバマ大統領の心」という言葉で、それを定義することは可能です。

 第七勢力さんは、99%の「量子力学を理解していない人々」と、1%の「量子力学を理解している人々」の、どちらのグループに属する人ですか?

[46] あめま 2014/05/04 09:22 AC/jThNQJkq

きもぉ

[47] SumioBaba 2014/05/04 15:39 Zp/9UH9ytPz

量子力学は非常に難しくて、自分も完璧に理解しているなどとはとても言えません。解らないことだらけです。しかし、ある程度の基本的なことを知っておかないと、私が何を言っているのか全く理解できないのではないかと危惧します。
 例えば「多世界解釈」。厚さ1mの鉄の壁に体当たりした時、トンネル効果で壁を通り抜けてしまう確率は、無限小ではありますが、0ではありません。普通は10000回体当たりしても1回も通り抜けられないはずで、そういう体験をしている自分の心をM×としましょう。ところが「多世界解釈」では、10000回体当たりして10000回すべて通り抜けた体験をしている自分の心M○も、必ず発生します。「そんなの確率が無限小なのだから、無視して良いではないか?」という気もしますが、それはM×の視点に立っているからです。M○の視点に立つと、恐らくその世界には量子力学という物理法則は成立しておらず、「壁に体当たりすれば必ず通り抜けられる」という、別の物理法則が成立しているはずです。
 M×が住む世界で成立している「物理法則A」と、M○が住む世界で成立している「物理法則B」が異なれば、M×は決してM○の存在を認識できなくなります。なぜならM×は、自分の過去も未来も、「物理法則A」が成立していると認識しているからです。(>>12「物理法則の自然発生説」)。M×がM○の存在を認識できないからといって、M○にとってのM○が存在しないことを意味しません。存在し得るすべての心の集合{M}の中で、「物理法則A」の成立を認識する心の集合を部分集合{Ma}、その補集合を{Mx}とすると、{Ma}よりも{Mx}の方が断然多くの要素を持つかもしれません。

[48] SumioBaba 2014/05/04 16:01 Zp/SdKrD6UN

>>40
>>34
>回答になっていませんよ。
>わかるでしょう?そのような回答では万人にあなたの理論の正当性を支持させることはまったくもって不可能です。
>真正面からきっちり回答してください。出来ない理由があるのならそれはそれでそのことを説明してもらう必要があります。

    【万人に私の理論の正当性を支持させることが不可能な理由】
    私の理論を理解するには、量子力学をある程度理解している
    必要が有るのに対し、万人の99%は量子力学の基礎的知識も
    持ち合わせていないため。

[49] SumioBaba 2014/05/05 14:15 Zp/VCREy2rL

第七勢力さんが>>30でこう質問しておられます。
>ついでに質問もしておこう。神は全知全能だとあなたはいわれるが、神はあるモノと全く同じモノを作れるのだろうか?たとえば現存しているミジンコAに対して、ミジンコAをもう1匹作れるのかな?
 第七勢力さんの質問の意図は明らかです。もし私が「NO」と答えれば、「ミジンコAと同じモノを作れないのなら、その神は全知全能ではない」と応じられたはずです。もし私が「YES」と答えたならば、「じゃあ実際にミジンコAと同じものを神が作るところを見せてくれ」と応じられたはずです。この質問は、「我々が住む客観的物質世界Wの中に、全知全能の神は存在できるか?」と問うており、多世界解釈は完全に無視されています。
 「クオリア統一理論」では、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、・・・を要素とする集合{M}だけが【半存在】し、この{M}が「神」です。それ以外には何も存在しません。そして、Mm=「現存しているミジンコAに対して、全く同じモノを作った、と認識している心」と、Ms=「現存しているミジンコAに対して、全く同じモノを作れなかった、と認識している心」の両方が、M0、M1、M2、M3、・・・の中のどれかとして含まれています。「神」は、MmとMsを含むM0、M1、M2、M3、・・・すべてを体験しているという意味で、全知全能です。

 >>40で、名も無きザビラー@ザ掲示板さんが、
>回答になっていませんよ。
>わかるでしょう?そのような回答では万人にあなたの理論の正当性を支持させることはまったくもって不可能です。
>真正面からきっちり回答してください。出来ない理由があるのならそれはそれでそのことを説明してもらう必要があります。
と不満を感じておられるようですが、私は真正面からきっちり回答しているのです。ただし、多世界解釈(多心解釈)に則って、です。

[50] あめま 2014/05/05 15:01 AC/jThNQJkq

うざ

[51] SumioBaba 2014/05/05 19:54 Zp/58p7gZNM

ガラスのコップを落として割ってしまい、「神よ、コップを元に戻して下さい」と念じた時、このコップが元に戻る確率は、無限小であって0ではありません。割れていないコップが割れるのは、エントロピーが増大する方向だから、簡単に起こります。それを時間逆行させた、割れているコップが自然に割れていない状態に戻る過程は、エントロピーが減少する方向だから、それが自然に起きる確率は極めて小さいだけであり、物理法則に反する訳ではないので、厳密に言えば起こり得ます。
 多世界解釈を取らず、世界は1つだと考えると、確率無限小の過程はまず起こらないので、「割れたコップが自然に割れていない状態に戻ることは、絶対に有り得ない」という近似が十分成立します。
 しかし、多世界解釈の場合は全く違います。多世界解釈の場合、確率無限小の過程も確率0でなければ必ず起こります。コップが割れてしまい、「神よ、コップを元に戻して下さい」と念じている自分の心をMa、念じたのにコップが元に戻らなかった体験をしている心をMx、念じたらコップが元に戻った体験をしている心をMyとしましょう。多世界解釈の場合、Ma→Mxという時間発展が確率1-α(αは無限小)で、Ma→Myという時間発展が確率α(αは無限小)で起きる、という分岐になります。殆どの場合、自分が体験するのはMa→Mxという時間発展の方ですが、それに並行してMa→Myという時間発展も必ず起きていることになります。もちろんMxとMyとは矛盾しているので、どちらか一方の視点に立てるだけです。
 存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、・・・の集合{M}の中に、Ma、Mx、Myの3つも要素として含まれており、「神」{M}はこれらすべてを体験しているという意味で全知全能です。なお、全く異なる物理法則の成立を認識している心Mbの視点に立てば、Mb→Mxの方が起こりにくく、Mb→Myの方が起こり易い、という可能性も有りますから、MxとMy自身の存在確率そのものに大小関係は有りません。

[52] SumioBaba 2014/05/06 00:09 Zp/OMlFgkX9

存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、・・・を要素とする集合{M}全体の中で初めて、「神」はそれらすべてを体験できているという意味で、「全知全能」という性質が成立しています。要素M0、M1、M2、M3、・・・の中の1つでも欠如すると、「神」は欠如した心の体験ができていないという意味で、「全知全能」でなくなってしまいます。
 1人の人間である自分の心は、M0、M1、M2、M3、・・・の中の1つ、例えばM1の視点に立っています。当然のことながら、M1という1つの心の中に(M1が住む1つの世界W1の中に)、「神」の「全知全能」という性質を実現することは不可能です。

 「神の奇跡」と呼ばれるような現象、例えば「厚さ1mの鉄の壁を通り抜ける」、「割れたコップが自然と壊れる前のコップに戻る」、「千円札が1万円札に変わる」、・・・などは、起こり得るのか、起こり得ないのか?
 「神」{M}の要素の中には、M○=「神の奇跡が起きたのを認識している心」と、M×=「神の奇跡が起きなかったのを認識している心」の両方がM0、M1、M2、M3、・・・のどれかとして存在しており、「神」はその両方を体験しています。
 では自分の心M1は、「神の奇跡」と呼ばれるような現象を体験するでしょうか、しないでしょうか? そもそも「神の奇跡」とは、自分の心M1が住む世界W1の中で、起きる確率が0または無限小と思われる現象を指しています。従って、自分の心M1が「神の奇跡」を体験する確率は0または無限小になるのが当然で、殆どの場合「神の奇跡」は体験できないことになります。

[53] SumioBaba 2014/05/06 18:13 Zp/N12V8zem

>>11に書いている説明を引用します。
-----量子力学の多世界解釈(多世界説)を仮定すると、確率の意味が不明になってくる。コインを100回投げ、「表」○が出るか?、「裏」●が出るか?、を観測すると、「表」○の出る確率Pが、P=0.9999999999、P=1/2、P=0.0000000001のいずれの場合も、2^100種類すべての結果が生じる、と考えるのが多世界解釈である。それらの中には、○ばかりが100回連続して出たのを見ている自分○、○と●とが約50回ずつ出たのを見ている自分○●、●ばかりが100回連続して出たのを見ている自分●、の3人も必ず発生する。自分○はP=0.9999999999だと確信し、自分○●はP=1/2だと確信し、自分●はP=0.0000000001だと確信するだろうが、どれが正しいかを決める方法は存在しない。言わば、3人とも正しい。-----

 コップが割れてしまい、「神よ、コップを元に戻して下さい」と念じた時、コップが元に戻る現象を○、コップが元に戻らない現象を●とした場合も同じです。今自分は、100回連続して●を体験した自分●の視点に立っているため、○が起きる確率PをP=α(αは無限小)だと確信しています。しかし多世界解釈の立場だと、○と●とを約50回ずつ体験した自分○●も発生し、P=1/2だと確信しているはずです。100回連続して○を体験した自分○も発生し、P=1-α(αは無限小)だと確信しているはずです。自分○、自分○●、自分●の3人のうち、誰が正しいかを決める方法は有りません。言わば、3人とも正しいのです。

[54] SumioBaba 2014/05/06 20:09 Zp/y18eHqqu

「クオリア統一理論」の最大のメリットは、人間個人としての悩み・苦しみ・悲しみを、完全に超越できる点です。

 >>6>>7で、「時間の流れ」「自己同一性」は錯覚であると説明しました。現在を時刻t0、それ以降をt0<t1<t2<t3<・・・とすると、我々はこれらの錯覚により、自分の体験を、
    自分(t0)→自分(t1)→自分(t2)→自分(t3)→  ・・・(※)
だけに限定されていると思い込んでいます。人間個人としての悩み・苦しみ・悲しみは、すべてこの錯覚から生じます。本当はそうではなく、あらゆる心の集合{M}が存在し、自分はすべての要素M1、M2、M3、・・・の視点に同時に立っているのだと理解すれば、個人としての悩み・苦しみ・悲しみから完全に解放されます。具体例をいくつか挙げて説明しましょう。

        【1】
    他人が妬ましい。

 世の中には、自分よりも恵まれている人がたくさんいるように思われます。自分は貧乏なのに、他人は金持ち。自分は背が低いのに、他人は背が高い。自分はオヤジ顔なのに、他人はハンサム。自分は中小企業の平社員なのに、他人は大企業の社長。自分は運動音痴なのに、他人はオリンピックで金メダル。自分は勉強は苦手なのに、他人はノーベル賞。自分は病気なのに、他人は健康。・・・等々。「自分は自分であり、決して他人にはなれない」と錯覚しているから、他人を妬ましく感じてしまうのです。 「自分は自分であるだけでなく、同時にすべての他人でもある」、というのが「クオリア統一理論」の主張です。あるいは、「現在のこの自分は、一瞬前はすべての他人だった」「現在はこの自分でも、一瞬後はすべての他人に変わる」と表現することもできます。存在するあらゆる心M1、M2、M3、・・・のすべてが、実は自分の心なのだと認識すれば、他人の喜びは自分の喜びに変わります。

[55] SumioBaba 2014/05/06 20:15 Zp/VWq8TZ24

「クオリア統一理論」の最大のメリットは、人間個人としての悩み・苦しみ・悲しみを、完全に超越できる点です。

        【2】
    人生の選択を間違えてしまった。

 これは誰もが経験するでしょう。若い頃、もっと勉強しておけば良かった。勇気を出して、片思いの恋人に告白すれば良かった。魔が差して、罪を犯してしまった。ギャンブルに夢中になり、借金を抱えてしまった。・・・等々。あの時自分は、Aを選択してしまったが、それが失敗であり、Bを選択しておけば良かった・・・という後悔です。
 「クオリア統一理論」は多世界説(多世界解釈)を取ります。この世界Aでは、自分はAを選択した「自分A」ですが、別に世界Bも存在し、そこにはBを選択した「自分B」がいる、と考えるのが多世界説です。しかも自分は、「自分A」と「自分B」の両方を同時に体験している、あるいは、「自分A」と「自分B」の間を一瞬一瞬行ったり来たりしている、というのが真相です。「「自分A」は死ぬまで「自分A」のまま」、という実感が錯覚だと悟れば、自分は同時にあらゆる選択肢を体験し、全知全能の神の視点で、様々な人生を楽しんでいることに気付くでしょう。

[56] SumioBaba 2014/05/06 20:20 Zp/5y15Xgn5

「クオリア統一理論」の最大のメリットは、人間個人としての悩み・苦しみ・悲しみを、完全に超越できる点です。

        【3】
    若い日の自分には戻れない。

 これも、すべての人間に共通した悩みであり、自分の今後の体験を(※)だと思い込んでしまったのが原因です。
 現在、自分は70才だとしましょう。「クオリア統一理論」だと一瞬後に、自分の20才の時に戻れます。ただし、20才の自分に戻った時、「一瞬前は70才だった」という記憶は持てません。逆に言うと、現在70才である自分は、一瞬前には80才の自分でもあったのです。もちろん70才の自分に「一瞬前は80才だった」という記憶は有りません。
 自分の寿命を100才だとし、「経路積分」を考慮して時間の流れを、
    自分(X才)→自分(現在)→自分(Y才)
と書くならば、XもYも、0≦X≦100、0≦Y≦100、のすべての数値を取れます。現在が100才だとすると、このまま100才で死ぬ自分もいますが、死ぬ直前に任意のY才(0≦Y≦100)の自分に戻り、もう一度人生をやり直す自分もいます。

[57] SumioBaba 2014/05/06 20:26 Zp/Sx0aRUZ3

「クオリア統一理論」の最大のメリットは、人間個人としての悩み・苦しみ・悲しみを、完全に超越できる点です。

        【4】
    被害者である自分は加害者を許せない。

 加害者を他人だと思うから、憎しみが生じてしまいます。「被害者も自分、加害者も自分」だと気付けば良いのです。
 それから、自分の住む世界だけが唯一の存在だと思い込むと、「なぜこんな不幸は事件が起きたのだろう?」「加害者が別の行動をしてくれていたら、こんな事件は起きなかったのに・・・」と、悔しい思いが生じてしまいます。でも本当はそうではなくて、あらゆる世界は実現しています。つまり、「この世界」では不幸な事件が起きてしまいましたが、「別の世界」では起きていません。逆に自分が相手を殺してしまい、加害者になってしまった「あの世界」も実現しているはずです。
 「この世界」だけが現実だと考えず、「この世界」も「あの世界」もすべて架空の世界であり、起こり得るすべての状況をシミュレーションして楽しんでいるだけ、と考えます。「この世界」が現実ではなく夢であると思えれば、どんな憎しみ・苦しみ・悲しみも超越できるはずです。

[58] SumioBaba 2014/05/06 20:44 Zp/wZoSy00r

「クオリア統一理論」の最大のメリットは、人間個人としての悩み・苦しみ・悲しみを、完全に超越できる点です。

        【5】
    不幸な人生に耐えられず自殺したい。

 神学の最も深刻な問題として、こういう論法が有ります。もし神が、「全知全能である」と「慈悲深い」の2つを満たしていれば、この世で苦しんでいる人間たちを、すぐに助けてくれたはずです。ところが現実には、神は苦しんでいる人を放置したままで、何もしてくれません。背理法により、神は「全知全能でない」か、または、「慈悲深くない」か、どちらかになってしまいそう、・・・という話です。
 しかし神は、あらゆる人生体験をコレクションにして永久に保存し、実際にすべての人生体験を楽しんでおり、それが人間個人個人の心だと考えてみましょう。するとこの謎が氷解します。人間1人1人の心が神の分身であり、あらゆる人生体験を楽しんでいる神なのです。だとしたら、幸福な人生ばかりでは面白くありません。思いっきり悲しい人生、思いっきり苦しい人生なども、有った方が良いのです。
 もし人間が一生に一度しか食事ができなければ、できるだけ美味しい物を食べたいと思うでしょう。しかし、実際には、一生の間に何度も食事ができるので、たまには苦いビールや酸っぱいラッキョウも食べてみたくなるのと同じです。
 こう考えることで、自分の人生の苦しみ・悲しみがすべて楽しみに変わる気がします。自分の人生が幸福なら、思いっきり幸福を楽しめば良し。自分の人生が不幸なら、思いっきり不幸を楽しめば良し。1人の人間である自分は、実は神の分身であり、神にとって人生は一度だけではなく、無数に体験できるのですから。

〔以上の【1】~【5】は、<<クオリア統一理論(81)>> -人間の心は神の分身(3)- より引用〕。

[59] あめま 2014/05/06 20:47 AC/jThNQJkq

うざ

[60] SumioBaba 2014/05/07 18:35 Zp/2YsZow4A

「人間の心」は何万ビット、何億ビットという大量の情報を認識していると思われますが、「神」と「人間の心」との関係を解り易く説明するため、個々の心が持てる情報量の最大値をN=5に限定した【最大N=5ビットの情報を持つ心モデル】を考えてみます。
 1つの心の状態は「vwxyz」という形で表され、個々のv、w、x、y、zをそれぞれ第1ビット、第2ビット、第3ビット、第4ビット、第5ビットと呼び、これらが独立して「0」、「1」、「?」(=(「0」+「1」)/√2)の3つの値を取り得るとすると、全部で3^5=243種類の心が存在することになります。具体的に挙げると、「01?1?」「10010」「?0111」「0???1」「110?0」「???1?」・・・などです。「0」は、「「0」であって「1」ではない」という意識(情報)を持っています。「1」は、「「1」であって「0」ではない」という意識(情報)を持っています。「?」は、「「0」か「1」かを意識できていない」という無意識(無情報)状態を表しており、「0」と「1」との量子力学的な重ね合わせです。
 「?????」で表される心をM0で表します。このM0は、何一つ意識(情報)を持たない完全な無意識状態です。M0以外の心をM1~M242で表すと、これらM0、M1、M2、M3、・・・、M242という243種類の心こそが、「神」{M}のすべての要素ということになります。「人間の心」ももちろん、M1、M2、M3、・・・、M242のどれかに含まれる、と考える訳です。「神」は、存在し得るすべての心つまりM0、M1、M2、M3、・・・、M242という243種類全部を体験しているという意味で、「全知全能」と見なされます。
 243種類の心M0、M1、M2、M3、・・・、M242を同じ重み1で全部重ね合わせると、5つのビットはどれも「0」か「1」かという情報が完全に消滅して「?」となり、M0=「?????」になります。逆に言うと、M0が分裂することでM0、M1、M2、M3、・・・、M242すべてを産み出します。M0はすべてのM0、M1、M2、M3、・・・、M242を産み出す「卵」であると見なせ、このM0を「神」だと定義することもできます(【定義2】)。こうしておいて、N=5をN→∞に拡張します。

[61] SumioBaba 2014/05/08 17:13 Zp/N8ZOSAfs

自由意志により、2つの人生のうち1つを選択する状況を考えてみます(t0<t1)。現在の自分の心M(t0)が努力・精進を続け、立派な人間に成長し、満足している自分の心Ma(t1)になる「ケースA」。現在の自分の心M(t0)が堕落・怠慢の結果、ダメ人間となってしまい、嘆き悲しんでいる自分の心Mb(t1)になる「ケースB」。1人の人間である自分は、自由意志により好きな方を選べると実感しているので、どちらを選択するかは重大問題です。
 にも拘わらず、「神」の視点に立つと全く話が変わってしまいます。もし私が「ケースA」と「ケースB」のどちらを選択するかで、「神」{M}に差異が生じるとすると、「神」は「全知全能」でなくなってしまいます。私が「ケースA」を選ぶと「神」は「神A」になり、私が「ケースB」を選ぶと「神」は「神B」になり、仮に「神A」≠「神B」だとしてみましょう。すると私が「ケースA」を選んだ場合、「神」は「神A」になることで「神B」にはなり得ないことになり、「全知全能」でなくなってしまいます。逆に「神」が「全知全能」であるためには「神A」=「神B」であることが必要です。
 「クオリア統一理論」では、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、・・・が実在していると想定し、その集合が「神」{M}です。そして個々のMi[i=0、1、2、3、・・・]は、「MiはMiである」と自己認識するだけです。私という1人の人間が、「ケースA」を選択して立派な人間になろうと、「ケースB」を選択してダメ人間になろうと、「神」{M}には何の差異も生じません。どちらの場合も、M(t0)、Ma(t1)、Mb(t1)の3つは{M}の要素M0、M1、M2、M3、・・・のどれかとして、必ず存在しています。そしてそれぞれ、「M(t0)はM(t0)である」「Ma(t1)はMa(t1)である」「Mb(t1)はMb(t1)である」と自己認識しています。
 しかも「神」は、「善」も「悪」も生じるように世界を作っています。「善」だけが存在し、「悪」は存在しない、というのでは、「神」は「悪」を体験できず「全知全能」でなくなってしまうからです。「善」も良し、「悪」も良し、「善」の味方をして「悪」と戦うも良し、「悪」に染まり「善」に逆らうも良し、・・・というのが「全知全能」である「神」の方針なのです。

[62] SumioBaba 2014/05/10 16:24 Zp/p6LCcfS3

量子力学の「経路積分」は、次の解釈を可能にしています。r=(x、y、z)は、3次元空間内の位置座標です。
        まとめ1
    1個の自由粒子が運動量保存則に従い、r1→r2と直進したように見える
    場合も、本当はr1→ri→r2と、すべての位置ri(i=0、1、2、3、・・・)
    を経由した曲線経路の重ね合わせになっている?
 次に「多世界解釈」の立場を取り、考えられるすべての世界Wの集合を{W}とし、その要素をW0、W1、W2、W3、・・・とします。すると、時刻t1である現在の自分が住んでいる世界がW1であり、その一瞬後がW2である、と考えることができます。そして、世界W1と世界W2に存在するすべての粒子に「経路積分」の考え方を適用すると、こう言えるでしょう。
        まとめ2
    自分の住んでいる世界が、運動量保存則に従いつつ、W1→W2と決定論
    的に時間発展したように見える場合も、本当はW1→Wi→W2と、すべて
    の世界Wi(i=0、1、2、3、・・・)を経由している?
 最後に、世界Wiに住む心Miを考えると、すべての世界の集合{W}に対応するすべての心の集合{M}が定まります。そして、{W}について言えたことが{M}についても言えます。
        まとめ3
    自分の脳の物理状態の時間発展が、運動量保存則に従いつつ、自分の心
    の状態がM1→M2と一意的に時間発展したように見える場合も、本当は
    M1→Mi→M2と、すべての心Mi(i=0、1、2、3、・・・)を経由している?
 M1を現在の自分の心、M2を1秒後の自分の心だとしましょう。Miは、0.5秒後の自分の心はもちろん、5年前の自分の心、10年後の自分の心、友人の心、犬の心、猫の心、・・・なども含み、存在し得る心M0、M1、M2、M3、・・・すべてを経由したことになります。ただし、それらすべてを重ね合わせた結果、自分の脳が運動量保存則に従いつつ、自分の心が一意的にM1→M2という時間発展をした状態だけがほぼ確率1で存在し、それ以外は打ち消し合い消滅しています。その結果、間に経由したMi(i=0、1、2、3、・・・)の殆どは認識できず、自分の心は一意的にM1→M2と時間発展した、と自己認識することになります。

[63] あめま 2014/05/10 16:43 AC/jThNQJkq

うざ

[64] SumioBaba 2014/05/10 16:48 Zp/BbF3uOgh

>>62の続きです。
        まとめ3
    自分の脳の物理状態の時間発展が、運動量保存則に従いつつ、自分の心
    の状態がM1→M2と一意的に時間発展したように見える場合も、本当は
    M1→Mi→M2と、すべての心Mi(i=0、1、2、3、・・・)を経由している?
でした。これは次のようにも表現できます。
        まとめ4
    M0、M1、M2、M3、・・・の中のどの1つも、一瞬後には、M0、M1、
    M2、M3、・・・のすべてを産み出す。集合{M}の個々の要素M0、M1、
    M2、M3、・・・は、すべての要素M0、M1、M2、M3、・・・の原因で
    あり、かつ、結果である。本当は、
      M1→Mi(i=0、1、2、3、・・・)
      Mi(i=0、1、2、3、・・・)→M2
    という時間発展のすべてが起きているが、「自分の一瞬後はM2だ」と
    推測している心がM1であり、「自分の一瞬前はM1だ」という記憶を
    持つ心がM2だけであれば、認識できるのは、
      M1→M2
    という時間発展だけになる。
「どのMiの中にも、すべてのMjが含まれている」→「{M}の個々の部分M0、M1、M2、M3、・・・の中に、{M}全体が有る」という意味で、これを【フラクタルモナドロジー仮説】と呼びます。ライプニッツは「心」を「モナド」と表現しました。
        まとめ5
    個々の「モナド」M0、M1、M2、M3、・・・は、どれか1つだけ単独で
    は存在できず、すべての要素の集合{M}という形でだけ存在し得る。
人間の心はすべて、M0、M1、M2、M3、・・・の中に含まれるので、{M}を「神」だと見なせば、「人間の心は神の分身」だと言えます。<<クオリア統一理論(80)>>より引用。

[65] SumioBaba 2014/05/11 11:15 Zp/ym5QQjxy

>>4に書いている説明を引用します。
 -----量子力学の「多世界説」(多世界解釈)を支持すると、自ずと[量子観念論仮説]に至ることの論証。二重スリット干渉縞実験で、1個の光子が左の穴を通った世界をWl、右の穴を通った世界をWrとする。どちらを通ったか、時刻t1に友人が観測すると、Wlにいる友人lとWrにいる友人rとは、友人l(t1)≠友人r(t1)となり、友人はどちらか一方の視点にしか立てなくなるため、友人l(t1)ならばWl+Wr→Wl、友人r(t1)ならばWl+Wr→Wr、という波動関数の収縮を体験する。しかし、観測していない私にとっては、Wlにいる私lとWrにいる私rとは私l(t1)=私r(t1)であり、もし時刻t2(>t1)に友人lと友人rとが同一の物理状態である友人l(t2)=友人r(t2)になったとしたら、私は友人lと友人rとが干渉するのを見るはずであり、私にとって波動関数の収縮は起きておらず、私l+私rという重ね合わせの視点に立っていて、世界もWl+Wrという重ね合わせのままである。つまり、波動関数の収縮は個人の心による情報の認識が原因であり、人それぞれみな異なる。→本論(59)~(68)。-----

 ここでもし友人が「哲学的ゾンビ」(行動は正常な人間と全く同じだが、心・意識を何も持たない仮想上の人間)だとしたらどうでしょう? 時刻t1に観測したことで、友人l(t1)≠友人r(t1)となりますが、友人l(t1)も友人r(t1)も、自分がどちらの視点に立っているのかを意識していません。ということは、友人は観測し、友人l(t1)と友人r(t1)との間にマクロな差異が生じたにも拘わらず、友人は相変わらず友人l(t1)+友人r(t1)という重ね合わせのままであり、Wl+Wr→WlやWl+Wr→Wrという波動関数の収縮を体験していません。つまり、ミクロな差異がマクロな差異に拡大しても、意識が存在しなければ、波動関数の収縮は起こりません。
 「自分はWlにいるのであって、Wrではない」または「自分はWrにいるのであって、Wlではない」という意識が、Wl+Wr→WlやWl+Wr→Wrという波動関数の収縮を起こしているのです。「意識が有る」と「波動関数が収縮している」とは、必要十分の関係にあると見なせます。こう考えると、一気に「観念論」に傾くことになります。

[66] SumioBaba 2014/05/12 14:41 Zp/1E6Fl84x

存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、・・・を要素とする集合{M}が「神」でした。我々は、必ずこれらの要素M0、M1、M2、M3、・・・のどれかの視点に立ってしまうのであり、どの視点にも立たないということは有り得ません。「あなたは、特定の意識内容を持つ心の視点に立っているか?」と問います。もしYESなら、それはM1、M2、M3、・・・の中に必ず含まれているはずですから、その心の視点に立っていることになります。もしNOなら、完全な無意識状態であるM0の視点に立っていることになります。どちらにしろ、M0、M1、M2、M3、・・・のどれかの視点に必ず立つことになります。
 そしてどの1つも、すべてのM0、M1、M2、M3、・・・を産み出すのでした。だから「神」{M}が存在するのは必然です。ただし、ここで言う「存在」は【半存在】です。つまり、「存在する」と認識する視点に立てば「存在する」と認識する、「存在しない」と認識する視点に立てば「存在しない」と認識する、の両方のトートロジーを満たすような在り方をしています。だからこそ、「「神」{M}は【半存在】する」もまたトートロジーであり、「なぜ?」という謎は、ここには何も有りません。
 「卵」M0=「????・・・」を「神」だと考えてみます(【定義2】)。「?」=(「0」+「1」)/√2ですから、「?」は「0」と「1」に分裂できます。「?」→「0」、または、「?」→「1」で、これが「波動関数の収縮」です。M0の第1ビットが波動関数の収縮を起こしたとすると、「0???・・・」または「1???・・・」が発生します。「0」は、「「0」であって「1」ではない」という意識(情報)を持っています。「1」は、「「1」であって「0」ではない」という意識(情報)を持っています。波動関数の収縮により、無意識状態「?」から有意識状態「0」や「1」が発生しました。つまり、「意識」=「波動関数の収縮」です。
 人間の心は、何万ビット、何億ビットという大量の情報を認識していると思われますが、発生する原理は全く同じです。「卵」=「????・・・」の「?」が、「0」または「1」に波動関数の収縮を起こすことを何万回、何億回と重ねることで、1人の人間の心が発生していることになります。

[67] SumioBaba 2014/05/12 19:16 Zp/hUTjWfQc

「多世界解釈」の一番面白い点は、私が言う【半存在】という概念を導入しているところです。
 例えば、1~6の目が確率1/6ずつで出る量子サイコロを振ったら、自分の心M1が住む世界W1では1の目が出たとします。もし「多世界解釈」を取らず、「世界は1つ」と考えるなら、「なぜ1の目だけが選ばれて出たのか?」という謎が生じ、これはトートロジーに解消できなくなります。そこで「多世界解釈」は、こう考えます。---心M1が住む世界W1では1の目が出たけれども、心M2が住む世界W2では2の目が出たし、心M3が住む世界W3では3の目が出たし、心M4が住む世界W4では4の目が出たし、心M5が住む世界W5では5の目が出たし、心M6が住む世界W6では6の目が出た。6つの世界W1~W6はみな平等に発生した。ただし、6つの心M1~M6のどの視点に立っても、存在するのは自分が住む世界だけであり(現実世界=物理的実在)、他の5つの世界は認識できず存在しないように見える(可能世界=数学的仮想)。つまり、6つの世界は互いに矛盾しているため、並行宇宙すなわち線形の重ね合わせとして存在しており、それらの間に相互作用は無い。---
 個々の世界W1~W6または個々の心M1~M6は、「存在する」と認識する視点に立てば「存在する」と認識する、「存在しない」と認識する視点に立てば「存在しない」と認識する、の両方を満たしており、まさに私が言う【半存在】そのものです。---「神」は全知全能なので、1~6すべての目が出なければならない。しかし、それらは互いに矛盾しているので、1つの世界で実現する訳にはいかず、異なる別世界W1~W6の中で実現するしか無い---という訳です。
 なお「クオリア統一理論」では「観念論」の立場を取るので、世界Wiと心Miの区別は無意味となり、Wi=Mi〔i=1、2、3、4、5、6〕と見なせます。

[68] SumioBaba 2014/05/16 18:12 Zp/M0NSKD0O

かつて多くの哲学者や神学者たちが、「神の存在証明」に挑戦してきました。特に【存在論的証明】と呼ばれるものは、賛否両論を産み出したようです。簡単に言うと、こういう内容です。-----「神」は「完全(全知全能)」である。そして、もし「神」に「存在する」という属性が欠けていたら、「神」は「完全(全知全能)」でなくなってしまう。だから「神」には必ず「存在する」という属性が含まれている。ゆえに「神」は「存在する」。-----
 一種の論点先取だと思われます。「神」という言葉をよく分析してみれば「存在する」という属性は必然的に見い出せる、「神」の定義の中に「存在する」を必要条件として含めてしまおう、と言っている訳です。
 しかし、「存在する」と「存在しない」のうち、「存在する」だけを選ぶのが「完全(全知全能)」でしょうか? 他にも、「善」と「悪」のうち、「善」だけを選ぶのが「完全(全知全能)」でしょうか? もし2つのうち片方だけを選んだのであれば、他方を選ぶのを放棄したことになり、「全知全能」ではなくなってしまうはずです。「全知全能」であるためには、「存在する」と「存在しない」の両方を、「善」と「悪」の両方を、選ぶことが必要だと思われます。すべての選択肢を1つのモレもなく実現するのが、本当の意味での「全知全能」でしょう。
 ただし、1つの世界の中で「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立してしまうと、明らかな矛盾が生じてしまいます。真理体系の中に1つでも矛盾が発生してしまうと、あらゆる命題の肯定も否定も証明できてしまい、何が真で何が偽かを振り分けする試みは完全に失敗します。自分の心がどういう状態なのかも不明となり、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、・・・のどれでもあり、どれでもない、という状態になります。実は、完全な無意識状態である「卵」M0=「??????・・・」こそが、まさにそれなのです。
 我々人間は、自分の心や自分の住む世界を特定の状態であると認識し、何が真で何が偽かを振り分けできると実感しています。それゆえ矛盾は許されず、「○○○である」と「○○○でない」とは別世界で実現する必要が有り、それをうまく説明できるのが「多世界解釈」なのです。

[69] あめま 2014/05/16 19:47 AC/jThNQJkq

うざ

[70] SumioBaba 2014/05/17 16:31 Zp/jK5yGzU2

スレッド(学校生活・学問>物理学>)【量子について】
を大変面白く読ませてもらいました。物理学者と哲学者の間で、量子力学に対する認識が大きくずれている、と感じました。「量子力学の哲学的解釈」が未解決であることを強調する哲学者。「量子力学の哲学的解釈」をあれこれ考えてみても、どれが正しいか実証できないため無意味だ、と主張する物理学者。どちらの言い分もよく解りますし、結局これは好みの問題だろうから、どちらが正しいという言い方はできないと思われます。
 ただ私個人としては、「量子力学の哲学的解釈」に大いに興味が有ります。バナナに例えると、物理学者たちが研究解明してきたのは「皮」の部分だけで、「量子力学の哲学的解釈」こそが一番美味しい「実」の部分だと思います。「皮」だけ食べて「実」を食べないのは、勿体ないと感じます。
 量子力学の世界は、哲学者カントが主張した「物自体」と「現象世界」の二重構造になっていると言えるでしょう。観測していない時、「物自体」としての世界は波動関数として表現され、様々な状態の重ね合わせのままです。観測して「現象世界」が出現する時、様々な状態に分裂するように見えますが、何を観測するかで分裂の仕方も異なります。観測結果を確率的に予言する量子力学の計算方法が正しいことは、ほぼ間違いないかと思われますが、一体世界がどういう構造になっているのかは今も不明であり、興味津々です。

 例えば、5枚に割れた鏡の破片が見つかったとします。割れる前はどんな形だったのか? ある研究者は、5枚の破片を好き勝手に並べて「デタラメな凸凹13角形」を作り、これが割れる前の形だったのだと主張します。別の研究者は、5枚の破片でぴったり正方形が並べられる事実を発見し、この「正方形」こそが割れる前の形だったのだと主張します。割れる前の鏡の真の形を知る方法はもはや無く、今や推測するだけしかできないとすれば、どちらが正しいかは実証も反証もできません。しかし、美しさ・合理性という点から見て、「デタラメな凸凹13角形」よりも「正方形」の方が、はるかに魅力的です。
 「量子力学の哲学的解釈」も、同様ではないのでしょうか。最も美しく合理的な「量子力学の哲学的解釈」こそ、他ならぬ「多世界解釈」なのです。

[71] あめま 2014/05/17 18:05 AC/jThNQJkq

きも

[72] SumioBaba 2014/05/17 20:14 Zp/jPGRSwqv

>>51の続きです。
 ガラスのコップを故意に割り、「神よ、元に戻して下さい」と念じたとき、自然に元に戻ってしまう現象を、ここでは「神の奇跡」と呼んでみます。これを100回試みたとき、何回「神の奇跡」が起きたかを考えます。
        【反論1】
    自分の心M1が住む世界W1の中では、100回試みて1回も「神の奇跡」
    は起こらなかった。「神」が実在しているとは思えない。
「神の奇跡」が起きる確率は無限小ではありますが、0ではありません。そして「多世界解釈」の場合、確率無限小の「神の奇跡」も、確率0でない以上、必ず起きている世界が存在するはずです。100回中100回とも、「神の奇跡」が起きている世界も在るはずです。それを世界W2とすると、世界W2の中で自分の心M2は、100回中100回とも「神の奇跡」が起きたのを観測しています。ただしM2が住む世界W2では、物理法則自体が全く異なるものと認識されている可能性が有ります。

[73] SumioBaba 2014/05/17 20:22 Zp/1Lt0baBV

>>51>>72の続きです。
        【反論2】
    物理法則が異なる世界W2の中で「神の奇跡」が起きるのではなく、物理
    法則は世界W1と同じでありながら、神がその物理法則を破って見せると
    いう形で、「神の奇跡」を見せてくれるべきだ。神が全知全能であるなら、
    物理法則を超越することもできるはずではないか?
 「多世界解釈」の立場だと、100回のうち、前半の50回は一度も「神の奇跡」が起こらなかったのに、後半の50回は全部「神の奇跡」が起きた世界も発生しているはずです。それを世界W3、そこに住む自分の心をM3としましょう。自分の心M3はどう感じているでしょう? 前半の50回は一度も「神の奇跡」が起こらなかったのですから、「神の奇跡」が起きる確率を無限小だと認識していたでしょう。それなのに、後半の50回はすべて「神の奇跡」が起きたのです。「50回めと51回めとの間で、神は「神の奇跡」が起きる確率を無限小からほぼ1に変え、物理法則を超越して見せてくれた」と感じているはずです。

[74] SumioBaba 2014/05/17 20:39 Zp/lvz1B2Xf

>>51>>72>>73の続きです。
        【反論3】
    自分の心M1が住む世界W1以外の世界で、「神の奇跡」を起こしてくれて
    もダメだ。「神の奇跡」が起きる確率を無限小だと認識している世界W1の
    中で、他の世界にいる自分の心M2やM3ではなく、他ならぬこの自分の
    心M1に対し、「神の奇跡」が起きる確率がほぼ1だと認識する状況を作っ
    てくれ。神が全知全能であるなら、それもできるはずではないのか?
 今度はちょっと事情が違います。まず自分の心M1は、「神の奇跡」が起きる確率を無限小だと認識する視点に立っている心です。【反論3】は、この視点に立っている自分の心M1に対して同時に、「神の奇跡」が起きる確率を無限小でないと認識する視点に立たせてくれ、と要求しています。つまり、M1に矛盾した状態を要求してしまっているのが解ります。これは実現できません。
    M1・・・「神の奇跡」が起きる確率を無限小だと認識している心
    M4・・・「神の奇跡」が起きる確率を無限小ではないと認識している心
としましょう。M1とM4とは矛盾しているので、同一世界の中で実現させることはできず、M1が住む世界W1とM4が住む世界W4とは、必然的に別世界になってしまいます。M4の方は具体的に、M2やM3という形で実現しますが、M1の中にM4という性質までを押し込むことはできない訳です。M1とM4とは矛盾しているので、以下の通りです。
    <M1|M1>=1 ・・・ M1の視点に立つとき、M1の視点に立つ確率は1。
    <M1|M4>=0 ・・・ M1の視点に立つとき、M4の視点に立つ確率は0。
    <M4|M4>=1 ・・・ M4の視点に立つとき、M4の視点に立つ確率は1。
    <M4|M1>=0 ・・・ M4の視点に立つとき、M1の視点に立つ確率は0。
    M1 ・・・ 「「神の奇跡」が起きる確率は無限小である」と認識する視点
    に立てば、「「神の奇跡」が起きる確率は無限小である」と認識する。
    M4 ・・・ 「「神の奇跡」が起きる確率は無限小でない」と認識する視点
    に立てば、「「神の奇跡」が起きる確率は無限小でない」と認識する。

[75] デカワンコ 2014/05/17 20:53 AC/jThNQJkq

通報すますた

[76] SumioBaba 2014/05/17 22:29 Zp/hUTjWfQc

>>51>>72>>73>>74の続きです。
        まとめ1
 確率P=1/2ずつで「表」○または「裏」●が出る量子コインを1回投げると、自分の心M1が住む世界W1の中では、なぜかどちらか一方だけが選ばれて出るように感じる。そして、「なぜ、一方だけが選ばれて実現し、他方は実現しなかったのか?」という謎の存在を感じてしまう。
 しかし「多世界解釈」の立場に立てば、どちらも起こっている。自分の心M1が住む世界W1では○が出たが、自分の心M2が住む世界W2では●が出ている。ただし両者は矛盾しているので、どちらか一方の視点に立てるだけであり、両方の視点に同時には立てない。
        まとめ2
 「神の奇跡」と呼ばれるような現象は、起こる確率はP=α(αは無限小)、起こらない確率はP=1-α(αは無限小)である。それゆえ何度チャレンジしても「神の奇跡」を体験することは無く、「神は実在しないのではないか?」と疑いたくなる。
 しかし「多世界解釈」によれば、確率無限小でも確率0でなければ、必ずその現象は起きている。つまり、「神の奇跡」が起こらなかったのを体験している自分の心M1が住む世界W1だけでなく、「神の奇跡」が起きたのを体験している自分の心M2が住む世界W2も必ず発生している。もちろん、両方の視点に同時には立てない。
        まとめ3
 矛盾した状態に同時に立てるのは、どちらの視点に立っているかを意識できていない場合だけである。
 二重スリット干渉縞実験で、1個の光子が左右どちらのスリットを通ったか観測していない場合。左のスリットを通った世界をWl、そこに居る自分を「自分l」とし、右のスリットを通った世界をWr、そこに居る自分を「自分r」とすると、「自分l」=「自分r」=「どちらのスリットを通ったか知らない自分」であるため、嫌でも「自分l」+「自分r」すなわちWl+Wrという重ね合わせの視点に立ってしまい、1個の光子は左右両方のスリットを同時に通ったかのように干渉を起こす。
 左右どちらのスリットを通ったかを観測すると、「自分l」=「左のスリットを通ったことを知っている自分」、「自分r」=「右のスリットを通ったことを知っている自分」、すなわち「自分l」≠「自分r」となり、両者は矛盾して片方の視点にしか立てなくなるため、1個の光子は干渉を起こさなくなる。

[77] SumioBaba 2014/05/18 15:02 Zp/wlMhyywx

スレッド(学校生活・学問>哲学>)【真理とは何だ!】
を大変面白く読ませてもらいました。
 「クオリア統一理論」では、トートロジー(「5は5である」のような同語反復的恒真命題)だけが「絶対的真理」であり、それ以外の真理はすべて「相対的真理」になります。量子力学の多世界解釈を土台とし、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、・・・が【半存在】すると考えます。【半存在】とは、「存在する」と認識する視点に立てば「存在する」と認識する、「存在しない」と認識する視点に立てば「存在しない」と認識する、のダブル・トートロジーを満たした在り方です。そして、これらM0、M1、M2、M3、・・・を要素とする集合{M}が「神」です。人間の心は「神」の分身になります。
 「○○○である」自体がトートロジーである場合、それこそが「絶対的真理」ですが、トートロジーは当たり前の事を述べているだけで内容が空虚なので、何一つ情報を与えてくれません。
 「○○○である」自体はトートロジーでない場合、「○○○である」と認識する視点と、「○○○でない」と認識する視点の両方が、必ず存在します。そして、次の通りです。
    「○○○である」と認識する視点に立てば、
      「○○○である」は真、「○○○でない」は偽。
    「○○○でない」と認識する視点に立てば、
      「○○○でない」は真、「○○○である」は偽。
 「真偽や善悪などは、それを捉える「枠組み」や「観点」などに応じて変わる相対的なものであり、唯一絶対の真理や正しさなどはない」とする考え方を≪相対主義≫と呼びます。→【『相対主義の極北』 入不二基義著 ちくま学芸文庫 2009】。これで「真理とは何だ!」という問いにうまく答えていると思いますが、いかがでしょうか?

[78] あめま 2014/05/18 15:04 AC/jThNQJkq

うざ

[79] SumioBaba 2014/05/18 19:49 Zp/wZoSy00r

「独我論」と呼ばれる世界観が有ります。実在しているのは自分の心だけであり、他人は心を持たない哲学的ゾンビ、あるいは、他人は自分が見ている夢の中の登場人物のような幻であって実在しない、と考えます。「独我論」の正しさは、現在のところ証明も反証もできない、という点は一応事実です。しかし・・・。
 もし「独我論」を正しいと仮定すると、非常にいびつな汚い謎が発生してしまいます。
    【謎1】=「なぜ多数の心を持たない人々の中に、心を持つ自分が1人
      だけ存在するのか?」
    【謎2】=「心を持つ1人の人間は、他の人々であっても良かったはず
      なのに、なぜこの自分がそれなのか?」
→【『<私>の存在の比類なさ』 永井均著 講談社 2010】。
 そこで「独我論」を捨て、すべての人々はみな自分と同様な心を持つと考えてみます。そうすると2つの謎は、きれいに消滅します。
    【答】=「そうじゃないよ。すべての人間はみな平等に心を持つのだが、
      どの心の視点に立っても認識できるのは自分の心だけであり、他人
      の心は認識できないから、他人は心を持たないかのように、自分だ
      けが心を持つ特殊な人間であるかのように、錯覚してしまうのさ。」
つまり、「独我論」の正しさは、取り敢えず証明も反証もできませんが、肯定するのと否定するのとでは、明らかに否定する方が合理的なのです。

 他の例を挙げると、「天動説」と「地動説」もそうです。「天動説」だと、地球だけが宇宙の中心に静止する大地であり、他の惑星は2つの楕円軌道を合成した奇妙な軌道で地球の周囲を回る「惑える星」に見えるという、変な謎が存在しました。「地動説」だと、すべての惑星は太陽の周りを楕円軌道で回転する、という綺麗な記述になります。

 「クオリア統一理論」は、科学の立場ではあくまで仮説に過ぎず、実験的実証は何もなされていません。ただ、「こう解釈するとすべての謎をトートロジーに解消でき、最も美しく合理的な世界観だ」という哲学的解釈方法の提案です。

[80] あめま 2014/05/18 21:25 AC/jThNQJkq

うざ

[81] SumioBaba 2014/05/18 22:08 Zp/xcBxnS7Q

「クオリア統一理論」の世界観は、極めて単純明快です。
 完全な無意識状態(無情報状態)であるM0を「神」だとして考えてみます(【定義2】)。M0(0次の心)の第1ビットが「0」「1」「?」(=(「0」+「1」)/√2)の3つに分裂することで、「0」「1」「?」という3種の心(1次の心)が発生します。これらの第2ビットが「0」「1」「?」の3つに分裂することで、「00」「01」「0?」「10」「11」「1?」「?0」「?1」「??」という9種の心(2次の心)が発生します。以下同様、27種の心(3次の心)が発生し、81種の心(4次の心)が発生し、243種の心(5次の心)が発生し、・・・3^N種の心(N次の心)が発生します(N→∞)。
 最初のM0すなわち「幹」を「0次の枝」、それが分裂した3本の枝を「1次の枝」、それらが分裂した9本の枝を「2次の枝」、・・・、それらが分裂した3^N本の枝を「N次の枝」と呼ぶと、全体として「N次の3分木」と呼べるものになります。「N次の3分木」が【半存在】する、そしてそれがすべてだ、と考えるのが、「クオリア統一理論」の骨組みです。個々の枝が、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、・・・に対応します。1人の人間である自分の心が、仮にN=100000000ビットくらいの情報を持つとすれば、自分の心は、「100000000次の枝」あたりに存在する3^100000000種類ほどの心の中のどれか、ということになります。
 すべての枝、すなわち、すべての心M0、M1、M2、M3、・・・を要素とする集合{M}を「神」であると定義することも可能です(【定義1】)。
 もう1つ、「N次の3分木」全体を鳥瞰できる心M*なるものを想定し、これを「神」だと定義することも可能です(【定義3】)。Nが有限のときには、このようなM*が持つ情報は明らかにNビットを超えてしまうので、M*は集合{M}の中の要素としては存在できません。しかしN=∞の場合には話が違います。M*はM0、M1、M2、M3、・・・が持つ情報すべてを持ち、すべての視点に同時に立っていながら、しかもM0、M1、M2、M3、・・・の中の1つとして存在し得るかもしれません。M*はあくまで仮想的な「神」ですが、存在できるのかどうか?、M*の視点に立ったら何をどう感じるか?、などを考えてみるのは面白いと思われます。

[82] あめま 2014/05/18 22:27 AC/jThNQJkq

臭!

[83] SumioBaba 2014/05/20 14:04 Zp/06RIXS0N

スレッド(学校生活・学問>哲学>)【認識と存在の関係について】
を面白く読ませてもらいました。
 私は量子力学の哲学的解釈として「多世界解釈」を支持しますので、この立場で「認識」と「存在」との関係を説明します。結論はこうです。
    「認識する」と「存在する」とは互いに必要十分な関係にある。・・・(*)
 二重スリット干渉縞実験で、1個の光子が左右どちらのスリットを通ったか観測していない場合。左のスリットを通った世界をWl、そこに居る自分を「自分l」とし、右のスリットを通った世界をWr、そこに居る自分を「自分r」とすると、「自分l」=「自分r」=「どちらのスリットを通ったか知らない自分」であるため、嫌でも「自分l」+「自分r」すなわちWl+Wrという重ね合わせの視点に立ってしまい、1個の光子は左右両方のスリットを同時に通ったかのように干渉を起こします。この時「自分」=「自分l」+「自分r」にとって、世界WlとWrはともに、確率1/2で「存在する」であると同時に、確率1/2で「存在しない」です。
 左右どちらのスリットを通ったかを観測した場合。「自分l」=「左のスリットを通ったことを知っている自分」、「自分r」=「右のスリットを通ったことを知っている自分」、すなわち「自分l」≠「自分r」となり、両者は矛盾して片方の視点にしか立てなくなるため1個の光子は干渉を起こさなくなり、「自分l」にとってはWl+Wr→Wl、「自分r」にとってはWl+Wr→Wr、という波動関数の収縮が起こります。世界WlとWrとは「存在する」のか?、「存在しない」のか? もちろんこうです。
    「自分l」にとっては、Wlは「存在する」、Wrは「存在しない」。
    「自分r」にとっては、Wlは「存在しない」、Wrは「存在する」。
「自分l」はWlを「認識する」がゆえに、「自分l」にとってWlは「存在する」です。
    「認識する」→「存在する」               ・・・(1)
一方「自分r」はWlを「認識しない」ので、「自分r」にとってWlは「存在しない」です。
    「認識しない」→「存在しない」             ・・・(2)
(2)の対偶を取って、
    「存在する」→「認識する」               ・・・(3)
(1)と(3)より、(*)が結論されます。

[84] SumioBaba 2014/05/20 19:22 Zp/0Wm1D32Q

スレッド(学校生活・学問>哲学>)【クオリア】
を大変面白く読ませてもらいました。
 我々は「脳」というとき、「ピンク色をした直径10cmくらいの豆腐のような物体」を思い浮かべることが多いと思われます。そして、我々が知覚していないときも、「脳」は「ピンク色をした直径10cmくらいの豆腐のような物体」として客観的に実在する、と思い込んでいます。それが間違いだと思います。
 脳Bに随伴している心Mはもちろんクオリア(の複合体)ですが、脳Bの方もクオリアです。「ピンク色をした直径10cmくらいの豆腐のような物体」というのは「脳Bの視覚像」だと気付くべきです。同じ脳Bでも、聴覚で知覚すれば、「何らかの音」というクオリアで捉えた「脳Bの聴覚像」になります。嗅覚で知覚すれば、「何らかの匂い」というクオリアで捉えた「脳Bの嗅覚像」になります。味覚で知覚すれば、「何らかの味」というクオリアで捉えた「脳Bの味覚像」になります。触覚で知覚すれば、「何らかの手触り」というクオリアで捉えた「脳Bの触覚像」になります。要するに、五感それぞれの知覚システムには固有の知覚変換(クオリアを別のクオリアに変える変換)が存在するということです。
 「視覚システム」「聴覚システム」「嗅覚システム」「味覚システム」「触覚システム」による知覚変換をそれぞれf1、f2、f3、f4、f5とし、心Mをこれらの知覚変換で変換したものが、B(視覚像)=f1(M)、B(聴覚像)=f2(M)、B(嗅覚像)=f3(M)、B(味覚像)=f4(M)、B(触覚像)=f5(M)だと考えれば良いのです。
 「心・脳問題」が奇妙な問題に見えるのは、B(視覚像)=f1(M)を客観的な脳Bの姿だと勘違いし、B(視覚像)自身もまたクオリアなのだという事実を見落としているからです。哲学者カントが指摘した通り、我々が知覚している物質世界は、我々の五感という色眼鏡を通過するときに、すでにf1、f2、f3、f4、f5という変換を施しているため、すでに客観的ではなく主観的なのです。

[85] あめま 2014/05/20 20:33 AC/jThNQJkq

うざ

[86] SumioBaba 2014/05/20 23:59 Zp/ZECRTKxI

スレッド(学校生活・学問>哲学>)【神について】
を大変面白く読ませてもらいました。
 私は量子力学の「多世界解釈」の立場に立ち、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、・・・が実在していると想定し、それらを要素とする集合{M}を「神」であると定義します。「神」は、存在し得るすべての心を体験しているという意味で「全知全能」であり、我々人間の心は「神」の分身です。

>>210
>神がこの世界を作ったとするのならば、なぜこの世に悪が存在するのか?
>そして、ここに一つの答えがあるとするならそれは何か?
 「神」は、善だけでなく悪も含め、すべての心の状態を体験したいのです。善だけを体験し、悪を体験しないというのであれば、「全知全能」でなくなってしまいますから。

>>274
>全知全能である必要性ということですが、例えば、生れ落ちた直後に命を不慮の事故によって落とした赤ん坊の不平等を一体何を持って納得するか。
>とか、生まれてから人を散々にいたぶってきたのにもかかわらず、優雅に人生を終えようとしている人が存在しているとか。
>神がもしこの世にいて、人間を作ったとして、彼が絶対的な真理として世の中に君臨したいと思うならば、少なくても人間がどうしようもない理不尽に一抹の希望の光を差してあげるのは神の義務では無いのか?
 「神」は「全知全能」で無数の心を体験できるので、思いっきり幸福な人生はもちろん、思いっきり不幸な人生も体験してみたいのです。それらのどれもが「神」の貴重なコレクションなのであり、1つでも欠落すると「神」は「全知全能」でなくなってしまいますから。

>また、この世に存在するあらゆる悪行を赦せと仰せの神は、その悪行によってずたずたにされた人の心をどう取り繕うというのか?
>そして、それが理由で自殺をした人、悪魔を崇拝した人は、果たして本当に赦されるべきではないのか?
 「悪行を赦せと仰せの神」? 「神」はそんな事言っていないと思います。「神」はただただ、すべての心の状態を体験してみたいだけです。

[87] SumioBaba 2014/05/21 19:32 Zp/Q1P876im

「EMANの物理学・量子力学・ウィグナーの友人」
http://homepage2.nifty.com/eman/quantum/wigner.html
からの引用です。

        作り話
> 教授が学生にシュレーディンガーの猫の実験をやらせる事にした。
> 「今から正確に一時間後にこの箱を開けてくれ。 私はその5分後にこの部屋に戻ってくる。」
> 一時間後、学生は箱を開けた。 死んだ猫が入っていた。 (毒ガスが外に漏れないように中はガラス張りになっていたと考えよう。)
> 教授は5分後に部屋の扉を開けて入ってきた。
> 「死んでいたのか。 しかし、私が部屋の扉を開けて入ってくるまでは、確かに猫が生きている状態と、猫が死んでいる状態の重ね合わせだった。」
> 「いえ、先生。 5分前からずっと、猫が死んだ事は確定していたのです。 先生が扉を開けた瞬間に確定したのではありません。」
> 「そうではない。 5分前に生きた猫を発見した君と、5分前に死んだ猫を発見した君が、確かに重なっていたのだよ。 私が扉を開ける瞬間までは。」
> 「だとすると、先生がこの部屋に入る直前まで、私はもう一つの可能性と重なっていて干渉を起こしていた事になります。 しかし私はそんな存在は知りません。 猫の生死は5分前に確定していたのです。」
> 「いや、それでいいのだ。 君は可能性の一つなのだから他の可能性に気付かなくて当然だ。 それに君は原子に比べて遥かに巨大な存在だから、そのような干渉の効果は私にとっても無視できる程度のものだった。」
> 「マクロな存在どうしは干渉を起こさないと証明されているのですか。」
> 「いや、複雑すぎて完全な証明はされていない。 あ、そうそう、実はこの部屋は二重構造になっていてね、もうそろそろ、もう一人の学生が外の扉を開けて入ってくる事になっている。」
> 「すると、それまでは我々も可能性の一つに過ぎないということですか?」
> 「そうだ。」

 まさにこの通りですね。これが「多世界解釈」です。

[88] あめま 2014/05/21 21:00 AC/jThNQJkq

きも

[89] 名も無きザビラー@ザ掲示板 2014/05/21 21:34 J4/rkzislL5

今北産業!! なげぇ

[90] SumioBaba 2014/05/22 14:52 Zp/FHi2CTeC

>>87の続きです。

> 「もしその人が我々の方を選ばなければ、我々はなかった可能性として消え失せるのでしょうか?」
> 「はっはっは。 そんな事は起こらん。 彼は確実に「猫が死んだこちらの世界」に入ってくる。」
> 「なぜそんな保証があるんです。」
> 「私に話を合わせなくてもいいよ。 常識で考えればいい。 私は彼に来るように指示しておいた。 来るに決まっている。 それに私は毎年、学生をつかまえてはこの実験をやっているが、何度やってもそういう結果だ。 私はこれまで消えたことなんか一度も無い。」
> 「いや、・・・。」
> 「よし合格。」

 学生はちょうど一時間後に箱を開け、猫の生死を観測したので、この時点で「猫が生きていた世界」と「猫が死んでいた世界」の2つに分裂し、どちらか一方の視点に立てるだけです。教授は、一時間後はまだどちらかを観測していないので、教授にとって世界は、「猫が生きていた世界」と「猫が死んでいた世界」の重ね合わせのままです。
 その5分後に教授は部屋に入り、猫の生死を観測したので、この時点で教授にとっても、「猫が生きていた世界」と「猫が死んでいた世界」の2つに分裂し、どちらか一方の視点に立てるだけです。しかし、もう一人の学生は、まだどちらなのかを観測していないため、もう一人の学生にとっては、「猫が生きていた世界」と「猫が死んでいた世界」の2つが重ね合わせのままです。
 もう一人の学生は、この後部屋に入ってどちらなのかを観測した時に初めて、「猫が生きていた世界」と「猫が死んでいた世界」の2つに分裂し、どちらか一方の視点に立てるだけとなります。
 「猫が生きていた世界」をW1、「猫が死んでいた世界」をW2とし、特定の人物(学生、教授、もう一人の学生)をXで表し、W1に居るXをX1、W2に居るXをX2とします。Xがどちらだったのかを観測していない時はX1=X2なので、X1+X2すなわちW1+W2という重ね合わせの視点に立ってしまいます。Xがどちらだったのかを観測すると、X1≠X2となるため、XはX1またはX2のどちらか一方の視点に立てるだけとなり、X1ならW1+W2→W1、X2ならW1+W2→W2という波動関数の収縮を体験します。

[91] SumioBaba 2014/05/22 20:27 Zp/bJa1Y4l7

「EMANの物理学・量子力学・多世界解釈」
http://homepage2.nifty.com/eman/quantum/many.html
からの引用です。

>    2つの解釈の違い
> 波動関数の形は方程式に従って変化する。 時間が経つごとに変化する。
> その変化した波動関数というのは人間から見ると、 2 通り以上の相容れない状態が同時に重なった状態であったりする。 しかし自然は人間の都合などお構いなしである。 人間に分かってもらえなくとも、とにかくそのような状態で存在している。
> 人間はこの状態をありのままには認識する事ができず、どれか一つの状態でいてくれないと納得できない。 実際、人間がこれを観察すると、やはりどれか一つの状態のみを認めることになる。 そこで人間は叫ぶ。
>「観測の瞬間、状態はただ一つに定まった!! なぜだ! 奇妙だ! 波束の収縮だ!」
> こういうことを叫ぶのがコペンハーゲン解釈である。
> ところが別の解釈も可能である。 人間を含めて、この世の全ては波動関数で表されている。 観測の瞬間、別に変わったことが起きるのではない。 ただ、A という状態を観測した人間と、 B という状態を観測した人間とが重なり合って存在している状態を表す波動関数があるだけである。
> 我々自身はその可能性の中の一つに過ぎないわけだ。 この解釈は心情的に納得できるかどうかだけが問題であり、それ以外に矛盾などはなさそうだ。 これが多世界解釈である。

>    世界は無限に増えるのか
> 「多世界解釈」という名称にはかなりのインパクトがあっていいのだが、この言葉自体が誤解の元になっているのも否めない。 誰かが観測行為をするたびに、あるいは未来を変えるような選択をするたびに、際限なく世界が分裂し増えていくというような印象を与えてしまっている事が多いと思うのだ。
> しかしこの解釈を擁護する人が信じているのは、こんな風に増えすぎた世界を収める場所がなくなっていずれ破綻してしまいそうなイメージなんかではない。 そうではなく、世界のあらゆる状況を記述できる十分に大きな波動関数が初めからたった一つだけあって、その形が変化していくのをただただ神の視点で見ているようなイメージである。 「単一世界解釈」とでも呼んだ方がむしろいいくらいだ。

 まさにその通りですね。

[92] SumioBaba 2014/05/24 16:29 Zp/bJa1Y4l7

量子力学の解釈として、「多世界解釈」を支持する人が大多数になっているようです。そして「多世界解釈」の立場を取ると、自ずと[量子観念論仮説]にたどり着き、[量子実在論仮説]の立場には立てないのではないか?という主張です。

        [量子実在論仮説]
    地球上には数十億人の人間の心M1、M2、M3、・・・、Mn(nは数十億)
    が存在しているが、物質世界の方は、心M1、M2、M3、・・・、Mnす
    べてにとって共通な世界Wが実在している。個々の心M1、M2、M3、
    ・・・、Mnは、Wのごく一部を知覚・認識するだけであり、
        M1⊂W、M2⊂W、M3⊂W、・・・、Mn⊂W
    と表現できる。//

        [量子観念論仮説]
    地球上には数十億人の人間の心M1、M2、M3、・・・、Mn(nは数十億)
    が存在しているが、物質世界の方も、心M1が住む世界W1、心M2が
    住む世界W2、心M3が住む世界W3、・・・、心Mnが住む世界Wn、と
    心の数だけ存在し、すべて異なる。(多世界解釈まで考慮すれば、n→∞)。
    心Miが住む世界Wiは、Miが知覚・認識している範囲内でだけ物理状態
    が確定しているが、Miが情報を持たない領域は何も物理状態が確定して
    おらず、あらゆる可能性が重ね合わせのままである。WiはMiそのもの
    と見なすことになり(i=1、2、3、・・・、n)、
        M1=W1、M2=W2、M3=W3、・・・、Mn=Wn
    そして、存在するのはすべての心M1、M2、M3、・・・、Mnの集合{M}
    だけである。//

 我々はついつい、「物質世界は誰にとっても客観的なもの」という先入観を持っています。だから、自分の心M1は友人の部屋の様子を知らなくても、客観的物質世界Wの中で友人の部屋の様子は確定しており、単に自分の心M1がそれを知らないだけだ、と考えてしまいます。それが[量子実在論仮説]です。[量子観念論仮説]は、この常識を根底から覆し、自分の心M1が住む世界W1では、友人の部屋の様子は様々な物理状態の重ね合わせのまま確定していない、と主張します。

[93] あめま 2014/05/24 16:31 AC/AzOUGXf0

うざ

[94] SumioBaba 2014/05/24 16:42 Zp/hUTjWfQc

>>92の続きです。
 [量子観念論仮説]では、「私が住む世界W1において、私の心M1が情報を持たない領域の物理状態は確定していない」です。にも拘わらず、なぜか「客観的物質世界の実在」を実感してしまいます。その理由は、人々がそれぞれ異なる世界に住んでいながら、部分的に重複しているからです。

        (1)
 私の心M1は、私が住む世界W1の中で、私の部屋の様子をかなり詳しく知っており、世界W1の中の私の部屋の物理状態は、かなり確定しています。この私の部屋をR1とします。
 友人の心M2は、友人が住む世界W2の中で、私の部屋の様子を知らないので、世界W2の中の私の部屋の様子は、無数の物理状態R1、R2、R3、・・・の重ね合わせです。
 友人を初めて私の部屋に招待すると、友人は私の部屋を見た時点で、様々な私の部屋R1、R2、R3、・・・を見ている友人に分岐します。しかし、私はすでに自分の部屋がR1に確定した世界W1に住んでいるため、R2、R3、・・・へ分岐していく友人を見ることはできず、100%の確率で友人がR1だけを見るように実感します。それゆえ、こう錯覚してしまいます。
        【錯覚1】
    友人が私の部屋を見る前から、友人にとっても私の部屋の様子はR1だけ
    に確定していた。私の部屋を見るまで、友人はそれを知らずにいただけだ。
真実はこうです。
        【真実1】
    友人が私の部屋を見る前、友人にとって私の部屋の様子は、R1、R2、R3、
    ・・・の重ね合わせだった。友人が私の部屋を見た時に初めて、友人にと
    って私の部屋はR1に確定した。

[95] SumioBaba 2014/05/24 16:57 Zp/46g3CLUg

>>92>>94の続きです。

        (2)
 逆も言えます。友人の心M2は、友人が住む世界W2の中で、友人の部屋の様子をかなり詳しく知っており、世界W2の中の友人の部屋の物理状態は、かなり確定しています。
 私の心M1は、私が住む世界W1の中で、友人の部屋の様子を知らないので、世界W1の中の友人の部屋の様子は、無数の物理状態r1、r2、r3、・・・の重ね合わせです。
 私が初めて友人の部屋に招待され、私が友人の部屋を見た時点で初めて、様々な友人の部屋r1、r2、r3、・・・を見ている私に分岐します。ただし、それがr1、r2、r3、・・・どの状態であった場合も、そこにいる友人にとってはずっと前から、友人の部屋はその状態に確定しています。もしr1であれば友人は、「この部屋はずっと前からr1だったよ」「たった今r1に決定した訳が無いじゃないか」と説明し、確かにその通りだと思われるr1の様子を私も見るので、一瞬前までr2、r3、・・・の可能性が重ね合わせられていたとは、とても考えられません。r2、r3、・・・の場合も同様です。それゆえ、本当はたった今r1に確定したのに、それを実感できず、こう錯覚することになります。
        【錯覚2】
    私が友人の部屋を見る前から、私にとっても友人の部屋の様子はr1だけ
    に確定していた。友人の部屋を見るまで、私はそれを知らずにいただけだ。
真実はこうです。
        【真実2】
    私が友人の部屋を見る前、私にとって友人の部屋の様子は、r1、r2、r3、
    ・・・の重ね合わせだった。私が友人の部屋を見た時に初めて、私にと
    って友人の部屋はr1に確定した。

[96] あめま 2014/05/24 17:06 AC/AzOUGXf0

超うざ

[97] SumioBaba 2014/05/24 17:10 Zp/fPC3p0UE

>>92>>94>>95の続きです。

        (3)
 二重スリット実験で、1個の素粒子が左を通った|L>か、右を通った|R>かをC氏が観測し、|L>か|R>かを知っているとします。それを暗号でA氏とB氏に教えようとします。実験室を出て来たC氏は、A氏とB氏の2人の前で「赤」と言いました。
 A氏は、C氏が「|L>なら赤、|R>なら青」と言うことを知っています。C氏は「赤」と言いました。従って「|L>である」と推測できます。A氏が住む世界Waでは、|L>+|R>→|L>と確定します。
 B氏は、C氏が「|L>なら赤、|R>なら青」と言うのか、それとも逆に「|R>なら赤、|L>なら青」と言うのかを知りません。C氏が「赤」だと言うのは聞きましたが、B氏が住む世界WbにおいてC氏は、「|L>なら赤、|R>なら青」と言うC氏と、逆に「|R>なら赤、|L>なら青」と言うC氏の重ね合わせのままです。従って、「赤」が「|L>である」に対応している確率は1/2、「赤」が「|R>である」に対応している確率も1/2となり、B氏が住む世界Wbでは、まだ|L>+|R>という重ね合わせのままです。
 A氏の視点に立つと、自分の住む世界Waでは「|L>である」に確定したため、ついついB氏にとっても「|L>である」に確定しており、B氏がそれを知らないだけ、と考えてしまいます。しかし今の場合、B氏は|L>か|R>かを判断できるだけの十分な情報を持っていないので、B氏が住む世界Wbでは、|L>+|R>という重ね合わせのままなのです。

[98] SumioBaba 2014/05/24 17:23 Zp/VaGTMBJ4

>>92>>94>>95>>97の続きです。

 とは言え、「B氏は、「|L>である」と判断できる十分な情報を持っているのに、自分で気付いていないだけ」という場合も有り得ます。例えばB氏は、自分が住む世界Wbの物理状態について100個の事実(命題)を知っているとします。そして、それら100個の命題に複雑な論理的加工を施すことで、「|L>である」が証明できるとしましょう。ただし、その証明があまりにも複雑であるため、B氏は証明を発見できず、「|L>である」が言えるのか言えないのか判らずにいる、という状況はあり得ると思われます。
 この場合B氏は、「|L>である」と断定できることに気付いてはいませんが、「|L>である」を証明するのに十分な100個の事実は知っているのですから、B氏が住む世界Wbではすでに|L>+|R>→|L>と確定していると思われます。自分が知っていることに気付いていない、という訳です。
 これもまた、「客観的物質世界の実在」(自分が知らない領域の物理状態までが確定しているようだ)という錯覚が生じる大きな原因です。
    B氏は、「|L>である」と判断できる十分な情報を持っていない。
と、
    B氏は、「|L>である」と判断できる十分な情報を持っているのに、自分
    で気付いていないだけ。
の違いは、ものすごく微妙なのが解ります。

[99] あめま 2014/05/24 18:00 AC/AzOUGXf0

超きも

[100] SumioBaba 2014/05/24 20:48 Zp/ZECRTKxI

「多世界説」(多世界解釈)の立場に立ち、
    「意識」=「波動関数の収縮」
と見なすのが[量子観念論仮説]の本質です。違いを「意識」したから「波動関数の収縮」が起きたのであり、かつ、「波動関数の収縮」が起きた時には違いを「意識」したことになり、両者は必要十分の関係と見なされます。そして、心が「意識」(認識)している領域だけ物質世界の物理状態が確定する、という意味で[観念論]です。

 人によって、情報の認識能力が異なる場合を考えます。例えば2つの世界WrとWgにおいて、物体Xの色が、Wrでは赤、Wgでは緑、だとします。それ以外の部分では、WrとWgは全く同じ世界だとしましょう。(「r」はred、「g」はgreen、の意味)。
 正常な色覚を持つA氏は、赤と緑の違いを識別できるので、自分がWrとWgのどちらにいるのかという情報を認識できます。しかし、赤と緑の違いを識別できない色盲のB氏は、自分がWrとWgのどちらにいるのかという情報を認識できない場合が有ります。この時、
    A氏にとっては波動関数が収縮したが、B氏にとっては波動関数は収縮して
    いない。
と考えるのが合理的なのです。

 WrにいるA氏をAr氏、WgにいるA氏をAg氏とすると、A氏は赤と緑を識別できるがゆえに、両者の心身状態に差異が生じ、Ar≠Agとなり、A氏はAr氏とAg氏のどちらか一方の視点に立てるだけです。Ar氏の視点に立つとWr+Wg→Wr、Ag氏の視点に立つとWr+Wg→Wg、という波動関数の収縮が起きたように見えます。
 WrにいるB氏をBr氏、WgにいるB氏をBg氏とすると、B氏は赤と緑を識別できないため、両者の心身状態に差異は生じず、Br=Bgのままとなり、B氏はBr氏とBg氏の両方の視点に、同時に立てるだけです。つまりB氏は、Wr+Wgという重ね合わせの視点に立てるだけであり、Wr+Wg→WrやWr+Wg→Wgという波動関数の収縮は起こりません。

[101] SumioBaba 2014/05/24 20:57 Zp/N8ZOSAfs

>>100の続きです。

 「多世界説」(多世界解釈)の立場に立ち、6つの異なる世界であるW1、W2、W3、W4、W5、W6を考えてみます。
 仮にP氏は、自分が6つの世界W1、W2、W3、W4、W5、W6のどれにいるのかをはっきり識別できる観測をし、その情報を得たとします。この時、6つの世界W1、W2、W3、W4、W5、W6に存在しているP氏をそれぞれP1氏、P2氏、P3氏、P4氏、P5氏、P6氏とすると、これら6人のP氏はみな心身状態に差が生じていることになります。
    P1、P2、P3、P4、P5、P6 の6つはみな異なる。
差が生じているからこそ6人のP氏は、それぞれ自分がW1、W2、W3、W4、W5、W6のどの世界にいるのかを識別できるのです。差が生じていなければ、P氏は自分がW1、W2、W3、W4、W5、W6のどの世界にいるかの情報を持てず、自分がP1、P2、P3、P4、P5、P6のどれなのかを識別できません。
 仮にP氏が、「W1またはW2」「W3またはW4」「W5またはW6」の3つの中のどの世界に自分がいるのか、という情報だけを認識しているとしましょう。この場合、6人のP氏の心身状態には、
    P1=P2、P3=P4、P5=P6 (これら3つは互いに異なる)
という関係が生じています。そして、P氏は、これら3つの視点のどれか1つには立てますが、同時に2つ以上の視点には立てません。仮に「W1またはW2」という視点に立った場合、自分がW3、W4、W5、W6にいない事だけは知っているものの、P1=P2なので、P氏は自分がW1とW2のどちらにいるのかを知る事ができません。すなわち、W1+W2という重ね合わせの世界にいることになります。W3+W4やW5+W6の場合も同様です。

[102] SumioBaba 2014/05/24 21:08 Zp/A5Or4hGv

>>100>>101の続きです。

 仮にP氏が、「W1またはW2またはW3」「W4またはW5またはW6」の2つの中のどちらの世界に自分がいるのか、という情報だけを認識しているとしましょう。この場合には、
    P1=P2=P3、P4=P5=P6 (これら2つは互いに異なる)
が成立しています。そしてP氏は、これら2つの視点のどちらか一方には立てますが、両方の視点に同時に立つことはできません。仮に「W1またはW2またはW3」という視点に立った場合、自分がW4、W5、W6にいない事だけは知っているものの、P1=P2=P3なので、P氏は自分がW1、W2、W3のどれにいるのかを知る事ができません。すなわち、W1+W2+W3という重ね合わせの世界の中にいることになります。W4+W5+W6の方も同様です。

 仮にP氏が、W1、W2、W3、W4、W5、W6のどこに自分がいるのかという情報を何も持たない場合、
    P1=P2=P3=P4=P5=P6
です。P氏は、W1+W2+W3+W4+W5+W6すべての世界の重ね合わせの中にいる視点に立てるだけです。

 1つのテーブルの周りに、P氏、Q氏、R氏、S氏の4人が座っているとします。4人はまるで同一の世界に住むかのように、普通に会話しています。しかし、P氏はW1だけの中に住み、Q氏はW1+W2という重ね合わせの中に住み、R氏はW1+W2+W3という重ね合わせの中に住み、S氏はW1+W2+W3+W4+W5+W6すべての世界の重ね合わせの中に住んでいる、という事も有り得るのです。

 今の話でP氏は、W1、W2、W3、W4、W5、W6の違いを認識できる人間を考えました。P氏の代わりに、1個の素粒子を考えると、これは、自分の外界について何も知覚できず、外界の情報を持つことはできないと思われます。すなわち、1個の素粒子の視点に立つと、「多世界説」で考える集合{W}のすべての要素がW1+W2+W3+・・・という重ね合わせのままで、波動関数の収縮は一切起こらない、と言えます。そう考えるのが[量子観念論仮説]です。

[103] SumioBaba 2014/05/24 21:23 Zp/9UH9ytPz

「多世界説」(多世界解釈)の立場に立ち、3つの異なる世界をWp、Wq、Wrとします。[量子観念論仮説]では、私はWp+Wqに住み、友人はWq+Wrに住む、という場合があり得ることの説明です。

 ある物体Xを、排反的な3つの量子状態|P〉、|Q〉、|R〉の重ね合わせ|P〉+|Q〉+|R〉にしたとします。まず私は「|R〉であるか否か」を観測し、「|R〉ではない」という情報を得たとすると、私にとって物体Xの状態は、|P〉+|Q〉です。次に友人は「|P〉であるか否か」という観測をし、「|P〉ではない」という情報を得たとすると、友人にとっての物体Xの状態は、|Q〉+|R〉です。
 もし、波動関数の収縮が「客観的」なものであるなら、私と友人とが互いに情報交換しなくても、物体Xの状態は|Q〉に決定します。「|P〉または|Q〉」と「|Q〉または|R〉」とを両方同時に満たし得るのは、|Q〉だけなのですから。ところが、波動関数の収縮が「主観的」なものであるなら、私にとっての物体Xの状態は|P〉+|Q〉のままであり、友人にとっての物体Xの状態は|Q〉+|R〉のままであり、どちらも正しく、かつ、どちらも|Q〉に収縮しない、という場合が有ります。
 これもパラドックスに見えます。もし|P〉なら、|Q〉+|R〉であると思っている友人は間違っていることになりそうだし、もし|R〉なら、|P〉+|Q〉だと思っている私は間違っていることになりそうだからです。

 2人が話し合って情報交換すると、私も友人も、相手が与えてくれる情報により、物体Xの状態はどれか1つに収縮しますので、2人は顔を見合わせたまま、黙り込んで見つめ合っているとしましょう。
 まず私は、「|R〉であるか否か」を観測し、「|R〉ではない」という情報を得たと考えました。しかし正確に言うと、「|R〉である」という情報を得て|R〉状態にいる私(R)と、「|R〉ではない」という情報を得て|P〉+|Q〉状態にいる私(P+Q)とに分岐した、と考えねばなりません。同様に友人の方も、友人(P)と友人(Q+R)に分岐した、ということになります。私と友人とが話をし、お互いの持つ情報を相手に与え合うことにより、私にとっての物体Xも、友人にとっての物体Xも、状態がどれか1つだけに収縮する状況を見てみましょう。

[104] SumioBaba 2014/05/24 21:37 Zp/SdKrD6UN

>>103の続きです。

        |P〉の場合
 私(P+Q)と友人(P)との会話になります。
    友人(P) ・・・ 実は私、「|P〉であるか否か」という観測をすでに行い、
        |P〉であることを知っていました。
    私(P+Q) ・・・ ああそうですか。私は「|R〉であるか否か」を観測し、
        |R〉ではなかったので、|P〉か|Q〉のどちらかである事は知ってい
        ました。そうか、|P〉だったのか。
2人とも観測は失敗していなかったし、間違ってもいませんでした。友人(P)は、「|P〉であるか否か」という自分の観測で、|P〉であることを知っていたのに対し、私(P+Q)は、友人(P)が教えてくれた情報により、私(P+Q)→私(P)と、状態が収縮しました。

[105] SumioBaba 2014/05/24 21:41 Zp/iBEB82dx

>>103>>104の続きです。

        |Q〉の場合
 私(P+Q)と友人(Q+R)の会話になります。
    私(P+Q) ・・・ 実は私、「|R〉であるか否か」という観測をすでに行い、
        |R〉ではない事が判ったので、|P〉と|Q〉のどちらかである事を知
        っていました。
    友人(Q+R) ・・・ 実は私も、「|P〉であるか否か」という観測をすで
        に行い、|P〉ではない事が判ったので、|Q〉と|R〉のどちらかであ
        る事を知っていました。
    私(P+Q) ・・・ という事は、|P〉でもなければ|R〉でもない、つまり
        |Q〉だということですね。
    友人(Q+R) ・・・ そうです。|Q〉に決定しましたね。
2人とも観測は失敗していなかったし、間違ってもいませんでした。互いに相手が教えてくれる情報により、私(P+Q)→私(Q)、友人(Q+R)→友人(Q)と、状態が収縮しました。

[106] SumioBaba 2014/05/24 21:46 Zp/69hpB2uh

>>103>>104>>105の続きです。

        |R〉の場合
 私(R)と友人(Q+R)との会話になります。
    私(R) ・・・ 実は私、「|R〉であるか否か」という観測をすでに行い、
        |R〉であることを知っていました。
    友人(Q+R) ・・・ ああそうですか。私は「|P〉であるか否か」を観測し、
        |P〉ではなかったので、|Q〉か|R〉のどちらかである事は知ってい
        ました。そうか、|R〉だったのか。
やはり2人とも観測は失敗していなかったし、間違ってもいませんでした。私(R)は、「|R〉であるか否か」という自分の観測で、|R〉であることを知っていたのに対し、友人(Q+R)は、私(R)が教えた情報により、友人(Q+R)→友人(R)と、状態が収縮しました。

[107] あめま 2014/05/24 21:56 AC/AzOUGXf0

うざ

[108] SumioBaba 2014/05/24 21:58 Zp/pJQ0Ei1M

>>103>>104>>105>>106の続きです。

 私(P+Q)の視点に立つと、私(P+Q)→私(P)になる可能性と私(P+Q)→私(Q)になる可能性の両方が存在した訳ですから、確かに|P〉と|Q〉は重ね合わせのままだった事が解ります。友人(Q+R)の視点に立つと、友人(Q+R)→友人(Q)になる可能性と友人(Q+R)→友人(R)になる可能性の両方が存在した訳ですから、確かに|Q〉と|R〉は重ね合わせのままだった事が解ります。

 今の話では、次の状態が生じたことになります。
    私(P)=私(Q)≠私(R)
    友人(P)≠友人(Q)=友人(R)
 私(R)は、自分がWrにいる事を知っています。私(P)=私(Q)は、自分がWrにいない事だけは知っていますが、私(P)=私(Q)であるがゆえに、自分がWpとWqのどちらにいるかを判断できないため、Wp+Wqという重ね合わせの中にいます。
 友人(P)は、自分がWpにいる事を知っています。友人(Q)=友人(R)は、自分がWpにいない事だけは知っていますが、友人(Q)=友人(R)であるがゆえに、自分がWqとWrのどちらにいるかを判断できないため、Wq+Wrという重ね合わせの中にいます。
 その後2人が話し合い、情報を与え合うことで、3人の私はみな異なるようになり、3人の友人もみな異なるようになり、自分がWp、Wq、Wrのどの世界にいるのかを知るようになりました。 

 このように、波動関数の収縮が「主観的」なものであるとするなら、私は、|P〉+|Q〉の重ね合わせのまま、友人は、|Q〉+|R〉の重ね合わせのままであり、しかも2人が情報交換しない限り、どちらも1つに収縮しない、という状況が有り得ます。
 私にとっての外界と、友人にとっての外界とは、完全に一致する必要は無いばかりか、一方が他方を完全に含む必要も無く、全く独立した状態であり得る、ということです。
 もっとも、両者の間に共通部分が無い場合には、私の知覚する世界に友人は存在せず、友人が知覚する世界に私は存在しないことになるでしょう。「多世界説」では、このような事も有り得ます。

[109] SumioBaba 2014/05/25 02:06 Zp/y18eHqqu

量子力学の神秘的な点として、物理法則は実在せず、人間の心が知覚・認識する時に疑似的に自然発生しているかのように見える、という点が挙げられます。

 具体例1として【経路積分】です。時刻t1に位置座標r1=(x1、y1、z1)に存在していた粒子が、時刻t2に位置座標r2=(x2、y2、z2)に到達したとします。観測したのは、スタート地点の位置とゴール地点の位置だけであり、その途中の経路は何も観測していません。ただしこの粒子は、周囲から何の力も受けていない自由粒子だとします。
 量子力学以前の古典物理学によれば、いわゆる「運動量保存則」により、この粒子は、
    r1→r2
と等速で直線経路をたどったと考えられます。ところが量子力学の「経路積分」によると、この粒子は直線経路だけでなく、あらゆる曲線経路のすべてを通って来たと見なされます。
    r1→ri→r2
r1とr2の間に経由して来るriは、直線r1→r2上に有る点も無い点も、すべての点r1、r2、r3、r4、r5、r6、・・・を含みます。つまりこの粒子は、r1→r2という直線経路を通って来るだけでなく、考えられる限りあらゆる遠回りの経路も同時に通って来ており、それらの重ね合わせ状態になっている、と考えます。ただし、すべての経路を重ね合わせる時、各経路に特定の重みが付きます。
    exp{iS/(h/2π)}
という複素数の重みです。Sは、各経路で定まる「作用」と呼ばれる物理量で、ラグランジアンL=「「運動エネルギー」-「位置エネルギー」」を時間tで積分したものです。iは虚数単位、hはプランク定数、πは円周率です。この重みを付けて重ね合わせると、どうなるでしょう? r1→r2という直線経路(最短距離)および、それにごく近い経路だけは、この粒子の存在確率がしっかり残ります。しかし、この粒子を波と見なした時の波長以上遠回りして来る経路には、必ずそれとうち消し合う経路が存在し、それらは相殺し合い、この粒子の存在する確率は殆どゼロになります。その結果この粒子は、r1→r2という直線経路(最短距離)および、それにごく近い経路だけを高い確率で通り、波長以上遠回りする経路を通って来る確率は殆どゼロとなります。こうしてこの粒子は、不確定性原理が主張する程度の不確定性を残した上で、ほぼ「運動量保存則」が存在するかのように振る舞うことが導かれます。

[110] SumioBaba 2014/05/25 02:18 Zp/LSiKpU0x

>>109の続きです。

 まるで「運動量保存則」が、見せ掛けだけの物理法則に思えます。個々の経路を見る限り、「運動量保存則」など存在せず、時刻t1に位置座標r1に存在していた粒子は、一瞬後、全くランダムに、他の様々な位置r1、r2、r3、r4、r5、・・・へと移動しています。しかも、Sの値に拘わらず|exp{iS/(h/2π)}|=1ですから、r1から次の位置r1、r2、r3、r4、r5、・・・へ移動する確率の絶対値は、r1からの距離|r1-r1|、|r1-r2|、|r1-r3|、|r1-r4|、|r1-r5|、・・・とは無関係に、どれも全く等しい重みです。ここまでなら、「運動量保存則」はどこにも存在しません。ところが人間の心は、この粒子の経路を観測せずに、スタート地点とゴール地点だけを観測する時、すべての経路にexp{iS/(h/2π)}という重みを付け、重ね合わせのままで知覚します。この時に初めて、r1→r2の直線経路およびそれにごく近い経路だけを残し、他の経路を通る確率が消滅してしまい、擬似的に「運動量保存則」を産み出しているかのようです。
 時刻t1に位置座標r1に存在していた粒子が、一瞬後、あらゆる位置座標r1、r2、r3、r4、・・・へ等確率で分岐する、というのは、言わば心が観測する以前の、「物自体」における物理状態の時間発展です。一方、人間の心はすべての経路にexp{iS/(h/2π)}という重みを付け、重ね合わせのままで知覚するため、その結果「運動量保存則」が発生し、実際に知覚するのはr1→r2という直線経路だけ、というのが、「現象世界」における物理状態の時間発展です。量子力学では常に、「物自体」と「現象世界」の違いを考慮する必要が有ります。

[111] SumioBaba 2014/05/25 02:30 Zp/wlMhyywx

>>109>>110の続きです。

 具体例2として【パウリの排他原理】です。これもまた、物理法則は「神」が作ったのではなく、自然発生しているのではないか?と示唆しているように思われるのです。
 量子力学では、「不可弁別性」と呼ばれる性質により、粒子1と粒子2とが同種類の粒子であるとき、両者を交換したのかどうかが、見た目には判りません。位置座標とスピン座標とを併せて「座標」と書いておきます。粒子1と粒子2とは同種類の粒子であり、2個全体の状態を波動関数ψで表すとします。
 粒子1の「座標」と粒子2の「座標」とを交換した状態をψ’とすると、ψとψ’とは見た目には何も変化は有りません。量子力学では、ψとそれに任意の複素数cを掛けたcψとは同一の状態と見なされるので、「座標」を1回交換した状態ψ’は、ψ’=cψで表されると思われます。しかも、「座標」の交換を2回繰り返したψ’’=(c^2)ψは、全く元通りのψに戻るので、c^2=1。これを満たす解は、c=1とc=-1の2つが考えられますが、実際に両方の場合が存在することが解っており、c=1を満たす粒子が「ボソン」、c=-1を満たす粒子が「フェルミオン」です。
 「ボソン」の方は、同種類の粒子である粒子1と粒子2とが、全く同じ「座標」を持つ状態が存在し得ます。ところが「フェルミオン」の方は、同種類の粒子である粒子1と粒子2とが、全く同じ「座標」を持つ状態が存在できません。これを「パウリの排他原理」と呼びます。その説明が非常に神秘的なのです。
 もし、粒子1と粒子2の「座標」が異なっている状態がψであれば、その差異を利用して、こちらが粒子1、あちらが粒子2、と識別できるので、両者が勝手に入れ替わることは有り得ず、ψはψのまま、ψ’に変化することは有りません。ところが、同種類の粒子である粒子1と粒子2とが全く同じ「座標」を持つ状態がψの場合、ψとψ’は全く区別できず、状態はψのままなのか、それともψ’に変わったのかが原理的に識別できないため、嫌でもψ+ψ’という重ね合わせになってしまいます。「ボソン」の場合は、ψ’=ψなので、ψ+ψ’=ψ+ψ=2ψであり、これはψと同じ状態で、立派に存在し得ます。ところが「フェルミオン」の場合、ψ’=-ψなので、ψ+ψ’=ψ-ψ=0であり、ψは消滅してしまい、存在できないというのです。すごい!!

[112] あめま 2014/05/25 05:46 AC/AzOUGXf0

うざ

[113] SumioBaba 2014/05/25 14:05 Zp/2KLh71Tq

>>109>>110>>111の続きです。

 具体例3として【前期量子論】と呼ばれる内容です。古典物理学から量子力学への過渡期には、次の法則が存在する、と仮定されました。
        【法則】
    1個の水素原子において、1個の陽子の周りを1個の
    電子が回転する時、電子の軌道円周長Lは電子を波
    と見なした時の波長λの自然数n倍でなければならず、
    L=nλ〔n=1、2、3、・・・〕である。
確かに、実際に生じている状態はすべてL=nλ〔nは自然数〕だけであり、L=rλ〔rは非自然数〕の方は実現していない事が実験的に知られています。
    「神」はなぜか【法則】を定め、それに従って我々の宇
    宙を作っている。
とついつい考えたくなります。しかし、その必要は無く、「神」はこんな【法則】など作っておらず、ただ、我々が観測するときに【法則】が自然発生するかのように見えることが説明できます。これを【物理法則の自然発生説】と呼びます。
 「神」は【法則】など作っておらず、L=nλ〔nは自然数〕である状態ψnだけでなく、L=rλ〔rは非自然数〕である状態ψrの方も、平等に発生している、と仮定してみます。

 まずψnの方です。具体例としてn=3だとします。波には、「山」「節」「谷」と呼ばれる部分が有りますが、軌道円周上の特定の点Pを「山」だと仮定して1周してみると、ちょうど波がn=3回波打ち、点Pの位置は確かに「山」だったことになります。つまり、ψnの存在を仮定するとψnの存在が導かれ、「ψnはψnである」という自己同一性が成立しているため、このψnは立派に存在できると思われます。
    nが自然数の場合、ψnの存在を仮定するとψnの存在
    だけが導かれ、ψnは立派に存在し得る。
なお、軌道円周を一周するというのは、時間の経過による変化を言っているのではありません。時刻はt=0に固定し、時刻t=0における状態をψnだと仮定したら、時刻t=0における状態はψnになった、という意味です。

[114] SumioBaba 2014/05/25 14:20 Zp/k30kxoXw

>>109>>110>>111>>113の続きです。

 次にψrの方です。rは非自然数なので、具体例としてr=3+1/6だとしてみます。ψrの存在を仮定し、これをψr(0/6)と書きます。軌道円周上の点Pを「山」だと仮定して1周してみたら、今度は「山」に戻らず、ψr(0/6)が(1/6)λだけずれたものになり、これをψr(1/6)と書きます。2周したらψr(0/6)が(2/6)λだけずれたものになり、これをψr(2/6)と書きます。・・・。5周したらψr(0/6)が(5/6)λだけずれたものになり、これをψr(5/6)と書きます。6周したらψr(0/6)が(6/6)λだけずれたものになり、これをψr(6/6)と書くと、これでやっと初めのψr(0/6)に戻ります。つまり、ψr(0/6)=ψr(6/6)。ψr(0/6)の存在を仮定したら、ψr(0/6)、ψr(1/6)、ψr(2/6)、ψr(3/6)、ψr(4/6)、ψr(5/6)、ψr(6/6)という異なる6つの状態の存在が導かれてしまいました。しかも波は、半波長ずらすと-1倍になるので、ψr(0/6)=-ψr(3/6)、ψr(1/6)=-ψr(4/6)、ψr(2/6)=-ψr(5/6)、の関係が有ります。従って、これら6つの状態をすべて重ね合わせると、
    ψr(0/6)+ψr(1/6)+ψr(2/6)+ψr(3/6)+ψr(4/6)+ψr(5/6)
      ={ψr(0/6)+ψr(3/6)}+{ψr(1/6)+ψr(4/6)}+{ψr(2/6)+ψr(5/6)}
      =0+0+0=0
で、自己消滅してしまうと思われるのです。r=3+1/6の場合だけでなく、rが非自然数の場合には(rが有理数の場合も無理数の場合も)、必ず似たような事が言えそうです。つまり、こう言えます。
    rが非自然数の場合、ψrの存在を仮定するとψrと-ψr
    の存在が導かれ、ψr-ψr=0で自己消滅してしまう。

[115] SumioBaba 2014/05/25 14:33 Zp/bJa1Y4l7

>>109>>110>>111>>113>>114の続きです。

 以上の考察は、自然法則なるものに対して、非常に面白い示唆をしています。一見すると、「神」が【法則】を定め、それに則って我々の宇宙を作っているかのように見えますが、本当はそうではなさそうだ、ということです。「神」は【法則】など定めていません。
    nが自然数であるψnも、rが非自然数であるψrも、存在
    できるのならしてごらん。何も禁じてはいないよ。
というのが「神」の態度なのです。
 しかし、特別な条件を満たしていない一般の状態は、自分で自分を自己消滅させてしまい、存在できません。特別な条件を満たした状態だけが、自分で自分を自己発生させることができます。その結果、いかにも「神」が【法則】を定めて、それに反する状態の発生を禁じているかのように錯覚してしまうのです。
 ψnもψrも、本当は平等に存在しようとしています。しかし、特別な条件を満たしていないψrの方は自己消滅して存在できません。これは植物の栽培に例えると、すべてのψnとψrの中から、ψrの方だけを「間引」して捨て、ψnだけを大切に育てているのと同様です。この「間引」の効果によって特定の自然法則が発生すると考えるのが、【自然法則の間引発生説】です。
        【自然法則の間引発生説】
    自然法則は、「神」が自分の意志で定めている訳では
    ない。「神」は、特別な条件を満たした状態も、満たし
    ていない状態も、平等に作り出そうとしている。ただし、
    特別な条件を満たしていない状態は、自分で自分を
    自己消滅させてしまう。それが「間引」するのと同じ効
    果を持ち、「特別な条件を満たした状態だけが存在し
    得る」という法則を自然発生させる。

[116] あめま 2014/05/25 16:45 AC/AzOUGXf0

きも

[117] SumioBaba 2014/05/27 19:41 Zp/FHi2CTeC

【物理法則の自然発生説】【自然法則の間引発生説】の応用です。

 水素原子において、1個の陽子の周囲を回る1個の電子を波と解釈したとき、「なぜ電子の状態ψは、軌道円周長が電子波長の整数倍であるψnだけが生じるのか? 非整数倍であるψrでも良かったのに?」という問いに対し、その答はこうでした。「ψnもψrも平等に発生しようとしているのだが、ψrは自己消滅するため「間引」され、ψnだけが生じるように見えるのだ」(>>115)。そこで、こう問うてみます。「なぜ現在自分が住む世界ψは、特定の物理法則に従うψaなのか? 全く物理法則に従わないψxでも良かったのに?」。この問いにも、同様に答えることが可能です。

 現在自分が住む世界ψは、本当はψaとψxとを特定の重みAとXを付けて重ね合わせたψ=Aψa+Xψxだとしてみます〔|A|^2+|X|^2=1〕。ψaとψxとは、物理状態は全く同じですが、特定の物理法則に従うか従わないか、という決定的な違いが有ります。ψaの方は、特定の物理法則に則って一瞬後の状態は確実にψbになるとします。ψxの方は全く物理法則に従わず、一瞬後はあらゆる状態ψp、ψq、ψr、・・・および-ψp、-ψq、-ψr、・・・に等確率でなる、としてみます。ψaの方は、確実にψa→ψbと時間発展します。しかしψxの方は、一瞬後の状態は(ψp-ψp)+(ψq-ψq)+(ψr-ψr)+ ・・・=0となって消滅します。こういう場合、X=0と同じことになるので、A=1に変化することで、全体の確率が1になるよう再規格化されます。つまり、現在自分が住む世界ψは、100%の確率で特定の物理法則に従ってψa→ψbと時間発展するψaであり、ψxである確率は0、ゆえに、ψ=ψaとなります。

 現在自分が住む世界ψは、なぜか「神」がψxではなくψaの方を選んでいるかのように見えますが、そうではありません。本当は、ψ=Aψa+Xψxであるのに、ψxの方が自己消滅して「間引」されるため、自ずとψ=ψaに見えるだけなのです。

[118] あめま 2014/05/27 21:34 AC/AzOUGXf0

うざ

[119] SumioBaba 2014/05/28 18:38 Zp/0FSTI7Vf

>>117の続きです。
 この論法は、論理法則についても言えそうです。「なぜ現在自分が住む世界ψは、矛盾の無い論理法則に従うψaなのか? 矛盾の有る論理法則に従うψxでも良かったのに?」。

 現在自分が住む世界ψは、本当はψaとψxとを特定の重みAとXを付けて重ね合わせたψ=Aψa+Xψxだとしてみます〔|A|^2+|X|^2=1〕。ψaとψxとは、物理状態は全く同じですが、矛盾の無い論理法則に従うのがψa、矛盾の有る論理法則に従うのがψx、という決定的な違いが有ります。ψaの方は、矛盾の無い論理法則に従うので、「ψaが存在する」と仮定すると「ψaが存在する」だけが導かれます。ψxの方は矛盾の有る論理法則に従うため、あらゆる命題の肯定も否定も真であることが証明されてしまい、「ψxが存在する」という仮定から、存在し得るあらゆる状態ψp、ψq、ψr、・・・および-ψp、-ψq、-ψr、・・・の存在と不在とが平等に証明され、これらすべてを重ね合わせると、(ψp-ψp)+(ψq-ψq)+(ψr-ψr)+ ・・・=0となって消滅します。やはり、X=0と同じことになるので、A=1に変化することで、全体の確率が1になるよう再規格化されます。つまり、現在自分が住む世界ψは、100%の確率で矛盾の無い論理法則に従うψaであり、矛盾の有る論理法則に従うψxである確率は0%、ゆえに、ψ=ψaとなります。

 現在自分が住む世界ψは、なぜか「神」がψxではなくψaの方を選んでいるかのように見えますが、そうではありません。本当は、ψ=Aψa+Xψxであるのに、ψxの方が自己消滅して「間引」されるため、自ずとψ=ψaに見えるだけなのです。

 波動関数の再規格化について。例えば1個の光子を、半透鏡(半分反射・半分透過する鏡)などを用い、確率1/4ずつでP、Q、R、Sという4つの道筋に分岐させます(P=Q=R=S=1/4)。その後、PとQを建設的干渉でXにし、RとSを破壊的干渉でYにし、XとYのどちらでこの光子が検出されるかを観測します。単純に確率を足し引きすると、X=P+Q=1/2、 Y=R-S=0、で全体の確率が1になりません。全体の確率を1にするため、XもYも2倍され、X=1、Y=0、となります。つまりこの光子は、Xで検出される確率が100%、Yで検出される確率が0%になります。

[120] あめま 2014/05/28 19:25 AC/AzOUGXf0

うざ

[121] 名も無きザビラー@ザ掲示板 2014/05/30 00:43 CC/ZkhLlYsR

神を1+2+3+4=10であるとするならば、それはつまり5で割れるということです。ここでいう5とは10÷2を意味します。そこで再び5に対して2をかけるならば、当然のように神は10つまり1+2+3+4の解になります。これらのことから言えるのは、神は100%の確率でXからもYからも検出可能な、超ハイパー空間に住むということです。

[122] SumioBaba 2014/05/31 09:43 Zp/fPC3p0UE

>>121 名も無きザビラー@ザ掲示板さんへ
 「超ハイパー空間」という表現が的を射ていると思います。我々はついつい、一人の人間である自分が住む世界の中で、「神」についての議論をし勝ちです。そうすると「全知全能」という性質が、すぐ矛盾に到達してしまいます。
 「神」が住む世界は、人間世界とは全く異なると考えるべきです。「超ハイパー空間」の具体的性質について、どう考えておられるのか、ぜひ詳しく説明して下さい。「多世界解釈」と案外似ているかも?

[123] SumioBaba 2014/05/31 16:54 Zp/IL0IdCnX

量子力学の基礎についての復習です。量子力学では、1個の素粒子が「粒子」でもあり「波」でもある、と表現されます。この素粒子の位置座標をr=(x、y、z)、運動量をp=(px、py、pz)としましょう。

        <<「粒子」=Σ「波」>>
 まず、位置座標rが特定の値r1=(x1、y1、z1)に不確定性ゼロで完全に確定している「粒子」状態|r1>では、不確定性原理により、運動量p=(px、py、pz)の不確定性が無限大になっています。つまり|r1>は、様々な運動量p1、p2、p3、・・・を持つ「波」状態|p1>、|p2>、|p3>、・・・を、
    -∞<px<+∞、-∞<py<+∞、-∞<pz<+∞
の範囲内ですべて重ね合わせたものです。重ね合わせの重みをa1、a2、a3、・・・とすると、
    |r1>=a1|p1>+a2|p2>+a3|p3>+ ・・・         ・・・(1)
です。重みa1、a2、a3、・・・の値を変えることで、|r2>、|r3>、・・・も同様に表現できます。

        <<「波」=Σ「粒子」>>
 一方、運動量pが、特定の値p1=(p1x、p1y、p1z)に不確定性ゼロで完全に確定している「波」状態|p1>では、不確定性原理により、位置座標r=(x、y、z)の不確定性が無限大になっています。つまり|p1>は、様々な位置座標r1、r2、r3、・・・に存在する「粒子」状態|r1>、|r2>、|r3>、・・・を、
    -∞<x<+∞、-∞<y<+∞、-∞<z<+∞
の範囲内ですべて重ね合わせたものです。重ね合わせの重みをb1、b2、b3、・・・とすると、
    |p1>=b1|r1>+b2|r2>+b3|r3>+ ・・・         ・・・(2)
です。重みb1、b2、b3、・・・の値を変えることで、|p2>、|p3>、・・・も同様に表現できます。

[124] SumioBaba 2014/05/31 17:02 Zp/SdKrD6UN

>>123の続きです。

 (1)を見ると、|r1>は|p1>、|p2>、|p3>、・・・の重ね合わせであり、かつ(2)を見ると、個々の|p1>、|p2>、|p3>、・・・の中には、|r1>だけではなく、|r2>、|r3>、・・・のすべてが含まれています。つまり、|p1>、|p2>、|p3>、・・・にa1、a2、a3、・・・という適当な重みを付けて重ね合わせる時、|r1>だけが残り、|r2>、|r3>、・・・のすべてはうち消し合って消滅したもの、それが|r1>です。
    |r1>という「粒子」状態は、様々な運動量を持つ「波」状態|p1>、|p2>、
    |p3>、・・・の重ね合わせであり、個々の|p1>、|p2>、|p3>、・・・は
    どれも、|r1>、|r2>、|r3>、・・・すべての重ね合わせであるが、|p1>、
    |p2>、|p3>、・・・に適当な重みを付けて重ね合わせることで、|r2>、
    |r3>、・・・がすべて「破壊的干渉」を起こして消えてしまい、|r1>だけ
    が「建設的干渉」で強め合った状態、それが|r1>である。  ・・・(3)

 全く同じ事が、「粒子」と「波」を逆にしても言えます。
    |p1>という「波」状態は、様々な位置座標を持つ「粒子」状態|r1>、|r2>、
    |r3>、・・・の重ね合わせであり、個々の|r1>、|r2>、|r3>、・・・はど
    れも、|p1>、|p2>、|p3>、・・・すべての重ね合わせであるが、|r1>、
    |r2>、|r3>、・・・に適当な重みを付けて重ね合わせることで、|p2>、
    |p3>、・・・がすべて「破壊的干渉」を起こして消えてしまい、|p1>だけ
    が「建設的干渉」で強め合った状態、それが|p1>である。  ・・・(4)

[125] SumioBaba 2014/05/31 17:18 Zp/iBEB82dx

>>123>>124の続きです。

 量子力学の最も本質的な部分であるため、念のため、数式を用いてより厳密に表現しておきます。

        <<「波」=Σ「粒子」>>
 運動量がp1=(p1x、p1y、p1z)に確定している状態|p1>は、3次元運動量空間内では、すべての確率1がp=p1=(p1x、p1y、p1z)だけに集中したデルタ関数により、
    φ(p)=δ(p-p1)=δ(px-p1x)δ(py-p1y)δ(pz-p1z)      ・・・(5)
と表される「粒子」状態ですが、これをフーリエ変換し、3次元位置座標空間内で表現すると、
    ψ(r)=exp{i・p1・r/(h/2π)}               ・・・(6)
で表される複素数の「波」状態となります。ただし、
    p1・r=p1x・x+p1y・y+p1z・z              ・・・(7)
はp1とrの内積を表し、iは虚数単位、hはプランクの定数、πは円周率です。(規格化はせずにおきます。p1は定数、rは変数であることに注意。)

        <<「粒子」=Σ「波」>>
 逆に、位置座標がr1=(x1、y1、z1)に確定している状態|r1>は、3次元位置座標空間内では、すべての確率1がr=r1=(x1、y1、z1)だけに集中したデルタ関数により、
    ψ(r)=δ(r-r1)=δ(x-x1)δ(y-y1)δ(z-z1)           ・・・(8)
と表される「粒子」状態ですが、これをフーリエ逆変換すると、3次元運動量空間内では、
    φ(p)=exp{-i・p・r1/(h/2π)}                ・・・(9)
で表される複素数の「波」となります。ただし、
    p・r1=px・x1+py・y1+pz・z1               ・・・(10)
はpとr1の内積を表し、iは虚数単位、hはプランクの定数、πは円周率です。(規格化はせずにおきます。pは変数、r1は定数であることに注意。)

[126] SumioBaba 2014/05/31 17:33 Zp/piLOID3w

>>123>>124>>125の続きです。

 つまり、ψ(r)=exp{i・p1・r/(h/2π)}で表される状態は、3次元運動量空間内で運動量がp1という一定値を取り、3次元位置座標空間内では、-∞<x<+∞、-∞<y<+∞、-∞<z<+∞に広がる複素数の「波」ですが、これは位置座標がrである「粒子」状態にψ(r)という重みを付け、3次元位置座標空間内すべての点rについて重ね合わせたもの(積分したもの)です。すなわち、
    |p1>=ψ(r1)|r1>+ψ(r2)|r2>+ψ(r3)|r3>+ ・・・     ・・・(11)
|p2>、|p3>、・・・の場合には、ψ(r)の中のp1が、p2、p3、・・・に変わります。

 逆に、φ(p)=exp{-i・p・r1/(h/2π)}で表される状態は、3次元位置座標空間内で位置座標がr1という一定値を取る「粒子」ですが、これは3次元運動量空間内では、運動量がpである「波」状態にφ(p)という重みを付け、-∞<px<+∞、-∞<py<+∞、-∞<pz<+∞に及ぶすべて点pについて重ね合わせたもの(積分したもの)です。つまり、
    |r1>=φ(p1)|p1>+φ(p2)|p2>+φ(p3)|p3>+ ・・・    ・・・(12)
|r2>、|r3>、・・・の場合には、φ(p)の中のr1が、r2、r3、・・・に変わります。

[127] あめま 2014/05/31 17:50 AC/AzOUGXf0

うざ

[128] SumioBaba 2014/06/01 03:02 Zp/OMlFgkX9

>>123>>124>>125>>126の続きです。

 以下の2つの数式は、同一状態についての別表現です。(5)は「運動量表示」、(6)は「位置座標表示」で、互いにフーリエ変換・逆変換の関係にあり、一方が与えられれば、他方は計算で求めることができます。
    φ(p)=δ(p-p1)=δ(px-p1x)δ(py-p1y)δ(pz-p1z)      ・・・(5)
    ψ(r)=exp{i・p1・r/(h/2π)}               ・・・(6)
 (5)は、運動量pがp=p1=(p1x、p1y、p1z)に不確定性ゼロで確定している状態|p1>であり、3次元運動量空間における「粒子」であることを表しています。(6)は、3次元位置座標空間において、位置座標が-∞<x<+∞、-∞<y<+∞、-∞<z<+∞に広がる複素数の「波」であることを表し、この「波」は、すべての位置座標に存在する「粒子」状態|r1>、|r2>、|r3>、・・・の重ね合わせであることを示しています。つまり、運動量pが不確定性ゼロで確定しているため、位置座標rの不確定性が無限大になっている状態です。3次元運動量空間における「粒子」は、3次元位置座標空間における「波」です。普通、こういう状態を≪波≫と呼びます。

 以下の2つの数式も、同一状態についての別表現です。
    ψ(r)=δ(r-r1)=δ(x-x1)δ(y-y1)δ(z-z1)           ・・・(8)
    φ(p)=exp{-i・p・r1/(h/2π)}                ・・・(9)
 (8)は、位置座標rがr=r1=(x1、y1、z1)に不確定性ゼロで確定している状態|r1>であり、3次元位置座標空間における「粒子」であることを表しています。(9)は、3次元運動量空間において、運動量が-∞<px<+∞、-∞<py<+∞、-∞<pz<+∞に広がる複素数の「波」であることを表し、この「波」は、すべての運動量を持つ「粒子」状態|p1>、|p2>、|p3>、・・・の重ね合わせであることを示しています。つまり、位置座標rが不確定性ゼロで確定しているため、運動量pの不確定性が無限大になっている状態です。3次元位置座標空間における「粒子」は、3次元運動量空間における「波」です。普通、こういう状態を≪粒子≫と呼びます。

[129] あめま 2014/06/01 08:22 AC/AzOUGXf0

うざ

イモ

[130] SumioBaba 2014/06/02 13:55 Zp/IL0IdCnX

量子力学は極めて美しい物理理論です。特に、重要な数式がずらりと並んでいるのを見ると、博物館で、ダ・ビンチのモナリザ、ゴッホのひまわり、・・・などの名画がずらりと並んでいるのを見るようです。犬や猫には数式の美しさは理解できないでしょうから、やはり「人間に生まれて良かった」と実感します。

 しかし、人間の中にも、量子力学を理解できない人はいるようです。そういう人は、量子力学を理解できる人が、羨ましくて妬ましくてたまらないそうです。しかも、数式を理解できない人は、数式に美しさを感じるどころか、数式を見ると頭痛がし、吐き気がし、腹が立ってしまうらしいです。全くもって、ご愁傷様です。

[131] あめま 2014/06/02 19:15 AC/AzOUGXf0

カス

[132] SumioBaba 2014/06/03 16:13 Zp/7sMqoQMg

>>129>>131 あめまさんへ
 あめまさんは、量子力学に出てくる数式や、それについての私の説明を、「うざ」「臭」「イモ」「カス」と感じてしまわれるのでしょうか? もうそうだとしたら、すごく悲しいです。こんなに美しい数式を、美しいと感じられない人がいるなんて。人間に生まれてきた以上、量子力学を理解する権利は誰にでも有るはずです。幸運を祈ります。

[133] SumioBaba 2014/06/03 18:56 Zp/tQahOeMc

「物質世界の物理状態は、人間の心による知覚・認識とは無関係に、客観的に確定している」という常識を覆します。

 自分が生まれつき知覚してきたこの世界をU0とします。そして、自分の脳に細工を施し、視覚と聴覚とを入れ替える[知覚変換]を行ったとします。変換後は、目から光が入るとそれが聴覚野に伝えられて「音」が聞こえ、耳から空気の振動が伝わるとそれが視覚野に伝えられて「色」や「形」が見えるようになります。これまで知覚してきた世界U0は、全く異なる世界U1へと変わってしまいます。
 我々は、世界U0こそが宇宙の真の姿だと思い込んで来たので、世界U1の方は、それを歪に捻じ曲げた姿で知覚しているだけだ、と考えたくなります。しかし、生まれつき我々の宇宙をU1だと知覚・認識している宇宙人がいた場合、宇宙人たちは当然、世界U1こそが宇宙の真の姿だと思い込んでおり、世界U0の方こそ、それを歪に捻じ曲げた姿だ、と主張するでしょう。そうなると、どちらが正しいと決め付けることはできなくなります。言わば、どちらも正しいのです。

        [主観と客観の相対性原理]
    宇宙の姿は、それ自体で客観的に決定しているものではない。どういう
    「知覚システム」で宇宙を知覚するかにより、宇宙の姿は様々に変化し、
    どれか1つだけが正しいのではなく、どれもみな正しい。
    すなわち宇宙の姿は、「客観」(見られる側)である宇宙と、「主観」(見る
    側)である「知覚システム」との相対的関係性において、初めて定まる
    ものである。

 だからこそ「クオリア統一理論」では、客観的物質世界なるものを本質的な実在であるとは見なさず、「クオリア」こそが最も本質的な実在であると見なし、物質世界もまた「クオリア」で説明することになります。→<<クオリア統一理論(216)>>

[134] SumioBaba 2014/06/03 19:07 Zp/EK9ySPeJ

量子力学では、1個の素粒子の状態ψを、様々な位置r1、r2、r3、・・・に存在する「粒子」状態|r1>、|r2>、|r3>、・・・の線形の重ね合わせとして、
    ψ=a1|r1>+a2|r2>+a3|r3>+ ・・・      ・・・(1)
と表せます(位置座標表示)。と同時にψは、様々な運動量p1、p2、p3、・・・を持つ「波」状態|p1>、|p2>、|p3>、・・・の線形の重ね合わせとして、
    ψ=b1|p1>+b2|p2>+b3|p3>+ ・・・      ・・・(2)
と表すこともできます(運動量表示)。
 もしψという状態で位置座標を正確に測定すると、(1)により、|r1>、|r2>、|r3> ・・・である確率が|a1|^2、|a2|^2、|a3|^2、・・・で与えられます。もしψという状態で運動量を正確に測定すると、(2)により、|p1>、|p2>、|p3> ・・・である確率が|b1|^2、|b2|^2、|b3|^2、・・・で与えられます。
 つまり量子力学では、1個の素粒子を、
    -∞<x<+∞、-∞<y<+∞、-∞<z<+∞ のどこか1点だけに存在する
    「粒子」状態|r1>、|r2>、|r3>、・・・。
と見なして、その位置座標を観測すれば、確かに|r1>、|r2>、|r3> ・・・のどれが1つであることが判明します。逆に、1個の素粒子を、
    -∞<x<+∞、-∞<y<+∞、-∞<z<+∞ 全域に広がる「波」状態|p1>、
    |p2>、|p3>、・・・。
と見なして、その運動量を観測すれば、確かに|p1>、|p2>、|p3> ・・・のどれが1つであることが判明します。
 「粒子として観測すれば、粒子として検出される」「波として観測すれば、波として検出される」「観測していないときは、どちらであるかも決まっていない」であり、これもまた[主観と客観の相対性原理]の一種です。

[135] あめま 2014/06/03 20:07 AC/AzOUGXf0

うざ

[136] SumioBaba 2014/06/04 18:58 Zp/Kq0TLQhI

>>84の続きです。

 「脳・心問題」は「クオリア統一理論」にとって重要な課題の1つです。この問題に関しては、科学者も哲学者も、いまだに迷宮に迷い込んだままどう対処して良いのか解らずにいる、という気がします。
 我々は、石ころ、机、椅子、鉛筆、消しゴム、・・・などの物体には、普通「心」の随伴を想定しません。ところが少なくとも自分の脳Bには、自分の心Mが随伴しているのを認識します。ただし、自分の心Mが認識できる心は、自分の心Mだけであり、他人の脳にも心が随伴しているのかどうか、知ることはできません。誰もが「自分も心を持つ」と主張し合うことで、「人間は誰もが心を持つのだろう」と推測はできますが、決して確認することはできません。もしかしたら、石ころ、机、椅子、鉛筆、消しゴム、・・・などの物体も、本当は心を持つのかもしれません。しかし、それがどんな心なのか、本当に存在するのかどうかも、知る方法は無いように思われます。

 これまで科学者は、「物質世界は客観的」だから科学の研究対象であるが、「心は主観的」だから科学の研究対象にはなり得ない、という態度を取ってきたように思われます。しかし、哲学者はこれに疑問を投げ掛けてきました。「物質世界は客観的」というけれど、自分が知覚している夕陽の「赤」と、友人が知覚している夕陽の「赤」と、本当に同じ色だと言えるのか? これだって、比べようが無いではないか?

 「物質世界は客観的」というのは、「人類の五感による知覚システムは、ほぼ人類全員に共通していると見なせる」という意味であり、それ以上の意味は持ち得ません。例えば、正常な五感を持つA氏、B氏、C氏、D氏、E氏が、1個の石ころの状態について話し合うと、その「色」や「形」について5人の意見はぴったり一致し、この石ころの状態はいかにも「客観的」であるかのように感じます。しかし、もしこの5人が、A氏は視覚だけ、B氏は聴覚だけ、C氏は嗅覚だけ、D氏は味覚だけ、E氏は触覚だけ、という五感のうちの1つずつしか持たなかったらどうでしょう? 石ころについての5人の知覚内容(クオリア)は五者五様で「主観的」に異なり、「客観的」性質などどこにも存在しなくなります。

[137] SumioBaba 2014/06/04 19:09 Zp/VNOy744W

>>84>>136の続きです。

 五感で知覚する以前の「物自体」としての自分の脳B、または自分の心Mを、「自分自体」Xと呼びましょう。このXがX自身を様々な知覚システムを用いて自己認識するとします。「視覚システム」「聴覚システム」「嗅覚システム」「味覚システム」「触覚システム」による知覚変換をそれぞれ、g1、g2、g3、g4、g5、とすると、こう表現できるでしょう。
    B(視覚像)=g1(X)  ・・・(1)
    B(聴覚像)=g2(X)  ・・・(2)
    B(嗅覚像)=g3(X)  ・・・(3)
    B(味覚像)=g4(X)  ・・・(4)
    B(触覚像)=g5(X)  ・・・(5)
さらに、自分の心Mも同様にXをg0で変換したものとすると、
    M=g0(X)      ・・・(0)
 これらの左辺に出て来るB(視覚像)、B(聴覚像)、B(嗅覚像)、B(味覚像)、B(触覚像)、M、はすべて五感それぞれの独特な「構造」を持ったクオリアであり、実際体験として与えられるものです。未知の変数がX、未知の変換がg1、g2、g3、g4、g5、g0です。
 Xは「自分自体」であって、これは不明です。実際Xを、任意の変換fで変換したf(X)で置き換えても、fの逆変換であるhを用い、g1、g2、g3、g4、g5、g0、を、g1・h、g2・h、g3・h、g4・h、g5・h、g0・h、で置き換えれば、h・fは打ち消し合って恒等変換になるため、上の6つの等式は、相変わらず成立します。
    g1(X)=g1・(h・f)(X)=(g1・h)(f(X))
ですから、g1とXが(1)の解であれば、g1・hとf(X)もまた、(1)の解になる、という意味です。(2)(3)(4)(5)(0)も同様。変数が7個、条件式が6個という状況と同じで、解が無数に存在します。

[138] SumioBaba 2014/06/04 19:23 Zp/35Qlw2cW

>>84>>136>>137の続きです。

 変数を減らすためには、XをそのままMに等しいと考え、
    M=X、g0は恒等変換   ・・・[0]
とする方法があります。Xは、任意の変換fでXを変換したf(X)で置き換えても良いので、f(X)=Mを満たすf(X)で置き換えた、と解釈できます。Mという「構造」を、B(視覚像)、B(聴覚像)、B(嗅覚像)、B(味覚像)、B(触覚像)という「構造」に変えるg1、g2、g3、g4、g5、がどんな変換なのかを解明するのが、「脳・心問題」の課題ということになります。
    B(視覚像)=g1(M)     ・・・[1]
    B(聴覚像)=g2(M)     ・・・[2]
    B(嗅覚像)=g3(M)     ・・・[3]
    B(味覚像)=g4(M)     ・・・[4]
    B(触覚像)=g5(M)     ・・・[5]
M、B(視覚像)、B(聴覚像)、B(嗅覚像)、B(味覚像)、B(触覚像)は実際体験として与えられるものですから、未知であるのは、g1、g2、g3、g4、g5、の5つであり、条件式も5つになります。

 哲学者カントが指摘した通り、人間が五感で知覚していないときのある物体Xは「物自体」と呼ばれ、どんなクオリアなのかは不定です。それを人間が五感で知覚するときに初めて、g1(X) 、g2(X)、 g3(X)、 g4(X)、 g5(X)という五感に固有のクオリアで知覚されるのです。
 科学者はこの事実に気付いておらず、五感で特定のクオリアに変換して知覚している自分の世界を、そのまま客観的世界だと勘違いしてしまいました。本当は特定の「色眼鏡」を通し、すでに客観的ではなく主観的な世界に変換されてしまっているのに、それに気付かず、人間が知覚していないときもそのようなクオリアで実在しているかのように思い込んでいます。その結果、「色眼鏡」を通さず有りの儘の状態である心Mの方が、科学の研究対象とは見なされないという、本末転倒が起きてしまった訳です。

[139] あめま 2014/06/04 19:35 AC/AzOUGXf0

うざっ

[140] SumioBaba 2014/06/04 21:03 Zp/y18eHqqu

>>84>>136>>137>>138の続きです。

 脳Bの状態(クオリアとして知覚・認識される状態)は、2つの変数に依存することが解ります。第一に、喜んでいる心M1、悲しんでいる心M2、苦しんでいる心M3、・・・などのどれに対応する脳状態かで、脳Bは様々に変わります。第二に、その脳を知覚している「知覚システム」が、視覚という「知覚システム1」、聴覚という「知覚システム2」、嗅覚という「知覚システム3」、・・・のどれなのかで、脳Bは様々に変わります。それゆえ脳Bは、2つの添え字付き変数として脳Bijで表わされるべきです。

        【定式】
    (1) 様々な心M0、M1、M2、M3、・・・が存在する。
    (2) 心Mi(i=0、1、2、3、・・・)はMi自身を、何の変換もせず有りの
      儘に、Miとして認識できる。
    (3) 心Miが他の心Mjを知覚する時、Miに固有な変換Giにより必ず
      Mjを変化させてしまい、脳Bij=Gi(Mj)というクオリアで知覚する。
    (4) 心Miは、自分Miを変換Giで変化させた上で知覚することもでき、
      これが自分の脳Bii=Gi(Mi)である。
    (5) 心Miと心Mjにおいて、外界を知覚する知覚システムが共通であれ
      ばGi=Gj、共通でなければGi≠Gj。M1、M2、M3が3人の人間の
      心、M4がコウモリの心である場合、恐らくG1=G2=G3≠G4。

 脳Bがどんなクオリアとして知覚されるかは、まず、その脳Bがどんな心の状態に対応する脳なのか(jの値)を決め、さらに、その脳をどんな「知覚システム」で知覚するのか(iの値)を決めたときに初めて、Bij=Gi(Mj)、で確定することになります。
 結局「脳・心問題」とは、我々が何かを知覚するとき、その「知覚システム」に固有な変換でクオリア変換してしまう、というところから生じているのが解ります。科学者たちはそれを見落とし、自分が五感で知覚していないときも、世界は自分が五感で知覚しているときと同じクオリアで客観的に実在していると勘違いしています。そうすると、客観的物質である脳Bだけが科学の研究対象になり、心Mの方は無視されてしまうという結果になってしまうのです。

[141] SumioBaba 2014/06/04 21:40 Zp/UJx9IrgH

>>84>>136>>137>>138>>140の続きです。

 心Mはもちろんクオリア(の複合体)です。一方、脳Bの方も、五感のどれで知覚した場合もクオリア(の複合体)です。そして両者の間には、
    M=F(B) または B=G(M) 〔FとGとは逆変換〕
の関係が有ります。このFとGを「脳・心対応法則」と呼びます。ただしここでも、「脳・心対応法則」は「神」が定めたものではなく、人間の心が産み出している擬似法則であることが示せます。→<<クオリア統一理論(230)>>

 具体例として、自分の脳に細工を施し、目から入った情報が脳の聴覚野に、耳から入った情報が脳の視覚野に入るように変え、視覚と聴覚とを入れ替える[知覚変換]Hを考えます。変換前、自分の脳Bは、「直径10cmくらいのピンク色をした豆腐のような物体」として視覚的クオリアで知覚していました。変換後、自分の脳Bは、「何らかの音」として聴覚的クオリアで知覚することになります。
 「心」Mの状態として「喜びを感じている心」を考えましょう。変換前は、次のように対応しています。
            [知覚変換]H以前
    「心」M・・・喜びを感じている心。【M=F(B)】
    「脳」B・・・喜びを感じている心Mを発生させている脳。
        「直径10cmくらいのピンク色をした豆腐のような物体」として
        視覚的クオリアで知覚する。【B=G(M)】
ところが変換後、Mは同一状態に保っても、Bだけが大きく変わります。
            [知覚変換]H以後
    「心」M・・・喜びを感じている心。【M=F’(B)】
    「脳」B・・・喜びを感じている心Mを発生させている脳。
        「何らかの音」として聴覚的クオリアで知覚する。【B=G’(M)】
知覚変換の前後で、Mは同一なのに、Bだけが大きく変わっています。これは、「脳・心対応法則」FとGを、全く異なるF’とG’に変えたのと同じ効果を持ちます。

 よく哲学者は、「どのような脳Bにどのような心Mが対応するのか、その必然性が全く理解できない」と言います。それもそのはず、対応関係に必然性などなく、どうにでも変えられるものなのです。

[142] あめま 2014/06/04 22:10 AC/AzOUGXf0

うざうざ
けっ

[143] スコルピオン 2014/08/19 21:58 a1/LdKVbXdp

ヒルベルト空間では無く
魔空空間。

[144] あめま(あめま軍) 2014/08/19 22:31 AC/AzOUGXf0

きも

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