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テーマ自由小論文

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[0] ぼぶ 2007/05/23 23:31

・テーマは自由ってことで
・400〜800文字が読みやすいかと
・他人の反対論を書くのも面白いと思います
・少しでもなるほどと思わせれば良い小論文では無いでしょうか
・気まぐれなひとが面白そうなやつを書いてくれれば盛り上がるかも

14件のコメント 1番から14番を表示中

dat viwedatをダウンロード
[1] カンクロウ 2007/05/24 19:47

実例が欲しい・・・スレ主、どうぞ(^□^)ノ

[2] ぼぶ 2007/05/24 22:48

じゃあテーマは「壁」にします。
思いつきなんで期待しないで下さい(´・ω・)

[3] ぼぶ 2007/05/25 00:51

「壁」         ぼぶ

壁といわれて思いつくもの、それはこの地球上に存在する自然の摂理である。
人類が持つ欲求が自然の摂理によって妨げられるとき、その壁は出現する。
人類共通の敵であろうその壁は、常に我々に進化の可能性を与え、人類を繁栄
へと導いた。しかし、今我々人類は確実に衰退の一途を進んでしまっている。
 四億年前、デヴォン紀と呼ばれるその時代に、ダンクルオステウスという
淡水魚が生態系の頂点に立っていた。鱗が甲冑のように硬く、体長も5〜10
mあった。当時では世界最強の生物である。しかし、彼らは絶滅してしまった。
その原因の有力な説として食物連鎖のバランスの崩壊がある。増えすぎたので
ある。つまり彼らは、他に天敵が居ないのにもかかわらず、自ら環境を悪化させ
衰退していったのだ。
 人類も他人事ではない。どうすればよいのか。ダンクルオステウスの場合、
衰退の原因は自らの欲求を抑制できなかったことである。この部分を突き詰めて
考察する。
 欲求を抑制する機能を持つ機関を前頭葉という。人類の前頭葉の大きさは、
全ての生物の中で最も大きい。なぜここまで発達したのか。それは過去に地球
を支配し続けてきた生物達が、欲求を抑えきれずに衰退したからに他ならない。
我々の前頭葉は、そういった過去の生物達の克服する懸命な進化の賜物である。
つまり、人間は人間の人間による自律によってさらなる進化を遂げることが出来
るということなのである。
 人間の自律。それは、実はすでにこの社会に浸透している。宗教・法律・道徳
などである。しかし、衰退がさらに加速している以上、自律をさらに強めなけれ
ならない。たしかに息苦しいかもしれない。しかし、楽観視は危険である。なぜ
なら、かつて生物が一度も克服したことの無い壁が、確実に影響力を増しながら
立ちはだかっているからである。自滅という事態を逃れるには、自然の摂理に
より柔軟な秩序を築くべきなのである。  (約740文字)

〜あとがき〜
最初なんで力いれました。文は問題提起ー具体例ー考察ー結論という具合に
まとめました。こんな感じでどうかなぁ・・(- -;)

[4] カンクロウ 2007/05/25 18:36

「壁」 カンクロウ

壁と聞いて連想するのは、世代間の壁である。いわゆるジェネレーション・ギャップ。しかしこれは一体ナニモノなのか?と考えた時、その正体は案外掴めない。
ある話題を知らない事だろうか?なるほど、そう言う事かもしれない。たとえば流行のファッション、芸能人、映画。そういったブーム。しかし、それは世代間の壁と言えるだろうか?人は千差万別、誰でも知識の偏重はある。同世代だからと言って必ず話題が合うわけでも、精神の波長が合うわけでもない。もしもそうなら、同学年内でのいじめなど起ころうはずも無い。
という事は、その世代間の壁とは一体ナニモノか。
それは、「熱」では無かろうか、と考える。興味あるものに熱中する事を「熱を上げる」と言うが、これが世代によって形式が変わる。「熱」のタイプが変わるのだ。
たとえば小学生ぐらいなら興味の対象はごく近視眼的なおもちゃ、ゲーム類に集中する。自分の手が届き、自分が所有できるものだ。
中学生などの思春期になると、周囲との関わりなどが頭を占める。友人関係、部活、恋愛感情、家族関係、反抗期など。自分の精神の確立と共に、周囲との見解の相違や理解されないもどかしさで葛藤する。つまり、所有できない苛立ちを味わうわけだ。
そして高校やそれ以上になると、自分の将来や老後に対しての展望が現れ始め、歳を重ねるごとに妥協と諦観が精神に巣食うようになる。
こういった精神性(メンタリティ)の相違が、世代間の相互理解を妨げる「壁」となる。
子供は大人の「めんどくさい」考え方が理解できないし、大人は子供の「短絡的」な考え方にもどかしさを覚える。その、お互いの無理解が無形の壁となり世代間に横たわるわけだ。
ではその壁を突き破るのは何か?これは、論じるまでも無く明らかで、大人側が、かつて自分も体験した事のある刹那的な享楽主義である子供を認め、そして人として諌める事である。
「最近の若い奴は」と言う大人にはそれは期待できない。自分も若い頃に、大人からそう言われていた、見られていたと気付き、子供の視線から語れる大人こそが世代間の壁を突き破る鍵となる。

〜あとがき〜
(゚□゚;)<・・・なんだこれっ。 支離滅裂やなぁ・・・

[5] カンクロウ 2007/05/25 18:38

�(゚_゚;)<うわっ! ゴメン。 最後にまとめて改行しようと思ったら、忘れた・・・

[6] っ^∀^ っよたん元帥【桜】 2007/05/26 00:11

「無料」 よたん

無料サイトでこんなこというのも何だが、勿体ないよねw
小論文ってホントは金になるんだし。
随筆とかで無料で写真を見せてくれる人とかにも感謝感謝。

さて、本題に入りますが、無料を論理的に考えると、無い+料金 だと思う。
では料金とは何か。

辞書によると、

何かを使用または利用したことに対して支払う金銭。運輸機関では、運賃とは別に支払われる、グリーン車・寝台などの使用代金をいう。「電話—」「特急—」

という感じらしい。
運賃は料金では無いらしいぞ?
何か特別なことには特別な出費が嵩むわけだ。

ってことは無料とは何か特別なことに対して料金が掛からないということなんですよ実際。

かなりお得☆

え〜すっかり勘違いしてました。
無料って面白くも何ともないものだと思ってました。

面白いんですね実はw

[7] ぼぶ 2007/05/26 09:32

カンクロウさんくたんさん読みました!!カンクロウさんは世代間の壁で
くたんさんは無料の言葉の意味ですね。
いろいろ考えちゃいました(^o^)/
次はテーマ「学校」にしたんで投下しますw

[8] ぼぶ 2007/05/26 10:15


「学校」       ぼぶ

学校で部活ををすることに消極的な親がいる。この間、ある私立高校で特進クラス
を創設したという話を聞いた。他のクラスよりも一時間授業が多く、部活も禁止
なのだという。部活は勉強に不必要だという考えが根底にあるようだ。
 部活はは必要悪なのか。それは間違いである。確かに部活は勉強とはかけ
離れている。しかし、逆にいえば勉強とは違う部分を使っているとこが重要
なのである。
 アメリカの教育心理学者ゲーツは1日の脳の活動の波をグラフにまとめた
能率曲線を作った。これによれば、朝起きた7時を100%として10時には150%
まで上昇する。その後昼に100%まで落ちるが2時ごろに再び130%まであがり
4時ごろまでには100%を切ってしまう。あとは寝るまで下がり続けるのだ。つまり
夕方からの勉強は、昼とくらべて効率が悪い。しかしこれとは逆に夕方から
効率の上昇する分野がある。それは体の運動機能である。そこは夕方からスイッチ
が入る。つまり、脳の活動が低下する代わりに、運動分野の活動が活発になる
という仕組みである。これを勉強→部活という学校教育に当てはめると最も効率
の良いカリキュラムで組まれていることが分かる。逆に言えば部活を禁止にして
勉強を続ける方が損をしているということなのだ。
 部活をやらずに夜塾に通う子供が増えている。しかし本来学校とは、子供の
成長を第一に考えて作られているものである。早寝早起きをし朝食を食べてから
学校で授業を受け、部活で汗を流す。このサイクルは実は体のに最も効率の
良い生活なのだが、現代が発達するにつれ失われつつあるように見える。私達
はもっと、学校を信頼し身を委ねても損はないのではないだろうか。その第一歩
として、部活をやることをおすすめしたい。

[9] dog 2013/10/31 16:51 Ak/Vp1rW253

「銃」 dog

何年か前にアメリカに留学している日本人の高校生が、銃で撃たれて死亡したという事件があった。また2007年には、大学構内で史上最悪の犠牲者32人という銃乱射事件がが起きている。我々日本人には銃による凶悪事件が起きても、銃の規制を強化しようとしないアメリカ政府、議会や国民の考えは不可解にうつる。事件後、銃の販売高が増えたということを聞けばなおさらである。日本とアメリカではこれほど銃に対する意識が違うものかとの感が強い。
 
日本国民は世界に冠たる銃規制の国に住んでいる。日本の武器規制は豊臣秀吉による農民の刀狩に端を発する長い歴史がある。それは支配者のためであったが、武器規制に限って言えばそれが日本国民に幸いしたといえよう。
 
さて、アメリカである。個人の自由と権利を重視するアメリカは、人々が身を守るため銃を所持することは憲法で保障されている。国家権力の個人の権利への干渉を許さないという面からも、日本のような銃規制は不可能に近いと思われる。
 
アメリカ人の多くは身を持すために銃は必須であり、銃に対して信頼感と愛着を持っていると思えてならない。大学の乱射事件でも個々の学生が銃を持っていれば、これほど多数の犠牲者を出さずに済んだという見方があり、大学構内であっても学生の銃所持を認めるべきだという意見さえあるそうである。銃規制を強化するどころか銃の重要性を再確認しているということだろう。
 
開拓時代のアメリカでは銃が必要であったことは、西部劇の情景を考えれば容易に了解できる。そういう過去から続く現代アメリカ社会に銃をどう位置付けるかがアメリカの課題だろうが、門外漢の私などが指摘するまでもないことだろう。
 
現在の日本の銃や刀剣の規制は日本の長い歴史の中で醸成されたものである。アメリカにはアメリカの歴史がある。日本人が銃社会を許しているアメリカ人を批判するのは簡単なことでなないというのが実感である。

[10] 狗奴人 2013/12/22 14:14 Ak/FNIcQ57R

「外来語」  狗奴人
外来語を排除すれば現代の日本語は成り立たない。しかし、適切な言葉があるのに、わざわざ外国語に言い換えることには承服できない。テレビのクイズ番組で「最終の答えですか?」を「ファイナルアンサー?」と司会者は聞く。日本の番組でわざわざ外国語に言い換えなければならない理由は何だろうか。まあ、理由は想像がつくが文句のひとつも言いたくなる。「天気予報」を「ウェザーインフォメーション」と言うに至っては言葉もない。

言葉は相手に意味が通じなければ役割を果たさないことは今更言うまでもない。日本に住む、日本語で生活する人々のために放送する公共性の高いテレビ、ラジオが、人々がごく普通に使っている言葉を、わざわざ意味が理解できないか、あるいは理解に苦しむ外国語に言い換えるなどとうのは犯罪に近い。国民にj大きな影響力があり、その使命と責任があるテレビ、ラジオが知性のないミーハーに占領されている感がある。

いや、知識人にこそ問題があるのかも知れない。「ディスクロージャー」だの「クリエイティブ」などと、なぜ外国語を多用するのだろうか。マスメディアの場合多くの人々の理解を得ることが必須の条件だろう。さて、明治になって、学問や概念が欧米から移入されたが、それを「社会」「哲学」「会社」など、新しい言葉に言い換えた当時の知識人、鉄道の停車場を「ステーション」と言っていたものを、街道の宿駅の「駅」という言葉に言い換えた当時の人々、見事なものである。大いに見習うべきだろう。

[11] 狗奴人 2013/12/23 08:00 Ak/GUjkjTOZ

「国民にj大きな・・・」⇒「国民に大きな・・・」

[12] 狗奴人 2013/12/29 15:02 Ak/9xS550yX

「実像は」  狗奴人
普段我々が当たり前だと思っていることが、実際は違っていたということがある。激動の幕末へのきっかけになった「桜田門外の変」の当日、水戸浪士の大老襲撃の現場を近くの大名屋敷から目撃した藩士が、実際の斬り合いを見て想像していたものとの違いに驚いたという記録が残っている。大立ち回りではなく、鍔迫り合いに終始し襲撃後、現場には指や耳が散らばっていたそうである。こういう記録を見ると幕末動乱以前はごく少数の例を除いて、武士でも斬り合うなどということは、全くといっていい程なかったということだろう。

また、大正か昭和の初めの頃、幕末の動乱時代に少女時代を送ったお婆さんが、活動写真(映画)のチャンバラを見て「これは踊りで実際の斬り合いとは全く違う」と口癖のように言っていたそうである。身近にもある。私の祖母は山深い村ではなく、ごく普通の農村で育ったが、当時(明治の末)鶏や飼い兎をねらって狐が出没したそうである。幼かった祖母が夜、用を足そう外に出ると、闇に二つ青白く光るものがある。「狐だっ!」幼かった祖母の恐怖が聞いている我々子供にも伝わってきた。夜中に狐の遠吠えも聞いたことだろう。その祖母が「狐はコンコンと鳴くわけじゃないよ。本当はケーン、ケーンと鳴くんだよ」と教えてくれた。野生の狐を身近に知っている祖母の口調は事実を知る者だけに特有な断固としたものがあった。

私は箱根山中の険しい旧東海道を歩き通したことがある。昼なお薄暗く昔は山賊が出たということが、なる程とうなずける所もある。江戸時代に山賊が出たと信じている人も多いだろうが、江戸時代は現代とくらべて、治安が良く犯罪が少なかったことが明らかになっている。東海道は当時、日本第一の幹線道路である。山賊が出れば小田原藩、幕府が放っておくわけもない。乱世は別だが江戸時代の箱根の山賊などは荒唐無稽なお話や読み物の世界なのである。江戸時代の服装、風俗などを含めて、テレビ、映画の映像で我々が認識している江戸時代と実像とはかなり違うといっていいだろう。

[13] 名も無きザビラー@ザ掲示板 2015/11/20 23:34 SP/oiumNOz0

テーマ「自由」についての例文をお願いします。

[14] CC16 2016/01/10 09:26 JG/MEiBRTG2

 ほろ酔い

自由についてという注文があったが、難しすぎて手に負えない。似ても似つかないテーマだが、失礼ながら、ここでは「ほろ酔い」について述べる。

近頃は健康を考えて晩酌の量を制限している。二十歳前後の頃は、清酒だろうが洋酒だろうがどうでもよく、みんなと騒ぐのが面白くて酒を飲んだものである。スナックなどではみんなとカラオケで騒いだりしたが、今はひとりで飲むことが多くなった。ひとり酒といってもテレビドラマに出てくるバーのカウンターの隅で静かに飲む、という格好のいいものではない。

ひとり食堂やレストランで飲むのである。何故食堂かというと値段が安いこともあるが、バーやスナックのようにカウンターの向こうにママがいて相手をするのとは違って、冷酒と塩味の焼き鳥をテーブルに置けば、後は放って置かれるのがいいのである。誰に気を使うこともない。取りとめもないことを思い浮かべながらゆっくり飲むのがいい。
 
駅前のレストラン、食堂は駅の近くだけに出張のビジネスマンや旅行者が多い。そしてほとんどの人々が食事より酒を飲むほうに比重をおいている。その人たちの、自慢話や、上役の批判などを聞きながら、冷酒をちびちびやるのも悪くない。その人たちは無論、私とまったく関係がない。彼等にとっては店に置いてある狸の置物や植木鉢と同じで、近くにいる私などは眼中にないのである。

聞こえてくる話は大半がひとりよがりの言いたい放題の話である。その「俺が俺が」という自慢話が面白い。聞いていて思わずにやりとしてしまうこともある。自分にもそういうことがあった。「それにしてもここの焼き鳥は肉も固いし味もよくねえなあ」などと思いながら、ぐい飲みでぐびっとやる。ガラスの瓶に目をやると残り少ない。今度は冷奴でもう一本やるか。
 
そしてほろ酔いで家路につくのである。酒はほろ酔いでなければならない。店を出るとバスと乗用車が信号で長い列を作っている。通勤の人たちや旅行者らしき人々が行きかっている、急いでいる人もいれば、そうではない人もいる。何の変哲もない風景である。 

世の中は何の変哲もなく流れて行くのがいいのである。若い娘がきりっとした急ぎ足で追い抜いて行く。だが、私には急ぐ理由も必要もない。ほろ酔いというのは物事にとらわれないで、思考が澄んでいる状態でもある。いつもは雑念で気にも留めない風景が、その風景本来の姿をゆったりと見せていることに気がつくのである。何も疑わず、いらだたず、あるがままに周囲のものに浸りながら、ひょうひょうとうちに向かって脚を運ぶのである。それがほろ酔いというものなのである。

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