死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい
わかりにくい、ということなので、もう一度要点だけ書いてみます。
健常者と比較することがどこまで有効な考えなのかをもう一度整理することが大事かと思うのです。健常者もしかりですが、普通、常識、一般的見方、当たり前、こうした言葉には注意が必要です。
何をもって健常者というのでしょうか?多数の人間を帰納したところに、そこいったい誰がいるというのでしょうか?
例えば、学力調査をして、今の学生の学力の程度を調べることがあります。そこで平均が出されます。だいたいの学力がわかります。自分の順位もわかります。
自分の順位が低いと自分の出来の悪さが露呈します。
そこで学力向上を目指すこともあるでしょう。しかし、学力の平均はその時のその調査の結果でしかないのです。その順位はその調査が有効な限りにおいてしか意味がないのです。その順位が人間の価値づけではないのです。その調査はたった一人の人間さえも明らかにできないのです。誰もその調査で人間を知ることはできない。人間の生きる希望や、生きがいは、何かの平均値から導き出せないのではないでしょうか。
とはいえ、われわれは周りの目を気にします。大多数に紛れていることが安心・安定につながるからです。それは否定できないでしょう。つまり、マジョリティの目線というやつです。ですが、この目線はあくまで大多数、そこに自分自身も含まれている何か、の目線なのです。個々人の目線は個々人の人生に即してあるのだと思います。誰もが、自分の目線とマジョリティの目線を持ち合わせているということです。このことを知っておくだけでも、何か受け止め方が変わることがあるのではと思います。