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仏教って間違ってない?

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[0] 夢幻塔【呪神】 2008/01/07 15:28

仏教って俺が考えても間違ってるとしか思えない所が多すぎるんだが。

930件のコメント 1番から930番を表示中

最新20件 dat viwedatをダウンロード
[1] 某國のイージス 2008/01/07 15:35

「弥勒菩薩さまは56億4千万年後に全ての人々を救済なさいます」などというメルヘンチックな教えをしているようです。
ドラえもんと同レベルのように思えます。

[2] トリップ 2008/01/08 02:04

メルヘンチックじゃない宗教って見たことないですけど

[3] *** 2008/01/11 20:35

法華経: 釈迦没後数百年後に創られた大乗経典。

主な内容としては、
大乗と小乗の対立を越えたところに統一的な真理があること(一乗妙法、いちじょうみょうほう)、
ブッダが永遠不滅の存在であること(久遠本仏、くおんほんぶつ)、
苦難を堪え忍び、慈悲の心をもって、利他の行に励むこと(菩薩行道、ぼさつぎょうどう)が説かれる。

『法華経』に特徴的なことは、『法華経』そのものへの「信仰」を説く点にある。
たとえば、常不軽菩薩品では、この経典を奉ずる人には幸福がおとずれ、非難する者には災難がふりかかると説く。
仏教ではこのような、経験も論証も不可能な独断は、「無記」として退けますが、
法華経ではそれらは退けられずに、受容されてしまっています。

http://sky.geocities.jp/sonnna_ahona4649/bkn.html

[4] 神霊研究家 2008/01/13 23:17

[1]某國のイージス さんんの論だと、密教=仏教て言っているなあ、、
東南アジア仏教、南方仏教だと、無我論しかないですけど。

[5] 某國のイージス 2008/01/15 16:02

>>4
高校が「仏教を中心とした宗教教育を行う」という方針の学校でした。
修養行事も毎朝の朝礼時の訓話もロクに聞いていませんでしたのであまり覚えていませんが、生徒手帳に>>1 のようなことが書いてあった記憶があります。
勘違いでしたらすみません。

[6] 美輪昭弘 2008/01/15 16:35

正しいとかが無いから。
国ごとに常識は違う。
殺人、人食で生きてきた民族もいる
エロマンガ島ってしまにいる。(現在は宣教師を食べた事で災難にみまわれ、人食いはしていない)
(冗談抜きで!発音が日本でそうなってしまうだけ)
検索してみな

[7] おめでたい 2008/01/19 10:38

>>1
それは釈迦の教えじゃなくて
釈迦没後5百年後に創作された法華経とかの御伽噺です。
御伽噺法華経を奉じる創価学会とかが典型的な例。

[8] 夢幻塔【R指定】 2008/01/20 16:30

>>6
いや、仏教は間違ってるでしょ。
それ以前に、日本の仏教を見たら確実に釈迦(=基地外)も切れそうじゃない?

[9] 夢幻塔【R指定】 2008/01/20 16:31

仏教という元々間違ってるものをさらに劣化コピーさせちゃってるんだからね。
日本人は。

[10] おめでたい 2008/01/20 16:42

>>8
否仏教よりあなたの方が遥かに間違ってると思うのだが。

[11] 夢幻塔【R指定】 2008/01/20 16:58

>>10
例えば輪廻転生。
何で現世で魂を育てるんだ?
始めから完璧な魂を作れば良いだけの話じゃないか。
キリスト教の死生観が明らかに正しい。

[12] トリップ 2008/01/20 20:05

間違ってない要素がない宗教を探すほうが大変な気が

>キリスト教の死生観が明らかに正しい。

牛乳拭いた

[13] トリップ 2008/01/20 20:07

>始めから完璧な魂を作れば良いだけの話じゃないか。

えーと、「誰」が魂作るの?
そもそも仏教にそんな概念ありましたっけ。

[14] ご隠居他人 2008/01/21 01:44

>仏教という元々間違ってるものをさらに劣化コピーさせちゃってるんだからね。

教えてよ。 仏教のどこが間違いだ?どうぞ。

[15] おめでたい 2008/01/21 12:37

>>11
ヒンズー教でも輪廻転生を説いてるが
仏教やヒンズー教が誕生する以前から
インドにおいては信じられていた。
また、元は同源の古代教(ユダヤ、キリスト、イスラム)において
輪廻転生の存在が説かれているという。

仏教では初めから永遠不滅の魂など説いていない。
仏陀に境涯を得た者(成仏者)は2度と娑婆世界に生まれてこない。
んで、キリスト教で地獄に落ちた者達は一体誰が何時救いにいくのかな〜?ww

[16] おめでたい 2008/01/21 12:40

私はキリスト教徒の生まれ変りですが、何か?

[17] おめでたい 2008/01/21 12:44

永遠の魂が地獄の無限業火に焼きつくされるキリスト教に〜
それこそ慈悲も救いもありゃしませんね〜?

[18] ぽーたー 2008/01/21 17:33

仏教も勿論ほかの宗教もよく知らないから、
間違ってても別にどうでもいい。

しかし、キリスト教(他でも一緒なのか?)の、
何事においても、あの上から目線的な価値観が、気持ち悪い

[19] 穴の中の庭 2008/01/21 20:40

>例えば輪廻転生。
>何で現世で魂を育てるんだ?
>始めから完璧な魂を作れば良いだけの話じゃないか。

ですから、犬は犬であって完璧。

アダムもそれで完璧。

だったのだが、

でもアダムたちはもっと上になりたいと、憧れている地点までを望んだ。

だから、その憧れた地点までいくのに、そこまでは未成熟ということに

なってしまった。

そして、仏にまではなれるようになった。メタモルフォーゼで。て感じでしょうかな。

神になったものがいるかはどうかはあまりいないと思う。ちょっとはいるかも…仏が時間も超越した場所で修行が出来るのなら
サイア人が修行した部屋みたいに、1分が数兆年に値する部屋とかもあるかもですからね。

[20] 美輪昭弘 2008/01/22 12:52

宗教やってる方へ言いたい。
発言があたかも目撃、体験したような言い方ですね。
そんな具体的なのを何処で体験されたのですか?
まさか、言葉の引用とはいいませんよね?

[21] おめでたい 2008/01/22 15:51

何言うとりまんねんあんさん?

[22] 闇モードのあんさん 2008/01/22 16:58

うんこうんこ

[23] 神霊研究家 2008/01/22 21:33

まあ、日本原始仏教研究では、輪廻転生は、仏陀は無回答だったという説をとっているなあ、

キリスト教、イスラム教ほど、思想が統一傾向に無いから、
批判も難しい、仏教は。

[24] 神霊研究家 2008/01/22 21:39

仏教の批判が、一番難しいだろうなあ、
特定の宗派に絞って批判しないと、批判にならないしね。

他の宗教の枠組みで、仏教を定義するのも無理があるだろうねえ、独特の論理哲学構造があるからねえ、信じるよりも論理、日本仏教以外は、その構造があるからね、信じる仏教は日本製だからね、浄土宗、真宗、日蓮宗、及び、新興宗教系、
厳密な批判をする場合、はね、

まあ、ただ、宗教被害の恨みの延長線上で、批判しまくるのは可能だけどね。

[25] 事事綿 事事綿 ♪♪ 2008/01/22 22:15

>>0

お釈迦様は、一般人相手とバラモンもしくは弟子とでは、
 まるで別な例えをして話していたようです。

 お経のその箇所は誰に言っているのか? が重要でしょう。

                         多分

[26] 諏訪 2008/01/23 02:30

ここに来るのも久しぶりだな…。

>始めから完璧な魂を作れば良いだけの話じゃないか
とりあえずお前が映画とか見てたら突っ込みが五月蝿い奴だということは分かった。

[27] 夢幻塔【R指定】 2008/01/26 15:22

>>12-13
じゃあ魂はどっから作られたの?

>>15

>また、元は同源の古代教(ユダヤ、キリスト、イスラム)において
輪廻転生の存在が説かれているという。

はw???
妄想ですかw???

>>17
悪人に慈悲や救いは必要ありませんがw。

>>19

>ですから、犬は犬であって完璧。
>アダムもそれで完璧。

全くもってその通りだよ。
だから「仏教の言う輪廻転生観」は間違い=仏教は間違いなんだよね。

[28] トリップ 2008/01/27 04:42

>じゃあ魂はどっから作られたの?

は?なんで「どっかから作られる」必要があるんスか?

>全くもってその通りだよ。
>だから「仏教の言う輪廻転生観」は間違い=仏教は間違いなんだよね。

ええと、とある一つの「宗教観」が出ただけで、「だから」と続き他宗教観を「間違い」とできる理由って何スカ?

[29] おめでたい 2008/01/27 13:09

>>27
そんなこともまじでしらんのか?あんさん。
ライアル・ワトソンの「人間死ぬとどうなる?」
の本でも読み直してから出直してきなさい〜。

カトリック教義にとって輪廻の観念など都合が悪いので削除されただけだな〜
仏教否定したいならば〜それ以前に妄想の神様の存在否定すれば
遥かに早く理に適うわけだね。

たとえどのような悪人でも仏心を持つと考えるのが仏教の教え。
そして因果応報論として、自ら悪行の結果は必ず自に返る説く。

どんなに普段は温厚で善人に思える人間でも
100人の人間が海に投げ出されて溺れそうだが〜
僅か5人しか救命ボートには乗れないという状況になれば
まったく全く人間の醜さ丸出しに〜
善因ぶったやるらも〜全員地獄行き〜www

[30] Mugentou - Version 1.0 2008/01/27 16:57

>>29

>たとえどのような悪人でも仏心を持つと考えるのが仏教の教え。
>そして因果応報論として、自ら悪行の結果は必ず自に返る説く。

これが釈迦とか言う基地外の妄想だろ。

つーか、こいつの発言

>んで、キリスト教で地獄に落ちた者達は一体誰が何時救いにいくのかな〜?ww
>永遠の魂が地獄の無限業火に焼きつくされるキリスト教に〜
>それこそ慈悲も救いもありゃしませんね〜?

地獄に堕ちた魂に救いが必要とか思ってる時点で馬鹿だろw

[31] 2008/01/27 17:18

人間だって馬鹿じゃなーい。おかしな宗教だったらとっくに淘汰

されてるし、2500年も続くはずがなーい。そこらへん考えて

ものいってるー?

[32] おめでたい 2008/01/27 17:51

>>30
わざわざ自分の基地外を説明する必要一切無し。
まあ馬鹿が沢山いるには仕方がないが〜
此処までの馬鹿は神も仏も救いいうが無いから心配するな〜呆け

お前みたいに自分を善人だと勘違いしている悪人こそが〜
何よりたちが悪いから地獄に落ちでも決して気が付かないないwww
もしかして天国にでも行けるつもりで居るのかい?
君のような愚か者地獄に落ちてどうなろうと〜
それこそ自業自得というものだと知りがよい愚者よ〜!!

[33] おめでたい 2008/01/27 17:53

>>30
しかし此処まで無知で愚かなら一度地獄に落ち苦しまないと駄目だな〜wwww

[34] おめでたい 2008/01/27 17:56

少し救いがある人間ならば〜
仏教がどうのこうの言う以前に
神や地獄など人間が想像した妄想の産物と書くところだな。

[35] トリップ 2008/01/27 18:58

>これが釈迦とか言う基地外の妄想だろ。

いや別に、釈迦が基地外でも思想が妄想でも、そういう信仰が生まれ、実際にそれが伝わったことに何か問題が?
だって、これ、「宗教」っすよ?
その点において、キリスト教となんか違うんすか?

>地獄に堕ちた魂に救いが必要とか思ってる時点で馬鹿だろw

ええと、「何故」?
「地獄に堕ちた魂に救いは必要ない」とか思ってる時点で馬鹿だろw、という意見との差は何スカ?

[36] 2008/01/27 19:53

まあ おめでたい は知識はあるけど、常識がないってのの典型だね

ー。批判はともかく、人が言ってもいないことを妄想してけなすのは

愚かなことでしょう。

[37] おめでたい 2008/01/28 10:46

>>36 さん

まず先に>>30 読んでから言ってくださいな。
>>釈迦とか言う基地外の妄想だろ。>>

自分は別に神仏の存在を否定する立場にありませんから。
このレベルに対応して書けば神も地獄も妄想だと〜
言いたい人すら居るであろうという意味ですよ。

[38] 2008/01/28 15:13

そいつは失礼〜。

[39] 2008/01/28 16:07

>>0
仏教が間違いなら、この世は闇ですね。
人の道を説いたのが仏教だと思ってましたが・・・
宗派の独自の教えは問題としませんが、仏教で一括りは
どうですかね。

[40] 2008/01/28 16:43

仏教、、、キリスト教もそうだと思いますが、
本来の釈迦、イエスの教えの根幹が、長年の間に歪曲しているのではないかと感じます。
ここで間違いだと指摘されている部分は、後年付け加えられた内容ではないかと思います。

ひとつの考察として、
本来教義について、釈迦もイエスも明文化しておりませんが、
後年、弟子が明文化する必要が起きた時代というのは、その宗教が、他宗教に押され危機意識を持っている時代でもあろうと思います。
その時代にあっては、誇大に作成した可能性も十分考えられます。

本来の釈迦もイエスも、特に釈迦については、現在伝えられている以上に謙虚で、
その教えも、現在、荒唐無稽と思えるような部分の発言はなかったのではないか、
と考えております。

[41] ナハ 2008/01/28 18:46

>本来の釈迦、イエスの教えの根幹が、長年の間に歪曲しているのではないかと感じます。

してますね。大乗仏教は営利商売ですし。ただ聖書はすでに破綻してますね。
異教徒の殺人命令さえありますから。

[42] Mugentou - Version 1.0 2008/02/03 16:14

>>35

>いや別に、釈迦が基地外でも思想が妄想でも、そういう信仰が生まれ、実際にそれが伝わったことに何か問題が?
>だって、これ、「宗教」っすよ?
>その点において、キリスト教となんか違うんすか?

キリスト教は、この世では実証できないけど、真実を言ってるじゃん。
仏教は気違いがした妄想じゃん。
そこの違いね。

>ええと、「何故」?
>「地獄に堕ちた魂に救いは必要ない」とか思ってる時点で馬鹿だろw、という意見との差は何スカ?

そもそも、「地獄に堕ちた魂に救いが必要」ってのは何が根拠なの?

[43] トリップ 2008/02/03 16:47

>キリスト教は、この世では実証できないけど、真実を言ってるじゃん。
>仏教は気違いがした妄想じゃん。
>そこの違いね。


いやあの。片方を真実で片方を妄想って、「貴方」が言っている以外に、どういう違いが?

>そもそも、「地獄に堕ちた魂に救いが必要」ってのは何が根拠なの?

へ?「地獄に堕ちた魂に救いが必要ない」ってのは、信仰として、宗教の設定として以外に、なにか「根拠」があるんすか?

[44] Mugentou - Version 1.0 2008/02/03 17:24

>>43
どうって、仏教とキリスト教がどう共通してるの?

>へ?「地獄に堕ちた魂に救いが必要ない」ってのは、信仰として、宗教の設定として以外に、なにか「根拠」があるんすか?

キリスト教では地獄に落ちた魂は救われませんが。

[45] トリップ 2008/02/03 19:11

>どうって、仏教とキリスト教がどう共通してるの?

仏教とキリスト教が「どう」共通してるか、って話はしてません。

「キリスト教が真実」で、「仏教が妄想」だというのは、いったいどんな「違い」によって決められているかって話なんですが。
そんで、今のところ「貴方」が勝手にそう言っているだけですね?って言ってます。

>キリスト教では地獄に落ちた魂は救われませんが。

はあ。…えーと。
それが、私の質問としての答えに何の意味が?
例えキリスト教『では』そうであったとしても、それが仏教『でも』そうである必要は何もありませんが。

[46] ロウア 2008/02/03 22:26

キリスト教が正しいとか仏教が間違いとかは単なるエゴでしか無いな
どちらの宗教にも関係無い人に取っては「どっちもどっち」「同じ穴のムジナ」にしかならない

[47] ザック 讖 2008/02/04 12:30

どうも仏教批判 キリスト支持 する人は輪廻転生を持ち出すね〜〜

だいたい 輪廻転生って古代インド思想なんだけどな〜
で、キリストもニケーア公会議までは 輪廻転生を説かれていた説は わりかた有力なはずだが
でもって、ネストリウス派はいまでも輪廻転生を支持していたと聞いた事もあるしな〜

もしかして スレ主さんは 釈迦は輪廻転生は すばらいい!!!!等と説いているとでも思っているのかな?

[48] おめでたい 2008/02/04 17:42

>>42
そもそも神様に人間が地獄に落とされるなんて発想自体が〜
御伽噺そのものに思ったりしないのだろうか?
地獄に落ちる奴は自らの重みで自ら勝手に沈んでゆくのみだ〜
(勿論、地獄というものが存在するのだという仮定においてだがww)

[49] ハンザキ 2008/02/04 20:41

「地獄とは神の不在なり」とは聖書の言葉です。

つまり、キリスト教に置ける地獄は「落ちる」場所ではなく「堕ちる」状態を言うんです。

なんだ、仏教の説く地獄とおんなじじゃ〜ん。

[50] おめでたい 2008/02/05 13:20

落ちると堕ちるはどういう違いなのかな?
神様が地獄に落とすんじゃなくて〜
やっぱぱり〜自らの業の重さで勝手に堕ちちゃう訳やね。

ちなみに仏教では人を殺して地獄に堕ち自苦にもがいても〜
再び生まれ変ってきて救われるチャンスがあるという事になっている。
釈迦の十大弟子の一人は修行による成仏を得た後でさえ
前世に人を殺した業の為に、他人によって殺されてしまう話は有名。

よく人が生きてる現在を生き地獄なんて言うから面白いやね〜ww

[51] ロウア 2008/02/05 15:22

「地獄に落ちろ」
某漫画で、主人公が悪人を殺した時の決め台詞ですね

は、置いといて
「落ちる」は客観的
「堕ちる」は主観的な表現ではと思ってます

[52] 匿名希望 2008/02/05 18:47

ロウアさん、なかなかやりますね。

[53] キリスト教打撃! 2008/02/06 10:20

まあ、仏教は、輪廻がおかしいと言う力説だが、
キリスト教(ギリシャ正教系はのぞく)も、カトリック、プロテスタントも1750年ぐらいまで、マジで魔女の存在を信じ、魔女裁判と拷問していたらしいが、

仏教でも、輪廻批判が通らないのが、あってね、

それは、禅。

禅仏教は、死後は語らず、無解答でね。

フランスでは、キリスト教を圧倒しているしね、
フランス語で、禅(ZEN)はかっこいい、クールという意味で使われるほど、流通している。

キリスト教コリコリ君の主張は崩壊するわけね。

[44]Mugentou - Version 1.0 殿、

敗北ですな。

[54] ダイナマイト 2008/02/11 15:22

奇跡宗教のキリスト教が論理宗教仏教を批判する構図にそもそもの無理があるな。

[55] 金太郎飴 2008/02/15 01:56

ここでも暴言塔(宇宙軍)は敗北か〜(笑)
仏教を語るならせめてお経の一本ぐらいは勉強してから出直しな

[56] 雲水。 2008/02/16 14:34

<奇跡宗教のキリスト教が論理宗教仏教を批判する構図にそもそもの無理があるな。

_____失礼致します、はじめてのもです。
いずれの宗教も元来生活そのものから生まれたもので
あって論理でもなく言葉の表現の処にもないのであります。
宗教は日常生活の営みに於いて在るのであり、言葉でも
論理でもないわけであります。
従って、宗教を論理的形式でもって批判すると言うことが
誤りの始まりであると思います。
キリスト教も仏教も言葉の表現は異なるように見えますが
宗教は生活そのもから見れば、いずれも共通する処が在ると
思いますが如何でしょうか。

[57] トリップ 2008/02/16 15:25

>従って、宗教を論理的形式でもって批判すると言うことが
誤りの始まりであると思います。

そだよ。だって、それが「信仰」なんだから。
ただし、それを認めるならば、
「宗教を論理的形式で持って賛同、賛美するということも誤りの始まり」
であることをうけいれなくちゃならない。

[58] 未熟な存在 2008/02/16 18:57

すべての宗教に真実の欠片が包含されています。
そして、完全なる訓えはこの世に存在しません。
なぜなら人間は皆不完全であり、完全なる神の意図を完全に理解できるということは人間のうぬぼれです。
死後にも人間は生き続けます。
特別な人間は一人として居りません。
http://nun.nu/members3.jcom.home.ne.jp/myload-spirit/:90:56:8b:4b:83:74:83:40:83:43:83:8b.html

[59] PANISYA 2008/02/16 18:58

同じ事書きすぎやw

[60] ロウア 2008/02/17 00:10

>>58

「死後も生き続けます」

表現おかしくないか…
「死んだら霊魂になって存在し続けます」って言うなら肯定的に表現としては正しいけど…
死後も生き続けていたら映画のゾンビやジェイソン、ドラキュラみたいな存在になるんでないかい?

[61] ハンザキ 2008/02/17 00:49

「死後も生き続けます(あなたの心に)」

の含意だとロマンチックなんですけどねぇ。

[62] PANISYA 2008/02/17 09:19

デスノートでも言ってたよね。
「天国も地獄も存在しない、生前何をしたって死んだ奴の逝く所は同じ
 死んだ後にあるのは、「無」だってね。

確かにな、その通りだ。ならば、
「死んだら別の生物、または人間になって生まれ変わる」という説は
どこから沸いてでたんだ?

[63] ハンザキ 2008/02/17 17:04

女の腹からです。

[64] 雲水。 2008/02/18 12:15

どこから沸いてでたんだ?

_____人間は、どこまでも生きたいという思想
からだと思う。

[65] ダイナマイト 2008/02/22 00:19

[56]雲水。 08/02/16 14:34 cC9azd2.5kさんの言いたい事は解らんでもないけど、

これは、対キリスト教唯一主義の相手の思考方向に合わせて書いたモノでして、

ま、本格的禅的ノリで行けば、そういう感じなんでしょうけども、

[66] ダイナマイト 2008/02/22 00:22

されど、、インド中論仏教は、バラモン教相手に、クソ真面目に論理的に論戦していると言う側面もあって、
中論でも、論理的に説明できない派と、論理的に説明できる派があったらしい。

[67] 田中 2008/02/22 12:51

チンパンジーに因数分解教えるのは無理ですねp(^^)q

[68] ハンザキ 2008/02/23 17:23

そうでもないです。
言語を持ち、数学を解するチンパンジーも何頭かいますよ。

[69] oraora 2008/02/24 22:37

http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1187649032/l50

[70] まねー 2008/02/27 23:24

moもももも

[71] オムライス 2008/02/28 17:25

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

[72] おももも 2008/03/05 23:39

koももももも

[73] PANISYA 2008/03/11 20:09

   age

[74] 我が最愛なるアリカ様 By.夢 2008/03/30 17:37

>奇跡宗教のキリスト教が論理宗教仏教を批判する構図にそもそもの無理があるな。

キリスト教は現実に奇跡を起こして見せてるじゃん。
その時点でキリスト教は「真実」。
一方の仏教は、一人の気違いが考えた妄想。
それは、「真実」であるキリスト教と教義が全く違うことでも明らか。

[75] ハンザキ 2008/03/30 20:07

>それは、「真実」であるキリスト教と教義が全く違うことでも明らか。

そらそうです。仏教は基本的に「現実」を扱う宗教ですし。

[76] そもさん 2008/03/30 21:05

>>74 奇跡は異教徒からみれば、悪魔の仕業でしょう。
>>75 「現実」を扱う宗教とは、どういう意味でしょうか?

[77] t** 2008/03/31 10:23

>>10

[78] れっつらごー 2008/03/31 15:13

694 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2008/03/27(木) 21:07:24 ID:cr5T5qRo
>>610  いいことを教えて貰ったのう。えらいものじゃ。

>>611  そうじゃ、頑張り過ぎない位に頑張るのじゃ。

>>631  輪廻があっても、無くても、良い事をすれば現世でも良い報いがあるじゃろう。良い事をたくさんするのじゃ。
 そうすれば福楽は自ずからやってくるじゃろう。

>>640  そうじゃ、欲を離れれば喜びが生じる。

>>648 ->>653  そうじゃ、ダンマパダを読め。

>>654  むしろ無いからじゃ。もっと萎えるのじゃ。わっはっはっは。

>>660  むしろもっと見るのじゃ。わっはっは。

>>662  わしが悟っていると判るのは賢者だけなのじゃ。むしろ賢者が必要なのじゃ。

[79] H 2008/03/31 18:10

仏教には利己はあっても利他はありません
正直な宗教なのです

[80] ハンザキ 2008/03/31 18:11

>>76
>「現実」を扱う宗教とは、どういう意味でしょうか?

本来、仏教は非現実的な「奇跡」など持ち出す必要の無い宗教だ、という意味です。
(まぁ、キリスト教も仏教も伝播、拡散してゆくに従って混沌の度合いが増し、
多くの部分でただの御利益宗教に成り下がってる感はありますけどね)

あ、そうはいっても私、別に御利益宗教を蔑むつもりもありませんよ。

[81] H 2008/03/31 19:20

仏教はファッションでいい

穏やかで、平和主義の、どちらかといえば菜食中心といったような

スタイル中心の

[82] 精巣のアクメリオン 2008/03/31 21:13

1万円と2千円前から借りている〜〜〜

[83] 隠者 2008/04/02 21:15

閻魔
将軍
イギリス
唐獅子

死神

麒麟(青)
殆ど使わずに捨てた服だし現実の世界の技術で
代替できるけれど閻魔と現代の将どちらが偉いんでしょ

[84] 仏法僧 2008/04/04 08:18

仏教は間違っていないが、解釈が間違っている。

[85] T、T 2008/04/04 12:04

]仏法僧 08/04/04 08:18 HlZu12G5Jy
仏教は間違っていないが、解釈が間違っている。

_____その通りです。間違いありません。
間違いは、降る雨のように多い。

[86] 隠者 2008/04/04 22:10

『薬を使わないで病気を治す法』知的生き方文庫お勧めします。
心当たりの方へ。

[87] デカイマラ第69世 2008/04/05 09:25

おっぱいもんでねんねして〜

[88] 爆乳大天使大量潮吹き 2008/04/12 19:11

いやあああああ、そこには入れないでええええええ

[89] Dt・無ノー 2008/04/22 08:46

 人間自体が劣化したスレ・・・。

 人はおまいを信用せんと仏教を信用すんだお。

 まあ、どうしたらそういう結論になって、恥ずかしくもなく口に出来るかねー?

 オウムも以上だが、こういったやつしか育てられん環境が低層民だわな。

 精神の豊かさが標準したバランスが全くない。

 相手にもできんわ。

 気分と勢いだけでようもっとるなあ・・・感心する。

 のうみそ鍛えとときなーぁ。たのむで

[90] mu 2008/04/22 15:46

187 :鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2008/04/20(日) 22:31:48 ID:xJMWTjVy
>>144 わしが導く者は全て幸福になり、完全にして正しい悟りを得る者も多く居るじゃろう。
 何故ならわしは善い事をすれば善い報いがあり、悪い事をすれば悪い報いがあると、正しい教えを語ったからじゃ。
 そして、自ら悟りを得て、お釈迦様の教えられた正しい悟りに導く止観の法を教えたすらじゃ。
 わしの教えの通り善事を行う者は幸福になり、修行する者は悟りを得るじゃろう。
 彼らの心配は無用じゃ。

[91] 邪法 2008/04/22 19:18

>『薬を使わないで病気を治す法』知的生き方文庫お勧めします。

またまたそういうやつに限って 死に際には使うんだな薬。

[92] T、T 2008/04/24 10:14

>またまたそういうやつに限って 死に際には使うんだな薬

____そうして、治す薬の無い事を悟ると、「死の恐怖」に
陥り、狂うか、食事がとれずに無限の点滴から死への道えと。
人は生あると思うときには、死を弄び、死に際には、生きようと
もがき苦しむようだ。

[93] いやああ、そこには入れないでええ 2008/05/02 20:23

いやああ、そこには入れないでええ

[94] 2008/05/06 14:47

『スレッド常連』Ver.7.0

○鬼和尚・・・鬼和尚 教祖的人物
○里中美子・・・携帯厨。20代ママ
○ハルカ・・・帰ってこいハルカちゃん 、暴れん坊ハルカちゃん
○大王・・・三昧おたく
○承狂・・・歩く教典 、実は、キリスト教徒おちょくるのが好き。
○なにわっこ娘・・・やたら早起き
○音響・・・理屈っぽい 、クール過ぎる、
○キンキ鬼ッズ・・・牛乳のんでサマタ 、鬼和尚の愛人
○ゴンガラ・・・ゲーマー
○ランプ屋・・・一般常識人
○偽和尚・・・スレ遅番
○ゼロ・・・優しそう,鬼和尚厚遇者
○ぽらりす・・・主婦
○ASIMO・・・情緒不安定
○紙とふぐをもっと! ・・・ぽったん、あは 、禅人間から攻撃受ける
○龍賢・・・前世は公務員、鬼和尚病的親衛隊隊長
○凡・・・真夜中のお説教 、以外にまともである。
○紙風船・・・日経平均観察中
○八祖慧糸・・・八祖ちゃん、道徳屋精神 主義
○101匹・・・PCがアク禁
○オカルてすと・・・神話に隠された暗号を解読するゥ!
○茶店の隠居・・・ぽったんの友達、争いが嫌いなんだろう、でも人によっては、
○すもも・・・女社長
○Ron・・・ウヒャヒャヒャ、天才だ思う、
○然り俺はすぐに・・・龍賢マニア

その他たくさんの「神も仏も名無しさん」達

[95] DVD 2008/05/08 22:04

>>0
完全な宗教なんてないよ。
科学ですら完全ではないんだから

[96] T、T 2008/05/10 07:17

>完全な宗教なんてないよ。
>科学ですら完全ではないんだから

その宗教と科学が絶対の矛盾的自己同一の
処が完全です。

[97] 夢幻塔【呪神】 2008/05/11 16:08

>>75
それは仏教の言う「現は幻」って所か?

>>79
はぁ?
じゃあ何で僧侶は禁欲的に生きることになってんの?

[98] T、T 2008/05/12 13:16

>それは仏教の言う「現は幻」って所か?

現がそのまま幻ではない。理性だけで見る世界が
幻と言われる。

>じゃあ何で僧侶は禁欲的に生きることになってんの?

必ず「禁欲的に生きる」と言う事にはなっていないようだ。
偉大な宗教家、アウグステイヌス、親鸞聖人等は、妻帯者
であった。

[99] 金太郎飴 2008/05/12 23:28

>現がそのまま幻ではない。理性だけで見る世界が
幻と言われる。

上手いっ!
T、T 氏に3000点!!

[100] 吟河鉄道 2008/05/13 12:47

スレ主さんの主旨とスレの流れからすると
「仏教の扱いって間違ってない?」
というスレのように思われます。
「キリスト教の扱いって間違ってない?」
にも共通しそうですが、、、

同意です!!

[101] 夢幻塔【呪神】 2008/05/13 17:31

>>98
理性で見る世界って、それは普通の人間から見た人間界じゃん。
ま、座禅のし過ぎで幻覚が見えるようになった坊さんにとっては違うのかもしれないけど。

[102] 夢幻塔【呪神】 2008/05/13 17:33

>>100
簡単な三段論法な。

1、この世界にある宗教はそれぞれ教義が異なる
2、これらの内、どれか一つが真実である

3、真実ではない宗教は完全な間違いである

[103] 夢幻塔【呪神】 2008/05/13 17:34

つーか、日本の仏教って、神道とかの概念が混じってるから。
釈迦が仏教を思いついた当時のものとは全く違うだろ。
それをゴチャゴチャとぬかす>>99 は馬鹿だとしか言いようが無い。

[104] トリップ 2008/05/14 02:58

>>102
1、この世界にある宗教はそれぞれ教義が異なる
2、これらの内、どれか一つが真実である
3、真実ではない宗教は完全な間違いである

2がダウトです。

「今のところ全部間違っている」
とか
「そもそも宗教的な教義に絶対的真実は存在しえない」
とかもあるんで

[105] 夢幻塔【呪神】 2008/05/14 16:39

>>104
少なくとも、日本の仏教は間違い確定でしょ?

[106] T、T 2008/05/15 12:45

>「そもそも宗教的な教義に絶対的真実は存在しえない」
>とかもあるんで

教義は,その途を指し示すだけで、そのもの自体ではないから
如何に、書物を読破しても、教義に通じても、絶対的真実を
そこに求めては結論はでません。却って、真実を見誤ります。
絶対的真実は、求める人の手元にあります。
従って、教義に在るのではなく、貴方自身に在るものです。
故に、仏教は本来在る処に戻れと言う教えです。

[107] 夢幻塔【呪神】 2008/05/15 14:59

>>106
それにしても自己矛盾じゃん。
そもそも、修行をして解脱するのが仏教の目的だろ?
「死んだら誰でも解脱できる」んだったら、釈迦の悟りは何だったんだよw って話じゃない?

[108] ::: 2008/05/15 15:58

皆様。仏教とキリスト教は 相容れません。水と油です。 w

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/4145/1210417061/

仏教は、いまやだいぶ変遷しましたね。 どさくさにまぎれて創価のようなのも多い。

[109] ミラー 2008/05/15 16:15

てか、宗教に間違ってるとか正しいとかあるのかな…
信じるか、信じないかの問題だと思う…

[110] 夢幻塔【呪神】 2008/05/15 16:47

>>109
創価学会のどこが正しいんだ?

[111] トリップ 2008/05/16 04:21

>>105
>少なくとも、日本の仏教は間違い確定でしょ?

前も聞いたけど、だからなんで?
元となった宗教とは異なる部分がある、という意味ならともかく、
「その宗教が間違っている」かどうか、どうやってわかるんですか?

科学的事実とあわないって意味であれば、私の知る限り、「正しい宗教」なんて見たことないですし。

それって、「現代のキリスト教」は間違い確定でしょ?ってのと同じっしょ?

>>110
どこが間違ってるんですか?
いや私、アンチ創価なんですけどw

[112] T、T 2008/05/16 08:06

>それにしても自己矛盾じゃん

言葉からの理解は自己矛盾に陥る。
しかし、ここに悩みがあり、また楽しみがある。

>「死んだら誰でも解脱できる」んだったら、

「死んだら誰でも解脱できる」?
死んだけでは駄目で、そこに蘇りと言う逆転の
生き還りが必要ですが。

[113] T、T 2008/05/16 08:12

>信じるか、信じないかの問題だと思う…

いや、宗教は信じるとか、信じないとかの問題でなく
生き生きとして働いていて「在る」ものです。

[114] ハンザキ 2008/05/16 08:27

>>112
>死んだけでは駄目で、そこに蘇りと言う逆転の生き還りが必要ですが。

それじゃ「解脱」じゃないス。

[115] Evrard rose de la fage 2008/05/16 11:00

>>111
「どこが間違ってるの?」は悪魔の証明だろ。
「どこが正しいの?」から推測するしかないだろ。

>>112
は?
日本の仏教では死んだ人間はそれによって成仏するんでしょ?

[116] 銀河鉄道 2008/05/16 13:31

根本に「真理」がある。真理は高邁現象であり本質的に「論理」「道理」の介入はない。
然し人間の真理究明伝播には、一論証方便として「論理」「道理」が不可欠となる。
結果生じる誤謬は、形而上宗教、形而下哲学間の確執並びに形而上の論拠の脆弱性から信仰せざる事の根拠となり得ず
信仰は、理想と利徳要求から合理的不当解釈を招くことになる。
合理的不当解釈は現実的に歴史的史実の埋没のために、確証不能を余儀なくされている。
現代の宗教はこの礎の上にあると言える。

[117] ミラー 2008/05/16 14:35

>>110
あれは組織の在り方が間違っている。

信じて高い壺を買わされるにしても強制していないのなら問題は無かったろうし、集団ストーカーと言われる様な行為があるのは問題だ。

[118] Evrard rose de la fage 2008/05/16 16:35

>>117
俺は、「被害者」とやらについては、騙される方が悪いと思ってるけどね。
あれって、カルトに引っかかる馬鹿の自業自得でしょ?
ただ、その上層部に何の咎もないのが耐えられないだけで。

[119] あちょー 2008/05/16 23:19

日本国憲法
あちょー検 索列!
そういえば、憲法違反宗教は毎年、毎年、堂々と証拠隠滅イベントを行っている。
皆も良く参加しているね。
参加させられているのか?

[120] 金太郎飴 2008/05/17 00:53

>>103
そう怒るな、腹が立ってるならあやまるから
本当は君がもうすこし大人になってからちゃんと話そうかと思っていた
前から気になっていたのだが君は誰かに言わされているような気がする
アチコチの掲示板に書き込んである君の言葉はオヤジ臭いというか
昔の過激派くずれの友人の酔った時の話とラップする
君の本心から出た言葉とは思えない

仏教はインドから発祥し長い年月と道程を経て、
ようやく日本で花が咲いたと思うのだが

しかし勘違い大杉だし・・・
>>107
>そもそも、修行をして解脱するのが仏教の目的だろ?
誰もが解脱を目指している訳ではない
てか全ての煩悩を断ち切って解脱するなんて普通に無理だって!

>「死んだら誰でも解脱できる」んだったら、・・・
誰もそんな事、言ってないじゃん

>>115
>日本の仏教では死んだ人間はそれによって成仏するんでしょ?
仏教だって死んだだけじゃ成仏できず、
本来はちゃんと修行を積んで「解脱した人だけが成仏」できる

しかし一般的には仏様の弟子になった時点で成仏したと解釈する
簡単に言えば僧侶の導きで仏様に弟子入りするのが葬式で普通の人はコレ

仏教の目的とは正しい道(真理)を求める事
道はどこにも書いて有りません
それは自分で探すのです

[121] 金太郎飴 2008/05/17 00:54

>>116 吟さん銀さん(笑)
あらら・・・こんなところで油売ってるし・・・

先日、修羅場の場面(多量の鮮血と足跡)見えましたので
ココに来てみましたがこの先どうなる事やら・・・

[122] 隠者 2008/05/17 11:47

インドのりょうじゅせんという高台で釈迦が死ぬ前にといたのが
法華経。それを現代的に法人化したのがSGI創価学会。
まあ宗教自体が人身掌握的側面があるのは事実なので
信仰は自由ですが、法華経を釈迦が死ぬ前に解いたのは事実。
興味があればお調べください。Evrard rose de la fage へ。

[123] ハンザキ 2008/05/17 20:54

>>122
>法華経を釈迦が死ぬ前に解いたのは事実。

おいおい(笑)

[124] キンチョール 2008/05/17 21:33

法華経って創作物語なんだよね。

[125] 隠者 2008/05/17 22:24

あーそうなん、説明間違いごめん

[126] キンチョール 2008/05/17 23:47

法華経って糞面白いよね。

[127] 黒玉 2008/05/18 01:46

時代が変われば、宗教も変わる。
どんなに良い宗教だって、受け継ぐ世代が変われば、腐ってくもんさ。
キリスト教が良い例だろ。
一神教のくせに、悪魔って神に逆らうんだぜ。

[128] T、T 2008/05/18 07:51

>てか全ての煩悩を断ち切って解脱するなんて普通に無理だって

煩悩を断ち切って解脱するのではありません。
煩悩が即解脱です。

[129] タラちゃん 2008/05/19 00:45

>煩悩が即解脱です。
イミがわ〜からないで〜しゅ
ボクにもわかるようにおしえてくださいでしゅ〜

[130] トリップ 2008/05/19 01:46

>>115
>「どこが間違ってるの?」は悪魔の証明だろ。

悪魔の証明は、「ない」ことの証明に対するアンチテーゼでっせ。

>「どこが正しいの?」から推測するしかないだろ。

そのとおり。「正しい」「間違い」があるのであれば、「正しい」ものと比較すればいいんです。
でも、「正しい」「間違い」ってわからないし、そもそもあるかどうかもわからない、と。
つまり、「創価学会が正しいか間違っているか」は「確定」してないんです。
創価に限らず、仏教もキリスト教もですけど。

[131] T、T 2008/05/19 10:16

129]タラちゃん 08/05/19 00:45 n/bxbyeQyS
>煩悩が即解脱です。
イミがわ〜からないで〜しゅ
ボクにもわかるようにおしえてくださいでしゅ

煩悩がそのままで解脱と言う事ですが。
仏教の教えは、煩悩が他のものに変化して解脱すると言う事では
ありません。
そこで、そのまま(あるがまま)は普通云われる、「そのまま」ではなくして、仏教の言う「そのまま」は、そのままでない処を通過した処の「そのまま」です。
「そのままでないそのまま(逆説)」は、仏教修業しなければ解かりません。

一般的論理、或いは言葉で持って説明が出来ないものです。、
言葉で持って説明いたしますと、仏教用語、或いは、経典、聖書等は、言語道断、心行所滅という根源の領域が含まれておりますから
普通の言葉、論理で理解しようとなされますと自己矛盾に陥ります。何故か。
仏教用語、或いは、経典、聖書等は、言葉の生じる前の根源から
言葉の領域に出てくる過程で理解されるもので、その逆の、言葉の
理解、論理の合理化された処から言葉の生じる前の根源は理解不可能と言う事です。
ここで或る種の修業が必要とされるわけです。
従って、修業されていない方が仏教用語、或いは、経典、聖書等を理解しょうとされますと、不可能を可能にと言う問題により、論語読みの論語知らずに陥るか、自己矛盾、錯誤に陥ると言う事です。

仏教用語の意味が「わかる」には修業が必要です、

[132] 神もろもろいますぇん 2008/05/19 21:47

仏教も宗教全般くそ食らえです。

[133] 神もろもろいますぇん 2008/05/19 21:48

宗教やってるやつ頭かたいよ!

[134] ハンザキ 2008/05/19 22:00

>>129
ええと、>>131 を解りやすく説明しますと、
「『人は煩悩を持ってるもんだ』と気付ければそれでええねん」って事です(笑)

なにも難しい用語を用いなくても平〜気。

[135] 陽明学徒 2008/05/19 23:11

> 仏教が間違いなら、この世は闇ですね。
> 人の道を説いたのが仏教だと思ってましたが・・・

仏教は間違っています。
家族、社会を捨てて現実社会から逃避するのが仏教の教えです。

人の道を説いたのは、至聖先師、孔夫子であり、
論語にこそ人の道が説かれています。
そして、孔夫子の思想を進化発展させた孟子、王陽明の教えこそ
現実社会を改革し、より良き未来を作るのです。
中江藤樹、大塩中斎、西郷南洲、安岡正篤に勝る仏教者がいるか!

[136] 吟河鐡道 2008/05/19 23:36

「煩悩」を意識すると「煩悩」に囚われるもので、断ち切る意識も同様

『煩悩何たるや、本能要らざるや、生命在らざるや、佛性如何とす』

辺りの仏教誤謬を巡ることに。

[137] Evrard rose de la fage 2008/05/20 14:57

>>120

>前から気になっていたのだが君は誰かに言わされているような気がする
>アチコチの掲示板に書き込んである君の言葉はオヤジ臭いというか
>昔の過激派くずれの友人の酔った時の話とラップする
>君の本心から出た言葉とは思えない

あまりに早く思想が俺の中で固定されたからだと思うけどね。
俺の頭は中3とは思えないくらいに固いよ。
それは、既に思考方法が俺の脳の中で確定しているから。

>誰もが解脱を目指している訳ではない
>てか全ての煩悩を断ち切って解脱するなんて普通に無理だって!

「世界観」を信じてるのであって、自分がそうなるつもりはない、ってやつか?

>誰もそんな事、言ってないじゃん
>仏教だって死んだだけじゃ成仏できず、
>本来はちゃんと修行を積んで「解脱した人だけが成仏」できる
>しかし一般的には仏様の弟子になった時点で成仏したと解釈する
>簡単に言えば僧侶の導きで仏様に弟子入りするのが葬式で普通の人はコレ

ごめん、そんな事釈迦は言ってないだろ?
「死ぬ=成仏」って解釈をしてるのは日本の仏教だけでしょ?
葬式によって成仏するなら、釈迦が解脱した意味もないし。
大方、日本に入ってきたときに、神道の「神上がり」の概念と混ざり合ったんじゃないの?

>仏教の目的とは正しい道(真理)を求める事
>道はどこにも書いて有りません
>それは自分で探すのです

「真理」は釈迦が悟ったものの事だろ?
それはイコール仏教じゃないの?

[138] Evrard rose de la fage 2008/05/20 15:00

>>127
悪魔は神とは違うから

>>130

>悪魔の証明は、「ない」ことの証明に対するアンチテーゼでっせ。

「間違ってる」が証明できるのか?
それこそ無理だろ。

>そのとおり。「正しい」「間違い」があるのであれば、「正しい」ものと比較すればいいんです。
>でも、「正しい」「間違い」ってわからないし、そもそもあるかどうかもわからない、と。
>つまり、「創価学会が正しいか間違っているか」は「確定」してないんです。
>創価に限らず、仏教もキリスト教もですけど。

キリスト様は現実に奇跡を起こして見せた
故にキリスト教は真実である
「真実」であるキリスト教と、仏教は言ってることが違う。
よって、仏教は間違いである。

[139] ハンザキ 2008/05/20 20:50

えとですね、論法としておかしな所が2カ所あります。

>キリスト様は現実に奇跡を起こして見せた
>故にキリスト教は真実である

まず「奇跡を起こした」事と「キリスト教は真実である」事とは直接関係しません。
(加えて「現実に」かどうかは大変怪しい訳ですが、それは置いといて)

>「真実」であるキリスト教と、仏教は言ってることが違う。
>よって、仏教は間違いである。

これも「キリスト教と仏教で言ってる事が違う」という事は、
「仏教は間違いである」とする根拠にはなり得ません。

[140] トリップ 2008/05/21 03:39

>>138
>「間違ってる」が証明できるのか?
>それこそ無理だろ。

できますよ。決められたルール、前提があれば。
で、宗教の正しさを問うには、それらがまだ「ない」んで、
いまのところ「わからない」んです。
なので、「ない証明をすることは現実的に不可能」という「悪魔の証明」とは別の問題です。

あとは、ハンザキさんに言いたいこと全部言われちゃってます。

[141] T、T 2008/05/21 07:50

[134]ハンザキ 08/05/19 22:00 *M/A6z.rzbuy*oINssJSVxK
>>129
ええと、>>131 を解りやすく説明しますと、

>「『人は煩悩を持ってるもんだ』と気付ければそれでええねん」っ>て事です(笑)

「『人は煩悩を持ってるもんだ』と言うのはまだ不十分で、
もともと煩悩がないと言う事が事実であると言う処まで行かないと。

>なにも難しい用語を用いなくても平〜気。

ただ、禅経験、仏教経験、宗教経験、を通った文字と一般的な
文字の表現が異なるための間違いが生じないようにとの配慮で
仕方がない。
しかし、経験を通った人には「難しい用語」も間違いなく表現でき、
しかも一目瞭然、簡単明瞭にもなる。

[142] ハンザキ 2008/05/21 08:19

>>141
>もともと煩悩がないと言う事が事実であると言う処まで行かないと。

えと、「行かないと」どうなるんで?
文脈から判断すると「『煩悩即解脱』を説明した事にはならない」
みたいな感じでしょうか?
そう言う話なら私の説明不足で納得です。

>ただ、禅経験、仏教経験、宗教経験、を通った文字と一般的な
>文字の表現が異なるための間違いが生じないようにとの配慮で

その「配慮」をしてるんなら、
まず「一般的な」方を使って「間違いが生じないように」するのがスジなんじゃねスか?
ここは「経験を通った人」も、そうじゃない人も読む「掲示板」なんですから。

[143] 吟河鐡道 2008/05/21 10:39

>>135
>仏教は間違っています。
家族、社会を捨てて現実社会から逃避するのが仏教の教えです。

ある文献では、インド、ネパールの代々の一般慣習としては、
社会家庭生活を営んだ後、人生が一段落してから出家をするようです。
日本で言うところの隠居に似ているかも知れません。

所謂出家に関して特定居住という点では修道院も同様、学門の観点では儒教も同様であろうと思います。

また、儒教と宗教の相関関係を挙げれば、
儒教が形而上形而下を扱う中で、論語は形而下の人間(じんかん)論と言え
仏教は形而上に基づく形而下理論、ユダヤ教系は形而上契約に基づく形而上下論、
神教は形而上に基づく崇拝となりましょうか。
宗教と人間論は崇高性に於いての合致は難しいと言えるかと思います。

[144] 吟河鐡道 2008/05/21 11:01

まず「煩悩」の一般的な意味を抜粋してみましょう。

Wiki:煩悩(ぼんのう)とは、仏教の教義の一つで、身心を乱し悩ませ、智慧を妨げる心の働きを言う。

細部解釈は宗派で変わるので基本だけ抜粋。

国語辞典:人間の身心の苦しみを生みだす精神のはたらき。肉体や心の欲望、他者への怒り、仮の実在への執着など。
これらを仏道の修行によって消滅させることによって悟りを開く。

最後の1行は、誤解を招くように感じます。

[145] 吟河鐡道 2008/05/21 11:32

同様に「原罪」について

Wiki:原罪(げんざい)とは失楽園神話において人類の始祖であるアダムとエバが最初に犯したとされる罪、及びその罪が人間の本性を損ね、あるいは変えてしまったため、以来人間は神の救い・助けなしには克服し得ない罪への傾きを持つことになったという、キリスト教の多くの教派において共有される思想。

国語辞典:キリスト教で、人類の祖が犯した最初の罪のこと。蛇にそそのかされたイブとともにアダムが神にそむいて禁断の木の実を食べたことが旧約聖書創世記に記されている。アダムの子孫である人間は生まれながらに罪を負うとされる。

悪徳心規定思想からの縛と戒の観点は類似します。

[146] 医科大学長 2008/05/21 12:38

植物人間は煩悩も何もなく 解脱してるのかな?

[147] ハンザキ 2008/05/21 15:15

植物人間は周囲に煩悩まき散らしてますが。

[148] 吟河鐡道 2008/05/22 09:53

>>146 一時臨死体験が話題になりましたね。
そういえば以前、植物状態ではありませんが、それに類似した人の弟子と言う人このカテに来ていましたね。
師が全身麻痺で脳にも麻痺があり、一時だけ現実に戻り話が出来るとか。

身の回りの全てをなくして、人生に絶望し、心が空虚になったとしても、解脱ではないでしょうし、
人は、解脱しなくても、苦境の中で自分なりの哲学を持つのではないでしょうか。
それは、解脱でも悟りでも、涅槃寂静でもないでしょう。

[149] T、T 2008/05/22 12:02

>その「配慮」をしてるんなら、

これは仏教用語の問題点です。

>まず「一般的な」方を使って「間違いが生じないように」するのがスジなんじゃねスか?
>ここは「経験を通った人」も、そうじゃない人も読む「掲示板」なんですから。

「一般的な」方を使って「間違いが生じないように」と、これはごもっともな説であります。
これは、各人がしっかりと読み抜く力をつけるしかありません。
ただ言える事は、それは違う、正しい、と言えるだけでそれについての説明は不可能に
近いものがあります。わずかに指し示す位であります。
なぜなら、すべてはその人の体験を待つしかない処の問題であるからであります。
ただ注意を要する事は、仏教(宗教が含む)に関しては、文字で現されておりますが、
その文字の処には「あるわけ」がないのです。仏教其のものは「あるわけ」で実在です。
一般的な論理、概念化された説明、等は「ありよう」で非実在であります。
例えば、名目、言語のされる時、それは客観的な知識になって「あるわけ」でなくなる。
ものそのもの自体で無いと言う事です。
それで、仏教では「あるわけ」「ありよう」の区別に「空」とか「無」とか「逆説」等を
使用するわけであります。ここに、古人の苦労があったと思います。
ものそのもの自体はその人経験でしか分からない。
仏教書といえども、全くのその人、その人個人の問題の教えであります。
仏教書を一般的に普遍的に読まれますと知識的になり学問になります。
しかし、仏教は学問ではないのです。ここに今日多くの人たちが、蹴躓いて居られと思います。

[150] T、T 2008/05/22 12:07

146]医科大学長 08/05/21 12:38 3mxy783RhJ
>植物人間は煩悩も何もなく 解脱してるのかな?

生きて働く処に解脱があります。
また、「植物人間は煩悩も何もなく 」と言う処には
解脱はありません。

[151] 吟河鐡道 2008/05/22 12:47

>>149 その通りですね。
聖書や仏典がそのまま神や仏のように考えている人もおられるようですが、
純粋な意味での所謂菩提(bodhi)は、言葉で造られてはいませんからね。
言葉は解釈が変遷する点で、伝達手段の限界を感じます。
bodhi解釈が変わってしまったら、仏教は無いに等しい。

[152] T、T 2008/05/23 12:35


>聖書や仏典がそのまま神や仏のように考えている人もおられるようですが、
>純粋な意味での所謂菩提(bodhi)は、言葉で造られてはいませんからね。
>言葉は解釈が変遷する点で、伝達手段の限界を感じます。
>bodhi解釈が変わってしまったら、仏教は無いに等しい。

そうです、そうです。
しかも、「解釈が変わってしまったら、仏教は無いに等しい。」と
言う、仏教の名を借りた仏教と別のもの(似非)になる。

[153] sawas 2008/05/23 13:04

創価学会逆ギレか?
 週刊新潮5月22日号に掲載された、
<「矢野絢也」を窮鼠にした「創価学会」の脅迫と誹謗中傷>
で、創価学会副会長・谷川佳樹氏が矢野絢也元公明党委員長と週刊新潮社を相手取り名誉毀損で損害賠償1100万円と全国紙等に謝罪広告の掲載を求め提訴したそうだな。
 矢野元委員長は今月12日、創価学会から強要、脅迫、尾行、精神的嫌がらせを受け言論活動を中止していた。また、全資産を売り払い2億円、3億円の多額の寄付を強要されたとして、5500万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こしていた。
 そんなことで、週刊新潮社代表取締役社長の佐藤隆信氏と編集長の早川清氏は「創価学会の信じ難い脅迫や誹謗中傷が法廷で明らかになるので大歓迎だ」といっています。
 そんな、「嘘も百偏繰り返せば真実になる」と嘘つき騙し集団が近視眼的な狡猾な中共属徒創価学会が、中共少数民族弾圧・虐殺を支援する団体の、活仏と称する池田大作センセイと信濃町・宗教プロ集団を守るために逆ギレ仕組んだものであろうかも・・・・・・。
 この事件が公になり世論が大きくなれば、常識ある国会・衆参両議院議員も黙ってはいないだろう、無視出来ないだろう。
そして、創価学会の名誉会長・池田大作センセイは国会で証人喚問の席に着くことになるのでは。とにかく、公明党都議団・区議団・衆参院議員が司法に圧力を掛けないように市民は監視しなければなりません、大手マスコミは特に当てに出来ませんから。しばらくは眼が離せませんね。
私的には、証人喚問の席で、完全に腐り醗酵しきった、腐りに腐った膿を全て吐き出して初心に戻り、澄みきった雑念のない美しい心で宗教の研鑚だけしてほしいと天に願うばかりです・・・・・・。が、無理かも?・・・・・・。

また、そんな創価学会社会問題をクリアに掲載した週間新潮社発行「週刊新潮5月22日号」定価320円、毎週木曜日発売と別に講談社発行の「週刊現代5月31日号」定価350円、毎週月曜日発売中にも、<創価学会を提訴“平成の言論妨害事件”全真相>として掲載されています。
また、週刊新潮5月29日発売中(定価320円)の<矢野元委員長「創価学会提訴」を記事にできない「大新聞」>から。情けないやら、呆れるやら。本誌・先週号でも報じた通り、元公明党委員長の矢野絢也氏(76)が、創価学会などを相手に損害賠償を求め提訴。だが、普段、“公正・中立を旨とする”大新聞は、揃ってこのニュースを黙殺したのである。
続きは書店・駅売店で購入するべし。(練馬創価学会の真実から)

[154] 金太郎飴 2008/05/24 22:28

>>137
>あまりに早く思想が俺の中で固定されたからだと思うけどね。
中3でしたか〜知識欲も豊富で感受性もまだまだ伸びる最高の時期に一つの考えに拘るなんて勿体ないなぁ
もっと「色々な人の考えを自分の中に取り入れて」柔軟かつ創造的になっても良いんじゃないかな?

>「世界観」を信じてるのであって、自分がそうなるつもりはない、ってやつか?
いやいや自分だけの考えではなく、現に浄土宗では一般の衆生は解脱などは到底不可能なので
仏様(阿弥陀如来)のお力で極楽浄土(天国みたいなところ)に往生するという考え方が基本です

それがいわゆる「南無阿弥陀仏」の「念仏」というもので、極楽浄土に往きたいと「発願し」←コレ重要!
「ナムアミダブツ」と一心不乱に唱えていれば難解なお経を呼んだり、苦しい修行をしなくても・・・
老若男女は言うに及ばず、どんな犯罪者でも極楽浄土に往生できるといわれています

>ごめん、そんな事釈迦は言ってないだろ?
何せ2500年も前の話なので本当に言ったかどうかは誰にも分かりませんが「阿弥陀経」というお経に
お釈迦様が説いたとちゃんと書かれていて、その中ではお釈迦様が1250人の弟子や色々な仏様や神様、
一般大衆に対して行った説法の様子が詳しく描写され読み進むと心の中で美しい絵画を見いているようです
(阿弥陀経は最初にインドで釈迦入滅後、数百年に書かれ、三蔵法師によって中国語に訳され日本に入った)

「阿弥陀経」の中でお釈迦様は弟子の舎利弗に対し「不可以少善根 福徳因縁 得生彼国」と少しばかりの良い行い
(ましてろくな善行もせずにタダ死んだだけ)では彼の国に生まれ得る事(往生)は不可であると説いてます
尚、上記括弧内は私の注釈で、直接的な意味では括弧内は無しです

>「死ぬ=成仏」って解釈をしてるのは日本の仏教だけでしょ?
>葬式によって成仏するなら、釈迦が解脱した意味もないし。
そう思っているのは何も知らない一般の人だけであり、上記理由によりそれはありえません

結局、一番庶民的である浄土門ですら「死ぬ=成仏」は無理です
まして様々な修行を通して、自力によって成仏することを説く禅宗などの聖道門では考えられません
これは前に>>120 で言った通り、成仏したと「解釈する」だけで本当は仏様の弟子になるだけです
極楽浄土に往生できれば今度は阿弥陀如来のお力で更に修行を積み必ずいつかは成仏できるそうです
この辺は宗派によって意見が違うのかも知れませんが私はそう解釈しています

[155] 金太郎飴 2008/05/24 22:29

↑追加
>大方、日本に入ってきたときに、神道の「神上がり」の概念と混ざり合ったんじゃないの?
説明がここまで来ればそれは勘違いと分かったと思います
仏教の原典である、お経の大半はインドで書かれ中国で訳され昔の中国語(古代インド語の音訳、意訳の混在)
のまま日本に伝わり、ついでに教えが変らぬように中国の僧も日本に招いて国内に広がって行きました
教えそのものも現在でも変っていないでしょう

混ざり合ったところと言えば教義(教え)ではなく、しきたりとかの細部でしょう
春秋の彼岸のお参りの習慣はたしかに言えてます
春分と秋分の日に真西に沈み行く夕日を見ながらナミアミダブツと唱えれば西の方角にある
極楽浄土(西方浄土)に向かってお参りが出来るところでしょうね

>「真理」は釈迦が悟ったものの事だろ?それはイコール仏教じゃないの?
これは難問です
解説書を読んでも「真理」ははっきりと書かれていないのです
結局は自分で探すしかない・・・つまり悟りですね・・・
悟ってしまえば完結でお釈迦様と同じになれるという話だけど、完全に悟ったのは
お釈迦様だけであるという解釈もあるので普通は無理なのでしょう

しかし聖書に書いてある通りに生きる人生を選ぶのか
自分の心の中の仏様に導かれつつ自分で自分の道を模索しながら生きる人生を選ぶのか
どちらの人生の方が面白いかと考えた時、私は後者を選びました

[156] 吟河鐡道 2008/05/25 13:23

あ、金さんがこんなところで油売っておられましたか(笑。

お釈迦様は、ご自身のことを現代言われているような、仏陀である
とは言っていなかったようです。飽くまで阿羅漢であると。
当時の仏陀の概念は近来の変遷に依る所とは違っていたと言え、
お釈迦様の阿羅漢としての役割は、神格化された仏陀崇拝ではなく、
飽くまで、「真理到達の智慧を伝える者」であったようです。
現代、仏陀再来と言われておられる偉い方々が沢山おられますが、
実際のお釈迦様は、誠に奥ゆかしいお方であったと思われます。

金さんの浄土信仰は、それはそれでよかろうと思います。
所謂浄土は、決して知識量に比例せず、誰にも平等なる浄土と言えるでしょうから。
因みに、宮沢の賢さんは父の浄土信仰が腑に落ちず法華経に身を投じました。
その意図するところは、国訳であり、法華経の細部に亘るお釈迦様の人となりを垣間見る点で
有用であったろうと推測され、最終的には独自の宗教観に辿り着いたようです。
読経信仰は、当初の学識の乏しい民に希望を与えるという点では有用であったようですが、
賢さんのような学識者には、本質への追及要求が芽生えるのは、あって然るべきと言えるでしょう。

キリスト教は、主との契約の関係であり、聖書は飽くまで拠り所と言えるでしょう。
聖書に書いてある通りに生きる、がキリスト教の主眼とは言い難いでしょうね。
仏典を完全に理解する者、仏典の通りに生きている者が悟った者ではないですし。

[157] ☆(^人^)えりちゃん☆ 2008/05/26 20:15

>>154 さん
>極楽浄土(天国みたいなところ)に往生

(^人^)極楽浄土は涅槃じゃないにょにょにょ。
阿弥陀如来の元で教えを聞いて成仏するための場所だにょにょにょ。
極楽浄土で修業するほうが成仏しやすいんだってにょ。
極楽浄土はキリスト教のような天国じゃないにょ。天国は生きてる人がいくところだにょ。最期の審判で死人も生き返って地獄か天国にいくにょにょにょ。

(^人^)
>どんな犯罪者でも極楽浄土に往生できるといわれています

(^人^)悪人正機説のことだと思うにょ。
親鸞聖人のころの悪人って一般庶民のことにょ。
平安貴族は虫も殺さなくても生きていけるし、
武士を使って嫌な人を殺しもできたにょ。
寺院をつくったりして仏さまに媚うれたにょそんな連中も
浄土にいけるくらいなら、殺生しなきゃ生活できない猟師さんとか
一般庶民のほうが浄土に近いんちゃうといいたかったのがほんとの
意味にゃにょにょ。

歴史の授業でならったにょ。

>>156 しゃん
(^人^)キリスト教にとって神との契約は大事にゃ。
神との契約のとおり生きるのが、大事にょ。
モーセが契約したのが旧約
キリストが契約したのが新約
どっちも契約にょにょ。
敬虔なユダヤ教徒なんか、昔と変わらない生活してるにょにょ。

[158] 吟河鐡道 2008/05/26 20:38

>>157
☆(^人^)えりちゃん☆さんは相当お詳しいですね。
また、非常に公正に考えられていると思います。
宗教とは、仏教とは、密教とは、またキリスト教とは、本質的にどのようなものであるとお考えですか?

[159] 吟河鐡道 2008/05/26 20:49

阿字の象徴は必要はないのではないかと思います。

[160] ☆(^人^)えりちゃん☆ 2008/05/26 20:51

(^人^)えりちゃんは高校生だから難しいことはわからないにょ。

(^з^)仏教とはお釈迦さまの生きたバラモン的な価値観の時代に
六道輪廻をするから人間は「苦」をするから、輪廻から抜けて涅槃に
いっちゃえってことを発見したから凄いとおもうにょにょ。
涅槃にいくから成仏にゃ。

(^ё^)密教は北伝仏教が道教と融合したものだと思うにょ
九字って道教のものだにょ。それが密教にも流れたも。
即身成仏って仙道に似てるにょ。

(^Θ^)キリスト教の本質は、神との契約だとおもうにょ。
キリスト教の世界は生きてる人間の信仰にゃの。
だからキリスト教の死者はモラトリアムっていって執行猶予の
状態にゃんだって。予定説っていうのがキリスト教にはあって
誰が最期の審判で生き返って天国にいけるかは神以外分からないとプロテスタントの人なんかはいってるにょ。

(^人^)神道はドグマがないも
死者の魂は産土神につれられて、大国主神さまに裁かれて
行くところがきるんだってにょ。
死後の魂の行方を研究したのが、平田篤胤にょにょ。
人の魂は神の分霊だから、神になれるというのが神道のすごいところにょ。

[161] ☆(^人^)えりちゃん☆ 2008/05/26 20:54

(^人^)えりちゃんおもうの
阿字は始まりの意味にょにょ。
宇宙の始まりであり大日如来の象徴にょにょ。

大日如来はカバラの神さまと同じで
宇宙自身であり、個性があるにょ。生まれなきものの象徴なりよ。

[162] 吟河鐡道 2008/05/26 21:45

>>160 関係を良く捉えられていますね。素晴らしいです。
>>161 阿字、阿息、また真言は、正しく認識すれば瞑想手法に於いての効果は大変認められると思いますが、
象徴としての先入観が、本質を上回る傾向があるようです。
いずれは、お釈迦さまのような、先入観の一切ない状態での瞑想が
良いのではないか思います。

[163] ☆(^ω^)えりちゃん☆ 2008/05/26 21:55

(^ё^)>>162 さんは宮沢賢治さんのファンなんだね。
宮沢賢治を語る時忘れられないのが、石原莞爾なにょ。
どっちも東北人なんだけど法華主義者なにょ。
賢治作品は法華の説話文学的だにょ。

石原莞爾は満州事変で法華主義の折伏を軍事力でやったの。
五族協和の理想郷を法華主義で作ろうとしたんだって。

最近本読んで知ったの、「八紘一宇」っていう言葉を使い始めたのは
法華主義者で田中智学なんだって。日本書紀に「八紘一宇」って
言葉があるけどこれを世界の中心としてとらえたのは
法華主義者だったにょ。
だから、国家神道だけ悪者にされてるけど法華主義にも自省を
求めたいにょ。
二二六事件も法華主義者だも。

[164] ☆(^ω^)えりちゃん☆ 2008/05/26 21:57

(^ё^)そういえば、タカさんに教えてもらったにょ。
阿字観で大事なのは邪なものが浮かんだら、まん丸を大きくして
消すんだって。吟河鉄道さんも密教くわしいね。

[165] 吟河鐡道 2008/05/26 22:50

>>163
石原莞爾とは、また凄い人をご存じですね。
東条英機が石原莞爾の才能に嫉妬して彼の政治(軍事)生命を封印したという話は聞いたことがありますが、
☆(^ω^)えりちゃん☆さんは、神道推進派ですか?(笑。
私は宮沢賢治が好きなだけで、法華経信者ではありません。
密教も詳しくはありません。本質との関係を照合しているだけです。

因みに神道についてお聞きしたいのですが、
聖徳太子の仏教導入によって、古来の神道がどのような位置づけにあったか、教えていただけないでしょうか。
要するに、完全な伝承が可能であったか、また如何にして行ったかについてですが。

[166] 吟河鐡道 2008/05/26 23:11

>>160
大国主神は、古事記伝承としての現人神の影響力を踏まえた可能性があると思われますね。
また、平田篤胤の思想構築は、古来伝承文献の平均編纂を行ったというイメージが強いですね。
要するに、神を知る者ではなく、学者であると。

[167] 金太郎飴 2008/05/26 23:17

>>157
>極楽浄土はキリスト教のような天国じゃないにょ。
それ知ってっから・・・
でも素人にイキナリそれを言ってしまったら長くなるし混乱するだけでしょう

教えたいならムゲンちゃんに貴方が直接、教えてあげてくださいね

[168] ☆(^人^)えりちゃん☆ 2008/05/27 07:53

(^ё^)神道は仏教導入後も生きていたにょ。
貴族の祖先は伝承では神様って設定だにょにょにょ
語り継いできたにょにょ。
貴族の中にはそういう祖先への憧憬があったにょ。
昔日本には文字が無いから口承文学だにょ。
稗田阿礼が暗記してた物語を太安万侶が筆記したにょ。
古事記は宮廷で物語として読まれるように編纂されたんだって。
国語の時間にやってたにょ。
日本書紀は歴史書として編纂されたにょ。当時の公式の文書漢字でかいてるからにょ。
それが古事記、日本書紀になったにょ。
仏教は神道を制圧したかに見えたにょ。でも神々への信仰は
生きてたから、仏教も神仏習合というような形にしてとりこんだにょ。

(^ω^)神仏習合って日本の神をバラモンの天部の神と同じような
扱いにして守護神にしたものにょ。日蓮宗の三十番神みたいなものにょ

(^ё^)平田先生の学問の目的は幽冥界と魂の行方だにょ。
服部中庸の三大考をもとに神道的な霊界観を古典をもとに
示したものにょ。死後の行方をしらないと安心できないからだってにょ。

平田先生とも関わりのあった、本田親徳先生は古事記の研究から
魂の用語の使われ方を徹底研究したにょにょにょ。
そんで鎮魂帰神法をあみだして神界の神と神懸りする方法をあみだしたにょ。

(^ё^)ようするに本田先生の言葉によれば、「霊知学(ひじりがく)」を
平田先生も本田先生もやってたにょ。

大国主神は国津神にょにょ。国譲りして冥界を統べる神様になったにょ。神道霊学的にみると現人神信仰には見えないにょ。
だって最初から神だもん。
地上の主宰は天皇にゃの。幽冥界は大国主だにょ。すみわけされてるにょ。

[169] 吟河鐡道 2008/05/27 14:04

>>168 よく調べられていますね。素晴らしいです。
最近の調査では、稗田阿礼の役割は、その前時点で一応成文化はされていたももの
漢文と和文の漢字宛混同による読み意味不明箇所を読み解き、現在の形にしたという研究結果もありますね。
日本書紀は天皇家威信のため、歴史的地位確定を狙って公式文書として編纂したもののようで、
古事記、日本書記共、天皇と神との繋がりを表明することが、目的のひとつといえそうです。

平田先生は、キリスト教の影響もあり、人と神との相関を、神とアダムとアブラハムの関係が念頭にあったいう説もあるようですね。

神と人の関連を確立する際、特に支配伝承や宗教伝承では、根本の伝承の信憑性が、
実は歴史的に一族優霊に端を発するということは世界的に見ても
ごく普通に行われていたことです。
我々は、それらを安直に鵜呑みにすることなく、公正且つ客観的に
見極める必要があろうと思います。

その辺りを鑑みれば、鎮魂帰神法や仏教、密教、キリスト教、しいてはクンダリニーヨガにいたるまで、
非常に興味深い関連の上に成り立っているかも知れません。

[170] 吟河鐡道 2008/05/27 14:34

訂正:日本書記→日本書紀でした。失礼しました。

>>168 (^ё^)神道は仏教導入後も生きていたにょ。
曽我、物部の対立は、飽くまで神仏優位決定戦のようなもので、国政は変わっても、密かに大切に守られていたことでしょうね。

[171] ☆(^人^)えりちゃん☆ 2008/05/27 18:42

(^人^)
>近の調査では、稗田阿礼の役割は、その前時点で一応成文化はされていたももの
>漢文と和文の漢字宛混同による読み意味不明箇所を読み解き、現在の形にしたという研究結果もありますね。

吟河鐡道先生すごいにょ古事記は漢字を使った和文だもんね♪
稗田阿礼はおしょらく、歌を歌うような感じで暗記してたとおもうにょ。歌みたいに節つけないと暗記できないもにょ。人の脳ってにょ。

(^ω^)古事記・日本書紀は貴族や天皇陛下と国民が繋がってるという
意味でも素敵だにょにょにょ

(^ω^)平田篤胤先生は、キリスト教の江戸幕府の禁書も読んでたんだってにょ。吟河鐡道先生神道家でもないにょに知ってるなんてすごいにょ。
平田先生は道教、仏教、神道、キリスト教なんでも研究したんだって。

(^ё^)曽我物部崇仏論争と戦争で仏教は優位にたつけど、
キリスト教みたいに異教徒を皆殺しにするような乱暴はしなかったにょ。
神道的な習慣とか、氏神や産土神信仰や神道は天皇の権威と貴族の祖先の神々と通じてたからか生き残ったにょにょにょ。
神道のおおらかさが、仏教と共生できたのか、仏教のおおらかさが共生できたのかわからにゃいけど。日本人の外来文化の受容の仕方って
どっちかというと神道的だと思うにょにょ。

(^△^)仏教は当時最新の科学や文化哲学としてうけいれられ、
鎮護国家の役割をにない、平安期の怨霊信仰を密教が
受け持ったから栄えたにょ。

[172] ☆(^ω^)えりちゃん☆ 2008/05/27 18:49

(^k^)えりちゃん神道好きだけどお父さんに仏教も勉強しなさいって怒られるにょにょ。仏教以前を勉強するには仏教以後の世界と比較しないとわかんないだってにょ。

[173] 吟河鐡道 2008/05/27 19:56

私は平和が好きなので、宗教がそれぞれ、唯一性を争うことなく、共に仲良く共存することを望んでいます。

われわれが微生物で、海に住んでいたころ、地球と共に生きていました。
陸に上がったとき、生きるために必要な地球の力と海とを携えました。
ひとりひとりが小さな地球。
われわれは、それぞれの小さな地球を大切にし、母体となる大きな地球を大切し、その恩恵に感謝すべきだと思います。

宗教という既成概念に捉われることなく、本来持っている透明で純粋なこころを培うことが
大切なような気がします。

[174] ☆(^ω^)えりちゃん☆ 2008/05/27 20:31

吟河鐡道先生はすごいにょ・・・。
えりちゃんにもわかりやすく書いてくれるから助かるも。
透明で純粋なこころを培うにはやっぱり優しさとか思いやりが
大事にょ?相手のことを理解することとか?

[175] 吟河鐡道 2008/05/27 21:28

☆(^ω^)えりちゃん☆さんは、宗教について驚くほど体系的によくご存じですが、
宗教を勉強する際、人間として、またひとりの純粋な生命体として
固定的に宗教と言われるものを、宗教という概念に捉われることなく
また勉強というスタイルと超えて、大きなスタンスで見つめてみては如何でしょう。ということです。

☆(^ω^)えりちゃん☆さんは、本当は凄い人でしょう。
ですから、そういうことを言う必要もないのですが。

>>172 >仏教以前を勉強するには仏教以後の世界と比較しないとわかんないだってにょ。

これは、どの様な意味でしょうか?

[176] ☆(^ω^)えりちゃん☆ 2008/05/27 21:38

(^人^)仏教が入ってきて何が変わったかがわからないと
仏教以前の「大和心」が分からないってお父さんが言うにょ。
大和心(やまとごころ)は漢心(からごころ)とも違うし、

古事記や日本書紀や万葉集には仏教前の思想や古代人の集合意識みたいなものがあるんだって。それをあの世の魂の行方と一緒に勉強するのが「古道」なんだってにょにょにょ。

[177] 吟河鐡道 2008/05/27 22:10

なるほど、純粋に培われた「大和心」ということですね。
当時日本に伝来した仏教を正確に把握し、排斥しないと確立出来ない知れませんね。
それは、現在日本にある、宗派仏教ではないでしょうし、根本仏教でもないでしょうし、
聖徳太子以前から呪術的仏教がありましたから、より信憑性を考えるなら、
真言を、飽くまで除災招福呪術として導入した可能性はどうでしょう。
聖徳太子は、呪術的だった仏教を大乗理論的に理解しようと試みていますから、
神道と合流するとすれば、寧ろ真言部か密教部になるように思えます。
神仏融合時代が長く続いたようですし、
日本人は合流が好きですから、長期に亘って微妙に変遷している可能性もありますね。
本質的仏教把握とは少々別の分野になりそうですね。

[178] 吟河鐡道 2008/05/27 22:25

真心を見出すというのは、確かに日本人として興味深いことですね。
その際、ルーツとして、自分自身の日本人としての血統を調べることも
興味深いかも知れません。

[179] 吟河鐡道 2008/05/27 22:39

いや、これは1700年代時点での、類推でしょうから、
既に儒教に日本文化が融合して、正確に把握するのは難しいように
思いますね。

[180] ☆(^ω^)えりちゃん☆ 2008/05/27 22:40

日本人は血統をさかのぼれば、どこかで天皇家までつながってるものにょ。日本の総本家が天皇家だにょにょにょ。
えりちゃんは藤原北家の流れなんだけど、藤原家も天皇家と繋がってるにょにょにょ。日本国民って天皇家が本家だも。

(^ё^)聖徳太子はすごいにょ。
密教は仏教と道教が合流して空海が作り上げた大系っぽいにょ。
密教の九字とかもそうだにょ。もともと道教は修験道ににてたにょ。
それで呪術色が強くなったし、タントラが房中術になったらしいにょ。過去ログに誰か書いてたにょ。

日本の神道は天の御中主神の分霊を分けてもらった人間が天皇を本家にして和をもっていきる世界だからあったかいにょ。
その「和」に気がついたのが聖徳太子だにょ。
仏教を勉強しているうちに日本の本質がわかったにょかも?

[181] kotaro 2008/05/28 06:07

>>[0]Evrard rose de la fageさんへ
>仏教って俺が考えても間違ってる
>としか思えない所が多すぎるんだが。

ブッシュ大統領が、メモリアルデーで、
戦死したアメリカ軍兵士に哀悼の意を表す。
だが、冷静に考えて、こんな理不尽な事があるだろうか。
イラク戦争を命じたブッシュ大統領の命令の根拠、
大量破壊兵器は、なかった事が既に明らかになっている。
偽りの命令で戦死した兵士の遺家族の前で、
よくも平然と話せるものだ。
これが地上での現実。
それを基準に仏教を考えれば、仏教が変。
だが、この世の方が耐え切れないくらい理屈に合わない。
それをあるべき姿と対比して、
矛盾なく説明しているのが仏教と思う。

現実に疑問を抱かない間は、仏教は不要と言える。

[182] 吟河鐡道 2008/05/28 12:36

教義別ではなく修行体系別の分類と身体への内的影響。(段階:易1→4難)

1、基本的に三昧解脱を伴わない宗教(ほぼ安全):大乗仏教、禅、テーラワーダ
(2,3への移行あり)

2、三昧解脱力を体内で利用(治癒効果+時に危険):内観法
3、目標三昧解脱(神通+危険領域):道教、密教、クンダリニーヨガ、タントリズム、グノーシス、修験道
(2、3は混在、象徴的には1に属す)

4、三昧解脱後寂静法=慧解脱(安全領域):釈迦仏教

[183] ☆(^ω^)えりちゃん☆ 2008/05/28 20:37

たとえばね吟河鐡道先生、
中国人は椅子にベットだけど日本人は床に布団だにょ。
折り紙みたいに紙を折ることで動物つくったりする民族も日本人だけにょ。
魏志倭人伝で中国と葬儀の儀礼が違ってるにょ。そういうのを探すためには儒教も勉強しにゃいとね。

[184] 吟河鐡道 2008/05/28 20:48

ためになる話ですね。
あ、私は先生ではありませんので、、
確かに三国演戯などでは、床の間みたいな高いところに寝ていますね。
魏志倭人伝で倭人の葬儀はどのようにしているのですか?
他に魏志倭人伝で倭人の顕著な慣習はありますか?

[185] ☆(^ω^)えりちゃん☆ 2008/05/28 21:09

http://www.sousaiken.com/ssk/ronbun/tnk.html#1_3

↑ここに書いてあったも。

[186] 吟河鐡道 2008/05/28 21:41

>>185 素晴らしいですね。実に公正にまとめられていると思います。
葬儀と魂に関しては、金さんが興味を持っておられますので
是非金さんに呼んでいただきたいですね。

重要なのは、実際、人に宿る魂の行方とは別に、それぞれの時代の人々が、それぞれどう考え、どう信じていたかだと思いますが、
決して魂の行方が変わった訳ではなく、信仰の方が変遷していった点だと思います。
それは、生きている人々の都合や思想によって、変遷したと言えるかも知れません。

[187] 金太郎飴 2008/05/28 23:25

>>185 しっかり呼んで松代(笑)

もう忙しくて来られないかもだから・・・ムゲンちゃんが来たら、あとよろしくお願いします

[188] 吟河鐡道 2008/05/29 12:59

>>187 金太郎飴さん、よくおいでくださいました(笑。

>>182 は参考として、古神道以外の宗教、特に仏教に関わる修行体系を示したものです。
3,4の関係は、バラモン、アグニ神、事火外道の三迦葉が3であるのに対し、お釈迦さまが、その欲望の火の力を本質的無価値と諭しその先の涅槃寂静が真理であると説いた点に由来します。
現在多くの修行系宗教は3を最終形としていますが、それによって得られる神通や利益は、煩悩(欲)の進行形に過ぎず、その力は個人や一民族の力として利用され、他人や他民族への排他並びに諍いの原因になっていることは否めません。
真の平和は、お釈迦さまの最終形とされる、4によって得られると考えは、真の仏教たる考え方だろうと思います。

[189] ☆(^ω^)えりちゃん☆ 2008/05/29 18:34

神仙道の最終形態は霊胎凝結だも。

霊胎という霊的体(陽神)をつくってそこに直霊をいれて、

あの世の仕組みからもこの世の仕組みからも自由になることだも。

その体で神界にいくんだってだももももも。

[190] 吟河鐡道 2008/05/29 20:16

霊胎凝結。まさにその通りです。そのままです。
若いうちはエネルギーが強すぎるので、くれぐれも注意してください。
お釈迦さまのように、35歳以降がよいと思うのですが。

[191] 吟河鐡道 2008/05/29 20:44

人間はアフリカで進化して、環境に適応しながら何万年もかけて、世界に散らばったと言われています。
世界に多くの宗教がありますが、人間は宗教の数ほどは変わりはありません。

[192] kotaro 2008/05/29 23:38

根本仏教とか、釈迦本来の教えに戻ろうとする機運がある。
だが、その一方で、自殺者が増加している。
無縁に見える二つの事象。
国民が生きて行く上での悩み解決に、
宗教が力になっていないからではないだろうか。

第二次大戦の敗戦を契機に、価値が総て逆転した。
戦前は、大乗仏教が小乗仏教に勝る。
それが戦後逆転して、小乗仏教が大乗仏教に勝る。

違うだろう。
僧侶が苦心して民衆に説いた教えが大乗仏教。
一人一人が僧になる修行をしていては、
誰が国の日々の生活を分担する。

仕事場で生じた悩みを生きて行く上での課題として、
考え方の指針を僧が与える。
それが大事ではないだろうか。

アドバイザーがいない日本の若者は可哀想。

[193] T、T 2008/05/31 08:19

>国民が生きて行く上での悩み解決に、
>宗教が力になっていないからではないだろうか。

「自殺者が増加している。」しかも、ガン、脳溢血、心臓病
その他内科系の病気もますます増加である。
これ等の原因は、「宗教が力になっていないから」と
いうより宗教が抜けているからではないでしょうか。
つまり、本来の自分と言うものを見失って居る処にあると
思います。自己喪失と言う事であります。

>戦前は、大乗仏教が小乗仏教に勝る。
>それが戦後逆転して、小乗仏教が大乗仏教に勝る。

この思想が間違っているのではないでしょうか。
宗教に勝る、劣るはないもと僕は解釈して居るものです。
従って、大乗仏教も小乗仏教もあるもので共に在るもので
切り離せないものと考え居るからであります。

>僧が与える。
>それが大事ではないだろうか。

それは、大事なことでありますが、今日ではその頼りに
なる僧が幾人おられるのだろうか。
事件が起こる度にマスコミに、出て語り原因究明に参加
されて居られる僧は居られるのであろうか。

>アドバイザーがいない日本の若者は可哀想。

「アドバイザーがいない」と言う事よりも、これは世の常に
在る事柄ではありませんか。
その事よりも、今貴方がお持ちの智慧を、貴方の身近に
居られ悩みを抱えておられる方を一人でも多く
救うってもらえれば幸いです。
この宗教の領域で蹴躓くと自分一人では救われません。
また救う処が個人的には見つからないものです。
それ故に、やむにやまれず僕は、約20年間実践しておるものです。

[194] kyota 2008/05/31 08:23

>>191
生物学的に見ると、人類ほど個体差の少ない生物は他にいないそうな。

[195] ハンザキ 2008/05/31 19:39

そして「人間」ほど「個人差」が激しい生物も他にいないんですな、これが。

[196] 吟河鐡道 2008/06/01 20:00

民族や文化(宗教的文化も含む)は、民族の歴史、地球環境環境の影響があるため多岐に亘りますね。
仏教の変遷についても、最初の戒律では遠隔地域では摂取農産物が違いから生じる不合理が
戒律遵守派と戒律革新派の確執から生じたという説もあるようです。
本来の意義を解さず、十把一絡げの教義と戒律にのみ拘ることによって起こる誤謬が、
一体の筈の宗教を結果的に二分することになったように感じます。
>>195 ハンザキさん仰るごとく、本来「個人差」があるからこそ、
お釈迦様は対機説法であったように思います。
あまねく人々に等しくあるべき仏法は、もともと、お釈迦様が丁寧にひとりひとりに合わせて
贈られたお言葉であったこと、その意味を忘れてはいけないのでしょう。

[197] kotaro 2008/06/02 02:08

>>[193]T、Tさんへ
>この思想が間違っているのではないでしょうか。
>宗教に勝る、劣るはないもと僕は解釈して居るものです。
>従って、大乗仏教も小乗仏教もあるもので共に在るもので
>切り離せないものと考え居るからであります。

T、Tさんのお考え正解なのかもしれない。
しかし、世間は右か左かを選択し激変しながら動いていく。

価値観の逆転、切欠は戦争だけとは限らない。
例えば、格差社会、それまでの終身雇用制度、
年功序列、そうした日本の良風すべてを破壊した。
戦後長い間戦争はなかった。
だから今回は戦争が契機ではない。
では何が契機なのか。
いずれにせよ、日本には世代で、
年功序列世代と能力差是認世代とに別れた。

T、Tさんのお考えで言えば、
「年功序列も能力差是認も共にあるもので切り離せない」
となるでしょう。
だが、世の中どう言う訳か、中庸とか
足して二で割る的な進展はしない。

[198] T、T 2008/06/02 16:23

[197]kotaro さんへ。

>しかし、世間は右か左かを選択し激変しながら動いていく。

そうです、世間では選択し進んでいるつもりです。
世間の話ではその通りです。
その「右か左かを選択し激変しながら動いていく。」この
激変しながら動いて行くところに、のみ囚われるから
悩み、つまり矛盾が生じるのでありませんか。
激変しながら動いて行くところに、激変しない動かないものを
見て行くのが仏教の教えではありませんか。

>価値観の逆転、切欠は戦争だけとは限らない。
>例えば、格差社会、それまでの終身雇用制度、
>年功序列、そうした日本の良風すべてを破壊した。
>戦後長い間戦争はなかった。
>だから今回は戦争が契機ではない。
>では何が契機なのか。
>いずれにせよ、日本には世代で、
>年功序列世代と能力差是認世代とに別れた。

そうです、時と環境と共に変化しまくりながらで
あります。世間間と言うものです。

T、Tさんのお考えで言えば、
>「年功序列も能力差是認も共にあるもので切り離せない」
>となるでしょう。

そうです、そこに表現されるものがあれば、その反対のものも
一切があるものです。
コインに裏表があるようにです。

>だが、世の中どう言う訳か、中庸とか
>足して二で割る的な進展はしない。

世間ではその通りです。またそうあるべきです。それは事柄を後から
対象的(意識的)に見る知的日常生活、故にあるからであります。
「足して二で割る的な進展はしない。」(正反合的なら)これも世間
な領域です。
それ故に、矛盾がある。それ故に不安である。
中庸とか矛盾解消は仏教の領域(諸法実相)での話です。
世間の価値観の逆転、差別、或いは、世間一切の事柄がそままで
中庸とか矛盾解消があると言うのが仏教の教えであります。
これは世間一般的論理では矛盾です。
しかし、仏教では矛盾ではないと言う事です。
何故か、生きた事実の上での論理であるからであります。
それ故に、知的道具のみを通して仏教を見ては錯誤します。

[199] 吟河鐡道 2008/06/02 17:00

現代はお釈迦様が2500年も前に危惧された世界であるということでしょう。
教義が歪曲され、生かされなかった結果であるとも言えます。

この風潮は当時からあった訳ですから、今始まったことではありませんが。

[200] Evrard rose de la fage 2008/06/06 11:06

>>139

>まず「奇跡を起こした」事と「キリスト教は真実である」事とは直接関係しません。
>(加えて「現実に」かどうかは大変怪しい訳ですが、それは置いといて)

何で?
イエスは「神の」奇跡を起こしたんじゃん。
その力が神のものである以上、神の存在は認定されるじゃん

>これも「キリスト教と仏教で言ってる事が違う」という事は、
>「仏教は間違いである」とする根拠にはなり得ません。

「両方とも正解」なんてありえないだろ。

>>140

>できますよ。決められたルール、前提があれば。
>で、宗教の正しさを問うには、それらがまだ「ない」んで、
>いまのところ「わからない」んです。
>なので、「ない証明をすることは現実的に不可能」という「悪魔の証明」とは別の問題です。

え?
ルールが「無い」んでしょ?
だったら「ない証明をすることは現実的に不可能」じゃん。

[201] タナトス 2008/06/06 12:25

ほえ?

覗いてみると面白いことになってまふ( ̄〜 ̄)ξ

基本的にお釈迦さんもイエスさんも好きだけど、どっちの教義が正解かは個々の価値観に委ねるもんだから正解も誤りもどちらも無い、そもそも正邪是非善悪すらその判断は人間側がしてるもんだし、実際はその様な事象があるだけのこと。

正解も誤りも正邪是非善悪もどちらが欠けても成立しない誠に朧気でしかないものだから。

つまり、仮にイエスさんであれ釈迦さんであれが如何なる能力があったとしても、聖者とは限らないし、能力とその人の本質は別物だから。

因みにオイラが扱う氣功はほぼダレでも出来る「技術の分野」、賛否両論あるけど肯定するなら霊能や超能力は開発可能な「特技の分野」で才能的なカテゴリー、だからまるっきり無いのもまた然り。

特別なもんは無いんだぽ、と言いつつも目の前でやられたらスゲー言うと思うけど(笑

あ、オイラって夢がないな( ̄∇ ̄|||)

[202] ハンザキ 2008/06/07 04:45

>>200
>イエスは「神の」奇跡を起こしたんじゃん。

ちがいますよ。
「神の」奇跡を起こしたと、「聖書」に「書かれている」だけです。
ですので、

>その力が神のものである以上、神の存在は認定されるじゃん

「聖書」という伝承の中でだけ「その力が神のものである」と
「定義」されているにすぎませんから、「神の存在」は「聖書の前提」なだけです。

>「両方とも正解」なんてありえないだろ。

いいえ。どちらも「現実」や「事実」とは無関係な「真実」なのですから、
正解がいくつあったって問題ありません。

[203] 吟河鐡道 2008/06/07 17:50

聖書編纂についてですが、、
イエスの死後、散り散りになった弟子たちが、それぞれ別個に伝道した訳ですが、
その時点では当然新約聖書はなく、それぞれが独自に記憶を頼りに体験を表明したにも関わらず、
明らかな共通点があることが、聖書の信憑性に繋がっていますね。
病気を治す。木を枯らすなどの奇跡と思われる事象は集団催眠等の可能性もあるでしょうが、
疑えば切りがないとも言えるでしょうね。

また、最も重要とされるイエスの復活ですが、敵であるパリサイ派も関わり、事実上敵も認知した上での出来事であると
されていますが、日本人が誤認しやすいのは、当時の処刑は、江戸時代の磔のように槍で刺して絶命させるのでなく、
十字架に架けた状態では殺さず、息絶えるまで放置するという方法だったようです。
一般的に完全に絶命したと判断した上で下ろす訳で、尋常ではないイエスなら、奇跡と言わずとも、その後蘇生する可能性は
考えられないことではありません。
復活は旧約の預言によるところですから、科学的根拠の基に、一時にしろ預言実現を果たしたと言えるかも知れません。

聖書編纂では、都合の良い部分だけに絞った可能性はあるものの、
弟子の経験した内容の表記は、信憑性を図る意味で、現在でも、ひとつにまとめず、
バラバラに書かれていますね。

対し仏教は、最初弟子の結集によりお釈迦様の言葉を正確に伝えられていたものの、
後年学者の手によって、片やお釈迦様の奇跡に、片や仏教上の意義に重点がおかれ、
学者独自の結論を基にした研究発表的教典編纂が行われことは残念なことです。

現在一般人が認知している仏教は、ごった煮の煮汁のようなもので、それが不味いからといって、
仏教が間違いであるとは言いきれないでしょうね。
金や銀や銅や鉄のそれぞれ価値ある金属を、溶かして混ぜた、
何だかよく分からない金属を見て、無価値だと言っているようなものです。

[204] T、T 2008/06/08 09:11

>>イエスは「神の」奇跡を起こしたんじゃん。

>ちがいますよ。
>「神の」奇跡を起こしたと、「聖書」に「書かれている」だけです。
>ですので、

まず、この「神」と「奇跡」とは何を意味する処のものかと言う事です。
聖書、経典を読むに際して注意を要する事は、まず自己の究明からしなければ
ならないと言う事です。自己の究明が終わって、それから思考です。
何故なら、書かれてある事は、すべて自己の経験の記録であるからです。
そう致しますと、自己に関わる「神」とは一体何を意味するのか、また
自己の対する「奇跡」とは何を意味するのかを思考(言葉))から導きだすのでなく
その言葉が出てくる元、源を突き止める必要があると言う事であります。
従って、自分自身が究明されれば、「神」と「奇跡」とは言わず、
他の一切の事柄も理解できます。
自己の体験なき思考のみでは、どう論じても事実から脱線致します。
丁度、幼稚園児が恋愛、結婚について語るが如くに見られると等しく脱線致します。

[205] 吟河鐡道 2008/06/08 12:05

>>204 T、Tさんの仰る通りですね。
>>193 >この宗教の領域で蹴躓くと自分一人では救われません。
また救う処が個人的には見つからないものです。
それ故に、やむにやまれず僕は、約20年間実践しておるものです。

このことについて、どのようなことがあったのか、
具体的に教えていただくことは出来ますでしょうか。

>>202 >「神の」奇跡を起こしたと、「聖書」に「書かれている」だけです。

は、一神教の性質上に依ることを仰っておられるのだろう思います。

一般に、一神教は世界に神は唯一つと考えられがちですが、そうではなく、
歴史的には、それぞれの民族にそれぞれの神があり、唯一我が民族を救うのは我が神であり、
またそれは世界で唯一神と呼べるものであり、他の民族が神と称するものは、神ではないという考え方です。
このとき、自民族を脅かす多民族の神は悪魔との位置づけとなります。
味方につけるという点では、八百万の神の一つを自軍の味方にした日本古来の概念と類似します。
古代以来日本では、仏教も同様の利用のされ方をした経緯があります。

一神教の場合、民族救済預言から来るものですから、一民族に限られます。ユダヤ教で血を重視するのはそのためです。
また、イスラームのアッラーも同様で、基本は平和重視ですが、相手から自民族に対し攻撃されれば、
神の基に戦う使命を果たすことになります。
イエスもアブラハムの子孫として、ユダヤを継承していたため、ユダヤの救世主としての役割を担った訳ですが、
キリスト教に於いては、人間の始祖は唯一アダムとイブだけですから、世界中の全人類は、
実は民族に関係なく同じ兄弟であり、神も真に唯一つであると導きました。
世界の誰でもがキリスト教の神の恩恵の中にあり得るということになります。

ここで、キリスト教では神との契約の関係が出て来るのですが、長くなるので置いておいて、
最初に戻り、神と奇跡の関係ですが、キリスト教は、当時絶大であった、パリサイ派に対し、
イエスが、救世主であることを証明することが必然でありました。
また、現代においても人々に同様の証明する必要がありますが、
現実的には、同胞が作った聖書内にその記述が残るのみであり、
第三者的には、奇跡が行われたという公正な判断は難しいということでありましょう。

[206] Evrard rose de la fage 2008/06/08 17:31

>>202

>ちがいますよ。
>「神の」奇跡を起こしたと、「聖書」に「書かれている」だけです。
>ですので、
>「聖書」という伝承の中でだけ「その力が神のものである」と
>「定義」されているにすぎませんから、「神の存在」は「聖書の前提」なだけです。

実際釈迦に奇跡を起こしたなんて話、ほぼ皆無じゃん。

>いいえ。どちらも「現実」や「事実」とは無関係な「真実」なのですから、
>正解がいくつあったって問題ありません。

矛盾してることを両方正解なんておかしいだろ。

[207] rs 2008/06/08 17:48

数千年の昔から宗教は実在します。
でも、数千年の時を経ても、人の心には憎しみや悲しみは絶えません。
ということは、
神が人を救う事が出来るとしても、
それは非常にまれだったり、
人を救うにはあまりにも効率の悪い手段だと思います。

バトルオブブリテンの時に弱小のイギリス空軍を率いてドイツ軍の猛攻を防ぎきったダウディング将軍と大臣との有名な会話
「それでは君はレーダーに祈るというのかね?」
「いいえ、逆です。私はレーダーを信じ、神に祈ります。」

私はこのダウディングの頼るべきものは自らの技術や努力という姿勢が好きですね。

[208] ハンザキ 2008/06/09 10:49

>>206
>実際釈迦に奇跡を起こしたなんて話、ほぼ皆無じゃん。

当たり前です。お釈迦サンはタダの人間ですし、
そもそも仏教では別に奇跡なんて概念は必要ないんですから。

>矛盾してることを両方正解なんておかしいだろ。

それぞれ別々の「物語」を同列に扱うから矛盾するんです。

[209] T、T 2008/06/09 12:35

[205]吟河鐡道 さんへ。

>>193 >この宗教の領域で蹴躓くと自分一人では救われません。
また救う処が個人的には見つからないものです。
それ故に、やむにやまれず僕は、約20年間実践しておるものです。

>このことについて、どのようなことがあったのか、
>具体的に教えていただくことは出来ますでしょうか。

「この宗教の領域で蹴躓くと自分一人では救われません。」と言うのは
世間では、宗教を信じるとか、無宗教とか語って居られますが、本質的には
宗教が分かっていないのであります。
その分からない宗教の領域でありますから、それに蹴躓づている事に気が
つかないかないものです。
しかも、知らず、知らずに宗教の領域に蹴躓づているものですから、本質的には
本人自身には分からないからであり、従って、何に蹴躓いているのかが分かってない故に、
本人に取っては解決のしようがなと言う意味です。
表面的には、感じとして意識的に、不安、悩み、苦しみ、世の中が嫌になる、
虚無、として現れ来ます。

「また救う処が個人的には見つからないものです。」
約20年間、根源的に蹴躓いている人たちを救う作業をしておりますが、その間
治す(直す)、或いは救う処を捜しておりましましたが、特に昨年、ある事情で
僕が指導しておりました学生さんが、京都のある禅寺に修業に行かれたのでありますが、
そこで上手くいけば、僕は救う作業を止めようと思っておりましたが。
しかし、禅寺の修業は駄目でした。
そこでやむにやまれず、今現在(今年、一月より)は、大阪から奈良県(宇陀市の山手)
に単独にて転居して暮らしております。
今は、大学生一人(大阪)を見て居ります。日記指導と1〜2か月の間に一回の接見です。
もし何方か、自己を見失って居れる方を救う処をご存じなら教えて頂きたい。

秋葉原の無差別事件の加藤容疑者も、まさに、宗教の領域に蹴躓いた状態の現象です。

[210] 吟河鐡道 2008/06/09 14:52

>>209 T、Tさんへ。
宗教上のある領域のことでしょうか?
通常その領域への扉は、人間の機能上基本的には開かないようになっていますね。
殆どの人はそのまま一生を終えます。
宗教では通常瞑想などの手法で、気(エネルギー)の充足、精神修練などの条件が整うと扉が開き、
気が推進力となって識がその領域に達します。
ごく稀に宗教上とは無関係に領域に達するケースがあります。
問題なのは、扉の意識的な閉鎖が難しい点です。
本人の意思で閉じることが出来ない場合、延々と気の炎で脳にダメージを受ける恐れがあります。
ここまで顕著でない人もいれば、一度限りの人もいます。
特にこの関係の知識のない人は、自分に何が起こったのか分からず不安の中で長期間過ごすことになります。
所謂、精神疾患と言われる人の中には、この現象でダメージを受けた可能性も考えられます。

一般の宗教では、多分解決は難しいのではないかと思います。
何故なら、多くの修行系の宗教は、この領域に達することが主の目的として扱われ、達する人が殆どいない、
また誤解から、経典を、この領域後の処方としての解釈を取って来なかったと思われるからです。
この領域に達した場合、禅、瞑想は寧ろ危険です。

その領域は瞑想の場合、大概一度目は幸福に満ち安穏で清浄であるため、神または仏の領域と認知しますが、
二回目以降いずれ程なく魔境が現れるケースが多いようです。
精神不安のある方々の中には、この領域に達しないが影響が出ている可能性もあるでしょうね。
この現象は長年、宗教領域として扱われていたため、逆に氷山下で、病気や事件となるケースがあるようですね。

もしこの顕著なケースで、早期であれば、時間はかかりますが対処は出来るかと思います。
このケースでなかったら、スルーしてください。

[211] 露と月 2008/06/09 18:55

>>二回目以降いずれ程なく魔境が現れるケースが多いようです

ずっとやりとり拝見しています
5回目くらいで魔境が現れ、暫し中止した場合、再び再開してもまだ魔境の中でしょうか?
完全無視した場合のことですが・・
また、精神が汚れている場合いつまでたっても同じでしょうか?

よろしくお願いします

[212] 露と月 2008/06/09 19:10

>>210

吟河鐡道さんに質問させていただきました。
今はもう自分の中では恐怖心もほとんど消えています。
最初は驚きの連続でしたが・・

[213] ☆(^ω^)えりちゃん☆ 2008/06/09 19:54

(^ω^)吟河鐡道せんせ、ユダヤ教は血を重視しないにょ。
ユダヤ教徒は神との契約を重視するにょにょ。
だから、日本人がユダヤ教を信じて契約のとおりに生きればユダヤ人になるにょにょ。そういう宗教にょにょ。聖書見ればわかるにょ。
イスラム教も同一民族による宗教ではないにょ。
アラーの神を信じればイスラム教徒だも。
ここの認識が違えばだめだも。

(^з^)アダムとイヴは知恵の木の果実を食べたので、楽園を追放され、
産みの苦しみと労働の苦しみをあたえられたも。
これを「原罪」といって、アダムとイヴの子孫である人類は罪を
背負ったという教えなんだも。だから原罪を償うためにボランティアとかしてるでしょ。西洋人。

(^ё^)イエスはパリサイ派の唱える、戒律を厳格に守る信仰に
疑問として、愛をといたにょ。
それで、命をとして神と新しい契約を結んだにょ。だから救世主なのだも。

パウロが三位一体なんかの説をとってイエスを祀りあげたも。

ユダヤ教の神もキリスト教の神もイスラム教の神も同じ神だも。
ヤハゥエ=エホバ=アラーだも。
ユダヤ教の旧約聖書にタルムードつけるとユダヤ教
キリスト教は旧約聖書+新約聖書だも
イスラム教は旧約聖書+コーランだも
聖典まで同じだも。

でね。ユダヤ教徒はイエスやマホメッドを
預言者の一人と見てるけど救世主だと思ってないも
キリスト教徒はイエスを救世主だと思ってるも。
イスラム教はイエスは預言者の一人にしか見てないし、
キリスト教徒から見ればマホメッドがダンテの神曲にもあるけどにょ。
地獄に落ちたことになってるにょ。

[214] 吟河鐡道 2008/06/09 22:33

>>211 露と月さん
この件につきまして、今最も必要なのが、情報だと思います。
露と月さんも、この領域の現象再現に似せた団体があることを
危惧されていらっしゃるのではないでしょうか。
実際に体験された方は、それらの団体の偽が直ぐ見抜けるかと存じます。
しかしあまりの不安から、そのような団体に頼ってしまい、相手はその現象を知りませんから、
一様に同様の修行をさせられ、取り返しのつかない状況になるケースがあるようです。
私はこの体験後は、安易に宗教とは関わらない方が安全であると考えています。

聖域と魔境の関係ですが、非常にデリケートな問題であるため教義等のように確定してしまうことの方が
問題があるのではないかと考えています。
露と月さんが体験上どのように認識されておられるかも、非常に参考になりますので、
ご見解を頂けると嬉しいです。

私も最初は正しい三昧寂静境地であれば容認できると考え、魔境に入らないすべの方を模索しておりました。
しかし、精神へのリスクを鑑み、年月を経るうち、三昧境地はあくまで通過点であると認識するようになりました。
前述しましたが、今はこの三昧境地に敢て重ねて入ることなく、体内の自然の成り行きをこころ静かに内観し、寂静を旨とすることが、
お釈迦さまの本意であろうと考えております。
現実的に、安定するまでかなりの年月が掛り、日常の生活にも支障が出るでしょう。
人間として、社会に貢献し正しく生きることが第一義と言えるでしょうから
その生き方を前提にすべきと私は考えております。
欲によらず、焦らず、慎み深く、清浄な精神と生活と食をこころ掛ければ、やがて現身の方が適応してくれるようです。

[215] 吟河鐡道 2008/06/09 23:49

>>213
☆(^ω^)えりちゃん☆さん、
マタイの福音書の冒頭にアブラハムから、イエスまでの系図が載っていると思います。
イエスがアブラハムの子孫であることを証明する必要性からです。
根源的にはこの思想は変わりません。現代の信者に対してははこの束縛を解いておりますので、☆(^ω^)えりちゃん☆さんの仰る内容になります。
ユダヤ教とキリスト教とイスラム教の関係は、根底がユダヤ教、ユダヤの子孫としてイエスとマホメットが生まれましたね。

前述しました神の関係は人間視点の神の関係となります。
またこの関係は敵対する他民族の神に対してですので、ユダヤ同一民族であるキリスト教、イスラム教の神は旧約聖書を根源とし同一といえますね。

契約で最も重要なのは、神との契約である点です。

それこそ、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教が仲良くなって、三位一体になってほしいにょ(笑。
そうなると世界中の大半の戦争がなくなるにょ(笑。

[216] rs 2008/06/10 02:42

以前、知的障害を持った子供を一時預かったときのことです。
お祭りの夜店での買い物を楽しませてやりたくて、小遣いに500円硬貨を与えて一緒に出かけました。
子供が生まれて初めての買い物を楽しそうにしているのは見ていて微笑ましかったです。

子供が選んだのは焼きそばでした。
くわえタバコで焼きそばを作っていた男は、肩の辺りに入れ墨をした柄の悪そうな男だったので、
私はその男が気に入りませんでした。

縁台で子供が焼きそばを食べようとした時にふと気づいたのですが、
焼きそばの中にタバコのフィルターのような物が見え、箸で突きだしてみると確かにタバコの吸い殻でした。
私はその子に代わりの500円硬貨を与えて、その子の焼きそばを捨てました。
捨てたところを見ていた入れ墨の男は私に因縁じみた文句を付けてきました。
そりゃ、自分の作ったものを目の前で捨てられたら、いい気はしないでしょう。
私は焼きそばに吸い殻が入っていたこと、
この子に生まれて初めての買い物を楽しませてやりたいこと、
この子の楽しい想い出を傷つけないように貴方とは言い争いをするつもりはないこと、
それらを順序立てて説明しました。
私はどちらかというと、そうやって順序立てて相手を納得させられるタイプです。
対して入れ墨の男は、順序立てて説明することが苦手なタイプらしく、私に焼きそばを捨てられたことが腹立たしいような感じで口ごもっていましたが、「帰りにもう一度立ち寄ってくれ。」というような事を繰り返し言いました。
人の流れに乗って参拝を済ませて、ふと考えたんですが、あの入れ墨男の屋台に戻るためには、自宅と反対側に人混みの流れに逆らって歩かなくてはなりません。
子供を連れて面倒だなと思いつつ、焼きそばを捨ててから30分後ぐらいにあの男の真剣さに引かれるように戻りました。
戻ってきた私とその子を見つけた入れ墨男はホントに嬉しそうに、慌てて作っていた熱々の焼きそばを大盛りに盛って子供に与えてくれました。
見れば、屋台のゴミ箱には多量の焼きそばが捨ててあり、男はさっきの焼きそばを全部捨てて作り直していたようでした。

男は嬉しそうに焼きそばを頬張る子供の頭を撫でながら涙を浮かべているようでした。
子供の嬉しそうな表情に感動したのかもしれませんし、自分がこの子の想い出を傷つけずにすんだことを喜んでいたのかもしれません。
私は男と子供にちょっと距離を置いて見てたんですが、ちょっと反省してました。(笑)
入れ墨と、柄の悪い粗野な雰囲気でこの男を判断してしまっていたことを、、、、
十数年を経て、大人になったその子が、ふと思い出すように、あの時の焼きそばの話をすることがあります。

ちょっと、とりとめのない話をしたのは、、、
難しい宗教の話の中で、人間の優しさや思いやりって、宗教とは関係ないんじゃないかなと思ったから。

[217] 露と月 2008/06/10 09:40

その前に・・
質問していながら、実際にはあまり深刻に受け止めているわけではありません。
今はかなり冷めた状態ですので・・
ただ、その先が少し気になったものですから質問させていただた次第です。

>>体験上どのように認識・・・
はじめ一週間ほどは、ウキー♪ と舞い上がったものです。
これは、ほぼ100%の人がそうなるとみています。
舞い上がってしまって、それを売りにしている哀れな団体すらありますね。
そしてそれを鵜呑みにしている人が次々と増えるという悪循環。
しかし私は「待てよ?」と疑問が沸いてきたものです。
おぞましいものは勿論のこと、神々しい物であろうとも、(ここではよからぬ人も見ているかも知れません。詳細はご勘弁を)またそれ以外であろうとも、それら一切が「魔」の巣窟に迷い込んだ状態と認識しています。
しかし、それは到達点までのプロセスであって、すべての人が必ず差し掛かる部分であり避けて通れるものではないと考えます。
はしかのようなものでしょうか?
勿論怪しげな力というおもちゃを与えられようが、それも含めてすべてが「魔」とみています。
ただ、これは一月から三月程度で消滅する世界というのもわかっています。
経験がない部分というのは継続した場合が大問題と思うわけです。・・
「宇宙との一体感」という現象も「魔境」とみています。
仏の出現などもそうですね。・・打ち棄てるべきと
その体験の後、それを確認すべく数年かけて数多くのお坊さんを尋ね歩き体験そのものの全容はつかんでいるつもりではありますが、まだ未体験の領域のことがまったく白紙です。
しかし、何といっても欠いてはならない部分がやはり強烈な信仰心でしょうか?
それが必要ない強靭な精神力の人もいるかも知れませんが、今私にその精神力があると判断することは不可能です。
強い信仰心、いざという時の支えとでもいいますか、たとえば不動信仰とか・・
500年以内の宗教は、これをすべてを話にならないものとしています。

>>安易に宗教とは関わらない方が・・・
まったく同感です。距離を置くことこそ必要ですね。
そういう時にこそ目障りな「良からぬ思い込み」を吹き込まれそうです
後戻りできない事態に陥るかと・・恐ろしいことです。
そのように深い世界に身をおいている時、かるい他者○○で○○完了でしょうね
あなたには、○が何かがお分かりと思っているのであえて書きません。(^-^)

>>相手はその現象を知りません・・・
そういうのはまったく知られていないようですね。
お坊さんすらほとんどが知らないとみています。
しかしそれを知っている人は、迷いの中にある人、または崩壊寸前の人には知らせてあげることも親切というものかも知れませんね。
本当はそういう善意の行為すらも「魔境」らしいですが・・
崖っぷちにある一人の人生を救ってあげることにつながり、是非やるべきことかと

>>実際に体験された方は、それらの団体の偽が直ぐ見抜ける・・・
手に取るように観えますね
しかし多くはそのことを知らない。知らないどころか崇拝してしまう。
哀れなことですが、そういう時の本人の思考はガチガチになって真っ暗な状態になっていますね
これぞまことの「無明」でしょうか・・

>>三昧境地はあくまで通過点・・・
はじめのうちはかなりの怪しげなものが次々と噴出すると聞いたことがあります。
実際にそうでした
それもやがては蒸発するものと考えています。
しかしこれはあくまで私の推測ですので確かではありません。

>>自然の成り行きをこころ静かに内観・・・
「こころ静かに」・・これが確信部分ではと同じく同感です。

もう一度聞きたいことを言いますと、「経験していない部分」に入って行くのにそれを継続した場合どういう注意点があるかということです
案ずるよりなんとかと言いますが???

長くなりました

[218] 吟河鐡道 2008/06/10 17:00

>>216
>人間の優しさや思いやりって、宗教とは関係ないんじゃないかなと思ったから。

良い話ですね。優しさや思いやりは誰もが持ち合わせているものでしょうね。
前もそういう良い話を書き込まれたことはなかったですか?

[219] 組織的ハラスメント 2008/06/10 17:26

●宗教と科学

どちらも乱用・悪用すればこの世に地獄をもたらす。
使用法を誤らなければ、この世に素晴らしい恩恵をもたらす。

[220] 吟河鐡道 2008/06/10 18:10

露と月さん、
>>211 >完全無視した場合のことですが・・
これについてもう少し具体的に説明していただけないでしょうか。

>>217 >「経験していない部分」に入って行くのにそれを継続した場合どういう注意点があるかということです
案ずるよりなんとかと言いますが???

は、露と月さんの仰る冥想「宇宙との一体感」を数日を置きながら何度も体験した場合どういう注意点があるか、ということでしょうか?

それとも、現在は「宇宙との一体感」の体験はしておらず、現在瞑想などをされていて、瞑想を繰り返したのち「宇宙との一体感」を体験する際、どういう注意点があるか、ということでしょうか?

それとも、「宇宙との一体感」の状態をずっと続けた場合、どういう注意点があるか、ということでしょうか?

[221] T、T 2008/06/10 18:36

[210]吟河鐡道 さんへ。
>宗教上のある領域のことでしょうか?

生かされて生きている、領域ならそうです。

>殆どの人はそのまま一生を終えます。

そのように思われていますが。しかし、死ぬ時期が分からないものを、死を予期した場合、
つまり、死の恐怖です。この死の恐怖に囚われますと気が狂うか、食事が受け付けなくなる。
修業された禅僧にも見られるそうです。

>特にこの関係の知識のない人は、自分に何が起こったのか分からず不安の中で長期間過ごすことになります。
>所謂、精神疾患と言われる人の中には、この現象でダメージを受けた可能性も考えられます。

「この現象でダメージを受けた可能性も考えられます。」というよりか、その人にとって厳しい環境に
対処できない場合に生じます。
事実を言えば、「対処できない」というよりか、厳しい環境に耐えれない精神状態に、時すでに
なっていたと言う事です。
何故なら、僕は今では、三才ぐらいから凡そ、この子は放って置いても大丈夫、この子は気をつけて
育てなければいけないと言う事が解るからであります。
この時から根源では、歪み進んでいたと言う事です。それが小学5年頃から中学3年ぐらいに変化
出てまいります。
この事から考えれば、「親の姿を見て育つ」という言葉には理がないように思われます。

>一般の宗教では、多分解決は難しいのではないかと思います。

信じる宗教では不可能な事です。「覚の宗教」(久松、真一)が必要です。

>禅、瞑想は寧ろ危険です。

そう思います。禅は瞑想に係わりが無いものです。禅と瞑想と関係ずけられていますが
「臨済録」等を読みますと瞑想では無いように思われます。

>神または仏の領域と認知しますが、
>二回目以降いずれ程なく魔境が現れるケースが多いようです。

それで臨済禅師は「仏に逢えば仏を殺し、祖に逢えば祖を殺す」と言っています。

>精神不安のある方々の中には、この領域に達しないが影響が出ている可能性もあるでしょうね。

それは多いにあると思います。

>病気や事件となるケースがあるようですね。

内科系の病、事件の原因は、自己の見誤りです。

>もしこの顕著なケースで、早期であれば、時間はかかりますが対処は出来るかと思います。

その通りです。その為には指導者に、結果のみでなく余程の原因を
見抜く作業が必要と思われます。池田の宅間事件、滋賀県の園児殺人の中国人の主婦(名を忘れまし
た)典型的です。両件共に精神治療を受けていたそうであります。

[222] 露と月 2008/06/10 19:36

>>これについてもう少し具体的に説明していただけないでしょうか。

あらゆる現象をすべて無視し、取り合わずに押し通ることが大事と思ったものですが、やはり眼前に見えてくるものはどうしても意識してしまいますね
そしてそれが何なのか?ではなく、なんであれ一切気にかけなくはなりましたが、ですが、再び再開してもやはりしばらくはそれら諸現象がまたまた襲ってくるのは確実と思っています。
私のように薄汚れたタイプであればこそ魔境も一段と強いものではと考えます。
「浄化が先決」と言われそうですが。・・
それとあえて「蛇」と呼びますが、これとてもいきなり上がりだした場合収拾できなくなる恐れ大と聞きました。
これも心配の種です。

うかと書き込みして「しまった」と思いましたが、弁解します。
ヨガでは「一体感」や「至福」を重視するようですが、私の場合、あえてすべての諸現象を徹底排除したいとの思いでしたので、それらすべてを魔境と決め付けていましたので、決してヨガに対する偏見等ではありません。
どちらかというと、禅に近い考えを選択したということです

「宇宙との一体感」といいますか、主と客の別がなくなった状態ですが、それはもう今ではありませんし、またその領域までやる気もなくなりました。

ただ、再び一切おかまいなくその領域にまでいったとしたらどうなるか?ということがふと気になりました。
今はその兆候の前に終了しますので・・

また、大乗起信論にいわれる、光輝く自性清浄心らしいものもありましたが、それすらも怪しげな魔境と捕らえています。
ですのでその域に近づかないよう心がけています。
また、厳密にいいますと大乗的思想そのものまでが「魔境」だとはいえないかな、と思ったこともあります。
今こうして囚われが復活したこと自体も勿論そうと言えますね。
心理療法程度であればその領域以前にかなりの効果があるという経験をしていますので、そういう世界までは全く必要ないと考えていますので・・・

見える聞こえる等、すべての現象を無視して行った場合、その先はどうなるかな?ということです。
いつもは途中下車していますので、とりあえずは何の心配もないわけですが・・・

余談ではありますが、中国のある禅僧は目を開けて禅を行っていたそうですね。

[223] ☆(^ω^)えりちゃん☆ 2008/06/10 19:52

吟河鐡道しゃん三大ユダヤ系宗教が一つになることはないにょ。
西本願寺と東本願寺が一緒にならないようににょ。

一神教はうちの神の拝み方が絶対正しい=他は邪
と考えるにょだからありえないにょ。

[224] 吟河鐡道 2008/06/11 09:45

>>221 T、Tさん、
>生かされて生きている、領域ならそうです。

生命体の根源領域ともいえるでしょうか

>修業された禅僧にも見られるそうです。
>「この現象でダメージを受けた可能性も考えられます。」というよりか、その人にとって厳しい環境に対処できない場合に生じます。事実を言えば、「対処できない」というよりか、厳しい環境に耐えれない精神状態に、時すでになっていたと言う事です。

公案禅では特に起こりやすいようですね。一説では極度の際限のない虚無への思考集中から起こるとも言われていますが、思考本位で真意が測れないことのジレンマの応酬であるかも知れません。現代の子供たちの学習方法や生きる上での思考体系が、正にこれに類似するようにも思えます。常に難題に向かわせられ、次々に試練とテーマが与えられ安堵の暇さえありません。小学5年頃から中学3年といいますと、思春期ですね。その時期の性の影響は考えられないでしょうか。

この時期には、所謂宗教上は基礎知識に留め、ゴールが見えず体内影響のある瞑想系よりも、簡単でも具体的にテーマを絞って達成感を与える方法が効果があるかも知れません。子供達は個性があるので、一様に対処することは出来ないでしょうが、自由意思での価値を見出せる環境が必要であるように感じます。本人が、緊張状態ではなく、競争ではなく、のびのびと、人の役に立つことが価値のあることと思い、そういうことに興味と希望を持てるようになると、よいサイクルが回るのではないでしょうか。

>その通りです。その為には指導者に、結果のみでなく余程の原因を見抜く作業が必要と思われます。

そうですね。子供が訳もなく泣くように見えても、実際には原因と理由があることが殆どですね。
それを大人の視点で結論付けると、知らず知らず精神的なダメージを積み重ねるケースがありますね。

>>222 露と月さん、
>再開してもやはりしばらくはそれら諸現象がまたまた襲ってくるのは確実と思っています。それとあえて「蛇」と呼びますが、これとてもいきなり上がりだした場合収拾できなくなる恐れ大と聞きました。これも心配の種です。

有難うございます。なるほどそういう内容ですね。所謂「至福」を体験したうえで、再度行った場合ということですね。もともと完全に肉体から離脱し空一体となる「至福」を体験すること自体が、積極的自己意識では難しいため、成功した人が皆無に近い訳ですが、新たに生まれ変わったと言えるくらい人生感が変わりますね。輪廻を絶ったとも思しきほど。

その際、肉体と精神の浄化は必須といえるでしょね。お釈迦さまが、ヨガとして成功したと仮定した場合、成功の理由のひとつとして、肉体と精神の浄化、並びに、蛇の力がギリギリになるほど肉体を枯らし、また年齢的に旬を超えていたことが幸いしたと考えられます。私が若い人に瞑想修行等に対し注意を呼び掛けているのはそのためです。

個人差が大きいと思いますので一様に同様の状況に遭遇するとは言えないでしょうが、「蛇」が目覚めると(至福によって蛇が目覚めるのではなく、蛇は体内での推進力ですので、至福体験とは無関係に蛇は活動します)自己の中にこれほどのパワーが眠っていたのかと、驚愕しますが、まず扉を閉じることが困難になりますね。際限のないパワーを受け止めるには肉体は余りに華奢で、蛇との統制を取り安定するまで寝ても覚めても常に監視し続け自己と向き合う日々が続きます。統制が出来ない場合体内の何処かに障害が出る可能性もありますね。統制と取るか扉を閉じきるか、その期間は短ければ数週間、長ければ3年。その間精神力を保たなければならないですね。ただ、ひとつ言えることは、飽くまで人がもって生まれた機能ですので身体自体が克服できることが前提で備わっているのだと思います。人間の肉体は、生態的に自分では考え及ばないほど精巧に出来ている筈。逆に自己の身勝手で酷使すれば壊れてしまいますが、向き合うのは自分自身ですから、その意識さえ的確に覚悟すれば時間は掛かりますが自己対応次第と言えるのではないでしょうか。

>いつもは途中下車していますので、とりあえずは何の心配もないわけですが・・・。

基本的には「至福」体験後は瞑想の必要はないと思います。(最初の段階から瞑想に拘る必要はないと考えておりますが)心身正しければ、身体機能がバランスよく統制してくれと思いますので。様々な点で敏感になるというか、判るようになりますよね。私は、無理にまた興味本位で「至福」に向かおうとする自己意識的行為が悪影響の根源であるとも考えております。これ自体が欲望であり火の力であるからです。本質的には蛇は蛇であると。。。

[225] 吟河鐡道 2008/06/11 09:51

>>223 >三大ユダヤ系宗教が一つになることはないにょ。

☆(^ω^)えりちゃん☆のお力で何とかならないでしょうかね。
世界平和には、真なる宗教を見出すか、宗教同士が人間として手を結ぶかしかないと思うのですが。

[226] ハンザキ 2008/06/11 10:46

「宗教をコミュニケーションの手段として使わない」って手もありますよ。

[227] 露と月 2008/06/11 17:17

はじめに訂正させていだきます。
書き込みした内容についですが、あなたがいうところの現象と私が体験した内容が同じかどうかは私には一切判断できていません。
決め付けもなく、また完全否定することもなく、中立な状態で自分を眺めています。
とりあえず言い直しますが、・・

「至福」類似体験
「一体感」類似体験
とでも言い直しておきます。

当然のことではありますが、60億も人がいて、よりによって何故私にその低い確率の現象が現れたのかということがポイントとなます。
絶対にそんなはずはないとみています。
その体験自体、私が「胡散臭い体験」と自分で自分を認識している理由です。
これが新興宗教教祖達の場合は、そろいも揃ってほとんどが「自分に現れた真理」として捉えている事実があり、まさにそれが自我の膨張であると気がついていない点が問題だと思っています。
そこのところに気がつかないからこそ統合失調症を疑われるはめになってしまっていますね。

>>新たに生まれ変わったと言えるくらい人生感が変わりますね。・・

それもありませんでしたので、やはりあくまで擬似体験のようです。
ただ、はっきりと人生観に変化があったといえば、2つほどで、「苦」そのものがほとんど感じられなくなったのには驚いています。
実際には「苦」は存在しているはずですが、それについての思考は、一日の間でほんの5分程度で自然に流れてしまうようになったことです。
それまでは、一旦とらわれ始めたらいつまでも尾を引く性格でした。
我ながら実に不思議です。
それともう一つは、それまで人のことなど知ったことではなかったのが、妙に利他心のようなものが出るようになったことです。
それと不動心が強化されたのを強く感じます。
偶然か、それとも自分の思い込みの世界に入り込んだ結果かも知れません。
あくまで主観を排して冷静に観るようにしています。・・
ということを言い出したことからして、その体験によって多少の自我が蒸発したというのも、思い込みたい部分かも知れませんね。(^-^)

>>その際、肉体と精神の浄化は必須といえるでしょね。

今後、それについてますます調べてみたいと思います。

>>、肉体と精神の浄化、並びに、蛇の力がギリギリになるほど肉体を枯らし・・

その言葉もはじめて聴くことばです。
もっと聞きたいものです。

>>また年齢的に旬を超えていたことが幸いしたと考えられます。

これについてもはじめて聞く表現です。
つまり、年齢によっては、または、その人のパワーによってもエネルギーの暴走があると解釈してもいいのでしょうか?

[228] 露と月 2008/06/11 17:20

227の続きです

>>(至福によって蛇が目覚めるのではなく、蛇は体内での推進力ですので、至福体験とは無関係に蛇は活動します)

至福類似体験の後に何か下の方から突き上げるものを感じました。
それは3ヶ月ほど続いたように記憶しています。
やはり蛇だったのでしょうか?

>>統制が出来ない場合体内の何処かに障害が出る可能性もありますね。

後日それを聞いたために恐ろしくなったものです。

>>その意識さえ的確に覚悟すれば時間は掛かりますが自己対応次第と言えるのではないでしょうか。

やはり無鉄砲にやるべきではないですね。
この世に何の未練もなくなって、遣り残したこともなくなってからやるというのも一つの方法でしょうか?

>>私は、無理にまた興味本位で「至福」に向かおうとする自己意識的行為が悪影響の根源であるとも考えております。

その動機の人が多すぎるようですね。
見ていてヒヤヒヤしますね。

もっと詳細を聞きたいと思うのですが、やはり掲示板で詳細を書くにはあまりにも激しいものになるようでどうしても躊躇します。
棄てアド書いたら連絡いただけるでしょうか?
もっと詳細に説明をした上で的確な判断をお聞きしたいという思いが強くなりましたが・・

[229] ☆(^ω^)えりちゃん☆ 2008/06/11 20:37

吟河鐡道しぇんしぇ
えりちゃんの魔法でみんななかよし♪****************

[230] rs 2008/06/12 06:34

>>218 吟河鐡道さま
レスありがとうございます。
>前もそういう良い話を書き込まれたことはなかったですか?
いろいろ感じた事を書いたことがあります。
人の心をほのぼのさせるような行為って、誰の身近にでもいくつもあるような気がします。

>>228  露と月さま
至福体験かどうか分かりませんが、
私は単独でテントや寝袋が入ったザックを担いで数日間のトレッキングをすることがあるんですが、そんな時に疲れてふと岩に腰掛けて全身の力を抜いたときなどに不思議な感覚に捕らわれることがあります。
言葉で説明しにくいんですが全身が溶けて拡散して山と一体になるような感覚です。体の中を風が吹き抜けたり、山の麓で木々の葉がざわざわしているのが肌で感じるように感じられます。
至福というのかどうか、非常に謙虚な気分になって、謙虚になれたことが嬉しい感じで自然に涙が出てきます。
私は宗教とは無縁ですが、私の体験は他の方々の至福体験と同じものでしょうか

[231] T、T 2008/06/12 08:48

[224]吟河鐡道 へ。

>生命体の根源領域ともいえるでしょうか

そうです。具体的には、お釈迦様が35才にして気づいた処の宗教の領域です。

>思考本位で真意が測れないことのジレンマの応酬であるかも知れません。

精神疲労も加担され一種の狂い状態(知性の崩壊)でそのようです。

>常に難題に向かわせられ、次々に試練とテーマが与えられ安堵の暇さえありません。

それは通常、人生の成長の過程においては皆さん平等にあると思わます。

>小学5年頃から中学3年といいますと、思春期ですね。その時期の性の影響は考えられないでしょうか。

大いにあります。孔子が「15にして学する」と言われた処です。
「学する」は普通の学問ではなく矛盾に気が付いたと言う事です。孔子のようにそこから人生を極めて
生かられる人と、自分を潰して行く人と別れて来るように思われます。
この差は、素質(内因)と機会によるものと思われます。

>そうですね。子供が訳もなく泣くように見えても、実際には原因と理由があることが殆どですね。

そうです、そこにも重大問題が含まれております。「子供が泣く」様からもその子の「素質(内因)」を
読み取る事が出来ます。
その「泣き方」によつては、単に泣きやますだけではなく、育て方を変える必要が生じて来ます。
しかし、この事は、普通一般には知られておりません。僕も修業するまでは分からなかった分野です。

>簡単でも具体的にテーマを絞って達成感を与える方法が効果があるかも知れません。

そうです。答えを与えるのではなく、本人自身が気づく方向に導くのが一番です。

>子供達は個性があるので、一様に対処することは出来ないでしょうが、

全くその通りです。ですから教える指導で無く、本人自身に宗教の領域がある事に気づく作業をすればよい。

>自由意思での価値を見出せる環境が必要であるように感じます。

この自由意思が問題です。不自由即自由の自由ならよろしいのですが、単なる、不自由から自由えの
自由なら求められる価値は、相対的価値観になり、悩み、蹴躓く元になります。
「環境が必要であるように感じます。」も関係はありますが、絶対の価値観が必要です。

>本人が、緊張状態ではなく、競争ではなく、のびのびと、

緊張状態があって、緊張状態が無い。競争があって、競争が無い。のびのびでなく、のびのびと。
いう領域を知る必要があります。

>人の役に立つことが価値のあることと思い、そういうことに興味と希望を持てるようになると、よいサイクルが回るのでは
ないでしょうか。

これは、正にその通りであります。人生、生き抜くという事はそれ以外ありません。

[232] 月野うさぎ 2008/06/12 09:27

>>226
この宗教糧にいる多くの人にとって、それは非常に難しいことです(笑
掲示板は社会の縮図とも言えますね。

[233] 月野うさぎ 2008/06/12 09:30

>>230
>言葉で説明しにくいんですが全身が溶けて拡散して山と一体になるような感覚です。体の中を風が吹き抜けたり、山の麓で木々の葉がざわざわしているのが肌で感じるように感じられます。至福というのかどうか、非常に謙虚な気分になって、謙虚になれたことが嬉しい感じで自然に涙が出てきます。

こういった状態のとき、頭の中は空っぽで、なにひとつ思考してない自分がいたことに、
あとから気付いたり・・・(笑
ただただ心地良く、気持ちいい・・・
それがありさえすれば、宗教はいらないのだと思う。
だけど、多くの人は、そんな幸せに気付かない・・・。

[234] T、T 2008/06/12 09:40

[224]吟河鐡道さんへ。

>生命体の根源領域ともいえるでしょうか

そうです。具体的には、お釈迦様が35才にして気づいた処の宗教の領域です。

>思考本位で真意が測れないことのジレンマの応酬であるかも知れません。

精神疲労も加担され一種の狂い状態(知性の崩壊)でそのようです。

>常に難題に向かわせられ、次々に試練とテーマが与えられ安堵の暇さえありません。

それは通常、人生の成長の過程においては皆さん平等にあると思われます。

>小学5年頃から中学3年といいますと、思春期ですね。その時期の性の影響は考えられないでしょうか。

大いにあります。孔子が「15にして学する」と言われた処です。
「学する」は普通の学問ではなく矛盾に気が付いたと言う事です。孔子のようにそこから人生を極めて
生かられる人と、自分を潰して行く人と別れて来るように思われます。
この差は、素質(内因)と機会によるものと思われます。

>そうですね。子供が訳もなく泣くように見えても、実際には原因と理由があることが殆どですね。

そうです、そこにも重大問題が含まれております。「子供が泣く」様からもその子の「素質(内因)」を
読み取る事が出来ます。
その「泣き方」によつては、単に泣きやますだけではなく、育て方を変える必要が生じて来ます。
しかし、この事は、普通一般には知られておりません。僕も修業するまでは分からなかった分野です。

>簡単でも具体的にテーマを絞って達成感を与える方法が効果があるかも知れません。

そうです。答えを与えるのではなく、本人自身が気づく方向に導くのが一番です。

>子供達は個性があるので、一様に対処することは出来ないでしょうが、

全くその通りです。ですから教える指導で無く、本人自身に宗教の領域がある事に気づく作業をすればよい。

>自由意思での価値を見出せる環境が必要であるように感じます。

この自由意思が問題です。不自由即自由の自由ならよろしいのですが、単なる、不自由から自由えの
自由なら求められる価値は、相対的価値観になり、悩み、蹴躓く元になります。
「環境が必要であるように感じます。」も関係はありますが、絶対の価値観が必要です。

>本人が、緊張状態ではなく、競争ではなく、のびのびと、

緊張状態があって、緊張状態が無い。競争があって、競争が無い。のびのびでなく、のびのびと。
いう領域を知る必要があります。

>人の役に立つことが価値のあることと思い、そういうことに興味と希望を持てるようになると、よいサイクルが回るのでは
ないでしょうか。

これは、正にその通りであります。人生、生き抜くという事はそれ以外ありません。ここが宗教の領域です。

[235] T、T 2008/06/12 09:44

送信ミスです。
下記の投稿消去して下さい。

[234]T、T 08/06/12 09:40 3anlFHbV/m
[224]吟河鐡道さんへ。

[236] T、T 2008/06/12 09:51

再度失礼いたします。
[234]T、T 08/06/12 09:40 3anlFHbV/m
[224]吟河鐡道さんへ。

最終文が宗教の領域の処で終わっている。
ではなく
下記の文です。

[231]T、T 08/06/12 08:48 3anlFHbV/m
[224]吟河鐡道 へ。

[237] 吟河鐡道 2008/06/12 16:11

>>226 ハンザキさん>「宗教をコミュニケーションの手段として使わない」って手もありますよ。

仏教系ですと自燈明と共に三宝があり、キリスト教系ですと、アガペーと共に三位一体がありますね。どうしても関わりが、人に向いてしまうのでしょうね。

>>227 露と月さん。露と月さんは正直な方ですね。露と月さんの体験が、正体験か類似体験かは、もっと詳しくお聞きする必要はあると思います。お釈迦様でさえ、弟子に何度も詳細を聞いて、漸く判断をしたと言われていますね。経典が正確無比であれば、完全比較出来るのでしょうが、現実離れした荒唐無稽な伝説がオカルトからスピリチュアルまで多岐に利用されており、真実とを選り分けることの方が難しくなっていますね。お聞きした範囲では、類似形の可能性が考えられますが、それは体験上の具体的内容に対してであって、60億分の1としてではありません。それどころか客観的判断と正直さは、素晴らしいと感じました。詳細についてですが、確かに此処では難しく、かと言って私は通常メールを持っておらず連絡を取る手段がありません。対外的に問題のない範囲でこちらにお問い合わせいただくか、参加者の少ない限定的なスレッドなどでという方法になってしまうかと思います。

>>229 ☆(^ω^)えりちゃん☆さん、えりちゃん仙人の魔法でみんななかよし♪でしょう(笑。

>>230 rsさん、前に、拝見したように思いましたので。私は名前を忘れてしまう質なものですから、失礼いたしました。その体験は所謂至高体験と呼ばれるものの一種ではないでしょうか。スポーツなどの達成や音楽などの情操で、感動的なある瞬間、非常に高い爽快感として得られますね。感動が涙となって現れることがありますね。身心脱落もこの類似系と考えられますね。

>>231 T、Tさん、>「子供が泣く」様からもその子の「素質(内因)」を読み取る事が出来ます。その「泣き方」によっては、単に泣きやますだけではなく、育て方を変える必要が生じて来ます。

その通りですね。とても大切なことだと思います。

>正にその通りであります。人生、生き抜くという事はそれ以外ありません。ここが宗教の領域です。

死や死後に目を向けるのではく、生きること、生きる価値に目を向けることが宗教上の本分であるということでしょうか。正にその通りですね。
>>235 消去は、管理人さんしか出来ません。また、削除依頼も荒らしなどの問題書き込みに限られると思います。>>234 はそれには当たりませんので全く問題ないと思われます。

>>233 月野うさぎさん、>ただただ心地良く、気持ちいい・・・
それがありさえすれば、宗教はいらないのだと思う。
だけど、多くの人は、そんな幸せに気付かない・・・。

大きな意味で、人々が生きているよろこびを感じ、足ることが実感出来れば、
真意を違えて争いさえ生む宗教は、なくて良いように思います。
みんな、仲良しですね(笑。

[238] 露と月 2008/06/12 18:23

>>230

私如きが意見をいうのもこそばゆいですが、これはある種のランナーズハイのようにも見え、また、一体感のような現象にも考えられるように思います。
これと似たことが、滝の場合によくあるようです。
例えば、今の時期の滝は冷たくてたまりませんが、真冬の滝は痛くてたまりません。
あまりの痛さに飛び出したい衝動に駆られますが、その時、「ここで死んでも構うものか」と覚悟を決めると、それまでの痛さが嘘のように消えていく体験をしたことがあります。
それまでに自分の体を激しく伝って流れる水にたいしては恐怖心すらあるものですが、その後の水は、まるで自分の体の一部に感じられたりして完全にそれまでとは別世界であることを感じることがありますが、それと似た現象のように思います。
いずれにしても、あなたは「修験道」そのものを実践されたともいえると思います。
山歩きで激しく体を動かした後、ふっと全身の力を抜くと急激に変性意識状態に入りやすいと体験上思います。
その時の人の脳波の状態はアルファ波に満たされていて、潜在意識の真っ只中に入り込んでいるようです。
そういう現象の時、ドーパミン、ベーターエンドルフィンなどの快感ホルミンが大量に出ているといわれるそうです。
そういう意味では非常にいい気持ちがやってくるのは当然かもしれません。
一体感なる現象、またはその類似体験の時、または人が死亡する直前に大量のホルモンが出て、死の苦痛をやわらげるそうです。
私の体験も一種の対外離脱現象であったということも考えられますが、違う表現をしますと、「仮死状態」、つまりデルタの領域に入っていたのではと考えたこともあります。
だとすれば、実に危険なことをやったものだと思います。
知らぬが仏といいます。(;-_-;)

人の脳波は通常左脳優位でグラフが立ち上がっています。
それが、言語を遮断したり激しく呼吸したり、またはひたすら体を動かした場合右脳優勢にグラフが変化します。
般若心経を読み続けた場合も同様の現象が(グラフ)現れます。
そのことから見ても、ただひたすら山を歩くことは非常に理にかなっていといえますね。
そういう現象が訪れてもなんら不思議はありません。
むしろ多いにやるべきかと・・

私はいろんな実験をしました。
イメージが見える時、どうすればイメージがどう変化するかという実験です。
言語脳とイメージの関係です。
言語を発した瞬間、イメージが瞬間的に消失します。
何回やっても同じ結果でした。
このことから、口にテープでも貼って言葉を発せずにいれば、変性意識は訪れやすいということになるようです。
それから思考したイメージが現れるという事実です。
こんなことを究明し続ける必要もないのかも知れませんが、結構楽しいものです。

ランナーズハイは私も何回も経験しています。

あまり当てにはなりませんが、いずれにしてもあなたの体験はすばらしく、そして差し障りなく肯定的な現象ではと思います。
詳しくは吟河鐡道さんの方がより的確にご存知と思います。
間違っていたらすみません。

[239] 露と月 2008/06/12 18:26

>>237

ありがとうございます。
ここで詳細を書ければ検証のために材料にもなりますが、見ていて変に真似されて精神に異常をきたし、先日のような事件をおこすような人を生み出す恐れがあるとすればそれは恐ろしいことです。
今はまだ必要ありませんが、後数年したらまた再開してみようかと考えています。
それまでできる限りの危険情報を集めてみたいと思います。
企業の中にあっても「危険予知」という発想があります。
車の運転にしても然りですね。
この世界において危険予知をいう人はごく一部の人で、しかも世に埋もれてあまり出てこないようにも思っていました。
いま私に一番必要なことは、精神、肉体の浄化以外にはないかと・・

>>対外的に問題のない範囲でこちらにお問い合わせいただくか

そうさせていただきます。(^○^)

[240] 露と月 2008/06/12 19:36

私はお釈迦さんの顔を見たことがあります。(☆o☆)

ギョギョギョッ・・

といっても単なるスケッチです。(^-^;)
お騒がせしました。

イギリスがインドに侵攻した時、盗んでしまいイギリスの博物館に展示していたものだそうで、そのコピーが出回っていました。
奈良のあるお寺では、それを本尊としているみたいです。
一度機会があったら是非見に行って下さい。(・_・)

その顔は細く精悍で、第一目つきがまっすぐに、静かに前を見ている画像でした。
正義感あふれる印象でした。
仏像に見られるものとは大違いでしたね。

[241] T、T 2008/06/14 07:57

[237]吟河鐡道さんへ。

>生きること、生きる価値に目を向けることが宗教上の本分であるということでしょうか。

それはその通りですが、大事なことは、
「生きること、生きる価値に目を向けること」と「宗教上の本分」とは、不二一体でどちらかが
欠けると日常生活が成立しないと言う事。
問題は、「この宗教の本文」に、すでに幼き時に蹴躓き易い子供と
蹴躓き難い子供の二路があると言う事です。
蹴躓き難い子供には、幼き頃から「生きること、生きる価値に目を向ける」と言う指導が
必要です。この蹴躓き難い子供の指導は、今の時代では、一般的に無理なようです。
今日では,保健室、逃避する子供が多いと聞き、リストカットをする学生が増えてきた
との事を見れば解るかと思います。すべてが宗教の領域(生きる意味或いは自己喪失)での
躓きの現象であります。この現象が生じてまいりますと、普通の親は対処出来なくなるものです。
この人たちを救うには、自分自身をよく知った人でなければ無理と言う事です。
「自分自身をよく知った人」とは、仏教で言う「悟り」「自覚」の人と言う事です。

[242] 吟河鐡道 2008/06/14 11:43

>>239 露と月さん。そうさせていただきます。(^○^)

はい、お役に立てれば嬉しいです。
色々とご説明したいこともありますが、ここでは情報的に芳しくない点が多いので、取り敢えず簡単に一つだけ。所謂クンダリーニヨガと言われる訓練はしない方が良いのではないかと思います。危険を伴うという観点からではなく、純粋な至福に対する影響の点です。一般に開発が必須とも言われておりますがチャクラは体内活性が主であって、逆にクンダリーニをチャクラ開発による人体内活性に利用すると、異種ベクトルと推進力低下を産む可能性が考えられるからです。
飽くまで素の状態で一切に囚われずただ起こることを見守ることが良いと思います。前に「枯」のことを書きましたが、枯の方が低下すると考えられがちですが、枯とは精神、生体的に純粋な状態となることであり至福後の影響を最小限にする目的となります。
また枯の点から、断食が効果があると考えられがちですが、これも逆で、至福後の空腹は飢餓状態からの悪影響を受けるようです。
お釈迦さまは中道と仰いましたが「中」の選択はなかなか難しいものです。

くれぐれも注意されて、何かありましたら、またその時はお役に立てればと思います。

>>241 T、Tさん。
>幼き頃から「生きること、生きる価値に目を向ける」と言う指導が
必要です。

非常に大切なことですね。また、家族(親)がその意識を持ち子供と共にその価値を共有することも大切であろうと思います。
子供を都合の良い自分の分身のように思い、自分の都合(エゴ)を押し付けたり、自分のことだけを考え子供を蔑ろにしている親がおりますが、そのような場合、子供は自分の存在価値を見失うことがあるようです。

>自分自身をよく知った人でなければ無理と言う事です。

なるほど、それで「覚」の人ということなのですね。
そうですね。真理を正しく会得し、事細かな点まで把握して導くことが出来る人が必要でしょうね。
多く人は、教典を学んで教科書通り若しくは転用して教えている人と言えるでしょうから。

別のスレで書いたのですが、暫くここを離れようかと思っておりまして、
気になる書き込みがあったので、レスが続いたのですが、露と月さんやT、Tさんに出会えて良かったです。
ありがとうございました。

[243] 野次馬 2008/06/14 19:45

>>色々とご説明したい・・

やはりはじめに習う、そして学ぶ。
これだと旺盛な好奇心が生まれるようです。
はじめに書物だと、活字を見ただけで分かったような気分になって投げ出してしまいがちではと思います。

ある「ポイント」に集中していたら、それが危険性があるあるチャクラだったと後で気がつきました。
やはりクンダリーニは危険性が高いようですね。
クンダリニーことのようなので今後よく覚えておきます。(^v^)
時には曹洞禅のようで、またある時は阿字観に移行したりと心がさまよいまくっていて、完全に遊んでいたようなものです。

知り合いの人で臨済禅をしている人がいましたが、話を聞いていると床が大振動する現象を体験したそうですが、あるHP見ていましたら、それも蛇がおき始める兆候とありました。
真に受けているわけではありますが、禅とていろいろなことが起こるようですね。

いままでいろんな人に相談しましたが、初めてきく言葉が多いです。
いずれにしてもまだまだ先のことですので、ゆっくりと考えます。

ところで、今チベット体操にも関心もっています。
浄化にも役立つのかなと思います。
ラマ僧が行の前に必ず行うといわれる「儀式」だそうで、どうもヨガの一種のように思えます。

事情があるとのことですのでやむを得ませんね。

ありがとうございました。

[244] 露と月 2008/06/14 19:46

>>243

ハハハ、野次馬に変身してしまいましたね。
露と月でした。

[245] 住職 2008/06/15 04:14

お経ってすごく難しいので、簡単には言えないが、人も宇宙の一部と説明しているようだ。その中にはキリスト教もイスラム教も星も生き物も全て含まれていて、互いに繋がりあっていると説いているようだ

[246] T、T 2008/06/15 08:22

[242]吟河鐡道 さんへ。

>子供を都合の良い自分の分身のように思い、自分の都合(エゴ)を押し付けたり、自分のことだけを考え子供を
>蔑ろにしている親がおりますが、そのような場合、子供は自分の存在価値を見失うことがあるようです。

ここにも、影響され易い子と影響され難い子がありますね。

うれしい事が昨日(14日)ありました。約1年位立ちますが、所謂、「切れる」人をを見ておりましたが
一歩誤ると、新聞沙汰(事件)を起こしかねない状態であり、それ故、引き受けるに際しての心情として
「やむにやまれず」という言葉を使ったのですが。
昨日、別荘(宇陀市)でその人と接見しました処、事件を起こす領域から解消されて居られました。
本人にその事話しますと、以前、母親に私も人を殺すかも知れないと言うような事を、言ってた時期があったそうです。
取り敢えず、この事を心配している父親に報告するように言って置きました。
その人も、この掲示板を見て居られると思います。

>多く人は、教典を学んで教科書通り若しくは転用して教えている人と言えるでしょうから。

まさにその通りであります。
解る文字ではなく、肝心要の文字では解らない領域の教えが抜ける処が困ります。
それだけならよろしいのですが、時として事実を歪めて伝えるから困りますね。

>露と月さんやT、Tさんに出会えて良かったです。ありがとうございました。

僕も、吟河鐡道さんにめぐりあって、ここえ投稿した甲斐がありました。
こちらこそ、良い教材になり感謝致しております。ありがとうございました。

[247] T、T 2008/06/15 13:02

>禅とていろいろなことが起こるようですね。

「いろいろなことが起こるようですね」は、その人によります。
禅には、自分を自分自身に目覚めると言う事だけです。
従って、禅は、「無」です。つまり、そのもの自体が大事です。

>浄化にも役立つのかなと思います。

禅の生活には浄化すべきものもない。何故なら、対象化するものがないからです。
また外に求めるものもない。一切は自己にあります。
従って、目前の必要にかられた日常生活にあります。
それは「人の役に立つことが価値のあることと思い、そういうことに興味と希望を
持てるようになると、」(吟河鐡道さん)の日常生活の処に求める事です。
それ以外の処に求めると脱線致します。

[248] 露と月 2008/06/15 22:01

>>「いろいろなことが起こるようですね」は、その人によります。
なるほどそうですか?
今では何があろうが別に気にはならなくなっていますが、それでも鬱陶しく感じることがあるのでしばらく中止しています。
今は何をおいても仕事が一番大切なものですから、その次というか、余裕の時間があるときにその世界に関心がでます。

>>それ以外の処に求めると・・

それ以外というのは具体的にどういうことでしょうか?
ちなみに私は一切求めるものはないのですが・・・
どこに何を求めようが、そのように求めるものがやってくるはずがないと思っています。
あくまで「自力」の世界です。
これは断定してもいいでしょうね。
もともと神頼みをしないし、むしろ私にできることは何だろうと常に模索しています。
ガン対策とか鬱対策で時々動いています。

あまり深刻には考えてはいないのですよ。
あまり・・というか「まったく」ですね
ただ、書き込みした内容に驚いたのは間違いないです。
それは15年ほど前のことですが・・・

いろいろありがとうございます。

[249] T、T 2008/06/16 12:56

>今は何をおいても仕事が一番大切なものですから、その次というか、

それは仕事が一番です。

>余裕の時間があるときにその世界に関心がでます。

人間は、余裕の時間が出来ると、ろくでないことを考えるようですが。
忙しい時間の中に余裕の時間があり、余裕の時間の中に忙しい時間が本当です。

>それ以外というのは具体的にどういうことでしょうか?

自分について、自分にとっての方向に求める事です。それを試みますと脱線します。

>あくまで「自力」の世界です。

自力、他力を超えたところが本物です。何故なら、そこで悩みの解消が見られるからです。

>ガン対策とか鬱対策で時々動いています。

この件については、今の医療界(内科系)は、ほとんど役に立っていないように思われます。
何故なら、今日の「ガン対策とか鬱対策」に致しましても、正しい対策なら減少しなければ
なりません。しかし、現実は増幅の道を辿っています。僕の周辺でも増えているようです。
ガン、鬱と言う結果から治そうとの出発点がそもそも誤りです。
都合の悪い処を排斥しないで、物事の見誤りを認識していけば直ります。
原理が分かれば簡単ですが。僕は何人か直しており確信しております。
また、ならないようにする対策は不可能です。

[250] 露と月 2008/06/16 18:58

いい勉強になりました。
あり党ございます

[251] いのしし 2008/06/16 19:20

昔、この掲示板で禅僧と思われる人が浄土真宗のおぼうさんと思われる人に問題を出していた。
「石の船を作ったがどうしても沈んでしまう。どうすれば沈まずに浮かぶのか」というものだった。
真宗と思われるお坊さんはありとあらゆる言葉を駆使して「・・そうすれば浮かぶよ」と答えていた。
見ていて思わず噴出してしまった。

[252] 金太郎飴 2008/06/18 22:52

鉄の船だって浮きますから単に比重の問題でしょう(笑)

[253] ははは 2008/06/19 00:57

>>248 抜けた文章だな。いや、頭が抜けてんのか? 血が悪いことうけあい。

[254] いのしし 2008/06/19 08:30

>>252

答えは「石が浮かよ」ということらしいです。
理屈ではないとの教えかな?
初心者向けの考案かも・・・
「あれこれあれこれ考えるのを止めよ!」ということのようで、「無」を知っている人なら簡単に分かる事のようです。
これを聞けは、理屈が得意な人、または「俺は頭がいい」と勘違いしている自己顕示欲の塊さんならぶちきれること間違いなし。

ハハハ・・人間ておもろいね。

[255] 田中 2008/06/19 16:23

真宗の高僧、蓮如は
ある禅僧に曲がった大きな松の木を見せられ
「この曲がった松の木をまっすぐにしてみろ」
と言われた
「おやすいご用だ」
と言った蓮如は
「見事に曲がった松ですね」
と言ったそうなb

[256] バナナライフル 2008/06/19 22:05

じゃだめだ

[257] rs 2008/06/20 05:11

>>254
>「あれこれあれこれ考えるのを止めよ!」ということのようで、「無」を知っている人なら簡単に分かる事のようです。

面白いですね。
私などは技術屋なんで、浮かべる必要があるなら、どうやって浮かべようかと考えて、それを実現するために努力をします。
例えば、
・物理工学の人たちなら石を高温で融かして軽石を作る。
・造船の人たちなら、石の船にバルジという浮力を増すための構造をつけて浮かばせる。
・航空をやってる人たちなら、流体力学的に浮かべる。(重い飛行機が空気中に浮かぶ原理ですね)
その他、いろいろと技術的に可能です。(笑)
そういう可能性を色々と考える事が大事なんで、始めに自分の考えに基づいた結論が準備してあるというのは宗教屋さんの視野の狭さですよね。
ある意味、自分の考えだけが正しいと思いこんでしまう怖さを持っています。

[258] ハンザキ 2008/06/20 06:11

っつか、石船だろうと泥船だろうと船である以上、浮きます。
浮かない石船を作っちゃったのなら、ソレは失敗作か、ただの模型なだけ。

だって、水に浮く乗り物を「船」と呼ぶんですから。

[259] T、T 2008/06/20 08:38

>その他、いろいろと技術的に可能です。(笑)
>そういう可能性を色々と考える事が大事なんで

宗教も、ここを離れては宗教は無い。

>始めに自分の考えに基づいた結論が準備してあるというのは宗教屋さんの視野の
>狭さですよね。

「始めに自分の考えに基づいた結論が準備してある」と言うのは
宗教では無い。宗教に対する誤解です。

>自分の考えだけが正しいと思いこんでしまう怖さを持っています。

これは、宗教の名を借りた別の話で、迷信に属します。
何故なら、正しい、正しくないと言う「思い込む」観念の
打破である処が、実は宗教の領域で在るからであります。

[260] 野次馬 2008/06/20 08:47

みんな何の話してんのやら???
アホ草

耳糞たまり過ぎじゃのう!

[261] 野次馬 2008/06/20 08:48

相手してられん

[262] 月野うさぎ 2008/06/20 15:46

抑えて抑えて^^

[263] 野次馬 2008/06/20 18:08

>>262
ご免
ついつい・・・

[264] kotaro 2008/06/20 19:19

        『盂蘭盆経』

釈尊の弟子の一人目連は,神通力という不思議な力を得たので,
自分を育ててくれた父母の恩に報いるために
父母をさとりの世界に導こうと考え,
不思議な眼力をもっていろいろな世界を見渡したところ,
亡き母は餓鬼道に落ちて飲むことも食べることもできずに
骨と皮だけになって苦しんでいるのを見つけた。
哀れに思った目連は,神通力で母の前に飯を盛った鉢を出現させた。
しかし母がその鉢を手にとって食べようとすると,
飯が燃え上がり炭となったので,
とうとう食べることができなかった。
目連は嘆き悲しみ,釈尊のところに行って事の次第を説明した。

すると釈尊は,「汝の母は罪が深く,
汝一人の力ではどうすることもできない。
しかし十方の僧たちの威力を借りるならば
母は苦しみから解放されるであろう」と述べ,
「今度の七月十五日,僧たちの研修合宿の最終日に,
七代さかのぼる先祖と現在の厄難に苦しむ父母のために,
百味の食事と五種の果実を盆器に汲みそそぎ,
香油・錠燭・床敷・臥具は世間の最高のものを
盆の中に入れて十方の大徳ある僧たちに差し上げなさい。
そうすれば現在の父母でも七代さかのぼる先祖親族にいたるまで
苦しみから解放されるであろう」と具体的な救済方法を教えた。
目連が釈尊に教えられた通りすると,亡き母は即日に
餓鬼の苦しみから脱出することができた。
そして未来世の人々も「盂蘭盆」の中に百味の飲食を
安置して十方の僧たちに施し,現在の父母ならびに七代
さかのぼる先祖の救済を願うべきことを述べて,経典は終わる。

参照:容量大きいので参照に留めます。
http://www.takamatsu-u.ac.jp/nlibrary/kiyo/no33/no33akamatsu.pdf

湖があって、仮にその湖に大きな石を投げ込んだとしよう。
当然に、石は底に沈むだろう。
  そしてその後で、人々が集まって、
湖の周りで『石よ浮かべ、石よ浮かべ』と祈願するのだ。
 すると、石は浮き上がってくるだろうか?」
「いいや、そんなことはない」
 「村長よ、それと同じなんだよ。
 生前、さんざんに悪を積み重ねた者が、死後地獄に堕ちても、
いくら祈願をしようが、彼が天上界に生まれることはない・・・。」

『南伝大蔵経』第16巻上、10〜13ページ
    阿含経 相応部

地獄に落ちた先祖を湖に投げ込んだ石にたとえ、
子孫が供養しても効果がない。

お盆、施餓鬼供養(せがきくよう)(出典「焔口餓鬼陀羅尼経」)
回向などの無意味さを述べている。

施餓鬼供養の参照:
http://www.kannon-in.or.jp/kanji/butugu/ku0103.htm

[265] 月野うさぎ 2008/06/20 20:46

野次馬さんへ

http://37219.hito.thebbs.jp/one/1203520965#come_p

良ければ遊びに来てください。
たまにお話でも。
銀ちゃんにもまた何かあれば、こちら使ってもらっていいですよ。^^

[266] 月野うさぎ 2008/06/20 20:47

http://37219.hito.thebbs.jp/one/1207731701#come_p

あらら、こっちじゃないと駄目だった^^;

[267] 野次馬 2008/06/20 21:26

>>266

了解で〜す
今、頭パニクリの最中ですので後から・・・

[268] 月野うさぎ 2008/06/20 21:27

>>267
うん、いつでもいいよ。^o^
一日一度確認してるから〜。

[269] ハンザキ 2008/06/20 22:21

>>260
みんなでたまった耳糞を出してスッキリしてるとこです。
「ほら、こんなデカイの取れたヨ」って見せびらかしたくなるでしょ?(笑)

[270] 野次馬 2008/06/20 23:08

>>269

ハハハ
汚いねぇ〜
でもオモロイねぇ〜

[271] 金太郎飴 2008/06/20 23:55

>>252
とりあえず大ボケをかませてみました(笑)ボケついでに・・・
>答えは「石が浮かよ」ということらしいです。
いやいや、それでは論議になりません
>>「石の船を作ったがどうしても沈んでしまう。どうすれば沈まずに浮かぶのか」というものだった。
つまり、ただの石じゃなくて「石の船」だそうです
しかも初めから「沈まずに浮かぶ」という設定で「沈んだ物を浮かす」話ではありません
コレでは論議のすり替え・・・まるで詐欺師の論法

>これを聞けは、理屈が得意な人、または「俺は頭がいい」と勘違いしている自己顕示欲の塊さんならぶちきれること間違いなし。
結局、皆さんはスレ主を救おうともせずに仏教の知識自慢(溜まりに溜まった耳糞自慢)でもしたいんですか?
それって根本的に間違っていませんか?

これだけのそうそうたるメンバーが集まって、何故スレ主を導く努力をしないのでしょう?
これでは世間の仏教離れがますます加速するだけでしょう
他人の揚げ足取りでなく、少しでもスレ主を救う努力をすべきと思います

誰がスレ主を救うのか(ホンモノは誰なのかという事です)・・・しっかり見定めさせていただきます

[272] kotaro 2008/06/20 23:57

先祖を子孫が供養する事で成仏させれるか

先祖が生前の悪行の因果応報で地獄にいるのを、
子孫が善行をし、先祖の悪行を帳消しにする。
それは中世キリスト教の免罪符と同じでありえない。
キリスト教もカトリックのマリア様の奇跡とか、
プロテスタントでは言わないらしい。
人間がそれだけ賢くなったのか、個人主義になったのか。
それは分からない。

[273] kotaro 2008/06/21 23:27

>> [206]Evrard rose de la fageさんへ
>実際釈迦に奇跡を起こしたなんて話、ほぼ皆無じゃん。

実は、あるのです。
それが、
お盆の根拠 『盂蘭盆経』であり、
施餓鬼供養(せがきくよう)の根拠「焔口餓鬼陀羅尼経」な訳です。

多くの僧が、今現在自分にも、
その奇跡が行えると言って人を騙し、
法外な利益を得ている。

イエスキリストは、面前で奇跡を行いました。
ですが、仏教では僧が、地獄とか、極楽とか
見えない世界で奇跡を行います。

それで、依頼者は奇跡の結果確認が出来ません。
まるで裸の王様です。

人には地獄で苦るしんでいた先祖も、
僧の法力で成仏して極楽で楽しく暮らす先祖も見えません。
今、先祖は、地獄で苦しんでおられます、
法力への感謝料を払い、
先祖は喜んでおられますと僧が言えば、
それを信じるほかない。
何ともおめでたい話です。

そこで、その悪行を正そうと、
『南伝大蔵経』第16巻上、10〜13ページ
    阿含経 相応部
が引用されている訳です。

[274] T、T 2008/06/22 09:02

>奇跡とは

広辞苑によると、「常識では考えられない神秘的な出来事」とあります。

それは、現実の日常生活ではどの様な事柄に属するかと考えますと
僕は、今生きて、この処(事故、殺人の多いこの世)で生活を営んで
いる事自体が奇跡と思いますが。
仏教では、不可思議解脱のようです。つまり、今まで、昼間から夢の世界に
生きていた。その事に、気づく(夢から覚める)と言う事のようです。
夜、寝ていて見る夢は朝起きて、夢と解るがそれか先の昼間からも夢の世界に
生きていた事には、今まで気づきようがなかつた、考えられなかった事柄に気づくと言う事です。
しかも、これなくしては真実に生きられないとしたら、この事に気づいたとすれば、
これを奇跡と呼んでもよいのではないかと思います。
平易に言えば、日常生活を営むに於いて、新しい見方が生じたと言う事です。

「人には地獄で苦るしんでいた先祖も、
僧の法力で成仏して極楽で楽しく暮らす先祖も見えません。
今、先祖は、地獄で苦しんでおられます、
法力への感謝料を払い、
先祖は喜んでおられますと僧が言えば、
それを信じるほかない。」
>何ともおめでたい話です。

その通りです。人間は生まれた時も、死んだ先も解らないんです。
お釈迦様も、解らないとして、不説としております。
地獄(悩み、苦しみ)、極楽(悩み、苦しみの解消)は、この現実の
対象的日常生活の営みに於いてのみ在るようだ。
何故か。地獄、極楽の意識上の産物であるからです。

[275] kotaro 2008/06/23 21:21

>>[274]T、Tさんへ
>地獄(悩み、苦しみ)、極楽(悩み、苦しみの解消)は、
>この現実の対象的日常生活の営みに於いてのみ在るようだ。

いいえそうではありません。
先祖供養の無意味さについて述べてはありますが、
死後の地獄極楽は、

南伝大蔵経』第16巻上、10〜13ページ 阿含経 相応部

に於いても肯定されています。

『南伝大蔵経』第16巻上、10〜13ページ
 阿含経 相応部
を再度掲げますと、

 彼はそのとき、ナーランダ近郊のとある林の中にいた。
 そこに村長がやって来て、彼に問いかけた。

 「バラモンたちが言っているところによると、
 彼らが儀式を執り行えば、死者はたちまち
 天上界に再生するそうだ。
 どうだ、お前も同じことができるか?」

 彼に対する村長の態度は、いささか傲慢不遜であった。
 しかし彼は、そんな不躾な質問に慣れていた。
 別段顔色も変えずに、彼はこんなふうに応えた。

 「その問いに答える前に、村長、私からひとつ質問したい。
 湖があって、仮にその湖に大きな石を投げ込んだとしよう。
当然に、石は底に沈むだろう。
 そしてその後で、人々が集まって、湖の周りで
『石よ浮かべ、石よ浮かべ』と祈願するのだ。
 すると、石は浮き上がってくるだろうか?」
 「いいや、そんなことはない」
 「村長よ、それと同じなんだよ。
 生前、さんざんに悪を積み重ねた者が、死後地獄に堕ちても、
 いくら祈願をしようが、彼が天上界に生まれることはない・・・。」

[276] T、T 2008/06/24 12:40

[275]kotaro さんへ。

>生前、さんざんに悪を積み重ねた者が、死後地獄に堕ちても、
>いくら祈願をしようが、彼が天上界に生まれることはない・・・。」

誰一人として、死後生き返って来たものがいない。
従って、死後に地獄、極楽があるとも解らない。
お釈迦様も死後は解らないと述べておられ,弟子たちに死後の事を語るなと
戒めておられます。
以上からして、貴方が意味する処の、その作者の書かれた内容が体験ができない。
そこから考えますと、その作者の書かれた意図するところは、貴方が意味する処とは
別の処に在るのではと考えられませんか。
そこでお尋ねしたい、kotaro さんは、この事を体験されたのですか、如何ですか。

[277] kotaro 2008/06/24 20:36

>>[276]T、Tさんへ

霊能力者としての不思議体験は、しない事としています。
健常者に分からない事をいくら述べてみても、

イエスに投げかけられた言葉、
「神の子であるなら、飛び降りてみろ」
になる事必然だからです。
引用元:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E9%87%8E%E3%81%AE%E8%AA%98%E6%83%91

>その通りです。人間は生まれた時も、死んだ先も解らないんです。

別の機会に述べましたkotaroの前世の記述、本当だろうと思います。

ですから、神通力とは、梯子を浮かせたり、
麻原尊師の体が浮く事などではなく、
何の為にこの世に生まれたか、
今生での修行の目的の確認にあると思います。
そして、今生での課題達成後の次の人生の目的、
それに相応しい生まれ変わり先、
などを見通す力(ちから)、それが神通力だと思います。

輪廻転生が目的なら、地獄極楽がないと言う説もある意味正しい。
ですが、そのお考え100%ではないと思います。
それは地球しか生命体が存在出来るはずがない、
そう思い込まれている事に原因があると思います。

地球に人類が誕生して、環境を変えた人は多い。
鉱山にある鉱物を精錬して有益な金属にするとか、
ですが、何もない所から、地球とか月を生み出す事は出来ません。
ですから、死後、何処か知らないところに生まれ変わたとしても、
そこで与えられた環境の下で生きて行くでしょう。
それが阿弥陀経で説かれている、
さまざまな環境境遇だと思います。

池の底には一面に金の沙が敷きつめられている。
上には楼閣があり、これもまた金・銀・瑠璃・
玻璃・シャコ・赤真珠・碼碯で美しく飾られている。
引用元:
http://www.terakoya.com/amidakyo/index.html

それは、現世から見れば、極楽と思えるほど恵まれている。
恵まれているが、何も問題、言い換えると課題がない訳ではない。
その境地、境遇に相応しい、適した課題、カルマ、ノルマ
があると思います。

例えば、赤字国債返済不能とかで、日本政府が倒れ、
新政府や日銀券に代わる新しい通貨が誕生するとしても、
地球とか日本列島がなくなることも、
日本人が消滅する事もありません。

それと同じように、死後新しい旅先で、
それなりに新しい姿で生活していく事でしょう。
魂の遍歴を繰り返して。
では、解脱はありうるか。
それが如何に難しいか。
即身成仏を願いミイラになった人、
それはお釈迦様が意図されていない非常手段でしょう。
ですが、魂の遍歴を拒絶した僧の必死の姿です。

[278] T、T 2008/06/25 13:07

[277]kotaroさんへ。
>輪廻転生が目的なら、地獄極楽がないと言う説もある意味正しい。

輪廻転生があるとしたら、却って、地獄極楽の繰り返しでしょう。

>ですから、神通力とは、梯子を浮かせたり、
>麻原尊師の体が浮く事などではなく、

そうです。これは詐欺師の領域です。

>今生での課題達成後の次の人生の目的、
>それに相応しい生まれ変わり先、
>などを見通す力(ちから)、それが神通力だと思います。

僕は神通力というものがあるとしたら、「あるがまま」に生きる力だと思う。
例えば、お爺さんは柴刈りに、お婆さんは川え洗濯にと言う働きが
神通力と思う。
我々は、「それに相応しい生まれ変わり先、などを見通す力」という
ものは、与えられていないものです。
何故か、一寸先は闇と言う領域があるからです。

>死後、何処か知らないところに生まれ変わたとしても、
>そこで与えられた環境の下で生きて行くでしょう。

解らない死後の世界を論じる事よりも、今ここに、生きて
「そこで与えられた環境の下で生きて行く」と言う事に
専念する事が大事ではありませんか。

>地球しか生命体が存在出来るはずがない、
>そう思い込まれている事に原因があると思います。

其の反面には、月にウサギが餅をついているとか、火星人が
居るとかUFOを見たとか、等の思想はある。
思想とは一種そういうものである。
そいう意味では、思想に錯誤が在ってはならない、との教えが
仏教ではなかろうかと思います。

>それは、現世から見れば、極楽と思えるほど恵まれている。

それは仏教で言う極楽ではありません。

[279] T、T 2008/06/25 13:09

[277]kotaroさんへ。

>例えば、赤字国債返済不能とかで、日本政府が倒れ、
>新政府や日銀券に代わる新しい通貨が誕生するとしても、
>地球とか日本列島がなくなることも、
>日本人が消滅する事もありません。

それは、どうなるか解りません。今、地球環境全体が激変しております。

>それと同じように、死後新しい旅先で、
>それなりに新しい姿で生活していく事でしょう。

「それと同じように、死後新しい旅先で」ここから思想の飛躍が始まる。
これは「麻原尊師の体が浮く事」と同じ思想です。
どうしてkotaro さんは、解りもしない、未確認の死後の「思い込み」でなく、
今ここの、見える処ろの「それなりに新しい姿で生活していく事」に
全力を注がないのですか。

>魂の遍歴を繰り返して。
>では、解脱はありうるか。

「魂の遍歴を繰り返し」だけでは解脱はない。

>即身成仏を願いミイラになった人、
>それはお釈迦様が意図されていない非常手段でしょう。

「即身成仏を願いミイラになった人」この事は当時より、
多いに考えられた事と思います。

>ですが、魂の遍歴を拒絶した僧の必死の姿です。

これは「魂の遍歴を拒絶した僧の必死の姿」ではなく、「あるがままに、ある」
事に気がつかなかっただけです。

[280] kotaro 2008/06/25 23:28

>>[277]kotaroさんへ。
>これは「魂の遍歴を拒絶した僧の必死の姿」ではなく、
>「あるがままに、ある」事に気がつかなかっただけです。

お釈迦様は、前世でこの次生まれる時、
悟るであろうと約束されていました。
それは連綿と続く修行の最後の到達点だった訳です。
ですから、際限なく生まれ変わればいいじゃーないか。
それも一つの悟りでしょう。

ですが、お釈迦様の悟りは輪廻からの脱出です。
輪廻の中でカルマを果たす。
それはお釈迦様の悟りではありません。

即身成仏は、ミイラになれば出来るのか。
意外とエジプトのミイラも思想は違いますが、
未来に起きるDNAの検出、生前の肉体の複製とか、
私達後輩が肉体を消滅して後、
彼らミイラだけは、生きていた当時のまま、
未来の時代に復元するかもしれません。
その時、どうやって生きていくのか、
世間の常識は、ミイラが過ごした時代と激変していて、
生きていけないかもしれない。
それまで考えて形を残したのか。

[281] nib 2008/06/26 00:10

この世でもう、修行する必要がない人が解脱という形で、

天での修行?の

道に入るというのは普通に考えてもおかしくはないと思う。

つまり自然の流れみたいな感じでもいいと思いますよ。

[282] kotaro 2008/06/26 00:11

>>[278]T、Tさんへ
神通力誤解があるようです。

引用:
皆、六種の神通力(神足通・天眼通・天耳通・他心通・宿命通・漏尽通)と、
仏がそなえる自他の過去世のあり方を自由に知る宿命明、
自他の未来世のあり方を自由に知る天眼明、
煩悩を断って迷いのない境地に至る漏尽明と、
妙法蓮華経 五百弟子受記品 第八
(みょうほうれんげきょう ごひゃくでしじゅきほん だいはち)
法華三部経 現代語訳 (加藤 康成)
引用元:
http://texpo.jp/texpo/disp/7290
http://texpo.jp/texpo_book/toc/1446/
修行をしていて、前世どのようなカルマを残し、
今生で何を学べばいいのか。
それには、過去世を知らなければいけません。
仏道修行者、少なくとも、お釈迦様が修行僧を
指導されていた当時、遊び半分で、
過去世を知ろうとかされていたのではないのです。
修行僧の過去世を知り、カルマの課題を知り、
それを解決する方法を与える。
例えば、数学が解けなくて難儀している人に、
英語を課題として与えても興味を示さない。
だが、数学の解き方を教えると、
「そう、これが学びたかったのだ」
と夢中になる。

[283] nib 2008/06/26 00:32

カルマですか。

しかし地上には色々な人がいますから、それを観察すれば

自分には、いったいどのような問題が残されているかが

自然と分かると思います。

例えば、あの人はこのようないいところがあるが、自分にはない、

どうしてだろう?みたいな感じで。

[284] koaro 2008/06/26 06:17

>>[283]nibさんへ
>カルマですか。
>しかし地上には色々な人がいますから、それを観察すれば
>自分には、いったいどのような問題が残されているかが
>自然と分かると思います。
>例えば、あの人はこのようないいところがあるが、自分にはない、
>どうしてだろう?みたいな感じで。

どう返事してよいのか分かりません。
一言で言えば、それもありなのでしょう。
ですが、お釈迦様の説かれる解脱の方法では、
どうすれば、前世での課題が解決するか。
それが強烈に今生で出てくる。
例えば、何度相手を変えても同じ場面に遭遇する。
それを相手が悪いと思い込む。

私の今生の3っ前の前世では、自分が種無しなのに、
子宝に恵まれないなら去るべしで、
どんどん結婚相手を変える。
最近で言えば、仕事を何度も変える人、
すぐ怒り、誰と付き合っても直ぐ(多分同じ理由で)別れる人。
「人生2度生きられる」
少し今生での鉄則「人生一度きり」と、矛盾するかもしれません。
ですが、課題を克服出来ていないと、何度も同じ課題が出されるのです。
その事に、どなたも、やがて気づかれる事でしょう。
「遅かったのかい」
そうかもしれません。
ですが、それは仕方ないのです。
あまりに恵まれている境遇だと、婚期を逸したり、
結婚しても何度も離婚したりします。
それは、反省すべき点は自分にあるのに、
相手の欠けている点を指摘して、同居出来なくなる。
わがままな人と言えるでしょう。

[285] T、T 2008/06/26 12:24

[282]kotaroさんへ。

>ですが、お釈迦様の悟りは輪廻からの脱出です。
>輪廻の中でカルマを果たす。

これは、「あるがままに、ある」事に気がつかなかっただけです。」この解釈に
錯誤があったようだ、この「あるがまま」は、普通一般的な人為的操作の日常生活の事で
ではないのですよ。
従って、「お釈迦様の悟りは輪廻からの脱出です。」と言う事は、輪廻からの脱出
すべき輪廻と言うものは、無かったと言う事に気づく事が悟りでしょ。

>神通力誤解があるようです。

誤解?
僕の説明の「お爺さんは柴刈りに、お婆さんは川え洗濯にと言う働きが神通力」と
言うのは、この当たり前の日常生活が神通力によってなされていると言う意味です。

従って、この神通力が見失われる時、当り前の日常生活が出来なくなると言う意味で
言ったのですが。、
貴方の言う「すぐ怒り、誰と付き合っても直ぐ(多分同じ理由で)別れる人。」と
言う同じ過ちを繰り返す行為を、僕は、禅的に言って神通力の喪失と言います。

>カルマの課題を知り、
>それを解決する方法を与える。

解決する方法を与える?
事実は、そこは努力し修業して到ると言うような方法も方法論もないのですよ。
何故ならば、あらゆる知的な道具を一切を放った処に顕れるからです。
そこは、なんらの、過程もない、近づくあらゆる通路がない。
それ故に、「あるがまま」「そのまま」と言うではありませんか。
例えば、もし貴方が真実が解り、その方法を貴方が他の人に渡そうとしても
渡すことは出来ないものです。
従って、貴方の言われる「相手の欠けている点を指摘して、同居出来なくなる。
わがままな人と言えるでしょう。」と批判するだけでなく、そう言う人を一人でも、
直す事が出来れば、僕の言っている事が解ります。
「数学の解き方を教えると、「そう、これが学びたかったのだ」と夢中になる。」
このように合理的に上手くいくとよろしいのですが。

>「人生2度生きられる」
>少し今生での鉄則「人生一度きり」と、矛盾するかもしれません。
>ですが、課題を克服出来ていないと、何度も同じ課題が出されるのです。
>その事に、どなたも、やがて気づかれる事でしょう。

「人生2度生きられる」と言う事は悟りがあると言う事です。
「生きながら、死人となりて、なりはてて、心のままにするわざよき。」無難禅師。
禅では(大死一番、絶後蘇る」と言います。
人は、一度、自我意識を殺さなければいけないと言う事です。その事と
「人生一度きり」と言う、(「人は死んだら二度と生まれない」)と言う意味とがあり
両者は全く別の事柄です。別の事柄ですから、ここには矛盾はありません。

>「その事に、どなたも、やがて気づかれる事でしょう。」これは、その通りです。
お釈迦さまが苦労したように、気づいてからが大変なのであります。。

[286] 金太郎飴 2008/06/27 00:55

>この当たり前の日常生活が神通力によってなされていると言う意味です。
最高です(爆)

[287] kotaro 2008/06/27 00:57

>>[285]T、Tさんへ
>従って、「お釈迦様の悟りは輪廻からの脱出です。」
>と言う事は、輪廻からの脱出すべき輪廻と言うものは、
>無かったと言う事に気づく事が悟りでしょ。

そのお説到底承服しかねるのですが、
法華経に、「あなたの信じる道を進みなさい。
そうすれば、必ず幸せが訪れます」
と言いなさいとありますから、
同じ仏弟子の間柄ですから、
あなた様が信じてある事異論はありません。

ですが、カルマからの脱出とは、
キリスト教の原罪と同じように、
スタート時点で、既に何がしかの課題、
今風に分かりやすく言えば、負債、マイナスを抱えている。
それを返済しなければ、利息の支払いだけに追われ、
普通の生活が出来ない。

盗賊アングリマーラ(アングリマーラ経)

引用:
尊者アングリマーラは、頭を割られ、血を流し、
鉢を割られ、大衣を引き裂かれて、
世尊のおられるところに近づいた。
世尊は、尊者アングリマーラが
遠くから来るのを見られた。
見て、尊者アングリマーラに、このように言われた。
「バラモンよ、あなたは耐えなければなりません。
バラモンよ、あなたは耐えなければなりません。
あなたが行為の報いとして、幾年も、幾百年も、
幾千年も地獄で蒙らなければならない、
その行為の報いを、あなたは目の当たりに受け
ているのです」

引用元:
http://vayo.at.infoseek.co.jp/angulimala.htm

重要な箇所は
「あなたが行為の報いとして、幾年も、幾百年も、幾千年も
地獄で蒙らなければならない、その行為の報いを、
あなたは目の当たりに受けているのです」

何故苦労が絶えないか、それは当然な報いを
受けている場合もあるのです。
それをカルマなんてない、輪廻なんてない。
それが釈迦の説く教え。

そう言う解釈、禅宗あるのでしょう。
地球で引力の法則が無視出来ないように、
人として生まれていて、輪廻の法則を
無視した誕生をした人はいない。
無論、聖者とかイエス・キリストとか
一隅を照らす人は別でしょうが・・。

[288] T、T 2008/06/27 12:19

[287]kotaro さんへ。

>何故苦労が絶えないか、それは当然な報いを
>受けている場合もあるのです。

「何故苦労が絶えないか」それは楽しみ、希望があるからでしょう。
ここに生きる意味があると思います。
また、雲門禅師なら「日々是好日」ではなかろうか。

>それをカルマなんてない、輪廻なんてない。
>それが釈迦の説く教え。

僕は、そう言う意味で言っていない。
そこを通って来たから「カルマ」「輪廻」という言葉があると思います。

しかし、僕の言う「輪廻からの脱出すべき輪廻と言うものは、
無かったと言う事に気づく事が悟りでしょ。」この「無かった」と
言う意味は「有るけれども、無かった」と言う処の事柄です。
結局、「カルマ」「輪廻」と言うも、意識的な自己を本来の自己と
見誤った処から生じた事柄でしょ。
その見誤りに気がつけば、貴方の言う「今風に分かりやすく言えば、
負債、マイナスを抱えている。それを返済しなければ、利息の支払い
だけに追われ、普通の生活が出来ない」その借金を返済し、普通の
日常生活ができるではありませんか。
もし輪廻があるとしたら、難しく考えないで「日に日に新た、日に日に
新たなり」と言う事ではいけないでしょうか。

kotaro さん、悪いことは言わない。「それは、反省すべき点は自分にあるのに、
相手の欠けている点を指摘して、同居出来なくなる。わがままな人と言えるでしょう。」と
言うような人を一人でも救う事です。
そうなれば、仏教の宗教が本当に解ります。その所で、仏教書を焼いた人もおられます。

ここで注意を要する事は、仏教書を単に知識的に記憶して知ると言う事だけでは、
実際の生活には役立たないと言う事です。

[289] kotaro 2008/06/27 22:21

>>[288]T、Tさんへ
>結局、「カルマ」「輪廻」と言うも、
>意識的な自己を本来の自己と
>見誤った処から生じた事柄でしょ。

盗賊アングリマーラ(アングリマーラ経)をご覧下さい。

尊者アングリマーラは、頭を割られ、
血を流し、鉢を割られ、大衣を引き裂かれ、

夢でも幻でもない、現実です。
お釈迦様は、本来地獄で体験するであろう
内容と言われています。
カルマとは厳粛なものであり、
気にしなければ見えないとか、
そう言う生易しいものではないのです。

何故でしょう。
既にお分かりでしょうが、
旧約聖書創世記のカインとアベルの話と同じです。

旧約聖書 創世記 第4章8節

カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。
彼らが野にいたとき、
カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。

生身のカインは、いずれ寿命で死亡するでしょう。
祟るとか呪うとか無駄なはずです。

殺されたアベルは、霊魂不滅でなくならないのです。
では、殺したカインは?

自己の過去世を知らなければ、
何を仕出かしたのか分からない。
謝罪の相手も見えないし、
謝罪する場合、
過去に何をしたから謝るのかが分かりません。

其処で、お釈迦様の神通力が登場するのです。
神通力で弟子の過去世が見えるから、
謝罪すべき相手も見えるし、謝罪する理由も分かる。

無論、来世も見える。
それで、このままにしておけば、
来世、地獄で、行為の報いとして、
幾年も、幾百年も、幾千年も蒙らなければならない。
と言われたのです。

[290] T、T 2008/06/28 09:05

[289]kotaroさんへ。

>自己の過去世を知らなければ、
>何を仕出かしたのか分からない。
>謝罪の相手も見えないし、
>謝罪する場合、
>過去に何をしたから謝るのかが分かりません。

>其処で、お釈迦様の神通力が登場するのです。
>神通力で弟子の過去世が見えるから、
>謝罪すべき相手も見えるし、謝罪する理由も分かる。

この論理でいけば、お釈迦様しか救う事が出来ないじゃありませんか。

仏教辞典(岩波)によると、神通(神通力)とは、「禅定などにより得られる、
人知を超えた自由自在な能力。行き詰まることなく、滑らかに物事と通い合い、
明らかに知る。」とあります。
われわれの、心は「過去不可得、現在不可得、未来不可得」でつかみ得る形
つまり、謝罪すべきなるものは不可能であります。
「過去世が見える」「来世も見える。」と言うような難しく考えないで
今ここ(見える、手が動く、足が動く)現在を辞書にありますように
「行き詰まることなく、滑らかに物事と通い合い、明らかに知る。」と言う
日常生活に求めるべきではないですか。

それには貴方が言われる「、反省すべき点は自分にあるのに、
相手の欠けている点を指摘して、同居出来なくなる。
わがままな人と言えるでしょう。」と言う事が気づく事も大事かと
思いますが。
今僕は大学生の一人を見て居ります。今は、哲学書、仏教書、に関わる
書物の読書一切を禁止(読む時節があるからです)しております。
今現在の指示は、ご両親、友達、人との会話を進めております。
貴方の提示される事柄では、迷路に陥った人に取っては却って
迷路に陥ります。
何故かと言いますと、人に教えられるところのものでなく、ましてや
謝罪する事もない、自分自身に在る処のものに気づく事に在るからであります。
それには、仏教書による文字の誘導では歯が立ちませんよ。

繰り返し、繰り返して言いますが、貴方が言われる「、反省すべき点は自分に
あるのに、相手の欠けている点を指摘して、同居出来なくなる。
わがままな人と言えるでしょう。」と言う人を直すことが出来れば解ります。

[291] ちょっと一言 2008/06/28 13:16

仏教で
チベットは
チベット仏教

中国仏教は
どこの宗派?

日本仏教は
どこの宗派?

アメリカ仏教など
はどこの宗派?

政教分離に
反するのかな?

[292] Evrard rose de la fage 2008/06/28 16:39

>>208
じゃあ仏教での神という概念は実証できてないじゃん。
キリスト教が実証している以上、仏教が実証できないのはすなわち間違ってるって事じゃないの?
そりゃあ、直接間違ってるって証明するのは不可能だから、こういう間接的な思考になるけど。

[293] ハンザキ 2008/06/28 19:22

>じゃあ仏教での神という概念は実証できてないじゃん。

実証の必要がないと言いましたが。
そもそも仏教に「神」は出て来ないんですから。

>キリスト教が実証している以上、

キリスト教も「実証」はしてませんよ。聖書で語られているだけで、
史実として神の存在を証明できる事実は見つかっていません。

>仏教が実証できないのはすなわち間違ってるって事じゃないの?

違います。単に互いに無関係ってだけの事です。

そもそも、なぜ実証の必要の無い事を実証しない事が「間違ってる」事になるんですか?
空飛ぶスパゲティモンスターの存在を実証できないキリスト教は間違ってるんですか?

[294] kotaro 2008/06/28 19:41

>>[290]T、Tさんへ
>仏教辞典(岩波)によると、神通(神通力)とは、
>「禅定などにより得られる、人知を超えた自由自在な能力。
>行き詰まることなく、滑らかに物事と通い合い、
>明らかに知る。」とあります。

既に、仏典で神通力の箇所ご覧頂きました。
それでも敢えて、岩波辞典が正解と思われるのでしたら、
岩波辞典は、何を紹介していたのですかと、
逆に問いたいですね。

>この論理でいけば、お釈迦様しか救う事が
>出来ないじゃありませんか。

私がこれまでに学んだお寺三つ程あります。
一つは、天台密教で、そこの御住職、千里眼あったようです。
ですから、どこのお寺でも、そうした法力あると思います。

>われわれの、心は「過去不可得、現在不可得、未来不可得」
>でつかみ得る形つまり、謝罪すべきなるものは不可能であります。

秋葉原の事件で、大学卒業を前に、
就職の内定を得た若者も数名含まれていました。
彼らは、全く殺害される理由も思い浮かばない。
自分達に落ち度があれば、納得するでしょうが、
秋葉原の犯人は死にたいくらいでしたから、
ないのでしょうが、この世に未練あるでしょう。

すると、はい分かりましたと、閻魔大王の言う通り、
次の人生に向かえないのです。
輪廻の法則の停滞、渋滞ですね。

その時、偉いお坊さんは、
「あなたは死んだ。あなたの体に肉体はない。
したかった事、言い残した事、叶いたい夢、あったろう。
心残りなお母さん、お父さん、恋人、への思い分かる。
分かるが、此処に留まってもあなたの次なる人生の場はない。
どうか、諦めて次なる道を歩んでください」

そうして次なる人生歩めたらよいのですが、
そうでないと、祟られる、呪われる。
そう言う事です。
ですから、謝罪すべき相手の名前と、歴史上の事件、
分かる人には分かるのです。

相手は、心と言う不可思議な存在ではないのです。
明白に名前も名乗るし、呪う理由も祟る訳もあるから言えるのです。

[295] T、T 2008/06/29 08:39

[294]kotaroさんへ。
>岩波辞典は、何を紹介していたのですかと、
>逆に問いたいですね。

これは、岩波辞典の問いで無く、kotaroさん自身への問いになって居ります。

>秋葉原の事件で、大学卒業を前に、
>就職の内定を得た若者も数名含まれていました。
>彼らは、全く殺害される理由も思い浮かばない。
>自分達に落ち度があれば、納得するでしょうが、
>秋葉原の犯人は死にたいくらいでしたから、
>ないのでしょうが、この世に未練あるでしょう。

われわれが生きている現実は理屈の世界だけじゃないと言う事です。
理屈の世界で無い処に、理屈の世界を入れるから話が、おかしくなり、
しかも、わけもわからぬ「閻魔大王」(僕はこんな人知らない)までを、
だしにして語り出す羽目になると現実の世界では無いような気が致します。

>その時、偉いお坊さんは、、、、、、、此処に留まってもあなたの次なる人生の場はない。
>どうか、諦めて次なる道を歩んでください」

僕は、「偉いお坊さん」ならそう言う事は云わないと思う。
この事から推論しますと、、kotaroさんの言う「私がこれまでに学んだお寺三つ程あります。」も
そこで事実を学んで来たのかが疑問に思います。

>呪う理由も祟る訳もあるから言えるのです。

これは、知的な道具の錯誤による事柄です。
従って、kotaroさんの語れている今までの世界観は、ただ単に仏教用語を、ところどころに
使用していると言うだけの事で、結局の処は、仏教(宗教)の世界観とは、関係がないようです。
つまり、kotaroさんの現象界観での論理だと思います。仏教は、その世界と、もう一つの世界観が
在りますよと言う教えであります。

[296] kotaro 2008/06/29 10:12

>>[295]T、Tさんへ
>岩波辞典の問いで無く、kotaroさん自身への
問いになって居ります。

ですから、T、Tさん、岩波の仏教用語の神通力の解説と、
お釈迦様の説かれた原典(仏典)に登場する神通力、
どちらを真とされます?
そう此方から質問している訳です。

原典(初期の仏典)に”禅定などにより得られる”
と言う説明など入る訳ないでしょう。
後世転用され岩波にある
”禅定などにより得られる、人知を超えた自由自在な能力。
行き詰まることなく、滑らかに物事と通い合い、
明らかに知る。”になったと思います。

>わけもわからぬ「閻魔大王」
>(僕はこんな人知らない)までを、
>だしにして語り出す羽目になると
>現実の世界では無いような気が致します。

ですから、閻魔大王は、死んだ人に葬式で
僧侶が話しかける言葉の中にあります。
”僕はこんな人知らない”確かに、死んだら会えるのですから、
多分死者に話しかけている僧侶自身も知らないでしょう。
そう言う訳で、それはそれで構いません。

現実には色々あるのです。
例えば、レントゲン写真、T、Tさんは、
御自分がそうした姿をしているのをご存知でしょう。
ですが、それを日ごろ意識されない。
同様に、死んでから必要になる心?の準備、
それをなされておかないと、死んでから戸惑う事になるのです。

自分が死んだ事を認めれない人、死ぬなら死ぬ準備
(生前お世話になった人に感謝の言葉を述べるとか)
をしておきたかったと思う人、へそくりのありかを
孫に伝えておきたかった人など色々あるようです。

>僕は、「偉いお坊さん」ならそう言う事は云わないと思う。

T、Tさんが、そう思われるのでしたら、それも構いません。
論争はしない。
ですが、葬式に行かれてみて下さい。
死者に何を言っているか。
偉いお坊さんとは、詰まる所、殺害された残念な
気持ちでいっぱいの死者に、
天寿を全うした死者と同じ満ち足りた気持ちにさせるか。
そこにあると思います。

>結局の処は、仏教(宗教)の世界観とは、関係がないようです。

そう言い切れます?
仏典とか、葬式とか仏教そのものに触れずに、
仏教の世界観が分かる?

[297] かん 2008/06/29 12:22

武蔵の言葉

「迷いの雲の晴れたるところこそ実の空也」

仏教界て、日本ではこの迷いの雲しか見られないね。
一面雲に覆われている
雲が晴れた実の空を見せてくれる人なんていないみたい・・・

[298] T、T 2008/06/29 17:59

[296]kotaro さんへ。

>ですから、T、Tさん、岩波の仏教用語の神通力の解説と、
>お釈迦様の説かれた原典(仏典)に登場する神通力、
>どちらを真とされます?

どちらが真とされるかと言う問題は顛倒的捉え方である。愚問である。
今日では、お釈迦さまが書かれたのか、弟子が書いたものかが
わからないそうです。
仮にお釈迦さまが、書いたから真であると言うならそれは盲信である。
何が真で何が偽かは、我々自身の体験から判断しなければならない。
体験されて、初めて書かれている事、説かれている事が正しいと判断
出来れば、たとえ、誰であってもよいのではありませんか。

>ですから、閻魔大王は、死んだ人に葬式で
>僧侶が話しかける言葉の中にあります。
>”僕はこんな人知らない”確かに、死んだら会えるのですから、
>多分死者に話しかけている僧侶自身も知らないでしょう。

死んだ先の事、お釈迦さんが説いたのですか?
しかも「多分死者に話しかけている僧侶自身も知らないでしょう。」と言う
僧侶自身も知らないことを「死んだ人に葬式で」僧侶が話しかけるんですか。実に奇怪な世界観ですね。
結局、お釈迦様をだしにした自己中心的な自己主張に過ぎない。

>同様に、死んでから必要になる心?の準備、
>それをなされておかないと、死んでから戸惑う事になるのです。

死んで、まだ先に心が在るのですか。
「戸惑う事」何を戸惑う事があるのか知らないが、戸惑う心があれば
その時に、その処から考えればよいのではないのですか。
在りや無やも、解りもしない先の世界より、今ここの現実の世界を
大事にして、生きる事が重要な事です。

>自分が死んだ事を認めれない人、死ぬなら死ぬ準備
>(生前お世話になった人に感謝の言葉を述べるとか)
>をしておきたかったと思う人、へそくりのありかを
>孫に伝えておきたかった人など色々あるようです。

「自分が死んだ事を認めれない人」
認めるも、認めないの問題で無く、死んだ本人は死んだ事すら
知らないものです。
何故なら、意識の働きが時すでに消滅しているからです。
従って、これは、生存者が生存者自身の論理で、死者自身の事で無くして生存者自身の思いでしょ。
仏壇に向って物を供える心理も、語る心理も皆、死者の為ではなく
自己欺瞞の自己主張である。

>偉いお坊さんとは、詰まる所、殺害された残念な
>気持ちでいっぱいの死者に、
>天寿を全うした死者と同じ満ち足りた気持ちにさせるか。
>そこにあると思います。

それは今日の儀式では、死者に語るのではなく、親族の生存者たちに営業的に語って、居られるのではありませんか。
貴方の言われる事が儀式とするなら、それは、お坊さんという名を借りた、潮来さんの仕事じゃないですか。
総評してこれは、仏教でも、宗教でもない、一歩間違えば宗教詐欺の論説にもなる進み方でもあり注意を要します。

[299] Evrard rose de la fage 2008/06/29 18:26

>>293

>実証の必要がないと言いましたが。
>そもそも仏教に「神」は出て来ないんですから。

よく分からないけどインドラとか(仏教だと帝釈天か)そんなんは何なの?

>キリスト教も「実証」はしてませんよ。聖書で語られているだけで、
>史実として神の存在を証明できる事実は見つかっていません。

だから考えが矛盾する仏教を引き合いに出してるんじゃん

>違います。単に互いに無関係ってだけの事です。
>そもそも、なぜ実証の必要の無い事を実証しない事が「間違ってる」事になるんですか?
>空飛ぶスパゲティモンスターの存在を実証できないキリスト教は間違ってるんですか?

”空飛ぶスパゲティモンスター”を神と仮定する
”空飛ぶスパゲティモンスターは一体しか居ない”と分かっている
”空飛ぶスパゲティモンスターその1が存在する”と奇跡という形で証明してるのがキリスト教
”空飛ぶスパゲティモンスターその2が存在する”と主張しているだけの仏教

誰だってキリスト教を信じるだろ

[300] Evrard rose de la fage 2008/06/29 18:26

>>297
君、まだ生きてたの?

[301] かん 2008/06/29 18:39

>>300

私は今日誕生日したばかりだけど(^_^)

[302] Evrard rose de la fage 2008/06/29 18:55

>>301
それはそれは。

[303] 金太郎飴 2008/06/29 20:21

>>297
>仏教界て、日本ではこの迷いの雲しか見られないね。
もう宗教なんか信心してるとアタマがおかしいと陰口が叩かれる時代
迷いに迷っているのが日本の現代社会

私は本来、他人様が神を信じようが仏を信じようがいっこうにかまわないのですが
あまりにも現代人から仏教が蔑まれているのが問題だと感じてます

>>299
>よく分からないけどインドラとか(仏教だと帝釈天か)そんなんは何なの?
文字で書けば神ですが・・・お経の中では天人と表記されたインドの神様が出てきますね
キリスト教の神とは全くの別物であり本質的に違うという意味でしょう

>だから考えが矛盾する仏教を引き合いに出してるんじゃん
ココの論議を読んでると誰でもそう思うよな(笑)
筋道を立てた論議ができない仏教家が仏教の発展を妨げている事は事実です

[304] かん 2008/06/29 20:25

>>303

そのとおりですね。
やつあたりではありますが、このネットという便利な物もそれを助長しているかもね。

[305] ハンザキ 2008/06/29 20:35

>>299
>よく分からないけどインドラとか(仏教だと帝釈天か)そんなんは何なの?

ああ、神ですね確かに。
多神教の神もいれば一神教の神だったものもいます。
仏教の神はキリスト教の神とはちがい、仏教に改宗する存在として描かれますので、
本来の仏教には無かった神話の登場人物が寓話として取り込まれたものです。
つまり、キャラクターですね。

>だから考えが矛盾する仏教を引き合いに出してるんじゃん

ええと、すいません。
言ってる事の意味がよく判りません。
互いに考えが矛盾することが、どちらか一方が「間違っている」という事になるのは、
どちらか一方が「正しい」と判明したときだけですよ。」
この場合、どちらも正しい訳でも間違っている訳でもありません。

>誰だってキリスト教を信じるだろ

…なんでですか?

そもそも「奇跡」という現象は「証明」を必要とするものではありませんし、
仏教において神話は寓意寓話としての物語であり、
そこに語られる「神」が実在だろうと架空だろうと構わないのですから、
もとよりその存在を主張している訳ではありません。

[306] kotaro 2008/06/30 04:47

>>[298]T、Tさんへ
>今日では、お釈迦さまが書かれたのか、
>弟子が書いたものかがわからないそうです。

論語、コーラン、聖書、数ある聖典の中、
お釈迦様の教えにだけ、そうした事が囁かれる。
事実、お釈迦様はメモを弟子たちに取らせず、
全て口頭で伝えられたので、直接書かれたものはない。
だが、弟子が直ぐに集まり、整理して出したのが仏典だから、
そうそう教えから外れているとも思えない。

事実、最近、これが本物と言う仏典見るが、
書かれている内容は、それまでの仏典とあまり変わらない。

「あなたがどんな人の集まりの中にしろ、
その中で、人の悪口を言ったり、
人から不当な扱いを受け、
それを正そうと必死になり、
言わないでいい事まで口をすべらせてしまう。
そうした事をしないで、心穏やかに生きていくなら、
もうそれだけで、悟れし人といえる」とあります。
(原文は大学の図書館で借りて読んだのですが、
手元にないので意訳になり申し訳ない、そうそう外れてはいない)

此処で、相手に失礼な事を言われ、売り言葉に買い言葉、
同じような汚い言葉で言い返す人がいる。
それは、折角の仏道修行の機会を自ら失ったと言える。
なぜか、なかなか、真実の自分を理解して貰えないと、
人は苛立つ。其処で無駄な努力をついしてしまい、
一人静かに居るという事が出来ない。

人の集まりの中に居ながら、一人静かに居る。
それが悟りの状態。

だから、引きこもりの人が、
此処で書き込みをするのは仏道修行、
この世に生きて、修行していると言える。

だが、秋葉原の犯人のように、
ネットで書き込みをし、
相手に無視されて犯行に及んだ。

そこで、秋葉原の犯人、書き込みを無視されても、
淡々と、自分の主張を書き続ければ良かった。
一人静かに居ると言う事は簡単なようで簡単ではない。
書き込みをして無視されて怒らないなら、
それだけで、仏陀、解脱した人といえるのだから。

[307] ゆめ 2008/06/30 17:10

>>305

>ああ、神ですね確かに。
>多神教の神もいれば一神教の神だったものもいます。
>仏教の神はキリスト教の神とはちがい、仏教に改宗する存在として描かれますので、
>本来の仏教には無かった神話の登場人物が寓話として取り込まれたものです。
>つまり、キャラクターですね。

でも神は存在してるじゃん

>ええと、すいません。
>言ってる事の意味がよく判りません。
>互いに考えが矛盾することが、どちらか一方が「間違っている」という事になるのは、どちらか一方が「正しい」と判明したときだけですよ。」
>この場合、どちらも正しい訳でも間違っている訳でもありません。

「神は一人」つー主張と「神は多数」って主張がどうやったら相容れるんだよ

>…なんでですか?

>そもそも「奇跡」という現象は「証明」を必要とするものではありませんし、
>仏教において神話は寓意寓話としての物語であり、
>そこに語られる「神」が実在だろうと架空だろうと構わないのですから、
>もとよりその存在を主張している訳ではありません。

一部分が間違ってれば全体も間違ってるって仮定するのが当然じゃない?
まして間違ってるのが土台なんだし。
それを「言った」だけでそれが事実になるわけないじゃん。

[308] T、T 2008/06/30 17:49

[306]kotaro さんへ。

>整理して出したのが仏典だから、
>そうそう教えから外れているとも思えない。

ですから言っているではありませんか。、正しく伝え書かれて
いようが、いよまいが僕にとっては、あまり関係がない事です。
何故なら、よりどころがそこに書かれた文字でなく、
体験をより重点に置いておるからです。

>心穏やかに生きていくなら、
>もうそれだけで、悟れし人といえる」とあります。

それだけなら、人徳に部類することで悟りとは関係ありません。

>(原文は大学の図書館で借りて読んだのですが、
>手元にないので意訳になり申し訳ない、そうそう外れてはいない)

ご丁寧に、しかし、僕は先ほど説明した通り原文であろうが、
なかろうが、そこの処には重要視して居りませんが。

>人の集まりの中に居ながら、一人静かに居る。
>それが悟りの状態。

悟りなるものは、この処にはない。

>だから、引きこもりの人が、
>此処で書き込みをするのは仏道修行、
>この世に生きて、修行していると言える。

思い違いも甚だしい。自己中心的な解釈です。
「引きこもりの人」は、自己喪失です。
従って、自己自身の究明が必要です。
インターネツト上の書き込みでは仏道修行と言う事には
無理があります。

>だが、秋葉原の犯人のように、
>ネットで書き込みをし、
>相手に無視されて犯行に及んだ。

これは短絡的な表面的な理解である。
この人は、幼き頃から知らず知らずに精神的
病の領域陥ってしまった。
従って、知らず知らずの領域に陥ってしまって居りますから
本人自身は、無差別殺人を何故、起こしたのか原因は
分からないものです。また、家族も分かりません。
「相手に無視されて犯行に及んだ。」と言う説明は
原因事実ではありません。
この原因は悟れば、解ります。

>書き込みをして無視されて怒らないなら、
>それだけで、仏陀、解脱した人といえるのだから。

これも、解脱とは全く関係ありません。

[309] ハンザキ 2008/06/30 23:13

>>307
>でも神は存在してるじゃん

確かにそうです。漫画の中にドラえもんが存在してるのと同じく、存在してます。

>「神は一人」つー主張と「神は多数」って主張がどうやったら相容れるんだよ

はい?相容れませんよ。
私、このスレでその2つの主張が相容れるなんて言った事ありましたっけ?

>一部分が間違ってれば全体も間違ってるって仮定するのが当然じゃない?

はい。その通りです。
当然、一方的な判断基準で「間違ってる」と判断するのであれば
その判断基準に置いていくら「間違ってる」と仮定されようと、
その「基準」を使っていないものには通用しません。

つまり、キリスト教から見て仏教が「間違っている」のなら
それはキリスト教の判断基準に照らした時だけ間違いなのであって、
仏教徒の判断基準はそれとは違う、というだけの事です。

>まして間違ってるのが土台なんだし。

すみません、それはちょっと意味が解りません。
単に「あなたにとって」間違いだという事であれば問題ありませんが、
「土台」というのは?

>それを「言った」だけでそれが事実になるわけないじゃん。

はい。なりませんよ。

[310] ゆめ 2008/07/02 17:33

>>309

>はい?相容れませんよ。
>私、このスレでその2つの主張が相容れるなんて言った事ありましたっけ?

「この場合、どちらも正しい訳でも間違っている訳でもありません。
」って言ってるじゃん。
じゃあどうやって解釈すればいいと?

>はい。その通りです。
>当然、一方的な判断基準で「間違ってる」と判断するのであれば
>その判断基準に置いていくら「間違ってる」と仮定されようと、
>その「基準」を使っていないものには通用しません。
>つまり、キリスト教から見て仏教が「間違っている」のなら
>それはキリスト教の判断基準に照らした時だけ間違いなのであって、
>仏教徒の判断基準はそれとは違う、というだけの事です。

以前に「神が居ても居なくても構わない」って言ってたけど、居なかったらそこの部分が破綻していく訳じゃん。
これは例え話だけどね。
でも現実として、一部分の破綻は全体の破綻でしょ?
だから「間違ってる」って言ってるんだけど。

>すみません、それはちょっと意味が解りません。
>単に「あなたにとって」間違いだという事であれば問題ありませんが、
>「土台」というのは?

仏教以前のインド思想って事ね。
仏教はそれを否定しつつもそれを土台としてるじゃん。
これって矛盾じゃない?

>はい。なりませんよ。

だとしたら、まさしく釈迦は「言っただけ」じゃん。

[311] ハンザキ 2008/07/03 00:09

>>310
>じゃあどうやって解釈すればいいと?

ですから「互いに無関係だ」と言いました。
どちらもそれなりにある種の「真実」を伝える宗教ですから、その点では「どちらも間違っていない」し、
双方ともに「事実」とは言いがたいのですから「どちらも正しく無い」んです。

互いに無関係なものを、片方の論理でもう片方を否定しようとする態度がそもそもおかしいんです。

>以前に「神が居ても居なくても構わない」って言ってたけど、居なかったらそこの部分が破綻していく訳じゃん。

何故です?
キリスト教は一神教だから唯一絶対の神の存在が前提の宗教ですが、
仏教はそもそも神の存在に言及する必要の無い宗教です。単にそれだけの事ですから、
別にどこにも何も破綻はありませんよ。

先の通り、片方の論理で、その論理と無関係なもう片方を否定しようとするのがそもそもの破綻です。

>仏教以前のインド思想って事ね。

ああ、なるほど。

>仏教はそれを否定しつつもそれを土台としてるじゃん。
>これって矛盾じゃない?

否定し、逆に仏教を土台にして古今の宗教が混成されたのです。
別に矛盾はありません。
キリスト教だってユダヤ教から派生したのですから同様でしょう。

>だとしたら、まさしく釈迦は「言っただけ」じゃん。

そうですよ。
これもキリストが「言っただけ」なのと同様です。
まぁ、おそらく実際は両者とも「言った事をやっただけ」なんでしょうけども。

[312] kotaro 2008/07/13 00:45

>>[298]T、Tさんへ
>死んだ先の事、お釈迦さんが説いたのですか?
>しかも「多分死者に話しかけている
>僧侶自身も知らないでしょう。」と言う
>僧侶自身も知らないことを「死んだ人に葬式で」
>僧侶が話しかけるんですか。
>実に奇怪な世界観ですね。

祖母は、浄土真宗のお寺の娘でした。
ですから、葬式と言えば、浄土真宗のお経を唱えるのが多かった。
ところが、友人のお母さんの葬式に参列して衝撃を受けた。
それが話言葉で死者に語りかける日蓮正宗の葬式でした。

ですが、常識的に考えて、未だ死に至らない若い僧侶が、
閻魔大王に会っているとはとても思えない。
それでそう推測した訳です。

[313] 龍神スカイライン 2008/07/13 02:52

不立文字、教外別伝、直指人心・・・

なるほどねぇ・・・(;-_-;)

[314] T、T 2008/07/13 09:07

[312]kotaro さんへ。
>祖母は、浄土真宗のお寺の娘でした。
>ですから、葬式と言えば、浄土真宗のお経を唱えるのが多かった。
>ところが、友人のお母さんの葬式に参列して衝撃を受けた。

その祖母は、形式的な葬儀を知的に知っていたと言うだけの事です。
「衝撃を受けた。」事は、浄土真宗とは如何なるものかと言う本質的な
事柄を知らなかったと言う事です。
つまり、形式的な事のみに理解されて居られたので変わった形式に
遭遇致しますと惑わされ「衝撃を受けた。」と言う事です。
従って、祖母は仏教の本質を全く知らなかった為に、単に異なる儀式に惑わされた言う事です。
今日では、禅宗(僕の処の宗派)でさえも、お墓、葬儀、戒名、厄払い、等の営業的な形式に陥っております。
これは本来の仏教とは言えない在り方であります。
親鸞聖人は、自分が死んだら葬儀もしなくてよい、お墓も建てるな
鴨川の川に捨てて魚の餌にしてくれと言い残したと言う。
実に、死に対して徹底された遺言ですね。それが今日ではどうですか。

>閻魔大王に会っているとはとても思えない。
>それでそう推測した訳です。

僕の指摘は、「閻魔大王」なるものが存在して居るかと言う問いです。
貴方の場合は、すべてが推測、推論になっております。
推測、推論は仏教の領域ではありません。
それは空想の世界観です。事実ではないと言う事です。

>仏典とか、葬式とか仏教そのものに触れずに、
>仏教の世界観が分かる?

これは以前、貴方が僕に出した問いです。
「仏典とか、葬式とか」これは、仏教そのものではありません。
従って、「仏典とか、葬式とか」と言う文字、形式的な知識からは、
仏教の世界観が分かると言う事は不可能事です。
「仏教の世界観が分かる」には、まず、禅的経験(見性)が必要です。
禅的経験とは、「炭は黒い」と言う事と「炭は黒くない」と言う事とを経験する事です。

[315] 龍神スカイライン 2008/07/13 09:20

>>親鸞聖人は、自分が死んだら葬儀もしなくてよい、お墓も建てるな
鴨川の川に捨てて魚の餌にしてくれと言い残したと言う

あちきもいつも家族に言ってるよ・・
「ワシが死んだら琵琶湖に灰をばらまけ。墓なんぞ作ったら、あの世から化けて出てくるぞ(`_´メ)」とね・・・・
墓石屋に何の義理があって設けさすつもりじゃ??というわけじゃよ・・

「あほちゅうか」といわれてしまったが・・・
「すんまへん(v_v)」とすぐ誤っといたが。・・・ナサケナヤ・・

[316] さーもん 2008/07/13 09:58

仏教はまだマシな宗教だよ。

[317] T、T 2008/07/14 12:16

>「あほちゅうか」といわれてしまったが・・・
>「すんまへん(v_v)」とすぐ誤っといたが。・・・ナサケナヤ・・

分からぬ人には、即座に謝ると言う事が一番大事な事です。
「・ナサケナヤ・・」この心が一番強い心です。

>仏教はまだマシな宗教だよ。

「マシな宗教だよ。」と言うより、仏教(宗教)そのものは、
実際の日常生活上の活き活きとした究極の事実そのものです。
今日に始まった事ではなく昔からではありますが、
仏教そのものをその人によって、別なものに作り変えて
しまう処が問題なのですね。

[318] kotaro 2008/07/14 20:28

>>[314]T、Tさんへ
>今日では、禅宗(僕の処の宗派)でさえも、
>お墓、葬儀、戒名、厄払い、等の営業的な形式に陥っております。
>これは本来の仏教とは言えない在り方であります。

御釈迦さまは、物事を真っ直ぐ受け止めるよう教えられています。

T、Tさんが、ご自分の受け入れ易いよう、
”営業的な形式”と言う形容詞で位置づけられましても、
実際に、禅宗でも葬式は行われている。

”これは本来の仏教とは言えない在り方であります”
と言われるのを耳にしますと、

食事で、豪華な和食、洋食、中華の話題だけを好み、
便秘とか食べた後の排泄には、
注意を向けないのに似ていると思います。

[319] T、T 2008/07/15 12:05

[318]kotaroさんへ。

>御釈迦さまは、物事を真っ直ぐ受け止めるよう教えられています。

この教えは、僕は知らない。
しかし、文字からは「物事を真っ直ぐ受け止めるよう」と言う事の意味は、
物事に人為的な知的判断を入れないと言う事が「真っ直ぐに受け止める」
と言う事ではありませんか。

>実際に、禅宗でも葬式は行われている。

昔は、葬式には参加していなかったそうです。
お釈迦様は「お墓、葬儀、戒名、厄払い、」について説いていますか?
今は知らないが、昔は死者は河に流したそうです。
インドには、お墓がないそうです。

>食事で、豪華な和食、洋食、中華の話題だけを好み、
>便秘とか食べた後の排泄には、
>注意を向けないのに似ていると思います。

「便秘とか食べた後の排泄には、」注意を向けない、向けるとか論じなくとも
必然性に「物事を真っ直ぐ受け止めるよう」に行くしかないのではありませんか。
事実僕は「お墓、葬儀、戒名、厄払い、」の世間的常識には全く拒否していない。
知人の葬儀には参列致しております。しかし、僕自身には必要がないと
言うだけのことであります。
従って、貴方の譬え方は、どこかが間違って居られます。

[320] kotaro 2008/07/16 22:44

>>[319]T、Tさんへ
>事実僕は「お墓、葬儀、戒名、厄払い、」
>の世間的常識には全く拒否していない。
>知人の葬儀には参列致しております。
>しかし、僕自身には必要がないと言うだけのことであります。

T、Tさんが個人的に葬式に関心があるない、ではなく、

世の中、葬式を必要としているから葬式が行われている。
その事実を認めるか認めないかです。
現にある事を認める事から認識が始まります。

そして当時のインドでの日常生活を観察する事、
即ち、現象の認識から、
お釈迦様のお考えもスタートしているはずです。

と言う事は、日本では、お釈迦さまと、
違う結論に到達するかもしれないのです。

[321] T、T 2008/07/17 12:04

[320]kotaroさんへ。

>T、Tさんが個人的に葬式に関心があるない、ではなく、

僕はそんな個人的な事を、ここで語っては居りませんが。
仏教では、死者の事を説いていないのです。不説になっています。
仏教の発祥地インドでは、河に流し、お墓がないのです。
親鸞聖人も、川に流してくれ、葬儀もお墓もいらないと遺言しております。
久松真一、博士(覚の宗教)も同じような事を述べて死んで逝かれた。
「死」に対して事実究明に到りますと、当然そのような、結論に到ると思います。

>世の中、葬式を必要としているから葬式が行われている。

世の中の事柄は必ずそうではありません。
世間体と言う思想が多いにあるようです。

>そして当時のインドでの日常生活を観察する事、
>即ち、現象の認識から、
>お釈迦様のお考えもスタートしているはずです。

その現象の認識する処から出発したのでお釈迦様は悩んだのであります。
それで、現象の認識だけでは事実ではないと言う事を悟って、悩みから
脱却された。
お釈迦様の偉い処は、「現象の認識」に疑いを持った、そしてその疑問を
解決したと言う事です。

貴方の言うように、>「現にある事を認める事から認識が始まります。」
>「日常生活を観察する事、即ち、現象の認識から、」を妄信的に
事実と、信じ込んで日常生活を営んでいる人が一般的です。
このような生き方では、駄目だと言う事に貴方自身が、気がつかなければ、
仏教もお釈迦様も無用で、しかも、仏教、お釈迦様について語る資格がない。

>と言う事は、日本では、お釈迦さまと、
>違う結論に到達するかもしれないのです。

「日本では」と言う事ではなく、時すでに貴方自身が「お釈迦さまと、違う結論」にあるようだ。
貴方自身が「仏教とは何か」について勉強のやり直をする必要があるようです。
その勉強の方法は、眼の開いた人の指導がしばらくは必要のようです。
貴方独自での勉強では不可能でしかも危険です。

[322] 龍神スカイライン 2008/07/17 18:47

ここ楽しいですよ(*⌒▽⌒*)
http://gene-40.bbs.thebbs.jp/1213060185/418-

しかめっ面していても大していいことないですよ。

[323] kotaro 2008/07/17 20:46

>>[321]T、Tさんへ
>僕はそんな個人的な事を、ここで語っては居りませんが。

それはいい事。

個人的見解ではなく、禅宗が葬儀を行う際の公式見解が、
T、Tさんが言われる
「仏教の発祥地インドでは、河に流し、お墓がないのです」
であるならば、
禅宗は現に葬儀を行っているのですから、
禅宗が実際している事は、お釈迦様の教えと違う。
そう言う事になるのです。

実際している事が人の死に際し、
必要欠かす事が出来ない事でしょう。

だからこそ、不承不承にしろ、金儲けの為にしろ、
信者の要望に応え行われている訳でしょう。

現象の把握とは、起きている事が全てです。
当時のインドで何が行われていようと、
それを日本に持ち込めなかった。
例え、仏教徒がその行為に意味がないと判断しても、
それをさせない事は出来なかった。

それは仏教が伝来するはるか昔から、
日本には、日本の死者を弔う方式があったから。

「仏教では、死者の事を説いていないのです。
不説になっています」
だったから仏教が世界に広まった。

もし、葬式の手順も仏教で決められていたら、
誰も受け入れなかったでしょう。
それらの事は、各地の事情に合わせて行えるから、
世界に広まった。

[324] T、T 2008/07/18 12:09

[323]kotaro さんへ。

>禅宗は現に葬儀を行っているのですから、
>禅宗が実際している事は、お釈迦様の教えと違う。
>そう言う事になるのです。

この事は。初めから言っているではありませんか。
禅宗だけでなく、他の宗派もそうだと。
昔のお坊さんは、生死の悩みの解決に取り組んでいたのが
何時の間にか葬儀に参加しだした。

>実際している事が人の死に際し、
>必要欠かす事が出来ない事でしょう。

ここが違う。「必ず必要ではない」と言うのが僕の意見です。
最近ではやらない人が出て来ていますね。
やめたくても、親戚、或いは社会的な世間体を気にして仕方なしに
辞めるに、辞められないと言う人(世間体と恐怖感)も聞きます。

>信者の要望に応え行われている訳でしょう。

今日での一連の葬儀の状態を見て果たして「
信者の要望」に応え
行われているのだろうか。
葬儀も、信者と雖もお金がなければ出来ない。お経も、戒名も
皆お金がらみである。
葬儀、戒名、お墓、どれもこれも疑問だらけであります。
「お墓の中にはいない」と言うような歌には。墓石屋からの
猛抗議があったそうです。お布施が途絶えると、お墓も捨てられる。
これも可笑しな話ではありませんか。

>それは仏教が伝来するはるか昔から、_____
____>世界に広まった。

仏教の不説と全く意味が違う、下らない専制的な理屈である。
論点を逸らさない様に願う。
葬儀と仏教(宗教)とは全く別の事柄であると
僕は言っておるわけです。
しかも、死者になって又別の世界が在ると言う思想も考えられない。
この二点が仏教の教えでは無いと僕は言って居るのであって、
貴方の様に「形式的葬儀、死者と逢う閻魔大王が在ると思う人」に、
そうではないと言った処で、立って居る次元が違う様でこれ以上の
論議に意味がない。
後は、ここ掲示板、理解者各人様に結論を委ねまして、
ここら辺で終結に致しましょ。

僕えの返信は要りません。

[325] 求めるものは? 2008/07/18 20:55

仏教を信じてもいいですが、
いったい何を求めているのですか?

幸せ?

苦痛?

生まれ代わってまた苦痛の日々ですか?そして、また死んで生きて苦痛の日々。

たとえ、真実であっても信じたくないです。
人間ってそんな生き物ですか?

人間で後悔してません?

[326] 金太郎飴 2008/07/19 02:46

>>325
>いったい何を求めているのですか?
別に何と言うほどのものではありません(笑)
産まれたら良心(仏心)に導かれながら普通に生きれば良いのです

>生まれ代わってまた苦痛の日々ですか?そして、また死んで生きて苦痛の日々。
生きるのが苦痛なら苦痛なのでしょう
しかし私は仏教に出会い『満たされた心』をいただきました
気分はいつでも億万長者と同じで人生に苦痛など微塵も感じません
毎日、頭がガンガンする程の睡眠不足とはいえ我ながら最高の人生と思っています

辛い事は自分を磨く試練だと思えば勉強と同じで辛い事の先には達成感が待ってます
この人生ではココまで、しかし次の人生では更にといくらでも昇る事は出来るでしょう
私の欲は救済欲で可能であれば何度でも生まれ変わりたいものです

>人間で後悔してません?
何を言ってるんですか〜?笑
結局、人は人しか心から愛せないのと同じで人は人に評価されたいもの
飼い猫に慕われても飼い犬に慕われても・・・それは軽いです

友人、知人が評価してくだされば政治家にだってなれます
また政治家達が評価してくだされば総理大臣だって可能です
世の中はそうなっているのですから話は簡単です

[327] T、T 2008/07/19 08:43

>[325]求めるものは?

自分自身の内に在る。

>仏教を信じてもいいですが、

信じる処からでなく、疑いから出発して下さい。

>いったい何を求めているのですか?

仏教は貴方自身の問題ですから、貴方自身に生きる上に於いて疑問、
或いは、求めるものがなければ仏教は必要ないです。

>生まれ代わってまた苦痛の日々ですか?そして、また死んで生きて苦痛の日々。

そのような推論で尋ね、他から与えられた知識で理解されても、仏教は何の
意味にもなりません。
つまり、実際の日常生活には役に立たないものです。
谷川の湧水は、貴方自身が直接体験(求め飲んでみて)して始めて、美味いか、
不味いかが解るような領域が仏教の関わる問題点であります。

>たとえ、真実であっても信じたくないです。
>人間ってそんな生き物ですか?

信じる、信じないの領域を彷徨って要る間は、「人間ってそんな生き物です」

>人間で後悔してません?

後悔するも、しないも、選択出来ないものであります。
ある日突然、生れ出た。ここには選択の予知すらなかった。
選択のない処に、後悔という事があるはずがない。
それでは貴方にお尋ねいたします。
貴方は人間の他に何になりたいのですか。動物ですか、植物ですか?

[328] 求めるものは? 2008/07/20 03:26


え〜。

誤解があるようなので、

仏教では何億年も先で救われるという話を聞いたので、どう転生するか分かりませんが、それまでは苦しみの日々を送らざるを得ないという事を考えた時、気の遠くなる話だと思ったので、嫌だなあと思ったのです。

そうなると、今が苦しくないと意味が通じないですよね?

それとも、救いとは、苦しみを救う事ではないんですか?

[329] T、T 2008/07/20 07:59

>仏教では何億年も先で救われるという話を聞いたので、どう転生するか分かりませんが、
>それまでは苦しみの日々を送らざるを得ないという事を考えた時、気の遠くなる話だと思ったので、
>嫌だなあと思ったのです。

そんな話嘘ですよ。「今ここの処」で救われております。
その事に気がつかないだけの事です。「道は近くにあり、これを遠くに求める」(儒教者)それは
間違いだと言っています。その事実に気付く教えが仏教に在ると言う事です。

>そうなると、今が苦しくないと意味が通じないですよね?

??????

>それとも、救いとは、苦しみを救う事ではないんですか?

苦しい、楽しいと言う感情がなくなればそれは病気です。
しかし、その感情に「とらわれない」という事は大事な事です。
「救いとは、」
迷いから目が覚める事です。
「自分自身を欺き、他をも欺く」この知的な道具を放下する事です。
本来ある事実に従って善く生き抜くと言う事です。

[330] T、T 2008/07/20 08:08

>「道は近くにあり、これを遠くに求める」(儒教者)それは
>間違いだと言っています。

」(儒教者)「これを遠くに求める」それは間違いと______

「これを遠くに求める」が抜けて居りました。
失礼致しました。

[331] ところで…。 2008/07/21 08:11


いきなりスットンだ話をしますが、

あの世ってあると思います?

この世で終わりと考えますか?

[332] 助右衛門 2008/07/21 09:32

それがし、原始仏教に関心もっており申す

浄土教、真言密教などはバラモンの考えであると、そして不純物が混ざっていると書かれており申すがこれ如何に・・
http://www.shomonji.or.jp/chosho1.htm#vol2

書かれた方はこの方じゃ↓
http://www.shomonji.or.jp/history.htm

[333] 助右衛門 2008/07/21 09:33

決して論戦を仕掛けているものではござらん。
ご安心めされ。
各々方のこれに対する考えをお尋ねしたかっただけじゃよ。
ご免

[334] ところで…。 2008/07/21 10:07

不純物によく気が付きましたね。

ありますあります。

そこはキリスト教の聖書にあります。

残念ながら、気が付いただけでは、全く意味はないのは分かりますよね。
解決すればこそ。

でも、気が付ける人間は、そういない。

けれども、そこが仏教の限界。

全ての欲を捨てる事で解決するようですが、それでは、なんの為に産まれて来たのやら。
なんにも欲しないのでは解決に向かわない。消極的解決では、根本的な解決にならない。

また、不純物があると言って去ったのは、自己満足?

先が無ければ、不純物もその場限りだからどうでも良くなってしまう。

どちらも解決すべきだが、
あの世と永遠を認めてこそ、
不純物を解く意味が出てくるのでは?

[335] 助右衛門 2008/07/21 16:18

浄土教に至っては、ペルシャの影響すら受けているとは。
いやはや、日本の最大教団の正体とは、一体何物なんでござろうや。
とんと合点がいき申さぬ

釈迦の残した究極は、「楽に生きるための教え」又は、「徹底して無駄な思考を消す」という一点に尽き申そう

[336] 金太郎飴 2008/07/21 16:59

>>335
>浄土教に至っては、ペルシャの影響すら受けているとは。
浄土宗をけなされては黙って見過ごす訳にも(笑)
真言宗すらバラモンの影響を受けているからダメでは手も足も出ません
どんな宗教だって当時の宗教を取り込まねば地域に根付く事は困難でしょう
キリスト、イスラムだって旧約聖書を取り込んでいるように・・・

新興宗教はどうしてもそういう問題が生じます
しかし変化しても人々の心に根付いて行くものは本物でしょう

そんな事より阿弥陀如来の慈悲にすがる事がどれだけ多くの人々を楽にさせる事でしょう
それを信じなさいとお釈迦様が仰ったならそれを素直に信じても良いのでは?

[337] 助右衛門 2008/07/21 17:54

>>浄土宗をけなされては・・

いやいや、拙者決して貶してはおり申さん。
客観的事実を申したまでで、決してお主の宗教を貶してはいないのでご安心召され。

過去、何方かが仰せあったことだが、「仏教の偽り」がチト気になったまでで御座るよ。

「貶し」であったら平にご容赦を・・
どうかお許しあれ。

某、仏教をやらず、あくまで釈迦が何をさせたかったかを追求しておるもので御座る。
釈迦の意見以外はどうも耳に入らないようなのです。
その意味で、禅の世界は徹底して無駄、飾りを排除しておるようにお見受け致す。
何事も、徹底して源流へと遡って観ることに深い味わいを感ずるものにて御座候。
金太郎飴殿の御聡明なる御心でもってお察し下されたく、願い上げ奉り早漏

[338] ところで…。 2008/07/21 19:07

やはり、仏教は対処療法の域を超える事は無理だと思います。

しかし、仏教も確かに貢献しました。

他の宗教も未だ世の中を良くする事が出来てない。

昔と違い知能もそれなりに上がった今、真の解決に向かうべきと思います。

ところで、あの世に行くのに肉体を脱ぐと言いますが、それが本当なら、面白いのが言語。口も肉体だから日本人は日本語がしゃべれなくなる。その世界では、意思の疎通は考えただけで相手に伝わる。

あの世には国境は作れないと思います。

[339] 助右衛門 2008/07/21 19:20

>>仏教も確かに貢献しました

仏教はあらゆる宗教の中でもっとも洗練された深みのある宗教だと思います。
世界中の紛争地域を見ても仏教徒が絡んだ紛争はほとんどありません。
辛うじて、スリランカくらいでしょうか?
確か、ヒンズー対仏教の戦いのはずです。
政府軍が仏教で、「タミルイーラム開放の虎」がヒンズー教徒だったと思います。

いちいち御尤も・・
仰せの通りかと・・・

[340] 2008/07/21 19:46

>>336
キリスト、イスラムだって旧約聖書を取り込んでいるように・・・

金さん、逆ですよ。
キリスト、イスラムが旧約を取り込んだのではでく、
旧約のもとに、キリスト、イスラムがあります。
キリストは救世主として、イスラムは預言として。

ペルシャの影響とは、仏教を救世思想と解釈した点でしょうか。

>>335 釈迦の残した究極は、「楽に生きるための教え」又は、「徹底して無駄な思考を消す」という一点に尽き申そう

釈迦の残した究極は、Buddhaではないでしょうか。

[341] 助右衛門 2008/07/21 20:19

あ、そうで御座った。
何時か何方かにそう言われたというのに。。。(●^—^●)
面目次第も御座らん

ところで、どこかでお目にかかったような気が致しますが???
ま、気のせいで御座ろう(●^—^●)(●^—^●)(●^—^●)

[342] 隠者 2008/07/21 22:09

名探偵コナンでは毛利探偵事務所があったし、
野村マンサイの陰陽師では、白土君がスサノオに
なっていたことを考えると嵌めようとしたろ?
もう少しまともな計略考えなさいよ。
それとも鬼が移動した後の桐山君主催の
長サル狩りかな?
これだから中国のお方は形式の裏に獣性を帯びていて
末おそろしや。

[343] 隠者 2008/07/21 22:25

今の対応ですべててが決まりました、確か同じ天界に居るのでも
弥勒菩薩の状態から黒猫ヤマトにタッチするのと
2つしかない状態では違う。
閻魔大王は創価学会の「御書」で
将軍は「経営学」+「軍事教範」で
イギリスは「物理学」
「唐獅子」は自分より体力のある状態でセックスを。
「麒麟」は音楽で
辰は「睨みを利かせた状態」
死神は「殺人術」+論語

[344] 隠者 2008/07/21 22:25

鬼は我が闘争で

[345] 金太郎飴 2008/07/21 23:11

>>337
いやいや文末に(笑)とか(爆)とか書いてある場合は基本ネタなので心配は無用です
ただひたすら阿弥陀如来を信じ極楽往生を願うべしという教えに従ったまでで・・・
何事も追求する気持ちは大切ですので大事にしてください

>>338
>仏教は対処療法の域を超える事は無理だと思います。
何故でしょう?てかどんな場合にそれは無理なのでしょう?
仏教で救えない事ってなんでしょう?

>ところで、あの世に行くのに・・・その世界では、意思の疎通は考えただけで相手に伝わる。
そうだと思います(てか、魂の世界はそうだと信じてます)
でないと世界中から極楽に集まった場合とんでもない事態になります(笑)
現世での想いは忘れ、赤ちゃんになったような感じであちらに生まれ変わるのでしょう

動物に国境を越えた言葉の障害が無いのと同じように人間も肉体がなければ魂による意思の疎通が出来ると思います
現に赤ん坊は言葉は理解しなくても親のすることは全て受け入れ理解します
人間は本来、言葉はいらないのだと思います

>>340
ご意見ありがとうございます
>旧約のもとに、キリスト、イスラムがあります。
歴史的背景を考えると正しくその通りでしょう
しかしが旧教を全く受け入れない場合は最悪の場合、時の権力者から迫害を受ける恐れがあります
私はやむなく「元になっている事をにしたと」考えています・・・
キリスト教は旧約を拒絶するべきだったなんて書いちゃったらヤヴァイですかね?

[346] kotaro 2008/07/23 23:02

>>[328]求めるものは?さんへ
>仏教では何億年も先で救われるという話を聞いたので、
>どう転生するか分かりませんが、それまでは
>苦しみの日々を送らざるを得ないという事を考えた時、
>気の遠くなる話だと思ったので、嫌だなあと思ったのです。

弥勒菩薩信仰、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E5%8B%92%E5%A6%82%E6%9D%A5
引用:

弥勒はゴータマ・シッダールタ(釈迦牟尼仏、現在仏)
の次にブッダとなることが約束された菩薩で、
ゴータマ・シッダールタの入滅後56億7千万年後の
未来に姿をあらわし多くの人々を救済するとされる。
現在は、兜率天で修行(あるいは説法)しているといわれ、
中国・朝鮮半島・日本では、
弥勒菩薩の兜率天に往生しようと願う信仰(上生信仰)が流行した。

一般に弥勒の下生は56億7千万年後とされているが、
この気の遠くなる年数は、
弥勒の兜卒天での寿命は4000年であり、兜卒天の1日は
地上の400年に匹敵するという説から、
下生までに4000×400×360=5億7600万年かかるという
計算に由来する
(後代に5億7600万年が56億7000万年に入れ替わった
と考えられている)。

[347] 助右衛門 2008/07/24 08:27

>>全ての欲を捨てる事で解決するよう・・

欲を捨てた時、欲が叶い、欲への執着があるうちは欲は実現せず・・
何故か執着を吹っ切った瞬間叶わなかった部分がいとも簡単にやってきた体験があり申すが、実に不思議で御座った

真我とやらは実は臍曲がり者でござるな。

[348] 2008/07/24 12:56

>345キリスト教は旧約を拒絶するべきだったなんて書いちゃったらヤヴァイですかね?

金さん。
キリストもイスラムも、根本預言である旧約は、体質的には啓示の更新を超え拒絶することはなかったと思います。
神の造られたアダムとイブ、そしてアブラハムの直系としての伝承意義がありますし。
イスラム教がイエスを預言者とし、キリスト教がムハンマドを認めないのは、
啓示の更新が既存宗教の存続に関わる理由から、とも言え、
旧約拒絶は根源的な一神教概念にも関わるでしょうから。
拒絶するまでもなく更新で充分ということでもありますね。

>347真我とやらは実は臍曲がり者でござるな。

助さん。
真我は純粋に真我ではないでしょうか。
お釈迦さまの教えは真我と道諦の関係を見事に表わされていると
思いませんか?

[349] 助右衛門 2008/07/24 16:46

>>348

>>真我は純粋に真我ではないでしょうか・・

知った者から観るとまさにそのとおりでしょうか?
ところが知らない者から見ると、それはただの変コツ者かもしれませんね。

一休さんが、一見変コツぶりを発揮していたとすれば、それは、知らない人が見た場合でしょうな。
ただの変コツでなく、紛れもない本物の行いに観えたりしますが。
ただの度の過ぎた思い込みでしょうか?

[350] T、T 2008/07/24 19:52

>347真我とやらは実は臍曲がり者でござるな。

「臍曲がり者でござるな。」と意味ずけられますと、それはもはや
真我ではありません。

[351] 金太郎飴 2008/07/25 23:52

>>348
吟さん
>キリストもイスラムも、根本預言である旧約は、体質的には啓示の更新を超え拒絶することはなかったと思います。
繋がりがあれば信者を取り込むのと、時の権力者からの追求をかわすのに都合が良かったという解釈は不謹慎なのでしょうか?
私はへつらったとしか思えません
結果、今でもキリスト教徒は旧教から良いように使われている気がします・・・
これ以上は・・・門外漢が首を突っ込もうとは思っておりませんのでこの辺で^^;

[352] T、T 2008/07/26 07:55

禅者の動き。

禅堂に雨漏りがあるぞ、さあ大変だという事になり、他の僧よりも逸早く或る僧が
笊を受け皿に持って来た、その僧を禅匠が褒め称えたと言う。
一般的常識では、笊では役に立たない行動と否定されますが、禅者ではそれが尊いと言う事です。
この事からも、禅者と一般との間には何等かの違いを重視する行動が在るようです。
この事が解れば「真我」という事が解ると思えます。

[353] T、T 2008/07/26 11:57

>結果、今でもキリスト教徒は旧教から良いように使われている気がします

仏教でもキリスト教でも同じ事が言えるかと思います。
本物の教えと言うものは、新旧の区別がない、「あるなにものか」の問題点を捉える事が
必要であるかと思います。
文字の表面からとらえますと、この「あるなにものか」が抜けて理解され、そこから多種多様の
異論が噴出しますので注意を要します。
「あるなにものか」は、こうであるから、こうなると言う教えが実は無いものです。

「あるなにものか」は、今も昔も変わらない、つまり、真理は個人の日常の生活上での
経験に得た処(覚、悟り)から見れば簡単な事です。しかも、間違いのない真理です。
歴史の無い処から歴史を看ると言う事が大事な事です。
歴史から歴史の無い処を見れば何かと錯誤致します。

この事は、今、精神的にダメージを受けて居られる方を救う事に携れば、
ハッキリと解ります。また、他の人を救う事がないと、仏教、キリスト教は
本当に解った事にはならないと言えましょう。
本当に解りますと「なあんだ、こんな事だったのか」と言う思いに到ります。

[354] 名も無き者 2008/07/26 12:57

禅の方もいられるようだ。禅の限界については考慮するまでに至らないことは当然かも。
第一に禅では師家に対して礼拝しているがこれは偶像崇拝の一部である。ここに疑問を持つと禅寺が成立しなくなることになる。
第二に禅問答は結果論を記載したもので取り扱い注意のことである。
真我とは何か。これは言葉の遊びである。実体がない。
他と区別するために真我が登場する。他とは何か。普通の人である。
普通の人と比較して議論しても不毛である。生産性がない。なんの生産性なのか。宗教の生産性である。
宗教の生産性を意識して議論する伝統が方法論が欠けている。迷信を議論していても生産性がないのだ。真我は迷信の一種であると断定できれば問題が解決する。だが何人がそれを理解できるのか。説明を要する。
真我というものは結果論なのである。そこに到る過程を欠如させては議論にならない。そこに到っていない人がどう説明ができるのか。
宗教とは結果ではないのだ。過程の問題である。仮定の問題である。方法論である。宗教という方法論を使えばこうなると言うだけのことである。それを実体化させると誤解が発生してくることになる。迷信になる。
迷信とは宗教を実体化させたものである。こんなことを書いてしまってよいのかな。学説がないことだから。御高配を乞うものである。

[355] 金太郎飴 2008/07/26 19:01

>一般的常識では、笊では役に立たない行動と否定されますが、禅者ではそれが尊いと言う事です。
立派な仏教者がそんなトンチンカンを言ってるから>>0 に釈迦は頭がおかしいとか思われるんですよ

禅宗的論法は一般の人には理解出来ません
このスレをずっと見て来ましたが話が噛み合っていないです
世間一般の論法で話された方が理解されやすいと思いますが

>>354
>迷信とは宗教を実体化させたものである。
感銘しました!短い中にも重みを感じる文章です

[356] 2008/07/26 21:19

>>355 金さん。

>>354
>迷信とは宗教を実体化させたものである。
感銘しました!短い中にも重みを感じる文章です

名も無き者さんは、阿弥陀如来、等々の具現化した象徴のことを仰っておられるのでは?
それらが、迷信であると。。。

[357] 金太郎飴 2008/07/27 00:13

>>356
>名も無き者さんは、阿弥陀如来、等々の具現化した象徴のことを仰っておられるのでは?
それを言う為に阿弥陀如来の極楽システムを書かせたのならガッカリです
私の一生懸命書いた時間は無駄になってしまいました
取り返しのつかない時間を過ごしたようです

そんな事はないでしょうが、たとえ名も無き者さんが、阿弥陀如来を批判しようとも私の信念は変りません
吟さんが仰ろうとも同じ事です
てかもう確信した(爆)

そう簡単に信念は曲げられるものではございません
日蓮は大嫌いなので

[358] 2008/07/27 02:02

>>357 金さん
私のそれぞれの書き込み時刻を見ていただければわかると思いますが、
向こうを書いてから、こちらを読んでいます。
別段私には、阿弥陀如来を否定する理由もありませんし、
そういう意図的なことをする時間も必要性も、私にはありません。
否定されていると思われる内容に、何故感銘されたかが不思議だっただけでして。
金さんご自身が、確固たる信仰根拠があれば、それでよろしいのでは
ありませんか?

[359] 助右衛門 2008/07/27 08:59

>>357

金太郎飴殿、阿弥陀如来を何時でも何処でも見たい時見られる方法が御座るが、欲しくは御座らんか?
お主の大好きな宗派の経典にその方法が書いて御座るが。。

さすればその方法にていつでも何処でも阿弥陀様を思い浮かべれば眼前に現れてくれますぞ。
これはお釈迦様が阿南に質問されて答えられたすばらしい方法で御座るよ。
数日もすればそれが叶うこと必定。

[360] T、T 2008/07/27 09:57

>第一に禅では師家に対して礼拝しているがこれは偶像崇拝の一部である。

これは表裏的な理解であります。
何故か、偶像崇拝の処には禅は無い。

>第二に禅問答は結果論を記載したもので取り扱い注意のことである。

禅問答は結果論ではない。禅問答を全く理解できていない。
従って、ここで仏教を知らないと言う事が解ります。

>真我は迷信の一種であると断定できれば問題が解決する。だが何人がそれを理解できるのか。説明を要する。
>真我というものは結果論なのである。そこに到る過程を欠如させては議論にならない。
>そこに到っていない人がどう説明ができるのか。

これを迷信と言います。
外的なものに助けを期待求めるのが迷信です。

宗教の問題は、論理、説明によって伝える事が出来ない。また、他から与えられるものでもない。
従って、そこに到る過程も一定の方法論もない。ここでは言い表したり、書き示す事は全く不可能であります。
何故か、言語道断、心行処滅と言う領域であるからであります。
「宗教は心霊上の事実である」(西田幾多郎。)
その人自身が自分自身の人生の事実を「あるがまま」に受け取る事が宗教であります、

>トンチンカンを言ってるから>>0 に釈迦は頭がおかしいとか思われるんですよ

笊の話がトンチンカンですか、そのものに、「成り切れば」トンチンカンで
ないことが分かりますが。
何もお釈迦様をだしにしなくても、解る人には解ります。

>このスレをずっと見て来ましたが話が噛み合っていないです

これは、文字のみから理解されるからであります。

解らない人には、「話が噛み合っていないです」当然そうなります。
仏教はそれで良いのであります。

また「話が噛み合っていない」人は、話が噛み合うようにその人自身が努力すべきです。
何故なら、「話が噛み合っていない」のは、僕の領域の問題でなく
「話が噛み合っていない」人の方に問題が在るからであります。

>世間一般の論法で話された方が理解されやすいと思いますが

世間一般の論法で理解されますと、それは単なる諸法の話になります。それは仏教ではない。
仏教の話は諸法実相の話でありますから、世間一般の話、一般の論法で
理解されても無意味になるだけであり、また人生の蹴躓きの原因にもなります。。
従って、本来の自己を会得、聞取出来ない間は、仏教は解ったとは言えないでしょう。

[361] 助右衛門 2008/07/27 10:07

追加
原版はコチラ↓にて御参照されたし。
観無量寿経、
第一の観
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E8%AA%9E%E3%80%80%E8%A6%B3%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%AF%BF%E7%B5%8C
(Ctrl+Fにて検索画面が出て参りまする故、その検索画面に「第一の観」と入力し「次へ」をクリックされればその部分が出て参る)

第一の観、日想
http://www.hm.aitai.ne.jp/~jintori/kanmu1.htm

執着を棄てる世界に身を置く者であるならばほどほどで執着を棄て申そう。
某、「増長慢」にならぬよう心がけているもので御座る
「増長慢」・・・恐ろしきことで御座るな。・・・あ、この件に対するお声がけは御無用に願いたい。

[362] 2008/07/27 12:22

以前、オーラが見える方法というのが、あったようで。
眼を訓練してオーラが見えるようになるのだとか。
本人が純粋に神聖なオーラに包まれる法、ではなく、オーラを意識的に出し、第三者的に見えるようになる法。
価値があるような、ないような。
「覚」と類似象徴現象とを掏り違える本末転倒は古今東西よくあることです。

「覚」が笊なら、「類似象徴現象」は鍋でしょうか。

[363] T、T 2008/07/27 16:28

>以前、オーラが見える方法というのが、あったようで。
>眼を訓練してオーラが見えるようになるのだとか。
>本人が純粋に神聖なオーラに包まれる法、ではなく、オーラを意識的に出し、第三者的に見えるようになる法。
>価値があるような、ないような。

これも一種の妄想です。ここには、本来的な価値はありません。

>「覚」と類似象徴現象とを掏り違える本末転倒は古今東西よくあることです。

よくある誤謬です。

>「覚」が笊なら、「類似象徴現象」は鍋でしょうか。

覚が「笊なら」と言う事ではありません。この公案では、笊でも、鍋でも、桶でも、なんでもかまわないのです。
ただ鍋、桶にしますと、一般論的(常識)な事柄と混同され公案の意味を失います。
公案は、一般論的(常識)な事柄は迷いの論理を意味し、悟りの(覚)論理に気づかす作業が主旨です。

[364] 金太郎飴 2008/07/27 21:39

>>360
>笊の話がトンチンカンですか、そのものに、「成り切れば」トンチンカンでないことが分かりますが。
そのものに成り切るとはどういう事なのでしょう?(一般の方に分かるように説明を希望します)

>世間一般の論法で理解されますと、それは単なる諸法の話になります。それは仏教ではない。
その根拠は?(これも一般の方に分かるように説明を希望します)

[365] T、T 2008/07/28 08:26

>>360
>>笊の話がトンチンカンですか、そのものに、「成り切れば」トンチンカンでないことが分かりますが。
>そのものに成り切るとはどういう事なのでしょう?(一般の方に分かるように説明を希望します)

成り切るとは、事実に従うと言う事です。

>世間一般の論法で理解されますと、それは単なる諸法の話になります。それは仏教ではない。
その根拠は?(これも一般の方に分かるように説明を希望します)

吟さんの言われる。
>金さんご自身が、確固たる信仰根拠があれば、それでよろしいのでは
>ありませんか?

「金さんご自身が、確固たる信仰根拠があれば」と言われる領域の事です。

仏教は。「一般の方」が理解される様な生易しい問題ではないのです。
それこそ、血の吐く様な心理を通して理解される、しかし、「血の吐く様な心理を通った」からと
言って理解される保障もない。
皆さん人生の先生と言われる方は血の吐く様な心理を通っておられます。
仏教は一般の方が言葉、文字によって理解される様な簡単な問題では無いのです。
銀山鉄壁と言われる様な壁をぶち破る難しがあるのです。

繰り返して言いますが、仏教が解ったと思われている方は、神経症に悩む方、精神的ダメージを受けて
居られる方を救う事を勧めます。
救う事が出来なければ、それは仏教(禅)を理解できていない証明になります。

[366] 名も無き者 2008/07/29 23:43

仏教、禅の理解。
第一。体験の問題について。禅修業は無駄な努力である。机で対面して禅問答をすれば十分である。体験を重視することは理論が完成していないことを隠すことになる。そこを指摘されると痛いことになる。自分の理論が完成していれば痛くもかゆくもない。体験を主張するものを信用しないことである。体験は理論化されてこそ人類に提供できるのだ。人類の先頭に立つ者としての自覚が必要だ。鈴木大拙はそうだったか否か。
第二。自分が救われれば他を救うことができる。同じ過程であるからである。自分が救われているか否かを前提的に問題とすべきである。
言葉、文字、理論なくしてどのように他人を救うことができるのか。苦行、修行を他人に強制することになるのだ。それで良いのか否か。
自分が救われていなければ、それは仏教、禅を理解できていない証明になります。

[367] kotaro 2008/07/30 04:11

  under-stand
       (下にー立つ)

相手より、一段下がることで、相手を理解できる。
相手より上から話しかけていては、
お互いを理解しあう事はできない。

禅だけが仏教でもないだろうし、
禅を修めた人が、皆精神疾患治療に
従事されている訳でもないだろう。
自分のこれまでの経歴を基準に、
そうでないなら、仏教と言えないとまで言ってしまうのは、
本当に、天上天下唯我独尊と言った
お釈迦様の弟子らしい発言と言える。

[368] T、T 2008/07/30 12:05

>机で対面して禅問答をすれば十分である。

禅問答で解決できると思いならそれでよろしいと思いますが。

>体験は理論化されてこそ人類に提供できるのだ。

「理論化されてこそ人類に提供」できるが、しかし理論化は「そのもの」では無い。
体験ががあって論理が出てくる、理論化から体験はできない。

貴方の説なら、経典、聖書、論語、等の書で充分であるはずになるが
臨済、洞山禅師等は相当の哲学者であつたらしい。
あらゆる仏教書を読んでいて、尚解らないそれで修業(体験)したようです。

>言葉、文字、理論なくしてどのように他人を救うことができるのか。

言葉、文字、理論を頼っている間は、まだ貴方自身まだ救われていない。

>自分が救われていなければ、それは仏教、禅を理解できていない証明になります。

「言葉、文字、理論なくしてどのように他人を救うことができるのか。」この理屈でも解る様に
自分が見た自分があてにならない事を意味します。
「自分が救われていなければ」と言う事が問題でなく、救われているかが問題なのです。
つまり、救われていないのに、救われているつもりが問題なのです。
従って、まず自分が救われているのか、救われていないのかの証明の必要がいると言う事である。
そこで、人を救う事によって確かな証明になると言う事です。ここで始めて自他不二が解ります。

>相手より、一段下がることで、相手を理解できる。

これは一般的な世間の話です。仏教、禅ではあり得ない。

>相手より上から話しかけていては、>お互いを理解しあう事はできない。

この人は全く仏教を解っていない。
どのように話しかけても、仏教、禅に関しては、お互いを理解し合って
理解、或いは、そこに到ると言う事はあり得ない。
何故か、仏教、禅は事実であって、思想や哲学という学問ではないからであります。

>禅だけが仏教でもないだろうし、

それはキリスト教でも哲学でも何でもかまいません。
それは、到る処は皆同じですから。

>禅を修めた人が、皆精神疾患治療に>従事されている訳でもないだろう。

やって居られるではありませんか。迷いの人を救って居られるではありませんか。

>本当に、天上天下唯我独尊と言った>お釈迦様の弟子らしい発言と言える。

弟子で無く、お釈迦様が言ったのではありませんか。
また、この人は天上天下唯我独尊の意味を誤解されておられます。

自分の事しか考えない仏教など、それは仏教ではありません。

[369] 2008/07/30 13:14

経文を学問として理解出来ない人しか到らないのではれば
仏教は随分と敷居の高いものになってしましますね。

能力や位の別なく、あまねく人々が
等しく真理のもとに到りうるからこそ
尊いのだろうと思います。

[370] 2008/07/30 18:45

何故かアク禁食らってしまいマスター(笑)

解除されるまでレス出来ません・・・

[371] kotaro 2008/07/30 21:15

>>[368]T、Tさんへ
> これは一般的な世間の話です。仏教、禅ではあり得ない。

こここそ、一般的な世間でしょう。
誰が禅を学びに集っていましょうや!
各自仏教に関心はおありでしょう。
ですが、ここの参加者全員が禅を、
修行したいと思っておられるとは到底思えない。
それだからこそ、そのレベルにまで、ご自分が下がる外ない。
そういう簡単な理屈も分からず、お釈迦様を話題とされるならば、
お釈迦様もさぞかし困惑されている事でしょう。
唯我独尊とは、そういう事です。
世間では、独りよがりとも言います。
ご自分だけ悦に入ってご満足なのは、
傍から見ていてよく分かります。
ですが、それは会話ではなく、ワンマンショーに過ぎないのです。
教師とか宣教師であらせられるならば、それはそれでいいでしょう。
ですが、その場合傍観者とし会話に参加せず、
遠巻きに見ているだけの人が増える事になるでしょう。

まー一言で言えば、やわらかい頭であって欲しいものです。
ロボット工学の大御所森政弘先生が説かれる所です。
http://www.tokibo.co.jp/vitalite/pdf/no05/v05p01int.pdf

[372] T、T 2008/07/31 12:40

>こここそ、一般的な世間でしょう。

知性、理屈の次元で解決されると思っている人,知性はただ周囲をからまわりし、
常に、二者対立の状態で物事を、とりあげていると言う意味では
一般的な世間でしょう。
それ故に、論議、論争のみで解決に到らないので証明されています。

>ご自分が下がる外ない。
>そういう簡単な理屈も分からず、お釈迦様を話題とされるならば、
>お釈迦様もさぞかし困惑されている事でしょう。

本当に解らない人ですね。
仏教の問題は自分が人より上とか下とか言う問題はないのです。
何故か、その人、その人独自に答えを持っていて、その答えは他の人から与えられ
るものでなく、自分自身が答えとなって在るものです。
在るものに普通気がつかない、気が付いた処が唯我独尊と言うのでしょ。

「お釈迦様もさぞかし困惑されている事でしょう。」遷化されておられない。
困惑するはずがない。
従って、困惑しているのは、お釈迦様をだしにして貴方自身が自己中心的に
困惑しているだけでしょ。

>世間では、独りよがりとも言います。
>ご自分だけ悦に入ってご満足なのは、
>傍から見ていてよく分かります。

良く人の事がおわかりになりますね。
そのよく見える眼で、立派に生きて行かれる処まで、いかれるとよろしのではありませんか。
「独りよがりとも言います。」の僕を相手にしなければよろしいと思います。

>その場合傍観者とし会話に参加せず、
>遠巻きに見ているだけの人が増える事になるでしょう。

はじめから、僕もその人達へ向けてのつもりの投稿ですが。

[373] 助右衛門 2008/07/31 19:43

人というものは相手を叩いて優越感を味わうもので御座る。
「俺が俺が・・」もほどほどにしたいものでは御座らんか

己が折れておいて、内心(それでも地球は回っている・・)と思っておけば宜しい。
あくまでも議論に決着をつけようとし無理すると、どこまでも感情がエスカレートして、結局それが戦争の元でもあるということを知るべし・・・

平和を訴える人々であれば尚のことと察し申すが・・

失礼仕った

[374] 助右衛門 2008/07/31 19:44

それぞれの仰せあることはいちいち尤もである部分が多う御座るな

[375] 金太郎飴 2008/07/31 20:41

アク禁破りレス(爆あ9

>>361
レスを飛ばしてしまっていた・・・失礼しました
>阿弥陀如来を何時でも何処でも見たい時見られる方法が御座るが・・・
わざわざご丁寧にありがとうございます
まだいつでもどこでもとは参りませんが何とかコツを掴み何度かお会いしましたので大丈夫です
お迎えで忙しいのかすぐにどこかに行ってしまわれるのが寂しいですが・・・
でも何度かお見受けしましたのでいつかは自由にお会いできる日が来ると思っています

>>358
>・・・別段私には、阿弥陀如来を否定する理由もありませんし、
分かってますよ^^
ちょっとスネてみたんです(笑)

>金さんご自身が、確固たる信仰根拠があれば、それでよろしいのでは
それ程、確固たる根拠も無いのですが親を送り出して以来墓参りに興味を持ち
昔仏教に興味を持っていた事を思い出し、また勉強を始めたところです
別に修行を始めた分けでは有りませんが最近、自分の周りが替わり始めた事を実感しています
また自分も変わって来ている気がします

[376] 金太郎飴 2008/07/31 20:42

>>365
>成り切るとは、事実に従うと言う事です。
事実に従うと笊になる原理が分かりません

雨漏りに対しては正常な神経なら桶でもなく屋根の修理を考えるのが正常な人間でしょう
桶を持ち出すのはあくまで緊急対策でありこれで良いとは申せません
私だったら雨漏りするような屋根はぶっ壊せですね(笑)
屋根が無ければ雨漏りは根本から解決です

笊を持ち出す喩えは腹が減っている人を食堂でなくトイレに案内するような感じがします

>仏教は。「一般の方」が理解される様な生易しい問題ではないのです。
始まりはそのような感じだったと思います
しかし難しい教えでは人々を救えないでしょう?
そこで誰にでも分かるように教えを変化させて行ったと考えるのが自然の流れでしょう
お釈迦様でさえ悟りを開いたら修行を投げ出して説法を始めたでしょう?
あまりに拘りすぎる(禅問答)のもいかがなものかと・・・

>神経症に悩む方、精神的ダメージを受けて・・・
それについてはあえて書きません
貴方が仏教者なら貴方の仏様に聞いてください
全てを見通せる仏様をお持ちなら私がどれだけの事をして
どういう結果が出ているか教えてくれるでしょう

[377] 助右衛門 2008/08/01 02:34

雨漏りのことは、「無」をいっているので御座るよ。
余計な事をあれこれと思考しなさんなということかと・・・

つまり、「意識を消せ」と・・・
そして理屈を消せと・・・
さらに言語を消せばもっとよし

[378] 助右衛門 2008/08/01 03:31

理屈を消して言語を消せば、結果的に意識が消え無意識となる、とまあ、こんなとこでござんしょうなあ・・・

それは何かと申すと、理屈、言語は左脳の世界也。・・とある医学博士も申して御座る
「無言の行」は昔の人の英知であり、昔の人たちはこういう理屈が左脳の産物というのを知らなかったはずで、理屈で知らず感覚で知っていたので御座るよ。

精神世界は左脳の働きを消して、右脳を目覚めさすのが最短距離で御ろう。

たとえばイメージが見えている時(右脳が開花している状態)言語を発する実験をすると、「はぁ〜」と声なき状態ではイメージは消えないが、「あ゛〜」と声になった時、瞬間的にイメージが消失し申す。
何回実験をしても同じ結果となるのでおじゃる。

あれれ?・・いつの間にかお公家さんになって候

これは、声になった瞬間、左脳が働いたことを証明するもので御座る。
某、医学博士の書に基づいてさまざまな実験をしたことがあり、それで分かったもの。

某、体験した後それを科学的見地から学び申した。
つまり、某は現代人特有の左脳的発想第一というのを持ち合わせてはおらぬ変人とはいえませぬかの?

おのおの方、いかが?(´∀`)

金太郎飴殿、お主は、過去にHN「サイ」という者とやり取りされたことをまだ思い出しませぬか???(⌒ー⌒)

[379] 助右衛門 2008/08/01 04:15

シナの書にも仏教に通じるものがござるよ。

引用
人解読有字書、不解読無字書。
知弾有絃琴、不知弾無絃琴。

人は、書物を読んで理解したつもりでも、文字の無い書を読んだとしても理解はせぬだろう。
また、弦がある琴はだれでも弾き申すが、弦無き琴を弾くこと能わず。
文字無き抽象的なものを信じられずして、どうやって書物の本当の意味が理解でき申すか。

[380] 助右衛門 2008/08/01 04:17

シナは、これまた仏教をパクッたのでおじゃろうか???
さすがパクリがうもう御座るの

[381] T、T 2008/08/01 07:33

>まー一言で言えば、やわらかい頭であって欲しいものです。
ロボット工学の大御所森政弘先生が説かれる所です。
http://nun.nu/www.tokibo.co.jp/vitalite/pdf/no05/v05p01int.pdf

上記の事柄は、知識、学問を勉強しようと試みて居られる人なら誰でも知って居る処です。
これは所謂、知識、学問に属し、これを知った言うだけの話で、仏教(禅)を知ったと
言う事にはなりません。
これは仏教の説明です。世間の話です。
これらの話で、どこが「やわらかい頭であって欲しいものです。」と関係がありますか、
むしろ、これは堅い頭に属しますが。

知識、学問を知る(世間の話)と、仏教(仏道))を知ると言う事は別の事柄であります。
道元禅師いわく「教えを伝えたが、法そのものを伝えたことがない」と言っておられます。
ここが大事なところです。
「法そのものを伝えたことがない」ここを知る(体得する)事こそが、
道元禅師の言われる、柔軟心です。それが、やわらかい頭ではないのですか?

「仏教を学び、かつ理解するにあたり、何か困難にぶつかった時には、われわれはいつでも、
仏陀の「悟り」の体験にその究極の解決を求めなければならない。」鈴木大拙、博士

[382] 助右衛門 2008/08/01 08:40

これは宗派の違いであり、どこまで行っても平行線であることを知るべしで御座るよ
つまり、いくら議論しても、所詮は詮無きこと。
100人いれば100とおりの小さな違いがあってもよろしいのじゃ

議論を消すこと・・
つまり左脳を消しなされ

[383] T、T 2008/08/01 11:59

>雨漏りに対しては正常な神経なら桶でもなく屋根の修理を考えるのが正常な人間でしょう
>桶を持ち出すのはあくまで緊急対策でありこれで良いとは申せません
>私だったら雨漏りするような屋根はぶっ壊せですね(笑)
>屋根が無ければ雨漏りは根本から解決です

そうですね、これなら誰にでも解りますね。その解り方で人生が上手くならば仏教と言う
宗教は生まれなかった。と思います。
ですから、事実、人生が上手く行っているつもりの人には仏教は無用と考えて居られます。
その人たちは何れ必要と感じる時節が来ると思います。しかし、感じなくて死んで行く人も
居られます。
仏教を必要うと感じ、人生を真剣に生きようと必死に取り組む人には、おのずから仏教に
相見すると信じております。
仏教はそれで良いと僕は思っています。

>笊を持ち出す喩えは腹が減っている人を食堂でなくトイレに案内するような感じがします

物事を二つに分けて見る人の解釈ではそうなります。当然、トンチカンな話になります。
トンチカンな話にならないのが仏教の世界に在るということです。

>しかし難しい教えでは人々を救えないでしょう?

文字のみ追いかければ難しい教えです。到れば簡単です。
しかし救われる人は、事実簡単な処で救われます。

>そこで誰にでも分かるように教えを変化させて行ったと考えるのが自然の流れでしょう

誰にでも行けるように教えにはなっております。しかし、自然の流れだけでは誰でもと言う訳に
いかないのが仏教の領域です。
普通言われる自然と言う自然は、自然ではないのです。
つまり、自然の流れは、自然の流れで無い処を通って来て始めて本当の自然の流れになります。

>お釈迦様でさえ悟りを開いたら修行を投げ出して説法を始めたでしょう?
>あまりに拘りすぎる(禅問答)のもいかがなものかと・・・

そこで、その教えを基にして体験された、お釈迦様以後の人生の先生がいろいろと苦労されて
公案、禅問答なるものを創作した。
しかし、依然として言葉の使用でありますから、またこれに対する弊害も出てきます。
江戸時代の盤珪禅師はこれらを嫌って、公案、禅問答を使用しなかったそです。しかし、
ここにも言葉での説明になり、また言葉の一面での弊害があり完全なものではなかつた。
つまり、どの人にも効き目があると言う事の保証が無い問題に突き当たります。
人から人へ言葉を使う限り、どうしても言葉の弊害がある。
ここに、人生の教師たちの公共的な言葉に変化さす為の骨折りが看られます。

[384] 2008/08/01 13:28

金さん。金さんの信仰されるところの阿弥陀経の漢訳からの概訳を
こちらにも掲載させていただきます。

阿弥陀経はサンスクリット語でも残っているようですが、
観無量寿経はサンスクリット語では残っていないようですね。
阿弥陀経は漢訳を公正に読み解くことが出来ますが
観無量寿経は漢訳を公正に解釈出来るかは難しいかも知れません。

他のオーソドックスな経同様、お釈迦さまと舎利弗の対話になっていますね。
この形式の基本は、智慧第一の舎利弗に対し、お釈迦さまが説法の根源であることを意味しています。
確か舎利弗の方がお釈迦さまより先に亡くなっていますから、舎利弗が、後年、経を作成したということはなく、
説法の際は、お釈迦様は随時対機説法でありましたから、それらを智慧第一の舎利弗がまとめ代弁したのかも知れませんね。

「仏説阿弥陀経」

次の様に私は聞いた。ある時釈尊は舎衛国の祇園精舎で千二百五十人の優れた弟子達と共にいた。皆大阿羅漢で世に知られた者達だった。即ち長老の舎利弗、摩訶目連、摩訶迦葉達である。また優れた菩薩達も居た。その時釈尊は舎利弗に言った。「ここから西方十万億過ぎた処に極楽と言う世界がある。そこはアミータ(無量寿光)の法が現存する。舎利弗よ。その国土を何故極楽と名付けるのかと言うとその国で衆生は苦が無くまた諸楽を受ける。それ故極楽と言う。また舎利弗よ。極楽には美しい世界と数々の功徳がある。舎利弗よ。そなたはどう思う。何故これを「一切諸仏を護る法」と言うか。舎利弗よ。善良な者達が一切諸仏の法を護るなら、彼らは一切諸仏に護られて皆不退転の覚りを得る。舎利弗よ、そなたはどう思う。何故その佛をアミータと言うか。舎利弗よ。その佛の光明は限りがなく、佛、民ともに寿命に限りがない。それ故アミータ(無量寿光)と言う。舎利弗よ、アミータは既に十劫の時を過ぎる。また舎利弗よ、アミータは佛のもと声聞の弟子数多く皆阿羅漢、菩薩である。舎利弗よ。この佛国土に成就すれば正に功徳荘厳である。舎利弗よ。もし善男善女がアミータの名号を聞いて一日二日三日四日五日六日、或は七日と一心に心乱さぬなら、臨命時さえかの極楽に生る。だから舎利弗よ。今アミータに生る事を己に願う者は、かのアミータに生る。善男善女の願い信じる者はかの極楽に生る。舎利弗よ。私が今諸仏の不可思議な功徳を賛美する様に、諸仏もまた私の不可思議な功徳を賛美するように仰っている。「釈迦牟尼仏は、世にも希な難しく尊い行を成しとげ、五濁悪世(劫濁見濁、煩惱濁、衆生濁、命濁)の中、衆生の為、一切世間に信じ難いほどの尊い法を説いた。」と。舎利弗よ。良く知って欲しい。五濁悪世のこの世で、一切世間に信じ難いほどの尊い法を説くことは甚だ難しいことなのである。

釈尊がこの教えを説くと、舎利仏始め比丘達は、聞いた説法に歓喜し、礼拝して去った。

サンスクリット語もざっと目を通しましたが、様々な「buddha」記述があり、
阿弥陀はひとつの、比喩的語彙であり
阿弥陀のみを「buddha」と解釈するには当たらないのではないかと
感じました。

[385] 名も無き者 2008/08/01 21:07

禅は事実か。そこに限定できない。
座っているだけならば犬でも猫でも出来ることである。比叡山の山を歩くのであれば犬でも出来ることである。事実に限定すればこう言う結論になる。
禅を理解していないから勝手な結論が出てくることになる。何のために座禅をしているのか。只管タ座は事実としてならば肯定される。思想としてならばどうなるのか。こちらが重大問題なのである。理論はだめだで止まってしまったらばどうなるのか。座ることにだけに専念することになる。それで良いのか。
犬、猫の次元になる。それで良いのだと言う理論もある。無の次元で全部を包括してしまうという理論である。人間の意識を捨象すれば犬、猫の次元になるか。無の次元は事実なのか。無という内容の事実なのである。内容のある事実なのである。
論理学からすれば事実の規定の問題である。理論も事実である。悟りも事実である。事実の内容が問題となる。内容のない事実を主張することは誤りである。内容を提示できないだけのことだ。

[386] 2008/08/01 21:40

「空」が真相の一比喩的表現であって、
「無」は単なる形容詞的用法ではなかったでしょうか。
般若心経なども明らかに用法を区別しておりますし。

只管打坐も公案も理法のひとつであるに過ぎませんね。
龍樹の論理や弁証法も理法のひとつに過ぎません。

[387] T、T 2008/08/02 08:20

>禅は事実か。そこに限定できない。
>座っているだけならば犬でも猫でも出来ることである。
>比叡山の山を歩くのであれば犬でも出来ることである。
>事実に限定すればこう言う結論になる。

犬も、猫も、ただ禅に生きている。しかし、人間は禅に生きているだけでなく、
禅を意識して生きている。

>論理学からすれば事実の規定の問題である。理論も事実である。悟りも事実である。事実の内容が問題となる。
>内容のない事実を主張することは誤りである。内容を提示できないだけのことだ。

まさに、事実が二つある。
本当の事実と本当で無い事実である。
迷いの人(禅を自覚していない人)、或いは神経症の人は、この二つに気がつかずに、
事実に生きているつもりで二つの中に生きている。
本当の事実に従って生きる時、すべては解消される。

[388] 助衛門 2008/08/02 09:43

>>犬も、猫も、ただ禅に生きている。
しかし、人間は禅に生きているだけでなく、禅を意識して生きている

すばらしいことをおっしゃる。
まさにそのとおりかと・・・

[389] 助衛門 2008/08/02 09:45

>>386

涅槃寂静で御座りましたな(^_^)

[390] 助衛門 2008/08/02 09:51

>>涅槃寂静

某をはじめ、ほぼ99.9%の人は言葉や活字では知ってはいても、知っているうちには入り申さず。
吟殿こそは体験的にそこに到達されたと某観ており申すが、それに比べ、理屈で知っただけの我々などは屁のカッパでござるな(^-^;)

[391] 2008/08/02 18:52

>>390 助さん。

私如きは屁のカッパどころか、カッパの屁です(笑。

芥川龍之介が、河童の中で、人間社会よりも河童社会の方が終いには正常に思えた、と書いておりましたが、
思想は人々の思惑の中で、人の都合で変化するものであるのかも知れません。
お釈迦さまの法を、不変とするも古いとするも、その時々の人に委ねられる訳ですが、
純粋無垢は迷うことなき純粋無垢であると言えるのでしょうね

涅槃寂静は覚悟同体と言える言葉であるかも知れませんね。

我々は人間である以上、この世の全ての理法の前に、
自らは、如何なる場合も象徴に対する自己義認である可能性を心に留め、
謙虚に客観的に自身と向き合うべきなのでしょうね。

こちらには、ユニークな方々が大勢いらっしゃいますので、
興味があると書き込んでしまうのですが、
そのうち私は、カッパの屁の如く、消え失せるでしょう(笑。

[392] 助衛門 2008/08/03 02:56

>>391

>>謙虚に客観的に自身と向き合うべき・・

己を客観視する・・
道の追求とは、外に敵を求めたり、議論にて他と戦ったりすることでなく、一人静かにそれに専念することかと・・
そんな風に考えまする。

それができる人が果たしてどれほどおられましょうや?
それのみを追求するだけでもよいのかも知れませぬな
某、そのように考えており申す

カッパの屁でもいいからいつまでも放り続けて下され。(^e^)

[393] T、T 2008/08/03 08:40

>涅槃寂静は覚悟同体と言える言葉であるかも知れませんね。

涅槃寂静は覚悟同体と、そして阿弥陀仏も、真実に生きる
内発的な働きと言っては間違いますか。

>己を客観視する・・
>道の追求とは、外に敵を求めたり、議論にて他と戦ったりすることでなく、一人静かにそれに専念することかと・・
>そんな風に考えまする。

それは、大事な事です。
一番大事な事は、議論も、他の言う事と自分の考えと何処に違いがあるのか、
また何処に間違いが在るのかを自分自身が認識する事が必要ですね。
それで自分自身がハッキリと認識できていれば、それで良いと言う事ですね。

[394] 名も無き者 2008/08/03 09:10

結果論ばかりを提示してしまい反省いたします。そこに到るまでの過程を重視すべきでした。
知識、理論は結果を示すことになる。なんでそういうことになるのかの原因を欠落させてしまう。その原因は各人により千差万別である。ただし出てくる答えは単純なものである。ただし単純な答えを解釈することが難解となる。禅問答しかりである。
本当の事実と本当でない事実とがあるとか。これは理解不可能である。論理学では不可能である。
犬も猫も、ただ禅に生きている。しかし人間は禅に生きているだけでなく、禅を意識して生きている。とか。
これによれば犬、猫のほうが正しいという結論になる。意識は駄目だというのが禅の教えであるからによる。
両者を区別するための答えを間違えたことになる。どこが。禅ということで両者を一致させたならばその後はどうなるのか。意識を否定した人間がいることを提示すべきである。禅者のありかた。禅を意識して生きている人間は失格者であることを提示できないのか。禅者は禅を意識しないことになっている。本当かどうか。誰が確認をするのか。

[395] T、T 2008/08/03 18:04

>ただし単純な答えを解釈することが難解となる。禅問答しかりである。

然り。それ故に、「千聖もまた識らず」という。

>本当の事実と本当でない事実とがあるとか。これは理解不可能である。論理学では不可能である。

禅では、修業以前は山は是山であった。しかし、修業途中には、山は山でなくなった。さらに修業が
深まって到って見れば、やはり山は山であった。ここを体験されますと解ります。

>犬も猫も、ただ禅に生きている。しかし人間は禅に生きているだけでなく、禅を意識して生きている。
>とか。
>これによれば犬、猫のほうが正しいという結論になる。

「ただし単純な答えを解釈することが難解となる。禅問答しかりである。」と言う処の領域に
論理的に解決しょうとされるから可笑しな結論になる。

>意識は駄目だというのが禅の教えであるからによる。

意識が駄目だと言う事ではなく、使う方向を間違うなと言う事です。

>両者を区別するための答えを間違えたことになる。
>どこが。

自覚が抜けた出発点が間違っておられるからである。(仏教、禅を理解するには、一種の悟り(自覚)が必要です。)

>禅ということで両者を一致させたならばその後はどうなるのか。意識を否定した人間がいることを提示すべきである。

そこには、生き生きした働く姿があります。

>禅者のありかた。禅を意識して生きている人間は失格者であることを提示できないのか。

むしろ、意識できないで生きる人間が失格者と言えましょう。

>禅者は禅を意識しないことになっている。本当かどうか。誰が確認をするのか。

「禅者は禅を意識しないことになっている。」と言う事はありえません。
本当かどうかを確認するのは、貴方自身です。
何故なら、一切は、貴方自身の問題であるからです。

[396] 助衛門 2008/08/04 17:29

395

T、T氏が活動されていることはまことに尊いことにてそろ
これからも病める人々のために尽力して下され。
某、応援仕る

[397] 助衛門 2008/08/04 17:30

なかなかできることでは御座らん。
こういう方がもっと増えるように・・・

[398] 名も無き者 2008/08/04 19:50

禅での雨漏りとざるとの話について。
この話は雨漏り対策の問題ではない。
意識が行動を妨げるか否かの問題である。
ここでどちらの行動が良いのかという結果論になってしまうと失敗なのである。
T,Tさんの限界がよくわかります。大成されることを祈念いたします。道遠いの感じもしますが。気ずかないことが幸福ということもある。宗教は地獄の一定住みかであるから。親鸞。そこに気ずかないことが幸福である。

[399] 金太郎飴 2008/08/04 19:55

アク禁はいつまで続くのか・・・

>>378
>金太郎飴殿、お主は、過去にHN「サイ」という者とやり取りされたことをまだ思い出しませぬか???(⌒ー⌒)
残念ながら・・・思い出しませぬ(笑)
最近アルツ入ったせいか三日以上たった話は詳しく話していただけないと思い出す事は不可能です(爆)

>>383
>仏教を必要うと感じ、人生を真剣に生きようと必死に取り組む人には、おのずから仏教に
>相見すると信じております。
>仏教はそれで良いと僕は思っています。
随分、消極的ですね
本当に自分の道(仏教)が正しいと思うならもっと勧めるべきと思います
上の文では仏教の部分が仏教でなくともどんな宗教でも神でも悪魔でも構わないという文章に読み取れます
しかし今までのレスから感じるまるで私が仏教徒ではないみたいな扱いは気のせいでしょうか?

>物事を二つに分けて見る人の解釈ではそうなります。当然、トンチカンな話になります。
引用の文だけを読めばそういう解釈も出来るでしょうが、選択肢など二つどころかいくらでもあるでしょう
(そういう風に話したつもりですが・・・)
笊の喩えなら何もしないって選択肢だってあるでしょうし雨漏りを皆で語るでも良いし、
全く気にしない、また雨漏りを心から味わろうとか
工夫を凝らしてシャワーにしようとそこにいる人の自由です
つまり指摘自体が指摘になっていません

>>384
>阿弥陀のみを「buddha」と解釈するには当たらないのではないかと感じました。
そりゃ〜そうでしょう
ただ私は私も含めて、生活で追われている人に面倒な事を言っても理解不能であれば
仕方ないですから阿弥陀如来にお縋りする形で充分であるとの結論です
凡夫がそれ以上考えても時間の無駄ですから(笑)

[400] T、T 2008/08/05 11:55

>気ずかないことが幸福ということもある。宗教は地獄の一定住みかであるから。親鸞。
>そこに気ずかないことが幸福である。

「宗教は地獄の一定住みかであるから。親鸞。」宗教はではなく、その事に気づいたから
自分は悪い人間であると悟り、更に修業され日本を代表される思想家になられたと思う。
人間に於いては、気づくと言う事は善にしろ、悪にしろ、大事な事であります。
何故か、両面の片方しか知らない事は、実は両面も知らない事であります。
「気ずかないことが幸福ということもある。」このような考え方は、未だ、思想の浅い人の
考えそうな事です。
「そこに気ずかないことが幸福である。」果たしして本当の幸福かどうか内省が必要です。
本当の幸福は、不幸を抜けて来た幸福で単なる幸福はあり得ない。
しかも、幸福にも不幸にも拘わらない無いのが本当の幸福ではありませんか。

>随分、消極的ですね

そうか知らん。どのように取られても構いません。
ただ僕は消極的も積極的も拘る事なく、悩める人を救うために、残り人生を宇陀市にて
単独活動をしております。
また、一人、近い内に新たに尋ねてこられる事になっております。
それから、再び、「自覚の塾」の掲示板を開こうと思っております。

>本当に自分の道(仏教)が正しいと思うならもっと勧めるべきと思います

仏教(宗教)は相手が必死に求める態度がなければ、いずれは、猫に小判であります。
事実、怠けものは、深く近寄ろうとはしない。(僕の約22年間の経験上)

>上の文では仏教の部分が仏教でなくともどんな宗教でも神でも悪魔でも構わないという文章に読み取れます

これは、大変な誤解です。
「仏教でなくともどんな宗教でも神でも悪魔でも構わない」と言うなら恣意的に生きれば良い事です。
僕はそのような投稿は一切しておりませんが。(過去の投稿を確りと見て下さい)

>選択肢など二つどころかいくらでもあるでしょう
(そういう風に話したつもりですが・・・)

ここにも受け取り方の、言葉での説明の難しさがあります。
とにかく、分けて(分析)見る人と言う意味です。
二つでなくとも、,三、四,五、と無限に幾ら分けても、「二つを分ける」を意味して居ります。

>笊の喩えなら何もしないって選択肢だってあるでしょうし雨漏りを皆で語るでも良いし、
>全く気にしない、また雨漏りを心から味わろうとか
>工夫を凝らしてシャワーにしようとそこにいる人の自由です

これは、世間での通常のお話であります。
もちろん、それは日常生活には、それぞれ役に立つお話であります。
それらを否定しているのではありません。
しかし、我々が悩み苦しみ、自由を失うのは、実はその知識の積み重ねから
生じたものであります。
それ故に、その事を仏教(禅)は、示し教えております。
ですから、貴方のよう考えで日常生活が営まれている「つもり」の人には、
仏教(禅)は、必要ないと言う事です。

>つまり指摘自体が指摘になっていません

これが普通の論理形態から見る人の常の姿です。
繰り返して言っているではありませんか。
仏教(禅)は文字で表現されておりますが、一般論理で解釈されては見誤りますと。

[401] 2008/08/05 13:13

>>392 助さん。

>己を客観視する・・
道の追求とは、外に敵を求めたり、議論にて他と戦ったりすることでなく、一人静かにそれに専念することかと・・そんな風に考えまする。

「仏法僧」という言葉がありますが、僧に於いて、お互いが助け合うことは非常に重要なことだと思います。
とかく仏教は、独善的自燈明に走りがちですが、
和を以て事に当たり、社会に役立たれておられる、T、Tさん、助さんの行いには感服致します。
人に社会に、役立ってこその仏教だと思います。

>カッパの屁でもいいからいつまでも放り続けて下され。(^e^)

語彙が増えれば、近似値に近づきますが、誤謬も増えますね。言葉は最小限で良いと思います。
以前助さんに、色々と申し述べましたが、実際のところ、真実と言葉の間には、必ず思考の格差が生じ、正確には伝わり難いことを痛感しております。
助さんの体験談を基に、ギリギリの線でご説明致しましたが、不明な点があれば詳細にご説明しますので何なりと聞いて下さい。
暫く離れますが、何処かに書き込んで下されば出来る限り明確にお答えしたいと存じます。

>>393 T、Tさん。

>涅槃寂静は覚悟同体と、そして阿弥陀仏も、真実に生きる
内発的な働きと言っては間違いますか。

真実の姿の象徴化と考えられますね。
内発的な働きの到達完全形と申しましょうか。。
原文からの訳を書いてみます。

サンスクリットアルファベット表記:
kena karanena sa tathagato 「'mitayur」 namaucyate.
英訳:What reason is that Tathacircgata called Amitacircyus?
漢訳:彼仏何故号阿弥陀
和訳:かの仏は何故阿弥陀と名付けられたか。

サンスクリットアルファベット表記:
tathagatasya tesam ca manusyanam aparimitam ayuspramanam
英訳:The length of life,of that Tathacircgata and of those men there is immeasurable amita.
漢訳:彼仏寿命及其人民 無量無辺阿僧祇劫
和訳:かの仏の及びその人民の寿命は限りない程の長さである。

阿弥陀:amitayus:「'mitayur」:maitreya:弥勒
この語彙の変遷形は世界中に存在します。
mitra:Miiro:Messiah:Yehoshua:Iesus:ヘブライ語→ギリシャ語:Χριστο:Khristos:Christ
世界中の特定語彙に相当しますね。
「不変の象徴」への言語表現であり、転じて「人々を救う象徴」への言語表現と考えられます。

経の意義としては、舎利弗(サーリプッタ)が世間に「amitayus」という言語があるが
何故「amitayus」と言い、また「buddhi」との関連性をお釈迦さまに
問い、それに対しお釈迦さまが答えた。ということではなかったかと考えられます。
既成語彙解釈と仏教との関連です。

助さん。「限りない程の長さ」でピーンと来ませんか?

[402] T、T 2008/08/05 18:25

真実の姿の象徴化と考えられますね。
内発的な働きの到達完全形と申しましょうか。。
>原文からの訳を書いてみます。

ご丁寧にありがとう御座いました。

[403] 助衛門 2008/08/05 22:30

私は学問的なことは一切学んでおりませんのでよく分かりません。
というより、学べば後退すると確信していたともいえます。
瑜伽行なるものも、五大つまり地水火風空、またはゴジゴンシンカン(検索を避けるためわざとカタカナにしました)についてしか知りません。
当然それに必要な技術はいろいろと試行錯誤をしてさまざまに実体験しましたが・・・
一度申し上げたとは思いますが、所謂言語脳、理論脳を作動させることはリラックスの妨げとなると固く思い込んでいたため、教典の類は一切無用と思い、僅かに大乗起心論と観無量寿経の一部しか読んでいません。
釈迦が残したと言われる観無量寿経にあるすばらしい訓練法とてもイメージ化のための訓練として読んだものであって、それ以外のことについては行動さえ起こせばいつかは自然と己の中から湧き上がるものと固く信じていましたので一切読んではいません。その時を楽しみにしながら・・・
人にとって思考を消すというのは至難の技であろうと思います。
また思考を消そうという「意識」すらないほうがいいと思っています。それを意識するのは論外とも思います。
思考を展開させている間はただの道草でしょうね

言語脳、理論脳を作動させることは、東京駅に行かねばならないと言うに、反対の九州行きの電車に乗るようなものですね。
これはトランスパーソナルの学会に在籍していた時に知った精神医学的知識でもあります。

また、詳しくは、後日スズランの小屋にでも書き込みさせていただくわけには参りませんか?・・・
・・でも、・・・人の連絡掲示板では気を使いますね。

こちらで掲示板を作成するという手も御座いますが・・・

[404] 助衛門 2008/08/05 22:42

>>金太郎飴殿

>>最近アルツ・・

アルツ・・結構なことでは御座らんか?
アルツとも仲ようしなされ・・(⌒ー⌒)

{アルツ君、今日の機嫌はいかがじゃ???}なあ〜んてね。(^-^;)
一切を気にしない・・・て簡単には行きませぬな。
思考は物質を作り、その物質が病を作る。
つまり、病は自らが作る場合も御座る(^_^)

昔の活法では、「誰に頼まれて病となるや?しかと返答致せ」等と言われた時代もあったそうで御座る。

[405] 金太郎飴 2008/08/07 20:10

今までレスをしていただいた吟さん、助衛門さん他の皆様方、長々とお話させていただき大変勉強になりました
しばしお別れの時がやって参りました

私は管理人様にアクセス禁止措置という大変名誉かつに大きな課題を賜り心より感謝しております
ココ最近は本日を含め他人様のPCをお借りして時間のある時だけレスをして参りました
しかしお借りした方も元はココの住人でしたので私の書き込みにより
アク禁の措置を取られてしまうとその方に迷惑をお掛けしてしまいますので
今回をもちまして一旦レスを閉じ修行の旅に出ようと考えております(心の旅ですからどこへも行きませんがw)

正に法難に遭われ都を追放された法然上人の御心を、生誕800年を目前にして凡夫の私が
現世で味わえるとは仏様の導き(奇跡)としか思えません(ナミアムダブ、ナミアムダブ・・・)
偶然とはいえ管理人様のこれほど有り難い措置に対し何のお礼も出来ないのは本当に心苦しい次第ではあります
が、たてまえ上は「お前は来るな」という措置なのでザビビに亡霊のようにとり憑くのもいかがなものかと・・・
よって今回のレスをもちまして旅に出ます(信者無料!!阿弥陀仏国土方面期日無期限の旅!笑)

T、Tさん
今回のレスは省略形で失礼させていただきます

禅をどう説明されるのかを期待して今までレスをしていました
誰(覗きに来ている一般の方々)にも解る禅の解説が欲しかったのです
実はそれ以外の細かい事はどうでも良いのです

ただ「禅(仏教)」つまり「禅だけが仏教」であるような発言は気になっていたのは事実です
はたして本当にそうなのでしょうか?色々な仏典を心に浮かべしっかりと心で念じてください
今回のレスは貴方の仏様から直接お聞きしますので書き込み等のお手間をかける必要はございません

私は上記を含めて私の気持ちを仏様を通じて貴方の仏様に伝えたつもりでしたが私の力不足の為か
私の本心が伝わらなかったようなので今夜はあえて文章でレスをしました
もっとお聞きしたかった事は沢山有るのですが今回で終了とします
本当に長々とありがとうございました

[406] 隠者 2008/08/07 21:03

いつもありがとう、私は金太郎飴様が好きです、いつもありがとう。

[407] T、T 2008/08/08 18:41

みなさんへ。

>誰(覗きに来ている一般の方々)にも解る禅の解説が欲しかったのです

誰がみても解る言う事なら僕の説明よりも、今日では、大きな本屋さんに行けば
禅コーナー、仏教コーナー、宗教コーナーに分けられ沢山の著書が並べられておりますので
お読みになるとよろしいかと思います。(解り易く解説されています)

僕は「碧眼録」「達磨語録」「頓語要門」「無門関」「臨済録」「歎異抄」を
読み抜いて居ります。
その他には、鈴木大拙全集全巻、鈴木大拙座談集、1、2,3,4,5巻、西田幾多郎全集、(3、
7,9、10、11、14、15巻)
久松真一(経録抄、覚と創造、破草鞋、禅と芸術、宗教と思想、東洋的無)、
久松諸作集、別巻、第二巻、真人久松真一、正法眼蔵(1,2,3,4,5巻西谷啓治)
曽我量深講義集、(1,2,3,4,5,6、巻))曽我量深対話集、本願に生きる(曽我量深)
真字正法眼蔵提唱、西嶋和夫(上、1,2巻中、1、2巻下1,2巻)学道用心講話、寶慶記講話、上中下。
その他の半頭、秋月、八木、和辻の各先生、もう切りがないので此のくらいにして置きますが。
これらを読んで解っても駄目なんです。つまり、「解る禅の解説」では駄目なんです。
或いは、「解るキリスト教の解説」と言う事でも同じです。
何が駄目かと言いますと、この解る解説では、悩める人、或いは神経症の人たちを救えないと言う事です。
ここが大事な処であります。(僕も当初は、解説が解る事が仏教、禅、キリスト教が解る事と思っていた、
大変な見誤りをしていた事に気づいた。)

そこで解る解説から、解らぬ解説え方向転換が必要となって来ます。
解る解説は、真実から見事に脱線しております。つまり、解る解説は事実ではないと言う事です。
従って、事実は、解らぬ処を通って、解る処に出て来るのが本当です。
本を読んだり、人に聞いたり、して解るのは知識であり、学問であり、それは仏教、禅、キリスト教の
「そのもの」とは関係が無いと言う事です。
「解る禅の解説が欲しかったのです。」これは禅、仏教、キリスト教に対する大変な誤解です。
再度、繰り返します。「解る禅の解説」では間違います。皆さん、この事にくれぐれも注意を要します。
それで僕は、ここ掲示板、他の掲示板でも、ただ皆さんの思い違いだけ指摘しているだけであります。
それで何故と、問われると、それは問う人自身が、問いの答えに気づく外ないと言う事です。

本はあまり読まなくても良いと思います。西田幾多郎先生が言われた「歎異抄」と「臨済録」が
あれば僕は十分だと言われたそうだ。僕もそう思います。

「誰(覗きに来ている一般の方々)にも解る禅の解説が欲しかったのです」そんな禅の
解説なんてどこを探してもありません。

>実はそれ以外の細かい事はどうでも良いのです

この文章から推察しますと、この人は大変な我儘な生き方の人です。
従って、他の人の犠牲になると言う事はありません。
「覗きに来ている一般の方々)にも解る禅の解説が欲しかったのです」これも
結局の処、他の人をだしにした自分の言い分を述べたに過ぎないものです。
このような生き方を先ず、修正しなければ、いくら周囲の人が、
親切丁寧に教えても、仏教、禅、キリスト教などの
人生を極める教えなど到底解るはずはありません。

[408] 名も無き者 2008/08/09 14:38

他人を救うために禅をやっているのかどうか。自分を救うためである。
禅の解説を読んでも自分を救えなかったということである。読んでも理解できなかったことを証明しているのではないか。理解できなかったから本を読むなと言っているのと同じである。宝の持ち腐れである。
解説本の読み方に問題がある。
自分の問題を提起してその解決のために解説本を読むべきである。この前提を欠落させているのが多数である。読むだけの理由がないのである。大疑ありてから進め。
解説本の程度について。
程度が低いのである。読まないほうが良いものばかりである。これを理由にしてもらいたい。だがそのためには程度を判定できるだけの自己の立場がなければならない。その場合はどうするのか。
方法論を使うしかないのだ。答えに到る方法論を駆使する以外に道はない。そこに突入するのか否か。運命はそこにかかっている。論理学は最低の必需品である。哲学は必需品である。なんでそれらの本を提示できないのか。不思議。迷っているだけなのがよくわかる。

[409] T、T 2008/08/09 19:04

>理解できなかったから本を読むなと言っているのと同じである。

本を読んでそこに到ると言う事はありません。そこの処を肝に銘じて
いさえすれば、読みたい人は、お読みになればよろしい。

>自分の問題を提起してその解決のために解説本を読むべきである。

全くの脱線であります。自分を先に立てそれを基に解決する方向は独我論で解決致しません。
それは無限の輪廻の方向を意味致します。

>方法論を使うしかないのだ。答えに到る方法論を駆使する以外に道はない。そこに突入するのか否か。

これは全くの無知と言う外ありません。「答えに到る方法論」そんなものありません。
何故かといえば、そこは言語道断、心行処滅の領域であるからであります。
「千聖も知らず」

>論理学は最低の必需品である。哲学は必需品である。なんでそれらの本を提示できないのか。
>不思議。

ここは「論理学」及び「哲学」の入り込む余地がない。
所謂、教外別伝と言う領域の問題であります。

[410] 名も無き者 2008/08/09 21:19

教外別伝とは何か。わかっていない人がそんなものがあるものだと思って主張しているだけのことだ。いつまでも到達することはありえない。わからない人にどう説明すれば良いのか。不可能だ。
自己満足で自分の迷い込んだ所を説明して偉ぶっていれば良いのだ。典型的な普通の人が迷いこむ所だ。それがわかるのがいつの日になるのか。解説本の内容を受け売りしているのと同じである。自分が普通の人だと言うことを理解していない。普通の人が禅だといって特別の人に成り代わることはありえない。特別の方法があることはない。天才になりたいのか。その方法は何か。無し。
言語同断,心行処滅の領域とは何か。
そんなものはないのだ。それを実体化すれば迷信となる。これを理解するための方法論をもっていない人にどうやって説明できるのか。御自由にやってみなさいと言うだけのことになる。いつまでにできますかと言うことになる。永遠に不可能である。自滅する日を待つだけのことである。
私の答えは提示した。あとは選択の問題である。気ずかないことが幸福か。それとも絶望への道か。

[411] T、T 2008/08/10 09:14

>教外別伝とは何か。わかっていない人がそんなものがあるものだと思って主張しているだけのことだ。
>いつまでも到達することはありえない。

ただ単に、そう思って人生を見極めようと努力しない、横着者には、
「いつまでも到達することはありえない。」その通りです。

>わからない人にどう説明すれば良いのか。不可能だ。

わからない人には、わかるまで待つより外ない。

>典型的な普通の人が迷いこむ所だ。

「典型的な普通の人」ではなく、理屈で解決しようとされる人は、
当り前の有難さに気づくまでは誰でも迷い込むものです。

>言語同断,心行処滅の領域とは何か。

事実に従って生きている処です。

>これを理解するための方法論をもっていない人にどうやって説明できるのか。

理解もいらない、方法論もいらない、素直に生きればよろしい。

>気ずかないことが幸福か。それとも絶望への道か。

「御自由にやってみなさいと言うだけのことになる。」と言う事です。
やつてご覧、そうしたら「自滅する日を待つだけ」かそうでないか、わかります。

[412] 名も無き者 2008/08/10 10:38

釈迦は何を悟ったか。
釈迦は悟りの後でそれが確実なものか否かを検証したらしい。どのように検証したのか。書いたものはない。
現代から推定すれば論理学、哲学をつかって検証する以外にない。そんなのは必要ないと逃げておくのが良いのか。
ただ黙って体験だけでよいのだと逃げておくのが良いのか。
ただ黙って信じるだけでよいのだと逃げておくのが良いのか。
人間も進歩しないものなのか。
無神論を論破できるだけの進歩がないのか。
自滅する日を待つだけの将来の問題ではなくして今現在において自滅しているということを指摘しているのだ。将来の悲劇は今現在の悲劇でもある。能天気をやっていないで今現在において結果を出せ。そうすれば私の話も理解できるのだ。そうなのだ。それでいいのだ。

[413] T、T 2008/08/12 07:25

>能天気をやっていないで今現在において結果を出せ。

昨夜から庭先の鈴虫が鳴き出した。今日現在。宇陀市は22度で晴れだ。

[414] 名も無き者 2008/08/12 20:45

禅の愛好者からすると良い答えだいうことになるかも。
ただし合格点ではない。合格点の基準は何か。禅の基準か。否。仏教の基準点である。
禅ではなんで駄目なのかを教えないことになっている。この作法でいくと禅者の全体が救われない結果になってしまうのだ。
悟りの喜びを奪うことになるから禁止という説が解説本に書いてある。
禅者自身が救われていないからとする説が良いのではないか。
座っているだけで答えが出るという方法論には限界がある。方法論批判には答えないで内容だと逃げた。
内容とは何か。事実だ体験だというものである。答えになっているのか。そうだと思ってえばっているのだ。

[415] T、T 2008/08/13 12:03

>禅の愛好者からすると良い答えだいうことになるかも。
>ただし合格点ではない。

禅は「昨夜から庭先の鈴虫が鳴き出した。今日現在。宇陀市は22度で晴れだ」ここにしか無い。
そう言えば、微かに聞こえて来ませんか、ほら、禅、仏教の詩が。
詩が聞こえてくれば、禅、仏教を学ぶ事は完結致しております。

>合格点の基準は何か。禅の基準か。否。仏教の基準点である。

基準なるもの、そこにも断じてない。

>禅ではなんで駄目なのかを教えないことになっている。

こんな問題提議では、貴方は禅を全く知らない。仏教も知らない証明である。
駄目である事は、体験上から指摘はできるが。どこまでも自得させようと指示するだけである。
「教えない」のではなく、そこは各人が自分で獲得するより他に方法が無いのである。

>禅者の全体が救われない結果になってしまうのだ。

それは、それで仕方がない。どうする事もできない。一個半個である。

>悟りの喜びを奪うことになるから禁止という説が解説本に書いてある。

悪書多くあり迷いの基になる。
また善書にも蹴躓きの基にもなる要素がある。
故に、悟るまで(文字に惑わされいる間)は本を読まないのが良いと言うのであります。
事実、塾生には禅、仏教関係の本を読むのを一時期、禁止(22年間の経験上)しております。

「祖録を見るに時節あり、経録の理を頼む時見れば自眼つぶす、、、、、」
盤珪禅師が警告しております。

>座っているだけで答えが出るという方法論には限界がある。

こんな処に答え、方法論、限界も初めから無い。

>内容とは何か。事実だ体験だというものである。答えになっているのか。

説明での答えである。
説明の答えでありますから、内容そのものでは無い。
貴方のように、文字の記憶、知識の積み重ねでは、いくら「内容は」と
問うても,尋ね歩いてもは「内容は」の答えは解らない。
体験するより他ない。

>そうだと思ってえばっているのだ。

驕り、自惚れが少しでもある間は、禅、仏教、を究める事ができない。

貴方のように、素直でなく、訳もわからず人を批判している間は、禅、仏教、に到る事はない。
禅、仏教は、他の人の為に働く処にあるからであります。

[416] 名も無き者 2008/08/13 21:27

体験するより他ない。のか否か。
座るだけで答えが出てくるという方法には限界がある。比叡山を歩くだけで答えが出てくるという方法には限界がある。
こんなことは子供でもわかることだ。子供だましでやってみなさいとすすめるのか。自分がわからないからすすめるのか。わかっていてすすめれば詐欺になる。私は詐欺になりたくないだけである。どちらが真実を求めているのか。真実にいたらない者は詐欺であっても許されるのか。
他人を批判しているのではなくして禅の欠陥を批判しているのである。禅には欠陥がないと証明できるのか。人間のやることに対して過大評価は禁物である。欠陥が出てくる。それを指摘してはいけないのか。指摘されたことについて答えないで逃げているだけである。楽な方法である。それが禅のやり方なのか。だから禅には欠陥があると指摘できるのだ。わからないことはわからないと言えないのか。禅天魔と批判されることになる。

[417] 名も無き者 2008/08/13 22:06

禅、仏教は、他の人の為に働く処にあるからであります。こんなことを言っていいのかな。偽善者ではないのか。疑うべきである。誰が。言った人自身がである。
禅、仏教がなくても他の人の為に人間は働いているのだ。禅、仏教のあるなしとは関係がない。禅、仏教をそこに限定することは誤りである。こんなこともわからないのか。偽善者はやめてくれ。

[418] 隠者 2008/08/13 22:36

日本の神話の不思議、
歴史の流れとして、戦乱期・平定期・建国期・
という時期があるのは当たり前。
そして今のニニギの尊と呼ばれている天皇は農学学科出身の人
が担当しているのである種の合理性があるとします。
では雄略天皇は防衛大学や自衛隊を卒業しているか警備系の会社に
従事しているか、戦闘技能に熟達した王家秘伝の武術でも以って
雄略天皇としているのか?もちろん大和尊というのからには日本国の
一般的法律体系・剣道・歴史・柔術・点穴と呼ばれる針治療の
一般知識・古代の陰陽道の霊的医療技術を熟達してそこに君臨
しているのか、後で分かったのは、僕がやったことの
情報源はただ単に宗教論を書いただけ。そして今
リサイタルを催そうとしている人との違いは友人にゲーム代を
借りたまま。それとシナの神仙界に籍を置いているといっている貴方
本来は閻魔天の元は印度のヒンズー教徒の戦の神が中国を経由して
日本に伝わっているのですから、何故印度から通ったことが
簡略化されて、中国から日本に閻魔天が伝版したと言って
その上真顔で頭は大丈夫ですかといえる貴方はさぞ私の
知らない大僧聖だとおもわれますが、日本の神は高水準のGDP
に特化した会社勤めのサラリーマンなんて事は無いですよね。
新規スレッドがなぜかたたなかったのでこちらに。

[419] T、T 2008/08/14 12:24

>禅、仏教がなくても他の人の為に人間は働いているのだ。

表面的に見れば、それはその通りであります。
しかし、同じような事をしても禅、仏教を通しての行動と一般な行動とは、自ら歴然と結果が違うようだ。

[420] R−YA 2008/08/14 12:36

宗教、なかんずく日本仏教に関しては、三百年近くも昔、江戸時代の大阪町人、富永仲基によってほぼ裸にひんむかれている。それを無視して「偽装の教え」の上に「妄信」の世界を構築してきた日本人である。
行き着く先が「偽装の民」であったのは、歴史の必然というべきか。笑うべし。

[421] 長野浩太 2008/08/15 01:07

僕はシャンバラで妹の遥香を見た。母親の名古屋の親戚とともにね。
水○先生ありがとう、貴方に届く位の
教養と他人に対する共感があれば家族は守れるんだね。

[422] kotar 2008/08/15 05:45

T、Tさんへ

T、Tさんが、精神的な病の人々を救済されていて、
その治療に禅の悟りが力を発揮している。
その事は、ご説明からよく分かりました。
だが、しかし、お釈迦様は他人の精神的な病を治療されたくて、
思索に入られたのだろうか。

確かに、中国では戦乱の世、
人々の暮らしが安寧でなく、それまでの教え、
例えば孔子の論語とかに代わる新しい世を治める
教えを時の為政者が求めて、それで僧に命じて、
僧がインドにまで出かけて、仏教の経典を持ち帰った。
治世の新しい理念として仏教が用いられた。

所が、お釈迦様は、「どうして人は生まれたり、
老いたり、病気したり死んだりするのだろう」と言う、
個人的な素朴な疑問から思索に入られた。

「特殊が普遍になる」、それは世の中普通にある。
アインシュタインの個人的な思索が、
原爆と言う世にも恐ろしい発明品となる。

T、Tさんが、世の中の精神的な病の人々に
仏教を役立てようとされている事を、議論してはいない。

病治療に仏教を特化してしまう事に異を唱えている。
現在では、歯痛で寺に駆け込む人はいない。
お経を唱えても、法力ででも歯痛は治らない。
歯痛は歯医者に行く。

医者の治療法が未完成だから、
それを補完する為に禅宗が協力されるのは分かる。
だが、医学が進歩して、やがて精神的な病も
医学で治るようになったら、どうされますか。

その時は、仏教本来の目的に戻るほかないでしょう。
一時的な現象に惑わされ、仏教本来の目的を忘れてはならない。

[423] 名も無き者 2008/08/15 07:20

仏教本来の目的とは何か。
そこがわかれば全てが解決する。
その目的は医学の根底に流れている。
根底である仏教を先頭に持ってくると誤解を発生させることになる。
段階論が必要か。
根底論として仏教は存在している。
それを整理できない頭でいると救われないことになる。

[424] T、T 2008/08/15 08:57

>お釈迦様は他人の精神的な病を治療されたくて、
>思索に入られたのだろうか。

おそらく出発時点では違ったと思います。

>所が、お釈迦様は、「どうして人は生まれたり、
>老いたり、病気したり死んだりするのだろう」と言う、
>個人的な素朴な疑問から思索に入られた。

「疑問から思索に入られた。」そうです。その通りと思います。
その「疑問」疑いを解決しょうと悩み苦しめられた。
その悩み苦しむ処が「精神的な病の人々」と同一なのです。

>病治療に仏教を特化してしまう事に異を唱えている。
>現在では、歯痛で寺に駆け込む人はいない。

それはその通りです。

>医者の治療法が未完成だから、

未完成と言う事ではありません。今の治療は人間を物とした治療方向であり、
従って、外科的治療は大変有効で大いに発展しております。
しかし、内科的治療は多くの問題定義を残すばかりで解決を見ない。
例えば、脳溢血、ガン、糖尿病に致しましても、ますます増加を辿っております。
今日では早期発見の検査、食事療法、運動、と医者の指導がなされておりますが。
しかし、これが正しい指導なら病は減少しなければならいのではありませんか。
現実は増加であり、ここに何か「疑問」をお持ちになりませんか。

>医学が進歩して、やがて精神的な病も
>医学で治るようになったら、どうされますか。

「医学が進歩して」と言う進歩は外科的治療(病原菌をも含む)だけです。
何故かと言えば、物質的な領域の事柄に属するからであります。
内科系(病原菌が介在しない)に属する病は、今の現状を見ていて、
治す方向にはありませんから、今後、ますます増加致します。
カウンセラーに致しましても、対象療法的でありますから、一時期、軽快には
なりますが、根源的な治療ではありません。

ご指摘の「医学で治るようになったら、どうされますか。」は
医学では断じて治りません。

理由は、僕にはベット数125の病院の院長(今は理事長)の知人がおり何時も
この事について議論しておりました。
ガンの薬に関しても、30年前と比べ進歩していないそうです。
そらそうでしょ、ガンも減少で無く、逆の増加であります。それが証明しております。
新聞、マスコミ、世間一般的には進歩しているかの様に思われておりますが。
いま大事な事は議論ではなくして。
仏教、禅、キリスト教にとらわれることなく、先ず、現実を注意深く見る事を切に願います。
それから、何が今、自分に必要かを見極める必要があるかと思います。

[425] T、T 2008/08/15 09:02

>根底論として仏教は存在している。
>それを整理できない頭でいると救われないことになる。

正に、その通りであります

[426] T、T 2008/08/15 18:40

>仏教本来の目的とは何か。

自己究明です。仏教だけでなく、パスカルも「パンセ」で述べています。

>そこがわかれば全てが解決する。

これもその通りです。
何故か、人生での問題定義は、すべて自己の迷いから生じておるからであります。

>根底である仏教を先頭に持ってくると誤解を発生させることになる。
>段階論が必要か。

これもある意味ではその通りです。
僕は血圧が時には200にもなる時がある、しかし、医者には頼っていない。
薬で脳溢血は防げないない事を知っているからである。
しかし、僕の妻は知人の病院に血圧の薬をもらいに通院しております。
これは正に理屈ではないのですね。
「段階論が必要か。」人それぞれの段階論が必要なのです。
従って、僕の療法も医者嫌いの人か、医者を信頼していない人に限定しております。

[427] kotaro 2008/08/15 19:37

>>[424]T、Tさんへ
>医学では断じて治りません。

医学と臨床医は違います。
医学は、この先進歩します。
それは、医学が科学的手法を用いているからです。
科学的手法の一例として、分野は違いますが、
花を咲かせるホルモンを取り上げてみましょう。

農業では、どうして花が咲くか。
それを調べていくと、ホルモンに到達する。
情報伝達物質としてのホルモンは、ごく少量で、
しかも短時間に生成され、役目を終えると直ちに消滅する。

どの分野も原因物質を特定出来た時、問題が解決する。
それが科学的手法です。

思い通りの時期に花を咲かせる植物のホルモン
(花成ホルモン、フロリゲン)は、
70年前にロシアの植物学者によりその存在が提唱され、
夢のホルモンと期待されながら取り出すことができず、
解明されていなかった。
奈良先端科学技術大学院大学は、このホルモンが、
イネの開花を促進する遺伝子(Hd3a)により作り出された
タンパク質であることをつきとめたもので、
分子生物学の手法を使い、イネにこの遺伝子を導入した
ところ通常50〜60日要する日数が15〜20日で
花を咲かせることができた。
参照:
http://www.s.affrc.go.jp/docs/10topics/2007/topics4.htm

ですから、癌においても、かなり解決の糸口が見えています。
癌を引き起こす各段階での物質が、次々発見されているからです。

では仏教はどうでしょうか。
お釈迦様は、顕微鏡やレントゲンを用いられましたでしょうか。
精神現象といえども病である以上、脳の神経細胞のメカニズムを、
詳しく調べていかないと抜本的解決策にならない。

病に罹らない方法はあります。
女性と交わる事をしなければ、性病に罹らなくて済む。
糖尿病に罹る率を下げる為、酒を飲まない。
肺がんになる率を下げる為、タバコを吸わない。
それは仏教の戒律と似ています。
仏教徒が長生き出来る理由が解明された。
それは言えるでしょう。

現代医学は、確かに未だ糖尿病の原因物資を突き止めていない。
ですから、臨床医は、糖尿病を避ける知恵を、
病が重くなるのを遅らせる方法を患者に教える。
だが、医学がこのままの状態に留まる事はない。

一言で言えば、人を殺す行為そのものをしないのが仏教、
人を殺害しようと、ある人が人を刺したとしても、
刺された相手を直ちに回復させ、
殺人事件にしないのが医学と言えるでしょう。

[428] 名も無き者 2008/08/15 19:48

仏教本来の目的とは何か。
それは自分が救われるということである。自己究明はそのための手段である。手段を目的化しているのが禅である。だから進歩がない。先に進めろ。断崖に一歩を進めること。
自分が救われると全てが解決することになる。これは自己満足か。
自分が救われると他人を救うことができる。これは大乗仏教の提唱である。その限界は何か。
自分が救われるためには何が必要か。ここが重大問題なのである。
お金が必要だと言うのが正しいのか。それも正しい。
ここでは宗教的解決形態を問題とするものである。
どんな宗教的解決形態があるのか。
解説本に書いてある。そのどこを選択するのか。選択するための方法論を持っていない。
そのための方法論が必要になる。
自分が方法論を確立すれば解説本を書くことができる。これは救われた後の問題である。
青い鳥はどこにでもいる。だが捕まえることができない。その方法が必要。
禅では直観的方法を提示する。特別の方法はないのだ。学問の成果を援用する以外の方法はないのだ。

[429] T、T 2008/08/16 09:00

>医学は、この先進歩します。
>それは、医学が科学的手法を用いているからです。

進歩と言いますか、解明はされてきましょう。

>ところ通常50〜60日要する日数が15〜20日で
>花を咲かせることができた。

科学はそのような遺伝子組み換え、及び、クローンと次から次とですね。
しかし、問題点も次から次と生じてきます。

>ですから、癌においても、かなり解決の糸口が見えています。
>癌を引き起こす各段階での物質が、次々発見されているからです。

科学で解明はされていきます。それが科学の性質であるからであります。
しかし、鬱に致しましても、ガンに対しても解明されてもどこまでも解決には到らない。

>脳の神経細胞のメカニズムを、
>詳しく調べていかないと抜本的解決策にならない。

この考え方が人間を物質的方面にとらえて行く分析であり、物質から生命が出来たと考える。
「脳の神経細胞」から精神が出てくると言うような考え方では、真の生命は解らない。
従って、詳しく調べれば、調べるほどに「抜本的解決策」には到らない。
何故かいいますと。
自然科学的な考えからは、生命は捉えられない「何ものかが}在る。
それは、生命には、心でもない、物でもない、仏心でもない、領域を科学は見落として
いるからです。
科学とは、余計なものを排斥し、必要なものを取り入れて成り立っています。
科学は全体でなく、部分の表現で、生命は全体の事柄であります。
従って、部分からは生命の起源は解らないからであります。

>病に罹らない方法はあります。
>女性と交わる事をしなければ、性病に罹らなくて済む。

「済む」かもしれないが、それが真の日常生活と言えるかどうか。

>仏教徒が長生き出来る理由が解明された。
>それは言えるでしょう。

この処には、仏教とは何ら拘わりはありません。

>臨床医は、糖尿病を避ける知恵を、
>病が重くなるのを遅らせる方法を患者に教える。
>だが、医学がこのままの状態に留まる事はない。

ここには解決を見ない。仏教者は、風邪をひくのも恥だと聞く。
ここに何か解決されているものを見る。

>刺された相手を直ちに回復させ、
>殺人事件にしないのが医学と言えるでしょう。

事件に関わりなく救う事に目的があるのが医学じゃないのですか。

[430] kotaro 2008/08/19 04:22

>>[429]T、Tさんへ

>しかし、問題点も次から次と生じてきます。

今まで直視出来なかった事が、
ある物質が特定できたお陰で可能になった。
ある物質を介した諸作用が、新たな研究課題となった。
そのように表現されます。

仏教の課題に対する取り組みは、
座禅と言う手法で不変なのでしょうが、
科学は常に進歩発展しています。

>しかし、鬱に致しましても、ガンに対しても
>解明されてもどこまでも解決には到らない。

少なくとも、臨床医は現状で最善を尽くし解決しています。
ですが、現在の所、癌の原因物質は解明し尽くされておりません。

>この考え方が人間を物質的方面にとらえて行く分析であり、
>物質から生命が出来たと考える。
>「脳の神経細胞」から精神が出てくると
>言うような考え方では、真の生命は解らない。

レントゲン写真を見れば、誰でも
骸骨から出来ているのが分かります。
別に死んだ後で、急に骸骨が生じた訳ではありません。

骸骨をレントゲンで見たから、
それで生命が解明されたとは思いません。
ただ、骨が折れた時とか、どの部分がどのようになっているか、
それをレントゲン写真から確認出来ます。
生命現象がレントゲン写真を用いて、骨の形状を通して捉えられる。
それは事実でしょう。
ですから、脳内の現象も、やがて科学的に捉える事が出来る。
万一脳に病が生じても、健康な体に戻す役割を医学が担う。
それは、当然期待されていいと思います。
その事が一足飛びに生命の謎の解明に繋がる。
それは話の飛躍です。そこまで言及していません。

>事件に関わりなく救う事に目的があるのが医学じゃないのですか。

人が殺意を抱いた段階で、心の中で、
それを阻止するのが仏教とするなら、
それに比べ、医学は実際に刺された人が死なないように、
救急医療で救命処置をし、結果的にではあるが、
罪人を殺人犯としない。
あくまでも仏教との比較においてです。

仏教は、心の内で事を起こさせない。
医学は、事が起きても、それを大事に至らせない。
医学がそれを目的にしているのではなく、
結果的にそのようになっている。

[431] T、T 2008/08/19 15:51

>ある物質を介した諸作用が、新たな研究課題となった。
>そのように表現されます。

仏教ではこれを生死輪廻といいます。

>科学は常に進歩発展しています。

破壊が常に含まれている科学に果たして進歩発展と言えるかどうか。
表面的に捉えて「進歩発展」と言われるのは少し短絡的ではありませんか。

>少なくとも、臨床医は現状で最善を尽くし解決しています。

はたして、そう言われるかどうか現実をよく吟味して看て下さい。
患った人を観察していかれるとわかります。

>レントゲン写真を見れば、誰でも
>骸骨から出来ているのが分かります。

人間は骨だけで成り立つていません。余りにも物事の捉え方が単純過ぎます。

>ただ、骨が折れた時とか、どの部分がどのようになっているか、
>それをレントゲン写真から確認出来ます。
>生命現象がレントゲン写真を用いて、骨の形状を通して捉えられる。
>それは事実でしょう。

本当はそれは事実(全体の一部)ではありません。生命の根源はその一部分からでは捕えられない。
それが生命の事実です。

>ですから、脳内の現象も、やがて科学的に捉える事が出来る。

現象は論理的、科学的に捉える事は出来ます。それは科学の性質だからであります。
ですから、物質的方面では科学は有効であると初めから言っているではありませんか。
「直る事」と「解る事」は別の事でありこれを混同しないように切に願います。

>万一脳に病が生じても、健康な体に戻す役割を医学が担う。
>それは、当然期待されていいと思います。

認知症、アルツハイマー等を見て解るように不可能です。何故か、生命は医学を超越して居るからであります。

「>人が殺意を抱いた段階で、心の中で、
>それを阻止するのが仏教とするなら、」と「>それに比べ、医学は実際に刺された人が死なないように、
>救急医療で救命処置をし、結果的にではあるが、>罪人を殺人犯としない。」とは比較対象にするには無理がある。
前の部は本人次第の問題で、後の部は本人でなく医者任せであるからです。
そもそもが、殺人罪にしたくないから救うという観点が何処かズレテて居りませんか。

>仏教は、心の内で事を起こさせない。
>医学は、事が起きても、それを大事に至らせない。
>医学がそれを目的にしているのではなく、
>結果的にそのようになっている。

良く現実を見て下さい。結果的にはそのように成っていない。
予防は不可能であり、結果に対処するしかないのが、現実です。
その結果に対処出来ていないのが現実です。
救うと言うと合理性の基に、生きれる人まで殺しているではありませんか。
原因は、治療は2次的になり、あまりにもお金(エゴ)を追いすぎている思われます。

[432] kotaro 2008/08/19 19:11

>>[431]T、T さんへ
>前の部は本人次第の問題で、
>後の部は本人でなく医者任せであるからです。

現実問題として、交通事故が発生し、
ドクターヘリとかで、被害者が素早く救命センター
に運ばれた場合と、そうでない場合とでは、
死亡する割合に差が出ています。
現場に何分以内に救急車が到着出来るか。
20分以内に手当て出来れば、
延命率が高くなると言われています。

別に加害者は、死亡事故を起こそうと
意図した訳ではないでしょうが、
結果的に被害者が死亡した場合と、
重傷で済み、その後完治した場合とでは、
事故の重みが全然違ってきます。
加害者の不注意とか、心の中での出来事が、
現象として被害者の死亡につながる。
それを完治して被害者を社会復帰させる、
それが医学だと思うのです。

最後に科学に対する根強い不信感おありのようです。
これは全くの推測ですが、一言で言えば、
弁証法に対する誤解おありなのではないでしょうか。

マルクスの資本論に代表される唯物論的弁証法、
それが医学や科学にも用いられて、
唯物的に生き物や自然現象を捉えて調査している、
そのように受け取られているのではないでしょうか。
ですが、弁証法は有神論のヘーゲルが、
宗教家が言うように、ただ「神を信ぜよ」ではなく、
自然界に如何に神の御業がなされているか、
詳細に記述して行こうではないか、
そうやって始められた理論です。

一言で言えば、すべての記述が終える時、
神の実像が浮かび上がる。
それまでは、一つ一つ丁寧に調査して行く。

例えば、タイヤと言う概念があります。
タイヤはタイヤでありそれ以外のものではない。
そのタイヤと言う概念と、ハンドルと言う概念と
エンジンと言う概念が関係すると、ある推理判断が出来る。
自動車の場合、道路を運転して、どこか目的地に移動出来る。

医学も、原因が究明されるには、
そうした一つ一つの概念が究明され、
明らかになり、それ自身であって、
それ以外の何物でもない状態にまで究明されないと、
それらが関係した場合の推理判断が出来ないのです。
哲学の分野のヘーゲルの論理学が示す所です。

[433] 代理 2008/08/19 20:41

科学や哲学は他所でお話になったら?・・・

熱くなるのは分からなくもないがスレ主さんのことも考えましょうね。???

[434] T、T 2008/08/20 08:26

>最後に科学に対する根強い不信感おありのようです。

今は何も不信感はありません。
科学は一部分で仏教は全体であると理解しております。
従って、科学では仏教は理解できないが、仏教からは理解できると言う事です。


>弁証法に対する誤解おありなのではないでしょうか。

「>医学も、原因が究明されるには、
そうした一つ一つの概念が究明され、
明らかになり、それ自身であって、
それ以外の何物でもない状態にまで究明されないと、
それらが関係した場合の推理判断が出来ないのです。」これは正反合の弁証法ですね。

しかし、「ヘーゲルの論理学」でも駄目なのであります。
仏教の「弁証法」は哲学の弁証法とは全く別種であります。
貴方の方が「哲学の弁証法」と「仏教の弁証法」と混同されて居られるのではありませんか。

>エンジンと言う概念が関係すると、ある推理判断が出来る。
>自動車の場合、道路を運転して、どこか目的地に移動出来る。

これは普通の論理体系(物)です。仏教の論理(生命)は、これらとは全く異なります。

以上、この様な論議になる事を当初より判断しておりましたから、
やんわりと「いま大事な事は議論ではなくして。
仏教、禅、キリスト教にとらわれることなく、先ず、現実を注意深く見る事を切に願います。
それから、何が今、自分に必要かを見極める必要があるかと思います。」と言った訳です。
何故解るかと言いますと、僕も嘗ては、その領域でもがいていたからであります。

[435] 東方朔 2008/08/20 14:42

『奇一奇一乍結運化宇内八方五方長男乍貫九籤達玄都感太一眞君
 奇一奇一乍感通如律令』
(きいつきいつ。たちまちうんくわをむすぶ。
 うだいはっぱうごはうちやうなんたちまちきうせんをつらぬき
 げんとたつしたいいつしんくんにかんず。
 きいつきいつたちまちかんつう。によりつれい。)

[436] kotaro 2008/08/20 22:33

>>[434]T、Tさんへ

話のポイント、ずらさない為確認します。

原因物質を探求するのは、
唯物的な意味合いからでない。
ただ、この点です。

ですからして、実際に研究に従事されている方が、
どのように問題解決されているのか。
それです。

肉体が物質ででも構成されている以上、
たんぱく質の構造を調べないことには、
問題解決出来ない。
それは常識に思えるのです。
どうして、その事で異議を唱えられるのか、
理解に苦しみます。
ですが、唯物的根拠から、たんぱく質の構造追求
なされている訳ではない事、認めて頂け幸いです。

それと、これは全くの余談ですが、

武谷三男著「弁証法の諸問題」の三段階論は、
人間の認識は現象論的段階、実体論的段階、
本質論的段階の三段階を経て発展するとなっています。

それはヘーゲルの理論そのままと思うのですが、
いかがでしょう。

現象の中の法則を抽象化出来た時
(物理現象では数式で表せた時)、
初めて現象を把握したと言える。
だがそれだけでは駄目で、
再度現象に、その抽象(理論式)を戻して、
現象と比較する事で、本当に現象を捉えたと言える。

[437] T、T 2008/08/21 11:54

>肉体が物質ででも構成されている以上、
>たんぱく質の構造を調べないことには、
>問題解決出来ない。

それらが完全になされても問題解決には到りません。
何故かと言いますと、分析を幾ら積み重ねても
全体にならないからであります。
言葉を換えて言えば、「それは常識に思えるのです。」
そこから生命は捉えられないと言う事です。
何故かと言えば、我々の持っている常識が余りにも
当てにならないものが在るからであります。

>どうして、その事で異議を唱えられるのか、
>理解に苦しみます。

相手の僕の投稿内容から理解されようとするから理解に苦しみます。
この理解すると言う事は、先ず、自分自身を究明する事から
始めなければいけません。自分と言うものが究明されますと自ずから
理解されます。

>ですが、唯物的根拠から、たんぱく質の構造追求
>なされている訳ではない事、認めて頂け幸いです。

貴方の投稿内容を見ていますと。どこまでも唯物的根拠から
の論理体系になって居りますが。

>それはヘーゲルの理論そのままと思うのですが、

武谷三男著「弁証法の諸問題」とヘーゲルの理論と比較してどうするのですか。
僕は、三段的論法、自体(ヘーゲルを代表して)が駄目だと言っているのですよ。

>再度現象に、その抽象(理論式)を戻して、
>現象と比較する事で、本当に現象を捉えたと言える。

ですから、それが何処まで究明がなされても、現象学(抽象的)の問題で
どう論じようとも唯物的根拠になっております。
抽象的から、どうもがいても具体的にならない。
従って、本当に現象をとらえた事にはならない。

[438] kotaro 2008/08/21 21:12

      物と心

捨て犬を保護して犬小屋に入れ、
目の前に食事を置いても、
警戒して食べようとしない。

だが、犬小屋から食事を遠ざけて置いて、
呼びかけ食べるよう言うと、
不思議に、犬小屋から出てきて食べたと言う。

察するに、心と物質、その関係ではないでしょうか。
幾ら、犬の好む食事を用意しても、
犬の警戒心が解(ほど)けない限り、
犬に食事させる事は出来ない。
物に拘っても、心が分からないと解決しない。

精神的病は、恋心と同じで、いかなる名医も治せない。
何しろ病気ではないのだから。
そこにきて、私が原因物質などと言うものだから、
恋心に原因物質なんてある訳ないじゃーないですか。
あるなら恋の病の原因物質出して見て下さいよ、
出せないでしょう。
こんなんじゃー百万年経っても、問題解決出来ない。
多分そう言われているのでしょう。

[439] T、T 2008/08/22 08:08

>物に拘っても、心が分からないと解決しない。

これはその通りです。

>こんなんじゃー百万年経っても、問題解決出来ない。
>多分そう言われているのでしょう。

そうです。そうです。
それで事実仏教が、はるか昔に問題解決をしていると言う事です。

[440] kotaro 2008/08/22 21:50

>>[439]T、Tさんへ
>そうです。そうです。
>それで事実仏教が、はるか昔に問題解決をしていると言う事です。

引用:
<研究論文>
心臓神経症と禅的療法に関する精神病理学的研究

抄録
心療内科や精神科においては,
1956年以来,心身症あるいは神経症を対象にして,
禅的療法が他の療法と併用した好ましい
症例報告などの結果が散在している。

しかし,心臓神経症に対する禅的療法は,
皆無に等しい状況にあると考えられる。

本研究は,筒井,石川たちの心臓神経症の分類を,
諸心理テストを用いて心身医学や
精神病理学などの見地から検討を加え,
その客観的科学性を明らかにし,さらに,禅的療法を施行した。

ちなみに,調身,調息,調心の組織的な科学性は,
すでに道元禅師が,1200年代に創始し,心身の治療
と健康維持に最も重要な方法として伝承されている。

ここでは禅的療法を心臓神経症に応用し,
きわめて好成績が心理テストの結果によって判明した。

しかも禅的療法を施行することによって,
心身の安定を得ることができるとともに,
不安や葛藤を軽減し,自己洞察が深まり自己実現
そして創造性の開発にもきわめて有益であり,
科学としての東洋的心身医学が市民権を得たものと考えられる。

引用元:
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000038152/

[441] sawas 2008/08/22 22:18

政治と宗教を考える」シンポジウムの開催

日時:8月24日(日曜日)午後1時半
会場:文京区民センター 2A会議室
都営地下鉄三田線・大江戸線 春日駅 徒歩1分
東京メトロ丸の内線 後楽園駅 徒歩3分
JR水道橋駅 徒歩7分
入場料:千円
主催:せと弘幸blog「日本よ何処へ」
共催:主権回復を目指す会 在日特権を許さない市民の会
朝木明代元市議・不審死事件を訴える!

[442] T、T 2008/08/23 08:17

>不安や葛藤を軽減し,自己洞察が深まり自己実現
>そして創造性の開発にもきわめて有益であり,

そうです。その通りです。ここが大事な処です。

ただ単に生きていると言う事ではなく、社会性に対して建設的に
生きて行くと言う事ですね。
ここで始めて、病は自己の迷いから生じている事が理解されます。
そうなりますと、いま問題の医療の在り方、保健制度の在り方も
正常に解決されるのではと思えます。

これは余談になりますが。
G君大学卒業位から良くなった人ですが、今は完全に治りまして社会性の
為に健闘されておられます。
そのG君の同級生のM子さん、卒業後、2年前後よりG君に精神的行き詰まりに
対して、相談をされていた方(その間僕の処にも来る事にはなって居りましたが来なかった)の
お話でありますが。
約10年経って今、僕の処に来るように成って居りますがまだ来ていません。
ここが大変な処なんです。常識的にはG君も客観的よくなっているのだから、今すぐ行けばと
思いますが、それができないのですね。
しかも、10年前にG君に今のままではM子さんは救われませんと断言しておりました。
事実G君によれば当時より悪くなって居るとの報告を受けております。

[440]kotaro さんは、これを見てどう思われますか?
また、ここ掲示板に関わっておられる、皆さんの考えは如何でしょうか。

[443] 名も無き者 2008/08/23 19:26

方法論について。
禅的療法が精神病に良いか。
禅が無媒介に精神病に良いという結論はいかがなものか。
医学を媒介項として段階的に考察することが正解である。
医学の成果を禅の成果とすることはいかがなものか。
禅的療法の内容が不明である。
それは禅的であるのか。禅まがいであるのか否か。
禅が限界をもっている。それを応用したものが限界をもっていることは当然である。その点の検証はどうなっているのか。検証は省略であろう。そのための方法論を持っていないから。
能天気に喜んでいる場合ではない。
医学と禅との進歩を願うのみ。
禅が医学の次元と同一か否か。そのくらいは理解しておくべきである。段階論が必要か。無自覚なのである。

[444] T、T 2008/08/24 08:31

>禅が無媒介に精神病に良いという結論はいかがなものか。

禅は「精神病に良いという結論は」と言う事ではなく、
人間の本来の在り方の処に「帰る」と言う事です。
根源に「帰る」と言う事ですから、そこでは一切の「疑問」
「迷い」が解消されると言う事です。

>医学を媒介項として段階的に考察することが正解である。

それは医学からでも禅からでも、どちらからでもよろしいと思います。
僕は、医学からでありましたが、これでは解決を見なかった。

>禅的療法の内容が不明である。

「内容が不明である。」は、自己究明ができれば明瞭になります。
自分自身の事ですから、これ程ハッキリしたものはありません。

>禅が限界をもっている。

禅は限界を持っていない。故に、「無」です。

>医学と禅との進歩を願うのみ。

医学は進歩の方向でしょう。
禅は、はるか昔より変わらぬものが基本体で進歩とは言えない。

>禅が医学の次元と同一か否か。

禅と医学は全く別種の論理であります。、
一方は「あるがまま」で、一方は治すと言う事で次元が異なる。
それで同一かと問われれば、それらが矛盾して同一であります。

[445] 名も無き者 2008/08/24 09:45

白隠について。
白隠は悟った後で精神病になったことは歴史的事例である。
この事例では悟ったことは救われたことではなくしてその結果として精神病になったと解釈することができる。
白隠の悟りの限界が露呈したものである。
白隠は病気の克服方法を提示している。
その方法は禅的療法なのか。私としては否定すべきものと見るものである。
禅は限界をもっていないと主張することは能天気である。出発点としてはそれで良い。真実に至らないまでの間のことである。そこにいたっていないことの証明である。
無とは何かを理解していないことは明白である。
禅的な無に限定したとしても。鈴木大拙も失敗しているのだ。

[446] 2008/08/24 12:07

精神崩壊の原因のひとつとして、脳に頼る点が挙げられます。

特定の「誤覚」「誤悟」の現象を脳内処理した場合。
仏教を脳で判断し処理し、脳内処理が限界となった場合。

本来の正しい仏教では、このようなことは起こりません。

[447] T、T 2008/08/24 15:17

>その方法は禅的療法なのか。私としては否定すべきものと見るものである。

それで良いと思います。

>鈴木大拙も失敗しているのだ。

何に失敗されたのですか?

[448] kotaro 2008/08/25 06:57

      柔道

高校体育の授業で柔道を学んだ。
そこで、半眼に開き、親指と親指で輪を作り、
静かに呼吸を整え深呼吸しながら、呼吸を計測する。

当時、先生は柔道の重量制には反対だった。
「柔よく剛を制す」
小さなやつが大きいやつを倒すのが柔道であり、
敵の力を利用して、相手を倒す。
それが柔道である。
その為には、負けない柔道、引き分けを認めなければいけない。
北京オリンピックで、鈴木選手が、モンゴルの選手に、
試合開始直後いきなり両足にタックルをくらい、
場外まで押し出され、受身が取れず一本負け。
寝技、立ち技、そのどちらでもない。
強いて言えば、アメリカン・フットボールだろうか。

国技相撲で、モンゴル出身力士が両横綱に君臨している。
そんなご時勢だから、驚くべきでもないのかもしれない。

だがしかし、柔道で座禅が軽んじられていないか。
それを、ここで主張したい。
日本柔道が生き残るには、座禅を強化する。
小説「姿三四郎」で、悟る場面が登場する。
柔道には、禅が相応しい。
競技としての柔道は、日ごろの鍛錬の一成果であり、
柔道の全てではない。

[449] T、T 2008/08/27 09:07

>本来の正しい仏教では、このようなことは起こりません。

そうですね。一切の外的関係をもって推論、断言される時には
そこには仏教はない。
所謂、似非なる仏教である。

[450] 名も無き者 2008/08/27 18:21

鈴木大拙について。
彼の失敗の対象は多岐にわたる。
失敗の内容は何か。そこを問題とすべきである。
彼には多数の著作があるので批判が確実になる。他の人も同じである。
佛祖に会っては佛祖を殺す。
これはそのような勇気を持てということではない。
そのための方法論を持っているのか否かということである。
佛祖と論争しているのか否か。物祖をありがたがっているだけではないのか。盲従しているだけである。
手段としてそうさせるために師家に対して、仏像に対して礼拝をさせているのではないか。偶像崇拝の事例である。
一切の外的関係をもって推論、断言される時にはそこには仏教はない。のか否か。
基礎が全然にないのだ。
そこにこそ仏教が燦然として存在している。
そんな仏教を必要としていない人が存在している。仏教の堕落である。禅も共犯者として加担しているのだ。
自分の盲目にきずかないで勝手なことを言っているのだ。
教外別伝は逃げ口上の第一である。逃げただけのことである。
吟さんも借り物の知識でどう対応するのか。借り物人生を送るのか。他人が信用して被害者となってもよいのか。

[451] 2008/08/27 21:56

>>450 名も無き者さん
危険性とその回避については実体験と実証のもと書いているのですが、
以前私もその危険性について指摘しましたが、名も無き者さんの仰る通り、
ここにその詳細を書くことは、真似をする人が出る懸念から、
心ある人には、如何に危険であるか、またどうすれば良いのかにについて詳細を別のところで伝えております。
実際のところ、危険を回避する正しい方策をここで伝えることは、危険な方法と対比する必要があり、同時に盲目的に行う人が出る危険性を膨らませることになりかねませんので、
過去と現在の実情とを鑑み、正しいと言える仏教の姿はあるにせよ、
ここでその詳細を説明しない以上、>>446 、またそれ以前の書き込みは確かに軽率であったと反省しております。

以前の私の書き込みは反省のもと、すべて撤回したいと存じます。
以後反省を込めて書き込みは慎みたいと存じますので、それをもちましてご容赦ください。

[452] 助衛門 2008/08/28 07:53

それにしても、450殿は言いたい放題おっしゃいますな。
すべてのことを自分の殻の中からのみ断じている。
吟さんは常人にとって到底察しがたき体験をなさっておられ、その上で物事をおっしゃっている。
書物の上でのみ物事を言うお方達とは世界が違い申す
そのことをこそ、借り物の知識と申す
よくよくお考え下されて反省されることを望む

失礼では御座るが、そなたの器量が瞬時に観えた気がする

失礼仕った・・・

[453] T、T 2008/08/28 12:58

>失敗の内容は何か。そこを問題とすべきである。
>彼には多数の著作があるので批判が確実になる。他の人も同じである。

ここには失敗の原因が見当たりませんが。
「多数の著作」と批判、或いは、失敗とは因果関係に繋がらない。

>一切の外的関係をもって推論、断言される時にはそこには仏教はない。のか否か。
>基礎が全然にないのだ。

基礎はこの文章「一切の外的関係をもって推論、断言される時にはそこには仏教はない。」
の中にあるのでなく、読み取る人の内に基礎がすべてあるのです。
従って、基礎が無いと言われる方側に基礎が無い事になります。
仏教、及び禅に関する事柄はすべて、問う人側に答えがあります。
それで「問処に答えあり」と言うのです。
仏教、及び禅に関する事柄は、すべて自分自身を問われておりますから、それ故に、
自己究明が必要とされるわけです。
つまり、基礎は貴方自身に在るか無いかの問題です。

>他人が信用して被害者となってもよいのか。

「他人が信用」これは盲信でいけません。盲信は禅、仏教に関わらず、社会一般の
事柄すべて盲信はいけません。

仏教、禅は一切が「疑い」から出発です。何にも(外のもの)頼らないと言う事が教えの基本です。
それで他を頼るな、自己に頼れというのが、仏教の教えであります。
それ故に、自己究明が大事になってくる訳です。

>他人が信用して被害者となってもよいのか。

従って、禅、仏教に関して言えば「信用して被害者」になると言う事はあり得ない。
何故か、本当の自己が究明れておりますから、自分にも騙されない、まして
他人からも騙されないからであります。

[454] 名も無き者 2008/08/28 18:43

他人からも騙されないと言っている本人がだまされているのだから救いようがないのだ。
自己究明をしたら何が出てくるのか。なにも言えないのだ。
逃げるだけである。
教外別伝と言って逃げているのが落ちである。
吟さんは頭が良すぎるのだ。大成されることを祈念いたします。
提言をしたいがやめておきます。私は孤立無援であるから。
助衛門さんも自己の立場を主張しないで応援団の立場でえばっているのか。のんきである。何もないからっぽと理解する以外にない。そんなことにも気がつかない者よ。

[455] T、T 2008/09/01 09:14

>自己究明をしたら何が出てくるのか。

何が出るかご自分でやってごらん、そうしたら解ります。
それが、禅、仏教と言うものです。

>教外別伝と言って逃げているのが落ちである。

逃げ口上に、教外別伝があるのではありません。
究極の領域を言葉で説明しますと、説明しても意味がない或いは、他人を惑わす、騙す事になり
それを避ける為の表現文字(体験すれば解る)であります。
言葉でもってはどうする事も出来ない、届かない処が在ると言う事を指示した言葉です。

例えば、、がんばれない人に幾らがんばれと言っても、がんばれないのと同じ領域です。
と同時に、がんばれるようになる方法論が在るかと言えば、それがない。段階を待たねばなりません。
そのような領域が教外別伝です。

仏教、禅に関する指導者は、そこに導くために、はるか昔より何かと御苦労をされて
居られると言う事であります。

[456] 名も無き者 2008/09/01 20:01

提言。釈迦が悟ったときは孤立無援のときであった。吉本隆明に感謝。
現実生活の世界では孤立無援であると生きていけない。
それは学問の世界の問題である。学問社会学の問題である。
仏教、禅に関する指導者は、いらないということである。
甘えている場合ではないのだ。仏教、禅に関する指導者に甘えていることを意味していることになる。
その結果として存在しているのが現在の禅であり仏教であるのだ。
自分ひとりで苦労する気がないと宣言しているだけのことである。
師家を礼拝していれば良いのだ。それが偶像崇拝であることが理解できないのだ。
自己究明をしたら何が出てくるのか。
答えは何も出てこないである。
何も出てこないものを追求する意味は何か。
そこに禅の答えがある。
そんなこともわからないで禅をやっているのか。
不立文字などと逃げている場合ではない。
答えは明快に出ているのだ。理解する能力がないだけのことだ。
そこまでいじめてはいけないか。

[457] あ◆LZAo 2008/09/02 00:57

それが釈迦様には分かっていましたので「極楽浄土に生まれたいと願い」と(発願)し
「念仏を唱えていれば」(称号念仏)誰でも極楽に往生し(成就)人間の努力などをはるかに超えた
強力な阿弥陀如来の仏力でいつかは必ず仏様になれるというシステムを紹介された事と思います
その時の模様は「阿弥陀経」というお経に詳しく書かれています

正しくは「仏説阿弥陀経」と言いまして、お釈迦様が説いた阿弥陀経という意味です
つまり極楽から現世に戻ると仏様が増え、ますます極楽浄土に往く人が増え、
結果、世の中に仏様が増え、いくらでも世の中が良くなっていくという
素晴らしいシステムなのです

それなら何故、最近仏様のような人をあまり見ないと思うのは日本人の宗教離れにより信者が減るが為に
極楽往生者が減り、つまり修行者が減っているので現世に戻れる仏様が不足していると考えられます

最近の事件やニュースを見聞きするにつれ今の世の中に少しでも仏様の真実に目覚る人を
増やし、信者(とりあえずの仏教徒)を増やしてゆく事が私達に課せられた課題と心得ています

[458] T、T 2008/09/02 09:01

>仏教、禅に関する指導者は、いらないということである。

そうですね。いらないと言う人には必要ないです。

>甘えている場合ではないのだ。仏教、禅に関する指導者に甘えていることを意味していることになる。

甘える人は、仏教、禅の道を進まないものです。
「仏教、禅に関する指導者に甘えていること」これは物事の表面しか見れない人の理解です。

>師家を礼拝していれば良いのだ。それが偶像崇拝であることが理解できないのだ。

これは悟るまでの話で、断じて偶像崇拝ではありませんよ。
何故か、「祖に逢えば祖を殺す、、、、、、」と言うではありませんか。
外なるものは一切殺す。師家を礼拝も偶像崇拝もそこにはない。

>そこに禅の答えがある。
>そんなこともわからないで禅をやっているのか。
>不立文字などと逃げている場合ではない

間違いなく解れば、不立文字を立てた意味も解りますが。

>答えは明快に出ているのだ。理解する能力がないだけのことだ。
>そこまでいじめてはいけないか。

貴方の言うように理屈通りに物事が正しく理解できれば、心身いじめる必要はありませんね。
しかし、事実は、人間はどうしても、ひどい目に逢わなければ本物を得ない様に出来ているようです。
本当にひどい目に逢えば、いじめるも、いじめないもなく「必死」になって解決に努力しだします。
仏教、禅と言うものはそう言う在り方です。

[459] T、T 2008/09/02 17:34


>仏様の真実に目覚る人を
>増やし、信者(とりあえずの仏教徒)を増やしてゆく事が私達に課>せられた課題と心得ています

これは願望であって、実現不可能ではありませんか。

[460] 名も無き者 2008/09/02 18:58

課せられた課題とは何か。
それは既成の宗教の限界を確認してそれを乗り越える課題に挑戦することである。
そこに自己の確立がある。
それは反面教師による自己の確立である。
称号念仏によって極楽に往生してみればどんな良いことがあるのか。
その良さの限界を確認する必要がある。
その良さが確認できれば信者が増えていくことになる。
良いという結果論だけでは詐欺になるのではないか。
称号念仏という方法には疑問があるのではないか。
称号念仏と極楽往生との因果関係はどうなっているのか。
なんの因果関係もないのだ。そこには妄想が存在しているだけのことである。
座禅という方法を実践しているときの妄想と同じではないか。
それらの方法の限界を確認する必要がある。
それによって仏教という赤子を一緒に流してしまわないこと、否定しないことが重要である。

[461] kotaro 2008/09/02 20:27

>>[460]名も無き者さんへ
>称号念仏と極楽往生との因果関係はどうなっているのか。
>なんの因果関係もないのだ。
>そこには妄想が存在しているだけのことである。

手品は、ばれてしまうと続けれない。
だが、それに代わる新興宗教が現れた。
統一協会とかオーム真理教とか、枚挙に暇(いとま)がない。
そうだとすれば、ワクチン(万一発病しても重症にはならない)が、
必要なのではないだろうか。

ワクチン、詳しく言うと、特定の宗教団体ではなく、
学校とかで、擬似体験を一定期間させて、
自分は救われると言う自信、過信を与える。
その事で失うものはないようにしておく。

自分だけは救われたい、自分だけは極楽浄土に導かれたい、
そうした選民思想は、人間の弱さとして
生来あるのではないだろうか。

[462] 名も無き者 2008/09/03 07:47

選民思想をどう実現するのか。
そのための方法論をもってして実現してしまえば解決形態となりえる。
自分が救われていればそれがワクチンとなりえる。迷うのは自分が救われていないからだ。
なんで自分は救われていないのかを徹底的に思考すれば道筋がみえてくるのではないか。
絶望の後で立ち上がれ。
自分が救われるための論理を極めるのだ。うそがあってはならない。

[463] T、T 2008/09/03 08:44

>称号念仏によって極楽に往生してみればどんな良いことがあるのか。

臨済禅師の言う「惑乱」が解消されます。
「惑乱」が解消されますと安心立命に留まらず、人生の活動が向上的に
進み出す。

>その良さが確認できれば信者が増えていくことになる。

理屈では、その通りですが、実際には、すべてが上手く行くとは限らない。
そこに宗教の不合理性がある。

>称号念仏と極楽往生との因果関係はどうなっているのか。

称号念仏が即、極楽往生で、極楽往生が即、称号念仏であると言う「即」の関係。

>妄想が存在しているだけのことである。
>座禅という方法を実践しているときの妄想と同じではないか。

称号念仏が即、極楽往生は、妄想でなく諸法実相である。
座禅という方法を実践しているときのは、妄想であります。
従って、同じではありません。

>仏教という赤子を一緒に流してしまわないこと、否定しないことが重要である。

これはその通りです。

[464] kotaro 2008/09/03 20:45

>>[462]名も無き者さんへ
>絶望の後で立ち上がれ。

大事な事は絶望の度合い。
「あー、俺は駄目だ。これじゃーいけない」
言葉では一様にそうなるが、
二度と立ち上がれない位ダメージが大きい場合、
その時点で人生終えるかも知れない。

確かに、獅子は千尋の谷(せんじんのたに)に我が子を突き落とし、
這い上がってきた強い子だけを育てるという。
だから、弱いやつは要らないといえばそれまでだが、
誰でも、人として生まれた以上、
期待されて生まれた、そう思いたい。
それが選民思想だと思う。

だとすれば、ワクチンで疑似体験させる。
ワクチンは毒性が弱いから、絶望に至るかもしれないが、
それほど思い詰める事はない。

その事で、全員に「俺は合格だ」と、過信、誤信を抱かせる。
それが重要ではなかろうか。
試練を経る事なく全入させる。

[465] 名も無き者 2008/09/04 00:07

選民思想といっても程度の問題がある。
理想論を提出してしまうがそのようにいくわけではない。
現実論が必要になる。
宗教は完成形態を求める。
自分がそこに参入できるか否かの問題である。
同一性の問題である。
自分が何と同一であるかと自覚するかの問題である。
仏と同一であると自覚することが完成形態である。
完成形態を目指すのか。あきらめるのか。
自分の発心の問題である。
他人の目を気にして世間の程度でやめておくというのが日本人の心情である。その程度でも以外に高いのではないか。
絶望を介在させると問題が簡単になる。
完成形態を絶望のほうへと引き付けるのだ。
絶望は完成形態の中に存在している。
絶望を否定したものが完成形態である。だから絶望即完成形態である。即がよくわからない。

[466] T、T 2008/09/04 08:14

>絶望を介在させると問題が簡単になる。

そうとも言えないものがある。
絶望が解決の機会にはなるが、それで、必ずしも問題が簡単には到らない。

余談になりますが。
絶望にも二種類がある。意識的に気づく絶望と、キエルケゴールの言う意識していない「今、
沈みゆく、船の窓ガラスを磨いている様な」絶望です。
キエルケゴールの言うような絶望は、今、僕の周囲に多く見られます。
一言、言えば嫌われるか、逃げられてしまいます。真実の在り方を知ろうとしない実に哀れな
姿ではあります。
自分は絶望していないと思っている絶望です。

>絶望を否定したものが完成形態である。

絶望を否定したものが完成形態ではありません。

>即がよくわからない。

「即」は等しい、或いは同一と言う意味です。
しかし、煩悩=仏と言う、イコールでの意味ではありません。
煩悩即仏でのひとしい、同一です。

[467] kotaro 2008/09/04 22:00

>>[466]T、Tさんへ
>余談になりますが。
>絶望にも二種類がある。
>意識的に気づく絶望と、キエルケゴールの言う意識していない
>「今、沈みゆく、船の窓ガラスを磨いている様な」絶望です。

福田首相は辞任記者会見で、記者から
「他人事のように話されている」と指摘され、
「あなたと違い、自分の事を客観的に見れる」と、
誇らしげに言われた。
どうも、ニヒルな笑いと言うか、薄ら笑いが、
客観的と思い込まれてはいないだろうか。

[468] T、T 2008/09/05 08:47

>「福田首相は辞任記者会見で、記者から
>「他人事のように話されている」と指摘され、
>「あなたと違い、自分の事を客観的に見れる」と、
>誇らしげに言われた。」

この事は、自民党内で政治をやつていても、協力する側と協力される側との
余りにもの違いに対する表現でしょう。政治は綺麗ごとでは動いていないと言う、
客観性の見方より更に、どろどろした客観性を自分は見たよと言われたのだと思います。
従って、「政治を評論家的に見ている貴方とは違う」客観的な事が見れると言ったのでしょう。
「誇らしげに言われた。」は余計な説明です。

>「どうも、ニヒルな笑いと言うか、薄ら笑いが、
>客観的と思い込まれてはいないだろうか。

「客観的」と思い込」む?
僕は「ニヒルな笑いと言うか、薄ら笑いが、」と言う、この事については関心がありませんが。
しかも、この「客観的と思い込む」と言う、客観的に本当と言うものが果たしてあるのだろうか。
僕は、「ニヒルな笑いと言うか、薄ら笑いが、」と言う、この事よりも、この事の起きる前の行動を
重点に置いているものです。

以上ですが、それと「絶望」と、どう関連があるのですか。

[469] kotaro 2008/09/05 19:20

>>[468]T、Tさんへ

福田首相は総理を引き受け、これまで活動されてきた。
だが、道半ばで辞任される。
我が事の会見であれば、
継続出来なかった自責の念とか、多々あるはずである。

会社社長が事業を手放す場合を想定すればすぐ分る。
事が成就しない、それは言葉を変えれば絶望と言える。

だが、そうした緊迫感がまるで感じられない。
それは、我が事として受け取るよりも、
他人事として事態を認識する方が、
落ち着いている、聡明であると福田首相だけでなく、
最近の日本人は勘違いしている。

もし、我が事であれば、落ち着いてなどいられない、
大慌てで、対策に走り回るだろう。
そうした首相が現れないから、次々辞任し、
首相をたらい回しにするのだと思う。

日本人は絶望する事を忘れた。
     一所懸命を忘れた。

[470] 名も無き者 2008/09/06 08:15

他人が絶望したか否かの問題ではない。
自分が絶望したか否かの問題である。
自分が絶望したときは他も絶望したときである。自他不二。
自分が救われたときは他も救われたときである。自他不二。
実際に絶望したか否かの問題ではなくして論理的に絶望を仮に設定して論理展開していくのである。
論理展開が完成すると解決形態が展望できることになる。
自己究明は自分をはなれないが他が自分に含まれている。自他不二。
人類の課題が自己の課題に含まれている。自他不二。
自他不二を誤解しているかも。

[471] T、T 2008/09/06 08:28

>我が事の会見であれば、
>継続出来なかった自責の念とか、多々あるはずである。

「我が事」と「他人事」と切り離しては、自責の念は生じない。

>会社社長が事業を手放す場合を想定すればすぐ分る。
>事が成就しない、それは言葉を変えれば絶望と言える。

失敗したからと言って、必ずそれが絶望と結びつくとは限らない。
物事の捉え方が単純過ぎる。

>だが、そうした緊迫感がまるで感じられない。
>それは、我が事として受け取るよりも、
>他人事として事態を認識する方が、
>落ち着いている、

「緊迫感」、「落ち着」とは、「我が事」、「他人事」とには
全く関係がない。

>聡明であると福田首相だけでなく、
>最近の日本人は勘違いしている。

「最近の日本人」ではなく、それは貴方の勘違いではありませんか。

>もし、我が事であれば、落ち着いてなどいられない、
>大慌てで、対策に走り回るだろう。
>そうした首相が現れないから、次々辞任し、
>首相をたらい回しにするのだと思う。

貴方の言われるように、単純に政治は動いていない。

>日本人は絶望する事を忘れた。
     >一所懸命を忘れた。

これも、ひょっとして、貴方の事ではないのですか。

[467]の
「絶望にも二種類がある」に対しての批評と
どのように関連づけようとされて居られるのですか。。

[472] T、T 2008/09/06 08:48

>自分が絶望したときは他も絶望したときである。自他不二。

それは違う、絶望は他を切り離した処から生じる現象です。

>自分が救われたときは他も救われたときである。自他不二。

これは、逆です。
他が入ってきて救われるのです。そこで自他不二と言えるものがあるです。

>論理的に絶望を仮に設定して論理展開していくのである。

絶望は、論理の行き詰まりです。
従って、「論理展開していくのである。」処には絶望はありません。

>論理展開が完成すると解決形態が展望できることになる。

違います。

>自己究明は自分をはなれないが他が自分に含まれている。自他不二。

その通りです。

[473] kotaro 2008/09/06 19:09

>>[471]T、Tさんへ
>貴方の言われるように、単純に政治は動いていない。

もう既にお分かりの事とは思いますが、
記者会見で記者が、首相が辞任の事を、
他人事のように話されていると言ったのは、
政治の仕組みとか福田総理辞任後の
総裁選とかを含んでの発言ではない。

例え、福田首相が辞任された方が、世の中うまく行くとしても、
その事とと、福田首相の辞任会見とは関係ない。
辞任と言う事実を真摯に受け止めての発言がない。

「お後がよろしいようで」
それでは、
一言で言えば哲学がない。
哲学とは、自分の身に降りかかる
火の粉を振り払う事と言えるのだから。

実存哲学で言う所の”他人(ひと)自己”それが
他人事のように我が事を扱うと言う意味に解釈しました。
(普通の意味は、他人に自分を置き換えても、誰でも自分が務まる)
参照:
http://www.geocities.jp/enten_eller1120/modern/existentz.html

>[467]の「絶望にも二種類がある」に対しての批評と
>どのように関連づけようとされて居られるのですか。

そう言う訳で、皆さんと同じ事を述べているのだと思いますが、
表現が違うし、引用する語句も著者も違う。
それで話がかみ合わない、そう言う事だと思います。

[475] T、T 2008/09/07 08:55

>辞任と言う事実を真摯に受け止めての発言がない。

発言がないのでなく、何かがあって言えないのである。
「辞任と言う事実を真摯に受け止めての」と言う方向に捉えては
物事の真実を見損ないます。初めからそんな心掛けは、ないと思いもいます。
何故かと言いますと、
政治は我々一般(全体)の為に行われていないのであるから、そこから
考えれば、あの辞任発表は国民に対してではなくて、ある特定の人に対するメツセージであり、
あの発言で分かる人には、分かると言う事のメツセージであると思います。

>一言で言えば哲学がない。
>哲学とは、自分の身に降りかかる
>火の粉を振り払う事と言えるのだから。

「火の粉を振り払う」?
哲学は、ここの趣旨ではないようでで多くは語りませんが。
在る西洋の哲学者は「哲学する目的は、死に方を学ぶ事にある。」とか
「哲学とは暗号解読である」とか、その他いろいろと理屈を述べられておられます。
僕は「自分自身を解明する事が哲学する事である」と理解しております。

>他人事のように我が事を扱うと言う意味に解釈しました。

その独りよがりを、一般的に無責任と言うのではありませんか。

[476] 名も無き者 2008/09/07 10:51

自分自身を解明することが哲学すること。
禅で悟ると自分自身を解明することが終わってしまうのか。
一休さんとか良寛さんはその後ではやることがなくなって暇を持て余していたのか否か。
もしそうだとすると問題になる。
柳田聖山は最後は良寛会とともにいたらしい。おなじ心境だったのか。
学者として教化活動をすることが正解か。

[477] T、T 2008/09/07 18:22

>禅で悟ると自分自身を解明することが終わってしまうのか。

禅では「釈迦も弥勒も修行最中」と言う。
「そこ」に、留まるなと言う事です。
それで人生が終わると言う事でなく、そこから新たなる人生が始まると言う事です。
故に、禅では「大死一番絶後に、蘇る。」と言う、自己確立の核心に触れ、そこから
本当の自己の日常生活が始まると言う事です。

>一休さんとか良寛さんはその後ではやることがなくなって暇を持て余していたのか否か。

各地で教化活動をしていたと書いてあるが、「暇を持て余していたのか否か。」は
本人に聞く以外定かではないが、ただ本当に悟ると、「暇を持て余す」と、言う事はないと思われる。
何故か、もの、時間を惜しむようになるからであります。

>柳田聖山は最後は良寛会とともにいたらしい。おなじ心境だったのか。

本は何冊か読んで持ってはいるが、心境を語れるほど理解していないので解らない。

>学者として教化活動をすることが正解か。

それは各人のもって居られる職業に或いは、能力に従って教化活動されて行かれれば
よろしいのではありませんか。僕はそのように考えて居りますが。

[478] 名も無き者 2008/09/07 19:07

禅では煩悩を撲滅して悩みのない生活が実現する。
悩みのない生活では何を実現していくのか。
慈悲行をするとも表現される。
何もしなくても良いが正解ではないか。無為無策。
そのために修行をしたのか。
人間の起動力は煩悩であるから、そこを否定したら人間の行動力がなくなってしまう。
仏の力を起動力にして行動するのか。
それ以外の答えはない。
鈴木正三の禅の応用問題が参考になる。

[479] kotaro 2008/09/07 22:40

>>[475]T、Tさんへ
>「火の粉を振り払う」?
>哲学は、ここの趣旨ではないようでで多くは語りませんが。
>在る西洋の哲学者は「哲学する目的は、死に方を学ぶ事にある。」
>とか「哲学とは暗号解読である」とか、
>その他いろいろと理屈を述べられておられます。
>僕は「自分自身を解明する事が哲学する事である」
>と理解しております。

”哲学は、自分自身に降りかかる火の粉を振り払う”
大学の哲学の授業で、実存哲学の佐々木一義先生から習いました。

ですから、まるで他人事のように自分の事なのに話すとは、
他人(ひと)自己であり、自分の人生を自分の意思の
ままには生きていない。
そのように他人(ひと)自己の事を習いました。
実存哲学理解して、お話している積りです。

>その独りよがりを、一般的に無責任と言うのではありませんか。

実存哲学で言う所の”他人(ひと)自己”それが
他人事のように我が事を扱うと言う意味に解釈しました。
(普通の意味は、他人に自分を置き換えても、誰でも自分が務まる)

この両方の意味、実存哲学的には同義語と思います。
独りよがりとか、無責任とか、
私としましては、真に心外な話です。

>政治は我々一般(全体)の為に
>行われていないのであるから、

職業が政治家と言う事で、区分けして話されるのであれば、
確かに此処の題材として不適当でしょう。
ですが、そうではなく、人としていかに生くべきか。
そのように話題を設定すれば、
政治家だろうが医者だろうが関係ない。
自分に与えられた職務をどう真摯に考えて生きているか。

[480] T、T 2008/09/08 18:24

>”哲学は、自分自身に降りかかる火の粉を振り払う”
>大学の哲学の授業で、実存哲学の佐々木一義先生から習いました。

習ったのは良いのですが、それを実践され確かめられましたか。
貴方の場合は、お釈迦様がこう言ったからこうだと言う考えで
言葉を鵜呑みに暗記しただけではありませんか。

つまり、貴方の紹介の(6)間接的伝達
「受け取った真理を,自らの実存在を通して現実性として受け取りなおし,
自分自身のものとしなければならないのだ.」と言う事では「受け取りなおし」が
なされていないと言う事です。

>この両方の意味、実存哲学的には同義語と思います。

貴方の実存は、自なく他か、或いは、他がなく自だけに
なっております。
従って、口では実存と説きながら、実存になっていない。

>職業が政治家と言う事で、区分けして話されるのであれば

貴方が政治を持ち出したから、それに応答しただけの話です。

>政治家だろうが医者だろうが関係ない。
>自分に与えられた職務をどう真摯に考えて生きているか。

本来ある処の「職務をどう真摯に」と言う「こころ」が抜けて、利害
関係のみに振り回されている、今日この頃では「職務をどう真摯に」と言う
概念での基準では、考えられないのではないかと言うのが僕の説です。

[481] T、T 2008/09/08 18:54

>禅では煩悩を撲滅して悩みのない生活が実現する。

撲滅は嘘ですよ、煩悩即です。

>悩みのない生活では何を実現していくのか。
>慈悲行をするとも表現される。

迷いが解消された日常生活は、何が出てくるか体験されなければ解りません。

>何もしなくても良いが正解ではないか。無為無策。

何もしなくてよいと言う事ではありません。
今まで以上の事が出来て、しかも、それが意識的な努力をしないで事が
為されていると言う意味です。

>人間の起動力は煩悩であるから、そこを否定したら人間の行動力がなくなってしまう。

単なる否定ではそのようになります。
しかし、仏教、禅では、否定即肯定で、しかも肯定即否定であるが故に、
「人間の起動力は煩悩である」そのままが仏の働きとして起動すると言う事です。

>鈴木正三の禅の応用問題が参考になる

それは、その通りです。

[482] kotaro 2008/09/08 23:11

>>[480]T、Tさんへ

実存哲学のポイントは、
”自分の人生を自分の考えで生きているか”
ただそれだけです。
ですから、絶望に二種類あるとか、
絶望するまで突き詰めて考えるべしと言う議題からすれば、
福田首相が自分の人生を自分しか生きれない位、
真摯に生きているか。
生きているならば、到底他人事との如くには語れないだろう。
そう言ってだけの事です。

世間から、政治家と特別視しされている人も、
おかれている状況は各自違うかも知れないが、
各自その場で、真摯に哲学し生きている、
そのように考えています。

それはそうと、調べていましたら、(実存哲学、仏教)、
仏教と実存哲学二つの概念の結びつきあるようです。
世の中、同じような事を考える人はいるものですね。

[483] kotaro 2008/09/09 04:06

>>[457]あ◆LZAoさんへ
>それが釈迦様には分かっていましたので
>「極楽浄土に生まれたいと願い」と(発願)し
>「念仏を唱えていれば」(称号念仏)
>誰でも極楽に往生し(成就)人間の努力などをはるかに超えた
>強力な阿弥陀如来の仏力でいつかは必ず仏様になれるという
>システムを紹介された事と思います
>その時の模様は「阿弥陀経」というお経に詳しく書かれています

>正しくは「仏説阿弥陀経」と言いまして、
>お釈迦様が説いた阿弥陀経という意味です
>つまり極楽から現世に戻ると仏様が増え、
>ますます極楽浄土に往く人が増え、
>結果、世の中に仏様が増え、
>いくらでも世の中が良くなっていくという
>素晴らしいシステムなのです

”つまり極楽から現世に戻ると仏様が増え”

極楽の仏様が現世に戻られるのですか?
それは天台宗の「一隅を照らす」みたいに、
姿は人で心は仏の、生まれながらの悟れし人なのでしょうか。
そのへんをもう少し、詳しく解説して下さいませんでしょうか。

[484] T、T 2008/09/09 08:28

>実存哲学のポイントは
>自分の人生を自分の考えで生きているか”
>ただそれだけです。

この考えが貴方の間違いの基です。

>各自その場で、真摯に哲学し生きている、
>そのように考えています。

多くの人は、その思いで人生を送っている「つもり」です。
しかも、善人の「つもり」で暮らしております。
それらが、問題なのです。そこで「絶望」と言う概念表現がある。
気が付く「絶望」は誰でもわかる、本人自身に気がつかない「絶望」があると、
そこをキエルケゴールが巧みに語っていると言う事です。

>仏教と実存哲学二つの概念の結びつきあるようです。
>世の中、同じような事を考える人はいるものですね。

実存哲学とは言わず、人生に関する事柄、哲学、科学等と
宗教(仏教)とは、表裏一体が事実です。
それは不可分の関係であります。
従って、それらが切り離されて考えられる時、事実では無いと言う事です。
それをお釈迦様が説いて居るではありませんか。
「同じような事を考える人はいるものですね。」と言うより、世の中の事実は
同じです。そこで「話がかみ合う」のです。

>そう言う訳で、皆さんと同じ事を述べているのだと思いますが、
>表現が違うし、引用する語句も著者も違う。
>それで話がかみ合わない、そう言う事だと思います。

それが原因でなく、事実が見えないから話がかみ合わないのです。
それ故に、事実を正しく認識判断をする修業が必要になる訳です。

[485] kotaro 2008/09/15 03:31

>>[457]あ◆LZAoさんへ
>それが釈迦様には分かっていましたので
>「極楽浄土に生まれたいと願い」と(発願)し
>「念仏を唱えていれば」(称号念仏)誰でも
>極楽に往生し(成就)人間の努力などをはるかに超えた
>強力な阿弥陀如来の仏力でいつかは必ず仏様になれるという
>システムを紹介された事と思います
>その時の模様は「阿弥陀経」というお経に詳しく書かれています

解脱が、地上に生まれ変わらない事とすれば、
唯物論は、正にそれを言っている。
「死ねば終わり」。
だが、お釈迦様を慕う人は唯物論を嫌う。
そう、死ねば終わりとかではない。
だが、お釈迦様は個人崇拝を禁じられた。
祈る事で、何か不可思議な力を授かるとか期待してはいけない。

では「阿弥陀経」は、なんなのでしょう?

[486] 金太郎飴 2008/09/15 12:27

>>485
>解脱が、地上に生まれ変わらない事とすれば、
魂は永遠に存在してると思えば特に生まれる必要もないでしょう

ウィキペに興味深い記事がありました
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%A3%E8%84%B1
諸宗教・宗派間の解釈の違い
仏教以外のインド一般の教えでは、輪廻からの離脱であるからむしろ空相的世界の意味が強く、仏教の場合も、部派仏教では無余涅槃を究極の目的としており、身心都滅(しんしんとめつ)にして初めて解脱であるから、空相的な意味が強い。しかし、後の大乗仏教では解脱といっても、無住処涅槃の理想からいえば、生死にも涅槃にも囚われないまったくの無執着、逆にいえば任運自在の境地をいうとみてよいから、実相的な意味あいである。

浄土宗の考え方
http://www.rinkaian.jp/qa161-180.html#Q168
「かの国に到りおわって六神通を得て、十方界にかえって苦の衆生を救摂せん」(善導大師)
 つまり、極楽往生が第一。人々を救おうとするのは、その後のことである——少し奇妙に思われるかもしれませんが、これが浄土宗の考え方です。

これは言うなればアフター阿弥陀経ですね(笑)
死後の世界は誰も分かりませんが善導大師が仰っている事ですからと素直に信じている訳です
(ココが宗教の宗教臭さを感じる点でしょう)

[487] 金太郎飴 2008/09/15 12:28

>だが、お釈迦様を慕う人は唯物論を嫌う
何故ここで唯物論が出てくるのが理解出来ません
しかし云わんとしている心は分かりますので・・・
論理ではなく心で感じたままにお答えします

宗教に頼る人は唯物論を嫌うのは当然です
物質世界でどうにもならない解決策を宗教で探り出そうとしているからであり
たとえばどんなに物質に恵まれても自分がいつ死ぬかは分かりません
たくさんお金を持っても同じで、取られやしまいか・・・持っているが故の不安が生じます
立派なお屋敷に住んでも泥棒や強盗や・・・・・・・・・持っているが故の不安が生じます
キレイな奥さんをもらっても浮気されやしまいか・・・・持っているが故の不安が生じます
等々、どんなに物質的に恵まれて裕福になっても結局は、持っているが故の不安が生じます

その不安は心、つまり精神世界に苦しみとして溜まります
苦しさの根源は物質ではなく精神にあると気づいた人は宗教に解決を求めるのです
正しい宗教者は唯物論を嫌います(物では心が満たされない事を知っているから)
つまり、「お釈迦様を慕う人は唯物論を嫌う」という指摘は的を得ていないでしょう

>そう、死ねば終わりとかではない。
そう思わない人には仏教だけでなく、共産党と同じように宗教は必要ないという事です
しかし人は宗教なしでは不安で生きられないのも事実です

>祈る事で、何か不可思議な力を授かるとか期待してはいけない。
阿弥陀経は正しくは「仏説阿弥陀経」であり訳せばお釈迦様が説いた阿弥陀経です
その中で先ず発願し、その後、一心不乱に念仏すれば阿弥陀様が迎えに来るとちゃんと書いてあるのです
いくらkotaro氏にいけないと言われてもダメです

>では「阿弥陀経」は、なんなのでしょう?
阿弥陀経を疑う心を無くせば阿弥陀経を受け入れられるでしょう
つまり誰でも素直な心を持てば極楽浄土往きの切符を手に入れられるという事です

[488] kotaro 2008/09/16 23:29

>>[487]金太郎飴さんへ
>その中で先ず発願し、その後、
>一心不乱に念仏すれば阿弥陀様が迎えに
>来るとちゃんと書いてあるのです

話が込み入るのは、不本意ですが、
悪い事をしないなら、
苦労多きこの世に再度生まれなくてすむ。
この考えには、現世だけが登場する。
だから、この世の事しか調べない科学とか、
唯物論をそのまま使う事が可能である。

だが、あの世と言う美しい世界は、
あるのかないのか確かめれない。

お釈迦様を信じ、心安らぐ。

だが、お釈迦様は解脱の方法を示めされただけで、
極楽浄土の件は、後世の創作と言う説がある。
この説は、私の創作ではありません。

[489] 東方朔 2008/09/17 11:59

仏臭、仏臭とうるさい連中ですね。
大乗経典は後世の捏造ですよ。
釈迦が生まれる前に仏になったものが
いるのではないかという考えから
阿弥陀如来は考え出されたんですがね。
北伝仏教は富永仲基によって大乗非仏説として
釈迦以外の別の方の捏造された経典だとばれてますよ。
平田篤胤の「出定笑後」もにもあきらかですね。
あなた方は江戸時代に決着がついている
論争についてウダウダ言っているんだから笑えますよ。
私は仏教は神仙界の下の仏仙界のものなので相手にもしてませんが。

[490] 2008/09/17 18:45

俺が俺が・・
お山のお猿さんは自分こそはと、周りを認めようとせずひたすら高いところを目指していますね。
高いところが相応しいならば病むを得ませんが・・・

人であるならば少しでも他人の意見に対し純粋な気持ちで耳を傾けてみたいものですね。

心が寒い状態では人として生きる気力も意味も失せるのではと思いますね。

[491] 金太郎飴 2008/09/17 23:18

kotaroさんへ
>だが、お釈迦様は解脱の方法を示めされただけで、
良いじゃありませんか(笑)
そもそも解脱したのかどうかだって科学的に証明できない部分ですから
そこは宗教なんですし信じるしかない部分は多少は出てくるでしょう

>極楽浄土の件は、後世の創作と言う説がある。
>この説は、私の創作ではありません。
流石に阿弥陀経の成立は釈迦入滅後、数百年後ですから何を言われても反論できません
弟子が自分たちの都合よく作ったと言われても反論する手立てがありません
しかし根本を言い出したら日本の仏教はどれもかなり怪しげになってしまいます

何のかんの言っても敬謙な浄土宗信者であった家康公は太平の世を建設し
数百年に渡り、戦のない「世界に稀に見る平和な社会」を運営した実績が
ありますので心配には及びません

私は法然上人が人間的に好きなので念仏を唱えています
あの世や浄土世界が有ろうがなかろうが実はそれ程、心配していません

今のこの「平和な日本の姿こそが極楽浄土」そのものであると信じていますから

[492] kotaro 2008/09/18 01:04

>>[491]金太郎飴さんへ
>あの世や浄土世界が有ろうがなかろうが実はそれ程、
>心配していません

私は、あるだろうと思います。
この世の科学者が、自然の仕組みは解明出来るが、
無から有は作れない。
それが人間の能力と思います。
次に何処に生まれても、やはり、赤ん坊からスタートする。
与えられた環境で生きて行くだけと思います。
ですから、例え極楽に生まれても、感謝しつつ生きる。
もし、そこでの人生が、神(無から有を生み出せる)なら、
遅くとも、死ぬ瞬間には、全知全能になっていないといけない。
人間が、此処で生活する間に、
人から神に質的に変化するならば、
この世の誕生も夢のある一生だったと言えるのだが・・。

[493] 2008/09/18 09:03

>>491

厭離穢土欣求浄土・・ですね(^-^)

[494] 東方朔 2008/09/18 10:30

>人から神に質的に変化するならば、

人の直霊は天之御中主大神の分霊ですよ。
頭は大丈夫ですか?
人は生れながらにして神ですがね。
神集岳霊界に入るには霊胎凝結秘伝で霊胎を結成
して神界に入る必要がありますがね。
ぼくは方丈山の仙官でしたが、酒を飲み西王母の
桃を盗み食いしたので、地上に落とされ、宮地水位の
弟子として謫仙として生まれましたからね。
成仙して神界にもどりますがね。

[495] T、T 2008/09/18 12:09

>争についてウダウダ言っているんだから笑えますよ。

人の事を「笑えますよ。」と言っている間はよろしいのですが。
そのうち、必ず、笑えない時節がやって来ます。

>私は仏教は神仙界の下の仏仙界のものなので相手にもしてませんが。

上下関係がある間は、宗教の領域の話ではなく世間の話である。
このような方は、世の中の真実を常に、見損なっていて、しかも、その事に
気づけない人の姿です。
悟れば、神も仏も同根です。

[496] 東方朔 2008/09/18 14:49

人は天之御中主大神の分霊ですね。
釈迦も然りであり、仏性があるかないかなど議論してる時点で
仏教は神道に劣っていますね。
子が親たる神を敬うのは当然ですからね。
釈迦は所詮は仙の一人ですからね。
それから、ぼくは神道家ではありませんからね。

富永仲基の大乗非仏説と加上論で大乗仏教は偽物であることは
江戸時代にばれてしまっているのですよ。
それをもとに平田篤胤大人は「出定笑後」で痛快に仏教を笑い飛ばしてますがね。
まあ、仏仙界系のあなた方は知らなかったのでしょう。
妄信とは恐ろしい。

[497] 金太郎飴 2008/09/18 23:43

>>492 kotaroさんへ
>>491 でレスは〆るつもりでしたがもう少し

>私は、あるだろうと思います。
私もそう願いまた、あるべきだと考えています(目に見える証拠がない以上、単なる願望ですが)
未来において衆生を救う仏様を目指して修行する仲間達に是非会ってみたいのです

>無から有は作れない。
原材料でなしで物(物質)は作り出せませんが文化的なモノは生きている限り無限に創れますよ^^
例えば口笛が出来れば曲が作れます
声を発せば歌も作れます
一生懸命走る・・・それだけで人を感動させる事もできます

>それが人間の能力と思います。
いえいえ、人間には限のない能力が潜められています

>遅くとも、死ぬ瞬間には、全知全能になっていないといけない。
心配しなくても大丈夫ですよ・・・きっと(笑)
阿弥陀如来の力でいつかは必ず仏様になれますから・・・
死後は心配せずにこの世をしっかりと全うしてして行く事が大事な事かと思われます
心がココまで来れば極楽浄土なんか有っても無くてもって気持ちが分かると思います

世の中、自分のためには一生懸命働き、人のためにも少し働くらいが良いのじゃないですか?
他人にあまり世話を焼かれても「かえって迷惑」ですが、少しの親切は「実にありがたい」ものです
それでなくては浄土思想を展開して救われる術がありません

>この世の誕生も夢のある一生だったと言えるのだが・・。
せつないですねぇ・・・少し考えれば人間に創れるものは無限に有ります
kotaroさんだって努力次第で何億円もする絵が描けるかも知れないのです
さりとて、あまり大きな夢を描いても自分が疲れてしまいます
自分の尺度に有った夢を探せば良いのではないのでしょうか

[498] 金太郎飴 2008/09/18 23:43

>>493 秋さん
難しい言葉ですね^^;
欣求浄土は目指していますが厭離穢土までは考えていません
>>今のこの「平和な日本の姿こそが極楽浄土」そのものであると信じていますから
今後どんな修羅場が訪れようとも我が日本こそ世界一の浄土です

[499] T、T 2008/09/19 08:15

>仏性があるかないかなど議論してる時点で
>仏教は神道に劣っていますね。

「仏性があるかないかなど議論」は大事な事です。
これなくしては、人間は人間でなくなります。
議論があったら、どうして「仏教は神道に劣っていますね。」と言えるのですか。
余りにも、思想が単純過ぎではありませんか。

神道も神乗(天照大神)を意味するなら、仏法同一理体であると言いますから
神と仏との優劣は生じないはずですが。

>子が親たる神を敬うのは当然ですからね。

「敬う」と「恐れ」と言う事は大事な事です。これなくしては人間失脚です。
しかし、それより大事な事は、先ず、何が神か、何が仏かを体験的に
知る必要があります。
それが無い盲信では、いわしの頭まで「敬う」事になりますからね。

>富永仲基の大乗非仏説と加上論で大乗仏教は偽物であることは
>江戸時代にばれてしまっているのですよ。
>それをもとに平田篤胤大人は「出定笑後」で痛快に仏教を笑い飛ばしてますがね。

この事柄を自分自身で、よく吟味して看ましたか。
この引用そのままの投稿でしたら、盲信になりますが。

大乗も小乗も教えとしては必要であります。
「平田篤胤」この人も少し本で読みましたが、興味ありません。
従って、「痛快に仏教を笑い飛ばしてますがね。」と笑う人には、
笑ってもらうしかないのでしょ。
しかし、本物は常に「露堂々」と目前にあり、偽物は現れては、
またたくまに消えて行くでしょう。

>妄信とは恐ろしい。

これはその通りです。
何が恐ろしいかと言えば、人生を狂わす知的な道具の一つであるからであります。

[500] お婆ちゃんの智恵袋・お爺ちゃんの玉袋! 2008/09/19 08:25

↑下から失礼しやす!

500(σ^-')σゲッツ!!!

宗教にのめり込むなよ〜〜

(^O^)ノ[]☆[]ヽ(^O^#)

家庭崩壊するぞ〜〜

(^O^)ノ[]チン[]ヽ(^O^#)

ほどほどにな〜〜

(^O^)ノ[]ポコ[]ヽ(^O^#)

ルネッサ〜〜ンス

[501] 2008/09/19 09:35

富永仲基とは、大阪の漬物屋だそうですね。(^-^)
漬物屋の子が仏教をすべて知り抜いていたのか???

すごいことですね。(^-^)
感心しました。

[502] 東方朔 2008/09/19 09:49

>>499
仏性があるかないかなどどうでもいいことです。
人は神の分霊ですからね。人は神になります時間の無駄ですね。

仏法同一理体などは神仏習合時代の残滓ですよ。
神は一貫して神であり仏は人が解脱した姿であり神そのものではありませんね。

>何が神か、何が仏かを体験的に
>知る必要があります。

どうやってあなたごときが神と仏を体験的に知れるというんですか?
修行方法を書いていただけませんかね。行法ですよ。
私は密教も修したこともありますので興味深いですね。
神仏との感応道交の方法をお書きいただけますかね。

>大乗も小乗も教えとしては必要であります。

小乗(部派仏教)には釈迦の言葉も含まれますから意味がありますが、大乗経典は富永仲基が言うごとくすべて偽物ですね。
富永仲基は大蔵経の研究から、大乗経典は釈迦とは別の思想家の
書いたり書き加えたものだと、文献学、書誌学、言語学の手法で読み解き
いまだに学会では支持されてますがね。反証すらされてないお知りにならないとは。あわれですね。
1000年も釈迦の教えが曲がらず伝わるとあなたは信じているんですか?非科学的な。

では大乗の教えが必要だという論拠をしめしてください。
偽物の仏の教えが大事だという根拠をね。

妄信は怖いですね。カルトなどやめることです。

[503] 東方朔 2008/09/19 09:51

>>501 富永仲基も知らないとは、富永仲基は11歳で漢学を学び
講義もしてましてね。僧侶の経典の整理にも参加していたので
少なくてもほかの妄信僧侶よりは仏教を知っていたでしょうね。

[504] 2008/09/19 10:03

平田篤胤って江戸後期の幕府の嫌疑にふれ,秋田へ追放されたそうですね。
反体制派だったということでしょう。
大塩平八郎という反乱をおこしたのと同じようなものか
身の程も知らずだいそれたことなどするから滅ぼされるのでしょうね

なんまいだ

[505] 2008/09/19 10:04

秋田へ追放されたそうだけど、なんでそこで「神」が助けてくれなかつたのかな?
なんでだろう♪♪ 何でだろう?♪♪ ・・・

[506] 東方朔 2008/09/19 10:31

愚かですね、江戸時代インテリにもっとも読まれた本は
平田篤胤「出定笑後」頼山陽の「日本外史」ですよ。
あの篤姫ですら読んでるんですがね。ものを知らないということは。おそろしいですね。
平田のイデオロギーは水戸学とあいまって倒幕の原動力になりますがね。
平田の思想は江戸幕府には危険思想だったのでとりしまられただけですが、倒幕のエネルギーとして日本を導きました。

平田は羽雪大霊寿神仙として神集岳霊界で仙官をされていますよ。

[507] 東方朔 2008/09/19 10:35

昔の坊主は威張ってましてね。
戸籍を握っていたので、坊主に逆らえば「無宿者」「非人」にされた
寺院の修繕費も檀家から無理やり徴収して江戸時代には僧侶は憎まれていた。それも知らないのでしょう。
だからお伊勢参りや平田大人の思想がうけいれられ、
明治の廃仏毀釈へとつながったんですが、ここの仏教狂は知らないようですね。

妄信は恐ろしい。

[508] 東方朔 2008/09/19 13:00

大乗非仏論が通れば(まあ、学会では定説ですがね。)
浄土宗はデンパ、天台は五時八教の論理破綻でアウト
日蓮は末法の行者ではないことと法華経が偽経典になるので
非人の偽坊主。経典がデタラメな禅宗と真言宗は道教のパクリ。
まあ、妄信仏教徒は富永仲基を絶対に認めたくないようですが。
大乗非仏説と加上論はいまだに、どの学者にも崩されていませんよ。
所謂、大乗仏教はすべて偽物ということになるがね。
徳富蘇峰なども富永仲基を高く評価してましてね。
知らないと恥をかきますよ。

[509] T、T 2008/09/19 17:12

>神仏との感応道交の方法をお書きいただけますかね。

感応道交と言う言葉があれば、
「衆生即阿弥陀仏」と言う「場」です。
また、「見仏聞法」の処であり、
西田幾多郎、博士なら「絶対矛盾的自己同一」の処です。

そこに到るには、理屈抜きに座禅する事、
或いは、仏教の教えに従い、実践すること、或いは、行住坐臥に念仏を念じる事。
注意は、単に物知りだけでは認識できません。

>大乗経典は釈迦とは別の思想家の
>書いたり書き加えたものだと、文献学、書誌学、言語学の手法で読み解き
>いまだに学会では支持されてますがね

お釈迦様の教えが、どこからどこまでが本当だと言う問題は、難しい問題だと思います。
しかし、その教えにより宗教体験された自覚で、その人、その時代の表現によるものと
理解で別に良いと思います。
それ故に、お釈迦様が書いていない、だから偽物とは言えないものがあります。
大事な事は、現在の実際の日常生活に合えば良いと思っております。
事実僕は、過去に指導した人、今指導している人にも、言葉では大乗、小乗など教えていない。
僕の場合は、日記指導と月一の面接だけであります。
日記指導は、記録に残り、言った、言わないの問題もなく、その他でも何かと便利であります。
ただ時々に、導く時、仏教は禅用語を使うと便利であると言うだけの話であると言う事です。

しかし、彼ら、彼女らは、仏教の本質は後から分かるようであります。
仏教、宗教と言うものは、日頃の日常生活が上手く行けば、それが一番良いと思っております。
そう言う面で、時々仏教用語を使用しているぐらいであります。

しかし、「私は仏教は神仙界の下の仏仙界のものなので相手にもしてませんが。」と
言いながら、よく相手になっておられるじゃありませんか。

[510] 隠者 2008/09/19 17:14

追記・鬼

神事
論語に記された「鬼神」恐らくこれが同一のものと思われますが、
土着の神話にいる「鬼」税金をかけたり神話を輸入した
性格上これらが上に思われがちなのと
日本では仏教と天皇の権勢を強くしようとした働きが聖徳太子や馬子などの戦いでありますので一概には言えませんが
軍事面
一般的下士官以下の兵曹長までの戦術に熟達した「鬼」
武芸百般に通じた武士などの「鬼」
仕事
現代の「仕事の鬼」
資源が少ない日本ではどうしても戦術的に熟達したり、
人的資源の訓練による名人芸や各種技能の特化などの
動きが職人世界では未だに強く残っており、これが現在の
システムエンジニアなども残っていると思われますが、
近現代の学者が過去の平安貴族のような性質を帯び
神事に特化した天皇や・公家・武家などが扱いとしては一種
の幽閉という形になりながらも彼らの
「仕事」として過去より変わらない形で現在進行
しているだけとは思わないでしょうか?影響力の
強い弱いは職業需要の絶対的供給量が仏道や神事(順不同)
がエッセンスだけ武道や書道などの過去の特権階級の
人だけしか得られなかった技術が開示され
現代版に法人化され、それらは戦争にまけたことにより、
米国式の戦争経済と手を結びシステム化されたことにより
それらは過去には無かったほどのリアルタイムな
情報供給と選択肢の幅を広げたといえないでしょうか?
無論彼らや私たちは神事・仏道・仕事を区別することなく
ただ単に其のときの市場の需要にこたえて供給しているだけですので
それらの技術論が古くなったり新しくなったりするように
見えるのは技術革新の問題だと思われますので、此処では
触れないことにします。

[511] 金太郎飴 2008/09/21 00:17

参考までに
http://nun.nu/ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%99%82%E5%85%AB%E6%95%99
教相判釈(きょうそう はんじゃく)とは、中国をはじめとする漢訳仏典圏において、仏教の経典を、その相(内容)によって、高低、浅深を判定し解釈したもの。 略して教判ともいう。

釈迦は成道して、涅槃に入るまでの45年前後の間に、多くの教えを説いた。後々にそれが発展して経典として形成された。しかしてそれらの多くの経典が、中国へ伝えられ、漢訳仏典として集成されると、中国的な仏伝の解釈に基づき、これらの諸経典の教えの相や時期を分けて判別して、それらから仏道修行の完全なる悟りを得ようとしたことにはじまる。これが北伝の仏教として日本や朝鮮、ベトナムなどに伝えられていった。

しかし、今日では、経典の成立した年代がある程度特定され、大乗経典などは、釈迦の直説ではなく後代によって成立したことが周知の事実であることから、大乗非仏説の根拠として批判されている。したがって五時八教説(後述)は完全なものではない、あるいは正しくないと一般的に否定されつつある。ただし南伝の三蔵も、最古の部分でも釈迦の死後100年内に編纂されたと推測されている程度で、実際に釈迦の直接の教説の記述を伝えるものとし確定されている経典は存在しない。

だが、当時は南伝も北伝も、経典はすべて釈迦の説いた教えであると信じられていたため、教相判釈による以外に判別する方法が無かったともいえる。またちなみに、多くの経典が釈迦の直説ではないといっても、そのおおもととなる教説により各経典が発展して成立し、まったくのデタラメとも言えないという観点から、大乗非仏説ではなく経典成立史と呼称して新しく教相の判釈を試みる傾向もある。

五時八教説(天台)
五時八教の教判、あるいは五時八教説(ごじはっきょうせつ)とは、天台智?(ちぎ、538年 - 597年)が、一切経を五時八教に分けたものである。日本へは最澄が紹介した。これを日蓮が採用し、法華経が最高の教えであるという根拠とした。

[512] kotaro 2008/09/21 03:22

   死んだ人は何処にいくか

仏教徒の私たちは、普通に、あの世にいくと思っている。
だが、物理の人に、これまで、
「じゃー、それは具体的にどこですか。
月ですか、火星ですか、それとも金星ですか」
と、尋ねられたとき、満足な返事が出来なかった。
だが、今回、うまく説明出来るのが分かった。

陽子と陽子を加速して衝突させた時、何が生まれるか。
消滅するはずのない粒子が消滅する事があると、
それは異次元に送り出された事になる。
消える=異次元に行く。
そう、我々も先祖がなくなると、
この世から消えてなくなる訳だから、
異次元に行ったといえば良いわけである。

参照:
http://current.bbs.thebbs.jp/1221055632/
[12]うんこう機
理論上、消滅するはずのない粒子の消滅が観測できれば、
それは四次元以上の高次元空間が存在する証明になるって。
消えた粒子は、高次元空間に移動したと考えると
全てのつじつまが合うんだとさ。

[513] T、T 2008/09/21 08:36

>多くの経典が釈迦の直説ではないといっても、そのおおもととなる教説により各経典が発展して成立し、
>まったくのデタラメとも言えないという観点から、大乗非仏説ではなく経典成立史と呼称して新しく教相の判釈を
>試みる傾向もある。

そうです、この説で行けばよいと、僕は考えております。
従って、お釈迦様が言った、言わないと言う問題は、学者に任せておけばよろしいと思います。
それ故に、四諦、十二因縁、八正道など理路整然としているいる文字に惑わされず、
「文字に惑わされず、」とは、文字の表現は、月そのものでなく、月を示す指に過ぎない事を
理解すると言う事です。
仏教の要点は、釈迦が何を言ったかではなく、何を悟ったかと言う事です。それが解れば一切が解決致します。
文字のみを追わないと言う事です。

[514] kotaro 2008/09/22 01:08

私が[492]で、
この世での一生は、来世で神として
生きる為の修行ならばいいのにと言えば、

キリスト教の方々は、不遜の極み、
悪魔のささやきと思われたでしょう。

ですが、悪魔は、イエスキリストに、
こんな大それた提案は、していないのです。

新約聖書の「マタイによる福音書」には、

4:8 さらに悪魔は彼を非常に高い山に連れて行き,
   世のすべての王国とその栄光とを見せた。
4:9 彼はイエスに言った,「もしあなたがひれ伏して
  わたしを拝むなら,これらすべてをあなたに与えよう」。

悪魔は、神の子イエスに、何と言う、
ちっぽけな提案をしたのだろう。
神になる方法を伝授するとか、
でっかい事を言ってもよさそうなものだが・・。
無論、それには、伏線があり、ヨブ記で、

01:12 ヤハウェはサタンに言った。
   「では、彼の持ちものすべてをおまえの手にまかせよう。
ただし彼自身には手を出すな」。

参照:
http://bokuen.net/job/job.html#C01V01

悪魔は、神から許された範囲で提案している。
悪魔は法螺吹きではなく、
悪魔が実現出来る事を申し出たと言えるでしょう。

[515] アホのサカタ 2008/09/22 19:33

神もサタンも、実は共にキリスト自身なのです。
体験すればそのことがすべてが分かります・・

活字好きな方は「魔境」で検索しお勉強して下さい

[516] kotaro 2008/09/22 23:28

   ヒンドゥー教と根本仏教

ヒンドゥー教は、ヴェーダ聖典・カースト制度等、
多くの特徴をバラモン教から引き継いだ多神教であり、
輪廻や解脱といった独特な概念が特徴的である。

          根本仏教

それでは呪術についての釈尊と根本仏教の立場はどうか。
この点について「スッタニパ—タ」は明確に答えている。
「927 わが徒は、アタルヴァ・ヴェ—ダの呪法と
夢占いと相の占いと星占いとを行ってはならない。
鳥獣の声を占なったり、懐妊術や医術を
行なったりしてはならぬ。」(16)(201頁)と。
また、釈尊はバラモン出身の僧がマントラが
教団へ持ち込まれた時、これを禁止した。
呪術にたいする釈尊と根本仏教の禁止の立場は明確であった。

お釈迦様は、バラモン教(ヒンドゥー教)
のカースト制度を嫌い、仏教を興された。
前世の報いで最下層に位置するのと、

仏教も今生の報いで来世地獄に生まれ変わると説くなら、
カースト制度の改善にならない。

参考資料
1引用元:
http://www5.ocn.ne.jp/~ono13/dbm4.html

2引用元:(容量多し参照注意)
http://www5.ocn.ne.jp/~ono13/dbm4.html

[517] T、T 2008/09/23 08:21

>神もサタンも、実は共にキリスト自身なのです。
>体験すればそのことがすべてが分かります・・

その通りです。そこら出てきた話です。

[518] T、T 2008/09/23 17:26

>神もサタンも、実は共にキリスト自身なのです。
>体験すればそのことがすべてが分かります・・

その通りです。そこから出てきた話です。

「そこから」でした。「か」が抜けて大変失礼致しました。
一切はそこから出てきます。

[519] アホのサカタ 2008/09/24 09:20

活字を追うことが悪いとは言わないが、活字には所詮限界があるのです
活字で詳細に語られてはいない部分が相当あるものだが、それを知るには体験以外にないのです
体験すれば瞬時にわかります
活字のその奥底に何があるのかを知るにはどうしても体験を続けて、その経験から直感的に分る部分もあるのです

直感のすごさを説明
たとえば、ろくすっぽ経験もない警察幹部が考える捜査方法と長年の経験者が考える行動ではその結果には雲泥の差が出るものであるが、何だかんだと言っても結果がすべてを物語る。
屁理屈では絶対に飯は食えないものなのです

今は何の世界にも「オタク」が顔を出す時代ではあるが、鬱陶しいものだね。
経験のないオタクがいろいろ言っても、それを聞いているのは結構しんどいものだ

[520] 隠者 2008/09/24 13:19

480のことかい?悪魔を破ったという?
税金で飯を食っているおたくさん。

[521] アホのサカタ 2008/09/24 18:26

直感であって根拠とやらはないが、活字だけで直感を駆使しなければそういう解釈をしてしまいますよ。
だから活字だけに頼るなというのです。
あなたの活字の捉え方が間違いであることを自ら活字によって証明しています

あ、そうそう、税金で飯食っている人も皆さんと等しく税金を払っていることに注目して下さいね

[522] 隠者 2008/09/25 02:02

私がそうここで説く「公務員」とは
「神道」に属する
中国で言うところの太極拳の不老不死の最高の称号を
名前だけもってとく俗人のことですよ。

[523] T、T 2008/09/25 08:10

>活字で詳細に語られてはいない部分が相当あるものだが、

そうして、文字では語れないものがある。

>それを知るには体験以外にないのです体験すれば瞬時にわかります
>活字のその奥底に何があるのかを知るにはどうしても体験を続けて、
>その経験から直感的に分る部分もあるのです

その通りです。
直感的に分るものが本物です。

>何だかんだと言っても結果がすべてを物語る。

その通りです。結果の事実から見なければなりません。
理屈の現実からでなく、自分の結果から事実を見ると言う事です。
従って、理想は、今より先、或いは、遠い先に在るのではなく
今ここの事実の動きの中に在ると言う事です。

>屁理屈では絶対に飯は食えないものなのです

理屈、論理からは、事実は捉えられないと言う事です。
つまり、人間の本質は知識の対象にはなり得ない。
「個人在って経験あるにあらず、経験在って個人が在るのである。」西田幾多郎
先ず、自分と言う者が在って経験するのは迷い(空想)の論理と言う事です。
事実は、働く事によって自分と言う者が在ると言う事です。

[524] 下々 2008/09/29 09:18

>>今ここの事実の動きの中に在ると言う事です

ソレ仏法は遥かにあらず・・というしね・・

我々下々には簡単にはわからへんこっちゃけどね・・・(^-^)
屁理屈屋さんたちにとっても、たぶん56億7000万年考えても何のこっちゃさっぱりのはずやね・・

もう、しょもない連中に説明するのやめなはれ(^-^)

[525] 隠者 2008/10/02 22:18

仕事の鬼は仕事に精業している人を指すようです。
システムエンジニアに限らず
訂正

[526] 隠者 2008/10/03 00:09

個人的には自分の経験から言えばAMPMの店長などは
激務そうな感じだった。

[527] 隠者 2008/10/04 02:33

最初にうどんや不老不死の妙薬、空手の元や軍事の基盤以前に
文字を伝えられる職業は僧を置いて他になかったことが一。
宗主国である中国に対抗する目的で中国からの元号などを
借用して唐式年号の採用において一。インドから宗教の元を
模倣していたものの記載や律法で中国式においてイギリス
海軍が世界を席巻する前に中国が世界に艦隊を派遣したことが
一つ。牛式牽引車を欧州が発明したのは中国に遅れること1000年以上。虫を使った無農薬栽培やアユールベーダ、針医療などの人体中枢の知識を西洋が理解できるのは、アユールベーダーと西洋医学を
学んだ医師がインドに居てくれることと、中国では東洋医学と西洋
薬学を学ぶことが義務つけられていること、これらが
宗教を通して派生した技術であると知ってなおかつ
西洋的なセンスや現代の衛生学を正しく介する役割が必要なこと。
現代の米軍のPJ等はこの概念だと思うけれどね。
医療と戦闘訓練を受けることを義務つけたのは印度の古代戦士が
初めなんだけれど、日本じゃ第一次世界大戦の装備で2世代先の
米軍を相手にしたように間に仲介する相手が坊さんしか居なかった
時代と違って、実務家と間に指令する人の役割があいまいなのと
その概念自体を基本から理解した人なんて少ないからね。
批判している人自体も他人の褌で柔術をだろ?それが嘘に聞こえるならあなたが現代の学問と呼ばれているものをすべて制覇して死に際に
同技術に追いついたら後で追贈されるよ、国崎先生の死後にね
もちろん批判するなら神話の輸入比率がハンバーグでひき肉
何パーセント対何パーセントで西洋の影響が強く影響したか
東洋神話が大きいかを加味してみることをお勧めするよ。
何かの龍は球体〔一人分〕を持っていたよ。第2次世界大戦後に
様々なものが米軍に接収されたけれど、
相手が米軍じゃなくて、単なる宗教技術のエッセンスを盗用する
盗作者だった場合は商法の管轄、知的所有権は20年は
特許で認められるんだったかな?それと日本では
住んでいる場所が所得で区切られてモデル化されているから
住んでいる場所によって管理区域が違うのはどこの西洋社会を真似たのかな?戦後の日本経済を併用して読むことをお勧めするよ。
当時の漢学や宗教は当時の特権階級しかえられなかった「学問」
なのでね。

[528] 隠者 2008/10/04 20:39

批判している井野さんも人の母親の遺影を持っていて
国崎先生のエッセンスの盗用と同時期に行われているのだから
批判されるんだよ。サンキョウのCMなど
同様にある種のキャラクターや日本の神話では
此花咲く姫を信仰する場合パテント使用料を
請求されるのだろうけれど、それは井野さん
と国崎先生が別人であること、今までお世話になっている
ことを考えれば、多少こちらが嫌な思いをしたことくらいは
我慢するよ。因みに戦前・中は個人の写真をおいたけれど
それと同時期に三井のCMが流れたのは妄想でしょ。

[529] 隠者 2008/10/04 20:56

もしそうならエッセンスによって出発点で俺は
背負わなくてよい業を背負って某は他人から
盗んだエッセンスを元に学歴と収入を得る。

[530] 田中 2008/10/10 21:56

仏教入門   http://sky.geocities.jp/sonnna_ahona4649/bkn.html

[531] 隠者 2008/10/10 22:57

仏教の元は、ヒンズー教とバラモン教じゃ?
仏教では都合の悪い部分は取捨されているんだけれどね。
釈迦というアートマンは・・・。

[532] T、T 2008/10/16 08:30

>仏教の元は、ヒンズー教とバラモン教じゃ?
>仏教では都合の悪い部分は取捨されているんだけれどね。
>釈迦というアートマンは・・・。

言葉の表れた処から見ると真実を見損ないます。
仏教とか、釈迦というアートマンは、自分という自分の根源を
知る事によって解決致します。
仏典、聖典を理解するには、先ず自己究明が必要であります。
それ以外から求めようとすれば、迷いの論理に陥り循環論の
迷路を永遠に彷徨う事になります。

[534] T、T 2008/10/16 12:16

>533]T、T 08/10/16 10:31 *N0wgejyqbHi*Bk.5qwp38h

誰ですか。
この上記の投稿は僕ではありませんが。

[535] ちょっと一言 2008/10/21 22:56

仏教の未来は
仏壇宗教
だから檀家宗教の
新興宗教が沢山殖える。
しまいには
金銀財宝が集まると勘違いを起こす。
私は仏教の教えが
ありもしないアニメに見える。
そんな妄想は祈らない方が身のためです。

それよりも
ひと、もの、たてものを
話しをしたり研究し祈り、拝んだほうがよい。

アニメ、人形などは
偶像崇拝ではないし
拝む必要も無い観るだけ。
人形仏像、仏壇も崇拝は
ほどほどにしておいたほうがいい。

一つの家の仏壇が一つの新興宗教に見えます。
大富豪はドラマやアニメだけの話しでいいんではないですか?
仏教には仏壇の統一と
仏壇の貧富の差が
ないようにしてもらいたい。
戒名も差別的なんで注意してもらいたい。

アニメやドラマや占いならいくら華美にやってもいいんですがね。

[536] T、T 2008/10/22 12:09

>仏教の未来は
>仏壇宗教
>だから檀家宗教の
>新興宗教が沢山殖える。

人には、それぞれに正、反、合、の判断がある限り、「沢山殖える。」と
言う事はあり得ない。

>私は仏教の教えが
>ありもしないアニメに見える。

「仏教の教えが」在りもしないものが見える、それも一種の妄想です。
また、架空な作り話と思って居る間も妄想です。
生かされて生きていると言う事が体験されると、仏教の教えも
生きて働き出します。

>そんな妄想は祈らない方が身のためです。

妄想と気がつかないから祈るものです。
それ故、信仰は難儀な問題なんです。

>それよりも
>ひと、もの、たてものを
>話しをしたり研究し祈り、拝んだほうがよい。

良いも、悪いも、それが一般的、世間的な在り方でしょう。
それだけで生きれるなら、祈りも、拝みも必要ないです。
世間的な在り方に疑問、矛盾に気づいて、或いは、大病を患い、仏教、禅、儒教、
キリスト教、その他宗教に解決を見出そうと言う事でしょ。

>拝む必要も無い観るだけ。
>人形仏像、仏壇も崇拝は
>ほどほどにしておいたほうがいい。

拝む人は、理屈で無く、感情的な問題が含んでおりますから、
「観るだけ。」「ほどほどにしておいたほうがいい。」は無意味な話です。
事実を知ると言う事が大事な事です。
しかし、この事実にも、本当の事実と嘘の事実がありますから、
何れに致しましても、仏教、禅、儒教、キリスト教、などは、
こうしてほしい、こうあってほしい、と言う問題ではなく、
自分で真実を究明努力する処に在ると思いますが。

>仏教には仏壇の統一と
>仏壇の貧富の差が
>ないようにしてもらいたい。
>戒名も差別的なんで注意してもらいたい。

これも無理な話です。
知恵の実を食べた、それ故に、エデンから追放されたと言うではありませんか。
真が在れば、必ず偽があり、世の中の在り様を変えようなんて不可能事です。
それ故に、各人が、何が真か、何が偽かを見抜く鍛錬が必要となる訳です。

[537] ちょっと一言 2008/10/22 19:28

T・Tさん
普通の解答ありがとう

仏像は高額で売買されますね。
仏壇も高額に思いますが
買い取りも
半額ぐらいになるんでしょうか?
神棚などは安いんで
売れないと思いますが。
天理教の講社安く
みんな同じ形をしてますよ。
仏像の象はインドの大歓喜天(ガネーシャ)ですよ。
ぞうは雄の性器が
1メートル50センチあるそうです。
だから歓喜=セックスに近いんですよ。

[538] T、T 2008/10/25 08:12

>「仏像は高額で売買されますね。
>仏壇も高額に思いますが
>買い取りも
>半額ぐらいになるんでしょうか?
>神棚などは安いんで
>売れないと思いますが。
>天理教の講社安く
>みんな同じ形をしてますよ。
>仏像の象はインドの大歓喜天(ガネーシャ)ですよ。
>ぞうは雄の性器が
>1メートル50センチあるそうです。
>だから歓喜=セックスに近いんですよ。」

この人は何を語ろうとして要るのかしら。
これは世間の話です。
この世間の話に振り回される処から、矛盾、悩みが生じます。
従って、禅仏教 は、、矛盾、悩みの解消ですから、この
世間の話には全く関わりがない事柄です。

[539] ちょっと一言 2008/10/25 17:19

座禅の結伽趺坐は
脚で×交差(交わる)
足で拝み祈りをしているから御利益があるんだなと
感じました。

天理教は座ったり立ったりして踊り祈りますが
仏教は脚と手で祈ってますね。
天理教は日常にあぐらはかきますが
結伽趺坐をかきますなんていうかも知れません。

[540] 2008/10/25 19:25

この世界を本当に知りたいなら「分析」をやめることです。
この世界は「感じる」世界に入ることであり、「分析」はその対岸に位置します。
「分析」する脳みそを眠らせなければ「感じる」脳みそが働きませんよ

この世界は理屈理論ではなく、「体験によって知る」ことなのです。
書物で学び、理窟を脳に叩き込む世界とはまったく逆の世界なのです。

といっても何のことやら分からないと思いますが・・・
このことを知りたいなら、黙って座って自分の心の奥底を見る(観る)ことです。

あなたの先生はあなたの心の奥底であなたによって眠りを覚ましてくれるのを待っているはずです。

[541] ちょっと一言 2008/10/25 23:47

体験はしてますんで

体験しすぎは
やばいんじゃないですか?
無理は理がないんで
死ぬまで体験して
死んだらあの世があるなんで都合のいい事言えませんし。
天理教のおやさまは
あしきがみえるからこの世にくどいと言われます。

[542] T、T 2008/10/26 08:10

>座禅の結伽趺坐は
>脚で×交差(交わる)
>足で拝み祈りをしているから御利益があるんだなと
>感じました。

禅仏教には、一切何も御利益はありません。

>天理教は座ったり立ったりして踊り祈りますが
>仏教は脚と手で祈ってますね。

「座ったり立ったりして踊り祈りますが」などして
天理教では、何を祈るのですか?
しかし、本物の仏教では何も祈るものも、求めるものも無い。

[543] ちょっと一言 2008/10/26 19:19

天理教の祈るのは
元は天理の
ぢばかんろだいです。
ヘキサゴン(六角)は
太陽の輝きなど
考え方によったら色んな意味にとらえられます。
この間ノーベル賞をとったクォークの6種類話しにも置き換えられるはずです。動くそのものに感謝する事も大切になります。
だから無(6)を感じる。
粒子×反粒子の無(む、ろく)の研究かも知れません。
無とゆう漢字では
舞うとゆう事だそうで天理ではてをどりをやります。
な=名=有=南=7
む=無し=無=北=6
をゆうんだとおもいます。研究の結果
右利きの場合
(7=南=日)(6=無=月)になります。
天理教のおやさまは実の箱を残しわかっていながら姿をお隠しになられました。あといろいろとありますが天理に行ってまなんで来た方がいいでしょう。

天理教でもこの事を知っているのは極一部の人達だと感じます。

[544] 東方朔 2008/10/27 15:28

部派仏教以外は加上された教えだといつここの連中は気づくんでしょうね。江戸時代に解明されてますよ。頭大丈夫ですか?
中村元の釈尊伝でも読んでから語るべきですね。

天理など所詮は天津神ではない穢れた神ですよ。
皇祖神への祈りを産土神を通して行うのが正しい神道ですがカルトを信じても救われませんよ。
金光教、御嶽教、天理教は播磨あたりの邪神が起こした宗教ですよ。

[545] T、T 2008/10/28 09:17

>あといろいろとありますが天理に行ってまなんで来た方がいいでしょう。

「まなんで」来る必要性は、今一度あなたが、体験されたと言う知識と、京都の禅寺に行き
禅匠の言われる事と比較分析し、吟味する必要が在るのではないでしょうか。
何故なら、実際の生活から余りにも、かけ離れて居られるからであります。
自分の気分に生きるのではなく、実際の日常生活を基準に従って生きなければいけません。

[546] ちょっと一言 2008/10/29 00:14

天理教は
山の仙人ではなく
里の仙人。

山では楽しい様に見えるが何が起こるか解らない。

女性は山に入ると襲われたんだろう。

だから山の上に城や寺や神社が多い。
まだたいらに暮らしているほうがまし。
修業でも男ばかりで
尼さんは売春婦、さんずいと尼で泥。
だから檀家宗教が殖えてしまう卍は逆卍だし。

みかぐらうたに
八つやまのなかへといりこんで
いしもたちきもみておいた。
九つこのききろうかあのいしと
おもへどかみのむねしだい
十どこのたびいちれつに
すみきりましたがむねのうち

[547] 東方朔 2008/10/29 15:28

仙とは「遷」から来た言葉ですよ。
頭は大丈夫ですか?
だから天理あたりを信じるとやられる。
仙人といってもたくさんの種類があり地仙や天仙などのように
山で霞を食らっていきているだけではないのですよ。
まあ、霞を食うというのは気を導引することですがね。

[548] ふふふ 2008/10/29 17:05

>>だから天理あたりを信じるとやられる

ふふふ・・どっちもどっちだね
変な宗派と強力なカルト

人のこと言えないよ

[549] ちょっと一言 2008/10/29 17:58

神道は道教、鬼道の色が強いようです。
皇族、仙人、天皇大帝、高級者、真人の表現は中国の道教思想から来ています。
仏教はインドの神様を交ぜています。
それを大乗仏教といいます。
今度はキリスト教を取り込もうとしていませんか?
天理教に置き換えると
天理教=小乗=小道
天理教学=中乗=中道
天理宗教学=大乗=大道
全ては天理を
大前提(小乗、小道)
中前提(中乗、中道)
小前提(大乗、大道)
だから天理(丶理)を
もとはじまりとします。
乗=仏教で
道=道教から来ています。

神道は神の道
天理教はおみち(御道)と
言います。

[550] ふふふ 2008/10/29 19:11

御道か毛物道か知らんが、どうでもいいや。
興味なし

[551] ちょっと一言 2008/10/29 23:39

佛教の
法華宗は普化宗です。
ハーレムAV普賢菩薩
男女差別の無いように。

普化宗は禅宗の一派です。残念。

[552] T、T 2008/10/30 08:24

何が、邪道かカルトかを簡単に見分ける方法は。

宗教が何々と名がついて、つまり、看板が掲げられ組織体(団体)に
なりますと、組織運営により何かと弊害が生じるものです。
弊害が生じると言う事は、本来在る処から離れると言う事になりす。
従って、宗教が組織、団体になりますと本来在るものとは、
別のものになるということです。

>仏教って俺が考えても間違ってるとしか思えない所が多すぎるんだが。

この事が組織体から生じた弊害の一部部分でもあると思います。
人間は組織的になりますと、どうしても組織をまもろうと間違った
方向に行くようです。

[553] 東方朔 2008/10/30 15:13

神仙道は神仙と師弟の関係
仏教(宗教)は仏の奴隷の関係ただこれだけですよ。

[554] T、T 2008/10/31 08:29

>仏教(宗教)は仏の奴隷の関係ただこれだけですよ。

この人が、表面的な事柄に囚われて真実を見損なっている人と言えるでしょう。
仏教、宗教の言う仏は、この世の中を成立させている処を意味しております。
仏教、宗教に到りますと、師弟関係も、奴隷になるようなもの、或いは、名づけるものは何一つもない。
それ故、強いて言えば、「空」と言うのです。
何れに致しましても、宗教関係は、組織化されるますと脱線いたします。

[555] 東方朔 2008/10/31 12:26

おかしいですね、仏教では師弟関係もないというのですか?
嘘でしょう。空とは詭弁ですね。

[556] T、T 2008/11/01 08:12

>仏教では師弟関係もないというのですか?

そうです。一般的に組織化された意味の師弟関係はありません。
どこまでも、天上天下唯我独尊です。
「祖に逢えば祖を殺す、仏に逢えば仏をも殺す」です。
そこには、帰依するものがないと言う事です。

>嘘でしょう。

「嘘でしょう」とか、いい加減な投稿をすれば、自分自身の内的な
領域に、知らず、知らずに歪みが生じる事を知って居りますから、
投稿には、注意を要して投稿しているつもりです。

>空とは詭弁ですね。

仏教、宗教の領域を、知的に解釈されますと「空とは詭弁ですね。」と
言う事になります。
仏教、宗教の領域を理解するには、理解からでなく、まず先に
体験(悟り、覚)が必要んです。
体験(悟り、覚)が抜けた 仏教、宗教は 仏教、宗教とは関係のない
全く別の話になりますから、注意を要します。。

[557] 波多利郎 2008/11/01 11:57

宗教概念の言い合いは非常に見苦しいって事が良く解るスレだ…(苦笑)

[558] はあ? 2008/11/01 19:42

神道と禅が仲が悪いのは已然から死っていた

神道は「神」がいる
禅は一切ない

妥協点等あろうはずがない
ワシは禅に軍配を上げる

[559] 波多利郎 2008/11/04 10:32

妥協点が無いなら「互いにスルーしあえば良いんじゃね?」って事。
第三者からみたら「どっちもどっち」で「見苦しい」だけ(苦笑)

[560] 東方朔 2008/11/05 10:10

禅は印度の達磨太子が中国へ伝えたものに道教の観想が融合したものが今の禅ですよ。
道教の観想の一部しか導入していない禅は完全ではありませんね。
禅僧で成仏したものはいませんからね。

[561] T、T 2008/11/05 12:33

>妥協点が無いなら「互いにスルーしあえば良いんじゃね?」って事。
>第三者からみたら「どっちもどっち」で「見苦しい」だけ(苦笑)

「第三者からみたら」からではなく、単に表面的な、知的、論理的立場(分別)から
見ると、確かに貴方の言われるようにりますね。

禅の立場(無分別の分別)からでは、全く判断が違ってきます。
従って「どっちもどっち」で「見苦しい」だけ(苦笑)」と言うような事には
ならないで、間違って居る場合には、その人自身の内部に罪としてして蓄積され、
それが精神的ダメージとなって必ず現れてきます。

アウグステイヌいわく「罪を犯した私に対しては、貴方は正しい報復をなさいました」
この「正しい報復」とは「「どっちもどっち」で「見苦しい」だけ(苦笑)」と言うよな
生易しい、問題ではなく、その人の内部崩壊を意味します。
しかし、この「内部崩壊を意味します。」と言う領域は、分別の立場から見る人には、
全く気づく事のない世界です。
それ故に、名を変えようが変えなくても、好き放題の投稿をされて居られる方が、
中には居られますが、投稿されて居られる人は、まぎれもなく、
その人自自身でありますから、、「好き放題」の精神は、内省と共に、
必ず自分自身に返ってくると言う事です。精神と言うものはそう言う働きをして居ります。
「自分自身に返ってくる」とは、自分自身が自分自身に報復されると言う事であります。
この事に関しては、余程の注意が必要であります。

[562] 波多利郎 2008/11/05 12:58

>>561

いや…だからさ、神道と仏教の信仰の基礎や教義など異なっているのは当たり前なのに「仏教が正しい」「神道が正しい」「キリスト教が正しい」「〜教は間違い」はあり得んでしょ。
つまり「自身の信仰を正当化したいが為の他信仰批判」は「自分自身の中にある信仰としてはどうよ?アンタらの信じている神仏もそのレベル?」ってなっちゃうワケ。
互いの信仰は「こうです」とだけの意見を出し合い、どうするば互いに理解しあえると言う議論なら良いが「〜は間違い、〜が正しい」と言う議論なら信仰の度を通り越した単なる批判の合戦にしか見えなくて「ちゃんちゃら可笑しい」「どっちもどっち」と言われるワケよ。
「相手が先に批判したから自分も」って、同じ土俵に上がってどうするのよ?って事。
まぁ、自分の読みが違っていちゃ口は出さんが、指摘通りならもう少し「自分自身の信仰心」と向き合った方が良いよ。って事。

[563] 東方朔 2008/11/05 15:24

T、Tのような仏教徒は理屈だけはこねるからなw
ところでT、Tは何宗かな?

[564] 東方朔 2008/11/05 16:00

仏教徒は無知で恐ろしいね。
富永仲基は漢学者でね、11歳から塾で講師をしていたほどの秀才だよ。彼は漢字はどの時代にどの意味で使われていたか分からなければならないとして、徹底して文献学を行った人物だよ。
僧侶の大蔵経の整理を手伝っている時、秀才富永仲基は漢学者の視点から漢字の使われ方を見て仏教は釈迦の教えが「我是如聞=私はこう聞きました」というきまり言葉のもと、大乗仏教の経典全てが偽造もしくは別の思想家により捏造されたものだと見破ったのだよ。
つまり大般若経を編集した連中あたりから、「我是如聞」といって釈迦が衆生の救済も願っていたという願望から、経典をでっちあげたバカ坊主が昔からいたってことだな。
書誌学、文献学、漢字学の現代でも匹敵する学問レベルで研究していて、現代の仏教学者でも反証できないでましてね。
大乗仏教は釈迦の教えではないんでね。
また富永は自分の説が誤っているならそれを付け加えて正してくれといっていたものさ。
彼は32歳で死ぬが思想界に残した足跡は大きいよ。
だから中村元の本でも読めといっているのだが、ここのバカ仏教徒は聞く耳もたん。
釈迦は所詮神仙道からみれば、たかが仙の一人だよ。
人は神の分霊であるからして、誰でも神仙(かみ)になれるのさ
つまり仙道では釈迦は仙になっただけ。
仙人になった道教の道士ならいくらでもいますからね。
釈迦の教えを守って成仏したものは少ないから劣った教えですよ。
釈迦の教えを守っても成仏できないのではないかという危機感から
大般若経を編集した連中は衆生救済を唱えた、そのためにそれを裏付ける経典が欲しかったそれで偽造した。それが大乗仏教誕生の正体だよ。

[565] kotaro 2008/11/05 23:41

>>[564]東方朔さんへ
>仙人になった道教の道士ならいくらでもいますからね。
>釈迦の教えを守って成仏したものは少ないから劣った教えですよ。
>釈迦の教えを守っても成仏できないのではないかという危機感から
>大般若経を編集した連中は衆生救済を唱えた、
>そのためにそれを裏付ける経典が欲しかったそれで偽造した。
>それが大乗仏教誕生の正体だよ。

要するに、大乗仏教は道教の教えに近いと言う事でしょうか。
大乗仏教は、釈迦の教えに比較して、
道教の教えのように成仏しやすいと言う事でしょうか。

[566] 東方朔 2008/11/06 08:53

大乗仏教は誰の思想か、捏造かもわからないしろものだという話で釈迦の説でもありえないという話です。
釈迦の教えは阿含経やパーリー語仏典にありますが、大乗仏教とは似てもにつきません。
大乗仏教は釈迦の教えでは成仏できないかもしれないと危機感をもった、大般若経編纂者のグループが釈迦のように衆生の救済もしたほうが成仏できるのではないかと、勝手に思い込んだ結果、その根拠となるお経を捏造したもので、なんの功徳もありませんね。そんなものを何1000年も拝んでる坊主は馬鹿だということですね。

禅などは達磨が伝えたものですが、道教の観想と融合して今の禅になりましたが不完全です。密教はインドの4世紀ごろにバラモン教の呪術が仏教にとりいれられ、中国に渡り道教と融合させて空海が作りだしました。実際空海は「抱朴子」を読んでいた形跡があります。道教と融合した大乗仏教や中国で偽造された経典はありますが、いずれも不完全ですね。

阿弥陀経や薬師経は釈迦以前にも如来がいただろうという思い込みから捏造された経典で南無阿弥陀仏と何べん唱えても、なんの功徳もありません。法華経にいたってはたんなるパンフレットですね。

仏教の方法で成仏した人物は釈迦だけです。
いかに仏教が救いがないか分かるというものです。

道教は八仙をはじめ、各時代に成仙した人物の話がでてきますよ。
kotaroさんも「本朝神仙記伝」という本を読んでみてください。
日本の仙人の話がたくさん出てきますよ。
救いは仏教だけではないのですよ。

[567] 東方朔 2008/11/06 09:22

そう言えばkotaroさんは阿含宗の方でしたよね。
老婆心からいいますが、阿含宗は辞めたほうがいいですよ。
真言宗醍醐派管長北野恵宝は神仙道照○秘流の継承者を勝手に僭称した人物です。また秘伝を神許を得ず出版物にした人物でもあります。
冥罰がはばかられますね。
神仙道の大家である紫龍○道人の「神仙道照○秘流」は
仏仙に近い神仙道です。
北野恵宝の弟子が桐山靖雄ですよ。阿含宗は真言宗醍醐派と神仙道を
足して割ったような不完全な宗派です。その邪悪さは桐山の弟子の「オウム真理教」の麻原彰晃の出現によって証明されます。

[568] 750Rider 2008/11/06 10:35

>>566 東方朔氏
お見事だね。
只、直弟子は伝承上は少なからず釈迦の方法で成仏(所謂解脱)している。
然し、仏教を絶やさないために成仏したと偽っている可能性は否定出来ない。
また、この手の宗教上の偽りは全宗教に存在すると言ってよい。

どの宗教も始祖以外は所謂「Change」であり、良くも悪くも完全継承は不可能に近い。

[569] T、T 2008/11/06 11:43

>いや…だからさ、神道と仏教の信仰の基礎や教義など異なっているのは当たり前なのに「仏教が正しい」
>「神道が正しい」「キリスト教が正しい」「〜教は間違い」はあり得んでしょ。

これは誤解です。この様な批判したことがない。
下記で述べている事でもお分かりかと思いますが。

368]T、T 08/07/30 12:05 YUkuNlV1j3
>禅だけが仏教でもないだろうし、

それはキリスト教でも哲学でも何でもかまいません。
それは、到る処は皆同じですから。

[424]T、T 08/08/15 08:57 JHMTnWcvdQ
仏教、禅、キリスト教にとらわれることなく、先ず、現実を注意深く見る事を切に願います。
それから、何が今、自分に必要かを見極める必要があるかと思います。

何故か、「到る処は皆同じですから。」と言うように日常生活上から見れば
同じ処の日常生活の営みの領域の事であるからであります。
ただ、形の無い、無名の処に、禅とか、神道とか、キリスト教とか、名、看板を掲げた事が
そもそもの間違いが(形の無いの処に区別したことが)生じた様に思います。

上記にて投稿しましたように、何れに致しましても、宗教関係は、組織化されますと脱線いたします。

>「自分自身の中にある信仰としてはどうよ

僕の信仰は、「おかげさまで、生かされている」と言う事が解ったと言う事です。

>互いの信仰は「こうです」とだけの意見を出し合い、どうするば互いに理解しあえると言う議論なら良いが
>「〜は間違い、〜が正しい」と言う議論なら信仰の度を通り越した単なる批判の合戦にしか見えなくて

これも信仰について誤解されて居られます。
宗教、つまり、信仰の領域は議論して理解されるという事はあり得ません。
貴方の言われる理解と言うものは、今まであったものに対して理解する事であって、その理解は過去のものに
おいて行われるものであって、それは知識の理解と言うものであります。
言葉にのらない、形の無い、姿の無い、無相の領域の宗教、つまり、信仰の領域は、理屈や知識の理解では無いのです。
従って、言語を介在にして解ると言う過程を取りません。

従いまして、ここへの投稿は、当初から僕としましては、議論が対象になって居りません。
この掲示板を見て居られる、僕の知人(2人)へのメツセージにもなって居ります。

[570] 波多利郎 2008/11/06 12:46

>>569

いや、だからね、相手がアナタの信仰を受け入れる(理解する)気が無いのに議論しても「不毛になるからスルーしなよ」って事。

後、東方朔さんにも同じ事が言えるんだよ。

アナタ達のそれぞれの信仰心は立派なんだから「そう言う信仰もあるんだ」と「理解しあう心は持とうぜ」って事。
その気が無いなら互いに「スルー」しなよ。

[571] 東方朔 2008/11/06 13:08

一貫して私は大乗仏教は劣った偽造された信じるに値しない宗教だということを、論じているだけですよ。
漢学や文献学を通じてね。不毛にはなりませんよ。
大乗仏教側が大乗仏教は捏造や偽造で無いと論証できればいいだけですよ。江戸時代の富永仲基の時代から反証されていませんから無理でしょうけどね。

[572] 波多利郎 2008/11/06 16:59

>>571

それ、単にアナタが信じているだけで言っているだけにしか過ぎないんです。
で、そう言う風な事を永遠に続けている事に対して「不毛なんじゃね?」と突っ込んでいるんです。
相手からしたらアナタの信仰が偽造されたモノと受け取られます。
そこの所を理解して「不毛では無い」と言ってるんですか?
アナタのしてる事は以前の彼(名を出さなくても心霊カテに来てたからわかるでしょう)と同じ事(自分の信仰マンセー)をしてますよ?
その辺りはアナタの信仰心としてどうなんですか?
って事です。
別にアナタが信じている事にで無く、現在のアナタの「姿勢」に対して突っ込んでいるだけです。
で、そう言う肯定者同士を見た懐疑、否定者が「だから肯定者ってのは信用するに値しないレベル」と、だけに見られる(言われる)ワケです。
まぁ、アナタ達がそれでも「構わないでくれ」と言うなら私はこれ以上の突っ込みはしません。
ただ、盲信さんにならないように注意して下さい。

[573] 東方朔 2008/11/06 17:40

誰と勘違いしているのか、勘違いも甚だしいですね私は朔ですよ。朔もしくは、東方朔ですよ。
>>572 富永仲基の「大乗非仏説」「加上論」でぐぐってみてください。
これを仏教徒の側に反証できるのかとつっこみを入れてるわけですよ。信じるに値しないとね。
仏教徒側は反証できずに黙りこくっているわけですよ。
肯定者も否定者もないでしょう?大乗仏教の経典の話をしているだけですからね。
それにここは宗教糧ですよ。個人や宗教という「設定」の中身も検証の対象になりますよ。

[574] 波多利郎 2008/11/06 18:25

>>573

勘違いしてません、アナタが誰であろうと「アナタ自身」に言ってるワケです。
で、アナタが提示してる書は「単なる信仰から生まれた書」でしかありません。
で、仏教徒が反証しないのは単に「そう言う信仰」と言うのを理解しているからですよ。
何度も言いますがアナタの信仰にでは無く「他仰に対する姿勢」に私は突っ込んでいるんです。
心霊カテで阿修羅ちゃんが色々な人達に突っ込まれてた理由の一つをアナタはしているワケですよ。
で、私の言ってる事を全く理解されないようなので後は勝手にやって下さい。
アナタには阿修羅ちゃんの事を悪く言う資格が無いのは確かなようなので…。

[575] 歳雅 2008/11/06 18:53

我々は個人の信仰には踏み込みませんよ。阿修羅みたいに見苦しいからね。
だいたい我々がコタローじいちゃんと絡むわけないだろ!賢者やおれらはコタローと敵対してたがね。

つーかザビの過去ログ見ろ!四年位前のな東方朔もしらんのか?

朔は神仙道のキチガイだよ。

でも富永仲基は仏教学界の定説だぞあれ信仰言ったら学問は全部信仰になる。
頼む濡れ衣着せる前にググッてくれ!三下が!

[576] 歳雅 2008/11/06 19:09

パタ公、学説と信仰の違いを定義してくれや。
濡れ衣着せられた以上ただではすまさんよ。

[577] 波多利郎 2008/11/06 19:49

>>575-576

学説だろうが「大乗仏教」と言う「信仰」として語ってるから「単なる信仰」って言っただけですが、それが何か?

で、東方朔さんは「大乗仏教は間違い」と断言してるから「信仰を信仰で否定してどうするの」って言ってるワケですが、それが何か?。
で、T.Tさんには「相手はアナタの言ってる事を理解する気は無いからスルーしたら」って言ってるだけですが、それが何か?
で、そのやり取りが永遠と続いているから「不毛」と言っただけですが、それが何か?

[578] 歳雅 2008/11/06 19:53

おい!
答えな!パタ公。
てめーが呼ぶから出てきてやったんだぜ、答えろよ!

俺は元くとるーだよ!
だまってリーダーを引退させてくれや!荒れるから身を引かれたんだあのかたはよ!

東方朔ごときと一緒にするな。ボゲが!

[579] 歳雅 2008/11/06 20:03

リーダーはずっと悪菌だよダボが!
来るわけねーだろ!
あほらし。

朔は水戸に潰された屑だよ偽仙人としてな!ある一少年の先生だよ!

過去ログ読め馬鹿が、じゃーな、コタローか朔と遊んでもらえ。定義できないてめえじゃそいつらと同じレベル

[580] 歳雅 2008/11/06 20:07

おい逃げるなよ、おれは学説と信仰の定義した上でてめーが発言してるか確認してんだよ。
他人と誤認したレスして詫びもねーのか!

定義しろ馬鹿が

[581] 波多利郎 2008/11/06 20:08

>>578

あぁ、くとるーさんか…
で、私が両氏に突っ込んだ意味をまだ理解してないんですか?
別にアナタと東方朔さんを一緒にはしてませんが…

学説だろうが「大乗仏教とはこうだ」と言う「信仰」で書かれている書なら「信仰として、信じている事をそのまま本に書いただけでしかありません。」って事を言ってるだけですがそれが何か?

もう少し両氏に突っ込んだ意味を考えてから絡んで下さい。

[582] 歳雅 2008/11/06 20:12

おい屑!
仏教という信仰は学問の対象になるのもしらねーのか?おめーマジ馬鹿だよ!
宗教学は学問じゃなく信仰か馬鹿が!

学説と信仰では雲泥の差だよ。
お前みたいな屑は対した学歴ねーな

[583] 波多利郎 2008/11/06 20:19

いい加減にしろや
勝手に「東方朔さんと勘違いされた」と思い込んで絡んで来たと思ったら、勝手に暴走かい。
東方朔さんは最近まで心霊カテの霊界スレで阿修羅ちゃんとやりあってるからここでも突っ込んだんだよ。

おけけ氏を始めとするアンタらの「盲信さん以外の相手の信仰に考慮する」と言う姿勢を評価してたが「東方朔さんと勘違いされた」と勝手な思い込みで喧嘩売ってんのはお前だろうが。

[584] 歳雅 2008/11/06 20:22

お前馬鹿か?
仏教学界でも定説だし漢字学、文献学的に今でも通用する学術手法で研究された説だぞ?世界標準だぞ。
富永の学説は神道儒学仏教を完全に否定している。
すこし江戸時代の学問の高いレベルを勉強してこい

[585] 歳雅 2008/11/06 20:30

早く能書きはいいからとっとと定義しろやボゲ!
てめー逃げるなよ。
俺らは他人の信仰には介入しないが学問にはこだわるんだよ。

ほら信仰と学説を定義しろその上で大乗非仏説が信仰だと論証しろ!

馬鹿が

[586] 波多利郎 2008/11/06 20:36

>>584

アホか?
そんなの単なる信仰上の学説でしか無いわ。
誰が正しいと言う基準を決めるの?
単に第三者か見たら「学説だからアンタらの大乗仏教は間違い」ってのは「単なる信仰設定と同じ」って事を言ってるだけなんだよ。
それとも「釈迦に直接聞いた」って根拠があるのかい?

[587] 歳雅 2008/11/06 20:50

愚かだなお前は、呆れた。まあいい、煽って悪かったな釈迦の直説はアーガマというパーリー語経典にわずかながらある。中村元元東大教授の釈尊伝を読むことだな。それに加えられた説が大乗だと朔が言ってる通りなんだよ。
学問的に筋は通っているからお前につっこんだ

[588] 歳雅 2008/11/06 20:57

内心に突っ込まないと学問として検証することは矛盾しない。日本の江戸時代の儒学者が「大学」と「中庸」は後世の偽作と漢字学で見破っている。これを内心の侵害だからやるなといえるか?
言えないんだよ。内心の自由がゆるされるのは、リーダーいわく文学だけだよ。

[589] 波多利郎 2008/11/06 21:02

>>587

あのね、その学説を「間違い」とは言って無いのよ。
単に「それを根拠に相手の大乗仏教が間違い」と言うから比喩の意味で東方朔さんに突っ込んだワケ。
で、何を信じようがその人にしたら「事実」と言う「信仰」になるワケよ。
感じ方や学び方は異なるのに「〜は間違い」って言うのは「ちょっとアレだぞ」って事を二人に言ったワケよ。
多分、私が東方朔さんに阿修羅ちゃんと東方朔さんのやり合いの事を書いたのをアナタは「自分が東方朔さんと間違われて言われた」と言うのもあったと思うけど、私は基本的に「T.T氏も東方朔さんも信じている道道は異なるだろうがせめて仲良くしなよ」って事だったのよ。

[590] 歳雅 2008/11/06 21:03

信仰に事実を突き付けるのは有りだ!

信仰側が事実を侵害するのは科学的ではないからダメ他人を侵害するしな。

朔は仏教に事実を突き付けてるだけ、まあ嫌がらせの手段としてるからグレーだがな。

[591] 歳雅 2008/11/06 21:14

信仰とは仲良くなれる程甘いもんじゃないよ。悪いがね。宗教団体が武装解除したのは十六世紀と日本が1番早いが、宗教間に平和などないたまたま武装してないし国家がしっかりしてるだけ。

宗教は危険なんだがな。

世界観がちがえば争いになる。そんなやつらはほっとけ

学問の手順が正しいのなら信仰とは違う。信仰なら手段なんぞいらない。だから信仰はおかすなとなる
お前もいい勝負だよとなる。
そこが分からなければ意味がない。

[592] 歳雅 2008/11/06 21:19

信仰に手順の正しい結論を突き付けても問題はない。キリスト教に地動説をつきつけるのは信仰だからダメではないでしょって。

学問と信仰をきちんと分けて考えられないと阿修羅や朔とそんなに変わらない。

[593] 波多利郎 2008/11/06 21:21

>>590

まぁ、東方朔さんが何を言っても相手は信じている事を言ってるだけですから、「事実だ」として突き付けても相手は「信仰の侵害」と受け取るワケです。

で、グレーとわかっているなら止めておいた方が無難かと。
互いに「それは違う」と主張してれば話は平行線のままにしかならないから「互いにスルーしあいなよ」って事なので…(苦笑)

懐疑、否定者が肯定者に突っ込む角度はまた違ってきますからね。

[594] 歳雅 2008/11/06 21:24

おもしろいから馬鹿どおしやらせとけ。
宗教糧くらい自由に宗教論争をおおっぴらにできるとこはないんだから

[595] 歳雅 2008/11/06 21:34

いや朔が仏教徒に手順の正しい説をぶつけ。答えられるかと聞いたのは問題ではない。

それが嫌がらせの戦術としてだから問題なだけ。

道義的な問題以外はない。
懐疑、否定のみが肯定派をツッコミを入れるだけではない肯定派も肯定派にツッコミを入れる。おれらや片葛みたいに賢者にツッコミ入れる奴もいる。

偏るなよ

[596] 波多利郎 2008/11/06 21:42

>>592

懐疑、否定者さん達がそう言う突っ込みをする場合「相手が信じている信仰自体」は否定しません。
例えば「地動説は違うよ」と突っ込んでも、相手が「それでも地動説を信じているんだ」と言う信仰自体は否定しません。
「じゃあ、そう信じていれば」って事になります。
懐疑、否定者が肯定者と白熱した議論をするのはそれらの意味を通り越して「地動説を信じているから事実なんだ」って言う事に対してです。
つまり「大乗仏教と言う教えを信じる」とは第三者にしたら信仰の部類に入ります。
「大乗仏教を信じている」「小乗仏教を信じている」など。その信じている事を証明する為に色々と学ぶ事に異論はありません。
ただ、学説自体はその人達が学んで理論つけたモノですが、実際に釈迦の教えは釈迦自身にしかわからないモノであり時代の流れの中で色々な解釈をされて大乗、小乗などに分かれたワケです。
なので「釈迦に直接聞いて確かめたのか?」って疑問が生まれるワケです。
不謹慎な発言になりますが、まさに「死人に口無し」とはこう言う事かと…。

[597] 波多利郎 2008/11/06 21:43

>>595

えぇ、後は静観しますよ。

[598] kotaro 2008/11/06 22:13

>>[567]東方朔さんへ

東方朔さんのお話、合点がいく所あります。
桐山靖雄管長猊下は、仙道の本著されています。
ですが、その事と成仏法は、また別なのではないでしょうか。

仏教によってではなく、桐山靖雄管長猊下が、
仙道によって悟りを開かれた、とするなら驚きです。

これまで表向きには、真正仏舎利(お釈迦さまの御聖骨)
を生ける釈尊として尊崇し、
その下でシャカの成仏法「七科三十七道品」
を実践する事で、成仏出来るとなっています。

[599] 波多利郎 2008/11/06 22:54

>>596

訂正前
>例えば「地動説」は違うよと突っ込んでも「それでも地動説を信じているんだ」
>地動説を信じているから事実なんだ

訂正後
例えば「天動説」は違うよと突っ込んでも「それでも天動説を信じているんだ」
>天動説を信じているから事実なんだ

失敬(苦笑)

そして肯定者と懐疑、否定者の突っ込み方(見方)の違いは「自身の信仰を客観的にみているか?」って事になります。

[600] 東方朔 2008/11/07 10:45

kotaroさん桐山氏が仙道の本を記しているのは不思議ではありませんよ。彼の師は真言宗醍醐派の管長北野恵宝です。
北野は真言宗でもかなり異端な人物でUFO
と交信しただのという本も書いています。
北野恵宝は實川泰○(紫龍○道人)の両部系の神仙道「照○秘流」の53代目を僭称した人物ですよ。罪深くも北野はそれをさも自分の
著書のように装い、照○秘流そっくりの本まで発表した。
その弟子が桐山ですから、桐山が仙道を知っていても不思議ではないですよ。

仙道では外丹法や内丹法、導引法、禹歩、周天法、観想などで気を
練り陽神をつくりその中に自分の魂を鎮魂して、神仙界に至る道です。
当然、輪廻からも外れるので解脱みたいなものですがね。

空海も丹を服用していたという文献がありますが、仙道の影響を受けていましたからね。

桐山が成仏したかしないかはどうでもいいのですが、仙道は修しているでしょうね。略伝でしょうが。

[601] 東方朔 2008/11/07 12:00

http://hw001.gate01.com/k-hayasi/chinhon.html
kotaroさん桐山氏の師匠の北野恵宝の著作です。

[602] T、T 2008/11/07 12:09

>私は基本的に「T.T氏も東方朔さんも信じている道道は
>異なるだろうがせめて仲良くしなよ」って事だったのよ。

論争、喧嘩 している訳ではなく、それこそ静観してみて居れば
騒々しくならなかったのですがね。
また宗教の領域の問題は「仲良くしなよ」と言う問題でもないと思いますが。
解る者は解る、解らない者には解らない、異なるものは異なるままで、
禅仏教とか神道とかキリスト教その他の教えも、それでよろしいではありませんか。

>例えば「天動説」は違うよと突っ込んでも「それでも天動説を信じているんだ」
>天動説を信じているから事実なんだ

本当は事実は一つですが、本当の事実と嘘の事実の二つがある。
そこで多くの人は、嘘の事実を本当の事実と思いこみ
事実として捉えいる処が在ると言う事ですね。
そこで南泉禅師いわく「世の人は、この目前の花を見ている事、夢の如く」になると
言う事です。別の言葉で言えば「花を見て花を見ていない」と言う事になります。
ここに理屈では無い難儀な問題が含んでおるものです。

>「自身の信仰を客観的にみているか?」って事になります。

、この客観的に見ると言う意味のものが、在るのかと言う問題ですね。
この客観的とは、それを客観的に見ているものが主観ですね。
主観が客観を認識すると言う事は、主観が自己以外の或るもの(客観的事実)を
認識するのではなく、自己を認識する事であります。
信仰とは、自分を自分の中に見出す自己の統一体であります。

例えば、僕がG君を指導している過程に於いて、すべて否定して行ったのであります。
それでG君が憤慨し、誰が正しい、正しくないと判断できるのかと激しく反論され、
その判断をするのは僕ではない、G君自身が判断するのですと答えたのであります。
何年か後には、この事がよく解り、今では笑い話の種であります。
客観的に見る「もの」があれば誰でも何年もかからず解るかと思います。
しかし、禅仏教、或いは宗教の領域は、「もの」でも「心」でもない
主観でも客観でもない主体であります。
従って、信仰、禅仏教一切は自己自身の事です。
他から取り入れるものは無いと言う事です。初めから具わり、或るものです。
それ故に、お釈迦様に教えられたとか、誰誰に教えられたと言う問題ではないのであります。
それで、禅では何も教えない、教えるものが無いとも言います。
もし何らかの教えがあったとしても、それは各人の心から出てくるものですと。
「もし何らかの教えがあったとしても」とは、ただ方向を示すだけであると言う意味。
従って、他から教えられたり、与えられたりする事が出来ないものであります。
何故かと言いますと、これは自分の事(禅仏教)ですから、自分でなければでき無いと言う事であります。
これで分かって頂けたでしょうか。

[603] 歳雅 2008/11/07 18:20

あのな。
TTもパタやんも勘違いしてる。
事実は一つしかないが真実は無数にある。真実が内心であり、主観だが、事実は一つしかない。

パタやんと意見が違うのはそこな。
事実に真実が意見したら叩かれる。

事実で真実を検証はできる。

[604] kotaro 2008/11/07 22:18

>>[601]東方朔さんへ
>桐山氏の師匠の北野恵宝の著作です。

確か、桐山靖雄管長猊下が著された仙道に関する御本には、
台湾に仙道の本家があると記述されていたと記憶しています。
どうして、日本に桐山靖雄管長猊下の仙道のルーツがあるのでしょう。
オリジナルは、台湾ではないのでしょうか。

[605] 波多利郎 2008/11/07 22:54

>>602

丁寧なレスをくれたので。
>それこそ静観してみて居れば

そこは私の性分なので(苦笑)

>>603

T、Tさんにも当てはまるレスになりますが

「事実」「真実」とありますが東方朔さんが提示した書は第三者(懐疑、否定者)からしたら「大乗仏教」と言う「信仰」を題材にした学説になります。
つまりは「信仰の延長線上」としてかかれた書になるかと。
また、その書の内容を信じていたら「信仰」になります。
で、懐疑、否定者からしたら「信仰自体に事実、真実は無いが個人で信じる部分には事実、真実が出てくる」と言う見方になります。
つまり「どこまで行っても信仰」と見られるワケですよ。
肯定者と懐疑、否定者の違いはここにあります。
信仰の対象は神仏に限りません。
アルゼンチンにはマラドーナを信仰の対象にしてますからね(苦笑)

私は一応、肯定者ですが懐疑、否定者の言い分といか肯定者をどう見てるか理解しているつもりなのでT、Tさんと東方朔さんの話しに「懐疑、否定者の気持ち」になって「互いにスルーしたら」と口を出してしまったワケです。

信仰を客観的に見ると言うのは「自分が言ってる事は信じているだけの信仰だ」と、自覚する事を意味してましす。(これはT、Tさん宛て)

まぁ、色々な見解、見方があるって事で…
後は静観してるので話しを続けて下さい。

[606] 歳雅 2008/11/07 23:43

パタやんの言いたいことはわかるのよ。
事実も信仰になるってことでそれを客観視できるだろってこと。

でも事実は信仰により事実になるわけではない。科学的手法で事実は確認される
真実は科学ではない。つまり客観視のメスが入ってないから内心。

そこは分けて考えるのがおいら、だから事実と真実は別次元だというわけ。

まあ考えの違いはそこんとこ。

[607] 歳雅 2008/11/07 23:57

TT氏、他の宗教同士仲良くする必要がないには激しく同意。掲示板の宗教糧でならおおっぴらに喧嘩するのもあり。

客観と主観ではなく主体という説はユングと同じ結論なんで同意。密教の阿字観や魔術にも同じ理がある。ただ内なる神(自分)は神でも神とは異なる。海の水をコップにくんだとしてその海水を海と言うかね?
自力宗の限界はここ。
自分では自分を導く限界と神信仰の有効性はここ

[608] T、T 2008/11/08 08:26

>私は一応、肯定者ですが懐疑、否定者の言い分といか肯定者をどう見てるか理解しているつもりなので
>T、Tさんと東方朔さんの話しに「懐疑、否定者の気持ち」になって「互いにスルーしたら」と
>口を出してしまったワケです。

最初から、このように素直に投稿されればよろしかったですね。
「懐疑、否定者」は、迷いから生じる、つまり、自覚がない事が原因であると。
迷いが解消致しますと、それらは一切が立ち消えになるからであります。
そこから見ますと、人間が生きて行くには肯定であるが、しかし、そこには否定が無くてはいけない。
従って、真実(事実)に生きると言う立場からは「「懐疑、否定者の気持ち」になって」と言うよりも、それは「違う」
それは「そうだ」と言うより外ない。
雲門いわく「禅には絶対の自由がある。それは、時には否定し、時には肯定できるからだ。」と言っています。
これは肯定と否定の同時、二面を持っていると言う事ですね。肯定が否定であり、否定が肯定であると言う立場です。

或る僧,問う「それはどのように否定しますか」
雲門,答う「冬が来れば春が来る」

[609] T、T 2008/11/08 08:48

>TT氏、他の宗教同士仲良くする必要がないには激しく同意。

仲良くするも、しないも、真実に到れば事実は一つでありましょ。。(ほほ笑む)

>掲示板の宗教糧でならおおっぴらに喧嘩するのもあり。

いや喧嘩は,勝っても負けても、精神の内部崩壊(自己喪失の原因にも)を
生じますから、良くないと思いますが。

[610] 歳雅 2008/11/08 09:59

あんたあぶないよTT氏本物に至れば一つってそれを検証する術はない。
本物とだれが判断するわけ釈迦が正しいというのも異教徒から見れば疑問だしさあんたは危険だよ。

喧嘩という表現が悪かったが論争ならなんぼでもやってくれ。内部崩壊するやつは所詮それまで。

[611] 波多利郎 2008/11/08 13:10

>>608

>>605 の書き方が悪かったかな?

「懐疑、否定者の気持ち」は二人の間に入った私の事です。

つまり、懐疑、否定者はT、Tさんと東方朔さんのやりとりを「どっちでも良いんじゃね?」と、言う視点で見るんですよ。
心霊カテでの肯定者同士の議論の仕方と言うか相手の信仰に対する批判または否定の仕方を見てると私が言った「懐疑、否定者の気持ち」がわかります。
また、客観的になると言うのは「自分の主張が単なる信仰、主観を言ってるにしか過ぎない」と言う事を自覚する意味でもあるんです。
だから、懐疑、否定者が肯定者に「それって信じてるだけですよね?」って質問するのですよ。

[612] T、T 2008/11/08 16:59

あんたあぶないよTT氏本物に至れば一つってそれを検証する術はない。

的を得た、ご忠告ありがとう御座います。
実は誰が事実を事実と判断できるのかと、以前は悩んだものです。
「検証する術はない」と言う事ですが、「大疑」(この疑いは学問的な疑いではない)が解消
された処で解ります。自己が自己を検証致します。
別の言葉で言えば、普通は事実で無いものを事実としてとらえております。
その事に気づけば「大疑」は解消されると言う事です。

>本物とだれが判断するわけ

そうですね、そで判断者が必要になってくる訳ですね。
従って、「釈迦様が言ったから正しい」と言う事ではなく、自己が究明(自証)されたから、
「釈迦様の言う事は正しかった。」と言う処を抜けてきます。
その「抜けてきた」処の立場からは、釈迦様が書いたからでなく、他の人が書いたものでも正しいものは
正しいと言えます。要は誰が書いていても、誰彼関係なく正しいものは正しいと言う事です。

それは普通の判断とは違います。
それは、日常生活、その他、人事全般の問題に対しての判断基準でもあります。
それが「事実は一つ」という「一の働き」の処からの判断です。
貴方の言われる「客観と主観ではなく主体という説はユングと同じ結論なんで同意。」と言う
そこから、一切の言葉が出てくるという主体の「場処」からの判断ですから、
これ程ハッキリした判断はありません。

>釈迦が正しいというのも異教徒から見れば疑問だしさあんたは危険だよ。

「釈迦が正しいというのも異教徒から見れば疑問」この疑問のある間は、お釈迦様の
言葉は理解できない。
何故なら、疑問は「そのもの自体」を二つ分けて見る処に生じます
二つに分けた、その処からは、お釈迦様の「言葉でない、言葉は」理解できません。
つまり、論理的分析や知的解決を試みている限りには理解できないと言う事です。
大事な事は、この疑問を疑問のままにしておくのではなく、自ら疑問を解決する処に
人生を生きる意味があります。

難解さの原因は自己の迷いから生じておりますから、この自己の迷いに気がつき
迷いを解消すれば一切が解決致します。
従って、自分の体験からの事ですから、危険と言うよりも、解れば簡単明瞭です。
ここで注意を要する事は、「自分の体験」は自己中心的な自分の体験ではなく、
自他不二に蘇った自分の立場を意味します。

[613] T、T 2008/11/09 08:07

>だから、懐疑、否定者が肯定者に「それって信じてるだけですよね?」って質問するのですよ。

当初の投稿とは随分と違いますね。
懐疑、否定者の立場では、肯定者の立場は解りません。
何故なら、一切が疑い(信ずることができない)と否定で何処までも自己の枠から出られない状態でしょ。
それで、質問の件については。
肯定者には、相対的肯定者と絶対的肯定者との二種に分けられるかと思います。
物事を信ずると言う立場が相対的肯定者の立場で、それは誰誰が言っているいるから信じる、正しい、或いは、
神を信じる、仏を信じる、と言う立場の人で、これは、まだ迷いの自己で本物ではありません。
絶対的肯定者の立場は、信ずると言う立場で無く、むしろ、信ずると言うことから脱却されて、
誰彼関係なく正しいから正しいと言える立場の人で、これが迷いの自己から脱却された一真実の自己です。
お釈迦様なら「天上天下唯我独尊」臨済禅師なら「一無位の真人」
と言う絶対的肯定者を指している処と言えると思います。

[614] 波多利郎 2008/11/09 11:27

>>613

T、Tさんは懐疑、否定者の事を良くわかって無いのでは?
肯定者が言う事に対して根拠が無い場合は否定しますが、そう事に対して「信じてます」と言う信仰自体は否定しないんですよ。
で、懐疑、否定者が肯定者同士が「キリスト教が正しい」いや「仏教が正しい」いや「神道が正しい」と言い合ってると「そんなのどっちでも良いんじゃね?」と見られるワケです。

「懐疑、否定者が肯定者の信じてると言う信仰心を理解出来ない」と言うT、Tさんの認識は間違ってます。

多分、懐疑、否定者の立場になった事が無いのでは?

[615] 名持たぬ太郎兵衛 2008/11/09 18:46

宇宙の果てまで行きそう・・・

こういうのを「囚われ」と言う

[616] kotaro 2008/11/09 23:30

>>[614]波多利郎さんへ

現代科学は、我思う故に我あり、疑う事から始まった。
T、Tさんも禅宗が葬式を出す事に疑いを抱いておられる。

その事と、各自が異なる様式で信仰する事、
あるいは、修行を実践する事は別ではないだろうか。

「各々の信仰形式とか、しきたりを疑いもなく信じていいのか」
と言う問題提起は、一宗教の優位性の話ではないと思う。

もし、T、Tさんが、禅宗を他宗と比較し、
禅宗の優位性を主張されているとするなら、それは誤解と思う。
全ての宗教に入信する事は困難なのだから、
「信じる宗教を疑いつつ受け入れる事」
を異なる宗教で論じあう事は誤解を生みやすい。
だがしかし、それをしないでは事は進まない。

[617] 東方朔 2008/11/10 08:50

kotaroさん、台湾に仙道の本部があるかどうかは別として、
中国大陸は文化大革命で道教や仏教は大きな打撃を受けたのですよ。
台湾はそのような悲劇がなかっただけですよ。
桐山が学んだのは神仙道です。中国仙道ではありません。
紫龍仙道人という神仙道の道士が残した、照●秘流という流派を
師匠の北野恵宝が盗み桐山がそこから学んだのが真相です。
神仙道は宮地神仙道などが有名です。
神仙=神になり、神集岳神界に至る道ですよ。
霊胎凝結法秘伝などの口伝により神仙になる器を作ります。
宮地水位は肉体のまま神界に出入りしていましたよ。
中国仙道を知りたければ高藤総一郎氏の本を読むことですね。

[618] T、T 2008/11/10 08:51

>もし、T、Tさんが、禅宗を他宗と比較し、
>禅宗の優位性を主張されているとするなら、それは誤解と思う。

貴方は、まだ、そんな事を言って居られますか。
貴方には、困ったもんだ。
下記の僕の投稿を確り見て下さい。

[569]T、T 08/11/06 11:43 18v15ErY/v
>いや…だからさ、神道と仏教の信仰の基礎や教義など異なっているのは当たり前なのに「仏教が正しい」
>「神道が正しい」「キリスト教が正しい」「〜教は間違い」はあり得んでしょ。

これは誤解です。この様な宗派を批判したことがない。
下記で述べている事でもお分かりかと思いますが。

368]T、T 08/07/30 12:05 YUkuNlV1j3
それはキリスト教でも哲学でも何でもかまいません。
それは、到る処は皆同じですから。

[424]T、T 08/08/15 08:57 JHMTnWcvdQ
仏教、禅、キリスト教にとらわれることなく、先ず、現実を注意深く見る事を切に願います。
それから、何が今、自分に必要かを見極める必要があるかと思います。

>全ての宗教に入信する事は困難なのだから、

「全ての宗教に入信」は不可能です。
何故なら、宗教は全くの個人の事です。各人ひとり、ひとりに「ある」ものです。

>「信じる宗教を疑いつつ受け入れる事」

「信じているものを疑いつつ」これも不可能な事です。
信じているものを疑う事は、信じているのではなく
それは最初から信じていないのです。

>異なる宗教で論じあう事は誤解を生みやすい。

誤解があるから、意思の疎通をはかる為に、論じあうのではありませんか?

僕は、現在では信仰や教義から離れて居りますから、
それらはあっても、無くても差し支えないと思って居る立場であります。
従いまして、それらについては肯定も否定もする立場を
とっておりません。

[619] 波多利郎 2008/11/10 09:28

>>618 は私宛てかな?

それなら一応、レス。

それは、アナタと当方朔さんの禅宗(大乗仏教の事)のやりとりについての例えだから気にせんでくれ。
他者からみたら「そう見えるよ」と言う指摘。
だから「相手が頑なに理解しない気ならスルーしなよ」の意味だよ。
アナタが他宗や他宗教を否定して無いのはわかる。
しかし、相手の否定に乗ってレスしては駄目。
相手の思うツボ。
アナタが何度も説明して理解を示さない気ならスルーすべきだよ。
って事。

後、コタローさんは結構レスの意図を勝手に変換してしまう(それが原因で話しが脱線する)からあまりレスしない方が良いかも…。

[620] 東方朔 2008/11/10 10:10

「求聞持聡明法秘伝 究極の超能力開発システム」桐山靖雄/著 平河出版社
これが仙道の話が出てくる本だとおもいますが、この秘伝は
普賢菩薩の信仰ですからね。
オウムの元信者で元阿含宗信者林郁夫の証言からも阿含宗でクンダリーニヨガを取り入れていることは自明ですね。
桐山は仙道、密教、修験、ヨガなんでもとりいれてますよ。
桐山は自分は成仏できるか分からないと、
発言していたようですが。成仏されたとは知りませんでしたね。

[621] 歳雅 2008/11/10 12:37

自他不二の境地とは心理学用語では集合的無意識のこと。魔術や仙道ではこの領域で作業するのでそれは当たり前のこと、魔術では初歩です。この心の領域に古代の神も妖精もいるし、他人の意識とも繋がっている。
でもその認識はあくまで初歩です。

[622] 東方朔 2008/11/10 16:45

kotaroさん桐山が成仏もしくは成仙したというのであれば、釈迦も仙人たちもそうでしたが肉体をもって神仙界に入れるはずですよ。
幽体離脱のように魂や霊体でいくのでもなく、肉体のまま神仙界に行けるということですよ。
桐山氏はそこまでのレベルに達しているとは思えませんよ。

[623] 東方朔 2008/11/10 16:57

kotaroさん、釈迦の成仏法で成仏できるのであれば、
桐山氏が仙道やヨガや鎮魂帰神法を取り入れるわけがありませんよ。
仏道だけで行うはずです。
桐山氏はあきらかに、北野恵宝の流れをくんでいます。
自他ともに認めていますよ。
桐山は神仙道照○秘流を学んでいます。
なんどもいいますが、これは両部系の神仙道です。
桐山氏は早い段階で仏教による修行だけでは限界を感じていたはずです。
そうでなければ、ヨガや仙道を取り入れるわけがありません。
桐山の弟子麻原のオウム真理教にいたっては、
メスカリンやLSDまで利用した。
釈迦は仙の一人なので、彼の言は聞くべきところがあります。
釈迦は超能力の類は無視しろと言っていますよ。
それにとらわれると邪道に陥りますよ。

[624] kotaro 2008/11/10 21:04

>>[617]東方朔さんへ

>kotaroさん、台湾に仙道の本部があるかどうかは別として、
>中国大陸は文化大革命で道教や仏教は大きな打撃を受けたのですよ。

これは素直に同意します。
それでなくても、共産主義下で宗教が否定されていた訳ですから。
ですが、漢民族が北方民族に支配されていた頃、
古来漢民族の文化は、いかなる運命にあったのか。

>台湾はそのような悲劇がなかっただけですよ。
>桐山が学んだのは神仙道です。中国仙道ではありません。

さて本題ですが、中国の仙道と神仙道の関係やいかに?

空海が密教を中国で学んだ事は明らかです。
そうした場合、密教を日本古来の教えとは言いません。
神仙道も、切欠は、中国で修行僧が学び、
神仏混合の過程で、日本古来の神と仏が融合して、
神仙道になった。
そう言う事でしょうか。
それとも、縄文時代以前から日本に咲く花のように、
日本古来の神仙道なのでしょうか。

管長猊下の著作品を検索していましたら、
仙道関係は著されていなくて、
高橋聡一郎著『秘法!超能力仙道入門』
はありました。
ですが、管長猊下の御本には、お腹をのの字に摩るとか、
その際には、両手を激しくすり合わせて、熱くなった手を当てる。
とか、書かれていたので、どう見ても仙道と思うのですが・・。

[625] エンジン 2008/11/10 22:37

まままっまあまままああああ

[626] 東方朔 2008/11/11 11:27

空海は密教を中国の恵果から授けられます。
この密教はインドのバラモン教の呪術が仏教に流れ込み
人々の呪術による現世利益にも叶うように発展したものです。
ところが、4世紀にインドは仏教が異国の侵略で駆逐され、チベットなどに残るに至る状況になったわけですよ。
それが中国に伝わった。中国で密教は道教と融合した、
空海自身「抱朴子」を読んでましたからね。

神仙道とは神を神仙ととらえる思想です。
日本古来からあった神道の神を神仙とみることで、宮地水位が
思想の中核を形作りあげたものです。
宮地水位仙は謫仙であり、下生して、神仙道を人間界に伝えられました。
神仙道=道教=カバラ=神道です。

kotaroさん、それは錬気の一種ですね。仙道のものですよ。

[627] 西片 2008/11/11 16:14

まあねええええ

[628] kotaro 2008/11/11 20:50

>>[626]東方朔さんへ
>それが中国に伝わった。中国で密教は道教と融合した、
>空海自身「抱朴子」を読んでましたからね。
>神仙道とは神を神仙ととらえる思想です。
>日本古来からあった神道の神を神仙とみることで、宮地水位が
>思想の中核を形作りあげたものです。
>宮地水位仙は謫仙であり、下生して、神仙道を人間界に伝えられました。
>神仙道=道教=カバラ=神道です。
>kotaroさん、それは錬気の一種ですね。仙道のものですよ。

話を単純にしましょう。
管長猊下は、仙道を仙道として受け入れられたのか、
それとも道教と融合した密教を紹介されたのか。

もし、そうだとすれば、神仙道と事改め仰らなくても、
密教を紹介した場合も、道教を紹介した場合も、
あるいは仙道、神仙道ででも、
実践した人に同じ結果を齎(もたら)すのではないでしょうか。
そうではなく、神仙道にしかない何かが御座いますか?

[629] 東方朔 2008/11/12 09:04

kotaroさん葛洪の「抱朴子」を読んだことがありますか、
抱朴子では入山儀礼として「臨兵闘者皆陣列前行」と九字を唱えます。
九字はほんらい道教のものです。

密教にも九字があります。「臨兵闘者階陣列在前」と切ります。
これは「抱朴子」の道教の九字を仏教側が呪術としてグレード
が違うのでそのまま使えず、「在前」とグレードを落として使用しています。

神仙道の呪法は神仙道の方法でしか機能しませんね。
仏教にくみこまれた神仙道の呪法では、グレードを落とさずには
おれないのです。

仙道と融合した密教を行ったのと、仙道を仙道として行ったのでは
質がまったく違いますね。術には術を守護する神がいます。
仏教に導入するには、そこが障害になるわけですよ。

[630] kotaro 2008/11/12 21:04

>>[629]東方朔さんへ

私の叔父は、陸大卒で戦後天照大御神がその身に直接降臨し、
「唯理進化論の実証 人類進化の最終段階」を著した一宗教家です。
叔父に長い間薫陶を受けたので、
日本古来の神道親しみはあるのですが、

仏教には、インドの神々が登場するし、
日本でも古来の神々と仏が融合しているし、
多分道教も中国の神々と関係あるのでしょう。

一言で言えば、神々の働きを加味しない仏道修行では、
お釈迦様の境地にも到達しない、そう言う事でしょうか。

[631] 創価( ̄(●●) ̄)よろしく♪♪ 2008/11/12 21:13

自民党への傾斜を強めた経団連の奥田は、「企業人は政治に主体的に関与しなくてはならない」とさえ説き、奥田会長の後継の御手洗冨士夫キヤノン社長も奥田路線を踏襲するという。

しかしキヤノンが外資企業で政治献金を禁止されている企業であり、自民党が政治資金規正法を改正してこの縛りをとくことには触れていない。

アメリカ型の市場経済至上主義に走った結果、財界総理の座を外資系企業に渡した政治的意味への警鐘もない。

 長年の自民党支持団体、日本医師会や日本看護連盟には会員の減少と集票力の低下に半ばあいそを尽かし、首相の靖国参拝などを求める神道政治連盟や日本遺族会、軍事恩給連盟なども組織力の低下から自民党への影響力は薄れているという。

 こうした既成の自民党の支持団体に取って代わったのが創価学会であることは、いまや公然たる事実である。
自民、公明両党の自公政権というより、むしろ「自公」党と呼ぶほうが相応しいような癒着ぶりが小泉政権になってから顕著だ。公称827方世帯の会員を有し、日本最大といわれる宗教団体になった「創価学会」はいまや町内会、自治会、PTA、老人会などの活動、特にその役員を引き受けることで地域社会に浸透している。

[632] 長野浩太 2008/11/12 21:46

現雄略天皇陛下(天皇陛下)が今の立場から退いてくれると保障するなら正しい教えに元ずいて、教えられるけれど、
白土広基君の分霊、使っている能力は鬼を使用。名前はショーンコネリーも名前はSKだけれど顔は俺で、名前だけ盗まれた
過去は四条金五が高い立場について統治の安定を
優先するから、教えもまげて伝わるんだよね。
後林君 マークにして40

[633] 東方朔 2008/11/13 09:36

>仏教には、インドの神々が登場するし、
>日本でも古来の神々と仏が融合しているし、
>多分道教も中国の神々と関係あるのでしょう。

印度の神は天部の神です。天部の神は六道輪廻をさまよってる天道の住人です。いつかは力を失い餓鬼、地獄などに輪廻します。
印度の神は解脱した存在ではありません。
日本の神や道教の神のように、神仙となり輪廻からも自由になった存在ではありません。ですから、印度の神と呼ばれるものは格が低いのです。だから、九字の件でも説明しましたが、道教の神が守護する呪
術を仏教側ではそのまま使えませんでした。

>一言で言えば、神々の働きを加味しない仏道修行では、
>お釈迦様の境地にも到達しない、そう言う事でしょうか。

釈迦の仏道修行は神々の働きも何も必要がありません。
中道を守り、執着しない、無常を思うことで解脱されたもので、
釈迦は生前死後の世界の話は一切していません。
ただ、釈迦の以後釈迦の方法で仏教徒が成仏できなかった、焦りから
あれもこれもと行法を取り入れたかった。
また布教のため民衆の呪術的欲求にこたえるために、バラモン教まで取り入れた。中国大陸では道教を取り入れ、日本で神道と融合した。
そこで大般若経編纂グループのような、経典を偽造してまで教義を変えあれこれ修行できるようにしたというのが大乗仏教の本質ですね
それが大乗仏教という巨大な妄想を作り上げたのです。

大乗仏教とは危険な妄想ですね。

[634] 東方朔 2008/11/13 11:22

>私の叔父は、陸大卒で戦後天照大御神がその身に直接降臨し、

ちょっと待ってくださいよ、天照大御神が人間に直接降臨することはありえませんよ。
別天津神はもちろん、高天原の主宰神天照大御神を体に降ろすなど
人間には不可能ですよ。
邪霊は古事記の神の名前を好んで語ります。
それをサニワしないといけませんが、
あなたの御身内はまんまと邪霊にたぶらかされたようです。
失礼ですが、kotaroさんの御身内は自己審神ができていなかったようですね。鎮魂帰神法では自感法三十二法がありますが、
邪霊や魔にやられることはよくありますよ。
妄信は危険ですね。

[635] 東方朔 2008/11/13 11:52

「自感法といふのは自分ひとりで神霊に感合すること。
 他感法といふのは審神者(さには)が居って
 神主(かんぬし=霊媒)が居って
 更に正式には別に琴師(ことし)といふものが居って
 六絃の琴を奏でて神主に神霊の降下を願ひ、
 審神者がお伺ひをする方法であるが、
 本田先生は琴師は略せられ審神者が石笛(いはぶえ)だけを
 使用する方法を興された。(中略)
 次に神感法であるが、(中略)
 神界に於て特に必要でもあつた時に突如として憑られるもので、
 殆ど人を択ばれざるが如くである。
 神感は原則として突発的で、一時的である。
 故に帰神の研究修行としての問題としては
 自感法と他感法だけで此の神感は謂はば例外である。」

元来、「考え」は「神迎え(かみむかへ)」の「み」を略したものである。

「帰神に重要なるは審神者とす、其人に非ざれば即ち能はざる者也、
 其注意周到にして胆力あり学識ありて
 理非を明らかにするに速かなるを要す。

一、過去現在未来を伺ふ可し。
二、真神なるや偽神なるやを弁ぜずば有る可らず。
三、神の上中下の品位を知らずば有る可らず。
四、神の功業を知らずば有る可らず。
五、荒魂和魂幸魂奇魂を知らずば有る可らず。
六、天神地祇の分別無かる可らず。
七、神に三等有るを知らずば有る可らず。
八、神に公憑私憑あるを知らずば有る可らず。

と示して居られる。
実際に於て帰神に就ては神主よりも審神者に重きをおかねばならぬ(中略)
若しも審神者に一点の迷信的素質があつたら
決して正しい神霊は降下されるものではない。(中略)
他感法に於ける帰神の場合、
神霊は神主よりも審神者を対者(あいて)とせらるるのである(中略)
公憑とは神界を代表して憑かれる場合、
私憑とは左(そ)うでなくして憑かれる場合を言ふのである。」

帰神の修行は正しい審神者について、行うべきである。

「本田先生が四十年間の研究苦心で開かれたのは
 神憑りに厳粛なる審神(さには)の法を発明された事が最も重大な点」

本田霊学の神髄はただ「審神」にある。

[636] kotaro 2008/11/13 21:14

>>[633]東方朔さんへ
>印度の神は天部の神です。
>天部の神は六道輪廻をさまよってる天道の住人です。
>いつかは力を失い餓鬼、地獄などに輪廻します。
>印度の神は解脱した存在ではありません。
>日本の神や道教の神のように、神仙となり輪廻からも
>自由になった存在ではありません。
>ですから、印度の神と呼ばれるものは格が低いのです。
>だから、九字の件でも説明しましたが、
>道教の神が守護する呪術を仏教側ではそのまま使えませんでした。

話をインド、中国、日本の神々の検証に移しますと、
インドの神はヒンズー教で生きています。

すると、ヒンズー教の神は低級ですか?
インド政府から抗議が来る予感がします。

だいたい、有限な存在の人間の分際で、
全知全能の神々同士の優劣を論じるなんて、
おこがましいにも程がある。
いい加減せいと神々から抗議が来るように思います。

インドから仏教を学んだ中国、日本の神々
がインドの神々より遥かに優れている。

はいはい、それを言い出だせば、
アメリカに敗れたので、キリストの神に敵いません。
と、なるのでしょうか。

どの地域にも人と神がいる。
その神に優劣はない。
そう解釈しないと中東戦争に見るように、
世界の混乱は収まらない。

[637] kotaro 2008/11/14 01:17


東方朔さんへ
[634]で
>天照大御神が人間に直接降臨することはありえませんよ。
>別天津神はもちろん、高天原の主宰神天照大御神
>を体に降ろすなど人間には不可能ですよ。
と仰られています。

と言う事は、
[635]の正しい神霊の神は、天照大御神では
ないと言う事で宜しいでしょうか。

だとすれば、伊勢神宮を信仰するものにとり、
伊勢神宮の御心を知る事は出来ないという事になり、
何とも心寂しい話となります。

そうではなく、降臨には、神主や審神者が必要という事であれば、
叔父さんは宗教家ですから、多くの取り巻がいて、
そうした役割を担う信者もいたと思われます。

いずれにせよ、安易に
>邪霊は古事記の神の名前を好んで語ります。
>それをサニワしないといけませんが、
>あなたの御身内はまんまと邪霊にたぶらかされたようです。

と仰るのは、差し控えらては如何でしょう。
誰に向かって物を言われているのです?
叔父さんは経歴確かな人です。
私と比べる事など到底出来ません。

ご自分が信じられている事には、

>「本田先生が四十年間の研究苦心で開かれたのは
> 神憑りに厳粛なる審神(さには)の法を
>発明された事が最も重大な点」
>本田霊学の神髄はただ「審神」にある。

とされ、他人の神に礼を尽くされない。
聞いていて真に不愉快の極みです。

[638] カビビ 2008/11/14 08:21

>>636 >だいたい、有限な存在の人間の分際で、
全知全能の神々同士の優劣を論じるなんて、
おこがましいにも程がある。
いい加減せいと神々から抗議が来るように思います。

宗教脳乙 笑
神なんておらんのだよ、全て人間が脳内で創り出したものコレ常識ね。
いるというならいるという事実を証明してもらいたいね。
まあ、無理だが

[639] T、T 2008/11/14 11:54

「東方朔さん」と言う人は、結局のところ、お釈迦様が言った、誰誰が言ったから信じると
言う迷いの人でありましょう。
「神、仏はどこで見いだせるか」と言う問題で、自分の体験が無くて他の人の体験に頼った
姿であります。
この人は完全に神の魔法に憑かれて、自らを欺き、他をも欺くものです。
神や仏という宗教領域の事柄は、つまり、「どこで見出されるか」と言う事は、
自らの事柄として自らが直下に体験されるものであります。
外部から、とりいれられたものは、つまり、体験なき神は、魔法か、悪魔か死神の部類でありましょう。
そんな神仏は、我々の日常生活には何の役にも立ちません。
従って、そんな神なら無用であり、却って、危険な神です。

[640] T、T 2008/11/15 08:26

>いい加減せいと神々から抗議が来るように思います。

神はそのような事は言わない。これも人間が考えた類の神である。

アウグステヌス「罪を犯した私に対しては正しい報復をなさいました。、、、、
、、、、、それ自身がそれ自身にとって罰となる様に定めたもうた。
そして事実、そのようになっています。」

>神なんておらんのだよ、全て人間が脳内で創り出したものコレ常識ね。

その通りです。
人間の考えられた神はいません。

>いるというならいるという事実を証明してもらいたいね。

「神はどこで見出せるか」と言う問題は[639]で述べていますように、
自己と神との関係は、エックハルト「わたしが神を見る眼は、神がわたしを見たまう
眼と同じだ。」と言う事です。
その処は、「無」になる事によって、その処に神の領域が看られます。
事実の証明は、宗教の問題でありますから、何処までも自分の事でありますから、
他の人が代って証明する事は不可能であります。
自分の事は、自分で証明するしかありません。
神は存在なき存在として「ある」ものであります。

[641] T、T 2008/11/15 10:50

エックハルトは更に言う。
飛び出し、突破によって、余と神とは同一性と感じた。
そして、神をも離れた。
その時、余は自ら、かってあった処のものである。
ここが禅の言う処の「無」でありましょう。
そこには、神も仏も、自己もなく、ただ、あらゆるものを動かしている
「ハタラキ」のみであります。
そこが一真実の自己の領域であり、所謂「場所」であります。

[642] 隠者 2008/11/15 17:12

競技人口がどうであれ、誰かを何とかという色眼鏡で
見なければいいよ。物理学にしても
格闘技にしても、軍人にしても、宗教家にしても
競技人口は腐るほど要るからね。
勝手に漫画とか、称号で脚色してるだけ。

[643] kotaro 2008/11/16 06:29

>>[640]T、Tさんへ
>神はそのような事は言わない。
>これも人間が考えた類の神である。
>アウグステヌス「罪を犯した私に対しては正しい報復をなさいました。、、、、
>、、、、、それ自身がそれ自身にとって罰となる様に定めたもうた。
>そして事実、そのようになっています。」

弥勒菩薩と地蔵菩薩どちらが真の仏様か。
確かに弥勒菩薩は理知的に見える。

アウグステヌスが言う神こそ真の神。
そうでしょうか。
人が必要とする形に感応して、お姿を表されている。
そう思います。

じゃ、アウグステヌスの神を選ぶ、
アウグステヌスの神に帰依する。
そういう人も現れるでしょう。

ですが、実際は違う。
アウグステヌスが、キリスト教徒であれば、
モーゼの十戒に従い、日々イエスの神に帰依していたはずであり、
その帰依する行為を通じて、
神はアウグステヌスを認めていたはずです。
思う事と、信仰として実際に行われている行為は違う。

モーゼと契約した神は、妬み深い神と自ら述べている。
それを人間には、契約した神以外を崇めるなと表現している。
人間は他の神を礼拝しなければ、神との約束を破っていないと思う。

あくまで人間の為すべき課題として、モーゼの十戒を捉えるか、
それとも、そこに神のお姿を垣間見るか。
その違いでしょう。

[644] T、T 2008/11/16 08:18

>弥勒菩薩と地蔵菩薩どちらが真の仏様か。

仏様は比較できません。
従って、真か真でないかと言う、そのような仏様は、仏様を解釈する人の見誤りから生じる
仏様でしょう。

>確かに弥勒菩薩は理知的に見える。

表現された文字のみに振り回されますと、その様に貴方は「感応」するのでしょうが。
何れに致しましたも、そんな仏様は仏壇の仏様か、お寺の仏像かの部類でしょう。
仏様は、今尚、絶対の現在を、もくもくと生きて働いておられます。

>人が必要とする形に感応して、お姿を表されている。
>そう思います。

人が必要とする神は、それは神ではありません。

>じゃ、アウグステヌスの神を選ぶ、、、、、、、、、、、

>、、、、、、、、、、それとも、そこに神のお姿を垣間見るか。

この神は、貴方が恣意的に考えた神になっており、貴方の知的構築に
よって作られた神です。
神について完全に、神を見誤っております。

何故かと言いますと、神を外においておられます。
そんな神は、魔法の神か、死神に属する神であると思います。

貴方は神について語る前に、貴方自身の究明が必要です。
何故なら、見誤りの原因が、貴方自身が迷いの自己になって居られるからで、そこから
看る事柄は、一切が善悪共に悪になるからであります。
従って、自分と言うものが究明されれば、神、仏の意味が自から解ります。

[645] kotaro 2008/11/17 03:08

>>[644]T、Tさんへ
>人が必要とする神は、それは神ではありません。

T、Tさんは[640]で、
アウグステヌス「罪を犯した私に対しては正しい報復をなさいました。、、、、
、、、、、それ自身がそれ自身にとって罰となる様に定めたもうた。
そして事実、そのようになっています。」
と述べられています。

因果応報、神は直接人にお姿を御見せにならなくとも、
法則として存在されていると言う事でしょうか。

決して、そのような事はありません。
生きていると言う事は、
神にも感情があり、喜んだり怒ったりする。

聖書に記載されていても、
それは字づらを追っただけと仰られます。
困った事です。

>この神は、貴方が恣意的に考えた神になっており、
>貴方の知的構築によって作られた神です。

モーゼの十戒は、キリスト教徒なら誰でも知っています。
読んでみてください。

その神にキリスト教徒は、日々語りかけているのです。
仏教徒のT、Tさんには無縁でしょう。
信仰とは、そう言うものでしょう。
説得諦めます。
この件終了と致します。

[646] 東方朔 2008/11/17 09:25

>インドから仏教を学んだ中国、日本の神々
>がインドの神々より遥かに優れている。

印度の神から仏教を学んだ?日本の神はインドの神のように輪廻する存在ではありませんよ。そんなインドの低級な神から仏教などという劣った教えを受けるわけがありませんね。
弘法大師空海ですら道教を学んでいるように、仏教が道教を学んだことならありますがね。

kotaroさん残念ですが、森○義は法華教でしたよね。
日本の神を仏の下で三十番神と見下す宗教観のある法華主義ですよ。
とてもきちんとサニワできたとは思えませんね。
低級な霊に取り憑かれて妄言を吐いたのでしょう。
日蓮の生きた時代は末法ではありませんし、法華経が正しいという
五時八教は今では否定されてますよ。
あなたの叔父はカルト教祖だっただけですよ。
何度もいいますが、天照大御神は人間如きには降臨しません。
伊勢神宮で真心を尽くし祈念して神が聞き届けるか聞き届けないか
の違いで神が選ぶことですので伊勢神宮の御説はまるで意味がなしませんね。
kotaroさんの叔父さんはカルトにそまっていたのです。
その罪科は子孫のあなたにも下るでしょうね。
御気の毒に。

T、T
>体験なき神は、魔法か、悪魔か死神の部類でありましょう。

残念ですが僕は道教の道士です。密教も学んでいましたが、
体験ならあきるほどしてますよ。あなたは何か呪術ができるんでしょうね?
できる呪術を書いていただけませんか?

隠者
ああ、あの隠秘学を少し齧った程度でタロットのやり方を披露して
私に一喝された愚か者ですね。覚えてますよ。

[647] シナへ、プッ・・ 2008/11/17 09:35

>>646

一種の増長慢・・・
禅でいうところの魔境に落ちている人。

かわいそうに・・・
ま、カルトなんぞに関心もつからだよ

[648] 東方朔 2008/11/17 10:24

禅の魔境
愚かですね、あらゆる妄想、妄念、神の声などは禅では無視ですよ。
仙道も同じなんですがね。無知もはなはだしい。
禅は道教の止観のパクリですよ。
頭は大丈夫ですか?

[649] T、T 2008/11/17 17:18

>法則として存在されていると言う事でしょうか。

神や仏によって、我々一切の万物が存在していると言う事です。

>神にも感情があり、喜んだり怒ったりする。

そのような、形、姿の無い、領域が神の領域です。

>聖書に記載されていても、
>それは字づらを追っただけと仰られます。

経典も聖書も記載されている文字の表現はそのもでは無いと言う事で
す。この文字を単に記憶したり、理解しているだけでは学問と言う事です。信仰は学問では無いと言う事です。
経典も聖書も信仰を指す指で、指の処には信仰と言うものはない。
困った事です。

>>この神は、貴方が恣意的に考えた神になっており、
>>貴方の知的構築によって作られた神です。

文字のみから理解、主張する人は、その人の知的構築に
作られたものになる言う意味です。本の文字通りに主張されてもです。
何故か、文字によって理解された限りにおいては、理解
そのもが、その人による理解でありますからその人の
理解と言う道具が知的構築になって居ると言う事であります。

>モーゼの十戒は、キリスト教徒なら誰でも知っています。
>読んでみてください。

読むだけの事なら誰でも知っている。
その知ると言う事には、自分の知的な構築によって理解されている事には多くの人は知らない。
そこで、そこに書いてある文字を知って、その知ることから自己主張が始まります。ここに多くの問題点が生じて論争が始まります。
しかし、体験なき言葉では、いたずらに徒労のみに終わるのみです。

そこに書いてある文字を知るのでは無く、文字の出てくる根源処を考える時に、信仰がある。つまり、書いた人の心理状態と同一性に
符合した時に信仰が生まれる。文字の上の事柄、知的分析をいくら重ねても、信仰を学ぶ上には何の役にもならない。

>その神にキリスト教徒は、日々語りかけているのです。
>仏教徒のT、Tさんには無縁でしょう。
>信仰とは、そう言うものでしょう。

日々神に語りかけれるような神は、それは魔法の神でしょう。
また、信仰が国境を越えて異なる信仰なら、それは信仰と言う名を借りた迷いの別の信仰でしょう。真実なる信仰は、
仏教もキリスト教も同じ処に辿るはずのものと思われます。

>説得諦めます。

浅はかな人は、言葉で説得できると思っておりますが、言葉での説得は不可能です。
何故かと言いますと、言葉の届かない領域であるからであります。
従って、言葉よりも体験が必要な処であります。

>この件終了と致します。

そうです、それが一番です。

[650] kotaro 2008/11/17 20:28

>>[646]東方朔さんへ
>弘法大師空海ですら道教を学んでいるように、
>仏教が道教を学んだことならありますがね。

道教と仙学
http://nun.nu/www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/DandX/DandX.htm

仏教がインドから伝わったのに、
どうして、仏教が中国の道教から学べるのです。
逆ではありませんか。
それか、中国への日本からの留学生が、
インドの仏教を学ぶついでに、道教も学んだ。
それはあり得るでしょう。
でも、お釈迦様が道教を学ぶ事はないと思います。

お釈迦様がインドに生まれた以上、
初期の仏教で神といえば、
インドの神を指すと思います、優劣は別として。
>何度もいいますが、
>天照大御神は人間如きには降臨しません。

お説が正しいとして、分からないのでお尋ねしますが、
神仙道の神がインドの神に優れているとして、
天照大御神でないとするなら、その神は具体的には?
その神は、インドの神よりも優れていると言う事でしょうか。

それと、
>何度もいいますが、天照大御神は人間如きには降臨しません。

という考えは固定した考えではないでしょうか。
イエスが磔になった理由は、
そうした固定観念が邪魔したと思います。
神は全知全能ですから出来ない事はない。
イエスは磔になった時、「全知全能の神から
助けて貰ったら」と、嘲られました。
正にそんな感じ。

[651] T、T 2008/11/18 08:23

>残念ですが僕は道教の道士です。密教も学んでいましたが、
>体験ならあきるほどしてますよ。あなたは何か呪術ができるんでしょうね?
>できる呪術を書いていただけませんか?

>体験ならあきるほどしてますよ。

「僕は道教の道士です。密教も学んでいましたが、」そのような人には、多くの体験を
必要とされるのですか。
僕の言う体験は、一度でよいのです。
如何してかといいますと、迷いの自己から、もともと在った処の自己に「気づく」体験ですから
一度でよろしいのですよ。禅では、「本来の面目」に遭遇すると言います。
天動説が地動説と言う事に一度気が付くと、もうその 地動説に気が付く体験は必要が要らないと同じように
一度でよろしいのです。
この一度の体験が人生にとって一番大事な事柄であります。
従って、この体験なくしては、如何なる教義をも語る事は、真理からの脱線を意味し不可能事、つまり、
信仰上の教えではなくなると言う事を意味します。

>あなたは何か呪術ができるんでしょうね?
>できる呪術を書いていただけませんか?

のろいの術、まじないの術、共に興味ありません。
何故か、日常生活を営む上で必要ないです。

[652] シナへ、プッ・・ 2008/11/18 08:37

>>651

>あなたは何か呪術ができるんでしょうね?

こいつ、ただのアホですわ

[653] シナへ、プッ・・ 2008/11/18 08:39

648←こいつのことでした。

↑、このアホのことでした。T、T さんのことではありませんので
(´∀`)

[654] 東方朔 2008/11/18 09:43

kotaroさん密教の成立はインドですが、釈迦の教えを忠実に守った部派仏教(小乗仏教)はミャンマーなどに伝わりましたが(南伝仏教)、
大乗仏教は各地の呪術をとりこみ成立してますよ。
インドの4世紀の歴史を見てください。インドは当時仏教国だった
仏教がヒンドゥー教の呪術と融合して密教が生まれ、インドがイスラム勢力に侵攻されると、インドからチベットに密教はのがれた。
チベットから中国に伝わり、道教の呪術を加えて密教は発展した。
弘法大師は道教を学んでいたし、「三教指帰」では道教の話がでてきます。

大乗仏教は加上(加えたもの)だというのが富永仲基の説でしたが、
密教ではそれが顕著で伝播した地域の呪術を吸収し綜合化しながら
日本まで伝わった。
たとえば、九字は道教のものですが、密教にも九字があります。
このようなことになるわけです。

インドの神は「天道」の存在です。天道の神はいずれ力を失い
そののち輪廻して場合により、地獄や修羅、餓鬼、畜生、人間界に
生まれ変わります。神道の神は神仙といって輪廻にとらわれる神ではなく宇宙の運行をも司っています。輪廻もですがね
また人間は天津神から魂を、国津神から魄を受け継ぎ、天御中主神から一霊を授けられ生まれてきます。つまり神は親であり仏も神から
一霊を賜った存在なので、如来といえども神の下なのです。

kotaroさん天照大御神は日界を司る神仙で、人間に直接憑ることはありえません。古神道、道教、カバラでは少なくてもそうです。

まず、氏神や産土神を通して天照大御神に祈念してください、
叔父様の過ちを詫びれば。
あなたに罪科が及ぶことはないかもしれません。

T、T
>迷いの自己から、もともと在った処の自己に「気づく」体験ですから

仙道ではそんなものは必要ありませんよ。
気を練って不死の肉体を作り、神仙の世界に出入りし輪廻から外れるそれだけですよ。迷いも気づきも必要ありませんね。人格もですがね
「迷い」だの「気づき」だのを克服することに「執着」するから仏教徒は成仏できないのですよ。

>>653 相手してほしいようだが、他であそんでな。

[655] kotaro 2008/11/18 21:11

>>[654]東方朔さんへ
>天照大御神は日界を司る神仙で、
>人間に直接憑ることはありえません。
>古神道、道教、カバラでは少なくてもそうです。
>まず、氏神や産土神を通して天照大御神に祈念してください、
>叔父様の過ちを詫びれば。
>あなたに罪科が及ぶことはないかもしれません。

ここで反論しないと、東方朔さんは、
多分、ご自分のお考えが正しいと思われるでしょう。
それもいいし、その方が楽です。

叔父さんも太平洋戦争に日本が
負けなければ、同じ考えだったでしょう。
では、負けた事でどこがどう違ったか。

アメリカでは、係長、課長、部長と言う肩書きはなく、
平社員からいきなり社長です。
中間管理職はありません。

多神教と一神教、その違いは、
いきなり天照大御神が平社員(人間)に接するか、
それとも、氏神や産土神を通してから接するか。

[656] T、T 2008/11/19 08:06

>気を練って不死の肉体を作り、神仙の世界に出入りし輪廻から外れるそれだけですよ。

禅では、この「気を練って不死の肉体を作り」と言う人為的操作が在る限り、輪廻から逃れないと
説きます。
しかも「神仙の世界」と名づけらるような世界が在るとすれば、それも輪廻の元であると説く。

>迷いも気づきも必要ありませんね。人格もですがね

それでは生きる意味がないではありませんか。
仙道は、生きる意味を何処に求められるのですかね。

>「迷い」だの「気づき」だのを克服することに「執着」するから仏教徒は成仏できないのですよ。

仙道思想の教えが間違っているのか、貴方の考えが間違っているのか、いずれに致しましても
間違っております。
「「執着」するから仏教徒は成仏できないのですよ。」ではなく、禅では「執着」するから
成仏できるのであります。「執着」がなければ成仏もありません。
従って、執着そのままが成仏です。

下記の投稿には更に驚きであります。

>まず、氏神や産土神を通して天照大御神に祈念してください、
>叔父様の過ちを詫びれば。
>あなたに罪科が及ぶことはないかもしれません。

これじゃ輪廻であり、成仏していないではありませんか。
何故か、
氏神や産土神を通して天照大御神とそれに対して祈念する者と二者対立が在る処に
輪廻が成立しております。輪廻が成立している処では成仏はあり得ません。
禅では、その神、仏と名づく一切をも殺してしまうのであります。
そこで始めて輪廻が解消されるのであります。
従いまして、
貴方の言われる「氏神や産土神を通して天照大御神」と言う祈念しなければ
ならない神が向こう側に(彼岸)在る限り、貴方の言われる「輪廻から外れるそれだけですよ。」と
言う事は不可能で嘘になる。

[657] 東方朔 2008/11/19 09:21

>禅では、この「気を練って不死の肉体を作り」と言う人為的操作が>在る限り、輪廻から逃れないと説きます。

禅ではですから神仙道はあてはまりませんね。

>しかも「神仙の世界」と名づけらるような世界が在るとすれば、そ
>れも輪廻の元であると説く。

神仙道を御存じないようですね。妄信とは恐ろしい。
神仙の世界とは神集岳霊界であり、神界の中府ですね。
宇宙の運行を司り、輪廻の外にあることは神仙道では常識です。

>それでは生きる意味がないではありませんか。
>仙道は、生きる意味を何処に求められるのですかね。

>仙道では成仙するのみですね。それ以外はどうでもいいことですよ。
>仏教徒に釈迦以外で成仏した方がいますかね。いませんね。
>仙道ではたくさんいますよ。それがこの違いですよ。
>「「執着」するから仏教徒は成仏できないのですよ。」ではなく、>禅では「執着」するから
>成仏できるのであります。「執着」がなければ成仏もありません。
>従って、執着そのままが成仏です。

まったく、ああいえばこういうですね。
仙道では執着も何も関係ありませんからね。
仏教は成仏したものも出てこない劣った信仰だと認めたらどうですか。

仏教徒は天照大御神を知らないようですね。
高い神なので人間では直接交流できませんね。ですので司命神
である産土の神を通して、国家や天皇の安寧を祈り、先祖の罪障を
許していただく、天照大御神は輪廻の外の神なので、
残念ですが仏教より境地が高いのです。
仏教を信じるなんて愚かですね。

>禅では、その神、仏と名づく一切をも殺してしまうのであります。

また「禅では」ですか?それは禅の設定ですね。
それが正しい確証もありませんね。つまりなんの説得力もありません。

人間は天津神から魂を、国津神から魄を受け継ぎ、天御中主神から一霊を授けられ生まれてきます。つまり神は親であり仏も神から
一霊を賜った存在なので、如来といえども神の下なのです。
分をわきまえないと神罰が下るでしょうね早晩。

[658] T、T 2008/11/19 16:56

>また「禅では」ですか?それは禅の設定ですね。

僕の言う禅とは、当り前の日常生活と言う意味です。特定な意味の設定ではありません。

>それが正しい確証もありませんね。

日常生活が上手く行く処で貴方自身が確証できます。

>つまりなんの説得力もありません。

この領域では特に言葉のみの説得は、相手に経験が在る時に
のみ説得力を生じますが、相手に経験がなければ、当然、
なんの説得力もないのが言葉と言うものです。
それ故に、言葉の説得よりも,言葉で持って相手の言葉を否定し
相手の経験を待つより仕方がないのであります。

処で貴方は掲示板で誰かを説得できましたか。
過去の掲示板を見れば、こんな事簡単に解るではありませんか。

>分をわきまえないと神罰が下るでしょうね早晩。

氏神や産土神を通して天照大御神からの脅しですか。
貴方の言われる意味の神罰が在れば待って居ります。
できれば何時頃、どんな神罰が下るか、貴方では予測できませんか?
ここ掲示板を見て居ります、知人への証明にもなり解れば有難いのですが。
神罰が下れば、その時に、必ず貴方にお知らせ致します。

追伸。
>>653 相手してほしいようだが、他であそんでな。

この様な投稿も、一件たわいのない事柄のようですが、この現象も
一種の輪廻のもとで成仏できていない人と僕は見て居ります。
何故かと言えば、成仏出来れば、人として優しく素直になれるはずです。、

[659] 隠者 2008/11/20 19:47

追記。上↑田中さん(女)へ一寸言い過ぎたよ、そういう経緯が
あったとは露知らず僕も性格を改善しないとね。
民権の授業を取ることがあったら宜しくお願いします。

[660] 波多利郎 2008/11/20 22:47

>>567

仏教を信じようが神仙道を信じようが所詮「信じている人間の人間性」で神仏のレベルは決まる。
神仏に対してレベルがあると言う考えは所詮「自分の方がレベルが高いはず」と言う妄想、勘違いにしか過ぎない。
T、Tさんを妄信と言うが他人からみたら「アンタの言う事も所詮は信じていると言う信仰設定」と思われている現実を見るヨロシ。

T、Tさん

この人には何を言っても「馬の耳に念仏」だと思うよ。

[661] kotaro 2008/11/20 23:11

          経絡と仙道

仙道は、人体に関しての事なので、
説明に神が登場しなくても済むのではないだろうか。

経絡に別に神は登場しない。
人体のどの部分のツボを押すと、
どの部分がよくなるか。
それだけである。

補足説明として、
エジプトの留学生からモロヘイヤの種を貰った事がある。
留学生は種を蒔く際に、イスラムのお祈りをしないと、
うまく育たないと言った。
そんな事ないだろう。

日本でもアメリカでも収穫祭はあるのだから、
農家の人は地域地域で、お祈りされているのだろう。

だが、欲しいのは野菜としてのモロヘイヤであり、
イスラムの祈りでもイスラムの神でもない。
無論、収穫祭の祈りとか、生活習慣として理解は出来る。

神があるから、野菜がある。
野菜だけを欲しがられても困る。
それがエジプトの留学生の考えなのだろう。
だが、最近は日本の農家は、
モロヘイヤをどんどん市場に出荷している。

インカのマカとか、種の国外持ち出しを、
一切禁止している国もある。
鹿児島の桜島大根は種を他所に蒔いても、
大きくはならないと言う。
種だけではだめな場合もある。

[662] kotaeo 2008/11/21 04:35

   仙道と神について(一)

人間がなれる程度の神ならば、
唯一神を信じるユダヤ教、
キリスト教、イスラム教からすれば、
a god(神のような)存在ではないだろうか。
唯一の神は、天照御大神であり、
他は全てa god(神のごとき存在)ではないだろうか。

それと

成仏する事で、二度と地上に生まれ変わらない、何と有難い事か。
だがしかし、唯物論では、生まれ変わり自体ありえないと、
否定するから、殊更努力して精進しなくても、
心配要らない、生まれ変わる事などありませんからと言うだろう。

[663] T、T 2008/11/22 08:52

>仏教を信じようが神仙道を信じようが所詮「信じている人間の人間性」

仏教を「信じる」と言うより、日常生活そのもなんです。
「信じる」と言う間は、まだ事実の生活の営みとは言えないものが在ります。
信じている間は、何かと迷信的なものに惑わされるものであります。
つまり、生きる事から遊離したものが在ると言う事であります。
本来ある日常生活に気が付きましたら、仏教の教える意味もハッキリと解ります。
信じるも、信じないも、、もともと「ある処」の教えです。
従って、神、仏も言葉の表現は異なりますが、
共に意味する処は「無相の自己」の今現在の、この処の事なのです。

故に、天照大御神が神罰を下したり、「先祖の罪障を許していただく、」と
言うような罪の贖うような事はあり得ない。

>この人には何を言っても「馬の耳に念仏」だと思うよ。

よく承知して居ります。
今は「馬の耳に念仏」でありますが、やがて、これではいけないと言う時節が
日常生活上に必ずやってきます。
その時に、微かに思い出して戴ければ幸いかと存じます。

それと、ここ掲示板を見て居れる他の多くの人に、何が間違っているかが、比較されて何かが
解ればとの思いと、同時に自分自身も反論される事に対して、自分にもよい勉強になるのです。
従って、ここでの投稿は、相手方の説得の意思はありません。

[664] 波多利郎 2008/11/22 12:48

>>663

それはアナタが「信仰、想像(妄想)」と「事実、現実」の区別をしながら生活出来ているから言える事ですよ。

で、アナタに説得の意志が無くても、相手は「自分の信仰が正しい」と思っているから考えを一切変える気は無いでしょう(アナタもご存知の通り、いままでのレスがそれを物語ってます)
自分で「自分の信仰は正しいんだ」と心にとどめておく事と自分の信仰を根拠に相手の信仰を偽扱いする事は、「自分の信仰は正しい」の意味を履き違えてましからね。
前者は「自分が、その教えを正しいと信じて選んだ道」
後者は「自分の信仰のみが正しい事を証明して、他は偽物と言いたいが為の方便(人は妄信、盲信と呼びます)」ってところです。

ザビビも終わりに近付いてますが相手を暴走させないくらいのレスでお願いします。

[665] あちょー 2008/11/22 23:07

日本国憲法
あちょー検 索列!
仏教?
佛教?
ぶっ強?
ぶTTU教?
仏教らしい?

[666] T、T 2008/11/23 10:54

1、>前者は「自分が、その教えを正しいと信じて選んだ道」

これは一般的に言われる信仰です、信じる宗教ですね。

2、>後者は「自分の信仰のみが正しい事を証明して、他は偽物と言いたいが為の方便
(人は妄信、盲信と呼びます)」ってところです。

これもまだ、信じる宗教の領域です。

1、2、の考え共に崩壊した処に、真の信仰、つまり、覚の宗教に目覚めます。
1,2、の処では、臨済禅師の言われる「惑乱」が生じると言う事です。
禅の語で、善悪共に悪といいます。

>相手を暴走させないくらいのレスでお願いします。

何度も説明していますように、言葉のみでは不可能事です。
身内の妻でも、息子でも言葉のみでは不可能なんです。
仏教、宗教の領域に関わる問題は、すべては自分の事です。
従って、自分の事ですから、他の人が代ってやれると言う事は出来ないのです。
何処までも自分の事ですから、自分で解決しなければ解決できない問題です。
故に。
月(自己)に導く為に指し示す「指」(仏の教え)が在るのです。
しかも、その教えも到った処から、それは違う、その通りと言うだけであります。
暴走を止めたり、相手をねじ伏せる程の説得の在る言葉が無いのが難点です。
しかし、相手に聞き入れる、受け入れる態度があれば、教えの言葉は
強力な能力を発揮致します。その時のみ、言葉は説得に有効に働きます。
それ以外は不可能です。

[667] 波多利郎 2008/11/23 12:32

>>666

「自分が、その教えを正しいと信じて選んだ道」に修正と補足です。
「自分にとって正しいと信じて選んだ道であり、その選んだ道を根拠に事実と言ったり、他の信仰に対して偽、間違いなどを言わない」です。

で、まとめると「1」の方が「自分の信仰は正しい」と言う意味がマトモな解釈であり肯定、懐疑、否定者と問わずに受け入れられるワケです。
無論「自分が、その教えを正しいと信じて選んだ道」も含まれます。(他信仰、に対して偽、間違いと言わない場合)
「1」で言えるのは「単なる信仰である」と自分で理解している事です。

後、勘違いされがちなのは「2」なんですが、これは都合良く言えば信仰、宗教の領域
悪く言えば妄想、自分を正当化したいが為に信仰、宗教にしただけ
に、なります。
この場合、信仰を信仰と理解して無いだけです。

本当に信仰している人とは「信じているんだ(信じているだけ)」と言うのを理解している人達だと思います。

「言葉のみでは不可能事です」

わかってますよ。
だから、彼の方へのレスは無意味だって事ですよ。
だって、T、Tさんが説明するたびに「妄想」とか「間違い」とか噛み付いてますからね(苦笑)
私が完全な懐疑、否定者なら「それ、釈迦に聞いたのかい?」と、突っ込んでます(苦笑)
まぁ、誰も返答に困るのはわかってますが「それ、単なる信仰だよ」と、言う事をわからせる為でもあります。

彼の方には無理でしょうが他の人達にはアナタの言わんとしてる事が伝わっていると思いますよ。

と、言うワケでこの話題はオシマイにします。
長々と失礼しました。

[668] ゑゐる 2008/11/24 02:14

>>667

簡単に言えば彼は宮地神仙道というブランドを着て「どうだ俺は凄いだろう」とはしゃいでいるだけでしょう。宗教をやるなら本当はこれを克服しないといけないのに。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/5611/1160352421/l50
によると、http://blog.goo.ne.jp/umekou_2004
も彼のお弟子さんらしいけれども他者への排撃のみという印象しかない。

宮地神仙道というものをやるとこうして我が増大していくのか、それとも本人達の問題なのか…。どんな宗教にもオカシイのはいるし、後者であるのかもしれませんが(またそう願う)、表に出てきて発言するような人達(ネットの匿名投稿を表と言えるのかという疑問はあれど)が自身の我の執着を克服できない宗教家としては半端者と言ってよい状態であるならば、彼らのもつ宮地神仙道なるものの修学システムにそもそも重大な欠陥があるのではないかという私の疑念は自然なものであると思います。

正しき神仏に通じる事ができるならばレベルの高低は敢えて論ずるものではないと思うので「信じている人間の人間性で神仏のレベルは決まる」とは思わないけれども、彼らを見ていて思うのは、「これが神に通じる人間の言動であろうか」という事です。神仏のレベルの問題ではなく、彼ら自身の精神のレベルに問題があるという事です。日夜ネットに貼り付いて我を剥き出した投稿を繰り返している事自体が穢れへの執着でしょう。そうした執着の克服ができないで、正しき神仏に通じる事などできるものなのか。向かうベクトルを根本的に誤っているように思います。尤も悪神というのもいるらしいから既にそうしたものに通じているのかもしれませんが。

最後に彼らを見ていると、こうした掲示板等において自分の宗教を語る時の言動のあり方は、彼らの団体の内実が如何なるものであるかという事を曝け出すという意味においてこうした自由な掲示板は逆説的に有意義であったと思います。

今までROM専でしたが、ザビビも終了という事で記念に一筆書かせて頂きました。運営者の皆様お疲れ様でした。

波多利郎さん、オシマイと言っているのにすみませんでした。

[669] 落ち葉 2008/11/24 09:13

宮地神仙道というのを検索してみて感じたことをひとこと

>>宮地家は日本武尊の子孫であり・・
等と書かれていた。
この一行でそれから先を読むのをやめた

精神医学でいうところの「高貴妄想」というものであると観た。
すべての新興宗教教祖たちがこのようになるようですね。
例外はないようだね。皆、同じパターンを辿るように思う
ほとんどの人たちに共通していえることだが、「うちだけは違う」と誰もがいいたいもののようだ

↑の方が言われているように、「我が増大していく」
「自身の我の執着を克服できない」・・・
ほとんどの者がこのようになるようだ。
これが中途半端に精神世界をかじった者の末路であると私は思う。
↑の方はそこらのことをよくご存知なのだと思う。

人をキチガイにしてしまう、精神世界に近づく時はよくよく注意する必要があるね。

禅の世界ではそのあたりのことを知り抜いていて、昔からいろんな言葉で警告してきたようだ。

[670] T、T 2008/11/24 12:38

1>「1」で言えるのは「単なる信仰である」と自分で理解している事です。

自我的な信仰ですね。
自我が在る限り、本当の信仰ではありませんね。
他律的信仰です。

2>後、勘違いされがちなのは「2」なんですが、これは都合良く言えば信仰、宗教の領域
>悪く言えば妄想、自分を正当化したいが為に信仰、宗教にしただけ
>に、なります。

これは信仰、宗教と言う名を、だしにした政治的な傾向の部類のものですね。
この部類は、自己主張が団体性を帯びて、それが高じると宗教戦争に見られますね。

従って、1も2も本当の信仰ではありません。
仏教で言う「言語道断、心行処滅」が生じて、社会性の為に建設的に働く処に
真の信仰、宗教が在る思います。

>この場合、信仰を信仰と理解して無いだけです。

これはその通りです。

>本当に信仰している人とは「信じているんだ(信じているだけ)」と言うのを理解している人達だと思います。

「信じている」と言う「何かを」対象的に捉えている限り、究極の信仰とは言えません。

>だって、T、Tさんが説明するたびに「妄想」とか「間違い」とか噛み付いてますからね(苦笑)

インターネット上での掲示板は、これでいいのですよ。
相手と僕だけなく他の人も絡んでおりますから、何かと有効と思って居ります。

>私が完全な懐疑、否定者なら「それ、釈迦に聞いたのかい?」と、突っ込んでます(苦笑)

その突込みもよろしいと思います。
禅では、釈迦が言ったとか書いたとか、弟子が言った、書いたと言う事は、あまり問題に
しない処があります。
何故かと言いますと、他の宗教は「信じなさい」「信じる」と言う処からの出発ですが
禅は「疑い」からの出発であるからです。その疑いを解消する処に目的があります。
従って、自分の体験から文字を検証するのでありますから、誰が書いたものでも、
言ったものでも差支えがありません。
多くの人が、仏教に蹴躓く原因は文字の理解から仏教を理解されようとされますから
誤解、間違いが生じるのだと思います。

[671] 波多利郎 2008/11/24 13:25

>>670

えっと「信仰」とは「行為」
「信仰心」とはその行為に対する心掛けなはずです。
それが第三者にしたら「信仰してる=単なる信仰」になるワケです。
この辺が私とアナタとの見解の違いかと…
で「単なる信仰」の意味も相手が根拠を求めて来た時に「単なる信仰です」と言えば、信仰に対する姿勢が高く評価されると言うワケです。
本当の信仰とは「信仰」を客観的に見る事が出来る(単なる信仰と理解して信仰を語る)事だと思います。
口に出そうが出さまいが読んでる人達が「本当に純粋な心で信じてる」と言う事を感じる書き方も必要になるかと…

では、この件は本当に最後って事で…(苦笑)

[672] T、T 2008/11/25 07:19

>人をキチガイにしてしまう、精神世界に近づく時はよくよく注意する必要があるね。

>禅の世界ではそのあたりのことを知り抜いていて、昔からいろんな言葉で警告してきたようだ。

まさに、貴方の仰る、その通りです。
自分の考えで、自分自身を破壊する方向、或いは、社会性の破壊の方向へ進むものから
救う方向にあるのが禅と言えましょう。

>それが第三者にしたら「信仰してる=単なる信仰」になるワケです。
>この辺が私とアナタとの見解の違いかと…

貴方の場合は、信じると言う信仰で、此岸と彼岸、主観と客観、信じるものと、信じられるもの、
とに分かれた信仰になって居られます。
僕の場合は、それが無い信仰ですから、見解の違いと言うよりも全く異なる
信仰と言って差し支えないと思います。

>で「単なる信仰」の意味も相手が根拠を求めて来た時に「単なる信仰です」と言えば、信仰に対する姿勢が
>高く評価されると言うワケです。

意味がわかりません。

>口に出そうが出さまいが読んでる人達が「本当に純粋な心で信じてる」と言う事を感じる書き方も
>必要になるかと…

しかし、僕の投稿記載に関して言えば「本当に純粋な心で信じてる」と言う「信じる」必要は要りません。
大いに疑ってもらってよろしいです。純粋な心で疑って、そして、その「疑い」をそのままにしないで、
ご自分の体験から確かめて下さい。

信じる事をも、鵜呑みにしないで、確かめる事を切に願います。

[673] 波多利郎 2008/11/25 16:04

T、Tさんへ

「見解の異なる信仰=全く別な信仰」
意味的には同じですよ。
私の中ではね。
何せ「信仰」の見方 が違うと言う共通点がありますから(苦笑)

>意味がわかりません。

良くある事なんですが「神仏、霊的世界、霊能力はは存在する」と肯定者は言います。
これに対して懐疑、否定者は科学的な根拠を求めます。
求められた時点で「信じてるから」「体験したから」は懐疑、否定者にしたら科学的根拠じゃないんです。
でも「単なる信仰=そう信じた(信じてる)だけ」と説明すれば、懐疑、否定者はその人の信仰に対して土足で入り込んで否定などしません。
相手の信仰に対する姿勢を評価してくれます。
「単なる信仰」と言う事が嫌な人もいますが、相手を納得させるスキルでもあります。
(話しの内容を理解してくれる人間性の出来た懐疑、否定者限定ですがね)

同じ肯定者同士だからこそ「お前の信仰は間違いだ!」等とエキサイトするのはT、Tさんも相手をしてたらわかったと思います(苦笑)

後はT、Tさんが他の方々(理解力のある)に話してると思われるので、返レスは不要です。
ただ、質問があったら言って下さい。

[674] kotaro 2008/11/25 21:08

>>[635]東方朔さんへ
>一、過去現在未来を伺ふ可し。
>二、真神なるや偽神なるやを弁ぜずば有る可らず。
>三、神の上中下の品位を知らずば有る可らず。
>四、神の功業を知らずば有る可らず。
>五、荒魂和魂幸魂奇魂を知らずば有る可らず。
>六、天神地祇の分別無かる可らず。
>七、神に三等有るを知らずば有る可らず。
>八、神に公憑私憑あるを知らずば有る可らず。

叔父さんには神が降臨した。
私の場合、それはない。
ただ、自由に霊を呼べる。
その場合、目的に応じ霊を呼ぶ。
それで相手に貴方のお名前は?
と尋ねる事はない。

こうなる前、修行中、霊が付いた事がある。
叔父さんは、そうした場合霊能力者が
取るべき態度を厳しく指導した。

それは、どんな相手にでも、
退散しろとか浄霊とか言ってはいけない。
少なくとも、死んで何百年経つ人生の大先輩なのだから、
礼を持つて、お伺いする。
「どう言うご用件でしょうか」
「はい、承りました」

悪霊だから退散だ、浄霊だ。
善霊、高級霊、指導霊は歓迎。
分かりやすいと言えば分かりやすいが、
霊の方に用事があるのだから、
その用事を解決しないでは立ち去ってはくれない。

例えば、医者に来る人は、どこか悪いから来る。
健康な人だけに来て欲しいなら、
プロスポーツのオーナーになるべきだろう。

「私の祈りで、あと少しで成仏出来る人が成仏出来るなら、
その霊に回向する、どうか成仏されて下さい」

[675] 2008/11/25 21:39

じゃあおれの死んだ親父の声を代弁してみてください。

[676] kotaro 2008/11/26 02:42

>>[675]↑さんへ
>じゃあおれの死んだ親父の声を代弁してみてください。

私に能力がある事は、証明済みです。

霊感占いと人生相談承ります
http://nun.nu/charm.log.thebbs.jp/1120968138.html

[66]まこ 05/07/15 00:09 D-83o8Z
kotaroさんお気遣いありがとうございますm(_ _)m
お言葉に甘えて(;^_^A
私は父親を事故で亡くしているのですが、
父はなにか言い残した事はないでしょうか?
突然の事だったので気になっています。

[83]kotaro 05/07/19 10:34 F6/C9jRkQD
>[66]まこ さんへ
お父さん 「私は、貴女の父です。
     何も心配いりません。
     さとこの事をわすれないよ。」

[89]まこ 05/07/19 19:41 D-83o8Z
kotaroさんありがとうございます♪
父の話にでてきた〈さとこ〉は祖母(父の母)の名前で、
びっくりしました。
父は祖母を見守ってくれているのですね(≧∇≦)

[677] T、T 2008/11/26 08:16

>懐疑、否定者は科学的な根拠を求めます。

科学的方面から求められてもそれは不可能な事です。
科学は、ものを分けた(分別)意識上の事柄で信仰(体験)とは
別種(次元が異なる)の論理体系だからです。

むしろ。正しき科学、正しき哲学は、信仰から生まれ出てくるものです。
科学をすると言う事、哲学をすると言う事は、深い宗教的人生観が必要であります。
しかし、科学、哲学からは、その深い宗教的人生観の信仰は生まれない。
従って、信仰、宗教は、科学、哲学と相関関係にはあるが、科学的な根拠にはなり得ない。
却って、科学、哲学が行き詰まった処から信仰が生じてきます。
この論理体系の行き詰まりを突破した処に本来の信仰がある。
この「行き詰まりを突破」がないと本来在る処の信仰は解らない
懐疑、否定者の欠点はここにあります。

>返レスは不要です。

貴方に返レスしている積りはないのですが。

>ただ、質問があったら言って下さい。

貴方には、全くありません。

[678] 2008/11/26 09:04

はあ?俺は親父の声聞きたいだけだよ。
全然証明になってないし

[679] T、T 2008/11/26 11:34

>[676]kotaro
いよいよ本性を現したようですね。

>>じゃあおれの死んだ親父の声を代弁してみてください。

>私に能力がある事は、証明済みです。

ここでは代弁は不可能でしょ。インチキが、ばれるから
神棚の神が拒否するからね。

>[66]まこ 05/07/15 00:09 D-83o8Z
>[89]まこ 05/07/19 19:41 D-83o8Z

この様な事は、ペテン師の常套手段です。
ここでは何ら証明にもならない。

>霊感占いと人生相談承ります

お釈迦様は、そんな訳もわからない未知の事説いていないでしょ。
現在ある事柄をあるがままに看る事を説いて、未来の事も、過去の事も説いていません。
お釈迦様をだしにして自己を正当化しょうなんて精神の蹴躓き者と
しか言いようがない。

[680] T、T 2008/11/26 11:36

>私の祈りで、あと少しで成仏出来る人が成仏出来るなら、
>その霊に回向する、どうか成仏されて下さい」

「私の祈りで、」は、何の祈りですか、人を誑かす祈りですか。
こんな死んだ人の霊の成仏は仏教にはない。
人は死んだ先の事誰も知らない。
ないものを在るかのように語るのがペテン師と申します。

仏教の言う成仏は、自分が本当の自分に目覚める(悟る)と言う意味です。
仏に成るとは、死んでから仏になると言う事ではありません。
仏は覚者(迷いから覚めた人)のことで、
従って、仏に成るとは、この現実で日常生活を営んでいる中で自分が
本当の自分に出会うと言う事を成仏と言います。

これも仏教の言葉を、だしにした霊感占と言うインチキ者の虚言です。

世間には詐欺師が、迷い悩む人の弱みに付け込んで人生を
狂わすことを平気でやると言う、ペテン師の輩が世間に多く居られるので注意を要します。

[681] 波多利郎 2008/11/26 11:53

>>677

えっと、懐疑、否定者には信仰なんてどうでも良いのです。

何度も言うように「信仰」を語る時に「事実」のように言う事に対して懐疑、否定者は根拠を求めるんです。
だから「単なる信仰です(信じてるだけです)」と言う事に納得するんです。

T、Tさんは懐疑、否定者が肯定者に求める事をあまり料理されて無いように感じます。

[682] 波多利郎 2008/11/26 14:27

>>681 に補足

>>677 の「科学的根拠を求められても不可能です」と言うのはわかってます。
だから>>681 のような場合に「根拠」を求められる場合があると言う事です。

また、懐疑、否定者は信仰したいので無く、肯定者が信仰を語る上で何を考えて語っているかに対して質問してくるのです。
だから、答えとして「単なる信仰です、信じてるだけです」と、肯定者が説明すれば納得するワケです。
懐疑、否定者は「信じてる」と言う事に対して根拠は求め無いですから。

追伸
ここまでの私のレスは、お二方(東方朔さんとT、Tさん)のやり取りに口を出した理由を説明しただけです。

別に「T、Tさんの言ってる事が間違いだ」と言う意味じゃ無いので(苦笑)

[683] 落ち葉 2008/11/26 20:06

>>世間には詐欺師が、迷い悩む人の弱みに付け込んで人生を
狂わすことを平気でやると言う、ペテン師の輩が世間に多く居られるので注意を要します

T、Tさん、世の中にはあなたが言うように精神面で弱り果てているひとに対して「私には神がついた」とか「神からの啓示あった」等と誑かす輩があまりにも多いですね。
私も以前そういう輩の妨害を派手にやったことがあります。
また、弱りきった人たちには、そういう輩に対する抵抗力がないように思います。
そのため、いとも簡単にそのような妖しいことばに引っかかるのだと思います。

そういうわけであなたの行為を強く支持します。

[684] kotaro 2008/11/26 20:19

[674]kotaro の続き
あくまで東方朔さんの[635]への問題提起であり、
それ以外他意は御座いません。
まして、霊、成仏、不成仏に付いて述べる積もりはありません。

主題は
霊においてすら数百年の大先輩、
まして先方が神と名乗られているのに、
本物か偽物か検討するとか、
人の分際でおこがましいではないか。
それを言いたいだけです。

成仏とか、不成仏とか、ご自分の信仰されている禅宗が、
戒名を付けたり、お葬式を出されているのに、
由々しき事と認めたくないお方に、
所詮何を言っても無駄でしょう。

禅宗がおこなっている葬式仏教こそ、本来の仏教。
その現実を認めないでは、机上の空論ではないでしょうか。
ですが、これは再三再四すでに議論しましたので行いません。

脚下照顧
禅宗が行っている葬式や戒名を他宗が行なえば、
それは仏教ではない。
ならば、禅宗も仏教でない。
それが公平な物の見方でしょう。
他宗のご批判はいとも簡単になされ、
ご自分の宗派に関しては、大変御寛大で、
二言目には禅宗では、禅宗ではと言われる。
脚下照顧

[685] T、T 2008/11/27 08:08

>懐疑、否定者には信仰なんてどうでも良いのです。

「懐疑、否定者には」ではなく、貴方はでしょ。
貴方は、懐疑、否定者でもなんでもない、単なるヒネクレ者です。
しかも、信仰に対して、見解の相違ではなく信仰そのものを知らないと言う事です。

>何度も言うように「信仰」を語る時に「事実」のように言う事に対して懐疑、否定者は根拠を求めるんです。

根拠を求める時には、なにも懐疑、否定者だけでは無いのです。悟りが無い内は皆さん、そのような
過程を歩むものです。

>T、Tさんは懐疑、否定者が肯定者に求める事をあまり料理されて無いように感じます。

貴方がそう感じるのは、自由です。

>肯定者が信仰を語る上で何を考えて語っているか

実際の生活を基にした事実です。

>「単なる信仰です、信じてるだけです」と、肯定者が説明すれば納得するワケです。

それで簡単に納得するのなら、それは、懐疑、否定者でもなんでもない普通の人である。

>懐疑、否定者は「信じてる」と言う事に対して根拠は求め無いですから。

懐疑、否定者はでなく、貴方が「「信じてる」と言う事に対して」でなくその内容が気になるのでしょ。

>別に「T、Tさんの言ってる事が間違いだ」と言う意味じゃ無いので(苦笑)

間違いか、間違いで無いか、どうして解りますか。
やはり、貴方は懐疑、否定者ではなく、単に素直でない人です。

[686] T、T 2008/11/27 08:26

>弱りきった人たちには、そういう輩に対する抵抗力がないように思います。
>そのため、いとも簡単にそのような妖しいことばに引っかかるのだと思います。

その通りです。
溺れる者はワラをも掴むで、時すでに判断能力を失っておられる状態です。
従って、普通の心理状態では引っかかるものではありません。
普段俺は、そんなばかな神や、仏は信じないと言う人が引っかかるものです。
それは、詐欺一般に言える事です。それで同じような事が繰り返されるものです。

[687] 波多利郎 2008/11/27 11:27

>>685

はい、私は懐疑、否定者じゃ無く「肯定者」です。
知り合いに仏教徒系の坊さんやキリスト教系の神父(牧師)、神道の神主さんなどかいます。

それでいて一連の話しに口を出したワケですが…
私が「T、Tさんは間違った事を言ってない」」と言った意味は「アナタが信じた信仰を語っているだけ」と言う意味です(苦笑)
私は他者の信仰の基準がなんであろうと「信じてるなら、それがその人の信仰(その人には本当の信仰)」って言う認識なので(苦笑)

で、私や懐疑、否定者からみたら、東方朔さんもアナタもコタローさんも他の肯定者(信仰者)も「所詮、単なる信仰(自分が信じただけの信仰)」を語っているだけににります。
それが他人(懐疑、否定者)から見た「信仰」と言う意味なんです。
(なので双方の意見があわないならスルーした方が良いと言ったのです)
私の言わんとしてる意味がわからないならそれでも結構です。

[688] T、T 2008/11/27 11:47

>霊においてすら数百年の大先輩、
>まして先方が神と名乗られているのに、

誰が自分は神だと言ったり書いていましたか?
貴方は、神、仏の意味を完全に履き違えております。
ところで、貴方は人が詐欺、ペテンをやったから自分もその類を
やってもよいと言うお考えですか。
それなら詐欺師をだしにし、自分を正当化した紛れもない詐欺師です。

>ならば、禅宗も仏教でない。
>それが公平な物の見方でしょう。

以前、貴方に下記で投稿しているではありませんか。(「294」前後から参照して下さい)
[314]T、T 08/07/13 09:07 ouiNJCwtwD
[312]kotaro さんへ。

「今日では、禅宗(僕の処の宗派)でさえも、お墓、葬儀、戒名、厄払い、等の営業的な形式に陥っております。
これは本来の仏教とは言えない在り方であります。親鸞聖人は、自分が死んだら葬儀もしなくてよい、
お墓も建てるな鴨川の川に捨てて魚の餌にしてくれと言い残したと言う。
実に、死に対して徹底された遺言ですね。それが今日ではどうですか。」

確かに、僕の家の宗派は禅宗と言いましたね。
しかし、仏教とは言われないとも言っておりますよ。

>二言目には禅宗では、禅宗ではと言われる。

禅とは言って居りますが、禅宗とは一言も言って居りません。
しかも、禅宗信仰者でもない。誤解しないで下さい。
禅と禅宗は全く別の事柄です。
しかも、下記では
[298]T、T
「総評してこれは、仏教でも、宗教でもない、一歩間違えば宗教詐欺の論説にもなる
進み方でもあり注意を要します。」と

貴方へ警告しておりますよ。残念ながら、その通りになっているではありませんか。

[689] 波多利郎 2008/11/27 12:19

>>688

私が懐疑、否定者の肯定者(信仰者)への見方を引き合いに説明した理由の発端の一部が>>688 にも出てます。

アナタと相手の信仰基準は全く別物なので「噛み合わない話しはスルーしなよ」って事です。
コタローさん(相手)が何をどう信じようがアナタには無関係なだけですよ。
(その逆もしかり)
相手がアナタと同じ禅宗と言うなら有意義な会話にはなるでしょう(苦笑)
私も口は出しません。

相手が「間違いだ」と思っている(言う)なら「勝手に思わせて(言わせて)おきなよ」って事を言いたいんです。
だって、何を言っても互いに単に自分の信仰を引き合いに出してるにしか過ぎませんから…。

[690] T、T 2008/11/28 08:10

>はい、私は懐疑、否定者じゃ無く「肯定者」です。
>知り合いに仏教徒系の坊さんやキリスト教系の神父(牧師)、神道の神主さんなどかいます。
(これらの人を持ち出しての投稿、それにしては投稿内容が余りにも淋し過ぎる、また、幼児性を感じる。)

>私は他者の信仰の基準がなんであろうと「信じてるなら、それがその人の
>信仰(その人には本当の信仰)」って言う認識なので(苦笑)
(信仰を知らない人の理解である)

>アナタと相手の信仰基準は全く別物なので「噛み合わない話しはスルーしなよ」って事です。
>コタローさん(相手)が何をどう信じようがアナタには無関係なだけですよ。
(無関係の関係と言う事が在る、そこに意義が在る)

>相手が「間違いだ」と思っている(言う)なら「勝手に思わせて(言わせて)おきなよ」って事を言いたいんです。
>だって、何を言っても互いに単に自分の信仰を引き合いに出してるにしか過ぎませんから…。
(自己中心的な見方で物事の一面しか見らない人です。)

結局この人の、なんだ、かんだとの投稿は、禅で言う処の「丸木橋は見えるが意図するとこの
石橋が見れない人」(趙州の石橋)の代表する投稿です。

[691] 波多利郎 2008/11/28 09:13

T、Tさん

私、アナタの信仰に対してケチを付けてるつもりは無いんですがね…(中傷もしてません)
そうとしか受け取る事が出来ないのが自分の信仰を客観的にしか見れない肯定者の弱みなんでしょう(苦笑)
ちょっと失望です。

アナタ、自分で気づかない内に相手(東方朔さんやコタローさん)の信仰を自分の信仰で否定しているんですよ。
東方朔さんは仕方無いにしてもコタローさんはアナタの信仰に対して否定もして無いはずです。
相手の言う事に乗っかり、知らず知らずの内に相手と同じ事をしている。
で、それを第三者に指摘されても指摘された意味に気づかずに指摘された相手の中傷ですか?
大そうな信仰をお持ちですね(苦笑)
だから最初に「見苦しい」と提言したんですがね。
まぁ、何を言っても理解されない堅物のようなので(苦笑)
くとるーさんが言ってた意味も良くわかります(苦笑)

[692] 750Rider 2008/11/28 12:42

横レス失礼。

皆さんの意見が噛み合わないのは、認識に違いがあるからでは
なかろうか。

T、Tさんは禅を語り、kotaroさん、東方朔は巫を語り
波多利郎さんは、一般信仰を語っているとすれば、
釈迦佛教の実態は婆羅門と対峙した上での
沙門と瑜伽の融合上の体現と言え、
沙門の意に於いては巫と通する処はあり根源合致は見るも
佛に於いては飽くまで自燈明解脱、巫は憑依交信であるなら、
目的と主への方向性に於いて非と言えよう。
唯識に於いては更に差異は増大し、禅と巫を其々の概念若しくは
信仰の観点から鑑みることは、根幹無根と言えよう。

[693] 波多利郎 2008/11/28 13:20

>>692

>「皆さんの意見が噛み合わないのは〜」

その通りです。
私はそれを「懐疑、否定者はこう見てる」と言う視点から説明してたのですがね(苦笑)

[694] T、T 2008/11/28 17:39

>アナタ、自分で気づかない内に相手(東方朔さんやコタローさん)の信仰を自分の信仰で否定しているんですよ。

知らず知らずではありません。
ハッキリと否定して居ります。
貴方の場合には、信仰そのもを知らないとも言っております。
彼らの言う神仏は、神仏を対象にして、許しを願ったり、願いを祈る神仏です、それなら神仏に縛られている事に
なる。外のものに縛られると言う事は、それは信仰では無い事を意味します。
信仰は、自由解放を意味しますから、神に何かと縛られる信仰は、それは信仰では無いと言っているのです。

>くとるーさんが言ってた意味も良くわかります(苦笑)

自己中心的な短絡的な論評をしないで、貴方と僕の投稿すべて、コピーにして、専門の人に伺って見て下さい。
そしたら解りましょう。
それ以外には投稿の意味、信仰の意味は、貴方達では解りません。

[695] 波多利郎 2008/11/28 18:46

>>694

だから、アナタのも「単なる信仰」
だから信仰に信仰をぶつけて否定しても「見苦しい」と最初に言ったんです。
アナタ、なんだかんだ言いながら「自分の信仰だけが正しい」と言う盲信に成り下がってますよ?
言う事が立派でも、相手と同じ事を言っちゃオシマイです。
禅宗だろうが神道だろうがキリスト教だろうがなんだろうが正しいも間違いもありません。
あるのは「本人達が正しいと信じてるだけの信仰」です。
自分の信仰を客観的に見る事が出来ないいから相手の信仰を否定するんです。
で、私が指摘してたのはそう言う姿勢にです。

それを何度も説明しているだけなんですが?

相手の信仰を否定するなら、せめて「私の信仰は単にそう信じてるだけです」と言うべきなのでは?

[696] くとるー 2008/11/28 20:39

T、Tにはパタリロさんの言ってることは永遠に理解不能。
T、Tは自分の信仰を事実だから他者の信仰に何を言っても許されると思ってる愚か者。しかも自分と違う他力信仰を否定する馬鹿者。

T、Tが真の信仰と称しているものはあくまでT、Tが体験、感得したもの。
他人が見ればコタロー氏の霊体験や朔の神仙道マンセーと変わらない。しかもT、Tの信仰が正しいという証明や科学的検証など客観的な検証は不可能。
つまり言いっぱなしで気付いていないだけ痛い。

T、Tの信仰はあんたの中の真実(事実じゃない)なんで社会に迷惑かけなきゃ認めるという態度がパタリロさんやおいらたち肯定派の意見や立ち位置なんでパタリロさんはT、Tの信仰を批判していない。パタリロさんが一貫してるのはT、Tの態度への批判。

T、Tのような奴には事実(科学的手法による普遍化の証明)を求めることもありとおいらは思ってたからパタリロさんと意見が分かれたわけ。
だから富永仲基の大乗非仏説や加上論という科学的な手法で儒教仏教神道を批判した学説で仏教批判してる朔のやり方もありとみたわけ。その後の神仙道マンセーは痛かったが。
富永仲基の学説は科学的手法で検証されてるんで専門家や現代の学者も反証できなかった。学説は信仰ではないところはパタリロさんに知ってもらいたいところだった。

T、Tよ相手の信仰を自分の信仰で批判するな。これはザビの肯定派が論戦の末勝ち取ったものでこれが守られていることがザビが成熟した証でもある。

[697] 老婆心 2008/11/28 21:22

天無以清将恐避・・・

[698] 老婆心 2008/11/28 21:23

天無以清将恐裂
の間違い

[699] くとるー 2008/11/28 22:16

T、Tの言う真の信仰なんて、所詮個人の体験に基づき感得した気付きだとしたら、それはT、Tにとってそれはそうなんでしょねと他人は言うでしょう。

お前の言うことをみとめるから俺の言うことも認めろという価値相対論でやめとけ、内心の自由に高い低いの明確な尺度や客観的検証をもちこめないから不毛になるから辞めろがパタリロさんの言いたい苦言。

後ね科学や哲学を信仰的真実と比較してるT、Tの発言は痛すぎ科学は事実を仮説→実験→追試→普遍的事実の証明をする行為です。
真実の追求は文学や宗教学の範疇です。
芥川の羅生門の真実は薮の中を奇しくもコタロー、朔、T、Tが演じてるわけですよ。三者が同じ対象を語っているのに全然違うことを言ってるという格言ですが。真実は人の数だけあります。

T、Tが知るべきは真実と事実の基礎的違いで高等教育を受けた者ならだれでも分かる程度の認識ですね。

[700] くとるー 2008/11/28 22:23

700げっと!

[701] T、T 2008/11/29 08:43

>皆さんの意見が噛み合わないのは、認識に違いがあるからでは
>なかろうか。

>T、Tさんは禅を語り、kotaroさん、東方朔は巫を語り
>波多利郎さんは、一般信仰を語っているとすれば、

認識の違いです。その原因は物事を眼を閉じて見る処に在ります。
宗派が異なり、人が異なり、或いは国境が異なって、宗教が異なるのは宗教では無いと、つまり、
神仏が対象化されて在ると言うこと自体それは真の神仏では無いと言う事を僕は言っているのであります。
何故か。
外側に在る神仏では人は救われないからである。
つまり、向こう側に救う神仏がいて、こちら側に救われる者がいると言う、信じる宗教であり物事を二つに分けた
信仰では、所謂、輪廻のもとで、人は永遠に救われない。
どうして解るかと言えば、僕も嘗ては、禅をやる前には、仏壇に手を合せ、神社では、双手の音を、
「信じて」やっていたからである。所謂、信じる宗教である。

禅をやり出してからは、信じる宗教は間違いと気付いた訳であります。
禅でよく言われます、烏がカアーと鳴いて烏と知る。この鳴いてから知る処には禅はない。
つまり、事実ではない別のものである、即ち、各人の知的構成されたものであります。
この各人の知的構成されたものを更に組み立てられたものが、信じる宗教に属致します。

禅の在る処は、烏がカアーとまだ鳴かぬ処に在ると言う。白隠禅師なら「隻手の声を聞け」と言う
片手の声を聞く処に在ると言う。
この、烏がまだ鳴かぬ処、片手の声を聞く処に事実がある。
事実とは信仰の、またの名です。
この信仰は、「信じる宗教」ではなく、眼を開いて物事を看る処の「自覚の宗教」であります。

「烏がまだ鳴かぬ処、片手の声を聞く処」が解らぬ内は認識の相違は当然起こるべきであります。
従って、
この事実が解れば、当然、認識の相違は解消されます。
事実は一つであります。二つに分ける処より認識の相違が生じる。自然な結果です。

[702] くとるー 2008/11/29 08:59

ほれ、事実と真実の差異が分かってない。

[703] T、T 2008/11/29 09:21

>真実の追求は文学や宗教学の範疇です。

そこにもない。文字の上にあれば誰でも解ります。
つまり、認識の相違は生じない。
やはり、貴方も本質が解っていない人と言えましょ。。

>三者が同じ対象を語っているのに全然違うことを言ってるという格言ですが。

認識不足です。
彼らは、神仏を対象化して語って居りますが、僕は対象すべきものを語っていません。
同じように見えるのは、貴方自身が二元領域からしか、物事が見れない証拠です。

>真実は人の数だけあります。

真実は一真実だけです。
「人の数だけあります。」それは、考えられた思考の事でしょ。真実とは言わない。
これで解ります。二元論の領域しか解らない人の証明です。

[704] くとるー 2008/11/29 10:48

二次元領域など関係ありませんね。おやまあ、芥川の羅生門もお読みでないとは。羅生門では一つの事実しかないはずなのに三人の登場人物がそれぞれの真実をかたられます。いわく真実は薮の中

真実は一真実×→真実は無数〇
事実は一つ〇

あなたは高等教育は受けていないようですね。おかわいそうに

神仏云々の前にあなたは自分の信仰を客観視するための学問をすべきですね。

あなたの言うように内的認識は文字に由来する言語領域では認識できません。内的認識は意識下でのみ認識されますが言語領域まで意識化しないとわけがわからなくなります。ユングの象徴と原型ですよ。その象徴がコタロー氏や朔における神仏ですよ。

呪術は潜在意識がフィールドです。
それも分からないとはほとほと学力が低い。心理学も学ぶべきですね。

[705] くとるー 2008/11/29 10:58

だからね、真実を扱い追求する学問は文学と宗教学ですよ。学問も知らないとは?自分の信仰をだから客観視できない。

それがないからあなたは自分の信仰に耽溺してるわけですよ。

自分の信仰に耽溺していても別にいいが、自分の信仰で他人の信仰を否定するなというわけ。

その信仰が事実ならいいがあなたの信仰はただのあなたの内的真実ですから。

事実だというなら科学的にあなたの信仰は検証にたえられますか?できませんね。

[706] 750Rider 2008/11/29 11:10

訂正:東方朔→東方朔さん、失礼。

観点に於いて大きく二つに分かれるのではなかろうか。

「a真理体現における直観」「b直観を基に熟成した教理」

仏教に於いては、aが釈迦、bが舎利仏若しくは龍樹
キリスト教に於いては、aがイエス、bがパウロ若しくはアウグスティヌス

このスレに於いてはaに主眼を置いているのがT、Tさん、
bに主眼を置いているが波多利郎さん、と思われるが。

[707] くとるー 2008/11/29 11:18

T、Tは対外に神仏を感じるからコタローや朔の信仰は偽物だといったが、ユング心理学の集合的無意識が理解できてフレイザーの金枝篇を読んでれば実はわかるんですがね。あなたの意見など反証可能ですよ。

あとで科学と学問の違いをおしえたげるよ。
T、T宿題。仏教は科学か学問か。どちらが扱うものかお書き添えください。(笑)

[708] くとるー 2008/11/29 12:27

>>706 さんaを尊重していたのは東方朔です。大乗非仏説でbを否定しています。

T、Tとコタローはbです。

ただパタリロさんは信仰で信仰を否定するなと言いたいだけだと思います。パタリロさんはabにこだわりません。

[709] T、T 2008/11/29 12:53

>仏教に於いては、aが釈迦、bが舎利仏若しくは龍樹
>キリスト教に於いては、aがイエス、bがパウロ若しくはアウグスティヌス

これなら、相違は生じません。

[710] T、T 2008/11/29 12:56

>仏教は科学か学問か。どちらが扱うものかお書き添えください。

仏の教えでありますから、科学にも、学問にも属しない。(科学も学問です)
あらわれた文字では学問です。単なる教説で無い故に学問ではありません。
仏の教えと、科学の論理とは全く別種の論理体系にあります。
しかし、仏の教えと科学(学問)とは別であるが、別に離れてありません。
2にして1で、1にして2の関係である。
この関係は逆対応的な関係にあります。

[711] ちょっくら 2008/11/29 17:47

仏教は形而上学である

[712] くとるー 2008/11/29 17:56

形而上学でも扱います。
形而上学から外れる時もあります。

[713] ちょっくら 2008/11/29 17:58

禅は形而下学?

[714] kotaro 2008/11/29 21:58

>>[688]T、Tさんへ
>誰が自分は神だと言ったり書いていましたか?

ですから、東方朔さんの[635]の
一、過去現在未来を伺ふ可し。
二、真神なるや偽神なるやを弁ぜずば有る可らず。
三、神の上中下の品位を知らずば有る可らず。
四、神の功業を知らずば有る可らず。
五、荒魂和魂幸魂奇魂を知らずば有る可らず。
六、天神地祇の分別無かる可らず。
七、神に三等有るを知らずば有る可らず。
八、神に公憑私憑あるを知らずば有る可らず。

に対する問題提起です。
T、Tさん宛ての話では御座いません。

>禅とは言って居りますが、禅宗とは一言も言って居りません。
>しかも、禅宗信仰者でもない。誤解しないで下さい。
>禅と禅宗は全く別の事柄です。

それは詭弁でしょう。
どの宗教団体でも講話だけでは、お金を要求しないと思いますよ。
そこまででしたら、見積もりでしょうから。

あくまで僧侶が法力を行使する際にだけ、
技術料として代価を得ている。
他の宗派の法力の代償は、ペテンとか詐欺といい、
禅宗の戒名とか葬式には、それを使わないのは不公平。
禅宗と他宗教の法力行使の代価の不当、妥当の議論をすべきで、
禅と他宗派の生活の糧を得る手段とを比較するのは、
公正ではありません。

[715] 才巴 2008/11/30 01:31

呪術修行で降仏が扱えるようになりました。

希望者には仏性を降ろします。

[716] T、T 2008/11/30 09:30

>それは詭弁でしょう。
>どの宗教団体でも講話だけでは、お金を要求しないと思いますよ。
>そこまででしたら、見積もりでしょうから。

詭弁でも何でもありません。
貴方は文字と貴方の思い込みで解釈されるからいつも物事を歪めて見てしまう。
僕は、お坊さんでは無いんです、今までは年会費として5000円程を払っていた
一檀家に過ぎず無い者です。
今では、其の禅宗からも離れて、前にも投稿して言っているように奈良県宇陀市の
山手の家で、禅仏教を駆使して神経症に関連した精神療法を無料で行っています。
無料どころか却って、はきだしです。(笑う)
従って、僕の禅と言うのは、禅宗とは全く関係がないと言っているではありませんか。。

>他の宗派の法力の代償は、ペテンとか詐欺といい、

ペテンとか詐欺と言うのは、神、仏をだしにして、悩み弱っている人の無知に付け込んで
不安を煽り、或いは、脅し、それらを解消、解決するような神、仏を論じておられるから
ペテンとか詐欺というのであります。
仕舞には、神、仏に法力が在るかのように思わせる呪いか、御札か、壺か何だか知らないが
売り出すことになる。
思い違いをしてはいけない「代価の不当、妥当」性を言っているのではありません。
代価の不当、妥当性は、払うその人の問題で、批判と別問題です。
ただ、事実から外れた事を言って居るから批判したまでで、僕は宗派には全く興味ありません。
今は在る事は、悩み苦しみから解放された時の人の喜びだけです。
これは、お金の問題ではない世界の事柄です。却って、その事によって自分が救われる事が在る。
一度経験されるとよろしいですよ。

[717] くとるー 2008/12/01 00:09

パタリロさんヘルプ

[718] 波多利郎 2008/12/01 02:11

>>716

>禅仏教を駆使して神経症に関連した精神療法を無料で行っています。
無料どころか却って、はきだしです(笑う)

純粋な質問になるんですが医者(免許あり)なんですか?

で、本題ですが>>618 で「批判した事が無い」と言っていて>>694 で「ハッキリと否定してます」って、矛盾してますが(苦笑)
宗派だろうが信仰だろうが「信仰」を否定してるんですが(苦笑)

>>701

>神仏が対象化されて在ると言う事自体それは真の神仏では無いと言う事を僕は言ってるのでありす。

だから、アナタ以外の人間には「単なるアナタの信仰設定」になるんだってば(苦笑)
アナタが事実と言おうが信仰として語っているなら「事実と信じただけ」なんだってば(苦笑)

アナタが言う「真の信仰」って、その根拠をアナタがした体験以外で示せますか?

信仰ってのは信じる事が世間一般の意味合いなんですが…(苦笑)

で、対象が「宇宙人、UFO」でも「マラドーナ」でも「神仏」でも「信じて体現化」したら「信仰=宗教」になるんです。
で、「信仰心」は「信仰(信じる)する対象への敬う心がけ」です。
で、それを「信じてるだけ」と理解してる事を「自らの信仰を客観的に見れる」と言うんです。
なので「他の宗教(信仰)」を否定する事は無い。
何せ「自分の信仰も否定してる信仰と同じ」と言う事を理解してるからです。

後、知ってると思われますが、宗教と言う言葉は元々「信心」と言う言葉だったんですよ。

アナタの言っている事が事実(真の信仰)だろうがアナタの勝手なんですが、他人から見たら「アナタは自分が事実、真の信仰と信じた事を根拠に他人の信仰を批判している」だけの盲信さんなんです(まさか盲信さんとは…苦笑)
で、自己中な信仰を持つ盲信さんほど、他人が言う「自分の信仰を客観視しなよ」の意味を理解出来ないんです。
アナタは他人の信仰に対して「間違い」と否定する資格は無いんですよ。
相手からしたらアナタも「間違っている」になるんで…(苦笑)

[719] 波多利郎 2008/12/01 02:36

>>716

後、私が「坊さん」「神主」「牧師または神父」を引き合いに出した理由。

「相手の信仰がどんなモノであっても自らの信仰でその信仰を否定しない」。
彼らにしたら「人それぞれ道(信仰)があり、正しい道(信仰)は本人が決める事」と言う事。
他宗教(他信仰)を理解するとはそう言う事なんだよ。

この違いは何だ(苦笑)

[720] kotaro 2008/12/01 05:57

>>[716]T、Tさんへ
>従って、僕の禅と言うのは、
>禅宗とは全く関係がないと言っているではありませんか。

一言で言えば、唯我独尊でしょう。

プロとアマで言うなら、御自分はアマと公言されているだけでしょう。
金銭的にクリーン、当然でしょう。

感謝こそすれ、誰がアマに金銭を払いましょうか。
金銭を貰わないじゃなくて、相手が出さないだけでしょう。

T、Tさんは、
プロは衆生から報酬をいくら貰えば妥当か
と、言う議論に参加する資格がない。
何故なら、T、Tさんはアマですから。

[721] T、T 2008/12/01 11:46

>だから、アナタ以外の人間には「単なるアナタの信仰設定」になるんだってば(苦笑)
>アナタが事実と言おうが信仰として語っているなら「事実と信じただけ」なんだってば(苦笑)

「「事実と信じただけ」なんだってば」これは自我だけの信仰で、本来ある処の信仰では無い、
従って、悟りがなければ、本来ある処の信仰にならないと言っているのであります。
こんな事を言っているから、僕は貴方を信仰を知らない人と言うのです。
それと、同じ事の問いになって、循環論になっております。原因は精神疲労による思考力の低下です。
この方が問題です。

>アナタが言う「真の信仰」って、その根拠をアナタがした体験以外で示せますか?

ここ掲示板0から7までの僕の投稿を看れば解ります。
ただし、根拠は僕の方では無く、貴方の方に根拠があるので、貴方に信仰の根拠がなければ
根拠を看る事は不可能です。

解る人(自分に信仰の根拠を持っている人)には、0から7に到る「まで」に解ります。
解らぬ人(自分に信仰の根拠がない人)には、0から7まで見ても解る事は不可能です。

このような問いをされるから、貴方の言う信仰は、実際の日常生活には何ら役に立たない、却って害になる。
そんな信仰が、果たして信仰と言えるか、どうかと言う事を問題にしておるのです。

>で、対象が「宇宙人、UFO」でも「マラドーナ」でも「神仏」でも「信じて体現化」したら「信仰=宗教」に
>なるんです。

対象化の信仰は、本来ある処の信仰ではありません。対象化された信仰は迷いの信仰です。
「「宇宙人、UFO」でも」と言うものは想像の領域の事で、それが体験されたとなれば、
禅で言う処の魔境の領域でしょう。これは信仰とは言えません。
精神疲労時に起こる現象です。

>で、それを「信じてるだけ」と理解してる事を「自らの信仰を客観的に見れる」と言うんです。

思い違いをしてはいけません。これは、どう論じようが客観的でなく、あくまでも主観的になっております。

>他宗教(他信仰)を理解するとはそう言う事なんだよ。

他宗教の理解は、本来ある「あるわけ」の共通点を見つけて行くと言う事でしょう。
貴方は、異なるものを理解できますか?故に、僕の言う事が、全く理解出来ないでしょう。
それは「ありよう」の体系から「あるわけ」を理解されようとされるからです。
しかし、ここ掲示板を看て居られる方で、少なくとも2名の方は「此事」が解る人が居られます。

[722] T、T 2008/12/01 11:57

>一言で言えば、唯我独尊でしょう。

この本来ある意味が確りと理解されているのなら
今までのくだらない、投稿はなかったのではなかろうか。
従って、貴方は仏教用語が理解されておりません。
以上です。

[723] 東方朔 2008/12/01 12:30

>仏教の言う成仏は、自分が本当の自分に目覚める(悟る)と言う意味です。
>仏に成るとは、死んでから仏になると言う事ではありません。
>仏は覚者(迷いから覚めた人)のことで、
>従って、仏に成るとは、この現実で日常生活を営んでいる中で自分が
>本当の自分に出会うと言う事を成仏と言います。

原始仏教では、輪廻から外れることが「成仏」ですね。
本当の自分に目覚めるだけで「成仏」できるなど詭弁ですね。
本当の自分になっただけで「如来」になれるのなら
苦労がいりませんよ。
原始仏教つまり釈迦の時代の仏教は戒名や墓も供養もしませんよ。
釈迦は墓も供養も僧侶は携わるなと厳しく言っていましたよ。
日本に仏教が渡ってきて神道の霊魂観と結びついて、
僧侶がお墓に葬られるようになっただけですよ。
日本では7世紀の道昭という坊主が最初ですね。
戒名や墓で金を取るのは、江戸幕府の宗教政策と
檀家制度のせいでしょうね。つまり仏教はペテンをやっていた。

神道には葬儀はあり神葬祭や幽斎がありますが、
日本古来からのものですよ。

kotaroさん悪いですが、神仏を降ろす祈祷をする場合
どうしてもと寸志程度だけいただくか、
無償で執り行うのが正しいあり方ですね。
私も霊符などを頼まれますがすべて無償です。少なくても
kotaroさんのように霊や神仏で金もうけなどする気にはなりませんね。

[724] 東方朔 2008/12/01 12:47

曹洞宗が恐山を牛耳っていることをT、Tはどう感じていますかね?
禅宗が霊魂信仰をしてるんですよ?
禅が正しいと思ってるT、Tは原始仏教を学ぶべきですね。

[725] 東方朔 2008/12/01 13:22

>山手の家で、禅仏教を駆使して神経症に関連した精神療法を無料で
>行っています。

もし医師免許や心理療法士などの資格が無く、無資格で精神治療をほどこしていれば、医師法違反ですよ。たとえ無料でも、ペテンや詐欺以前に犯罪ですからね。

kotaroさんも加持祈祷で得た収入を、確定申告していますか?
していないでしょうね。
してなきゃ、脱税ですからね。

まったく宗教を語る以前に犯罪者ぞろいですね。

[726] 東方朔 2008/12/01 15:06

http://homepage2.nifty.com/uoh/hosp/22hakuin.htm
道教のパクリですね。
禅がこの程度のもので、人助けしているとは滑稽ですよ。
禅を利用したセミナー詐欺もありますからね。
T、Tは詐欺師ですね。

[727] 波多利郎 2008/12/01 15:48

>>721

あっ、突っ込んだ理由を全然理解してないご様子(苦笑)

アンタが何を語ろうが「単なる信仰を語っている」と言う事実に気づきなさいよ。
確かに「信仰」には根拠は無い。
しかし、アナタはご自身の信仰が「真の信仰」と言い切ってる。
言い切るには皆を納得させる説明が必要。
数人しか納得しなあから「単なる信仰」でしか無い。
それを理解してないのがアナタ自身。

くとるーさん

私でも駄目だわ〜
この人(T、T氏)、自分の信仰の都合でしか理解しかしようとしない人だもの(苦笑)

「客観的にみる=自分の言う事(信仰)を第三者の目線に置き換える」と言う事が全然理解出来て無いもの…
普通、客観的に見たら私が言う意味を理解出来るはずなんですがね(苦笑)

他宗教批判してないと言いながら神仏を信仰の対象としてるキリスト教、イスラム教など宗教を名指しでは無いが批判しているし…
「どっちも単なる信仰」と言う事を理解してないし(苦笑)
この人(T、T氏)は他人に「信仰を理解してない」と言う事自体が当てはまる。
信仰の意味を自分の都合だけで考えているだけな人。

色々な盲信(トンデモ)さんを見て来たけど、この人(T、T氏)も相当な盲信さんだよ(苦笑)

[728] くとるー 2008/12/01 17:55

パタリロさん同感です。
コタロー、東方朔といい凄いスレッドだよ(笑)

[729] kotaro 2008/12/01 21:45

         死後の世界と霊魂

霊は「ある」といっても「ない」といっても誤りに陥る

引用元:死後の世界と霊魂
http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/houwa/sigonosekai.htm

引用:
死後の世界と霊魂について結論から申し上げますと、
お釈迦さまはこの事について「有る」とか「無い」とか
というような答えはなさっておられません。
したがって、死後の世界はあるともいえないし、ないとも言えない。
 巷に、霊障や浄霊によるタタリとして人々の恐怖心を
あおる宗教もありますが、仏教で説く仏性とはちがいます。
お釈迦さまは、他の思想家から「死後に地獄、
極楽があるのか、あの世はあるのかないのか」といった
観念的な質問に対しては答えずに、ただ沈黙されたといい、
これを仏教語では「無記答」といいます。
無記とは答えない、無回答ということですが、
悪事を為しながら知らんふりすることとはちがいます。
また、仏教以外の思想家が「釈尊は回答できないのだ」
と非難すると、釈尊は「もっと大切なことを問うがよい」
と正されたそうです。
ここの教示にポイントを置いておけば
死後の世界の有無など心配無用です。
なぜならば、死後の世界があるならば
今の生き方である「業」によって定まるからです。

[730] kotaro 2008/12/01 22:21

追伸

大事な事は、ノーコメント。
お釈迦様は無回答な訳です。

それを、T、Tさんは、
お釈迦様は霊を否定された
と受け取られています。

どちらでも大差ないではないか。
いいえ、違います。

これから修行する弟子に対し、
修行への熱の入れ方次第で、
死後が決まると言えば励みになる。
それを、因縁を全て解決しないと仏道に入れないと言えば、
修行に身が入らなくなる。

死んだ人はどうすればいいか。
それに注目すると、先祖の先祖はどうする。
さかのぼるれば、きりがない。
両親の両親も皆、身内とすれば、
全ての人の御霊安かれとすれば、きりがない。

霊を認めると、全てが実在化して、
解決しなければならない問題となる。

いい人は悪い人で、悪い人はいい人

問題を指摘してくれなかったのは、
これまで、穏やかに過ごせたと言う点では、いい人。

だが、もっと早く言ってくれていれば、
早期に対策を立てれたと言う点は、
言わなかった人は悪い人。

あるともないとも言える。
そう言ってしまうと、そう言う問題を内包している事になる。

[731] 金太郎飴 2008/12/02 00:10

もっと話したかったね

軍板は閉じられたみたい

[732] 東方朔 2008/12/02 16:14

kotaroは霊感で金を騙し取る詐欺師だし、
T、Tは禅の内観療法などで金を毟り取る泥棒だな。

[733] kotaro 2008/12/03 03:04

>>[732]東方朔さんへ
>kotaroは霊感で金を騙し取る詐欺師だし、
>T、Tは禅の内観療法などで金を毟り取る泥棒だな。

不況の折、金銭に注目が向かうのは無理ない。
だが、お釈迦様は、霊があると言ったのか言わなかったのか。
真面目に議論して、(霊が)あるならば、
詐欺とかペテンとは言えない。
[729]、[730]を熟読して、議論しようではありませんか。

[734] kotaro 2008/12/03 03:08

          無間地獄

お釈迦様は、死んだ人は救いようがない、
生きている間に修行に励むほかないと言われた。

このお言葉をどう受け取るか。
一つは、言葉通り受け取って修行に励む。
後一つは、師による救済が用意されていると思う。
残る一つは、お釈迦様に生きている間の修行を学び、
死んだ人の救済は、バラモン教に求めるかである。

実際、お釈迦様の死後、仏教に密教とか、
加持祈祷が加えられた事情は、
お釈迦様の
死んだ人は(仏教では)どうしようもない。
と言うお言葉を素直に受け取って、

その救済策を既存の宗教に求めたのかもしれない。
弟子として、師の教えに素直に従えば、
師の教えに欠ける部分は弟子が補うほかない。

それを、不肖の弟子とするか、
師の足りない分を補う師思いの弟子と見るか。
いずれにせよ、師はお亡くなりになられていて、
ご存じない。

[735] おお!コワッ 2008/12/03 06:47

死という文字が頭から離れないような。
もっと「生」ということを考え続けるものだ。

哀れ!

[736] 750Rider 2008/12/03 12:13

>>734
>死んだ人の救済は、バラモン教に求めるかである。
実際、お釈迦様の死後、仏教に密教とか、
加持祈祷が加えられた事情は、
お釈迦様の死んだ人は(仏教では)どうしようもない。

婆羅門の梵が当時の印度思想の根幹に在るにせよ
婆羅門と対峙し生と刹那に重きを置く釈迦には考え難い。
亦古今東西を学んだ釈迦誕生は孔子没後16年
東西の新進沙門と交わった釈迦が
「未知生 焉知死」の導入の可能性も在り得る。
現代仏教の流れを組む死の思想の融合は
婆羅門出身である王舎城結集座長摩訶迦葉の
主導権の影響が大とも考えられる。

[737] トミカ 2008/12/03 20:06

>736
大変お久しぶりでございます
もうすぐ閉鎖ですね
ライダ様にはいろいろ教えて頂き感謝しております
ありがとうございました

[738] kotaro 2008/12/03 21:30

>>[735]おお!コワッさんへ
>死という文字が頭から離れないような。
>もっと「生」ということを考え続けるものだ。
>哀れ!

目蓮、阿難のお話ご存知でしょう。

参照:目蓮、阿難のお話
http://www2u.biglobe.ne.jp/~katsuzen/bonsegaki.htm

お釈迦様は、生きている内の修行に付いてしか説れなかった。
それは事実だろうと思います。

だから、目蓮、阿難の話は、後世の作り話。
それも事実だろうと思います。

だが、だから、盂蘭盆会、施餓鬼供養は仏教ではない。

そうはならない。
お釈迦様が説かれなかった事と、
お釈迦様の教えを後世の弟子たちが補完して、
お釈迦様の教えに、盂蘭盆会、施餓鬼供養を加えて、
仏教をより完全なものにした事は、
弟子達が釈迦を越えようとしたのではなく、
寧ろ、釈迦に従うが故に、より完全な教えにしたのだと思う。

では、盂蘭盆会、施餓鬼供養を加えた事で、
釈迦の教えが人の世の生き様と遠く外れた教えになっただろうか、
それとも、死者への弔い、回向を加えて、
人間らしい教えになっただろうか。

[739] ]おお!コワッ 2008/12/03 22:16

>>盂蘭盆会、施餓鬼供養
その他、葬式、位牌など中国の影響などにはまったく関心がありません。勿論戒名なるものにすら関心ゼロです。

というより、仏教といわれる習慣にすら関心はありません。
また、「釈迦の弟子たち」という人たちにも興味ありません。
といえば、仏教教典にすら関心ないということです。
ましてや、言葉であれこれ議論とやらを交わすことなど一切したくはありません。
無言の行の意味をお考え下されば言わんとすることがお分かりと思います。

関心あるのは、菩提樹の下で座ったとされる釈迦の行為のみです。

[740] 元祖 2008/12/03 22:36

>関心あるのは、菩提樹の下で座ったとされる釈迦の行為のみです。

http://x51.org/x/06/03/1224.php

[741] kotaro 2008/12/03 23:17

>>[634]東方朔さんへ
>ちょっと待ってくださいよ、
>天照大御神が人間に直接降臨することはありえませんよ。
>別天津神はもちろん、高天原の主宰神
>天照大御神を体に降ろすなど人間には不可能ですよ。

叔父さん以外に
天照大御神が腹中に入るお方おられました。

正に

日の下には新しいものはない(聖書 伝道の書第一章9節)

です。
参照:聖書伝道の書
http://bible.monochro.com/index/18875/#ln18875

    天照大御神が腹中に入る

引用元:黒住教の出現と宗教革命の予感
http://www.k5.dion.ne.jp/~spiritlb/ume-5-5.html

引用:
黒住教の出現と宗教革命の予感

もし、近代のわが国において、
最も根本的な宗教革命の予感があったとすれば、
それは黒住宗忠の黒住教の説かれたときである。

黒住は天照大御神が腹中に入るという
単純な教えを説いただけであるが、
治病能力は抜群であり、
その日常もまことに神人というに
相応しい人で、人々の尊崇を受けという。
教えは単純であるが、よく考えてみると、
これは実に驚倒すべき革命力を秘めて、
神道を根本から覆す力のある教えである。

それは、天照大御神が一個人の腹中に
入ったということをよくよく考えて
みれば分かることである。

天皇家を中心としたわが国の神道において、
もしか書かれざる神道神学があるとすれば、
そのどこかに必ず次のように
記されていなければならなかった筈である。

「天照大御神が人のなかに入るとすれば、
その人とは、天皇御一人をおいてほかにはありえない」と。
それが連綿たる皇室第一の祭事たる大嘗祭の意味なのであるから。

[742] 金太郎飴 2008/12/04 00:26

>>738
お考え、支持します!

[743] T、T 2008/12/04 07:23

>[735]おお!コワッ 08/12/03 06:47 /4nrEZaJCt
>死という文字が頭から離れないような。
>もっと「生」ということを考え続けるものだ。
>哀れ!

その通りです。
厳しく、且つ、思い遣りのご指摘です。
全く、生きる意味も解らず、死を論ずるなんて不可能な事です。
お釈迦様の教えもこの事を指し示すものと推察致します。

>無言の行の意味をお考え下されば言わんとすることがお分かりと思います。
>関心あるのは、菩提樹の下で座ったとされる釈迦の行為のみです。

その考えでよろしい。
本来ある仏教は、お釈迦様の跡、即ち、文字を追うのではありません。何を求めたかです。
要する処は「自ら承当する」にあります。

[735]おお!コワッ。[739]]おお!コワッ。さんの考え方、総べてよしです。
この様な方が増えると、ここ掲示板の意義も益々深まります。

[744] くとるー 2008/12/04 12:44

ふぅT、Tに都合のいい話しは有意義だと。

てか、仏教検証スレッドなんすけどここ?

[745] 波多利郎 2008/12/04 13:38

それよりも>>718 の最初に書いてある質問の答えが聞きたい。

無料だろうが有料だろうが無免許(無資格)なら詐欺師である。

肝心なところをスルーした理由はいかに?

[746] 東方朔 2008/12/04 14:45

http://www.libnet.pref.okayama.jp/mmhp/kyodo/person/kurozumi/kurozumi.htm
黒住宗忠は金光教で播磨の陰陽道系の系譜にありますね。
黒住の行った太陽拝は天照大御神を降ろすのではなく、天照大御神の
魂(こん)を腹中に鎮魂することですね。
kotaroさんはほんとうに無知ですね。何度もいますがあれほどの神は簡単に人間に降臨しませんよ。
あなたの叔父さんは、邪霊にたぶらかされたのでしょうね。お可哀そうに。
太陽拝なら相曾誠治という人間もやってますよ。ですが、彼らは天照大御神を直接降臨などさせていませんね。

T、Tは無免許で精神療法をやる詐欺師ですね、嘆かわしい。
仏教系カルトの典型ですね。

[747] 東方朔 2008/12/04 16:12

>>盂蘭盆会、施餓鬼供養
>その他、葬式、位牌など中国の影響などにはまったく関心がありま>せん。勿論戒名なるものにすら関心ゼロです。

ほう、葬式、位牌、戒名、永代供養など関心がりませんに同意しているT、Tそれが禅宗、真言宗、浄土宗、日蓮宗、など檀家仏教が財源にしていることをなんと考えているか聞きたいものですね。
僧侶の肉食妻帯もですよ。ペテンでしょう。

そして精神療法を無免許でやってるあなたの行為もまたペテンでしょう。

[748] くとるー 2008/12/04 16:50

確かにT、Tは無資格か有資格者か説明する義務があるし、例え赤字でも確定申告しておかないと脱税になる。プロで金貰ってイタコやってると豪語してるコタローさんもだけどね。

お二人ともお答え下さい。

[749] 才巴 2008/12/04 16:58

よければ希望者に、
あまてるも降ろします。

[750] T、T 2008/12/05 08:11

>[744]くとるー
>[745]波多利郎

仏教検証地である事は、よく承知しております。

しかし、この程度の二人では、仏教検証なんて不可能事です。
断言しておきます。

[751] くとるー 2008/12/05 08:47

あの?日本語つうじてます?あなたは無免許か有資格で精神療法やってるのか答えなさい。無免許なら詐欺ですから。医師法に抵触しますし犯罪ですよ。
なぜこの問いだけにはスルーですか?

[752] 東方朔 2008/12/05 08:57

僕は神戸ですよ。奈良県の宇陀ですか、近いですね、もよりの警察に無資格で精神療法やってるやつがいると告発しますかね。
だから仏教系カルトは危ないんですよ。

仏教ですが、富永仲基の加上論で決着がついてますよ。
いまさらながら検証とはくとるーも波多利郎もめでたいやつらですね。

[753] 波多利郎 2008/12/05 09:55

>>750

日本語通じてますか?
仏教の検証なんて所詮単なる信仰設定の一つなんでどうでも良いんですわ〜
最初からそんな事求めてませんぜ!

スレ主が単に「キリスト教が正しい」と出張したいが為に仏教を引き合いにしただけのスレにしか過ぎませんがな(笑)
だからスレの最初の方でスレ主は「どっちもどっち」の意味で突っ込まれてるんですが…(苦笑)

肝心なのは「アナタに医師免許(資格)があるのか」を聞いているんです。
あるのなら「ある」と言えば良いだけなんですわ(苦笑)

[754] くとるー 2008/12/05 11:27

仏教ってただの設定なんでパタリロさんがいうように肯定派にはどうでもいい。完璧な宗教などありえないからね。
仏教なら科学で検証すれば阿保田子朔が言うように大乗非仏説でアウト。
それだけ。
免許あるか答えなさいTT

[755] T、T 2008/12/05 11:37

>[752]東方朔 08/12/05 08:57 *XzaqvoO1aHf*mwZwbC3w
>僕は神戸ですよ。奈良県の宇陀ですか、近いですね、もよりの警察>に無資格で精神療法やってるやつがいると告発しますかね。
>だから仏教系カルトは危ないんですよ。

ここの掲示板を提示され、どうぞおやり下さい。

[756] 東方朔 2008/12/05 12:15

免許があるか無いか答えてほしいですね。
それからですよ。告発は。
医師免許や心理療法士の免許がないんでしょ。医師法違反だよ。
自家製の薬などは投薬はしてるのかな。してれば、薬事法違反のおまけつきだよ。

[757] おお!コワッ 2008/12/05 18:22

彼はお金を取って「治療」等やっていないと思うが・・・
早とちりな奴もいるものだ。
無資格で金をとって「治療」と称して行えば、それは「医師法違反」となるんじゃないのかな。慌て者さん???

彼の場合は、難病の人に対して同義的に慈愛を施しているだけと思うが???。いかがじゃな?慌て者さん??(⌒ー⌒)
こういうのを布施行というんですよ。
布施といえばお寺にお金を払うことだけじゃないんだよ。
また一つ勉強になりましたね。(⌒ー⌒)

[758] おお!コワッ 2008/12/05 18:24

>>755 ]

T、Tさん、こういうレベルの低い(失礼)人たちとやり取りしていればあなたまでレベルを疑われることになりかねませんよ。

もう十分やったではありませんか?

[759] おお!コワッ 2008/12/05 18:25

同義的

道義的の間違い失礼・・・・・

[760] 波多利郎 2008/12/05 20:49

>>758

あの〜、無資格で無料だろうが有料だろうが「医療行為」としてそれをしていたら「医療違反」になるんですが…
T、T氏、>>716 で「医療行為をしてる」と言ってますもん…。

だから「資格があり赤字覚悟で医療行為をしてるのか?」を聞いているワケです。

[761] 波多利郎 2008/12/05 20:54

何せ「国家試験」の必要な医療行為を無資格でしてたら有料だろうが有料だろうが問題です。

国家資格も無い自称霊能者達がスピリチュアルカウンセリングをするのとワケが違います。

[762] おお!コワッ 2008/12/05 21:53

厳密には、療法と称して相手の体に触れたりする行為を医療行為といいます。
いい加減こだわるのはやめなさいよ。
あまりにも小さすぎる。
みっともない

[763] くとるー 2008/12/05 23:43

あのー体に触れなくてもカウンセリングにも資格が要りますし、慈悲ほどこそうがなんだろうが、一円でもお金貰ったら確定申告が必要だししてなければ脱税です。重加算税にへたすれば懲役です。

仏教に従順であっても社会に対しルール違反があれば反社会的といわざるえません。ルール違反がなければ別に何信じてようが勝手です。パタリロさんもそれは同様だと思います。

[764] くとるー 2008/12/06 00:08

布施行ですが慈悲を施し結果金をもらったら、宗教法人でもないかぎり申告納税の義務を負うことになります。例え一円でもね。

医療行為が善意でも、無資格でやれば犯罪です。

ぶっちゃけ犯罪しない信仰なら文句はないわけです。犯罪になれば信仰以前の問題です。ルール違反になりペナルティーがかせられます。

善意であっても犯罪になることがあることをしろう。

[765] T、T 2008/12/06 08:08

[758]おお!コワッ 、さんへ。
>T、Tさん、こういうレベルの低い(失礼)人たちとやり取りしていればあなたまでレベルを疑われることに
>なりかねませんよ。

ご鞭撻、ありがとうございます。
僕だけの事なら、ここへは投稿して居りません。
ここへの投稿は、彼らへの投稿が主題ではなく、修養生(3名)の教材の為の投稿にもなって
おります。
投稿の意味から致しまして、そこを考慮「   」さんへは、つけていないのであります。
修養生にとっては、討論、対話的な事柄が一番、解りやすいと感謝されております。

>もう十分やったではありませんか?

そのようです。そろそろ終了かと、考えて居ります。
ご投稿感謝致して居ります。

__________ _ ___________

>善意であっても犯罪になることがあることをしろう。

そのような事、充分に存じて約25年間、皆さんに喜ばれ、生きがいと
してやっております。
それが却って自分の為にもなっております。
一切心配ご無用です、

本当に皆さん勝手な解釈で捏造し、勝手に騒いで居りますが、
これが人間らしさと言うのでしょう。
理屈にとらわれ、自分の作った価値観にとらわれ、人生の大事さを欠いての掲示板への投稿、
お体をお大事に。

[766] 波多利郎 2008/12/06 10:35

T、T氏へ

もっと、突っ込んだ質問に変えてみましょうか…

無資格として
医療行為の意味で無く、スピリチュアルカウンセリングの類だとしても、やってる事はそこらへんの自称霊能者がやってる心霊療法や除霊、浄霊などの類と変わらない。
変わるとしたら、単に有料か?無料か?なだけ。
「無料だから」と言うのは単なる言い訳、開き直りでしか無い。
第三者からみたら、それこそ「どっちもどっち」なのよ。
無資格で精神治療をわかっているフリをしてるだけだもの…
無料を言い訳にする方が質悪し。
自分で悪いとは思って無いもの。
つまり「人の事(コタローさんの事)は言えないぞ」ってなる。
だから「有資格」か「無資格」を聞いたワケ。

有資格でもあるけど開業して無い、でもそのノウハウを生かしてやっているだけと言うなら別に問題無いワケよ。
何度も聞いているのにスルーって事は「無資格だけど無料だから悪く無い」って思っているんじゃね?って受け取られるのよ。
現にアナタのレスからはそうとしか感じられない。
真の信仰とかほざく前にそう言うところをきちんと考えた方が良いんじゃね?

[767] くとるー 2008/12/06 11:00

解釈がうけとる側によって勝手に解釈されたのはT、Tの説明不足。

[768] くとるー 2008/12/06 12:12

社会のルールに違反しなければ社会は内心の自由に干渉しません。
それは私も同じ。
少なくとも日本はそういう社会です。
禅によるカウンセリングなど資格が無ければスピリチュアルカウンセリングみたいなもの。
医療と信仰は別問題です。言い逃げせずに向きあいなさい。逃げて開き直ることがあなたの信仰ですか?

[769] kotaro 2008/12/06 21:05

一言で言えば、T、Tさんは、罪に問われないのではないか。
医師法で医師以外が病名をつけてはいけない事になっている。
と言う事は、精神的病かどうか、誰も知らない。
ただ仲間で、そう言う病名を付け合って、
治療ごっこをしているだけではなかろうか。

[770] 野次馬 2008/12/07 10:23

>>今日日のガキはみんな口から生まれるみたいだのう。
口が達者とは、もしかして「おんなども」か???

おっと失礼
ご免あそばせ・・おっホホホホ

[771] 野次馬 2008/12/07 13:24

皆さん口から泡飛ばしてしゃべってんとこれなっと勉強してね。

中国の菜根譚の中にある有名な言葉です

引用
夜深人静、独坐観心、始覚妄窮而真独露、毎於此中、得大機趣


夜深く人静かなるとき、独り坐して心を観ずれば、始めて妄(もう)窮(きわ)まりて、真(しん)独り露(あら)わるるを覚ゆ、つねにこのうちにおいて、大機趣(だいきしゅ)を得(う)

夜深く人も静まったとき、座禅を組んで自分自身の心を観れば、妄想が消え真実の物事が現れてくる。この中から、前進への意欲と自信が得られるのだ

どっだい?
頭のいい皆さんだからちったぁ勉強なるじゃろ?
またまたいい勉強したね(⌒ー⌒)

[772] 田中 2008/12/07 17:11

記念かきこo(^-^)o

[773] 東方朔 2008/12/08 09:29

http://www5.airnet.ne.jp/tomy/koten/saikon/saikon_d.htm
>>771 これをコペピったんでしょ。
「大機趣を得る」ですが大機趣とはどういう意味かちゃんと調べてほしいですね。

>>769 病名のつけあいっこしただけで医師法違反ですよ。
kotaroさんは金もらってるらしいですから脱税ですしね。

[774] それは”愛”だ! 2008/12/08 20:51

仏教には萌え要素が少ない・・・ゆえに間違っている!!

[775] これで大概の宗教は黙る。 2008/12/08 21:40

これからの宗教はもっと服装に気を使うべきだ。

[776] キリストは偉大だ・・・ 2008/12/09 18:30

唯一神も頬を染めて、押し黙る。

[777] 祈りの言葉。 2008/12/09 18:33

モエー

[778] くとるー 2008/12/10 23:01

結局T、Tはけつまくって逃げたな。予想どおり。

[779] kotaro 2008/12/11 05:14

            動物霊

 二言目には、動物霊、動物霊と言われるお方がおられます。
だが、お釈迦様は、そのように説かれてはいません。
人として生まれても、悪事を行えば畜生界に生まれる。

それを誤解し、畜生と言う生き物がいて、
その数多の群れに、一人悪人が転生して、
日々辛い日々を過ごす。
だから、動物は忌むべきもの。
そうではない、動物と言う境遇、人間と言う境遇、
そして釈迦のような境遇、いずれも、
一つの霊が成長する過程で表す形にすぎない。
それを固定して、動物と言う生き物を
考えるから、たぶらかすとか、狐や狸が登場する。

とらわれない心、常に変化して、とどまる事はない。
それが森羅万象なのだから、動物霊、
たぶらかすと言う言葉から離れて欲しい。

[780] kotaro 2008/12/11 21:16

       斜めの因縁

「テレビ寺子屋」見てたら、
責任を伴う親子の間柄でなく、
意外と、子供の言い分を聞いてくれる赤の他人、
例えば、隣のおばさん、おじさんが、
「ふーん、あんたの言う事にも一理あるわね、
がんばってみなさいよ」と応援してくれる事で、
隠れた才能伸ばされる事あるという。

無責任な発言ととるか、励ましととるか。
いずれにせよ、人生斜めの関係重要と言う。

阿含宗桐山管長猊下、斜めの因縁言われていた。
ご先祖だけでなく、斜めの無関係の関係も、
浄霊していかなければならない。

因縁とは、どこででも、どのようにでもつくもの。
そのようにマイナスイメージで受け止めていた。
だが、そうではなく、
実際起り得る事と認識を新たにした。

先祖だけでなく、隣の人も、
家の栄枯盛衰に関係していた。
功労者は、直系の人ばかりではない。

無論恨みを有する人、
その人は血縁関係がないだけに、
子孫には、まるで心当たりがない事になる。

[781] kotaro 2008/12/11 22:59

>>[773]東方朔さんへ
>病名のつけあいっこしただけで医師法違反ですよ。

経済的事情から健康保険に加入出来ない人がいる。
病気になったらなんとしよう。
医師法違反というからには、無条件で医療を
受けれる社会環境になっていないといけない。

高齢者の医療が多くの国民健康保険
以外の健康保険からも捻出されているのに、
保険に加入していないと、
全く医療保険が適用されない。

これはある種の矛盾ではなかろうか。
そのうち、健康保険に加入していない人は、
まじないとか祈祷に精を出すかもしれない。
非科学的ではない、経済的に余裕がないから。

[782] 大法輪 2008/12/12 05:38

虚空蔵求聞持法 集合的無意識とは?
http://jp.youtube.com/watch?v=F1R4Pt2ckwI
The 奇跡 of メジュゴリエ- The 奇跡of 愛
http://jp.youtube.com/watch?v=VidO3RyFNgA

チャクラは法輪と輪宝の意であり
転輪王が輪宝を転じて敵の軍隊を打ち破るのを
仏が法輪を転じて煩悩を打ち破るに喩えた論で
輪宝とは古代インドの太陽神スーリャが乗る円盤の戦車。
ファティマの太陽(日輪)はイエスの愛が
仏が法輪を転じて煩悩を打ち破るに喩えた論と同じメッセージです。

先の映像の太陽のフラッシュダンスの奇跡の解析映像
太陽がフラッシュダンスをする時、UFOが飛来してるのを確認できます。
http://jp.youtube.com/watch?v=cGCRBrV0f2s

スペースシャトルから撮影された日本上空を飛ぶUFOの軍団
http://jp.youtube.com/watch?v=-6Wim9EQp_w

[783] 大法輪 2008/12/12 05:39

コインブラ大学教授、アルメイダ・ガレッタ博士の証言:「私は土砂降りの
雨の中で、ずぶ濡れになってしまった。雨が止むと、きらめく太陽のようなものが、
厚く覆っていた雲の層を突き抜けて出現した。群集の目はいっせいにその方向へ
向けられ、私もそれを見た。輝いているが目がくらむほどのものではなく、輪郭が
明瞭な円盤状の物体だった。外観は良質の真珠のような、鋭く変化のある
透明のようなものだった。。鈍い銀色の灰皿みたいという周囲の声が聞こえたが、
その形容は正確ではない。それは夜空の月にも似ず、それ自体の色も影もない。
むしろ銀色の貝殻を削り取って磨き上げた車輪といった方がよい。誰も霧を通して
見る太陽とは混同しないだろう。円盤の周囲は少しもぼやけず、中心部もはっきりと
輝いていた。たえず変化しながら輝く物体は、目まぐるしく運動し、それ自体が
驚くほど急速に回転していた。」(太陽が2つ現れた丘より)

この奇跡はファティマから遠く離れた地域でも大勢の人に目撃されている。
当時の有名な詩人A・ビエラは、ファティマから40キロ離れた自宅から見た光景を
次のように話している。「私は驚いた。空中のスペクタクルに魅せられた。
まったく聞いたこともない現象なので、びっくり仰天した。このバルコニーから
見たんだ」 この太陽のような円盤は、少なくともファティマを中心に半径40キロの
範囲で目撃されたことになる。すると500メートル以上の高空に出現した、
直径1キロぐらいの巨大な円盤状の物体だったことになる。
http://page.freett.com/dateiwao/fatimaufo.htm

[784] 大法輪 2008/12/12 05:40

【今、宇宙で何が起きているか?】
マヤ暦型 クロップフォーメーション
http://www.youtube.com/watch?v=tEMnuXqfGYc&feature=related
クロップフォーメーションとマンダラ
http://jp.youtube.com/watch?v=o_n1ObJNXhY

[785] 大法輪 2008/12/12 05:41

仏教がインドで成立して発展した以上、当然ながら光と炎は特別な力の象徴として頻繁に用いられている。
まずブッダは『長阿含経』において、梵天(ブラフマナー)のあらゆる顕現は「立ち昇る光と輝く光輪」によって
啓示されると述べている。また『阿毘達磨倶舎論』によれば、バラモン階層の神々は銀のように白く輝き
色界(rupadhatu)にある者は黄色くそして白いとされる。そしてブッダは説法の終わりには「炎となる」ことを宣言している。
彼が三昧にあるとき、「肉髻(usnisa)より発する「霊智の光の飾り」とよばれる光線が頭上に放たれる」という。
いうまでもなく、炎のような光輝と昇天というこれら二つのモチーフはブッダの超人的、超越的状態を示すために採用されている。
ブッダの光輝はほとんど決まり文句のようになっている:「太陽は昼にかがやき、月は夜に照らし、武士は鎧を着てかがやき
バラモンは瞑想に専念してかがやく。しかしブッダはつねに威力もて昼夜に輝く。」その中でもとくに光はその頭部から発したとされている。
たとえば、ブッダが悟りを得たときの情景は次のように描かれている:「月の、太陽の、マニ宝珠の、火の、電光の
神々しい光りも輝かず、光を奪われた。それは、かのボサツの左右の眉の真ん中にある一束の白い毛が輝きわたるからである。
そしてここにいる衆生は、一人として、この人類の教師の頭を見(ることができ)なかった。
苦行と瞑想によって光が獲得されるという考え方はヨーガ的だが、悟りを得たことの象徴として光を採用したことには
インドにおける光のシンボリズムの長い伝統が背後にあったのではないだろうか。たとえば次のような
『バガヴァッド・ギーター』の一節からは、こうした光のシンボリズムがインドの人々にはなじみ深いものであったことがうかがえる
「この身体の、一切の門において、知識という光明が生ずる時、純質が増大したと知るべきである」。
仏教徒もインド人もこうした光の象徴を無から創造したのではないだろう。
それはユーラシア大陸の多くの民族に共有されていた伝統であったと思われる

第一章  マンダラと円の謎
第二章   チベットはマンダラの宝庫
第三章   光の諸相
第四章   内なるマンダラの神秘
第五章   マンダラと4という数の謎
第六章   マンダラの循環
第七章   プネウマとカバラ
第八章   ユングとマンダラとモナド論
第九章   モナドとプネウマ
第十章   マンダラとホロスコープ
第十一章  ロータスの秘密
第一二章  オー・ウィールの手と足の謎
第一三章  にじの謎
第一四章  ヨハネの黙示録

http://hwbb.gyao.ne.jp/akione-pg/Japanese/001.html

摩多羅神はどこから来たのか? 〜ダビデの子孫〜 第一章〜第九章
http://hwbb.gyao.ne.jp/akione-pg/Japanese/Frame_N_J.html
「集合的無意識の元型は神話的モチーフのなかに現れる。
あらゆる時代、あらゆる民族に、同一ないし類似のやり方で現れるし、自然に現代人にも生じうる。」

[786] ひろ 2008/12/12 10:27

仏教ったって今の宗教は直接お釈迦様が説いている訳じゃないからね。
だいぶ変質してるんじゃないの。

[787] 人の仏性と神性 2008/12/12 13:34

仏性は全ての人にあります。
人類に悟った者が一人でると
人類は真我=梵我一如(ブラフマナー)で一体であり
仏性は集合的無意識なかに備わり
全人類に仏性が生じます。
智慧は無我で慈悲は無条件の愛です。

[788] 金太郎飴 2008/12/13 21:01

>仏性は全ての人にあります。
そういうこってすな

それを説いてるのが仏教

[789] kotaro 2008/12/14 00:51

        動物霊 2

お釈迦様が人として地上にお生まれになり、
その後悟りを開かれたとするならば、
そして、多くの修行僧が正にそれを目指すのなら、

霊という存在は、地上で、ある時点、
同じ境遇、人からスタートし、
動物になったり、人に復帰したり、
菩薩になったりを繰り返しているのではなかろうか。

もし、そうだとするなら、
どうして動物という
固定した霊が存在するだろう、いや存在しない。

もし、恨みで夜叉になったり、
怒りで鬼になったとしても、
人としての境遇を思い出せば、
人としての心の豊かさを取り戻せる。

阿含宗桐山管長猊下の成仏法とは、
正に、そうした事を不成仏霊に
伝える作業なのではなかろうか。

[790] 750Rider 2008/12/14 12:07

>>789 kotaroさん
阿含の話は阿含スレでした方が的を射ているのではないかな。
桐山氏は求聞持で釈迦と同じ解脱はしていないと言っていたと思うが。

[791] kotaro 2008/12/15 01:31

>>[790]750Riderさんへ
>阿含の話は阿含スレでした方が的を射ているのではないかな。
>桐山氏は求聞持で釈迦と同じ解脱は
>していないと言っていたと思うが。

あのスレ暫く滞在してました。
ですが、阿含宗批判派と擁護派が、
一から十までことごとく対立し、
批判派は、兎に角、いかさま宗教
を廃業に追い込みたいだけのようで、
元信者の方だけに内情に詳しく、
仏教の普遍性よりは、ただただ、
悪徳宗教壊滅にご執心のようです。

本当の所、成仏法とはなんなのだろう。
一番の関心事を真面目に論じたいと申し出たが、
批判派は、よそでやれと言う事でした。

ですから、別に阿含宗と限定しなくても、
成仏とは何かを論じてみたい。
もう直ぐここが終了なだけに・・。

所が、T Tさんは、霊とか、不成仏霊とか、
あの世とかに関心がないだけでなく、
全く耳を貸そうともされない。

何時から仏教は倫理に格下げされたのか。
これでは朝起き会と変わらないではないか。
そう思います。

科学が霊の存在を証明出来ないからと言って、
宗教家までもが来世とかあの世とかを否定しては、
宗教家の存在を危うくする。

輪廻転生で生まれ変わる事までも否定しては、
因果応報も現世だけに限られてしまう。

[792] 幽霊 2008/12/15 09:31

>>成仏法とはなんなのだろう。

答えは、掲示板などから去ることです
答えが分かるまでそのことを考え続けてください。
思考するのはそのことだけでいいです
「答えは、掲示板などから去ることです」

>>霊とか、不成仏霊とか、
あの世とかに関心がないだけでなく、
全く耳を貸そうともされない

哀れの一言に尽きる

[793] 波多利郎 2008/12/15 13:14

>>791

えっと、物質(人間)界に生きてる限り、霊とかあの世に関心を示す必要性は全く無いんですが…
そう言うのを信じてる人達だけが関心を示すのは「信仰=個人の自由」として構わないけど、関心を持たない人に「信じなさい、関心を持ちなさい」と言うのは見当違いっす(苦笑)

[794] 2008/12/15 16:28

いや真光は崇教だ、宗教じゃない宗教はやめて、真光を信じよう。

[795] 波多利郎 2008/12/15 16:41

崇教だろうが宗教だろうが「奇跡」や「霊、神など」の「他者から見たらトンデモ」または「科学的根拠で存在するなどの証明不可能な事」を信じてる時点でどっちもどっち(苦笑)

[796] 一切衆生に幸あれ 2008/12/15 18:00

「衆生一切」とは、釈迦の言葉である。釈迦は、宇宙意識に達したので、一切の生き物は自分の
意識の中の、産物だと感じたのである。だから、この世界に現象化している物は、一切が自分の
生み出した子であると考えたのだ。確かに、それを現在の科学の世界が裏付けをする処まで、人
間の意識は高まって来ている。自分の遺伝子は、36億年遡れば、一切の生き物と同じ情報源か
ら出発している理が証明されたのだ。もう他の生き物が、人間の為だけに存在するのではなく、人
間もまた蚊の餌として存在するのでもないことは、一般的常識と成って来た。

しかし、其のバランスを壊しているのが人間様である。地球にとって、一番の厄病神が人間と成っ
てしまっているのだ。しかし其の人間も、此処のところに来て存在がヤバク成って来た。10数年前
から云われて来た、新しい病気の発生である。養殖ハマチやゲージ飼いの鶏の肉や卵を食べてい
ると、抗生物質が効かない病原菌が、人間を襲うだろうと云われていた。其れが、狂牛病や、鳥ウ
イルス等の形で現実的な問題と成って来ている。

調和のとれた世界(コスモス)、アースとなるため彼らも支援しています。
2004年8月19日にミネアポリスセントポールにて
http://jp.youtube.com/watch?v=ggzpMom_Ki0

[797] 名も無き者 2008/12/15 18:13

成仏法とは何か。
仏である釈迦と同一化することである。
釈迦が何を悟ったのかを解明することである。
何で解明するのか。
そこに自己が救われるヒントがあるからである。
大要ではそれは三法印とされている。
諸行無常。諸法無我。寂滅為楽。
自分が救われてしまえば宗教は卒業である。
他人を救うことができるのか。
それは教育と同じことである。

[798] 言霊 2008/12/15 18:45

Θの九二のま九十のΘのちからをあら八す四十七れる」。
「富士は晴れたり日本晴れ 神の国のまことの神の力を現す世となれる」。
「卍も十も九も八きりたすけて七六かしい五くろうのない
四かくるから 三たまを二たんにみかいて一すしのま九十を十四て九れ四
いま一十九十六あるか 九の九六八三たまを三かいておらぬ十こせぬ
九の四八まって二十十七一九六てある」。これについても、読み方は

「仏もキリストも何もかも、ハッキリ助けてシチ難しい御苦労の無い世がくるから
ミタマを不断に磨いて一筋のマコトを通して呉れよ。
今一苦労あるが、この苦労はミタマを磨いておらぬと越せぬ
この世始まって二度とない苦労である」。

今迄の日本の宗教は日本だけの宗教。
この度は世界のもとの、三千世界の大道ぞ、教えでないぞ。」
。「右の頬をうたれたら左の頬を出せよ、それが無抵抗で平和の元ぢゃと申しているが
その心根をよく洗って見つめよ、それは無抵抗ではないぞ、打たれるようなものを
心の中にもっているから打たれるのぞ。
マコトに居れば相手が手をふり上げても打つことは出来ん、よくききわけてくだされよ。
笑って来る赤子の無邪気は打たれんであろうが、これが無抵抗ぞ。
世界一家天下太平ぢゃ、左の頬を出すおろかさをやめて下されよ」

「食物を食べるのも喜びであるぞ。正しき食物正しく食べよ。
更に喜びふへて弥栄へるのぢゃ。悪い食物悪く食べるから悪くなるのぢゃ。
何も彼も同様ぞ。人民は喜びの子と申してあろう。罪の子でないぞ。
うれしうれしの道あるに、何故歩まんのぢゃ。」

[799] 言霊 2008/12/15 18:45

「食物節してこそ、ささげてこそ、運ひらけるのぢゃ。
病治るのぢゃ。食物、今の半分で足りると申してあらうが。
遠くて近いものヒフミの食べ方して見なされよ。
運ひらけ、病治ってうれしうれしと輝くぞ。そんなこと位で、病治ったり、運開ける位なら
人民はこんなに苦しまんと申すが、それが理窟と申すもの。
理窟悪と申してあるもの。低い学に囚われたメクラ、ツンボと申すものぞ。」
「四ツ足を食ってはならん、共喰となるぞ、草木から動物生まれると申してあろう
臣民の食物は五穀野菜の類であるぞ。」
「獣の喰ひ物くふ時には一度神に献げてからにせよ、神から頂けよ
さうすれば神の喰べ物となって、何たべても大じょうぶになるのぞ

「臣民にわかる様にいうなれば、身も心も神のものざから
毎日毎日神から頂いたものと思えばよいのであるぞ
それでその身体をどんなにしたらよいかと云ふこと分かるであろうが
夜になれば眠ったときはお返ししてゐるのざと思へ、それでよく分かるであろうが。
身魂みがくと申すことは、神の入れものとして神からお預りしてゐる神の最も尊いとことしてお扱いすることぞ」
「目覚めたら其の日の生命お預りした事を神に感謝し
其の生命を神の御心のままに弥栄に仕へまつる事に祈れよ。
神は其の日其の時に何すべきかに就いて教へるぞ。
明日の事に心使ふなよ。心は配れよ。取越苦労するなよ。」

「愛は養はねばならん。夫婦はいのちがけで、お互にきづき合はねばならんぞ。
夫婦愛はあるのではない。築き上げねばならんぞ。
つくり出すのぢゃ。そこに尊さあるぞ。喜びあるぞ。」
「家の治まらんのは女が出るからぞ。夫立てると果報は女に来るぞ。」
「妻にまかせきった夫、夫にまかせきった妻の姿となれよ。信仰の真の道ひらけるぞ。
一皮むけるぞ。岩戸ひらけるぞ。不二(富士)晴れるぞ。」
「夫婦けんかするでない。夫のみいかんのでない。妻のみ悪いのでないぞ。
お互に己の姿を出し合ってゐるのぞ。よく会得せよ。」

[800] kotaro 2008/12/15 20:41

>>[793]波多利郎さんへ
>関心を持たない人に「信じなさい、関心を持ちなさい」
>と言うのは見当違いっす(苦笑)

科学者が、現地の人に聞き取り調査をする場合、
そう見えた、そう感じた。
そう言っている事までも信じないなら、
聞き取り調査する意味がない。

例えば、試験で正解を記入しなかった生徒は、
自分の判断から、そう言う答になったので、
不正解を答案用紙に書いている。
それを認めないのは分かる、不正解だから。

だがしかし、不正解を書いた生徒は、
答案用紙が返却されるまで、
正解と確信していた事だろう。
その答えになった十分な理由もあるだろう。
そうした経緯を調べる事も、
先生に必要ではなかろうか。
正解だけを教えるのが先生ではない。

生徒の生き様に関心を持って欲しい。
正解を出す生徒もいるし、
思考の末、不正解に到達する生徒もいる。

[801] 750Rider 2008/12/15 20:47

>>791 kotaroさん

否、そのスレは知らんが阿含スレが多々あるから此処より良かろうと言ったまで。
kotaroさんが何を知り何が不明なのか判らんので言明しようがないが
A宗K氏の求聞持の著書では釈迦同一の解脱は不可能だったが自分は脳を開発し亦発火したとある。
此の脳開発の意義の基となったのが現代危険視扱いされているG氏の著書クンダリニヨガからの危険性回避。
此の出版に関わったのもK氏。
クンダリニの危険性と独自法の有用性を同人の基に著わしている。
要するに阿含の教理の改良型であるという主張。
然し最初に釈迦同一の解脱は不可能だったと述べている。

>ですから、別に阿含宗と限定しなくても、
成仏とは何かを論じてみたい。
もう直ぐここが終了なだけに・・。
所が、T Tさんは、霊とか、不成仏霊とか、
あの世とかに関心がないだけでなく、
全く耳を貸そうともされない。

想像で霊の存在、死後を語るのは言語道断。
倫理哲学は分析の範疇。
問答は無用。
自身が解脱体現をする他は無いと言う事です。

[802] kotaro 2008/12/15 20:49

>>[797]名も無き者さんへ
>成仏法とは何か。
>仏である釈迦と同一化することである。
>釈迦が何を悟ったのかを解明することである。
>何で解明するのか。
>そこに自己が救われるヒントがあるからである。
>大要ではそれは三法印とされている。
>諸行無常。諸法無我。寂滅為楽。
>自分が救われてしまえば宗教は卒業である。
>他人を救うことができるのか。
>それは教育と同じことである。

内容が非常に深い。
正解なのではなかろうか。
深く感謝します。

[803] kotaro 2008/12/15 21:56

>>[801]750Riderさんへ
>kotaroさんが何を知り何が不明なのか判らんので
>言明しようがないが

そうですね、私自身が解脱したともしていないとも言っていません。
それは、成仏と解脱は違うと思うからです。
解脱は用語として、即身成仏に近いでしょう。
因果応報とか、生々流転する原因から離れた状態を
示していると思います。
それならば、成仏と解脱同じではないか。

いいえ、成仏とは、この世の未練を消滅する事と思うのです。
タンハー(渇望)が、転生の原因と言われています。
それは大本教の教祖出口 王仁三郎も述べています。
「死に際の思いが大事」と。
その思いが常に次に転生する場所と境遇と生きがいを示す。

この世で生きて行くには解脱が必要不可欠で、
そうしないと、生きていく内に、そこかしこで行き詰る。
ですから、解脱は地上での未来が未だある人へ、
成仏はこの世を既に終えてしまったか、
今終えんとする人に相応しい。

参照:渇愛タンハーの医学的説明
http://www.brain.riken.jp/bsi-news/bsinews31/no31/special.html

[804] 波多利郎 2008/12/15 22:34

>>800

科学的根拠に基づく立証がされてない内は「単なる信仰」の域を出ていないっす。
アナタが言っているのは単なる信仰にしか過ぎないです。

[805] 750Rider 2008/12/16 01:14

>>803
>私自身が解脱したともしていないとも言っていません。

kotaroさんが解脱の体現者なら説明は早いが、体現者では無いね。
解脱は釈迦の言うところの菩提樹下の体現。
釈迦の言うところの成仏は体現後の寂静境地。
解脱がなければ成仏はない。

[806] 750Rider 2008/12/16 11:08

A解脱には主に次の様相が在る。
「a正統に心身に影響無く到った者」「b心身を蝕み乍到った者」「c偶発的に到った者」「d異(偽)解脱」

B境地には主に次の様相が在る。
「a佛:涅槃寂静境地」「b福音:祝福境地」「c巫:降臨境地」「d魔:魔境境地」

解脱とは特定の現象体験(体現)である。
体現に基づき得た境地が宗教観となる。是が宗教が異なる理由でもある。
釈迦はaa。イエス、ムハンマドはabとなる。

上座部、冥想、修験等はAに由来し、
大乗、哲学等はAを介さずBの合理的理論確立を求める行為となる。
釈迦はAaに到れば自ずからBに到ることは明白である為Aaに重きを置いたが、
後にBbを基に佛(釈迦境地の理論化)から生み出された概念言語、成仏、如来、阿弥陀、観音、菩薩等の概念が一人歩きすることになる。
即身成仏も此の概念の派生である。

[807] 幽霊 2008/12/16 11:22

「ワタチはアンパンマンの枕持ってるんだよぉ。お兄ちゃんなんか持ってないでしょ」
等と自慢しているのと何らかわることはない・・

借り物の知識は所詮借り物
銀行を見て金持ちな気分になったって空しくない?
言っている意味分かるかな?
紙切れに書かれた活字を覚え披露したい気持ちはアンパンマン大好きな子供と全く同じ

クスクス・・

[808] 波多利郎 2008/12/16 11:23

>>806

マジレスします

多分、「イエス」「釈迦」「ムハンマド」などに置いて「色々な道が一人一人にありますよ」って事だと思われます。

聖人達と同じ道を進むか、聖人達の歩んだ道を見本にするけど自分で新たに道を広げるなと言う選択肢があると思われます。

聖人達の悟り(教え、気付き)は聖人自身の中で辿り着いたモノなので、必ずしも同じ悟りにはならない可能性がありますね。

[809] 波多利郎 2008/12/16 13:34

×広げるなと

○広げるなど

[810] 分御霊 2008/12/16 15:15

宇宙意識をキャラクターにたとえるならこれ
http://www.robochris.net/pic-labo/limg/709667.jpg
増殖した野蛮な人間達をたとえるならこれだ。
http://romancrew.img.jugem.jp/20071113_469005.jpg

[811] 幽霊 2008/12/16 15:23

ポルシェのレンタカー借りて乗り回し、金持ちにでもなった気分の人たちがいっぱい・・・
所詮レンタカーでしょ。借り物でしょ
借り物にのったってなんにもえらくない。
借り物の知識を頭に詰め込んでもなんにもえらくない
私ならそんなこと恥ずかしくてとてもできないね
錯覚って怖いね

講釈ばかり垂れてんと実践でもしなはれ
頭デッカチさん達よ

[812] kitazaki 2008/12/16 15:55

まず幽霊という眼鏡をはずし
タコツボから黒い墨をまず抜き取ろうね。

>借り物の知識を頭に詰め込んでもなんにも”えらくない”

悟ることにより偉くなり霊格の上下をつけたい思い

ブッダの三宝四宝を知る以前に本当の精神を知らない。
これを慢といいます。

クスッ

[813] kitazaki 2008/12/16 16:38

仏教の智慧と慈悲(アガペー)

何も無い空間に球体を造ります。
仏教は球体の存在と非存在に於いてから説きます。
智慧はここの部位にあたります。
慈悲(アガペー)といものはこの球体に属します。
その他の諸々の宗教はこの球体しか観ておらず
この球体が卵だ、やれボ−ルだ、ビー球だと
いって論争してるのが今の現状です。
球体が卵だ、やれボ−ルだ、ビー球と名前と理論に
こだわっても球体は同じで一つしかない。

精神的にも俗世においても
人類は色眼鏡に染まってると言う事。

また球体にある慈悲を飛ばし智慧を最高の王冠と慢心するなかれ。

[814] 750Rider 2008/12/16 19:45

>>808
波多利郎さんの言わんとする事は、信仰の側はどう在るべきかと言う事であろうか。
釈迦の三宝佛法僧は覚者継承が前提となっている。
キリスト教もヨハネの行動を鑑ずるに根本は体現と言える。
現存宗教は祖不在。遺された教義解釈は常人の練物と言える。
明確な根拠のみを根拠として捉え、仰げども一を納得して十を盲信する事無く
細部に亘る不明不信が重要であろうと思う。

[815] kotaro 2008/12/16 22:27

>>[805]750Riderさんへ
>kotaroさんが解脱の体現者なら説明は早いが、体現者では無いね。
>解脱は釈迦の言うところの菩提樹下の体現。
>釈迦の言うところの成仏は体現後の寂静境地。
>解脱がなければ成仏はない。

仏教は、開祖お釈迦様が悟りを開かれた、
その手順を正確に踏んで、その境地に到達する。
キリスト教は、開祖イエス・キリストの死(死刑)
を礎に、イエス・キリストに従う事で幸せを実現する。
ある意味異質の教えと言える。

がしかし、キリスト教的に仏教を考えると、
お釈迦様の悟りの内容は不問として、
お釈迦様が法力を得られて、
万人にあまねく幸を振る注がれるとするなら、
それを得る為の交換条件は何だろう。

キリスト教の場合、イエス・キリストを救世主と信じること、
ただそれだけだった。
では、仏教の場合、釈迦を悟れしものと信じれば、
それだけでいいのだろうか。

そうする事を、行も行わず、ただ開祖お釈迦様に
すがるだけのご利益宗教とさげずまれるが、
その根本は、生き方として、そう的外れではない。
基準をキリスト教に取るならば。

[816] 2008/12/17 11:29

派多利郎は、信仰者が無信仰者に語る方法はかたれても
信仰者通し、語る場合にもおしつけてくるアフォ

[817] 波多利郎 2008/12/17 12:43

>>816

無神論者が信仰者に語る方法「それ単なる信仰」も語れますが、それが何か?

で、信仰者だろうが無信仰者だろうがな「単なる信仰」を理解してなければ突っ込みますがな(苦笑)

お前は「信仰」「宗教」自体の意味も知らんだろうに(苦笑)

「信仰で語って無い=妄想で語っている 」だろう(苦笑)
で、それを認識出来てない馬鹿=○(苦笑)

馬鹿(それなりの相手)にはそれなりの対処しかしません(苦笑)

大人しく真光スレで妄想でも語ってな(苦笑)
それかチラシの裏か絵日記にでも書いとけ(苦笑)

盲信的な信仰者ほど自分で言ってる事が単なる信仰設定でしかない事を理解出来て無い不思議(苦笑)

「富永仲基は宗教否定者で学問として仏教が間違ってると言ってます」→「それを信じてます」→「しかし、自分は神仙道の道士でもあり真光信者です」→「その神仙道や真光が正しいと信じて(いや、妄想、盲信して)ます」
自分の言い分を客観的に見てみろ馬鹿たれ(苦笑)
いかに「矛盾」を言ってるかわかるから(苦笑)
「真光は崇教」と主張しようが「信仰設定」で信者を集めている単なる新興宗教の一つにしか過ぎません(苦笑)
妄想に付き合ってる暇はねぇんだよ(苦笑)

[818] 2008/12/17 13:15

>妄想に付き合ってる暇はねぇんだよ(苦笑)

妄想につきあってるじゃんw(大爆笑)
ガキだねえ

[819] 波多利郎 2008/12/17 13:20

妄想と自覚してるのか(苦笑)

[820] 2008/12/17 13:22

真光は宗教や設定ではありません、崇教ですw(大爆笑)

[821] 750Rider 2008/12/17 13:26

>>815 kotaroさん。

>そうする事を、行も行わず、ただ開祖お釈迦様に
すがるだけのご利益宗教とさげずまれるが、
その根本は、生き方として、そう的外れではない。

所謂信仰と言う形での方法は個人の自由で良いのではないかな。
kotaroさんの信仰の方法に何の異論も無い。
例えば>>814 は信仰の方法について述べて居るのでは無く
釈迦と其の弟子亦洗礼のヨハネとイエス当時の師弟関係に基づく物。

キリスト教に於いては人間イエスの言動と後年のキリスト教化の経緯と関連を調べれば実在イエスと救世主キリストの差異が判明する筈。釈迦と仏陀の関係も然り。
救世思想の発生事由と祖の刷込の関係の把握は必須と言える。

然るに
尊敬すべき人を仰ぎ見習うべき人道を見習う
其れだけでも世は相当に平穏となる。
対し法力に驕り個の利益を求むるならば均衡を崩し世は乱れる。
現世現時点を見れば一目瞭然。

[822] 波多利郎 2008/12/17 13:29

>>真光は崇教です

いや、信仰(宗教)として語って(営んで)無いなら単なる現実逃避の妄想集団です。
お前が言ってる事は余程の盲信さんじゃ無きゃ同意しないくらいの妄想なんだが…(苦笑)

真光は「妄想集団」の集まりなのか?
早く妄想と自覚しなよ(苦笑)

[823] 波多利郎 2008/12/17 13:33

おい、○よ、ここは宗教カテだ。
宗教(信仰)として語って無いならチラシの裏か絵日記にでも書いとけ(苦笑)

[824] 2008/12/17 13:38

信仰ではなく、崇教を事実とたらえていれば現実です。(爆笑!)
真光はいいぞw
手かざししただけで、霊障も消える食物も腐らない(爆笑!)

[825] 波多利郎 2008/12/17 13:47

>>824

それ単なる「盲信=妄想」
それでいて仏教批判(否定)するのは矛盾してるだろ(苦笑)

そう言う目線で見ればどうみてもT、T氏の言い分が筋が通っているのは当たり前(苦笑)

仏教批判出来るレベルじゃねぇよ(苦笑)
真光スレで妄想でも語ってな(苦笑)

こんなに笑かせてくれるなら「真光盲信キャラ」として、お笑い芸人になった方が良いんじゃね?

[826] 2008/12/17 14:29

じゃあ質問だ!
仏陀の生まれ変わり大川隆法の「新渡戸稲造の霊言集」だが、
キリストが生まれた時雪がふったと書いていたとその霊が言ったと書いていた。
ベツレヘムに雪など降るかと、科学で質問や批判をしたらそれはどうなる!
お前のような頭を横にふればカラカラなるようなバカ頭では
キリストやマリアに聞いたのかとなるがどうだ(爆笑)

真光は崇教です。信仰するものではない実践するものだ!

[827] 波多利郎 2008/12/17 15:06

>>826

やはり馬鹿だ(苦笑)
そんなの信仰設定にしか過ぎないんだが…(苦笑)
信仰設定を事実と言うから突っ込まれてるんだが…
普通、頭使って考えればわかるべ(苦笑)

で、お前さんが「真光は崇教、実践するモノ」と主張しようが真光信者以外の第三者には「単なる信仰設定、妄想、デムパ、基地外、カルト、新興宗教など」にしかならん事実に早よ気付け(苦笑)

○は「頭を使わないとこうなる」と言う悪い見本だな(苦笑)

で、宗教(信仰)として語って(信じて)無いならチラシの裏か絵日記にでも書いとけ。
ここは「宗教カテ」だ(苦笑)

[828] 2008/12/17 15:15

だから、大川が「新渡戸稲造の霊言集」で
ベツレヘムに雪が降ったとイエスが生まれたときそうだったと書いた
科学的にベツレヘムに雪降るわけないだろとつっこんだら、
セーフかアウトか?
さっきから聞いてるが逃げずに答えてねどっちですか?
もし大川の信仰設定が間違ってれば、新渡戸の霊は名誉を傷つけられますが(大爆笑&嘲笑)

お釈迦さまが死んだと科学で推定される年代からはかっても
日蓮の生きた時代は末法の世ではなく、
末法の法華行者と自称した日蓮は歴史的に間違ってますと指摘するのはセーフかアウトか答えなさい?

答えられないんでしょ?

[829] 2008/12/17 15:19

>>828 を見れば、
科学や学説で信仰を批判することもありでしょ?
文句はありますのんか?
ここは宗教カテでっせw(嘲笑)
信仰設定を科学や常識、学説でそりゃおかしい言うのは
まったく無駄ではないですね。

[830] 2008/12/17 15:41

派多利郎破れたり!
崇教真光大勝利!主神さまありがとう!

[831] 波多利郎 2008/12/17 15:54

科学的に「雪が降った」と立証されない限り仮説または信仰設定にしか過ぎないんですが(苦笑)
で、大川は信仰設定で語っているだけの事。

セーフかアウトよりも「仮説または宗教(信仰)設定にしか過ぎない」って事にはよ気付け(苦笑)

>>829

仮説や宗教(信仰)として語って(信じて)いるんなら「ご自由に」なんだが、お前、仮説や宗教(信仰)として語って無いじゃん(苦笑)
妄想を事実と盲信して語ってるだけじゃん(苦笑)

>>830

ハイハイ、妄想程度で勝ち誇れるレベルで良かったね(苦笑)

真光信者=低レベルってのが良く理解出来たわ〜(苦笑)

[832] 2008/12/17 16:08

ベツレヘムに雪がふるってかw(大爆笑)
信仰設定でも無理だわw
派多利郎はベツレヘムに雪ふるとさw
科学的にイエスが生まれたあたりの気候を調べたことある?
雪なんかふってないんだわw中東だよ。お坊ちゃん(爆笑)
科学が信仰設定とは(大爆笑)

妄想として語って無いよ。日蓮は末法時代に生きてないし、イエスが
生まれたとき雪はふるわけない。つまり妄想と客観や科学、学説と
区別がついてない派多利郎はあほちゃびん(大爆笑)

真光は信仰ではありません実践あるのみですw

[833] 2008/12/17 16:14

たとえばおれが、真夏に手かざししてある特定の地域に雪をふらせましたと言ったとする。
そうしたら、お前のルールじゃ、そこいって雪ふったか確かめないと、信仰設定だから間違いですってなるわけだろwww(嘲笑)
その日の気象状況を見ればわかるのにね。これじゃ詐欺天国だ。

白光真宏会の五井昌久は80まで生きると予言して60でおっちにましたとさ。「これは予言外れたジャン」って言ってもいいですか悪いですか?五井と話して確認したのかってつっこみますか?
五井の弟子に聞けばわかるでしょ。

派多利郎苦しい答弁してるけど大丈夫?

[834] 2008/12/17 16:31

派多利郎はそれだけ恥ずかしいこと言ってるのわかってる?
大川の件は新渡戸に失礼だから常識人ならつっこみます。
日蓮の件は常識人なら末法の時期が違うのではと疑問くらいもちます。
真夏に手かざしして雪降らせましたといったらバカだろといいます。
五井の件なら、預言はは外れだなで終わりです。

常識で考えればわかることがわからないやつを馬鹿といいます(大爆笑)

[835] 波多利郎 2008/12/17 16:37

やはり馬鹿か?

大川は自分の設定で語ってるだけと言ってるだろうに(苦笑)

「日蓮が末法時代に生きた」
「イエスが生まれた時に雪が降った」
も「信仰設定で語ってるだけ」と言ってるんだが、日本語を理解出来て無い極めつけの馬鹿(苦笑)

真光の信者になると思考回路が鈍るって証明にはなったな(苦笑)

>>833

>真夏に手かざし〜

アホか気象状況を見たらわかるのは当たり前だべな(苦笑)
で、いくらでもこじつけ可能で、外れても言い訳可能(苦笑)

>白光真宏会の五井〜

予言ってのは「科学的根拠は全く無い」ってのを理解して無いんだな(苦笑)
80で死のうが60で死のうが「後からこじつけ」と「言い訳」可能なんですが(苦笑)

真光信者になると頭の回転鈍るんだな〜
元々か(苦笑)

>>827 >>831 を突っ込みたいが為に都合の言いように解釈してるし…
馬鹿としか言いようが無い(苦笑)

病院に行け

[836] 波多利郎 2008/12/17 16:42

>>834

真光(妄想)にハマるよりも日本語(文章の)理解力を身に付けた方が良いぞ〜(苦笑)

まともな思考の持ち主なら私が何を言ってるかわかりそうなモノなんだが…(苦笑)

[837] 2008/12/17 16:43

問い�
では、大川の信仰設定に科学でつっこみ入れてはだめだという根拠をお示しください。

問い�日蓮は信仰設定ではなく本気で自分は末法の行者で上行菩薩であるといいました。でも釈迦の死後と末法の年代があいません?疑問をもってはならない根拠をお示しください。

問い�気象状況を見てもつっこんではいけない証拠を示しなさい。

問い�五井は預言はずして早死にました。外れたねといってはいけない根拠を示してください。

ところで他人を罵倒する書き込みあるけど、それ無しで会話できないの下品だね。だから常識がないと批判される(大爆笑w)

[838] 2008/12/17 16:45

日本語を理解できていないのは派多利郎もおんなじ。
常識的に信仰設定につっこんではならないという理屈を聞いてるわけですよ。科学や伝記でほぼ間違いだとわかる信仰設定に文句言って悪いのかと?悪いならその理由を下品な言葉を使わず答えなさい。

[839] 波多利郎 2008/12/17 16:59

>>873

�単なる信仰設定に突っ込みいれても本人が信仰設定と気付かなきゃ(聞く耳持たなきゃ)突っ込んでも無意味

�それも単なる信仰設定
信仰設定に突っ込みいれても相手が信仰設定と理解して無きゃ突っ込んでも無意味

�、�、�、�共通で突っ込んだら駄目とは言ってませんが…
突っ込みいれても当人達が聞く耳持たない(盲信してる)なら突っ込んでも意味無いべ(苦笑)

>>ところで〜

最初に相手を罵倒してたのはお前だべな〜
だから「突っ込んだ」んだか…(苦笑)

相手を罵倒するのはOKで、自分が罵倒されるのは駄目ってどんだけよ(苦笑)

だから「その程度の価値しか見当たらない」だけなんだが…

文章の理解力身に付けてから出直して来い(苦笑)
真光で妄想している内は無理か…(苦笑)

[840] 2008/12/17 16:59

>>835 を見ると信仰設定で言ってるだけだから別にいいんでしょ?
って言いたいんでしょ。
でもなんでツッコミいれちゃいけないのと理屈を聞いてますが
一向に答えないさて、いつお答いただけるので?

[841] 2008/12/17 17:01

聞く耳持つ持たないは関係ないでっしゃろ。
聞く耳もたなくても、科学的にそれは違うじゃんっていえるじゃん。
聞く耳持たないから言うなっていうのは理由にならないでしょ?
聞く耳もつやつには逆につっこんでもいいことになるわなw

[842] 2008/12/17 17:06

はい論理破たんしましたね派多利郎くん(大爆笑w)
どうせ聞く耳もたなくても、科学的に違うよってのはありだと
思うんで、これからもガンガン突っ込みをいれさせてもらいます。
あんたのルールに従う意味ないんで、

聞く耳持つか持たないかが、ツッコミの良否をきめるという発想お笑いいがいない。常識もとうなw

いいよ罵倒しても君のこともっと罵倒したげるからw(大爆笑)

派多利郎くんはどんな信仰もってんの?どうせ妄想でしょ。(大爆笑)それを突っ込まれてこまるからそういって逃げてまんのや。

[843] 2008/12/17 17:16

日蓮関係ですがね、末法の行者で上行菩薩というのが日蓮の設定で
末法の法華行者だとほざきましたねw
それで、真言亡国、律国賊、禅天魔、念仏無間と自分の設定で
悪口いいました。今でもその教団の方々は悪口いってます。
それに科学では日蓮のいた時代は釈迦の死んだ時期から数えても末法じゃないから根拠ないじゃん?人の悪口いえるのと聞いたら悪いですか?いいですか?お答えください。

[844] 波多利郎 2008/12/17 17:21

>>838

で、お前さんが言ってる真光の「手かざしで霊障も消える、食物も腐らない」等は第三者からみたら「妄想、信仰設定」って突っ込まれてるのに「違う、事情です」と言ってる矛盾はどうする気だ(苦笑)

なぁ…本当に頭は大丈夫か?
マジで…

>>840-842

お前、やっぱり馬鹿としか言いようが無いわ(苦笑)

>>839 を良く読め
「突っ込んだら駄目」とは言っとらん。
で、俺が最初から言ってるのはお前さんが出してる仏教否定の根拠が信仰設定の延長上なだけを学説としてるだけな事と真光の信仰設定は根拠無しって事なだけ(苦笑)

科学的の意味を良く理解している懐疑、否定者はお前のような事は言わんよ(苦笑)
また、突っ込んでも何も変わらない盲信はほっとくぞ(苦笑)
お前もその盲信(苦笑)

後、俺自身「単なる信仰設定で妄想と同じ」と公言して「設定」として語っているのでお前に何を言われようが屁でもありませんがな(苦笑)

>>843

聞けば良いんじゃね?
本人達がその突っ込みを受け入れるかは知らんがな(苦笑)

で、お前の真光の矛盾はどうするんだ?

[845] 波多利郎 2008/12/17 17:27

×「違う、事情です」

○「違う、事実です」

[846] くとるー 2008/12/17 21:53

パタリロさん日蓮系とマヒカリは説得不能です。
マヒカリは神秘体験してるから余計無理ですよ。

[847] 波多利郎 2008/12/17 22:25

>>846

そのようですね〜
自分が矛盾を言っている事にも気付いて無いみたいですし…(苦笑)

>マヒカリは神秘体験〜

それってある意味洗脳では?(苦笑)

[848] kotaro 2008/12/18 04:29

>>[821]750Riderさんへ
>所謂信仰と言う形での方法は個人の自由で良いのではないかな。

そう言う訳にもいかないのです。
と言いますのは、

750Riderさんが[805]で、

解脱がなければ成仏はない。

と言われています。

それをキリスト教に適用すれば、
キリスト教徒は、開祖を真似て、全て死(死刑)を経なければ、
天国に行けない事になるのでしょうか。

開祖の願いとは、後に続くものが幸せになれば良いわけで、
開祖と同じ苦しみを経る必要はない。
お釈迦様も悟りを開く為の苦行を否定されていた。

仏教が解脱の方法を万人に公開されている事は分かりますし、
苦を避けようとする姿勢に問題があるのは十分分かります。
分かりますが、解脱以外に成仏はある。

[849] 750Rider 2008/12/18 12:46

>>848 kotaroさん
>それをキリスト教に適用すれば、
キリスト教徒は、開祖を真似て、全て死(死刑)を経なければ、
天国に行けない事になるのでしょうか。

>>821 「人間イエスの言動と後年のキリスト教化の経緯」を調べた方が良いと言ったのはその為だが、先ず一神思想はユダヤ由来である事は明白であるがイエスの「聖」は後伝の三位一体では無く洗礼ヨハネの法に依り到ったと目される。当時印度釈迦時代沙門が存在した様にイエスの周囲には新進の法を引提げた導師と弟子、イエス同様神の子と名乗る者も存在したと伝わる。その法はヨハネ洗礼の法を鑑みるに釈迦の法と酷似する。沐浴と冥想である。死後イエスの死の意義を贖罪と定義したのはパウロ、神格化したのはアウグスティヌスである。当のイエスが迷い乍死に至った経緯は聖書にある。弟子ヨハネが黙示録を書得たのは同様の法に依ると目される。当時の磔は十字架上で死迄放置する物。殺傷は無い。聖を得た強靭なイエスなら一時息を吹き返す可能性は大である。復活無くばユダヤ伝説に合致せず復活の奇跡を目撃したのは数人。現実イエスをキリストと崇めたのは当時極少数。世界的に見れば小さな集団でしかなく東ローマ帝国に依り流布する事で日の目を見たのであって皇帝の方針が違えば他宗教が台頭した可能性は大である。要するに贖罪はユダヤ由来であって、形骸ユダヤと対抗する根底洗礼ヨハネ由来と目されるイエスの言動は生に向いており神下地上博愛であり生の基に神の意義を認めていたと言えるだろう。

[850] 750Rider 2008/12/18 14:36

>>848 kotaroさん
>開祖の願いとは、後に続くものが幸せになれば良いわけで、
開祖と同じ苦しみを経る必要はない。
お釈迦様も悟りを開く為の苦行を否定されていた。
仏教が解脱の方法を万人に公開されている事は分かりますし、
苦を避けようとする姿勢に問題があるのは十分分かります。
分かりますが、解脱以外に成仏はある。

kotaroさんは誤解されて居るのだと思うが、釈迦は菩提樹以前の「苦行」は無意味であったとしている。法正しければ冥想のみで覚り(解脱)得る。其れが苦行無用の意。亦万人が到らねばならぬか。否。釈迦は到るに志す者は比丘比丘尼としたが志さぬ者は在家とし中道八正道等説く事に留めた。釈迦の法は苦行に非ず。強制する事も無い。人道は「道」の道を以て為し得る。釈迦の法は解脱が体、境地は観。然るに其の後体なる降臨は在り得る。がkotaroさんが言わんとする成仏とは別であろう。kotaroさんの言わんとする事が在家で苦行無しに神秘体験が可能かと言う事なら可能であるし執着離脱を成仏と判断するなら其れは精神修練の範疇と言えよう。

[851] 2008/12/18 14:58

俺を叩いている奴、ショック受けるとでも思ってんの?
今の俺にはスマブラXがあるから夢中でそんな事気にしてる暇ねーよw
慰めになる物があってよかったなあ〜
派多利郎さん次に対戦できるのいつですかぁ〜〜

        彡川三三三ミ
       川川 ::::::⌒ ⌒ヽ
      川川::::::::ー◎-◎-)
      川(6|::::::::  ( 。。))
    ._川川;;;::∴ ノ  3  ノ
  /;;;:::::::::::::::\_;;;;;;;;;;;;;;;;ノ
 /::::  /::::::::::::    |::::|
(:::::::: (ξ:  ・ ノ:::・/:::|
 \::::: \:::::::   (::: |
 /:::\::::: \:::    ヽ|
/::::   \::::: \::: ヽ )
|:::うきわく  \::   ̄ ̄⊇)__  〜
|:::::::      \;;;;;;;;;;;(__(;;;・)  〜 モワー
\::::::::::   ξ(;;; );; )      〜
  \::::::::::::    ) )
    ):::::   //
   /::::::::: //
 /:::::  (_(_

[852] 2008/12/18 15:21

 |    |
 ‖ _/>‖
 ||/∧/ ||\
`|丶|‖/ | 丶
`/\_/V丶_/  |
|∠_\L∠_>、_|
||<二> <二>\丶  <派多利郎は
//レ—-个ー—-、」\\  このシャア・アズナブルが粛清する!
/ |  丶   レリ)  ̄)  ジーク・ジオン!
\丶 丶二)  イ /
  ̄\ ー /| ̄
   /トー—" /|
 __F三‖三T人|__
/ ̄ 丶]‖匚_/   ̄
丶二勹 T厂フ厂二7
`丶二 V/ // 二7

[853] kotaro 2008/12/18 23:24

>>[850]750Riderさんへ

阿含宗では、教祖の修行の進展に応じ、
成仏についての定義に変化があった。
オーム真理教教祖麻原尊師が在籍していた頃は、
千座行を通して解脱できると教えられていた。
だが、千座行を達成出来たのに
解脱できない麻原尊師は、別ルートで頂上を目指した。
そして悲劇が起きた。

一方、阿含宗教祖は解脱できた。
その後、阿含宗は、教祖の法力に頼るご利益宗教に移行した。
これが擁護派、批判派の意見を私なりに纏めた結果です。

そこで、成仏には三種類あると思われる。
一つは、お釈迦様、阿含宗教祖、
そして、オーム真理教教祖麻原尊師が目指したもの。
あと一つは、死んで成仏出来ないでいる霊が成仏する。
残る一つは、今現在生きている人が、
因縁を残さないよう人生を送れる。

[854] 750Rider 2008/12/19 00:58

>>853 kotaroさん
良いですかな。>>806 を再確認して戴きたい。
成佛の条件は解脱であるが解脱即成佛では無い。
Ba-d(実は後一つ在るが)の境地はユングの言う処の所謂集合的意識の影響を受ける。
善人は善人成りの悪人は悪人成りの。神が根底に在れば神、佛が根底に在れば佛の影響を受ける。
要するに解脱者にも善人から悪人まで存在する事になる。
其の為に成佛の条件には解脱前最大限の精神改善が必要となる。
所謂成佛に近い人生を目指すなら因縁抹消に執着するのではなく唯清廉老練に生きれば良い。

[855] kotaro 2008/12/19 22:04

>>[854]750Riderさんへ
>要するに解脱者にも善人から悪人まで存在する事になる。

観点が違います。
解脱に私は重きを置いていないのです。
成仏に関心があるのです。
特に無念の思いで死んだ霊を
成仏させる事に関心があるのです。

幽霊が何故出るか。
死神が連れ去ろうとしても、強制的には連れ去れない。
それは一念三千と言われるように、
不成仏霊の思いを誰もどうする事もできない。

何年かかろうと、本人の気が済むまで、
この世に浮遊霊の姿で居させる。
そこで、学習して、あるいは、恨みある加害者
の子孫に、それ相応の報復をして満足して昇天する。

だがしかし、報復された子孫は、はなはだ迷惑。
それで、そうした差し障りのある霊に成仏して頂く。
言い分は不成仏霊の方が正しく、
加害者の霊が生存していれば生霊に祟る。
だが、死んでいれば、加害者の縁故者に祟る。
縁故者は何故祟られるのか見当もつかない。

[856] 750Rider 2008/12/20 09:51

>>855 kotaroさん
成程。確かに釈迦とは無関係。因縁怨念を持たぬが釈迦の法。
其れは釈迦が教える迄も無く舎利佛が入門初期に教授する基本中の基本。

[857] 田舎の爺 2008/12/20 09:52

精神世界に近づくときは略100%の人が恐ろしい思い込みに取り囲まれてしまう。
そしてそのことをほとんどの人たちが知らない。
恐ろしいことだ。
略100%の人たちが陥るすべての思い込みは完全に捨て去りましょう。
また、それを捨て去ろうと努力することもやめましょう。
いや、捨て去ろうとする努力することすらもやめようと思わない方がいい。
でなければあなた方の思い込みはどこまでも執着を生み、それがどこまでも膨張を続けて気がつけば後戻りすることが困難になってしまうのです。
皆が辿る道は決まっている
やがては精神病院のお世話になること必定です。

「ポア」と言って殺人を思いついた者が、その罪に気がつかなかったように・・
釈迦が現れて「お前は汝の生まれ変わり也」等と妄想見せられてその気になってしまった哀れな人
これらの者とあなたも何ら変わることはない
それが分からない人たちがほとんどであります

と言っても誰も聞く耳もたないことも知っているが・・
何故なら、彼らにとってはこの言葉が何のことやらさっぱり分からないからだ。
そしてこういった内容は書物のどこにも書かれていないし、それは体験を通じてしか知ることができない事柄だからです。
書物、活字を崇拝している現代人にとってはこういう意見は見たことも聞いたこともない全く異質の思考方法とうつるであろう。

このことを、人に聞くだけでなく、一度自我を排除して自分で冷静に調べてみようね
なんでも書物に頼らず、そして書物にある謎の部分を自分のそれまでの体験と照らし合わせて見て客観的に観察してみましょうね。
あくまで思い込みは排除してね・・・
思い込みのほとんどは役に立たない代物です。

生老病死による苦しみとはなんぞいや・・ということを追求して下さい

[858] 名も無き者 2008/12/20 09:54

解脱とか成仏とかは方法である。法則ではない。
方法とは修行であり。
方法、修行の結果として到達したものが法則でありえる。
因縁解脱と言う場合に
因縁は法則であり、解脱は方法である。成仏も方法である。
因縁解脱しても因縁がなくなることはない存在している。
問題は方法をもってして因縁を変更することが出来るか否かである。
諸法無我の立場ではそれが不可能である。
宗教の立場ではそれが不可能である。
宗教とは世界を解釈したものである。
世界を変革するのは宗教ではないのだ。
宗教は世界を変革せよと提示していない。
大乗仏教の問題点はそこにある。
世界の解釈から世界の変革への飛躍には中間項としてのものが必要である。
両者を無媒介に直結することは不可能である。
それは冒険主義である。
宗教の限界の内部にとどまるのか。
そこからの一歩をいかなる方法で進めるのか。
ここで議論すべきか。

[859] kotaro 2008/12/20 19:29

>>[856]750Riderさんへ
>成程。確かに釈迦とは無関係。因縁怨念を持たぬが釈迦の法。
>其れは釈迦が教える迄も無く
舎利佛が入門初期に教授する基本中の基本。

       努力できるのも運(命)

阿含宗桐山管長猊下の御先祖は幕末の頃、
とある藩の剣術指南役だったそうです。
剣の腕が優れているので、藩命に逆らう
複数の藩士の殺害を命じられた、上意打ちである。
明確な志を持っていた志士は、
殺されて後、志半ばである事から成仏できないでいた。
その影響を受け、やる事なす事、
全て上手くいかないので、死を決意されたらしい。

管長猊下は、そうした経緯から、
御自身の開運の為、
素人で信者と共に修行を始められた。
そこが、他の教祖と著しく異なる。

阿含宗批判派は、そうした管長猊下の経歴に、
ことごとく反対する。
まず、上意打ち、そんなの公式の記録にない。
それと、管長猊下の上意打ちのお話、
時が経つにつれ、人数が増えている。

それに、不成仏霊を成仏出来る法力はない。
何故なら、御自身の因縁を解脱出来ていない。

私は、批判派、擁護派両者の話を聞いていても、
仲間に入れない。
それは、ある意味阿含宗同門の争いであり、
不成仏霊の成仏と言う主題が、
桐山管長猊下に法力ありやなしやに行ってしまう。

そう、桐山管長猊下の下に、
初期の頃は、因縁解脱を求め人が集まったが、
昨今は、不成仏霊の成仏を果たすことで、
自分の運が開けることを求め信者が集う。

その点では、私に似ているが、
擁護派とはある一点で違う。
私は桐山管長猊下の法力をお金を介さないで、
行う。擁護派はそれを盗電と言う。
一体成仏させるのに10万円、
百体で1000万円、1000体で一億円、
私自身、無料で行ったが、
金額にすれば数億円になるだろう。
だが、まだ不十分で、
我が家系に縁のある霊の成仏を行えば、
数百億分必要ではなかろうか。
無論無料で行うが・・。
だから、一体10万円で、不成仏霊を成仏させて、
それで開運につなげるのは、
大資本家にして初めて可能で、
それほど大金持ちになれる運命なら、
開運は必要ない。全くの自己矛盾。
そう言う訳で、擁護派からも賛同はない。

[860] 750Rider 2008/12/20 21:16

>>859 kotaroさん
kotaroさんが法力を以て行うと云われるなら其れは其れで良いのではなかろうか。
純粋無益なら尚良かろうと思う。
kotaroさんの法力をお聞かせ願えれば有難い。

一言付加すれば法力の概ねは佛門以前婆羅門目連の其れである。
釈迦の法は力に拠らぬ法であり神通目連に法力に拠らぬ成佛を伝授している。

[861] kotaro 2008/12/20 22:26

>>[860]750Riderさんへ
>kotaroさんの法力をお聞かせ願えれば有難い。

私に法力は、ないのです。
ただ、桐山管長猊下の生霊を我が身に降臨し、
そのお力で浄霊しているだけです。

キリスト教の
父と子と聖霊の御名によりてアーメン
と言う手法を真似、
管長猊下の御名によりてとしているだけで御座います。

[862] 750Rider 2008/12/21 11:46

>>861 kotaroさん
生霊が降臨すると。其れが真実なら其れだけで立派な法力ではないですかな。
然し基督に準えるなら其の降臨はイエスに在る所の降臨とは別物。
亦基督概念の聖霊の御名は三位一体に拠ってのみ在り得る手法。
此の概念上の神は包括全体で在るから三位一体が成立する。
法力は全体では無いから三位一体は成立しない。
拠って基督には準拠しない。

良いですかな。
kotaroさんが真法を持つなら既成概念に束縛される事無く自らの法を貫けば良い。
他人の様に心霊仏教を真似、真佛を蔑ろにする事は無い。

[863] kotaro 2008/12/21 21:02

>>[862]750Riderさんへ
>生霊が降臨すると。其れが真実なら其れだけで
>立派な法力ではないですかな。

桐山管長猊下は、生霊の祟りの方が、
死んだ人の祟りより、
力(パワー)がある分怖いと言われています。

死んだ人に霊があるだけでなく、
生きている人にも霊がある。
死んだ霊を呼べるなら、生きている霊も呼べる。

一体十万円で、幾体浄霊すれば、事が終わるのか。
論理的に考えれば、行く末も見えてくると思いますが、
マインドコントロールされていたら、
それが分からなくなる。
裸の王様です。

不成仏霊はある、
管長猊下に法力はある。
それでも、多額の費用を要するなら、
別のルートを探すべきでしょう。

>其の降臨はイエスに在る所の降臨とは別物。

難しい内容ではないのです。
要するに、自分の力で悪魔と戦っても勝てない。
「試みに会わないようにお守りください」と言います。
正にそれです。
神のご加護と、桐山管長猊下のお力にすがる事は、
同じ行為なのです。

[864] タカ 2008/12/22 07:44

ここを使って商売してんのかい?
何が十万円だ。
そういうことに心を奪われる哀れな人たちが多いのをいいことにお客さん達へのアピールかい。
なぜかみんなこういう話には弱いみたいだからな

こういう胡散臭い人が次々と現れるのだよな。
これが半端者達の真の正体だな。
講釈は立派だが、読んでいると中身は非常に低レベルだ。
何のために精神世界に関心をもったのか?
それは商売のためだからだ。
商売なら、特定商取引の案内が義務付けられているはずだよ。(^-^)

やるんなら奉仕の心でやりなさいよ。分かったかい?
それでこそ本物と言えるよ
ま、本物の条件は初期の段階で満たされてはいないが・・・

[865] kotaro 2008/12/23 21:45

>>[864]タカさんへ

当方の説明不足でした。
父と子と聖霊の御名によりてアーメンという代わりに、
桐山管長猊下の御名によりてとすれば、
阿含宗信徒は、一体10万円を無料で浄霊出来る。

何故なら、阿含宗信徒の方は、
桐山管長猊下の法力を信じておられるし、
交信可能と思うからです。
このように、阿含宗カテで説明したのですが、
賛同は得られませんでした。
名案と思うけど・・・。

[866] くとるー 2008/12/24 01:09

コタローさんあの世のことをこの世の金という尺度で量るから誰の賛同も得られないし胡散臭いと言われるのです。

一体十万円など常識的に法外です。有史以来自分まで辿りつくのに何億人の先祖がいたかも分かったものじゃない。仮に半分が地獄霊だとして一体十万円なら何百何千億円かかってもおかしくない。高い神仏は金をほしがりますか?欲しがるのは人間です。

[867] kotaro 2008/12/24 07:26

>>[866]くとるーさんへ
>一体十万円など常識的に法外です。

阿含宗が定めている金額です。
阿含宗の友人は、既に600万くらい使っているようようです。
地獄に落ちている先祖が苦しんでいるのも、
助け出されて喜んでいるのも、
教祖が、そういうから、そうだろうとする裸の王様です。
それなら、無料で一億円分を友人自身の力で、
桐山管長猊下の御名によりてとすれば
どうですかと提案したが受け入れられなかった。

[868] タカ 2008/12/24 18:50

>>不成仏霊はある、
管長猊下に法力はある。
>>要するに、自分の力で悪魔と戦っても勝てない。
「試みに会わないようにお守りください」と言います。
神のご加護と、桐山管長猊下のお力にすがる事は、同じ行為なのです。

そういう考え方をする人もいるだろうけど、こう考える人もいるんだよ・・・

(不成仏霊はある)
そんなものについて考えたこともなし

(管長猊下に法力はある。)
どこのどなたか知らんが、どんなに困ろうとも一切は自力で解決可能

(要するに、自分の力で悪魔と戦っても勝てない。)
悪魔とは自分自身である。したがって現れるなといっても必ずと言ってよいほど現れるはず。しかし、我そんなものには一切関知せず・・

(「試みに会わないようにお守りください」と言います。)
そういうものが現れようが現れまいが、その先に光り輝く「仏」の出現は間違いないものである!我が関心はそのことのみ。後は「・・・」

(神のご加護と、桐山管長猊下のお力にすがる事は、同じ行為なのです。)
我、他に頼る心は一切なし

こんな考え方の人もいることを知っておいていただきたい。
霊だの法力だのというのは、単なる寄り道以外のなにものでもない
そういうものに囚われたとて得るものなし

失礼・・・

[869] タカ 2008/12/24 18:56

間違いを訂正します

そういうものが現れようが現れまいが、その先に光り輝く「仏」の出現は間違いないものである!我が関心はそのことのみ。後は「・・・」

訂正
そういうものが現れようが現れまいが、その先に光り輝く「仏」の出現は間違いないものである!そのことにすら囚われてはいけない。
後は「・・・」

[870] タカ 2008/12/24 18:59

人の法力を頼ってはいけません。
また、法力で人を誘ってはいけません。
仮に法力があるとして、そういうものを人に見せてはいけない
語ってはいけない

[871] ガダルカナル 2008/12/24 19:30


七識住(大因経第一)より
仏は告げられた「人々の住む世界は七階層とその上に二つの世界がある。
個別の身体と個別の想念を持っている。これが欲天と我々の住む人間界である。
二番目に人々がいて、個々別々の身体を持っているが想念は一つに統一されている。
この世界を梵天という
三番目は身体を持つ人々がいて、身体は一つに統一されているが、想念は個々別々である。
この世界を晃?天という。
四番目は身体を持っている人々が住んでいて、身体は一つに統一されており、想念も一つに統一されている。
この世界を遍浄天という。
         ↑
禅定によって気ずくことであるが、七識住(大因経第一)のこれらの欲界、色界、無色界は仏典では別々に存在する物語りに
なっているが、欲界、色界、無色界は一体存在であるのを知るのである。
          ↓
ユングの深層心理の定義と同じ意味である。
大・中・小と重ねた形である。大が集合的無意識、中が個人的無意識、
小が意識の領域、そしてその中心に軸として自我がある。
           ↓
略奪搾取資本主義者には個別の身体と個別の想念を持っている欲界の意識しか見えていないのである。

堕落しきった今の略奪資本主義は2010年までに爆発崩壊します!
NYのツインタワーのように今の搾取資本主義は爆発崩壊するでし
ょう! 民衆の怒りは今や臨界に達しようとしています
強欲資本主義は民衆の革命によって崩壊します もし革命が起こら
なければ『天変地異』が起こります!  ラビ バトラ

http://www1.vecceed.ne.jp/~kyusei/sub28.htm

[872] ガダルカナル 2008/12/24 19:36

七識住(大因経第一)=中阿含経第九七章『大因経』

[873] (多分) 2008/12/24 21:41

サンタさんは金取らない。

[874] kotaro 2008/12/25 00:34

>>[868]タカさんへ

不成仏霊はある。
管長猊下に法力はある。

それでも実現するに不可能な金額なら、確かにないほうがまし。
イソップ童話の「手の届かないブドウはすっぱい」です。

    いい人は悪い人、悪い人はいい人

解脱のみに拘る T Tさんは不成仏に関心を示されない。
だから霊に悩む人には悪い人と思われる。
が、解決するのに数百万、それでも未だ完結していない友人を
目の前にすると、解脱のみに拘る T Tさんは、いい人。

いい人は悪い人で、悪い人はいい人。
謎のような言葉を述べたのは、そんな意味があったのです。

ダイヤモンドは確かに美しい。
美しいが数億円もするなら、ないほうがまし。
人造ダイヤ偽物と悪く言う人もいるが、
手に入る価格と言う点で、評価されていいと思う。

桐山管長猊下ご自身から浄霊して頂こうと順番を
待たれている信者の御姿を見ると、人生発想の転換必要と思う。

[875] タカ 2008/12/25 19:04

>>解脱のみに拘る T Tさんは不成仏に関心を示されない

私はT Tさんのことわ詳しく知らない
が、書き込みからおよ想像できます。
恐らくは、彼は仏教の中から生きるための教えである禅を選択され、実践されたものと思う。

私の周辺にも「霊」に悩まされ、囚われていた人がいたが、「外部の何かにに頼らず不動真言を呼吸法とともにひたすら唱えたら消える思いますよ。気にしないことです」と提案したところ数人の人にその効果が現れ見事に悩みの対象が消滅したことが現実にあるんです。
そのように仕向けてあげるのがベストのように感じます。

私も長いこと化け物が現れたことがあり、数年にわたって悩んだ経験があって書き込みしているものです。
今、振り返って見ると実に下らんことで悩んでいたものだという思いです。
確かにそういう手法を用いた場合「不活性ブラシーボ」が作用する場合もありますが、そういう手法は失礼ながら邪道のように思うのです。

失礼ながらほとんどの新興宗教はどうも違うところに堕ちてそこから抜けきれていないようですな。
そんな気がします。

[876] kotaro 2008/12/25 21:39

[875]タカさんへ

詳しくは、
「オームと私」林郁夫著 文芸春秋社出版 1998年
http://www.educ.kumamoto-u.ac.jp/~mkimura/Zakki/dokusyo.html
を読めば分かるでしょう。

宇宙人が何故人間の前に姿を現さないか。
それは、人類の文明が滅びるから。
よく、そうした話を耳にします。
宇宙人、来訪、全て嘘。
そうかもしれません。

ですが、自分が持っていない能力で、
相手に自分の悩みを解決してもらう事は、
とても危険な事だと言う暗示だと思うのです。

吉田松陰は開国論でした。
進んだ文明を有するアメリカに悪意があるはずはない。
もし、あるとしても、その時は、相手の縄で相手を縛ればよい。
そのように言いました。
管長猊下のお力で、管長猊下を縛ればよい。

[877] タカ 2008/12/25 22:18

>>詳しくは、
「オームと私」林郁夫著

失礼ながら「犯罪者の仲間」の本を読む気はありません。
きりがないのでこれにて失礼します

[878] 名も無き者 2008/12/26 01:31

人間どうしが助け合うのは宗教ではない。倫理道徳である。
宗教は他者としては神仏が出て来る。
人間は出番がない。
霊とか守護霊とかは人間なのか神仏なのか。
その中間形態である。
よって素人受けをすることになる。
宗教ではないと言うこともできる。
宗教活動ではないと言うことができる。
管長の力とは他人の助けである。
それだけでは宗教の立場ではない。
管長を捨象したところに宗教は存在している。
媒介項としての管長をいかにして捨象していくのか。
そこに宗教問題が存在している。

[879] kotaro 2008/12/26 02:01

>>[878]名も無き者さんへ

日本が、アメリカから原爆を二発投下された頃、
日本はただ一国、世界を相手に戦っていた。
アメリカは、日本を「到底敵わない」と、
思わせるくらい徹底的に叩いた。

だからこそ、GMの凋落を見ると感慨深い。
人間同士いずれ入れ替われる。
だが、神とか仏に敵わない。

宇宙人が現れても、
銀河を航行する飛行技術は優れているだろうが、
神や仏ではないから、いずれ勝つ事が出来るだろう。

[880] 名も無き者 2008/12/26 17:51

仏祖に会っては仏祖を殺す。
管長に会っては管長を殺す。
教祖に会っては教祖を殺す。
現代の殺人鬼である。それは宗教者の宿命である。
その意味とは何か。
仏祖、管長、教祖が人間であると仮定すると
宗教には人間の出番がないと言うことである。
宗教とは人間を捨象したところに存在している。
それを殺すと表現したものである。
実際に殺したとしても宗教は不動である。なくなることはない。
それは宗教を体得した者の発言でありえる。
慈悲とか愛とかはどうなるのか。

[881] タカ 2008/12/26 19:15

これにて・・・
等といって最後にもう一言

>>仏祖に会っては仏祖を殺す
>>管長に会っては管長を殺す

これをそのまま受け止めて実行すれば、それはりっぱな「殺人」である。
活字の表面にだけ執着すればそのような解釈になるだろう。
活字というのは、人体に例えれば皮膚の薄皮一枚にすぎない。
聡明な方であればそれくらいは簡単に理解できるはずである。
人間には本来文字に隠された真意を読み取る力があるはずだ。
その為、ここで答えを書くことは控えよう。
自力で解明してほしいものだ。
それには書物にのみ頼っても無駄であることは言うまでもないことだ。

聞きかじり、借り物の知識は糞の役にもたたない

何を言いたいかはお分かりと思う。・・・

[882] T、T 2008/12/29 09:52

[881]タカ 08/12/26 19:15 WFjBwXtNR2

>それには書物にのみ頼っても無駄であることは
>言うまでもないことだ。

>聞きかじり、借り物の知識は糞の役にもたたない

まさに、その通りです。

禅語に関する文字は、特に注意を要します。
「殺す」と言う文字は、世間の見方と禅の見方が在る、
つまり、見方が二つあると言う事です。
ここで思い違いをされないように願います。
二つと言いましたが、本来は一つでありますが、
知恵のみを食べた故、二つに分かれたという事です。
しかし、この本来ある見方に気づかなければ、物事を見誤ると言う事です。
従って、
すべてに於いて、到った人の言葉は、つまり、仏教、禅、キリスト教、
に在る言葉は、世間並の見方では、見事に脱線致します。
仏教、禅、キリスト教、等を理解されるには、禅の見方(もう一つの見方)が
必要であると言う事です。

[883] タカ 2008/12/30 10:38

仰せのとおりで御座います(^_^)
皆さんには何のことやら分からないでしょうがね。

無念・・・

[884] タカ 2008/12/31 00:55

>>物事を見誤ると言う事です

ほとんどすべての人、といってよいほどが見誤っていると言えましょう。

夢を見て、「大変だ!」と騒ぐ人はあまりいないと思われるが、何故か精神世界で現れる現象に対しては騒いでしまう・・・
夢などは、大概の人が昼頃にでもなればあっさりと忘れ去ってしまうのが普通だ。
もっともそれにもそれなりの理由があって忘れてしまうのではあるが・・・
幻覚を見ても、幻聴を聞いても夢等となんら変わらないというのに何故騒ぐ???
りっぱな教育を受けた多くの人が何故?・・
実に不思議だ。・・・
新興宗教を見ていると、なんとなく感じることがあるが、高等教育を受けた人ほど引っかかりやすいのではないか?
それは理論理屈のみが最高と考えているからではないだろうか。
オームの林某のことを紹介されていたが、「バランスがとれた人が・・」などと書かれていた。
バランスがとれていなかったからこそ薄汚い麻原なる狂人に引っかかったと言える。
左脳のみが異常に発達して、右脳が退化した姿ではないかとさえ思ってしまうのは考えすぎだろうか?
それに、「浅はかは女の専売特許」と思っていたのが、環境ホルモンのせいなのか、最近では男達にすらそれが蔓延してしまっている。
姿は完全に男でも、男達のほとんどの中身には女の姿が観える

「久方の光のどけき春の日にしず心なく花の散るらん」と読めば、どうしてそんなにあわただしく花は散るだろうか?等と解釈しているが、
「花は散って死んでいくのに何故騒がない?」ととる人はいないのかな?・・・
何も紀友則の墓に行って聞く必用もないだろう(^−^)
「かくの如く散ろうよ」と話しかけているのかも知れないよ。
「私は(花)恐怖もなく、悲しみもなく涼しい顔して散って行くんだよ」と花は言いたいのかもしれない。
だとしたら、その奥には何がある?
私には「無」という一文字が浮かんでくる。

散り行く花を観た時にはよくよく考えてみようね。(^−^)

[885] T、T 2008/12/31 08:42

>夢などは、大概の人が昼頃にでもなればあっさりと忘れ去ってしまうのが普通だ

処が、昼間、見ている夢がある。「南泉、一株花」である、これには気が付き難い。

>幻覚を見ても、幻聴を聞いても夢等となんら変わらないというのに何故騒ぐ???

夜見る夢は、夢の中で騒ぐ、眼がさめれば、夢だと気づく、それは世間的、比較基準が
あるからで、起きて見る夢、幻覚を見ても、幻聴は、比較基準が曖昧であるから
気づきにくい。何故なら、自分が見た自分の判断だからである。

>りっぱな教育を受けた多くの人が何故?・・
>実に不思議だ。・・・

理路整然とした学問ですべて解決できる思い込みからで日頃
歩んで居られるからで、不思議ではありません。

>新興宗教を見ていると、なんとなく感じることがあるが、
>高等教育を受けた人ほど引っかかりやすいのでは

新興宗教に入り込むのは、藁をもすがる思いで、時すでに判断能力を失っておるからです。
頭のいい人、精神的に優れている人ほど、精神的ダメージをよりよく受け易いからであります。
それ故に、普段に於いて孔子が言う「15にして学する」と言う学問が必要と言う事です。

>姿は完全に男でも、男達のほとんどの中身には女の姿が観える

仏教では、男女は仮の名で、すべてに男と女の精神が含まれて、境界線がはっきりしない。
それ故に、その時代、時代の環境と思想によって変化して行くものです。

>「私は(花)恐怖もなく、悲しみもなく涼しい顔して散って行くんだよ」と花は言いたいのかもしれない

花(植物)ならそうかも知れないが、人は、恐怖もあり、、悲しみもありで、そして、恐怖もなく、
悲しみもなくを通って、しかも、恐怖もあり、、悲しみもありの処に出てくるからね。
よほど修業を積んでも「涼しい顔して散って行くんだよ」と言う事にはならないと思うよ。

[886] タカ 2008/12/31 09:05

>>「涼しい顔して散って行くんだよ」と言う事にはならないと思うよ

これを書き込んだわけは、多くの人の日ごろのストレス、悩みなんてつまらん思考の一つに過ぎないから、だから自分の意思で消し去ればいいという意味で書きました。
ここでも文字の裏に意味をこめています
単に花に思考があるなんて馬鹿なこと書いた訳ではありませんよ。
人の苦しみ悩みはその人自身が作り出した幻です
だから、自分自身を自分でコントロールしましょうと言っているのです。
霊に悩まされるのもその一つですね

今度こそ最後とします。
延々と続きそうですので・・・

皆さんに幸せが訪れますように・・・
とはいいません。
皆さん精々いい地獄をお楽しみ下さい(*_^;)

[887] 2008/12/31 21:51

ください

[888] T、T 2008/12/31 21:52

嘘ついてごめんなさい

[889] kotaro 2009/01/01 03:34

>>[884]タカさんへ
>高等教育を受けた人ほど引っかかりやすいのではないか?

確かにオーム関連で、 弁護士、医者、エンジニア
など、高等教育を受けた人が人殺しなど重罪を犯した。

当時聞いた話では、ある信者は学生時代交通事故に遭遇し、
鞭打ちになるとかしたが、現代医学で完治しなかった。
それが、麻原尊師に出会う事で治った。
そうした奇跡があったので宗教に目ざめた。

信者自身の徳が病を治したのであって、
麻原教祖自身の力が治したのではない。
多分、他の宗教に入信しても治ったと思われる。

では、守護霊は何故いい宗教に導かないのか。

[890] T、T 2009/01/01 08:36

>[888]T、T 08/12/31 21:52 GoRGEoUS
>嘘ついてごめんなさい

上記の投稿は誰ですか、僕ではありません。

これからは、クリプトノモトを設定致します。

[891] kotaro 2009/01/01 15:32

続き

高等教育を受けた人ほど引っかかりやすいのではないか?

この問題は、なかなか難しい。

検索していて、東大の2006年の文系国語の入試問題に出会った。
引用元:
http://park19.wakwak.com/~aks/newpage7.htm  6月10日更新

引用:

人間は死んだ後にどうなるのか、果たして死後の世界はあるのか、
それとも死とは全き消滅なのか・・・、
虚空に問いかけるようなとらえどころのない疑問です。
死後の世界を完全に否定し去るにはためらいを感じる。
さりとて、はっきりと認めるほどの根拠も見出せない。

しかし、人類史の観点から見るならば、
霊魂観のように、死後においてもなんらかの形で
存在が持続するという考え方こそが正統であり、
死による完全な消滅を説く唯物論的な考え方はむしろ異端なのです。

現代は「進歩」と言う観念によって、
伝統的な宗教観を克服すべき迷妄と
する考え方が一見優勢のように見えます。
しかし、自分自身が生命の危機にさらされた時、
肉親の死に直面した時などに、
ふと意識の古層から時空を越えて
連続する何かを感得する場合も多いのではないか。

釈尊は、最晩年に弟子のアーナンダと共に
ナーディカ村へ赴いたことがあった。
そこでアーナンダは釈尊に向かって、
既に亡くなった大勢の知人たちの行き
ついたところを順次問うていった。
釈尊は問われた一人一人について丁寧に答える。

大変興味深いのは、完全に煩悩を断ち切って
ニルバーナに住し、
再びこの世に戻ってはこない人がいる一方で、
一度だけこの世に還ってきて、
その後にニルバーナに至る人や、
別の世界に生まれてそこからニルバーナに
至る人など、あきらかにこの世での死の後に、
なんらかの生存の継続を示唆する
答えが延々と述べられたことだ。

以下に入試の設問が続く。

と言う事は、文系の受験生は、
かなり突っ込んだ知識を得ていると思われる。
だから、大学受験の時から、文系理系と別れ、
十分な宗教的考えの知識を理系の学生は得ていないのではないか。

[892] 一君 2009/01/01 21:04

道元禅師の残した言葉の中に、人の錯覚について見事に表現しているのがある。
それを私流に表現すれば、電車にのってベルが鳴り響き、しばらくするとホームがゆっくりと動き出す。
といったが、実は電車が走り出したのであり、決してホームが動いているのではない。

人の死を目の当たりにすると、人の魂は永遠でありたいと主観的に捉えようとしたいのが人情ではある。
人というのはそこから離れることは容易ではないようだ。
そう思い込みたくて仕方がないのだろう。
が電車の話のように、実は人の死はあくまで「死」であり、我々が宇宙の塵の一粒として宇宙を放浪しながら存在しているのである。
そしてそれはたとえ天皇であろうと将軍であろうとも、何人と言えども覆すことはできない事実である。
無駄なあがきはやめてそれをそのままに有難く受け入れることである。
そしてたった一度の尊い人生を最大限有意義に生きることが肝要であろう。
そうすると、どうするのが有意義な生き方なのか?ということに思いが向けられるようになるはずだ。
「ザ」のあちこちで「霊」「呪い」「超能力」等と病的な世界に入り込んでのた打ち回っている人があまりにも多いのが気なったものだ。
人の力を超えた超常的なものに憧れたいのは分からなくもない。
だが、手品は種が分からない内は不思議でしょうがないが、種を明かされたら、何のことはない次の瞬間忘れ去ってしまうものである。
「人の思い」なんてなんといい加減なものか。
そのいい加減なものに人は振り回される。
人というのは、生けとし生けるものの中でもっとも「馬鹿」なのではないだろうか?
すべてこの世に生きている、人、物は自然界に、そして大宇宙に翻弄され続けるのが本来の姿であり、また、それで当たり前なのだ。

決してホームは動き出さない。我々が動き出しているのである。

意識は「苦」の元であり、「病の元」となり、意識を去れば力は抜け、「安心」を得るものと確信する。
決して力んで生きてはならないと思う。

[893] T、T 2009/01/02 08:30

>人の死を目の当たりにすると、人の魂は永遠でありたいと主観的に捉えようとしたいのが人情ではある。
>人というのはそこから離れることは容易ではないようだ。そう思い込みたくて仕方がないのだろう。

それが自性というものでしょう。
それである種の修業がいる。

>何人と言えども覆すことはできない事実である。
>無駄なあがきはやめてそれをそのままに有難く受け入れることである。

それ故、いつまでも生きたいとの思いとで「死の恐怖」を起こす。
知人の医院長(ベッド数125)での入院患者でも最後は「死の恐怖」で死んでゆく。
修業を積んだ禅匠でさえ時に「死の恐怖」を起こすと聞く、やはり死は一なわ筋にいかないようだ。
普通、人は生きて居る時、死を弄ぶ、死を感じる時、生きようともがく。人の常の様だ。

>「ザ」のあちこちで「霊」「呪い」「超能力」等と病的な世界に入り込んでのた打ち回っている
>人があまりにも多いのが気なったものだ。

通常、思い通り都合良く生きたい故に、幻想を追うのでありましょう。

>手品は種が分からない内は不思議でしょうがないが、種を明かされたら、
>何のことはない次の瞬間忘れ去ってしまうものである。
>「人の思い」なんてなんといい加減なものか。

手品は、注意の向けられた一部分の局限しか見ることができない意識により成立する。
従って、意識の認識は正否を定める基準にはならない。

>それで当たり前なのだ。

論理的にはそのようだが、感情的にはそのようにならないようだ。
それ故に、修業が必要になるものだ。

>意識は「苦」の元であり、「病の元」となり、意識を去れば力は抜け

これは意識の表面的な捉え方である。
意識の問題だけではないようだ。

[894] くとるー 2009/01/02 09:05

T、T氏、あなたは精神療法をやってるとのことですが、医師資格や心理療法師などの資格の有無と、謝礼の会計上の処理、税法上の処理を前にお聞きしましたが、お答えいただいておりませんが。
奈良県の宇陀でそういう商売してることについて禅では詐欺と言わないのかな?

[895] 一君 2009/01/02 10:07

>病院では入院患者でも最後は「死の恐怖」で死んでゆく

病院の医者というやつらは程度が低いのでこれについては論外だね
それからもっとプラス思考を強める方向に考えを改めたほうがいいように思いますが・・・
どうしてもマイナスの言葉が出てくるようだけど・・・

一度死あの世を覗いて見るのもいい体験だよ(^_^)
すると、いかに生きるか、という考えが頭を支配するようになるよ。

オームの薄汚い毛むくじゃらの罪人は早めに処理して奴のエサ代を節約するのが最善だよな

粘りつきは見苦しいね・・・

[896] T、T 2009/01/02 11:53

[894]くとるー 09/01/02 09:05

ご心配なく、法律に従ってやっております。

[897] T、T 2009/01/02 16:49

>一度死あの世を覗いて見るのもいい体験だよ(^_^)
>すると、いかに生きるか、という考えが頭を支配するようになるよ。

「一度死あの世を覗い」「いかに生きるか」、これがプラス思考ですか、
これは、プラス思考でも何でもない、一幻想に過ぎない。

>罪人は早めに処理して奴のエサ代を節約するのが最善だよな

貴方の思いでなく、法律に従って行く事が最善です。

[898] くとるー 2009/01/03 00:51

精神療法ですがあなたはなにの国家資格をお持ちですか?
確定申告はしてますか?
お答え下さい。
どちらかが一方でも欠けていれば脱法行為として犯罪となります。

[899] T、T 2009/01/03 07:19

[898]くとるー 09/01/03 00:51 *Rrnrhn7C4dr*D

>どちらかが一方でも欠けていれば脱法行為として犯罪となります。

貴方に言われるまでもなく法律もよく存じております。
相当気になるようですから、よくお調べになって訴えればよろしいではありませんか。楽しみに待っております。
僕は約25年間やっております。

[900] くとるー 2009/01/03 08:32

調べろではなく、犯罪でないというなら〇〇の資格があり確定申告もしていますと言えば終わりな話しですよ。言えないわけでしょ。25年捕まらなかったはなんの免罪符にもなりません。頭大丈夫ですか?

[901] くとるー 2009/01/03 08:34

税務署に密告すれば査察が入りますよ

[902] T、T 2009/01/03 11:18

[901]くとるー 09/01/03 08:34 *Rrnrhn7C4dr*D-SxuSI
税務署に密告すれば査察が入りますよ
[最新]

僕を頼らずに貴方の思うようにどうぞおやり下さい。
お待ちしております。
繰り返し、繰り返して言って居るではありませんか。
その前に、まず、その貴方の神経症をお近くの診療所で
診てもらう事が大事かと思います。

[903] くとるー 2009/01/03 12:19

残念ですね詐欺師くん
神経症はないですね。

医師以外が他人を診断し病名を告知することは医師法違反ですのでこの人物の遵法精神がいかに低いかの照査になりませう。
25年も詐欺して楽しい?

[904] T、T 2009/01/03 13:41

医師以外が他人を診断し病名を告知することは医師法違反ですので
この人物の遵法精神がいかに低いかの照査になりませう。
25年も詐欺して楽しい?

どう見ても神経症です。

貴方の見方ではこれで決定です。
「医師法違反ですのです」「25年も詐欺して」これで
貴方の見方では決定です。
当初に言われた通りに訴えたらどうですか。
掲示板でぐたぐた言うだけの実行も出来ないこれを神経症と
言わず何と言う。

[905] くとるー 2009/01/03 14:55

口に大義を唱えてもやってることは詐欺とは滑稽なり

[906] 波多利郎 2009/01/03 17:20

あのさぁ〜

疑われてるんだから「資格有り」か「無資格」かは言えるんじゃね?

自分で「法律に引っかからない」と言っても、事と場合(話し)によっては法律に引っかかるんだよ。

霊感商法やってる奴らと同じような事言っても説得力無いんじゃね?

[907] T、T 2009/01/04 08:12

>疑われてるんだから「資格有り」か「無資格」かは言えるんじゃね?

勝手にあなた自身が疑って居るのだから、その疑いは、疑っている人自身が
解くべきで、貴方自身に生じた疑いを相手に聞いても解決できませんが。

やく25年の行動については、法律に触れる事はやって居りません。
これは僕の周囲の人たちが認める処であります。
見ず知らずの貴方達に、とやかく言われる問題では無い。

貴方の疑いを解決する方法は、掲示板で、ごたごた気分の赴くままに
投稿せずに、当初からの貴方達の思惑通りに訴えるしかないと思います。
喜んでお待ちして居ります。

何故なら、また新たな特殊な教材が出来るからであります。
ここ掲示板は、僕に関わる人たち、つまり、修養生も見て居ります。
どうぞおやりください。あなたが、どんな人であるかもわかる事ですから。
会える日を楽しみにして居ります。是非行動される事を願います。

>霊感商法やってる奴らと同じような事言っても説得力無いんじゃね?

信仰の信も、わからない人に宗教の区別が出来る筈がない。
科学では解く事の不可能である。
科学では、疑問の定義に上がるが解決できない。

説得?説得は不可能な事。宗教の領域(仏法)は接得でしか無理である。
「説得力無いんじゃね?」と言う疑う余地もない。
説得力がなければ、修養生は僕から離れて行きます。
只それだけです。

[908] くとるー 2009/01/04 09:35

大笑いさせていただきました。捕まらなかったから法律違反してないなんて今時子供でも言わんよ。捕まらなくても法律に違反してれば犯罪です。
法律違反してるでしょ。私を神経症だと診断してますが医師資格はありますか?
何度同じことを言わせるんでしょうね。答えられない理由はなんですか?
医師資格あるよと言えば終わりでしょう。もしかしてないんですか?

あなたが訴えろといってますが税務署と警察に通報しますんでだいたいの住所と法人名をお書き下さい。

[909] アッポ 2009/01/04 09:41

正月早々、ただのアホ達だな
恥ずかしいと思わんのかい

[910] 波多利郎 2009/01/04 09:48

>>907

疑われるような書き方をしたのはアナタなんですが…(苦笑)

で、その書き方の質に対して何も答える気が無く、返した言葉が「精神を病んでる」と言うのは単なる言い訳です。
更に疑われて「詐欺」と言われるのは当たり前です(苦笑)
「有資格者」か「無資格者」かくらいは言えるはずですよ。

「法律に引っかからない無料の精神治療してます」なんてのは「法律に引っかからない霊感商法してます」とほぼ同じです。
だって、相談者などが訴えなければ法律に引っかかる事は無いんですから(苦笑)
後は料金が発生しているかの違い。
何故、こんな簡単な事がわからないのか実に不思議です(苦笑)

信仰の信って、アナタの主観、いや禅の主観を他人に当てはめるバカさ加減(単なる信仰設定)に早く気付いて下さい。
私からみたらアナタの主張は新興宗教やカルト宗教、盲信的な心霊肯定者と同一なので…
つまり、アナタも精神を病んでるんです。
知ってます?
宗教を語る人達があまり良く思われて無いのはアナタのような人がいるからですよ(苦笑)
鏡くらい見て下さいよ。

まぁ、アナタの人格(程度)が良くわかったので別にどうでも良くなっているんですが(苦笑)

[911] T、T 2009/01/05 05:51

>まぁ、アナタの人格(程度)が良くわかったので別にどうでも良くなっているんですが(苦笑)

天網恢恢、疎にして漏らさず。と言う意味に於いてもその精神が一番です。

[912] kotaro 2009/01/07 05:15

      生きてる人の健康

引用:
健康の概念は、1948年の設立における
世界保健機関憲章の前文にある、以下の定義が有名である。

身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、
たんに病気あるいは虚弱でないことではない。
Health is a state of complete physical, mental
and social well-being and not merely
the absence of disease or infirmity.

世界保健機関は1999年の総会で健康の定義として
以下の定義を提案している。

健康とは身体的・精神的・霊的・社会的に
完全に良好な動的状態であり、
たんに病気あるいは虚弱でないことではない。
Health is a dynamic state of complete physical,
mental, spiritual and social well-being
and not merely the absence of disease or infirmity.

引用元:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%A5%E5%BA%B7

健康とは、霊的にもダイナミックな状態にないといけない。

お釈迦様は、生きている間に霊が肉体に含まれているか
いないかを詮索してはいけないとされた。

参照:無記(不記)
� 霊魂と身体とは同一であるか?別異であるか?
http://sunmoonearth-70.spaces.live.com/blog/cns !D15EEE3E75EDD4D0!882.entry
それを霊を否定されたと解釈するのは、
また、科学的に証明されていないから霊という言葉を使わない
とするのは、健康の観点から阻害している事になりはしないか。

[913] T、T 2009/01/07 11:52

>[912]kotaro 09/01/07 05:15

この様な問題は論理上では解決できません。
ただ、ご自分の心を見極めると自然に解けて来ます。
見極める事無くしては、何の役にもならず却って迷路に陥る。
解ければ、ただ「この処」にすべてが在る。

[914] kotaro 2009/01/07 20:16

>>[913]T、Tさんへ
>この様な問題は論理上では解決できません。

論理上ではなく、健康と言う具体的な話です。

健康とは身体的・精神的・霊的・社会的に
完全に良好な動的状態であり、
たんに病気あるいは虚弱でないことではない。

ここの何処が論理上です?
健康とは、精神的だけでなく、
霊的にも良好な動的状態でなければならない。

身体的、精神的には健康だが、霊的に不健康な
状態がありうるから、そうならないよう記載されている、
そう思います。

あなたがたが、形而上とか、
科学が未だ捉えていないとか言っている間に、
具体的に、そうした霊的に不健康な状況に
ならないよう憲章で定義されている。

解脱解脱と、頭の中で思惟している間に、
世の中、霊的に不健康な状況を把握し、
それを回避しようとしている。

[915] T、T 2009/01/08 11:53

>論理上ではなく、健康と言う具体的な話です。

「健康と言う具体的な話です。」が具体的ですか。
その健康と言う概念と言うものと病気と言う概念との
境界線がハッキリしていない。
従って、「完全に良好な動的状態であり、」あると
言う事が在ると思いですか。

>健康とは、精神的だけでなく、
>霊的にも良好な動的状態でなければならない。

これが正しく論理上の話です。
生命は論理系体の枠に嵌らない。
枠に嵌った様でもその枠からするりと抜ける。

>憲章で定義されている。

この定義そのものが凡その見当づけであって、
実際の生活に当てはまりますか。
定義されるや否や病で無いものを病に
しませんか。

>解脱解脱と、頭の中で思惟している間に、

「頭の中で思惟している」と概念化される事とは、全く「解脱」とは
関係ありません。

>世の中、霊的に不健康な状況を把握し、
>それを回避しようとしている。

健康、不健康と分けてどちらかを求めたり、回避しょうと
する事自体が、論理的計らいで、病気です。
定義だか予防だか知らないが、今日では、、ガン、
脳溢血、糖尿病等減少せず、ますます増えるばかりである。
いくら不健康にならないように、念じた処でそれは、分析
思惟、論理形態の「ありよう」では、解決できないではありませんか。
解決どころか、ますます病、多種多様に増えるばかりである。
さあどうしますか。

[916] kotaro 2009/01/09 00:39

>>[915]T、Tさんへ
若者の中に、精神的に落ち込んでいる方は、
居られると思います。「恒産なければ恒心なし」と、
終身雇用制、年功序列で守られた時代とは違い、
何時首切りがあるか予断を許さないご時勢だからです。

ですが、病院で、精神的な不健康は診断出来ても、
霊的に不健康な状態、把握出来ないかもしれません。

多分、分かりませんが、病院ではなく、違う場所で、
霊的に不健康な状態を把握するのではないでしょうか。

それは、社会的という事も併せ述べられているからです。
>いくら不健康にならないように、念じた処でそれは、分析
>思惟、論理形態の「ありよう」では、
>解決できないではありませんか。

そう言う発想となる事自体、頭の中だけの思惟と言いたいのです。
社会生活、娑婆世界では通用する話が、
禅と言うフイルターを通すと、全然伝わらない。

具体的に言いますと、
例えば、狂牛病、病気として見れば、何ら対策はない。
だが、分かっている事は、脳髄とか内臓を避ければ牛肉を食べれる。
それが人間の出来る事ですし、
人間は別に病を解明する事が、生きる目的ではないのです。
牛肉を食べて生活出来ればいいわけで、
普段通り、牛肉の食事が出来ればいい訳です。

ですから、霊と言うものがどういうものか、捉えられなくても、
霊的に不健康だと生活に困るので、霊的に不健康な状況に
陥らないようにしましょうね。
そう言う意味でWHOの定義はなされていると思うのです。

ですから、お釈迦様があるともないとも答えない。
そう言った。それは否定しません。
ですが、だから、霊がないとお釈迦様が言われたと、
どちらかに傾いて結論付けるのは、明らかに誤りです。
不問、不定とは、どちらとも明言されなかったのですから。

肉体と霊が同時にあるのかそれともないのかにも、
お釈迦様は答えておられない。

万一、霊が生きている内にあるとしても、
生きている間に霊と肉体が同時に地上にあるか。
それとも、肉体は地上にあるが、
霊だけは別の安全な場にあり、決して傷つくことはない。
そうした可能性もありうるのです。

ですから、そうした事一切にお釈迦様は答えられない。
ノーコメントです。

その事と、娑婆世界の狂牛病対策、似ていると思うのです。
そして、人生と霊の関係は、それでいいのだと思うのです。
別に、霊を捉えれなくても構わない。
あるかのごとく取り扱う。

[917] T、T 2009/01/09 12:17

>多分、分かりませんが、病院ではなく、違う場所で、
>霊的に不健康な状態を把握するのではないでしょうか。

Aでは駄目でBでなければ駄目だと言うなら貴方の
言う定義は何の定義ですか。

>そう言う発想となる事自体、頭の中だけの思惟と言いたいのです。

「今日では、、ガン、脳溢血、糖尿病等減少せず、
ますます増えるばかりである。」
これは何を意味しますか。思惟思考から解決しょうとするから
無限に解決できないのではありませんか。

>お釈迦様は答えておられない。

答えたかも知れない。ただ残された記録にはなかっただけかも。
歴史は当てにはならない。
お釈迦様がこう言った、言っていない、もハッキリとは解らない。
歴史とはそう言うものです。
それ故に、お釈迦様が言った、言わなかったを一時離れて
貴方自身が体験されてからの話をされては如何ですか。

>ですから、そうした事一切にお釈迦様は答えられない。
>ノーコメントです。

ノーコメントの意味は、そう言う問題で無かったかも知れない。

>その事と、娑婆世界の狂牛病対策、似ていると思うのです。

全く別の話です。

>別に、霊を捉えれなくても構わない。
>あるかのごとく取り扱う。

人は知覚されないものを肯定する事は出来ない。
従って、意識の伴わない、無意識なんてものはない。
「あるかのごとく取り扱う。」この思想が基に、
自我中心的に奔り無いものを在るかのように
捏造が始まり、迷信に陥る。

[918] kotaro 2009/01/09 20:04

>>[917]T、Tさんへ
社会的に健康でなければならないとした場合、
別に、病院で治療出来る内容ではなく、
ご老人とか、何か社会的に参加していると言う生き甲斐が必要。
それと同じように、霊的に健康と言った場合も、
別に、怪我とか、疾患と違い、
病院で治せるまたは、不健康が病院の測定器で
発見出来るとはならないかも知れない。
そう述べているのです。

例えば、「注意一秒、怪我一生」と言う標語が
踏み切りに書かれていたとします。
それは、怪我を治療出来る、いい病院が
近くにありますと言う宣伝ではないのです。
むしろ、ここで怪我をしたら治せないぞと
言う意味合いもあるのです。

霊能力者は、別にお釈迦様が言われたから霊を認める、
言われないから認めない、そのような事態は起きません。
もう既に認めていますから。

そうではなくて、仏教徒の方々とお話すると、
お釈迦様の不定が登場するのです。
それは、仏教原理主義の人に特に強い。
T、Tさんもお釈迦様の時代、葬式とか、
お墓とかなかったと言われていませんでしたか?
そういう論調を仏教原理主義と言うのです。

>答えたかも知れない。ただ残された記録にはなかっただけかも。
>歴史は当てにはならない。

それを言われるなら、葬式をしなかったとか、
墓がなかったとかにも適用されるのではないでしょうか。
T、Tさんのお話、すごく我田引水に聞こえてしまうのです。

>全く別の話です。
別に同じとは言っておりません。
似ていると言っているのです。

何がかと言うと、分からないものは分からないままに放置して、
それを回避して本来の目的にまい進する。

>人は知覚されないものを肯定する事は出来ない。
>従って、意識の伴わない、無意識なんてものはない。
>「あるかのごとく取り扱う。」この思想が基に、
>自我中心的に奔り無いものを在るかのように
>捏造が始まり、迷信に陥る。

全然私の話を理解されていない。
科学でも捉えれない霊をどう捉えようと捉えた事にはならない。
それを世界保健機関が成功した、そんなずないでしょう。

社会的な面でも、肉体的な面でも、精神的な面でも
健康であらねばならない。
あと一つ、霊的な面でも。

それは、霊能力者の私の主張ではありません。

[919] T、T 2009/01/11 08:14

>お釈迦様の不定が登場するのです。
>それは、仏教原理主義の人に特に強い。

「不定が」どうして仏教原理主義に結びつきますか。
「不定」が仏教原理主義に結び付くのなら、それは
「不定」の意味が理解できない人の言う事でしょう。
仏教だけでなく、世の中すべて、不定と定、それを
超越した処で成り立っております。
その見方の偏り、自己中心的見方が、仏教原理主義、或いは
霊能者ではありませんか。

>墓がなかったとかにも適用されるのではないでしょうか。

現実にお墓は無いそうですが。
日本でもお墓を作らない人が増えてきているようですね。
だからと言って、僕は、お墓、葬儀が「ある」「なし」には重要に思っていない。
僕だけでは、葬儀もいらない、お墓にも入らない、周囲の人のには
言って居りますが。
しかし、日常生活では葬儀には参加しております。

お墓、葬儀を一つの例えにして、仏教の本来在る処から逸れて居るのではと
言っただけであります。
「それと」「これと」を一緒にして物事を異なる方向え導かないように願いたい。

世の中一切の事柄、社会性は、是非、善悪、関係なく需要と供給で成り立って
居る事は充分存じております。
ただ、世間の不満、不平に対しては重大に考えて居りません。
それは、在るべき様にあるからであります。
それ故、僕は事実に生きる様に努力して居るものです

>社会的な面でも、肉体的な面でも、精神的な面でも
>健康であらねばならない。
>あと一つ、霊的な面でも。

えー、霊的な面にも健康と言う事あるんですか。

>霊能力者の私の主張ではありません。

「この霊能力者の私」と言う事で、すべては結論が出ていると思います。
思想の立つ位置が少しでも異なりますと話がかみ合わない、
僕も霊能者には、歯が立ちません。これで終わりに致しましよう。。

[920] 野次馬 2009/01/12 22:50

TT さんへ

>> 思想の立つ位置が少しでも異なりますと話がかみ合わない、

立つ位置が同じなんてことを期待するのははじめから無理。
 (凡夫同士の議論なのだ)

 そんなことぐらいわかっていたでしょう?

>> 僕も霊能者には、歯が立ちません。これで終わりに致しましよう。。

  それなら、
  すなわち自分のしらない領域のことなら、
  なぜ、簡単に否定してしまったのでしょうか?

  禅者が神も仏も霊も否定するのは結構。
  なにを否定しても結構。
  それが禅の一つの方便だからだ。

  ただし、それは禅の道を歩もうとする人のたちの
  間での話。

  他者のそれも否定すると話は面倒になる。
  あなたは他の道にも精通していなくてはならなくなる。
  いや、じつのところ、なんにも知らないから否定できる。

  お釈迦様は方便として、同じことを、
  ときには肯定し、ときには否定した。
  誤解を与えるといけないので沈黙することもあった。

  T,Tさんが簡単に否定するのは知らないから。
  私にはそのようにしかみえない。

[921] T、T 2009/01/13 07:45

>すなわち自分のしらない領域のことなら、
>なぜ、簡単に否定してしまったのでしょうか?

「なぜ」を深く考えて下さい。
下記でもありますように、否定と肯定には難しい
問題が絡んで居ります。

>禅者が神も仏も霊も否定するのは結構。
  >なにを否定しても結構。
  >それが禅の一つの方便だからだ。

そこには禅は無い。
何故なら、方便であるからです。
禅は絶対の肯定です。

>お釈迦様は方便として、同じことを、
 > ときには肯定し、ときには否定した。
  >誤解を与えるといけないので沈黙することもあった。

これも表面的な捉え方になっております。
この様な捉え方で理解出来るのなら、今日まで仏教は
生き残ら無かったと思います。
実は、お釈迦様は何も説いて「いなかった」と言う
事が当を得て居るかと思います。

>T,Tさんが簡単に否定するのは知らないから。
  >私にはそのようにしかみえない。

僕をそう思いならそれでよいと思います。
貴方の思いを変える事は不可能であります。
何故なら、それは僕の仕事ではなく、貴方自身が
ものの見方を変えると言う事を意味するからであります。
何処までも、自分自身のものの見方の問題の事柄です。
理解する、理解しないは、僕には関係のない事柄です。

[922] 野次馬 2009/01/13 19:21

僕・・
僕・・
僕禅さん。

あなたの仕事をふやすつもりはありません。
失礼しました。

[923] ☆☆☆ 2009/01/14 02:28

世界三大宗教に「仏教」がありますが これは本来の仏教ではなく「大乗仏教」です。
本来のものは簡素で揺ぎ無い真理を説くが故に 多くデコレーションされた「商業仏教大乗」に飲み込まれました。
仏教は 大乗のように 「唱えたり信じたりすれば救われる」などという「妄想」は説きません。
その要諦は 「明らめる」つまり真理を明らかにして妄想から離れ、真理を悟り、自己を整える道です。 そこには
盲信や崇拝などの「宗教要素」は見当たりません。
しかし衆生はそのような「迷信」を求めるので、本来仏教は、いつしか そのように汚されてしまいました。
人類が、そろそろ「宗教という名の迷妄から離れ目覚めること」を望むならば 「仏教」がその妙薬と成り得るはずである。

http://space.geocities.jp/mindmanipulate/bukkyou-honnshitu.html

[924] T、T 2009/01/14 11:39

>盲信や崇拝などの「宗教要素」は見当たりません。
>しかし衆生はそのような「迷信」を求めるので、本来仏教は、いつしか
>そのように汚されてしまいました。
>人類が、そろそろ「宗教という名の迷妄から離れ目覚めること」を望むならば
>「仏教」がその妙薬と成り
>得るはずである。

http://space.geocities.jp/mindmanipulate/bukkyou-honnshitu.html

>、、、、、、、、、、、 むしろ世俗の図書館の書棚と
>それを手にする名もなき比丘・比丘尼の心象に仏が息づいている。
>そこにはご加護も献金も勧誘も無い。仏法とはそもそも、
>その名のとおり、妄想でも信仰でも崇拝でもなく、
>単なる生き方の法則なのである。

まさに、その通りだと思います。
よい投稿で、感謝致します。

ただ、「単なる生き方の法則」と言う単なるではなく、真実に生きる法則です。
「真実に生きる法則」とは、迷いの自己から眼を覚まし本来「在る」自己に
生きると言う事です。それが宗教仏教に生きると言う事です。
事実に従って生きる上には、特に奇怪な論理的または、心理的な表象が在るわけがない。
それが在ると言うのなら、それは迷いの自己からくる捏造である。
その事に気がつくには、先ず、自分と思っていた錯覚の上に成り立っていた自分、つまり、
自分の思いで捏造された自分の影に気づく事が大事かと思います。
この自己の影を打破する事から始めなければいけません。
何故ならば、この自分の影に惑乱され、大事な人生をめちゃくちゃに、日常生活を
出来なくしょうとするのが、この自分の影に他ならないからである。
それは自分が見た自分に他ならない。
それ故に、仕舞には誰も相手にしなくなり、自分だけの自分は恐るべし。

[925] T、T 2009/01/14 12:34

僕は宗教に関する入信は勧めません。

何故なら、日常生活の営み、その中に在るからであります。
自分と友達、あるいは他の人の関わり、学校、会社に関連した
働きの中に宗教の営みがあると言う事です。
目前の日常生活の他に特別な宗教はありません。
朝起きて、顔を洗う、新聞を読む、ご飯を頂く、学校、会社に
勤めに行くその処に宗教があります。
従って、
何も何々と言う名の宗教に改めて入る必要がないと言う事です。
他に頼らずに、自分の発見が宗教を発見すると言う事です。
宗教は、自己の「はたらき」の事です。

[926] kotaro 2009/01/14 22:42

            葬式

日蓮正宗の一法華講○○破門され、ただ○○となった。
宗教団体として存続されておられるし、
僧に献上しないだけ楽と言える。
だが、いい事ずくめではない。
葬式の際、僧侶の読経がなされない。
それが如何に重要か。
○○の勧誘で法華講○○に入信出来たのに、
○○を捨て、日蓮正宗に残る日蓮信者がおられる。

お釈迦様は、葬式や死んだ後の事に重きを置かれなかった。
それはそうかもしれない。
だが、実情は、僧侶の読経、葬式、そしてお墓。
それらは、生きて仲間と唱えるお経より重い。

[927] T、T 2009/01/15 17:41

>お釈迦様は、葬式や死んだ後の事に重きを置かれなかった。
>それはそうかもしれない。
>だが、実情は、僧侶の読経、葬式、そしてお墓。
>それらは、生きて仲間と唱えるお経より重い。

これを迷いの中の善悪は、共に悪と言います。
仏教は、先ず、お釈迦様が菩提樹下で正覚を得たそこの処からから
考えなければすべてが見誤りになります。

何故か。
この正覚の処から、仏教が躍り出てきたのであります。
従って、この正覚を各人が得なければ仏教は理解できません。
それ故に、所謂「論語よみの、論語知らず」に陥ると言う事です。

「陥る」と言う事は、この「自分の影に惑乱され、大事な人生をめちゃくちゃに、日常生活を
出来なくしょうとするのが、この自分の影に他ならない」と言う自分の影に
振り回されて、しかもこの事に気がつかない事を意味します。
それを、キエルケゴールは、「絶望」と呼んだ。



[928] T、T 2009/01/16 09:39

>正覚を得たそこの処からから 、

「から」が余分でした、申し訳ありませんでした。

>キエルケゴールは、「絶望」と呼んだ。

この絶望は、端的に言えば自分を見失っている、
自分に気がつかないと言う意味の絶望です。
仏教では」「無明」に当るかと思います。

[929] kotaro 2009/01/16 19:25

○○は、この50年足らずの間に100万坪
の本山用地と356もの寺院を寄進している。
御供養金となると、一般○○員
からの各末寺への浄財を含めれば、
優に数千億に上るであろう。
しかも、○○は宗門が一方的に
寺院の寄進を断ってくる平成3年まで、
次々に寺院を寄進し続け、まだ100カ寺近く
を寄進する予定で準備を進めていたのである。

参考資料:
http://www.nichiren.com/jp/organ/organ01/org01_3.html

日蓮正宗側が○○を邪魔扱いし、○○を破門したなら、
赤字転落になるのは、分かっていた事です。
それを承知でやるでしょうか?

また、何の理由もなく○○を無くし、
○○員を法華講にする理由はないでしょう。
何故なら○○は末寺に所属していたのだから、
○○員を破門する事は、自殺行為です。

だが、現在日蓮正宗は、各末寺には、
法華講がいて、信徒が段々増えています。
○○員だった方や△△だった方、また、他宗教から、
日蓮正宗が正しい宗教として、帰依しています。
○○を破門した事により、今の日蓮正宗は、
正しい団体として清浄になりました。

比較資料:
http://plaza.rakuten.co.jp/dakkainomichi/diary/200807120001

[930] T、T 2009/01/18 11:59

>正しい団体として清浄になりました。

仏教は、分派、そして組織化されると言う事は、それだけ俗世間的になり、
仏教の本体から逸れる事を意味します。

日常生活で生じる表面的に見える現象、特に仏教関連の事柄は、
普通の見方での是非、善悪で判断する限りは、それが善であっても、
悪であっても、一切が悪であります。
つまり、どう論じても正しく結論づけようが、錯誤、妄想であります。

この人も亦、知的感性豊か故に、幼き頃から知的感性に支配された、
その思いちがに気が付かず、哀れな道のりを歩むものと推察致します。

この知的感性豊かな道具を.自分的に正見的、邪見的道具をもって
批判的に使用しないで、仕事なり、社会性の為に使用すれば、
素晴らしい能力を発揮される事と思うのでありますが。

知的な道具の見誤りに早く目を醒ませと言いたい。

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