基本。<><>2006/11/21(火) 22:43:31 ID:<>中山みきというお方は、自分のことを世界の人間の親だという思想を持っていて、
それで、世界中の自分の子供は、みんな兄弟だという思想の持ち主でした。

奈良県天理市にある天理教会本部では、天理教の教祖を「おやさま」と呼んで、また、親神様として、信心しています。

しかし、「おやさま」の思想は、天理教という宗教思想というには、より大きな思想であり、宗教云々を絡めると、その思想が理解されない、狭い道に陥ることになります。
そこで、ここでは、全人類のおやだと自称した「おやさま」の思想そのものを、宗教は一切絡めないで、論じ合いたいと思います。

中山みきさんのことを、全人類のおやだと思う人も、思わない人も、ここでは本人の思想の一部である「おやさま」という共通の呼び方で呼んでください。
そして、絶対に、宗教を絡めずに、その思想について、討論しましょう。

ここでは一切、宗教の絡みは語らないルールです。

天理教という宗教の絡みは、ザ・天理教を語る4があります。
http://religion.bbs.thebbs.jp/1163859118/
また、天理教と政治の問題への基本の立場は、「教理とひながた」
http://www.yousun.sakura.ne.jp/public_html/wforum/wforum.cgi
にありますので、そちらのBBSなどへどうぞ。<>おやさま 基本。<><>2006/11/21(火) 22:46:59 ID:<>「おやさまの思想」? 念が入ったら血がくだる。

慶応三年のええじゃないか、はどのようなものであったか。

http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020621b.html
2002年6月21日(統一テーマ:『幕末』)
ええじゃないか  田中愛子
 ええじゃないかとは、慶応三年(1867)、伊勢神宮の神符等が降下したということを発端として起こった、乱舞を伴う狂乱的な民衆運動である。
 ・・・
 初発は慶応三年の七、八月頃、収束は翌四年の四月ごろであろう。
 ・・・
 ええじゃないかの流れは、概ね次の通りである。
 まず、御札が降る。
 降下した神符類には伊勢神宮の御札が多かったが、その地域で信仰されていた神社仏寺の御札、仏画、仏像、銭などもあり、非常に多種多様である。
 御札が空からあたかも雨のように降り注いで来、民衆が狂喜乱舞している、という絵や記述が残されているが、御札発見時の状況はそのようなものではない。朝起きると御札が家の前、軒下、垣根、庭、藪などに落ちていたという記録が多い。また、鳥が御札を落としていったという記録もある。この発見時の状況から、誰かが夜間密かに御札をおいていった、あるいは、何者かが鳥を使って御札を撒いた、というように考えることもできる。
 御札が降ったとなると、その御札は祀られ、さらに、祝祭が開かれることとなる。
 御札を祀り、祝祭を開く理由は2つある。ひとつは、神仏によって齎される災いへの不安、恐怖である。もうひとつは、降札は神意による降札であり、喜瑞、特に、世直しや豊作を示す喜瑞であるとして、祝うべしとするものである。
 自然発生的に祝祭が開かれることもあれば、村の指導者層や宮司たちによる協議で祝祭の開催が決定され、彼らの主導のもとに期限を決めて祝祭が行われることもあった。
 祝祭の内容は、着飾り、行列を組んでの社寺へ参詣する、手踊りの行列が出る、酒が振舞われる、蒔き銭、蒔き餅が行われる、等である。
 こうした祝祭は、特に東海地方では、通常の祝祭の秩序内で収まることもあったが、これは、ええじゃないかとしては少数である。
 祝祭は過熱化し、狂乱状態へと突入する。たとえ役人主導で始まったものであってもその制御を超え、狂乱に陥る。祝祭日は通常二夜三日に限られていたが、狂乱状態が抑制不可となり、七夜七日に延長されるということもあった。あいついで御札降りがあると、そのために祝祭が連続して開催され、狂乱を拡大させる要因となった。
 その狂乱の内容は、「ええじゃないか」の文句をくり返す歌と踊り、異装の行列、無礼講的な祝宴と大盤振る舞い等である。日ごろ心よく思わぬ富者の家に押し入るということもあった。そこには、例えば狂乱の中に加わっている男子の女装、女子の男装に見られるような、規範の無視や、日常性からの逸脱が見られる。
 通常、領主側、村役人側の命令・指導を以って沈静化し、二夜三日、あるいは七夜七日で狂乱状態は収束する。
 ええじゃないかの背景にあるものとして、概ね次のような事柄があげられる。
 ・世直りへの意識と期待、実現しかかった世直りへの歓喜
 ・おかげ参りの伝統(特に天保一年(1830)のおかげ参りの記憶)
 ・幕末の危機的な政治情勢・政情不安のための圧迫感・不安感。現実の不満・不安抑圧から、自由、陶酔への逃避
 ええじゃないかの仕掛け人として疑われるのは、次のような者たちである。
 ・討幕派志士
  ……倒幕計画を進めるため、幕府に対する目くらましとして、あるいは幕府の支配機構の混乱、人心擾乱をねらって彼らが仕組んだ計略であったとも、彼らがええじゃないかを仕組んだわけではないが狂乱を利用・助長し幕府の目を彼らから逸らしたのだともいわれる。
 御札の版木を持った浪人の逮捕を告げる記録が残っており、また、のちに自ら、御札を偽造して撒いたと述べている討幕派の志士もいる

昭和3年にも、ええじゃないかはありました。
http://www.city.matsubara.osaka.jp/walk/7-108.html

これは、薩摩の情報操作として、研究されています。

おやさまは、権力の情報操作に対して、このように思想を示しています。

「人間の身体にたとえて云えば、あげ下しと同じようなもの。あげ下しも、念がいったら、肉が下るようになるほどに、神が心配」

つまり、情報操作も念を入れると、国民の生命にかかわるという思想です。
<> 基本。<><>2006/11/21(火) 22:48:00 ID:<>「おやさまの思想」その2 国会ではおさまらない。

おやさまは、ただ一人の正当な弟子の口を通して、国会ではおさまらない。と思想を明示しています。
根本的には、おやさまの立場は、律と神(中山みき本人の内なる存在)を対比させて、

「さあさあ一つの処、律が律が怖いか、神が怖いか、律が怖いか。」
「この先どうでもこうでも成る事なら、仕方があるまい。」

と、律とは真っ向から闘う姿勢でした。
また、おやさまは、律による社会の平等(ろくぢ)はあり得ない事を、思想として弟子たちに説いていました。
そして、律による支配の幸福ではなく、人間の内側に存在する「精神」によって、「この先どうでもこうでも成る」と、その思想を示していました。

しかし、宗教に固執した弟子たちは、おやさまの思想を、律に基づく宗教として世に広めようとし、弟子たちの師に対するむほん同様の状態となりました。
律に従順することで、宗教家という価値に到達しようとあせる背いた弟子たち。
かれらは、こともあろうに、自らの精神を解き放ってくれたおやさまに対し、最も大切な、律による精神の支配を認めないおやさまの思想を、おやさまに説かせまいとしたのです。
それは、おやさまに、死ねという行為そのものであることを、弟子たちは誰も自覚していなかった。・・のでした。

そしておやさまは、命を懸けて、唯一の正当な弟子、飯振伊蔵の口を通して、謀反を胸に抱く弟子につげます。
『「さあさあすっきりろくぢに踏み出す。さあさあ扉を開いて開いて、一列ろくぢ。』
『さあろくぢに踏み出す。』

告げる口は、唯一のおやさまの弟子。飯降伊蔵という大工の口でした。
聞く耳は、律が人間の精神を支配し束縛する。その律の束縛にゆだね、宗教家の栄誉を得ようとする弟子たち。
すでに、高山となってしまった弟子たちに、・・・おやさまは、ただ一人の一番心の低い弟子を通して、
「ろくぢ」に踏み出すことを告げました。

伊蔵はおやさまの精神を、口から発し、兄弟たちに問いかけました。

『さあさあ扉を開いて地を均らそうか。扉を閉まりて地を均らそうか地を均らそうか』。

内なる思想を表に現して、平等な社会をつくるのか、それとも、内なる思想を語らず、閉ざしたまま、平等な社会をつくるのか、
問われた弟子たちには、その真意は、分かるものではない。すでに閉ざしてしまった精神の扉は、律の万能を信じ宗教家の未来を求めるばかりであった。
そして出されたのが、

「さあさあ一つの処、律が律が怖いか、神が怖いか、律が怖いか。この先どうでもこうでも成る事なら、仕方があるまい。」。

この、おやさまの思想でした。

そして、おやさまは、思想を残して、この世から姿を無くしました。
そのねおやさまの思想は、「さあさあ一つの処、律が律が怖いか、神が怖いか、律が怖いか。」「この先どうでもこうでも成る事なら、仕方があるまい。」と、口から発した大工の伊蔵
の口によって、
「国会ではおさまらん」と告げられています。<> アルテミス<><>2006/11/21(火) 23:17:28 ID:<>こんばんは。
簡単に今の気持ちを語りますと、おやさまは『天の理』を説いたけれど、その存在も『天の理』そのものであると感じています。

そしてその『天の理』という世界は、この世のどの宗教より広くて深い、そのように思います。<> BigBug<><>2006/11/21(火) 23:26:23 ID:<>>>0
人生論を語るのであれば、いいですが、
「宗教の絡みは語らない」のであれば、別の(哲学など)カテに行った方が良いと思います。(ほとんどレスつかないと思いますが)
<> アルテミス<><>2006/11/21(火) 23:42:30 ID:<>社会の中の人生という事なので、かまわないと思います。

もっとも、『天の理』という世界はどこにでもあると思いますが。<> 基本。<><>2006/11/21(火) 23:43:57 ID:<>>>4
助言有難うございます。
おやさまの語られた言葉のなかの「真理」について語り合うという意味では、ここが、一番妥当かなと思います。
当スレは、おやさまの、教えそのものを語り合うということで、宗派論や宗教組織論を語らないという意味です。

おやさまの教えの「真理」について、語り合いましょう。<> 基本。<><>2006/11/21(火) 23:48:35 ID:<>>>0
に追加情報です。

おやさま(天理教祖)の語られた、教えの真理そのものについて語り合うということです。
宗教の組織論や宗派論というようなものは、からめないで、「おやさま」の言葉、教え、行動そのものについて、語り合いましょう。<> 基本。<><>2006/11/22(水) 01:08:33 ID:<> おやさまの思想の対極をなすものを指し示す時に「世界並」と言う言葉を、おやさまは示して居られます。

その中でも、「見えてから言う」「見える前に言う」、これを対比して、

 「見えてから説いてかかる」→「世界並」

と、いう思想表現があります。
これは、人生観において、重大な分け目となる思想です。

歴史を振り返って語るのは、「見えてから説いてかかる」、そのものですから、「世界並」。

未来を予測して語るのが、大切という思想を、見いだせます。<> トリップ<><>2006/11/22(水) 01:16:09 ID:<>>宗教の組織論や宗派論というようなものは、からめないで、「おやさま」の言葉、教え、行動そのものについて、語り合いましょう。

ただ、そうなってくると必然的に
「正しい」「悪い」とかいうことは、挙げられなくなってくるけど、それでよい?<> 傍陽気<><>2006/11/22(水) 03:30:58 ID:<>社会的思想で宜しいのでしょうか。難儀している貧しい人々の為に、谷底に暮らす人々の為に、難儀から解放されるよう語られた思想は谷底せりあげという思想です。皆が平等になる為に、谷底が、自ら競り上がってより高い位置へと、それは闘争とか言うものではなく、政治に訴えると言うものではなく、谷底自らが競ってせりあがる平等な、「ろくじ」という社会的思想をお持ちの農家のご婦人でした。<> 傍陽気<><>2006/11/22(水) 04:17:03 ID:<>おやさまは、「さあこれから世界の普請に取り掛かる。皆祝って下さい。」という一声で、その先頭に立って実現に向けて、江戸の末期に社会的活動をお始めになりました。その初めての社会的活動、行動は中山家と言う自らの家のこぼちを皆に祝ってもらうというものでした。<> 基本。<><>2006/11/22(水) 05:45:00 ID:<>>>9
> 「正しい」「悪い」とかいうことは、挙げられなくなってくるけど、それでよい?

ひとつひとつの意見に対しては、賛否が生まれるかも知れませんが、それは、「善悪の問題」というよりも、思想への各人の意見の相違と言うだけのことですから、見解の上での対立と言うことで、討論があるかもしれません。
各人に、お任せします。

>>10-11
谷底せり上げと言うことは、おやさまの思想の最重要なもののひとつと、思います。
傍陽気さんの言われる>難儀から解放される、とは、具体的にどんなことを意味しているのか分かりませんが、基本的には、生活基盤そのものの、基盤の確立にあると思います。
しかし、それは、「資本」と呼ばれるものの事ですが、資本を平等に分け合うという事で、生活基盤が谷底の者に与えられると言うような、簡単なものではないと、思います。

貧乏という、経済的困窮という原因を、経済的に救済するということだけを、おやさまは、谷底せり上げの思想として示されただけではないと言うことです。
貧乏からいかに「せりあがるのか」。
これが、おやさまの思想の根底にあると言うことだと、思います。

それは、傍陽気さんが言われている、
> 「さあこれから世界の普請に取り掛かる。皆祝って下さい。」
この、おやさまの言葉にあふれている、積極性の裏付けに、何があるかという事でしょう。
自分の家が、没落していくことを公然と、皆と祝う。

そこには、その貧乏から吹きあがる事を、せり上げというんだよと、そのままに、示した、教祖の思想があります。<> 基本。<><>2006/11/22(水) 06:04:32 ID:<>>>12
谷底せり上げと、家の取り壊し。
この、矛盾した、二つの方向が、何故ひとつなのか。
そこには、重大なキーがあると思います。

おやさまの思想を示す言葉として、
「おちこめ、おちこめ」とか、「難儀せねばなんぎなるものの心わからん」とか、そういう、おやさまの内側から放たれた声があります。

この意味は、吹きあがるという大前提で、成り立つものです。

それは、吹きあがったときの、後の姿として考えたとき、吹きあがりの後に、「難儀なる者の心」「なんぎなるものの心」。これが分かっていなければ、単に、新たな高山がひとつ出来ただけだ、ということに過ぎないからです。

難儀している人の心が分からないのは、難儀したことがないからだ。
そういう、消極的な話ではなく、難儀そのものを良く知り、難儀な者の心が分かれば、もう誰も、誰一人も谷底をつくらなくてすむという、思想だということです。

往く、還える。と書いて、「往還」と呼ぶ、それは、おやさまのろくぢ思想の完成した姿を呼ぶものだと、基本は、考えています。
最下位のチームが優勝する可能性もある事が、往還であるという思想です。

「おふかん道」というように、おやさまは言われていますが、谷底に「おふかん道」を付けるのだという、おやさまの思想には、消極性はまるで見られません。<> 基本。<><>2006/11/23(木) 23:29:09 ID:<>「見えてから説いてかかるは世界並み」「見えん先から説いておくぞや」

このおやさまの思想は、徹底したものであり、預言者としての自らを定義しています。
見えてから説かないという事は、自らの発した思想の「永遠性と持続性」を普遍的に、保障した宣言であり、無責任ではないという事になります。

おやさまは、文久2年に、安堵村の飯田善六さんの子供で、飯田岩次郎と言う子供が病気の時に、おやさまの治癒能力にて、救済すると言う「おたすけ」をしています。
その後、飯田善六さんに対して、「あんたは前世でおじさんと言う血縁者であった」と、因縁の事実を告げています。
そして、金貸しをしていた前世では、寝ている病人の布団まで剥いで、回収した、守銭奴であったと、心の入れ替えを諭しています。

おやさまの思想の、「いんねん」思想の一端を示しています。

一つは、つまり、おやさまと親戚であるという事は、金貸しの因縁がある。と、いう事の意味ですが、中山家も金貸しをしていた。
その、因縁においては、「おんなじ」であるという、「因縁に隔てなし」と、言う思想です。

もう一つは、前世人を泣かせて金を集めてあれば、今生、自分の病気の姿として、苦しむことになると言う、思想です。「撒いた種は生える」という、思想です。

そして、もう一つは、そうした自分の悪い方の因縁を自覚し、心を入れ替えるならば、心を洗った結果として、人をたすけるための「こうのう」を、不思議な力を得られると言う、「人間は皆、綺麗な水と言う」共通の因縁です。

そこで゛飯田家では、教祖が来られるたびに、近在の悩む人を集めて、大勢のおたすけを、していました。
それは、本来は、前世の悪しき種を散財にて取り去る、「散財」であるべきものでした。
しかし、息子に、「水のさづけ」という、効能を授かったことから、飯田善六は、「散財」のために為す救済ではなく、「蓄財」のためになす、「不思議な水のさづけ」の悪用を胸に抱いていました。
金貸しとしての、悪行時代の悪因縁の心の根が、切れていなかった。
のでした。

その時、みえぬ先から説く、おやさまは、文久四年の事でした。
  さあさあ この屋敷をこうずい場所
  水屋敷といういんねんをつけおく
と、お言葉を以て、水屋敷の「はんらん」を、予言しました。

おやさまの教えの、真理を、最初はそうでないのに、やがて拝み祈祷の宗教に利用した人に、おやさまは、あらかじめ、「水」のさずけを与えているのも、ひとつの、予言です。

「水は」
まず、「おちこめおちこめ」。
「水は」、
貧に落ちきる事で、吹き上がるのだという、証拠の、さづけ。
見えない先に、といている、おやさまでした。<> 基本。<><>2006/11/25(土) 21:45:19 ID:<>おやさまの思想には、「ためし」と言う思想があります。
それについては、おやさまの、このようなお言葉があります。

『・・・ためしというは、人救けたら我が身救かる、という。我が身思うてはならん。どうでも、人を救けたい、救かってもらいたい、という一心に取り直すなら、身上は鮮やかやで。』
これは、加見兵四郎さんという人に諭した、教祖の思想です。

つまり、「ためし」のない者は、「ためし」をすませてない人は、
『人を救けたい、救かってもらいたい、という一心』ではない者、とていう思想です。

文久二年には、同様のエピソードが記録されています。
れんだいこさんと言う、天理教祖中山みき様の思想を研究されている方がまとめた、ものから、引用します。
れんだいこさんの、研究をご紹介しよう。http://www.gameou.com/~rendaico/mikiron/nakayamamikikenkyu_31_2.htm
 「この時文久3年12月10日の7ッ時なり。老婆とは、天理教教組、奈良県山辺郡三島村中山善兵衛様の令室、みき様なり」の書き出しで始まり、以下、みきのおたすけの様子が次のように記されている。「(中略)老婆は家族の者に一礼を述べ、病人の枕辺に至り、満面笑みを含ませられ、薬要らぬ、川に流しておくれ。祈祷するにも及ばぬ。皆、断り為したがよろしい」なる前口上が為されたことが明らかにされている。
「教組には御入りありても、別にまじないのようなこともせず、神仏を祈念するでもなく、居合わせし人にこれから先の道すがら、その道筋というのはな、これこれに変わる、世の中はかようかように移るのや。又は、人間の始まりはどういうことというならば云々と、謡う如く話するが如く、耳慣れぬ不可思議のことのみを語られました」。

 (文久4年正月、みきは再び安堵村の飯田宅に足を向けられた。)
 「老婆のまたもや安堵に参り落ち着くと聞くや、ますます多人数毎日夜のあけるを待ちては寄り来たり、門を開くを待ち兼ね、われ先にと入り来る有様なれば、家内一同仕事も出来ぬことゆえ、母上の思うには、これでは働くことかなわん、老婆に帰りて貰うにしかじと心のままを申し上げたるに、不思議なるかな、たちどころに身体そのまま動くこと出来ぬようにしびれ、息の止る如き心地して言葉も出しえず、如何とも為すことならぬよう相成りたり。家内一同驚き恐れ、顔見合わせ居たるのみなりしが、父上には老婆の前に進み、いろいろとお詫び申し入れたるに、老婆いつもながらに御笑い為されて、『さあさあ、これはな、無い寿命も助かるは神の力なるぞよ』、『さあさあ間違いやて゛間違いやで、我が子さえたすからば』、『人はどうでも良いという心得、その心を入れ替えて懺悔させねばならん』と教組はおっしゃって、母上も恐れ震いて懺悔せしかば、すぐさま自由用叶うようになりたり」。

『さあさあ間違いやて゛間違いやで、我が子さえたすからば』、『人はどうでも良いという心得、その心を入れ替えて懺悔させねばならん』

これが、安堵村の飯田家に、「ためし」の思想を示されたものです。

薬を全て川に流したのも「ためし」です。
我が子がたすかって、他にたすけを求めて集う人々の事を、たすかって欲しいと思わないでいた、その時の飯田家の妻女に諭し示したのは、神一条とは何かという、思想の、真髄でした。

 このたびハたすけ一ちょにかかるのも
 わがみのためしかかりたるうえ     三号44
 たすけでもをがみきとふでいくてなし
 うかがいたてていくでなけれど     三号45
 このところよろつの事をとききかす
 神いちじょでむねのうちより      三号46
 わかるよふむねのうちよりしやんせよ
 人たすけたらわがみたすかる      三号47

教祖の、ためしの思想は、「拝み祈祷」「伺い」を、否定しています。

否定しつつも、「いくてなけれど」と、けれど、人間にはそういう道があることには寛大なお心を示されています。

 いままでハいかなる神も山々に
 をがみきとうとやうたなれども     六号26
 このもとをしりたるものがあるならば
 たづねいてみよ神がゆるする      六号27

今までの拝み祈祷の神をたずねることは、許されているおやさまでした。<> 基本。<><>2006/11/26(日) 22:50:23 ID:<>>>14
> 「見えてから説いてかかるは世界並み」「見えん先から説いておくぞや」
> このおやさまの思想は、徹底したものであり、預言者としての自らを定義しています。

> その時、みえぬ先から説く、おやさまは、文久四年の事でした。
>  さあさあ この屋敷をこうずい場所
>  水屋敷といういんねんをつけおく
> と、お言葉を以て、水屋敷の「はんらん」を、予言しました。
安堵村、水屋敷の飯田岩次郎さんの入信は文久3年(1863)でした。
30年後の明治28年に、おやさまの思想の後継者である大工の伊蔵様を通して、その月、飯田岩次郎が設立した平安支教会のみちについて、教会の龍頭に゜相当する平野楢蔵に、その三十年の道を見抜き見通しだというおやさまの思想を告げています。
文久四年(1864)に知らせた予言そのものは、やはり三十年後の明治28年(1894)に、30年前と3年前の二回の予言のようになると、平野楢蔵に教えています。
予言が解読できなかった、ために、不幸にもその該当の年に、飯田岩次郎は橋本清と密約して、「はんらん」を起こしています。

預言者のおやさまの思想をそのままに、大工の伊蔵も予言的行動をしています。
水のさづけという、もので例を見るなら、山名の、諸井ろく、という小児に、水のさづけを与えています。
諸井ろくと言うのは、山名の初代の諸井国三郎さんの後妻さんの娘です。
後の初代表棟梁、諸井慶五郎は、諸井ろくさんの夫です。

明治21年(1888)年、ろくさんは、水のさづけを頂かれています。
そして、30年後の大正7年(1918)に、ろくさんの父、国三郎さんが死ぬと、葬儀において、喪主が二人並び立つと言う、異例な状態が起こり、「教統問題」が起きています。
先妻の娘婿で二代会長の清麿と、後妻の娘婿の戸主の慶五郎が、譲らずに並び立つと言う、継母継子の騒動が勃発したのでした。

つまり、水のさづけとは、それを頂いて30年の将来に対するものであると言う、おやさまの思想は、大工の伊蔵さまだけには、きちんと一つであったと言う事です。
 因業金貸しに水屋敷  →30年→水屋敷のむほん。
 後妻の幼女に水の授け →30年→教統問題(教会の正統後継者争い)

いんねんを切るには、「おちこめ」「おちこめ」。
おやさまには、みずからのひながたでお示しの事でした。<> 傍陽気<><>2006/11/27(月) 01:32:26 ID:<>明治24年11月15日夜一時 本席様身上より願い
一日経ち十日経ち
言うている間に二十日経ちついには忘れる

確かに、見えん先から説いておく中山みきは預言者です。<> 傍陽気<><>2006/11/27(月) 01:57:24 ID:<>おやさまは自ら自身を存命で、姿は無いけど存命は本当であると馬鹿げた事を言うのである。何を持って存命と言えるのか。雛型ではみな教祖は生き神様と言っていた。それが我々にも得心できないのはおや様らしくない。だから扉開いて後も、時間と言う月日によって確かに中山みきは存命でいる事が、その姿を拝見できない今においても誠にできる。おやさまは現実に月日と言う中に生きている。<> 傍陽気<><>2006/11/27(月) 02:23:53 ID:<>天理教会と言う道中にそんな予言が在ったとして、たとえ在ったとしてそんな事でどうして「世界の普請」ができるのか。まだ教えてもらってませんが。<> 基本。<><>2006/11/27(月) 07:18:07 ID:<>>>19
おやさまの思想においては、時間と言う概念は、人間の時間に対するそれを、はるかに超えています。
一日と一年、そして一生は、同じ理であるとの思想がそれです。
三十年かかる道も、三年の道も、三日の出来事にしか過ぎないと言う、思想を、教祖は示されています。
> 天理教会と言う道中にそんな予言が在ったとして、
> たとえ在ったとしてそんな事でどうして「世界の普請」ができるのか。
> まだ教えてもらってませんが。

この世のためしについて、理が見えるには、おやさまの残念を晴らすこと、大切と、思います。<> 基本。<><>2006/11/27(月) 11:54:43 ID:<>>>19-21
おやさまは、「こうき」という思想を提言されています。
おやさまの世界たすけは、「たすけ一条」とおやさま自らが定義をなされています。
おやさまの「たすけ一条」は、外観上のたすける立場の人と、たすけられる立場の人は、二つ一つにひとつであり、ともにたすけ一条である。一つであるとされています。

 このたびハたすけ一ぢよをしえるも これもない事はしめかけるで 三号17
 いままでにない事はじめかけるのわ もとこしらえた神であるから 三号18
 にちにちに神のはなしがやまやまに つかえてあれどとくにとかれん 三号19
 何ににても説かれん事はないけれど 心すましてきくものハない 三号20
 すみやかに心すましてきくならば よろづのはなしみなとききかす 三号21
 このよふのたしかためしがかけてある これにまちがいないとをもえよ 三号22
 このためしすみやかみえた事ならば いかなはなしもみなまことやで 三号22

おやさまが、たすけ一条のうえで、この世にかけた「ためし」が、間違いないと思うこと、そして、そのためしが見える事が、何よりもの、大切な事です。

 はやはやとみへるはなしであるほどに これがたしかなしょこなるぞや 三号26
 これをみてなにをきいてもたのしめよ いかなはなしもみなこのどふり 三号27

おやさまが、確かに仕掛けたためし、の目的は、「このどうり」と示されています。

 人のもの借りたるならばりがいるで
 はやくへんさいれいをいうなり    三号二八

即ち、「債務奴隷社会」からの脱却と言うためしです。<> 基本。<><>2006/11/27(月) 14:23:03 ID:<>>>21
> 人のもの借りたるならばりがいるで はやくへんさいれいをいうなり 三号二八
このおやさまのお筆先は、「人がものを借りたなら、利息もいるし、はやく返済して例を言うがよい。」(芹沢茂・おふでさき通訳)と、解釈されています。
さらに「(二八)に賃借のたとえをもって、お話下された真意は、・・貸物借物の教理を暗示している。」(芹沢茂・おふでさき通訳)と、このような解釈まで生んで、借りたら、利がいるから、お供えをしなさいという横暴教理として信者に強要している宗教もあるようです。
これは、大きな間違いで、宗教の因縁と言うものの自覚の無い姿です。

「債務奴隷」と言うのは、どのようにして生まれたのか、日本の場合を、学者さんの研究に教えて頂きますと、「貨幣の散歩道」には、このように書かれています。
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_11.htm
『12世紀になると、各地からの律令税の徴収や年貢米の都への輸送に不可欠な商業・輸送ルートを掌握していた神人(じにん)・供御人(くごにん)が請け負うようになった。彼らは、公家や社寺に奉仕者として仕えることが認められた特権的武士であり、天皇や神仏の権威により日本中を自由かつ安全に行き来することができた。』

http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_12.htm
『中世において社寺は有力な封建的土地所有者であっただけでなく、蓄財の利殖のため、金融業をも営んでいたのである。借銭・利銭、祠堂銭とも利息は年利5〜6割と高利であったことから返済は容易ではなかった。そのため、担保に差し入れられた土地・地頭職などが土倉や社寺の手許に流れるというかたちで御家人階級や農民の生活を圧迫した。
 出挙、借上、土倉、祠堂銭など、古代から中世にかけてみられた金融取引の多くが神社・仏閣により営まれていたという事実は、非常に興味深い。第1に、当時の社会における富の分布や金融取引が神仏と密接に繋がっていることを示しているからだ。第2に、彼らの金融業者としての拠り所は、「債務不履行は神仏の供物を奪う行為であり、そうした輩は死後地獄に堕ちる」という宗教的な返済強制力にあり、借り手も神仏の冥罰をおそれて約定どおり返済に努めたのであった。 』

つまり、文久の時代の飯田善六さんが五代前には、おやさまのおじさんで、宗教からみの金貸し「土倉」をしていたと、その因縁が、私にもあるよ、と、それがおやさまの、思想です。
それが
<> 基本。<><>2006/11/27(月) 14:49:42 ID:<>>>22
(つづきです。)
それが、元々のいんねんが出て、宗教というもので『金を搾り取る』という、水屋敷の反乱につながったという事なのです。

紹介しました、「貨幣の散歩道」というサイトでは、日本の債務奴隷について、歴史がこのように語られています。
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_05.htm
?、日本においても古くから、出挙(すいこ)と呼ばれる金融取引が行われていた。
 これは、稲の貸借取引であり、もともとは豊作を祈念して神社に捧げられた初穂を翌春、神社が種籾として農民に貸し付け、秋の収穫時に利息に相当する利稲を付加して返済させるというものだった。
 ・・・第1に、農民からみた場合、種籾を貸与してもらえるため、種籾の確保を一切考慮することなく、収穫米を消費することができた。
 第2に、天災や飢饉に備えた米の集団備蓄が制度的に進められることになった。
 第3に、これが最も重要な論点であるが、神社からみた場合、ストックとしての富の品質維持が挙げられる。
 富としての米の価値を維持していくためには、少なくとも年1回程度は米の入れ替え取引を行う必要があり、これを農民の利益向上に繋がるような仕組みに仕立てたのが出挙と考えられる。
?、出挙は、大宝元年(701)に制定された大宝律令により制度化され、
 国衙(こくが)が班田農民に春先に貸与した種籾を、収穫時に利子を付加して徴収する制度のことを指すようになった。
 これを公出挙(くすいこ)という。公出挙は、種籾まで食してしまった農民の救済措置として始まった。

農民の豊年を祈願しての、神事において、また、万一の時の福祉において有効な制度であったはずの、「大宝律令」が、実は、「債務奴隷」を大量に生み、大社高山による差別社会の統治に悪用されたと言う事です。

?、しかし、その利息が年5割にものぼる高利であったため、次第に税のように強制的なものとなった。
 各地の国司はこの利息を当初は公共事業や国分寺の造営費用に充当していたが、やがて自らの懐に入れるようになった。
?、平安時代になると、土豪化した在地領主も出挙を行うようになった。
 これを私出挙(しすいこ)という。私出挙は半ば強制的に行われたが、その利息は、当然のこととして公出挙よりもさらに高利であったため、実質的な税として農民を苦しめた。
?、私出挙においては、貸し手の債権保全のため、農民の宅地・奴碑・雑蓄のほか口分田までが質物となった。
 利息未払いのため土地や家屋を没収された農民や、追い立てから免れるため逃亡する農民が後を絶たなかった。
 平安中期には、債務不履行となった場合、質物の所有権が債権者に移転する流れ質が一般的になったからだ。
 そうしたなかで、農民は債務奴隷へと墜していった。

鎌倉時代から明治時代までの封建制度のなかで、身分の格差と所得の格差は拡大した。
身分差拡大にそっせんしかかわった、その当事者が、「神社・仏閣」であったという事を、きちんと因縁として、自覚しなければなりません。

心澄まして思案してみましょう。
大宝の律令によって、農民には口分田が与えられ、神社は農民の豊年を祈願し、種もみを貸し与えた。

いつの間にか、それに利息をつけて、利を貪り、「土倉」を建てて富を蓄えた。
それは、宗教のしてきたことだった。
権力の高山を利用しての悪行三昧。
絶望の民衆に、「あの世の極楽」を説いた詭弁。

その詭弁を、おやさまは、厳しく、理を責めておられます。
人間を債務奴隷にしている、してきた、高山、そして大社。
このおふでさきは、きちんと理を示しています。

 人のもの借りたるならばりがいるで
 はやくへんさいれいをいうなり    三号二八

債務で縛り付けて、その人のものを借りて利用しているが、それならば、利がいるで。
早く返済し、例を言うが良い。

人を人が債務で支配する。その、債務奴隷からの開放こそ、おやさまの思想の一とすべきもの、世界ろくぢへの道です。
大社高山は、宗教は、債務奴隷の生みの親です。<> 基本。<><>2006/11/27(月) 15:39:12 ID:<>おやさまの思想は、「豊年をもって、世界ろくぢにする」と言う思想です。

その豊年を祈願する「拝み・祈祷」の宗教が、実は、日本の身分差別社会のルーツとして、「債務奴隷」を生み出し、富を蓄えて、大社高山として、谷底支配の一役を担っていた当事者であった。
それは、日本だけの問題ではありません。

「古代の奴隷制度」のサイトを参照しましょう。
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-16-2.html

『[聖書と奴隷]
 イスラエル人自身が私有財産として所有する奴隷に関しては、イスラエルの神もイスラエルの指導者も解放する意思を持ってはいない。イスラエル人が多くの奴隷を持つことは、他の財産と同じく、神のイスラエル人に対する恵みとされている。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、皆、数多くの奴隷を所有しており、私有財産として売買していた。

「わたしヤコブはラバンのもとに滞在し今日に至ったが、牛、ろば、羊、男女の奴隷を所有するようになった。」『創世記』
「ヨセフは、エジプト中のすべての農地をファラオのために買い上げた。飢饉が激しくなったので、エジプト人は皆自分の畑を売ったからである。土地はこうしてファラオのものとなった。また民については、エジプト領の端から端まで、ヨセフが彼らを奴隷にした。」『創世記』

 旧約聖書のなかでもっとも有名な物語はモーセがエジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を解放し新天地カナンへと導き出した物語である。旧約聖書の第五番目の書である『申命記』によれば、モーセは、カナンの地を目の前にしたイスラエルの民たちに対して、その地に入ったらいかに行動すべきかを教えている。モーセは、先住民は殺すか、さもなければ奴隷にせよ、と教えている。

「ある町を攻撃しようとして、そこに近づくならば、まず、降伏を勧告しなさい。
もしその町がそれを受諾し、城門を開くならば、その全住民を強制労働に服させ、あなたに仕えさせねばならない。
しかし、もしも降伏せず、抗戦するならば、町を包囲しなさい。
あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。
だだし、女、子供、家畜、および町にあるものすべてあなたのぶんどり品として奪い取ることができる。
あなたは、あなたの神、主が与えられた敵のぶんどり品を自由に用いることができる。
このようになしうるのは、遠くはなれた町々に対してであって、次に挙げる国々に属する町々に対してではない。
あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国民の民に属する町々で息のある者は、一人も生かしておいてはならない。
ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。」

 神も神のしもべモーセも奴隷制度に対して何の反対もしていない。イスラエル人が他の民族の奴隷になることはいけないが、他の民族がイスラエル人の奴隷となることはむしろ奨励されているのである。
 さらに、聖書によれば、ノアの子供たちが、セム、ハム、ヤフェトの3人である。
セムの子孫がアブラハム、ハムの子孫がアフリカ人、ヤフェトはその他の民族の祖となった。
3人のうちハムがノアを犯した罪で肌を黒くされ、呪われた民になったとおとしめられた。
黒人差別は、「神との契約を守るため」と、信仰からも長く正当化されてきたのである。』

このように、聖書は、債務奴隷を肯定しています。
新約聖書についても、債務奴隷を肯定する立場を説く牧師は、今もいます。

宗教は、高山思想の強大な裏づけとなり、谷底を、奴隷として支配する人間の歴史は、今日も続いています。

その人のものを、債務を理由にして、支配し思うがままにする。
この高山因縁は、先ず、とことん洗いきらなくてはならない。

水を澄み切らせること。
水のさづけの教訓こそ、おやさまの谷底せり上げの大前提となるべき、よふぼくの心得です。


<> 基本。<><>2006/11/28(火) 18:52:05 ID:<>日本においても、宗教は奴隷を生み育てていたと言う、歴史があります。

こんな文章に驚かされました。
http://www.pref.saga.lg.jp/at-contents/kenseijoho/koho/sagamaga/12/power3.html

女性解放の点でも、江藤は画期的な先覚者で、人身売買禁止令を布告し、神社仏閣から女性を解放したり、女人禁制の登山を自由化している。<> 基本。<><>2006/11/28(火) 18:57:52 ID:<>>>25
> 人身売買禁止令を布告し、神社仏閣から女性を解放した

神社・仏閣が、女性を奴隷としていたとの意味である。
調べなければなるまい。
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-16-5.html

?.日本の奴隷制
日本でも古代から最近に至るまで、さまざまな形の奴隷制、人身売買が行われてきた。

【縄文時代】
 三内丸山遺跡東北部の墓域には列状に墓がならんでおり、なかには他にくらべてすぐれて大きいものがみられる。また、土器に入れられた者、穴に葬られた者の別がある。その明確な差は社会階層をしめすものであろう。さらに、北側の谷から人骨が発見された。墓に埋葬されず、ごみと一緒に廃棄された人がいたのである。さらに、集落構成の規則性や膨大な労力を必要とする巨大構築物からも、当時の縄文社会が、一般にイメージされているような自由で平等な社会とは異なっていたことが推測される。縄文社会においても奴隷が存在していなかったとは断定できないであろう。

【弥生時代】
 107年に倭国王帥升らは「生口百六十人を」後漢の皇帝に献じており(『後漢書』東夷伝)、239年卑弥呼は「男の生口四人、女の生口六人」を議の皇帝に献じ、台与も「男女の生口三十人」を献じている『魏志』東夷伝倭人条(魏志倭人伝)。しかし、他のの東アジア諸国から「生口」を献じた例は。四〜五世紀からしか見られない。生口とは、本来は捕虜を指し、その多くは広義の奴隷とされたと推定されているものの、当時の邪馬台国には「生口」の他「奴婢」がいたことが記載されているため、生口が果たして奴隷であるどうかについては議論の余地がある。

昭和3年9月に、中山平次郎は「考古学雑誌」に『魏志倭人伝の生口』を発表した。この中で中山は、生口を日本初の留学生であると解釈したが、橋本増吉は同じ雑誌に同じタイトルで論文を発表し中山を批判した。橋本の生口論は、捕虜ではないが女王から贈り物として献上された特殊技能の持ち主達、例えば潜水夫のようなものである、とした。この後、二人の間で生口を巡る論争が行われた。途中、波多野承五郎が生口は捕虜であるとし、沼田頼輔がこれに賛同した。昭和5年3月に、市村讃次郎は生口論争に加わりこれを奴隷である、とした。直ちに橋本はこれを批判し、稲葉岩吉も市村説に反論した。しばらく論戦が続くが、しかしやがて橋本増吉は、生口は捕虜を意味しており奴隷の意味も併せ持っていると宣言する。

 近世のアフリカで、輸出用の奴隷を獲得する目的で部族間の戦争が激化したことはよく知れれている。弥生時代の倭においても、交易の品物としての生口を獲得するための戦争がなかったかどうかが課題である。

【古墳時代】
 大和朝廷は東北の未服属民を蝦夷、九州では熊襲、内陸部では土蜘蛛と呼んでいる。自分たちだけが人間で、他は動物という認識なのである。征服戦争の際に捕虜の奴隷化が当然のように行われたであろう。
 蘇我馬子と聖徳太子の連合軍に敗れた物部守屋の一族は奴婢とされて四天王寺に施入されたことが「日本書紀」に明記してある。
【奈良時代】
 「日本書紀」によると、大化の改新(645年)で良賤の別が定められた。中国の制度を模倣した律令体制の整備により、奴婢の身分が明確になり、良民と奴婢の間の子は奴婢の子とされた。奴婢の数は当時の人口の約10%といわれている。留意すべきは、良と賤の子は必ず賤、つまり両親の身分の低い方に帰属させることが決められたことで、身分制を維持するための施策と考えられる。これは大宝令にも受け継がれている。さらに「日本書紀」には大解除(おおはらえ)の祓柱(はらえつもの)に奴婢があてられたことが記述されている(681年)。
 律令国家においては、賤民は5つに区分された(五色の賤)。良賤間の通婚の禁止はもとより、同類の身分の相手としか結婚できないという「当色婚」が原則であった。国家権力によって婚姻をはじめ、罪刑、衣服などの面での差別があり、良民と一線を画す支配が行われていたことがわかる。
 近江の国司解文(746年)に当時稲1000束現代の価格でいえば約100万円程度で奴婢を売買した記録が残っている。当時の牛の価格が稲500から600束、馬が800から1000束程度であった。東大寺の大仏建立工事が進んでいた749(天平勝宝元)年、藤原仲麻呂は容姿端麗な15〜30歳の奴婢を、東大寺に貢進するように全国に命じた。翌2年、美濃国司の大伴兄麻呂らは美濃国内から奴3人、婢3人を貢進した。このうち、小勝と豊麻呂は、各稲1,000束の代価で買われている。
 奴婢には、国家が所有する公奴婢と個人が所有する私奴婢がある。、私奴婢の場合、主人が虐殺しても、役所に口頭の届け出をすればそれで済み、罪にならなかった。

(続く)<> 基本。<><>2006/11/30(木) 09:31:32 ID:<>>>26
> 物部守屋の一族は奴婢とされて四天王寺に施入されたことが「日本書紀」に明記してある。
> 藤原仲麻呂は容姿端麗な15〜30歳の奴婢を、東大寺に貢進するように全国に命じた。
> 翌2年、美濃国司の大伴兄麻呂らは美濃国内から奴3人、婢3人を貢進した。
> このうち、小勝と豊麻呂は、各稲1,000束の代価で買われている。

古代の、大社・高山の実像は、ギリシャの民主主義と同じように、「奴隷制度」により、下支えされていたという現実が見える。

(続きです)
> ?.日本の奴隷制
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-16-5.html
【平安時代】
 戦乱、飢饉、重税に苦しんで逃亡奴隷が続出し、他方では婦女子を略取・誘拐して売り飛ばす「人さらい」や「人買」が横行した。一般庶民の多くは、払いきれない借金に喘ぎ、人身を抵当にして金銭の貸借が行われて、返済できない場合、人質は奴隷化された。子どもの売買が日常化し、特異な例としては、兄が弟を奴婢として売ってしまったり、自分で自分自身を売ってしまうようなこともあった。
 「山椒大夫」は、もともと説教師が、ささらをすりながら町の辻で語ってきた歌物語である「説経節」であるが、全くの荒唐無稽な話ではなく「誘拐や人身売買による奴隷化」という「事実」が存在していたことの反映である。

【鎌倉時代】
 「長者」とはもともと名望家や富豪の旧家の主人をさしていた。この長者の家に貴族や高位の武士が旅をするときに泊まる風習があった。このとき長者は自分の妻に身の回りの世話、さらには夜伽の相手、いわば売春接待をしていた。その後、客の接待のために専属の女性を雇うようになり、鎌倉時代中期以降は、それが営業化して娼家のようになったという。

【戦国時代】
・・・・
生捕りにされ連行された人々は、下人や奉公人として働かされた。また、親族のいる者は身代金の支払いで在所に連れ戻されるということもあった。戦場にはこうした生捕りの人々を目当てとした商人とも盗賊・海賊とも言えるような人々がいて、仲介手数料を取ったり売買したりして利益を得ていた。また、ポルトガルなど外国商人により、生捕られた人々が海外へと奴隷または傭兵として売られていくことも珍しくはなかった。
こうした「日本国内」の習俗は、朝鮮役の際には朝鮮にも持ち出され、多数の朝鮮住民が生捕りとなり、日本のみならず東・東南アジア各地に売られていった。
・・・
秀吉による統一が達成され、「国内」の戦場が消滅すると、広域的な人身売買停止令が発布されることになったが、その後も関ヶ原役や大坂陣の際には、やはり人身売買も含めて濫妨が行なわれていた。
 では、戦場での濫妨、奴隷狩りはどこまで遡るのだろうか。中世の「公」的行為であった検断・追捕の際の濫妨は凄まじいものがあり、検断者には濫妨に関して大幅な裁量が認められていた。戦場での濫妨の「正当性」はここに由来する。日本では飢饉奴隷(飢饉の時に養った者を下人とすること)と犯罪奴隷(重い罪を犯して死刑になるべき者を許して下人とすること)は正当とされていた。両者に共通するのは、そのままでは失われるべき生命を助けるということであり、これは戦争奴隷にも共通する観念である。

【江戸時代】
 江戸時代になると、幕府は人身売買を禁じたが、年貢上納のための娘の身売りは認め、性奴隷である遊女奉公が広がった。また、前借金に縛られ人身の拘束を受けて労働や家事に従事する年季奉公制度が確立した。
 街道の旅籠屋(宿屋)で、給仕の女が売春することも多かった。江戸時代に「飯盛り女」と言えば駅妓を指す。また茶屋も売色をすることが目的の「遊び茶屋」が少なからず存在した。
 また江戸時代には湯女風呂というものが流行した。
これは蒸し風呂があって、女たちが垢を落とし、また当然色を売ったりもしたのである。
 公娼制とは幕府や政府といった為政者が売春を公式に管理する制度である。公娼制の存在がはっきりわかっているのは16世紀後半、豊臣秀吉が大阪・京都で認可した遊郭である。その後、徳川家康が江戸城に入城。江戸が繁栄し出すとあちらこちらに遊女の店が出来た。1612年庄司甚内が幕府に提案し、作られた遊郭が吉原である。

(続きます)<> 基本。<><>2006/11/30(木) 10:07:16 ID:<>おやさまが、「債務奴隷」についてのお筆先にては、
 「人のもの借りたるならば理がいるで 早く返済礼を言うなり」
と、債務そのものの、完済と言う説き方をされている。
その意味は、極めて深いものがある。

寺社が神社が、債務奴隷を拡大再生産させるシステムの温床であったという時代は、近代の明治まで続いていて、かつ、宗教そのものが女性を奴隷として所有していた。
佐賀の江藤新平が、>>25
> 人身売買禁止令を布告し、神社仏閣から女性を解放した
その明治5年には、おやさまの住まいの、丹波市村にあった女郎部屋が、あったという。

元は「金剛院」の住職の男が、愛人に経営させていた、「屋根屋」と言う屋号の店であると言う。(高野友治著作集・第6巻p257-260)
そして、元は「金剛院」の住職の男は、その当時には、大和でも格式高い「石上神宮」の神人であったと言う。(同)

おやさまに、思想的圧迫を直接かけた、「金剛院」、「石上神宮」も又、宗教と言う名の、奴隷支配者層であった。

おやさまは、こうした大社高山に対して、取払いを迫り、毅然として臨まれているが、それでは、現場の女たちにはどうであったろうか。

明治5年に、江藤新平の尽力で、人身売買禁止令を出したとき、この頃、金剛院の妾として、夫が在りながら屋根屋と言う女郎屋のおかみをしていた「おみか」は、この頃既におやさまを知っていたと言う。
そのおみかは、女郎屋を廃業し、抱え女に旅費を持たせて国へ帰したと言う。(同)
おみかの子と孫が、おやさまの前で三味と踊りを披露したともある。

じっと、みつめれば、おやさまの、「債務奴隷」の開放に向けての、凄まじい思いが、お筆先にも、ひながたにも、ほとばしり出ている。
その、債務奴隷の問題は、江戸・明治の問題ではない。
現代の、時代の問題である。

<> 基本。<><>2006/12/03(日) 02:25:12 ID:<>>>28
> その、債務奴隷の問題は、江戸・明治の問題ではない。現代の、時代の問題である。

子供の債務奴隷の問題は、福祉週評第2回、より引用しよう。

 2002年のILO(国際労働機関)発表によると、働く子どもは世界で2億4600万人(5〜17歳)おり、世界の同年齢人口の6人に1人の割合である。アジア太平洋地域には、世界で最多の1億2700 万人(14歳以下)の働く子どもがいる。また約840万人の子どもが、最悪の形態の児童労働−人身売買、債務奴隷、性産業、ポルノグラフィーの対象など−に囚われている。

 宗教が差別する国、インドの問題は、和泉市立人権文化センター(ゆう・ゆうプラザ)人権資料室
講座「インドのダリット- 差別の現状と解決への課題 -」から引用しよう。

 ナリニ・アーレスユナイテッド神学大学(セオロジカル・カレッジ)教員
*講師はダリット出身(被差別当事者)の方です。
*当日は英語通訳にて講演をおこないます。

 インドには、依然として残るカースト制のもと「不可触賤民」と呼ばれる人々、すなわちダリット(dalit=抑圧されし人々)が1億6000万人いるといわれています。ダリットはその出生を理由に様々な差別、人権侵害を受けています。(中略)
 彼らは清掃業、糞尿や動物の死体の処理、皮革業を強いられ、極端な貧困状態にあります。また債務奴隷の状態に置かれることも多いのです。ダリット女性は性的虐待の犠牲となることが頻繁にあります。またダリットの子どもは債務の返還のために奴隷状態に置かれる事もあります。ダリットの権利の主張に対しては上位カーストからの強い反動があります。ダリットの人権侵害はこうした上位カーストや警察によっても行われ、その責任が問われることは少ないのです。
 こうした「不可触性」はインド憲法でも廃止がうたわれ、またダリット保護法として市民権保護法や残虐行為防止法が制定されていますが、上位カーストの抵抗で機能していません。
 このダリットに対する差別は国際社会においても非難されています。人種差別の根絶を目的とする「人種差別撤廃条約」は「人種差別(racial discrimination)」の例として、「門地・世系(descent)」に基づく差別を明示していて、条約の履行監視機関である人種差別撤廃委員会はインド政府の定期報告書の審査においてカースト制がこれにあたることを明確に示しています。
 [解説文は反差別国際運動(IMADR)「ダリット・グローバル・アクション」(2003年)解説文から抜粋、要約して作成しました。]


「ひとのものかりたるならば りがいるで はやく返済礼を言うなり。」
この、お筆先の思想は、「人のものとは、人の精神であり、肉体を意味している。」

債権の権利の人間が、債務と引き替えに、「人のものである・人の精神」「ひとのものである・人の肉体」を、借りているのである。
それは、早く返済して、礼を言うべきであると、おやさまは、告げてもいる。

債務者に対しては、完済し礼を言えと言う意味ではあるが、債権者に対しても、債務者を解放し、早く礼を言うように、理を、責めておられるのである。

この、「債務奴隷からの解放宣言」こそ、おやさまの思想の、世界ろくぢの根幹である。


 <> 基本。<><>2006/12/03(日) 03:00:45 ID:<>おやさまの、思想を知り、平野楢蔵は、「女郎屋」という債務奴隷の所有者であったが、女郎たちに、礼を述べて解放した。
明治18年のことである。

この事は二つの意味を示している。
明治五年の人身売買禁止令は、有名無実化し、法を免れる形で遊郭は経営されていたと言うことである。平野楢蔵は、その経営者であり、暴力で支配していた博徒である。
もう一つは、その楢蔵の「奴隷解放」よりも先に、おみかという女性が、奴隷を解放していたという、先覚の存在である。

> 明治5年に、江藤新平の尽力で、人身売買禁止令を出したとき、この頃、金剛院の妾として、夫が在りながら屋根屋と言う女郎屋のおかみをしていた「おみか」は、この頃既におやさまを知っていたと言う。
> そのおみかは、女郎屋を廃業し、抱え女に旅費を持たせて国へ帰したと言う。(同)

> おみかの子と孫が、おやさまの前で三味と踊りを披露したともある。
「この話は、舞踏をやった当のおますから、筆者(高野友治氏)が、直接聞いた話である。
 当時おますは、七、八才であったようで、踊りが終わるとおやさまが、
 『また来て屋や、』と、仰せられ、お菓子を下されたという話しだ。』
                           (同)

この、明治五年の前年には、おやさまは、「春を売る女を舟で運ぶ」家業の男の、耳の不自由を、たすけている。
大阪の三軒屋の、博多市次郎さんである。
この時、おやさまは、自分の耳が不自由となることで、博多市次郎さんの耳の自由を叶えている。

人も我も隔て無しという、おやさまの思想が、「債務奴隷」解放の思想の、基本にある。<> 基本。<><>2006/12/05(火) 04:12:25 ID:<> 人のもの借りたるならばりがいるで
 はやくへんさいれいをいうなり    三号二八
おやさまは、明治7年に、このお筆先をもって、人の固有の精神と、それに神が貸し与えた肉体とを、つまり「人のもの」を奴隷のように束縛し利用する「高山」に対して、決然と、その、「返済」即ち「奴隷解放」を迫ったが、それは、明治6年に政府が、地租改正条例(太政官布告272号)を制定、明治7年から地租改正に着手した高山への、厳しい理の責めであった。

地租改正は明治14年に改正作業が完了した。
その間、お筆先は、この高山の意図のどこにあるかを、厳しく理を責めておられる。

 高山は世界いちれつをもうよう
 ままにすれどもさきはみえんで 三号四八

この地租改正は、日本の帝国主義の道に向けての、国家の財政基盤を固めて、国民を牛馬同等のみちにおとしめていく一大悪法であった。
女子の身売り、自作農の小作化、女工哀史、そうした直接的な「債務奴隷」を生み、国民を総奴隷化する道を開けた。
このことを、おやさまは見抜いていた。

明治7年四月、おやさまは、おふでさきに、
 このひがらいつのことやとをもている
 五月五日にたしかでてくる       四号三
 それよりもをかけはぢまるこれをみよ
 よるひるしれんよふになるぞや     四号四
と、日柄を予言した。

明治政府が、地租改正で実行し意図した、国民総奴隷化計画は、日清・日露の戦争において、具現化していく。

おやさまの唯一の弟子、伊蔵は、日清・日露の戦争の件にて、「五月五日」とは、今の事情だと解説している。

「五月五日」
「端午の節句」
「大本営誕生の日」

預言者、おやさまは、奴隷を産む社会は、戦争国家であると、見抜き、理を責めていた。

地租改正、それは、高山が谷底をままにする、税制と言う奴隷制度であった。


<> 基本。<><>2006/12/05(火) 07:13:23 ID:<>>>31
ここで、現代に至る奴隷史を確認しておこう。
> ?.日本の奴隷制
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-16-5.html
【近代】
 明治政府は、1870年(明治3)児童を中国人に売ることを禁止・・
 明治5(1872)年に「娼妓解放令」を出した。しかし、本人の意志に基づく売春行為は認めたため、公娼制度は再び発展、「貸座敷」と名称をかえたにとどまった。・・・
 明治・大正・昭和になっても、たくさんの娘たちが金と引き換えに貸座敷に連れてこられたという。
 山形県のある地方では9万の人口がいたのだが、そこで2000人もの女が娼妓になって村から消えたという話もある。
 昭和恐慌と東北を中心とする農村の壊滅的な貧困により、身売りはピークを迎える。
 製糸・紡績業が発達するに伴い、農村の年少女子が、わずかの前借金によって奴隷的状態に置かれ、搾取されるようになった。
 労働時間は10数時間で、牢獄のような寄宿舎での生活を強制され、逃亡者は残虐なリンチを受けた。
 過酷な労働・生活条件のため、結核などで病死する女工が続出した。このような状態の女子・年少労働者を保護するため、1911年(明治44)工場法が制定されたが、その効果は容易にはあがらなかった。
 売春に関連する人身売買=奴隷的拘束問題は解決困難であり、さまざまな対策が講じられたにもかかわらず、今日まで存続している。

地租改正は、農村を人為的に解体する政策であったと見て間違いはない。

奈良県の場合の一例はここにある。
http://kashiba-city.net/wiki/wiki.cgi/sekki?page=%285%29%C3%CF%C1%C5%B2%FE%C0%B5%A4%C8%BE%AE%BA%EE%C7%C0%A4%CE%C1%FD%B2%C3
(5)地租改正と小作農の増加
明治新政府の財政を確立するための地租改正事業は、明治六(一八七三)年七月に実施された。
 そのころまだ旧幕藩時代の慣行にしたがっていた租税は、主に米を中心とする現物納であり、豊凶や相場の高低で国の歳入が変化し、計画的な財政運営が困難であった。
 そこで政府は、国の税収の大部分を占めていた地租の徴税方法を統一し、現金による収納を企画する。
 その前段階として、まず明治四年に江戸時代以来の作物の作付け制限を解き、換金作物の栽培を公認する。
 続いて翌五年には、百姓を土地にしばりつけていた田畑の永代売買の禁令を解除し、土地の売買を自由にした。
 そして、土地の所有者に地券を交付して課税の基礎を明らかにし、その所有者(地主)に地価の百分の三の地租を現金で納付するよう義務づけた。
 こうした近代的な地租制度の導入も、政府が国の歳入を減らさない方針のもとでは、農民の負担は江戸時代とほとんど変わりがなかった。
 かえって、農産物価の下落した経済の不況時には、貨幣収入が減少して農民の生活は深刻であった。
 一方、地券の交付によって、土地そのものが売買の対象となると、生活に苦しむ小農民は、土地を手放して小作農に転落するものも少なくなかった。
 小農民の手放した土地は、経済的に余力のある地主や自作農のものとなり、地主の寄生化とともに小作農の問題が社会的な重大事となる。
 しかも、小作農は地主に従属して耕作権が不安定なうえ、高率の現物小作料を納めなければならなかったため、江戸時代以来長く続いた苦しい生活から解放されることはなかった。
 奈良県の統計によると、明治二十三(一八九〇)年の葛下郡の小作面積は総耕地面積の四十四・四パーセント、日清戦争後の明治三十三(一九〇〇)年には北葛城郡(葛下・広瀬両郡合併)の小作地率が五十八・七パーセントとなっている。
 それが、昭和五(一九三〇)年の香芝市域の小作地率は、五位堂村六十三パーセント、二上村七十四・六パーセント、下田村五十七・七パーセント、志都美村六十パーセントとなっていて、割合では小作地が増加の一途をたどっている。
 こうした、小作地漸増傾向の中で、大正十四(一九二五)年、志都美村で小作料の軽減を求める小作争議が起き、農民は慢性的な農村不況の中で呻吟する。
 この小作制度の変革は、第二次世界大戦後の農地改革の課題でもあった
<> 基本。<><>2006/12/05(火) 21:26:28 ID:<>>>1
> おはらいさんが降る。
> おやさまは、権力の情報操作に対して、このように思想を示しています。
> 「人間の身体にたとえて云えば、あげ下しと同じようなもの。あげ下しも、念がいったら、肉が下るようになるほどに、神が心配」

明治政府は、「王政復古」をなすに当たり、大衆の心理に影響をあたえるべく、「お払いさんが降る」という情報戦略を用いて、お払いさんがあると言う神秘現象で、
 「明治維新」→「世直り」という、
神がかり的な演出をし、「幕府」から「朝廷」という流れに民意を誘導しました。

 慶応2年に、あったこと。→「農民は百姓一揆」「うちこわし」
 慶応3年に「高山のした事」→「お払いさんが降る」→「ええじゃないか」

天皇による新政府の政治に対して、民意を誘導するために、「伊勢神宮のお札」を撒くと言う手段を用いた、「維新・高山」は、これから先も、「神社信仰を絡ませて、人心を、誘導する」という操作に、まい進します。

おやさまは、慶応2年には、「あしきはらいたすけたまえ天理王命」のつとめを教えました。
慶応3年には、「みかぐら歌十二下り」を教え始めました。

 明治政府がお払いさんが降るを、作り上げ演出した「世直し」
 おやさまの、みかぐら歌の「よなおり」
 どちらもが、慶応3年の、事でした。

以後、おやさまは、明治政府の「高山」に対して、一貫して、対決姿勢を示したのです。<> 傍陽気<><>2006/12/05(火) 22:18:01 ID:<>信長は、神社仏閣と言うものの中に、高山権力そのものを見つめていた。天下布武という多義のため、自身が神にならざるを得なかった。月日の見せてくれた事だと思います。<> 傍陽気<><>2006/12/05(火) 23:23:46 ID:<>明治18年夏、神明組でお話に感銘を受け入信した大阪船場の足袋商、宮田善蔵は、今川清次郎の案内で、教祖にお目通りさせていただいた。身上からの入信でない彼は、キセル片手に世間話でも聞くように教祖の結構なお話を聞いていたのだが、その中で、
「商売人はなあ、高う買うて、安う売るのやで。」と言うお言葉だけが耳に残った。そして、善蔵は思った。「そんな事したら、飯の食いはぐれや無いか。百姓の事はご存知でも、商売のことは一向にお分かりでない。」と。

誠に身につまされる逸話です。教祖は百姓の事を御存知だったからこそ、商売人のあり方を、理を説かれた。「今の事」を説かれたんです。突き詰めていうと、百姓が、市場価格を、先物金融とか、商社ではなく、百姓自身が、自己責任において、商売をする。それが理の責めだと思います。<> 傍陽気<><>2006/12/05(火) 23:55:16 ID:<>>>35  に関連してある記事抜粋。http://ww4.enjoy.ne.jp/~macroway/currt/F1.html

種子メーカーのカルテル

2002年8月26日、公正取引委員会は、国内種子メーカー32社と業界団体の日本種苗協会を、独占禁止法違反で勧告と警告を行った。勧告を受けた32社は、平成10年3月から12年8月まで、白菜、キャベツ、大根、かぶの交配種の販売価格を話し合いで決めていた。この32社で、この4種子の国内の販売量のほぼ全てを占める。32社には、タキイ、サカタ、トーホク、カネコなど、よく見かける種子会社のほとんどが名を連ねている。

国内最大手のタキイ種苗は、南アフリカの種子会社(メイフォード社)を買収するなど、積極的にアフリカ、アジア方面への進出を狙っているようだ。米・モンサント社を始め先進国の種子メーカーの多国籍化は、共通の流れのようである。発展途上国の種子会社を買収し巨大化した多国籍アグリビジネス企業が、やがてその国の種子を掌握するようになるだろう。

「南」の経済的に困窮している発展途上国では、農産物を輸出してお金を稼ぐことを余儀なくされている。そのような状況では、農民は商品価値の高い農産物を作りたいだろうから、個体差が少なく、よく成長し、見栄えもよい、新しく入ってきた改良品種と称するF1種はとても魅力的だろう。

しかしこれは、後々呪わしい結果をもたらしそうだ。なぜなら、まず第一にF1種は採種ができないなので、毎年種子を買わねばならない。それに、新しい品種が永続的に多収性や耐病性を保っていられるかどうかは全く不確実である。仮に、F1種は出費がかさむ上土地にも適ないことが判明し元の在来種に戻そうとしても、その時はその在来種は消滅しかかっているといったことにもなりかねない。

このような話は、今世界中できかれる。種子メーカーの販売活動は、生態系全体への影響を考えれば、自然の法を侵すものである。F1種の拡大は、一私企業である種子メーカーによる種の支配につながり、多様性への脅威となって、最終的には貧困の拡大再生産にしかならないだろう。

立毛、百姓をままにする高山は、今の事です。<> 基本。<><>2006/12/06(水) 00:42:13 ID:<>>>36
> 種子メーカーの販売活動は、生態系全体への影響を考えれば、自然の法を侵すものである。
> F1種の拡大は、一私企業である種子メーカーによる種の支配につながり、多様性への脅威となって、最終的には貧困の拡大再生産にしかならないだろう。

>
まさに、神社が種籾を農民に与える仕組みから、債務奴隷が誕生したという、太古の宗教因縁のそのままの姿である。

おやさまは、「みな面々の口で言わす」との思想の持ち主であり、その思想で見るならば、「社」とは、社である。
企業ブランドへの信仰は、宗教の社への信仰と似ている。
そういえば、「タキイ」は、おやさまの「種をまく」の思想を理解して、種を売り歩いていたという文章を過去に読んだ記憶がある。

在来種を淘汰するのは、おやさまの思想に反する。
在来種の中から、超優良な種をはぐくみ育ててこそ、おやさまの思想に一致する。
一種会社という小さい「社」が、商社となり、「大社」となったとき、天然の理に反するむほんとなるようでは、おやさまの思想を理解したものとは、言えない。

明治政府は、お払いさんが降るを、自作自演し、「世直り」を、「ええじゃないか」で、プロパガンダした。
それにたいして、
おやさまは、
 一つ、正月おどりはじめはやれ面白い
 二つ、ふしぎな普請、かかればやれにぎわしや

 三つ、身につく
 四つ、よなおり

と、羽根突き歌のように諭されている。

本当の「世直り」とは、不思議な普請に取り掛かり、にぎわしく、身につく事で、実現する。
これが、おやさまの思想です。

明治政府の、仕掛けた、偽の神宮のお札が空から降ってきて、みんなが「ええじゃないか」と歓喜すれば、「世直し」となるというような、真っ赤な嘘ではない。
おやさまは、「世界ろくぢ」への普請が開始されて、「身につく」事が、自ずと世が直るという意味で、「よなおり」と、その思想を、示しています。


<> 基本。<><>2006/12/06(水) 13:01:16 ID:<>明治5年に、福沢諭吉の「学問のススメ」の刊行が開始された。

{学問のすすめ 初編
 「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賎上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの者を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるものあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。
その次第甚だ明らかなり。「実語教」に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由って出来るものなり。また世の中にむつかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむつかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い心配する仕事はむつかしくして、手足を用いる力役はやすし。故に、医学、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召使う大百姓などは、身分重くして貴き者というべし。

 身分重くして貴ければ自ずからその家も富んで、下々の者より見れば及ぶべからざるようなれども、その本を尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとに由ってその相違も出来たるのみにて、天より定めたる約束にあらず。諺に云く、「天は富貴を人に与えずしてこれをその人の働きに与うるものなり」と。されば前にも言える通り、人は生まれながらにして貴賎貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。

・・
 されば今かかる実なき学問は先ず次にし、専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。譬えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合の仕方、算盤の稽古、天秤の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条は甚だ多し。地理学とは日本国中は勿論世界万国の風土道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見てその働きを知る学問なり。歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行いを修め人に交わりこの世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。

 これらの学問をするに、いずれも西洋の翻訳書を取調べ、大抵の事は日本の仮名にて用を便じ、或いは年少にして文才ある者へは横文字をも読ませ、一科一学も実事を押え、その事に就きその物に従い、近く物事の道理を求めて今日の用を達すべきなり。右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賎上下の区別なく皆悉くたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に士農工商おのおのその分を尽し銘々の家業を営み、身も独立し家も独立し天下国家も独立すべきなり。

内容は、実学をススメ、学問の有無が階級差を生む元であると、説いている。
学問をして、身分の上になれと、説いている。

当時の、日本の社会に大きな影響を与えた。
今日の学歴差別社会の、思想的バックボーンが、「学問のススメ」であり、経済界には「早稲田」出身者の多いのも、まさに、実学の実践としての、学問のススメと見える。

それは、富国強兵、国民皆兵に人心を導くための、思想としても、もてはやされ、「和魂洋才」の、才を求める若者を多数生むこととなったが、それは、「才」あるものは人の上に立つと言う、階級差別を産んでいて、おやさまの思想とは、対極に位置しているものと言える。

おやさまは、「道に学問はいらん」との思想を示した。
知識の有無よりも、まことの心が大切との思想が、おやさまの思想である。<> 基本。<><>2006/12/06(水) 13:16:35 ID:<>>>38
> 明治5年に、福沢諭吉の「学問のススメ」の刊行が開始された。

{学問のすすめ 初編 「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。}

これは、アメリカの独立宣言からの引用であった。

アメリカは、独立当時、「債務奴隷」状態にいた。そして独立戦争を起こした。
福沢諭吉が説いたのは、日本が、諸外国の「奴隷」的な扱いにある事からの「独立」であった。

もう少し、続きを引用しよう。
{> 右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賎上下の区別なく皆悉くたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に士農工商おのおのその分を尽し銘々の家業を営み、身も独立し家も独立し天下国家も独立すべきなり。

一人前の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、ただ自由自在とのみ唱えて分限を知らざれば我侭放蕩に陥ること多し。即ちその分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずして我一身の自由を達することなり。自由と我侭との界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。譬えば自分の金銀を費やしてなすことなれば、仮令い酒色に耽り放蕩を尽すも自由自在なるべきに似たれども、決して然らず、一人の放蕩は諸人の手本となり遂に世間の風俗を乱りて人の教えに妨げをなすがゆえに、その費やすところの金銀はその人のものたりともその罪許すべからず。

 また自由独立の事は、人の一身に在るのみならず一国の上にもあることなり。我日本はアジヤ洲の東に離れたる一個の島国にて、古来外国と交わりを結ばず独り自国の産物のみを衣食して不足と思いしこともなかりしが、嘉永年中アメリカ人渡来せしより外国交易の事始まり今日の有様に及びしことにて、開港の後も色々と議論多く、鎖国攘夷などとやかましく言いし者もありしかども、その見るところ甚だ狭く、諺にいう井の底の蛙にて、その議論取るに足らず。日本とても西洋諸国とても同じ天地の間にありて、同じ日輪に照らされ、同じ月を眺め、海を共にし、空気を共にし、情合相同じき人民なれば、ここに余るものは彼に渡し、彼に余るものは我に取り、互いに相教え互いに相学び、恥ずることもなく誇ることもなく、互いに便利を達し互いにその幸を祈り、天理人道に従って互いの交わりを結び、理のためにはアフリカの黒奴にも恐れ入り、道のためにはイギリス、アメリカの軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄てて国の威光を落さざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり。}

その部分を、重ねて読もう。

{日本とても西洋諸国とても同じ天地の間にありて、同じ日輪に照らされ、同じ月を眺め、海を共にし、空気を共にし、情合相同じき人民なれば、ここに余るものは彼に渡し、彼に余るものは我に取り、互いに相教え互いに相学び、恥ずることもなく誇ることもなく、互いに便利を達し互いにその幸を祈り、天理人道に従って互いの交わりを結び、理のためにはアフリカの黒奴にも恐れ入り、道のためにはイギリス、アメリカの軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄てて国の威光を落さざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり。}

「天理人道」に従って、とある。
福沢諭吉の説く、「天理人道」→「学問のススメ」→「富国強兵」→「列強との対等」

これは、まさに、「道に学問はいらん」姿ではないか。<> 基本。<><>2006/12/06(水) 15:17:10 ID:<>福沢諭吉の学問のススメは、明治5年から、明治13年頃にかけて公刊されている。

福沢諭吉→「人は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」
おやさま→「高山に育つものも谷底のものも同じたましい」

明治の同じ時期に説かれた、一見似て見える「平等思想」は、
福沢諭吉は早稲田大学創設者として歓迎され、
おやさまは、警察にひっぱられて、投獄となりました。

学問による新たな権力構築を説く、学問のススメ、説く所の愛国主義。

> { 国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄てて国の威光を落さざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり。}

「学問のススメ」それは、国民を戦争に駆り立てていく、道具として歓迎されたから、弾圧はされませんでした。

おやさまは、おふでさきに、明治七年に、それまでと一貫した態度にて、

 いままでもしんがくこふきあるけれど
 もとをしりたるものハないぞや    三号69

明治政府の方針に対して、真っ直ぐに、批判をしています。
明治六年には地租改正、そして、徴兵制度が制定されました。
学問のススメは、まさに「国民は国の為にしぬべし」を説いて、国家的人材を学問で育てるススメでした。

 いままでハがくもんなぞというたとて
 みえてないことさらにしろまい    四号89

「道に学問はいらん」おやさまの思想は、学歴・職能による新たな差別社会に対する、痛烈な批判であり、
明治政府の作為した「王政」=宗教による国民総奴隷統治政策への理の責めそのものでした。

明治政府の大方針とは「大教宣布」でした。
明治3年に、それは、「大教宣布の詔」として、打ち出されました。

このとき、おやさまは、明治3年、

 よろづよの せかいいちれつみはらせど むねのわかりたものはない

と、痛烈な、批判の一首を、序として、お書きになりました。
<> 基本。<><>2006/12/06(水) 16:12:58 ID:<>> 明治3年に、それは、「大教宣布の詔」として、打ち出されました。
> おやさまは、明治3年、
> よろづよの せかいいちれつみはらせど むねのわかりたものはない
> と、痛烈な、批判の一首を、序として、お書きになりました。

ここで、「大教宣布の詔」について、確かめます。
http://www.jicl.jp/now/date/backnumber/20050103.html
{ 「大教宣布の詔」
1月3日 大教宣布の詔(1870年)

 明治新政府は、古代の王政に復古する立場から、祭政一致をとなえて神道を国教とし、1968年に神仏分離令を発して従来の神仏習合の風習を改めた。さらに新政府は翌年には神祇官を太政官の上位におき、1870年(明治3年)のこの日、大教宣布の詔(みことのり)(大教=神道を国民の間に広めるためという天皇のおおせ)を出した。翌年には皇室の祖先神を祭る伊勢神宮を頂点とした神社制度を設けた。これにより、神道は国家の精神的支柱となった(国家神道)。}

明治政府のめざしたものは「祭政一致」。
神道は、「国教」。
伊勢神宮を頂点とした神社制度。

慶応から明治にかけて、経済を握る高山は、「浪人・浪士」を資金援助し、凋落していた朝廷を祭り上げて、日本と言う国家を、列強に伍する経済・軍事大国に作り上げようとした。
既に、中国・朝鮮への経済覇権をめざしていた。
そのためには、その高山の意思を代行する能力ある強い政権の存在が急務であり、天皇への王政復古と言うナショナリズムを鼓舞する事で求心力を高めて、天皇1極に全ての権力を集中させた、「祭政一致」を理想としたのでした。

おやさまが、これも裏から教えていたと言う、神仏混融の「民間に伝承」の旧来の宗教思想に対しても、「国教=天皇制」により、支配を計ったのです。
元冶元年の頃には「大和神社」は、拝して通れと、おやさまは、敬意をしめされています。
しかし、「大教の詔」の後の、「大和神社」には、決然と、理非を諭されています。
この相違点こそ、明治維新の裏の「高山」たちが、本来の「やまと=にほん」に介入したと言う、宗教事情をきちんと示しています。

ほんらいは、おやさまの思想を「裏から教えていた」、「にほん」に、「とふじん」が、干渉し、支配を開始していたのです。

前年   ええじゃないか、(プロパガンダ)の世直し。
     王政復古。
明治1年、神仏判然令。
     排仏毀釈運動おこる。(プロパガンダ)の宗教統制。
明治3年 大教宣布の詔(みことのり)
明治4年 皇室の祖先神を祭る伊勢神宮を頂点に神社制度を設けた。

対して、おやさまは、明治2年、おふでさき二号にて

 とふぢんがにほんのぢいい いりこんで
 ままにするのが かみのりいふく     二号32

決然と、理を責めておられます。

おやさまと、たかやまのとふじんとの、たたかいは、一貫したものであったと言う事です。<> 基本。<><>2006/12/06(水) 16:19:36 ID:<>>>41
> 明治2年、おふでさき二号にて とふぢんがにほんのぢいい いりこんでままにするのが かみのりいふく 二号32

{「大教宣布の詔」について、おやさまにも縁のあった、稲荷神社の史実にて、確かめます。

http://inari.jp/g_koumu/g02.html
伏見稲荷大社の御祭神を敬仰する信仰者によって全国規模の講組織が確立されたのは、明治初期に結社された瑞穂搆社に始まります。
・・・
それは稲荷勧請による信仰者の結集、当社本願所愛染寺による信徒の結集、社家方による神事搆の結社、産土地における講の結社、商家の仲間による結社、稲荷祭礼における神事搆の結社、火焚祭を護持する神火搆の結社、というような形で個別に営まれ、各自独立して発展していったのであります。

維新後の明治3年、大教宣布の詔が発せられ、続いて神官の職制と社格の制定、あるいは神祇官の復興などの諸政策が打出され当社にとっても大きな変革期を迎えました。
それは、当社ご鎮座以来続いてきた社家世襲による神社運営が廃止され、明治4年に官幣大社に列せられると共に、翌年には政府により大宮司が任じられました。
・・・
当社も明治7年9月に教会結社が大教院より許可され、ここに「稲荷神社教会」が設立されたのです。その5ヶ月後の明治8年2月、詮議が重ねられた結果、この講名は「瑞穂搆社」と名づけられたのです。
この瑞穂搆社の結社は、全国各地の当社崇敬者をはじめ既に民間において結社されていた稲荷講を、維新政府の掲げる大教宣布の旗印のもとに、新たに組織化しようとするものであったのですが、小教院による布教のみではその場かぎりの説教で終わってしまうので、これを信仰による裏付によって持続性を期待したものでありました。
そこで、瑞穂搆社の結社にあたっては、全国各地の稲荷講がその先達として大きな役割を果たしました。これらの民間稲荷講の結社は、何々講という名称でしたから、瑞穂搆社に統括されるようになってからは何々組と呼ばれるようになりました。これを京都地区に見てみますと、商栄組・開信組・和順組・伏見豊栄組・南山城初穂組など22組にもなり、その他の府県でも大阪府下に御玉組・初穂組・玉穂組、三重県に敬神組があり、これらの組織は何々県瑞穂搆社第何号何々組と呼ばれました。そして、これらの組には、搆長・副搆長・搆掌が置かれて運営されていました。これらの結社数は年を追うごとに増えつづけ、明治10年には京都府下80号・大阪府下9号・滋賀県下6号・堺県下3号・三重県下4号・岡山・岐阜県下に各1号・福岡県下2号・徳島県下1号と結社は九州・四国にまで及び、その数107号、加入者数12,700余人にもなりました。今日のように交通機関が発達していなかった時期に、このように遠隔の地にまで崇敬者が及んでいたということは、いかに稲荷信仰が一般庶民の信仰として篤かったかを示すものといえるでしょう。}<> 基本。<><>2006/12/06(水) 16:28:14 ID:<>一般庶民の信仰であり、おやさまの「裏」から教えていた神仏のもろもろの教えを、「伊勢神宮]一色に塗り替えようとする。

それは、「高山」の、徴兵制度と地租改正と、よりも、それ以上に重大なものでした。
それは、「詔・みことのり」。
天皇陛下直々の、ご命令であり、絶対のものでした。

これを発布させた「高山」の意図は、日本を帝国主義の覇権者に育てる意図であり、「戦争に導くもの」

学問のススメは、平等を説いても弾圧されず、おやさまは、平等を説いて弾圧された。
それは、権力の本質を見抜いて対決し、権力悪の滅びを予言するからでした。
明治政府の高山には、おやさまの思想は危険極まりないものでした。<> 基本。<><>2006/12/08(金) 01:58:34 ID:<>学問のススメにも、明治維新の「高山」の一部にも、大きな影響を与えていたものは、それは、アメリカの思想である。

> {学問のすすめ 初編 「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。}
> これは、アメリカの独立宣言からの引用であった。
www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/amerikadokuritukakumei.htm から、引用しよう。

{ 「我に自由を与えよ。しからずんば、死を。自由は鮮血をもって買わざるべからず」
アメリカ独立運動の闘士パトリック・ヘンリ(1736〜1799)のこの言葉は、日本の明治初期の自由民権運動家のスローガンともなった。}

この様に、明治の時代に日本に大きく影響を与え得たのは、「米国」の思想であった。

そのアメリカには、奴隷制度があった。
drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-16-3.html から引用しよう。
{ アフリカ大陸から奴隷を狩り集めたイギリス、フランス、オランダの奴隷商人たちは、300年間に1500万人に上ると推計される黒人奴隷をアメリカ市場に売って巨利をむさぼった。この奴隷貿易は19世紀まで続いた。イギリスで奴隷貿易禁止令が出たのが1808年、イギリスでの奴隷制度の廃止は1830年代、アメリカ合衆国では1863年、ブラジルでは1888年でしあった。
 奴隷貿易には、ヨーロッパ文明諸国のほとんどが手を染めていた。そして、ほとんどが熱心なキリスト教徒であった。}

旧約聖書は黒人差別そのものを教義の中にもっていた。
罪深き者を神の奴隷にするというのは、「宗教では救済」を意味する。

そして、アフリカでは、アメリカに売られる以上に、劣悪な状態の奴隷が大勢いたことを忘れてはならない。
引用を続けよう。

{ 【三角貿易以前の西アフリカの奴隷制】
 サムエル・モリソンというアメリカ史家は、『オックスフォード・アメリカ国民史』[1965年](日本語訳の題は『アメリカの歴史〈3〉ヴァン・ビューレンの時代‐南北戦争 1837‐1865年』集英社文庫)のなかで、奴隷制度について「忘れてはならないことであるが、アフリカの奴隷貿易はアフリカの黒人たち自身のあいだで始まっている。暗黒大陸では、奴隷とされることはごく当たり前のことであって、奴隷制度の犠牲者となってアメリカに船で運ばれた者は、その航海を生き延びさえすれば、アフリカで奴隷のくびきにつながれたままの奴隷たちよりもましな暮らしができた」と述べている}。

{ 現代でも欧米諸国による奴隷貿易を正当化して、アフリカ人を奴隷としてハンティング(奴隷狩り)をして売ったのはアフリカ人であり、アメリカに連れてこられたアフリカ人は、奴隷ではあっても、アフリカで奴隷になっているよりも、はるかに文明的な生活をすることができたのだと述べる研究者たちがいる。}
{ たしかに、たとえば西アフリカのサハラ砂漠の南に12〜15世紀頃栄えたマリ帝国には奴隷制度があった。しかし、それらの奴隷の多くは土地や牛などをめぐる戦いの捕虜であり、家族内の下僕のような存在で、主人の信任を得れば主人との義理の親子関係を結んで、自由民となれたのである。}

{ 三角貿易の純然たる「商品」としての奴隷は、それ以前のアフリカ社会における奴隷とはまったく異なっていた。「商品」の調達のための奴隷狩りが始まったのは、ヨーロッパ人による三角貿易による奴隷の需要があったためである。ヨーロッパ人は はじめ、人さらいのような方法で奴隷を集めていた。しかし、黒人同士で奴隷狩りをしていることに目をつけ、これを利用した。ヨーロッパ人は黒人王国から奴隷を買い取り、西アフリカのダホメー王国、ベニン王国などいくつかの王国は、商品としての奴隷を調達するための戦いをするようになった。それが可能となったのは、それらの王国が奴隷貿易で鉄砲を多く手に入れたからである。
 奴隷の値段は一体いくらぐらいであったのか。1300ポンドで奴隷240人、一人平均5.4ポンドである。}

キリスト教徒には、罪深き黒人を、救うと言うことと、奴隷にすると言うことは、けっして矛盾したものではなく、アメリカの自由と独立は、そこに奴隷がいてのものであり、「とふじん」の思想そのものであった。
しかし、劣等国から先進国の仲間入りをめざした明治の「高山」には、その「とふじん」の思想が魅力的なものに見えていたと言うことである。
「米国」、「自由と独立」、その背景の強い武力に、あこがれを抱いた軍国主義者が、明治の高山の「とふじん」に大勢いた。

おやさまは、その思想背景をきちんと見据えておられた。<> 基本。<><>2006/12/08(金) 03:22:55 ID:<>>>44
> 学問のススメにも、明治維新の「高山」の一部にも、大きな影響を与えていたものは、それは、アメリカの思想である。
> おやさまは、その思想背景をきちんと見据えておられた。
この、アメリカの思想の影響は、明治維新の骨格に及んでいる。
www8.ocn.ne.jp/~senden97/meiji_isin1.html を引用しよう。
{明治維新 福地 惇 前野 徹 「第四の国難」 扶桑社}
{ぺりー提督率いるアメリカの東インド艦隊の黒船四隻が浦賀沖に姿を現したのは、嘉永6(1853)年6月3日。開国を迫るぺりーに江戸幕府は騒然となった。・・・}
{ 当時、西洋列強は、アジアの植民地化を着々と進め、虎視眈々と閉鎖中の日本の市場を支配下に収めんと狙っていた。長崎の出島での交易活動を幕府から許されていたオランダも、規制に我慢できず、出島以外での居住権を認めるよう、1840年代後半から幕府に圧力をかけ始めていた。}
{ぺりーの来航の目的も、日本市場開放と東アジアでの覇権への足がかりをつくることにあった。・・ペリーが来航した嘉永6(1853)年、帝政ロシアも南下を意図して日本に開国を迫っている。}
{ただ、アメリカもロシアも強引に武力で日本を侵略することはできなかった。当初、アメリカもロシアも極東の島、日本は未開の地で、野蛮な未文明の人間が住んでいる程度にしか考えてなかったが、実際に来て見ると以外に高い文明があった。火器は自由自在に使いこなしているし、規律も礼儀も正しい。教育レベルも想像以上に高かった。}
{そこでぺりーがとったのが、威嚇により開国を迫ろうという戦略だった。・・・安政(1854)年に日米和親条約を締結、英国、ロシア、フランス、オランダとも同様の条約を結んだ。}
幕府は、不平等条を受け入れたわけです。
{ これを不服とする武士たちは攘夷運動を展開し、志士となってこの国難から日本を守ろうと活動を始めた。この運動はやがて尊皇論と結びつき、尊皇攘夷となる。}
{ 安政三年には内外の圧力により窮地に立たされた幕府は、安政五年、井伊直弼を大老職に就け、同年、日米修好条約に調印、次いで英蘭仏露とも同様の条約を結び、遂に鎖国を解いた。}
{井伊大老は、この時、反対派の志士たちを封じ込めるため、安政の大獄を断行、多くの志士たちを処刑した。これが志士の激しい反発を招き、万延元(1860)年、井伊大老は桜田門で暗殺される。「桜田門外の変」である。・・・}
{ この間、英米仏蘭の連合艦隊は、下関を報復攻撃、長州藩はなす術もなく敗れ、攘夷の不可能を悟り、開国論へと転換していった。}
{さらに元治元(1864)年、長州藩は幕府の征討を受け、大軍に包囲され、あっけなく降伏した。}
{これを不服としたのは高杉晋作、木戸孝充らの長州の志士たちである。彼等は慶応元(1865)年、藩政府に弓を向け藩政を掌握した。この頃には、薩摩藩でも島津久光の公武合体論は、支持を失い、西郷隆盛、大久保利通らを中心に次第に倒幕に傾いていった。}
{・・文久ニ(1862)年、土佐藩を脱藩した坂本竜馬である。竜馬の仲介によって、薩長両藩は慶応ニ(1866)年、薩長連合の密約を結んだ。以後、討幕運動は急速に盛り上がり、慶応三年の大政奉還、慶応四年の五箇条の御誓文と進み、日本の近代国家の脱皮が始まるのである。}

アメリカの東アジア覇権をめざす、帝国主義的外交に、屈服した江戸幕府に対する批判が、尊皇・倒幕となっていく。
その時、情報戦略が行使され、国民は「世直し」として、明治維新をとらえていましたが、実は、維新の幹部たちは、奴隷制に支えられた大農場を基盤とするアメリカの経済力と軍事力を、模倣すべく、地租改正と徴兵制への準備に入っていて、それは、アメリカの思想の影響下にあったと言うことです。
   (続きます)<> 基本。<><>2006/12/08(金) 03:33:17 ID:<>>>45
> 実は、維新の幹部たちは、奴隷制に支えられた大農場を基盤とするアメリカの経済力と軍事力を、模倣すべく、
> 地租改正と徴兵制への準備に入っていて、
> それは、アメリカの思想の影響下にあったと言うことです。
(続きです。)

{ ・・・明治維新は、志士たち、幕府軍の多少の犠牲を伴ったが、大衆を巻き込むことはなかった。血を流さずに国難を乗り切り、近代国家へと変貌できたのは、立場の違いを超え、国論の統一がなったためである。}
{ 薩長土肥を中心として志を同じくする主要雄藩の下級武士たちは手を携え、一体となって国難に立向った。その下級武士たちを密かに陰で支えていたのは、朝廷の公家たちであり、藩主たちであった。・・・}
{ 明治維新は、・・・士農工商という階級社会にあって、特権階級であった武士が、国の将来のために自らの権益を捨て、体制を倒し革命を成就する。 これは欧米の常識では考えられない出来事だった。・・・}
{ 日本の明治政府は「特権階級が自ら改革を行った」点で特異だ。・・}

{ ・・「大日本史」を編纂した水戸光圀は、儒学の一派、「王道」を旨とする水戸学派を大成させ、天朝の尊厳を説いたこの水戸学が、幕末尊皇論を醸成した。吉田松蔭、坂本竜馬、橋本左内、佐久間象山など、勤王の志士は一度水戸の藩校・弘道館で学んでいる。}
{ なかでも三十歳で安政の大獄により処刑された萩の吉田松蔭が、志士たちに与えた影響は見逃せない。・・・}
{ 「日本を救うには、密航しかない。俺がやらなくて誰がやる」・・・松蔭を突き動かしたのはやむにやまれぬ大和魂である。}
{ 松蔭の密航計画は失敗に終わったが、万延元(1860)年の勝海舟、福沢諭吉らが随行した咸臨丸の渡米、さらには明治4(1878)年から足掛け三年にわたる岩倉具視の使節団派遣へとつながり、文明開化、明治政府の土台づくりに大きな役割を果たした。}

{ このまま手をこまねいていては日本はやがて白色人種の国に制服されるのは火をみるより明らかだった。}
{ この危機感は非常に強く、江戸時代、アヘン戦争が中国で起こった当時、徳川幕府は、すぐさま中国の文献を取り寄せ日本語に訳して、イギリスの戦力について既に研究している。・・}
{ 開国をした後、樹立された明治政府は「殖産振興」、「富国強兵」を合言葉に、強い軍隊を持つべく躍起になって経済力を高めようとした。これが行き過ぎて大東亜戦争まで突き進んでいくのだが、当時は軍事力なくして国をまもることができないという悲壮な決意があったのも確かな事実である。}

福沢諭吉に、威信の高山に、「とふじん」の思想が多大な影響を与えていた。
おやさまは、見抜き見通しでした。
「 国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄てて国の威光を落さざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり。」と、説いている、学問のススメは、まさに、国民を命捨ててもの道にススメる思想であった事。

日の本の、大和の庄屋敷の片田舎にいて、おやさまは、世界を動かす、帝国主義の覇権行動を、じっと見据えておられました。

 これからハからとにほんのはなしする
 なにをいうともハかりあるまい    二号31
 とふじんがにほんのぢいいいりこんで
 ままにするの神のりいふく      二号32

この時代、「唐人」と言えば、「唐人お吉」が有名です。
アメリカ人を「唐人」と呼んでいたのは、明治の社会の常識です。<> 基本。<><>2006/12/08(金) 04:13:46 ID:<>>>46
> この時代、「唐人」と言えば、「唐人お吉」が有名です。
www.izu.co.jp/~p-boo/okichi.html 参照します。
「 お吉は本名を「斉藤きち」といい、天保12年11月10日、愛知県知多郡内海(うつみ)に、舟大工市兵衛の次女としてこの世に生をうけました。4歳のとき家族が下田に移り住み、14歳で芸妓(げいこ)となりました。新内明烏(しんないあけがらす)のお吉とうたわれるほどの評判と美貌でしたが、それが奉行所の目にとまるとこととなり、17歳の時、法外な年俸と引替に心ならずもアメリカ総領事タウンゼントハリスのもとへ侍妾(じしょう)として奉公にあがることとなります。その後は、幕末、維新の動乱の中、芸妓として流浪(るろう)の果てに下田にもどり、鶴松と暮らし髪結業(かみゆいぎょう)を始めますが、ほどなく離別。さらに小料理屋「安直楼」(あんちょくろう)を開業しますが、2年後に廃業しています。「唐人」という相も変わらぬ世間の罵声と嘲笑をあびながら貧困の中に身をもちくずし、明治24年3月27日の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、自らの命を絶ってしまいます。波瀾にみちた51年の生涯のあまりにも哀しい終幕でした。
お吉は身よりもなく、宝福寺の第15代竹岡大乗住職が、慈愛の心で法名「釈貞観尼」(しゃくじょうかんに)を贈り、当時境内に厚く葬り、その後芸能人により新しく墓石も寄進され現在に至っています。
お吉の悲劇的生涯は、人間の偏見と権力、その底にひそむ罪の可能性と愚かさを身をもって私達に教えているようです。」

アメリカ人ハリスに買われた事から、唐人お吉とののしられました。
写真は、こちらにあります。
www4.i-younet.ne.jp/~hofukuji/okiti2.htm

 おやさまは、嘉永六年、アメリカのハリスの日本への脅しの時、次のような、行動を示されました。

 中山家の母屋を売り払う。
 小寒 大阪に神名ながし。

自由貿易を求めて、開港を迫る軍事大国アメリカ。
それは、日本に、没落する産業を生みました。
その難儀を、自らが、難儀の中に飛び込んで、ひながたとする。おやさまの思想です。

貧乏の中で、賭博に誘われてはまってしまう、兄。秀司。
それを、浪花の街に、拍子木を叩いて、神名をながし、兄をさがす小寒。

ここに、谷底せり上げの、隔て無きろくぢの思想があります。

南無 天理王命。
これこそが、おやさまの、高山のとふじんへの、闘う姿勢そのものでした。

中山家の母屋の買い手が見つかり、いよいよ母屋取毀ちの時、
「これから、世界の普請にかかる。祝うてくだされ。」と、おやさまは、仰せになり、いそいそと、人夫たちに酒肴をだされている。

白人の世界の中で、奴隷の立場にいたアメリカが、独立戦争を経て、列強の仲間入りをすべく、アジアの門として、日本に開国を迫った。
それは、まさに、谷底せり上げの世開けの到来であった。

嘉永六年。おやさま56才。
ひながたである。<> 基本。<><>2006/12/08(金) 15:53:47 ID:<>>>47
訂正があります。嘉永六年は、ペリーの来航です。ハリスは間違いです。訂正します。

「とふじん」が日本をままにした、と言う、歴史的史実は「不平等条約」という史実に、刻まれています。

国と国とが対等でない関係の条約を締結する。
日本に対して、開国を迫った「ペリー」の言い分は「自由な貿易をせよ」と言う主張です。
この「自由な貿易」を求めて「開港」を迫ると言う、「とふじん」さんの開港要求と、その手段の典型的なものは、「アヘン戦争」です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%98%E3%83%B3%E6%88%A6%E4%BA%89#.E3.82.A2.E3.83.98.E3.83.B3.E8.B2.BF.E6.98.93

中国に対して自由な貿易を求めていたイギリスは、制限つきの貿易しか認めない中国に対し、「アヘンの密輸」と言う手段で事実上の開港とし、それに対して中国が取締りをしたことから、戦争を起こし、開港をさせてしまった。
1840から2年の戦争の事です。

このアヘン戦争は、中国を奴隷国家にしていく、最初の列強からの干渉でした。
以後、中国の人民は、毛沢東の共産革命までの長い間、帝国の奴隷として、不当・不法な圧迫を受けることになります。

 1840年アヘン戦争。     ←→ この年「貧に落ちきれ」との神命。

 1853年ぺりーの軍艦威嚇。  ←→ この年「母屋のとりこぼち」。酒肴で祝う。

 1856年唐人ハリス下田に。  ←→ この年、足達重助の四歳の娘、足立つ。たすけ開始。

 世界中の、債務奴隷の難儀を、谷底からたすけあげようと言うおやさまの思想は、こうして、「とふじん」がままにする姿に対して、自ら難儀の底に落ちて、吹き上がると言う、思想を示しています。

http://www.geocities.jp/hatm3jp/069.html#6
に、簡明に整理されています。引用します。

{<不平等条約と開国の影響>
Q1 居留地は外国人にとってどういう土地になると思うか?
A1 列強は実力で居留地を拡大してゆくだろう。そうなると、日本の中に外国の領土ができるようなことになる。横浜では、欧米人は高台を占拠して都市整備をしていった。警察権を握り、自治をおこない、治外法権の規定もあったために事実上の外国領土である。清の場合、「中国人と犬は立入禁止」という立て札が立てられたりして、外国人に土地を取られたようなものだった。

Q2 関税とは何か? 自由にかけられないことのデメリットは何なのか?
A2 国内産業を保護するため、外国の安い製品に対して関税をかける。自由にかけられないということであれば、国内産業が打撃を受ける。日本の関税は約20%までかけられた。清は5%までだったので、それよりはましだったとされる

Q3 治外法権とは何か? これを認めたデメリットは何か?
A3 外国人の犯罪を日本人が裁けず、外国人の手に裁判を委ねるものである。身びいきとなって寛刑になる恐れがある。治外法権を認めたのは、外国人の裁判を日本がやらないのでよいので楽と考えていたからである。これでどういう問題が生じるのかが思い浮かばなかった。}

(続きます)<> 基本。<><>2006/12/08(金) 16:31:32 ID:<>>>48
(続きです)

{ Q4 貿易相手国を見てゆくと、1位はイギリスであり、2位フランスとなっている。日本を開国させたアメリカが貿易額第3位なのはなぜか?
A4 日本を開国させたアメリカは、南北戦争が勃発して貿易どころではなかった。}
{ 輸入・・・毛・綿織物、武器、艦船
 輸出・・・生糸、茶、蚕卵紙
・輸入品はイギリスなどの産業革命で作られた毛織物、綿織物が主であった。
・輸出の主力は生糸。当時、ヨーロッパの生糸産地である仏伊で蚕の病気が発生し、ほとんど全滅状態になっていた。このため、生糸の供給地としてアジアに目をつけたが、中国産生糸は質が悪く、日本に強く依存することになった。}

{・幕末貿易では当初は輸出が多かった。日本は儲かっていたのである。それだけ生糸輸出が好調だった。輸出入が逆転するのは1866年からで、それは改税約書を取り交わし、関税率を5%まで引き下げたのと関係がある。
・貿易のトラブルは多かった。言葉が通じず持ち逃げされて訴えても、治外法権でラチがあかなかった。}

{ [開国の影響]}
{A マニュファクチュアの進展
・手工業は農村家内工業→問屋制家内工業→工場制手工業と発展し、次に工場制機械工業へと進歩してゆく。日本では、江戸時代後期にはマニュファクチュアの段階まで進展していた。}
{ ・岩倉の木棉は一宮の三八市に売りに出された。これを買って手紡ぎで糸にする農家が一宮あたりにはたくさんいて、また市に出していた。これを尾西方面の村が買い、マニュファクチュアで生産した。}
{ ・尾西の中心の起では、当時は5軒に1軒は織り屋であり、10台の織機を入れて10人くらいの織り子を雇っていた。織り屋の中では、染色、経糸を織り機に掛ける整経、横糸を糸車に巻く仕事、織る仕事というように分業されていた。}
{ マニュファクチュアの段階まで生産形態が進んでいれば、資本主義経済に転化するのは容易。工場、労働者は揃っているため、機械を導入するだけでよい。機械導入で大生産に移行する直前の形であると言える。}
{ ・この時期、インドは植民地となり、中国は半植民地となった。日本が平気だったのはそのためだという説がある。}

{ cf)尾張の綿織物業の衰退→輸入綿糸利用で再生(明治期)
・製糸業が伸びたのに対し、綿織物業は打撃を受けた。機械生産の安価な綿織物が大量に入ったからである。尾張の綿織物も売れなくなり、一時期は完全に衰退してしまった。}
{・しかし、綿織物業はマニュファクチュアまで進んでいたため、ちょっとしたきっかけで立ち直ることができる。
国内木棉を紡績して糸にして生産していたのでは太刀打ちできないが、輸入綿糸は安価であったため、それを使えば輸入綿織物に価格面で対抗可能。一度は衰退した綿織物業も、明治の早い時期には回復している。}

{ B 物価の高騰
・貿易の開始は物価の急騰をもたらした。1859年から1866年にかけての物価の伸びは、米価換算で10倍である。生糸一包みは200$から800$へと4倍。蚕卵紙は1枚銀2枚が30〜40枚となり、20倍になっている。}
{ 無計画な輸出
・この原因の一つは、国内需要を満たすことなく、儲かるのでどんどん輸出してしまったためである。}
(引用は続きます)

「貿易の輸出関連の業者はどんどん儲かった」
「国内の物価は高騰し、生産者は困窮した」

そして、その「貿易で儲けた商人」たちが、「自由貿易」の利を保障してくれる政治権力の登場を期待し、「下級藩士」を支援して、明治維新を裏から支え、帝国主義的覇権に向けて、「市場拡大」の為に日本を富国強兵化、大日本帝国への道を開けさせた。
実に、「お払いさんが降る」の黒幕のとふじんとは、儲けた経済人と癒着した政治家。
人間を奴隷にする「自由」を武力で実現しようとした「高山」の正体。その現実的な手先であった「大社高山」の奴隷支配体質。

おやさまは、見えない先から、ひながたの史実にて、歴史の年表にて、その悪しきを払う道を示されています。
後に、おふでさきにて、文字にて、その記録と予言をしるされました。「とふじん」が「自由」の名の下に人を奴隷にする。
そこで難儀する、おやさまの子たち。
その救済は、にんげんのおやである、私が必ずするのだという、時々刻々のあゆみ。「ひながた」。「ひながた」と言う思想。

しかし、誰一人として、おやさまの真意を知るものはなく、大和の片田舎のきちがい婆さんとして、罵られ、さげすまれつつ、も、世界一列の陽気遊山を、見て楽しみたいと、覇権主義者の横暴を見据えて、世界の普請に掛かられていたのでした。<> 基本。<><>2006/12/08(金) 17:10:52 ID:<>>>48-49
(続きです)
{ cf)兵庫開港の遅れ→改税約書(1866)=日本の市場化の進行(関税5%)}
{ 兵庫の開港が遅れた代償として、列強は改税約書を押し付けてくる。また、攘夷運動が下火にならないのは、天皇が通商条約の勅許を出さなかったからだとして、兵庫に軍艦9隻を並べて圧力をかける。これで条約勅許が出されることになった}
(http://www.geocities.jp/hatm3jp/069.html#6 )

列強は、開港を求めて、「軍艦を並べて」威嚇しました。
天皇に対して「命令をだすように」迫ったのです。
関税を5パーセントに下げるという事は、日本の産業には膨大な損害を与えるものでした。
国内の産業は、輸入品の価格に対抗できず、破綻します。

 1866 軍艦9隻にて、開港・関税引き下げ要求。
       ←→
 1866 「あしきはらい」のうたと手振りを教えられる。

高山の横暴。
高山とのたたかいに、おやさまは、「天理王のつとめ」という「つとめ」にて、立ち向かわれています。

>>49
{ A4 日本を開国させたアメリカは、南北戦争が勃発して貿易どころではなかった。}

アフリカから輸入した奴隷を用いての大農場経営の南部と、マニファクチュアから、産業革命により、大量生産の北部とは、「自由貿易」か、「閉鎖貿易」かで、対立し、貿易の自由を制限する事で国内産業の保護を求める南部は、貿易の自由を拡大する事で「覇権」を目指す北部と対立し、南部は独立国家を作ろうとします。
これに対して、武力で制圧したのが「リンカーン」の北軍であり、その時「奴隷解放」と、「口で言わされてしまう」事になります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%88%A6%E4%BA%89
引用します。
{ 南北戦争(なんぼくせんそう, 英:American Civil War, 1861年-1865年)は、アメリカ合衆国に起こった内戦である。奴隷制存続を主張する南部諸州のうち11州が合衆国を脱退、アメリカ連合国を結成し、合衆国にとどまった北部(23州)との間で戦争となった。}

このために、アメリカは、対日政策に遅れをきたしました。
後の日英同盟につながる、英国との貿易拡大は、「偶然」の、南北戦争によるものです。

 1861年 南北戦争 ←→ 元の理の数理に基づく「つとめ」の開始。

 おふでさき六号の「六が敷き事」という、数理の世界を、具体的に体現化した開始は、アメリカの内部の戦争にて、「とふじん」の干渉が遅滞した、その時の事でした。<> 基本。<><>2006/12/08(金) 20:22:16 ID:<>おやさまの弟子たちは、上に従い、王政の「祭政一致」に媚びへつらい、こともあろうに、おやさまの思想の対極にある明治政府に、公認の道を模索していました。
それは、当時の信者の民意であり、総意であり、それは「真柱」にゆだねられた、信者の要求でした。

弟子の中でも「仲田義三郎」は、「山本利三郎」とともに、公認運動に教団をリードした指導者でした。
彼らの模索したものは、稲荷講の発展に見られるような、>>42
http://inari.jp/g_koumu/g02.html
明治政府の政策に迎合しての、教団の「繁栄」でした。
しかしそれは、お稲荷さん信仰の歴史の示すように、もともとの信心とはかけ離れた、「天皇中心の神道からの天下りによる思想支配」でした。

「大教の詔」を宣布し、国家を一つの宗教で統一しようとする高山に、迎合しようとする弟子たちは、真柱を代表として、おやさまに問答しました。

1887年一月十三日(明治20年陰暦12月20日)、真柱の立場にある中山真之亮と控え柱の立場にある前川菊太郎は、明治政府に迎合したいという趣旨で、おやさまに、おうかがいをします。

その時に言われたのが、

『ぜんもって つたえてある。むっつヶしきことをいいかける。ひとつのことにとって しあんせよ』

との、お言葉でした。
弟子たちは、
「前以って伝えてある。難しい事を言い掛ける。一つの事にとって思案せよ」
と、理解し解釈しました。

しかし、実は、
「「前以って伝えてある。六つが敷き事を言い掛ける。一つの事にとって思案せよ」
と、言う意味でした。

これが、おふでさき六号の事を示していた。わけです。
「お前たちの希望は、おふでさき六号の「元の理」の数理のままに実現するのだ。どんな事も、「元の理」の「一つ始まりに基づいて思案せよ」

事実歴史として、お筆先六号の元の理の数理のままに、天理教会神一条の道は、実現し、天理教は、一派独立しましたが、それは応法時代の、ことですが、
「ひながた」においても、元の理の数理のままに、歴史に刻まれているのです。

>>50
> 1861年 南北戦争 ←→ 元の理の数理に基づく「つとめ」の開始。

その開始は、【一寸身上に】逸話篇というもので始まりました。
『 文久元年、西田コトは、・・庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆、救けて下さる。」という事を聞き、早速お詣りした。すると、夕方であったが、教祖は、

「よう帰って来たな。待っていたで。」
と、仰せられ、更に、
「一寸身上に知らせた。」

とて、神様のお話をお聞かせ下され、ハッタイ粉の御供を下された。お話を承って家へかえる頃には、歯痛はもう全く治っていた。が、そのまま四、五日詣らずにいると、今度は、目が悪くなって来た。激しく疼いて来たのである。それで、早速お詣りして伺うと、

「身上に知らせたのやで。」
とて、有難いお話を、だんだんと聞かせて頂き、拝んで頂くと、かえる頃には、治っていた。
 それから、三日間程、弁当持ちでお屋敷の掃除に通わせて頂いた。こうして信心させて頂くようになった。この年コトは三十二才であった。』
おやさまの思想は、「命のやりとりは、おやさまが支配がする」という思想。身体そのものにおやさまが知らせるという思想。

大社高山の人間業では、絶対不可能な命題をつきつけて、命のやり取りの「理の世界」にて、人間のこころを掃除するという、思想であり、それだからこそ、元の理を伝え、つとめの理にて、世界を普請するという、真実真心が、おやさまの思想には、満ち溢れています。

元の理の数理を歴史に残した「六つが敷き事」。
それは、西田ことさんからはじまつた。
ろくぢはまず女からという、おやさまの思想。

とふじんの干渉し、とふじんの支配する「日本」。

おやさまだけは、せかいろくぢに向けて、元の理を教え、つとめの理の完成を、身をもってお説きになっていたのでした。
すべては理の世界にあると歴史に示して、のことでした。<> 通勤快速<><>2006/12/08(金) 20:24:56 ID:<>おちばひろい最近行ってないな。<> 基本。<><>2006/12/09(土) 06:31:15 ID:<>嘉永7年(1854年3月31日) - 江戸幕府と米国使節ペリーが横浜で日米和親条約(神奈川条約)に調印。鎖国が解除されました。

 1854年ペリーが横浜で日米和親条約(神奈川条約)に調印。      ←→ この年、おびや許しの初め。

このことに関連しますが、おやさまの思想として、「元の理」が根本思想として示されています。
それは、おふでさき六号には、元の理の時間的数理を示す、次の三種のお歌があり、具体的なものです。

 この人を三か三よさにやどしこみ 三ねん三月ととまりていた 六号64
 それよりもむまれたしたハ五分からや 五分五分としてせへぢんをした 六号48
 このものに一どをしえたこのしゆごふ をなぢたいない三どやどりた 六号49

ここに知らされた数理とは、具体的には、次のような数の事です。
「三日三夜」「三年三月」「むまれだし=約280日」「五分=五年、五分=五年」「三度宿りた=×3→3年3月×3=9年9月」

おやさまは、谷底をせり上げ、世界ろくぢにと、普請をしていく上で、「つとめと授け」を与えることを宣言していますが、「とふじん」のペリーに従い、開国した日本。
それは、隷従への道でした。
そのとき、「おびや許し」を開始して、たすけの道を示したのですが、それもきちんと、元の理の数理のままに、たすけの道を開けています。

 「三日三夜」      1854 年末  帯や許しの初め
→「三年三月」      1858     清水惣助妻ゆきに帯や許し。
→「むまれだし=約280日」 1859 清水惣助妻ゆきに再度の帯や許し。
→「五分=五年」     1864 扇の「授け」わたす。
→「五分=五年」     1869   「はったい粉」御供、渡す。
→「三度・・。=9年9月」1878 「金平糖」御供、渡す。

お授けの御供、それは、「おびやたすけ」から開始され、元の理の数理で、「たすけ」のために渡す。
おやさまの、元の理の生きた活用という思想が、貫かれています。

こうした、例は、おやさまのたすけの思想の基本として、重要なものとなっています。<> AFO<><>2006/12/09(土) 07:52:11 ID:<>次から次へとカルトはたえないですな<> 基本。<><>2006/12/09(土) 08:49:52 ID:<>明治七年の1月、おやさまは、おふでさき三号を記されています。
そこには、その当時の高山に対する、厳しい理の責めがあります。

 このたびハうちをふさめるしんばしら
 はやくいれたい水をすまして     三号56
 高山のしんのはしらハとふじんや
 これが大一神のりいふく       三号57
 上たるハだんだんせかいままにする
 神のざんねんなんとをもうぞ     三号58

しんのはしらを早く入れたいという、おやさまの思想は、三号の8に知らされていました。

 しんぢつに神の心のせきこみわ しんのはしらをはやくいれたい 三 8

現実として、しんばしらの真之亮が、「しん」であると信者の幹部に受け入れられたのは、明治18年3月7日の事でした。
おやさまは、
『さあさあ、今なるしんばしらはほそいものやで、なれど、肉の巻きよで、どんな偉い者になるかわからんで。』
と、言われて、信者幹部は、一同、納得しました。
そこまでの、道筋も、元の理の数理の世界でした。
 「三日三夜」      1861 5 西田伊三郎入信。>>51  よふぼく
→「三年三月」      1864 8 おつとめ後、勤め場所普請の資材手配。
→「むまれだし=約280日」 1865  懐妊中に、真柱の真之亮、とおやさま命名。
→「五分=五年」     1870  おつとめ、てをどりの一通り教え終わる。
→「五分=五年」     1875  おつとめ、かぐらの十二種類教え終わる。
→「三度・・。=9年9月」1885 3 『さあさあ、今なるしんばしらはほそいものやで、・・』

しんばしらを、信者の幹部らが、しんとして受け入れるまでの期間も、元の理の数理のままでした。

参考に、天理教会においても、「六ヶ敷き事」の元の理の数理のままである事も紹介しておきます。


 「三日三夜」      M18.4.29 天理教会結収願い提出。天理の呼称初使用。
→「三年三月」      M21.7.23 天理教会本部、ぢばに。
→「むまれだし=約280日」 M22.5  神道三等教会に昇格。
→「五分=五年」     M27.6.29 神道本局の普請にて、初代真柱責任者に。
→「五分=五年」     M32.5.21 神道本局管長より一派独立のすすめり。
→「三度・・。=9年9月」M42.2.19 天理教独立報告祭。

おやさまの、高山に対する厳しい理の責めは、しかし、神道天理教会では、その意味すら、見失われていました。

おやさまが、厳しく理を責めた、明治七年当時の、「高山」の姿も見ておかねばなりません。

 <> 基本。<><>2006/12/09(土) 10:49:32 ID:<>>>56
明治七年は、おやさまが、高山に対して、断固とした「ざんねん」を告げた大きな節の年でした。

 高山のしんのはしらハとふじんや
 これが大一神のりいふく       三号57
 上たるハだんだんせかいままにする
 神のざんねんなんとをもうぞ     三号58

明治七年、佐賀の乱が起きました。>>25
http://www.pref.saga.lg.jp/at-contents/kenseijoho/koho/sagamaga/12/power3.html
> 女性解放の点でも、江藤は画期的な先覚者で、人身売買禁止令を布告し、神社仏閣から女性を解放したり、女人禁制の登山を自由化している。
>
この江藤新平が、政府に諸兄されてから、すぐに、遊郭は、「自由恋愛の場を提供する、貸席業」として、復活してしまいます。
 この一事をみても、政府中枢を去った江藤新平と、残った政府の実力者たちとの、意識の差は分かると言うものです。
かたや、奴隷を解放する思想の持ち主。かたや、奴隷を生み出そうとする思想の持ち主。
 明治七年の佐賀の乱は、謀略によるものであると、最近の研究で、解明されました。
その説を否定する意見もありますが、紹介します。偉人図書館
第1回 教科書が語らない江藤新平
http://www.shutsumondou.jp/ijin/ijin01.html
「 今年6月末、新聞各紙が一斉に、佐賀の乱は「大久保利通の陰謀」だったと報じました。・・
 たとえば毎日新聞は「佐賀の乱は大久保一派が強行した計画的暴挙。最大の政敵だった江藤に反乱者の汚名を着せ、佐賀士族もろとも抹殺することを狙った」(6月27日)と毛利氏の見解を引用しました。」
「、『明治六年政変』は、明治四年の岩倉使節団の計画段階から話を起こし、政変の背景の複雑さを詳しく点検し、原因は「征韓」ではないと結論づけています。
さらに「征韓」ということ自体にも疑問を投げかけています。そこでは驚くことに、「征韓」派の中心人物とされる西郷ですら、「征韓」が本意ではなかった可能性が高いと指摘されているのです。教科書で知っていると思っていたことの危うさを感じます。」

つまり、大久保利通は、実際は行われていない「金融業者襲撃事件」をでっちあげて、戦争を挑発し、一気に、江藤新平を追い詰めたと言う事です。
そして、逮捕した江藤新平を、たった二日の取調べで、殺しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%B3%80%E3%81%AE%E4%B9%B1
「わずか2日間の審議で江藤、島はじめ11名が斬首となり、さらし首とされた。江藤らの裁判は当初から刑が決まった暗黒裁判で、答弁や上訴の機会も十分に与えられなかった。明治政府の司法制度を打ち立てた江藤当人が、昔の部下である河野にこのような裁判の進行をされたことが非常に無念に思ったとの伝が伝わる。」
 このような暗闘が、明治政府の高山には渦巻いていた。

 高山のしんのはしらハとふじんや
 これが大一神のりいふく       三号57

 江戸幕府は、寺社において宗門を管理し、人心を支配していました。明治政府は、明治七年に「葬儀は各自の信仰による」と布告し、寺社の支配の根拠をなくしました。
 明治七年に、「従軍殉国者の墳墓の修繕に国家が金を出す」という定めをだしました。後の靖国神社につながる、国家による戦没者の追悼というはじまりでした。
 明治七年に、「禁忌祈祷で医薬を妨げるものの取り締まり」をはじめました。
 明治七年には、仏教の各宗派に整理統合、様々干渉を加えました。
 明治七年に、信仰の講を結ぶ場合の届出について、決められました。
 明治七年に、官幣大社には官費が支給され、古い寺社にも「教導職」資格取得が義務付けられました。

 尊王思想の志士たちが起こした明治維新です。
 尊王思想を「祭政一致」の中心に据えて、宗教統制の様々な手をうったのも、謀略。
 利権と覇権とを求め、地租改正によって農村を破壊し、安価な工業労働力を確保させて、徴兵制を引いて、帝国主義の道に国民を誘導し、武力をもって意見を封殺する。それが、明治政府の正体でした。

日本を支配する高山は、唐人で・とふじんで、谷底をままにして、覇権を求め、世界を我が物にしようとする。

それは、人間を奴隷にして来た、宗教の悪いんねんであり、世界を我が物にするために、「大教=天皇教」を制度として、思想世界を支配しようという高山の、とふじんは、まさに、「神の残念」でした。

これと、たたかうには、綺麗な水のごとく、欲から離れたようぼくがいなければならないのに、にごりの水。
 おやさまの弟子と称する人たちは、目の前で起きていることの歴史的意味すら思案しなかった。・・奇跡ばかりに目がくらんで・・
「むほん」ばかり。

おやさまのおしえに、ついていった人は、大工と、しんばしらのみでした。<> 気配<><>2006/12/09(土) 17:23:43 ID:<>総理大臣曰く


創価学会 会長 池田大作はヒットラー

なる言動録があった。

虐殺をいとわない創価学会ですか?

その通りのようです

>政教新聞は人間(創価)の残虐性を人々に、
身をもって伝える新聞ですか?

その通りです

政治権力によって日本を歪めるから政教新聞と呼んでるんですよ。

>>そうした権力の魔性による悪事を「絶対」に許してはいけない。>>

権力の魔性はみずから作りだしているのはあなた方ですか?。

はい、そうです

>>聖教新聞という名の、活字の聖戦です。 >>

>君の書き込み内容はタリバンの破壊理論と変らんよ。
実際昔は神棚でも仏壇、位牌等々、何でも破壊していましたね。
今はそうなんでしょうかね?

今でも基本路線は変わってません。

<> 基本。<><>2006/12/09(土) 18:24:46 ID:<>>>57
おやさまの思想には、国会では治まらない。と、いう思想が、弟子の本席によって示されています。
それに比較して、創価学会は「政教一致」を原則として、宗教思想(日蓮正宗の説く仏教思想)による政治(まつりごと)で、この世を浄土に立て替えるという活動を、具体的にしています。
それは、おやさまの思想としての「政治」では治まらないとの表明の、3625という預言思想の数理の時、つまり28年目に創価の政治行動一段、二段と、開始されました。

そのことを「善悪ともに」思案しますと、社会の庶民をせり上げたという現実的な側面があります。
「真善利」
経済行為を仏法思想で肯定し、利益を追求することを人生の高尚な目的と定義したことは、思想として、評価に値します。

けれど、「祭政一致」を目指した明治政府と過ちを犯している点では、大本教の出口王仁三郎の政治権力志向と同様に、おやさまの「世界ろくぢ思想」とは、完全に反対の極にあると言うことになります。<> 基本。<><>2006/12/11(月) 05:12:42 ID:<>おやさまの、債務奴隷解放の思想は、その方法手段を、しゅだんそのものについてまでも、歴史的に、「元の理」による数理で証明するというものでありました。
>>53 >>55
おやさまは、「つとめ」と「さづけ」を谷底せり上げの手段としての思想を示されていますが、
その、つとめとさづけの関係は、「元の理」の数理の世界において、理を証明していて、何を伝えたいかは、その数理の世界でも一覧できるというものでした。

 「三日三夜」      1866年「あしきはらいたすけたまえてんりわうのみこと」のつとめを教える。
→「三年三月」      1869年「十二下り」かぐらつとめを三年かけて教え終わる。
→「むまれだし=約280日」 1870年「ちょとはなし」「よろづよ」を教える。
→「五分=五年」     1875年「ぢば定め」「いちれつすます甘露台」を教える。
→「五分=五年」     1880年「初めて、鳴り物揃えておつとめ」
→「三度・・。=9年9月」1890年 現在の別席制度、おびや、お守りにつき整う。

おやさまは、人間としての死を迎えたとき、明治政府の公認を得たいという弟子たちに、
「世界を今からろくぢにする」。
「渡したいものがあったが、それを皆に渡せるようにする。」
と、二つのことを言われています。
その内の、「渡したいものがあったが、それを皆に渡せるようにする。」とのものは、今見たように、明治23年に現在のようにみなに、渡して下さるようになった。
その「さづけ」は、元の理の数理にて、この世に「渡す制度」が、誕生していて、それは、おやさまが、つとめの完成に向けての、出来事と「元の理の数理上」、一貫したものでした。

勤め場所と、真柱、用木は、>>55 、以下のような元の理の数理でした。
 「三日三夜」      1861 5 西田伊三郎入信。>>51  よふぼく
→「三年三月」      1864 8 おつとめ後、勤め場所普請の資材手配。
→「むまれだし=約280日」 1865  懐妊中に、真柱の真之亮、とおやさま命名。
→「五分=五年」     1870  おつとめ、てをどりの一通り教え終わる。
→「五分=五年」     1875  おつとめ、かぐらの十二種類教え終わる。
→「三度・・。=9年9月」1885 3 『さあさあ、今なるしんばしらはほそいものやで、・・』

地場にて、「つとめ」と「さづけ」の元となる天理教会本部は、次のような「元の理の数理」で「独立報告祭」をしました。

 「三日三夜」       M18.4.29 天理教会結収願い提出。天理の呼称初使用。
→「三年三月」       M21.7.23 天理教会本部、ぢばに。
→「むまれだし=約280日」 M22.5  神道三等教会に昇格。
→「五分=五年」      M27.6.29 神道本局の普請にて、初代真柱責任者に。
→「五分=五年」      M32.5.21 神道本局管長より一派独立のすすめり。
→「三度・・。=9年9月」 M42.2.19 天理教独立報告祭。

地場の天理教会本部から出す、「ゆるし」と「さづけ」は、次のような「元の理」の数理に基づくものでした。
 「三日三夜」      1854 年末  帯や許しの初め
→「三年三月」      1858     清水惣助妻ゆきに帯や許し。
→「むまれだし=約280日」 1859 清水惣助妻ゆきに再度の帯や許し。
→「五分=五年」     1864 扇の「授け」わたす。
→「五分=五年」     1869   「はったい粉」御供、渡す。
→「三度・・。=9年9月」1878 「金平糖」御供、渡す。

 いままでも今がこのよのはじまりと
 ゆうてあれどもなんの事やら    七号35

おやさまの、「天理によって世界をろくぢにする」という思想は、明治維新のなったばかりの当時の信者には、何んのことやら、何も分からなかったと言うことでした。
<> 基本。<><>2006/12/12(火) 12:36:21 ID:<>「三日三夜」「三年三月」「むまれだし=約280日」「五分=五年、五分=五年」「三度宿りた=×3→3年3月×3=9年9月」
「3年3月後」→「およそ4年1月後」→「およそ9年1月後」→「およそ14年1月後」→「およそ23年10月後」

おやさまは、債務奴隷の立場に足を踏み入れて、毀ぼちぞめのお祝いをしています。
この事を、検討し検証します。

中山家の債務と債務奴隷の問題を整理しておかねば、おやさまの思想の現実的な問題は、理解できません。
先ず、中山家には、遊女の様な債務奴隷はいませんでしたが、年季奉公の様な債務奴隷がいた可能性はあります。
下女・下男・作男の存在は、何時までいたかと言うと、1853年までです。
家の毀ちぞめにより、下男下女を住ませておくことは出来なくなりました。
この時に、天日染めの話が残っています。

次に、大地主であった中山家が、「債務を抱えた」のは何時からかと言うと、「年きり質」に田地を入れた時からです。
土地を担保にお金を借りたと言う事です。
売り払おうとして買い手が付かなかったので、「年きり質にいれた」と、されていますが、それではその田地は無くなってしまったかと言うと、
その後に、中山家は百姓を続けています。
百姓の仕事をしていた人物としては、「西田伊三郎さん夫婦」など、逸話の中に数々登場しています。
つまり、田地は無くなっていないという事は、「借金を返した」という事が分かります。

おやさまが、金を借りた人物は、おやさまと同じ庄屋敷村の「足達重助」さんでした。
何時から借りていたかと言う事ですが、1853年に、家の毀ちぞめを命じた時に、土地担保で借りたとみなすのが合理的です。
年きり質の期間については、初代真柱の書き物では「8年」と「10年」の二つがあります。
1855年に残りの土地を年きり質に入れていますから、1853年には一部を、1855年には残り全部を、土地を担保にしてお金を借りたとみなすのが、合理的です。
借りた相手は、「足達重助」さん。
1853年から10年間、1855年から8年間、田地を担保にしてお金を借りた。そうすると、完済は、1863年までにはなされたものとみなされます。

おやさまの、「貧に落ちきれ」は、おやさま40歳7ヶ月以来の一貫した思想です。その目指していたものは「債務奴隷」体験を自らが通ると言う事であった。
そこから、「23年9ヶ月」後は、おやさま64歳4ヶ月の頃に該当します。
つまり、「23年9ヶ月」後は1862年10ヶ月の頃であり、その時点では、中山家では債務を完済していたという事です。

つまり、債務奴隷の立場に足を入れたという事情を軸として見れば、家の毀ぼちぞめにお祝いをしたという事は、「債務奴隷と同じ立場になったお祝い」をしたという事になります。
そしてそれは、元の理の数理の「23年9ヶ月」で、完済されて、普通の農家になったという事でした。

以上を加えて、年表を整理します。

1838 12月 9日 おつげ
12月12日 おやさまの「月日の社」宣言。
貧に落ちきれ。
1840 家財の施し
1841 をびやためし
1841 稲荷を祀る 拷問にかける
1842 この屋形取払え
        家の高塀取払う
1845 らい病の乞食が中山家に来る。
1846 安市にて、中山家の家財を売り、施す。
1848 お針子をとる。寺子屋をする。
1852     らい病施設への夫善兵衛とで寄付。
1853 母屋取り毀ぼち。土地担保の借金。
       女中を帰す。(天日染め)。
1855 残りの土地を年切り質。(土地担保の借金)
紋付さん。青物売り。(天日染め)。
1856 足達重助、娘の足が立つ。
1861 秀司、「万覚日記」 西田伊三郎入信。
1862 (土地担保の借金を完済)
1863
1864 元冶になる。<> 基本。<><>2006/12/12(火) 13:17:34 ID:<>おやさまは、証拠主義と言う思想の持ち主です。
評価すべき行為に対しては、おやさまは自ら製作した物をあたえるとか、格別の不思議を現すと言うことで、おやさまからの評価の証明としています。

債務奴隷関係の、おやさまの証拠主義は、史実に残されています。
「足達重助」さん。お金を貸した人。→ 貸した三年目に娘の足を立てる不思議。
家の毀ぼちそめに先立ち、中山家を去った「女中」→ 天日染め。
紋付を着て、青物売りを開始した秀司先生。→ 天日染めの紋付。

そこで、土地を担保にお金を借りていた中山家は、どのようにしてお金を返したかと言う問題があります。
それは、1861年の秀司の「万覚日記」という資料の存在が示すように、中山秀司は、「家業」をしていたと言う事です。

中山秀司が相場に手を出したり、みんななくしてしまった頃は、1853年頃の出来事として、博打に手を出して丸裸にされて、小寒が、兄を探して、浪速の町の辻辻にて神名を流した話が残されています。
それは、おやさまの妹の「くわ」さんの子供たちの博打好きに、秀司が巻き込まれたのでしたが、「くわ」さんの所では、相場をしていて、神様にお願いしたのに失敗して大損したと、そんな記録があります。
1853年頃には、中山秀司は、寺子屋をしていたけれど、家の毀ぼちぞめにて、寺子屋の維持継続を断念し「青物売り」をするようになります。
この頃から、立ち直って、家業を真面目にするようになったと見ると、年切り質の借金返済は、秀司の真面目な働きによるものと、理解されます。

1837年陰暦10月に秀司は、足痛の為に農作業が出来なくなり、以後一年間、拝み祈祷をたよりました。
足の立たない、家の立たないと言う「悪いんねん」の姿でした。

その「悪いんねん」の、身上は、足痛に現れましたが、その家の立たない「悪いんねん」の、事情は、博打好き、相場好きで、財産をなくす姿となっています。
それが、「家の毀ちぞめ」までの姿でした。

しかし、母屋も売り渡し、田地も、質に入れてお金を借りて、借りた当初は「悪いんねん」のままに、博打と相場でなくしてしまう姿でしたが、残った田地すべてを、「足達重助」さんに、担保として、お金を借りた時から、秀司さんは、心入れ替えて真面目にはたらく「家業第一の「白いんねん」。
それで、おやさまは、きっかけとなってくれた、お金を貸してくれた、「足達重助」さんには、娘さんの足を立てると言う「不思議」にて、証拠を残しました。
一方、青物売りを開始した秀司さんには、「天日染めの紋付」を与えて、おやさまの喜びの証拠としました。

「足達重助」さんは、油の商品作物売買で、儲けていた人で、秀司さんとも、取引をしていた証拠として、「万覚日記」があります。

債務奴隷からの開放とは、「悪いんねん」を切るという事と「白いんねん」を為すと言う事。
それを、きちんと示しているのが、おやさまの「不思議」です。

その、1837年から「23年9ヶ月」後には、
<> 基本。<><>2006/12/12(火) 13:22:42 ID:<>その、1837年から「23年9ヶ月」後には、中山秀司は、中山家の当主として、家業第一の道にいましたが、・・・

宗教で儲けると言う、安堵村飯田善六さんの「応法」に誘惑されて、再び、迷い道にはまり込んでいくのは、「元冶」からの道筋での事です。

元の理の数理は、どこまでも、きちんとした史実にて、人間の生まれだしを示す数理です。<> 基本。<><>2006/12/12(火) 20:19:38 ID:<>>>60
歴史の年表から、おやさまと「債務奴隷への道・せり上げの道」「六ヶ敷き事」の数理にて確認します。

「3日3夜」       1838   おやさま  世界一列たすけるため神のやしろとなる。
→「3年3月後」     1842 おやさま  この屋形取払え
→「およそ4年1月後」    1843 中山家   村人、親戚友達、不付き合いとなる。
→「およそ9年1月後」    1848 おやさま  お針子をとる。
→「およそ14年1月後」   1853 おやさま  土地担保の借金。 母屋取り毀ぼち 奉公人の女を帰す。
→「およそ23年10月後」  1862 おやさま  土地担保の借金の完済。


歴史の年表では、おやさま、「貧に落ちきれ」は、1840年前後頃とされています。
そこで、中山家の因縁切りの道を、「六ヶ敷き事」の数理にて整理します。

「3日3夜」       1837   秀司   足痛から、散財の開始。
→「3年3月後」     1841 おやさま  貧に落ちきれ。
→「およそ4年1月後」    1842 おやさま  家の高塀取払え。
→「およそ9年1月後」    1846 おやさま  安市にて、中山家の道具一切を売り払う。
→「およそ14年1月後」   1852 おやさま  夫善兵衛とともに、らい病施設に寄付をする。
→「およそ23年10月後」  1861 秀司    中山家の家業の当主として、切り回す。

このように、因縁切りの歴史となっています。


おやさまの思想の普遍性は、中山家の事情においても、世界の普請の事情においても、「六ヶ敷き事」の数理にて、目に見えるように、歴史に残れていました。<> 普通の天理教徒<><>2006/12/13(水) 07:10:26 ID:<>基本さん。
「六ヶ敷き事」の数理が歴史上の事実に残されているという、基本さんの検証は、天理教会独立のように、きちんと数理として合致しているように感じられるものは、確かにと、納得できますが、
>>63  に言われた、
債務奴隷関係の「谷底せり上げ」と「中山家のいんねん切り」の数理は、事実のあった年月日の検証の内容に、すっきりと認めにくいものがあります。
どのように、考えて、元の理の数理のままであると、判断されたのでしょうか。
普通の天理教徒にも分かるように、説明をお願いします。<> 基本。<><>2006/12/13(水) 07:36:46 ID:<>おやさまの思想に、「26日にはじめかける」と言う思想があります。
同様のものとして「1月26日にはじめかける」と言う思想があります。
それは、「6」は「ろくぢ」と言う思想を含んでもいますが、数字で示すと、
 十月二十六日は、1〇26と表記されます。
 正月二十六日は、〇126と表記されます。

 つまり、126で始めかけるという数理上の思想があると分かります。

そこで、年表で確かめますと、

> 1838   おやさま  世界一列たすけるため神のやしろとなる。
これは、陰暦十月二十六日の出来事です。126で始めかけるという数理、そのものです。
> 1837   秀司   足痛から、散財の開始。
これも、陰暦十月二十六日の出来事です。126で始めかけるという数理、そのものです。

基本的には、全て実数の「新暦」で計算します。
しかし、このまるごと「陰暦」時代のことは、「陰暦」で基準にすべきではないかと、判断できます。

そこで、>>60 は、
> 「三日三夜」「三年三月」「むまれだし=約280日」「五分=五年、五分=五年」「三度宿りた=×3→3年3月×3=9年9月」
> 「3年3月後」→「およそ4年1月後」→「およそ9年1月後」→「およそ14年1月後」→「およそ23年10月後」
これは、新暦の数え方ですから、陰暦で数えてみますと、こう言う考え方になります。

陰暦十月二十六日→「三年三月後」→陰暦正月二十六日。
陰暦正月二十六日→「生まれるまでの日数」→陰暦十月二十六日。

このようになります。

つまり、陰暦時代においての「元の理の数理」は、必ず十月二十六日と正月二十六日という日を示すということになります。

おやさまは、126ではじめかける思想ですから、陰暦を用いての数理に、歴史の年表から、おやさまと「債務奴隷への道・せり上げの道」「六ヶ敷き事」の数理にて確認したとしますと、次のようになります。

「3日3夜」       1838 十月26日  おやさま  世界一列たすけるため神のやしろとなる。
→「3年3月後」     1842 正月26日  おやさま  この屋形取払えを命ずる。
→「およそ4年1月後」  1843 中山家    村人、親戚友達、不付き合いとなる。
→「およそ9年1月後」  1848 正月26日、おやさま  お針子を取れと命ずる。
→「およそ14年1月後」 1853 正月26日、おやさま  母屋取り毀ぼちを命ずる。
→「およそ23年10月後」1862 中山家 土地担保の借金の完済。

このように整理されます。
正月のこえのさづけという、おやさまの思想に、一貫しており、陰暦時代として、きちんと合理的なものです。

<> 普通の天理教徒。<><>2006/12/13(水) 08:45:59 ID:<>>>65
つまり、おやさまの教えには、「10」も、「1」も、正月という事なのですね。
「算盤の玉を一つ上げて、『あんたこれをなんと言う』と、おやさまは言われたとの事ですから、1とも、10ともなりますから、そういう意味でも、「正月」というのは、天理教の立教の元一日の「10月26日」も正月の出来事で、扉開いた「1月26日」も正月の出来事であると、そのように基本さんは言われるのですね。
そして、「正月声のさずけ」とみかぐら歌にありますから、おやさまからの大切なお声は「正月」に出されたという事に、基本さんは考えていて、陰暦の頃の出来事の中で、重大なお言葉は、正月の出されたものとみなされたと言う事ですね。

それでは、1862年にも、お言葉があるような気持ちがするのですが、 > 中山家 土地担保の借金の完済。
は、債務奴隷関係の出来事として、強調するために、出来事として並べたのでしょうか。<> 基本。<><>2006/12/13(水) 09:23:20 ID:<>1862年には、「並松村の稲荷下げ」におやさまは、二両二分を与えています。

おやさまは、宗教で稼ぎをしていませんでしたから、この時の二両二分は、秀司の家業で得たお金と言う事です。

稲荷下げがどうして来たかという事は、中山家では、ほこらをつくり、稲荷を祀って、その時におやさまに拷問を加えて、つき物ならばされとしています。
中山家が稲荷を祀っていたと言う事で、この前頃からおやさまの不思議なたすけが開始されていますが、それならば金をよこせと、同業者からの何らかの要求があったものと、みなされます。
それに対応できて、二両二分もの大金が支払えたという事ですが、稲荷と言う名を利用したことに対して、「ひとのもの借りたるならば利がいるで」を実行されて意味にもなっています。

文久二年(1862)には、おやさまは、安堵村平井伊平の妻女のおたすけに、出かけておられます。
この事を示すのかもしれませんが、つまり、世界の普請の問題としてです。
債務奴隷関係の、何かの真理をしめす出来事があったものと推理されます。

中山家の「いんねん切り」事情においても、「10月」→「正月」→「10月」という、六が敷き事の事情は「陰暦」の時代とみなされます。

「3日3夜」       1837 10月 寄せ加持の開始。 秀司の足痛から、散財の開始。
→「3年3月後」     1841 正月   おやさま  貧に落ちきれの宣言。
→「およそ4年1月後」  1842 正月   おやさま  家の高塀取払えの命。
→「およそ9年1月後」  1846 正月   おやさま  道具一切売り払えの命  安市にて、中山家の道具一切を売り払う。
→「およそ14年1月後」 1852 正月   おやさま  夫婦揃うてのひのはしんの命 夫善兵衛とともに、らい病施設に寄付をする。
→「およそ23年10月後 1861 10月  おやさま  ○○の命 中山家の当主として、秀司、切り回す。この頃、西田こと、お屋敷に引き寄せられる。

このように、推理を交えて、整理をしました。
「西田こと」さんは、元治元年の前後から、夫伊三郎さんとともに、中山家の農業をしています。
つまり、家業に対する協力者であったわけです。

中山家は、貧に落ちきる事で「悪いんねん」を切り、新たなる農家として、経営に乗り出していたと言う事です。<> 基本。<><>2006/12/13(水) 09:55:33 ID:<>>>67
「中山家の悪いんねん」。
これを示す証拠として、教祖伝史実校訂本中1巻に次のような事実が記されています。
 A 元禄十六年十月二十五日に、銀子七十匁を、庄屋敷村の弥作、源四郎他四名に、屋敷を質物(担保)として、貸して、証文を出させている。
B 正徳五年十二月十四日に、銀子百三十五匁を、久作他三名に、田、六畝三歩を質物(担保)として、貸して、証文を出させている。
 C 享保三年十二月十四日に、銀子七十目を、孫四郎他三名に、畑二十歩を質物(担保)として、貸して、証文を出させている。

中山家の子文書から抜粋したほんの三つの資料は、元禄十六年(1704)、正徳五年(1720)、享保三年(1723)、の、金貸しの実態を証明してくれています。

「足達金持ち、善右衛門さん地持ち」と、歌にまでうたわれた、中山家の財産は、お金を貸して、家屋敷、田地・田畑を取り上げていた結果の大地主であった。
少なくとも、長男の秀司が足痛を起こし寄せ加持にて、祈祷した時の133年以上前から、金を貸しては、人を債務の奴隷にしていたと言う事が分かります。
133年よりももっともっと長く、積み上げていた、「債務奴隷」を生み出した「悪いんねん」を切る事が、世界のふしんの前に、なされるべき事であったと、おやさまの、元の理の数理の史実は、証明し、語ってくれています。

債務奴隷をうみ、奴隷を使用していた中山家。

この悪因縁を切るには、
1837 10月 寄せ加持の開始。 秀司の足痛から、散財の開始。
1841 正月   おやさま  貧に落ちきれの宣言。
1842 正月   おやさま  家の高塀取払えの命。
1846 正月   おやさま  道具一切売り払えの命 安市にて、道具一切を売り払う。
1852 正月   おやさま  夫婦揃うてのひのきしんの命 夫善兵衛とともに、らい病施設に寄付をする。
1861 10月  おやさま  ○○の命 中山家の当主として、秀司、切り回す。この頃、西田こと、お屋敷に引き寄せられる。

と、新たなる、出発を迎えるに置いては、

「貧に落ちきれ」

それしかないとの、真理を、おやさまの思想として示されたわけです。<> 基本。<><>2006/12/13(水) 10:10:57 ID:<>1837 10月 寄せ加持の開始。 秀司の足痛から、散財の開始。
これについては、都合九度の寄せ加持が実行されています。

それは、おつとめに関しての元の理の数理にある、「別席」が、九度の席である事と、一つの理として、示されています。

おやさまが、渡したいものがあると言う「おさづけ」、その為の別席は、九度の席であり、それは、実は、「悪いんねん」を切り、「家業第一」の健全な人生にて、始まるための、元の理の数理の世界の開始を意味しているものであると、数理そのものの年表が示しています。

悪いんねんで蓄財し、債務奴隷を生み、従え、そういう過去を自覚したなら、九度の席を運んで、三年三月の理においては、貧に落ちきるを実行する。
悪いんねんで蓄財したものを、なくす事でいんねんを切る。
黒板塀を取払い、母屋を売り払い、由緒ある道具一切を売り払い・売った代金を施し、難病の方々に施し、そして、貧のどん底に落ちきる事を教えています。

別席を済ませたという事の次には、悪いんねんのものを散財すると言う順序がある。

おやさまの思想は、現実として、債務奴隷をつくり支配した人たちには、現実として、人に施し、貧のどん底に落ちて行く事を行えと言う、思想です。
その中に、家業第一の夜明けに向う道がある。

いんねんの無自覚では、三日で切れるものも三年かかり、三年で切れるものも三十年かかり、六十年かかり、一生掛けて切れなければ、再び出直して、切るしかないと言う、その、気の長さが、おやさまの思想です。<> 普通の天理教徒。<><>2006/12/14(木) 01:12:21 ID:<>>>68
証文が、中山家に残されていたという事は、借金が返されていれば当然証文は返すはずですから、
> A 元禄十六年十月二十五日に、銀子七十匁を、庄屋敷村の弥作、源四郎他四名に、屋敷を質物(担保)として、貸して、証文を出させている。
> B 正徳五年十二月十四日に、銀子百三十五匁を、久作他三名に、田、六畝三歩を質物(担保)として、貸して、証文を出させている。
> C 享保三年十二月十四日に、銀子七十目を、孫四郎他三名に、畑二十歩を質物(担保)として、貸して、証文を出させている。
これらの例は、明らかに、借金のかたに土地建物を取り上げた証拠という事になります。

秀司さんの事が一年前にあって、立教になったという事は、先ず因縁切りと言う事を、時間的に示されたと、それは、分かりますが、せっかく、家業第一に頑張った結果、その後に宗教家業にはまり込んだのは、思想的になんとも、残念ですね。<> 基本。<><>2006/12/14(木) 07:08:07 ID:<>>>70
> 家業第一に頑張った結果、その後に宗教家業にはまり込んだのは、
> 思想的になんとも、残念ですね。
はい、残念と言う見方で言うならば、残念な事ですが、「理」の構造にて思案しますと、一つの因縁を切った後に、より、過去の因縁の道が登場するのが、道理です。
つまり、>>14 で、安堵村の飯田家の事情として、語っている事があります。
> その後、飯田善六さんに対して、「あんたは前世でおじさんと言う血縁者であった」と、因縁の事実を告げています。
> そして、金貸しをしていた前世では、寝ている病人の布団まで剥いで、回収した、守銭奴であったと、心の入れ替えを諭しています。
> しかし、息子に、「水のさづけ」という、効能を授かったことから、
> 飯田善六は、「散財」のために為す救済ではなく、「蓄財」のためになす、「不思議な水のさづけ」の悪用を胸に抱いていました。
> 金貸しとしての、悪行時代の悪因縁の心の根が、切れていなかった。のでした。
> その時、みえぬ先から説く、おやさまは、文久四年の事でした。
>   さあさあ この屋敷をこうずい場所
>   水屋敷といういんねんをつけおく
> と、お言葉を以て、水屋敷の「はんらん」を、予言しました。
>
この、飯田家へのおたすけは、
>>65
「3日3夜」       1838 十月26日  おやさま  世界一列たすけるため神のやしろとなる。
→「3年3月後」     1842 正月26日  おやさま  この屋形取払えを命ずる。
→「およそ4年1月後」  1843 中山家    村人、親戚友達、不付き合いとなる。
→「およそ9年1月後」  1848 正月26日、おやさま  お針子を取れと命ずる。
→「およそ14年1月後」 1853 正月26日、おやさま  母屋取り毀ぼちを命ずる。
→「およそ23年10月後」1862 中山家 土地担保の借金の完済。

この、中山家が、因縁を一つ切り、土地担保の借金の完済を成し遂げた、直後に、おやさまは安堵村、」飯田善六さん宅に、子供、岩治郎さんのおたすけに行かれています。
金貸しの因縁の中山家の、債務奴隷事情にいったんの決着はついていたのですが、そこで、おたすけされた飯田家は、「不思議なたすけで金を稼ぐ」と言う宗教家業のうまみに、誘惑されて、宗教商売を開始しますが、それは、おやさまのろくぢの思想への「謀反」であり、三十年後の氾濫を、「洪水屋敷」と、予言されていました。

普通の天理教徒さん、おたすけされた飯田家では、貧のどん底に落ちていこうとしたのでもなく、家業第一の健全な生活に新たに戻ったわけでもなく、「宗教家業」をもくろんだ。
それは、
>>22
> http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_12.htm
> 出挙、借上、土倉、祠堂銭など、古代から中世にかけてみられた金融取引の多くが神社・仏閣により営まれていたという事実は、非常に興味深い。
> 第1に、当時の社会における富の分布や金融取引が神仏と密接に繋がっていることを示しているからだ。
> 第2に、彼らの金融業者としての拠り所は、「債務不履行は神仏の供物を奪う行為であり、そうした輩は死後地獄に堕ちる」という宗教的な返済強制力にあり、借り手も神仏の冥罰をおそれて約定どおり返済に努めたのであった。 』
>
> つまり、文久の時代の飯田善六さんが五代前には、おやさまのおじ> さんで、宗教からみの金貸し「土倉」をしていたと、

>>23
> それが、元々のいんねんが出て、
> 宗教というもので『金を搾り取る』という、水屋敷の反乱につながったという事なのです。

このように、悪因縁のルーツを示しておきましたが、金貸しの元は宗教家。金融のルーツは宗教<神社・仏閣。
その、元もとの悪因縁が、飯田家では取れていなかった。
・・・
そして、秀司は、こともあろうに、飯田家を見習って、宗教家業の方便を採用しようと、元もとの、宗教からみの、しのぎ、それに走ります。
そのへんの事情は、櫟本分署跡の八島秀雄さんの説がかなり事実に近いでしょう。
秀司は、吉田神祇管領が一番偉いと認可を受けに行きましたが、明治維新で、「大教=天皇教・宣布」がなされますと、家業を盛り返ししていた、後の、明治六年、その時、秀司は、庄屋敷村の戸長となっていて、
お屋敷で<秀司宅で、・・・

 明治6年 11/9 秀司宅で「大教宣布説教」あり>聴衆150名。

明治政府に迎合しての、国家神道宗教化政策の先導をしています。

これは、世界ろくじに背いた、重大な謀反でした。
つまり、中山家の、元もとの宗教的悪因縁が、飯田善六さんに誘発されたものとして、おやさまの教えを表に出すと言うよりも、おやさまの起こす不思議を、権力国に結びつけて、宗教家業をしていこうという悪因縁のままの心が、行為にそのまま現れています。

一つの因縁を切ったと思っても、通り返さなければ、より昔の悪因縁の道に、再びはまり込むと言うことです。

普通の天理教徒さん、お分かり頂けましたでしょうか。<> 基本。<><>2006/12/14(木) 11:26:02 ID:<>中山家の「悪いんねん」の問題を、中山秀司さんの、実例から見ておく事で、おやさまの思想が見えてきます。

「高野友治先生の著作物」の内容を拾い出して整理しますと、以下のようになります。

中山秀司さんは、最初の奥さんは医師土屋宋仙の娘さんで、結婚して三日で、おやさまの言動が怖いと言って逃げてしまいました。
次の奥さんは、やそさんです。
やそさんは一時中山家に来ていましたが、「私はこの家の嫁になることは出来ない者」と言って、身を隠したと、伝えられています。
身分違いと言う事でしたが、中山家が田地四町持っているので、身分が違うと、身を引いたという事です。
その後へ出てくるのが、川原城のおちえさんです。
この人は、音治郎さんの母親です。

整理しましょう。
1、医師の娘。三日で離婚。 おやさまの行動に怯えて身を引く。
2、やそ。(娘しゅうの母親) 身分違いが理由で身を引く。(中山家田地四町所有)
3、おちえ。(息子音治郎の母親) おやさまが、埃の者として送り出す。 お筆先一号に登場の人物。

中山秀司さんが、4、として、結婚したのが、小東家のまつえさんです。

ところで、2、やそさんとの娘は1853年に生まれています。
これは、家の毀ぼちそめの前後、たぶん前と思われます。
娘が生まれると、身分違いを理由にしてやそさんは、身をかくし、やそさんの母親が生まれた娘「しゅう」さんを育てています。
傾きかけてはいても、中山家は資産家であり、やそさんには、身分差があって身を引いたという事は、おやさまの「世界ろくぢ」の思想を、中山家そのものが邪魔していたという事。
そこで、おやさまは、やそさんとの娘(しゅう)さんは、一度迎え取り、死なせてから、「中山たまえ」に、生まれかわらせて、中山家を継がせています。

一方、3、おちえさんとの息子は1858年に生まれています。
丁度、おちえさんとの関係が深まったとみなされる1857年には、
 1857、信者がはじめて米四合を持ってお礼参り。
と、あります。
中山秀司さんが、「宗教家業」に足を踏み間違う、その伏線が、「信者のお供え」の開始の頃に、「色情因縁」の深まりを見せたという姿で、中山家には、起きていたと言う事です。
おちえさんに対しては「正月みそかと日を切って、」送り出したおやさま。

低い身分であったために、身を引いた女。
中山家の宗教家業の間違いの道に入る秀司に、ぴたりと付いた女。

しかし、4、として、結婚した小東家からのまつえさんは、宗教家業にはまり込む秀司さんと同じ過ちにはまり込みます。

中山家の悪いんねんの、姿を通して、おやさまは、債務奴隷を生み育ててきた「いんねん」とは、『色情の因縁』でもある事を示しています。
心得ておくべき、おやさまの思想です。<> 基本。<><>2006/12/14(木) 18:35:46 ID:<>普通の天理教徒さんへ。
>>70
ひとつの悪因縁が切れたと見えた時に、実は、その悪因縁が新たな展開に開始されていると言う、そういう事を、秀司さんの実例が示しています。
おやさまの、谷底せり上げの思想は、徹底したものであり、とりあえず自分たちだけは、泥水の中から脱出できたと、自分たちだけは綺麗な水の中に暮らせるからそれでよいのだという人間の甘えた思案を、そのような甘さを許しているおやさまではありません。

飯田岩治郎さんのたすけの開始された頃、秀司さんが新たに宗教家業の悪いんねんに復古してしまうという過ちの道にはまりこむ頃、丁度その頃になされた、アメリカの奴隷解放宣言(1863)の実例でも、そうした悪いんねんの、新展開の事情がみられます。

http://www.tenri-u.ac.jp/tngai/americas/files/newsltrs/24/24.lecture.hatsutani.html
から引用します。
『米国の歴史において南北戦争はプランテーション奴隷制を維持しようとする南部と自由な労働力に基づく資本主義発展を志向する北部の抗争であった。
したがって、南部の敗北は米国史における奴隷制の終焉を画するものであったことは周知の事実である。
ところが、その南北戦争がとなりのメキシコにおいて奴隷制を復活させる契機となったのである。 』
・・・
『まず、エネケン・プランテーションの労働形態の問題である。
ペオンと呼ばれた定住労働者には、ティエンダ・デ・ラヤと呼ばれる地主の直営売店の金券が給料として支払われていた。
その売店では市価の数倍の価格がつけられており、またたくまに給料分はふっとび、多額の借金だけが残るシステムになっていた。
債務奴隷化しプランテーションに縛られたペオンたちは、やがてその債務額とは無関係に人身売買されるようになり、事実上の商品奴隷となったのである。
この再版奴隷制の犠牲者となったのは、ユカタン半島の先住のマヤ系インディオであった。
高度な機械設備を備え大規模な海外市場向けに生産するエネケン農場は、資本主義的プランテーションの典型であるともいえる。
資本主義が発展するほど、むしろ前近代的な労働形態が強化されたところにメキシコ資本主義の「従属的」性格が露呈しているといえよう。 』

『IHC.は、米国の収穫機市場におけるシェアーの90パーセント以上を占める巨大トラスト企業となった。そして、IHC.は、ユカタンの現地オリガルキーであるモリナ・ファミリーと手を結ぶことで、エネケン総輸出量の90パーセントを独占輸入し、事実上エネケンを支配した。
IHC.とモリナ・ファミリーとの密約によってエネケン価格は低く抑えられた。
そして一般のプランターは、IHC.の背景にしたモリナ・ファミリーに金融的に従属していき、エネケンを買いたたかれた。そのためのコスト削減のために労働力の搾取強化でカバーしようとしたところに、プランテーションで働くマヤ奴隷たちの悲劇があった。 』
・・・

奴隷解放と言うひとつの「因縁切り」に見える姿は、実は、新たなる奴隷制を生んでいた。

 1863年 おやさま 金融業者の因縁を持つ安堵村飯田家をおたすけに。
     ←→
 1863年 アメリカ奴隷解放宣言。

こちらを表としてみれば、
 中山秀司  宗教家業の悪いんねんへの「復古」。
     ←→
 マヤの奴隷制の「復古」。

おやさまの、「鏡のごとく映る」という思想は、「奴隷制度」の復古という人類史的悪いんねんにおいても、貫かれていました。

明治維新は「王政復古」。つまり、宗教が人を統治した時代への「復古」でした。
その「復古そのもの」を、中山家で明治六年、「大教宣布」の宣伝の旗振りをした中山秀司さんは、当時のアメリカの支配下に民族を奴隷に売った、ユカタン地元のエネケン産業人の姿そのものでした。<> 基本。<><>2006/12/14(木) 20:13:06 ID:<>宗教家業の悪いんねんの道にはまった、応法の秀司先生については、明治2年に、中山家の敷地内の建物に入り込んで秀司さんと内縁関係の夫婦であった、>>72
3、おちえ。(息子音治郎の母親) おやさまが、埃の者として送り出す。 お筆先一号に登場の人物。
さんの、送り出しと言う事情があります。

簡単に整理しますと、男子相続制の時代ですから、正式な結婚をしていなくとも、音治郎さんには中山家(資産家)の相続の可能性があった。
一方、2、やそ。(娘しゅうの母親) 身分違いが理由で身を引く。(中山家田地四町所有)、この人の娘の「しゅうさん」は年頃になっていた。
二三年仕込んだら、嫁に出せる年齢になっていた。
そこで、秀司とおちえは、「しゅう」を二三年花嫁修業で仕込んで、出してしまおうとした。
財産をめぐる、相続の謀略です。
言うならば、「娘しゅう」は中山家には無き者にしてしまおうという心が、「実父の秀司とまま母内妻のおちえ」さんには、あった。

そこでおやさまは、生き死にを司りますから、両親の心どおりの宣言をします。
 このこ供二ねん三ねんしこもふと
 ゆうていれども 神のてばなれ  一号六十
>>72
> そこで、おやさまは、やそさんとの娘(しゅう)さんは、一度迎え取り、死なせてから、「中山たまえ」に、生まれかわらせて、中山家を継がせています。
債務奴隷を生み育てた、かっての中山家の悪いんねんは、「長子相続」「相続争い」という、醜い悪事に染まっていたので、子供「しゅう」は、死。
そして、その醜い内縁関係を清算。
 一寸はなし 正月三十日とひをきりて、
 をくるも神の心からとて        一号三十九
明治二年、陰暦正月三十日とひをきり、内縁の妻を男子と女子と共に、中山家から送り出ししました。

 このあしハやまいとゆうているけれど
 やまいでハない神のりいふく      一号三十二
 りいふくも一寸のことでハないほどに
 つもりかさなりゆへの事なり      一号三十三
 りいふくもなにゆへなるどゆうならバ
 あくじがのかんゆへの事なり      一号三十四
 このあくじすきやかのけん事にてハ
 ふしんのしやまになるとこそしれ    一号三十五
 このあくじなんぼしぶといものやとて
 神がせめきりのけてみせるで      一号三六

> 3、おちえさんとの息子は1858年に生まれています。
> 丁度、おちえさんとの関係が深まったとみなされる1857年には、
>  1857、信者がはじめて米四合を持ってお礼参り。
と、あります。
> 中山秀司さんが、「宗教家業」に足を踏み間違う、その伏線が、「信者のお供え」の開始の頃に、
> 「色情因縁」の深まりを見せたという姿で、中山家には、起きていたと言う事です。
そして、その色情因縁は、財産相続を巡る様相をなしていた。

中山家の悪事とは、『債務奴隷生み出しの因縁』
そして、『宗教を利しての経済行為』
それこそが、中山秀司の悪事。

いのちのやり取りをもって、整理清算し、身分低き「娘しゅう」を、中山家の跡継ぎたる「中山たまえ」として迎えた、おやさまの思想には、差別なき社会しか在りません。<> 普通の天理教徒。<><>2006/12/15(金) 10:17:45 ID:<>>>74
基本さんは、正月二十六日の事を126と書き現すなどして、例えば126年目に神の掃除があるとか、書かれていますが、
http://religion.bbs.thebbs.jp/1163859118/e40  の[264]にありますが、
それに、真似すると、正月三十日は、130と書き表せます。

この、「正月三十日」と日を切って送る」というのも、予言になるのでしょうか。

<> 基本。<><>2006/12/15(金) 10:18:43 ID:<>>>75
普通の天理教徒さん。
ご承知のように、おやさまの思想は、見えない先から説くと言うことにあります。
又、それまでの年数の記録と言う意味もあります。

> 正月三十日は、130と書き表せます。
その通りです。

そこで、130を、十三年と理解しますと、「正月三十日と日を切りて」は、どんな出来事からの十三年かといいますと、年表では >>60 、
日付を漏らしたかもしれませんが、1858 1/23 「秀司の子音次郎出生」となっています。
すると、音次郎さんの懐妊は、1857年の四月頃です。
そこで、おちえさんと秀司さんの間で子供の宿しこみをした、1857年を1と数え始めますと、1869年が丁度、十三年目です。
又、この「正月三十日と日を切りて」をお筆先に書いたのは、1869年ですから、1869年を1と数えますと、十三年目は、1881年が丁度十三年目です。

登場人物の史実で、数理130は13年にて整理しますと、
 内縁関係の開始。   1857年  秀司とおちえ 音次郎さん宿しこみ。
 130は、13年後。 1869年  「正月三十日と日を切りて」おちえの死。
 130は、13年後。 1881年  秀司の死。
このようになります。

正月三十日と日を切って、懐妊の事実から十三年目に掃除をしました。
そして、秀司には、「悪事を払い」と教えましたが、それが払えなくて、「悪事を払え」から、十三年で秀司を掃除しました。

おちえさんを、掃除した原因は、中山家の相続人は誰かと言う問題にありました。
その点にも触れておきましょう。

1854年に、梶本家に長男亀蔵さんが誕生しています。おやさまの外孫ですが、本来の中山家の相続人・真柱になるはずの人でした。
そして、
1857年に、梶本家に次男松治郎さんが誕生していますから、この松治郎さんが梶本家の相続人と言う事です。
そして、その当時には「娘しゅう」さんは、三歳くらいです。
亀蔵さんとしゅうさんで、中山家の相続をする事に、そういう約束と事実があったわけです。

ところが、「娘しゅう」さんの母親は、身分違いを理由に中山家を去っている。

そんな所に、秀司さんはおちえさんを身ごもらせてしまった。1957年です。
おちえさんは、極貧の時代の中山家には正式に嫁がないでいた。様子を見ていたというところでしょか。
ところが、後には、10年で秀司は家業を復興し、また、宗教家業としても興隆を見せだして、すると中山家のおやさまとは別宅に入り込んで生活を開始した。
そういうおちえさんであり、現実に、男子の母親であった。
こんな状況です。

梶本家では、長男亀蔵を中山家に入れたとしますと、中山家に二人の男子になる。
そんな状況では、可愛い長男を複雑な争いの渦に簡単に入れるはずも無く、すると、1860年に亀蔵さんは死にます。
そして、1865年に、真柱の真之亮さんの誕生でした。
おちえさんの悪事とは、「地位財産目的の結婚」。
秀司さんの悪事とは、梶本家からの養子の話を知りながら、「娘しゅう」がいながら、おやさまとの別宅での生活を構築した事です。

それは、「宗教家業」で、一家を成そうと言う、応法の道につきものの、色情因縁・後継者の揉め事。
そういう、事情です。

それで、おやさまは、秀司にふさわしい因縁の女性を、寄せました。

 小東松枝さん。・・・「宗教家業の悪事の因縁の持ち主」。

生駒郡平郡地方の旧家で、父は、法隆寺斑鳩御所の名目金を貸し付けていた。

おやさまが、「前世の因縁寄せて守護する」と、仲立ちした縁談は、まさに、宗教家業からみの金貸しの悪いんねんを、見せ付けるものでした。<> 基本。<><>2006/12/15(金) 14:36:40 ID:<>おふでさきでは、一号に、小東松恵さんと中山秀司さんの結婚について、このように記されています。

 せんしよのいんねんよせてしうごふする
 これハまつだいしかとをさまる     一号74

読み方は、「前生の因縁寄せて」ですが、文字は「先処の・せんしよの」です。
この場合、松恵さんの先にいたところという意味になります。

> 小東松枝さん。・・・「宗教家業の悪事の因縁の持ち主」。
> 生駒郡平郡地方の旧家で、
> 父は、法隆寺斑鳩御所の名目金を貸し付けていた。

天理教事典にある記述をそのままに紹介しましょう。
『 「小東政太郎」 ・・・
父政吉は、農業の傍ら法隆寺斑鳩御所の名目金を地方人に貸し付けていた。
取り立ても厳しかったと言う。
政吉が亡くなった時、箱に七杯黄金が残っていたとも言う。
そのような事が理に添わなかったのか、政太郎、定次郎、仙次郎の三人はともに身持ちが悪く、特に政太郎は、乗馬二頭を買い、賭博、女遊びと、財産を浪費、没落してしまった。
教祖(おやさま)は、
「小東の家は無理してあるから、何度改革しても家がつぶれる」
と、仰せになったこともあるという。  』
(改訂版・天理教事典p354)

「法隆寺斑鳩御所の名目金を貸す」。
名目は、由緒ある法隆寺の御所の名目を用いる。
そして金貸しをして、取立てはきつい。

宗教が、歴史において、行い・行わせていたシステム。
それを、現実にしていた父親。

飯田善六という前世の高利貸に影響されて、宗教家業の応法にそまる秀司。
それに相応しい、因縁の持ち主を、おやさまは、「小東松恵」と、「秀司」に、因縁寄せての守護をした。

それから、二人は何をしたのか。
「蒸し風呂」を経営している。
「蒸し風呂」、それは、風俗業者が経営した施設である。
信者の集まりを利用して、商売しようという。
その、下働きは、誰がしていたのか。
信者たちである。
宗教家業のいんねんの道を突き進んだというしかない、二人。
おんなじ、宗教の債務奴隷生み出し因縁を持つ、金剛院に所属して、宗教家業をまい進する事は、まさに、せっかくの、家業第一に、貧のドン底からせりあがった意味を見失ったものであったと言うしかない。

それは、後の時代に、おやさまの思想を歪曲化した、宗教家業家たちの誤りに通じている。

奴隷を解放した瞬間、さらに多くの悲惨な奴隷を生み出す、正義に似ている。

おやさまは、秀司という一個人において、奴隷解放の問題は、宗教では解決できない事を、きちんと示している。
なぜなら、宗教こそ、「神の下の不平等」を生み育て、「債務奴隷」を生み育てた元凶。

「大社高山取払い」は、おやさまの思想の中心をなすものである。<> 普通の天理教徒。<><>2006/12/16(土) 04:07:15 ID:<>>>78
ここでは、宗教を絡めないで、おやさまの教えについて語ると言うことですが、今まで普通の天理教徒は、おやさまの説かれた「かぐらつとめ」と言うのは、「特別な魂の人十人」が、神様により選ばれて引き寄せられて、おつとめするものだとばかりに、教えられていましたが、そう言う、「選ばれた」と言う思想は、おやさまの思想ではなく、おやさまの教えを宗教として利用する「宗教家の先生たち」の宗教の教えだったと言うことでしょうか。

ぢばの理につきましても、「理の無い者には、猫に小判のようなもので、ぢばの尊さが分からない」と言うような教えを、有名な天理教の先生の本で読んだことがあります。
そんな「尊いぢば」を囲んでの「かぐらつとめ」は、十人の、魂の徳ある選ばれたおつとめ人衆が、清らかな誠の心で、おつとめするもので、その心を受け取られて、親神様が不思議なご守護を下さるのだと、信じていました。

ところが、基本さんは、おやさまが「ぢば」に因縁があるとしてお引き寄せになった小東家の松恵さんの事を、「魂に徳がある」どころか、「法隆寺という由緒ある宗教を利用して、金貸しをしていた」と、「悪因縁」の方から、説かれています。

天理教事典に書かれてある事実からすれば、松恵さんの因縁として、そういうものがあったと言うことは、普通の天理教徒には、教えとしてはそのようになっていますから、納得できますが、それでは、「大食天命」の「魂」のお方というものと、一致しない。
尊いぢばに相応しくない、正反対の、強欲の女性と感じるしかないのです。

そういうものなのでしょうか。
つとめの人衆というものは、もっと、心の澄みきった人を言うのではないでしょうか。

そこが、理解に苦しむところです。<> 普通の天理教徒。<><>2006/12/16(土) 05:00:35 ID:<>> つとめの人衆というものは、もっと、心の澄みきった人を言うのではないでしょうか。
>>78
おやさまの教えには、「心澄ます」という教えはありますが、「> つとめの人衆というものは、もっと、心の澄みきった人を言うのではないでしょうか。」と言う思案そのものは、正しいものとは言えないと思います。

松恵さんは、仮に「強欲」の人だったとしますと、「欲」というのは、「大食天命」様のお嫌いな埃の心使いと、おやさまは教えられています。
それならば、「埃」と言うのは、何かと言いますと「正味」に対する埃です。例えば、木の屑は木に対する埃の存在。紙屑は紙と言う正味が屑になったもので、鉄があるから鉄のサビがでる。銅があるから銅の錆が出ます。
元々に、正味のものが、埃になるのでから、「欲」の強い松恵さんの正味は、「切る」という誠と言うものです。
何の矛盾もありません。おやさまは、人の心の正味しかみません。それがおやさまの思想です。

その心の埃を掃除すると、正味が出てくる。
松恵さんが正味を出していたら、中山家の悪の宗教家業因縁は、切れていた。が、しかし、松恵さんは、「欲」の方に心を多く使ってしまって、金の亡者のようなお心でもあった。
素材としては「切る神様の理に合致した素材」、でも、現実は「欲の埃。」と、同じひとつのものでありながら、「澄むと濁る」では、まるで違ってしまった訳です。

そこで、> つとめの人衆というものは、もっと、心の澄みきった人を言うのではないでしょうか。
普通の天理教徒さんの、この考え方そのものに、宗教家的差別があります。
普通の天理教徒さんは、おふでさきで、おやさまが小東家に理をしらされた事の、『五人あるなかのににんはうちにおけ あと三人は神のひきうけ』 一号68 のお歌ですが、きっと、
内におけと言われた二人と、神の引き受けと言われた後三人と、その両者に、神の引き受けと言われた人の方が、魂に徳があるとか、素晴らしいとか、つい、考えてはいませんか。
そんな風に、考えたとしますと、神が引きうけた「松恵さん他一名」と「残り三名」の間には、魂に差があって、尊いぢばに、引き寄せられない三人は、魂が悪いと、こんな風に、理解してしまうことになります。

それでは、普通の天理教徒さん。宗教の大好きな、「差別の思想」、そのものです。

良く、見つめて見て下さい。
 五人あるなかのににんはうちにおけ
 あと三人は神のひきうけ      一号68
「うち」と言うのは、おやさまから見ての、「内」です。
お筆先は、「内の者」に書かれたもの。外の者に書いたものは「おふでさき外冊」と、言います。

「五人あるなかのににんはうちにおけ」とは、二人は、おやさまのうちに置けと言うことです。「後三人」というのは、 >>77
> 政太郎、定次郎、仙次郎の三人はともに身持ちが悪く、
この、三人の事になります。

つまり、おやさまは、松恵さんともう一人を、お屋敷のうちに求めていた。
そして、その二人が、おやさまの思想を対して、「世界ろくぢ」にいそしむなら、後の三人は、神が引き受けると言われていた。
そういう意味のお筆先でした。

このように、普通の天理教徒さん。
神様の近くにいるのが尊いという「宗教家の選民意識」は差別の意識で、そういう差別意識から、松恵さんは信者を無給でこきつかい、信者から使用料をとり、宗教で、金儲けする道にはまってしまった。奴隷産み出し因縁。
その結果として、松恵さんの里の、三人は、> 政太郎、定次郎、仙次郎の三人はともに身持ちが悪く、> 財産を浪費、没落してしまった。
となりました。
それはそうでしょう。
おやさまの近くにいて、思想を理解し、伝えるはずの者が、信者を差別し、奴隷のように扱っていては、おやさまの思想そのものの近くにいる者が狂っていては、里にいる兄弟が狂うのは当然です。

 身分違いから身を引いた女の娘「しゅう」が死んだ、その13年目に、松恵さんは、死を迎えています。神の残念でした。

おやさまの教えを説く宗教には、差別を説く悪事が混じっています。
選ばれた人というのは、いないのです。
おやさまの思想には、差別無し。です。宗教思想を除外して、おやさまの思想をそのものを見つめることです。<> 普通の天理教徒。<><>2006/12/16(土) 05:10:37 ID:<>>>79
基本さん。
名を間違えて、私の名、「普通の天理教徒」で、投稿をされてますね(笑)

基本さんの言いたいことは、今までの投稿で、もう十分に理解できています。
>>78
で、私が質問したのは、そういう差別の意識を前提にしたものではなく、基本さんのように、「悪因縁」の側から見るのではなく、おやさまの教えの本筋から見た時には、「白いんねん」と言うことですが、それで見た場合には、
> つとめの人衆というものは、もっと、心の澄みきった人を言うのではないでしょうか。
という、見方が、あるべきだと、思うのです。

現実におやさまは、埃の心をお嫌いで、誠真実をお好きであった。
それならばなんで、選ばれた松恵さんは、「欲一条」と見えるような方であったのかという、素朴な疑問です。<> 基本。<><>2006/12/16(土) 06:01:14 ID:<>>>80
> なんで、選ばれた松恵さんは、「欲一条」と見えるような方であったのかという、素朴な疑問です。
普通の天理教徒さんの、この質問にお答えしますが、
>>80 、は、本当は、基本の名で投稿すべきところ、間違えまして、お詫びします。

私は、この問題において「宗教思想の悪」と言うことに、こだわっていて、問題の本質を見えていなかったと、反省しています。
基本的に、おやさまのなさることには、全てに「理」がある。

松恵さんを選ばれたと言うことは、そこに「理」があってのことで、その理を見つめていないと言う、普通の天理教徒さんからの厳しいご指摘でした。
善悪の、悪ばかり見つめていては、おやさまの思想に反するもので、重ねて、反省をします。

松恵さんは、それでは何が一番の「はくいんねん」であったかと言いますと、夫秀司さんと一体であったと言うことです。
誤解を恐れずに言いますが、松恵さんはおやさまの思想の側に立たないで、秀司さんの側に立った。
これは、なによりも最高の「はくいんねん」です。

仮に、松恵さんが思想的におやさまの側に立ち、秀司さんと対立するような行動をする女性であったなら、夫婦の中は対立し、「お子さんは授からなかったかもしれない。」のです。
松恵さんは、いんねん寄せての守護のなかで、「夫婦」として生きたという、白因縁の持ち主でした。

それは、結婚当時の中山家を思えば、直ちに、理解されることです。
中山家には、おやさまがいた。小寒さまがいた。おしゅうさんがいた。
秀司さんの娘のおしゅうさんとは、二歳しか違わない。
自分を、嫁にと所望したおやさまと、自分の夫とは思想的な対立にある。
その中で、決断力のある松恵さんは、夫の側に立った。
「ふうふ揃うて」の側に位置した。
それは、実に強い意志。

生き神様のおやさまと、若き神の小寒さま、言上の伺いの伊蔵さん、扇の伺いの仲田儀三郎さん。あたすけ熱心な辻忠作さん。
住み込んでいる人たちは、熱心な信者、おたすけにんたち。
この信仰思想集団に入って、ただの十八の若い女房が、中山家の嫁として、めそめそしていたのでもなく、物陰に隠れていたのでもなく、彼らに伍して負けることなく、中山秀司さんの筋を通し、信仰思想に負けていない鋼の精神力。

それが、夫婦を夫婦たらしめたもの。
なによりの「はくいんねん」だったと言うこと。
付記します。

その時、その場では、数々の間違いがあったとしても、松恵さんがいて、秀司さんのひとつの役割は終わり、そして、松恵さんが死んで、真柱さんとたまえさんの時代が、やがて来ます。
「芽を出す」。
それは、大食天命様の、ご守護の理。
松恵さんは、信念を持って、夫に対する妻であったという「はくいんねん」の人でした。
そこまで、捨てきれる。素晴らしい女性です。
「若き女房」。おやさまからの最高の誉め言葉のままの女性でした。<> 基本。<><>2006/12/16(土) 06:42:07 ID:<>いんねんなら、とおらにゃならんと、おやさまの思想に示されています。
通るとすれば、思い切って、一気に通るがおやさまの思想です。
松恵さんは、実家の悪も自覚されていたであろうし、「こじまつ」にする己の悪しきも知っていたであろうと思います。

しかしそれならば、たすけを求めておやさまの思想を学ぶ弟子たちは、どうであったか。
所詮は、「たすかりたい」だけの信心なのです。

おやさまの、奴隷解放の思想・ろくぢの思想そのもののように、秀司さんが通ったような「貧のどん底」など通ろうともせず、不思議な助けの宗教家をきどっているにすぎない。
実家の父を知る松恵さんから見れば、みな似たようなもので、女房としては、夫の秀司とひとつに、中山家と、その神信心を世間的に成り立たせることしか頭になく、いずれおやさまは死ぬのだから、私たちが後に備えてと真剣に宗教家業をした。
それは、通るべき、因縁でした。

おふでさき一号は、明治2年に書かれています。
その年に、一号に続いて書かれたおふでさき二号では、
「ちゃつんで」と、八十八年後のおふかんみちが預言されていました。
ザ天理教を語る4に、その事は投稿したことがあります。引用します。
http://religion.bbs.thebbs.jp/1163859118/  247−249
『明治二年(1869年)の陰暦1月、から、八十八夜は、1870年の陰暦1月までが、一夜に相当します。
 以後、一夜二夜と数えまして、八十一夜は、1949年の陰暦1月から、1950年の陰暦1月までが、八十一夜ですから、
八十八夜は、1956年の陰暦1月から、1957年の陰暦1月までの期間です。
新暦の1956年の事でした。
この年、1956年には、おふでさきが、全教会に、下付・送付されました。
そして、毎日の「かぐらつとめ」が、ぢばで勤められました。
午後二時の「サイレンのメロディ」が「みかぐら歌」になりました。
教祖伝が、本部から公刊されました。
八十八夜の出来事でした。』

『* お払いさんのええじゃないか ←→ 立って踊る十二下り。
* 神仏判然令。神と仏の分離政策。 ←→ 南無天理王命。一体に唱える。
明治2年
*           ←→ お筆先一号。「胸のわかりた者は無い」
*           ←→ お筆先二号。「唐人がにほんの地に入る」
明治3年
* 大教宣布の詔宣布  ←→ 神楽のだし「ちょとはなし」教えられる。
明治4年
* 伊勢神宮を頂点に神社制度。

この明治の御代の始まりに、帝国主義を意図的に邁進する、その「高山」の悪意を見抜いて、教祖は、理の証拠として、お筆先二号においては、おうかんみちが到来する刻限を、茶摘みの「八十八夜」にて、予言していたのでした。

初代真柱においては、「八十八夜」にて、その準備を、
二代真柱においては「八十八夜」にて、現実の「往還道」が到来しています。

明治二年のお筆先に知らされた「高山」の掃除の問題は、我々ようぼくの、心に置くべき、大切な教えです。

明治2年に、教祖は38日間の断食をしています。
明治2年から、38年を経て、明治41年に天理教は一派独立しました。』

それは、草ばえの道に於いて、何も予言の影もない中、松恵さんのように、夫一筋の若き女房の、献身的愛があってのものであり、人は笑うけれど、人の笑いを神は楽しむ。
「名はたまえ、早く見たいとおもうなら。」との、おふでさきも、母、松恵さんがいてこそのものでした。
ありがとう。
十八才で若き女房としておやさまに招かれ、神の仲立ちで婚約された松恵さん。
大食天命さまの、魂のお方の、松恵さん。
改めまして、心より、お礼申しあげます。<> 田中じゃ<><>2006/12/17(日) 01:55:39 ID:<>教主を「親」と呼ばせるのも カルトの常套手段です。

今更こんなレベルのこと 言わせないでください。<> 基本。<><>2006/12/17(日) 03:41:56 ID:<>>>83
カルト。
『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88
引用しましょう。
『カルト(cult)は、ラテン語 colere から派生した宗教色の強い文化活動を意味する語。儀式や崇拝を意味する。』
と、あります。

この掲示板は、宗教色を排し、思想を語る主旨のものです。
今までの所、おやさまの奴隷解放の思想、特に債務奴隷解放についての思想を話題としています。
『儀式・崇拝』の意味での、カルト要素は、無いと思います。

> 教主を「親」と呼ばせるのも カルトの常套手段です。
この事は、カルトの常套手段というよりも、宗教全般の常套手段です。
カルトの識別に、教主を「親」と呼んでいるかどうかで判断すると言う方法を採用するのは、その意味では、不適切と思われます。

「はてなダイアリー」では、カルトの識別について、
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A5%EB%A5%C8
『カルトの見分け方
真理はその組織に占有されており、その組織を通してのみ知ることができると主張する。
組織を通して与えられた情報や考え方に対しては、疑ってはならない
自分の頭で考えることをしないように指導する
世界を組織と外部とに二分する世界観を持つ
白黒を常にはっきりさせる傾向が強い
外部情報に対して強い警戒感を与え、信者の情報経路に様々な制限を加える
信者に対して偏った情報、偽りの情報を提供することがしばしばある
組織から離脱した人間からの情報に接することを禁じる
家庭や社会との関わりで多くのトラブルを生じている
社会からの迫害意識を持ち、それをかえってバネにする
外部に対して正体を隠す傾向がある
生活が細部にわたって規定される
組織が信者の生活のすべてになっている
共同体内部でのみ通用する言葉を多く持っている
組織からの離脱について極度の恐怖心を与える 』
と、定義しています。

おやさまは、知識の占有もしていませんし、ここでの議論も、実年数や歴史的事実を明示して、基本的に、論を展開しています。
誰かを思想的に束縛もしていないし、情報は、共有可能であり、拒否も批判も可能です。

つまり、「おやさま」は、カルトの定義には当てはまらないというのが、基本的な、立場です。

おやさま本人の、思想の検証をしてみて、基本が思うのは、きちんとした歴史認識と、数理的な証拠主義です。
世界観のみならず、細部まで、数理にこだわり、歴史にきちんと実現させている点は、評価に値します。
おやさまと、自称している、一点は、確かにカルト的ですが、預言者としての思想は、理知的で、合理的であると、評価出来る物です。<> 基本。<><>2006/12/17(日) 04:26:59 ID:<>おやさまの思想は、社会的存在としての人間の最小の構成単位を「夫婦・親子」=「家」として定義しています。
それに対して、明治政府の思想が示した定義は、「国家=家」というものでした。
日本国民は、皆天皇陛下の子供である。
この思想は、子供は国の宝と言う言葉の意味さえも、子供は国のために奉仕せよと、言い換えてしまう、洗脳の思想でした。
>>83 >>84
田中じゃさん、
明治維新で権力を得た「高山」について、チェックを入れてみましょう。

> 真理はその組織に占有されており、その組織を通してのみ知ることができると主張する> 組織を通して与えられた情報や考え方に対しては、疑ってはならない。
> 自分の頭で考えることをしないように指導する。
> 世界を組織と外部とに二分する世界観を持つ。
> 白黒を常にはっきりさせる傾向が強い。
> 外部情報に対して強い警戒感を与え、信者の情報経路に様々な制限を加える
> 信者に対して偏った情報、偽りの情報を提供することがしばしばある
> 組織から離脱した人間からの情報に接することを禁じる
> 組織が信者の生活のすべてになっている
> 共同体内部でのみ通用する言葉を多く持っている
> 組織からの離脱について極度の恐怖心を与える 』
>
との定義と比較してみれば、

→ 明治政府の教育政策。教育勅語。伊勢神道のよる宗教思想統治。
→ 明治政府高官・外務省の外交の秘密主張。軍部の軍事秘密の主張。大本営の設立。情報操作。
→ 神国日本。

まさに、明治の「高山」の、帝国主義者こそ、国家的カルトだと、分かります。

個人の自由や、人権を踏みにじっていたという様な、小規模の圧政ではなく、国家全体が天皇制のカルトと化していた。

それに対して、おやさまは、『歴史』(月日)が、「八十八夜」で、そのカルトを掃除して、「血矢積んで」、多くの犠牲の後に、おつとめが出来ると、予言した。
それは、夫婦・親子と言う、家庭と言う単位が大切なのだと、予言と思想を、二つ同時に、明治二年に書き記したのです。
明治維新という、神道国家形成時の、情報操作の、「お払いさんが降る」、「ええじゃないか」に対して、『肉が下ると』予言した、その思想は、ずばりと、明治維新政府の本質を射抜いていたと、思います。

カルト国家、大教日本を構築し、戦争に突っ走らせたカルトの本質こそ、糾弾されるべきものです。<> 基本。<><>2006/12/17(日) 10:37:45 ID:<>明治維新は、江戸幕府の前近代的国家を、近代国家に改革しようというものでしたが、その思想的根幹には「王政復古」の思想が在りました。「神武天皇」以来の伝統的天皇制による国の近代化と言うものであり、それには、国家が一つの宗教であると言う思想統制と言う意味が在り、そればかりか、「神政政治・祭政一致」と言う国家的カルトが国民を支配統治することとなったわけです。

その、国家神道について、確認しますと、国家神道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%A5%9E%E9%81%93
『概要
江戸時代の国学者・平田篤胤の思想に共鳴した平田派の神道家たちが、明治維新の精神を神武創業の精神に基くものとし、近代日本を王政復古による祭政一致の国家とすることを提唱した為、明治政府はそれを容れて中古以来衰えていた神祇祭祀を復活させ、神道の整備を行なった。その結果として成立した神道の一形態が国家神道である。』
『神道の宗教としての側面を維持しようとする教団は、公認された一部のものが教派神道として分離され、
祭祀としての側面のみを有するものが国家神道とされた。』
『それ故、・・「その実態は、日本式唯一神教(唯一絶対の権威を戴いた宗教)という事も可能である。』・・
『古事記』、『日本書紀』等の古典を根拠として万世一系の天皇が日本を統治すること、国家の中心に存在する天皇と国民との間に伝統的な強い紐帯があることを前提に、政治的な制度とともに作られた祭祀の制度が国家神道である。』
『神道は宗教だが、国家神道は神道の祭祀の側面のみを分離したものであるとされ、宗教ではないとされた。
そして、宗教としての神道は教派神道であるとされていた。』
『大日本帝国憲法で人権の保障が「安寧秩序を妨げず及臣民たるの義務に背かざる限に於て」と規定されていたように、その活動は必ずしも無制約ではなかった。
そのため、他宗教の礼拝を否定する一神教のキリスト教徒や、神祇不拝を唱える浄土真宗門徒も、神道儀礼への不参加の自由は存在しなかった。』

このようなものが、国家神道の概要です。
具体的には、海外での植民地支配に行われた宗教政策に明らかなように、国家神道による思想統制そのものでした。
『 海外統治領下の神社建立
台湾、朝鮮、南洋諸島などの統治領には神社が建てられた。これはもともとは統治領に在留する日本人が自分たちのために建てたものであったが、統治領の民衆への精神的支配も見据えたものであった。日本統治下の朝鮮では神社参拝が強制され、現地のキリスト教徒がこれに反発するなどしたため20以上の教会が閉鎖の憂き目にあい、さらに約2000人の教徒が投獄され、そのうち50人が獄死した。』
『統治領下の神社建立にあたり、神道家らは現地の神々を祀るべきだと主張したが、政府は賛同せず、多く明治天皇、天照大神を祭神とされた。主に朝鮮神宮、台湾神社、南洋神社、関東神宮、樺太神社などが挙げられる。』

この、国家神道思想という国家的カルトが、国民を近代化に導いたと言う考え方もあります。
必要悪だった国家神道という「カルト」と、言うような考え方です。
http://www.abysshr.com/san/san_co06.html
しかしそれは、基本的には間違いです。
既に、問屋制手工業(マニュファクチュア)の経済に安定した発展をしていた日本の経済は、カルト国家の登場を本来は必要としていなかったと見るべきです。

おやさまの、中山家もその例の一つですが、幕末期には、地方の豪農などは、「産業革命」直前の段階までに経済力を高めており、それは、国家の政策介入無くとも、近代化され得たものと、基本は理解しています。

国家神道は,近代天皇制国家がつくりだした国家宗教であり,明治維新から太平洋戦争の敗戦まで八十年間,日本人を精神的に支配しつづけた。
それは、おやさまの思想、世界ろくぢに反するものとして、理解されるべきものであり、国家全体を、「カルト奴隷制」に導いていると言う事にすぎません。

国家神道は、それまでの日本の伝統の神道とは別のもの。
全体主義を日本に持ち込んだ「とふじん」の思想でした。
>>45 >>46
今日的、対米追従外交と似ています。<> 基本。<><>2006/12/17(日) 11:23:50 ID:<>>>86
国家神道と言うのは、「敗戦後の占領軍の造語」で、本来は「大教」と呼称されるべきです。その成立について、確認しますと、
http://www.e-obs.com/top/heo/heodata/n255.htm
国家神道 ( こっかしんとう)から、引用します。
『〈国家神道の確立〉慶応4年(1868)の祭政一致の方針と 神祇(じんぎ)官復興の宣布、明治3年(1871)の 大教宣布(だいきょうせんぷ)、
同5年の教部省設置等々、明治政府はその発足当初から神道国教化への布石を矢つぎばやに打ち出していた。
しかし、不平等条約の解消という重い課題を背負って、信仰の自由容認のポーズと神道国教化の本音の調整に腐心しなければならなかった。神社神道非宗教の体裁を整えつつ、 大日本帝国憲法 は「安寧秩序ヲ妨ゲズ」「臣民タルノ義務ニ背カザル限リ」という条件をつけて「信仰ノ自由」を規定した。
明治前期、 神仏分離 と並行して、官幣社 国幣社 府県社 郷社 村社 無格社という神社の格付けが行われていたが、 日清 日露戦争 を経て神社信仰は強化された。
明治39年の国庫供進金制度の発足に引き続き、府県 郡 町村も 神饌幣帛(しんせんへいはく)料を供進して行く。
宗教局が内務省から文部省に移され、神社局とも完全に分離された
大正2年(1913)には官国幣社以下神社神職奉務規則が、翌3年には官国幣社以下神社祭祀令 同祭式が公布された。
すでに、 教育勅語 戊辰詔書 の拝読も定着しつつあり、国家神道はこのころ確立したということができよう。』
と、このように、明治政府成立以前からの、「カルト集団=平田神道門下の思想集団」の発想が発展していった過程が見えてきます。
それを、そのように、きちんと見据えていたのが、おやさまです。
>>1 参照下さい。>>31 参照下さい。>>41 参照下さい。>>56 参照下さい。
なお、天理教教祖として、明治維新の思想統制に厳しく対立した事は、宗教としての事情として、
http://religion.bbs.thebbs.jp/1163859118/e40  の、[249]に、
『神仏の分離を命じた政府に対し、教祖は、厳しく、理を責めておられました。その、経過です。
慶応3年
* お払いさんのええじゃないか ←→ 立って踊る十二下り。
* 神仏判然令。神と仏の分離政策。 ←→ 南無天理王命。一体に唱える。
明治2年
*           ←→ お筆先一号。「胸のわかりた者は無い」
*           ←→ お筆先二号。「唐人がにほんの地に入る」
明治3年
* 大教宣布の詔宣布  ←→ 神楽のだし「ちょとはなし」教えられる。
明治4年
* 伊勢神宮を頂点に神社制度。

この明治の御代の始まりに、帝国主義を意図的に邁進する、その「高山」の悪意を見抜いて、教祖は、理の証拠として、お筆先二号においては、おうかんみちが到来する刻限を、茶摘みの「八十八夜」にて、予言していたのでした。』
と、整理してあります。

そのおふでさきの二号の予言ですが、この事が八十八夜の予言であることを踏まえて、ろくぢの思想として、思想の本質に迫るなら、
 上たるハ心いさんでくるほとに なんどきにくるこくけんがきた 二号2
 ちやつんであとかりとりてしもたなら あといでるのハよふきづとめや 二号3
の解釈は、このように文字が充てられます。

 上たる(権力者)は、心が、「勇む」=「武勇」で、くるので、
なんどき(災・難時)に来る時が来た。
 血矢積んで、あと刈り取りて仕舞ったなら、(八十八年後には)、天理教のつとめが出来る。

それは、宗教と言う思想を借りた、反戦勝利の大予言と言うべきものでした。明治二年、翌年の「大教宣布の見える前に」、茶摘として予言した、おやさまの思想は、「カルト=平田神道門下」の「欧米追従」とふじん思想への、警告であり、日本古来の神仏を尊ぶ一貫した批判で貫かれていると言う事です。

<> 基本。<><>2006/12/17(日) 13:44:42 ID:<>「王政復古」の思想と言うものは、「祭政一致」の思想といったいで、
>>2 国会では治まらないという、政治権力による統治で世界にろくぢを実現するものではないという、おやさまの思想に反したものです。

平田神道は、実は、「オカルト」でした。
神秘主義が取り込まれて、古事記・日本書紀と言う本来の歴史書が、宗教論理と活用されていった。
それが、祭政一致で、明治政府に利用された。
ここが、重大な問題点でした。
オカルト。
それにたいして、おやさまは、予言を、「理」として用いているわけです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A9%E5%8F%A4%E7%A5%9E%E9%81%93
『復古神道において大きな役割を果たしたのが国学者の平田篤胤である。彼は法華宗や密教、キリスト教などの他宗教や神仙道を取り入れた「平田派国学」を大成させた。この平田派国学の流れから後に川面凡児や出口王仁三郎といった宗教家が多く誕生してくる。』

神秘心霊主義の平田国学。だったと言う事です。
「おはらいさん」と言う神秘。神風と言う神秘。その虚構。
日本人の心を、間違わせました。<> 基本。<><>2006/12/17(日) 16:28:22 ID:<>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%B0%E7%AF%A4%E8%83%A4
『平田 篤胤(ひらた あつたね、安永5年8月24日(1776年10月6日) - 天保14年閏9月11日(1843年11月2日))は、江戸時代後期の国学者・神道家。秋田久保田の城下なる下谷地町に佐竹家の藩士大和田清兵衛の子息として生誕す。幼名正吉。寛政2年元服してからは胤行と名乗り、享和年間以降は篤胤と称す。号は気吹舎(いぶきのや)、家號を真菅乃屋(ますげのや)。医者としては、玄琢を使っている。死後、神霊能真柱大人(かむたま の みはしら の うし)の名を白川家より贈られている。

秋田藩士の四男として生まれ、成人してから備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となる。本居宣長らの後を引き継ぐ形で儒教・仏教と習合した神道を批判し、やがてその思想は水戸学同様尊皇攘夷の支柱となり、倒幕後の明治維新変革期の原動力ともなった。その思想は後の神仏分離や廃仏毀釈にも影響を与えた。又篤胤は机上の文献研究を超えた独自の神学を打ち立て、国学に新たな流れをもたらした。神や異界の存在に大きな興味を示し、死後の魂の行方と救済をその学説の中心に据えた。また、篤胤の独自の宗教観に基づき、当時としては珍しく仏教・儒教・道教・蘭学・キリスト教など、さまざまな宗教も進んで研究分析し八家の学と自ら称していたようで、ラテン語やキリスト教の教義まで吸収していたようである。関心は広く、暦学・易学・軍学などにも精通していた。』

『篤胤の学説は学者や有識者にのみ向けられたのではなく、庶民大衆にも向けられた。一般大衆向けの大意ものを講談風に口述し弟子達に筆記させており、後に製本して出版している。これらの出版物は町人・豪農層の人々にも支持を得て、やがて国学思想の普及に多大の貢献をする事になる。庶民層に彼の学説が受け入れられたことは、土俗的民俗的な志向を包含する彼の思想が庶民たちに受け入れられやすかったことも示している。特に伊那の平田学派の存在は有名である。後に信濃の文学者島崎藤村は『夜明け前』と言う作品の中で平田学派について詳細に述べている。』

『宣長没後2年経った1803年(享和3年)になって、本居宣長のことを初めて知ったようである。没後の門人として加わるために本居春庭に宛てた書簡によると、夢に宣長が現れて、そこで師弟関係を結んだと述べている。自分と宣長は特別な関係にあることを主張したかったのだろう。また、のちの伝記によると、1801年(享和元年)に本居宣長のことを知り、その門下に加わろうとするが、同年に宣長は没し、没後の門人としてその名を鈴屋塾に置いたということになっている。生きている間に宣長のことを篤胤が知ったということにしたのは、平田篤胤の学派を国学の正統として位置付けるために行なわれた後世の改竄だろうという。』

長く引用したが、『夢に宣長が現れて、そこで師弟関係を結んだ』。
これはまさに、オカルトの世界である。

もう少し、その神秘主義をみておくと、<> 基本。<><>2006/12/17(日) 16:52:52 ID:<>>>89
引用の続きを紹介する。
『 幽冥論
篤胤は、学問をするにはまず何よりも自らの死後の魂の行方を知らなければならないと言い切った。そうして心の安定を得ることによって、初めて学問に向き合うことができるとした。

本居宣長は、古典に照らして、人の魂はその死後、黄泉国に行くと考えた。黄泉の国はきたなき悪しき国であり、そのことは逃れようのないことで、だから死ぬことほど悲しいことはないと述べた。悲しいものは悲しいのであり、その現実をそのまま受け入れるべきだと説いた。
本居宣長の門人で、平田篤胤にも大きな影響を与えた服部中庸も同様に死者の魂は黄泉国に行くとした。ただし、中庸は黄泉国は空に浮かぶ月のことであり、その世界は須佐之男命(月読命と同神だという)が治めていると考えた。

一方、篤胤は、他の学者のように他界は現世とは切り離された全く別のところにあるとは考えなかった。黄泉の国の存在は認めたが、死者の国ではないとした。篤胤は、現実行なわれている習俗などから類推して、死者の魂は、死者の世界に行くが、その異界は現世のありとあらゆる場所に偏在しているとした。神々が神社に鎮座しているように、死者の魂は墓上に留まるものだと考えた。現世からはその幽界をみることはできないが、死者の魂はこの世から離れても、人々の身近なところにある幽界におり、そこから現世のことをみているという。彼らは祭祀を通じて生者と交流し、永遠に近親者・縁者を見守って行くのだとした。
これは近代以降、民俗学が明らかにした日本の伝統的な他界観に非常に近いものであるといえる。逆に言えば、民俗学は、国学の影響を強く受けているということでもある。

篤胤によれば幽界は、大国主命が司る世界だという。大国主命は死者の魂を審判し、その現世での功罪に応じて褒賞懲罰を課すとしている。ただし、その死者が受ける懲罰について、篤胤は具体的なことは述べていない。これは、篤胤の関心があくまで、この世における人生の不合理性をどのように解決・救済していくかにあったのであって、為政者が望むような倫理的な規範の遵守を人々に説くものではなかったことを示している。
この大国主命の幽冥界主宰神説は、篤胤以降復古神道の基本的な教義となった。近代以降の神道および政教関係を大きく方向付けることとなった1881年(明治14年)の祭神論争の出雲派の敗北で、公的には否定されるが、現在でも多くの神道系宗教で受け入れられている。
幽冥界の全体の主宰神は大国主であるが、各地のことはその土地の国魂神、一宮の神や産土神・氏神が司るとした。この発想は六人部是香に受け継がれ、発展させている。

現世は仮の世であり、死後の世界にこそ本当の世界であるとした。これはキリスト教の影響である。もちろん、篤胤にとっては、キリスト教の教典も、『古事記』や仏典などと同じように古の教えを伝える古伝のひとつとして見ていたのである。』

明らかに、神秘思想かであることは、間違いがない。

「神は幽冥とおもうなよ。」

おやさまの弟子の本席・伊蔵がつたえたおやさまの思想である。


この平田国学と言う神秘主義的尊王思想は、幕末のマニュファクチュアの担い手になっていた、各地の豪農に爆発的に受け入れられた。
それは、江戸幕府の閉塞した身分制度と経済活動の自由を束縛する封建制度を打破したいと言う、経済の側からの要求が、変革を求める富農層の側にあり、仏教の下に位置付けられた神道の神職の不満に応じ、死後の極楽往生を保障する仏教思想に成り代わるものとして受け入れられたと、みなすことが出来る。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)が語るように、キリスト教的要素をも取り入れて、編み出された、オカルト。
日本の伝統とは異なる、異学。

それが、政治と言う現実を支配した点に、「カルト国家誕生」の、元がありました。


<> 基本。<><>2006/12/18(月) 02:37:39 ID:<>和魂洋才というのが、明治の近代化のうたい文句でした。

門弟に吉田松陰、小林虎三郎、勝海舟、河井継之助、坂本龍馬、橋本左内、加藤弘之らがいた、佐久間 象山は、洋学の第一人者として高く評価された人物であるが、日本に洋学の技術をもたらすことを第一義に考えていた「和魂洋才」の元祖的な人物と言えます。
吉田松陰が投獄されたのも渡米しようとしたからですが、吉田松陰の説いた思想は、「一君万民論」です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0  から引用します。
『松陰は「天下は一人の天下」と主張して、明倫館の山県太華と論争を行っている。「一人の天下」という事は、国家は天皇が支配するものという意味であり、天皇の下に万民は平等になる。一種の擬似平等主義であり、幕府(ひいては藩主)の権威を否定する過激な思想であった。』
松蔭の師の佐久間 象山は、『西洋の学問・歴史そのものに大きな関心を抱くようになった。 特にピョートル大帝とナポレオンの優れた業績に感嘆し、その手法を日本でいかに取り入れるか模索した。』人物です。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を引用します。
『ピョートル1世(Пётр I Вели&#769;кий、Pyotr I Alekseevich、1671年6月9日 - 1725年2月8日)は、ロマノフ朝の5代目(在位1682年 - 1725年)。モスクワ大公で、初代ロシア皇帝(インペラートル)。 アレクセイ・ミハイロヴィチの子。その歴史的存在感と2mを超す体躯から、ピョートル大帝とも称される。妻、エヴドキア。後妻、エカチェリーナ1世。』
『3歳で父を亡くし、1682年に病弱な兄フョードル3世の死去の跡を継いで、異母兄のイヴァン5世とともにロシア皇帝の座に就いた。はじめ摂政の異母姉ソフィア・アレクセーエヴナの専横を許していたが、次第に宮廷内で支持者を獲得していくと、1689年にソフィア派を宮廷から追放することに成功した。ピョートル1世は同年イヴァン5世を廃位して単独統治を開始した。』

『ピョートル1世は1696年にロシア海軍を創設すると、オスマン帝国からアゾフ海の制海権を奪って黒海への出口を確保した。1700年に大外交使節団を編成して西欧諸国を視察し、先進技術を修得させ軍の近代化を進めた。1721年に、正式に皇帝(インペラートル)となった。』

つまり、佐久間象山とそのの門下生は、和製の「皇帝」による「天下は一人の天下」を創ろうとしていたということが分かります。

近代化に遅れたロシアは、追いつくために、「皇帝」に権力を集中させて、西欧諸国から先端技術を学び取り、軍事力による覇権行動に参入した、それを日本にて、行おうというのが、開国を唱えた尊王家の本音であったということになります。

この、国家の近代化を求める和魂洋才の思想が、一方の和魂と言う、その「魂」の思想問題の拠り所に、平田国学の神秘思想を採用していたと言うことが、「カルト国家」誕生の背骨にあたります。

例えば、吉田松陰は、
『獄中にて遺書として門弟達に向けて「留魂録」を書き残す。』
『その冒頭に記された辞世”身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂” 』
と、残していますが、日本の神道の思想には、「魂が留まる」と言う思想は、飛鳥。奈良。平安。見当たりません。
「祟りや怨霊が残る」事はあっても、高天原の神は、魂として留まらないのが、普通です。

魂が留まるというのは、平田国学が唱えた説であり、死後の世界について体系的な宗教思想を持っていなかった神道が、実は、洋学を学ぶ事によってキリスト教の思想を取り込むなどして、日本古来ではない、唐人の異説に変貌していたことを意味しています。

『その冒頭に記された辞世”身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂” 』

この大和魂が、実は、唐人の説にままにされていたものだったとという事実は、おやさま以外、誰一人も見抜いていなかった。
日本人は、天孫降臨の子孫として、天皇一人のための国家の下僕であるという、カルトは、熱狂的なナショナリストの吉田松陰や坂本竜馬の命がけの改革運動として、打ち出され、そこに、洋学と言う実学の果実があり、国民は、大教宣布を、世直しとして、何の疑いも無く受け入れていった。

おやさまの、心配されたことは、まさに「とふじん」が「にほん」をままにするという、幕末期の、カルトの問題であったと言うことです。<> 基本。<><>2006/12/18(月) 10:29:34 ID:<>アメリカは、植民地でした。
それも、イギリス本国と宗教的に対立する思想の人々が中心となってのものでした。
「世界史講義」によれば、このようなものでした。
http://members.jcom.home.ne.jp/spu/034.htm
「[1]植民地アメリカ
 コロンブスのアメリカ発見以後、中南米地域はほとんどスペインによって征服され、その植民地となったが、北アメリカの場合は状況が異なり、スペイン人以外にもフランス人やオランダ人、イギリス人などの冒険者たちが黄金を求めて出入りしていた。それらのなかで、徐々に有力な地位を築いていったのがイギリス人たちであった。 」
「エリザベス1世の時代に初めてヴァージニア植民地の建設が試みられたが、これは失敗に終わり、ついでジェームズ1世の時代になってヴァージニア会社の手によってヴァージニアにジェームズタウンが建設された(1607年)。その後この植民地では、インディアンたちが煙草を栽培しているのにならってイギリス人も煙草の栽培を始め、これをイギリス本国に輸出して利益をあげるようになり、女たちも入植し、黒人奴隷も運ばれて、農業植民地として繁栄するようになった。 」
「 ヴァージニア植民地の成功に刺激され、新大陸に希望をもってわたる人々が増加した。
イギリス国教会に服従を拒否して迫害されていたカルヴィン派(分離派)の人々が、1620年、メイフラワー号で新大陸にわたり、建設したのがプリマス植民地である。
「1629年には、イギリス国教会に服従するがその妥協的性格を嫌うカルヴィン派(ピューリタン)たちが新大陸にわたり、プリマス植民地に隣接してマサチューセッツ植民地を建設した。のちに両者は合併する。 」
「 国教会に不満のカトリック教徒も、1634年メリーランド植民地を建設した。
 クウェーカー教徒たちが1682年に建設したのがペンシルヴァニア植民地である。 」
「 また、イギリスは1664年、オランダの植民地であったニューネーデルランド(中心はニューアムステルダム)を奪い、ここをイギリス植民地ニューヨークとした。 」
「 1733年には、イギリスの慈善事業家が貧民救済のためにジョージア植民地を建設したが、これまでに北アメリカ東部には13のイギリス植民地が成立した。 」
「 イギリス植民地の北西に拡がる広大な地域はフランス植民地であったが、イギリスとフランスは北アメリカの植民地をめぐって長く抗争した。ヨーロッパでプロシアとオーストリアが七年戦争(1756〜63)を戦った時、イギリスはプロシアに味方し、フランスはオーストリアに味方して争った。この英仏間の抗争はイギリスの勝利におわり、パリ条約(1763)によって、イギリスはフランス植民地の大部分を獲得し、植民地の争奪をめぐるイギリスの勝利が確定した。 」

本国は、「イギリス国教会」。
植民地は、「不満のカトリック」「不満のカルビン派・清教徒」

宗教が、神の下の不平等を生み、差別と奴隷を拡大した歴史は、紛れもない現実です。<> 基本。<><>2006/12/18(月) 10:54:09 ID:<>世界の先進国は、みな宗教を信仰している。
それなのに、日本人には無宗教が多い。日曜日に教会に参拝にも行かない。・・・

これは、日本古来の伝統からすれば極めて自然なことでした。

聖書の思想は、差別であり、債務奴隷を肯定している。神に身を捧げると言う思想は、西洋の思想。
天然の自然の神と共に生きると言うのが、日本古来の思想。

日本には、宗教教育が無いために「道徳」教育が出来ていない。
明治政府が「教育勅語」を教育現場に押し付けたのは、キリスト教に代わるものとして、「大教=天皇教」を思想統制の武器に用いていたなによりの証拠となっています。
内容は、儒教的道徳ですが、学童全員に暗誦させるという方法は、洗脳意図の方法と言うより無く、是非の問題よりも、道徳そのものの価値をかえって見えなくさせたものといえます。

明治維新の思想リーダーは、キリスト教国家の「皇帝」の権力の拠り所が『唯一の神』より与えられた王権にあることの、絶大な効果を知っていて、利用したものと見えます。

>>92
植民地・アメリカを支配した本国は、「イギリス国教会」。
イギリス国教会の成立 をみますと、
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/kindai/13-kaikaku3.html
「 ヘンリ8世は、初めは熱心なカトリック教徒で、ルターの宗教改革がおこるとそれに反対する論文を発表し、教皇から「信仰の擁護者」という称号を受けるほどであった。 」
「 しかし、その後ヘンリ8世は王妃キャサリン(カザリン)との離婚を教皇に願い出たが、教皇が認めなかったために教皇と対立するようになった。 」
「  ヘンリ8世はキャサリンとの離婚を強行し、アン=ブーリンと再婚し(1533)、イギリス国民の間に強かった反ローマ教会の機運を利用してローマ教会からの独立を決意した。 」
「 ローマ教皇はヘンリ8世を破門に処したが、ヘンリ8世は議会の支持のもとに、1534年に首長法(首長令)を発し、
 イギリス国王がイギリス国教会の唯一・最高の首長であると宣言し、イギリス国教会をローマ教会から分離・独立させた。」
「 このようにイギリスの宗教改革は、ルターやカルヴァンの宗教改革のように教義をめぐる宗教的動機からでなく、
中央集権化をはかるヘンリ8世が、ローマ教会からの分離・独立と修道院財産を没収して王室財政の強化をはかるという政治的・経済的動機からおこしたということが特色である、」

権力は、神に与えられてこそ「強権」になる。
そこに、西欧の宗教の存在意義と理由があった。

維新の「とふじん」は、絶対的な「皇帝」に「天皇」をしたてる事で、日本の西欧化をもくろみ、謀略の中、成功したという事になる。
<> 基本。<><>2006/12/18(月) 13:03:46 ID:<>おやさまの思想に、「裏守護」という思想があります。
それは、例えば、「なむあみだぶつ」と言うのは、

な→くにとこたちの命 む→おもたるの命 あ→くにさつち命 み→つきよみ命 だ→くもよみ命 ぶ→かしこね命 つ→たいしょく天命

このように、仏教での、「南無阿弥陀仏」の裏の道として、実は、天理王命の守護の理が裏にあったのだという思想です。

当然ながら、おやさまの思想には「死後の世界」はありませんから、平田神道のような「黄泉の国」と言う思想はありません。
しかし、裏守護として、仏教思想・神道思想・庶民の信仰にいたるまで、現実の生活の中での、真理の世界を裏から教えてきたというのが、おやさまの思想です。
その、日本古来の思想にもなく、おやさまの思想にも無いものが、「黄泉の国」の思想であり、「地獄極楽」の思想、「天国」の思想。
これらが、説話としての比ゆではなく、「実在する」として語られるとき、それは、「とふじん」の説という事になります。
「幽冥の神」を語るという事は、しかもその幽冥の神に現実の政権を任せるという事は、まさに、とふじんが日本をままにする姿。
民間伝承の信心を、ことごとく根絶やしにしようとした、「唐人」は、「和魂」と言う名の、「洋魂」を宣布していたと言う事です。

皇帝ナポレオンを崇拝し、見習おうとした佐久間象山先生と、その弟子たちハ、そのカルトゆえの狂信ぶりに、日本の維新をかけ抜けたと言う事です。
おやさまは、必ずくっきりと、対立軸を示しています。<> 三十三天慶大使<><>2006/12/19(火) 02:36:16 ID:<>okusama
[0]服部エンタープライズ社長 06/12/02 00:29 *vOys31uzjgw*cw6YpRxRwj<> 基本。<><>2006/12/19(火) 05:11:41 ID:<>アメリカに植民地の地位を強要していた英国は、当時、「王権神授説」の国です。
イングランド国教会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 引用します。

『1603年に即位したジェームズ1世は強く国教会派を支持、また王権神授説を唱えて国王の絶対性を主張したため、プロテスタント諸派から反感を持たれたが、一方で欽定訳聖書の出版を指示するなど、宗教的な貢献も大きかった。チャールズ1世の治世では国教会派をスコットランドにも教化しようとしたために、反発した人々の手によって清教徒革命が勃発し、敗れたチャールズ1世は1649年に処刑された。』
『しかしその後、王政復古や名誉革命を経て、かえって国教会主流派の地位は強化された。』

王権神授説とは、キリスト教の教えそのものを、元にしています。

同じく引用です。
『王権神授説 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『王権神授説(おうけんしんじゅせつ)は、王権は神から付与されたと考える政治思想である。ヨーロッパの絶対王政期における理論的根拠となる。』
『ヨーロッパの思想家ボシュエ(Jacques-B&eacute;nigne Bossuet)がルイ14世の王太子に講義した一節に端的にあらわれる思想である。』
『その内容は、新約聖書「ローマ人への手紙」13章を根拠として考えられている。』
『概要は「(キリスト教国の)地上の王権は、全て神の代理としての権限が与えられている。」というものであった。』
『今日ではイギリス王室の戴冠式において。新国王に聖油をつける儀式などにその名残が見受けられる。』

つまり、キリスト教の教えに基づいて、国王は神から絶対的な権力を授与されたという、思想であり、「宗教」と「高山」の密着した関係を、まざまざと見せています。

王権神授説の思想的根拠となった、ものを、見つめるために、ここで、
新約聖書(口語訳)1954 Input by M.Kato さんの口語訳を参照します。
「ローマ人への手紙」
『第一三章
1301> すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、神によって立てられたものだからである。
1302> したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむく者である。そむく者は、自分の身にさばきを招くことになる。』

「上に立つ権威」は、神によるものである。

この、王権神授説と、イギリス国教会のキリスト教。
アメリカという植民地を統治した権力の「とふじん」の思想であった。

「聖書」ローマ人への手紙には、次のような、教えも記されている。
『第一二章
1201> 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。』
神に体を捧げるという思想が、「とふじん」の思想として説かれている。

イエス・キリストがといたのではなく、弟子のパウロが説いて、ローマ教会が認知した。
イエス・キリストを悲しませるような、文言である。


<> 基本。<><>2006/12/19(火) 05:34:48 ID:<>>>91
> 門弟に吉田松陰、小林虎三郎、勝海舟、河井継之助、坂本龍馬、橋本左内、加藤弘之らがいた、佐久間 象山は、
> 洋学の第一人者として高く評価された人物であるが、日本に洋学の技術をもたらすことを第一義に考えていた「和魂洋才」の元祖的な人物と言えます。
> 吉田松陰が投獄されたのも渡米しようとしたからですが、吉田松陰の説いた思想は、「一君万民論」です。
>>95
> 皇帝ナポレオンを崇拝し、見習おうとした佐久間象山先生と、その弟子たちハ、そのカルトゆえの狂信ぶりに、日本の維新をかけ抜けたと言う事です。

佐久間象山と、その思想を受け継ぐものが理想としたものは、ナポレオンの統治でした。明治政府とナポレオン、政策はまさに、模倣です。

ナポレオン・ボナパルト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』引用します。

『内政面でも諸改革を行った。
全国的な税制制度、行政制度の整備を進めると同時に革命期に壊滅的な打撃をうけた工業生産力の回復をはじめ産業全般の振興に力をそそいだ。1800年にはフランス銀行を設立し経済の安定をはかった。1802年には有名なレジオン・ドヌール勲章を創設した。また、教育改革にも尽力し「公共教育法」を制定してもいる。さらには国内の法整備にも取り組み1804年には「フランス民法典」、いわゆるナポレオン法典を制定した。これは各地に残っていた種々の慣習法、封建法を統一した初の本格的な民法典で「万人の法の前の平等」「国家の世俗性」「信教の自由」「経済活動の自由」等の近代的な価値観を取り入れた画期的なものであった。他にも教育・交通網の整備にも尽力している。』

この、「とふじん」の思想の根底には、人間に対する「上」による支配は、「神の与えた権利」という、王権神授の思想がしっかりと息していて、ナポレオンは、「統領」として、施策し、自ら「皇帝」の座に着いています。

日本の近代化において、西欧社会のキリスト教という支配論理のかわりに「大教=神道」をすえかえて、「天皇一人の下の不平等」を説いた吉田松陰は、その天皇を、神として、王政復古する思想を説いていた点で、「大和魂」を、「唐人思想」に置き換えた過ちをしていたわけです。<> 基本。<><>2006/12/19(火) 05:46:51 ID:<>>>97
訂正します。
> 、「天皇一人の下の不平等」を説いた吉田松陰は、その天皇を、神として、王政復古する思想を説いていた

訂正です。
吉田松陰は「天皇一人の下の不平等」を説いていた、は誤りで、「天皇一人の下の平等」を説いていた、に訂正します。

西欧での「法の下の平等」の、裏側には、キリスト教思想があり、「法」の権威は「神」が授与したという、思想があります。
日本では、皇上が神そのものですから、権威の重さが違う、効果絶大でした。
それだから、現在の国会も、天皇による開会宣言という「権威」の形を保持しています。
実は、天皇も皇女も皇子も、一列は兄弟である。

おやさまは、「とふじん」の思想に対し、厳しく対峙しています。<> 基本。<><>2006/12/19(火) 12:47:45 ID:<>おやさまの思想に無理解であった、明治の当時の(いわゆる)高弟たちと、維新思想との関係の事も、視野に入れておかねばなりません。

おやさまが、「六ヶ敷き事」と予言した、天理教会の設立の、おやさまとの関係は明治政府に公許を願う行為そのものですから、それは、断固おやさまの許すところではなかった。
真柱の真之亮との問答の中で、既に、「六ヶ敷き事」であり、予言の中の事であると示しているのは、おやさまの思想とは純粋に言うなら反したものであるというしかないが、泥海中からの始まりとしては、元の理のままに、実現すると言う思想を示されたものと、基本的には理解されます。
>>59
> 「三日三夜」 M18.4.29 天理教会結収願い提出。天理の呼称初使用。 > →「三年三月」 M21.7.23 天理教会本部、ぢばに。> →「むまれだし=約280日」 M22.5 神道三等教会に昇格。> →「五分=五年」 M27.6.29 神道本局の普請にて、初代真柱責任者に。> →「五分=五年」 M32.5.21 神道本局管長より一派独立のすすめり。> →「三度・・。=9年9月」 M42.2.19 天理教独立報告祭。

この、天理教会設立の最初の時、最も貢献した信者集団は、「神戸」、その中でも清水与之助という人物でした。
清水与之助氏は、幕末期には「勤皇維新思想」の持ち主であった。そして、自身、実業家でもあった。
高野友治著・「清水与之助伝考」によれば、天理教の公認手続きの方法を指導した人物と描かれている。

その中、維新思想の人物との交流が描かれている。その相手は、「丸山作楽」という人物である。
引用しよう。
『清水与之助は、同行の誰にも言わないで一人で丸山左楽をたずねた・・・』
『清水与之助は礼を厚うして丸山作楽に面会を求めた。』

丸山作楽。
天理教の公認に協力してくれたであろう人物として、高野友治さんが、清水与之助氏との交流を著作に残した、この人物は、「平田神道」 >>89 の門下生であり、後には朝鮮に、神道の教会を設立していく活動を推進し、それに賛同した清水与之助氏が、天理教を離れて、駆けつけようとした人物。
清水与之助氏の、かっての主家筋にあたる人物といわれています。

http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/p_nihonsi/episodo/151_200/182_02.htm
その政治思想は、明治15年の「立憲帝政党」設立の顧問である事から、理解されます。
 3月18日、福地源一郎・丸山作楽らは、立憲帝政党を組織しました。
 立憲帝政党の政策は、国粋主義で、国会は二院制、主権在君を主張。選挙権に制限を加えるという主張で、支持層は「官僚・神官・僧侶・国学者 」。
その、設立の大立者と言う事です。

丸山作楽の思想を知るには、「国家神道の真実」も参考になります。
http://asyura.com/0411/idletalk12/msg/586.html
『一方で神道側からも「神道非宗教論」が登場する。これは丸山作楽などが、当時の伊勢神宮の田中頼庸と出雲大社の千家尊福との間で起こった、神道事務局の神殿に奉祀する神に、大国主命を合祀するかでの論争から、出雲大社が一宗教として分離するに至った経緯などを憂えて、神道の国家的地位を保つべく提唱したのだ。丸山の「神道非宗教論」は島地のものとは異なり、神道は他宗教より上位に位置するとのものだった。この論争の調停に腐心した山田顕義が内務卿となると、政府の方針として「神道非宗教論」を進めてゆく。明治17年、神官は非宗教人とされ、「公人」の立場で神道宗教の活動をする余地を失ったが、府県社以下の神官が国家的な立場ではなしに神道式の葬式や宗教活動を行う事は、内務省通達の但し書きで認められ、法令違反とはならなかった。山田は吉田松陰の影響下にある人物で、皇典講究所の創立に尽力した実績もあるので、神道人からの反発を最小限に抑え得た。また、山田は神道が他宗教を非難するのを、宗教的であるとの理由で嫌った経緯もある。 』<> 基本。<><>2006/12/19(火) 13:39:04 ID:<>>>99
丸山作楽さんの全体の人物像は、以下を引用します。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/e_meijiishin/jinbutsu/maruyamasakura/maruyamasakura.htm
『丸 山 作 楽
(江戸島原藩校明親館句読師)天保11年(1840)10月3日〜明治32年(1899)8月19日
 幼くして肉親と死別した天涯孤独の身で、漢学・国学・蘭学に通じ、とくに国学は平田銕胤に受け、その学統の継承者として自他とも許していた。
 島原藩にあっては勤王派の首領に推され、やがて神習処塾を設け、諸国の志士と交わっては大政復古の実現に奔走し,藩庁に忌まれて先魁の獄に投じられた。明治維新御、長崎の広運館和学局長に選ばれ、翌2年東京に召され神祗官権判事に任じ、集議院下局次長に進み、外務大丞に転じ、樺太に使して露使と折衝、帰朝後朝鮮経路を唱えて4年捕えられ、13年1月の特赦まで約10年長崎県高島に幽囚された。
 出獄した翌年、自由民権論に対抗して忠愛社を設け、「明治日報」を刊行し、さらに15年には福地桜痴らと帝政党を結成して、極端な革命・急進論と戦った。19年宮内省図書頭となり、翌年海江田信義らと渡欧、オーストリアのスタインから憲法学説を聴き、わが帝室制度制定に資した。23年元老院議官、ついで貴族院議員に選ばれた。また仮名文字論者・万葉歌人として有名で、成城学校・日本体育会の創立など、その事蹟は広く多方面にわたっている。
年60没  参考資料:日本歴史学会編「明治維新人名辞典」』

この丸山作楽に、おやさまの弟子のひとりであった清水与之助が、天理教会公認への協力を要請していたという事、以後も交流を続けて、朝鮮の神社を建てにいきたいと、熱望したこと、
これらから分かるのは、おやさまの弟子たちの中で、天理教会信仰をまい進した弟子たちの思想は、実は、「とふじん」の思想であったという事です。

例えば、茨木基敬という、いち早く神道の教導職の資格を得て、宗教家業にまい進した弟子は、説くところは、「復古神道としての天理教」であり、それが時代に迎合していたことから、信者の獲得に大成功しています。
まさに、おやさまの見ていた、「世界ろくぢ」、「谷底せりあげ」、つまり「債務奴隷からの開放」思想は、天理教という組織では、明治以後、宗教の方便上、その逆向きに、「神に対する奴隷となれ」と説かれていたことになります。

>>96 「聖書」ローマ人へ手紙。
1201> あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、』
神に命を捧げるという思想が、「とふじん」の思想と言う事を識別できない、当時の日本人。そしておやさまの弟子。

おなじ因縁で、天皇のため国学のために、過激に命を捧げて生きた人物の、その生き様を信奉し、天理教の公認を依頼した、おやさまの弟子。

宗教の世界史において果たし、果たしている、「権力保持」という役割。搾取の道具としての宗教と宗教組織。
債務奴隷解放のための、現代の「大社・高山」取払いは、説く人とてなく、今もなお、おやさまお一人の思想にすぎないのです。
思い知らされます。

おやさまの真の思想を、伝える弟子は、誰もいない。
今日までの、天理教と言う宗教の枠をとりさらねば、おやさまの思想は、理解できるものではないという事になります。

誰一人も、おやさまの弟子は、おやさまのたすけとは、ならなかった。宗教と言う衣の下にいることそのものが、おやさまのひながたに無いことは、明白です。<> 基本。<><>2006/12/20(水) 05:07:17 ID:<>島原市観光ガイドによれば、『 上新丁には後に元老院議官となった丸山作楽が、文久年代(1861頃)に青少年に国学を講じ、国事を論じた私塾「神習処」の跡が残っています。』
と、あります。

丸山作楽は、テロリストでもあり、活動家でもあり、歌人としては正岡子規に影響を与えたと言われている人物で、天皇への信仰は徹したものであったと言えます。

第三十一 明治初年の外交 には、丸山作樂の過激な思想行動が書き記されています。

drhnakai.hp.infoseek.co.jp/kyoukasyo/sub-book32.htm
『明治元年對馬の宗氏をして王政維新の旨を告げしめて、修交をはからしむ。然るに、朝鮮國王李熙は若年にして、その實父大院君李?應政權を握り、固く鎖國主義を執りて、いたく外人を侮り、我が歐米に親しむを嫌ひて、我が求を拒みたり。よりて、政府はしばしば使節を遣はして、彼の誤解を辨じ、鋭意修好を勸めたりしも、なほ頑として應ぜざりしかば、民間の志士はその不遜を憤り、これを責めんと主張するものあり。外務權大丞丸山作樂らも、ひそかに黨を結びて朝鮮を襲撃せんと企てしが、事あらはれて罪せられぬ。』

明治維新に影響を与えた、思想として、「水戸学」も有名です。
初めは水戸学に学んでいた吉田松陰が、後には水戸学を離れて、平田国学の尊皇活動に邁進するのも、徹底した「尊皇」思想以外に、日本を近代化する思想はないという、信念に基づくものと思われます。
水戸学は、藤田東湖が大地震で死亡し、その後は、明治維新の思想の主軸と張らず、明治政府によって解体されてしまうのは、儒教を中心においた思想が、その時には江戸幕府解体の邪魔であったと言う事です。
「明治維新」は、実は、日本を「洋化」する思想運動であり、それを、庶民に分からせないように、「大和魂」と言う名で、説いていた、維新思想の「とふじん」の、高山。
これに、欺かれていたのは、つい今までの、我々であり、
おやさまのみは、「西欧列強の、キリスト神に裏づけられた、絶対的政治権力」、その帝国主義の本質を、「大社(宗教権威)」と呼び、「大社・高山取り払い」を命じていたのです。

おやさまの弟子の伝えた、「史実」「言葉」は、大切ですが、おやさまの弟子の解説した「天理教祖」の思想なるものは、まるで小さく、まるで狭い。

おやさまは、維新に命をかけた人達の精神の高揚のはるか、高い次元で、人間の思想史をみつめ、谷底のせり上げに、「針の鍬(とんが)でおうかんの道」を、説き続けていた、百姓女でした。<> 基本。<><>2006/12/21(木) 10:01:40 ID:<>日本の維新思想に多大な影響を与えた「とふじん=西欧人」の思想。
それは、現代でも、アメリカにおいては、民意に深く根付いています。
「宗教真理アカデミー」メールマガジン005号(2005/5/3配信)
http://www.hannya.net/melmag005.htm
では、
「記事タイトル−<<8割が「処女懐胎本当」 米国民の信仰浮き彫り >>−−」
【ニューヨーク2004年12月5日共同】新約聖書のキリスト降誕の話で聖母マリアの処女懐胎を信じている人は、米国民の79%、キリスト教徒では87%に上ることが米誌ニューズウィーク(電子版)が5日報じた調査で分かった。
 反対に「信じていない」と答えたのは米国民のわずか15%で、クリスマスを目前にした季節的な調査ながらも、米国民の「信仰の深さ」があらためて浮き彫りになった。
 同誌によると、キリスト生誕を祝福するため「東方の3博士」が訪れた話など、新約聖書の話を歴史的に正しいとみている人は米国民の67%(キリスト教徒では75%)に上り、「キリスト教信仰を肯定するためにつくられた神話」との見方は24%にすぎなかった。
(共同通信) - 12月6日9時11分更新

と、このように、共同通信の記事を紹介して、「人類の始祖はアダムとエバ(イブ)なのか?−−−マリアの処女懐胎説の真偽と共に考える−−−」との記事を展開しています。

キリスト教の教会においての、「宗教洗脳」は、このように、アメリカ社会において、顕著であるという事。
それは、心に刻んでおかねばなりません。

「割礼」と言う宗教儀式があります。
割礼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を引用します。
『割礼(かつれい)とは、宗教習俗上の理由で行われるもので、性器の包皮(など)を切除すること。
「男性」に対するものと「女性」に対するものがあるが、単に割礼という場合は、少年期の男子に対して陰茎の包皮を切除するものを指す』
『ユダヤ教『創世記』(旧約聖書)17:9-14には、
アブラハムと神の永遠の契約として、男子が生まれてから8日目に割礼を行うべきことが説かれている。(ヘブライ語のBritは契約を意味するが、割礼の意味でもあるという)。ユダヤ教では、この伝統を引き継ぐ。』
『「イエスの割礼の日」 カトリックのカレンダーでは、12月25日にイエスが生まれたことになっているので、8日後に割礼を行うユダヤ人の習慣から1月1日が、キリストの割礼の日である(とされる)。』

男の子の性器の皮を幼児の内に手術して、剥けた上体にしてしまう事を「割礼」と言います。
それは、青春期の「自慰」などで「性欲」が高まる事を抑える目的とされています。
「汝姦淫するなかれ」の教えが基礎にある。
ユダヤ教の儀式として有名です。

http://www.akashi.co.jp/menue/read/read_1.htm
「ユダヤ人とマホメット教徒は、割礼の偉大な布教者だった」(『大百科事典』「割礼」の項)。とのことです。

その割礼は、現代のアメリカでも、六割が割礼していると言う状態があって、それを減少させようという運動もあるようですが、「聖書」の原理主義に基づいて行動しようとすると、「割礼」は、避けて通れない。

聖書の執筆者の一人パウロが、「ローマ人の手紙」で書いたものは、ユダヤ教からキリスト教を経由して、アメリカと言う聖書主義の国に、「割礼」の子たちを、数々排出しているという事。
それは、もう一方で、「マリアの処女受胎」を受け入れてしまう民を大勢生んでいるという事。
現実です。<> 基本。<><>2006/12/21(木) 10:10:27 ID:<>>>102
> 「とふじん=西欧人」の思想。それは、現代でも、アメリカにおいては、民意に深く根付いています。
> 聖書の執筆者の一人パウロが、「ローマ人の手紙」で書いたものは、ユダヤ教からキリスト教を経由して、アメリカと言う聖書主義の国に、「割礼」の子たちを、数々排出しているという事。
それは、もう一方で、「マリアの処女受胎」を受け入れてしまう民を大勢生んでいるという事。

このような、「天然自然の理に反した思想」は、「高山の支配の道具」になっています。
おやさまは、「高山の真の柱はとふじんや」と、権力構造そのものを「大社・宗教と言う権威」として、「取払いの思想」を語られているのは、その「オカルト利用の悪意」に対する批判からです。

イエスキリストの教えを「弟子。使徒たち」が、書き記したものが「新約聖書」として世界中に、イエスキリストの思想を伝えています。
おやさまは、神が「啓示=おつげ」として説き聞かしたものを弟子たちが書き残した書物の事を「こふき」と呼び示しています。
おやさまの思想では、イエスは「完成の意義」を伝えた神です。

新約聖書は、その、神・イエスキリストの言葉そのものではなく、それを弟子たちが、イエスの行動の記録と共に思想の記録として、死後に著述したものです。
「聖書と言うこふき」、それには、「神の言葉=イエスの言葉」は含まれているけれど、実は弟子たちの思想の書。でした。

中でも、キリスト教社会の思想に多大な影響を与えたのは、「使途・パウロ」の思想でした。

パウロは、イエスキリストの死後の弟子です。
>>88
> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A9%E5%8F%A4%E7%A5%9E%E9%81%93
> 『復古神道において大きな役割を果たしたのが国学者の平田篤胤である。彼は法華宗や密教、キリスト教などの他宗教や神仙道を取り入れた「平田派国学」を大成させた。この平田派国学の流れから後に川面凡児や出口王仁三郎といった宗教家が多く誕生してくる。』
>>89
> 『宣長没後2年経った1803年(享和3年)になって、本居宣長のことを初めて知ったようである。没後の門人として加わるために本居春庭に宛てた書簡によると、夢に宣長が現れて、そこで師弟関係を結んだと述べている。・・』
> 『夢に宣長が現れて、そこで師弟関係を結んだ』。
これはまさに、オカルトの世界である。

> 平田篤胤が本居宣長の、死後の弟子であった。

イエスキリストの死後の弟子が、キリストの「こふき」を「聖書」として書き記したという事。
その「こふき」が、世界の列強の海外侵略の、強い思想根拠となっていたことを、おやさまは、見抜いておられたということです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AD
パウロ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用します。
『ダマスコへの途上において、復活したイエス・キリストに出会うという体験をし、目が見えなくなった。
アナニアというキリスト教徒が神のお告げによってサウロのために祈るとサウロの目からうろこのようなものが落ちて、目が見えるようになった(「目からウロコ」という言葉の語源)。
こうしてパウロ(サウロ)はキリスト教徒となった
(『使徒行伝』9章)。
この経験は「パウロの回心」といわれ、紀元34年頃のこととされる。』

このパウロが、「ローマ人の手紙」の冒頭に、神の教えを異邦人に伝える事を、神に対する神の子の義務だと説きました。
異邦人を、キリスト教によって、教化すると言う行為は、実は「奴隷」を増やし集める行為として、歴史に無数の悲劇を刻みました。
日本に来た宣教師が奴隷を本国に搬送していたのは、紛れも無い事実。
それで、日本の江戸幕府は、仏教による統治を敷いて、キリスト教を禁じたのであり、明治の開国において、「大教=天皇教」を宣布したのも、その強迫観念に由来するのかもしれません。
「毛唐」と忌み嫌う思想の根底にあったものです。

死後の弟子パウロと、死後の弟子篤胤。
それは、元々の教えを、オカルト絡みで、政治思想に育て上げた、「祭政一致」の「こふき」の作者という事になります。
世界を支配している「パウロのこふき」、日本を支配した「国学のこふき」。
その根は、旧約聖書の思想にあります。<> 基本。<><>2006/12/21(木) 13:09:16 ID:<>>>103
> 世界を支配している「パウロのこふき」、日本を支配した「国学のこふき」。
> その根は、旧約聖書の思想にあります。

これは、「絶対的な唯一の神」という思想の事です。
「にほんの思想は八百万の神」です。そして世界中には「数々のその国々の神話」があります。
それに対して、この世を支配するのは「唯一絶対の神」であると説く思想は、「ユダヤ教」です。→「その思想の流れに位置するキリスト教、イスラム教」です。
そして、日本では、それを取り入れた「平田神道」の構築した、「天皇陛下絶対主義」です。

その源流を確かめますと、旧約聖書。それは、モーゼの説いた教えの記録です。
モーゼは、「奴隷解放の思想」を説いた、思想家です。
モーゼが、絶対的な権力を説いたのではなく、いうならばモーゼの弟子に相当するはずの、ユダヤ教の司祭(パリサイ人)がそれを説いたのです。

ユダヤ人の思想家として有名な「心理学のフロイト」は、旧約聖書について次のような作品を著しています。
「『モーセと一神教』」
そこに、書かれている内容はモーゼの思想のルーツとして、「アートン教」という一神教を、フロイトは、指摘しています。
「松岡正剛の千夜千冊」にその書評があります。フロイトの思想の概要は理解されるところです。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0895.html
『 フロイトは紛れもないユダヤ人である。むろんユダヤ教に対しては敬虔な気持ちをもっている(フロイトは社会的にはカトリック教会に親近感をもっていた)。
 一方、モーセはユダヤ教を開始した張本人である。モーセによって一神絶対者としてのヤーウェ(ヤハウェ・エホバ)が初めて語られ、初めて「十戒」が定められ、初めてユダヤの民が選ばれた。割礼も始まった。ということは、こう言ってよいのなら、それまで歴史上、ユダヤはなかったのだ。ユダヤ人もいなかったのだ。
 しかしそのフロイトは本書において、なんとモーセはユダヤ人ではなくエジプト人であると断定したのである。それだけではない。フロイトは、モーセはエジプト第18王朝のアメンホーテプ4世が名を変えてイクナートンとなったときに、ごくごく限られた宮廷集団で信仰していた「アートン教」の“直系”だとみなしたのだった。
 アートン教というのはマート(真理と正義)に生きることを奉じた信仰で、人類史上で初の純粋な一神教となった例だった。ただしイクナートンの死とともにアートン教は廃止され、涜神者の烙印を捺されたファラオーの王宮は破壊・・』
『それにしてもフロイトは、なぜこんなことを言い出したのか。フロイトの仮説が何を示しているかというと、「エジプト人モーセがユダヤ教を作った」ということを告げている。まさにパウロがキリスト教を作ったように、だ。
 しかしパウロが作ったキリスト教は「キリスト人」とか「キリスト民族」という血の創造ではなかった。パウロはそこまでの創作はしていない。パウロがしたことは情報の編集である。けれどもフロイトによれば、モーセはユダヤ教を作っただけでなく、ユダヤ人を作ったのである。実際にもそれまでユダヤ人の母集団であるセム族とヤーウェとはまったく結びついていなかったし、だいたいヤーウェという神の名がなかった。またセム族の集団や部族が割礼をするということもなかった。割礼はエジプト人の一部の慣習だった。
 モーセはこれらを一挙に創作したか、制作したか、出エジプトにあたって“持ち出した”のである。
 モーセはシナイ半島を渡り、こうして特定の地に落ち着いた。そここそがパレスティナの南のカナーンの地だった。そしてその結果、何がおこったかといえば、アブラハムやイサクたちがユダヤ人となり、かれらによる初期ユダヤ教が生まれたのだ。つまりモーセは「ユダヤという計画」を実施した。これではモーセは、まるで遺伝子操作をしたということになる。本当にそんなことがあったのか。』

書評から引用したが、フロイトは、ユダヤ教のルーツを語っていたのである。それは、「エジプトにある」と。
フロイトの仮説が正しいとも、正しくないとも誰も証明は出来ない。
しかし、モーゼが「エジプトの奴隷の民を解放した」その歴史的事実は間違いない事実である。
<> 基本。<><>2006/12/21(木) 14:53:21 ID:<>基本的に、「とふじん」とは、「問う人」と文字が当てられる。

預言者モーゼは、まさに「問う人」であったと言える。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BB
『旧約聖書の『出エジプト記』によれば、モーセはイスラエル人のレビ族の父アムラムと母ヨケベドの間に生まれ、兄アロンと姉ミリアムがいた(6:19)。当時、イスラエル人たちはエジプトで奴隷として使役されていたが、モーセは数々の妨害を打破して、彼らをエジプトから連れ出すことに成功した。(出エジプト=エグゾダス)』
『シナイ山(あるいはホレブ山)で神ヤーウェから十戒を授かってイスラエル人たちに与えたので、立法者と呼ばれている。モーセとイスラエルの民は、四十年もの間シナイ半島の荒野をさまよい、約束の地カナンにたどり着くが、モーセ自身はカナンを目前にして120歳で没したという。』
『モーセが生まれた当時、イスラエル人が増えすぎることを懸念したファラオはイスラエル人の男子を殺すよう命令した。出産後しばらく隠して育てられたが、やがて隠し切れなくなり、葦舟に乗せてナイル川に流された。そこへファラオの王女が通りかかって彼を拾い、水からひきあげたのでマーシャー(ひきあげる)からモーセと名づけた。』
『成長したモーセは同胞であるイスラエル人がエジプト人に虐待されているのを見てエジプト人を殺害。ファラオの手を逃れてミディアンの地(現在のアラビア半島)に住んだ。ミディアンでツィポラという女性と結婚し、羊飼いとして暮らしていたが、ある日燃える柴のなかから神に語り掛けられ、イスラエル人を約束の地(プロミスト・ランド)へ導く使命を受ける。こうして彼の預言者としての活動が始まる。』

このモーゼの思想のルーツは、「アートン教」と言われています。
>>104
> モーゼの思想のルーツとして、「アートン教」(アトン教)という一神教を、フロイトは、指摘しています。
具体的には、このような史実があります。
「http://www.ican.zaq.ne.jp/rekishi/world_history05.html  を引用します。
『ツタンカーメンの死後、アメンホテップ4世・ツタンカーメンは、アメン神信仰などのエジプトの全ての神々を否定・廃止して、アテン神の唯一神信仰樹立しようとした異端の王として歴史から抹殺さた。全ての記録が削りとられ、抹殺されていたのである。首都とされたアケトアテンも破壊されつくされた。しかし、アメンホテップ4世のアテン神信仰は、ユダヤの預言者たちに受け継がれた。アメンホテップ4世が自ら作ったアテン賛歌と旧約聖書の詩編104篇の類似性が指摘されている。モーセに率いられてエジプトを脱出したユダヤ民族は、アメンホテップ4世のアテン神信仰を捨てなかった民との説もある。モーセは、ファラオの養子として育てられていたということ。唯一神の信仰が確立していたと言うこと。祭司階級としてレビ族が確立しており、このことは、エジプトの神官階級の世襲制度と類似するということ。さらに、奴隷としてエジプトを脱出したにのかかわらず数多くの財宝をたづさえていたことなどが傍証とされる。また、聖書の「出エジプト記」に該当する記述が、エジプトの記録や遺跡から見つからないことも歴史から抹殺されたアメンホテップ4世の宗教改革に絡んでいるからではないかとされる。モーセにはアメンホテップ4世につらなるエジプト王家の血がながれていたかもしれない。』

モーゼの行ったこと。
それは、奴隷解放と同時に、宗教改革でもあったということでした。

そしてモーゼは神に「なぜ?」と問うたまま、約束の地にたどり着けなかった、「問う人」として、さまよい続けて、死にました。
「とふじん」・・・。理を説きながら、実は、理を問う人の事です。

おやさまは、その「約束の地」に到達できない「とふじん」の理由を一言で諭しています。「高山」であると。
ユダヤ教は、エジプトの神殿内での乱交を否定し、奴隷差別を否定して生まれながら、司祭階級を特権化し階級をつくり、「十戒」の教えのなかでも、「汝殺すなかれ」を破る歴史でした。
同じようにモーゼを預言者とするイスラムも・・・。

安心の無い「とふじん」。その、「とふじんころり」を待つ、おやさまの思想。天然自然という思想は、八百万の神を拝する、思想です。<> 基本。<><>2006/12/21(木) 16:33:21 ID:<>>>105
モーゼの旧約聖書が今日もなお、現代社会に影響をしっかり与えていて、それは、「割礼」という蛮行をアメリカに残しています。

割礼 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B2%E7%A4%BC#.E3.82.A2.E3.83.A1.E3.83.AA.E3.82.AB
割礼を行う国・・・
『「アメリカ合衆国」
1990年代までは生まれた男児のほぼ全数が出生直後に包皮切除手術を受けていた。アメリカの病院で出産した日本人の男児が包皮切除をすすめられることも多かった。しかし衛生上の必要性は薄いことが示されるようになり、手術自体も新生児にとってハイリスクかつ非人道的との意見が強まって、1998年に小児科学会から包皮切除を推奨しないガイドラインが提出された。これを受け、21世紀に入ってからは包皮切除を受ける男児は全米で約6割に減少している。 』

割礼は、ユダヤ教では、信徒の資格条件です。
しかし、ユダヤ教の司祭でもあり、そこから回心した使徒パウロは、>>103 ,
キリスト教徒として、ローマを布教するとき、割礼の義務を、「方便」を説いてしなくてもよいことにします。
西欧社会時では「正月・一月一日」は、イエス子リストの「割礼記念日」 >>102
> 『「イエスの割礼の日」 カトリックのカレンダーでは、12月25日にイエスが生まれたことになっているので、
> 8日後に割礼を行うユダヤ人の習慣から1月1日が、キリストの割礼の日である(とされる)。』
であるのに、パウロは、次のように「説法」しました。
http://www.wcsnet.or.jp/~m-kato/bible/romans.htm  第三章
0301> では、ユダヤ人のすぐれている点は何か。また割礼の益は何か。
0302> それは、いろいろの点で数多くある。まず第一に、神の言が彼らにゆだねられたことである。
・・・
0321> しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
0322> それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
・・・
0328> わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
0329> それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。
0330> まことに、神は唯一であって、割礼のある者をも信仰によって義とし、また、無割礼の者も信仰のゆえに義とされるのである。
0331> すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。

その、パウロ型キリスト教は、ヨーロッパを席巻した。キリスト教は政治権力となった。
そこから逃れた、キリスト教徒は、「教会を否定」し、「聖書」を崇拝し信奉した清教徒が、多かった。
>>92
> 本国は、「イギリス国教会」。> 植民地は、「不満のカトリック」「不満のカルビン派・清教徒」

パウロは<とふじんの「こふき」 から、今日もこう語っている。
0101 > キリスト・イエスの僕、神の福音のために撰び別れた、召されて使徒となったパウロからーー
0102 > この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、
0103 > 御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
0104 > 聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである。

0105 > わたしたちは、その御名のために、すべての異邦人を信仰の従順にいたらせるようにと、彼によって恵みと使徒の努めとを受けたのであり、
0106 > あなたがたもまた、彼らの中にあって、召されてイエス・キリストに属する者となったのであるーー

0107 > ローマにいる、神に愛され、召された聖徒一同へ。わたしたちの父なる神および主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
0108 > まず第一に、わたしは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられることを、イエス・キリストによって、あなたがた一同のために、わたしの神に感謝する。

エジプトの「カルト」モーゼ。
テロリストであり、その思想行動は、「とふ」事でありつづけた。
その思想と行動をしっかりと学んだパウロは、眼病を助けられて、キリスト教になった時、モーゼのように「約束の地」に民衆を導くのではなく、神への信仰のみで救われると言う「方便」を用いて、信者獲得を救われる道と、宗教の高山への道を諭した。

「割礼」は、果たして、性犯罪を、防止できたか。

唯一絶対と言う事の、危うさを、心得るべき時代は来ている。<> 基本。<><>2006/12/21(木) 16:55:12 ID:<>>>106
> エジプトの「カルト」モーゼ。テロリストであり、その思想行動は、「とふ」事でありつづけた。

それは、太古の信仰の多神教を否定した唐人の思想。
明治政府の、民間宗教弾圧の、思想背景は、ここにありました。

エジプトの宗教史の「異端」。そこから生まれた「ユダヤ教」。でした。そのユダヤ教から、キリスト教。そして、「パウロ」のキリスト教。
最後の審判思想のルーツは、エジプト。死者の書といわれます。
http://www.actv.ne.jp/~yappi/tanosii-sekaisi/01_sensi&kodai/01-06_miira.html
『古代エジプトは、さまざまな神が共存する多神教の社会で、人々は自然界の事物に神性を認め、神として崇拝していました。太陽はもとより月、ナイル川、動物や鳥、昆虫などその種類は多岐にわたっています。それぞれのノモス(都市国家)には、その地方の守り神が定められており、独自に崇拝されていました。こうした二千種類もの神々の中心に置かれたのが、太陽神ラーでした。
ファラオたちは、自ら「ラーの子」と称する名前をつけ加えるようになりました。
死後、王が昇る太陽への階段としてピラミッドを造営し、太陽神をまつる神殿を築きました。
こうして太陽神崇拝はますます隆盛となり、中王国時代、都がテーベに移されると、テーベの守護神アメンはラーと結びついてアメン=ラーとなり、一躍エジプトで最高位の神に昇格したのです。

ところが、アメンホテプ4世は、太陽神アトンだけを至上の神として崇拝し、権勢をふるっていたアメン神の信仰を禁止しました。しかし、この宗教改革は、神官たちによって反発を受け、わずか10年で挫折し、再びアメン神の信仰が復活しました。

古代エジプト人たちは、来世を現世のつづきだと考えました。

来世は終着点のない永遠なものであり、現世のように辛いことはそこにはない。逆にいえば、現世は来世へのテスト期間なのです。

だから、そこへは誰もが行けるのではないとして、この世でしてはならないこと("罪")をしなかった人だけが行けることとしました。ここに人類史上初めての道徳・倫理が生まれたのです。

そして、来世に行くための道しるべとして書かれたものが「死者の書」です。来世に入るためには、生前しておかなければならないことがいくつかありました。』

豊穣の神の多神教だったと言うことですが、それは、性的には乱れた社会であり、絶対的な一神教での戒律をもって、秩序を正そうとした、アトン教の祭司がモーゼだったと言う説は、辻褄が合います。

史実をみれば、古代エジプトでは、王が王の娘に王自身の子を生ませることは、神の認めている所であり、王妃が夫以外の男(神)と交わって子を産む事も、神の認めている事でした。
http://www.moonover.jp/bekkan/chorono/topics10.htm

神々の戦いで、敗れたアトン神。歴史的には、エジプトでは消滅しました。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Akiko/5151/link_3071.html
『アメン神というのはもともとこのテーベの一地方神にすぎなかったのだが、この地に誕生した王朝が拡大し国土を統一するようになると、王権の伸張とともに、アメン神そのものの肥大化も見られるようになる。
それは具体的にはアメン神を祭るアメン神官団の勢力の拡大という形を取り、やがて王権と神官団が対立するようになる。

そこでアメン神官団に対抗するために、イクナアトンがもちだした新しい神がアトン神であった。』

政治と宗教。
その「悪因縁」を切ること。
「大社」「高山」取り払いこそ、おやさまの思想の真髄ですが、宗教儀式が日常化した、アメリカの現実は、カルトの思想では、世界はたすからないことを示したいます。
「とふ」ならば、おやさまに、問うしかないと、それがおやさまの思想です。<> 基本。<><>2006/12/21(木) 17:21:26 ID:<>おやさまの思想は、一神教では、無い。「理」である。
しかし、おやさまの弟子のなかでも、神学系の学者は「一神教」であると説きましたが、それは、実に、モーゼの影響でした。
>>103
> 死後の弟子パウロと、死後の弟子篤胤。
> それは、元々の教えを、オカルト絡みで、政治思想に育て上げた、> 「祭政一致」の「こふき」の作者という事になります。
> 世界を支配している「パウロのこふき」、日本を支配した「国学のこふき」。
> その根は、旧約聖書の思想にあります。

そして「平田国学」と、「パウロ神学」の両者には、「死後の世界」という、「幽冥の思想」が共通してあります。

人間が、この世に生まれかわるという、おやさまの思想。
現実の谷底を、せり上げると言う思想は、いかに死ぬべきかを説き、「幽冥の」死後の世界を説く、宗教では、到底理解は考えられません。<> 普通の天理教徒<><>2006/12/22(金) 02:47:17 ID:<>古代エジプトの宗教とモーゼの思想との関係と、それが現代社会にもたらしているものと、それはアメリカでの「割礼」と言う儀式の日常化の中に見え隠れしているという事は、理解できます。
 隔世遺伝のように、西欧のローマ教会での割礼の空文化を経て、現代アメリカの生活習慣の中に甦っている事には驚かされます。

ただ、なんでフロイトの「一神教とモーゼ」の話題が出てきたのか、少し話題が横道にそれたような気がするのですが、・・

又、平田篤胤が、正統な古事記解釈の後継者ではなかったと、それは理解されますが、直接にモーゼの思想とつなげるのは、論理に飛躍がありすぎると感じますね。

基本さんの言われようとする、「唯一絶対の一神教」こそ「にほんには無い」、「唐人の思想」という、それは、分かるような気がします。

たぶん基本さんは、「カルト」と言う言葉で、両者を括っておられる。括りたいのですね。

平田篤胤の「カルト・オカルト」は、「文政3年に異界から来たという仙童寅吉と邂逅する事による影響で有る事は否めない。」と、言う、これですね。
本当に存在したとは思えないはなしですが、・・。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%B0%E7%AF%A4%E8%83%A4#.E7.B3.BB.E8.AD.9C  では、
『以前から異境や隠れ里の存在に興味を抱いていた篤胤は、寅吉に邂逅し異界について聞くことにより、幽冥の存在を確証するに到った。篤胤は寅吉を説得する事により、幽冥で寅吉の見えた師仙の神姿を絵師に描かせ、以後はその尊図を平田家家宝として斎祭った。寅吉が幽界に帰る際には、この師の住まわれると言う信濃国浅間山の隠れ里の山神に対して、篤胤自ら認めた手紙と自著「霊能真柱」を添え、又神代文字への質疑文を、寅吉に托し委ねて山神に献上手渡したという。これ等の経緯やその折に山神や寅吉に手向けた歌などを詠じた文や和歌を、仙境異聞の中に記述する。』・・・
『「七生舞の記」の記録は、寅吉の物語る幽境の舞についての模様を篤胤が詳細に論じたもので、七生舞は御柱の舞(おはしらのまい)とも称され、楽器は短笛五管 一丈の笛 九尺の笛 各々一管 りんの琴一挺 かりょうの笛五管 浮鉦二つ 此の六品にて唱歌は五十音を、聲を長く引きて唱ふるなり。りんの琴 舞人は五十音に合わせて五十人なり。此の舞楽は天神地祇の大きに歓びたまふ楽にして此れを行ふ時は感応あり。それに替わりて妖魔のたぐひは殊の外に忌み嫌ふ舞楽なり。舞人50人・楽人24人合計74名の異境人が参列し神々に奏上報告をなす祭典なり。此の詳細な検証や図解については数年前に平田神社宗家の資料提供により、集英社版の文庫「荒俣宏コレクション」の中に公開されている。新玉の春の余碁登「初春に 五十連音の風韻 縹渺と轟き亘り 諸国山川草木 穏やかに 四海の波も静まりぬ 其の奇しき調べぞ 神代より伝え来る 七生の舞」。寅吉は、此の舞楽は、神祇をなぐさめて感応を蒙らむと欲する時か、または山人たちの住する山々の、妖気を祓い浄むる時などに行うもので崇高な祭典の一つであると篤胤に語ったと記述されている』

『天狗小僧寅吉の出現は文政3年秋の末で、篤胤45歳のころである。
寅吉は神仙界を訪れ、そこに住むものたちから呪術の修行を受けて、帰ってきたという。この異界からの少年の出現は当時の江戸市中を賑わせた。
発端は江戸の豪商で随筆家でもある山崎美成のもとに少年が寄食したことにある。弟子達の噂が篤胤の耳に入り、予てから異界・幽冥の世界に傾倒していた篤胤は、山崎の家を訪問する。以後この天狗少年を篤胤は養子として迎え入れ文政12年まで足掛け9年間面倒をみて世話をしている。』

基本さんは「お払いさんが降る」とおんなじような、情報操作とみているのですか。
「カルト」の「オカルト」には、情報操作があると。

もう一方のとふじん思想の拠点、西洋では「パウロ・聖書」のカルト・オカルトですが、これは、「マリアの処女受胎」と「イエスの復活」。誰もが知っているキリスト教の教えの「奇跡」。ですね。
つまり、「処女のまま受胎する」事と「一度死んだイエスが墓場から復活する」と言う事はまるでありえないことです。
それを逆手に、絶対の唯一の神だからこそ、ありえない「奇跡」は起きたと、キリスト教会では説き、布教しましたが、この世にまるでありえない不合理を説くことで、逆に、常識を超えた奇跡的な神の権威を証明したわけですから、「カルト」は、「死からの復活を説いて」プロパガンダに成功したと、基本さんは、そのように言いたいのでしょうか。

割礼をしている戦士が戦う戦場なのですね。イラクは、パレスチナは。
戦争と言う「謀反」の根は「とふじん」の思想にあるという事を言われたいのでしょうか。基本さんは。
普通に考えると、そんな気がして来ました。<> 基本。<><>2006/12/22(金) 04:25:39 ID:<>おやさまの思想では、「理」が神です。

先ず、分かりやすい処から、「マリアの処女受胎」と言うプロパガンダを合理的に、宗教思想として、理解しなければなりません。
現代アメリカでは、>>102
> 新約聖書のキリスト降誕の話で聖母マリアの処女懐胎を信じている人は、
> 米国民の79%、キリスト教徒では87%に上ることが米誌ニューズウィーク(電子版)が5日報じた調査で分かった。
天皇陛下は神であるという不合理を信じ込んでいた国のように、聖母マリアは処女で受胎したと信じている国。

「ファラオはイスラエル人の男子を殺すよう命令し、出産後しばらく隠して育てられたが、やがて隠し切れなくなり、葦舟に乗せてナイル川に流された。」
「そこへファラオの王女が通りかかって彼を拾い、水からひきあげたのでマーシャー(ひきあげる)からモーセと名づけた。」
そして、「乳母は、実は実母だった」と、乳母を王女に推薦したのは、モーゼの姉。モーゼの兄アロンは王宮の聖職者だった。と、聖書に語られていますから、王宮内の司祭職とファラオ一家の出来事としての、妊娠出産とわかります。

>>107  で触れましたが、
> 古代エジプトでは、王が王の娘に王自身の子を生ませることは、神の認めている所であり、
http://www.moonover.jp/bekkan/chorono/topics10.htm
エジプトでは、王家の子は、母系で継承を正当化されていたのです。
つまり、王の娘の胎内にいたと言う事実が、正統な後継を証明してくれたということです。> 王妃が夫以外の男(神)と交わって子を産む事も、神の認めている事でした。
神殿は乱交と売春の場でもあったとされますから、生まれた母親でしか、出生は証明できない事なのでした。
王女が拾ったということですから、場合によれば王女自身の子である可能性もあると言うことです。王と実母との身分違いの妊娠で、王女が拾わないと、証明不能だったのかもしれません。姦淫の子。

宗教思想で言うなら、「淫行」によつて生まれた罪の子を、川に流して拾うことで、ロンダリングした。浄化した。
「洗礼」とは、この「淫行」の穢れを清めること。
それは、全て、エジプトのモーゼの出生から、開始されたいるものと分かります。
乱交を認め一夫多妻思想の古代エジプトの思想に対し、「一夫一婦」の思想を提起した。「性」を罪と定義したキリスト教の根は、古代エジプト。
> 唯一神教はアメンホテプ4世による古代エジプトのアトン信仰(世界最古の唯一神教とされる)とユダヤ教だけに興り、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%86%E3%82%A3#.E3.82.A2.E3.83.9E.E3.83.AB.E3.83.8A.E9.9D.A9.E5.91.BD
ここに、アマルナ革命の説明がありますが、アトン信仰を起こしたものは、全て歴史的事実とともに消滅しています。引用します。
『トゥトアンクアメンの早急な死後、大神官エイエはファラオの位に登り、アメン神殿と宥和して、将軍ホレムヘブを派遣してヒッタイトをパレスティナより撃退する。ホレムヘブがやがて、エイエの後を襲ってファラオとなり、アクエンアトンの名と存在、その事績をすべて抹消する。こうして、アマルナ革命は、アクエンアトンやその家族、宮廷の記録と共に、エジプトの砂の彼方に埋もれた。』

フロイトは、この「消失させられたアトン信仰」こそ、「ユダヤ教の原型」であると、分析したわけです。的確と思います。
それは、モーゼの母親の原罪であった。
エジプトのファラオの王女の水からのとりあげで、清められた洗礼思想は、「性」を原罪として説く教義と、割礼と言うエジプト時代の儀式をともに継承し、教義と信仰の骨格を形成した。
性の深層心理がモーゼを「アトン信仰」に駆り立てていた。

そこでイエスキリストの場合には、「キリストは唯一の神の子」であるという神の権威の上で、キリストが夫以外の子として生まれていた事実を、表現するには、「夫のいないマリアのみの子」として、説いた。
ちょうど、古代エジプトの王妃が誰の子を妊娠していたとしても、「神の子・ファラオ」の子であると、説いたように、です。

おやさまは、「胎内へ宿しこむのも月日なり、生まれだすのも月日世話どり」と、思想を示しています。
そして、それは、−「なむあみだぶつ」の守護であり、「な・国床立」「む・面足」・・の八柱の神の守護であると、唯一絶対ではない、八百万の神々による守護により「生命がある」と、示しています。

処女受胎には、嘘があるという、それが基本です。<> 基本。<><>2006/12/22(金) 12:01:10 ID:<>>>110
割礼について、パウロが用いた論理、それは宗教の方便ですが、ローマ人への手紙の中で、こう語っていた論理です。>>106
> 0328> 人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
 神の教えを信仰するのなら、→ 割礼は当然の義務です。 しかし、その前に、「信仰するかしないかがもっと重大だ」と説く事で、肉体的に「割礼」しなくても、信仰者として神に捧げきる事で、「霊的な割礼になる」と、肉体と精神の二重構造を論理として持ち込んでいるのでした。

マリアの処女受胎の場合の論理も同様で、「神と交わる」という事は、肉による行為」の問題ではなく『神と交わったマリア』は、信仰として、「霊的に処女」なのです。
 この、「肉」と「霊」の使い分けがパウロのキリスト教論理の特徴です。

モーゼにおいても、肉体として生まれた事情は、「川に流して拾う」事で、神の子ファラオの娘によって浄化されているとされて、洗礼で肉の穢れを、神の浄化にて救済するとする一方で、現実には、割礼と言う直接的な肉体への手術で対応している。霊と肉の、教義の二重性が実態でする。これは、例えば、モーゼは杖を蛇に替えたとされていますが、豊富な天文学・薬学の知識と、加えて奇術的トリックが古代エジプトの神官プロパガンダのテクニックであった事から説明されます。
農業のための「実学」と、神秘を演出するマジック、神官モーゼの世界の神官の芸であり、モーゼが、「約束の地」と言う「霊的な地」と豊富な知識集団を束ね、「神の律法」という法治による統治をしたのも、「霊肉二元」の実践だったわけです。

そこで、パウロ・聖書は、実際にあったとされる「死後の奇跡」、そして、「墓から失われた遺体」という事実。多くの信者がその死後に見たと言う「イエス」との遭遇体験。
これらの事実から、「霊的に復活した」と、パウロは説きました。

信仰的な意味での「霊的な割礼」があるように、信仰的な意味での「霊的な神との交わり」があり、「霊的な復活」がある。
それは、神を信じるものだけが受け入れられる「霊的な事象」であり、神を疑うものには、見えない。
そういう説かれ方をしたわけです。

「霊」と「肉」の二元論。
「洗礼」と「割礼」の二大信仰教義。

旧約聖書の世界観は、古代エジプトの魔法使いの「実学」と「マジック」を、思想的に由一一神教として整えたものでした。
イエスキリストは、ユダヤ教の改革者として、神の愛を説き、律法者の堕落を批判した存在と言う事で、数々の奇跡を起こしましたが、それは、具体的には病たすけであった。
パウロは、『目の病』をイエスの弟子にすくわれて、「目からうろこが落ちた」。
イエスキリストの教えの伝道者になりましたが、その時、古代エジプト以来の、ヘブライ伝統の「肉と霊」の「実学と神秘」の思想を持ち込んだと言う事です。

それが、肉の穢れの救済は、キリストにおいては、「やまいたすけ」であり、それが、元ユダヤの宗教家で、使徒のパウロにより、「やまいたすけ」はかなたに置き去りにされて、見えざる死後の、「霊界」においての救済、「最後の審判」という「幽冥」の究極教義へと連なっているのです。

どこか、山名系の教義に似ているのは、同じ「絶対神一神教の教義」をプロパガンダしたいんねんの同一性からでしょう。<> 基本。<><>2006/12/22(金) 12:12:29 ID:<>>>109-111
確認のためですが、新約聖書にはイエスの洗礼の話があります。
http://www.ne.jp/asahi/art/dorian/Bible/CLater/01Baptism/01Baptism.htm
『 洗礼者ヨハネは、ヨルダン川で説教をしていた。そこにイエスがあらわれる。ヨハネから洗礼を受けるためである。
ヨハネはためらい、言った。「私こそ、あなたから洗礼を受けなければならないのに、なぜ私のところへ・・・」 』
 又、イエスの誕生時には、三人の博士が祝福に訪れています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E3%81%AE%E4%B8%89%E5%8D%9A%E5%A3%AB
これらの事実の意味ですが、ヨセフが語ったように、『私こそ、あなたから洗礼を受けなければならないのに、なぜ私のところへ・・・』
司祭としては、イエスは格上であった。
東方の三博士が表敬訪問したように、です。
 つまり、イエスキリストは、(母系)ユダヤ教の身分高き司祭であり、マリアや周辺の人々には、神秘を演出するマジックの持ち主がいて、イエスの死後の神秘の演出は、神の働きとしてのそれというよりも、エジプトの神官のテクニックと言うべきものでしょう。
死者の美化は、古代エジプトの伝統です。
イエスキリストは、ユダヤ教の中では、ユダヤ教の人物として、尊敬されて理解されている事も忘れてはなりません。

つまり、イエスの復活は、「現実としての事実」から、「霊的復活」として作り上げられた、プロパガンダと言う事です。

 ユダヤ教の元司祭者であったパウロは事情を熟知していたはずで、肉体の復活とからつめつつ、それは実は霊的な復活だと説いている。

ローマ人への手紙 8  引用します。
http://www.creationism.org/japanese/romans8.htm
9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
10 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

現実の肉体ではない復活とは、パウロの自白そのものですが、「霊的」な「神霊の前」と、こう説かれてしまうと、「詭弁」、宗教のまやかしテクニックというしかありません。

普通の天理教徒さん、お分かり頂けましたでしょうか。

聖書世界の死後の世界、国学の学者として、本来は、「穢れ」として説いていたはずなのですが、幽冥の世界を説かなければ、「人は見えざる死後の世界に支配される」のであるから、人を導く思想となり得ない。
ここに、平田篤胤や、後の出口王仁三郎が、霊界・幽冥界を思想として説く発想の原点があるわけです。

人は、死に恐怖し、そして死後の世界の「幸福」を得ようとして、宗教の奴隷となります。
 爆弾を抱いて、戦車に飛び込む人には、「死後の幸福」を、「割礼の神」が保証している。
 「神風」と呼ばれる思想は、「宗教の思想が生んだ思想奴隷の姿」

「大和魂に敵は無い」。
 靖国に祀られた英霊も、イラクの爆弾を抱えた少年も、「とふじん」の思想の、生贄として、神にささげられた子羊である。

おやさまが、「とふじん」がままにすると、断固と立ち向かった先には、現代の大社高山の、思想奴隷が、数々見えていたということでしょうか。
<> 基本。<><>2006/12/24(日) 05:08:29 ID:<>おやさまの思想?、ここは、この世の極楽やという思想。
>>1-2
ここは、この世の極楽やという思想は、立って踊る「御神楽歌」の中で、示されたものです。

おやさまは、「死」とは「古い着物を脱ぎ捨てたようなもの」と、死生観を思想として示しています。

天理教という宗教思想では、「魂は元のぢばに帰り、また肉体という衣を新たに借りて生まれかわって来る」という、解説をします。
これは、一種の唐人の思想との融合という説き方で、宗教の方便の匂いがします。
もっと、すっきり、人間が主体的に「脱ぎ捨てる」というものとして、おやさまは、「着替え」の思想を説いています。

良い心だから、良い肉体と言うような因果律の、「生まれかわり前の審判」、そんなものは、おやさまは説いておられません。
天理教という狭い宗教思想の言う様な「再び肉体を借りて地上に生まれかわる時に、(幽冥時の)神の判断が入るということなら」、それは、死後の世界が、「幽冥の死後の世界」なのか「死後だけれど現実の今の世界」なのかと言う、相違はあるというものの、「生まれかわり前の審判を説くようでは、」
古代エジプトの「死者の書」やその思想的流れにあたる「新旧聖書」の、「審判の思想」と、何ら変わりないことになります。
>>107 参照。

おやさまは、みかぐらうたで、

「 八つ 病のすっきり根は抜ける 心はだんだん勇み来る。
  九つ ここはこの世の極楽や わしも早々参りたい   」
と、思想を示しているように、「肉体的には、病のすっきり(完全に)根が抜けた状態で、『ここはこの世の極楽や わしも早々参りたい』と、思想を示されていますから、

人間が、「病の根の切れた状態」とは、「生きていたいだけいきて」→「死にたいときに生まれかわれる状態」です。
おやさまの言われた、
 「死」とは「古い着物を脱ぎ捨てたようなもの」
とは、主体が人間にある思想。
神に生死の審判を受けなければならないような、「とふじん」の思想とはまるで違います。<> 基本。<><>2006/12/24(日) 06:09:11 ID:<>基本的に、「とふじん」とは、「問う人」と文字が当てられる。

>>113
おやさまの思想では、「ここはこの世のごくらくや」と示されています。

モーゼは、古代エジプトでの、王権の絶頂期の「妻を155人」有した王(ファラオ=神)の時代に、奴隷の身分の男子として死ぬ法の下で、王女に「川から拾われて」、「神官」となり、そして、「ここ(エジプト)には楽園はないと、十二の部族をつれて、「約束の地」を求めて、さまよいました。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%83%97%E3%83%88#.E3.82.A8.E3.82.B8.E3.83.97.E3.83.88.E6.96.B0.E7.8E.8B.E5.9B.BD.E6.99.82.E4.BB.A3.EF.BC.88.E7.AC.AC18.EF.BD.9E20.E7.8E.8B.E6.9C.9D.EF.BC.89
・・・
紀元前1360年頃、アメンホテプ4世(アクエンアテン)によるアマルナ宗教改革(伝統的なアメン神を中心にした多神崇拝を廃止、太陽神アテンの一神崇拝に改める。世界最初の一神教といわれる)。戦闘を避けたため国力が一時低下する。
紀元前1345年頃、ツタンカーメン王によるアメン信仰復活。
紀元前1300年頃、セティ1世によるアジア遠征。
紀元前1285年頃、カデシュの戦い(ラムセス2世、対ヒッタイト)。
紀元前1270年頃、ヒッタイトと和平条約。
紀元前13世紀、古代イスラエルの人々が、モーゼとともにエジプトを脱出。後に一神教のユダヤ教の元になるグループである。

アメリカの建国の道筋は、
>>92
> http://members.jcom.home.ne.jp/spu/034.htm
> 「・・ジェームズ1世の時代になってヴァージニア会社の手によってヴァージニアにジェームズタウンが建設された(1607年)。」
> 「その後・・イギリス人も煙草の栽培を始め、これをイギリス本国に輸出して利益をあげるようになり、女たちも入植し、黒人奴隷も運ばれて、農業植民地として繁栄するようになった。 」
> 「 ヴァージニア植民地の成功に刺激され、新大陸に希望をもってわたる人々が増加した。」
> 「イギリス国教会に服従を拒否して迫害されていたカルヴィン派(分離派)の人々が、1620年、メイフラワー号で新大陸にわたり、建設したのがプリマス植民地である。」
>
イギリス国教会の統治下で「新天地」を求めて、奴隷制度で成功している、当時のアメリカに渡った、『聖書主義キリスト教徒たち』。
それは、約束された地を「たずね求めるとふじんの姿」。

「ここはこの世のごくらくや」という、おやさまの思想。

とふじん」は、神に問い、新天地を求め、新たな奴隷制を生み出し続け、そして、インドを中国を西欧の奴隷国家として侵略支配し、にほんに対しても、武力をもって、威嚇してきた。
対して、日本の「とふじん」は、同様に、アジアに日本の新天地を求めた。

「なぜか」を問う。
「人はどこから来てどこに行くのか」問う。
その哲学的問う思想は、「霊」とするなら、
他国・他民族を(異邦人)を、教化し、奴隷制の上での「楽園」をどこかにと問う行動を、「肉」として、今のこの世を「仮」とみなして、幽冥の審判と楽園に奴隷たちを、導く。

まさに、「とふじん」は、「ころり」を、待つしかない。
現代までの、「とふじん思想史」でした。<> yoshio2028<><>2006/12/24(日) 22:36:32 ID:<>質問です。
あしきをはろうてのおつとめは
いつの頃からあるのですか。<> ジャンプ<><>2006/12/24(日) 23:47:55 ID:<>http://72.14.235.104/search?q=cache:Q8myQtlI8bYJ:www.oyasama.com/page020.html+%E3%81%82%E3%81%97%E3%81%8D%E3%81%AF%E3%82%89%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%A4%E3%81%A8%E3%82%81&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=8<> 基本。<><>2006/12/25(月) 03:45:52 ID:<>>>115
yoshio2028さん。
> あしきをはろうてのおつとめはいつの頃からあるのですか
>>33 、に整理しておきました。
> 明治政府は、「王政復古」をなすに当たり、大衆の心理に影響をあたえるべく、「お払いさんが降る」という情報戦略を用いて、お払いさんがあると言う神秘現象で、「明治維新」→「世直り」という、
神がかり的な演出をし、「幕府」から「朝廷」という流れに民意を誘導しました。
> 慶応2年に、あったこと。→「農民は百姓一揆」「うちこわし」
> 慶応3年に「高山のした事」→「お払いさんが降る」→「ええじゃないか」

> おやさまは、慶応2年には、「あしきはらいたすけたまえ天理王命」のつとめを教えました。
> 慶応3年には、「みかぐら歌十二下り」を教え始めました。

百姓の苦難は、明治維新政府が、佐久間象山の打ち出した方針に従って、皇帝ナポレオンを見習い、税制改革を行った「地租改正」以後、零細な百姓は急激な貧困に襲われ、土地を奪われていきます。
その以前に、「あしきはらい」のおつとめを教えています。

旧約聖書のモーゼは、古代エジプトの神官でしたが、神官であると言うことは、奴隷制度と深く関わりがありました。

http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-16-2.html  にありますが、
『[古代エジプトの奴隷制]
 歴史の父ヘロドトスは「エジプトはナイルの賜」と言ったが、全長670kmにも及ぶ世界最長の大河ナイルは毎年夏季にゆるやかな大氾濫を起こし、流域一帯を沃土に変える。エジプトの天文学はナイル河の水量増減の周期を算定し農作業の適切な時期を知る必要からうまれた。天文を司る僧侶身分による支配が成立し、その対極に奴隷が発生した。』

つまり、農業の実学に於いての知識を占有していた「神官」がいたから、無知な奴隷が生まれたという構図です。

日本の場合にも、それは同じです。
「水軍九鬼氏と三田・神戸の歴史『九鬼奔流』 」のサイトから引用しますと、
『 「中臣は大和朝廷にあって、古来神祇をつかさど司る家系であった。伊勢神宮の斎王に仕える斎宮寮の中に、神官を統括する主神司があり、その主神司として中臣・忌部(いんべ)・宮主(みやじ)・神部(かんべ)・卜部(うらべ)がおかれていた。(これらは皆、職名である。)中臣という氏は『ナカツオミ』に由来するとされており、この場合の『中』は神(=天皇家)を指し、神に仕える者という意味であった。
始祖は、天ノ岩戸伝説の中で天照大神が岩戸から出てくるよう祈祷した天児屋根命(あまのこやねのみこと)とされている。中臣氏が神代の時代に遡り、如何に古くから司祭者として天皇家に奉仕していたかを裏付ける伝説である。(ちなみに、伊丹のこや昆陽寺や昆陽池という地名の由来は、付近が昔、児屋 (こや)郷と呼ばれたことから来ているが、この郷名は天児屋根命から来ているとされる。)しかし、実際に彼らが司祭者の地位に就いたのは、六世紀初頭の継体朝の頃からであろうという説が有力である。」』
と、あります。

神官は、債務奴隷を産み出した張本人です。
大宝律令の時代の藤原氏もそうでした。
そして、神官時代のヘブライ人も、そうでした。

日本を奴隷国家にしてしまおうという、西欧列強の思想が、日本を思想的に侵略した説き、おやさまは、「悪しき払い」のおつとめを教えられた。
それは、「大社・高山」の「とふじん」思想を払うという、意味のおつとめでした。<> 基本。<><>2006/12/25(月) 05:36:17 ID:<>古代エジプトでの、大量の奴隷発生は、こうした実例として、旧約聖書が伝えています。
http://www.page.sannet.ne.jp/tcchp/yosefu/yosefu3.htm  引用します。
{ やがて親任式があって、ヨセフは王に次ぐ位を与えられ、王の全権を持ち、王の印綬を帯び、王の衣、装具をつけ、先払いを立てて王の車駕を駆り、全エジプトの運命を双肩に担うことになりました。
 七年の豊作の間、エジプトの全地は山をなして産物を生じました。ヨセフは周到な指示と厳重な監督で官民を励まし、予定通り税として産物の五分の一を納めさせました。ヨセフ自身もまめに全国を巡回しました。
 この税は、あまっている物の物納だから、決して重い負担ではなく、かえって価格の混乱がなくて人々も助かったのです。むしろ限りもなく集まってくる産物を収納、処理する役所の仕事の方が大変でした。しかし次に続く七年の飢饉のことが分かっていましたから、どんどん倉庫を増設して収納したので、ついには計量も記帳もできなくなってしまいました。
 ご承知のようにエジプトはナイル川の定期的氾濫によって産物が豊かだったので、はやくから農業が発達しました。そこで共同作業の必要などのために、次第に農民の組織が生まれ、紀元前数千年の頃から、秩序的な社会生活や政治形態が整い、また進歩していました。ですからこの条件のなかで、ヨセフの政策もうまく実行されたようです。
 多忙な中にも、ヨセフにようやく幸福な月日がめぐって来たといえましょう。
 この頃ヨセフは多分三十才を少し出たくらいだったでしょうが、間もなく結婚しました。
・・・
 七年の豊年が終わると、やがて恐ろしい飢饉がやってきました。飢饉が続いたために食糧がなくなった人々が王に助けを求めると、王の言葉は簡単でした。「ヨセフのところに行け。ヨセフの言う通りにせよ」
 ヨセフは今度は全国の倉庫を開いて、国民に食糧を払い下げました。
 凶年は続きました。人々のお金もなくなりました。するとヨセフは家畜を引き換えにして食糧を売りました。もちろん、所有権を王家に移して登録を済ませれば、家畜はもとの通り彼らに渡したでしょう。こうして人々の財産は全部王家に帰して、残るものは土地だけになりました。次にヨセフは土地を代償にして食糧に代えることも認めました。もちろん、名義が王家に移行しただけで、彼らは従来通りその土地に住み、その土地を耕作して生活したから別に困ることもありません。
 人々は、諸外国の人たちが飢饉のために飢えて惨澹たる状態なのに、自分たちが満腹して生活できるのは、王家のおかげ、国のおかげ、政治のおかげとよく分かりました。王家に従うことが自分たちの生きる道だと言うことを体験したわけです。
 その一方、一切の所有権は合法的に王家に帰し、国民は王家の恩恵のもとに、納税、労役、軍役の義務に従いつつ生活することになったから、これに服従しない場合は、土地、財産を取り上げることも、追放することも王家の自由となり、支配権のまだ確立していなかったヒクソス王家の支配は、今や全エジプトにおよび、完全に全エジプトを掌握することになりました。
 これらは全部総理大臣ヨセフの功績だといえました。 }

この方法は、律令時代の「天皇と藤原氏」の方法でした。
>>23
> 公出挙は、種籾まで食してしまった農民の救済措置として始まった。

宗教の、福祉と救済が政治となるとき、人を奴隷とする。
それは、歴史の示す人類の悪因縁である。

「悪しきをはろうて たすけたまえ てんりをうのみこと」

「てんりをうのみこと」とは、思想として文字をあてるなら、
「天理合うの御事」である。

「天の」「理」に「合う事」が「てんりをうのみこと」の思想。

不作と飢饉とを利用して、土地を取り上げる、「天理に反した」方法は、今も、世界中で行われている。「とふじん」は、奴隷の犠牲に、「楽園」を求める。
「天理に最も反しているもの」それは「宗教の悪因縁」である。
おやさまは、何も気づかないで、天理教という宗教にすがる、おろかな弟子たちに、・・
それでも暖かいまなざしをそそつつも、「天理」に「合う」ような「事」をしてほしいと、「南無」「南無」と成人を促されている。

>>115
yoshio2028さん。
零細農家の意図的な没落の仕掛けられた明治に、おやさまは、「天理」をといて、「天理」によるたすけを、開始されたと言う事です。
<> 基本。<><>2006/12/26(火) 02:16:31 ID:<>>>118
「債務奴隷」を、宗教の権威で生んだ人物として登場した「ヨセフ」は、旧約の時代の由緒ある人物で、後のイエスキリストの父「ナザレのヨセフ」の、名の由来となった人物でした。
ナザレのヨセフ 引用します。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B6%E3%83%AC%E3%81%AE%E3%83%A8%E3%82%BB%E3%83%95
{ ヨセフは伝統的に「イエスの父」ではなく「イエスの養父」と表現される。」
「このことは、旧約における同名の、ヤコブの子ヨセフの出生に由来する。ヨセフのヘブライ語の意味は、「加えるように」。彼の母は、彼を生むと「神がわたしの恥をすすいでくださった」(創世記30:23)と言い、「主がわたしにもう一人の男の子を加えてくださいますように」と願ったので、その子をヨセフと名づけた(創世記30:24)。このエピソードは、新約に至って、ヨセフが母マリアの恥をすすぎ、実子ではない一人の男の子を加える根拠となった。」 }

ヨセフは神の奇跡により、奴隷から、上った人物です。
http://www.salvastyle.com/data/theme_01_01_12.html

{「父ヤコブと母ラケルとの間に生まれた初子ヨセフは、父ヤコブに特別に愛でられていたため、異母兄弟の兄たち(父ヤコブと、母ラケルの姉レアに間に産まれた息子ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルンら)に疎まれていた。ある時、ヨセフは「兄たちの農作物が、僕の農作物にお辞儀した」と風潮したことがキッカケとなり、エジプトへ向かうアラブ人の隊商に身売りされてしまう。」
・・「エジプトでは奴隷でありながら、知恵の高さからエジプト軍に仕えるまでに出世するも、軍隊長ポテパルの妻の誘惑を断った為、投獄されてしまう。」
「 しかし獄中で、王の毒殺を図った料理長の罪と、疑いをかけられた給仕長の無実を見抜き名を上げる。またエジプト王パロの≪七頭の痩せた牛が、七頭の肥えた牛を飲み込む≫という夢を、七年間の豊作と、その後訪れる七年間の飢饉と夢解きし、王直々に再度認められ、宰相の地位を得ることとなった。」}

エジプトの全土の奴隷を掌握したヨセフのもとへ、一族は、参集します。
{「 数年後、ヨセフの夢解きのとおり飢饉がおこる。この飢饉で一族の窮地に陥ったヨセフの兄弟たちは、食料の助けを求めエジプトへと旅立つ。無事エジプトで食料を与えられたヨセフの兄弟たちは、一度、父ヤコブの下へと戻り、御礼を示すため、末子ベニヤミンを連れ再度エジプトを訪れる。そこで、一族に施しを与えた人物が、かつで身売りし宰相まで出世したヨセフと知る。兄弟たちはその事実に猛省し、ヨセフもまた兄弟たちを許す。その後、一族はエジプトへと移住した。」}

旧約聖書の物語は、神の愛と摂理の物語として、「ヨセフ」を讃えます。
確かに、飢饉に対応した。でも奴隷を大量に生み出した、それは、撒かれた種。
後に、モーゼは、イスラエルの民を率いてエジプトを脱出します。
「約束の地」に「楽園」を求めて、です。
>>24

見落とされているのは、奴隷を犠牲にした「楽園」という、その中身の「空虚・から」という事です。
誰かを「いけにえ」に捧げる思想。
神に命を捧げるという思想は「いけにえ」の思想。
真のまこと、では無い。だから、その先には、陽気遊山は見えてきません。<> yoshio2028<><>2006/12/26(火) 09:12:07 ID:<>あしきはらい、じゃなく
あしきをはろうてのおつとめです。<> 基本。<><>2006/12/26(火) 15:30:04 ID:<>>>120
> あしきはらい、じゃなく
> あしきをはろうてのおつとめです。

yoshio2028さん、失礼をしました。

「あしきをはらうて」のつとめは、あしきはらいのつとめの後に、おしえられたつとめです。
おやさまの思想の上では、「あしきはらいのつとめ」と、「あしきを払うてのつとめ」との、語句の相違は、そのままに、「理の相違」となっています。

「悪しき払い」は、史実上は、次のような「ひながた」でした。
 「三日三夜」      1866年「あしきはらいたすけたまえてんりわうのみこと」のつとめを教える。
→「三年三月」      1869年「十二下り」かぐらつとめを三年かけて教え終わる。
→「むまれだし=約280日」 1870年「ちょとはなし」「よろづよ」を教える。
→「五分=五年」     1875年「ぢば定め」「いちれつすます甘露台」を教える。
→「五分=五年」     1880年「初めて、鳴り物揃えておつとめ」
→「三度・・。=9年9月」1890年 現在の別席制度、おびや、お守りにつき整う。
これは、元の地場の、組織的な「たすけ」の、制度の開始と言うものを示す「ひながた」と理解されます。

それに対して、「悪しきを払うて」は、「おたすけ→おつとめ、のひながた」でした。
 「三日三夜」      1859年『ゆきに帯や許し』安産。
→「三年三月」
1862年『安堵村に産後の煩いの危篤の病人』(平井伊平の妻)おたすけに三日間出向く。
→「むまれだし=約280日」
1863年『講を結べと言われる』
→「五分=五年」
1868年『神の打ち分け場所』の一つ、山中宅に出向かれる。( 「なむてんりわうのここと」「なむてんりわうのみこと」)と唱えて「物種」をわたす。
→「五分=五年」
1873年飯降伊蔵に命じて「かんろ台の模型制作着手」。

「三度・・。=9年9月」
1882年10月12日〜10月26日毎日つとめ。(「あしきをはろうてたすけたまえ」のおつとめにて。)

「おびや許し、やまい助け、つとめ」という、ものが「悪しきを払うて」のつとめを教えられるまでの順序です。

それに対し、「悪しき払いのつとめ→甘露台つとめ→ぢばでの・人間のうまれかわり」が、「悪しき払い」のつとめでした。

yoshio2028さんの質問ですが、「悪しきをはろうて」は、つとめとして、
今述べましたような順序で、
「明治十五年」に「10月12日〜10月26日」に毎日つとめ。(「あしきをはろうてたすけたまえ」のおつとめにて。)
と、史実にはあります。
この時に、つとめられたと言う事です。<> yoshio2028<><>2006/12/26(火) 22:54:59 ID:<>ありがとうございました。<> 基本。<><>2006/12/28(木) 20:36:52 ID:<>おふでさきに、
『どのような夢を見るのもみな月日、まこと見るのも皆月日やで』(12号163)と、理が知らされています。
夢を見るという事は「月日のお働きである」と言うおやさまの思想です。

すると、平田篤胤が夢で師弟関係を結んだことも、旧約聖書のヨセフが、ファラオが夢で見た、豊年と飢饉の謎解きをしたことも、「月日のお働き」であったという事は、おやさまの思想に立てば、明らかです。

現実に、古代エジプトにおいて奴隷の身分の者が、ファラオの夢の謎解きをすることも、それが可能なまでには、大変な神の加護が必要であっただろうし、それを謎解きしたとして「外れていたら」命が無い。
それを、ピタリと解読し、エジプトだけには天災時に「危機管理」が出来ていたという事は、神の加護と言うより無い事です。
異母兄弟たちに殺されようとして穴に落とされた「ヨセフ」は、その復讐をしたのではなく、その兄弟たちを一族をたすけようとした。
その真心と言うものは、天にかなうものであったと理解されます。

そして、神からの特別の駕篭のあることが、国王の権威の、又神官の権威の裏づけとして説かれて、「大社・高山」が奴隷を産み、所有する事が当然となっていた歴史なのですが、この時、神は天災から大勢の民を救おうとして、ヨセフを使ったのであろうと、理解されます。

それは、おやさまの、『どのような夢を見るのもみな月日、まこと見るのも皆月日やで』(12号163)との思想にて、明らかです。

谷底のせり上げにおいての、「夢」のはたらきは、

おやさまの、おふでさき第十四号にて、

 どのようなゆめをみるのも月日なり
 なにをゆうのもみな月日やで    十四ー1
 月日よりにちにち心せきこめと
 そばの心わいづむばかりで     十四ー2
 いつむのもどふしていつむ事ならば
 上にハなにもしらんゆへなり    十四ー3
 せかいにハそれをしらすになに事も
 みなしたこふていつみいるなり   十四ー4

このように、理を知らされています。

西暦1879年、明治12年6月の時です。

この、十年後に「夢」の意味を理解しようと目覚めた人物がいます。
それが「フロイト」です。
http://www.shosbar.com/psycho/psych-db/nenpyou.html
この、「フロイト、ユング関連年表」によれば、その頃に、フロイトは、
『ナンシーに旅行、ベルネイムの催眠術を見学。夢に関心を持つ。』とあります。

『夢は、理をしらせるもの』と言う「おやさまの思想」とは、全く別の観点から探求した、フロイトと言う思想家は、夢の知らせを解読した、「ヨセフ」さんの夢の解釈の歴史を持つ、旧約の「ユダヤ教」の民でした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%88
ジークムント・フロイト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』<> 基本。<><>2006/12/29(金) 17:55:00 ID:<>犠牲と言うものが社会思想にあると言うことは、それ自体が、社会のゆがみを意味しています。
谷底と言うのは、高山に対して、「社会の犠牲」です。

イスラム教では、犠牲祭と言う祭りをすると言います。

http://homepage1.nifty.com/yukiko_world/Islam10.html
{ イスラム教・主な行事は? [断食明けの祭りと犠牲祭]
分派に関わらず、すべてのムスリムが宗教的義務として行う公式の行事は2つの祭りです。
ひとつは「断食明けの祭り(イード・フィトゥル)」
もうひつとが「犠牲祭(イード・アドハー)」。 }

・・・
{「犠牲祭」は、第12月の8-10日のメッカ巡礼の最終日に行われます。
巡礼の参加者は、この日にメッカ郊外のミナーの谷で、動物(羊、やぎ、牛、ラクダ)の犠牲を行い、それを貧者と分かち合います。また、この日には巡礼に参加しない人も同様の犠牲を行います。
この犠牲について、コーランには明確な説明がありません。}
{ただ、異教時代のアラブは、メッカのカーバ神殿に巡礼した際、動物を犠牲にしていたといわれ、ムハンマドがこれを取り入れたものと思われます。}
{ただ、ムスリムの間では、アブラハムが神の命で息子を犠牲として差し出したまさにその時、天子ガブリエルが息子と動物を取り替えたとの故事にならったという説もあり。 }

その、アブラハムの話は、ユダヤ教の話として、も伝えられています。

旧約聖書では、イサクの犠牲と言われる記述があります。
巨匠レンブラントの名画の説明の中から、それを引用しましょう。
http://www.salvastyle.com/menu_baroque/rembrandt_isaac.html

{ イスラエルの民の祖アブラハムと妻サラの間に生まれた待望の男子イサク(笑いの意)を山上で焼き、我に捧げよと神がアブラハムに命じ、迷い苦しんだ末にアブラハムは息子イサクを山上へ連れてゆく決意を固め、アブラハムは牡羊を、息子イサクは薪を背負って山頂へ赴き、祭壇上で息子イサクの喉元へ小刀を当てた(息子イサクも自分が犠牲であることを悟ったが抗わなかった)次の瞬間、「お前が神を恐れる者であることがわかった。」と神の祝福の御言葉が響き、「お前の子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る」とアブラハムが神から祝福を得る、旧約聖書に記された重要な場面≪イサクの犠牲≫である。}

明治の到来した、覇権主義者の「とふじん」の思想には、「犠牲」と言う思想が、元々から存在していたことが、この「イサク」の物語で理解される。

社会の谷底は「犠牲」であり、イエスキリストは「さまよえる子羊」と呼んで、たすけの道を示し、自らも十字架に架けられた。
そして、イエスの弟子たちの「宗教思想」は、征服による楽園創造を説いてしまっていて、現在も、それが世界の中心思想にある。
それは、「神からの信頼を得ると言う・神からのためし」という思想に原因が見出せる。<> 基本。<><>2006/12/29(金) 18:27:34 ID:<>>>124
> 「神からの信頼を得ると言う・神からのためし」という思想に原因が見出せる。
>
これは、おやさまのなされたためしとは、「たすけのためし」であるのに対して、「犠牲のためし」と言う相違点を有している。
神を信じているのなら、死後の「復活」を信じているのなら、我が子を犠牲に出来るのかと、「問う」。
「問う」のは「神」であり、問われたのは「アブラハム」であると、旧約聖書の文意は、そうなっている。
しかしそれは、問うのは、実は「人間」であり、問われているのは「神」であるという、論理になっている。
つまり、命がけで、神に忠誠心を示す事で、神の本心を見たいと言う人間の「問い」なのである。

http://www.nunochu.com/bible/01_genesis/gen29.html
ここに、牧師さんの解説があります。
『命より大事な息子とヤハウェと、どちらを選ぶのかとアブラハムに迫り、ヤハウェを選んだときに、息子もアブラハムに残されました。生涯失敗だらけのアブラハムですが、この事件で見せた信仰によって、今も「信仰の父」とまで呼ばれているのです。 』
『キリストもこのように弟子たちを教えました。
「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」』

神を疑わなかった時、「子羊」が得られて、我が子は救われた。
これが、旧約聖書の「信仰の父」なのですが、その疑わない先には、神が「楽園」を準備していると、奴隷支配を前提にした「祝福」を期待している。

おやさまの、たすけ一条のためしとは違うと言うのは、このイサクの犠牲により得たいものをみれば、それは「たすかり一条」の精神そのものにあります。

聖書を伝える宗教家は、神に問う。「とふじん」。
問う事が、宗教の価値だからです。哲学の価値だからです。
問う目的は、幸福の保障。それは転じて「死後の天国の門」。

おやさまの「ためし」は、そのような「哲学的なためし」ではなく、「神学的なためし」ではない。
おやさまの「楽園」は、ここにある。そして、「犠牲は一人もいらない」。
本質的に、まるで相違するものです。<> 基本。<><>2006/12/29(金) 23:59:35 ID:<>>>125
イサクと言う子供は、アブラハムにとって、どんな子であったか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%82%AF
[ イサク 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
から引用します。
[ イサクは旧約聖書の『創世記』に登場する太祖の一人。父アブラハム、母サラ。彼の名はヘブライ語でイツハークといい、「彼は笑う」の意である。アラビア語ではイスハークという。]
[ アブラハムの妻サラは不妊の女であり、子を産まぬまま年老いていたが、三人の人が訪れてアブラハムに子供の誕生を知らせる。その言葉のとおりサラから生まれた子供にイサクと名づけ、イサクは元気に育った。]

宗教の主題の一つである「生命の誕生」。
高齢者となっていた夫婦の間に生まれた子が「イサク」と言う事。
そのイサクが、「神から犠牲に召され、信仰を試された」と、旧約聖書に記された人物です。

我が子の命を犠牲に出来るのか。
神のためしと言う言葉で表現されていますが、それは、我が子孫の繁栄を祈る信仰に対する神の問いとすれば、「的を射ています」。
我が子孫の繁栄を望むというのなら、一番大切な「我が子」そのものを捨てきれるかと言う問いに置き換えるなら、神からの問いかけとして、的を得ています。

すこし、深刻に、見つめておきましょう。
イスラム教には、類似の話がありました。
>>124
イスラム教の「犠牲祭」という最大の行事も、子供を「神への犠牲」に出来るのかと言う「試練」の話でした。

しかし、イスラム教では、話は、肝心な部分で相違しているというのです。
[イスラム教と聖書]と言うサイトを参照しますと、
http://www.al-pha.com/fp/seisho/11seisho.htm
引用します。
{ 旧約聖書では、アブラハムは妻サラとの間に生まれたイサクを、犠牲として捧げるよう神に言われ、それに従います。 }
{ ところがイスラム教では、アブラハムとハガル(サラの召し使い)の間に生まれたイシュマエルが捧げられたことになっています。そしてイシュマエルはアラブ人の祖とされているのです。イスラム教の聖地メッカでは、今も、ハガルとイシュマエルを記念する方法で巡礼が行われています。}
{ 現在エルサレムの中心にある岩のドーム(モスク)は、アブラハムがイシマエルを神に捧げた場所を記念して、紀元七世紀に建設されました。今もイスラム教の大切な聖地となっています }
と、このようにあります。

つまり、旧約聖書では、犠牲になろうとしたのは唯一の子「イサク」のはずなのですが、異母兄弟「イシマエル」がいて、イスラム教では「イシマエル」が犠牲になろうとしたという話なのです。
この相違が、アラブとイスラエルの相違であり、多数陣営はアラブ。
この相違が聖書圏の欧米と、イスラムの相違でありね多数陣営は西欧キリスト教圏。

思想的には、奴隷妻の存在があったという、「高山・谷底」のいんねんを見ておかねばなりません。<> 基本。<><>2006/12/30(土) 00:14:30 ID:<>フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で、この話題の説かれ方を見てみましょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%82%AF
{ 出産をあきらめていたサラは、女奴隷のハガルによってアブラハムにイシュマエルをもうけさせていた。}
{ ところが、ハガルは増長して主人のサラを軽視するようになり、サラの腹から生まれたイサクをイシュマエルがからかっている光景をサラが目にしたことから、サラはアブラハムに母子を追い出すよう迫る。}
{アブラハムは神の「心配せず妻の言う通りにせよ(取意)」とのお告げを受けてこの母子を追い出す。}

{母子は放浪のあげく、泉を見つけて安堵する。この系列はイシュマエル人としてヘブライ人(ユダヤ人)とは別の民族になった}
{母子は放浪のあげく、泉を見つけて安堵する。}
{この系列はイシュマエル人としてヘブライ人(ユダヤ人)とは別の民族になったとして、旧約にも登場する(ヨセフをエジプトへ連行したのもイシュマエル人の隊商である)。}

{ アラブ人はこのイシュマエルを祖とするイシュマエル人の子孫と称し、アラブ人が開いたイスラム教ではイサクよりもイシュマエルが重視される。}

旧約聖書述べられている事柄は、夫と奴隷妻の子の存在を前提にしますと、すでに奴隷妻の子がいたのに、正妻の子がない事から、願って、神から「イサク」を授かったことになります。

そして、父親のアブラハムは、どちらかの子を、神の命令で、「山で、焼き殺そうとした」事にねなります。

ユダヤ教・キリスト教側では、「正妻の子」が犠牲になろうとして、神は、父親の信仰により、犠牲にしないように計らったことになります。
イスラム教側では、「奴隷の子」が犠牲になろうとして、神は、父親の信仰により、犠牲にしないように計らったことになります。

すくなくとも、奴隷の母子はね追放されたという事になります。
イスラム教とユダヤ教では、このように、「正妻の子」の子孫・イスラエルと、「奴隷で妾の子」の子孫イスラムが、おのおのの子を「犠牲」としてささげた神の正義を信奉し、
今も、犠牲をささげて「大社高山」どうしの、戦いを、していると言う事になります。

宗教が、戦争を肯定して争わせているようなものです。

これを治めたいという、おやさまの思想。
宗教は、人の生死と言う問題をてこにして、奴隷を生み差別し、支配してきました。
教育と情報戦略で、「大社・高山」は、「谷底」をままにする。し続ける。

「大社・高山」の、その本質を見抜いて説かれたねおやさまの思想は、現代への予言であり、人間の歴史の「欲に切り無い」本質を、見抜いています。<> 基本。<><>2006/12/30(土) 11:57:24 ID:<>我が子がいないために、自分の奴隷の女に夫の子を産ませる。
そして、その奴隷女の子がいるのに、今度は、「我が子」を神に願って授けてもらう。

欲に切りが無い姿と言うものです。
そして、我が子に対する、腹違いの兄の態度に腹を立てて、母子を追放してしまう。
これも、随分と自分勝手な、欲に切りが無い姿です。
その子を、犠牲として神に捧げよと命じる声を聞いて、父は、焼き殺そうとしている。

この一連の物語には、「たすけ一条」はありません。
「恨み」の思想がそこにはあります。
それは、後に、ヨセフを殺そうとしたのは、ユダヤの兄弟であり、たすけたのはアラブの民であったという事実で、誰にも分かります。
「兄弟の闘い」は、旧約の因果です。

後にモーゼが、イスラエルの民を引き連れてエジプトを脱出する時、こんなエピソードがあると言います。
http://www.vivonet.co.jp/History/b01_Create/Moses.html
{ 神の啓示  シナイ山の前で羊を追っていると、柴の茂みから炎が上がっているのを見る。そこでモーセは、神の声を聞く。
「エジプトに帰り、イスラエルの民を救え。そして、カナンの地に連れて行くように」}
{モーセは妻子を連れてエジプトに向かった。エジプト王ラムセス2世に会い、神の言葉を告げたが、全く聞き入れられなかった。困ったモーゼは神に相談し、>10の災害をエジプトに下した。}
{ 1.ナイル川の水を血に変え、魚を殺し水を飲めなくする 2.カエルを異常発生させる 3..ブヨを異常発生させる 4..あぶを異常発生させる 5.疫病を発生させ、エジプト人の家畜を殺す 6.膿を出す腫物をエジプト中に流行らせる 7.雹を降らせて畑の作物を全滅させる 8.イナゴを大発生させて稲を全滅する 9.3日間、エジプト中を暗闇にする }

{ そして、第10の災害を起こす前に、神はモーゼに告げる。「雄の子羊の血を門柱に塗り、肉を翌朝までに全て食べなさい。私はエジプト中を回り、人間でも家畜でも初子は全て殺す。しかし、血の塗られた家だけは過ぎ越していくだろう。」これが、過越祭の始まり。}
{ 出エジプト  最後の災害はエジプト王を震え上がらせ、イスラエル人がエジプトを出ることを許した。モーゼは200万人のイスラエル人を連れカナンの地に向かう。BC1250年のことである。}

ここにも、たすけ一条はない。
「破壊工作による情報操作」の発想がある。

神の啓示を「問う」事と、博学を用いて「お払いさんを振らす事」。
そこには、底抜けの兄弟なかよくは無い。
Gの国は、まだ「とふじん」に支配されている。
それが、おやさまの指摘した事である。

後日談はこうであるというる
{ エジプト王は後悔し、イスラエル人を皆殺しにすべく軍勢を率いて追跡した。前方には葦の海、背後にはエジプト軍と、絶体絶命の危機に陥った時奇跡が起こる。モーセが、手を海の上に差し伸べると、神は強い東風を吹かせて海を退かせた。イスラエル人は、無事に海を渡ることができた。 これが葦の海の奇跡である。}

{ 十戒  エジプト脱出の日から3ケ月が経ち,イスラエル人はシナイ山のふもとにたどり着く。シナイ山の山頂において神はモーセに十戒を授けた}

神官であったモーゼの一族は、ヨセフの時代には、「博学とマジック」で、国の全権を掌握していたが、強大な軍事国家の時代には、人員整理の対象となり、一部は奴隷の立場に追い落とされていた。
その奴隷から、せりあがるのに、モーゼは宗教を利用し、宗教国家を構築した。

宗教的結合による国家創造の神話。
カルト国家がそこには見えます。<> 基本。<><>2006/12/30(土) 12:03:45 ID:<>おやさまは、けっして宗教として国に認知されることをお許しにならなかった。

天理教と言う宗教は、抑圧されるおやさまを救うためと言う名目ではあっても、実態は、おやさまの思想を矮小化しました。
国家神道の思想奴隷に、追い込まれ、ついには、「とふじん」に従い、すすんで戦争協力をしたのです。

おやさまの思想で、またふしぎな力で、理想国家を作ろうとした、天理教の中の「とふじん」は、ついね昨日までの私たちと言うことになります。<> 基本。<><>2006/12/30(土) 14:12:56 ID:<>おふでさきで説かれた事は、きちんと「理」として実現する。
そうでないとするなら、天理教は「嘘」の教えだという事になります。

そして、たった一つでも、「理」として実現しないとしたら、天理教は「嘘」の教えという事になります。

この世界を陽気くらしに普請すると言うのは、宗教として「普請をリード」していくと言う事ではなく、「理」を知らして、「理」を用いる事で、人間自らが、陽気な世界を普請する事なのです。

 わがみにハもふ五十やとをもへとも
 神のめへにハまださきがある    一号63
 ことしより六十ねんハしいかりと
 神のほふにハしかとうけやう    一号64

これは、中山秀司さんの事だと言われます。史実としてです。
それならば、なんで秀司さんは、もっと若くして死んだのだと、疑問になります。
明治2年の正月に書かれていて、秀司さんが死んだのは、明治14年三月です。
陰暦で表記しましたが、実数は西暦で数えますから、
 ちなみに、西暦では、明治2年の2月11日から3月12日の間におふでさき一号は書かれています。
 明治14年4月8日に秀司さんは死んでいます。
すると、おふでさきの予言からは、12年と、ほぼ1月の寿命であったという事です。
 一年=五年、と数理は教えられていますから、丁度60年の数理に一致しています。

つまり、嘘は無かったという事になります。

こういうところで、理と現実とが合っていないで、ふでさきが、利として間違えているとしたら、天理教のおふでさきは、信じてはいけません。
「嘘」になるからです。

この件では、たまたま、合っていたと言う事になります。
それとも、他の件でも、合っているのでしょうか。
疑ってかからなければ、嘘にだまされることになります。

さて、明治2年(1869)年のおふでさき執筆から、実数の六十年後は、1929年以後になります。
おふでさきでは、「ことしより六十ねんハしいかりと」とありますから、六十年間の守護は約束されていることになります。

その60年の期間の最終の年、昭和三年、秀司さんの生まれかわりと言われる二代真柱様は、結婚をしています。
 十代の若い女房でした。

 これからハ心しいかりいれかへよ
 悪事はろうてハかきによほふ   一号65

このおふでさきは、秀司先生は、応法の悪事を掃除できなかったのに、十代の若き女房と結婚したという事と、その後の、生まれかわりの後の若き女房とを、数理としての六十年で、「理」として一つにつないでいると、いう事に、この件ではあっています。

とりあえず、嘘は無かったと言う事ですが、後の世代の結婚は、年代操作も可能ですから、丸ごと信じるようでは、「嘘」に騙されるという事になる。
ご用心です。<> 基本。<><>2006/12/30(土) 14:21:44 ID:<>>>130
そうなりますと、同じ頃のおふでさきで、

 このこ供二ねん三ねんしこもふと
 ゆうていれども神のてはなれ   一号60

これも、「嘘」でないとするならば、このおふでさきの書かれた二年後、三年後に、何かの仕込を出来ているはずはない事になります。
つまり、1年以内に死なないと、おふでさきは「嘘」ということになります。

宗教と言うのは、そいいう騙しのテクニックが宗教の一面ですから、調べておかないと、いけません。

問題の子供は、「明治三年陰暦3月15日」に死んでいます。
西暦では、2月の14日に死んでいますから、確かに、二年三年は仕込めなかった。
とりあえず、この件も、現実と合っていましたから、天理教は「うそ」とは、ならずに済んだと言う事です。<> 基本。<><>2006/12/30(土) 14:24:47 ID:<>天理教祖は「理」を教えた。
「理」には、「嘘」は許されません。

宗教の説く説教や法話は、「嘘も方便」ですから、比ゆや例話に、嘘があっても、「真理を伝えるための嘘」として許されたりします。

しかし、天理教の原典に、「一箇所」でも嘘があったら、天理教は全て嘘なのですから、きちんと吟味して、騙されない事です。<> 基本。<><>2006/12/30(土) 14:57:07 ID:<>つまり、明治2年の、「とふじん」の思想の襲来の嵐の中で、おやさまが示していたのは、わたしが説くのは「理」なのだよ、と言うものです。
>>130-132
しかし、おやさまの教えを利用して、秀司や高弟たちは、国家神道に利用される事で、「宗教家業」を作り上げた。
「神道・天理教」を作り上げた。

それは「方便」の教えとしての、天理教であり、自分たちの幸福のためだけの宗教であり、「人をたすけるというのも・実は自分がたすかりたい」ための宗教であった。

「理」を教えたおやさまと、「宗教」を説いた弟子。
弟子たちの説いた「宗教」は、それは、モーゼの信仰よりも優れていたとは、とても言えない代物でした。
「理の子」と言う思想奴隷を従えて、「ここはこの世の極楽や」と言う理の親天国をつくろとしていた。

天理教の神は唯一絶対の一神教である。などと、見てきたような嘘をついていた、宗教家の大先生たちと、その仲間。
私たちの、その誤った思想のルーツは、幕末、明治の日本の国家形成においての「とふじん」の思想に在りました。

ここまで、見つめるならば、
「とふじんとにほんのものと分けるのは 火と水とを入れて分けるで」2-47
この、おふでさきが、思われます。

>>128
> { 神の啓示  シナイ山の前で羊を追っていると、柴の茂みから炎が上がっているのを見る。そこでモーセは、神の声を聞く。

古代においても、「火」と「水」が見えたときに、神の声として聞こえて来た事があったのですが、・・・
その時に、モーゼは、なにをしたか、
>>128
> { 1.ナイル川の水を血に変え、魚を殺し水を飲めなくする 2.カエルを異常発生させる 3..ブヨを異常発生させる 4..あぶを異常発生させる 5.疫病を発生させ、エジプト人の家畜を殺す 6.膿を出す腫物をエジプト中に流行らせる 7.雹を降らせて畑の作物を全滅させる 8.イナゴを大発生させて稲を全滅する 9.3日間、エジプト中を暗闇にする }
{ 「雄の子羊の血を門柱に塗り、肉を翌朝までに全て食べなさい。私はエジプト中を回り、人間でも家畜でも初子は全て殺す。しかし、血の塗られた家だけは過ぎ越していくだろう。」

仮におやさまなら、何をされたろうか。

ミサイルが打ち込まれるかもしれないと、「火」が見えたとき、モーゼの取った方途は「とふじん」の思想。
おやさまならば、まず、自らの悪事を掃除し、先ず自らに「よふきくらし」を創るのではなかろうか。

思想が問われるのは、「火と水」とが見えたときである。<> 基本。<><>2006/12/30(土) 18:03:08 ID:<>旧約聖書の説いている世界は、「絶対唯一の神の世界である」
おやさまは、八百万の神を仏を裏から守護して教えてきた。
旧約聖書は、キリスト教とイスラム教、ユダヤ教のルーツにあたる。
言うならば、「こふき」である。

「こふき」には、口述されたものを記録したと言ういみで「口記」だと文字を当てる思想がある。
それは、実は、おやさまの思想と言うよりも、弟子たちの解釈である。
また、同じく弟子の解釈として「功記」と言うような解釈もある。

新約聖書が書かれた事について、秀司の生まれかわりの中山正善氏は、死後百年以上たって「聖書」は作成された。
天理教でも、ちゃんとした書き物が書かれるには、おやさまが姿をかくしてから、百年は要するであろうと、書いた文章を読んだ記憶がある。
教祖直々の原典があり、それなのに、「天理教の聖書」が必要なのかと疑問に思った記憶があるが、それは、聖典といわれる宗教書とは、信者の信仰告白であり、同時に、教祖の思想を伝えるものであるために、教祖が死なないと、作成されないためであると言うことだと思う。
聖書や仏教の経文は、弟子の作成した聖典であるからこそ、当時の信仰のありのままを伝えてもくれる。
神の言葉だけでは無いから、人間には理解されやすい。

さて、旧約聖書の伝える信仰とはなんであったのか、神の思召しとはなんであったのか。

創世記に、それはきちんと「口記」されている。
http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/7shigyou.html
{ 神の約束(15章)?土地授与の儀式}
{以前、「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見える限りの土地を全て、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回れがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」(13・14〜17)}
{ とすでに、神から土地の取得と、子孫繁栄の保証を告げられていたアブラムは幻の中で、再び神の啓示を受けます(15・1)。}
{それは、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(15・6)からです。そして、神から命じられた通りの、犠牲の動物を準備します(15・9)。}

つまり、旧約聖書とは「こふき」を文字にあてはめると「子富貴」そのものだと分かります。

絶対的唯一の神は、「目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見える限りの土地を全て、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。」と、約束されています。

もし仮に、欲一つ無き農夫であったなら、「見える限りの土地」とは、せいぜい、農夫本人と、妻と子の、ささやかな土地の広がりに過ぎなかったでしょう。
「高山」に登って、そこから、見渡していたら、もっとたくさんの大地が手に入ると、「欲深くなき農夫」ではなかった族長のアブラハムは、「高い山に登ろう」とします。

神の言葉は、そのような意味だったのか、「問う」事が、全ての始まりにありました。

唯一絶対の神は、『あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回れがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。』と、言われています。

それゆえに、「歩いた土地は全て自分の子孫のものになる」と解釈した事は、船と、汽車と、戦車と、どんな機械を使って歩いた土地でも、自分のものになるのだという、人間のおごりを生んでいます。

神は、「歩いて」と言われています。
人の身の分限の中での富貴を諭されている。

伝承を受け止めて、それを聖書にまとめ上げた「モーゼ」は、奴隷を支配しての地上の楽園を「子孫の富貴」だと、「こふき」である聖書にまとめたわけです。

おやさまの教えた「よふき」とは、これに対照して、「世富貴」。

我が子、我が子孫の永遠の繁栄を求めるあまりに、神から与えられた見渡す限りの土地を手に入れようと、「衛星」から見下ろして、我が物にしようとする、「高山」の思想。

その肝心の、「子供」を神が、(聖書風に言うならば)犠牲にしろと迫るほどの、心得違いが、そこにはあるのではないか。

肝心の子供の精神に、「夢に」、神の働きかけるものは、なんなのか。

おやさまは、世界中の子供の「よふき」を望む思想。
幕末、明治に日本に到来した「とふじん」の「こふき」は、モーゼの旧約聖書であり、それは、「高山のたたかい」の原因である、我が子、我が一族のみの繁栄を求める、帝国主義思想にあると、
それに、対抗しうる、「世」を全て「富」ませ豊かにし、人を「貴」ぶ、真の「よふき」を伝える書物。
にほんの「こふき」を求めると、その思想を早く伝えたいと、語られています。


<> 基本。<><>2006/12/31(日) 11:03:05 ID:<> 明治2年。
 首都が京都から東京に遷都されました。
 版籍奉還がなされて、それまでの江戸幕府の将軍にかわって、天皇が直接に政治を行う、明治政府が、名実共に樹立された年です。

その、中心の思想は、国学。古事記日本書紀をベースとした、「天皇一人の下の平等」という国体の思想形成と確立。
政治理想としたものは初期は「ナポレオン」。「ピュートル大帝」。
国力を高めて、列強と伍する事でした。
独立と開放のアメリカの思想を取り入れて、現実的な経済政策としての「殖産興業」に政策実行に向けて、農村の再編成を促す政策が取られることになります。
人為的に、産業革命を日本において起こす為です。
これらは、日本本来の思想をも解体して、伊勢神道系の思想に統一しようというものであり、それが、実はモーゼの旧約聖書の思想に色濃く影響された、「唯一絶対神」の構築のためであったことは、これまでの投稿で、検証してきたとおりです。

世界中の土地を我が物にしてよいと言う思想、それが旧約聖書の思想であった。

包囲し、従うものは、奴隷にしてしまえ。
従わないものは、攻撃して、殲滅せよ。
これが、西欧列強の植民地政策の根幹にある。


しかし、それは、宗教を政治の道具として利用するもののなしていた事であり、モーゼもイエスキリストも、「汝、殺すなかれ」を教えていた。

「神の教え」→「汝殺すなかれ」
「神を祭り上げた宗教思想」→「神の教えに従わぬものには死を」

「神の教え」→「お前が見渡せる土地を与えよう」
「神の教えを祭り上げた宗教思想」→「高い山からみおろして見える全ての土地を頂こう」

おやさまは、
「やしきは神の田地やで」と、言われています。
「欲に切り無い、泥水や」と、言われています。

泥水と言う事情を、心得なければなりません。

幕末、明治維新の頃に栄えたのは、実は「遊郭」でした。
遊郭は、債務奴隷の奉公先の一つであった。つまり、泥水です。
その遊郭で、幕末の志士たちは、「豪商」から資金を提供してもらっていた。

奴隷は家畜と同じですから、遊郭の女たちは、奴隷ですから、情報漏洩の危険度はかなり低い。
そこで、遊郭において、スポンサーの「大社・大商人」から接待を受け、活動資金を得ていた、それが明治政府の大立者たちの泥水事情と言うものでした。

その遊郭は、東京遷都によって、寂れてしまいます。

確かに、明治政府は、幾つかの法律を出して、法的に遊郭を解体しています。
>>28
おやさまの周辺でも、遊郭の廃業は起きています。

それは、自分たちの過去を消してしまうためであったと思慮されます。
そして、舞台を、東京に移してしまった。
まさに、奴隷とは、奴隷牧場も含めて、権力の道具に過ぎないと言う事です。

ここに、思想集団としての維新グループの中に、泥水事情が入り込んでいると言う事が、見えます。
純思想集団のグループは、例えば、天理教団の公認、独立までの道に、多大な協力を受けた人物、国学平田派の大物丸山作楽は、
>>99-100
維新政権の、宗教の要職、外交の要職につきながらも、明治五年には「天皇を侮辱した朝鮮ゆるすまじ」と、騒乱を計画し、逮捕されています。
これは、朝鮮の支配統治という意図よりも、「天皇絶対性」というものを信奉するカルト的な行動と見てよいでしょう。
平田神道的に言うならば、丸山作楽は、純粋という事になるでしょうが、「経済の支配」を意図するものに取れば、不都合なこと。
あくまでも、西欧の仕組みに伍してからの事、と、このような、「欲」からの泥水の事情があったと、分かります。<> 基本。<><>2006/12/31(日) 11:20:06 ID:<>>>135
明治2年、正月。
この年には、東京遷都がなされました。ただし国民に内緒のようにしてです。
http://www.kitanet.ne.jp/~kiya/hometown/topics004.htm
引用します。
{ 東京遷都
慶応3年大政奉還され新しい中央集権政治の中心地をどこに置くかが議論になった。京都返還論、大久保利通の浪速(大阪)遷都論、前島密の江戸遷都論、江藤新平の西の京都(西京)に対して江戸を東京とする東西二京論があった。
欧米列強を強く意識した大久保はそれらの首都と遜色のない都市を建設すべく思案したが、結局のところ、前時代からの政治支配体制と経済システムの遺産を継承しやすい利点と、広大な都市面積をもつ(旧武家地が全体の70%あり廃墟となる)ことから江戸を都と定めて再建に未来を賭けた。また関東や東北に残存する旧幕勢力に対するけん制の必要もあった。}
{慶応4年(明治元年1868)天皇の詔書がなされた。「江戸ハ東国第一ノ大鎮、宜シク親臨ヲ以テ其政ヲ視ルベシ、因テ自今江戸ヲ称シテ東京トセン。東西同視スル所以ナリ」。・・}
{この詔勅によって江戸が東京と改称されたが、この「東京」にふりがながなかったために「とうけい」「ひがしのきょう」などとも解釈され、「とうきょう」の呼び名に落ち着くまでに明治の15,6年を要したらしい。明治の新聞には漢字のすべてにルビがふってあるが20年ごろの新聞にさえ東京には"とうけい"のルビがふってあり西京(京都)には"さいきやう"とふってある。}

http://www.ffortune.net/social/history/nihon-mei/tokyo-sento.htm
引用します。
{ 東京遷都?(1869)
慶応4年は9月8日に改元され明治元年となり、その翌年の3月28日、若き天皇
睦仁(明治天皇)は江戸城改め東京城に入り、城の中に太政官府を設置します。
これを一般には東京遷都としています。}
{国民に自分たちこそ日本の中心であると納得させるためには天皇自らが江戸城に入り、そこから天下に号令することが一番よいと維新の中核メンバーたちは考えました。しかしその為に
天皇が京都を捨てるとすればそれは京都の民衆の同意を得ることは難しいものと思われました。}
{そこで取り敢えず天皇は明治元年9月20日江戸に向かい10月13日江戸城入城、
ここを東京城と改名する詔を出します。しかし京都市民の思いに応える為この
年は12月22日に京都に戻り、28日には一条忠香の娘美子(はるこ,皇后になる以前の名前は寿栄姫)を皇后として立て戊辰戦争で慌ただしい中一通りの祝儀が行われます。

しかし天皇は再び3月7日東京に向かい、この28日着。結局正式な遷都の布告はなく、「天皇が東京にいる間は太政官も東京に置く」というなんとも玉虫色の
宣言がなされただけでした。しかも京都市民に向けて「東国は未開の地であるから度々行幸して教化するが、決して京都を見捨てたりしないので安心するよ
うに」というメッセージまで出されます。要するに日本の首都はどうも法的に厳密なことをいうとまだ京都であり、天皇が東京に「滞在」している間だけ、臨時に東京が首都とみなされるということのようです。}
{しかし京都市民はこのようなまやかしの言葉に納得はしませんでした。同年9月になって皇后も東京へ「行啓する」という話になりますとその行列を止めようとする民衆が道にあふれ、兵が蹴散らさなければならなかったといいます。}

国民を欺いての遷都。
この「欺く」という体質こそ、宗教組織の方便の体質そのものです。<> 基本。<><>2006/12/31(日) 11:54:00 ID:<>おやさまは、欺きません。

明治2年、正月。
おやさまは、
 よろつよのせかい一れつみはらせど
 むねのハかりたものハないから   一号1
と、このように、おふでさきに記されました。

 そのはずやといて聞かした事ハない
 なにもしらんがむりでないそや   一号2

明治維新の遷都の直前、
維新革命思想の、根底にある「神は幽冥」と思う平田国学、そして、元にある古事記・日本書紀。明治政府の大立者が多大な影響を受けた西欧と言う「唯一絶対神の神の国」の思想奴隷の存在。モーゼの旧約聖書の支配の思想。
そして、「欲に切り無い」「大社・大商人の泥水」。

これらが、正に、日本を席巻しようとした時、おやさまは、ふでをもって、知らしめました。

 よろつよのせかい一れつみはらせど
 むねのハかりたものハないから   一号1
 そのはずやといて聞かした事ハない
 なにもしらんがむりでないそや   一号2
 このたびハ神がをもていあらハれて
 なにかいさいをといてきかする   一号3


『我は天の将軍なり。この屋敷は天より深く思惑ありて、この度天降りしなり』
天保九年十月二十六日におやさまは、このようにも語ったと伝承されています。

その前年、天保八年、大塩平八郎が徒党を組んで、乱を起こしました。
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic18.html
[あの人の人生を知ろう 〜 大塩平八郎]から引用します。
{内部告発の為に証拠を集める大塩は、西町奉行所(奉行所は東と西がある)にとんでもない与力がいることを知る。この弓削という男は裏社会の犯罪組織のボスで、手下に恐喝や強盗、殺人まで行なわせて自身は遊郭で遊び暮らし、与力という立場を利用して捜査を妨害する大悪党だった。
大塩は徹底的に戦う決意をし、大阪各地に潜伏する弓削の手下を片っ端から摘発、弓削のシンジケートを壊滅させた。弓削は自害し、大塩は没収した3千両という莫大な金銭を貧民への施し金とした。ところが事件はこれで収まらなかった。捜査の過程で、複数の幕府高級官僚が不正に加わっていた証拠を掴んだのだ!「余計なことをするな」「大人しくしていろ」と幕府中枢部から圧力を受けた大塩は、身の危険を感じて同棲中の恋人を親戚の家に匿ってもらい、腹をくくって巨悪に立ち向っていった。}

この時の、大塩平八郎の思想は、儒教の陽明学。
これも月日が教え来るでと、おやさまが言われた、思想の一つです。

{1830年(37歳)、大塩が不正行為を暴いた一大スキャンダルの裁決が発表される。それは大塩を深く失望させる内容だった。幕府高級官僚の悪事は揉み消され、小悪党の3名が遠島や改易処分になってこの事件は幕が下ろされた。そして処分の一ヵ月後、大塩を陰ながら応援してくれていた上司が辞任。これに連座する形で、名与力として人望を集めていた大塩も、職を養子・格之助に譲って奉行所を去った。こうして大塩の25年にわたる奉行所生活が終わった。}

(引用続きます。)<> 基本。<><>2006/12/31(日) 12:06:16 ID:<>>>137
> 『我は天の将軍なり。この屋敷は天より深く思惑ありて、この度天降りしなり』
> 天保九年十月二十六日におやさまは、このようにも語ったと伝承されています。
> この時の、大塩平八郎の思想は、儒教の陽明学。
> これも月日が教え来るでと、おやさまが言われた、思想の一つです。
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic18.html
[あの人の人生を知ろう 〜 大塩平八郎]  (引用の続きです)。
{1833年(40歳)、冷害や台風の大被害で米の収穫量が激減し、米価は高騰した。凶作は3年も続き餓死者が20〜30万人に達する。世に言う「天保の大飢饉」だ。1836年(43歳)、商都大阪でも街中に餓死者が出る事態となり、大塩は時の町奉行・跡部良弼(老中・水野忠邦の弟)に飢饉対策の進言をする。凶作とはいえ“天下の台所”大阪には全国から米が集まってくる為、庶民は飢えていても米問屋や商家にはたっぷり米があったからだ。「豪商たちは売り惜しみをして値をつり上げている。人々に米を分け与えるよう、奉行所から命令を出してはどうか」と訴えたが、跡部は耳を貸すどころか「意見するとは無礼者」と叱責する始末。}
{さらに大塩を憤慨させることが。将軍のいる江戸に米をどんどん流して点数を稼ぐ為、奉行所は大阪に搬入されるはずの米を兵庫でストップさせ、それを海上から江戸に送っているというのだ。しかも米価を吊り上げ暴利を得ようとする豪商と結託しているからタチが悪い。飢饉につけ込む豪商らの米の買占めで、大阪の米の値段は6倍まで急騰した。一方で奉行所は大阪の米を持ち出し禁止にし、京や地方から飢えて買い付けに来る者を牢屋に入れ厳罰に処した。もうメチャクチャだ。あくまでも出世の為に組織の論理を優先し、利己的な考えに終始する為政者たち。}
{日々餓死者が出ているのに何の手も打たない大阪町奉行。大塩は三井、鴻池ら豪商に「人命がかかっている」と6万両の義援金を要請したが、これも無視された。「知行合一、このまま何もしなくていい訳がない」。大塩は言葉が持つ力を信じていたし、けっして武力を信奉する人間ではない。しかし、事態は一刻を争った。窮民への救済策が一日遅れれば、一日人命が失われる…。12月。ことここに及んで、大塩はついに力ずくで豪商の米蔵を開けさせる決心をした。堺で鉄砲を買い付け高槻藩からは数門の大砲を借りた。大塩が睨む最終目標は、有り余るほど大量の米を備蓄していた「大阪城の米蔵」だ。}
{蜂起の前に大塩は、門下生や近隣の農村に向けた木版刷りの檄文(げきぶん)を作成する。「田畑を持たない者、持っていても父母妻子の養えない者には、市中の金持ちの商人が隠した金銀や米を分け与えよう。飢饉の惨状に対し大阪町奉行は何の対策を講じぬばかりか、4月の新将軍就任の儀式に備えて江戸への廻米を優先させ一身の利益だけを考えている。市中の豪商たちは餓死者が出ているのに豪奢な遊楽に日を送り、米を買い占め米価の吊り上げを謀っている。今こそ無能な役人と悪徳商人への天誅を為す時であり、この蜂起は貧民に金・米を配分するための義挙である」。}

忘れてはならないのは、この時の豪商が、明治維新の志士たちに「遊郭で」、資金を提供していたスポンサーであったという事である。
>>135
> おやさまは、「やしきは神の田地やで」と、言われています。「欲に切り無い、泥水や」と、言われています。
> 泥水と言う事情を、心得なければなりません。
> 幕末、明治維新の頃に栄えたのは、実は「遊郭」でした。
> 遊郭は、債務奴隷の奉公先の一つであった。つまり、泥水です。
> その遊郭で、幕末の志士たちは、「豪商」から資金を提供してもらっていた。
> 奴隷は家畜と同じですから、遊郭の女たちは、奴隷ですから、情報漏洩の危険度はかなり低い。
> そこで、遊郭において、スポンサーの「大社・大商人」から接待を受け、活動資金を得ていた、それが明治政府の大立者たちの泥水事情と言うものでした。
>

「知行合一」・・・つまり、「嘘が無い」という事。
大塩平八郎の信じた、儒学の教えは、その意味で、おやさまの思想と、きちんと一致していたと言う事です。

(引用が続きます)<> 基本。<><>2006/12/31(日) 12:27:43 ID:<>>>137-138
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic18.html
[あの人の人生を知ろう 〜 大塩平八郎]  (引用の続きです)。

「1837年1月。大塩の同志連判状に約30名の門下生が名を連ねた。内訳は与力や同心が11名、豪農が12名、医師と神官が2名ずつ、浪人1名、その他2名。役人と百姓が主軸だ。
2月、民衆の窮状を見るに見かねた大塩は、学者の自分にとって宝ともいえる5万冊の蔵書を全て売り払い、手に入れた六百数十万両を1万人の貧民に配った(奉行所はこれをも“売名行為”と非難した)。そして檄文を周辺4カ国の貧農に配付した。そして一切蜂起の日時を、新任の西町奉行が初めて市内を巡回する2月19日、町奉行が大塩邸に近づく夕刻とした(2月の夕刻なら陽も落ち、闇に乗じて攻撃できる)。}
{決起の前日、大塩は幕府の6人の老中に宛て、改革を促す書状を送った。蜂起後に江戸へ届くはずの文面はこうだ。「公然と賄賂をとる政治が横行していることは、世間の誰もが知っているのに、老中様たちはそれを存知ながら意見すらおっしゃいません。その結果 、天下に害が及ぶことになったのです」。仮に蜂起が失敗しても、心ある老中が一人でもいれば改革を行なってくれるかも知れない、そう願った。
※この書状は何者かの手によって、後日山中に打ち捨てられていた。}

{●大塩の乱 蜂起当日の午前4時。門弟の与力2人が裏切り、計画を奉行所へ密告した。当直で奉行所に泊まっていた別の門弟が「バレた!」と大塩に急報する。事態急変を受け、大塩は午前8時に「救民」の旗を掲げて蜂起した!朝の大阪に大砲の音が轟く。計画が早まり仲間が集まらず最初は25人で与力朝岡宅を砲撃し、続いて洗心洞(大塩邸)に火を放った。「天満に上がった火の手が決起の合図」と伝えていたので、近隣の農民が次々と駆けつけてきた。}
{ 70名になった大塩たちは、鴻池善右衛門、三井呉服店、米屋平右衛門、亀屋市十郎、天王寺屋五兵衛といった豪商の邸宅を次々と襲撃し、奪った米や金銀をその場で貧民たちに渡していった。難波橋を南下し船場に着いた昼頃には町衆も多く混じり300人になっていた。島原の乱から200年目の武装蜂起は街のド真ン中で起きた。次なる目標は大阪町奉行、そして大阪城!「救民」の旗をひるがえし進軍する大塩たち。
・・
しかし、正午を過ぎると奉行側も反撃の態勢が整い、大阪城からは2千人規模の幕府軍が出てきた。幕府軍の火力は圧倒的だ。砲撃戦が始まると民衆は逃げ始め、大塩らは100余名になった。100対2000。私塾の門下生と正規軍では勝負にならない。大塩一党は砲撃を浴びながら淡路町まで退き、二度目の総攻撃を受け夕方には完全に鎮圧された。しかし火災は治まらず翌日の夜まで類焼し、「大塩焼け」は大阪中心部の5分の1(約2万軒)を焼き尽くした。}
{ 事件後の執拗な捜査で門下生たちは軒並み捕縛されたが、大塩と養子の格之助だけは行方を掴めなかった。最終的に、約40日間逃走した後、3月27日に市内靱油掛町の民家に潜伏しているところを包囲され、大塩父子は自ら火を放つと火薬を撒いて爆死した。享年44歳。}
{この乱で処罰された者は実に750人に及ぶ。重罪者31人のうち6名は自害、2名は他殺、1名は病死、そして17名は1ヶ月の間に獄中死している。仲間の名を吐かせる為に過酷な拷問が行なわれたと見られる(大塩の恋人も獄中死)。刑の執行まで生存していた者は、わずかに5人だった。
{ 幕府はこの騒動が各地に波及するのを恐れ、反乱の実態を隠し「不届き者の放火騒ぎ」と封印しようとした。しかし、大塩が1ヶ月以上も逃亡したことで、広範囲に手配せざるを得なくなり、乱のことは短期間に全国へ知れ渡った。しかも爆死したことで人相確認が出来なかったことから、「大塩死せず」との噂が各地に流れてしまう。
乱から2ヵ月後の4月に広島三原で800人が「大塩門弟」を旗印に一揆を起こし、6月には越後柏崎で国学者の生田万(よろず)が「大塩門弟」を名乗って代官所や豪商を襲い(生田万の乱)、7月には大阪北西部で山田屋大助ら2千人の農民が「大塩味方」「大塩残党」と名乗って一揆を起こした。この様な大塩に共鳴した者の一揆や反乱がしばらく続いた。}

徳川幕府の要職は汚職にまみれていた。
それは、「大社・大商人」との癒着であった。

明治維新のとき、その「大社・大商人」は、幕府に見切りをつけて、有能な若者の集う、維新の思想家カルト集団を支援した。
そして、その資金と支援で明治政府は成立した。

大塩平八郎のような、「知行合一」とは反した、「方便の嘘の宗教思想家」。
彼らをくみしやすしと見て取った「経済人」こそ、裏にいる「大社・高山」である。

おやさまの見ていたものを、同じように見据えなければ、ならない。
おやさまは、嘘は嫌いである。<> 基本。<><>2006/12/31(日) 13:07:00 ID:<>>>137-139
おやさまの思想を、宗教思想としてのみ見ていると、「経済の高山」に欺かれる。

債務奴隷とは、「経済行為の結果としての奴隷」である。
宗教は、直接的には、思想奴隷をつくる恐れがある。
その、思想奴隷を利用して、債務を科して、奴隷を作るのは「経済人の経済行為」である。

ユダヤ商人は、経済人の「大社」として名高い。
「金儲けなんて、卑しい」という、宗教思想は、経済行為を蔑む事で、身分を下において置く事で、参入の防止の弁となっている。
誰もが、金儲けは素晴らしいと思ってしまったらどうなるか。

金持ちこそ天国にいける。
天国に行くには、金儲けしかないと、仮に、そんな思想が蔓延したらどうなるであろうか。

そしたら、ごく一部の金持ちだけがいる社会の不公正間は、著しいものになるだろう。

ところが、金金金と金の亡者では天国にいけないと、言うから、人は、亡者になりたくないと、「引いてしまう」。
又、金儲けをする機会が与えられていない事への不公正感は薄らいで、金儲けしている人を、どこかで蔑む。
有名な「ベニスの商人」のユダヤ商人に対する、「蔑視」こそ、思想的な罠と心得なければならないという事になります。

この世にしか、楽園は無いとしたら、普通には、「金持ち」にしか楽園はないのです。

が、あの世に楽園があると思うから、あの世の楽園の為に、「貧乏」でいようと言う思想。
「幽冥」の神を説く思想は、現世での債務奴隷にマインドコントロールする思想。
現実は「裸の王様」ならぬ、「裸の貧乏人」であるのに、

 神の王冠があなたの頭には、見えます。

と、諭されて、幸福になってしまう、それは、マインドコントロールであり、アメリカの国民が、子供に「割礼」してしまうのも、>>102
死後の天国の為への親心です。

「ここがこの世のごくらくや」。
おやさまは、断固として、この世を、「世の富と貴」を「よふきづくめ」を普請するという思想を、対極として示しました。

方法論の差こそあれ、大塩平八郎は「知行合一」。命をかけた。
そこには、霊魂としてまで留まるような「怨念」はない。
学者としての良心と信念と言う「理」しかない。
カルトとの相違です。

天保九年前の、1年前の事でした。
http://www.idudono.jp/iduwaku11oosio.html
ここにも、ありますが、大塩の家は、一家断絶となりました。
関係者もまた、思い罪を受けています。

そして、天保九年、大塩平八郎の乱の翌年の事でした。
『我は天の将軍なり。この屋敷は天より深く思惑ありて、この度天降りしなり』
『今より親子もろともに神の社に呉れるなら、三千世界をたすけさそ。』
『否と言うなら、この家断絶に及ぼす』

おやさまは、告げたと伝えられています。

人をたすけるとは、まさに、「断絶の覚悟」なくしては出来ないと言う、ものなのです。
そのおやさまの思想が、告げられた時から、中山家は、「貧のドン底」に、・・『落ち込め、落ち込め』
嘘の無い、おやさま。

その貧乏と言う現実の中でしか説けない、「谷底せりあげ」の、現世そのものの「富貴」の実現を諭しきっていかれたと言う事です。


<> 基本。<><>2007/01/01(月) 14:44:43 ID:<>>>1
おやさまは、明治元年の前年に、こう言われていました。

『年が明けたら、春はおかげやおかげやと、いふているけど、
 年が明けたら、もんくがかはる。
 おかげどころやないどこやないほどに、
 おはらいがふる、何がふるといふて、たのしんでいるけれど、
 血の雨がふるようなものやで。
 さあ、年があけたら、
 もんくころっとかわるで。』

王政復古となり、秀司が、吉田神祇管領に願い出て得た認可も無効となったとき、「取次人の先生」がたは、改めて、願いに出ようとした。
そのとき、おやさまは、

『願いに行くなら行ってみよ。行き着かぬうちに息が尽きるで。そんな事、願いに出るやないで。』
と、言われました。

慶応四年を、明治元年とし、明治二年には東京遷都した、
>>136
おやさまの弟子の、取次人という高弟たちは、「認可」を得たいと、心中にあって、息子秀司を代表にして、なにかと画策していくことに、堕落していきます。
錦の者でも、ぼろに、堕落する、「三十八年」の道。
それは、天理教会として、独立するまで続く。
>>8
おやさまは、「何一つ召し上がらない」という三十八年を、体現し予言します。
明治41年までの、天理教は、おやさまが、「何一つ召し上がらない」、受け取るところの何も無い、自ら求めての思想奴隷の道と、なりました。
それは、苦難の道と言いますが、じつは、おやさまの思想を外れた謀反である事を、おやさまの、断食の体言による予言は示しています。

弟子たちが、事もあろうに、「とふじん」の思想に、自ら媚を売ろうと画策していたとき、おやさまは、おふでさきを示しました。

 この処 大和の地場の 神館と 言うていれども 元は知ろまい 一号4

高弟たちこそ、ここは、ぢばだ、神の館だ言うのです。
信者こそ、ここはお地場だ、神様の館だと説くのです。
しかし、「元」は、知ろうまい。
宗教家の、ぼろと堕落していく、信徒の弟子の、三十八年。
天理教会公認の道は、まさに、古代に、モーゼ・キリストの、その弟子たちの犯したものと、まるで同じ、過ちでした。

世界中を、全て天理教会にしてしまうとか、弟たちの国を教化・指導するとか、なおも、突き進んだ天理教会の、宗教の思想では、おやさまには、「食べていただけるものなど何も無い」。
心得ねばなりません。

明治二年、まだ地場定めも出来ていません。神の館もありません。

「このところやまとの志バのかみがたと ゆうていれども元はしろまい」一号4

「かみがた」とは「上方」、それは、「神がた」。大和の神のふるさと。日本の伝統の、大和の上方から遷都する、唐人の思想集団。
東京遷都に対する、痛烈な、批判があります。
皇室を利用し、利権を独占する「泥水」との闘い。

大塩平八郎を死体塩漬けで、磔にした、黒幕は、明治維新の黒幕でもあった。
>>139

かみがたの伝統を破り、「将軍」の後釜に「天皇」をすえた「とふじん」の泥水を、見抜いていた、大和の片田舎の百姓女。

おふでさきは、過去と現在と、未来を語るおやさまの思想書です。<> 基本。<><>2007/01/01(月) 16:54:32 ID:<>> このところやまとの志バのかみがたと ゆうていれども元はしろまい 一号4

おやさまの思想書、おふでさきは、「音と文字とで」「複層」に読み分けます。

「志バ」と書いています。
読みは「地場」です。そう読みならわしています。又、「地場」は、「ぢば」と書くのがおふでさきの普通です。
ところが、「こころざし」の「志」を用いているのは、勤皇の志士たちの、「志」を踏まえています。

かみがたの朝廷を中心とした、「勤皇の志士」。

「> このところやまとの志バのかみがたと ゆうていれども元はしろまい 一号4」

勤皇を志して、古事記・日本書紀のふるさと、上方(かみがた)の思想を説いていたはずの、明治維新の「志士」たち。
>>136
> 中央集権政治の中心地をどこに置くかが議論になった。
> 京都返還論、大久保利通の浪速(大阪)遷都論、前島密の江戸遷都論、江藤新平の西の京都(西京)に対して江戸を東京とする東西二京論があった。
>
武家の精神の故郷は、関東。鎌倉、江戸。
勤皇の志士たちの思想のルーツは、上方にあった・・はずなのに・・
その行動は、
> 国民に自分たちこそ日本の中心であると納得させるためには天皇自らが江戸城に入り、そこから天下に号令することが一番よいと維新の中核メンバーたちは考えました。
>
との事情と、
> 結局のところ、前時代からの政治支配体制と経済システムの遺産を継承しやすい利点
との事情で、天皇を、とりあえず東京にお連れしたという事。

まさに、「日ノ本日本は、皇祖の国である。」と言いながら、元を忘れた「志士」の変節。
坂本竜馬さんや吉田松陰さんが生きていたら、そんな変節は無かったでしょう。
それは、善悪の問題ではなく、日本の元を知らぬままに、軍事国家の「武家の」関東に、東京に遷都した事が、「志士の」心どおりの姿であったと言う事です。<> 基本。<><>2007/01/01(月) 17:10:34 ID:<>>>142-143
> このところやまとの志バのかみがたと ゆうていれども元はしろまい 一号4
> 勤皇を志して、古事記・日本書紀のふるさと、上方(かみがた)の思想を説いていたはずの、明治維新の「志士」たち。

その堕落は、既に維新政府の発足時からあったという事になります。
おやさまは、それを見据えて、おふでさきに、知らせました。

天皇を真から尊敬し、平田国学を純粋に信奉していた、ある意味では思想カルトと言うべき人物たちと、
「> 政治支配体制と経済システムの遺産を継承しやすい利点」、を主としていた人物たちとは、
対朝鮮政策で、ぶつかります。
征韓論を唱えたのは、実は、思想カルト的な人物たちであった。
征韓論者の方が、天皇への忠誠心と言う点では、はるかに、重いものがあります。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を引用します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E9%9F%93%E8%AB%96
{ 征韓論(せいかんろん)は、
日本の幕末から明治初期において、当時留守政府の首脳であった西郷隆盛(西郷自身の主張は出兵ではなく開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことであり、むしろ遣韓論)、
板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによってなされた、武力で朝鮮を開国しようとする主張である。}
{ 江戸時代後期に国学や水戸学の一部や吉田松陰らの立場から、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと古事記・日本書紀に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられた。}

この、「天皇教」でありながら、方便に次ぐ方便で、東京遷都を妥協してしまった人物たちは、「西欧の唐人思想」により深く洗脳された人物たちと、征韓論で争いますが、破れます。
おやさまは、志士たちが変節していく様も、ご覧になっています。
古事記・日本書紀を日本の元と、説きながら、「かみがた」から、仮に天皇を移そうと言う、「方便」に負けた時から、志士の純粋さは失われて、政争の道具としての思想と堕落しています。

明治2年から、「38」年。明治政府は、錦からぼろに、維新の志士たちは、維新の元勲に、変節しています。
http://www.geocities.jp/kazuo714/kapitel2.htm
{四十一年七月には再び桂内閣が誕生する。このころはまだ政党の力が微弱であった上に薩長藩閥の勢力が強くのこっていた上に明治天皇から厚い信頼を蒙っていた伊藤博文・井上馨・大山巌・黒田清輝・松方正義・山県有朋らは元勲として政治に大きな発言力を持っていたのも当然である。彼らの中でも日露戦争が終わってからの山県は侮りがたい力を政界に発揮していた。その山県の後輩であり子分であった桂が、再度首相として選ばれたのもうなずけないことはない。とにかく桂は再び首相の座に就いた。こういう両者の関係があったために、政策の決定については一々山県にお伺いを立てるという有様だった。}

この頃には、経済も又、財閥支配下に置かれています。
(引用続きます)
<> 基本。<><>2007/01/01(月) 17:32:09 ID:<>>>142-143
> このところやまとの志バのかみがたと ゆうていれども元はしろまい 一号4
> 「かみがた」とは「上方」、それは、「神がた」。
> 大和の神のふるさと。日本の伝統の、大和の上方から遷都する、唐人の思想集団。
> 東京遷都に対する、痛烈な、批判があります。
> 皇室を利用し、利権を独占する「泥水」との闘い。
> 勤皇を志して、古事記・日本書紀のふるさと、上方(かみがた)の思想を説いていたはずの、明治維新の「志士」たち。

> 明治2年から、「38」年。明治政府は、錦からぼろに、維新の志士たちは、維新の元勲に、変節しています。
http://www.geocities.jp/kazuo714/kapitel2.htm
(引用続けます)

{ 第二節 戊申詔書(二律背反の時代)}
{
 日清日露の両度にわたる戦勝が、まだ国民の心を酔わせていた。だからといって、彼らの日常生活を支えるつっかい棒にはなっていない。・・
 戦争による増税や戦場に駆り立てられたところから生じた人手不足や、租税の過重な負担など、いろいろな悪条件に次々と責めたてられたからである。農民は田畑の荒廃を嘆き、商人は働き手を取られて貧乏ひまなしの生活がつづいた。こうなっては先祖代々の家業をつづけることが出来なくなった者もいる。}
 {その一方では、戦争のおかげで三井、三菱などの大企業はますますふくれ上がり、貧富の差はひろがる一方であった。}
{ このため、ある者は政体の変革を心ひそかに望み、またある者は国体をすら根底から揺るがそうと企てるようになる。自分たちではどうしようもないとあきらめた者は、「あせ水流して働くばかりが能ではない。享楽を求めて生きることにも意義がある」などという風潮さえきざしはじめていた。}
{ 事実三十一年ごろに発足した「社会主義研究会」のメンバ−の中には、前に書いたような国家体制の変革を願って実際行動に向かおうとする者もいた。}
{西園寺内閣の時に起こった「赤旗事件」も、そのような時代の一つあらわれである。}
{ ゆるみかけている国民の精神を緊張させようと考えた。こうして発布されたものが、『戊申詔書』である。}

ただしこれは桂の意図によるというよりは、もとをただせば山県の発意から出たものといった方が適切かもしれない。
 {「方今人文日ニ就(な)リ月ニ将(すす)ミ、東西相倚(よ)リ彼此相済(な)シ、以テ其ノ福利ヲ共ニス」で始まる詔書の・・・
 この主旨とするところは、「勤倹節約につとめ、荒れすさんだ気持ちを離れて、あくまでも国運発展のために尽くせ。」というのである。}

日清日露の戦争には勝ったが、国民はみなが貧困にあえぐことになった。
それが、東京遷都から「38年」後の姿である。

それに先立つ明治2年には、おやさまは、「志」の元から離れたすがたを、体現し、示されていた。
>>141
その、おやさまの思想を、筆にて知らされ、身近に教え知らされながら、弟子たちは、高弟たちは何をしていたのか、
天理教発展の為に、「台湾への殖産興業」を試みた教団幹部もいる、「海外布教」を試みたものもいる。朝鮮に渡ろうとした幹部もいる。
情けない、どのように思案をしていても、おやさまをたすける心はどこにも無かった。

恥ずかしいのは、天理教である。
宗教とは、「大社・高山」いんねんの、走狗なのか。
志の地。大和の地場のかみがたと、言うていれども、元は知らない。

やまいたすけの成果はあげたと言うけれど、「谷底せりあげ」を、真剣に行った幹部は、誰一人としていない。

明治2年のおふでさきを、いまだ読めない、我々なのである。<> 基本。<><>2007/01/02(火) 11:23:01 ID:<>訂正があります。

>>141
> 大塩平八郎を死体塩漬けで、磔にした、黒幕は、明治維新の黒幕でもあった。
この、「大塩平八郎」と言うのは間違いで、「大塩権八郎」でした。
お詫びして、訂正します。

「大塩権八郎」という人は、大塩平八郎の叔父で、>>140 、で、 「> 関係者もまた、思い罪を受けています。」と、ご紹介しましたように、
http://www.idudono.jp/iduwaku11oosio.html
吹田市にあります、「泉 殿 宮」 に、宮司さんの養子に行かれてからの名は、「宮脇志摩」さんと言います。
改めまして、「塩漬けの磔」の事などの処罰の事を引用させて頂きますと、
{ 翌2月20日、与力2人、同心22人、尼崎藩兵250人余りが宮脇家を取り囲んだ。
志摩は自宅にて切腹し、家のものに「只今、宮脇志摩は、自刃いたしました」と三宝の上に載せたはらわたを見せた処、捕らえられる事もなく引き返した。
その後、直ちにはらわたを腹に詰め込みさらしを巻いて、槍を杖に、止める妻 理加 を突き飛ばし、
目はもうろうとして「まだ役人は居るのか」と更に止める、義母 直 を槍で突き伏せ、大阪市内へと向かったが、庄本村のため池にはまり亡くなった。}

{宮脇志摩(有妥)は、41歳で亡くなり、死体を塩漬けにされ、磔(はりつけ)の刑となる。}

{当時の刑罰は、当事者だけでなく、家族にまで及んだ。
長男発太郎は天草島に、次男慎次郎は壱岐に、特に三男辰三郎は、乱当時お腹の中にいて、7歳になり隠岐に流された。
当時の決まりでは、島流しは15歳まで待つのが通例であったが、よほど幕府への衝撃が大きかったのか倍以上早まり、童流人と民衆の涙を誘った。
島の庄屋さんがとても親切で、読み書き算盤を手ほどきし、島の娘と結婚し子どもも設けた。}

宗教家と武士の潔さを貫いた「大塩権八郎・宮脇志摩」さん。
同じ宗教家の中にも、このように潔い人がいた事は、まさに、天理教におきましての「泥水事情」とは、対照的なものと感じます。
吹田市にあります、「泉 殿 宮」
{ 当宮往古は、次田ノ社と称え奉り、河内の次田連の祖神 天香山命を氏神として、五穀の神「宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)」}
{ [伏見稲荷大社の御祭神]を祀(まつ)る。}
http://www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/kamigami/ukamitama.html
おやさまが、これも月日が教え来るでといわれた八百万の神の宮司さんの純粋さは、まさに、鏡とすべきものでした。

大塩平八郎は、爆死しておりました。訂正致しました。

「大塩平権八郎を死体塩漬けで、磔にした、黒幕は、明治維新の黒幕でもあった。」でした。
<> 基本。<><>2007/01/03(水) 11:03:49 ID:<>明治維新の時に、勤皇の志士たちが豪商から資金を得るための会談の場所として利用していたのが、「京都島原」。
http://www.tonkatsuichiban.com/map/simabara/simabara02.html
ここに紹介があります。
{幕末には西郷隆盛・久坂元瑞などの勤王志士達が、軍用金調達のため時の豪商を角屋へ招いて会談を行ったところであり、また彼等を探し求めた新撰組が乱舞した場所でもあります。}
{長州藩志士 久坂玄瑞の密議の角屋
石標裏面文 久坂玄瑞は 吉田松陰死後塾徒を率い 尊攘に挺身 文久政変に山口へ七卿落ちを斡旋するも 元治元甲子年七月 蛤御門(はまぐりごもん)の変に遭い 壮烈な死を遂げた 享年二十五 }
{角屋は玄端が屡々暗殺の難を避け潜行密議した場所である}

薩摩と長州が明治政府の中核になっていた、その始まりは、この「島原」という「遊郭」(厳密には花街で遊郭ではないと定義されています)が、にての、談合にありました。

おやさまが、明治二年に、おふでさきにて、

対決姿勢を明示したのは、その、維新の志士たちの中にある泥水事情にあったということでした。
> このところやまとの志バのかみがたと ゆうていれども元はしろまい 一号4
> 「かみがた」とは「上方」、それは、「神がた」。

『天皇親政政治』と、うたい文句にして、明治の御世にしたけれど、明治2年から38年間、国民は、ますます貧しく格差拡大は著しくなります。
>>144
> > 明治2年から、「38」年。明治政府は、錦からぼろに、維新の志士たちは、維新の元勲に、変節しています。
http://www.geocities.jp/kazuo714/kapitel2.htm

おやさまは、元冶元年につとめ場所の普請の時、「神前にては拝をして通れ」と、命じておられましたが、おやさまの弟子たちは、「大和神社」では、太鼓を叩いて、おつとめをしてしまいました。
「拝をする」という事の意味が理解されなかったという事でしたが、明治の元勲たちと政商・財閥との癒着は、元冶のころの維新の志士の姿に既にその萌芽があったように、
おやさまの弟子たちの、尊大なおごりは、元冶の頃からあって、それが、宗教の高山と言う、なってはならないものを目指す体質の元にありました。

それを、中山家のいんねんそのものから、切り替えていく。
おやさまの思想は、「わが身のためし」でありました。

立教の宣言と言われる、「我は天の将軍也」と、江戸幕藩体制化で宣言された事の意味を、明治2年には、おふでさきにて書き記しました。
 よろつよのせかい一れつみはらせど
 むねのハかりたものハないから   一号1
 そのはずやといて聞かした事ハない
 なにもしらんがむりでないそや   一号2
 このたびハ神がをもていあらハれて
 なにかいさいをといてきかする   一号3
 このところやまとの志バのかみがたと
 ゆうていれども元はしろまい    一号4
 このもとをくハしくきいた事ならば
 いかなものでもみなこいしなる   一号5
 ききたくバたつねくるならゆてきかそ
 よろずいさいのもとのいんねん   一号6

 かみがでてなにかいさいをとくならば
 世界一れつこころいさむる     一号7

神が出た、出ている。
明治政府に対する、痛烈な批判の思想でした。<> 基本。<><>2007/01/04(木) 09:38:21 ID:<>「理を」神と、説くおやさま。
理とは、説かれ明かされた時から「表に出る」ものであり、
「理」そのものは、現実に存在してあるとしても、それが、「理として説かれ」、「理として試され」、「理として実行され」、しないと、この世に「理」として表に現れないものであります。

おやさまは、おふでさきに思想を示す前に、「理」を説きました。
それは「説き流しのおうた」として説かれたように、文字ではなく伝承のものとして、説かれました。
そして、「理」を試されました。
それは、「谷底せりあげ」とは何かと言う「理」でした。
それは、「世界ろくぢ」と言う「思想=理」でした。

その道筋は、「世界の飢饉」と密接につながったものであった。

おやさまは、「世界の飢饉」について、次のような思想を示されています。
 いちれつに神の心がいづむなら
 もののりうけかみないつむなり  一号12

http://www.eishindo.co.jp/iyosaku/nanimono/kikin.html
ここに、天保の飢饉の時の話があります。
天明・天保の飢饉と下館藩
『天保の大飢饉 (1832−1837) は天明の飢饉 (1783−1787) を上回る規模でした。 百姓たちの不満は高まり、 一揆や打ち壊しが激化し、 全国に広がり始めました。 』
『下館藩では、 二つの飢饉の後、 領内の人口が半減するほどの惨状でした。 五行、 小貝の両河川の氾濫を始め、 打ち続く凶作に下館の農民は極度の困難に陥いりました。 藩主の治世能力の欠如は決定的で、 借財もかさんで藩財政は破局に直面していました。 』

『しかし他の藩をみると、 日本全国を襲った飢饉のなかで衣食に困らず余裕を見せていた藩もありました。 その一つ近隣の桜町 (栃木県二宮町) では、 一人の餓死者も出さずに大勢の領民を救っていました。 』
『この時の指導者が二宮尊徳で、 下館藩でも、 尊徳の力を頼り、 その指導を仰ぐために一年をかけて口説き、 ついにその指導を受けることができ、 藩の財政は立ち直っていくのです。』

天保の飢饉の時、宗教家にも「徳者」がいたと伝えられます。
http://suzu1.matsusaka.ne.jp/sakura/history/tenhonokikin.html
『そこで紀州藩は、10月18日から12月6日まで、西町の長竹庵、博労町(本町)の惣安寺、平生町の真行寺、新町の真台寺の4ヶ所で粥の施行を行った。また、12月7日から26日にかけては、町会所において米の施行を行い、翌年1月末にも粥の施行を行った。しかし、飢民は絶えることもなく、むしろ施行の噂を聞いた近在の農民や参宮途中の旅人たちが押し寄せ、市中は飢民であふれたという。』

『そのころ、来迎寺の妙有上人(1781〜1860)は、飢民の窮状を見兼ねて、寺費でもって救済に乗り出した。上人は、天保7年10月初旬から粥の施行を始め、翌年4月29日まで、1日も休むことなく施行を続けた。この間、当初1日平均70人程度であったものが、12月下旬には180人、1月下旬には820人、2月下旬には1280人と増え続け、施行を受けた者は、7ヶ月間で延べ12万6464人にも及んだ。また、施行の経費は、寺費はもとより、上人の功徳に感化された、市中の商人や近在の農民たちの寄付が充てられた。』
『前の紀州藩主徳川治宝は、天保8年7月に上人の善行をたたえて報奨金を与え、翌年6月には自ら「無量寿」と認めた横書物を与えた。この横書物は、掛け軸に表装され、今も来迎寺に寺宝として大切に保存されている。』


天保8年陰暦十月二十六日の秀司の足痛は、こうした「飢饉」の事情の中に、見せられたものである。
 > あしのちんばが一の残念
>>64-65
「3日3夜」       1837   秀司   足痛から、散財の開始。
→「3年3月後」     1841 おやさま  貧に落ちきれ。
→「およそ4年1月後」    1842 おやさま  家の高塀取払え。
→「およそ9年1月後」    1846 おやさま  安市にて、中山家の道具一切を売り払う。
→「およそ14年1月後」   1852 おやさま  夫善兵衛とともに、らい病施設に寄付をする。
→「およそ23年10月後」  1861 秀司    中山家の家業の当主として、切り回す。

このように、飢饉の事情の、債務奴隷事情の、因縁きりを、「理」として、現している。
それが、おやさまの思想である。<> 基本。<><>2007/01/04(木) 09:56:27 ID:<>>>147
天保の飢饉の時、知行合一の思想家大塩平八郎がいた。真実の宗教家大塩権八郎がいた。>>140

そして、天保の飢饉の時、篤農家二宮尊徳がいた。
二宮神社に祭られた二宮尊徳を「引用します」
http://www.ninomiya.or.jp/sontoku/index.html
『二宮尊徳翁(公文書では、金次郎、自筆は金治郎)は天明7年(1787)、相模国栢山村(今の小田原市栢山)の豊かな農家に生まれました。再三にわたる酒匂川の氾濫で田畑を流され、家は没落し、過労により両親は亡くなり、兄弟はばらばらに親戚の家に預けられました。金次郎は 、朝暗いうちから夜遅くまで汗と泥にまみれて一生懸命働き、その間余裕ができればわずかな時間も無駄にせず勉強をして、先人の教えを理解しようとしました。荒地を開墾して収穫を上げお金を貯め、質に入れていた田畑を少しずつ買い戻し、一生懸命努力して24歳までに一家を再興しました。 』
『毎晩勉強していた金次郎は、読書をするための油代を稼ぐために荒地に菜種を植え、たった一握りの菜種から7〜8升の取り入れになった経験や、捨て苗を荒地で丹精こめて育てて、秋には一俵の籾を収穫したことにより、自然の恵みと人の力の素晴らしさを知 ると共に、小さな努力の積み重ねが大切(積小為大)だと学び、これが後の行いや考え方の基になりました。』
『大人になった尊徳翁は、生涯を世の中のためにささげ、小田原藩家老服部家の財政再建をはじめ、藩主大久保忠真候の依頼により分家宇津家の桜町領を復興させるなど、自分の体験をもとにして大名旗本等の財政再建と領民救済、北関東から東北にかける各藩の農村総合的復興事業(仕法)を行い素晴らしい成果をあげました。』
『大飢饉で農村が疲弊しきっていた当時、尊徳翁が仕法を手がけた村々は600ヶ村以上に上ります。多くの農村や藩を貧困から救い、独自の思想と実践主義で人々の幸福を追求し、数理、土木建築技術から文学まであらゆる才能を発揮した世界に誇れる偉人です。』
『内村鑑三著『代表的日本人』の中でも、19世紀末、欧米諸国に対して「日本人の中にも、これほど素晴らしい人物がいる」と苦難の時代を救った偉人として尊徳翁は紹介されています。 』

『最初の信用組合
尊徳翁は藩の使用人や武士達の生活を助けるために、お金を貸し借りできる「五常講」をつくりました。信用組合の発祥はドイツといわれていますが、尊徳翁はそれより40年以上も早く信用組合と同じ組織である五常講を制度化し実施していました。 』

『自然と環境
現在、注目されている自然との共生を尊徳翁は百数十年前にすでに実践し、常に自然と環境のバランスを考えていました。』

「飢饉」は、「泥水事情に対する理の責め」である。
その時、真実・まことが、試される。

一つは、「知行合一」。一つは、「積小為大」。大塩平八郎と二宮金次郎。
天に恥じぬ生き様は、これが、天保九年前の、日本人の心である。
対比して、明治維新の泥水事情は、やがて日本に、あらたな飢饉を生むことになる。
おやさまの、断食は、飢饉の事情を身体に現してのものであった。

理とは、人の精神にて、発動する。
おやさまの思想である。
「知行合一」「積小為大」。
おやさまは、「おちこめおちこめ」「天然自然」。

この世を立て直すものは、日本の心であり、「幽冥を説く洋魂」ではないことは、自明といえる。<> 基本。<><>2007/01/04(木) 13:03:19 ID:<>現代社会に債務奴隷というものをもたらした原因は、1600年の東インド会社と言う「貿易会社」の設立の時からです。
1602年にはオランダにも東インド会社が出来ています。
日本は江戸時代オランダとの貿易国でしたから、その事は承知されていたわけです。
http://homepage3.nifty.com/asia-kenbunroku/Shokuminchi.htm
{18世紀中頃、イギリス国王から貿易独占権を与えられていたイギリス東インド会社は、インド東部においてムガール帝国から徴税権や行政権を獲得し、インド東部を実質的に支配し始め、19世紀中頃になると、インド領土のほぼ全部がイギリス東インド会社の支配下になってしまった。}
神から権力を授与されたとの立場の「国王」が、「貿易会社」に独占権を与えると言う、「許認可」による「大社・高山」の横暴はこうして、アジアを席巻しましたが、
それは、それまでにあった、奴隷貿易を利用しての肉体労働者としての奴隷から、債務を課して奴隷にする宗教的奴隷生産システムへと、あくどい変化をしていきます。
キリスト教の宣教師たちが、実は江戸時代に日本人を奴隷として売買する手引者であったという事を、忘れてはなりません。

その肉体の奴隷制度そのものに対する批判は、自由主義革命の思想として、行われたとあります。
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/kindai/30-syokumin3.html
{17〜19世紀(18世紀がピーク)にかけてアフリカから新大陸に運ばれた黒人奴隷の数は1000万人前後と推定されているが、彼らは暴動を防ぐために船底に鎖につながれて、身動きできないほどのすし詰め状態で運ばれたので、途中で約3分の1が船中で死亡したといわれ、その数を加えると1000万人以上の黒人奴隷がアフリカから輸出されたと推定されている。}
{黒人奴隷の多くはアフリカ西海岸、特にギニア湾岸の地域(現在のナイジェリア・ベナン・トーゴ共和国の辺りは奴隷海岸と呼ばれた)の地域から連れ去られた。当時この地域では部族間の抗争が続いていたので、ヨーロッパ諸国の商人は武器を輸出し、部族同士を戦わせ、その戦争捕虜を奴隷とした。そのため部族間の抗争に敗れれば奴隷とされるので、抗争に勝つためにより多くの武器を手に入れようとした。しかし、ヨーロッパの商人は奴隷との交換でないと武器を売らなかったので、奴隷狩りも盛んに行われた。}
{こうして、ヨーロッパからアフリカへ武器・雑貨を輸出して黒人奴隷と交換し、アフリカの黒人奴隷を西インド諸島に運んで砂糖と交換するヨーロッパ・アフリカ・新大陸間の三角貿易が盛んとなり、イギリスなどのヨーロッパ列強はこれによって莫大な利益を得た。}
{労働力としての黒人奴隷の対象になったのは若い男女の黒人であったので、黒人奴隷を連れ去られたアフリカ西海岸を中心とする地域では、人口が減少し、貴重な労働力を失って社会の発展は阻害され、次第に後進地域に陥っていった。}
{この非人道的な黒人奴隷貿易は19世紀の初めまで続いた。黒人奴隷貿易に対する反対運動はフランス革命の中から起こり、イギリスでは1807年にまず奴隷貿易が禁止され、1833年には植民地での奴隷制が廃止された。}

個人の肉体を奴隷にすると言うものに対して、禁止されたという事は、債務奴隷の解放を意味してはいません。
国家全体、地域全体を奴隷国家にしてしまうという、帝国主義的植民地が拡大した事で、個人に対する非人道的な行為としてよりも、民族や国家に対する奴隷化運動として、行われたと言う事です。

宗教思想による支配を試みたアメリカと、そのアメリカ以前からカトリックの宗教思想による支配を試みていた西欧人との対立の例が、フィリピンにあったと言う。
「アメリカのフィリピン植民」から引用しよう。
http://www.rikkyo.ac.jp/~makorin/fm014ich.htm
{1907年度まで教員の1割以上をアメリカ人が占めた。(表1参照)このアメリカ人教員の大多数はプロテスタントであった。}
{1903年にはアメリカ人教員の92.3%がプロテスタントであった12)。カトリック教会にとり,信徒子弟がプロテスタントの教員から授業を受けるのは望ましいことでなかった。}

もともとの土俗の神を排除し、カトリックも排除して行われたフィリピンでの学校教育の普及のやり方。
モーゼの思想を背景にした、侵略主義は「学校」を建てた。

「がくもんなぞと言うたとて みえてない」

思想で奴隷にして債務でしばる。
古代の思想が「復古」していたのは、フィリピンを支配するアメリカにおいてでありました。
明治の学校教育の現場に、>>148 、二宮金次郎の銅像がなかったなら、日本人は完全に思想奴隷となっていた。

「とふじん」が「にほん」のぢに入りこんでままにする。
それは、「フィリピン」においても、そうであった。残念なことでした。<> 基本。<><>2007/01/05(金) 11:45:14 ID:<>大塩平八郎のごとく、精錬潔癖で有能な官僚が中国にいました。
林則徐。
彼は、イギリスの阿片の密貿易に対して、断固として、闘った官僚であり、それが、アヘン戦争の開戦の理由、きっかけとなりました。
阿片戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』引用します。http://ja.wikipedia.org/wiki/ アヘン戦争

{阿片戦争は清とイギリスとの間に1840年から2年間行われた戦争で、南京条約をもって終戦とした。名前の通り、アヘンの密輸入が原因となっておきた戦争である。}
{イギリスは清へ輸出出来る物品として、植民地のインドで栽培させたアヘンを仕入れ、これを清に密輸出する事で超過分を相殺し、三角貿易を整えることとなった。}
{1796年(嘉慶元年)にアヘンの輸入を禁止していたが、アヘンの密輸入はやまず、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していった。}
{林則徐は阿片を扱う商人からの贈賄にも応じず、非常に厳しい阿片取り締まりを行った。1839年(道光十九年)には、アヘン商人たちに「今後一切アヘンを持ち込まない」と言う誓約書を出す事を要求し、イギリス商人が持っていたアヘンを没収し、これをまとめて焼却処分した。(実際は、海水<食塩水>と消石灰による化学反応によって、阿片を無害な物質に変えて処分したことから、その時まきあげた化学反応の煙によって、焼却処分したと庶民には伝承されてきた)この時のアヘンの総量は1400tを越えた。その後も誓約書を出さないアヘン商人たちを港から退去させた。}

{イギリスの監察官のチャールス・エリオットはイギリス商船達を海上に留めて林則徐に抗議を行っていたが、林則徐は「誓約書を出せば貿易を許す」と返した。実際にアメリカ商人は誓約書をすぐに出してライバルがいなくなった事で巨利を得ていた。}
{1839年11月3日、林則徐による貿易拒否の返答を口実にイギリスは戦火を開き、清国船団を壊滅させた。「麻薬の密輸」という開戦理由にはイギリス本国の議会でも、野党であった後の首相ウィリアム・グラッドストンを中心に『こんな恥さらしな戦争はない』などと反対の声が強かったが、清に対する出兵に関する予算案は賛成271票、反対262票の僅差で承認され、イギリス東洋艦隊が清に向けて進発した。}

おやさまが、「立教いらい、三年」、内蔵にこもられていた期間は、丁度「阿片に対する取締りと戦争勃発、英国の支配確立」の時になります。中国侵略の第一歩でした。

英国が求めていたのは、「美味しく紅茶を飲むための陶磁器、美しく着飾る絹」でした。
「グルメ・セレブ」が「アヘン戦争」をおこしたようなものでした。
{「アヘン貿易」 当時のイギリスでは喫茶の風習が上流階級の間で広がり、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入していた。逆にイギリスから清へ輸出されるものは、時計や望遠鏡のような一部の富裕層にしか需要されないようなものはあったものの、大量に輸出できるようなものはこれと言って無く、イギリスの大幅な輸入超過であった。}

貧に落ちきれ、とのおやさまの思想は、「谷底」の債務奴隷をうむものの「本質」をずばりと突いていました。
それは、「奴隷」を踏み台にして「華麗に暮らす、陽気に暮らす」、高山の生き様。
立教の前夜、政治と宗教は癒着し、日本では財閥による支配が開始された。
英国の議会は、国会は、「幸福に暮らしたい自国民の為に」、他国を奴隷にする事を、議決していた。

>>2
おやさまは、「国会ではおさまらない」と言う思想を示しています。
そして、「理」にたいする深い思案で、対する姿勢を示されています。
セレブ・グルメでは、この世の難儀はたすけられない。
アヘン戦争の発端の教訓です。

<> 基本。<><>2007/01/05(金) 12:03:01 ID:<>>>150
イギリスと断固闘った、林則徐は、
{清朝の官僚、政治家。1785年、福建省福州生まれ。25歳で進士となり、江蘇巡撫、湖広総督を歴任。清廉な政治で民衆の人望を集めた。やがてアヘン問題が持ち上がると徹底した厳禁論を主張、その上奏文が時の道光帝の目に止まり、欽差大臣として広州に派遣された。林則徐は、外国人居留地を実力で封鎖し、外国商人所有のアヘンの引き渡しに成功、強制的に焼却処分した。}人物です。
{アヘン問題処理のため、林則徐が友人の魏源らに編纂させたヨーロッパ事情の研究書「海国図志」は、幕末の日本へも伝わり、明治維新にも大きな刺激を与えたといわれる。}

林則徐が、友人の魏源らに編纂させたヨーロッパ事情の研究書「海国図志」、これが、明治維新の志士たちの思想理念の根拠になったと言う事です。
http://ww7.tiki.ne.jp/~abab/i-mode/heisyo/23.htm
から引用します。
{23.外国に学んで外国を制することを提唱した魏源およびその著『海国図志』}
 魏源は清代後期の進歩的な思想家・史学家・文学家、「外国の特技を学んで外国を制する」戦略の提唱者で、彼が著した『海国図志』はその軍事地理思想と海防思想を全面的に反映しており、清代後期に推進された自国の軍事を強化する政策を理論武装する役割を果たしました。
{(2) 外国の特技を学んで外国を制することの代表作『海国図志』・・(西暦1842年)に刊行され、あわせて50巻、57万字、附地図23幅、西洋火砲図式8頁で、これは魏源が『四洲志』をベースにし、増補して完成させたものです。}

おやさまが、内蔵に籠もり、「刻限」と「元の理」を自らに反芻していた、その三年の期間の間に、相当します。

林則徐と友人魏源は、西欧を研究し『開国図志』を刊行にいたらしめました。
{その書が刊行されたあと、国内の争いがあい伝わり、魏源は社会の需要を満足するため、さらに増補して60巻とし、道光二十二年(西暦1847年)に、揚州において第二版を刊行し、書中には蒸気機関で動く外輪船、地雷、水雷、望遠鏡などの製造と使用の方法を増加しました。}
・・・
{「外国の特技に学んで外国を制する」というのが『海国図志』の主旨です。魏源は書中において外国の実情を入手して、外国に学ぶことを手段とすることから始め、最後に外国を制するという目的に到達しています。}

(引用を続けます)<> 基本。<><>2007/01/05(金) 13:00:39 ID:<>>>151
 聖書の神により権威を与えられた、英国の国会・議会。
 それが、他国に対して「制裁」を行うと言う正義。
阿片戦争は、世界の泥水事情として、英国が自由貿易を認めない国を劣等国として制裁した形になっています。
 日本もまた、朝鮮に対して自由貿易を求めて、侵略をします。
その手段は、「武力」であった。

それに対して、> 外国に学んで外国を制することを、
これが、圧倒的に不利な戦いで破れた清国の、林則徐と魏源の目指したものであったわけです。
(引用の続きです)
http://ww7.tiki.ne.jp/~abab/i-mode/heisyo/23.htm

{「外国の特技に学んで外国を制する」というのが『海国図志』の主旨です。魏源は書中において外国の実情を入手して、外国に学ぶことを手段とすることから始め、最後に外国を制するという目的に到達しています。彼は西洋の特技には三つあるという見解をもっています。一つ目は戦艦、二つ目は火器、三つ目は兵士を訓練し兵隊を育成する方法です。国家の武備を振興するには、西洋の戦艦の建造・火器の製造・そして兵士の選抜と訓練の方法についての理解と学習が必要です。}
{ ・・このため、魏源は下記のような主張を提出しました。虎門要塞区の大角と沙角において、造船所と火器局を建設し、アメリカ・フランスの技術者を広東に招聘して銃砲・艦船を製造します。同時に有能な職人や壮健な兵士を派遣して、アメリカ・フランスの技術者のもとで欧米の艦砲の製造法と使用法を学ばせます。このようにして数年を経過すれば、西洋の特技はこちらの特技となってしまいます。}
{彼は造船所と火器局の場所の選択について、外国を制する戦略から出発しており、軍需工場と海防基地の建設について全面的に考慮しています。これは魏源が人よりの一歩ぬきんでているところです。}

{ その2。一部の旧式水軍を廃止し、一まとまりの小型・中型の戦艦を購入し、外海において敵に対抗できる新艦隊を一つ編成します。}
{彼は、以下のように求めました。戦艦の建造と大砲や水雷の製造を行える人を、科甲出身(国家公務員)と同様にみなすこと。暴風波浪を乗り切るのがうまく、風雲沙綫と射撃技術を熟知している人を、行伍出身(正規軍将兵)と同様にみなすこと。もし厳格に選抜して合格したなら、沿海水軍に送って技芸を教習すること。およそ水軍の将官は、必ず造船所と火器局のなかから選抜し、あるいは操舵士・水夫・砲手から任命すること。国家がもしこれらの人の地位を向上させたなら、艦船の建造と火砲の製造という新式軍事を熟知した人材と軍隊を一つ作り上げられます(「籌海篇三・議戦」)。}
{ その3。造船向上と造兵工場の建設は、民用工業を開設するのと一体でなければなりません。}
{・・火器局は銃砲を製造するほかに、天尺・千里鏡・火輪機・千斤秤など国が民生を計るのに役立つ品物を量産できます。これと同時に、もし沿海の商人がみずから進んで工場を設立し、銃砲や艦船を製造しようとするなら、それは好きなようにさせます(「籌海篇三・議戦」)。}
{軍事技術と工業技術が、また軍事工業と民用工業が互いに並んで発展していくとする思想を提出したのは、清末においては、魏源がその第一人者だと言えます。}
 {その4。「外洋を守るのは海口を守るに及ばないし」「海口を守るのは内河を守るに及びません」(「籌海篇一・議守上」)。この一種の「守ることを戦争のメインとする」海防思想の提出は、外人の堅固な戦艦と強力な火砲、そして海上での戦争における優勢を回避するためのものです。}
{魏源は有利な地形を選択して内河を要地に拠って守り、堅固な城壁を築き、周辺の敵に利用されそうな建物を破壊して食料を回収し、壮健な兵士を選抜して訓練し、奇兵をひそませ、優良な火器による攻撃に備え、敵を深く誘い込み、その後で砲兵と地雷、水陸にひそんでいた奇襲部隊を使って外国の軍隊を攻撃します。この種の戦法を採用すれば、こちらの長所によってあちらの短所を攻めることができ、たとえば「落とし穴を作って虎を待ち、あみをしかけて魚を待つ」のと同じになり(「籌海篇一・議守」)、敵を死地においこめます。}
{魏源は『海国図志』巻84から巻93にかけて、当時の国内の有名な軍事技術者の研究成果、とりわけ西洋の銃砲・艦船と水雷や地雷について初歩的な研究を行っている状況を収録しました。}
{『海国図志』が世に問われて後、当時の国を愛する将兵・役人と文人・学士のなかに、強烈な影響を生み出し、彼らに堅固な艦船の建造・優秀な火砲の製造・精強な兵士の訓練に着手させて、中華民族の独立と生存を守ろうとする気にさせました。}

{『海国図志』は東の日本に渡ったあと、日本の維新派に歓迎され、明治維新を発動させる理論的根拠の一つとなりました。}

明治政府の、富国強兵の論理の原点がありました。<> 基本。<><>2007/01/05(金) 13:08:30 ID:<>>>151-152
> 外国に学んで外国を制することを
それは、実は机上の空論であり、「外国は肝心なことは教えない」と言う「高山」なのです。
結果、武力で対抗しようとした中国は、列強からの分割支配を受けることになります。
日本も、はじめは武力で対抗しようとしますが、完膚なきまでに負かされます。

奴隷貿易の輸出国アフリカでそうであったように、同じ民族どうしが武器を買い争って、闘いあえば、どうなるのか。

おやさまは、「内蔵の三年」、理とひながたで世界をたすけるという思想を、先ず体現しています。

中国の王朝は「天命」により王位について、人民を奴隷として来た。
英国の王は「神授」された権力を「国会」に与えて、自国民には繁栄をもたらすとして、異教徒の植民地は、奴隷として支配してきた。
おなじ因縁の構造の中で、あい争いあう権力と権力。
いずれもが、「学問」により、「技術革新」により、特権的幸福を維持しようとするものたち。

天の理をとく、おやさまは、人間が元々の神の魂の、清らかな存在に復元する道筋を、まず、じっくりと、身につけて、「家業第一」という、自然で人らしいありかたを、中山家に実現した行く事を示しました。

夫婦親子からの、ささやかなまことの道が、何よりもの、陽気暮らしへの道であると、示されました。
それが、五十年のひながたのみちの開始でした。

おなじ三年の間に、まるで違う方向を向う、
中国の専守防衛論的富国強兵政策は、結局、清朝の崩壊にむかって、日本の富国強兵も、結局天皇神格制の崩壊にむかった。

ユダヤ教の思想は、「実学とマジック」にあり、それは「経済第一」と言う思想であり、「マジック」は、あくまでも、「経済」のための武力に過ぎない。
その「西欧」の原理原則を、きちんと把握していなかった結末と言うしかない。

逆に言えば、「自国・自民族」を愛していて、大切にしていると言う点では、西欧の思想は勝っていたといえる。
その分、異教徒・異民族には、むごかったのだが・・・。<> 基本。<><>2007/01/05(金) 16:23:54 ID:<>商人の発想は、商売にある。
経済と言うものを思想の根底においた西欧社会と、「統治・支配」を根底に置いた江戸幕府社会では、国力と言うものの認識が違う。
武力と言うのは、ある意味では「必殺技」のように見える。
しかし、経済力と言うものは、その元の基礎体力である。
幕末の日本に対して、欧米が思想支配、武力統治に踏み込まなかったのは、日本には、「寺子屋」「私塾」が全国規模で展開されていて、欧米式の学校を西欧主導で行うことは、容易ではなかったからである。
士農工商の下級身分に置かれた「工商」の立場のものが、学問をし、一定の文化・教養を身につけていたという事は、それを思想支配するという事は容易に出来るものではない。

そして、経済的には、日本は問屋制家内工業の発達著しく、事実上経済は自由化されていた。
薩摩、長州が財をなしたのは、「密貿易」の利益によるものであり、そこには、経済行為の基盤があったと言うことである。
英国に単を発した産業革命は、機械化による大量生産を可能とし、生産者を富める者とそれに隷従するものとに分離した。
資本家と労働者と対比されるものも、元は同じ程度の生活水準の生産者であった。
しかし、産業革命は西欧社会の構造を格差拡大著しく変化させた。
毎日を、陽気に遊んで暮らす「貴婦人たちとそのとりまき」を産み、彼女たちのドレスとティータイムの為に、「アヘン戦争」を起こしたのも、経済のためである。

おやさまは、元の理の話の中で、「柿と栗」という話をされている。
神は陸住まいの人間に、「柿」と「栗」を食物として、与えるよう守護されたと言う。
そしたら、人間は「柿の木」は自分のものだと、「垣根」を拵えた。
また、「やりくり」をして、「富の蓄財」をした。
そして、この世に、「八百八段」の差別が出来たという。

植民地とは「垣根」である。
経済支配とは「やりくり」である。

甘い果実を永遠に「陽気に貪ろう」というブルジョアの思想。
それが、この世に新たなる大きな差別を産むと言う時代であった。
おやさまは、「内蔵」にこもった。

隣国、中国清王朝の優秀な官僚は、
>> 152
> {造船所と火器局を建設し、アメリカ・フランスの技術者を広東に招聘して銃砲・艦船を製造します。同時に有能な職人や壮健な兵士を派遣して、アメリカ・フランスの技術者のもとで欧米の艦砲の製造法と使用法を学ばせます。このようにして数年を経過すれば、西洋の特技はこちらの特技となってしまいます。}
>>151
> {一つ目は戦艦、二つ目は火器、三つ目は兵士を訓練し兵隊を育成する方法です。国家の武備を振興するには、西洋の戦艦の建造・火器の製造・そして兵士の選抜と訓練の方法についての理解と学習が必要です。}

モーゼの思想の大前提は「経済」にある。
西欧列強は経済を近代化していた。
このことは、林則徐や魏源には理解されていなかった。
「自由と平等」を説く社会が、なぜ他国に侵略をするのか。それは、「経済的特権の拡大」にあるのであり、経済的弱者の経済支配にある。
その、根底を見落としていたのは、彼らが経済人ではなかったからです。

日本は、経済戦争と言う現実の前に、敗戦しました。
二宮尊徳が教えた、勤労の精神を、真の国力に変える事が出来なかったのは、日本の財閥と結びついた軍部の支配が、国や民族に優しくなかったからと思慮されます。

おやさまは、「家業第一」という、「はたらき」の思想を、「人間がこの世に生まれた理由」と、示しました。
そして、人間の「欲」の中の、善としての「欲」ではなく、「埃としての欲」を、「欲に切り無い泥水や」との視点から、人間の夫婦親子単位の「家業」という最も自然な経済行為の、構築から、説き起こされました。

宗教家は、「神事」・「神への行事」としての「つとめ」を説きます。
しかし、つとめとは「勤め」。
「勤皇の志士」とは、「天皇に勤める志士」と言う意味です。
おやさまは、「理に勤める」、「天理王の務めの志士」を、求めておられて、それは、小さな家業から、小石を集めて、巌石となすような、大望の道でした。<> 傍陽気<><>2007/01/07(日) 09:14:43 ID:<>お筆先解釈の、にほんとは、教祖の思想の治まった地、から(唐)とは未だ治まっていない地という事から、そのような先入観で基本さんの語るおやさんの思想を読んでいては理解できないようです。唐人とは、西欧思想そのものだと、唐とは西欧そのものだと、混じらせず文字をダイレクトに読まなくては解らないとやっとここまでです。<> 傍陽気<><>2007/01/07(日) 09:21:05 ID:<>西欧列強の奴隷生産の思想を借りた明治維新、尊皇攘夷という思想そのものが、唐人のそのものであったと、やっとここまでです。<> 傍陽気<><>2007/01/07(日) 09:51:49 ID:<>しかし、天保の飢饉、大塩の乱という江戸末期の時代背景は、鎖国と言う国策そのものの大転換を迫られていたと思います。そういう意味では開国は、ペリーによって迫られましたが、時代が迫っていたともいえると思います。そして、西欧と手を組む、にほんのじを守るために避けられないことであったのではないでしょうか。基本さんが言う、日本の家内工業は当時既に成熟していて、というのはちょっと違うと思うんですけど。<> 基本。<><>2007/01/07(日) 11:36:35 ID:<>>>157
http://www.econ.aoyama.ac.jp/~rmiwa/lec/jphist/8.htm
ここに、要約がありますので、引用します。
{ 1 幕末の経済発展段階と世界経済
幕末の経済発展段階  鎖国下の商品経済の発展
三都(江戸・大阪・京都)を中心とする全国的商品流通が展開
地域的商品経済も展開
マニュファクチュアの存在 織物業・醸造業・製糖業・製鉄業・鋳物業など
マニュと問屋制家内工業の併存の事例
機屋共ハ、銘々機織女並糸繰紋引等大勢召抱、渡世仕、・・・」
〔上州足利郡機屋共始末書付(1835 天保6 年)〕  }

日本経済の未成熟を指摘する別な見解もありますので紹介します。

http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_1161533007/content.html
{ 日本でも幕末から明治初年に紡績や製糸業などでマニュファクチュアが形成されたが、産業革命を準備するにはいたらなかった。}

全体像から言えば傍陽気さんが言われるように、日本経済は英国ほどは成熟していなかったことは、ご指摘のとおりだと思います。
しかし、幕末期には、日本は工業製品で貿易黒字国であったと言う時期の例もあります。
その事は、桐生の問屋の実例を含めて、>>48 、>>49 に、紹介しましたが、尾張地域の実例などを踏まえて、「マニュファクチュアの進展」説を、基本は採用しています。

http://www.geocities.jp/hatm3jp/069.html#6
{[開国の影響] A マニュファクチュアの進展 }
{ 日本では、江戸時代後期にはマニュファクチュアの段階まで進展していた。}
{ 工場内での分業と並び、材料調達に当たっても分業が成立していることが大切である。}
{ 尾張中島郡は、綿織物のマニュファクチュアを成立させていた地帯であったが、ここでは岩倉、一宮、尾西で役割分担をしている。
・綿織物の原料である木棉栽培は、島畑地帯の岩倉あたりでおこなわれていた。島畑は大河川流域に展開している地形で、川の氾濫で土砂が流れ込んでくるため、田の中に島状に畑が形成された。畑に肥料を与えると、これが田に入って土地が肥えてゆき、生産効率がよかった。
・岩倉の木棉は一宮の三八市に売りに出された。これを買って手紡ぎで糸にする農家が一宮あたりにはたくさんいて、また市に出していた。これを尾西方面の村が買い、マニュファクチュアで生産した。繊維産業は、糸が切れると困るため、河川流域の湿潤なところが産地となる。
・尾西の中心の起では、当時は5軒に1軒は織り屋であり、10台の織機を入れて10人くらいの織り子を雇っていた。織り屋の中では、染色、経糸を織り機に掛ける整経、横糸を糸車に巻く仕事、織る仕事というように分業されていた。
・マニュファクチュアの段階まで生産形態が進んでいれば、資本主義経済に転化するのは容易。工場、労働者は揃っているため、機械を導入するだけでよい。機械導入で大生産に移行する直前の形であると言える。
・この時期、インドは植民地となり、中国は半植民地となった。日本が平気だったのはそのためだという説がある。}

<> 基本。<><>2007/01/07(日) 12:25:52 ID:<>>>157-158
> 日本の家内工業は当時既に成熟していてというのはちょっと違うと思うんですけど。

ひながたに於いては、おやさまは、「糸つむぎ」をされています。
これは、「問屋制家内工業」の一作業工程です。

又、中山秀司が、中山家として取引していた相手に足達重助さんがいます。娘さんが足が立った人であり、中山家にお金を貸した資産家です。
>>60-61  参照下さい。
高野友治先生の著作・ご存命の頃には、文政元年の出来事として山辺郡での「菜種油」の商売をめぐる騒動が書かれています。
菜種油とは、商品作物です。幕府から許可を得た問屋が商売をしていたが、その生産方法は、問屋制家内工業でしょう。
その流通の支配を幕藩体制が行っていておきた騒動があったと言う事です。
その、菜種油で儲けたのが足達重助であったわけで、生産システム、流通システムの土台があったと言う事です。

そして、封建時代の幕藩体制化に、自由に往来できた宗教家業の関係者が「商品作物」の流通に関係したことの、事実もそこには触れられています。
養徳社刊・高野友治編「天理教史参考年表」には、周辺事情として要約が整理されています。

植民地支配の、支配の目的は「経済」にありますが、1600年の東インド会社設立以来、西欧の方法は、モーゼの、旧約のパターンです。

強大な軍事力を先ず誇示します。それを大前提に、
?、おはらいさんを降らせる (>>1 参照) つまり、宗教の布教。ありがたさの普及。神の愛と死後の世界の幸福と言う、二元論を流布する。
?、科学力を土台としたマジックを見せて、武器を売りこむ。国内の分裂。内戦の誘発。分割統治。又は、貿易による利益を、その国の支配層のみと享受する。
?、教会・学校などの教育文化の侵略。

このようにして、思想奴隷であり、経済奴隷である債務奴隷の道に導いていくのです。
それは、死後の神の国にいざなう行為そのものですから、罪悪感すらない。
戦国時代に、イスパニアやポルトガルの宣教師が、日本に対してなした事もそれでした。現実に日本の子供は奴隷として売られたいました。(>>27 )
> ?.日本の奴隷制 http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-16-5.html

しかし、目的は経済的利得にある。
日本が、経済システムを構築していた事は、西欧の侵略支配方法そのものに大きな「盾」の役割を果たしたという事は、間違いないことと思います。

足達重助さんは、菜種油の商売で幕末に利益を上げていたとあります。
そうした、自衛農家の中の豪農と言うものは、問屋制家内工業に関係していたものが大勢いて、自由経済を求めて、明治維新には倒幕に意見を集約していったと思います。
<> 基本。<><>2007/01/07(日) 13:06:00 ID:<>>>157
> しかし、天保の飢饉、大塩の乱という江戸末期の時代背景は、鎖国と言う国策そのものの大転換を迫られていたと思います。
>
世界史全体の流れとして、つまり、月日の示すものとして、経済の自由化と言う大転換の旬が到来していたと、
それには間違いがないと思います。
鎖国とは、元々西欧からの宣教師の布教を邪魔するための制度であり、又貿易を幕府が管理する事で、幕府の支配体制を保持するためのものでした。

織田信長は、宣教師の本質を見抜いたと思います。
秀吉は、自ら朝鮮出兵して、西欧と同じ事を試みていますが、支配とは思想と経済。これを理解できていなかったのではないかと思います。
家康は、徳川の幕府安泰の為に、鎖国した。
それが、時代の流れによって、開国を迫られたという事は、言えると思います。

> 時代が迫っていたともいえると思います。
これは同感です。
しかし、
> 西欧と手を組む、にほんのじを守るために避けられないことであったのではないでしょうか。
これは、江戸幕府のとった開国そのものを指しているとすれば、「開国は仕方なかった」という事になります。
「開国」は、「西欧と手を組む」とは、一寸違うと思います。

手を組もうとしたのは、長州であり、薩摩であり、「尊王攘夷」転じての「維新開国派」であって、手を組もうとして、「拒否」されています。
「野蛮人が何を言うのか」と。

鎖国は国際感覚を鈍くします。
織田信長のように積極的に接触しながら、本質を見抜いた感覚がない。
いつも自分たちが上位にいて、管理する貿易に慣れてしまった清王朝も江戸幕府も、「自由貿易の恐ろしさ」に気が付いていなかった。
経済支配は、思想支配よりも恐ろしいものであるという事に気が付いていなかったと言う事です。

相手を「夷」とさげすむ思想で貿易をしていたものが、今度は自分たちが「野蛮人」と言われた。「未開人」と言われた。
これは、実は「西欧の価値観」の押し付けなのです。
現実の日本には、よりすぐれた思想もあり、マナーもあった、
「利休」「世阿弥」「管弦の道」「和歌」「俳句」「古謡」「俗謡」「武士道」「柔」「囲碁」「将棋」「歌舞伎」「山水」「花鳥風月」「禅」「真言」「南無阿弥陀仏」。
「人情噺」「世話噺」「落語」「漫才」「三味線」「和太鼓」「舞踊」。
何一つ、卑下するところの無い、繊細で心豊かな日本の文化。
おやさまは、「とふじんコロリ」を待つ思想です。

野蛮なのは、他民族すらも支配し、楽園にしようという「唐人の思想」そのもの。
それは、「唯一の思想にて支配しようという・カルト」。
この、こころの空虚を、「たすけたい」と言う思想こそ、おやさまの求めていたものでした。
手を組むと言う思想は「唐人」には無いものでした。<> 基本。<><>2007/01/07(日) 13:30:49 ID:<>>>157-160
現実を見てみましょう。
西欧は、イラクでイラクの支配層に、「大社・高山」に「自由平等への変革」なんか、求めていません。
経済的な、「利得」を保障してくれるなら、その政治体制には干渉しません。
今回アメリカは「フセイン大統領」を死刑に誘導しました。
失敗例です。
普通は、アラブ社会の古い「野蛮な」と言いたいはずのシステムには、異議を唱えていたら、商売にならないから、言わないのです。成功するには、従わせて利用する。これです。
「火」を見せて、「砲火」するぞと見せて、従うなら、「隷従の感覚で」債務奴隷として、従わせる。

これに、対抗しようとすると、武力侵略をするけれど、目的は「経済支配」にあるから、やがて市場であり消費地、消費者になる、原料供給者になるというものは、活かしておくのです。

日本の戦国時代、幾ら戦争をしていても、相手の農地を耕作不能にすると言うような戦法は取っていません。
それとおんなじで、「経済が最優先」するのが、西欧の思想です。
それ故に、従わない国となれば、「カルタゴの農地に海水をまいて耕作不能とした」という手段に出ます。

日本の減反政策は、アメリカの意思で、食品の自給率を日本は押さえられているのですが、それはつまり、「完全に従っているとはみなしていない」という意味です。

日本が、健全な経済を構築する事で列強と伍する道こそ、おやさまの求めていた思想では無いかと思います。
つまり「和魂・和才」です。
元々、火薬の発明も西欧ではありません。
インド、中国、メソポタミアの文明から学んで、「実学」としての蒸気機関・印刷、に到達し、その「経済」での「産業革命」が、西欧の「強者」の部分であったわけです。
その経済の構築とは、西欧が自国内ではそう近づいていたように、「自由平等」と言う「人間性の尊重」から生まれるものです。

おやさまの、見ていたものは「子供の出世」です。「子供の成人」です。
ゆたかを生み出せるのは、「政策」でも「研究機関」でも「特権的保護」でもない、人間の心のじゆうにある。

「じゆうよう自在とは どこにあるとは思うなよ ただ面々精神ひとつの理にある」

それを、日本人一人一人が自覚する時、「家業第一の夜明け」がくるのだと、おやさまの思想は告げています。<> 基本。<><>2007/01/07(日) 18:35:24 ID:<>>>161
おやさまの女性の弟子で、明治7年に入信した「増井りん」と言うお弟子さんがいました。
その人の書かれたものや、残された講話が道友社新書に公刊されています。
おやさまの膝元では大変な苦労難儀をされた方ですが、次のような一文があります。
『現在の詰所(信徒の宿泊施設)のようなものを拵える必要がありましたので、中川嘉平さんの、西の隠居を拝借しましてそれにあてました。
・・・
ある年の、おおつごもりの日も、私の手元には五銭しか残っていなかった事がありましたが、それで正月の台所のきり廻しをしようとするのですから、普通から考えたらちょっとした心細さや不足心が出るものでしょうが、しかしその当時は勇み勇んだものであります。』
と、その当時の中山家のお屋敷の財政事情が困窮していたと言う記述がありますが、その後に、こんな一文の記録がありました。

『河内の家に言ってやれば、驚いて随分持ってきてくれるのですが、それでは不足になる。不足心は堅く神様から戒められていましたので、どんな心細い時になっても心楽しんで通らせて頂きました。』

つまり、増井おりんさんの河内の実家では信者詰所の施設の運営費などは調達可能なほどお金は何時でも出せたと言うのですが、その、増井りんさんは「信仰者」として、お金を河内から運ばせたら、神様、増井りんさんの「神様」は、「今のおやさま」ですから、神様=おやさまに、戒めを破ることになると運ばせなかったと言うわけです。
つまり、不自由を楽しまないで調達する信者のお供えを、おやさまは、嫌がっていたと言うことなのですが、後家さんの増井家にどうしてそんなお金があったのか。

増井家は、代々村の年寄り役を命じられていた。名字帯刀を許されたほどの旧家で、大地主であった。その家の跡とり娘でした。
明治5年に、りん30才の時に、父と夫が死にました。
明治6年に、りんは、「りゅういんしゃく」と言う病名で、「後三年の命」と宣言されました。
明治7年に、りんは「そこひ」にて、目が見えなくなりました。
子供たちはまだ10才以下です。

そして、明治7年にたすけられて、入信してからは「信心」に夢中です。三年は布教布教の日々といいます。
そして、明治10年には、おやしきに住み込みました。
お金を誰がどのように、稼いでいたのでしょうか。

道友社編「誠真実の道・増井りん」には、このようにあります。
『父にしなれ、夫に先立たれた私は、当時三人の子供を抱えて、一時途方にくれたのですが、何とかして子供だけは一人前に成人さしてやりたいと決心いたしまして、さっそく家の整理に取りかかりまして、農業の方は大部分人手に頼み、また油商の方も、それぞれ整理してやめてしまいました。』

つまり、増井りんさんの家は、幕末の豪農で、「地もちで」「油商売」をしていた、中山家や前述足立家と「おんなじ因縁」だったと言う事です。
それは、システムとしての「問屋制家内工業」であったという事に理解されます。
農業は、「人手に頼み」ですから、「小作」或いは「賃貸」だと思われます。

江戸時代の幕末の豪農は、子供を教育しています。
りんは、6歳の頃から大県村の学者小山千斉と言う人に読み書きを習ったと言います。
12歳には裁縫の先生から教授を受けています。

システムが利益を上げていく、その素朴な形態が「問屋制家内工業」です。
機械化されて、産業革命になる。
その原型の形態として、流通生産、各々の分業システムが確立してあるなら、後は、機械の導入だけの問題と言う事です。
幕末から明治には、綿工業、油製造などで、豪農はシステムとして利益を上げていて、学問も普及していたと言う事です。
それが、それが「格差拡大」に向けて、明治政府の人為的な産業革命が実行されたこと、残念です。<> 基本。<><>2007/01/07(日) 19:24:06 ID:<>おやさまは、明治2年のおふでさきにて、
 なににてもやまいいたみハさらになし
 神のせきこみてびきなるそや     二号7
と、知らされました。

茶摘の八十八夜の往還道の予言のすぐあとのお筆先です。
これは、「勤めの人衆」が欲しいからだとの意でした。

おやさまの弟子に山本利三郎という人物がいます。
山本家は、牛二頭を飼う大農家で「綿商」をしていた。屋号は「綿利」です。
明治6年に、おやさまにたすけられた話は、逸話編にあります。
{国の掛け橋 逸話篇33}
{「この屋敷は、人間はじめ出した屋敷やで。生まれ故郷や。どんな病でも救からんことはない。早速に息子を連れておいで。おまえの来るのを、今日か明日かと待っていたのやで。」}

これも、豪農の綿商、つまり、問屋制家内工業の産地問屋と思慮されます。

{教祖は、「案じる事はない。この屋敷に生涯伏せ込むなら、必ず救かるのや。」と、仰せ下され、つづいて、}
{「国の掛け橋、丸太橋、橋がなければ渡られん。差し上げるか、差し上げんか。荒木棟梁 々々々々」
と、お言葉を下された。}

念の為に、申しますが、おやさまが「待っていた→利八」。「生涯ふせこむのやで→利三郎」と、理は明確です。

おやさまは、おやさまの為に「勤める」人材を求めていた。
それは、一人は「山本利三郎」さんの例に残されているわけです。
「国へ橋を架ける」とは、おふでさき二号全体の趣旨としては、「高山」への匂いがけ、であることは明らかです。
そしてそれは、「経済としての組織の母胎」なくしては、不可能であることは、おやさまのご承知の事でした。
明治維新革命が成功したのは、幕末の「豪農」階級を、おはらいさん効果で支持者にしたことです。

大戦後アメリカが農地解放をして、日本の大地主を解体したのは、日本の国力の元が「豪農」にあった事を経済として理解していたからです。
その、豪農と言うのは、産業の基盤となり産業革命の中核を為すという事の意味と理は、おやさまの弟子たちには、まるで理解されていませんでした。
「利八」は経済行為をし、「利三郎」はおやさまの思想活動をする。
このバランスこそ、最初のおやさまのおさとしの意味と思慮されます。
国の改革は、経済行為によってなされる。
これは、おやさまが、示していたものです。
「いつも豊年教えたい」。この思想は、単に拝み祈祷として「豊年を神にすがれ」と言うものではない。
人間を債務奴隷にしない形での、差別無き経済体としての『家業』の存在が、この世を変えると言う、空前絶後、誰一人として説いていなかった思想。
人間の個々人の、嗜好と思考と経済行為の集積が、自由な発想が、この世界に満ち満ちるという、人間の「はたらく世界」。

まだだれも見たことの無い世界に、国の橋をかける使命。
「荒木棟梁、荒木棟梁」。

前人未到の、「経済体としての個人の価値」そのものの開放を唱えたおやさま。
山本利八が、山本利三郎が、「宗教家業」に固執して、「道」を忘れた。
それは、増井りんさんも同じで、天理教大県分教会を設立していますが(後の大教会)、嫁さんが死んで、信者の間にゴタゴタが出て、神殿普請の借金に負われて信者も寄り付かなくなっています。

おやさまは、(可哀相に)、
だれひとり私を助けてくれるものはいなかったと、言われています。

「家業」を第一に興隆させて、その経済活動の中での「働きと遊山」。

これを説けないままに、天理教会と言う集団は神道の思想奴隷と堕落した戦前の道。
宗教の悪いんねんを切るどころか、はまり込んだ理の親信仰の道。
階級社会。天理教と言う、恥。
いんねんを切らねば、「家業」を起こさねば、おやさまをたすけるものは、今も、誰一人もいない事になります。<> 傍陽気<><>2007/01/08(月) 02:46:24 ID:<>>大戦後アメリカが農地解放をして、日本の大地主を解体したのは、日本
>の国力の元が「豪農」にあった事を経済として理解していたからです。
>その、豪農と言うのは、産業の基盤となり産業革命の中核を為すという
>事の意味と理は、おやさまの弟子たちには、まるで理解されていません
>でした。

富国強兵の中核となった豪農のその中心、財閥の解体は、アメリカが戦後日本の統治を目指した政策であったと思いますが、これもまた、月日の為した業だと思います。尊王攘夷、そして富国強兵へと突き進んだにほんに唐の思想を持ち込んだ高山は、逆にその思想によって、月日の返しとして、人間宣言、財閥解体と形からでもろくじの方向に、守護されたのだと考えます。<> 傍陽気<><>2007/01/08(月) 03:39:27 ID:<>西欧と手を組む。それは当時の軍事力の歴然とした差から、日本の選択した事で、薩長が選択したことであったのではないでしょうか。ロシアの皇帝?を迎え入れたり(何者かに殺されましたが)しましたよね。近代化の為に受け入れたと、そのように考えられるのではないでしょうか。当時まだ日本と言う国家と言うものは存在せず、列強は植民地にしようにもできない。そういう状態であったでしょう。

しかし、その思想までも習おうとした日本の中のとふじん達では無かったのでしょうか。よく考えれば日本と言う国が生まれたその時すでに、唐人は日本の地に入り込んでままにしていたと考えられますね。<> 基本。<><>2007/01/08(月) 03:44:41 ID:<>>>164
> 財閥の解体は、アメリカが戦後日本の統治を目指した政策であったと思いますが、これもまた、月日の為した業だと思います。
>
人為と、成ってきた理とは、雲泥の相違と思います。
アメリカが解体しなくとも、それは必然として解体されたものであるでしょう。
しかし、アメリカが解体したと言うのは、プロパガンダであり、例えばアメリカに市民権を移して経済活動を維持した財閥もあるように、「財閥の延命」と「アメリカ経済への追従」の誘導に過ぎないと思います。
月日は、つまり、おやさまは、そうした人為はお嫌いであり、「作り策」として排除すべきものです。

日本に平和と民主主義をもたらしたという、プロパガンダも、西欧流の「お払いさん」と、理解します。

日本は、共産革命中国・共産革命ロシア・共産革命北朝鮮の思想侵略の防衛ラインとして、南朝鮮とともに、要所にありました。
旧約聖書・新約聖書そのものを、真っ向から否定する「共産思想」は、ユダヤ人の思想家「カール・マルクス」が、「資本論」をあらわして世に出ました。
http://nun.nu/ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9#.E7.94.9F.E6.B6.AF
{資本主義はカール・マルクスが著書『資本論』の中で定義した。一般に誤解されているが、マルクスは資本主義の矛盾・問題点に目をむけて研究を進めていたが、資本主義そのものは社会の生産性が高まる必要な時期と捉えており、資本主義が成熟し、やがて共産主義へと移行すると考えていた。}
共産主義は、何よりも宗教を否定していた。
西欧の価値観を根底から覆すものであった。
それが、ロシアの共産主義革命で、世界革命思想として抑圧されていた国家の思想基盤となる国が現れた。

日本は、米軍基地の国として、必要とされ、そのために占領政策は融和の色が濃いと言うだけの事で、アメリカは、財閥に自由主義の「首輪」を付けたかっただけと見ておかないと、「作り策」のプロパガンダに欺かれると思います。

農地解放も、農家を解放し救ったと言うものではない。
経済的・経営的にみれば、農業経営が著しく非能率的なものになってしました。
結果的に食えなくなった農家からは、工業労働者がうみ出されました。
朝鮮動乱の特需で日本は景気が好転し、労働力を彼らが支えています。
その分、農家は、疲弊し、保護なしではやれない農家が大多数となって行きます。

見出しと見かけでは、アメリカは財閥解体、農地解放。
実態は、アメリカによる経済支配。日本農業の零細化。
それが、丸ごとアメリカの意思のままにならなかったのは、「信用保証制度」という、世界に無い、日本独自の制度によって、「中小企業」というものが、数々生まれ、日本経済の中核として発展したからです。

> 財閥の解体は、・・・これもまた、月日の為した業だと思います。
それは、月日の意図だと思いますが、月日がなしてはいません。
それが証拠に、財閥は、今も日本経済の頂点にいます。<> 傍陽気<><>2007/01/08(月) 03:48:52 ID:<>近代国家日本を、と言うのは、唐の思想そのもので、教祖が公認を願うことを許されなかったのも、当然ともいえますね。教祖の思想には、くに・国と言う思想はなく、ただ、にく・肉体とこころ・精神のみがこの世を立て替えられる元立てなのだと、そう思います。<> 基本。<><>2007/01/08(月) 04:54:58 ID:<>>>165
おやさまは、「日ノ本 庄屋敷」と言われていて、おふでさきには「日本」とありますから、
> 当時まだ日本と言う国家と言うものは存在せず、
> 列強は植民地にしようにもできない。そういう状態であったでしょう。
との認識は、維新当時の状況において生まれた思想に感化されていると思われます。

戸籍を作成し、口分田を国民に与えたとき、大宝の律令の制定時には国家・日本は存在しているわけです。
鎌倉幕府が、義経を探索のために全国に探索機関を設置しているように、日本は、一国であった。
それが、室町幕府の時代に、群雄割拠する状態となり、「戦国乱世」で、天下統一をしなければ、国として一つではない状態になった。
それを統一したのが、信長・秀吉・家康。
秀吉と家康は、検地をし、戸籍を整備し、統一国家を作っています。
日本国というのは、秀吉の頃には、対外派兵している国家です。

その国家の統一を、幕末の頃には、「密貿易」事実で破綻させていたのが、長州・薩摩。
汚職で腐敗していた老中たちには、取り締まる能力すらなかった。

幕府は、英国のアヘン戦争勝利を知って、うろたえつつ有能な人材の登用を行い、フランスと手を組んで、兵制をフランス式にしていこうとしました。
これに対して、イギリスと組んだのが長州。維新軍はイギリス型。
そのまま戦えば、イギリス仕込みとフランス仕込みの、戦争になる。
つまり、日本の国は、一国ではなくなる。

そこで、勝海舟と西郷隆盛が、「将軍が大政を天皇にお返しする」という、内戦回避の策をとり、徳川慶喜が、無血で、江戸城を明け渡したのです。
日本は一つの国家。
それは、国民に定着していた意識であり、明治維新が意識を一つにしたのではありません。

そして、これは重大な事ですが、
幕府がフランスを頼り、長州がイギリスを頼った段階では、内戦寸前、つまり「植民地」状態一直線のコースにいた。事です。

幕末からの日本は、国家として立派に存在していた。
それを、内戦を起こさせる事で植民地にするのは、インドで、イギリスはしたこと。裏守護の仏教の地で、してきた事です。

奴隷貿易をしたアフリカで、英仏のした事。アメリカの奴隷は、西欧により作為されたアフリカ人どうしの戦争で、武器を売っては仕入れたものです。
現在のイラクでもアメリカは内戦を起こさせている。
武器商売も含めて、内戦を起こさせるのは、支配の、テクに過ぎません。

大切なのは、「にほん」はあったのに、唐人を受け入れたのは、「経済行為」の為です。

アメリカは植民地時代、煙草を栽培していました。
日本では、煙草を売る事で、もちろん密売に当たりますが、諸国に出入りし、商売と情報収集していた藩があって、その、密輸と煙草販売の金が維新の活動の調達の原資だったという、事情。

冷静に考えてください。
国体を破壊していたのは、一方に腐敗した賄賂の幕閣。
国体を破壊していたのは、密輸と、ご禁制品の全国販売。

フランスは、幕府についた。武器を売った。
イギリスは、勤皇についた。武器を売った。

そのとき、将軍は天皇に無血で明け渡した。
こんな事の出来た国は、世界に例が無い。

それは、日本だから出来た。
文化国家だから出来た。
それも、国を思うトップだから出来た。
その無血入城の段階では、唐人のままではなかったということです。

が,維新の現場では、白虎隊の死を生み、大量の血を流しての、戊辰戦争を、行い、京都島原での維新の志士の実像を知る、「会津藩」殲滅を行っていきました。
こちらは、とふじんの思想。
フランス仕込み対イギリス仕込みの、戦争でした。
合図藩の戦死者の埋葬も認めなかった。数ヶ月も野ざらしにした。
この事実が、「唐人の思想」そのものを示しています。<> 基本。<><>2007/01/08(月) 05:07:39 ID:<>>>167
> 教祖の思想には、くに・国と言う思想はなく、ただ、にく・肉体とこころ・精神のみがこの世を立て替えられる元立てなのだと、そう思います。

この事は、元の理のこふき話と関連しますので、国とはなにか、そういう思案になります。
つまり、
> 教祖の思想には、くに・国と言う思想はなく
とは、言えません。
「国とこたち命」とも、「国見定め命」とも、神名を教えられています。
つまり、「国」というものは、おやさまの思想にはあると言う事です。

おやさまの思想はおふでさきとひな型の厳密な考証で確認する。
それが基本です。

> ただ、にく・肉体とこころ・精神のみがこの世を立て替えられる元立てなのだと、そう思います。
>
この事は、基本的にはそうですが、「時間・年限・旬」も加わります。

そして、社会の中での「普通の生活」がひながたです。 <> 傍陽気<><>2007/01/08(月) 14:02:34 ID:<>家業第一を思想として説くおやさまが、豪農と言う資産家をひながたにて道具に使われたのは、よふきの世へのこふきの入り口であったといふことですね。こふきとは口記と二代真柱は説かれています。天理教という思想を信心するなら、その話しの台を先ずは作る事から始めて欲しいというのが、おやさまの思想の根底にあったのでしょうか。

ひながたにおいての、日本人の国家観はよく理解できました。ありがとう。<> 基本。<><>2007/01/08(月) 21:53:25 ID:<>>>170
> 豪農と言う資産家をひながたにて道具に使われたのは、よふきの世へのこふきの入り口であったといふことですね。こふきとは口記と二代真柱は説かれています。天理教という思想を信心するなら、その話しの台を先ずは作る事から始めて欲しいというのが、おやさまの思想の根底にあったのでしょうか。
>
基本的には、そのように理解しています。
増井りんさんの場合で言うならば、病気をたすけられて自分は「信心」にまい進し、おやさまの元で修行されました。
その間の増井家の家業は、使用人がしていた。
その修行を生かして、増井家の家業において、今度は真から谷底をせり上げる位置に立場を置き換えたらよかったということです。
「おふかん」とは、「王冠」ではなく「往還」と文字を当てたのは二代真柱様ですが、「王冠」の道に出ようとすると、自分が権威になる。
しかし、「往還」とは、往く、還る。
今度は私たちが家業をするから、みなさん「信心」の修行をなさい。
そういう、転換があることを、理として知るべきだったと思います。

増井りんさんの入信のとき、最初の三日のお願いで何の効も無かったとき、信心をためらったときに、使用人が、私が行って確かめてまいりましょうと、言い出して、りんさんの命は繋がったのです。
真の恩人は、使用人さんでした。
文字も書けないので、仲田義三郎さんに書いて頂いて、それを、おりんさんに届けた。

だれが「おたすけにん」であったのか。
使用人の男。無学な男衆。
その、元一日の原点の示すものが、あります。
そして、おりんさんが、信仰三昧出来たのも、経営者の留守を踏ん張った使用人がいた。
その恩は、どうするのか。

おふかん道とは、「王冠」ではなく「往還」である。
おやさまの本当にほしかったものは「口記」の理を実社会に活用し、用いての「(成功の)功記」。
それは、「口記」のみでは、通ったことにならない。
「口記」の理のままに通り、誰もが通れる道として残したときに「功記」となるという、天理があるからです。

「口記」は、例えれば研究機関での理の習得です。それが社会に生かされた時「功記」となる。

天理教の信心の話の台をこしらえて「口記」。
そして、それが里において実践されたときに「功記」。
二つ一つに無ければならないものと思います。<> 異端ってまだいたんですか?<><>2007/01/09(火) 05:36:50 ID:<>ひとつの効もみにゃならぬ。

効記・・・
信心して、世界で、里で利益をみる、「こう」をみる。
それが出世でしょう。<> 基本。<><>2007/01/09(火) 13:50:31 ID:<>>>172
異端ってまだいたんですか?さん。そうですね。それが出世だと思います。
有難う御座いました。今年も宜しくお願いします。

自国民の、経済の繁栄を第一義に思案する西欧の自由主義は、他民族に対しては、抑圧と搾取という手段に出てしまう。

それは、唐人の思想の中核をなす「幽冥」の思想に真相があります。

ユダヤ人の思想家「カール・マルクス」は、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9#.E7.94.9F.E6.B6.AF
その、宗教観は、あまりにも有名で、
{ 「宗教は、逆境に悩める者のため息であり(中略)、それは民衆の阿片である。」とある }
と、神を抜きにした、経済の原理を説きました。

基本的には、マルクスもフロイトも旧約聖書の世界観・思想観に基盤をおいていると、みなします。
http://kprint.jp/nishigaki/philosophy/1974-2.html
ここに解説されているので、紹介しよう。
{両者の思想にはともに人間学的に共通せるものがあることを指摘するために、その思想の基本的前提を、過去のアフォリズムを利用して表現する。それは次の三つのコトバである。1.すべての事について疑わねばならぬ。2.人間的なもので自分にとって無縁なものはない。3.真実は人を自由にする。}
{マルクスもフロイトも、この自然科学の方法論の基礎を人間学に応用したのてある。詰り、両者の「壊疑はとくに人間の自己と他者についての見解にむけられたのである。」}
{このような懐疑の結果、マルクスはあらゆるイデオロギー、理念、理想等は幻想であり、人々はこのような幻想を持つことにより、現実生活の因難に耐えて来たのてはあるが、これらが幻想である理由は、これらのすぺてが社会、経済的利害を持っておるのであって、マルクスによれば、この社会、経済的構造こそが基本的現実なのてあって、これは幻想ではなく真実以外のなにものでもないのである。}
{フロムによれば、更にフロイトの精神分析的方法全体が懐疑の方法であり、そこから明確になった真実のリビドー構成が基本的現実である、という事実なのてある。}
{マルクスもフロイトも、このような基本的現実を根幹にして理論を組み立てていったのである。それは彼等が「真実は人を自由にする」という信念を持っていたからに他ならない。}
{マルクスは真実を究明することによって、疎外や経済的隷属から人間を解放しようと考えたのてある。その方法論はフロムによれば「広く信じられているような暴力ではなくプロパガンダであるという。}

基本は、「疑う」と言う事で「真理は汝を自由にする」という、旧約聖書の思想の根幹を実は再現していたと言う事です。
形を変えた、モーゼであり、「問う人」であった。

フロイトは、モーゼの出エジプトの行為そのものを「モーゼ個人の精神的素因から分析し、宗教的実験とみなした。
マルクスは、宗教は経済行為によって生ずる痛みを和らげるものと認定し、実は、「経済」こそ人間であるとみなした。

モーゼ自身の、「実学とマジック」のエジプトの神官の要素を、「実学」のみが真実とみなしたマルクスと、「神秘の教義」に潜む精神の奥にに焦点をあてた、フロイト。
その二つは、あわせてしまえば、元の「唐人」の思想に、還元されるもの。
疑うと言う事が、全てであったのは、モーゼ自身であり、原理を示しながらも、空虚と化し、それゆえに、信仰は「権威主義に」陥り、神が保障した「楽園」を、絶えず絶えず求めると言う不毛を産みました。それがキリスト教の政治による「神の国」でした。

ここがこの世の極楽である。
人間は「はたらく」ためにこの世に生まれた。
「人のもの借りたるならば りがいるで 早く返済礼をいうなり」
・・・

マルクスが「プロパガンダ」を用いる思想家であったとすれば、「共産主義」という楽園を『思想実験』的にこの世に作ろうとしたこと、やはり、モーゼの楽園思想そのものということになります。
「階級闘争」という思想も、「とふじん」の思想・・
おやさまの思想には、「なぜ?」はない。
この世は、「理」で責められた合理の世界と言う事です。

モーゼの出生の謎は、つまり、不義の子であったという事。
旧約聖書のイブの犯した姦淫とは、モーゼの母親と王との不倫であり、実は古代エジプトは、乱交の宗教国家であり、それを批判する思想組織が「ユダヤの民」。
そこで、アトン教と言う、「真理と愛」の宗教を純化し、「多淫教のエジプトの王の怒りをうけて、新天地を求めて脱出した。こんな図柄に見えます。<> 基本。<><>2007/01/09(火) 14:28:02 ID:<>>>173
しかし、
> http://kprint.jp/nishigaki/philosophy/1974-2.html
> {マルクスもフロイトも、この自然科学の方法論の基礎を人間学に応用したのてある}
この事は、間違いのない事実です。

科学的な分析というものが、二人の思想の基盤をなしているから、普遍性をもたらしているのだと思います。
科学的な分析、
この時、聖書は、新約聖書も旧約聖書も、人間学の原理とはならなかった。
すなわち、阿片であり、痛み止めであると言うのは、人間学の原理になりえないと言う、キリスト教・ユダヤ教への批判です。
現実の社会は経済社会としての人間関係だから、現実を支配している「実」は、「経済」である。
と、そのように説いたマルクスは、その意味では「幽冥の世界」をきちんと否定した。
しかし、旧約聖書の思想そのものを否定していたわけではない。
現実の「経済社会」の債務奴隷を解放しようという、思想を示したに過ぎません。
黒人に対しての発現には、旧約聖書の黒人差別の思想がそのままに、残されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
引用します。
{自身ユダヤ人であるにも拘らず、親友のフェルディナント・ラサールを「ユダヤの黒んぼラサール"Der j&uuml;dische Nigger Lassalle"」「頭の格好と髪の生え方からして、奴はモーゼと一緒にエジプトから脱出したニグロの子孫に違いない(さもなきゃ、奴のお袋さんか、父方の祖母さんがニガーと交わっていたということさ)}

モーゼは、古代エジプトの神官として国王に仕える中で、「真理の神」を報じて、絶対的唯一の神を掲げて、二百万人の「イスラエル」を導いて、革命を指導した。
マルクスは、
{産業革命後の資本主義経済を分析し、フリードリヒ・エンゲルスとともに、自らの共産主義を打ち立てた。『共産党宣言』の結語「万国のプロレタリアよ、団結せよ!」}
と、万国のプロレタリアを、「真理の思想・共産主義」を報じて、絶対唯一の「資本論」を掲げて、革命を指導した。

しかし、胸の内は「空虚」であり、モーゼのそれもマルクスのそれも、「真理の実験」であり、多くの「犠牲」を真理に捧げさせたものの、「楽園」は、いまだ実現していない。

一方の、フロイトは、「マジック」という、普通に言うならば詐術の部分の分野に、科学的研究を持ち込んでいるが、それは、逆に、モーゼの「実学による楽園」こそ、嘘である事を見抜く方法であったと思慮される。

古いとの研究は、現実には、人の心の「精神」の問題が、それは「宗教マジック」で癒されているように見えたとしても、その奥深くに深層心理として、行動に大きな影響をもたらしていると、「精神ひとつ」に肉薄した。
経済行為の発生の以前の、幼児期に焦点をしぼり、「性」に焦点をしぼった研究は、それだけに、思想としての「原罪」意識を喚起し、
結局は、モーゼの説いた「原罪・楽園追放」の意識を説いていることになる。

こうして、ユダヤ人の二人の偉大な思想家は、人間に再びモーゼの思想の是非を、世に問うと言う二人であって、階級闘争の思想は、権力の側への警鐘乱打となり、資本論は、「大社・高山」の延命思想に利用され、幼児の性体験の原因説は、結果としてアメリカの幼児の割礼を抑止しておらず、「性」そのものの、「原罪」意識を、背景から煽っている。
二人は、モーゼの亡霊に勝利し得なかった。

おやさまは、
「あしきの事はいわんでな」と「性」の問題は、「悪しきではない」と、明示した。

「悪いことか」と疑い続ける「モーゼ」。
「悪いことの結果として生まれたのか」と怯える「モーゼ」。
宗教は、阿片であり、
「悪いことの結果としての子供を焼き殺して神の犠牲にすれば救われるのかと」と疑う「モーゼ」。

それは、人間の思想に「とふじん」が教え持ち込んだ、「悪しき」である。<> 基本。<><>2007/01/09(火) 15:25:59 ID:<>>>174
モーゼは懐疑した。マルクスも懐疑した。
それは真理の探究であり、自分の幼児体験から一貫した精神の抑圧からの開放のためであった。
イエスキリストも懐疑した。

イエスは十字架上でこう叫んで息を引き取った。
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」

これは、懐疑そのものです。

イエスは、出生に秘密があった。
三人の博士が訪問して、処女から生まれたとされて、実は父親の子ではないイエスキリスト。
実は父親の子ではなかった、モーゼ。その人。
そして、旧約聖書には、なお、もうひとり、それを疑うべき人物がいました。
百歳のアブラハムと九十歳のサラの間に約束の子イサク(=「彼は笑う」)が与えられました。
と、生まれた子、イサク。
この誕生の時にも、三人の博士が登場しています。
>>126
> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%82%AF
> [ アブラハムの妻サラは不妊の女であり、子を産まぬまま年老いていたが、
> 三人の人が訪れてアブラハムに子供の誕生を知らせる。その言葉のとおりサラから生まれた子供にイサクと名づけ、イサクは元気に育った。]

こうして、三人には、出生の秘密があると言う事、
それは、「誰の子かわからない」「誰と誰の性行為の結果か分からない」という、しかし、自分は、この世にいると言う。
神の子として、(古代では王の子とは神の子の事です)、存在している。神が奇跡を起こして、生まれたと言う三人は、科学的に検証するならば、生まれたと言う事実以外には、他は証明のしようがない。
つまり、「神のさずかりもの」と言うしかない。

アブラハムの子はイサク。この物語を、神からの奇跡的な妊娠と説く立場もあります。
http://www.page.sannet.ne.jp/mayumy/link21.htm
を参照下さい。
しかし、自分の女奴隷「ハガル」との間に夫との子をつくらせた「サラ」。
それが、第二婦人の「ハガル」の地位が登った事で、私にも子供をと神に願って授かった子と素直に信じるのは「宗教」ですが、基本的には、それは、宗教の方便とみなします。

わざわざ、三人の博士に認証させている事が、怪しいところです。

人間には「経済的存在」としての幸福もある。・・・・マルクス的。
人間には「夫婦の中に生まれた命の存在」としての幸福もある。・・フロイト的。

経済活動以前の、生命のそのものとしての、夫婦親子の陽気暮らし。
そして、経済活動としての陽気暮らし。
そいいう思案に立てば、人間にとっては、「家業」というものが、その人間の存在基盤をきちんと踏まえたものとして、どれほど重大かが見えてきます。

 この世の 地と天とをかたどりて
 ふうふをこしらえ 来るでな

人間には、原罪などない。
悩みがあるとすれば、それは、「地と天」を型どっての「ふうふう」の始まりを、知らないだけである。

真実と真実、真心と真心に、子供はさずかり、生命となった。
「悪しき」の事はなにもない。

おやさまの「家業第一の思想」は、その根本は、簡明です。
「ふうふ揃うての日の寄進」と、言われています。<> 基本。<><>2007/01/09(火) 16:04:25 ID:<>>>173-175
> モーゼは懐疑した。マルクスも懐疑した。
> それは真理の探究であり、自分の幼児体験から一貫した精神の抑圧からの開放のためであった。
> イエスキリストも懐疑した。
思想家や預言者や、教祖や、神の子は懐疑したとしても、「権威主義者」は、懐疑しない。
「権威主義」は、モーゼの十戒の思想を、武装して、信じるものを支配し疑うものを攻撃する「宗教」となった。
「権威主義」は、キリストの愛を、教会権威に、武装して、奴隷を生み出す帝国をつくらせた。
「権威主義」は、マルクスの思想を開放の権威として、闘争の組織を世界に波及した。

原理を尋ねるならば、モーゼの求めたものは、民の楽園である。
キリストの求めたものは、隣人への愛である。
マルクスの説いたものは、経済の発展と繁栄の理論としての「資本論」である。

権威主義は「ドグマ」を生む。
改革者がいたことは、歴史上どんな意味と結果をもたらしているのか。
古代エジプトは、モーゼの為に改革されたか。N0、である。
ローマは、イエスキリストの教えで改革されたか。NO、である。
現代は、マルクスの思想で改革されたか。NOである。
逆に、みな、支配層の強化にてこ入れに用いられている。

反して、大塩平八郎や二宮尊徳は、結果として世を改革している。
そこには、嘘が無いからである。

疑いは嘘である。
対して、大塩平八郎の思想行動には嘘が無い。(>>)
二宮尊徳の思想行動にも嘘が無い。(>>)
だから、権威主義とはならない。そんざいそのものが、ろくぢなのである。
日本の思想とは、もともと、隔てが無い。
封建思想の江戸時代の徒弟制度といえども、丁稚がのれんわけされて、店主になることは自然な道理であった。
そこには、嘘ではなく、誠実なものに対する、誠実な評価があった。
井原西鶴の商人の出世話しは、そういうものであった。

しかし、唐人の思想では、その唯一の出口は「唯一の思想」であり、死後の世界においての「神の審判」にあった。
それは、「幽冥」であり、「嘘と嘘」で構築した「神秘」にあった。
つまり、答えは「最後の審判」まで分からないと言う、詭弁があった。
マルクスは、資本主義の成熟した時の共産主義を説いた。
現実は、資本主義の成熟していないロシアで革命として発動した。

経済の成熟の問題ではない、「共産革命」は、血矢の道であった。
「維新革命」も又、経済の後進国での、無理な改革のための、「嘘」・お払いさん、と、唯一絶対の権威を持ち出す権威主義。

対して、元の理の「原理」にて、人間の本質を説くおやさまの思想。

我々は、教条主義になってはならない。
権威主義ではならない。
本来の、「日の本の」おやさまの、膝元の子として、陽気づくめに暮らそう。

それが、おやさまの見たい、我々の楽しむ姿である。<> 基本。<><>2007/01/09(火) 21:02:37 ID:<>おやさまの思想は、きちんと確認しないと権威主義に陥ることもあります。
>>1
> 「おやさまの思想」? 念が入ったら血がくだる。
> おやさまは、権力の情報操作に対して、このように思想を示しています。
> 「人間の身体にたとえて云えば、あげ下しと同じようなもの。あげ下しも、念がいったら、肉が下るようになるほどに、神が心配」
> つまり、情報操作も念を入れると、国民の生命にかかわるという思想です。
基本は、これを、日清日露戦争、大本営の設立時の事情と言う、予言として理解しています。
しかし、その未来的な予言としてのものの解釈です。
慶応三年の出来事に即した解釈と言うものも、思想として語られた事実です。
http://www.city.sakurai.nara.jp/rekishi/rekishi02.html
桜井市の記録によれば、
{1867 慶応 3 10 当地にお祓札が降り「ええじゃないか」が流行する。10・14 大政奉還。12・9 王政復古。 }
このように記されています。
つまり、慶応三年の十月におやさまは、お払いさん騒動に対し、
「人間の身体にたとえて云えば、あげ下しと同じようなもの。あげ下しも、念がいったら、肉が下るようになるほどに、神が心配」
と、言われました。
戊辰戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用します。
『戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古で成立した明治新政府が江戸幕府勢力を一掃した日本の内戦。
 1868年の干支が戊辰だったことからこの名で呼ばれる。』
基本的には「あげくだし」とは、情報の操作です。
「あげくだし」を「念を入れる」とは、念には念を入れるということです。

敗者の側の歴史を、見れば、「念には念を入れて」、京都島原での「維新の志士の事実の記録」を消去しようとしていたことが分かります。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/aizu-byakkotai.html
ここに、整理されています。
{孝明天皇について「岩倉(具視)が毒殺」と平然と書かれている}
{「会津藩と新撰組の働きにより一時的に安定をみせた京ではあるが、尊攘派を中心に脅迫と暴行が続いていた。なかでも尊攘派の長州、薩摩、土佐の主導権争いでもっとも力をつけはじめた長州藩の陰謀は過激であった」}
{書籍などでは、(1)について入念にふれているものがあります。}
{以下は星亮一『白虎隊 燎原に死す』からの抜粋です。
「この日の戦争で捕らえられた会津藩兵と仙台藩兵白河某は、松の木に縛られた。薩摩兵が取り巻いて、『会賊より殺せ!』とわめいている。万座がどっと笑うと、一人が抜刀して耳を斬り落とした。次に鼻をそいだ。『ギャー』会津藩兵が断末魔の声をあげるや、一刀のもとに胸を割った」
「敵兵は手当たり次第に民家に押し入り、財貨を盗み、牛馬に満載して、滝沢峠から後方に運んでいる。一面、荒野と化したあちこちに銃弾に斃れた会津兵の遺体が投げだされ、衣服を剥ぎ取られた婦女子が晒されている。自分の妻が、娘が、目の前で凌辱され、ある者は舌を噛み切って死に、ある者は抵抗して殺された」}

{この白虎隊のことをふくめ会津側は、いわば明治新政府に逆らった「賊軍」という扱いをうけてきました。飯盛山の白虎隊の死体も、新政府軍からその埋葬を固く禁じられ、3カ月も野ざらしにされていました。じっさい、靖国神社には、このときの会津軍の犠牲者は葬られていません。}

会津討伐は、これは、板垣退助指揮官の「官軍」の念を入れた戦争でした。
それは、徹底した情報操作というものと思慮されます。<> 基本。<><>2007/01/10(水) 11:24:24 ID:<>おやさまの思想を語る上で、中山家の長男、中山秀司の「あしのちんば」と言う問題が、ある種の「原罪的なもの」のように語られる事が見けられますが、それは、「原罪そのものが唐人の思想」(>>174-175 )なのだという点からだけでなく、お筆先本文から明確に読み取る事が出来ます。

 よろづよにせかいのところみハたせど
 あしきのものハさらにないぞや    一号52
 一れつにあしきとゆうてないけれど
 一寸のほこりがついたゆへなり    一号53

唐人の思想では、旧約・新約聖書は、人間の「罪」として、「性」の問題をとらえ、理解し、諭します。
それゆえに、「性行為」から生まれた人間そのものを「罪びと」と断定し、「処女から生まれた」、とか「生まれる事を博士三名が告げた」とか、「神に祝福された」場合だけが、「けがれの無い出生」であるという、思想を蔓延させています。
生まれた子供に「洗礼」をするのも、幼子の男性器に刃物を入れて「割礼」するのも、「みだらな性行為=原罪」という思想を、体現し、この世で清らかに生きる事で、最後の審判の後のあの世での、「天国」を理想としているからです。

しかし、おやさまは、中山秀司とおちえとの関係を清算させて、掃除するにおいて、おふでさきにて、中山家の債権支配者の悪いんねんを、具体的には掃除していたのですが、(>>130-131 参照)、その中で、
 よろづよにせかいのところみハたせど
 あしきのものハさらにないぞや    一号52
 一れつにあしきとゆうてないけれど
 一寸のほこりがついたゆへなり    一号53
と、これを示されました。
つまり、性の罪と言うようなものを問題としているのではなく、秀司の足のちんば、(>>61 等参照)とは、債務奴隷を産んできた「金貸し・土地持ち」の悪いんねんの問題であり、「色情の罪」の問題ではないという事を、「一れつ」の問題として、明示されています。

死ねば、古い着物を脱ぎ捨てる。
人間の陽気な遊山としての、「性」を、人間の元始まりのはじめだしに、にんげんを拵えたというおやさまの思想には、人間は清らかなもの。
それを、「一寸のほこり」にて、濁りの水にしたものは、「欲」。
柿と栗を、我が物に、我が支配に治めようと言う、「垣根」と「やりくり」。
宗教こそ、それを実行した、確信犯で会ったという事。
欺かれない事です。

「原罪」とは、思想支配のための方便です。<> 異端ってまだいたんですか?<><>2007/01/11(木) 23:16:54 ID:<>神様には国という思想はないと以前は言っていたのに、
唐人(西欧人)との情報操作はこれいかに。

ウィキより

朝鮮通信使を模した踊りが「唐人」とされているのは、江戸時代には外国人の総称であったためである。

朝鮮通信使を模した踊りが「唐人」

江戸時代には外国人の総称<> 基本。<><>2007/01/12(金) 03:42:02 ID:<>>>179
異端ってまだいたんですか? 07/01/11 23:16
> 神様には国という思想はないと以前は言っていたのに、

以前の投稿の中で、国境は人間が定めたものという事を語ったことがありますが、神様には「国という思想はない」と言うことは、その意味で、人間が条例や法律で定めた、きわめて高山の意思が色濃く、神様の「思いに適っていない」という意味で、
> 神様には国という思想はないと以前は言っていた
その通りです。

傍陽気さんの投稿に対して、
[169]基本。 07/01/08 05:07 ccGs9jZlRs
>>167
> 教祖の思想には、くに・国と言う思想はなく、ただ、にく・肉体とこころ・精神のみがこの世を立て替えられる元立てなのだと、そう思います。

この事は、元の理のこふき話と関連しますので、国とはなにか、そういう思案になります。
つまり、
> 教祖の思想には、くに・国と言う思想はなく
とは、言えません。
「国とこたち命」とも、「国見定め命」とも、神名を教えられています。
つまり、「国」というものは、おやさまの思想にはあると言う事です。

このような投稿をしていますのは、「こふき話」においての「国」という思想は、「存在している」からです。

人間の今の社会においての「国」は、戦争の結果であったりしてさまざまな形態の「国家群」があり、都市ほどの小さいものから大陸の大きな面積を占める国家まであります。
それは、本来の「国床」でない、支配と被支配の関係にある場合もあります。
そういう意味では、国際社会の国家というものは、神様から見た場合には「認知されていない」と、基本的には、そういえます。
しかし、「こふき話」に説かれ、「みかぐらうた」に説かれた「にほん」は、元の理にもとづくものとして、おふでさきの雛型として、「日本」であるわけです。

基本が、おやさまの思想として認識しているのは、「おやさまの教えた裏守護の世界が思想としてある世界」これは、「にほん」の仲間。
八百万の神々のいる世界。これが、「にほん」。
つまり、土着の民族の思想のある世界は、「にほん」。
と、いう認識です。

そこで、
>>149  には、
> もともとの土俗の神を排除し、カトリックも排除して行われたフィリピンでの学校教育の普及のやり方。
> モーゼの思想を背景にした、侵略主義は「学校」を建てた。
> 「がくもんなぞと言うたとて みえてない」
> 思想で奴隷にして債務でしばる。
> 古代の思想が「復古」していたのは、フィリピンを支配するアメリカにおいてでありました。
> 明治の学校教育の現場に、>>148 、二宮金次郎の銅像がなかったなら、日本人は完全に思想奴隷となっていた。
> 「とふじん」が「にほん」のぢに入りこんでままにする。
> それは、「フィリピン」においても、そうであった。残念なことでした。

と、このように、「フィリピン」でのアメリカの教育での思想侵略について語りましたときに、

> 「とふじん」が「にほん」のぢに入りこんでままにする。
> それは、「フィリピン」においても、そうであった。残念なことでした。

と、書きました。
土着の神、おのおのの民族の固有の信仰は、おやさまの思想では、「にほん」ということに他なりません。
地域としての「日本」は、「にほん」のひながたとしての日本である。
けれど、おやさまが裏から教えてきたものを、神として拝するものは、「にほん」ということになると、基本は、そう思っています。

神様には、国際法に定めたような「国」という概念はない。
おやさまの思想には、元始まりの「ひながた」の「にほん」として「日本」がある。
傍陽気さんは、
[170]傍陽気 07/01/08 14:02 cJFcDsEaRc
> ひながたにおいての、日本人の国家観はよく理解できました。
と、言われておりますので、その点は、ご理解いただけてと思っています。<> 基本。<><>2007/01/12(金) 04:20:56 ID:<>>>179
異端ってまだいたんですか? さんの、
> 神様には国という思想はないと以前は言っていたのに
> 唐人(西欧人)との情報操作はこれいかに。

この事ですが、
唐人と言うのは、「唯一絶対的な神」を信奉する「思想集団=カルト」と、定義をしてきています。
異論反論はねあるところと思います。

ですから、「唐人」という言葉の意味は、ご指摘のように、
> 江戸時代には外国人の総称
で間違いないところですが、天理教の知識人たちは、戦前は、「唐人」とは「唐の人=中国人」と言う教理を説いていました。
山名系の方も本部系の人も、そのように説いていました。
現実には、仏教・道教の国であり、八百万の神の故郷でもあり、中国や朝鮮は、土着の思想的には「にほん」とみなすべき所です。

おふでさきを読んだ明治の頃の人々の解釈は、「とふじんころり」とは、中国の人や朝鮮の人が「唯一絶対の神の・天理教に入信すること」
これを意味していると説かれていました。
つまり、天理教団幹部の中に「とふじん」がいて、低学歴の布教師たちに、プロパガンダしていたということです。

こういうことも、「とふじん」がにほんの地をままにすると、おやさまは、厳しく理を責めておられます。
天理教の理の親信仰というのは、「唯一絶対の一神教として天理教を究極の宗教だと説いた・高山」のつくりあげたものです。

それらは、「宗教の天理教」の問題であり、「ザおやさま」では、その「天理教内部のとふじん事情」は、最小限にとどめてね原典に知らされ、ひながたに示されたものを、現代の思想に対する「おやさまの思想」として、対比しつつ、明らかにしていく作業です。

そこで、
> 唐人(西欧人)との情報操作はこれいかに。
とのことは、単に「西欧人」のというものではなく、明治維新政府の中の「とふじんの思想」、民間人の中の、学問のすすめという「とふじんの思想」。
そういう、より広範なものとして、取り上げています。

たとえば、時間外労働には残業手当を付けないという法律が、「アメリカ政府」によって、要請されてね国会に提出される。
http://nun.nu/allabout.co.jp/career/jijiabc/closeup/CU20061120A/index2.htm
解説はここにありました。企業社会を揺るがす「ホワイトカラー・イグゼンプション」とは?
{えっ、もうすぐ残業手当がつかなくなる?!}
{結果、事業主は、「ホワイトカラー・イグゼンプション」の対象となった社員には、残業をさせても割増賃金を支払わなくてすむようになります。}
{対象者は1,000万人超! 失う残業代は1人当たり114万円!}

アメリカ企業の日本進出には、日本も同じ制度でなくては困ると・・

その国にはその国の固有の文化と価値観がある。
日本の伝統の雇用制度を解体する。
そういう思想を「唐人の思想」として、おやさまは、厳しく見つめておられると、それが、基本的なものの見方です。<> 基本。<><>2007/01/12(金) 05:56:10 ID:<>たとえば、ブッシュ大統領はイラク政策の失敗を認めて、更なる派兵を決定しました。
つまり、派兵が少なかったから統治に失敗した。もっと増やせば鎮圧できるというわけです。
基本的には、イラクの内戦は、「一部の唐人」には歓迎するものであっても、イラクの治安安定は心から歓迎しているものではないと言うことにみなされます。
イラクでのブッシュの失敗は、一年前にすでに分かっていたことです。
ジャーナリストの田中 宇さんは、2005年1月5日にアメリカの敗戦を記事にしています。
http://tanakanews.com/f0105iraq.htm
その中で、「やっぱりわざと負けている? 」という「?」付きの記事があります。
アメリカは勝てるところで勝ち切っていないという事実についてかたる箇所です。
そして、ジャーナリストの田中 宇さんは、【2006年12月28日】に、半年以内に米イラン戦争が始まる?
との記事の中で、
http://tanakanews.com/g1228mideast.htm
{アメリカのキリスト教原理主義者の一部の勢力は、ブッシュ政権と共和党に対して強い政治影響力を持っているが、彼らは聖書の黙示録などの預言どおり、間もなくイエス・キリストがこの世に再降臨すると信じている。彼らは、再降臨の前に起きると書かれている大戦争が、イスラエルとアメリカによる、イランやヒズボラとの戦争のことであり、それがこれから起きるに違いない、その戦争を誘発せねばならないと考え、アメリカとイスラエルの政府に、イランを攻撃せよと圧力をかけている。}
と、解説しています。

「カルト」に武力を行使させている。
これは、現実の現代なのです。
マリアの処女受胎を信じ、イエスの復活を信じ、子供に割礼をさせている国民には、聖書の世界は、生活の一部なのです。

明治の時代におやさまがみつめていたのは、この「唐人」の思想の、空虚とうそと、その支配欲。大社高山。谷底をままにする姿。

日本でも、帝国支配の、その思想を取り入れた「自由」の思想は、維新政府に恭順の意思を示した会津藩を戦争に巻き込み、攻撃し、白虎隊の死体を、三ヶ月ものざらしに放置させた。犠牲を捧げる思想。

明治維新から敗戦までの日本が帝国主義だったというだけではなく、戦勝国の米国も帝国主義であり、日本のそれは「神国・日本」の思想で中心に「天皇の神格化」があった。
アメリカには「旧約聖書」と言う思想がある。そして、帝国主義であり続けている。
イラクで負けたら終われると言うものではない。次がある。
アメリカの後ろ盾を失えば滅びるしかないというイスラエルは、利用されようとしていると言う。
http://tanakanews.com/070109israel.htm
{イスラエルが勝手にイランとの戦争を始めて、アメリカも参戦せざるを得なくなれば、イスラエルは米軍を使ってイラン潰しができるし、米政界では再び好戦的な気運が強まり、チェイニーやネオコンも復権できる。一石二鳥である}

本当は、そこが焦土と化すことを願って、宗教をめぐり、民族間の抗争をあおっているだけの、決して勝利しようとしないで、泥沼を広げ続けているに等しき、アメリカの軍事行動。それは、どこまでもプロパガンダ。世界の思想支配のための愚行そのものということです。

情報操作も念が入ると肉が下る。その理の返しはある。
唯一の神という思想が軍事力で支配する現代に、返しはあるけれど、真のおさまりには、「豊年」がなければならないと、その大前提が、おやさまの思想です。

この、現代の泥海。
おやさまの思想だけが、解決の道を示していると、それが基本です。<> 基本。<><>2007/01/12(金) 06:21:45 ID:<>たとえばフィリピンでは外国からの資本の参入を厳しくガードする法律があり、自国民以外の場合には、法人の出資比率に制限がある。
つまり、資本による支配が出来なくなっています。
それは、自国経済の保護のためです。
支配されて事で、支配されない仕組みを作ったということでしょう。

日本は?

本来のにほんの思想。
誰が語り継いでいるのか。

日本の終身雇用制度を破壊し、それが、会社と社員の間をきちんと他人の関係にすりかえた。
残業手当をなくして、能力のある社員のみが優遇される制度にしていこうとする。
そして、「海外で何億、何十億と稼ぐ、スポーツ選手のお祓いさんのお札は、毎日、テレビに流されて、最高級のグルメが、勝者には与えられてね敗者には罰ゲームと言う、支配原理を、面白おかしく、子供に見せ付けて、テレビに流されて」

勝者と敗者が、褒美と罰を与えられる。
これが、お笑いであり、クイズであり、・・
毎日あふれるほど見せられている。
子供の社会に、虐めは、無くなる訳がない。

何を日本人は、思い出すべきか。
それは、おやさまの生涯であり、思想である。

世界の債務奴隷よりも、日本の債務奴隷の方が、グルメでファッショナブルだという幸福感は、お祓いさんのお札をありがたがっていた、明治維新前の、大多数の農民である。

今、日本は、次の徴兵制に向けて、始動しているということを、明治の教訓から、学んでおかねばならない。
食うためには、軍隊。
そういう貧民層が大勢いれば、何も難しいことではなく、公務員としての軍人ならなりたいという志望は、いくらでも増える。
階級差と格差拡大。
軍隊を作りたい時、権力の用いる手段である。
国防でもなんでもない。
大社高山を守らせるための、奴隷に過ぎない。<> 基本。<><>2007/01/12(金) 07:02:58 ID:<>そこで、アメリカと国名をあげて語っているが、実は「カルト思想集団」であり、国名で呼ぶべきではないものである。

「とふじん」の問題ということに理解して頂きたい。
アメリカの国民もまた、お祓いさんのプロパガンダで、統治されているにすぎない。

たった三千人死んで、何が困るのかといえば、軍人は紛れもない公務員である。
つまり、三千人戦死すると、国家がその遺族に支払うべき金は膨大なものとなる。
戦費の負担は、戦死者が出るたびに加速度的に増す。
国民の貧困層は、軍に就職することで生活費を得るしかないから、軍に行くのであり、それゆえに、お国のために死んでも、遺族は、うれしくない。
そこに、戦死者の数がもたらす負の経済効果がある。

あくまでも、自国民のために軍隊に入ったのであり、他国で死ぬことは目的ではない。
そこに、現代の帝国主義者たちの誤算がある。

前述の、ジャーナリスト、田中 宇さんは、このような事実を指摘している。
{▼互いに無視しつつ暗闘する和平派と好戦派 }
{イスラエルが陥っているもう一つのまずい状態は、イスラエルの中枢が一枚岩であるように見えて、実は和平推進派と好戦派が互いに相手を無視して動き、互いに潰し合いの暗闘を続けていることである。}
{和平派と好戦派が議論をして国論を一つにまとめれば、自滅的な戦争は避けられるだろうが、そのような方向には進みそうもない。 }
{ イスラエルは1990年代にオスロ合意で和平が画策されたころから、表向きは「一枚岩神話」を保持しながら、実は分裂していた。}
{95年に暗殺された首相のイツハク・ラビンは「イスラエルは、まるで和平交渉などやっていないかのようにテロ(パレスチナ人)との戦いを展開する一方で、まるで戦いなどやっていないかのように和平交渉を展開している。}
{戦いと和平という2つの路線の意志決定は、別々に行われている」と述べている。}

{(ユダヤ人の中には、イスラエルの建国に賛成する「シオニスト」の人々と、反対する人々が、シオニズム運動の初期段階からいたが、彼らの間の戦いも、表向きは「ユダヤ人は一枚岩である」という神話を保ったままの暗闘として行われてきた。}
{この手の暗闘は、誰が敵で誰が味方か分かりにくく、偽善と詭弁に満ちたものになる)}

つまり、大戦で両陣営に武器を商売したユダヤ資本は、一枚板として「イスラエル」を建国していない。
それは、金儲けを軽蔑させることで、経済を支配してきたそれまでの思想行動とは、矛盾することになるからである。
どちらにも良い顔をするから「商売」になる。
ライバルのどちらにも売るから商人である。
それが、顔を持ち、敵味方を持つということは、恐れられるということは、経済行為には、まるでマイナスとなる。

そういう、伝統的手法を捨ててまでも建国したイスラエルは、誰とも仲良く商売するのではなく、宗教対立の顔になってしまった。
資本で支えることで、成り立たせるのではなく、武力で維持するしかない国家。
それは、決して、すべてのユダヤ教徒が望んでいたものではないということである。
そして、それは、大社高山の宗教の指導であるために、外部のものには見えないし、見せない。

つまり、アメリカ国家もまた、思想奴隷、債務奴隷ではと、考えるしかない。

簡単に言えば、「よふきづくめ」を見たことがないということが、すべてのいさかいと争いの元にあると言うこと。
疑いが支配する「宗教」を、世界の支配思想としたままでいてはならない。
仲間同士ですら疑う世界には、よふきづくめは無い。
むごい心と、欲に切り無い泥水がそこにはある。

しかし、おやさまだけには存在した「よふきづくめ」を、一人一人が実現するためには、おやさまの思想を、お筆先とひながたからしっかりと掘り切る努力が必要である。

そこで、高山のプロパガンダに踊らされないおやさまの思想を、「対唐人の思想」と「債務奴隷」の問題を中心にすえて、研究し語ろうとしています。<> きほん?<><>2007/01/12(金) 23:48:26 ID:<>今までは唐が日本を儘にした 神の残念なんとしよなら
同じ木の根と枝との事ならば 枝は折れくる根は栄える
この元を詳しく知りた事ならば 病のおこる事は無いのに
高山の説教聞いて真実の 神の話を聞いて思案せ
高山の芯の柱は唐人や これが大一神の立腹
実やとて法が偉いと思うなよ 心の誠これが真実
<> きほん?<><>2007/01/13(土) 00:03:51 ID:<>おやさまは浄土や生老病死を、法前仏後を否定されたんやと思います。
中国朝鮮より伝来の仏教をはじめとする中国の思想を否定されたんやと思います。
おやさまは元を教えたかった。一列兄弟と言う真実、そしてそれを心の芯としてほしかった。ちゃいますか?<> きほん?<><>2007/01/13(土) 00:22:54 ID:<>それから
おやさまは勿論、天理教は唯一絶対神を振りかざすような思想では無いですよ。
立教に先立ち元の神、実の神と宣言された訳ですから最高神には違いない訳ですがセム系一神教と混同されると話がややこしくなります。
それよりも日本の田舎の農婆が、それまで日本の思想になかった最高神を説いたことがどれほど凄いこと分かりますか?おやさまには今現在、日本を我がものにしようとする朝鮮系カルト集団の姿も見えていたんでしょうね。<> 基本。<><>2007/01/13(土) 01:37:25 ID:<>>>186

> おやさまは浄土や生老病死を、法前仏後を否定されたんやと思います。
きほん?さん。こんにちわ。
そのように理解されているということですね。
原典に、あるいは、伝承の教理(こうき話や逸話編など)に、そのことは、どのようにおやさまの思想として語られているのか、ご紹介頂けますでしょうか。
おやさまの教えとして、伝承されているものに「半牧のおふでさき」と言われる物があります。
その中では、「浄土」は否定されていません。
そうした事実から、基本的には、おやさまの思想として、「> おやさまは浄土・・・を否定されたんやと思います。」とは、ならないと思います。
又、おやさまの教えとして、人間は自分の出直したいときに出直せるようになるという思想があります。
つのれ、「死にたいときに楽に死ねる」と言うことです。
お筆先の注釈に書かれています。
つまり、「> おやさまは死を、・・・否定されたんやと思います。」とは、ならないと思います。

「このたすけどふいう事にをもうかな病まず死なずに弱りなきよに。17号53」と、お筆先にはあります。
きほん?さんは、この事を根拠として、「> おやさまは・・・老病死を否定されたんやと思います」と語られているのかも知れません。
これを文字通りに理解しますと、「このたすけ」とあります。
それは、
 たすけでも悪しき直するまでやない 珍したすけをもているから 17号52
 このたすけどういう事に思うかな 病まず死なずに弱りなきよに 17号53
と、ありますから、「珍しいたすけ」と言うおやさまの思想として示されています。

さて、きほん?さん、石造りの甘露台が完成して、神楽勤めが陽気に勤められるようになったとして、
先ず人間の誕生の問題ですが、夫婦の間から生まれると思います。
なぜなら、「この世の地と天をかたどって生まれる」のが人間だから、男女の一の道具での交わりがあって、生まれることには、理として変化がないと思えます。
「胸と胸」「口と口」が一つになって宿しこまれると、昔の教理本の内容は、きっと普遍だと思います。
次に、胎内には、胎児として、羊水の中で成長すると思います。
それは、元始まりのいんねんとして、通らねばならない道だからです。
そして、その人の個性が一人づつ違う状態で、個性的に胎内で生育されると思います。
生まれた時は、「赤ちゃん」だと思います。
生まれたばかりの赤ちゃんが、大人とおんなじ知恵や学問は持っていないと思います。
赤ちゃんを親が育て、知恵や学問を仕込んで成長すると思います。

つまり、甘露台世界になっても、人間の心一つの自由がある限り、「老病死」は、胎内に宿しこみのときから、両親の心遣いの内容によっては、ありえる。
それは、生まれた人間の心の成人の上では、病による手引きは不可欠だからです。

子供から大人になっても、「働く」と言うことはあると思います。

甘露台世界になったら、神楽勤めさえしていたら、世界は豊年とはなるはずが無い。
産業を発展させていくことは、甘露台世界でもおんなじことだと思います。

どうでしょうか。
地場で本勤めの神楽が完成したら、なおさら、家業第一に、個性的な経済生活が営まれる事になる。
それが基本の考え方です。
おやさまは、「世界がろくぢでない」事を立て替える思想です。

又、きほん?さんのお考えの中の、
> 中国朝鮮より伝来の仏教をはじめとする中国の思想を否定されたんやと思います。
これは、天りん王の講として各地で宗教活動をしていた、大教会初代たちが、明治政府に公認を受けやすいようにと、明治維新政府の「廃仏毀釈」に迎合して、「仏教こぼち」をしました。
仏教思想に対して、攻撃した時の当時の弟子たちの語ったものが、きほん?さんのいわれる、「> 中国朝鮮より伝来の仏教をはじめとする中国の思想を否定された」という説です。
それは間違いであることは、「こうき本」の内容により明らかといえます。<> 基本。<><>2007/01/13(土) 01:48:04 ID:<>> 朝鮮系カルト集団の姿も見えていたんでしょうね。
もうすこし具体的に、きちんと歴史的事実、社会現象として言われる所の内容を示して頂けたらと思います。

何よりの問題は「高山」と「谷底」と言う問題です。
例えば、ですが、イラクの中にもカルトはいるでしょうし、ソマリアにもいるでしょう。
それらを「イスラム原理主義」と呼んで、テロリストと呼んで、攻撃をしているという構図は、米国の行為として目に見えています。
確かに、「イスラム原理主義」の中に「カルト」はいるのかもしれません。
が、「谷底」にいるもののことを、そのような形で問題視するのは、「高山」の思考方法です。

仮に、きほん?さんには日本を我がものにしようとする朝鮮系カルト集団の姿が明示できるとしましても、朝鮮は、アメリカと比較した時、谷底のアジアです。
現実に分断国家を生んだのは、西欧の帝国主義です。
重大な問題として、認識しなければならないのは、「大社・高山」です。

<> 基本。<><>2007/01/13(土) 02:00:56 ID:<>例えば、日本の財閥の当主がアメリカ国籍を得て、そこで経済活動で経済活動の分野でシェアを占めたとしても、それは、帝国主義「高山」の手のひらの上での侵略であり、手のひらの上での経済の駒の一つとして、いつでも使い捨てられるのです。
北朝鮮の日本での行為も、日本高山は泳がせていただけで、拉致の問題も使える駒として、今は、利用価値があって利用している。そんなものです。
弱者や谷底にも「カルト」はいるし、弱者社会の中にも「高山」はいる。

そういう構図を根本から立て直す思想は、おやさまの思想です。
そういう意味では、きほん?さんは、向かうべきものを「大社高山」取り払いに置いていないで、「中国・朝鮮」の思想排除に向かわれているようで、残念です。<> きほん?<><>2007/01/13(土) 03:16:41 ID:<>?原典を先に書きましたよ。
生老病死とは子の世を苦と捉えあの世に極楽浄土があるとする仏教の根本思想です。
おやさまから授かったさずけは心の誠が効くのだと筆先に書いてあります。<> 基本。<><>2007/01/13(土) 04:35:09 ID:<>>>191
> ?原典を先に書きましたよ。
>>185 のこれの事ですか。
> 今までは唐が日本を儘にした 神の残念なんとしよなら
> 同じ木の根と枝との事ならば 枝は折れくる根は栄える
> この元を詳しく知りた事ならば 病のおこる事は無いのに
> 高山の説教聞いて真実の 神の話を聞いて思案せ
> 高山の芯の柱は唐人や これが大一神の立腹
> 実やとて法が偉いと思うなよ 心の誠これが真実

これは、おやさまの思想の書、おあでさきの引用だと思います。
が、順序はばらばらで、きほん?さんが、勝手に並び替えています。
また、号数と番号がついていないので、一つながりのように誤解させています。
これでは、おやさまの言われたことを「編集しなおした」ものであり、思想書を、論理的に読んでいるとは言えません。

自分勝手な順序で並び替えるのなら、ちゃんと、その並び替えの理由を明示すべきです。
そこで、きほん?さんが、抜書きしてならべたおふでさきを、ひとつづつ確かめてみます。

> 実やとて法が偉いと思うなよ 心の誠これが真実
これは、明治七年の五月の執筆のおふでさきで、五号の45のおうたです。

明治政府は、庶民の信仰であった「拝み祈祷」を禁止します。
そして、政府の許した認可宗教のみに「拝み祈祷」の営業を許可しました。
明治七年六月に、「祈祷禁忌をもって医薬を妨げるものの取り締まり令」が出されました。
これによって、江戸時代までの祈祷場は、「神道の統制下」に入ることになりました。
 いままでハいかなるほふとゆうたとて もふこれからハほふハきかんで 五号36

それは、宗教の統制下に入った結果、「枝先にては法なぞと教えてあれど」と、おやさまが、裏から教えてきた「法」なぞというものであったのですが、禁止されて、伝統的な人たすけの拝み祈祷は、庶民のものではなくなり、「官製の」「高山の支配の道具」「高山の収入源」になつたと言うことです。
おやさまの時代の「金剛院」は拝み祈祷していたのですが、そこには、許可制となり神道のトップダウンで、天下り人事となった。

>>28 で触れましたが、
> 元は「金剛院」の住職の男が、愛人に経営させていた、「屋根屋」と言う屋号の店であると言う。(高野友治著作集・第6巻p257-260)
> そして、元は「金剛院」の住職の男は、その当時には、大和でも格式高い「石上神宮」の神人であったと言う。(同)
>
この金剛院の住職も、明治政府のトップダウンに職を追われて、愛人を捨てて転居していた。
それが、明治七年に三月に中教院を設立した明治政府が、祈祷で暮らす民間宗教を支配した事のひとつの結果です。

「法やとて誰がするとは思うなよ この世始めた神のなすこと」五号39

おやさまは、36では、「これから先は法は利かない」と言われています。
しかし、39では、「法とは、この世を初めた神のなすこと」と、言われています。

この世を初めた神のなすこと、である「ほう」は、実があって、珍しいものであった。
それが、利かないというのは、
この五月を最後に、神道、仏教、民間宗教問わずに、すべての拝み祈祷が、明治政府の統治下にはいつた。

その、高山の走狗と化した宗教では、この世を初めた神は、とても働くわけには行かないという、その事情がある。
ここを思案しなければ、ひながたの史実に基づいた原典解釈とはなりません。

もう少し深く、この問題続けます。<> 基本。<><>2007/01/13(土) 06:13:28 ID:<>>>185 >>191-192
きほん?さんの引用されたおふでさきを一首づつ確かめています。
> 実やとて法が偉いと思うなよ 心の誠これが真実
まず、このお歌は、おふでさき第五号の36から45の一連のおうたの中で示されています。44番です。

時代背景として、この年、明治7年、明治政府が拝み祈祷の業をする神社仏閣、民間のものまで統制し、支配する支配組織体制を三月に整えて、六月には、取り締まり令を出したということです。

一連のおふでさきを示します。
「今までは如何なる法と言うたとて もうこれからは法は利かんで」五号36
「これまでは枝先にては法なぞと 教えてあれど先を見ていよ」五号37
「にほんには今まで何も知らいでも これから先の道を楽しめ」五号38
「法やとて誰がするとは思うなよ この世始めた神のなすこと」五号39
「どのような難しい事というたとて 神が真実受け取りたなら」五号40
「いままでは唐やにほんと言うたれど これから先はにほんばかりや」五号41
「枝先は大きに見えてあかんもの かまえば折れる先を見ていよ」五号42
「元なるは小さいようで根がえらい どの様な事も元を知るなり」五号43
「実やとて法がえらいと思うなよ 心のまことこれが真実」五号44
「人間はあざないものであるからに 珍しい事を法なぞという」五号45

そこで、おやさまは、五号の前の三号で、87・88にて、同じ木と教えられていることを確認しておかねばならない。
「この先はにほんが唐をままにする みな一列は承知していよ」三号87
「同じ木の根と枝との事ならば 枝は折れくる根は栄いでる」三号88
にほんも「唐」も同じ木である。これが大前提にある。
しかし、ここで言う「唐」とは、>>179 で、異端てまだいたんですか?さんが言われているように、江戸時代には外国人の総称 であり、明治には西欧人をさしても呼んでいたわけです。

もう一度確認しますが、この明治の時代に「日本を支配していた唐人」とは、欧米人です。
中国はアヘン戦争で日本支配どころか、国が奴隷にされてしまっています。

つまり、明治の史実に即して解釈すると、「法」には二種類あって、ひとつは明治政府が禁止した「江戸以来の拝み祈祷」。ひとつは思想支配しようとする唐人(西欧米人)の旧約聖書の「律法」というものが考えられるわけです。
当初思想侵略を恐れてキリスト教を禁止してきた明治政府が、西欧の要請で明治6年にはキリスト教を認める発布を出している点を含めて考えます。
西欧の祈祷とは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%88%E7%A5%B7%E6%9B%B8  に、整理されています。
十戒とは、次のようなものです。
http://www.salvastyle.com/data/theme_01_01_18.html
ユダヤ的解釈
1. ヤハウェが唯一の神である。
2. 偶像を作ってはならない(偶像崇拝の禁止)。
3. 神の名をいたずらに取り上げてはならない。
4. 安息日を守る。
5. 父母を敬う。
6. 殺人をしてはいけない。
7. 姦淫をしてはいけない。
8. 盗んではいけない。
9. 偽証してはいけない。
10. 隣人の家をむさぼってはいけない。

さらに続けます。<> 基本。<><>2007/01/13(土) 06:40:31 ID:<>>>>>185 >>191-193
> 「今までは如何なる法と言うたとて もうこれからは法は利かんで」五号36
> 「これまでは枝先にては法なぞと 教えてあれど先を見ていよ」五号37
> 「にほんには今まで何も知らいでも これから先の道を楽しめ」五号38
> 「法やとて誰がするとは思うなよ この世始めた神のなすこと」五号39
> 「どのような難しい事というたとて 神が真実受け取りたなら」五号40
> 「いままでは唐やにほんと言うたれど これから先はにほんばかりや」五号41
> 「枝先は大きに見えてあかんもの かまえば折れる先を見ていよ」五号42
> 「元なるは小さいようで根がえらい どの様な事も元を知るなり」五号43
> 「実やとて法がえらいと思うなよ 心のまことこれが真実」五号44
> 「人間はあざないものであるからに 珍しい事を法なぞという」五号45

そこで、五号の37と38を読み比べて見ます。
「これまでは枝先にては法なぞと 教えてあれど先を見ていよ」五号37
「にほんには今まで何も知らいでも これから先の道を楽しめ」五号38

仮に、江戸時代までの拝み祈祷の事だとすると、まさか、「何も知いでも」ということはないわけです。
おやさまは、裸足参りもしているし、秀司の時には加持祈祷もしています。
と、言うことは、37の「法なぞと教えてあれど」と言うのは、旧約聖書の「律法」、「祈祷」と言うことになります。

次に、39、40を見ます。
「法やとて誰がするとは思うなよ この世始めた神のなすこと」五号39
「どのような難しい事というたとて 神が真実受け取りたなら」五号40
これは、旧約聖書にある神の起こした奇跡も、神が真実を受け取っていた。成り立ちます。
江戸時代につづく拝み祈祷も、神が真実を受け取っていた。成り立ちます。
この二首は、「法」とは、真言の法もモーゼの法も、神が真実受け取ったならという、理をしめされたものです。

「いままでは唐やにほんと言うたれど これから先はにほんばかりや」五号41
と、ありますから、この41の前の、40までは、「唐や日本」と、双方の事情を語っていたとわかります。
「これから先は日本ばかりや」ですから、
42からは、日本の事情だけということを示されています。

「枝先は大きに見えてあかんもの かまえば折れる先を見ていよ」五号42
41に「これから先は日本ばかりや」とことわりがありますから、42のおふでさきの、「これは、にほんの事情のことです。

そこで「かまえば」と言うのは、方言で手出しするとか、干渉することです。いじめるというようなニュアンスの方言です。
おやさまは、人をかまうことはしません。弟子にもさせません。
つまり、かまえばとは、日本の事情ですから、これは明治政府のことです。
大寺院、大祈祷場でも、権力が干渉すると、すぐ折れてしまう。
と、いう意味です。

「元なるは小さいようで根がえらい どの様な事も元を知るなり」五号43
「実やとて法がえらいと思うなよ 心のまことこれが真実」五号44
政府に干渉されて、折れない。
「小さいようで根が偉い」。元を知るから挫折、屈服しない。
おやさまの、毅然としたお姿そのままです。

「人間はあざないものであるからに 珍しい事を法なぞという」五号45
これは、人類全体へのお諭しです。
神の起こした奇跡を珍しいから「法」としてまとめる。
不思議な霊救を「法」と呼ぶ。
それはあざないことだと、言われています。

唐人の思想への厳しい批判がありました。<> 基本。<><>2007/01/13(土) 12:18:59 ID:<>>>185 >>191-194
きほん?さん。
きほん?さんが 示されましたおふでさきの内、「実やとて法がえらいと思うなよ 心のまことこれが真実」五号44
は、中国や朝鮮の思想に対して、語られたものではなく、人類全体に対して「珍しい」事を珍重して「法」と言う言葉で表現したことを、戒められている。その「律法主義」に対して、心のまことを、教えられたものです。

> 「実やとて法がえらいと思うなよ 心のまことこれが真実」五号44
> 「人間はあざないものであるからに 珍しい事を法なぞという」五号45

キリスト教もユダヤ教もイスラム教も、祈祷の方法がきちんと定められています。唱える聖句も、きちんと定められています。
それは生活習慣に溶け込んだ作法になってもいます。洗礼。割礼はわかりやすい実例ですが、神への祈祷の法、これを尊んでいるのが、旧約聖書の思想です。
イエスキリストは、律法のみで救われるものではないと「愛」を説きました。
しかしキリストは、律法を否定されたのではなく、それを成就するために私はいると説いています。
モーゼの十戒は、ひとつは地上の楽園のための、ひとつは死後の最後の審判のための戒めであった。

日本ではいままでそんなことはしらなかった、西欧式の祈祷。
それも、元は月日が教えてきたものです。
おやさまに、十字架を見せて、「これは何ですか」と質問したとき、おやさまは、「それは完成の意義や」とお答えになられたと、明治の宗教学者中西牛郎の著作物の中で読んだ記憶があります。
戒律を神の愛で成就させる。
それがイエスキリストの教えの中心課題です。
おやさまは、「愛」ではなく「心のまこと真実」を示されています。

「愛」には嘘がつきものです。
「心のまこと真実」には嘘がない。

おやさまの思想書、おふでさきは、「理」を知らせた書物であるから、論理的にきちんとした構成になっています。
明治政府は、大教で宗教統一をしようとした。
唐人は、戒律の思想を日本に持ち込みました。

日本ではおおらかだった混浴が禁止されたのも、西欧の戒律思想が、野蛮・低俗と非難したからです。
現在は、「家族風呂」でさえも、混浴禁止にしている県がたくさんある。
事の是非ではなく、西欧の価値観のおしつけが日本の些細な法律にまで及んでいるということです。

明治四年に岩倉具視が、日本が不平等に扱われている条約の改正を願い出たとき、野蛮で低俗な日本の習慣をあらためないかぎり、改正は無理だと言われた。
そして、キリスト教の禁止の解除も要請された。
呪術という形態の拝み祈祷に対して、教会信仰という形態の西欧式拝み祈祷が、要請された。

同志社大学などが設立されていった時代の要請は「欧化」に゜あった。
そうした史実を見るとき、洋学を学ぶためには、洋魂・西洋の思想を学びなさいという、西欧の押し付けは明らかです。

つまり、この明治の時代の力関係の中では、日本に干渉していたのは欧米です。
戒律主義の旧約聖書を信奉する思想は、日曜日は信仰の拝礼の日として日曜日休みという生活を日本に定着させています。

きほん?さんが引用されていた、
> 今までは唐が日本を儘にした 神の残念なんとしよなら
このおふでさきは、三号の86のおうたです。
明治7年正月の執筆です。
アヘン戦争で中国の清王朝を経済侵略に成功した西欧米は、日本に対しても経済侵略を行いました。
おやさまが、家財道具一切までも安市にかけて売ってしまい、施した年、弘化三年に、「通商を求める」外国船があらわれます。
鎖国を続ける日本でした。
おやさまが、中山家母屋とりこぼちをした嘉永六年、ペリーが軍艦四隻を率いて、浦賀に入港します。

武力を背景にして、開国を迫られた日本は、幕府が屈辱的な不平等条約を結びました。
安政元年、おやさまが「おびや許し」のはじめをされた時、日本の隷従が始まっていた。

日本をままにしたのは、当時の中国朝鮮ではなく、「アメリカ」「西欧」、つまりそれが、日本を言うがままにした唐人さんたちです。

> 今までは唐が日本を儘にした 神の残念なんとしよなら
唐人の思想は、西欧型の文化以外は「野蛮」とみなすものでした。
そして、根本にある戒律思想をもって、思想支配しようというものでした。<> きほん?<><>2007/01/13(土) 17:09:12 ID:<>基本さん、キリスト教に奇跡はありますが仏教に奇跡はありません。
前者には神がありますが仏教にあるのは法だからです。
おやさまは元をしれば病はおこらないと説いています。
仏教は人は生まれ老い病んで死ぬと説いています。
ご自身の共産サヨ思想をおやさまの思想にこじつけるのは辞めていただきたい。<> 基本。<><>2007/01/13(土) 17:12:39 ID:<>きほん?さんには、基本は左翼思想に見えるようですね。

> おやさまは元をしれば病はおこらないと説いています。
この事の根拠はどこにありますか。<> 基本。<><>2007/01/13(土) 18:32:22 ID:<>>>198
それから、真言宗、天台宗、日蓮系の宗派、みな「法力」による奇跡を示して来られた歴史があります。
きほん?さんは、
> 仏教に奇跡はありません。
と、言われていますが、「天理教の本で仏教を学んだ」のでしょう。
各宗教の宗祖開祖の物語を読まれるべきです。
各宗派、立派な奇跡の逸話を宗祖開祖は、みな残されていますよ。
各寺院には、今も祈祷の受付がなされています。奇跡を念じて頂いているのです。
拝み祈祷は、様々な願い事へのものです。

天理教の中だけの、天理教の人の解説した仏教思想を丸呑みにしていませんか。
信仰の現場では、みんな奇跡を願って信心しています。

基本は、おやさまの言われたように、八百万の神が伊蔵さんを手を打って待っていたと思っています。
日本の神仏は、天神地神、天台宗、真言宗、日蓮宗、宗派問わずに、おやさまの教えの世に出たものと理解しています。
信心の現場を見ないで、天理教の本の中や天理教の先生のいう事だけを丸飲み込みして、「仏教には奇跡が無い」と、語っていては、おやさまの思想は、理解は遠いと思います。
どんな宗教にも、奇跡を願うと言うものがある。
それは、各宗派の現場に行けば、直ぐ分かる事です。

左翼と言うのは、共産主義の思想の事を指しますが、左翼とは、無神論です。
基本は、八百万の神々と神仏を拝しますから、無神論ではなく、つまり左翼ではありません。
谷底せり上げはおやさまの思想です。
「大社高山取払い」も、おやさまの思想です。
基本が、こじつけているのではありません。
おふでさきに書かれています。
「世界ろくぢに踏み鳴らす」とは、おやさまの思想そのものです。

明治の時代に日本をままにしていたのは、中国清王朝ではない、朝鮮でもない、西欧です。不平等条約として日本国民を苦しめた。
そういう、事実は、ごまかさない。

ごまかしてこじつけて、朝鮮や中国に侵略の片棒担いだのが、戦前の天理教の本部であった。
昭和12年の天理教会本部機関誌「みちのとも」七月号には、こんな記事がありました。

「日本民族の使命」・・神国日本と天理教・・
天皇陛下を中心とする我が大和民族の理想国家は世界各国に対する美しき模範をたれるべきものであることを教え給い、世界人類に対する大なる使命を明示するものであります。
明治維新の大業も、民族精神の発露とは言え、世界各国における革命精神と異なり、ようするに「神ながら」の大精神への復古であります。
この根本精神をあまねく世界の国と人に及ぼして、その浄化を祈念し、その共存と共栄を本願するのが神国日本の天賦の使命であります。
それは、我らの命の限りを尽くして、天皇陛下の御みいづを輝かしまつる事に他ならぬのであります。
底にこそ、我らの永遠に生きる道が存するのであります。
・・・

そして、天理教祖は根の国日本と説いていて、天理に基づいて天皇陛下の神の国による世界の統治を説いていると言う要旨につなげています。

こういうのを、こじつけというのです。

基本は、当時の事実と、おふでさきのきちんとした順番にそって、かな文字の言語の解釈も、きちんと一語づつ、理解して、解釈しています。

きほん?さん、どこかに書いてあった事を受け売りしないで、自分で事実関係を確認して、そして、その上で、言葉の定義を曖昧にしないで、論理的に語ってください。

日蓮の奇跡、有名です。引用し紹介します。
http://www.kuonji.jp/20_daimk/20_00206.htm
 同年9月12日、日蓮聖人はついに捕らえられ佐渡流罪となります。しかし、これは表向きで、実は途中の龍口(たつのくち)において侍所所司平頼綱により密かに処刑されることになっていました。ところが、まさに首を切られようというその瞬間、奇跡が起きます。突如、対岸の江ノ島のほうから雷鳴が轟き、稲妻が走りました。これに頼綱らは恐れをなし、処刑は中止になったといわれています。

みんな、おやさまの思想を、おやさま以前の時代に現した、昔からの神仏は大切にせよ。
おやさまの教えです。<> きほん?<><>2007/01/13(土) 18:56:43 ID:<>基本さん、おやさまは何処かへ修行に行き月日の社となられたのですか?
山へ登り滝に打たれましたか?
厳しい戒律を守った者に不思議はあるのですか?違うでしょ。
しんのはしらとは思想そのものであり当時の日本人の思想を西洋人が支配していたとの解釈は無理がありすぎます。<> 基本。<><>2007/01/13(土) 20:46:54 ID:<>>>199
きほん?さん。

私からの問いに対する答えになっていませんが、きほん?さんの問いにはお答えします。

> おやさまは何処かへ修行に行き月日の社となられたのですか?
そうです。

> 山へ登り滝に打たれましたか?
はだし参りはしています。

> 厳しい戒律を守った者に不思議はあるのですか?
ありました。<> きほん?<><>2007/01/13(土) 21:16:03 ID:<>おやさまは何処に修行にいかれましたか?

お百度参りも加持祈祷も月日の社になられる以前のことでしょ。
修行をした者にのみ不思議があるのが法です。おやさまは心の誠が効くと説いています。
さて、基本さんの質問はなんですか?<> 基本的質問<><>2007/01/13(土) 21:29:06 ID:<>とうじんのこうきの中に旧約的世界観も入るという発言には納得しますが、当時の清の「こうき」は何だったのでしょうか?
又、「ろくじ」という言葉の意味を平等と同意語のように使われる傾向がありますが、何を基準にした平等なのでしょうか?
所有財産の平等でしょうか?<> 基本。<><>2007/01/13(土) 22:32:15 ID:<>>>201
おやさまは、在家の仏教徒として修行をされていました。
> 修行をした者にのみ不思議があるのが法です。
> おやさまは心の誠が効くと説いています。

修行した結果の「法」を行うときに、心のまことが効くといわれています。
教に定められた「法」をしないで、或いは法を破ったら、心のまこと真実が効く以前の問題で、何も効きません。
心のまこと以前に、教えにそむいたことになりますから、効くことはない。当たり前のことです。

甘露台のおつとめでも、「理を振る」のだから、手はぐにゃぐにゃしないようにとおやさまは言われています。
甘露台のおつとめが「効く」為には、「稽古」をと、おやさまは言われていますよね。稽古というのも修行のうちです。

「法」は、形や作法や戒しめや、定めていて、それを破っては、神様ははたらかない。
 「法やとて誰がするとは思うなよ、この世初めた神のなす事」 五号39
と、おふでさきにあります。
「法」も、元の神のなす事なのです。

おやさまは、十三歳の前から、念仏と言う仏教の修行をしていました。
19歳では、五重相伝を受けています。
http://www.jodo.or.jp/naruhodo/event/index11.html
{五重相伝(ごじゅうそうでん)
浄土宗の教えの神髄を相伝する法会で、専修(せんじゅ)念仏の教えが正しく、誤りなく次代へと伝えられていくための法会です。五重というのは五通りの説明(意義)を重ねてもれなく念仏の一大事をお伝えするから五重相伝会というのである。期間は八日間で、前六日間が前行(ぜんぎょう)、七日目が正伝法(しょうでんぽう)、八日目が御礼礼拝(おれいらいはい)となっている。近頃は期間を短縮する場合もある。}

おやさまのなされた浄土宗には、戒律があります。
http://ww6.tiki.ne.jp/~k-seri/t_kikyou-jukai-5jiu.htm
ここに、現代の浄土宗の信心が紹介されています。

{ 2. 授戒会(じゅかいえ)
  授戒会とは生活を『戒める』の意味として、正しい生活の仕方を指導してもらい、仏陀の弟子の証として『戒名』を授かる儀式です。}{また、この儀式では日課念仏と言って自分の決めた数の念仏を毎日称えることを基本としてします。
 これこそ浄土宗の教えの真髄としています。 }

{この授戒会では三帰、五戒、三聚浄戒、十重禁戒などが授けられます。  ・三帰は仏、法、僧の三宝を信仰のよりどころする誓い。
・五戒は
?不殺生戒〜生き物を殺さない。 ?不偸盗戒〜盗みをしない。 ?不邪淫戒〜よこしまな男女関係をもたない。 ?不妄語戒〜嘘をつかない。 ?不飲酒戒〜酒を飲んで他人に迷惑をかけない。
という戒め。
 ・三聚浄戒は摂律儀戒と摂善法戒及び摂衆生戒の三つをいう。
?摂律儀戒は
五戒を始め、十重戒、四十八軽戒など人間の貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、痴(おろか)さから出てくる悪い行為に対する戒めが含まれています。
?摂善法戒とは摂律儀戒に触れない範囲で自分にとって善いことをすることです。
?摂衆生戒とは摂律儀戒に触れない範囲で他人にとって善いことをすることです。 }

このように、修行には戒律があった。
おやさまは、それをしていた。

法を効かすには、先ずちゃんとした修行の出来た法でなければ無理で、それが出来ていて、奇跡的に効くときには、「心のまこと真実」が効くのです。

シュート練習しないで、心のまこと真実で、ゴールを決めようとしたら、決まるでしょうか。
法をきちんと修行したものでなければ、月日の社にはなれないし、出来ない事になる。それが天理です。

「法やとて誰がするとは思うなよ、この世初めた神のなす事」 五号39
「どのようなむつかし事と言うたとて 神が真実受け取りたなら」 五号40

元の神が、なす事である「法」。
それを、修行もしないで、効があるなんて、安易過ぎる考えです。

おやさまは、10歳頃からすでに信心の修行の道にいた。
その修行せずには、月日の社にはなれない。
それが天理です。<> きほん?<><>2007/01/13(土) 22:48:09 ID:<>基本さん、おやさまはどこへも修行にいってませんよ。

基本さんの仰ってる事は屁理屈です。

質問があれば箇条書きにしてください<> 基本。<><>2007/01/13(土) 23:25:31 ID:<>>>202
基本的質問さん、はじめまして。
> 当時の清の「こうき」は何だったのでしょうか?
先ずこの質問からですが、ご存知でしょうが、清王朝は実は侵略王朝でした。『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%B5%E4%BB%8F
{ 満洲に住む女真族の統一を進めたヌルハチ(太祖)が、1616年に明から独立して建国した後金国が清の前身である。}
その、後金国が中国に侵略して、北京を首都として、清を打ち立てました。

> 「ろくじ」という言葉の意味を平等と同意語のように使われる傾向がありますが、
> 何を基準にした平等なのでしょうか?
ろくぢとは、おやさまの思想です。平等とは違うものです。

平等とは、個人対個人とか、民族対民族の関係です。

ろくぢというのは、元始まりの話の中にあるように、「陸地(ろくぢ)」が、意味の本質だと、基本は理解しています。
国というのも、まだ安定した自由な経済行為の陸地となっていない。
浮き沈みがあるから、高山は、水のつかない高いところに自分たちはいようとする。
そういう因果関係と見ています。
「資本」と言うのは、「陸地の上の柱」みたいなものだと、思います。

現代はまだ、「泥海」同様の世界。
それに対比しての「ろくぢ」です。

> 所有財産の平等でしょうか?
それで、ろくぢとは、生存の機会と働く環境の、土台の平等、そんな風に理解しています。
個人の泥海と個人の陸地というものではなく、世界の経済の陸地を創ろうと言うのがおやさまの思想と理解しています。<> 基本。<><>2007/01/14(日) 00:11:04 ID:<>>>204
> 基本さん、おやさまはどこへも修行にいってませんよ。
仏教で修行が一番難しいのは、在宅でする修行です。
将来、月日の社となり全てを教えだすおやさまでから、どこへも行かないで修行したのは、道理にかなっています。

> 基本さんの仰ってる事は屁理屈です。
そうでしょうか。
難しい話ですから、一語一語丁寧に確認しながら理づめに思案しないと、おやさまの思想は、理解できなくても仕方ないことです。
おふでさきの言葉を、史実を、きちんと見つめれば、基本の語っていることは、おふでさきに書かれていることの、基本的な理解として、道理だと思います。

> 質問があれば箇条書きにしてください
???
人の投稿に反論をした立場のあなたであれば、読まれているはずですよね。
私の投稿を。
だとすれば、これも読まれているはずです。

[197]基本。 07/01/13 17:12 rHDQfSV/SJ
きほん?さんには、基本は左翼思想に見えるようですね。

> おやさまは元をしれば病はおこらないと説いています。
この事の根拠はどこにありますか。

・・・・
この文章の質問が、質問として理解できないとしたら、それでは、何を語っても、あなたの読解力では、今までの書き方では理解できないのだと判断するしかありませんね。

それで質問だけは、望まれるように箇条書きにして、とてもやさしい言葉で、次回投稿にていたします。<> 基本。<><>2007/01/14(日) 00:20:56 ID:<>きほん?さんに、質問したいと思います。
きほん?さんは、[196]の投稿で、次のように書いておられましたね。

[196]きほん? 07/01/13 17:09 E-Jz6Br
基本さん、キリスト教に奇跡はありますが仏教に奇跡はありません。
前者には神がありますが仏教にあるのは法だからです。
おやさまは元をしれば病はおこらないと説いています。
仏教は人は生まれ老い病んで死ぬと説いています。
ご自身の共産サヨ思想をおやさまの思想にこじつけるのは辞めていただきたい。

質問の内容は、このコピーした、きほん?さんの文章の中の、
『おやさまは元をしれば病はおこらないと説いています。』、
これについてです。
二つの質問をします。

質問1、『おやさまは元をしれば病はおこらないと説いています。』との事ですが、それは、何時ごろ説いたのでしょう。

質問2、『おやさまは元をしれば病はおこらないと説いています。』
との事ですが、それが説かれた事実を、証明する資料はなんですか。

お答えを頂きたいと思います。<> 基本的質問<><>2007/01/14(日) 01:37:31 ID:<>誠実なご返答ありがとうございます。
泥海にたいする「りくち」というイメージですね。

私見ですが 「いちれつろくじにふみならす」
とは、世界中に隔てなく、教えを行き届かせるという意味に解釈しています。これまでは一部の独占物のように扱われていた「教え」を、「公」に誰でも求める人に届けられるようにするという意味だと解釈します。
広義には、貧しくて教えを租借する時間さえ持てない人には、最低の経済的保障は必要だと思いますが、それ以外で経済的な平等などというものは非現実だと思います。

経済的な永続的繁栄も神様のご守護の一つではあると思いますが。


現在の国や会社、又個人同士にしても今の社会は「から」に満ちていますが、
Gや一神教的世界観というものも含めてシナやロシアもまた「から」なのではないでしょうか?

「から」とはつまるところ「利己主義」のことではないかと思います。


かくいう私も「とうじん」とのハーフだと思いますが。w

とうじんからの脱却又は唐人性の溶解はどのように起こるのでしょうか?
「にほんのもの」であるための道具はまだこの宗教に残っているでしょうか?


<> 基本。<><>2007/01/14(日) 01:45:53 ID:<>さて、きほん?さんの質問に、詳細に答えたつもりでしたが、きほん?さんの読解力では、意味が伝わらなくて、迷惑をかけてしまったようです。

きほん?さんの投稿では、こんな風に質問が書いてありました。
・・
[199]きほん? 07/01/13 18:56 E-Jz6Br
基本さん、おやさまは何処かへ修行に行き月日の社となられたのですか?
山へ登り滝に打たれましたか?
厳しい戒律を守った者に不思議はあるのですか?違うでしょ。

[204]きほん? 07/01/13 22:48 E-Jz6Br
基本さん、おやさまはどこへも修行にいってませんよ。
・・
おやさまは、浄土宗の念仏を学んでいますから、当然それは、お寺に修行に行かなくては教えてくれません。
また、>>203 で紹介したように、「勝手にやってよいものではなく」、お寺の許可がいるものであり、戒律があるものです。
きほん?さんは、今の天理教の、だれでもおつとめを自由にさせるものになれているから、認識できなかったのでしょうが、厳しいもので、ちゃんとした信者でなければ「念仏」して良いとはならないもの。
だから、戒律があり、認めた人だけに信者として念仏を唱えることは許されるのです。
そういう江戸時代のお寺にて、そこで子供のうちに修行した。
それは、お寺に行って修行したと言うことです。

五重相伝もおんなじで、おやさまはお寺に行って、受けています。
これも、普通には、お寺に行って修行したということです。

[199]きほん? 07/01/13 18:56 E-Jz6Br
基本さん、おやさまは何処かへ修行に行き月日の社となられたのですか?

わかり易い文でお答えします。

お寺に行って修行し、許されて在宅での念仏の修行をした。
そして、裸足参りや願掛けなどで、信じんの効をあげ、月日の社となった。

そういう史実です。<> 基本。<><>2007/01/14(日) 01:50:28 ID:<>[199]きほん? 07/01/13 18:56 E-Jz6Br
基本さん、おやさまは何処かへ修行に行き月日の社となられたのですか?
山へ登り滝に打たれましたか?
厳しい戒律を守った者に不思議はあるのですか?違うでしょ。

「厳しい戒律を守った者に不思議はあるのですか?違うでしょ」
この事にたいして、反論します。

厳しい戒律を守らない者には、不思議はありません。
それが、元の神の理の基本です。
手の振り方ひとつさえも間違えたら、不思議はないというのが、おやさまの思想です。<> きほん?<><>2007/01/14(日) 07:25:50 ID:<>この元を詳しく知りた事ならば 病のおこることは無いのに
はじめに示したお歌ですが不十分でしょうか。

おやさまは幼少より在家の仏教徒として修行をしてきた。だから不思議なたすけが出来たのだと基本さんはお考えなんですね。 困った人だ。
<> 紬<><>2007/01/14(日) 10:23:40 ID:<>きほん?さんは、何を根拠に思案しているのでしょうか?

基本さんのお持ちの資料を持っていないのなら、そう書かないと、論ずる以前の問題になってしまいますね。こう思う(自分なら)という立場でしかなれませんよね。
論ずるには、論ずるだけの文献を示すのは、基本中の基本の事だと思いますが、如何でしょうか?

私も、詳しい資料を持っている訳ではないので、原典から、こう思案し、こう思う(自分なら)という立場しかできかねます。
それと、それらしい事を書くとすぐに左翼思想と色眼鏡でみる日本人的発想は、お止めになった方が宜しいかと思います。<> 紬<><>2007/01/14(日) 10:28:36 ID:<>おやさまの御心の、立教以前の素地(信仰心)という観点で、浄土真宗(仏教徒)は必然であったと、そう私は感じておりますが。<> 基本。<><>2007/01/14(日) 14:06:09 ID:<>>>211
きほん?さん。
おふでさきにて、書いてある、おうた。
『 > この元を詳しく知りた事ならば 病のおこることは無いのに』、これが、お答えと言う事ですね。

質問1、『おやさまは元をしれば病はおこらないと説いています。』との事ですが、それは、何時ごろ説いたのでしょう。

これについては、『 > この元を詳しく知りた事ならば 病のおこることは無いのに』と言う、お筆先が書かれた時と、言うご回答。

質問2、『おやさまは元をしれば病はおこらないと説いています。』
との事ですが、それが説かれた事実を、証明する資料はなんですか。
とのことですが、それは、『 > この元を詳しく知りた事ならば 病のおこることは無いのに』と書いてある、その「おふでさき」そのものが資料であると言う回答ですね。

おやさまは、「これさえあれば良い」と、おふでさきを示されています。

それでは、きほん?さんの引用された『 > この元を詳しく知りた事ならば 病のおこることは無いのに』とのおふでさきは、何時書かれた物でしょうか。

「やまい」ということについてのおふでさきを、内容で整理してみましょう。

明治2年正月より 一号。
「知らしたら現われ出る気の毒としてのやまい」(1-24)
「いかなやまいも心からの病」(1-24)
「世界並みのやまい」(1-25)
「世界並みではないやまい」(1-25)
「今までも是非無く出していた病」(1-26)
「神の残念の出た病、医者薬がかなわん病(あしのちんば」(1-27)
「やまいではない、神の立腹の病(あしのちんば)」(1-32)

明治2年3月 二号。
「何においても病痛みはなく神の急き込みである」(2-7)
「やまいではない、神のせきこみの病(のぼせかんてき)」(2-11)
「この世には病というものはない、神の満ち教え、神の意見である」(2-23)

明治七年一月より 三号
「この元を詳しく知った事ならばやまいの起こることはない」(3-93)
「なににてもやまいと言うものはない、心違いの道がある」(3-95)
「神の急き込みがつかえた原因の病(むねあしく)」(3-103)

・・・・(以下は別の機会に)
このように、おやさまの思想では、いままで整理した内容のよに、
?、やまいというものには、世界並みの病とそうでない病とある。
?、世界並みと世界並みではない、どちらの病も、病の元は心からである。
?、特定の病は、普通の病ではなく神の残念のやまいであり、医者薬は利かない。
 イ、あしのちんば(現代では、代謝性疾患・高尿酸血症の事)
 ロ、のぼせかんてき(現代では、脳の疾患・脳波の異常)
 ハ、むねのつかえ(現代では、心臓の疾患)
(ほかに、子供の夜泣き、などあげられると思います)
?、この元を詳しく知ったら、病の起こることは無い。

と、このように、おやさまの思想は、整理されます。<> 基本。<><>2007/01/14(日) 14:23:14 ID:<>>>211
> おやさまは幼少より在家の仏教徒として修行をしてきた。だから不思議なたすけが出来たのだと基本さんはお考えなんですね。
> 困った人だ。

困った人と言うのは、きほん?の方です。
在家の仏教徒として修行もし、三島神社の信徒として参拝や願掛け、はだし参りをして、それで、「法」を身に付け、心を澄ませていたから、「月日の社」になったのです。

婦人会の道の台という雑誌(機関誌)に、おやさまは、神がかりの後です。
幼児の小寒や、むすめらに、三島神社に、「法」の修行としての、参拝をさせています。
天理図書館でも、婦人会本部でも、或いは地方の教会でも読めるはずですから、「みちの台」で確認してみて下さい。
三十六年前に読んだ記憶があります。その前の号と思います。

おやさまは、月日の社となってからも、子供たちに、神社への参拝を命じて、させていた。
基本の語る基本の、なによりの証拠です。<> 基本。<><>2007/01/14(日) 16:04:05 ID:<>>>196
きほん?さん。
> 仏教は人は生まれ老い病んで死ぬと説いています。
その通りですが、「人は生まれ老い死ぬ」、これは、天然自然の理です。
おやさまの思想でも、「死にたい時に死んで生まれかわれる」という、「死の時期決定の意思の自由」は、説かれています。
しかし、どんな風に生まれかわるとか、そういう「自由」は説かれていません。それは「理」が決めるもの。理の中に生きているは普遍です。
だから、甘露台世界と言う理想世界になっても「死」はあります。
「死」があるから、新たな創造を赤ちゃんからやり直せる。
つまり、新作の一本も無いDVDは誰も買わなくなる。
新作のためには、「白紙」から創作する自由がなければならない。
それと同じで「死」とは、積極的な生まれかわりです。「死=出直し」。

それでは、甘露台世界には「老」は無いのか。当然あります。「理」ですから。
「生老老死」の中で、甘露台世界になっても「生老死」は、あるのです。これは、否定できないでしょう。
そこで、話題の「やまい」、「病」は、甘露台世界にあるのか、という問題を、今、議論しているわけです。

きほん?さんは、おふでさき三号の、
『 > この元を詳しく知りた事ならば 病のおこることは無いのに』、
これを、論拠として、こう語られました。「> おやさまは元をしれば病はおこらないと説いています。」と。
 これは、おふでさきに書かれた事を、ご自分の言葉で語られたわけですから、その文だけならば、間違いとはいえません。
しかし、きほん?さんは、おふでさきの趣旨全体に対しては、誤解した立場で、これを書いています。
だから、きほん?さんのこの意見は、「修行」をいらないとしている点と、「仏教=裏守護」を奇跡のないものと否定している点と、まじえているために、大間違いとなっています。
 つまり、きほん?さんは、「成人の道中としての仏教思想や、八百万の神々、宗教の説く法や戒律、その修行という、道筋」を抜きにして、「元さえ知ればよい」という見方で、語られている。
おやさまが、なされた、十代からの四十歳までの精神の修行、それを否定する立場で「元さえしれば病はない」と語られているから、それでは、なんの「効」も生まれない。現実的なやまいたすけは、出来ない。
その点で、議論を整理しているわけです。

おやさまは、おふでさき九号にて、次のように語られています。
 「にんげんにやまいと言うて無いけれど この世始まり知りたものなし」 九号11
 このおふでさきは、きほん?さんが言われる、「> おやさまは元をしれば病はおこらないと説いています。」と、内容趣旨、全く一致しています。
明治8年6月でした。

日本医事史 < 明治時代から引用します。
http://www.osaka-minami-med.or.jp/ijisi/ijishi12.html
明治7年に至って「医制」を定め、東京、大阪、京都の3府に通達した。
これが、日本の医学制度の始まりで、漢方医は医者としての資格を得られないことになります。
その時期、おやさまは、「医者・薬」に対して、このように思想を示しています。

 「にんげんにやまいと言うて無いけれど この世始まり知りたものなし」 九号11
 「この事を知らしたいからたんたんと修理や肥に医者薬を」 九号12
 明治8年に説かれているという事は、この「医者薬」とは、西洋医学・東洋医学を含めてのものです。
つまり、「元をしれば病というものは無い」、それを知らしたいから、「医者薬」を裏から守護した。
 医学薬学がなければ、元は知る事が出来ない。
それがおやさまの思想です。裏守護と言うのは、「理」をおしえたものです。「十のうちの九つ」ですが、まさに、九割を占める大切なものです。
 おやさまの思想では、元を知る土台として、医学薬学の知識の修行を当然ですが必要とします。で、なければ、元は知る事が出来ない。
 日本に、西欧の医学が入って来たとき、それが現代の医学制度の開始の翌年、おふでさきにおいて、「元をしるには、医者薬」と、示されたのです。

勉強しないで、修行しないで、その医学の成果から「元の理」が解明できますか。
勉強し、修行する。
それは、偉大な宗祖の、八百万の神々を拝し、教えを学ぶこととおんなじ意味です。
天理教は、医学とはお友達です。
八百万の神々と医学薬学と、裏から表から、「ことば一つ」の原理でいさいを説く。
それがおやさまの思想です。
 <> 基本。<><>2007/01/14(日) 16:36:18 ID:<>きほん?さんが、「元をしれば病がなくなる」と言われているのは、「世界並み」の病の事です。

>>214
> ?、やまいというものには、世界並みの病とそうでない病とある。
> ?、世界並みと世界並みではない、どちらの病も、病の元は心からである。
> ?、特定の病は、普通の病ではなく神の残念のやまいであり、医者薬は利かない。
>  イ、あしのちんば(現代では、代謝性疾患・高尿酸血症の事)
>  ロ、のぼせかんてき(現代では、脳の疾患・脳波の異常)
>  ハ、むねのつかえ(現代では、心臓の疾患)

>>216
>「にんげんにやまいと言うて無いけれど この世始まり知りたものなし」 九号11
> 「この事を知らしたいからたんたんと修理や肥に医者薬を」 九号12
この、おふでさきのやまいも、「世界並み」のやまいの事だと思われます。

つまり、元始まりの理を知らしたいという事は、立教以前に、それまでにあったことですから、「世界並み」の事。特殊な事情ではないという事に思われます。

それに対して、比較して、と言う意味ですが、「神の残念」などの、おやさまが直接に人間のおやとしての思いをこめたものは、「やまいではない」ものとしての「病」は、「医者も薬も敵わない・効き目が無い」。

そして、そういうやまいは、やまいではなく、神からの「道教え」である。或いは手引であり、意見などである。
それは、体内へのおやさまからの直接のメッセージということです。
そういう事ですから、甘露台世界になっても、神からの道教えは「理」として、普遍ですから、神からの体内への「手入れ」は、あると言うことになります。

きほん?さん、宜しいでしょうか。
「元を知ったら、普通の病気はなくなる」けれど、おやさまが教えたいためにだす道教え、手引などは、なくならない。
それが、おやさまの病気に対する教えの基本です。

もちろん、心一つで、治ると言う意味では、深刻なものではありませんが、修行もせずに学びもせずにいたら、その心一つをどうしたらよいのか、「日蓮」様や「法然」さまに、学んでいたら、たすかったのにと言うこともあるわけです。
薬の活用の仕方でも治らない場合には、各宗派の説きわけが有効と言う事です。<> きほん?<><>2007/01/14(日) 19:59:57 ID:<>>>212
てもとにあるのは、おふでさき一冊のみです。えへっ。<> きほん?<><>2007/01/14(日) 20:20:03 ID:<>○○は親神が裏から守護してきた。←知恵や文字をはじめとする仕込みはすべて親神の守護ですからこの論法はずっこいぞ。
基本さんがしてる作業は御自分の思想をおやさまの思想に結びつけて語ってるだけです。
おやさまは枝さきの教えが日本人の思想の根幹になってるがしんは知らんと仰ってるんでしょ。
体は神のものだと知らんだろと仰ってるしょ。
高山のしんのはしらは唐人や←しんのはしらとは思想の根幹であり当時の日本人の思想を西洋人が支配してたとする基本さんの解釈はこじつけでしょと言いたい訳ですが…きりないですね。<> 基本。<><>2007/01/14(日) 23:02:51 ID:<>>>218
おふでさき一冊あれば、思想そのものの理解には十分と思われます。
ただし、注釈付きのおふでさきにして下さい。史実の部分が参考になります。
> 。←知恵や文字をはじめとする仕込みはすべて親神の守護ですからこの論法はずっこいぞ。
> 基本さんがしてる作業は御自分の思想をおやさまの思想に結びつけて語ってるだけです。

きほん?さんの意見として、そのように見えているということは理解しました。

私には、きほん?さんの方が、ご自分の理解程度の都合に合わせて、自分の言いたいことを、おふでさきをちゃんと調べないで、都合よく語っているように見えます。
その、史実や現実、歴史を検証しない方法のことを「権威主義」といいます。
おふでさきに「元を知ったら病はない」と書いてある。だから、そうなんだ。
その権威には、裏づけはありますか。


そこで、元をしれば病気はない。と、そう語るきほん?さんに、質問ですが、
箇条書きしました。
?、病気したら「お筆先」を読む。医者には行かない。
?、病気をしたら「お筆先」を読み、病院にもいく。医者に診断、薬をもらう。
?、病気をしたら病院にいく。医者に診断薬をもらう。お筆先はその後で読む。
?、病気をしたら身上の理を思案する。医学的な見立てをする。自分で医学的な見立ての出来ない場合には、医者に診てもらう。それでも理のわからないときは、おふでさきを読み、原典で調べる。
つまり、「法」にて思案して、医学的に思案して、その段階で直らないときには、原典とひながたにて研究する。
?、その他。

この?????のうちどちらでしょうか。その他の場合はね具体的に教えてください。

きほん?さんの今までの論ですと、?になりそうですが、本当のところはどうでしょう。
基本は、もちろん?です。
だから、医者薬の効くものと効かないものと判断して、病気に対応しています。
どうですか、お答えくださいね。<> 基本。<><>2007/01/14(日) 23:44:09 ID:<>>>208
基本的質問さん。
おふでさきには、特定の箇所のそこだけを抜き出すと、誤解や勘違いの元になる場合が多くあります。

幾つかのご質問のなかの、まずこの問題から基本の理解を申し上げてみます。
> 「にほんのもの」であるための道具はまだこの宗教に残っているでしょうか?

おやさまはせかいたすけの人材を、「よふき」「よふぼく」「はしら」「しんのはしら」と、植物性のものの比ゆとして、おふでさきには上げておられます。
また、その人材を用いて普請するものを「大工」、人材を磨ききれいにするものを「かんな」、・・このように呼称しています。
史実的には、「しんのはしら=初代真柱」「だいく=伊蔵」と、具体的な場合もあります。

お筆先には、明治7年に、一月より執筆の、三号の中で、
「だんだんと多く寄せたるこの立ち木 用木になるものはないぞや」 三号39
と、言われています。

そして、三号の中では、
「一寸話、神の心の急き込みは 用木寄せる模様ばかりを」 三号128
「用木も一寸の事では無いほどに 多く「よふき」がほしい事から。」 三号129
と、新規に用木を集める事を意味するお歌を示しています。

そして、
「日日に用木にては手入りする どこが悪しきとさらに思うな」 三号130
と、神様が用木に手を入れるという、宣言がなされています。

基本的質問さんのご質問の、
> 「にほんのもの」であるための道具はまだこの宗教に残っているでしょうか?
この事は、病気にて日日に手入れされる人材がいれば、この宗教に残っている。
みんな健康でいたら、残っていないという目安を示しています。

続けます。<> 紬<><>2007/01/14(日) 23:51:28 ID:<>>>220
基本さんの、きほん?さんへの質問が面白いので、私も当てはめてみました。
?と、?の始めの部分ですかね。特に、頭痛と胸の痛みの二カ所にかぎっては、おふでさき(赤本)を患部に当てます。(自分に、おさづけは取り次げないので)ほぼ治ります。(笑)
ちなみに私は、病院へ行くと『かしもの・かりもの』実感し、もの凄〜く理が分かるので、病院が好きです。(笑)<> 紬<><>2007/01/14(日) 23:52:48 ID:<>>>220
基本さんの、きほん?さんへの質問が面白いので、私も当てはめてみました。
?と、?の始めの部分ですかね。特に、頭痛と胸の痛みの二カ所にかぎっては、おふでさき(赤本)を患部に当てます。(自分に、おさづけは取り次げないので)ほぼ治ります。(笑)
ちなみに私は、病院へ行くと『かしもの・かりもの』実感し、もの凄〜く理が分かるので、病院が好きです。(笑)<> 基本。<><>2007/01/15(月) 00:06:21 ID:<>紬さん。
> 頭痛と胸の痛みの二カ所にかぎっては、おふでさき(赤本)を患部に当てます。(自分に、おさづけは取り次げないので)ほぼ治ります。(笑)

お筆先を、胸に当てたり頭に当てたり、・・
おやさまの思想には、無い、利用の仕方で、それで治ると言うことは、「用木」と言う証拠かも知れませんが、・・

おふでさきの内容を、頭で理解し、胸に治めてほしいという、おやさまの親心そのものですね。
ぜひ、深く思案して、胸に治めて、用木として世界の普請におつとめ下さい。<> 基本。<><>2007/01/15(月) 01:07:49 ID:<>>>221 >>208
> 「にほんのもの」であるための道具はまだこの宗教に残っているでしょうか?

おやさまは、明治七年念頭の当時の信者には、用木になるものはいないと言われています。
実は前年の、明治六年、明治政府の「大教宣布」の運動に迎合して、中山秀司は、当時戸長として、大教宣布の演説会を開催していました。
天皇陛下を神として、国家を思想統一する「大教宣布」をおやさまの、膝元で行ったことと、深く関係があると思われます。

「唐人の思想」に従うしかなかったといえば、そのようにも見えますが、天理教が、明治政府の方針に従った。
それに、荷担した人物たちは、そのままでは、とても道具としても、用木としても使えない。
そう言う事情と分かります。

さて、現代の今の、天理教という問題に置き換えますと、おやさまの思想としては、
 「だんだんと多く寄せたるこの立ち木 用木になるものはないぞや」 三号39
の、状況と言うことです。
理由は、
1、おやさまを親神様と説かない、説けない立木ばかりであった。
2、理の親信仰を説いて、理の子信仰を行う立木ばかりであった。
と、言う現実そのものです。

そういう立木は、教会名称という山に育っていました。
大木のような立木もありましたが、名を連ねた山の頂上の「山の名」では、そこに育った木は、「高山体質」の木ですから、山の名を呼んでは、○○の用木として育ちました。
又、そういう名称を教団の過半数生んだという、河の原には、河原の小石ばかりのような名称も多く、自分の名称は大木となのりましたが、それは、おやさまの、道は小さくとの思想に背いたものでした。
そして、1、おやさまを親神様と説かない、説けない立木ばかりであった。又、2、理の親信仰を説いて、理の子信仰を行う立木ばかりであった。
のです。
そんな、天理教だから、とても、用木として使えるような「よふき」は無い状態ばかりに見えます。
けれど、そんな中でも、おやさまは、よふぼくを待っておられます。

ようぼくは、谷底に育っている。
それがおやさまの思想にあります。
明治八年二月の、お筆先です。
「このたびは谷底にては一寸したる木いがたあぷり見えてあるなり」 7号16。
「この木もだんだん月日出いりして 造りあげたら国の柱や」 7号17。
おやさまが、親神様であるという真実は、「赤衣」を召された、お筆先7号の史実に於いて、諭されました。
明治七年の十二月二十六日でした。
そして、おやさまを「神様」と呼ぶ「増井りん」と「泉田籐吉」が信者になったのが、明治7年でした。
おやさまを、月日と呼び、親神と呼ぶ。
それが実現したときには、「谷底に」「たっぷりと木がある」

いまがその時です。<> アルテミス<><>2007/01/15(月) 06:10:17 ID:<>おはようございます。

抜き書きになりますのでご注意願いますが、おさしづには
明治二十三年七月七日『元々医者は要らん、薬は呑む事は要らんという事は教には無いで』
という言葉と、明治二十五年四月十一日『神の道に入れば医者薬要らんという。これ明らかして一つ理吹く。』

とありますが、この思案はどうなるのでしょうか?<> 紬<><>2007/01/15(月) 08:40:02 ID:<>>>224

基本さん、いつまでもいつまでも変れなかった強情な性分の自分でした。定めても定めても、その定めた心を自ら濁して・・と。全く、理解に至るまでの道筋は、こんなにもまどろっこしい道なのだと、実感しています。これからの道は心新たに、一筋にと念じている今です。
おやさまなくしては、もう通るに通れなくなりました。

すみません、スレッドの趣旨(思想)に反しまして。<> 基本。<><>2007/01/15(月) 12:21:22 ID:<>>>226
アルテミスさん。おはようございます。
おやさまの思想の「口記」として、弟子の飯降伊蔵の口から語られたお指図の中に、医者薬についてのお言葉があること、ご紹介有難うございます。
> 明治二十三年七月七日『元々医者は要らん、薬は呑む事は要らんという事は教には無いで』
このおさしづは、その後に、「手あまりをたすけるのは誰もなんとも言うまい」とありますように、医者にかかり薬も飲んで、それでね効果のない、医者の手に余る状態の病人を助けることなら、世間の道理に反した医薬妨害でもなんでもない。と、そのような趣旨に基づくものです。

それは、紹介しましたお筆先の
>「にんげんにやまいと言うて無いけれど この世始まり知りたものなし」 九号11
> 「この事を知らしたいからたんたんと修理や肥に医者薬を」 九号12
この理の責めと、同じ趣旨です。
病を通して、元始まりの理をあらわし、心ひとつの貸し物借り物の理を、示されていると言うこと。
それだから、医者や薬で病はたすかるということです。

それに対して、
> 明治二十五年四月十一日『神の道に入れば医者薬要らんという。これ明らかして一つ理吹く。』
こちらのおさしづは、『山澤みきの身上はしか様なもの出来しにつき願い」とあります。子供がはしかになったからどうしたらよいか、医者に見せるか見せないかという伺いに対するお指図と、理解できます。
アルテミスさんは、新仮名つかい本のおさしづ本で、引用されました。
新仮名本では、前後はこのようになっています。
・・・
『心得の為案じる。』
『どういう事、世界道がありて今の道がある。』
『何ぼう話さしづしてもとんと運び難ない。』
『一時世上一つ理、何ぼうでも一日一日理を送り理を送り、』
『これまで医者薬というて話してある。』
『皆道の処掛かり、皆世上の処暇がいる。』
『話聞く。』
『道のため話聞いて、話抑えるようなもの。』
『そりゃと言えばそりゃ。それとんとどうもならん。』
『一里の道が十里になる。何ぼうとも分からん。』
『神の道に入れば医者薬いらんという。』
『これ明らかして一つ理吹く。』
『先ずして世上世界の道がどうでもこうでも道がある。』
『そこで苦労でどうもならん。』
『世上通り難い理に濁りありてはならん。』
『また濁りありても一つ力添えば成りてくる。』
『これ一つ諭しおく。』・・・

これをきちんと解釈しますと、意味は、わかります。<> 基本。<><>2007/01/15(月) 12:25:35 ID:<>>>226 >>228
解釈です。

『心得の為案じる。』
→ 後々の心得の為に、今案じる事情となり伺っている。
『どういう事、世界道がありて今の道がある。』
→ どういう事か。それは、世界に(病には修理肥えの)道があって、今の道がある。
『何ぼう話さしづしてもとんと運び難ない。』
→ お筆先を通しおさしづを通して、話しても医者・薬の道に運び難い状態でいる。
『一時世上一つ理、何ぼうでも一日一日理を送り理を送り、』
→ 一時的には世上と同じ一つの理を通らなくてはならない。
→ それを(理解できなくて)、一日一日と日を無駄に送りしてきた。

『これまで医者薬というて話してある。』
→ これまでに、お筆先では「この事を知らしたいから修理や肥えに医者薬と」話た。
→ お指図では、『医者は要らん薬は要らんという事は教には無いで』と、話した。
『皆道の処掛かり、皆世上の処暇がいる。』
→ 道の取掛かりは、皆、世上の処にいるのだから、修理肥えの道を通る暇が必要だ。
『話聞く。』
→ 神様から話を聞いて、元始まりの理を教えたいから医者薬をと、聞いていて、
『道のため話聞いて、話抑えるようなもの。』
→ 世界をたすける道の話を聞きながら、その神様の話を抑えてしまうようなものである。
『そりゃと言えばそりゃ。それとんとどうもならん。』
→ そりゃ神様だから医者も薬もいらんというような、急いた事ではどうもならない。
『一里の道が十里になる。何ぼうとも分からん。』
→ 修理肥の道を省いて、そりゃそりゃでは、一里の道を十倍も何十倍もかかることになる。
『神の道に入れば医者薬いらんという。』
→ お筆先には、神の道に入れば医者薬はいらないとの理は説いてある。
『これ明らかして一つ理吹く。』
→ 医者薬はいらなくなるという事の意味を明らかにすれば、おやさまの理が吹く事に成る。

『先ずして世上世界の道がどうでもこうでも道がある。』
→ 先ず、先に、世上世界の道(修理肥え・医者薬の道)が、
→ どうでもこうでもの、通るべき道としてある。

『そこで苦労でどうもならん。』
→ 簡単に神様にさえ願えば良いという訳には行かないから、苦労で仕方ないだろう。
『世上通り難い理に濁りありてはならん。』
→ 元の教えを知る道、先ず通らなければならない世上の理に濁りがあってはならない。
→ 医者にもみせ、薬も飲んで、世上と一つ理に道を通ることである。

『また濁りありても一つ力添えば成りてくる。』
→ また、先の道として、濁りがあったとしても、一つ(おやさま)の力が添えられれば医者薬のいらない世界になって来る。
『これ一つ諭しおく。』

このように、解釈されます。

修理肥えの道を、拝して辿ることは、暇がいるようですが、十日ですむ。
医者薬はいらないとか、他宗教はもういらないとか、言っていると、なんぼひまがいるか、・・
現在の「一神教・天理教」の、裏守護修行無視、軽視がある限り、ひまはいりますが、
『また濁りありても一つ力添えば成りてくる。』
これが、あります。
おやさまにお力を添えていただいて、本来の教えの姿を復元しましょう。

明治八年に日本に西洋医学が到来したとき、おやさまは、おふでさきにて、修理肥えとしての、医者と薬の、理としての存在理由を示されました。

西洋の医学、それは、モーゼの思想と真っ向から対立しつつ進歩したものでした。
西洋では、医学・科学と神とは、真理として相容れない関係を長く続けていたという事です。
<> 基本。<><>2007/01/15(月) 14:11:37 ID:<>>>208
基本的質問さんのご意見、ご質問に、引き続き基本的な理解を述べます。
>泥海にたいする「りくち」というイメージですね。
> 世界中に隔てなく、教えを行き届かせるという意味に解釈しています。これまでは一部の独占物のように扱われていた「教え」を、「公」に誰でも求める人に届けられるようにするという意味だと解釈します。
>
この事は、高山の情報の占有に対する「ろくぢ」として、同感です。
おやさまの教えは、谷底にこそ届けられるべきです。
でも、おふでさきさえあれば良いという事は、「人間の感性」へのおやさまの信頼の現われと思います、
おふでさきには、それを素直に理として受け止めていくなら、情報の処理の感性が、格段に深まり、物事の本質を見つめる事が普通に出来るようになる根本が記されていると思います。
史実と確かめながら、おやさまの見ていた世界を、おふでさきを通して理解するなら、高山の持っている情報や知恵の実態以上のものが、胸に分かるのでは無いかと、それが基本的な思案です。
「筆先のことわりが見える。」
先ず、その事を、心がけたいと思います。<> 基本。<><>2007/01/15(月) 14:40:02 ID:<>>>208 >>231
> 現在の国や会社、又個人同士にしても今の社会は「から」に満ちていますが、
> Gや一神教的世界観というものも含めてシナやロシアもまた「から」なのではないでしょうか?

おふでさき解釈の基本としては、「から」とは、「空っぽ」「虚」という意味と解釈します。
胸に二本、月日の柱のにほんある者を「にほんの者」と、解釈します。
その「にほん」とは、今までは、おふでさき注釈では、「天理教の信仰者」、「から」とは、「未信者」と、区別していました。
けれど、裏守護まで含めた思案を基本として、見つめなおしますと、他宗教の分野であれ、医学・科学の分野であれ、『月日の理』が胸にある人は、みな「にほん」。と、いう解釈が基本となります。
科学者も医者も、理に素直なお方たちは「にほんのもの」と、なります。
宗教家でも、真理に素直なお方たちは、みな「にほんのもの」と、なります。

それに対して、天理教信者であっても、理の子信仰をしている人は「とふじん」という事になります。
先生や導き手に、「問う事」をもっぱらとして、自分自身が「おふでさき」から、理を学ぼうとしないからです。
「理の子信仰」は、「空虚」です。

> 「から」とはつまるところ「利己主義」のことではないかと思います。
「利己主義」と言うものは、わが身の事我がうちの事しか考えない主義の事ですね。
それは、「欲」の世界であり、おやさまは、わが身我が内から出た理は如何様な理でも受け取れないと明言されています。
その意味では、「から」とは、利己主義に似ています。
けれど、「から」の人が利己主義とは限りません。
真理に対する不信、不安。生きていることへの疑問。人間不信。
そういう、胸に風が吹いていることを「から」と言うのだと思います。
「博愛」の唐人さんのほうが多いのではないでしょうか。
愛するからこそ、疑い、傷つけるという唐人さんのほうが、多いと思います。

> とうじんからの脱却又は唐人性の溶解はどのように起こるのでしょうか?

それは、ある瞬間に、「コロリ」と起きるといわれています。
おふでさきでは、先ず、「とうじん」と「にほん」とを分けることの大切さが、示されています。

 高山のにほんのものととふじんと 分ける模様もこれも柱や 二号四六
 とふじんとにほんのものと分けるのは 火と水とを入れてわけるで 二号四七

「高山」にも、とふじんもいればにほんのものもいる。
その時、火と水を入れるという事は、災害が、或いは人災が起きると言う事です。
天災があったときに、権力側にいるものの中の、「にほんのもの」と「とふじん」とが、分かる。

例えば、大塩平八郎さんは、飢饉において、「にほんのもの」でした。
例えば、板垣退助さんは、会津討伐において、「とふじん」でした。
明治維新の人物にも、坂本竜馬さんのように「にほんのもの」もいて、・・・
そういう、分けるときには、「火と水」がはいるのが、「天理」というものと示されています。

続きます。<> 基本。<><>2007/01/18(木) 05:39:59 ID:<>身上のたすかりについては、みかぐら歌では、もっとシンプルに核心をついています。
「七つ難渋、たすけ上ぐれば、八つ病の根を切ろう」(二下り目)
です。

この世の元始まりを知ることも大切ですが、「おつとめ」の地歌は、そんな思想を超えて、シンプルです。
>>219
きほん?さんは、天理教で一番りが重いものは、おつとめだと、知識として、知っておられると思います。

「つとめさえ違わないようになったら」、それが、人間の病の根の切れる一番に、シンプルなおやさまの思想です。
その、おやさまの思想では、つとめの歌詞において、「難渋を救いあげたら」「病の根を切ろう」と、説かれています。
おつとめは、「拝みや祈祷ではない」。

その地歌と理振りで教えられたおやさまの思想を、理解し行うならば、「つとめと違わない」と、言えるのです。

そこで、人の難儀をたすけたら、お筆先では、
「人たすけたらわが身助かる」と、あります。
それは、人間の間違いやすいところを教えた、違いあるなら歌で知らせる、そういうものとして、説かれた思想です。

御神楽歌は、難儀をたすけたらと、言われていない。
難渋を救い上げよといわれています。
「救う」と「救い上げる」ではぜんぜん違う。
債務奴隷を見て、可哀想に、たすけてあげましょうと、法律相談に乗っても、可哀想にと食事をご馳走しても、学校を建ててあげても、まったく、「難儀をたすけた」だけのことで、・・
難渋を救い上げたことにはならない。

おつとめとは、病をたすかる道は、病むほどつらいことはない、わしもこれから日の寄進と、日々に寄進することにあると示しています。
けれど、きほん?さんの言うような、病の起こることはない、為には、難儀をたすけるだけではなく、「救い上げる」これしかない。

唐人の思想世界の、たすけあいと言うのは、「福祉」といわれ、社会福祉として尊ばれます。それは、わが身たすかる道です。

おやさまの思想は、自ら谷底に落ちても、難渋をたすけ上げるという思想です。
妥協なきおやさまの思想は、おつとめの十二下りの地歌の中に、示されました。
世界の難儀をたすけ上げるには、この世に「陸地」(ろくぢ)をつくり、泥海から陸へと、兄弟たちを救い上げて、普請する事。
その世界ろくぢの思想こそ、地球上の債務奴隷を解放する、おやさまの根本思想です。

そして、その思想の理解のためには「おふでさき」が、その思想の実践には「十二下り」が、おやさまから示されているということです。<> アルテミス<><>2007/01/19(金) 00:00:38 ID:<>こんばんは。
基本さん、おさしづ解釈ありがとうございました。
また一つすっきりしました。
話は変わりますが変な夢をみました。

神社のような場所で大きな神殿の中に自分がいて、
教祖殿のお社の3倍くらいの大きさの社が一つ置いてある前で、
何人かとすわりづとめをしているのです。
社の上にはみかぐら歌らしきものが垂れさがっていましたが、書かれている内容がまったく違っていました。

その後クジらしきものを引いて10万円の当たりをだして、そこの神社か教会の人にどこからきたのか等と身元調査らしき場面で目が覚めました<> 基本。<><>2007/01/19(金) 17:26:43 ID:<>「夢」と「幽冥」?
おやさまの思想では、「夢」と「幽冥」とは、対極的に説かれています。
「神は幽冥と思うやろう、幽冥とは思うなよ」との思想は、本席の口を通して語られたおさしづにあります。

何が違うのか。それは、主語が違うという事です。主体が違うという事です。
「夢」は、月日が見せるもの。
「幽冥」は、人間が思うもの。
この違いです。<> 基本。<><>2007/01/19(金) 18:23:01 ID:<>>>233-234 「夢」と「幽冥」? 善なる心

おやさまが、善なる心を引き出す理により「ぜんしゅう」と言うと、教えられた禅宗のひとつに、曹洞宗 という宗派があります。
道元道元禅師が開かれています。そこに、◆高祖のことば 道元禅師◆とあります。
紹介します。
http://www3.nsknet.or.jp/~hamasaki/busshin/shuha/shuukyou/soutoushu/soutou.htm
◆高祖のことば 道元禅師◆

  仏道をならうといふは、
自己をならふなり。
自己をならふといふは、
自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、
万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、
自己の心身、
および佗己(たこ)の心身をして
脱落せしむるなり。

「夢と幽冥」の相違は、この道元禅師の言葉からも理解できます。

つまり、「自己をわするる」「自己の心身、および佗己(たこ)の心身をして脱落せしむる」この状態の時に、見るものは「夢」。
「自己をならう」「万法に証せらるる」と言う、その状態にて、見るものが「幽冥」「幽明」。
「う」一文字の違いですが、主体の違いというものがそこにあります。

曹洞宗では、「仏道をならうとは自己を忘るる事だ」と言う道元のこの思想を、次のように解説しています。
http://www3.nsknet.or.jp/~hamasaki/busshin/shuha/shuukyou/soutoushu/soutou.htm
{「自己をならふ」というのは、この世に生まれる以前から備わっていた、尊い徳や限りない智慧を、己れのなかにしっかりと見つめることです。「自己をわするる」とは、ひたすら坐禅に取り組むことです。「万法に証せらるる」とは、己れの小さな自我を棄てさって、宇宙の真理と一つになることです。自分が自分がとか、自分だ他人だという狭い心をぬぐいさって、身体をまっすぐに調えて坐禅すれば、大きな清らかな世界に入ってゆける。それが宇宙の真理と一つになることだと、道元禅師は説かれているのです。
そして、これは決して難しいことではありません。 私たちは、本来、仏であり、坐禅を一分すれば、一分の仏。それが、悟りということなのです。}

引用した解説は、アルテミスさんには、おなじみの宗教の方便としての「説法」で説かれています。
教えのわからない人にも、分かり易くと説かれていて、「正法眼蔵」の本文のままに説かれているものではありません。
解説は、人間を主体にして説かれています。
自分の自我を捨て去って、とか、ひたすら座禅に取り組むとか、人間が主体的に「宇宙の真理と一つになろう」とする、その、行為、それそのものが、「幽冥の思想」という事になってしまっています。
禅の思想とは、そうではなく、道元禅師の言われている「自分に習う」という自分に対する低い心の境地を諭されています。自分の存在そのものに頭を垂れた心の低さ。ありのままに自己に素直ということを示されています。{尊い徳や限りない智慧を、己れのなかにしっかりと見つめ}、なんてしていたら、「幽冥の思想」に陥るでしょう。

道元禅師は、こう言われています。
  仏道をならうといふは、
  自己をならふなり。
おやさまは、こういわれています。
  禅宗とは善なる心を引き出す理。

まさに、表と裏は、理は一つです。自らの善を禅にて引き出す。座禅です。

「ゆめ」と「ゆうめい」の相違は、「う」一文字の違いですが、かな文字「う」とは、おやさまの思想では、「大戸辺命」さまで、引き出し、引き伸ばしの守護の理とおやさまは「こうき話」の中に教えています。
確認しましょう。
道元禅師は、こう言われています。
  仏道をならうといふは、自己をならふなり。
  自己をならふといふは、自己をわするるなり。
おやさまは、こう言われています。
  欲をわすれて日のきしん。

座して、善なる心を引き出す事のすばらしさ。
「この道は生きた禅やで」おやさまの思想です。<> 基本的質問<><>2007/01/19(金) 19:22:01 ID:<>>「この道は生きた禅やで」
すばらしいお言葉ですが、出典を教えてください。<> 基本。<><>2007/01/19(金) 19:26:57 ID:<>「夢」と「幽冥」? 座はすなわち仏道
>>233-235
道元禅師のお言葉を美しく掲示されているページがありますので、ご紹介します。
http://www3.ocn.ne.jp/~gogouan/Dohgen/Dougen.html
座はすなわち仏道なり。
座はすなわち不為なり。
是すなわち自己の正体なり。
この外別に仏法の求むべき無きなり。

>>325 の、言葉と二つを並べてみましょう。
> ◆高祖のことば 道元禅師◆
> 仏道をならうといふは、自己をならふなり。
> 自己をならふといふは、自己をわするるなり。
> 自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
> 万法に証せらるるといふは、自己の心身、および佗己(たこ)の心身をして脱落せしむるなり。

座はすなわち仏道なり。
座はすなわち不為なり。
是すなわち自己の正体なり。
この外別に仏法の求むべき無きなり。

現在の天理教は、「座りつとめ」を各信者に「つとめ」として教えています。
「座」していたら、何も出来ない。
「座して死を待つ」と言う言葉があるように、何も出来ない状態が座禅でいうところの「座」というものです。
その時に、「座はすなわち仏法」。心に見えるものがあるとすれば、それが「夢」です。
その境地に到達する道としての「座禅」ということになります。

「夢」は寝ている時に見ます。
いわゆる無意識という状態ですから、寝ている時には、普通に安眠、熟睡の時には、「我」は無い。「他」も無いる

アルテミスさんが見られた夢というものも、無意識の内に見られているわけですから、間違いなく「夢」。
夢は、月日が見せるもの。
そして、人間が、悟りを開こうとして瞑想して行き着くものは「幽冥・幽明」。
「座して」、「無為」となる。
そういう「つとめ」も、ひながたの中では教えられている処です。

そして、おふでさきが、執筆を開始されるまでの中で、立って踊るようになりました、までの道筋は、そうした、「座して」神名を連呼し続けるつとめの道。

まさに、通るべき道として、心にとめておかなければならない事です。

人の心の「仏性」に直接に、月日が働きかけるのが「ゆめ」と、それがおやさまの思想。
アルテミスさんへのおやさまの親心が、見せた夢であったという事になります。<> 基本。<><>2007/01/19(金) 20:03:09 ID:<>>>236
基本的質問さん。
>> 「この道は生きた禅やで」
> すばらしいお言葉ですが、出典を教えてください。
確認のための時間をください。
私の中では常識化してしまっていて、出展元は、二台真柱さまか高野友治先生かの著作物、あるいは正文遺韻と思いますが、手元に無い本もありまして、確認出来次第報告させて頂きます。
ご存知の方ありましたら、協力ください。
お願いします。<> 普通の天理教徒。<><>2007/01/20(土) 17:45:23 ID:<>ちょっと話題からずれますが、
基本さんは、「座りつとめ」と「座禅」との「座」というものを、関係付けて語られていますが、おやさまは、慶応3年から「十二下り」のつとめを教えられています。
立教30年の出来事ですね。
稿本教祖伝には、こんな風に書かれていました。

『わしは、子供の時から、陰気な者やったで、人よりの中へは一寸も出る気にならなんだが、七十過ぎてから立って踊るようになりました。』  (96頁)

丁度、おやさま七十才の時には、おつとめが「座り」だけではなく、「立って踊る」ような、陽気なものになったという意味に、このお言葉は理解されますね。
子供の頃から、朝晩念仏を唱えたり、戒律を守ったり、精神的に修行をすることは、確かに陰気な感じがします。

おやさまが、宗教的な修行をなされていて、月日の社になる土台を育まれていたと言う基本さんの解説は、その内容は「辻忠作先生」の残された記録と似ていますが、何の修行もせずに突然に月日の社になられたのではない事は、元の理に「ひとすじ心」を見澄まされてとありますように、その精神を見澄ますと言う意味でも、大切なことだったと、普通の天理教徒は、思案します。

そこで、「座りつとめ」というものは、確かに「手をどり」よりは、陰気なもので、それを、最初に教えられたという事は、「座」というものの本質である、「無為」を教えられたという、理解になるのでしょうか。
最初のおつとめは、拍子木を叩いて、神名を、線香一本が燃え尽きるまで叩くと言うものであったと、「辻忠作」先生の逸話には、それを半分に折って、二本にして、同時に燃やして、時間短縮して叱られた話が残っています。
その、「線香」というものも、それまでの仏道の教えが色濃くあります。
線香一本の燃える時間の間は、「無為」、何もなさずに、一心に神名を唱えなさいという事は、「座」は禅宗の、「唱える」は浄土宗の、精神のあり方を、その「つとめ」にて身につけよと教えられていたのではないでしょうか。
「人中で、立って踊る」と言う、「陽気」は、土台としての信心、神さまに言われたままに、陰気な時代をこつこつと通る。
そういう三十年。
「いつも笑われそしられて、」の道が、土台にあっての陽気づくめなのだという事を、改めて、感じました。<> 基本。<><>2007/01/20(土) 18:15:02 ID:<>>>239
明治20年8月23日のお指図に、このように、あります。

 さあさあ、道の道なら、通さにゃならん。
 なれど長い道、これもしいかり聞いて置かねばならん。

 どんと心を定めて運ぶなれど、この道は何時何時の事であろうと思うて、退屈であろう。
 ・・・・
 さあさあこれも聞いて置かねばならん。
 立毛の育つも、この世始めも同じ事、
 無い人間を拵えて、初めより、ものが言えたやない。
 一年経てば一つ分かる。
 又一つ分かれば、又一つ分かるように成って、
 物言うようになりたも同じ事。
 順序事情の道を伝うて、何事も一つ一つ分かる。

 道を伝うて、何事も一つ一つ分かる。
 道皆ちゃんと決まりてあるのや程に。

 内々身の内障り付く。これを聞いて置かねばならん。


普通の天理教徒さん。
つまり、人間は初めから立って歩いたわけではない。
先ず、生まれたばかりの赤子のように、「無為」から、人間は人間になった。
「座禅」を組むと、その無為の中に、人間の元の姿がある。

人間は、初めから物が言えたのではない。
親を求めて、泣き叫ぶと言う「ひとすじ心」から、親の慈しみを得て、言葉を聞いて、言葉を真似て言葉を覚えて、それで、ものを言うようになった。

それは、「道皆ちゃんと決まりてあるのや」なのです。

人間の陽気くらしのためには、その元始まりからの道筋は、「決まりた道として」、通らなければならない。
おやさまは、そんな陰気な事は、教えていない。
かも知れないが、何も出来ずただ無くだけの赤子の、母の愛を得たときの「笑顔」にまさる「陽気」は無い。
その、人間の原点に精神を戻す「座禅」と「念仏」。
まだ、天理教では、その「陰気」な修行が足りていない。
一見陰気に見えるとしても、何もなさずに、精神の修行をする。
その道を、たどらなければ、ならない、『道の中の道』が、基本です。
 『順序事情の道を伝うて、何事も一つ一つ分かる。』
 『道を伝うて、何事も一つ一つ分かる。』
それでなければ、「眼」は開かない。つまり、悟りはつなかいことになるでしょう。<> 基本。<><>2007/01/20(土) 18:52:15 ID:<>きほん?さんは、「元始まりさえ知れば病は無い」と、おやさまの思想を語られていました。
それは、お筆先には、ちゃんと知らされてあるから、きほん?さんは「正解」を言われているわけでした。
しかし、「元始まりさえ知れば」という、その意味の中には、実は、「順序事情の道を伝うて、何事も分かる」と言う「理」が、元始まりそのものとして、あるわけです。

その順序事情の道としては、病気で言うなら「医者・薬」があって、それを伝うて、元始まりが分かるようになる。
その順序事情の道としては、信心で言うなら「これまでの月日の教え」があって、それを伝うて、元始まりとなる。
それが、「裏守護」というおやさまの、思想です。

そこには「法」・「戒律」がある。そこを外したら、「理」にならない。

おやさまは、「線香一本の間」と教えられた。
辻忠作さんは、それを半分に、折って、線香一本を燃やしたけれど、時間は短縮した。
合理的に見えたけれど、実は、おやさまの教えに反していた。
稿本教祖伝には、このように記されています。

「文久三年三月四日、忠作が初めて参詣して、妹くらの気の間違いに就いて伺うて貰うと、教祖は、
『この所八方の神が治まる処、天理王命と言う。ひだるい所へ飯食べたようにはいかんなれど、日々薄やいでくる程に。』
と、仰せられた。」

「忠作は、教えられるままに、家に帰って毎日拍子木を叩いて、
「南無天理王命、南無天理王命。」
と、繰り返し、繰り返し唱えて、勤めて居たが、一向に利益が見えない。
そこで、又お屋敷へ帰って、未だ治りませぬが、どうした訳で御座いましょうか。と伺うて貰うと、教祖は、
『つとめ短い』と、仰せられた。」  (p120.121)

この時の勤めとは、「座して、おやの名を呼ぶ」つとめ。
無心であるべきものを、「線香を折るを為して」しまった忠作さん。

禅の心。
道元禅師の偉大さを、私たちは、神として拝する旬にあると、心得るべきでしょう。

たって歩く前には、人中で1人前にものを言う前には、「座りて神名を一心に唱える」と言う、ひながたの道の順序がある。

普通の天理教徒さんが、気が付かれた様に、「勤めが短い」、その勤めとは、陰気な中にある陽気。
その、おやひとすじに、呼び続けるつとめの大切さを、教えられたお言葉と基本は、理解しています。<> きほん?<><>2007/01/20(土) 22:26:04 ID:<>あのね、おいらは裏守護も順序も否定はしてないよ。もちろん医者や薬もね。

元を知れば病の起こることはないのに、と言うおやさまの嘆きともとれるお言葉の真意は珍しい事を法だと言ったり、人はやがて病んで死ぬと諦めているが、それは違うと否定されてるんだと言ってるですが…。嘘も方便と言ってるが嘘はもう嘘は聞かんと戒律なぞと言ってるが胸の口とが違うと仰ってるんでしょ。

それから基本さんが大嫌いなセム系一神教も裏守護だからね。<> 基本。<><>2007/01/21(日) 01:58:26 ID:<>>>242
きほん?さん。こんばんわ。
> それから基本さんが大嫌いなセム系一神教も裏守護だからね。
以前に、十字架の事について、おやさまの思想を述べた時に、その「趣旨」で述べています。
つまり、「とふじん」の教えも、元は裏守護ということは、おやさまの思想です。

> 人はやがて病んで死ぬと諦めているが、それは違うと否定されてるんだと言ってるですが

これが、たった今、きほん?さんの言われたことですよね。
では、きほん?さんは、「人は病んで死ぬ」は違うと思うのですか。
「理として無い」と思っているでしょ。
「死なない、病まない」なんて。

そういうことを、「胸と口が違う」と言うのです。
この一点、どうですか。
<> 基本。<><>2007/01/21(日) 02:06:51 ID:<>きほん?さんは、「人間は死ぬし病む」と思っている。
それが、きほん?さんの「胸」ですよね。

それに対して、「口」では、つまり投稿では「おやさまは、病まない死なない」と、言ってる。
と、おやさまの言葉を利用して、自分の意見を述べている。

つまり、基本が、「人は死ぬし病む」と語ったことに、おやさまの言葉を引用して、「疑問=?」を投げかけている。

自分の胸と違うことを、語るということが、今の、たった今の、あなたのした事。

おやさまの思想の、全体像をきちんと把握しないで、一部だけ引用しているのが、「きほん?」さん。
あなたの、胸と口の違いなのです。
理解できましたか。

あなたの手法を、権威主義と言うのです。
おやさまのお言葉と言う権威で、きちんと調べも確かめもしないで、一方からの見方だけを押し付けている。
そこを、論じましょう。<> 基本。<><>2007/01/21(日) 02:15:28 ID:<>きほん?さん。

追質問です。
> 元を知れば病の起こることはないのに、と言うおやさまの嘆きともとれるお言葉の真意
>
この、たった今の投稿ですが、おふでさきには、こうあります。

なににても 病痛みは更になし 神のせき込み手引きなるぞや 二号7

このお言葉の真意は、病があるのは手引きだと言う真意ですよね。

「元を知っても、手引きはある。」つまり、病はある。
これは、基本が一貫して語っています。

これに対して、否定する根拠は、なにあるのですか。
追加質問しておきます。<> 基本。<><>2007/01/21(日) 07:32:22 ID:<>>>231 >>208 の、基本的質問さんへ、続きです。
> 高山のにほんのものととふじんと 分ける模様もこれも柱や 二号四六
> とふじんとにほんのものと分けるのは 火と水とを入れてわけるで 二号四七
> 「高山」にも、とふじんもいればにほんのものもいる。
> その時、火と水を入れるという事は、災害が、或いは人災が起きると言う事です。

このように、記しましたが、もうひとつ、身上においての病を起こすというものがあります。

 おふでさきの六号に、
 この返し大社高山取り払い みな一列は承知していよ 六号115
この話なんと思うて聞いている 天火火の雨 海は津波や 六号116
と、あります。
「天火火の雨」、これの解釈は、お筆先講義(上田嘉成)では、文字通りに、天から火が降るというような解釈しています。
辻忠作先生に、このお筆先の意味を尋ねたとき、「辻忠作先生」は、「脳病」の事であると、言われています。

どうして、辻忠作先生に質問したかというと、お筆先六号は明治7年十二月の執筆です。
この年、明治7年の2月22日には、辻忠作先生はおやさまから、直接に、おふでさきを示されて、因縁の話をして頂きました。
それは三号の147で、ですから、この時代のおやさまの思想を、リアルタイムに聞かれた「辻忠作」先生は、お筆先の原義としての意味を一番知っておられた方だからです。
「脳病」。

基本が分類しておきましたが、
>>214
> ?、やまいというものには、世界並みの病とそうでない病とある。
> ?、世界並みと世界並みではない、どちらの病も、病の元は心からである。
> ?、特定の病は、普通の病ではなく神の残念のやまいであり、医者薬は利かない。
>  イ、あしのちんば(現代では、代謝性疾患・高尿酸血症の事)
>  ロ、のぼせかんてき(現代では、脳の疾患・脳波の異常)
>  ハ、むねのつかえ(現代では、心臓の疾患)

移植も効かない、医学の通じない「脳病」こそ、人間身のうちでの、まさに、「天火火の雨」。

おやさまの思想は、「天にては」「身の内にては」「世界にては」と、三つに理を示されます。
「天火」とは、身のうちでは「脳病」。

辻忠作。
中田儀三郎さんと同じ時期の入信ながら、十年は信心をさぼっていたと、言われた人は、
>>241
おやさまから、「つとめ短い」と諭された経歴の持ち主でした。

(続きます)<> 普通の天理教徒<><>2007/01/21(日) 16:08:38 ID:<>いくつかの質問があります。
先ず、>>214 と関連しますが、
>>246
元を知るためには、修理肥えの教えとして「医者も薬も必要である」という事は、理解できました。
そこで、基本さんは、元を知っても、人間を導くための「手引きや手入れ」としての、神様見たら病気ではないけれど、人間からしたら病気と言うしかないような病気は、無くならないと言われました。
神様は、人間の成人までの間には、手引きや手入れなさるでしょうが、「月日人間同じ事やで」と言うような、成人した後にも、それでも、まだ「手引き、手入れ」は、あるのだと、いう事でしょうか。
陽気世界が出来上がった後までも、なお、「手引きや手入れ」があるようでは、「陽気暮らしの完成」とは、思えない。
きほん?さんが言われるように、「元が分かったら病の起こることはない」という、お筆先がある以上、人間の成人した暁には、病まず死なず弱らずの姿になるというのが、本当の「教えの基本」だと思いますが、いかがでしょうか。

次の質問ですが、基本さんは、お筆先にある病名・病状から分析されて、「医者・薬」では治らない病気を、
> ?、特定の病は、普通の病ではなく神の残念のやまいであり、医者薬は利かない。
>  イ、あしのちんば(現代では、代謝性疾患・高尿酸血症の事)
>  ロ、のぼせかんてき(現代では、脳の疾患・脳波の異常)
>  ハ、むねのつかえ(現代では、心臓の疾患)
このように、挙げておられますが、医学が進歩して行っても、似た感じの質問ですが、医学が進歩して行っても、「医者薬は利かない」病気というものが、有り続けるという事でしょうか。
そして、「陽気世界が完成」しても、「医者・薬」は無くならないという事でしょうか。
それだと、陽気世界になったら、病まない死なないは、実際には無いという事になりますよね。
その点、どうなのでしょうか。

次に、「天火火の海」というお筆先の事ですが、太平洋戦争末期の集中砲火や、空爆の事原爆の事だと言うような、意味にとれる解釈もあるようですね。
基本さんは、身の内にては「脳病」だと、辻忠作先生においての解釈を言われていますが、例えば世界にては「核の脅威」と言うような、そのような理解は、どうなのでしょうか。


普通の天理教徒は、教団が示した教理を基本としています。
教団の広報である、天理教道友社では、「教理から現況まで 天理教」という本を出されています。
そこには、このように書かれています。

「病まず、死なず、弱らない世界」
「・・・『めづらしたすけ』と言われるそれは、親神の自由自在の御働きによって現前せしめられる創造を絶した絶対的価値の設定であるというべきであろう。」
「・・・老、病、死というような、人間の生が必然的に担っている重苦しい定めをも突き破って成し遂げられる輝かしい不思議の実現である。」
「・・・かくして『病まず死なずに弱らない』という事が、いかに明確な、そして根本的な人生苦の解決であり、この上ない救済の事実を示しているかが知られる。」
・・
「実に人びとの心が澄み切って、真実の心となった時にこそ、親神は人間に永生の喜びを与えられるのである。」
「すなわち、人間の定命を百十五歳と定め、なお、心次第によっては、年を重ねて弱る事なく、いつまでも長生きさせてやろうと教えられるのである。」 (p124,125)

基本さんには、権威主義と言われそうですが、普通には、教団の示した「病まず、死なず、弱らず」の説明の方が、「きほん」なのだと、思えます。

それで、質問しました。<> 基本。<><>2007/01/21(日) 16:37:11 ID:<>>>247
普通の天理教徒さん。
ご質問は、大別して、二つですね。
一つは、「天火火の海」の解釈の事。
もう一つは、「病まず、死なず、弱らず」という、現在の天理教団が、おやさまの思想として説明している、「人間の救済論」の事。
この、二つですね。

先ず、「天火火の海」とは、「核、や、空爆」の事かという件ですが、それは、アメリカ軍がなしたり日本軍がなしたり、・・人為によるものであり、神様のなされたものでは、ありません。
おふでさきの文字が、「そらは火の海」では無いという事です。

例えば、オゾンホールが破壊されて、そこから、天から「日さまの理の一部である紫外線が大量に注がれるような、天災は、理として「天火火の海」に相当するでしょう。
あるいは、太陽の黒点の活動の以上から電磁波が大量に降り注ぐのも、理として「天火火の海」に相当します。

身の内の「天火火の海」は、「脳病」。
普通の天理教徒さん。そうすると、「海は津波や」は、身の内では、なんに相当すると思いますか?
「海は津波や」、ですから、大量の失禁、おもらし、という事になると悟りました。
(現代では、代謝性疾患・高尿酸血症の事)
(現代では、脳の疾患・脳波の異常)
(現代では、心臓の疾患)
そして、尿の失禁。
普通の天理教徒さん。お分かりになりますか。
今まで説明しましたように、「
「天火火の海」も
「代謝性疾患も、脳波の異常も、心臓の疾患も、又、尿の失禁も、・・」
まったく、「同じもの」なんです。

まったく同じ、ただ一つの「理」に帰結する、それはなんでしょう。
ちょっと、思案してみてください。

そうなんです。
「ゆめ」も、ただ一つの「理」に帰結する。

ちょっと、思案してみてください。<> きほん<><>2007/01/21(日) 17:15:20 ID:<>基本さん、おれは人は死なないとは言ってないよ。また、病んで死ぬとも思ってない。病んで死にたくないとは思ってるけどね。
人が言ってもしないことや思ってもしないことについて論じれないでしょ。
手引きは心得違いがあるから神が身の内に知らせてくれるんだよね。そういう理が歴然とあることを分かっていたら、病は起こらないということでしょ。
文章力がないのはお詫びするが基本さんより読解力はあるみたいだ。
とりあえず基本さんの身の内が少し天火火の雨だということは理解できました。<> 冬風<><>2007/01/21(日) 17:40:44 ID:<>きほん?ってのは基本の自作自演なのか???
なんで幼稚な馬鹿のふりするんだ?
<> 基本。<><>2007/01/21(日) 17:41:16 ID:<>>>247-248
「天火火の海」について、普通の天理教徒さんに、ご思案して頂いている間に、「病まず、死なず、弱らず」について、現在の天理教団が説明している、「人間の救済論」の事に関して、基本を述べてみます。

天理教道友社の解説が引用したおふでさきでは、次のようにきちんと、理を知らされてあります。
その本の本文に引用されたお筆先を、書かれた順番に直して、示します。(実に、お筆先の順番違いは宜しく無いことです)

普通の読み(音)で書くと、このような理の責めです。
 真実の心次第のこのたすけ 病まず死なずに弱りなきように  3号99
 このたすけ百十五歳定命と 定め付けたい神の一条      3号100
その後は病まず死なずに弱らずに 心次第にいつまでもいよ   4号37
 また先は年限経ちた事ならば、歳をよるめはさらにないぞや。 4号38
 この救けどう言う事に思うかな 病まず死なずに弱りなきように 17号53

一覧して、分かるように、「時間の経過」が、きちんと理としてあります。
天理教団の解説は、お筆先のならばせてある順番が、後先になっています。
教団風に、天理教道友社の「教理から現況まで 天理教」の、順番は、こうです。
 この救けどう言う事に思うかな 病まず死なずに弱りなきように 17号53
 真実の心次第のこのたすけ 病まず死なずに弱りなきように  3号99
 このたすけ百十五歳定命と 定め付けたい神の一条      3号100
その後は病まず死なずに弱らずに 心次第にいつまでもいよ   4号37
 また先は年限経ちた事ならば、歳をよるめはさらにないぞや。 4号38


この救けどう言う事に思うかな 病まず死なずに弱りなきように 17号53
実は、これの続きは、
こんな事 今までどこに無い事や この証拠を知らしたさやで  17号54

つまり、「この証拠を知らしたさ」=「甘露台のかぐら」と、お筆先十七号は、甘露台の石の取り払いを受けて、「甘露台とつとめ」の理を、きちんと示された内容となっています。

おやさまは、」証拠を知らしたい。
天理教とは、「甘露台勤め」という、「人間はじめかけた理の証拠」を知らしめて、示す、教えであります。
が、そこからは、心次第という道になる。
「いちれつ」というのは、「陽気づくめの証拠を示し教える理」において、いちれつ、隔ては無い世界にする。
しかし、人の心は自由であり、「証拠としての甘露台が完成したら」、そこから、「新たな始まりとなる」。
それは、心しだいなのです。それを意識して読めば、

 真実の心次第のこのたすけ 病まず死なずに弱りなきように  3号99
 このたすけ百十五歳定命と 定め付けたい神の一条      3号100

ここまでは、「定めをつけたい」だけのこと。で、それは、「神」が主体。
神が定めたのは、神の定め。定めがついたとして、それが甘露台世界の事なのですが、その後の人間は、心次第。

 その後は病まず死なずに弱らずに 心次第にいつまでもいよ   4号37

いつまでも、居られるような陽気世界になっても、年寄りになる。
その後は、これも心次第で、

 また先は年限経ちた事ならば、歳をよるめはさらにないぞや。 4号38

そおして、
 この救けどう言う事に思うかな 病まず死なずに弱りなきように 17号53

となる。
その証拠としての天理教。
こんな事 今までどこに無い事や この証拠を知らしたさやで  17号54

これが、基本的な、理解となります。<> 基本。<><>2007/01/21(日) 18:14:04 ID:<>>>250
冬風さん。こんにちは。
基本は、「飯田の演歌王」「基本」「普通の天理教徒」「黒の基本」と、ネット上では、名乗っています。
「きほん?」さんは、別人です。
基本は、現在、天理教の基本教理の解説のホームページ準備中です。

それは、「きほん?」さんのように、ちゃんとした原点からの基本教理の基礎を学んでいない人もいると、感じたからです。

冬風さんは、
> きほん?ってのは基本の自作自演なのか???
> なんで幼稚な馬鹿のふりするんだ?
と、思われたようですが、私には、きほん?さんは、決して幼稚な馬鹿な方とは思えません。
鋭い感性で、切り込んでおられると思います。

天理教団での、「病まず、死なず、弱らず」の教説は、人間に「幻想」を抱かせている点で、「幽冥」を説く「とうじん」の手法です。
「不老不死」の「桃源郷」は、秦の始皇帝の追い求めたものでした。
日本各地に「除福伝説」があると、言います。
http://nun.nu/www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/000200/ren/web/ren9/3_special.html
[熊野、新宮がそれであったと、紹介されています。
徐福渡来伝説
およそ2200年前、秦国の始皇帝から命を受け、不老不死の薬を探すため、海の彼方へと旅立った徐福。
その足跡は日本各地で語り継がれているが、徐福の墓が残されているのは、和歌山県新宮市のみ。
伝説の薬木『天台烏薬』が生い茂る熊野の地は今も、歴史の謎とロマンに彩られている。]

甘露台の甘露は、寿命薬とか、そういう話と混ぜ合わせて、天理教団は、どこまで行っても、人間の心は自由であり、どこまで行っても人間は心次第だという根本を、覆い隠しています。
一度、切符を買えば、永久使用の陽気暮らし。
心貧しい発想です。

> なんで幼稚な馬鹿のふりするんだ?
幼稚なばかとは、不老不死を永久使用の陽気暮らしと、神の理を「減らないおやつ」扱いの、教団インテリたちのことです。

おやさまは、着物を脱ぎ捨てると、教えられました。
新しい命と、新しい着物の魅力も、わからない。
心の自由とは、生死よりも、大切。
それこそが、おやさまの思想です。

と、言うわけで、冬風さん。
きほん?さんの名誉のために、あんなやつと一緒にされたくないでしょうから、誤解として、ご理解ください。<> 基本。<><>2007/01/21(日) 18:25:39 ID:<>>>249
> そういう理が歴然とあることを分かっていたら、病は起こらないということでしょ。

手引きとは、人間がまだわかっていないことを教える場合が多いと思います。
先に教えるという、事ですね。
「手引き」といえば、チームプレイでのベンチからの「サイン」とか、困る前の「マニュアル」への誘導という感じです。
だから、先に知らせる場合の、病気は、病の理を知っている人には、先に知らせるものとして、出ます。

 どのような事も先に知らせおく

その場合に、身にての知らせも、あるという事です。
病の理を、知っている範囲でしか、サインは出せません。
<> 普通の天理教徒<><>2007/01/22(月) 20:34:54 ID:<>基本さんとは、ちょっと違う見方かもしれませんが、普通の天理教徒の立場で申しますと、おやさまの逸話の中では、このような話があります。

【ここに居いや】逸話篇
 明治七年、岡田与之助(註、後の宮森与三郎)十八才の時、腕の疼きが激しく、あちこちと医者を替えたが、一向に快方へ向かわず、昼も夜も夜具にもたれて苦しんでいた。それを見て、三輪へ嫁いでいた姉のワサが、「一遍、庄屋敷へやらしてもろうたら、どうや。」と、にをいをかけてくれた。
 当人も、かねてから、庄屋敷の生神様のことは聞いていたが、この時初めて、お屋敷へ帰らせて頂いた。そして、教祖にお目通りすると、
「与之助さん、よう帰って来たなあ。」
と、お言葉を下された。そのお言葉を頂くと共に、腕の疼きは、ピタッと治まった。その日一日はお屋敷で過ごし、夜になって檜垣村へもどった。
 ところが、家へもどると、又、腕が疼き出したので、夜の明けるのを待ちかねて、お屋敷へ帰らせて頂いた。すると、不思議にも、腕の疼きは治まった。
 こんな事が繰り返されて、三年間というものは、ほとんど毎日のようにお屋敷へ通った。そのうち、教祖が、
「与之助さん、ここに居いや。」
と、仰せ下されたので、仰せ通り、お屋敷に寝泊まりさせて頂いて、用事を手伝わせてもらった。そうしないと、腕の疼きが止まらなかったからである。
 こうして、与之助は、お屋敷の御用を勤めさせて頂くようになった。

この場合には、先に体に「腕の痛み」があって、その意味は、おやさまの「手となって」お屋敷で御用を勤めさせていただくようにとの、先のお知らせ、と言う事でした。

こういう事を、>>253  で、たぶん基本さんは言われているのですね。

>>248 での、
基本さんの質問ですが、
> 普通の天理教徒さん。お分かりになりますか。
> 今まで説明しましたように、「
> 「天火火の海」も
> 「代謝性疾患も、脳波の異常も、心臓の疾患も、又、尿の失禁も、・・」
> まったく、「同じもの」なんです。
> まったく同じ、ただ一つの「理」に帰結する、それはなんでしょう。
この、質問ですが、普通に、おふでさきをよませていただきました。
そしたら、「神の残念」と言うことなのだと、・・

それから、「天火日の海」とは、天は「月様・国常立命様」、地は「日様・面足命様」のご守護の理と、そのお怒りであると、思わせていただけます。
「代謝性疾患」は、あとにしまして、
「脳波の異常」は、脳天は「月様・国常立命様」、「心臓の疾患」は、心臓は、「日様・面足命様」の守護の理ですから、やはり、「月日」のお怒りと言うような意味に理解されます。
「代謝」・・
これを、考えて見ますと、辞書によれば、基本さんのように、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を見たのですが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A3%E8%AC%9D#.E4.BB.A3.E8.AC.9D.E3.81.AE.E8.AA.BF.E7.AF.80
難しいことは分かりませんが、エネルギーの問題、呼吸の問題、物質の異化と同化の問題と、書いてあることは、「突くと引く」と言うこと関してでした。
つまり、「代謝異常」と言うのは、「突く息・引く息」の異常と言うこと。

基本さんの質問の意味が、理解できませんでしたが、「月日の残念」という事が、回答であっても、普通の天理教徒として、間違いではないと思いますが、どうでしょうか。<> 基本。<><>2007/01/22(月) 23:40:22 ID:<>普通の天理教徒さんのお答えですが、おふでさきから、「残念」という事を回答として発見されたということですね。

 こらほどの神の残念出てるから 医者も薬もこれはかなわん

と、言われているように、医者薬ではどうにもならない。
それは、神の残念に違いは無いですね。
私の質問は、『> まったく、「同じもの」なんです。 > まったく同じ、ただ一つの「理」に帰結する、それはなんでしょう。』でした。
もう少し、絞り込んで、『○○と言うもの』『○○の理』と、・・こんな風に、回答してみてくれませんか。
お願いします。

 医者の手余りたすけるを道の台というとも、教えられていますが、それは、医者の手に余る病気と言うものがあるという事を意味しています。

それでは、普通の天理教徒さん。
「神の残念である」事には間違いありませんが、それは、どのようなものとして現れるのか、と、そこまで踏み込んだ思案をお願いしたいと思います。<> 普通の天理教徒<><>2007/01/23(火) 04:39:56 ID:<>基本さん。
ご質問に回答しようと、もう一度、病気のことを色々と調べてみました。

そしたら、
脂質代謝異常症http://www.nagara.com/prevent/dyslipid/general.html
糖質代謝異常 (糖原病)
http://health.goo.ne.jp/medical/read/genetics/0904.html
アミノ酸代謝異常 (フェニルケトン尿症(にょうしょう)・ホモシスチン尿症(にょうしょう))
http://health.goo.ne.jp/medical/search/10U80200.html

これらの代謝異常が、
心筋梗塞(きんこうそく)、脳梗塞(のうこうそく))、骨粗鬆症(こつそしょうしょう)、骨格異常(こっかくいじょう)
痛風、尿路結石、腎不全、肝腺腫(かんせんしゅ)
糖尿病と、そこからの動脈硬化による脳卒中や心筋梗塞などに原因となると、ありました。
小児の代謝異常としては、http://health.goo.ne.jp/medical/search/101A1000.html
ウイルソン病(先天性銅代謝異常)という恐ろしい病気があるとありました。

甲状腺機能の代謝異常もあるとのことでした。
http://www.genmaikoso.co.jp/sickness/koujousen.asp
前に話題の、通風は、代謝異常によるもので、
http://www.genmaikoso.co.jp/sickness/koujousen.asp
代謝異常によるリウマチは、体内の代謝機能に異常が起きた結果、尿酸やカルシウムといった物質が関節に付着して炎症や痛みを引き起こすというものです。
【代謝異常によるリウマチ:主な病気】
◇痛風 ◇偽痛風 ◇甲状腺疾患 ◇副甲状腺疾患 ◇糖尿病性関節炎 など

「代謝異常」には、こんな病気の解説がありました。

そこで、基本さんの質問ですが、
> もう少し、絞り込んで、『○○と言うもの』『○○の理』と、・・こんな風に、回答してみてくれませんか。
>
との事でしたので、以前に天理教を語る!!4に、秀司さんの足痛について書いてありました基本さんの投稿も考慮しまして、
「代謝というもの」に現れる。「大社高山取り払いの理」と、普通に思案しまして、回答します。

それで、誤字に気がついたのですが、
>>254 、の、「天火火の海」は「天火火の雨」の誤字です。
訂正します。
基本さんも、>>247-248 、>>251 、で、おんなじ間違いをしておられるようですので、ご案内します。

月日の残念は「身の内の代謝」と言うものに現れる。
それは、「大社高山取り払い」と言うものである。
病気のことだけを考えますと、こんな風に、普通の天理教徒には思えました。
いかがでしょうか。基本さん?<> 基本。<><>2007/01/23(火) 06:10:32 ID:<>>>256
普通の天理教徒さん。
間違いの指摘有難うございました。
、>>247-248 、>>251 、で、「天火火の海」は「天火火の雨」の誤字です。すみませんでした。訂正します。

それにしても、普通の天理教徒さんが、基本からの、『>「代謝性疾患も、脳波の異常も、心臓の疾患も、又、尿の失禁も、・・」 まったく、「同じもの」なんです。 > まったく同じ、ただ一つの「理」に帰結する、それはなんでしょう。 >ちょっと、思案してみてください。』
との問いに、回答において、それは、「代謝というものだ」、とか「大社高山取り払いの理」だと、答えているようでは、基本の口真似みたいなもので、第一、天理教徒としての答えになっていませんよね。
そういう、事を、見えたる事やある事を言うと、言うのです。

医者や薬は、言うなら過去を知るためのものです。また、現実を知るためのものです。

おやさまの思想は、見えたものやあるものではないものを、病の元と言われています。
それに、思いを至らしめてみてください。<> 基本。<><>2007/01/23(火) 06:50:12 ID:<>>>257
>>8
> おやさまの思想の対極をなすものを指し示す時に「世界並」と言う言葉を、おやさまは示して居られます。
> 「見えてから説いてかかる」→「世界並」と、いう思想表現があります。

普通の天理教徒さん。よろしいでしょうか。
代謝の異常というのは、医者には見えている事です。症状ですから。
しかし、その原因は見えていない。
見えていないから、メタボリックシンドロームと呼び、生活習慣病と呼んでいて、対症療法しか出来ない。

例えば、糖尿病の原因は、インスリンの働きが悪くなる事だとまでは、医学で分かる。
「糖尿病教室」では、原因をこう示しています。
http://www.nagara.com/prevent/diabetes/general.html
{ 膵臓から分泌されるインスリンの量が減少したり、あるいはなんらかの原因で、分泌されたインスリンがうまく働くことができなくなると糖尿病になるわけです。}
そして、
{ 肥満するとどうしてインスリンの作用が弱くなるのですか? }
{ 最近の研究から、脂肪を蓄積する細胞である脂肪細胞から、インスリンの作用を妨害する遊離脂肪酸やTNFと呼ばれる物質などが分泌されることがわかってきました。 }
{ 肥満し、脂肪細胞が増え、これらの妨害物質が増えてくると、せっかく分泌されたインスリンがうまく働くことができなくなり、血糖が上昇するようになります。 }
と、ここまで分かったと、示しています。

それなら、なんで「遊離脂肪酸」や「TNFと呼ばれる物質」がバランスを崩して分泌されるのか、は、分かっていないし、それの適正な修正の方法も分かっていない。
そして、「TNFと呼ばれる物質」とは、(腫瘍壊死因子)で、
http://www.shinbashi-web.com/contents/bh504-tnf.htm
癌細胞を殺す働きや、傷を治す働きがあると、それは、分かったとして、それがなんで増えるのか、増えてインスリンを機能低下させるのか。
肝心の処は、見えないのが、医者薬の限界というものです。

普通の天理教徒さん。誤解しないで下さい。
普通の病気であれば、医者・薬で治療は可能なのです。
それは、言うところの、自然治癒力が働いて、医者薬の力で病気は治る。
ところが、「神の残念」の病気は、「自然治癒力そのものの暴走」であったり、「自然治癒力そのものの低下」である。
つまり月日の守護どころか、月日の残念の状態である。だから、「代謝の異常」を直そうとして、新たな異常を生むことすら生じるのです。
医者薬では、原因不明なのですから。
それは、おやさまの思想では、何が原因かといえば、「心」と言うことは、それは、基本中の基本ですが、では、心とは何かというと、肉体では「脳の情報処理」というものになる。
その、「脳」と「肉体」の間の信号が正常ならば、科学の行為として、「脳の信号で人口腕をコントロールする」も可能、だから、
http://hotwired.goo.ne.jp/news/technology/story/20041028301.html
と、言うことになるが、「脳」の信号が狂ったときには、機械の腕も生身の腕も、全くの無能と化す。
それが、月日の残念というものの姿ということです。

話題の軸にきちんと戻りますと、普通の天理教徒さん。
代謝異常を直すには、何を直したらよいのか。
そういう観点で、私の質問を、考えてみてください。

そこで、問題文を、整理します。
「代謝の異常」とは、○○というものの異常であり、○○の理に帰結する。

この、○○とは、普通の天理教徒さん、一体何なのでしょう。
「大社高山」ばかりにこだわらずに、もう少し天理教徒らしい思案をお願いしたいところです。<> 基本。<><>2007/01/23(火) 06:54:23 ID:<>>>257-258
ヒントといいますか、おふでさきの文字の誤字もありましたので、そこは、きちんと整理しておきましょう。

 このはなしなんとをもふてきいている
 てんび火のあめ うみわつなみや   六号116

おふでさきは、音で詠んで解釈し、文字で読んで解釈します。
それが基本です。
音で読んで、
「この話なんと思うて聞いている。天火火の雨 海は津波や」
と、理解しました。

が、文字で読みますと、「てんび」は、天のお日様。「天日」という文字に読むしかありません。
天にはお日様です。火は天にてはお日さまです。

すると、「天日火の雨」とは、太陽の黒点の異常そのものです。

[黒点の数と太陽活動]に示されたように、お日様が活発に燃え盛ると黒点が増える。引用しましょう。
http://homepage3.nifty.com/hosimi/sun.htm
{ 太陽の活動の活発になると,複雑で大きな黒点が多く見られるようになります。}
{ こうした時期は, フレアと呼ばれる大爆発がたびたび起こり,巨大な炎を立ち上げます。 巨大なフレアが発生すると,それに伴って高エネルギーのX線,ガンマ線や電子のような粒子が宇宙に放出されます。 }
{ その一部が地球に降り注ぐと,オーロラをつくったり電波傷害を及ぼしたりします。}

天日から降る火の雨とは、黒点の増加によって降るものと、それが科学的な合理と基本は思います。

天日は、親神様である。おやさまの思想です。
その、黒点の活動と大地震の関連は、科学者も研究に入ったばかりでする
黒点の活動と津波、黒点の活動と地球の自転、そういう研究もなされているようですが・・
問題は○○にしかないと、基本は、一人、そう思い込んでいます。
そのヒントは、黒点が増えると、地球に降り注ぐ○○です。

天理教徒の忘れてはならないものとして、普通の天理教徒さん、ご思案ください。<> 基本。<><>2007/01/24(水) 00:00:50 ID:<>辻忠作。>>241
中田儀三郎さんと同じ時期の入信ながら、十年は信心をさぼっていたと、言われた人は、おやさまから、「つとめ短い」と諭された経歴の持ち主でした。

おやさまは、「肥のさづけ」をお渡しになりましたが、仲田儀三郎さんには丸ごとの肥のさづけを、辻忠作さんには半肥のさづけを渡されたのだと、教えられました。
つまり、仲田さんは熱心にお屋敷に丸ごと勤めていたから、丸肥を頂かれたけれど、辻さんは自分の家の事に時間を割いていたから、半肥しか頂けなかったという、意味でした。
昔の信仰者には、それだから、丸肥を頂くには、今風に言うと「道専務」でなければならないと言う、信仰のエリート主義の萌芽は、この頃既にありました。

慶応2、3年頃、おやさまは、辻忠作に、このように言われていました。
 この道は天然自然につく道や
 千里続いた藪の根を、針の鍬でおうかんの道。

おやさまの、「道」と言う思想は、辻忠作さんによって伝承されています。
おやさまは、「この道」という呼称で、おやさまの思想行動を呼んでいます。
明治二年の執筆のお筆先には、第一号 47〜49
 やまさかや 茨くろも 崖道も 剣の中も通り抜けたら
 まだ見える 火の中もあり 淵中も それを越したら細い道あり
 細道を だんだん越せば大道や これが確かな本道である
このように、道の目標としての「大道」「本道」と道にたとえて呼ばれています。 一号の50には、
 この話 他の事では無いほどに 神一条でこれ我が事
と、あります。
これは、辻忠作さんに語った「天然自然と言う道の思想」でした。

いきなりお屋敷に丸ごと、尽くし抜いた仲田儀三郎さんと、半分程度しか勤めなかった辻忠作さん。
どちらが、天然自然かは、言うまでもありません。
十年信仰の遅れた、辻忠作さんの方でした。

一人一人に与えは違う。
一寸見ると、丸ごと頂けた仲田儀三郎さんの方が、理想的な信心に見える。
しかしそれは、天然自然というものから理を思案したときには、「近道」になる場合がある。

「大道」と名の付いた「大道教」は、飯田岩治郎さん。
「本道」と名の付いた「天理本道」は、大西愛二郎さん。
お二人とも、実は近道を急いで、しまった。
 千里続いた藪の根を、針の鍬(とんが)で おふかんの道。
 山坂 茨ぐろ 崖道 剣の中 火の中 淵中 細道 本道

幕末の、維新改革を急いだ明治の思想は、ほちぼち行こうとはせず、天然自然でもなく、一気に国力を増大すると言う富国強兵でした。
その思想背景は、「唐人の思想」にあって、天皇という神による法治統治に未来を委ねようと言う急速を良しとする改革であった。
目指していたものは、日本の自立。日本民族の高揚にあった。
しかしそれは、「高山」の思いのままに「谷底」を扱うという仕組みの構築にすぎなかった。

おやさまの思想は、それに対して、「天然自然の理」。
真実まことの心を、胸から胸に伝えていくという、千年も万年もかかりそうな、ほちぼちとしたものであった。
しかしそれは、確かなおやさまの、計算に基づくものでありました。

【一粒万倍】逸話篇
 教祖は、ある時一粒の籾種を持って、飯降伊蔵に向かい、
「人間は、これやで。一粒の真実の種を蒔いたら、一年経てば二百粒から三百粒になる。二年目には、何万という数になる。これを、一粒万倍というのやで。三年目には、大和一国に蒔く程になるで。」
と、仰せられた。

 人間はこれやで → 人間は→「籾種」
一粒万倍とは、お供えしたら万倍になると勘違いしていた信仰者もいたでしょう。
そうではなく、「一粒の真実の種」とは、「一人の真実の人」と言うことです。
その真実の人が一人いたら、万人の真実の人が生まれるから、千里続いた藪の根であっても、「針」で道を付けていって、ちゃんと間に合うという、おやさまの「この世に道を付ける」思想でした。

それで、普通の天理教徒さん。
その種籾を蒔いて、実らせる、種苗代というのは、○○です。
>>259  の、質問の、ヒントです。<> 普通の天理教徒。<><>2007/01/24(水) 01:45:44 ID:<>そこまで、誘導されてしまいますと、○○。
普通の天理教徒ならば、答えは、○○しかないわけですね。

> 一粒万倍とは、お供えしたら万倍になると勘違いしていた信仰者もいたでしょう。
基本さん。私も、すっかりそんな気がしていました。・・(笑)
尽くした理、運んだ理はどこへも行かない、みんな一粒万倍になって帰ってくると、そんな風に、普通は、教えられますから、つい、そんな気でいましたが、実際は、おやさまは飯降伊蔵様に、「人間は、これやで。」と、言われていたわけですよね。

人間は一粒の種籾である。

そうでしたか。
さしたら、「屋敷は神の田地やで、撒いたる種はみな生える」ということの意味は、まるで違って感じられますよね。
そういえば、本席様が、こんなに物質的に結構になったというような話は、まるで聞かないですねえ。
お金やものの話としては、おやさまの教えを聞いていなかったということ。
全てを、人間の誠真実の話として、本席様は、一粒万倍を理解されていたということなのですね。

そこで、基本さんの強引な誘導で、○○と言う回答はわかりましたが、それって、ひとつのオカルト的な解釈・・、ですよね。
一説というと、基本さんは、むきになりそうですが、普通には、そんな事、とても理解されない説だと、思います。
普通の天理教徒としては、です。<> 普通の天理教徒。<><>2007/01/24(水) 06:33:20 ID:<>>>261
そう言えば、基本さんのヒントに紹介されたサイトの中には、>>259 、
こんな、内容がありました事、思い出しました。
http://homepage3.nifty.com/hosimi/sun.htm
ここにですが、
[[黒点のできるわけ]]
[ 地球に北極や南極のような○○があるように太陽にも○○があります。 ]
[ さらに,太陽も自分で回転(自転)しています。]
[ 地球では,どこでも自転の速度が同じですが 太陽はほとんど気体でできているので緯度によって速度が違います。
[ 特に,赤道付近が速く,○○はその回転に引きずられて複雑に変化します。 そして,非常に強くなると表面から離れることもあります。]
[ その○○の離れた後の表面が黒点と考えられています。 ]

こんな、文章がありました。

「天日火の雨」というのは、「太陽が火の雨の状態になり、」と、理解するという、基本さんのお筆先解釈で、それが、黒点の増加を言われている事。黒点とは○○の離れた後という状態で、それが、地球に注ぐということなんですね。天日のあるというのは、○○の降らせる雨。
なるほど、それをつなげて理解すると、「天日火の雨 海は津波や」の意味は、太陽の活動異常が地震や津波を引き起こすという、意味に、そのままに、解釈できてしまうということですが、ノストラダムス的なオカルトの感じがして、普通の天理教徒は、ちょっと、認めたくないような、説ですね。

試しに「黒点異常」で検索をしました。
一番最初に会ったのが、「ソノトキガキタラ◎ソノトキガクルマエニ」でした。真面目な防災の研究がなされていました。
http://www.sonotoki.net/yochi.html
そこでは、【地震予知の観測・研究・見解】が示されていました。
○八ヶ岳南麓天文台 で、VHF電波を利用した電磁層観測による地震前兆検知 をしているなどの、状況が書かれてありました。
電磁波から地震の前兆を捕らえる研究が、さまざまになされていると言う事でした。

そんな中に、こんな記事がありました・
{ ★2chの地震スレから、アースクエイクさん の投稿をまとめておきました。
私の経験からですが・・。
確かに阪神大震災の前には小さな群発地震があって・・恐いよねって言っては居ましたがまさか・・・の思いが正直でした。動物の異常な症状がマスコミで報道されていたりもしましたが今と違って小さなニュースでしたし地震と結びつけるものはなにもありませんでした。

ちょうど大学の後期試験前であったので夜中も結構起きていたのですがうまくいえないけれどテレビを消しているのにバシっと音がなったり冷蔵庫の音が大きくなったりいつも使っていた定期券が何故か駅の自動改札で友人も皆ひっかかたり・・・。ポケベルの調子もおかしく、なかなかベルの配信も届かなかった・・・。深夜の?で雑音が入るはずもないのに、すごく聞こえにくくて・・・。

神戸の大学に通っていたのですが気候も変だったように思います。晴れていたのに突然、雪がふったりで1月なのに早いなっていう感じでした。

前日の月も見た記憶はあります。赤黒い月で、ドロドロして血がかかったように私が住む奈良からは見えました。あと空気が凄く乾燥していて前日ぐらいの夜は風の動きもなくキーンとする感じだったこと覚えています。 }

お月様は、お日様の光を映していますから、「赤黒い月で、ドロドロして血がかかったように私が住む奈良からは見えました」と言うのは、黒点の異常発生状態。
つまり、前の夜から、太陽は火の雨であった証拠・・・
そして、「テレビを消しているのにバシっと音がなったり冷蔵庫の音が大きくなったりいつも使っていた定期券が何故か駅の自動改札で友人も皆ひっかかたり・・・。ポケベルの調子もおかしく、なかなかベルの配信も届かなかった・」と、これは電磁波の異常。・・
つまり、○○の問題そのものでした。

ここまで読んでから、基本さん。
これは、基本さんが言われるように、「天日火の雨」というものは、「海は津波や」に、深く関係していると、思えてきました。
・・
でも、どうして、そんな事が、・・あるというのでしょうか。
おふでさきのなかに、書かれているのでしょうか。<> 基本。<><>2007/01/24(水) 08:42:29 ID:<>天日火の雨海は津波やと言う「天理」とは、現実に存在している「物理」です。

地球環境の破壊や異常気象と言うことが、問題になっています。
エルニーニョや地球の温暖化、オゾン層の破壊。
見えてから説いてかかるは世界並みの、現代においても、深刻な問題となっています。
それは、やはり、地球の○○の問題と言うことです。

気象用語の解説のサイトを参照しますと、
http://homepage3.nifty.com/nishimura_ya/earth/yo_kisho.htm
{ 熱の伝わり方には、電磁波によるもの(放射フラックス)と、分子運動(乱流熱フラックス)によるものがある。}
{ 熱を持つ物体は電磁波を放射し、他の物体に熱を伝える。途中が真空であっても伝わる。高温であるほど短い波長の電磁波を放射する。高温である太陽からの放射を「短波放射」という。太陽に温められた地球が放射する電磁波を「長波放射」(赤外放射)という。昔は「輻射熱」と言っていた。}
{ 太陽からの短波放射は、雪や海氷など反射率(アルベド)が大きさに応じて地球外に反射されたり、大気で散乱したりする。地球からの長波放射の一部は、雲や温室効果ガスによって地表に向けて反射又は散乱する。}
{ 分子運動による熱の伝わり方としては、空気の加熱がある。加熱された空気は主に対流によって熱を運ぶ。当然、大気がなければ熱は伝わらない。この熱を「顕熱」という(空気加熱)。}

このように、熱には「電磁波」による伝達がある。空気が無くても熱が伝わるのは「電磁波」。
「電磁波の問題」こそ、「環境破壊の問題」の根幹なのです。
気が付かれましたでしょうか。普通の天理教徒さん。

>>258
http://hotwired.goo.ne.jp/news/technology/story/20041028301.html
ここには、このような記事がありました。
{ 人工腕は、サルが自分の腕を動かそうとしたときに興奮する何千ものニューロンのほんの一部によって動作する。そこで、人工腕を確実に動かすためには、サルに自然な思考プロセスを組み立て直させる必要があった。 }

ここにある「ニューロン」と言うものは、ここに説明があります。
http://tsugino-hikari.com/opto02/
又、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には、このように説明があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E7%B4%B0%E8%83%9E#.E6.B4.BB.E5.8B.95.E9.9B.BB.E4.BD.8D
{ 神経細胞 (しんけいさいぼう、別名ニューロン、neuron) は、神経系を構成する細胞で、その機能は情報処理に特化しており、動物に特有である。}
ニューロンは、ネットワークを組んでいるとされています。
http://gc.sfc.keio.ac.jp/class/2004_19872/slides/12/79.html
{ ・ 人間の脳は、約140億個のニューロン(神経細胞)からなるネットワーク
 ・ 他のニューロンから信号(電気パルス)を受けたニューロンの電位が高くなったり低くなったりする。
 ・ ある値(閾値)よりも高くなると、ニューロンは1ミリ秒間だけ興奮状態になる(「発火する」)。
 ・ 発火したニューロンは信号(電気パルス)を発して他のニューロンに送る。
 ・ 記憶は、ニューロン間の結合の強さを変更することで行われる。}

思い出していただけますか。夢と幽冥の話題。
 どのような夢を見るのもみな月日。
神が直接的に、脳に働きかけるというのが「夢」。
その時にも、 発火したニューロンは信号(電気パルス)を発して他のニューロンに送る。 という現象が起きている。これも電磁波。

「ひかり」とは、「ひ かり」。(こうき本の話より)
体のあらゆる病気は、このニューロンからの情報処理の結果としてのものです。

そこで、「天日火の雨」とは脳病の事で、脳のニューロンが異常を来たしたら、自然治癒力は暴走してしまう。
神の残念には、医者も薬もこれはかなわん。

だって、燃え盛る太陽に、何の方法を人間は持っているというのですが。

人間は元の○○にて、始まった。
それだから、その神の残念が出たときには、人間の元の○○に帰り、そこで、たすけていただける。
それは、おやさまの「天理教」と言う思想。
その元の○○の事を天理王命と呼んで、拝しているのは、普通の天理教徒さん、あなたなのです。

月日を信じきってこその天理教ですよ。普通の天理教徒さん。<> 普通の天理教徒。<><>2007/01/25(木) 05:33:21 ID:<>「水と神とは同じ事、心の汚れを洗いきる。」と、おやさまから教えて頂いていましたが、「火と神」、これも同じ事だと、そういう理の教えと、思案しました。

基本さん。
こんな事を考えました。
甘露台世界となり、115才定命となり、病まず死なず弱らずとなったとしても、「燃え盛る太陽」の中では一瞬に融けてしまう。
そういう、にんげんだから、おやさまは、世界一列をたすける為に、天下られた。と。

世界の道理を思案しました。
太陽から異常な電磁波が降り注いで、海水の温度が上がる、異常気象が起きる。
太陽から異常な電磁波が降り注いで、地殻の弱い部分を直撃する、大地震が起きる。

人間の身の内では、思案しますと、
脳のなかで、ニューロンの異常な発火が起こり、肉体に異変が生じる。
脳の中でニューロンの発火が、肉体の弱い部分を直撃する、痙攣や激痛となる。
おんなじこと。なのだと。・・

辻忠作さんは、妹の脳内での発作状態を、たすけて頂いた。
それは、おつとめで、たすけて頂いたけれど、普通の拝み祈祷と同じ程度のものと、思っていた。
拝み祈祷というのは、言うなら人の念ですよね。
「理」とは、神様の思いですよね。
でも、本当は、拝み祈祷によりたすかったのではなく、つとめによって、「理」によって、たすけられたのだと、

この違いですよね。<> 基本的質問<><>2007/01/26(金) 12:27:58 ID:<>甘露台つとめが直接拝すことができない構造、諸井神学にその立場を与えた責任。
それらは、真柱さまの任命責任に帰すことはできないでしょうか?
<> 基本。<><>2007/01/26(金) 18:46:45 ID:<>>>265
基本的質問さん。
> 甘露台つとめが直接拝すことができない構造、諸井神学にその立場を与えた責任。
> それらは、真柱さまの任命責任に帰すことはできないでしょうか?
この問題は、おやさまの思想そのものの問題と言うよりも、教団組織と言う宗教組織のあり方の問題の要素が大きいので、
http://religion.bbs.thebbs.jp/1163859118/e40
に異動して、そこで議論したいと思います。<> 基本的質問<><>2007/01/26(金) 23:45:11 ID:<>http://religion.bbs.thebbs.jp/pin/tb/1163859118 了解です。<> BigBug<><>2007/01/27(土) 00:34:56 ID:<>>>238
>>239
ミスったね、自作自演。
<> 基本。<><>2007/01/27(土) 10:53:57 ID:<>BigBugさん。こんにちは。

基本と普通の天理教徒は、同一人物です。
基本と基本的質問さんは、別人物です。

思想的に言いますと、
> 甘露台つとめが直接拝すことができない構造、諸井神学にその立場を与えた責任。
> それらは、真柱さまの任命責任に帰すことはできないでしょうか?
この質問は、おやさまの思想では、「みな心どおりに言わせる為の任命であった」と、なるでしょう。

甘露台つとめを見せたくなかったのは、当時の高弟たちの思想レベルでした。
教祖存命中の、雨乞いつとめや、かぐらと言うものは、皆熱心でしたが、教祖が扉を開かれて、天理教として公認されると、かぐらつとめをどうしてもしたいと言う高弟は、皆無と言う状態になっていたと考えたら理解されます。
それは、能楽や舞楽に比較して、低俗であると、彼らが卑下していたからです。
現在になれば、当時とは全く違う意味でかぐらつとめを見たがりますが、高弟たちは、あれほど熱心にお勤めをしていたけれど、晴れがましい神事としては、恥ずかしかったと、基本的に理解しています。
「あやしげな手つきで、淫し邪教」と、言われていた事、「元の理が普通に言う性交の意味であること」、それで、隠したかった。

おやさまは、その心どおりに、隠した。
隠すように、真柱様は、皆に計らった。

諸井神学もそうです。
戦争直前の「革新教理」(軍部に迎合したと言われる)は、諸井慶徳さんの指導で実行されたものです。
また、植民地支配と迎合した海外布教畝策は、諸井慶五郎(戦後には初代表統領)さんの実行したものでした。

戦後になると、そんな事は、さんげもせずに、今度はキリスト教神学を持ち出して、真時代用に作り上げた。
おやさまの思想から言えば、それをみな心どおりに、表に出させるべく、真柱様は、皆の心が表に出るように、はからった。
民主的に選出されたものは諸井表統領であった。又、山名神学を選択したのは、当時の教団の幹部、後継者たちであった。
おやさまは、決して、裏に隠すことの出来ない方法で。山名系を、教団の中の思想の間違いとして、表に出したかった。
それを、真柱様は、理に素直にとりはかった。
そういうものであろうと思います。

BigBugさん。
おやさまは、心を表に現すと言う思想の持ち主です。
<> 基本。<><>2007/01/27(土) 22:56:59 ID:<>>>264
拝み祈祷と、つとめの理の違いは、普通の天理教徒さん、なかなかに分かるものではないと思います。
拝み祈祷と言うものは、「理」のように、合う合わないではないもの。
「理」と言うものは、「合う事」で合ったと言う結果となり、合わないならば、それは、合わない結果しか出ないものです。
「念」には合うとか合わないという問題は存在しません。
おやさまは、「念ずるだけでもたすけやで」と言われています。
「理」は「念」を否定していません。
しかし、「念」は、理として叶うとは言えないこともあります。

つとめは「理」であるから、線香を半分にしては効能がなかったと、ひながたの中で示したのは、辻忠作さんでした。
その、辻忠作さんが、十年は信仰が遅れたという事は、次のように伝承されています。
?、辻忠作は、お屋敷の神様がお産の神様だと思っていたので、妹のくらさんの精神障害をたすけられたが、二年間はまるで来なかった。
?、辻忠作は、毎月二十六日に月に一度の参拝をするという信心からはじまり、昼は家業に精を出して、夜は、夕食もそこそこに、お屋敷に来て教えを聞いた。
 これは、天理教事典の伝承です。
そして、辻忠作さんが、信仰の遅れた原因は、家内の反対にあったと、おふでさき注釈には、きちんと書かれています。
つまり、奥さんの「ますさん」が反対した。と、いう事です。

奥さんの反対でなかなかにお地場に来られなかった辻忠作さんは、一度はたすけて頂いた妹のくらさんの病気が再発して、離縁させられて出戻りになった事により、改めておやさまにたすけを願うことになります。
これは、お筆先二号に、「病痛み→手引き→勤め→万救け」と言う「こうき」だとあります。
 何にても病痛みは更になし 神の急き込み手引きなるそや 二号7
 この勤めなんの事やと思ている 万たすけの模様ばかりを 二号8
 このたすけ今ばかりとは思うなよ これ末代のこうきなるぞや 二号9

 辻忠作さんのケースは、末代のこうきとなる「勤め」を教えていた。

 おふでさき二号の、この救済の原理は、おやさまの示された「つとめ」と「こうき」の関係の原理・原型を示したものです。

反対していた奥さんも、病気が再発して、実際に夫の妹の精神障害の身上の人と暮らすとなれば、神様のところにたすけを願うことには、利害の上からも反対はしないという事になります。
辻家では奥さんが「高山」であったという見方も出来ますが、そういう意味での、用木の手引きの道筋はさておいて、この辻忠作先生の場合の、特殊性と言うものが、あります。
普通の天理教徒さん。
その、特殊なものとは、どんなことか、あらためて、それをきちんと見つけられますか。
他の高弟の入信の事情との違いと言うことです。

さて、質問は質問としまして、前回の問題の、
○○と言うのは、磁力があってぴたっと足が吸い付いて止まったと、ひな型に残されています。
ところが、辻忠作さんの奥さんは、足が止まらなくて、娘さんをおんぶしたらとまりました。
○○にも吸い寄せられない因縁の人で、その人が辻家の信仰の遅れの原因でした。
一家の中にあって、おやさまの思想に引き寄せられる人もいれば、まるで引き寄せられない人もいます。
辻忠作さんにとれば、「千里続いたやぶの根」とは、奥さんの無理解。
だったのかもしれませんね。
それでは、普通の天理教徒さんの思案と回答をお待ちします。
<> 傍陽気<><>2007/01/29(月) 00:15:26 ID:<>精神の病と言う、拝み祈祷、医薬では、助けられないものを手引きとした事情。再発と言う験しにかけられた事情、特殊な事情と言う事なのでしょうか。<> 普通の天理教徒。<><>2007/01/30(火) 07:29:16 ID:<>>>270
基本さんの質問に関してですが、
http://homepage3.nifty.com/nagano_karasugawa/index.html
ここに、整理されていましたので、参照してみました。
西田伊三郎
 文久1年(1861)妻コトの歯の病から入信(『稿本天理教教祖伝逸話篇』8「一寸身上に」)
村田幸右衛門
 文久2年(1862)胃の病を助けられ妻イエと共に入信
仲田儀三郎
 文久3年(1863)妻かじの産後の患いから入信
山中忠七
 文久4年(1864)妻そのの痔の病を助けられ入信
(『稿本天理教教祖伝逸話篇』11「神が引き寄せた」)
山澤良治郎
 元治1年(1864)姉そのの痔の病を助けられ入信
岡本重治郎
 元治1年(1864)山中そのの病をきっかけに入信 妻るいは山中忠七の姉
上田平治
上田いそ
 元治1年(1864)兄山澤良治郎よりにをいがかかり入信
桝井伊三郎
文久3年(1863)母キクが夫の喘息の病をきっかけに帰参、伊三郎を連れて帰るようになる。
前川喜三郎
 文久3年(1863)妻たけの癪の病から帰参、翌元治1年入信
飯降伊蔵
 元治1年(1864)妻おさとの産後の患いから入信
松尾市兵衛
 元治1年(1864)はるの産後の患いから入信

このようにして、整理してみますと、初期の入信の動機は「女は道の台」と教えられていますが、女性の病気と言うものが、その家の台となって家が入信するに至っています。
その中で、奥さんが病気で入信したというのが、一番に数が多い。

兄弟姉妹の病気がきっかけと言うのが、辻忠作さんの場合で、少数の実例に属していました。
つまり、自分の病気でもなく、奥さんの病気でもなく、兄弟姉妹の病気が入信の動機となっている。
これは、特徴といえば言えると思いました。

それから、おたすけの仕方ですが、文久2年の安堵村のおたすけの場合には、おやさまが直々おたすけされています。
大工の伊蔵さんの場合にはおくさんの病気に対して、夫の伊蔵さんに「散薬」をお与えになっています。

お勤めで、たすけることを教えられている「実例」は、基本さんが言われるように、その頃には、数の少ない方法であったと、分かりました。

それで、普通の天理教徒は考えたのですが、「人をたすけてわが身助かる」という、天理の教えのことですが、それを最初にお勤めできちんと実行したのは、辻忠作さんであったという事になるのではないか。
と、いう事です。

名を上げた古参の信者さんの例を思い起こして見ますと、おやさまや、小寒様が、いうなら神様が直接にたすけたという例としては、他の人の例が沢山ある。
けれど、たすけを願い出た人が、その人が病気だったわけではなくて、しかも、願い出た人が、その人のお勤めでおたすけしていると、言う例は、その範囲で、辻忠作さんしかいない。

このことではないでしょうか。

つまり、辻忠作先生は、おたすけにんとして、お勤めで兄弟をたすけた事で入信した、「ひながた」の事実と、言うように、普通の天理教徒には、思えました。<> 基本。<><>2007/01/30(火) 07:54:24 ID:<>>>271
> 精神の病と言う、拝み祈祷、医薬では、助けられないものを手引きとした事情。
> 再発と言う験しにかけられた事情、
傍陽気さんがご指摘のように、それらは手引きの道筋としての特殊な事情と言う事になると思います。

>>272
?、拝み祈祷と言うものは、修験者や祈祷師などの宗教家がします。
お勤めをした辻忠作さんは、なんの資格もない、宗教的な資格免除も無い百姓です。
?、拝み祈祷と言うものは、病んでいる対象に対して直接「法」を施すものです。
お勤めをした辻忠作さんは、妹さんを対象にして何かの「法」を施していません。
?、拝み祈祷を言うものは、病の原因に対して神秘的な力の発現を願います。
お勤めをした辻忠作さんは、この点では、拝み祈祷と同一だと思います。
?、拝み祈祷を言うものは、祈祷に対して報酬を得ます。
お勤めをした辻忠作さんは、何の報酬も得ていないし、求めてもいません。

以上のように、辻忠作さんは宗教家業ではない立場での、お勤めをしているということです。<> 基本。<><>2007/01/30(火) 08:29:30 ID:<>>>270
> これは、お筆先二号に、「病痛み→手引き→勤め→万救け」と言う「こうき」だとあります。
>  何にても病痛みは更になし 神の急き込み手引きなるそや 二号7
>  この勤めなんの事やと思ている 万たすけの模様ばかりを 二号8
>  このたすけ今ばかりとは思うなよ これ末代のこうきなるぞや 二号9

つまり、明治2年当時、多くの立ち木を寄せてはあったけれど、用木になる者は無いぞや、とおやさまはご指摘でした。
それは、客観的な「理」としての信心ではなく、拝み祈祷的な要素の信心の人物ばかりいたと言う事実のご指摘です。

例えば「飯降さと」さんの例は教祖伝に、このように示されています。

『「天理王命という神は、初めての神なれば誠にする事むつかしかろう」と、お言葉があったので、小寒は、三日の願いをかけ、散薬を与えた。』

これは、若き神小寒さんが「三日の願いをかけ」、しています。
拝み祈祷の「法」です。
そして若き神小寒さんは、「散薬」を与えています。というですが、これは明らかに宗教的な施術を施した「法」です。

お里さんは、疑い深く「誠に出来ない」人物だったので、法を用いていた。
そんな見方が出てきます。

つまり、人をたすけたい。と言う状態の普遍性として、兄弟をたすけたいというお勤めは、「こうき」だと理解されます。<> 傍陽気<><>2007/01/30(火) 23:16:32 ID:<>何が特殊かわからないし、高野先生の先人素描と言う本で辻先生について読みました。古い道では、仲田先生とは対極にあったようですね。教祖から教わった古い信心を生涯大切に、近道を急いだ仲田先生とは対極のお方だったことを知りました。

そして、古い道の「つとめ」原型。「短い」と叱られた勤めの原型。ようぼくの信心の原点。ただ、一心に神名を唱えるお助けの為の勤めの原型を、それが辻先生と教祖の雛型なのだと、基本さんありがとう。<> 基本。<><>2007/02/01(木) 08:46:58 ID:<>>>274
「ばかり」と言う言葉は、限られているという意味を含んでいます。
おふでさきには、
>  何にても病痛みは更になし 神の急き込み手引きなるそや 二号7
>  この勤めなんの事やと思ている 万たすけの模様ばかりを 二号8
>  このたすけ今ばかりとは思うなよ これ末代のこうきなるぞや 二号9
と、このように、「模様ばかりを」とあります。

模様と言うのは精密な設計図ではなく、具体的な実行計画でもない。
全体的な構想、であるとか、基本的な構想と言う、そういうものを意味しています。
この事を理解して、明治2年お筆先執筆当時においては、世界の普請の「模様ばかり」を、お示しになっていたということ、読み落としてはなりません。

 この勤めなんの事やと思ている 万たすけの模様ばかりを 二号8

甘露台勤めの理で世界がたすかるという、分かりやすい思想ではなく、甘露台勤めやてをどり勤め、天理王の勤めなどは、「万たすけの模様」を示されているのだと、きちんと、理解しなければなりません。

「模様ばかり」を理解したり、実行したら、陽気づくめな世界になるというような、「分かりやすい人間思案」をしますと、甘露台勤めをすれば、世界がたすかるというような、トンチンカンな思考パターン匂い地いることになるでしょう。
「模様」は、「模様」にすぎない。
勤めとは、おやさまは、完全な理を示したものではなく、陽気尽くめの、基本構想をお示しになっているという思想です。<> 基本。<><>2007/02/01(木) 09:23:32 ID:<>明治2年とは、実質に明治政府が和魂洋才の唐人の思想を取り入れて、唯一絶対の神聖な権力による日本の国家造りを開始した帝国主義元年とも言うべきときです。
それは、日本国の繁栄と日本国民の幸福を目指したということは事実ですが、その理念として「模様=構想」は、富国強兵、経済による制覇、宗教・道徳思想支配による秩序の維持、天皇陛下の下の平等というものであり、それは「高山」による「谷底」支配による、「高山」の楽園に日本をすることで、日本国民を幸福にするのだという、「滅私奉公」という大多数の国民の総奴隷化を、当然のように要求していて、格差拡大を生むものでした。
モデルとした西欧が、植民地支配と債務奴隷化による統治をもっぱらにしていた、それを積極的に目指したのですから、そこには、「神よなぜ私を見捨てた給うのか」という、イエスの問いは、思想因縁として、つきまとうものでした。

唯一絶対神を信奉し、日曜日には教会に礼拝に行く。
神への犠牲を最高の生き様と尊び、死後の世界に、審判を受けて、天国に。

万世一系の天皇を神と報じて、日曜日には、国への奉仕をなせ。
陛下のために命を捧げる事は最高の生き様であると、死後は、英霊として祭られ、永遠に、御霊として留まって国を守る。

古来の日本の思想とはかけ離れ、八百万の神を支配下において、日本型神聖政治を理想的な模様として、開始された、日本の維新改革、維新革命。

それに対して、おやさまの思想は、維新のもつ「唐人思想」は、それが情報操作により洗脳するもので、最後には人間の血を流すことになること、それが債務奴隷を数多く生み、人間の根幹的な「ろくぢ」を否定するものであること。厳しく見つめていました。

それと、闘うということは、一人一人の人間が、八百万の神の思想を根底から見直し、「高山」の情報操作に惑わされない宗教哲学を身につける事から始まるしかない。
日蓮や法然や弘法大師のように、唐より到来の仏教思想を、きちんと日本化し、哲学として哲理として見つめるという、「にほんを根」とした、「地場」の思想が、なければならない。

真理をみつめる目が開かなければ、繁栄も高山の思うままに、唐人のままに、人は、債務奴隷となるしかない。

それは、一人二人では出来ない。
しかし、先ず、一人の精神が定まらねば、その本来の陽気尽くめの道は始まらない。

辻忠作さんに、おやさまが示されたのは、まさにそれです。
その、一人の精神を定めて「理」を守り、千里続いた藪の根に、泰然として、心鎮めて、陽気に立ち向かう。
その、我が心の「あしきをはろうて、たすけたまえ、天理王のみこと」こそ、世界の普請への、紛れも無い、第一歩なのだと、明治2年、日本帝国主義元年、東京遷都と言う天皇利用の「高山」の出鼻に、おやさまは、「つとめ」の理の、「こうき」を知らされていました。

 天日 火の海

その納め方は、唯一勤めしかないという、おやさまの思想の「模様」として、おふでさきを熟読するしかない、それが基本です。<> 普通の天理教徒。<><>2007/02/02(金) 07:35:34 ID:<>基本さんは、「天日火の雨」を「火の海」とね誤読されているようですね。

明治維新がなければ、日本は野蛮な国であったと、そういう思い込みは、私たちに普通にあります。
かみしもにちょん髷のスタイルは、前近代的なファッションだと蔑んでいた、「ざん切り頭を叩いて見れば文明開化の音がする」と、野蛮人が文明開化したと、イメージの中で思い込んでいたのも、基本さんが言う、プロパガンダというのでしょうか。

おやさまは、伊蔵様のちょんまげを好もしく思われていて、伊蔵様もそれを、お切りにならなかったと・・
そんなところにも、一貫したひながたがあるのだなあと思いました。

話題はそれるかもしれませんが、明治に、キリスト教が日本に教育をもたらした時、内村鑑三さんはキリスト教に入信したが、教会制度を批判し無教会派のキリスト教徒となり、思想的には武士道とキリスト教を融合したといわれています。

教育勅語に対して、拝礼をしなかったことから、非国民と言われたと、それでも信念を曲げずにいたとして、思想界に多大な影響を与えた人です。
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/uchimura_k.html
【内村鑑三不敬事件】
 第一高等中学校で、教育勅語の奉読式が行われたが、天皇の署名のある勅語に教員及び生徒が最敬礼をする際、嘱託教員でキリスト教徒の内村鑑三は軽く頭を下げてすませ、「礼拝は天皇を神に祭り上げるもの」として礼拝を拒んだ。各界から「非国民」として避難が起きた事件。

イエスキリストの聖書の精神をもって、西欧の教会を批判し、天皇を神として拝する事を拒んだ、内村鑑三のような人物が日本にはいたということ、忘れてはならないと思いました。
http://blog.goo.ne.jp/flloyd/e/3557b728d3a8173bfdda9242951a2430
ここにこんな事が書いてありました。
内村鑑三の「余は如何にして
基督者になりし乎」は世界各国の言葉に翻訳され流布した。
新渡戸稲造の「武士道」と同じように。
「武士道」の思想はあのエジソンの人生を支え、「余は如何にして基督者になりし乎」はシュバイツアーに影響を与えたという

そして、基本さんが、言われているような事を、この内村鑑三さんは言われていたようです。
http://uchimurakorea.hp.infoseek.co.jp/uchimura/goroku/190612_Japanese_religious_mind.htm

<日本人の宗教心>
われらの友はウェスレーなるよりもむしろ法然なり。
ムーデーなるよりもむしろ親鸞なり。
宗教の同じきは、信念の傾向の同じきに如(し)かず。

われらがイエスを仰ぎ奉る心は、法然、親鸞が弥陀仏に依り頼みし心に似て、
英米のキリスト信徒がキリストを信ずるの心に類せず。

われらはもちろんイエスを去って釈迦に就かんと欲する者にあらず。
されども神がわれら日本人に賜いし特殊の宗教心をもって、
われら主イエス・キリストをあがめ奉らんと欲す。
 (1906年12月 『聖書之研究』) (信8/236)

「英米のキリスト信徒がキリストを信じるの心に類せず」
これは、日本人には日本人としての、宗教心があるという、強い信念の言葉ですね。

明治の時代にもいたのです。
精神のちょんまげを切らなかった、イエスキリストを知って、キリスト教会に拝をせず、天皇陛下を神とする思想にも、拒否を示した。
日本人は、けっして野蛮人から文明開化されて者ではないことを示す、日本人らしい、人でした。<> 基本。<><>2007/02/05(月) 11:22:20 ID:<>天火火の雨を、天日火の海と間違えましたこと、訂正させて頂きます。
教育者の内村鑑三さんは、日本人的なキリスト教観を生み出したという、真の意味での和魂洋才の方だったという事でしょうか。
それにしても、キリスト教の信者として洋行し、西欧のキリスト教会に属することを拒み、明治政府の教育勅語の真の狙いを看破して、天皇陛下は神ではないと、その姿勢を貫いて、その為に大変な苦労を通ったという信念は、イエスキリストのお弟子さんとして、見事なお方であったと、感動を覚えます。

日本的なキリスト教としては、作家の遠藤周作さんも有名です。
何が日本的かというと、他者の苦しみを見ていられないというところ、それに比較して、「苦しみは犠牲」であり、必ず天国にいかれるという信念から、他者の苦しみも、天国への切符としてみる事の出来るという、「幽冥」の思想、これが相違する。

天理教をしていても、人の難儀を、「あれで因縁が切れる」などと、平気で見ているような感覚は、「唐人の思想」。
そこには南無阿弥陀仏の慈悲が無いのです。
最後の審判、神の審判という「幽冥」の思想を、「悪因縁」の思想に結びつけると、とてもむごい、おやさまの思想とはかけ離れたものになってしまう。
そこは、留意すべきでしょう。<> 基本。<><>2007/02/06(火) 06:32:16 ID:<>明治二年執筆のお筆先一号は、冒頭、十二下りのお勤めの「よろづよ八首」から、お歌は引用展開されて、始められています。

 よろづよの世界一列見晴らせど 胸の分かりたものは無い
 そのはずや説いて聞かした事は無い 知らぬが無理ではないわいな
 このたびは神が表にあらわれて 何か委細を説き聞かす
 この元を詳しく聞いた事ならばいかな者でも恋しなる

これが、御神楽歌で歌としてお勤めとして教えられた、おやさまの思想です。
 天理教の立教の宣言の趣旨のお歌であると、この四首の御神楽歌は、理解されています。
お筆先では、
 よろつよのせいか一れつみはらせど
 むねのハかりたものハないから    一号1
 そのはづやといてきかしたことハない
 なにもしらんがむりでないそや    二号2
 このたびハ神がをもていあらハれて
 なにかいさいをといてきかする    三号3

と、このように、表記されています。
御神楽歌として理解されていたのは、「よろづよの世界一列見晴らせど 胸の分かりたものは無い  そのはずや説いて聞かした事は無い 知らぬが無理ではないわいな  このたびは神が表にあらわれて 何か委細を説き聞かす  この元を詳しく聞いた事ならばいかな者でも恋しなる」と、言う、文字通りの理解でした。

「胸の分かりたものは無い」と「むねのわかりたものハないから」
に、本来的には、説かれた側のおやさまには、意味の違いは存在していません。
しかし、教えられて理解した側の意味は、御神楽歌にあるように、「人間には胸の分かったものはいない」という、哲学として、聞こえていました。
人間は、神の思いを知らないと、言うような理解のされ方をしていて、「よろづよの世界一列見晴らせど 胸の分かりたものは無い」と、うたって、いたと言うことです。

しかし、おふでさきでは、その、解釈の仕方、「人間は胸の分からぬ存在である」と言う解釈の仕方を、それは、間違いだとして、人間の解釈の違いを、「ちがいあるならうたで知らせる理」によって、おふでさきの文字と音で、きちんと、お知らせになりました。

 よろづよの世界一列見晴らせど 胸の分かりたものは無い

これを解釈した信者の多く、天理教の指導者層は、中でも取次ぎ人や高弟の多くは、また学者・知識人は、人間の思想的無知の問題として理解し、弟子たちや一般の信者に伝えました。
 それ故に、立教の天保九年以前の教えを、「胸の分からぬ頃の教えである」とみなす、廃仏思想や、宗教選民思想を天理教団組織に蔓延させました。

 「よろつよのせいか一れつみはらせど むねのハかりたものハないから」
 「よろづよの世界一列見晴らせど 胸の分かりたものは無い」
との、違いは、「から」の二文字。

ここには、まさに、「違いあるなら歌で知らせる」と言うおやさまの思想が、そのままに凝縮されたような、迫力がこめられています。

明治二年当時の仲田儀三郎さんや山中忠七さんらの勤めの役割を担った信者の、そして天理教団結成以来の、天理教校・天理大学で天理神学や天理教学を、思想として信者に流布した教団幹部の違いを、いまも、なお、ずばりと指摘している「から」二文字。

「(から)」の指摘している、「理」の間違いに、解釈の意味の違いに、気がつかない。「天理教の中の(から)の教義学の思想」

これを正さなければ、まさに、踊ってはいても、唱えてはいても、こっけいなだけの理の間違い。
「ここで勤めをしていれど、胸の分かりた者はない」という神様の残念は、晴れるものではないということになります。<> 基本。<><>2007/02/06(火) 07:51:57 ID:<>つまり、それは、よろづよ八首全体のお歌の趣旨は、おふでさきの一号の1から8にある。
御神楽歌よろづよ八首の解釈、現在天理教団で、リーダーたちが説いているよろずよ八首の解釈が、おふでさきと違っている事を注目できると言う事です。
「から」二文字の有無の違いは、重大で、根幹において、大きな誤りとなっていることを、意味しています。

おやさまの思想は、みんななんでも自分の口から言わせると言う思想です。見えぬ先から説く、理の間違いをあらかじめに知らされています。
よろずよ八首は、勤めの地歌として、独立していて、八首が一括りの意味をもっています。

 よろづよの世界一列見晴らせど 胸の分かりたものは無い
 そのはずや説いて聞かした事は無い 知らぬが無理ではないわいな
 このたびは神が表にあらわれて 何か委細を説き聞かす
 この処やまとの地場の神館と言うていれども元知らぬ
 この元を詳しく聞いた事ならばいかな者でも恋しなる
 聞きたくば尋ね来るなら言うて聞かすよろず委細の元なるを
 神が出てなにか委細を説くならば世界一列勇むなり
 一列に早くたすけを急ぐから世界の心もいさめかけ

この意味の誤解点は、おふでさき一号の1から8までとの文字の違いは、おやさまは、予言として示しておられる事。理の責めと言います。

 よろつよのせいか一れつみはらせど
 むねのハかりたものハないから    一号1
 そのはづやといてきかしたことハない
 なにもしらんがむりでないそや    一号2
 このたびハ神がをもていあらハれて
 なにかいさいをといてきかする    一号3
 このところやまとのしばのかみがたと
 ゆうていれども元ハしろまい     一号4
 このもとをくハしくきいた事ならバ
 いかなものでもみなこいしなる    一号5
 ききたくハたつねくるならゆてきかす
 よろづいさいのもとのいんねん    一号6
 かみがでてなにかいさいをとくならバ
 せかい一れつ心いさむる       一号7
 いちれつにはやくたすけをいそぐから
 せかいのこころいさめかかりて    一号8

御神楽歌も正しい、お筆先も正しい。が、この二つに同時に合致していないとすれば、その解釈は理の間違いとなります。

まず、御神楽歌とお筆先の文字の意味の共通している部分で、基本的な内容を確認しておきましょう。
1、八首は、理を説くものであるが、理を説く対象は、信者としている。 *[大和の地場の神館と言うていれども、とは、信者・幹部の事だから]
2、八首は、主に「何か委細を説く事について」示されている。  *[3、6、7のお歌には、「いさい」とあり、2、5もその関係のお歌。]
3、八首は、神が出て世界一列をたすけると言う事について知らしている。 *[3、7、8のお歌にそれは、きちんと示されている]

八首のおうたは、「このたびは神が表に出て、一列をたすけるために、信者に、元の委細を教える」と、この内容を基本としています。

一方、天理教学・神学の解釈は、こんな風なものです。
「世界一列には、胸の分かった者はいない、それは親神様の教えを知らないからで、何も知らなくても無理ではない。
今度は、親神様が表に現れて、委細を教える。そのためのお地場の神の館であるが、この元は知らないだろう。
この元を詳しく聞けば、誰でもみな親神様が恋しくなる。
聞きたいと言うなら、お地場にて、神の話をきいたらよい。元の因縁の委細を言うて聞かそう。
神が出て委細を説いたなら、世界一列の心は勇む。
一列に早くたすけを神様が急いでいるので、世界の心も勇むようになる」

この解釈、どこが違うのでしょう。
普通の天理教徒さん、普通の立場からも、考えてみて頂けませんか。<> 普通の天理教徒。<><>2007/02/06(火) 09:08:52 ID:<>基本さん。
>>280-281
普通の天理教徒の立場で、考えてみました。

よろづよ八首については、普通の天理教徒は、次のように、理解していました。

{よろづよ八首は、『万代の世界一列を見晴らしても親神の思いの分かっているものはいない。』から、このたび天保九年十月二十六日に、親神みずからが、この人間元初まりに母親の魂であった中山みきに入り込んで、その元初まりの話をしかと説いて聞かする。「この元を詳しく聞いたことならば いかな者でも皆恋しなる」「聞きたくば尋ね来るなら言うて聞かす よろづ委細の元なるを」。このように「よろづよ八首」は立教の言われ、立教の原因・根源についてお説きあかし下さっています・・}  「矢持辰三著・教祖伝入門十講」頁186

基本さんに言われてみてから、おうたを読み直させていただいたのですが、
> 御神楽歌も正しい、お筆先も正しい。が、この二つに同時に合致していないとすれば、その解釈は理の間違いとなります。
と、これは、そうであろうと、普通に考えても、そう思います。
ただ、二代真柱様の著作の中で、「おんなじ意味だ」と「文字の違いあっても」と、そんな事を、普通には読みましたので、一緒なんだろうなと思っていて、おふでさきが、人間の解釈の間違いを教えていると言う事は、確かに、おふでさきに、
 なにもかも違わん事は良けれども 違いあるなら歌でしらする。 一号23
 と、あります。

普通に戻って読み返してみると、立教の宣言ならば、「この処大和の地場の神館」という表現は、時代的に合致しませんね。

書かれた時は、明治二年。ちょうど、立教から31年。
そしてまだ、神の館はたっていませんから、それなのにそもそも「かみがた」を将来の「神の館=神館(かみがた)」と解釈する事の方が、普通ではないと気がつきました。錯覚していたと。

「上方」とは、天皇陛下がいる「お上のおられる上方」と、この方が普通の解釈ですよね。
ちょうど、東京遷都の時、以前に基本さんが書いていました。

[135]基本。 06/12/31 11:03 mzRM0BYUAY
> 明治2年。首都が京都から東京に遷都されました。・・・
> その、中心の思想は、国学。古事記日本書紀をベースとした、「天皇一人の下の平等」という国体の思想形成と確立。
> 政治理想としたものは初期は「ナポレオン」。「ピュートル帝」。国力を高めて、列強と伍する事でした。
> 独立と開放のアメリカの思想を取り入れて、現実的な経済政策としての「殖産興業」に政策実行に向けて、農村の再編成を促す政策が取られることになります。人為的に、産業革命を日本において起こす為です。
> これらは、日本本来の思想をも解体して、伊勢神道系の思想に統一しようというものであり、
> それが、実はモーゼの旧約聖書の思想に色濃く影響された、「唯一絶対神」の構築のためであったことは、・・・
これですね。史実は。

宗教となった『天理教』では、史実を無視して「よろづよ八首」を立教の宣言だと、その定義しています。
でも、史実と言葉の一語一語を確認すると、どうもそうではない。
趣旨としては、立教宣言というよりも、「たすけの開始宣言」と見るのが、普通ではないかと、思うようになりました。

つまり、日本の伝統や生活習慣に大きな変化のあるときに、裏から教えてきたものまで否定され、「唐人のまま」にされてしまう危機に、、本当の親神が今度は表に出て、唐人の思想に対しての、元の思想を弟子たちに告げて、その思想で、世をたすける開始という、宣言に、見えてきました。
おやさまには、見えていた。
それを弟子たちに、告げると言う観点に立てば、確かに、基本さんの言われるような、宗教的哲学にすりかえた解釈も間違いで、神学的な立教宣言も間違いでと、次々、間違いが発見されて出てきそうな、気がします。

「一列に早くたすけを急ぐから世界の心もいさめかけ」
これは、命令形の言葉と、「いさめかけ」、読むのが普通ですよね。
あるいは、状態の続いている姿とも。
どちらにしても、対象は、確かに、信者である普通の天理教徒に対してのお言葉です。
そして、「せかいのこころいさめかかりて」
これは、その信者が、世界の心を勇めかかっている。

二つが一つに一致すると言う事は、普通に考えたら、私たち信者へのお諭し以外にはない。
「理を知らす・おふでさきの八首」と「実践を諭す・よろづよ八首」
「理を知らす・いさめかかりて」と、「理を振る・いさめかけ」
これが、普通の天理教徒の思案です。

よろづよ八首。それは、立教の解説と言うような自己説明ではなく、弟子たちに、詳しく委細の理を聞いて来い、そして世界一列をたすけなさい。との、厳しいお諭しだったと思い直したところです。<> きほん<><>2007/02/06(火) 11:12:03 ID:<>このところやまとのぢばのかみがたと

関西人が普通に現代語訳すると
最近では大和のぢばの神様と←こんな感じだけど、まぁいいか<> 普通の天理教徒。<><>2007/02/07(水) 08:08:19 ID:<>>>283
> 関西人が普通に現代語訳すると・・大和のぢばの神様と
今風には、そのように解釈されていると言う事ですね。
かみがた→神方→神様方という解釈ですね。

お筆先と御神楽歌の文字の相違を調べますと、
 「よろつよのせかい一れつみはらせど むねのハかりたものハないから」
 『よろづよの世界一列見晴らせど 胸の分かりたものは無い』
ここでは「から」と言う理が責められています。

 「そのはづやといてきかしたことハない なにもしらんがむりでないそや」
 『そのはずや説いて聞かした事は無い 知らぬが無理ではないわいな』
ここには、意味としての特別な相違はありません。
 「このたびハ神がをもていあらハれて なにかいさいをといてきかする」
 『このたびは神が表にあらわれて 何か委細を説き聞かす』
ここにも、意味としての特別な相違はありません。

 「このところやまとのしばのかみがたと ゆうていれども元ハしろまい」
 『この処やまとの地場の神館と言うていれども元知らぬ』
ここでは、お筆先の読みでは地場と読んでいますが、文字の表記は「しば」となっています。
「とち」という意味での地場は、「ぢば」と、「ち」と言う文字を用いています。
「しば」というのは、明治の時代を開始した維新の志士、「しし」の本場としての地場だから、「しば」と、言う事、
また「しば」と言うのは、「歴史」と言う「史」としての場所。
大和の国の中心として、飛鳥・難波・奈良・京都という歴史の場所、そういう「しば」と、言う意味に理解されます。
天理市には日本最古の道があります。
「大和神社」と書いて「おやまと神社」と読むように、「山辺郡(やまべごおり)庄屋敷村(しょやしき村)」と、読むように、おじ場は、「大和の国の歴史のじ場と言う事は、紛れも無い史実です。
「かみがた」を、「神館」と解釈するのは、史実上自然ではないといえます。

 「このもとをくハしくきいた事ならバ いかなものでもみなこいしなる」
 『この元を詳しく聞いた事ならばいかな者でも恋しなる』
これには、意味上特別の違いはありません。

 「ききたくハたつねくるならゆてきかす よろづいさいのもとのいんねん」
 『聞きたくば尋ね来るなら言うて聞かすよろず委細の元なるを』
ここには、お筆先と御神楽歌の間に、大きな相違点があります。
御神楽歌で『元なるを』とあるのは、お筆先では『元の因縁』と理を責められています。
つまり、『因縁』を説いて聞かすということです。

明治から現在の天理教までは、元の因縁を「因縁」として説かないでいます。
『元なるを』だけを説いていまして、この世界の元の親神だとか説く。人間の元の故郷だとか説くけれど、その「元の因縁」の、因縁部分が説けていない、説かれていません。
「因縁」の部分には、善も悪もあるわけで、その「因縁」があって、「胸がわからんようになった」、そこで神が表に表れたと、そういう理由が、因果関係として、理解されていない姿となっています。

奇麗事の宗教思想としての「立教宣言」というものを、お筆先の冒頭に記されたのではない。
人間の、心の闇路のみを照らすと言うような話でもない。
世界一列の、難儀の元の因縁を知らせ、世界一列の陽気の元の因縁を知らせ、「因縁」を教えるという宣言が、「お筆先の冒頭」であり、「御神楽歌、よろづよ八首」であったと言う事です。
  (続きます)<> 普通の天理教徒。<><>2007/02/07(水) 22:50:02 ID:<>お筆先の冒頭と、御神楽歌とを比較して、解釈を精査しますと、確かに「たすけの開始」というものに、理解できましたので、普通に理解した範囲で書いてみました。
>>284

 一列に早くたすけを急ぐから世界の心もいさめかけ

 いちれつにはやくたすけをいそぐから
 せかいのこころいさめかかりて    一号8

実践としての『勇めかけ』。
理としての「いさめかかりて」。

たすけを急ぐべきは、私たち、普通の天理教徒なのだ。
そう感じました。

普通に思案しますと、立って踊ると言うことは、実践。実行。
それには、きちんとした理を、お筆先から学びつつ行うしかないと、二つは一つの意味。

立教の宣言と言うよりも、実践の開始の宣言というのが、よろづよ八首であり、お筆先の冒頭であると言うことは、もう、普通の天理教徒の常識という事に、なる旬なのですね。<> きほん<><>2007/02/08(木) 02:18:38 ID:<>神館は論外だが上方とするのも不自然な文法な気がする。

神方の方は敬称語と捉えるのが自然な解釈ですよ。

このところ)というのは場所を指す意味ではないだろ?!
近頃とか…そゆ意味じゃないの?!
このところ)が場所を指す意味合いで使われてるなら神方の神は三島さんの神さんを指してる可能性ものこるが…。<> 普通の天理教徒。<><>2007/02/08(木) 06:26:43 ID:<>>>286
きほんさん。
> 上方とするのも不自然な文法な気がする。
国語辞典を読むと、「かみがた」とは「上方」は、普通だと分かると思いますよ。
> このところ)というのは場所を指す意味ではないだろ?!
> 近頃とか…そゆ意味じゃないの?!
これも、辞書で、「この」と「ところ」とを調べたら、「ところ」とぱ「処・所」と分かると思いますよ。
普通には、場所を意味します。

「このところ天気が荒れ模様で」と、言うような使い方もありますから、「このところ」は、近頃と言う意味ではないかと、感じられたのでしょうが、御神楽歌、知っておられますよね。

きほんさん、十二下り手踊りの体験と記憶ありますか?

よろづよ八首と言うのは、手踊りの地歌の事です。
それには、振りがついています。
その振り方を知っていれば、そんな、基本さんのような誤解は生まれないと思いますよ。

手踊りと言うのは、振りがついていて、振りそのものの意味と地歌の意味とは一致しています。
つまり、「このところ」というのは、場所の事であると言うのは、普通の天理教徒なら万人がそう思うのです。
振りがありますからね。
きほんさんも、手踊り、したらどうですか。
そんな誤解を、さける事は出来ると思いますよ。

> このところ)が場所を指す意味合いで使われてるなら神方の神は三島さんの神さんを指してる可能性ものこるが…。
>

残りません。
第一首からの意味と趣旨で、読めば、そういう可能性は、ありえない。
普通の天理教徒は、そう思います。<> 基本。<><>2007/02/08(木) 06:31:51 ID:<>>>288
きほんさん。
ここでは、以後、貴兄の投稿は、基本は一切無視して論を進めます。
あしからず。<> 普通の天理教徒。<><>2007/02/08(木) 08:21:00 ID:<>きほんさん。
基本さんには基本さんの都合もあるのでしょう。
身勝手な人ですから。
きほんさんのような読み方をしても、それが心からそう読めるというのなら、それがきほんさんの思想ですからね。
遠慮なく、語ったらよいと思います。
私が、相手しますから。<> 紬<><>2007/02/08(木) 14:13:31 ID:<>>>286
きほんさんは、基本さんに遊んで欲しいのかな?
きほんさんね、きちんと天理教をしていない事は、書けば書く程、皆さんに分かってしまいますよ。

私の知り合いにも、サークルで天理教をしている人がいっぱいいましてね。私もその仲間のひとりでした。ワイワイがやがや話をして楽しかったですね。そこへ行けばいつでも温かく迎えてくれるし、褒めてもくれる。立ててもくれる。それは、傷付いている人には、一時の安らぎの場所でもありましたね。それと、天理教のお友達が欲しい人にとっても、とても居心地のよい最高の場所であるのもたしかです。
でもね、そこから得るものが無くなった時には、巣だって行くという選択もあるのですよ。私も随分と人の信仰に対してあれこれ心を煩う事もあって、そんな事を掲示板上で書いてきた人間ですが、もう止めにしようと思います。そんな事よりも、自分自身がちゃんと信仰していけば良いだけの事に気づいたからです!
いつまでも変れないのは、強情なのだと基本さんは教えてくれました。
これから私は、基本さんから、きちんと教えを学ぶつもりでいます。<> 紬<><>2007/02/08(木) 17:43:26 ID:<>ここは、おやさまの思想について語るスレでしたね。失礼しました。<> きほん<><>2007/02/08(木) 18:30:20 ID:<>○○に書いてあるから、こうだと主張するのは権威主義と呼ぶらしいですよ。私も最近、知ったんですがね(笑)。

何れにしろ、大和のしばを上方と呼んでいたと、トンデモ主張をする御仁には、何を言っても無駄のようですね。

それからお手振りはマスターしていますのでお知らせしておきます。<> きほん<><>2007/02/08(木) 18:34:50 ID:<>>>290
どうも♪

『類は類を癒す』と言いますから、基本さんの『気の毒』であなたの『毒』を癒して下さいませ。
<> おおいえ<><>2007/02/08(木) 19:12:16 ID:<>処刑ライダーか。<> 紬<><>2007/02/08(木) 20:32:35 ID:<>>>293
『類は類を癒す』という言葉ははじめて聞きました。
これは、きほん用語ですか?そのような造語を作れる才能がおありかと。少なくても、基本氏は出典を示していますよ。
お手振りは、理を振るのであって、マスターすればよいという考え方のお方には、理の世界は理解できないでしょうけどね。

私は『類は友を呼ぶ』なら知っていますが。
<> 紬<><>2007/02/08(木) 20:38:32 ID:<>埃は避けて通れと、おやさまが仰いますので、私も無視しますね。
普通の天理教徒さんが、お相手してくださるようですから。<> 傍陽気<><>2007/02/09(金) 00:45:28 ID:<>しばと言うのは澄むと濁るから悟ると四方正面、立てかけた一坪四方と言うことからしばと考えられないでしょうか。「神の館の、地場定め」と歌うことから、しばのかみがたを神館とするのは時間的に後先逆でおかしいと思います。本席に最初に模型と言う型を作らせたという、かみがたなのだと思います。しかし、その元は知らないで、没収となってしまいました。<> 基本。<><>2007/02/10(土) 07:38:15 ID:<>お筆先のお知らせは、万委細の元の因縁を教えると言う事。
それは、分かるものには分かり、分からぬものには分からぬと言う意味で、「悟り」と「ためし」という世界において、知らされています。

「この元を詳しく聞いた事なら、いかな者でも皆恋しくなる」と、そのように説かれています。
それは、悟りの世界の事。
現実には、恋しくなる人と、嫌になる人、感じない人と、三様の人が登場します。

お筆先とは、「理」の書物ですから、恋しくなる人も、ならない人もいて、お歌の解釈も、恋しい人と恋しくない人では、まるで違うものです。

分かろうとして読む人には、分からぬ物。
おやさまは、心次第に読めという、思想のお方です。<> 普通の天理教徒。<><>2007/02/10(土) 08:34:11 ID:<>きほんさん。
>>286
> 神方の方は敬称語と捉えるのが自然な解釈ですよ。

きほんさんは、お筆先に注釈、読まれたことありますか。
注釈には、
「かみがたは、神館の詰まったものと解す」と、あります。
天理教では普通、かみがたというのは神館と教えられているということです。

 「このところやまとのしばのかみがたと ゆうていれども元ハしろまい」 一号4

このおふでさきは、後半部の「言うていれど」が、その言うている発言の対象が、どこまでの事なのかの解釈で意味が違ってきます。

『大和の地場のかみがたと言うている』けれど。と、これは、きほんさんの解釈、です。
対象は、「かみがた」、つまりきほんさんの解釈では「神さま」で、「神さま」と呼んでいるが元は知らないだろうと言う意味に、きほんさんは、理解されている。

おふでさき注釈では、こう書かれています。
『四、ここは大和のぢばのかみがたであると言うているが、なぜぢばがかみがたであるかという元は知るまい』・・『かみがたは、神館の詰まったものと、解す。』

つまり、注釈も、対象は「かみがた」でして、注釈の解釈では、「神館」と解釈してますから、「神館(かみがた)」と呼んでいるが、元は知らないだろうと、そういう意味解釈しています。

「かみがた」と言っているが元は知るまいと、その意味のなかで、きほんさんは「神がた(敬語)」、本部の注釈は「神がた(館)」と、解釈しているわけですね。
そうしますと、普通に思案しまして、「詳しく聞いて恋しくなった」時、その対象は、
 「このもとをくハしくきいた事ならバ いかなものでもみなこいしなる」、そのとき、きほんさんは、「尊敬する神様」を恋しくなると、解釈した事になり、本部の注釈は、「神殿を恋しくなる」と、解釈した事に、なってしまっているわけです。

普通の天理教徒は、「ぢば」が恋しくなります。

基本さんは、「この処」を対象として理解していて、「この処の事を」言っているが、元を知らないと、そう解釈しているようですね。
「処」の説明として、「大和のぢばのかみがた」と、解釈しているのは、手踊りで「ぐるりと」まわる、つまり「ぐるりの」意味ですから、それも成り立つでしょう。
「かみがた」とは、「かみさまがた」。
手踊りでは、拝してますよね。
神を拝している姿ですから、きほんさんの解釈も成り立ち増すよね。

でも、親神天理王命とは、「ぢば」に付けられた神名です。
手踊りで拝している、対象は、「ぢば・天理王命」という神様です。

> このところ)が場所を指す意味合いで使われてるなら神方の神は三島さんの神さんを指してる可能性ものこるが…。

きほんさん、それは、きほんさんの思いつき。
天理教の教えとは、無関係ですね。
異端の思想だと、基本さんならずとも、申し上げます。

きほんさんの恋しいのは、ぢば以外の神なのでしょうか、疑問です。<> 酪酸<><>2007/02/10(土) 09:08:44 ID:<>突然お邪魔します。

天理教と天理大学の関係を教えていただけませんか?
身内に天理大学を卒業した者がいたのですが、ほとんどそのことについては語ってくれませんでした。
外国語を専攻して通訳の資格を取っていましたが、天理大学の外国語系学部は
なかなか活気があるところではないかと思うのですが、実際はどんなことが
教えられていて、どんな学風のところなのでしょう。<> 基本。<><>2007/02/10(土) 11:58:28 ID:<>ここでは、思想を論じておりますので、思想として天理教の海外布教の語学研修をめざして、設立されています。

「特に世界布教に従事すべき者の資質の啓発を目指したものである」
(天理教事典p641)
設立の元は、天理外語学校で、大正十四年に設立されています。
アジアへの布教を主とした目的としており、日本の植民地として日本語化教育が推進されていた、朝鮮の、朝鮮語を公式に学べるようにして事を特別な出来事として、教団は、認識しています。

昭和二十四年に、天理大学となりました。

> 天理教と天理大学の関係を教えていただけませんか?
天理教思想にもとずく教育を行うという理念で、運営されています。

その他の事は、天理大学関係にお尋ねをお願いします。
<> 酪酸<><>2007/02/10(土) 15:42:45 ID:<>ご説明ありがとうございました。 身内とは実は私の父のことです。 父は天理大学で学んでロシア語の通訳の資格をとっていたようです。 終戦直後ぐらいだったので、大学になるかならないかぎりぎりぐらいのところだったのですね。 跳ねっ返りだった父は、英語の通訳の資格もとって、当時まだ国内各地に駐留していたGHQの神戸ベースに通訳として就職したそうです。 当時としてはかなりの高給だったようです。同窓の人たちはどうされているのでしょうね。 天理大学卒業生のみなさんのご活躍を期待しています。<> きほん<><>2007/02/10(土) 20:25:40 ID:<>
神館(神の館)
神方(敬称語)
神方(複数形)
上方(京都及びその付近)

おふでさき御執筆当時、神殿はなかったので神館はおかしいと言うが、おふでさきより先に作られた御神楽歌には神の館のぢば定めと歌われている。
恋しくなるのはぢばであって神方でも神館でもないと言うが元始まりの話を話されたのも、ぢば定めが行われたのもおふでさきの御執筆始めより後である。
かみがたは上方かもしれんが、それは上方の語源が神方か神館の場合であって基本氏の語る上方でない。
神館でも神方でも恋しくなるのは元のぢばでしょ。
<> 普通の天理教徒。<><>2007/02/11(日) 02:10:19 ID:<>>>303
きほんさん。
お筆先というのは、このような書き物と理を知らされています。
「なにもかも違わなん事はよけれども 違いあるなら歌で知らする」一号23。

つまり、当時の人が、間違えていた事を歌で知らせて、ひながたとして残していると、普通の天理教徒は、そう考えます。

きほんさんの言うとおりだとしたら、当時の人もそんな風に考えていたのです。
何も違っていなかった事になりますよね。

基本さんは、当時の高弟の人たちが、明治維新の思想を取り入れた間違いをしていた。
当時の信者の人たちが、「大和の地場の神の建物」と間違えていたと、それを、説明しているのです。

きほんさんのいうようなら、ほとんどの当時の信者の解釈とおんなじで、それじゃ、「違いあるなら歌で知らせる」にならないですよね。

つまり、今までの、狭い天理教宗教思想の中での、間違い解釈に気がつかないという、その現実を、「きほん」だと、語っているすがただから、三島神社とか、変な事を思い浮かぶのだと思いますよ。

お筆先は、違いがあるから、知らせた書物です。
違いを何も指摘していない解釈そのものが、「きほん」さんの、通り一遍の、狭い教団内の宗教思想を、露呈していますね。

又、みかぐらうたで、「神のやかたの地場定め」というのは、元冶元年につとめ場所の普請をしています。
それが普通に、神のやかたです。
しかし、甘露台勤めの完成の時には、そんな神殿も建物としての勤め場所も、いらない。
それなのに、「神のやかた」と言っているのは、人間です。
「わしもはやばや参りたい」と御神楽歌にあるのと一緒ですよね。

甘露台世界には「神のやかた」はいらない。
それなのに、人間は心得違いをして、「神の館」を建ててしまうでしょ。
神様は、世界の普請といわれている。
この世の建て直しを教えられている。
元冶元年の普請も、「つとめ場所」と神様は言われていて、「勤めのやかた」とは、言われていない。

大切なのは「つとめ」と「場所」。
それは、元の地場。三島神社とは、まったく縁の無いものですよね。

きほんさんは、何も分かっていない。
おふでさきは、予言であり、記録であり、おふでさきに書かれてある事は全部、執筆前にもあり、執筆の後にもあり、執筆の最中にもあって、それを、普通には、
「一、二、三」と、して、理解するものです。
地場定めの前から、決まっていたんですよ。
人が分からないから、分かりやすく、みなの心を定めさせただけの事です。<> 普通の天理教徒。<><>2007/02/11(日) 03:07:11 ID:<>>>303
平易にして、かなに申し上げましょう。
きほんさんは、こう言われました。
> 御神楽歌には神の館のぢば定めと歌われている。
それは、御神楽歌の中の、どの下りかというと、十一下り目
 一ツ ひのもとしょやしきの 神のやかたの地場定め これです。
 さて、地場は雨うたし。これは、おやさまの教えです。
「神のやかた」が建物だとすると、「神のやかたの地場定め」とは、建物の中での地場定めというような、意味に理解するしかなくなります。それは変ですね。
そこで、神のやかたとは、「つとめ場所」と、理解すれば、「つとめ場所の中心は元の地場」です。意味に矛盾は起こりませんね。
つまり、おやさまの教えでは、勤め場所は建物を意味しないという事になります。確認です。

八町四方が神のやかたと言うお言葉もあります。
八町四方というのは、「領域・範囲」をしめすもので、それが建物であるというのは、間違いです。
八町四方には建物が立ち、というような使い方になるわけです。

結論から言えば、この世界は、人間が住みやすいようにと、神様がおつくりになった、人間のための「やかた」であると、それが、普通の天理教徒の解釈になります。
 八町四方というのも、広がりを示すとすれば「八兆四方』、地場の周辺という事なら「八町四方」と理解されます。

> 御神楽歌には神の館のぢば定めと歌われている。
この事ですが、神のやかたというものは、人間の住む世界。
その、元の地場の地場定めと言う意味です。それ以外にはない。
になります。

普通は、稿本天理教教祖伝を基準として、理を学びます。
元冶元年のつとめ場所の普請のときに、神様のお言葉は、このようなものでした。

「一坪四方のもの建てるのやで、一坪四方のもの建家(たちや)ではない。」

これを、きちんと読ませて頂きますと、「一坪四方のもの」とあります。
例えば、甘露台を立てるべき元のぢばは、「一坪四方」のものですが、建物ではなく、場所です。教祖伝入門十講の頁140-142には、やはり場所だとする別の説明があります。

神様ははっきり言われています。「一坪四方のものたちやではない。」

勤め場所の普請をせよと言われたのですが、建物ではないと、教祖は言われていて、それを勝手に建物に置き換えて建てたのは、当時の高弟でした。そして、大和神社の節に出会い挫折します。当然です。

家のこぼちそめの時には、おやさまは、酒さかなを振舞って祝ってくれといいました。
元冶元年の普請の時には、祝う酒も用意しない、祝えとも言いませんでした。

この違いで、高弟の、理の間違いが分かりますね。

「神のやかた」とは、「人間の住む銀河の宇宙空間」。
地場とは、その中の、唯一の一点の、人間の故郷だと普通の天理教徒は、思案します。

「神のやかた」とは建物ではない。
そして、人間が、神殿を立てる理の間違いに、気がつかない。
天理教学者のつくった宗教思想の狭い思案に、紛れ込んでいては、きほんさん。
ちがいあるなら歌でしらする、おやさまの教えは、到底理解できないと思いますよ。<> 紬<><>2007/02/12(月) 09:37:47 ID:<>>>293
>『類は類を癒す』と言いますから、基本さんの『気の毒』であなたの『毒』を癒してくださいませ。

過日は、失礼致しました。基本さんはきっと、私の事を『気の毒』に思って会話に付合ってくれている人なのだと、改めて、きほんさんの書き込みで気づかせて頂きました。なので、誠に有難うございます♪
>>292
で、きほんさんは、お手振りをマスターしているとの事ですが、専修科とか出られているのですか?やはり専修科生が一番、お手の振り方が忠実なように拝見しています。

それから、基本さんの解釈は、ちょっとには理解しがたい面があるのですが、私の知るかぎりでも、相当量の資料と長年の教理研究をなさっている方のようです。でも、それを私達が鵜呑みにするのも、基本さんの本意ではないようですから、せめて、こちらも同じ土俵に立てるくらいの技量を持たなくてはならないと思っています。

ここは、カウント数が相当多いサイトのようですし、(以前、秋風さんがそう話していました)教内外問わず、ロム専の方も相当いらっしゃるサイトのようです。こうやって、『基本。』という、たぶん団塊世代のオジさんの独壇場に、顔を頻繁に出すアホな輩は、私や、きほんさんくらいなのでしょうかね。(笑)
だから、貴重な存在なのでしょうね。

これからもどうぞ宜しく♪<> 紬<><>2007/02/12(月) 10:10:41 ID:<>それと、不思議に思うのですが、ロム専の皆さん方で、基本。さんの論説に異論を唱える方はいらっしゃらないのかな?と。天理教の教会長方がこれだけいて顔を出さないのは、少々解せない気持ちもあります。基本。氏とは、関わりを持ちたくないのか?それとも、『成る程』と得心しておられるのか?一行だけでも、足跡を残して頂くと、顔が見えていいように思うのですが。(勝手な私の判断ですが)

私の知り合いの若い教会長さんは、『基本。』という名前を聴いただけでも、知っているはずなのに『知らない!』と、怪訝そうに言われた事があります。きっと何故私がそういう人と関わりを持っているのかが解せないのだと推測しています。このサイトもご覧になっているかもしれませんので、一言この場を借りまして、
『私と基本氏は、前生でのいんねんがある(深い?)』ので、こうやって、関わりを持っていたのだと私自身の悟りの中にはあります。
しかし、今生では、基本氏が言うように『異邦人』なのです。
だから、いんねんが切れて行けば、ただの通りすがりの人となるでしょう。人との縁ってそういうものですよね。
では、すみません。趣旨と反しまして。

PS,クドイようですが、春季大祭にて、真柱様が後継者の方達への思いを切々と話されていましたよね?年祭明けのこの年、道の後継者の方達(特に若い方達)には、従来の方便ばかりの教理で誤った道に人を手引く危険のないように、共々しっかり教えの根の掘りましょうね。
私も、いつまでも人めどうの信仰ではなくて、ちゃんとひながたの道を通りたいとそう思っている所です。
では、スレ主さん、信仰という言葉を使いまして失礼致しました。<> 基本。<><>2007/02/12(月) 11:42:36 ID:<>因縁は、切ったり付けたり、出来ます。
紬さんは、皆通りすがりにすぎない事、全く自覚されていませんね。
基本の奥さんは、毎日、一緒に投稿の内容について、語り合っています。
基本にとって、基本の奥さんは通りすがりではなく、この世の地と天のかたどられた夫婦なのです。

紬さんは、玉石混交という言葉をご存知ですか。

基本の説いているのは、玉です。
それは、おやさまの教えの基本です。

人は誰も、基本のことなんて、記憶の片隅にも残しません。
おやさまの教えの、「玉」だけを、記憶します。
だから、基本であって、人間そのものには誰も関わろうとしない。
なぜなら、自分で、出典を確かめれば、もっと沢山の「玉」があるからです。
基本は、基本に過ぎない。
原典があるのです。

基本が書いていることなど、原典の深さの、ほんの一部分。
基本の知っていることの、ほんのさわりです。
教理の根は、深く、人それぞれのものです。
おやさまと、その人との問題です。

時に、紬さん。
飯田の演歌王、検索してくれましたか。
私の写真貼ってあります。
画像が張ってあるサイトもあるようです。
ご一覧してください。

面白い話ですが、地元では、私から歌を習いたいという人は、セミプロのイベント歌手さんが、新曲のチェックに利用するぐらいで、皆無に等しいのです。
他のカラオケ教室は、大盛況ですよ。
音程も外れているし、リズムも狂っているような、先生のほうが、皆さん、安心して習いにいけるのです。
おまけに、いつも全力でと、飯田の演歌王は教えるので、逃げて行ってしまうのです。

楽しく歌いたい人には、正確な音程とリズム、きちんとした発声という基本は、嫌なのです。

縁があるなら、基本に忠実に、理に合わせて、出来るのですが、縁の無い人はいないのに、自分で努力しないで、基本を外して行く。
玉と石は、おのおの役割が違います。
紬さんは、今は、縁談一筋。
そう心定めしていると、投稿を幾つも見ています。

それに、嘘つかないで、自分が地となり、夫婦となり、して行ってください。

> 私の知り合いの若い教会長さんは、『基本。』という名前を聴いただけでも、知っているはずなのに『知らない!』と、怪訝そうに言われた事があります
>
ネットの世界のことは、ネットの中。

基本と、飯田の演歌王と、坂井明久は、別な存在です。
紬さんが、そうであるように、ネット上の存在は、現実とは一致しない。一致させない。
それは、常識です。<> 基本。<><>2007/02/12(月) 12:15:01 ID:<>>>306
> 私達が鵜呑みにするのも、基本さんの本意ではないようですから、せめて、
> こちらも同じ土俵に立てるくらいの技量を持たなくてはならないと思っています。

誤解解消の為に、紬さんに申し上げておきます。

気の毒だから、「鵜呑みのしないように」と、申し上げているのです。
鵜呑みのするには、消化能力がいるのです。
その、消化能力は人それぞれです。
そして、消化の能力の無い、紬さんのような場合には、気の毒だから、「鵜呑みにしないでね」と、言うのです。

そこを、「きほん」さんは、言われていたという事です。お気の毒のなかでと。
先ず、鵜呑みのしてみないと良いも悪いも、人たすけてみないと、基本は理解されませんからね。

> こちらも同じ土俵に立てるくらいの技量を持たなくてはならないと思っています。
私の技量、知って言われていますか。

紬さんは、「心の誠・真実」は、どんな技量より勝ること、知らないのですね。自白です。

それが気の毒、というのです。
心の誠・真実という。それが、一筋心で夫婦が始まりました。

技量では、夫婦の地と天は、始まらない。
紬さんは、本当は、もう病気は治っているけれど、自分の技量で病気のふりをしたり、治ったりを、技量でしている。

その心を、記に毒だと思って、基本は、病人扱いしていない。
紬さんは、もう、自分で、操作しているのです。
担当の会長さんや、教会の人は優しいから、騙されますが、基本は、気の毒だから、病人扱いしない。

お見合いして、逃げずに、一筋。
出来るはずの紬さんだから、「毒」をもって、きちんと、理の話で詰めています。

仮病という事場がありますが、自分でなったりならなかったり、出来る紬さんは、ちゃんと、投稿で「理」を語れるではないですか。

今、皆が見ているのは、紬さんが、「お見合いをちゃんとするか」です。
基本の言うように、「お見合いする」ネットに書いてある。
紬さんが書いてあることは、全国のみんなが確かめました。
その紬さんが、「お見合い」、実行するかしないか。
みんな、見てます。
大嘘ついたまま、白きって、という紬さんか、どうかと。

技量見せてください。
お見合いして、上手にお見合いして、その報告を、ザ天理教を語る4で、待ちます。
<> 紬<><>2007/02/12(月) 15:13:29 ID:<>今日は、何で朝からパソコンへ書き込みしているのだろう??と自分でも不思議でした。教会へ行く用事があったはずなのに、と。
『お見合いして決まったらその報告を書きます』と、ザ天理教を語る4に書くつもりでしたが、基本さんに、こちらへ先に書かれてしまいました。本当に基本。さんは、学校の先生みたいですね。紬は、大嘘つきの罪でバケツ持って立たされている心境です。いやいや、校庭を私は嘘つきで〜す!と言いながら走りなさい!と言われた心境かな。それから私の病は、仮病なんですか。。嬉しいやら?変な気持ちです。お見合いの件はずっと基本さんと相談してきた事なので、決まったら報告します。決まったらですよ。
余談ですが、私の姉が「あんた、基本さん何にもあんたの事知らないよ」とそう言ってた事があります。甘ったれな事言ってすみません。
わからんちんで失礼しました。


<> LiLiTH<><>2007/02/12(月) 15:45:35 ID:<>>>基本。さん

よかったらココにメール下さい。

radwimps.1@hotmail.co.jp<> 基本。<><>2007/02/12(月) 16:21:34 ID:<>>>310
紬さんに語った仮病、という表現は、偽の病という意味ではなく、病なんだけれど自分で病気になったり直ったりを、している。と、言う意味です。

{>>227 紬 07/01/15 08:40 rHDQf8dOaR
>>224
基本さん、いつまでもいつまでも変れなかった強情な性分の自分でした。定めても定めても、その定めた心を自ら濁して・・と。全く、理解に至るまでの道筋は、こんなにもまどろっこしい道なのだと、実感しています。これからの道は心新たに、一筋にと念じている今です。
おやさまなくしては、もう通るに通れなくなりました。

すみません、スレッドの趣旨(思想)に反しまして。 }

このように、紬さんは語られていますよね。

> その定めた心を自ら汚して。
御自白ですね。
そうすれば、心を濁らせれば、症状は自ら生じさせることが出来ます。

いつも誰かのせいにして、原因をその誰かのせいになるように、誰かの言葉を引用して、。。
自己責任では無いところで、身の安全を確保して、困ると発病の症状の出るような、精神状態に自らを、追い込む。
そして、実際に病気になれる。
何人かと、確かめました。
ハイそうでした。と、認められた方ばかりでした。
ある朝、どうしても学校に行きたくなくなって、発熱しようと必死になっていたら、発作がおきた。
しめたと思ったそうです。
そしたら、嫌なことをしたくないと思っていると、発作起こせるようになって、・・
そのうちに、起こしたくないのに発作おきてしまうようになって、、、
と、その内の一人は、教えてくれました。

紬さんの場合には、直ってしまっていることを、認めたくない。知られたくない状態だと、基本は、感じています。

紬さんは、勘違いしてますが、過去の何年分の投稿をきちんと保管している人は、大勢いますから、綿毛さん→紬さんの投稿の歴史も、残されている。

精神的なもののばあいですが、病気であることを隠そうとしている間は、病気なのです。
直っていることを隠そうとするのは、直ってしまいたくないからです。
病気だと思うから、人は、同情します。

おやさまは、「情にながれなよ」と言われました。
情は、「2の神様」「火」です。
脳を冷静にするのは、「理」、水です。
紬さんのご家族、みなお優しい。

しかし、その優しさの情の中に居ても、治ってしまうことはあるのです。
病気ではない、そのとき、紬さんは、本当の紬さんとして、多くの人にネットのうえで、何を見せているか。ですね。

暴力団関係者が言っていました。
ネットんk中は、わしらの世界ではない。と。
なぜでしょう。
全記録が残ってしまっている。
証拠が全て、デジタルに残っている。

みんな簡単に投稿しないのは、紬さん。
全て記録として残り、消せないし消えないからです。
基本は、教理として、おやさまの思想として、基本をさらし、全批判を受け続けても、基本であるようにと、投稿しています。

紬さん。
ご自分の過去の投稿を読み直して、確かにこれは、直っているは、と、確認してみたらどうでしょうか。


<> 基本。<><>2007/02/12(月) 16:49:50 ID:<>脳波の問題を、語る、「天火火の雨」についてですが、
ちょうど、紬さんが、来て下さいました。
>>263
にて、説明しましたが、
[263]基本。 07/01/24 08:42 28t4iRcj27
天日火の雨海は津波やと言う「天理」とは、現実に存在している「物理」です。

{ 熱を持つ物体は電磁波を放射し、他の物体に熱を伝える。途中が真空であっても伝わる。高温であるほど短い波長の電磁波を放射する。高温である太陽からの放射を「短波放射」という。}
ここに、「高温であるほど短い波長の電磁波を放射する」とあります。
これは、物理学ですから、脳の中でも同じ事が起きるという事です。
>>258
http://hotwired.goo.ne.jp/news/technology/story/20041028301.html
ここには、このような記事がありました。
{ 人工腕は、サルが自分の腕を動かそうとしたときに興奮する何千ものニューロンのほんの一部によって動作する。そこで、人工腕を確実に動かすためには、サルに自然な思考プロセスを組み立て直させる必要があった。 }

「興奮する何千ものニューロンのほんの一部によって動作する。」
これが、重大なポイントです。
興奮するというのが、2柱の神様の理の火です。
その時に、「興奮する何千ものニューロン」が火の雨となって飛ぶのです。
情報過多の状態になります。
おやさまが、「情に流れなよ」と教えられているのは、ニューロンが多すぎると、動作がちゃんと出来ないからです。

脳の情報を伝えるニューロンは、ほんの一部で、この実験のサルの場合には動作ができるのです。
それを、情にあふれて、脳を興奮させてしまうと、動作が出来なくなる。

しかし、このサルの場合には、学習と訓練によって、ニューロンがそんなに必要ないことを知って、うまく人口の腕を使えるようになりました。

そのレポートを引用します。
http://hotwired.goo.ne.jp/news/technology/story/20041028301.html
{ 人工腕は、サルが自分の腕を動かそうとしたときに興奮する何千ものニューロンのほんの一部によって動作する。そこで、人工腕を確実に動かすためには、サルに自然な思考プロセスを組み立て直させる必要があった。}
{サルはバーチャル空間で、生物学的なフィードバックを使って学習し、人工腕への命令として記録・送信されるニューロンの興奮率を加減する方法を習得した。こういった「ブレーン・コントロール」段階のレッスンが終わるころには、サルは新しい形の運動をマスターしていた。必要となる数個の主要なニューロンを興奮させる方法を習得して、バーチャル環境で幻の腕をコントロールできるようになったのだ。}
{こうしてバーチャル・レッスンを終えたサルは、次に人工腕へと進んだ。両腕を体の横に固定された状態で幼児用の椅子に座らされ、肩に取り付けられた人工腕を他の場所から自分の口に動かして物を食べる訓練を施された。}
{「口元に近づけるまでの動きはかなり上手にできる。しかし食べ物が口に近づいてくると、サルは人工腕でなく食べ物に集中してしまうため、動作が少しぎこちなくなる」とシュウォーツ教授は述べた。}

このように、サルは訓練し学習し、不要なニューロンを用いなくても良いと理解しました。

しかし、
{しかし食べ物が口に近づいてくると、サルは人工腕でなく食べ物に集中してしまうため、動作が少しぎこちなくなる」とシュウォーツ教授は述べた。}
当然ですが、食物が近づくと、ニューロンが興奮して、多くなるからです。

子供を甘やかして育てるというのは、甘いというのは2の神様です。
ニューロンを興奮ばかりさせる子供を育ててしまう。
情に流れてはいけない。

おやさまの思想は、「理」によって、世界をたすけるという思想ですが、それには、「勤め」。
心を静めて「勤め」するという、そこから始めるのが王道です。

サルでも自分の出すニューロンは調整できます。
まして、人間は、ニューロンの量の調節ぐらいは出来ます。
それが、誠真実という心になれば、誰でも出来る。
そして、紬さんは、もう直っている。
つまり、ニューロンの調節は、興奮しないという事は、今なら、する気になれば出来るという事です。<> 紬<><>2007/02/12(月) 18:59:23 ID:<>北斗の拳みたいですね。「おまえはもうすでに死んでいる」
私の場合、「おまえはもうすでに治っている」
たしかに、興奮しなくなったのが、その証拠ですか。基本さんは、同じ身上の方を何人も何人も視ていらっしゃるから、そう断言できるのですね。これからは、嘘つきにならないように通ります。<> 紬<><>2007/02/12(月) 19:01:18 ID:<>北斗の拳みたいですね。「おまえはもうすでに死んでいる」
私の場合、「おまえはもうすでに治っている」
たしかに、興奮しなくなったのが、その証拠ですか。基本さんは、同じ身上の方を何人も何人も視ていらっしゃるから、そう断言できるのですね。これからは、嘘つきにならないように通ります。<> アルテミス<><>2007/02/12(月) 19:04:09 ID:<>みなさん、こんばんは。
>>425
>たすける側の人と・・・
そうであると理が頂けないような事になるのではないですか?<> アルテミス<><>2007/02/12(月) 19:08:32 ID:<>間違えました、すみません。<> 紬<><>2007/02/12(月) 22:20:59 ID:<>ここでも、しばし、失礼します。<> 爆乳天使降臨<><>2007/02/13(火) 21:51:50 ID:<>セクシー<> 基本。<><>2007/02/15(木) 00:45:32 ID:<>お筆先は、違わん弧とはけれども、違いあるなら歌でしらするもの。
おやさまは、おふでさきの一号の冒頭から、「道の信仰者」の、思想的な間違いをご指摘になりました。
当時の高弟は、明治維新に好意的だった地主階級が多く、庄屋の立場のものは、維新政府よりであった。
お筆先の注釈、一号の20のお歌の注釈を見れば分かるように、維新政府の政策の版籍奉還の事を、「この和睦」と理解していて、「神が守護する」というような、天皇制への移行を、おやさまがお認めになったような注をつけています。
これは、まるでおやさまの見ておられたものとは、違うものです。

お筆先の一号1から8までのお歌は立教の宣言というよりも、より具体的なたすけ一条の開始の宣言と、理解しなければ、趣旨が通じないということになります。

それは、よろず委細の元の因縁を説いて聞かす。と言う宣言でした。
因縁を説けばどうして、皆の心が勇むことになるのか。
それこそが、おやさまの思想の主題です。

 いちれつにはやくたすけをいそぐから せかいの心いさめかかりて 一号8

この、「一列に早くたすけを急ぐから」と言うのは、ようぼくの事です。
神様が急いでいるのは、そのたすけをするようぼくの修理丹精の処の整備です。

用木が、たすけを急ぐ。
そのすがたは、「てをどり」にて教えられています。
神様のお説きになる「よろず委細」を聞いて、世界一列をたすけるようぼくの、姿こそ、お勤めの理。よろづよ八首と言うものです。

「このところ、」とは、甘露台の立つべき一坪四方という解釈に対して、二代真柱様は、「いざまぎ、いざなみ」様の、生みおろしの後におられた場所と、勤め場所の一坪四方とは、その一坪と言われていると、前述の教祖伝入門十講のそのかしょには、あります。

用木が、育ち育つ。
それが、世界たすけの開始になること。

それが、お筆先の一号、1から8までの趣旨であります。

よろず委細の元の元の夫婦の事情。
ひながた。
それは、前生の因縁を寄せての、神官の因縁の娘、「平群群」の小東松恵さんと秀司さんとの、夫婦の始まりにあった。

人を債務奴隷とし、宗教奴隷として支配した、その「神の館」思想への理の間違いのお知らせ。
おやさまは、大社高山を徹底して、ろくぢにするという思想のお方でした。<> 基本。<><>2007/02/15(木) 03:17:35 ID:<>序歌と呼ばれた、「よろづよ八首」は、おやさまは「神楽のだしや」と言われました。
「だし」と言うのは、料理の基本とも言われます。決め手とも言われます。
「だし」が無かったら料理にはならない。

その意味で、おやさまの思想の味とは、この、よろづよ八首にあると言えます。

人間の生まれ故郷の地場に、元の因縁を教え、よろず委細を教えるつとめ場所を普請して、人間をたすけたい。
おやさまのたすけたいものは、何なのか。

 だんだんと心勇んで来るならば 世界よのなか処繁盛 一号9

それは、世界の豊年。世の中の、処繁盛である。

 この先は神楽勤めの手をつけてみんな揃うて勤め待つなり 一号10
 みな揃ろて早く勤めをするならば そばが勇めば神も勇むる 一号11

この二首のお歌に言われているのは、「そば」に対しての理の責めと理解されます。

神楽勤めのお勤めとは人数に限定があります。
それを勤める「皆」とは、「皆=そば」という事です。
お勤め人衆と言われた人に対する、理の責めとなっています。

神のそばにいるもの、当時そばにいた人は、「用木になるものハない」と後には、おやさまから言い切られてしまうような状態にあったのですが、神様のそばにいるものが、勇んで世界をたすけにかからないと、神様に勇んで頂くことは出来ない。

神様に引き寄せられた用木には、よろず委細の元の因縁を詳しく聞いて、世界をたすけるという使命がある。
それは、その理を現して神楽勤めをする者をはじめとして、神様のそばにいるものの使命です。
神様が、勤め場所として立ちかけたものは、子供を修理し丹精する一坪の場所。
そこで、勤める勤めとは、よろず委細を説いて、世界をたすけるという勤め。
この勤めの先に、つまり将来に神楽の勤めがある。

それは、直接的に、
 一列に神の心がいづむなら 物の理うけが皆いずむなり 一号12
と、「もののりうけ」、すなわち物質的な守護を意味して、理は責められています。

世界の豊年、繁盛。
そして物質的な豊かさこそ、神様の守護したいものである。
高山に独占させてはならないもの、一列に豊かになるためには、神の心を勇ませるしかない。

 一列に早くたすけを急ぐから 世界の心 勇めかかりて

これが、ものの理受けに、直結していることを、おやさまの思想はズバリ、示しています。
それを、明治二年当時には、高弟たちは理解できなかった。
観念的な幽冥思想は、おやさまの理の世界とは無縁なものであり、明治維新という政治思想による現実的改革もおやさまの理の世界とは、無縁なものであり、ただ、よろず委細の元を説くおやさとの勤め場所での、勤め。
それは、せかいたすけに急ぐという実行。
ものの理受けの世界において、天理は教えられているという事です。<> 基本応用<><>2007/02/15(木) 22:56:22 ID:<>基本。は小泉元総理を大宰相とか言っていたが、
アメリカの要請にほいほいのって郵政を民営化させた張本人だよな、小泉は。アメリカの保険会社が日本でうまくやるために郵便局のとりでをくずしてアメリカ式の自由経済とやらを郵政事業でもスムーズに行えるように取り計らった張本人。
それを大宰相と言った基本。が今度はおやさまの思想というテーマで「から」を西洋人だと説く。
こっけいでこっけいでワラけるわwww

話は変わるが病的なほど色白の基本。さん、しっかり睡眠とって健康に気を使ったほうがいいと思いまっせ。


<> 基本。<><>2007/02/15(木) 23:30:39 ID:<>>>322
> 基本。は小泉元総理を大宰相とか言っていたが、
こんにちは。
基本はこれは言っていません。
どなたかの発言の、思い違いではないでしょうか。
国会ではおさまらないとの主張で一貫しておりまして、内閣総理大臣には期待をしていないし、高山の意思の代行の場合には危惧を抱くことも時にあります。

あの時には、風邪を引いていまして、発熱してまして、・・
ご心配有難うございます。
重ねて言いますが、現在の裏から前宰相が糸を引いているとしか思えない政権については、長州系の維新の思想を露骨に示していて、しかも、外資に対してへつらう外交に終始していて、危惧を抱いております。当然ながら、対米追従の前宰相のことは、いまだに影響力を温存していて、格差社会の生みの当事者であり、再登場を危惧しております。
いつの場合にも、いままでも基本には偽者がよく登場します。

偽者が登場するのも、それだけ関心が高いということで、基本の存在を疎ましいと思う方々が大勢いる証拠だと思います。

現在の教団のあり方を真正面から批判しているのが、基本の本旨です。
今のままの教団では、天日火の雨は、いたる所となるでしょう。
教会の泥水に対する批判は、これからも一貫して行います。
基本応用さんも、泥水の教会事情をきちんと批判して、本来の天理教のあるべき姿となるよう、教祖へのご協力をお願い申し上げます。

そして、そんな天理教会の中で、追い詰められている道の中の「谷底」の人たちに、声援を送る場としても、あるべき姿を語り合いましょう。<> 基本。<><>2007/02/16(金) 01:36:51 ID:<>明治2年の頃のお屋敷の状態は、高弟たちの信心のレベルと言うものは、思想的に、おやさまの思想とかけ離れていました。

一つには、吉田神道が権力を失ったことから、新たな公許を得ようとする中山秀司さんを中心とした動きでした。
前述のように、辻忠作さんは、奥さんの反対で道から離れていたので、逆に言えば、応法の悪事に染まっていなかった。
それに比して、仲田儀三郎さんらは、公認を模索する側にいた。

当時の、道の中の泥水事情と言うものは、お筆先の中に、又その注釈に史実としてきちんと残されています。
明治2年から7年頃までの史実の中で、高弟たちの思想に巣くっていた問題点を幾つか見ますと、例えば、山中忠七先生はこんなことを考えていました。

{【道は下から】逸話篇
 山中忠七が、道を思う上から、ある時、教祖に、「道も高山につけば、一段と結構になりましょう。」と、申し上げた。すると、教祖は、
「上から道をつけては、下の者が寄りつけるか。下から道をつけたら、上の者も下の者も皆つきよいやろう。」
と、お説き聞かせになった。 }

この、「道も高山につけば」との思想は、前提として公認公許がなければ出来ないことです。
おやさまは、これに対して、公認・公許と言う方法での布教を戒めています。

現実に中山秀司さんは、明治政府の方針を支持して、中山家で大教宣布(天皇を神とする布教)活動を開催しています。
権力への迎合と言うことです。

「道を高山につけたら」という事を提言した山中忠七さんは、身上お手入れを頂いています。

この頃の尽くし頭の若井村松尾市兵衛さんは、お筆先のなかで、「何もかも強欲尽くしそのゆえは、神の立腹見えてくるぞや」「段々と十五日より見えかける善と悪とはみな現れる」、との史実として、子供を病気で亡くしています。
【麻と絹と木綿の話】逸話篇26にありますが、木綿の心でと言われたのに、高慢がとれなくて、子供の病気はたすからなかったとされています。

伊蔵様と同じように「言上の伺い」を許されていた、3625の女性ふささんは、乾家に寄り来る信者に断りを言い、道を廃らせてしまっています。

事情は千差万別とは言いながら、おやさまの世界たすけの思想の真意を、理解できない当時の高弟たちは、宗教と言うものの「欲と高慢」にはまったり、そうした宗教行為を反対する家族に負けたりしていた状態でした。
安堵村では飯田家は、宗教家業している。山沢家も前川家も、低いところから道を付けるというおやさまの思想を理解できずに、地域の有力者としてのありさまのなかで、道を遅れさせていた。

実は、当時の高弟は「とふじん」。

それを、おふでさきは、きちんと理を責めて知らしています。<> 基本。<><>2007/02/18(日) 01:43:18 ID:<>>>320
> 「平群群」
これは、平群郡の誤字でした。訂正します。
紋型が生まれたのはいつの頃かは分かりませんが、氏姓制度という階級制度が、大和朝廷によって開始されました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%8F%E5%A7%93%E5%88%B6%E5%BA%A6
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から、引用します。
{ 氏姓制度(しせいせいど)とは、古代日本において、中央貴族、ついで地方豪族が、国家政治上に占める地位、社会における身分の尊卑に応じて、朝廷より氏(うじ)の名と姓(かばね)をあたえられ その特権的地位を世襲した制度。氏・姓(かばね)をあわせて氏姓(しせい)ともいう。}
{ 大化の改新ののち、律令国家の形成におよぶと、戸籍制によって、氏姓はかつての部民(べみん)、つまり一般民衆にまで拡大され、すべての階層の国家身分を表示するものとなった。}

このように、差別社会を形成し「家柄」「紋型」が出来た。

{ 臣とは、葛城氏(かつらぎ)、平群氏(へぐり)、巨勢氏(こせ)、春日氏(かすが)、蘇我氏(そが)のように、ヤマト(奈良盆地周辺)の地名を氏の名とし、かつては王家とならぶ立場にあり、ヤマト王権においても最高の地位を占めた豪族である。}

平群郡というのは、ここにある平群氏(へぐり)、に由来するものです。
>>74
> 中山家の悪事とは、『債務隷生み出しの因縁』
> そして、『宗教を利しての経済行為』
> それこそが、中山秀司の悪事。
このような中山家の因縁は、前川家の因縁でもあり、当時の高弟の家は大和神社の信徒総代であるとか、山沢家のように直接の神官の縁戚であり代理を名乗れるものであるというような、「家柄・紋型」であって、小東家の家柄も、先に述べましたが、
>>76-77
> 小東松枝さん。・・・「宗教家業の悪事の因縁の持ち主」。
> 生駒郡平郡地方の旧家で、父は、法隆寺斑鳩御所の名目金を貸し付けていた。
> おやさまが、「前世の因縁寄せて守護する」と、仲立ちした縁談は、
> まさに、宗教家業からみの金貸しの悪いんねんを、見せ付けるものでした。

このような家柄でした。
平群郡。神官の因縁の地。生駒。

まず引き寄せられた高弟たちの中には、紋型の始まりにおいて、債務奴隷を生み、宗教奴隷を生んだもともとの因縁があったという事。それは、「兄魂・姉魂の悪因縁」として、何よりも、中山家の夫婦の事情にお見せ頂いていたと言う事でした。

当時の「やまと」の地図はここにあります。
http://www2.odn.ne.jp/~rekisinotobira/contents007.html

 「この処やまとの地場のかみがた。」
歴史上の五世紀には、こうした豪族がいて、天皇により統一された。
その中心は、大化の改新の「中臣氏」。
神と人の「中」に入る神官でした。
後の藤原氏。奈良平安の政治の支配の中で、債務奴隷の制度は、より深刻になった。
その、ルーツです。<> 基本。<><>2007/02/18(日) 20:45:31 ID:<>現在の経済は「信用経済」と言うシステムで運用されている。
物々交換の経済が、「貨幣経済」というシステムに拡大された。貨幣経済と言うのは、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』にありますが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A8%E5%B9%A3%E7%B5%8C%E6%B8%88
{ 貨幣経済 (かへいけいざい) とは、貨幣によって商品の交換を媒介している経済の一形態。}
{ 現在、世界経済のほとんどが大なり小なりこの貨幣経済により成り立っており、経済学による主要な分析対象である。}
{ 概要 貨幣経済は、貨幣によって交換を媒介するために、まず貨幣となるような普遍的な商品が必要である。いったん取引が行われると、その性質上、あらゆるものを商品化し自己拡張する。}

これが、貨幣経済である。
氏姓制度が大宝の律令制定により、神官の(神社・仏閣)の稲による金融支配の開始となり、貨幣経済が発達し、あらゆるものが「商品化」して、それは、「人間そのものを商品化」するという時代を到来させた。
人間そのものの売買の仲介をしていたのが、歴史上の宗教関係者の役割であった。
これが、宗教の「大社高山」因縁の、歴史的事実である。

そして、その貨幣経済は、商品化された「資本」の価値を新たに創造する。
商品化された「土地」は、「不動産・資本」となり、いわゆる「資本家と労働者」というものは、農業の場合で言えば、「地主と小作」という関係となる。

中山家に保存されていた証文が証拠として示していたように、「金を貸し」て、商品化された土地を取り上げるという手法で、富める者はなお豊かになっていった。
それは、江戸時代の幕末の地主層の実態であった。
その富裕層が、経済活動に制限を加えていた江戸幕府の、封建制度に対して、批判を持ち開放を求めていた。
それが、ご一新として明治維新を受け入れた大きな土壌であった。

その明治政府は、日本に「信用経済」を持ち込みました。
その第一歩が「地租改正」であった。

封建制度と言うのは、土地を媒体とした主従関係であり、「土地・農地」というものは、生活の着本であり、経済の土台であって、その自由な売買は禁止されていた。
その土地そのものを税金の計算の基礎として位置づけ、「地租」としたことは、土地資本が「信用」として、経済活動の基盤となった元にあたるわけです。

現代でも、現実に、土地の評価額がその土地の資本力を決めている。
その評価額を決める基礎資料が、地租改正によって、高山のものとなりました。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に「貨幣経済」の問題について、このような記述があります。
{ 不換紙幣を貨幣とする場合は、貨幣の信用が重要となるため、安定した政府などが必要である。}
{ 一般に、政府が信用されない場合、紙幣の流通がうまくいかなくなり貨幣経済は衰退する。}

貨幣の場合のことは、土地にも当てはまります。
簡単に言えば、その土地の評価額が信用となり資本となるのだから、評価の基準に信用がなければ、経済は不安定になります。
地租の改正によって、制度として、「土地資本」は、日本経済を動かす大きな要素となりました。
そして、それは、「資本家対労働者」という。「資産家対無産者」と言う、高山と谷底を日本にもたらします。

日本の債務奴隷のルーツは、大化の改新、大宝の律令。
そして貨幣経済が、日本に不平等社会を拡大させつつあった。幕末。
到来の、唐人の思想を学び、封建支配者に代わる新たな高山をめざした支配層は、金融支配を目的に、「信用経済」を日本に浸透させた。

明治政府の王政復古は、日本の債務奴隷製造システムの復古と言う意味で、自白と言うべきものでした。

そのような深い陰謀、大教宣布の裏にある、信用経済の構築と金融支配と言う陰謀を、見据えていたのは、おやさまお一人。

信用経済とは、このようなものです。ない者が在る事になる経済です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E7%94%A8%E5%89%B5%E9%80%A0
{ 銀行は預金を受け入れ、その資金を誰かに貸し出す。その過程で信用創造は発生する。以下は、そのプロセスの例である。}
{ A銀行は、X社から預金1000円を預かる。 A銀行は、1000円のうち900円をY社に貸し出す。 Y社は、Z社に対して、900円の支払いをする。
Z社は、900円をB銀行に預ける。 この結果、預金の総額は1900円となる。}

土地をお金に買え、人をお金に変えて、無から有を有無と言う「信用経済」という嘘は、地租改正以後の日本を侵食していきます。
<> 基本。<><>2007/02/19(月) 01:21:05 ID:<>貨幣経済の仕組みの実態を笑う落語に、「花見酒」と言う落語があります。
紹介しましょう。
http://ginjo.fc2web.com/88hanamizake/hanamizake.htm
[ 六代目春風亭柳橋の噺、..酒が無くてなんの桜かな”と言われるように、花見には酒が付き物です。「向島に花を見に行ったら酒屋がない、だから我々二人が金を出し合って酒を売らないか」と言う事で酒を仕入れて売る事になった。倍儲かるから2両が4両、4両が8両になって、8両が ・・・・、両手でも数えられないほど儲かるという。
 借りのある酒屋だがそこで2両の酒を買った。一斗樽に仕込んだが
底の方にわずか入った程度で、担いで出掛けた。腹が空きすぎて力が出ないと言って1貫だけ残して置いた。この1貫で芋でも買って力を付けて働く事にしたが、芋を買えば芋屋に儲けさせてしまう。だったら、無駄がないように我々の酒を買えば損が無く、倍儲かるよ。樽をそこに置いて、まず相手に1貫の金を払って一杯の酒を買って飲み出した。金を受け取った相棒も待ちきれずに、その一貫を相手に渡して一杯やった。イイ酒だと感心しながらやった。相手が美味そうに飲むので 、その1貫で交互にまた飲んだ。
 向島に着いて、酔った勢いで店開きをした。最初の客が付いたが、酒が無く売り切れていて断った。2両の金で仕入れているので、4両にはなっているはずで、そのお金で再び酒を仕入れて来る事にした。相棒に売上金を出さすと1貫しか無い。「2両で仕入れたのに1貫しか無いとはおかしいじゃないか」、「1貫出してお前が飲んで、俺が飲んで、またお前が飲んで、俺が飲んで・・・、で売り切れた」、「それなら、無駄が無くって良かったな」。}

この花見酒の逆の話が、>>326
> { A銀行は、X社から預金1000円を預かる。 A銀行は、1000円のうち900円をY社に貸し出す。 Y社は、Z社に対して、900円の支払いをする。Z社は、900円をB銀行に預ける。 この結果、預金の総額は1900円となる。}
これです。

信用取引というからくりは、無から有を生み出します。
事実としては、花見酒のように、2両の酒を仕入れて飲むだけの行為に過ぎないことを、AからB、BからC、CからDと信用取引で扱えば、2両が4両に、4両が8両に、8両が16両にと、全部で32両の経済行為が生まれることになる。
信用取引がこのようなものである以上、拡大し続けていなければ、破綻者が必ず生まれなければならない。
それを感じさせないで、人を債務奴隷にしていく、金融が経済の中心になって、日本の国家は富国強兵の道を歩み続けたわけです。<> 基本。<><>2007/02/19(月) 01:56:52 ID:<>お筆先一号の冒頭において、よろず委細の元の因縁を教えると宣言したおやさまは、神が表に現れて、世界一列をたすけるということは、「世界よのなかところ繁盛」と、教えられた。
それは、「もののりうけ」を勇ませる理としてしめされた。

そこで、神楽・手踊りを始めかけたのは、それは「合図」だと示されています。

合図ということは、よーいドンのトラック競技で言えば、号砲のドンという事。
授業開始のベルにすぎない。

「この度は 早く手踊り始めかけ これが合図の不思議なるぞや」 一号15

お勤めの開始は、合図であった。
それは、何の合図であったのか。

 この先は神たる心だんだんと 心鎮めて和睦なるよう 一号19

この、予言が、合図の先に待つものであった。

アヘン戦争から本格化した西欧列強の、軍事と経済による中国支配に、触発されて起きた、幕末の動乱と明治維新政府の開始の、明治2年。

おやさまは、「和睦」を、「和睦なるよう」と予言された。

 見えてから説いてかかるは世界なみ
 見えん先から説いておくぞや    一号18
 この先は上たる心だんだんと
 心鎮めて和睦なるよう       一号19
 この和睦難しいようにあるけれど
 だんだん神が守護するなり     一号20

おやさまの思想での、和睦とは、
お筆先は一文字一文字、音で読んで、文字で理を解するのが基本です。

 一号19では、「和睦」は、「ハぶく」とかな文字であります。
つまり、「省いてしまう」、その高山の争いの元凶は、神が「省く」との理にて、戦争の根絶への神の守護が発言すると予言している。

その、「和睦」への神のお働きは、

 この世は理で責めたる世界なり
 なにかよろづを歌の理で責め  一号21

お筆先の理にて、和睦の道筋をつけるという。
おやさまの思想に基づいて、理は思案されなければなりません。

明治2年当時の高弟は、その「和睦」と言うものの意味が、世界一列の平和と睦まじさであるとは理解できず、天理教が高山に認めてもらえることだとか、公認されて明治政府と睦まじくやっていけることだと誤解した。

まさに、道の中の反対のような、心得の分からない、先生方ばかりでした。

おやさまの思想は、はっきりとしています。
神の守護というオカルトによる、「はぶく」と言う理の「和睦」です。

それは、お筆先にて理を知らせて、違いを表にあらわし、そして、病気にて「はぶく」という「和睦」を予言している点で、きわめて厳しいものでした。
如何なる権力といえども、「神の残念」が出たら、医者も薬もかなわない。
それは、○○以外にはたすかる道はない。と、断言するおやさま。
まさに、カルト的オカルトであり、天日火の雨と海は津波やという、「火と水」においての残念を予言している点では、まさに、「わぼく」への強い意志が満ち満ちていると、受けとめられます。<> 基本。<><>2007/02/22(木) 03:02:32 ID:<> みへてからといてかかるハせかいなみ
 みへんさきからといてをくそや    一号18
 このさきハ上たる心たんたんと
 心しづめてハぶくなるよふ      一号19
 このハほくむつかしよふにあるけれと
 だんだん神がしゆこするなり     一号20

このよふハりいでせめたるせかいなり
 なにかよろづを歌のりでせめ     一号21
 せめるとててざしするでハないほどに
 くちでもゆハんふでさきのせめ    一号22

 なにもかもちがハん事はよけれども
 ちがいあるなら歌でしらする     一号23
しらしたらあらハれでるハきのどくや
 いかなやまいも心からとて      一号24

 やまいとてせかなみでハないほどに
 神のりいふくいまぞあらハす     一号25
 いままでも神のゆう事きかんから
 ぜひなくをもてあらハしたなり    一号26
 こらほどの神のざんねんでてるから
 いしやもくすりもこれハかなわん   一号27

 これハかりひとなみやとハをもうなよ
 なんてもこれハ歌でせめきる     一号28<> 基本。<><>2007/02/22(木) 03:35:20 ID:<>何でもかでも内からためす。

おやさまの思想は、全てを内から試すというものです。

立教以来、おやさまは思想を説き続けていた。
よふきづくめと言う思想を。

それは、アヘン戦争をきっかけとして、モーゼの説いた唯一の神を信奉する思想が、武力と科学力をもって侵略をし、人を思想奴隷に債務奴隷にしていく、経済戦争であり、幕末の日本は、天皇制への復古によって国難を乗り切ろうという尊皇攘夷の思想が嵐のように吹き荒れた時代に、説かれた、世界ろくぢの思想であった。

けれど、おやさまの周囲には誰一人として、その思想を理解するものは無かった。
いや、日本の国なかにも誰一人もいなかった。
「聖書」を信奉する西欧の大社高山は、人を犠牲とすることを美と説き、神に選ばれた一握りの富める者が、他の全てを債務奴隷として経済的に支配すると言う、宗教国家の論理で武装されていた。

「大社・高山」の思想。
それに対抗しての、天皇を唯一の絶対神と祭り上げの「尊王」思想は、強権を有する国家建設で、西欧に対抗しようとしたが、尊王という名で呼ばれた「維新の思想」は、にほんの伝統の八百万の神を否定し、本地垂迹の日本仏教思想を否定して、なされようとした、「唐人思想」そのものであって、
その、「唯一の絶対神」という「大社・高山」の思想が、到来の、実は、深刻な「欲・高慢」そのものであるということを、理解しえた者は、当時誰一人もいなかった。

「維新の志士」たちが豪商との会合に利用した遊郭の賑わいは、まるで島原の乱のようであると「京の島原」と地名が付いてしまったように、キリスト教が原因の騒動である事は言葉として自白されていた。

例えば欧米の視察をした時点から、維新の高官たちは、軍事用製鉄は全て国産化すると決めていたと、そして、八幡製鉄を国営でつくりあげ、その鉄道技術は、満州の植民地支配に活用されて、その技術は、新幹線にまで用いられたという。
http://nun.nu/www.nhk.or.jp/sonotoki/sonotoki_syokai.html#03
「その時歴史は動いた」に、その事情は放送されている。
{ 遣欧使節団の記録
「ロンドンの市中は天を走る車あり。地を駛(はし)る輪あり」
遣欧使節団の一員、久米邦武の回想。久米邦武編「特命全権大使米欧回覧実記」より引用 }
{ パークスの言葉
「英国民は欧州の片隅のやせた土地で、どんなに働いても満足な産物は得られなかった。しかし鉄を産み出すことで、機械を作り蒸気力で工業を起こし富をなしたのだ」}
{ 伊藤博文が出した鉄の国産化計画
「鉄道、船、あらゆる鉄の製品を自前で作ることが必要である」
明治7年2月15日、工部郷・伊藤博文が太政大臣宛に提出した「溶鉱製鉄器械設置の義に付伺」より引用し意訳 }

この、戦いを求め、侵略し、人を債務奴隷にするという「大社・高山」の説く宗教の論理。
人を「幽冥の思想」に導き、神への捧げ物を最高のものと賛美する彼らこそ、「はぶく」べきもの。

それを、まず、身内の内側から示して、屋敷の掃除したのが、おやさまの思想の、内から試すの、一つのひながたである。<> 基本。<><>2007/02/22(木) 11:40:30 ID:<>おやさまの思想には、「わが身わが内」という思案は無い。

世界一列をたすける上で、何よりも大切なことは、「理」を知らせるという事であると、おやさまは、その「理」によってたすけるという思想を鮮明にしている。
おやさまが「よろず委細の元の因縁」を詳しく説くという事は、「理」を伝えることであり、「詳しく尋ねるという事」は、「理」を知ると言う事に他ならない。

その理を知るという事が、「豊か」「健康」「繁栄」に直結しているものであるからこそ、おやさまは、理を知らせたいし、理を教えることで陽気尽くめの守護が出来ることになる。

しかし、たすけの道としてだんだんに示された、「安産のおびや」「病たすけ」「扇の伺い」「肥えの授け」、これらは、たすけの道として教えられたものではあるが、そこに人間は「わが身わが内という思案」を持ち込む。
世界一列をたすけるための教えが、一軒一戸の幸福の為に利用されようとする。
それは、人間の歴史の中に見られた現象そのものである。
古代の王政が、天皇お一人の下での平等を制度化した大化の改新、大宝律令であるとみなして、明治維新の思想家は、王政復古しようとした。
しかし、もともとの「天皇の王政」・「氏姓制度」は、「天皇に全ての権力・科学・文化」を集中させるという、差別の制度化であり、差別の拡大をもたらした。

氏姓制度について、分かりやすい説明がありますので、紹介します。
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/p_nihonsi/episodo/001_050/epi015_01.htm
{ 姓制度の氏を氏子の集団、そのリーダー(宮総代)を氏上、氏の構成員を氏人と理解すると、よく理解できます。氏が所有している共有地を田荘といい、氏が所有している共有の民を部曲といい、氏の構成員が私有している民を奴婢といいます。奴婢の奴は男子の家内奴隷で、婢は女子の家内奴隷です。}
このように家柄が「宮総代」であったという事は、「氏の上」の因縁があるという事です。
全国の「氏の上」を天皇に従えた。

氏とは家系を表し、姓とは職掌を表す。

この、職掌の支配こそ、「テクノロジーの独占」「科学技術の上による支配」になります。
農業が産業の中心であった古代では、「天文学・薬学など」は、神官の職能であり、「臣」が天皇の側近として権力を有したのは、「宗教」による支配。
「理」を知るものによる、「理」を知らぬものの支配という事。
文字の読み書きが出来る、出来ないという事も、それを学問という場合もありましたが、権力が、知識・情報を特権的に管理支配するという「宗教的統治」そのものでした。

「上ご一人」以外の平等は、「上」の為に「理」を用いる「側近」を生みます。
それは、天文学に精通したという意味での思想家であったりしました。

歴史的にもそうであった、明治維新思想もそうであった「上」による「理」の独占という支配の論理。知識専門家の支配。

その差別拡大の支配志向に対して、おやさまは、世界一列による「理」の活用というろくぢを示された。
そこには、一軒一戸の思案は無いという事です。

格別な「理」を手にしたとき、欲と高慢の人間は、その「理」を用いて巨万の富を得ようとし、そして、全ての人を豊かにするという、一列兄弟を忘れてしまうのです。
そうなれば、「理」は、世界一列を逆に不幸にします。
一握りの「理」ら精通した民による、世界支配という「幽冥の思想」を取り入れた日本帝国主義の「王政復古」こそ、われわれの日常にある、無限の欲望の生んだものと、言えます。

中山秀司の、内縁の妻を「ハぶく」と言うおやさまからの「屋敷の掃除」こそ、宗教家業因縁に埋没して、おやさまの教えの理を「一軒一戸の為に用いる」浅はかな思案を、掃除する、第一歩となりました。
<> 基本。<><>2007/02/22(木) 12:01:07 ID:<>小東家から、中山家に来た歳若い嫁さんの、小東松恵さんの事で見落としがちな事があります。

例えば、増井りんさんの記録には、おやさまがりんさんの事などで、指示したとき、秀司さんはなかなか言う事を聞こうとしていなくて、年下の嫁さんが、秀司さんを説得したエピソードが、幾つか記録されています。
秀司さんは、側近の高弟たちの側にいて、認可公認という、幕末にも、維新政府にも、権力との妥協の道を求めている。
そういう立場にあっても、小東家からの若い嫁さんのいう事は聞かなきゃならない。

少なくとも、松恵さんには、天理教徒は感謝しなくちゃならないことがあると思います。
おやさまの意思を実現した当事者としての松恵さんのことです。
当時の高弟達が、松恵さんの悪口をたくさん残すほど、高弟たちの「わが身わが内の思案」に、邪魔な存在であったと理解されます。

「わが身わが内の思案」
「一軒一戸の思案」

「理」は、特定の家や組織や、側近者や、特定の民族や国家に独占させてはいけない。
人は、世界をたすける為にではなく、自分の、又自分の家の繁栄のために「理」を用いるという「悪しき」を持っている。
それを、徹底的に戒めるおやさまの思想。
お筆先では、「歌の理で」責めるとしらされた、その責めは、先ず自らに、自らの可愛いわが子に、兄弟に、そして、可愛い弟子たちにと、近いところからなお厳しい、理の責めとして、示されています。<> 基本。<><>2007/02/24(土) 05:36:07 ID:<>悪事混じりというおやさまの思想。

おやさまは、「この世は悪事まじりである」との思想の持ち主でした。

 この世は悪事まじりであるほどに いんねん付ける事はいかんで 一号62

お筆先では、このように知らされています。

具体的には、秀司さんの子供のお秀さんの事を示して言われている。
因縁を付ける事はいけないから、それでおやさまは、どうなされたのかというと、「秀さん」は神の手離れとして、迎えとっている。

この例は、梶本家の長男亀蔵さんの場合には、おやが梶本家の後とりにしたいと願望を持った事から、親の思惑がかかったという「因縁をつけた」行為を原因として迎えとっている例もある。

何が「因縁をつけている」と言う行為なのかといえば、それは、この世の悪事に混じる事。
中山家の跡継ぎ云々という悪事まじりの思案のことであったと理解される。

もう一方のおやさまの、次のような思想は、「人間の埃の本質」をきちんと知らしている。

 いちれつに悪しきと言うて無いけれど 一寸のほこりがついたゆへなり 一号33

 これは、「人間の心はきれいなものだが、一寸の埃が付いただけなのだ」と理解されているが、「ちょっと」とは、「一寸はなし」の「一寸」である。
この世は悪事まじりである。
この世には泥水事情があると知らせるおやさまは、程度の軽いという意味で「一寸の埃」といわれたものではない。
人間の心の泥水の程度は、深刻なのだというのが、おやさまの思想の一貫した趣旨である。

「一寸」とは、人間が元始まりからの成人の道というものを意味して、「一寸はなし」にて知らせて元の理の道筋のことである。

人間は、成人の道筋において、「埃を積んだ」。
だから、「悪しきを払うて」と勤めなければならない存在なのである。

これまでに説いた事も無い「たすけの道を通るには、人の思惑のついた悪事まじりは、出直させて、死を、生まれかわりをもってなすしかない。

おやさまの、思想は、この世を悪事まじりとみなしている。
おやさまは、人間の、人間心ではどうもならないと、示されてる。<> 基本。<><>2007/02/25(日) 13:06:15 ID:<> 足さいがすきやか直りしたならば後は普請の模様ばかりを 一号38

おやさまは、中山家の秀司さんを台として、屋敷の掃除を、理の歌で責められた中で、
 足がすきやか治る→後は普請の模様ばかりを
との、順序を知らされています。

足というのは、{足のちんばが神の立腹}と、知らされた立腹の現れた場所。
 立腹もなにゆえなるど言うならば 悪事がの退かん故の事なり 一号34

この世は、悪事まじりである。
その悪事とは、地持ち中山家の金貸し因縁、宗教家業因縁の事。つまり、大社・高山という悪事のことです。
それが、この世界を泥水事情にしている悪事である。

それゆえに、中山秀司さんにおいての掃除とは、中山みきの「ひながた行動」を否定した存在そのものを、中山家から「省く」という事でした。

お上に公認してもらい、神からの許された「伺い」や「授け」を利用して、「安堵村・飯田家」のように宗教家業をしたがった者たちの、高弟たちの中心に位置していた中山秀司さんの、内縁関係の奥さんは、一軒一戸の思案として中山家にいつしか入り込んでいた、おやさまの教えの「異物」であった。

それを、悪事まじりと厳しく見つめるおやさま。

結局は、わが身我が内だけを思案する、そのありさまは、
 「こしらえをやるのはしばし待ちてくれ 泥水中にはめる如くや」
と、お筆先にて示されている、その理の責めで分かります。

「さとさとたをとたをとびょさまびょさま」 十七号73

人間の親は、我が子の幸せを願う。
そして、まさにバイブルの如く「生めよ、増やせよ、地に満てよ」と、繁栄を願う。

それが、「泥水の中にはめる」ことであるという事を知らない、「音次郎」さんの養子縁組の事情。

おやさまは、人が人を支配し、債務奴隷として永遠の幸福を築こうとする「大社・高山」思想の、「欲・高慢」を厳しく戒めて、屋敷の掃除を何よりも急がれたという事です。<> 基本的質問<><>2007/02/25(日) 23:30:41 ID:<>おやさまが
大社高山が人間を支配する為に、神の理を捻じ曲げる事に警鐘を発しっているという事と、現在の上層部は大社高山でしかないという事に概ね同意しますが、

矛先が債権奴隷という狭義な問題に偏っているように思います。
人が人を支配するという心の病に、金銭が利用されることにではなく、化粧された神様の教えそのものがその道具になる危険性がある事に危惧の重点があるのではないでしょうか。

当時も神のさしずをもらいたがった人間は人にさしずし支配したがった高山因縁なのでしょうね。神の承認が人間を束縛し支配の道具になろうとは、本席様も頭をかかえているにちがいありません。

神の理は魂の解放に重点があるにもかかわらず、支配の道具に使われるとは、この宗教は世界に対してどうやって侘びをするのでしょうね。
<> 基本。<><>2007/02/26(月) 04:00:22 ID:<>>>335
基本的質問さん、こんばんわ。
> 矛先が債権奴隷という狭義な問題に偏っているように思います。

そうでしょうか。
現在の社会問題の全ての根源は「貸し物・借り物」の理の間違いにある。
それが、認識される日が、陽気づくめへの第一歩と、基本はそう思います。
「貸し手は親神様、借り手は人間」。
資源も、資本も、自然も、「みんな神からの借り物」であり、それを「わがままに」している人間の、理の間違いが、この世の悪事なのです。
これは、お筆先の主題です。
狭義の問題ではなく、「教義」の問題として、きちんと、見つめるのが基本の立場です。

> 神の理は魂の解放に重点があるにもかかわらず
これも、疑問です。
おやさまの思想では、「月日・人間同じ事」と言うのが「魂の問題」の基本定義です。
月日といえども、はじめは泥海世界にいた。
魂というものは、本質的に、自由なものです。

しかし、肉体というものをこしらえて、肉体という着物を着て、その肉体の能力により、物を言う事も出来て、知恵もついて、文化文明の道具社会となって、そして、経済活動というものが人間生活のおおきな範囲を占めています。

おやさまの思想は、「いつも豊年」という、「経済」の思想。
「魂の開放」というような、幽冥の思想ではないという事です。

経済行為は現実です。
豊かさとは「経済的」なものを示します。
それを、精神の豊かさにすりかえたら、「八つ やまとは豊年や」。
「はえでの勤め」「雨乞いのつとめ」・・・
大切な勤めの理の、現実的な祈念を、観念論にすりかえる事になります。<> 基本。<><>2007/02/26(月) 04:36:29 ID:<>例えば、おやさまが、屋敷の掃除として、お屋敷から外に出した秀司さんの内縁の奥さんは、「神様からの貸し物・借り物」とは、思っていなかったと、思案されます。

辻忠作さんも、最初に妹さんをたすけられた時には、それは、「貸し物借り物」と言う事を分かって、たすかったのではないと思います。

再度の、妹さんの発病の時には、
「この世に 病と言うてないけれど 身のうちさわりみな思案せよ」 二号23
と、辻忠作さんは、おやさまからお筆先を示されています。

「身のうちさわり」を思案せよ。
と、おやさまは言われています。
「身のうちさわり」を尋ね出よ。とは、言われていません。
つまり、自分で思案するようにというお筆先です。
自分で思案するには、「貸し物借り物の理」を知らなければ、思案も出来ません。
まず何よりも、貸し物借り物だと、胸に納得できていなければ、思案も出来ないでしょう。

つまり、「貸し物・借り物」を分かるという事は、「心一つが我が物」と分かる、道筋です。

それから、人間が陽気になるには、「心澄み切る」事だと、分かる。

その時に、この世の悪事まじりの中で、「悪しき」を払う大切さが、はじめて分かるということです。


肉体の貸し物借り物の理がわかったら、世界は神の貸し物借り物とわかる。
世界は神の貸し物借り物とわかったら、「わがまま」に支配する「高山」の悪事は、掃除しなければならないと分かります。
人のものとは、その人の心の自由である。
その心の自由のためには、「肉体という貸し物借り物の自由自在」と、「この世という貸し物借り物の自由自在」の、どちらもが必要だとわかります。

だから、おやさまは、「いつも豊年」を教えたいのであり、お勤めとは、「肉体という貸し物借り物の健康」のためだけのものではなく、「この世は神の体と言う貸し物借り物の健康」のためのものです。<> 基本的質問<><>2007/02/26(月) 17:02:08 ID:<>神様にお借りしているこの肉体は神のものであっても、他人のものではないでしょう。
私達は全ての内臓を分かち合う事はできません。全てのものが借り物だからといって債権を無視していいと仰っているのではないと思います。
全ての人が恩恵を被れるように、社会が豊かになるように、分かち合える方法を考えなさいといっているのではないでしょうか?
神様に繋がった同志では管理や諍いや裁きに廻すエネルギーをもっと創造的な方向へ使いなさいと言っているのではないでしょうか?
又、そのような無駄なエネルギーを使わなくて済むような社会の形態を模索しなさいといっているのでは無いでしょうか?
その意味で現教団のあり方は当時でも本部を筆頭に万分の一でしかなく現在では世間以下かもしれませんが、どこか神様がなそうとしていた面影が残っているのかもしれませんね。
悪しきものを払拭した環境で個々人が皆さんと分かち合えるほど創造のエネルギーを噴出できるような社会形態、社会環境を模索したいものですよね。
肉体同様、もっと健康的な社会がお道から顕われる事を期待したいですよね。


<> 基本。<><>2007/02/26(月) 23:17:02 ID:<>>>338
> 全ての人が恩恵を被れるように、社会が豊かになるように、分かち合える方法を考えなさいといっているのではないでしょうか?
> 神様に繋がった同志では管理や諍いや裁きに廻すエネルギーをもっと創造的な方向へ使いなさいと言っているのではないでしょうか?
>
基本的質問さんの、このご意見ですが、「方法を考える」と言うことは、おやさまの思想ではない。
又、管理や諍いや裁きにまわすエネルギーというものは、何を意味してのものか分かりませんが、「天理教組織では何も出来ない」というのが、そもそものおやさまの思想です。

天理教は、おやさまの思想を伝えるという事が役割としてあるけれど、それ以外の行為は、全て悪事混じりです。

「宗教」の悪因縁を通り返しているだけの、天理教団であり、因縁切りのための組織に過ぎない。
そこに、創造性を求めるべきではなく、一人一人の人生の中に創造性はあるのが、おやさまの思想です。

おやさまは、ただの一度も、公許を得ることに賛成していない。
講と言うものは、自然な信仰組織であり、宗教法人天理教は、おやさまの思想では、「仮屋」にすぎないのです。

期待すべきは、一人一人の心の成人。
組織や教会は、教えをきちんと伝えるという事が役割です。
組織が、リーダーになれば、それは宗教の悪因縁。
お道においての、健康な状態と言うのは、「世間=繁盛、お道=貧乏」と言う事が、第一の基本です。<> 基本。<><>2007/02/26(月) 23:29:51 ID:<>>>340
> お道においての、健康な状態と言うのは、「世間=繁盛、お道=貧乏」と言う事が、第一の基本です。

この事は、次のようなおやさまの言葉に端的に示されています。

「わしは、四十一の年から今日まで、世間の話は何もしませんのや。この屋敷はな、神一条の話より外には何も要らん、と、神様が仰せになりますで。」

これが、お道の健康な状態。

この屋敷=現在の教会本部、そして現在の天理教会では、「世間の話は何もいらん」、と。おやさまは、言われています。

それがお道の健康な状態です。<> 基本。<><>2007/02/27(火) 03:07:30 ID:<>>>340
なぜ、「神一条の話しかしない」と言う事が、「世間の話はいらん」と言う事が、
> 「世間=繁盛、お道=貧乏」と言う事が、第一の基本です。
と、言う事になるのかといいますと、次のようにお筆先に知らされています。一号の47から59です。
続けて紹介します。

 山坂やいばらぐろも崖道も 剣の中も通り抜けたら
 まだ見える 火の中もあり ふち中も それを越したら細い道あり
 細道をだんだん越せばおおみちや これが確かな本道である
 この話 ほかの事では無いほどに 神一条でこれわが事。

これは、おやさまの「ひながた」という思想です。

おやさまは、一生貧乏でした。
つまり、「お道=貧乏」は、おやさまの神一条の道のお姿。
神一条の話よりしてはいけない生活とは、貧乏なのです。

基本的には、「世界=繁盛、お道=貧乏」なのです。
そのかわり、もっと楽しいものがたっぷりとあるのが、お道の世界です。
補足しました。

貧乏せい貧乏せい。
おやさまの思想は、神一条のひな型を、わが事として通れて言うおやの思想です。<> 基本的質問<><>2007/02/27(火) 12:58:20 ID:<>教会本部が扶育金制度というもので、教会子弟に対して学資金を貸し付け、半強制的に宗教の専従者を作ったことは、基本さんの言われる債権奴隷、思想奴隷にあたるという認識はありますか?

もしそうならこのことについてコメントしてください。


又、現在の教会本部は大社高山の一種であるという認識を基本さんはお持ちなのでしょうか?

もしそうなら教会本部が神一条にかえる為の道筋をお示し下さい。

<> 基本。<><>2007/02/27(火) 22:22:19 ID:<>>>342
枝葉の議論をさけて、おやさまの思想の問題として、考えてみたいと思います。
問題は、「仲介者」としての「大教会・組織」であると思います。
おやさまはみんななんでも口で言わせる思想の持ち主です。
「大」と言わされている。「大」と名乗っているということが、すでに、自白です。

おやさまは「大きい小さい言うでないぞや」と、お筆先に知らしています。
大きい小さいと言うのは、言ってはならないことであるのに、「大(おおきい)教会」と自白しているということの惨めさです。

おやさまが、おさづけを渡されるようになったのは、初期の記録として、おやさまと信者の間には、小寒様秀司先生の存在があったと考えられます。記録にもそれは伺えます。
それが、秀司先生と小寒様、松恵様が出直されて、それで、仲介と言うものは、誰がしていたのかと言う問題になりますと、初代真柱さまがそういう役割ではないと、見えます。

つまり、お屋敷(今で言えば教会本部)、では「屋敷の常詰」と言う人たちが「仲介者」の役割を担っていた。
そして、別席制度が出来て、信者が願い出ればお授けか頂ける様になった。
この時に、「本部(お屋敷)」と「信者」の間に、「大教会(当時は分教会)」と言う組織が仲介するようになった。
それを、教会系統順序という呼称で、「順序の道」として教理が説かれた。
そもそも、そんな仲介者は、ひながたには無い。
おやさまの思想には、説かれてもいない、示されてもいないものです。
おやさまと信者の間には、「おやさまの住むお屋敷」がある。
その、お屋敷の中には、「取次ぎ人」がいる。「常詰め」がいる。
ここまでは良いとして、「講」にすぎない教会が「大教会」と名乗って、信者と本部の間で予備審査をしたり、そういうシステムとなっている。
それが、大社・高山であることは、「大」と名乗っている事そのものが、自白しています。<> 基本的質問<><>2007/02/28(水) 14:33:49 ID:<>お預かりしている、この肉体や血筋、才能や社会的立場、財産などはどのように使われるべきなのでしょうか?

おやさまの思想?に照らしてコメントしていただけますか。<> 基本。<><>2007/02/28(水) 17:14:10 ID:<>>>344
「人間身の内は、神の貸物借物、心一つが我がの理。」
これは、おやさまの思想の基本です。
お筆先にも知らされてあります。
そして、お授けの理の頂く時の、「おかきさげ」にも知らされた、おやさまの思想です。

「おかきさげ」の中では、おやさまのこの思想は、このように語られています。

『どうせいこうせいこれは言わん、これは言えん』
『言わん言えんの理を聞き分けるなら、何かの理も鮮やかという』
『それ人間という身の内と言うは、神のかしものかりもの、心一つが我がの理』

基本的質問さんの、ご質問の、
「> お預かりしている、この肉体や血筋、才能や社会的立場、財産などは
> どのように使われるべきなのでしょうか?」
これは、おやさまの思想で回答しますと、基本的には、
『どうせいこうせいこれは言わん、これは言えん』と、その思想が回答に相当すると思われます。
その、>どのように使われるべきなのでしょうか?、との答は、具体的には、「めんめん精神の自由に用いなさい」という、答になると、思慮されます。

そこで、「心一つが我がの理」とは、なにかという最大の重要な問題が浮かび上がります。

「理」とは神です。
神には、「やまやまに」、八百万の神いて、元のをやもいます。
そして、人間は、神の子供です。人は神と言っても正しいのですが、まだ未熟です。
つまり、人間は「幼いけれど理」なのです。

それでは人間の「理=神」は、身の内ではどこにあるのかといえば、首より上では「脳」、肉体の上では「天」にあります。

その脳に、浮かぶものの典型的なものが「夢」であり、脳に把握できるものが「心理=まこと」です。

 どのような夢を見るのもみな月日 まこと見るのもみな月日やで 十二号163
 この世の水の素なる事をばな まだこれまでは言うた事なし 十二号164

 その、人間の脳の働きそのものが、その人の「精神」であり、「我がの理」。
そして、その我がの理の「脳=その人の月日の魂」の働きが、ある一定に届くと、守護の理として十分になると、「授けが効く」。
その「脳のその人の月日の能力」の働きのためには、お書き下げには、
『ただ一つじゆうようと言う理はどこにあるとは思うなよ、ただ面々精神一つの理にある』
と、ありまして、
『誠一つが天の理』と、おやさまの思想は示されています。

つまり、その人が、その人の心のままに生きる事。
その心のままに生きる能力とは、「脳」の状態を「神の理」の状態にする事で、その人の心のままに生きる力となるわけです。

それには、「ひながた」よりない。
そういう意味では、まず「心」を、「脳内月日」を、我がの理として大切にして欲しいというのが、おやさまの思想の基本です。

おつとめのリズム、振動、それに身をゆだねるのも「脳内月日」の活性化につながります。
人たすけたいという、誠一つは、最大の効果を有するものと、おやさまの思想は示しています。

悪の科学者が、邪な考えで研究しても「脳内月日」は、目覚めない。
ただの百姓女が、誠一筋なら「脳内月日」は、理として、世界を映し出すこともなんでもなく出来る。
そういう、卑近な例としても、ひながたは、私たち一人一人のものです。

>>341
> 貧乏せい貧乏せい。
> おやさまの思想は、神一条のひな型を、わが事として通れて言うおやの思想です。
「心一つが我がの理」の、唯一の我が物である「我が脳内月日」を、立腹させれば、天日火の雨、海は津波やと、身に残念を見ます。
ひながたを通るという事は、全人類の通らねばならない道という、おやさまの思想の本筋を忘れたくありません。<> 基本。<><>2007/02/28(水) 17:40:11 ID:<>http://www.astroarts.co.jp/news/2006/05/30elements_early_universe/index-j.shtml
水の素の水素が、宇宙にはきわめて大量に存在していて、地球には殆ど存在していない。
水素は、「水」となって、地球上には存在している。
それが、生命の発生の元になっていることは、学者さんの「理」の研究で分かるようになりました。

そこで、初期宇宙での水素について、研究した。
「初期宇宙での水素分子と重元素」という研究の中に、おやさまの思想では、当たり前とされる事が、書かれていました。
引用します。
{ ほかにもひじょうに重要な結果が示唆されています。それは陽子と電子の質量比が時間変化しているのではないか、というお話です。}
{ 陽子や電子の静止質量は、定数とされています。宇宙や自然界での物理現象を説明するために、また、宇宙を数学的に記述するために、物理学ではいわゆる“物理定数”を用います。現代の物理学では25個の基本的な物理定数を用いています。例えば、真空中の光の速度や万有引力定数もこの物理定数の仲間です。現代の物理学では、一般的に、これらの物理定数の値を“定数”として扱い、自然現象を記述し、理解しようとします。}
{ しかし、これらの物理定数は宇宙のどこでも、いつでも同じ値なのか、という疑問があることも事実です。例えば、重力と量子力学を統一的に扱う大統一理論や超ひも理論では物理定数が変化することを予測しています。ただし、その時間的な変化量はひじょうにわずかです。したがって、定数が時間変化しているかどうかを調べるにはずっと昔に遡って、陽子と電子の質量比を調べなければなりません。陽子と電子の質量比が変化すると、吸収線の波長も変化します。この“ずれ”の検出も試みられました。}
{ このために、研究チームは水素分子の吸収線の波長を実験室で正確に測定しました。また、観測された吸収線の物理状態を記述するためのモデルも構築し、計算しました。そして、観測された吸収線と比較することで、波長にはずれがあると結論したのです。}

おやさまは「転じ変わる理にって天という」と示されています。「日に日に重くなる理によっておもたり」と示されています。
時間も空間も、「変化している」
学者さんの言う「物理定数」は実は、長い年限で変化している。
それが、いつ何が原因で変化するのかは、学者さんには分かりません。

しかしおやさまは、こう言われています。
「心の成人に応じて」と。<> 基本。<><>2007/02/28(水) 17:49:39 ID:<>>>345-346
基本的質問さん。
見尽くせない宇宙の真理のことは、実は学問的研究は簡単であり、見尽くせる人間身の内の「こころ」の事は、実は学問的研究はきわめて難しいわけです。

おやさまは、見尽くせる人間の身の内で、「心一つ我がの理」という真理は、人間には「見える」のだと、教えられているわけです。

> お預かりしている、この肉体や血筋、才能や社会的立場、財産などは
> どのように使われるべきなのでしょうか?
ものには物の理があり、この世は理で責められている世界です。
その、理を、真実の心で自由に使えることが出来るのなら、金も物も才能も、血筋も、社会的立場も、全てが真実誠の使われ方が出来るでしょう。

しかし、人の心には「埃」があります。
まず「埃の掃除」、そして、「貧乏」「おたすけ」で、人間の脳は小宇宙、「脳内月日」の魂を洗い出せというのが、おやさまの思想。
ひながたという思想です。<> 基本。<><>2007/03/01(木) 01:29:15 ID:<>「人の精神の鍛錬」と言う思想は、古来よりあります。
例えばヨガ、http://www.eco.ac/ckc/top/yoga.html 、ここでは、『ヨガとは、 随意神経系(体性神経系)と自律神経系の両方を備える呼吸をコントロールし、自律神経系の組織を制御する事により、精神と肉体を整える修行です。』と、説明されています。
呼吸法で、神経を活性化させると、そんな精神の鍛錬法も今では盛んのようです。ここにその説明があります。
http://www.medical-tribune.co.jp/kenkou/200007142.html
『元気を出すには、元気に関係のある脳内のセロトニン神経を活性化することが効果があるようだ。「セロトニン神経の活性化には、座禅の腹式呼吸などによるリズム性運動が効果的です」と、東邦大学医学部(東京都)の有田秀穂教授(生理学)は言う。 』
『● 心身が適度に緊張 脳は基本的に左右対称の構造になっているが、セロトニン神経は脳の左右の“縫い合わせ”部分にある。
 「その数は、せいぜい数万個ですが、軸索というケーブルを使って脳の広い領域に情報を送っているのです。その情報は、個々の細かな指令ではなく、意識レベルや心身の状態など生体機能の全般にかかわるものです」』
『 セロトニン神経は、人が起きて動き始める直前から活動を開始し、その働きが活性化すると、心身が適度に緊張すると考えられている。』
 『「セロトニン神経は、『元気』という状態を演出する神経だと言えるでしょう。5年ほど前に、座禅の呼吸法がこの神経を活性化することに気付いたのです」』
『 わたしたちが無意識に行っている自律的な呼吸は、吸気(吸い込む息)が中心だが、座禅の呼吸法は逆に、呼気(吐き出す息)が中心になる。』
 『「座禅ではまず、下腹部の圧力で胸底から上腹部にかけて空っぽになるまで、十分に息を吐き出します。吐き尽くしたところで、下腹部の筋肉の緊張を緩めると、吸う努力をしなくても自然に鼻から空気が入ってくるといわれています」 』
『● 毎日30分続けて
 座禅では、こうした腹式呼吸は線香1本たく間(約30分)続ける。これは、ハードな呼吸努力を必要とし、座った姿勢でありながら、30分間ジョギングするにも匹敵する呼吸量だという。』

こんな説明になっています。

『「腹式呼吸は、大変厳しいリズム性運動なのですが、これが、セロトニン神経を活性化するのです。脳神経科学の研究でも、実験によって証明されています」
 腹式呼吸のリズム性運動がセロトニン神経を活性化することは分かってきたが、単に深呼吸を数回繰り返せばいいというわけではない。
 「毎日、少なくとも20−30分腹式呼吸を続けることが大切です。それによってセロトニン神経が活性化され、心身ともに元気になってくる実感を体験できるはずです」と、有田教授は話している。 』

>>241 、ここにおつとめについて書いておきました。
「文久三年三月四日、忠作が初めて参詣して、妹くらの気の間違いに就いて伺うて貰うと、教祖は、
『この所八方の神が治まる処、天理王命と言う。ひだるい所へ飯食べたようにはいかんなれど、日々薄やいでくる程に。』
と、仰せられた。」
「忠作は、教えられるままに、家に帰って毎日拍子木を叩いて、
「南無天理王命、南無天理王命。」
と、繰り返し、繰り返し唱えて、勤めて居たが、一向に利益が見えない。
そこで、又お屋敷へ帰って、未だ治りませぬが、どうした訳で御座いましょうか。と伺うて貰うと、教祖は、
『つとめ短い』と、仰せられた。」  (p120.121)

これが丁度、禅においての、呼吸法による精神鍛錬の時間(線香一本)という時間であったと言う事、おつとめとは、線香一本という時間の精神集中を、教えられてもいたと言う事でした。<> 基本。<><>2007/03/01(木) 04:52:57 ID:<>どんな呼吸法も、瞑想も、おやさまの教えられた「貧乏せい」に勝る精神の鍛錬法はありません。
人間の生活の貧の中での、心澄み切ることほど難しい事はないからです。
生活の不安、人への見栄、無い事のつらさ。未来の保障のない生活。
貧乏故に受ける差別、軽蔑。
そういうものを全部、毎日毎日、直面しながら、「陽気」である。
その精神鍛錬は、30分ではない。毎日の24時間。
自分から、貧乏になるという、精神鍛錬は、まさに、至高にして究極と言えます。

幕屋と言う思想があります。日本独自のキリスト教・精霊信仰です。
http://www.makuya.or.jp/
原始キリスト教を現代によみがえらせようとする、無教会派のキリスト教思想で、教会施設という建物を建てないという意味で、「キリストの幕屋(テント)」と名乗っています。
一度ですが、この幕屋の信者さんと話をした事があります。
「代謝系の不治の難病の兄弟」を、幕屋のキリストへの祈りで、立たぬ足が立ち、救済されて、神への感謝の布教をしていました。
「聖書のみ」を、唯一の教えの根拠とする幕屋の人々は、イエスの神の試練をならって、ほとんど無一文の状態で、一定の期間を布教するのだと。

参考に、鍛錬の体験談を引用します。長いので、二回に分けます。

{ 起死回生の祈り
   1967年8月、原始福音の聖会が伊勢で開かれた。最後の集会が終わってすぐ、私は手島郁郎先生に無銭徒歩伝道を志願した。
 それは聖書時代、キリストの弟子たちが一銭の金も持たず、神にのみ頼って歩いて行なった伝道の旅のことである。}
{ 先生は私を睨み付けて、恐ろしい剣幕で言われた。「なぜ、俺にそんなことを聞くのか、俺は知らない」と吐き捨てるように言われて、行ってしまわれた。私は頭の中が真っ白になり、金縛りにあったようにその場に立ちすくんでいた。}
{ 2000人の聖会が終わった後である。多くの人でごった返していたが、私の後ろ辺で声がした。「延広君、この機会は二度と巡ってこない。誰か相棒を見つけて、もう一度、手島先生にお願いに行きなさい」と。}
{ それは伝道者の竹下仁平先生であった。「ハイ」と返事すると、私は勇気を得た。}

{ 「神様、その相棒を教えてください」と目を閉じると、村山靖紀さんの顔が幻を見るように浮かんだ。医者であった村山さんとは、ほとんど言葉を交わしたこともなかった。}
{ しかし、大勢の中ですぐ村山さんに会うことができた。事情を話すと、なんと村山さんも無銭徒歩伝道の準備をしていたとのことであった。}
{ そして、二人して手島先生のおられる部屋に行った。先ほどとは打って変わって、先生はニコニコして、「よかったネ、奈良の方に行くといいネ」と言って、ご自分のかぶっておられた麦わら帽を下さった。}

引用続きます。<> 基本。<><>2007/03/01(木) 05:06:03 ID:<>引用続きです。
http://www.makuya.or.jp/makuya/taiken/taiken3.htm
 { 人力の尽き果てたところに }
{ こうして伊勢から大峰山を越え、高野山を越えて奈良まで二週間を、神様に伴われて歩く体験をした。特に大峰山を越える時は、台風17号の通過で、何度か風雨で体が吹っ飛びそうになった。しかし、日ごとに神様の御手が私たち二人の上にあるのを覚えた。}
{ 奈良に入り、あと数キロで奈良幕屋に着くという時、私はもう一歩も動けなくなってしまって、その場に倒れてしまった。今まで親切であった村山さんが、その時に限って私のことをかまわずに先に行ってしまった。それは神様の恵みの時だったのだ。}
{ その時、体は動かないのに、心が動いた。}
{ 「神様、死んでもいいですから、奈良幕屋まで歩かせてください」。その瞬間であった。聖書に「聖霊があなたがたに降る時、あなたがたは力を受けて、地のはてまで、私の証人となるであろう」(使徒行伝1章)とあるように、ものすごい神の力が私に注がれるのを覚えた。}
{ 私は飛び起きて、走りだしていたのだ。口には異言が腹の底から湧き上がり、両頬には涙が滝のように流れた。語っている異言の意味はわからないが、魂がキリストを賛美しているのがわかった。}
{ 人間の肉の力が尽きたところに霊界が始まる、とよく言われているが、まさにこの体験はそうであった。体力の絶望的な状況下に、ひとたび聖霊が注がれると、魂が一変し、心も体も一新して、希望が内側から湧いてくるのだ。}
{ キリストが先立ちて}
{ この日を境に、私の生き様が一変した。それは、生けるキリストの霊が伴い、先立ちたもうことを経験するようになったからだ。}
{ この旅の帰路の電車でも、キリストのご愛が迫って、ずっと泣き通しであった。}
{ 隣の席にヤクザ風の若い人が座ったが、一言二言、挨拶を交わしただけなのに、自分の過去を洗いざらい涙を流して語ってくれた。}
{ 今日は不思議だなあ、心が洗われたよ」と、出会いを感謝してくれた。驚きであった。}
{ 私の中には勇猛心が湧いて、キリストを伝えたくて、諏訪地方の開拓伝道に出た。もし、あのペンテコステ的経験がなかったなら、今日の私はなかったことと思う。}

聖書の教えのみを信じ、キリストの幕屋として、やまいたすけを説く思想での、精神の鍛錬は、誰一人頼ってはならぬ布教であった。

このキリストの幕屋は、西欧のキリスト教会からは破門されています。

確かに、精神の鍛錬として、霊的な体験を得る機会として、このような修行もあるのでしょう。

でも、貧乏して、落ちていくという生活苦の修行は、その、キリストの幕屋の修行よりも、厳しいものがあります。

「誠一つが天の理」という事。
それを、貧の中に落ちていける道として、通れるのなら、「脳内月日」は、我がの理として、どれほどにお勇みになるでしょうか。

一切の人間的な価値観を、丸ごと捨ててしまうという。
まさに、新たな人間創造のおやさまの思想。

貧乏し、人をたすける心でいる者は、それだけで至福です。<> 基本。<><>2007/03/01(木) 05:12:55 ID:<>しかしそれは、おやさまの道具としての喜びであり、「世の中=豊年、お道=貧乏」という、両輪でなければなりません。

おやさまの道具として生かされてあると言う事は、最大の贅沢なのですから、人間的な価値観や物欲やの贅沢ぐらいは、慎む事です。
おやさまの思想は、一列の繁盛する世界の普請です。
その時に、道具となるものは、繁盛の世には住めないし住まない。
みんなが陽気になる陽気は、豊かで健康で、楽しいもの。
道具の、陽気は、おやさまの喜びだけ。

それを、承知したものしか、おやさまは、道具としてお使いにならない。
心得るべきおやさまの思想です。<> 基本的質問<><>2007/03/01(木) 11:09:40 ID:<>所有という幻想は、管理という余計なエネルギーを必要とされるので面倒な気分に苛まれる時がありますが、無所有への執着は聖者幻想を生み選民思想にとりつかれて疲れを感じてしまうのです。

魂は万人に共通のものなのですから、神の道具にこの世的なものは無関係だという認識は理解しますが、それならどうして豊年がうたわれているのでしょうか?

たすける側とたすけられる側の二元論を超える為の理屈として時間的な経過をおっしゃるなら、皆いつか神の道具という事になるので、ますます豊年は不要となりませんか?

豊年はたすける側にも必要で喜ばしいものなのではないでしょうか?
みんなの陽気の中には先行されるたすける側の者も含まれると思いますが、いかがでしょうか?<> 基本。<><>2007/03/01(木) 12:10:46 ID:<>>>352
> 所有という幻想は、管理という余計なエネルギーを必要とされるので面倒な気分に苛まれる時がありますが、
> 無所有への執着は聖者幻想を生み選民思想にとりつかれて疲れを感じてしまうのです。

おやさまは、「往還」道と教えられています。
「往く」「還える」と言う事の自由自在(じゆうようじざい)を教えられているのが「往還道」。
所有と非所有というものも、「管理」というものも、「非管理」というものも、それは「往還道」では、心の自由にまかされたものです。
実例として人間であれば、食事します。
自由に食べたいものを食べていても「健康管理」が自然に出来ている状態は、「往還道」です。
これを食べてはいけない、あれを食べてはいけないと「管理」する道は、「茨ぐろ」です。
心の自由とは、「往還道」においては道そのものの通り方ではなく、何をしていても理にかなうという意味での心の自由です。

話を所有と非所有の問題に戻しますと、「たまり水は腐る」という伝承されたおやさまの思想があります。
「循環しない水」=たまり水、は、腐る。
この理は、所有の側で言いますと、蓄財し循環させない姿は、「水が腐る」という結果を理として見ます。
不動産収入で永遠に財産が増え続けるようなセッティングを仕組むと、その子孫は、水が腐るという「理」に返されます。
基本的質問さんが、たぶん、お分かりになっていないのは、理は理として、きちんと返されるという事だと思います。
> 面倒な気分になる。
と、言う事は、理として、「たまり水状態」のお知らせです。

さて、無所有への執着の場合にも「たまり水」は腐るのが、理の返しです。
> 無所有への執着は聖者幻想を生み選民思想にとりつかれて
> 疲れを感じてしまうのです。
「> 疲れを感じてしまうのです。」と言う事は、理として「たまり水状態」のお知らせです。

おやさまのひな型は、「無所有」ではない。
有り余るほど持っているから持たないという感覚の、貧乏。
それが、ひながたです。
> 無所有への執着は聖者幻想を生み選民思想にとりつかれて
この、無所有=聖者、無所有=選民、という思想は、過去に、天理教の中に、理の親信仰を生んだ誤った思想です。
無所有は、心の執着をさるという一形式に過ぎない。無所有だから執着がないというものではない。
心の執着を去ると言う事そのものに、執着する事を、「道欲」と昔の天理教では呼びました。
執着を捨てようとして座禅している間は、「近道・欲」。
おやさまを慕うと言う事は、聖者になろうとすることではない。
「阿呆は神の望みと仰るで」という、おやさまの思想があり、俗であることが、ひながたです。

無所有は、それに執着しても意味はない。

人たすけていたら、だんだん貧乏になった。
河原町の初代の深谷源次郎さんは、「なぜなんだ」と神様に伺いを立てています。
無所有に執着するのではなく、「人たすけ」に執着する。

その時に、「礼を言われないように施し」「人に悪く言われて人をたすける」事を、おやさまは、思想として示されています。
この、「礼を言われない」「人に悪く言われる」に徹していたら、聖人幻想は出てきません。
誰も、たすけられたとも思わないし、すばらしいとも思わないからです。
ひながたとは、それがひながたであるのなら、「水はたまり水にならない」、それがひながたです。<> 基本。<><>2007/03/01(木) 12:34:46 ID:<>> 魂は万人に共通のものなのですから、
> 神の道具にこの世的なものは無関係だという認識は理解しますが、> それならどうして豊年がうたわれているのでしょうか?
基本的質問さんの、受け止められた、「> 神の道具にこの世的なものは無関係だという認識」、と、言うのは、基本の投稿文意の筆足らずによる誤解です。
神の道具には、この世的なものは極めて必要なのです。
いや、この世的なものに精通すればするほど神の道具になれるというほうが正しいでしょう。あくまでも比ゆですが。

まずおやさまは、ひながたのはじめには「所有者」でした。
ひとをたすけて行くと、貧乏になります。
これがひながたの基本です。

教祖伝の初期の高弟たち、教祖伝の末期の大教会初代となった講元たち、例外もありますが、ほとんどが、みな「所有者」からおたすけを開始しています。
「代謝の病」の「大社因縁」を、もっていると言う事で、病に手引きされて入信していますから、「代謝因縁」すなわち、「悪しき所有者」因縁と言う事で、それは、自然の理です。

それは「元の理」では、「兄魂・姉魂」と言われています。
先に生み下ろされた特権で、先に成長した特権で、「垣根をつくり」「やりくり」して、人の上にたち、資産・財産、紋かた・家柄を構築し、いつの間にか弟妹を下に従えて、高山になっていった人たちの、魂の事です。

その、「大社・高山」因縁の持ち主を道具に使うというのが「理の原則」です。
それならば、弟妹の魂の人たちには「大社・高山」因縁はないのかと言えば、あるのです。

これは、誤解なく書きますが、「代謝機能」は人間に必要なもの。
人間の「脳内月日」の魂そのものが、「善の代謝・善の高山」であると言う事です。

お筆先では、
 「高山のおいけに沸いた水なれど 出鼻は濁り五目混じりで」
と、知らされているのが、人間の事です。

人間は、妊娠出産の時には大きな、山のようなおなかから生まれます。
それを「たかまがはら」と、言わせたのだと、伝承の教理にあります。
人の生まれは、全て「高貴」であると、理解しても好いと言う事です。
それが、でばなの濁りで、濁りの水の人間。
これを澄ますと言うのが、「一列澄まして」、の教えです。

そこで、一列を澄ますと言う事は、道具として一列の事を知っていなければ掃除は出来ない。澄ます事は出来ない。
自分が豊年にならないと、一列は澄ます事はできない。
と、いう理となります。<> 基本。<><>2007/03/01(木) 12:46:46 ID:<>> たすける側とたすけられる側の二元論を超える為の理屈として時間的な経過をおっしゃるなら、
> 皆いつか神の道具という事になるので、ますます豊年は不要となりませんか?

おやさまの、世界一列をたすけたいと言う思想がある。
それは、みなを豊年にしたい。
みなを豊年にすると言う事は、すでに豊年に、勝手にかもしれないが、行き着いてしまった者でなければ、皆は豊年に導けない。
例えば、小学校の先生は、知識を持っているから小学生に教えられるわけですが、その教え子が教えた先生以上の知識人になって行くのが、「たまり水ではない教育」です。
しかし、最初に知識のないものは、小学生に教える事は出来ない。
これは、スポーツのコーチでもおんなじで、「経験者」でなければ、「経験者以上」を育てる事は出来ない。

豊年というのは「経済行為」です。
その、経済行為での成功なり、豊年なりの経験者でないと人はたすけられない。
たすけてもたすけた事にならない。「たまり水」に陥るわけです。

みな、「いつか」の神の道具です。
「いつか、何時か、五日。」

そして「六日目には」、世界ろくぢ。
そして、「七日には」、何にも言う事ない。

この循環が、たまり水にならないこと。
それには、「ひながた」しかない。
その意味で、神様から手引きされた人しか、神の道具には成れない。
その人のことを一番に知っているのはおやさまだからです。
<> 基本。<><>2007/03/01(木) 13:01:38 ID:<>>>352-355
> 豊年はたすける側にも必要で喜ばしいものなのではないでしょうか?
> みんなの陽気の中には先行されるたすける側の者も含まれると思いますが、いかがでしょうか?
基本的質問さん。
たすける側とは、正しい形での場合、すでに豊年者なのです。
豊年者しか、「ひとたすけて散財していく」事は出来ないのです。
当たり前です。
貧乏人では施すものがない。

たすける側の意識は、すでに自分の豊年というものにおかれていない。
それがたすける側と言う事です。
たすける側が、豊年を意識したら、ますます格差は拡大します。
たすけられる側が、たすける側を越えて豊年になる事が、たすけるということですから。

それが、「水の循環」です。<> 基本。<><>2007/03/01(木) 13:11:19 ID:<>たすける側のものになるためには、精神の鍛錬が必要です。
学問も、宗教的修行も、豊年の経済も先になければなりません。
おやさまのように、まず普通に、豊かで普通に神仏を信仰する。
それがなければ、たすける側の道具にはなれないと言う事は、おやさまの思想です。

そして、たすける側の道具になるには、「家業」第一という思想が、おかきさげに示されています。<> 基本。<><>2007/03/01(木) 17:33:48 ID:<>家業と言う思想については、現代社会では、次のような論点で語られるようになりました。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~tmws/domybest/kagyo2.html
「若者の真の成功とは家業の再興である」、ここから参照します。
{ 脈々とつづいてきた、そして確立されてきた伝承としての「家業」が現代において失われた理由は何だろうか。その答えは「戦争」である。戦争は国中を焼け野原にした。そして人々は物を失い、それと同時に豊かな伝承と自分自身のアイデンティティーも失った。意欲のない混沌とした原っぱで、希望となるのは唯一「競争原理」だった。失った物質を取り戻し、裸の自分たちをたくさんの「物」で装わせ、苦難を忘れようとしたのである。「会社企業」はその幻想の舞台となった。皆で力を合わせたら、できないと思っていた「物」ができた。それを売りはじめると飛ぶように売れた。会社は大きくなり、もっとすばらしい「物」を作ったら、それも全部売れた。所得は先進各国と並ぶようになり、人々はそれを「成功」だと感じたのである。しかし、来る年も来る年もそうした競争をくり返すうち、重大かつ根本的な問題にぶつかった。競争そのものの崩壊と、社会の基盤たる家庭の崩壊である。}

{ 財政担当の大臣であった竹中平蔵氏はこれまでの競争原理が限界に来たことを認めた上で、これからは、付加価値の高いもの、独自性の高いものや高品質なもので勝負しなければならない時代である、と述べている。非常に楽観的かつ先進的な見解であることには同意する。しかし同時にこれは、普通の人が、普通に努力してもその競争力は全く報われない(報酬ゼロ)ということを明らかにしている。これはまた、大量生産時代のいわゆる「努力」が普遍的な真理ではなく一時的な浮力であったに過ぎないことを如実に物語っているのである。若い世代はこの崩壊を敏感に察知しており、戦後たどった道とは異なった方途を模索しはじめているのである}

{競争原理の主体たる「会社企業」がすでにその目的を達したと仮定するならば、現代の若者たちが目指すべき方角はどこにあるのだろうか。結論的にはそれは、「歴史に学び、家業を再興すること」である。}

このように、現代社会において「家業の再興論」は浮上してきています。

基本的には、日本の家業を崩壊させて、企業を育てたのは、明治政府の富国強兵政策だと、みなされますが、この、
「若者の真の成功とは家業の再興である」、との論は、ある意味、おやさまの思想と企を一にしています。

家業であれば、そこに家族がいる。夫婦親子がいる。

お書き下げの教えは、夫婦親子の陽気暮らしの教えとして、天理教会は説いていますが、それは、「家業でなければ」「企業では」不可能な事です。
まして、「宗教家商売」では、無理な事です。<> 基本。<><>2007/03/01(木) 17:48:44 ID:<>http://www.noto.or.jp/nanao/cci/news0003/00000085.htm
{七尾商工会議所 経営安定特別セミナー家業の可能性(生き残り)を探る}
では、家業について次のような事が述べられています。引用します。
{ 講師は、金沢市・株式会社浅田屋の代表取締役社長の浅田裕久氏、七尾市・株式会社御祓川総合プロデューサーの出島二郎氏の2人。まず、浅田氏が講演した。}
{ 浅田氏は、家業というものは、どの時代であっても絶対変えてはいけない部分を持っているとして『不易流行』を説明。}
{ 「浅田屋は、どんな時代でもお客様を暖かくお迎えする気持がある。また、同じ働くなら、喜んで働いて貰える会社である」と述べた。}
{ また、家業と企業の違いが何だろうかと思ったときに、家業というのは、まちの栄えと一緒にある。まちと共にある。}
{ 浅田屋という名を前田家より頂いて300年以上。金沢というまちが生き延びているということと、お陰様で私共も商売をさせていただいているという気持ちが、企業と家業の違いである。だから、まちづくりに、感謝の気持ちで取り組まねばならない。家業は、まちと共に歩んでいく。}

おやさまは、「国々所々の手本ひながた」との思想を示されています。
それは、「尽くす理の台には家業と言う」。とのお書き下げの思想と一致します。

家業は、街と共にある。

四条河原町の鍛冶屋は、鍛冶屋としての家業をしていてこそ、結構源さんであり、船場の左官屋は、左官屋の家業をしてこそ梅谷四郎兵衛さんなのです。

その家業と言う土台を失って、それでおやさまの思想は何も出来ない、悪しき理の親信仰を説いて集金する組織となって、奥さんは死にました。子供は死にました。夫婦は離婚したりしました。

ひながたにきちんと残されています。
家業をしていた頃の、芦津の真明講の素晴らしい信心。
そして、宗教法人となってからの、子供の次々の死。たえる家系。

「家業」への復興は、急務です。
それは、日本経済の問題であり、そして、各大教会のただちに行うべき課題です。
家業を失った、全財産を供えた、そして、宗教で食べて行こうと言う。この理の間違いの掃除は、おやさまのなされるものとして、きちんと受け止めておかねばなりません。

企業と家業。
からとにほん程の相違です。<> 基本。<><>2007/03/01(木) 18:04:25 ID:<>考えてみれば、誰でも分かる事です。
「定年制」。
こんなもの、企業にはあるが家業には無い。

その人の人生の、一番活発で心身ともに頑張れる時は、企業はそれを買う。利用する。
そして、用が済んだら放り出す。
退職金や年金やの問題ではない。
生活の場、生きがい、仕事、全てを搾り取って、捨てる。企業。

ばあちゃんになっても、孫と一緒に仕事する家業。
何れが人間らしいのか。

大企業と言うシステムを作り、大株主となり、減らない資産を運用しなお増やす。
なんと気の毒な事でしょう。
それでは、「脳内月日」は、いずむばかりです。
そんな「欲高慢」の社会で、企業と言う幻想に夢を与えられて生きている。
そんな現代の「うそ」。
明治の維新に開始された、日本本来の思想の崩壊。
それは、経済の中に、しっかりと根を下ろしました。
大企業によって、地方都市は、地方都市の中小企業は、系列化され、吸収され、・・

しかし、日本には「家業」と言う思想があった。
それが、日本経済の真の支えてとして、踏ん張った。
戦後の復興は、中小企業がなしたものと言えます。

家族である。
家業である。
国々の柱である。

その間に、天理教は何をしていたのか。
家業を放棄し、宗教家業と称して、何をしていたのか。

おやさまの示された思想は、天理教組織ではなく、日本の経済の現場では、天理教を知りもしない人たちによって、実行され、努力されてきた。
貧乏せいという事は、財産を無くすという事ではない。
働いた儲けを、収益を、一列の兄弟にて助け合えと言う事です。
家業をしない天理教は「うそ」。
大教会は、まさに、発祥の地にて、家業を復元し、それが出来なければ、「はぶく」です。<> 基本的質問<><>2007/03/01(木) 18:31:27 ID:<>
>「家業」への復興は、急務です。各大教会のただちに行うべき課題です。

であるなら、大教会レベルでなしえる神一条の企業とはどのようなイメージでしょうか?

又、今後教会を後継する方は、専従者ではなく兼業という形を勧められるなら現実問題として、上級や本部への動員は激減すると思われます。

兼業を主とした、新しい信心組織の現実的なイメージが、基本さんの中にあれば教えて下さい。<> 基本。<><>2007/03/01(木) 23:13:17 ID:<>>>361
> 大教会レベルでなしえる神一条の企業とはどのようなイメージでしょうか?

元の仕事への復元です。
本線は、それしかないということです。<> 基本。<><>2007/03/02(金) 02:03:30 ID:<>基本的質問さんに、申し添えたいのは、「家業」は、体質として企業であってはならないという事です。
事業・実業を営むという点では、企業も家業も似ていますが、本質的に違うものです。

世間の普通の常識としては、「家業から企業へ」が、近代化、合理化の道と、経営者に示されています。
船井総合研究所という経営戦略のスペシャリストの集団の見解も、「家業から企業」です。紹介します。
http://www.funaisoken.co.jp/specialist/specialist_3/SP175.html
{ 家業から企業への組織作りを実現します!
●専門ジャンル
人事・労務/販売力強化/人材教育・研修
●主な実績
・中古カーショップ業績アップ支援にて売上昨年対比130%を達成
・ラーメン店業績アップ支援にて売上昨年対比140%を達成
・リフォーム店業績アップ支援にて売上昨年対比120%を達成
・大手自動車メーカー、ハウスメーカーなどの店長マネジメント力強化研修
・リフォーム業、ハウスメーカー、人材派遣など営業力強化研修
・タイヤメーカー、中古車店、アパレルなどの販売力強化研修
・小売業、サービス業、パチンコ店、物流業などのビジネス計数研修 }

家業は、古い体質ゆえに淘汰されて合理的な企業に、変貌し、勝者と敗者が生まれます。

現代社会が、行き詰ってきて、家業が見直されてきた。
>>358-359
それは、企業は「利潤追求」が目的であり、会社の道具として、営利の追及が会社員の義務となる組織です。
それだから、勝ち組になりやすいと、企業化していくしていく。
そして、家業の美徳は失われていく。
そういうものです。

いうなら、家業は「講」です。企業は「理の親信仰」です。
企業が営利追求するように、理の親信仰は信者の獲得とお供え金額の集金を追及します。
大教会が企業化したら、(今もありますが)、最悪です。
大教会長の家族が企業のオーナーとなり、信者を社員として使い捨てします。
最悪です。

ではなく、「家業」という、小さな単位に、復元する。
それが唯一の、「はぶく」とならない道です。<> 基本。<><>2007/03/02(金) 02:08:53 ID:<>家業であるということは、オーナーも労働者の一人であり、仕事仲間は、経営仲間でもある。
つまり、組織としての上下はあっても、仕事に個別は在っても、「ろくぢ」なのです。
お茶汲む人も、掃除する人も、頭使う人も、経理する人も、肉体使う人も、みんな、その家の人。
ろくぢに仲良く、特性と個性を生かしあうこと。
それが家業では出来る。
もちろん、濁りの水のままでは、家業しても、すぐ欲に迷って、企業論理を持ち込むでしょうね。
儲けよりも、世の役に立ちたい。
これが家業です。
社会においての、その家の使命と言うことです。<> 基本的質問<><>2007/03/02(金) 11:44:07 ID:<>企業であっても、大きな家業であるべきだとすれば、心の通い合う範囲という規模の制限は自ずと出てくるのですね。

神一条に根ざした企業又は家業は、他の神一条に根ざさないむごくて強い企業に対してどのような心構えが必要でしょうか?
悪事混じりの現社会の中で、
>儲けよりも、世の役に立ちたい。
としても構成員が極貧の中で水ばかり飲んでいるわけにいかないでしょう。悪事から構成員の身を守る防衛方法や自立発展してゆくアイデアがあれば聞かせてください。神一条の家業がそうでない悪事混じりの社会への対応の仕方は、どういった雛形が残されているのでしょうか?
<> 基本。<><>2007/03/02(金) 21:50:42 ID:<>>>365
> 企業であっても、大きな家業であるべきだとすれば、
> 心の通い合う範囲という規模の制限は自ずと出てくるのですね。
そうですね。
基本的には十人、乃至七十五人。つとめの人衆の数が基本になります。
それ以上は、「家業である」限界を超えることになります。

家業と企業とは、現実に法的にもまるで違うものです。
その点は、きちんと理解していなくてはなりません。

> 神一条に根ざした企業又は家業は、
> 他の神一条に根ざさないむごくて強い企業に対してどのような心構えが必要でしょうか?
心構えは、先ず、神一条に根ざしていないから「むごくて強い」とは、決め付けないことです。
人には、幸福の追求をする権利があり、神一条であろうとなかろうと、企業は社会的な使命をそれぞれに果たしています。
神一条に根ざすということは、別な生き様をしている企業だからと、それを敵視したり、過ちと思うことは、神一条に反するだけの事。

>>358
ここに引用として書いておきましたが、http://nun.nu/www.noto.or.jp/nanao/cci/news0003/00000085.htm
> {競争原理の主体たる「会社企業」がすでにその目的を達したと仮定するならば、現代の若者たちが目指すべき方角はどこにあるのだろうか。結論的にはそれは、「歴史に学び、家業を再興すること」である。}

つまり、競争原理は、すでにその目的が達成されたと、認識している人たちがいて、競争原理以外の、経済活動として「家業」を、考えているという、そういう人たちがいるということでした。

基本的質問さんは「競争原理」を意識しておられるようです。
> 神一条に根ざした企業又は家業は、他の神一条に根ざさないむごくて強い企業に対して
> どのような心構えが必要でしょうか?
この思案の仕方では、神一条の家業は、創れないでしょう。

>>359
> {七尾商工会議所 経営安定特別セミナー家業の可能性(生き残り)を探る}
ここで、示されているのは、
> { 浅田氏は、家業というものは、どの時代であっても絶対変えてはいけない部分を持っているとして『不易流行』を説明。}
と、言う思想です。
「競争原理」とは、時代に合わせて、流行を追い、競争します。その原理です。
それに対して、家業と言うのは『不易流行』という思想です。

おやさまの思想で言いますと、「かわらぬを誠と言う」という事になります。

時代の寵児になりもてはやされて、勝ち続けていくという「企業」の競争論理では、効率的な経営と、利潤追求のための適材適所を正しいとして、指導します。

しかし、それは、家業の発想には、そもそも無いのです。
世の中でも、おやさまの思想の上でも、家業とは、企業ではないのです。<> 基本。<><>2007/03/02(金) 22:19:42 ID:<>基本的質問さんは、きっと自覚せずに語られているのだと思いますが、
> 他の神一条に根ざさないむごくて強い企業に対して
この事に関してですが、
むごくて強いという事はありえません。そんな企業は、弱いのです。
社会においての存在の価値ある企業しか生き残れない、それが社会です。

> 悪事混じりの現社会の中で、
>儲けよりも、世の役に立ちたい。
としても
> 構成員が極貧の中で水ばかり飲んでいるわけにいかないでしょう。

社会は、経済行為に対しては必ず「報酬」「対価」を支払います。
世の役に立てば、少なくとも水ばかりを飲む状態はなくなります。

肝心なことは、何をして世の役に立つのかと言う、「いんねん」の自覚です。

おやさまは「いんねん無き処に道はつかない」と、言われています。
その家の、因縁ある仕事をする。
それが、家業の基本です。

中山家は、百姓をしています。現実に。
「綿屋文庫」という、綿屋と言うのは、中山家の屋号です。
天理図書館も本来は「綿屋文庫」の中山家の家業の延長上です。
天理大学は秀治さんの寺子屋の延長上のはずです。
「この屋敷にすんでいて給料貰うている者いるのは残念」と、この屋敷は、家業であって、企業で無いと、おやさまは、きちんと示されています。

しかし、現実には、「企業化」していて、お屋敷の範囲を超えていて、それは、理の間違いになっています。

家業だったら、普通に三度のご飯が食べられたら、給料殆ど無くても、求める子供に教育するでしょう。

企業では許されません。
給料を払わない企業は、訴えられます。つまり犯罪です。

家業に復元したら、みんなが里の仙人になれるでしょう。<> 基本。<><>2007/03/02(金) 22:44:57 ID:<>明治の維新政府の当事者たちは、西欧列強の「むごく・強い」産軍一体の侵略と支配を、見せ付けられて、日本に欠けているものは、企業であるということ、それも大企業であるという事に着目し、日本の古い家業を、企業化し、それを財閥の支配下に系列化するという、富国強兵政策を推進しました。
いわゆる、中産資産階級の解体です。
その、第一歩が税制の改革であった。
日本の産業基盤の「農業」を解体し、西洋の産業革命を日本に起こさせるべく、人為的に政策を実施した。

それが、おやさま見つめていた「唐人の思想」。

家を解体し、家族制度を崩壊させ、神社を寺院を思想統制の支配下において、日本が西欧の列強に負けない強国になるための道を選んだ。

それは、高山の欲にきりない、支配思想・侵略思想の開始であった。

その時おやさまは、「にほん本来の思想」を、「根」として示した。

「家業」とは、その「にほん本来の思想」に基づいていて、その家の社会的使命を、家族で果たしていくという、ものです。<> 基本的質問<><>2007/03/02(金) 23:38:02 ID:<>100円ショップチェーン、コンビニとか大型スーパーの進出で、家業的な小売店の閉店が増えています。
これら資本企業の論理は町を便利にし、社会においての価値ある企業として役に立ちました。

教会専従を止めて初代の小売店に戻ろうとした時、そのご家族は
資本の論理を横目に、一家で里の仙人をすればいい、という意見ですか?

>「家業」への復興は、急務です。
>家業は「講」です。
>儲けよりも世の役に立ちたい

神一条のともし火を消すこと無く、講の経済活動を支える為の方策として、できるだけ献金にたよるのではなく「家業との兼業」を目指すことが現在の教会群の生き残り策であり、現在の教会家族にとっても、より健全な姿だという意見だと理解してよろしいですか?

もう一つ基本さんは大教会は廃止すべきだと考えているのですか、それとも教会系統そのものを無くすべきだとお考えですか?


<> ぁゃ<><>2007/03/03(土) 02:43:17 ID:<>おばあちゃんが天理教で、毎年夏のおぢばがえりに参加しています。
高校生になってからは少年ひのきしん隊に参加しています。
あまり真面目な信者とは言えませんが、教えには共感しています。
おやさまの思想について語れるほど詳しくはありませんが、
興味があるのでたまに来ますね。よろしくです(^^*<> 基本。<><>2007/03/03(土) 03:36:53 ID:<>


家業を復元すると言う事は、企業になると言う事ではない。
趣旨も、目的も違うものです。
>>369
> 100円ショップチェーン、コンビニとか大型スーパーの進出で、家業的な小売店の閉店が増えています。
> これら資本企業の論理は町を便利にし、社会においての価値ある企業として役に立ちました。
家業としての小売店の存在というものが、資本系列化されたと言う事ですね。
大型チェーン店は、行き詰っていた地方の小売店を、吸収、或いは系列化するという方法で、全国の各地に、組織端末を設置していった訳です。
それを便利になったという「キャッチコピー」が一人歩きしていると言う事。
資本支配の一定の順序の中の出来事に過ぎないわけです。

内容は少し違いますが、「振り込み手数料」当初は無料でしたよね。
振込みが自動化されて「便利になります」という「キャッチコピー」が一人歩きして、みんな振り込みを利用するようになりました。
それは、無料でもなんでもなくて、実は企業が肩代わりしていただけの事で、やがて有料になりましたよね。
銀行のATMの、預金の預け入れ、払い戻しも、そうでした。
最初は無料でした。
そして、「便利になる」とのキャッチコピーが一人歩きしていました。
今では、特別な場合以外は「有料」です。

市場を資本系列が支配してしまうまでは、小売「価格」は安く、大型スーパーは、地方都市に参入しました。
そして、その地方のもともとの有力店、または老舗を、店内のテナントとして吸収し、「低価格」のスタイルで、地方経済に入り込みます。
その結果として、大型スーパーに協力しなかった企業が淘汰されると、その後で、「価格」は、あがります。
或いは、大型スーパーの言いなりになる仕入先からしか仕入れしないという方法で、地方の生産者からの仕入れを、選別し、「利益確保」します。
長期的なプランを立てていて、便利というのは、キャッチコピーです。

コンビニエンスも、そうです。
まず、それまで小売店をしていて、経営的に行き詰っている店から、利潤確保の企業化というキャッチコピーで、フランチャイズ化していきました。
そして、A店が繁盛すると、その隣地にB店をと、本部は作り続けます。
その結果、消える店舗も出来ます。
利潤追求の論理ですから、何をどうすれば、本部が儲かるかという論理がきちんと通っていて、その通過点では、あたる店もあるという、そういうものです。

仮に、企業をするとなれば、「人間や家族を優先」ではなく、「利潤追求優先」となります。
それは、「神一条」とは、発想の順序が違います。<> 基本。<><>2007/03/03(土) 04:03:40 ID:<>>>369
> 神一条のともし火を消すこと無く、講の経済活動を支える為の方策として、
> できるだけ献金にたよるのではなく「家業との兼業」を目指すことが現在の教会群の生き残り策であり、
> 現在の教会家族にとっても、より健全な姿だという意見だと理解してよろしいですか?
まるで、違います。
経済行為そのものの意味の、各地域においての、価値観の再構築です。

もともと、誰のものでもない、親神様からの貸物借物に、値段をつけて商売するようになった。
それが、取引、貨幣経済の始まりです。
誰のものでもない、世界一列のものなのです。資源も自然も。

そして、田地を利用して農業が営まれ、さまざまな農具工具が製造されて、道具を用いて、社会は便利になって、各地域にしかない、産業産物というものが、貨幣経済を通して流通するようになった。
衣類を製造する軽工業、大建造物を構築する技術も発達し、それらは、経済という対価で、人と人の間でやり取りされている。

でも、もともとは、貸物借物です。
それは、人間が陽気に、繁盛する、いうなら、天の恵みですが、その天の恵みに、「名札」が付いて、「値札」がついて、商品となった時から、働かずに利益を独占すると言う「高山」が生まれた。
言うなら「支配・管理する仕事」の人たちが、「名札付け」「価格付け」をする者たちを代表して、経済の世を支配するようになって、その利潤追求という「欲」が、社会に、債務奴隷を生んだわけです。

それを、ろくぢにしていくには、経済行為そのものを、根底から、人間らしい「家業」に復元しないと、ろくぢにならない。

そんな事言ったって、石油資源はメジャーに独占されている、とか、いまさら小売店したって、大型チェーンには勝てないとか、組合同業者以外には、生き残れないとか、資格の取得しないと商売が許されないとか、色々あります。

けれど、おやさまは、道を開けてくださるのです。
それが、おやさまのしたい事なら、「家業第一」の、経済への復元は、必ず道があるのです。

それを、もたれきる者にしか、神一条の家業は出来るものではないでしょう。

経済人(企業家)は、利潤追求を求めて、必死に仕事しています。
社会は、そのおかげで潤っているという側面は、事実です。

けれど、夫婦親子が、中心としての、人間らしい「家業」が無いままでは、、家庭は崩壊し、人間らしい気持ちそのものは失われ、企業のための戦士の殺伐とした事業体しかない社会になります。

この世を、自然の恵みが一列のものであるように、資源が、商行為が、隔てなく人間社会を豊かにしていけるように、土台としての家業を、小さく小さく、構築する事が、この世を陽気に普請する土台です。

教会の生き残りというような、我が信仰組織たすかりたいという、方便では、神一条ではないし、・・・
根本が違います。<> 基本。<><>2007/03/03(土) 04:28:35 ID:<>人が、人間らしく暮らし、大して利潤も無いが、陽気である。
そういう家業を、まず人間優先に構築する。
それは、おやさまの、お針のお師匠さんであり、糸紬であり、秀治さんの青物売りであった。
秀治さんの寺子屋であった。

利潤は無いが、「理」はある。

意味は分かりますか。
病む事もなく、もめごとも無く、おやさま「天日染め」のように不思議があって、そこに和楽がある。
人が集い、理を学んで、手を動かし働いて、みなの顔が見える「家業」という、かたち。

現代社会では、お金がいると言う。
何にいるのかという。
医療費だという。教育費だという。
ストレスからの開放のためのお金だという。
一家庭で、どれほどの教育費を負担しているのか。
「理」が分かる子がいたら、教育費など、本当に少なくて済むうえに、「理がわかる」のだから、それで、親は悩む事は無いだろう。
一家庭で、どれほどの医療費を負担しているのか。
「貸物借物」自由用のご守護があれば、医療費はいらない。

ストレスからの開放のために、飲む打つ買う、この負担は、神一条なら、ストレスは無い。

食費と水道光熱費、これは絶対にいる。
それならば、四人家族で、大してかかるものではない。
道具代、自動車とかパソコンとか、これはいる。
そうやって、ざっと見つめたら、神一条の人は人の平均収入の半分以下でも、心豊かに暮らせると分かる。
病気に備えての保険料もいらないし、それほどの利潤なんか必要ないのが、神一条の家業というものになる。

その時に、大教会があるのか無いのか。
> 大教会は廃止すべきだと考えているのですか、
> それとも教会系統そのものを無くすべきだとお考えですか?
大教会も、教会も、自分たちが求めて願い出て、教会になったのが元です。
人に廃止を決めてもらうものでもない。

系統は、人間の執着ですから、その意識は、無意味です。
しかし、系統は、歴史ですから、大教会という時代があったと、因縁の自覚としても、事実は認めるべきです。
悪しき教訓として、系統信仰は、さんげし、互い助け合いの、隔て無き道になれば良いだけの事です。
<> 基本。<><>2007/03/03(土) 04:55:45 ID:<>おやさまの思想は、人は人として経済行為をせよという思想です。

家業第一という思想は、人は「働く為にこの世に生まれた」という思想そのものです。

働くと言う事は「金銭と言うつなぎのご守護」を基本としています。
金銭のやり取りという「商行為」が無かったら、社会はつながらない。
ネット社会も、商行為を前提としてつながっている。
商行為や経済行為は、「3」の神様のご守護であり、「産業・産物・生産」と、「さん」の理にて、人は豊かにつながる。

それを3の埃の「うらみ」の社会にするのは、3足す7の、7の神様のお嫌いな「欲」、それも「重欲」「強欲」という埃の心です。

夫婦というつながり、親子というつながり、金銭というつながり、商行為というつながり、。
その土台には、一人一人が経済人である。家庭は経済体である。という、理があります。

それをバラバラにして、家庭を解体して、仕事最優先にする企業の論理は、大教会・理の親信仰の、理の親最優先にして家庭をほうかいさせる信仰業務最優先と似ています。

女は道の台というのは、家庭という経済体の土台だという意味です。

それが、家庭にいない。母親の家事労働は一円にもならないが、パートで働けば金になるという論理が、家庭を崩壊させて、今は年寄りがかろうじて家庭を守っています。
それも、無報酬で。

現代社会の企業最優先という不自然は、いつ崩壊してもおかしくない。
人間らしさに戻るには、おうちで仕事する「家業」です。
それを、日本に復元し、家族単位の社会に戻す事が、明治政府の高山のなした、国が強くありたいための「家庭崩壊」を、元に復することになります。

日本経済が強くなければ、日本は沈むしかない。
朝まで討論でそんな声が高らかにプロパガンダされていました。
病んでしまった社会。
弱ってしまった社会。
経済は強くなったとして、家庭が崩壊し、人間性が崩壊し、健康が阻害されたら、・・・

家業の復元は、全天理教徒の、おやさまからのおさしづとして、おかきさげを、お渡しになる。

おかきざけのお言葉。それは、別席の最後に教えられた、全天理教徒へのお言葉なのです。<> 基本。<><>2007/03/03(土) 06:56:55 ID:<>>>369
> 教会専従を止めて初代の小売店に戻ろうとした時、そのご家族は
> 資本の論理を横目に、一家で里の仙人をすればいい、という意見ですか?
河原町の鍛冶屋の源さんは、大教会初代になるまでは、鍛冶屋をしていて、よい品物だと気に入って貰えなかったら、代金はいらないと、そういう仕事をしていて、良い仕事をしていた。
教会専従をやめて初代の小売店に戻ろうとしたら、まず、その初代の精神に戻らなくてはいけない。
それぞれの初代さんごとに、事情も因縁も全部違うのですから、。

次に、その経済行為は、経済行為そのものがたすけあいですから、例えば、品物を卸してくれる人がいて、小売が出来るわけです。
その時に、よい品物を安く卸してくれるという、誠の心の商売人さんに出会わなくては、小売は出来ない。
また、こういうものが欲しいという、お客さんの要求を先に知らなければ、小売は出来ない。

そこに、仕入れという元、需要というみなの気持ちに、出会うという事が大切になるわけです。

道だけでは食べていけないから何か仕事しよう、では、そこには「いんねん無き処に道をつけよう」という、埃があります。つまり、欲です。
いま、その国々ところどころで、何をみなさんが欲しいのか、どんなお店を求めているのか、それを、我が家の因縁に照らして、思案するのが「神一条」という思案です。<> 基本的質問<><>2007/03/03(土) 16:10:06 ID:<>基本さんのはなしを聞いていると、この教会組織を全否定しているように思われます。
人間世界に神一条が溢れるような方法と、現実的で健康的な組織が一向に見えてきません。
教会本部を含めて、修正なのか改革なのか、そのままなのか、全廃なのか?
それともインターネットのバーチャル教会に道を譲るべきだとお考えですか?
現実的な講とか教会の運営方法について聞かせて下さい。


<> 基本。<><>2007/03/04(日) 00:35:29 ID:<>>>376
> 基本さんのはなしを聞いていると、この教会組織を全否定しているように思われます。
もし、そのように受け止められているとしたら、それはまだ、話題がお筆先の一号から二号、次の三号のところで、教理の全体にまで、話題として及んでいないからだと思います。

基本的には、>この教会組織、と言うものは、おやさまの思想実現の為に、一定の役割を持っていて、それは、「地場は苗代」というおやさまの思想で示されています。
「苗代」とは、苗を育てるという役目です。
それは、「知りて、話して、話するなり」と言うおやさまの思想に示されています。

苗代は、農業用語です。苗代は、移植用の苗を育成する目的で利用されるものです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%97%E4%BB%A3
それは、地場やその理の天理教会で育てられて、外に植え替えると言う事を意味します。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用します。
{ 苗代(なわしろ)は灌漑によって育成するイネの苗床、なえしろともいう。}
{ 手植えの場合}
{ 田植機を用いない旧来のやり方では、おおよそ次の手順に従う。
種籾(たねもみ)を植える場所の土を、幅1m位の短冊状に盛り上げ、土を軽く耕す。
その上に1平方cm辺り1粒程度の種籾(5日程度水につけて十分に水分を吸わせたもの)をまく。
土や籾殻(もみがら)または燻炭(くんたん)を薄くかぶせ、軽く抑える。
苗代の畝上が丁度浸かる程度に水を張り、発芽させる。
苗が20〜30cm(本葉が7〜8枚)位のころに、苗を抜き取り、2〜3本を1株として植える(田植え)。 }

つまり、苗にやさしい土をこしらえて、そこで苗を育てる。
育った苗を、田に移植する。つまり、田植えする。
そういう、役割です。

天理教会の、苗代の役割については、真柱様がきちんと示されているので、いちいちは、おやさまの思想として語ることは避けます。
<> 基本。<><>2007/03/04(日) 00:55:35 ID:<>> 人間世界に神一条が溢れるような方法
それは、お筆先の一号の冒頭から、先ず、神がよろず委細の元の因縁を説くという事が示されています。
その説く場所は、つとめ場所であり、人間の故郷のぢばにて親神様が表に現れて説く教え、天理の教えを、皆に知らせる事になります。

知らせると、理が働いて、世界一列の高山のたたかいが、治まることになります。

簡単な言えば、お筆先一号の前半に書かれているのは、よろず委細の元の因縁を教えるには、用木・道具が必要だという事で、それは、神様が寄せて使うということです。
天理教組織の役割とは、理を知らせるということです。
それには、組織そのものが、綺麗なものでなければならないのだが、明治2年当時、濁りの水状態であり、それで、先ず中山家の中の、掃除をされた。

そして、用木になるものはないという状態の中で、真柱をお屋敷に入れる準備に取り掛かりました。
また、辻忠作さんの妹さんを病気再発させて、辻忠作さんを手引きし、
天日火の雨という理の構造をお示しになった。

ここまで、論を進めました。

天理教会の役割というのは、理を知らすということであり、どうせ、こうせいと言うのは役割ではない。
苗代という役割です。
<> 基本。<><>2007/03/04(日) 01:19:45 ID:<>>>379
基本的質問さんの、ご質問の核心について論じましょう。
> 教会本部を含めて、修正なのか改革なのか、そのままなのか、全廃なのか?
> それともインターネットのバーチャル教会に道を譲るべきだとお考えですか?
> 現実的な講とか教会の運営方法について聞かせて下さい。
まず、天理教内部の人間は、少なくとも、原典を真実だと思って、研究する事です。
例えば、おたすけについても、基本的には体験すべきです。
そうでないと、理というものが実感されないと思います。

天理教会は、真柱様の言われるような組織のありさまになれば、それで十分だと思います。

基本は、天理教の真柱は、現在も過去も、最高の思想家だと思います。
しかし、後は、濁りの水だと思います。

真柱様の言う事を、きちんと活用し、実行したら、三年もしなくても、神様の働ける天理教組織になるでしょう。
大教会長や有力教会長の言う事聞いてたら、濁りの水は澄まないでしょう。
ただ、真柱様の説く思想は、浅くないので、よくよくしっかりと原典に照らして、根を掘らないと、理解できないと思います。
系統信仰や、理の親信仰を全廃して、ろくぢな教団組織になろうなどと、そんな事を思う必要は無いと思います。

その人ひとりが、真柱さまの言う事を、信じて実行したらよいのであって、天理教組織は、その一人から改革されます。<> 基本的質問<><>2007/03/04(日) 01:45:25 ID:<> 既存のものから切り離して考えた場合、これから初代の道を通ろうとする人にとって、講という概念は家業を伴った経済共同体、又は生活共同体であるべきだとお考えですか?<> 基本。<><>2007/03/04(日) 10:18:56 ID:<>>>380
> これから初代の道を通ろうとする人にとって、講という概念は
> 家業を伴った経済共同体、又は生活共同体であるべきだとお考えですか?
これから初代を通ろうという人は、少なくとも、先ず身上の手引きがあってから、通ることです。
おやさまのお言葉に、この道はみんな身上から付き来る道と、教えられています。
「身上無くして付いた者は、ちょっと咲いた花のようなもの」
とも、教えられています。

その時の身上から、お示し頂いた身上の理から、その人それぞれへの、通るべき道筋が悟れて、それから始まるものです。

身上を頂いた時点で、家業のある人も、無い人もいるでしょう。
千差万別、人は人、己は己、その人一人対親神様という関係です。
一命一人の道と教えられています。

肝心なことは、天理教会という「苗代」にて、育てて頂くという事。
これは、道です。
しっかりと、理の基本を学ぶことです。
そして、自分を、世上世界という、神の田地に、田植えする事です。
「その時、授け一条、書き下げ一条ある。」
ひとり立ちの、お助け人であることです。

 はやばやと表出ようとおもえども 道が無うては出るに出られん 二号13

それは、組織という道ではなく、「胸の道」という道を意味しています。

基本的質問さん、例えば、基本的質問さんお一人の胸に、「胸の道」が付いていれば、神様は、表に出られる。

 「諭す事情の理の台には家業という」。
それは、人間の経済生活が、諭す事情の理の台であるという事です。

これから初代を通るには、先ず、天理教会にて、しっかりと基本を学ぶことです。
おやさまから、直接に、学ぶことです。<> しょこたん V<><>2007/03/04(日) 19:37:42 ID:<>
基本さんの言うことはとても鋭いし、部分的には正しいと思うのですが、
全部つなぎ合わせてみるとチンプンカンプン。
肝心のところで逃げていたりして、結局何言っているのかよくわからない。
皆さんそう思いませんか?
車や鉄は家業で作れませんしね。

<> 基本。<><>2007/03/04(日) 20:15:40 ID:<>>>382
> 車や鉄は家業で作れませんしね。
しょこたんVさん。こんにちは。

ここでは、思想を語ることにしています。が、事実の誤認については、反論せざるを得ません。

車を作ったのは、企業ではなく、個人の発明家です。
http://www.kyushuoil.co.jp/kids/ijin/text/ijin4.html
「石油偉人伝」から引用させて頂きます。

{ 自動車は、二人の偉大な開発者によって完成されました。一人がゴットリープ・ダイムラー、もう一人がカール・ベンツです。二人はほぼ同じ時期に、ガソリンエンジンの開発に取り組み、現代の自動車の原型をつくりました。}
{ まずはダイムラーの話からです。}
{ ゴットリープ・ダイムラーは、1834年にドイツ南西部のヴュルテンベルグ王国・ショルンドルフに生まれました。工芸大学で蒸気機関について学んだのち、ダイムラーはオットー(5月のエライ人)の工場で働きます。実はオットーのエンジンを実用化させた影には、ダイムラーの助けがあったのです。}
{ オットーのエンジンが完成した後、ダイムラーはオットーの会社をやめて、1882年に自分の研究所を設立します。そこでダイムラーは、ガソリンを燃料としたエンジンの開発を始め、ついに現代使われているエンジンにとても近いものを完成させたのです。}
{ 1885年には、エンジンを自転車にとりつけ、世界で最初の自動二輪車を誕生させます。}

{ 1885年、時を同じくしてカール・ベンツが三輪の自動車「モトールヴァーゲン」を発表します。ダイムラーは、ベンツの三輪自動車の話を聞くとすぐに四輪自動車の開発に取り組み、現在の自動車のような四輪自動車の原型を完成させるのです。}
{ 同時にダイムラーは、エミール・イエリネクという資本家との出会いによって大きなチャンスをつかみます。ダイムラーの自動車がレースで活躍し、世界中で注目されるようになると、彼は1890年にダイムラー自動車株式会社を設立します。}

ベンツの話題も、引用し、紹介します。
http://www.kyushuoil.co.jp/kids/ijin/text/ijin5.html
{ カール・ベンツは、1884年、ドイツ南西部のバーデン大公国ミュールドルフ生まれ。大学で内燃機関の仕組みを学んだのち、エンジンの開発に取り組んでいました。}
{ 1872年ごろにガスエンジンはできあがりましたが、そのエンジンも自転車には大きすぎて、実用的ではありませんでした。
お金のなくなったベンツは、努力してつくったガスエンジンを売ることにしました。}
{ ビュレルという人が、ベンツを助けてガスエンジンを売ることになりました。ベンツのガスエンジンは性能が良かったのでたくさん売れたようです。しかしベンツは、より小さくより性能の良いエンジンをつくりたいという夢を捨てきれずにいました。}
{ そんなとき、ローゼという商人が、ベンツに研究のチャンスを与えてくれました。ベンツはローゼの協力で、自転車に取り付けることのできる小さなエンジンの開発にもう一度取り組むこととなったのです。ベンツがガソリンエンジンを思いついたのは、ある事故の話がきっかけとなっています。ガソリンの入った容器のフタをきちんと閉めておかなかったために、家の中に蒸発したガソリンがたまり、それに火がついて大爆発をした、という事故が起きたのです。その事故の話を聞いたベンツは、すぐにガソリンエンジンの研究に取り組みました。}
{ ベンツは、ガソリンが蒸発するときに、そのガソリンのガスを濃くして、一気に爆発させることのできるエンジンを工夫しました。ようやく自転車にも取り付けることのできる、小型のエンジンができあがり、1885年、とうとう世界で最初の自動車「モトールヴァーゲン」ができあがったのです。}


このように、「車は最初は個人が研究し作った」。
それを資本が、大量生産のシステムにのせたものです。
> 車や鉄は家業で作れませんしね。
車について言うならば、個人が作らなかったら、工場生産は出来なかったというのが、現実です。<> 基本。<><>2007/03/04(日) 20:51:10 ID:<>しょこたんVさん。
>>382
> 車や鉄は家業で作れませんしね。

車は、個人が最初に作った。
製鉄についても、きちんと調べてみます。
http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020103.htm
たたらの話、製鉄の始まりから引用、紹介しますと、
{ 弥生時代に製鉄はあったとする根強い意見もあります。それは、製鉄炉の発見はないものの、次のような考古学的背景を重視するからです。
1)弥生時代中期以降急速に石器は姿を消し、鉄器が全国に普及する。
2)ドイツ、イギリスなど外国では鉄器の使用と製鉄は同時期である。
3)弥生時代にガラス製作技術があり、1400〜1500℃の高温度が得られていた。
4)弥生時代後期(2〜3世紀)には大型銅鐸が鋳造され、東アジアで屈指の優れた冶金技術をもっていた。}

このように、現代から見たら、未開に近い時代に、「製鉄」は技術として確立されていたと言う事が分かります。
http://www12.ocn.ne.jp/~furu/sunshineschool/sunshineschool.html
ここに、古代の製鉄作りの体験会の写真があります。
簡単な器具です。
鉄を家業で作る事は、やろうとして出来ない事ではない事は、この体験の様子を見れば分かります。

以上は、古代の鉄ですが、中世の製鉄技術の代表は、農機具や刀鍛冶に用いられた鉄です。
http://www.oy-ja.or.jp/~an/sub11-13-1.htm
岡山県北の、ぶらり旅情報に、こんな風に書かれています。
{ 中世たたら製鉄 }
{ 荘園として栄えた新見庄 }
{ 粘土でつくった炉で、木炭を燃料に砂鉄から鉄を作る昔ながらの製鉄技術。}
{ 新見庄は京都「東寺」の荘園として栄え、製鉄業は地域を代表する産業であった。年貢として納められていた新見の鉄は良質で日本刀や農具、工具の素材として重宝されていたという。 }

こうした製鉄の技術は、家業として、集落に温存されていたと言う事です。

http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/saguru2-14.html
ここには、嘉永二年頃の備中の、藩政改革の様子の中で、家業として、製鉄をしていた家のことが書かれています。
引用、紹介します。

{、「木下万作(きのしたまんさく)」なる人物は、鳥取県日野郡日南町阿毘縁(あびれ)の出身で、製鉄業を主な家業とした大庄屋であり、数多くの鉄山を経営して販路を広め、大いに家を栄えさせたとされます。その後、万作は故郷を離れ、この「油野村」に移り住んでいたようです。}

江戸時代という頃には、ちゃんと家業として、製鉄していた大庄屋がいたのです。

つまり、しょこたんVさん。
あなたは、「唐人の思想」に洗脳されていて、
「家業」では、車も鉄も出来ないと、思い込まされている。

じつは、車も鉄も、作る事は出来るのです。
そこに、おやさまのご守護があれば、出来るのです。
家業でも。<> 普通の天理教徒。<><>2007/03/04(日) 21:33:25 ID:<>基本さんの言う事が、逃げていると、そのように、いわれる理由というのは、たぶん、
> そこに、おやさまのご守護があれば、出来るのです。
と、言う個所だと思います。

それは、普通に、天理教では普通のことなのですが、何でも神様任せと言うような匂いが感じられて、逃げたというように、思われるのではないかと感じます。

>>383
> ゴットリープ・ダイムラー、もう一人がカール・ベンツです。
と、世界が認めている創業者。
それは、その人ひとり、その人一人の誠が天に届いたと、世界が認めていると言う事ではないでしょうか。

天理教会・大教会組織などが、集金の宗教家業ではなく、社会の為に働くという実業で、各々の家業を復元するといっても、その人、一人一人の心の誠の問題に尽きるわけです。
似た研究をしていた人は大勢いたでしょうし、その中を、社会的に役立つものを、発明するためには、それは、「親神様のご守護」が無くては出来ないと思いますが、でも、誠を尽くすという、真剣な研究があって、それで、発明に成功したのだという人間の努力なくしては、家業の創業や、復元は、及びもつかないと思います。

普通の天理教徒は、そんな世界的な大成功の家業を、ではなく、小さく、ささやかに、成功する事でも、誠真実なくしては出来ないものだと心得ています。

基本さんのいう、おやさまのご守護とは、別におやさまのご守護とは誰も思わない、ゴットリープ・ダイムラー、カール・ベンツの成功もまた、おやさまのご守護だという前提で語られているのだと思います。

おかきさげに教えられていますのは、
 『誠の心といえば 一寸には弱いように皆思うなれど、誠より堅き長きものはない。誠一つが天の理。』
との、『天の理』です。

社会にあって、世の中にあって、『一寸には弱いように皆思う』、誠の心。
持ち続けるには、まず、天理教の信仰をしっかりとする事だと、そう普通の天理教徒は、思います。
家業をするという事は、弱い誠が実は強いと、きちんと分からないと、出来ないことです。<> 消防現像<><>2007/03/04(日) 22:45:25 ID:<>>天理教の信仰をしっかりとする事
助け一条ですね。
恋しくなるほど詳しく聞きたいのですが、
おいらの知ってる天理教々会では、むりだなぁ。<> 基本的質問<><>2007/03/05(月) 00:17:46 ID:<>

債権奴隷というのは過去生において大社高山だったのかも知れませんね。
人のものを借りたらお礼の言葉とともにお返しするのは当然とわきまえないと、大社高山の真似をして献金生活しながら、人様に指図するのが当たり前のような考えに陥ると、そんな心の癖性分のまま、来生を迎えると、もっと苦労の多い未来生が待っているのでしょうね。

債権奴隷と大社高山は双方共に、人様に借りたものを返せないでお礼の心も無いという癖性分が共通しますが、片方は被害者意識という不足心で、片方は当然という傲慢心で魂を汚し続ける事になるのですね。
お互いに借金も献金勘定も、低い心で慎みたいものですね。

家庭の和にも、仕事にも心を尽くし、お筆先や、逸話編を熟読し続けていますが、
この次の段階として、
>これから初代を通るには、先ず、天理教会にて、しっかりと基本を学ぶことです。

基本さんの言われる天理教会とは、近所の天理教会という意味でしょうか?
>おやさまから、直接に、学ぶことです。

と仰いますと具体的にはどういう意味でしょうか。
<> 基本。<><>2007/03/05(月) 05:34:26 ID:<>基本的質問さん。
債権奴隷・債務奴隷の因縁の自覚の問題は、ある程度ご理解頂けたと思います。

天理教会・地場本部が苗代であるという事は、これも、お分かり頂けていると思います。
そこで、天理教会・系統部内の事は、元々のものは「講」です。
この講は、今の姿は、天理教会ですが、実は苗代の「苗」の集団であって、その意味苗が数で存在していると言う点では、「苗代」に似ていますが、「系統」と意識している点でお分かりのように、「苗代」ではなく、「縄張り」意識で運営されています。
実は、講元は親の代わりであると、それがおやさまの思想です。
効能のある人が、「講元」であり、その効能の元は、親里・地場です。
「つとめ」と「さづけ」が効能の元です。

ところが、効能の元が「人」にあるとして、「理の親信仰」が生まれた。
それは、おやさまが死んでいるという意識が、生んだものです。

おやさまは存命でいるのに、姿は見えないし声は聞こえないし、「やはり死んでいるんだ」と、信者は認識した。
すると、今生きている信仰指導者の「理の親」の言う事聞けば、たすかるのだという、「教会信仰」「偶像信仰」が生まれてくる。
宗教の歴史のたどった、悪しき因縁の姿でした。

しかし、おやさまは、存命でいる。

そして、基本的質問さんは、実は、その「おやさま存命」を、質問しておられるわけです。<> 基本。<><>2007/03/05(月) 05:58:11 ID:<>おやさまが、人間の姿で見えていた時には、おやさまそのものが「偶像」であった。
それが、偶像崇拝の信仰の、因縁の道です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%B6%E5%83%8F%E5%B4%87%E6%8B%9D
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用します。
{ 仏教 }
{ 仏教においても、釈迦は「私の姿を拝んでどうしようというのか?」と言い、偶像崇拝をはっきりと否定していた。 }

おやさまを神として拝むということは、そのものが「偶像崇拝」です。

{ 釈迦は偶像崇拝を否定しており、釈迦の入滅後200〜500年間は釈迦の本来の教えは守られ、仏像というものは存在しなかった。インドの初期仏教美術の仏伝図(釈迦の生涯を表現したレリーフ等)においても、釈迦の姿は表されず、菩提樹、台座、足跡などによって、釈迦の存在が暗示されるのみであった。
だが次第に人々の間に、釈迦の象徴としてストゥーパ(卒塔婆、釈迦の遺骨を祀ったもの)、法輪(仏の教えが広まる様子を輪で表現したもの)や、仏足石(釈迦の足跡を刻んだ石)、菩提樹などを礼拝する傾向が生まれ、釈迦入滅後数百年経つと、釈迦の本来の意図とは異なり、仏像が出現することになった。 }

おやさまの、赤衣を、神のお目標として拝する行為も、厳密に言うと宗教学的には「偶像崇拝」行為ということになります。

すると、死んでしまったお釈迦様とおんなじで、「仏様」は物を言いませんから、どうするのか。

お釈迦様から数えて二十八代目の「達磨」は、「坐禅」をする事を教えました。

おやさまは、「つとめ」を教えました。<> 基本。<><>2007/03/05(月) 06:05:54 ID:<>> 「仏様」は物を言いませんから、どうするのか。
> お釈迦様から数えて二十八代目の「達磨」は、「坐禅」をする事を教えました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%94%E7%A3%A8
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
{ 景?傳燈&#37636;第三巻
この書では梁の武帝は仏教を厚く信仰しており、天竺から来た高僧を喜んで迎えた。武帝は達磨に質問をする。
帝問うて曰く「朕即位して已来、寺を造り、経を写し、僧(僧伽、教団)を度すこと、勝(あげ)て紀す可からず(数え切れないほどである)。何の功徳有りや」
師曰く「並びに功徳無し」
帝曰く「何を以て功徳無しや」
師曰く「此れ但だ人天(人間界・天上界)の小果にして有漏の因なり(煩悩の因を作っているだけだ)。影の形に随うが如く有と雖も実には非ず」
帝曰く「如何が是れ真の功徳なるや」
答曰く「浄智は妙円にして、体自ずから空寂なり。是の如き功徳は世を以て(この世界では)求まらず」
帝又問う「如何が是れ聖諦の第一義なるや」
師曰く「廓然(がらんとして)無聖なり」
帝曰く「朕に対する者は誰ぞ」
師曰く「識らず(認識できぬ・・・空だから)」
帝、領悟せず。師、機の契(かな)はぬを知り・・・  }

この、武帝と達磨の問答の中に、基本的質問さんのお悩みへの回答があるように感じます。<> 基本。<><>2007/03/05(月) 06:29:47 ID:<>>>390
> この、武帝と達磨の問答の中に、基本的質問さんのお悩みへの回答があるように感じます。
>>387
> 家庭の和にも、仕事にも心を尽くし、お筆先や、逸話編を熟読し続けていますが、
>>390
> 帝問うて曰く「朕即位して寺を造り、経を写し、僧(僧伽、教団)を度すこと、勝(あげ)て紀す可からず(数え切れないほどである)。何の功徳有りや」

どちらの質問にも、「理」を求めるものにもっとも肝心なことが抜けています。

武帝に対しては、達磨は、きちんと答えています。問答を確認しましょう。
>>390
> 帝曰く「何を以て功徳無しや」
> 師曰く「此れ但だ人天(人間界・天上界)の小果にして有漏の因なり(煩悩の因を作っているだけだ)。
> 影の形に随うが如く有と雖も実には非ず」

いくら夫婦仲良くしていても、逸話編を読んでも、
達磨太師さんに言わせたら、
「人天の小果」、ちっぽけなこと。で、
「有漏の因」、大切なものを漏らしてしまう原因。
と、このように、諭されてしまうでしょう。

そこで、
> この次の段階として、
>おやさまから、直接に、学ぶことです。
と仰いますと具体的にはどういう意味でしょうか。
との問いですが、

>>389
> 帝曰く「如何が是れ真の功徳なるや」
> 答曰く「浄智は妙円にして、体自ずから空寂なり。是の如き功徳は世を以て(この世界では)求まらず」

> >これから初代を通るには、先ず、天理教会にて、しっかりと基本を学ぶことです。
> 基本さんの言われる天理教会とは、近所の天理教会という意味でしょうか?

達磨太師はこう答えるでしょう。
「浄智は妙円にして、体自ずから空寂なり。」 天理は妙円にして空である。
「是の如き功徳は世を以て(この世界では)求まらず」 そんな功徳では、天理教会では、求めても求められない。

こんな答え方をされて、武帝は、不満足でした。
基本的質問さんは、どうでしょうか。

{ 武帝は達磨の答を喜ばなかった。}
{ 達磨は縁がなかったと思い、北魏に向かった。}
{ 後に武帝は後悔し、人を使わして達磨を呼び戻そうとしたができなかった。}

では、どうすれば達磨さんと縁があったのでしょうか。
続きます。<> 基本。<><>2007/03/05(月) 06:39:42 ID:<>続きです。

{ 太和10年12月9日、神光という僧侶が、自分の臂を切り取って決意を示し、入門を求めた。達磨は彼の入門を認め、名を慧可と改めた。この慧可が禅宗の第二祖である。以後、中国に禅宗が広まったとされる。 }

武帝には、縁がなかったと、言われた達磨さんですが、自分の臂を切り取って決意を示し、入門を求めた。それには、入門を許したと伝承されています。

臂 ヒ, ひじ
elbow


そこで、基本的質問さんに、欠けているものは何かというと、
「貧に落ち込め」という、ひながたの実行だとわかります。<> 基本。<><>2007/03/05(月) 06:44:53 ID:<>つまり、禅を求めるものには、臂 ヒ, ひじは、いらない。
天理を求めるものには、「貧・ひながたがいる」。「財産はいらない」。

それが、
> >おやさまから、直接に、学ぶことです。
> と仰いますと具体的にはどういう意味でしょうか。
の問いに対する答えです。

散財心を定めるようにと、教えられたことの「ひながた」を見つめての、実行です。


<> 普通の天理教徒。<><>2007/03/05(月) 07:22:54 ID:<>家業を第一とすると言いますと、それが「散財のため」とは思わないで、「蓄財のため」と、普通には、思案してしまいます。

家業を復するというと、貧乏になるためにそれをしようと思うのではなく、お金持ちになるために、家業をするのだ。
お金持ちになったら、それで皆を幸せにするのだと、思いがちです。

それは、達磨太師が諭されたように、
> 師曰く「此れ但だ人天(人間界・天上界)の小果にして有漏の因なり(煩悩の因を作っているだけだ)。
> 影の形に随うが如く有と雖も実には非ず」
と、言う事になると思いました。

家業の中で貧乏しながら人たすけしていた初代講元さんたちは、輝いて見えます。
しかし、理の親信仰を説いて「小果」としての豪華な神殿普請や、教会数を誇る姿は、むなしく、哀れです。

効能の元の、おやさまは、いつも常にたすけ一条であった。
それなのに、系統信仰をして、「小果」を自慢して、その挙句に教勢にかげりが出たから、今度は、家業をする。
そんなものは、何の功徳にもならない。
本当の「善なる心」を引き出すには、おやさまの教えでは「散財」であろうと、思います。
家業と散財が、同時に存在していた中山家のひながた。
見落としがちですが、「さんさい心」をもたない家業では、悪しきだと思います。

>>386
> 恋しくなるほど詳しく聞きたいのですが、
> おいらの知ってる天理教々会では、むりだなぁ。
消防現像さんの、お嘆きも、実は、基本さんの言う「偶像崇拝」に起因すると感じます。
「天理教会」と言う「偶像」に期待しておられるから、無理だという思案になる。

基本さんから聞いた事があります。
「偶然」と「奇跡」は、偶数と奇数の、文字の違いの、違いがあると。
偶数は2で割り切れる。奇数は割り切れない。
人が理解できる事は、「偶然」。
理解を超えたことは、「奇跡」。

夫婦仲よくし、おやさまの逸話を学び、教会にて信心する、その結果陽気になれたのは、「偶然」ですが、奇跡ではない。
人の思いの世界の中の出来事です。

しっかりした指導者がいて、その教会に行ったら詳しく理を教えてくれる。
それは、偶然、そういう教会に行ったというだけのことです。
うっかりした指導者がいて、その教会に行ったら、でたらめばかり指導される。
しかし、存命のおやさまから、なぜか理を教えていただける。
これなら、奇跡です。

「不思議が神」と教えられています。
「不思議」ではない、たんなる偶然は、原因結果の世界です。
しかし、奇跡は、不思議です。
おやさまに、おやさまは生きておられると、真剣に尋ねる事で、何か一つでも教えて頂けたら、きっと、恋しくなると思います。
おやさまが。
そんなに沢山いらないのです。理の知識なんて。
基本さんにも、普通の天理教徒にも、おやさまの優しさだけで十分に幸せだからです。<> 基本。<><>2007/03/05(月) 08:03:20 ID:<>そう言えば、昨日イチローさんが夫婦仲良くについて、某番組でこんな事語っていました。
奥さんは、話を聞いて欲したがる。
それで、自分は演技をする。
しっかり聞いていると分かるように、姿勢は高くなく・前のめりで・・○○・・良い姿勢はこんな姿勢です。
して、見せていました。

それを見ていた隣人が、女子アナの姿勢、全然聞く態度ではないものね。と、言っていました。
確かに、イチローさんが、悪い例としてあげた事、全部女子アナさんは姿勢そのもので、イチローさんが良い態度として示したような、聞く態度ではありませんでした。

フォームの問題。
「型」の問題。

今まだ、お筆先の一号から二号、三号の入り口での、おやさまの思想を論じています。
その中に、「屋敷の掃除」、「濁りの水」というものの、問題がおやさまから示されています。

「大社」思想の、「大」に統一していく濁りの問題。
宗教も経済も、「規模の小」や「個人」を否定する「大社・高山」の権威主義に誘導された、明治。
その時に、人間の経済行為においての、「家業」を世界の普請の基礎として、おやさまが示されていた。それが、基本です。

http://www.city.kosai.shizuoka.jp/03ijin/index.html
豊田佐吉は、明治維新が間近に迫った慶応3年(1867年)2月14日、吉田領山口村(後の敷知郡吉津村字山口、現在の湖西市山口)に生まれました。
  佐吉は、小学校を卒業すると父・伊吉の大工仕事を手伝っていましたが、貧困にあえぐ村の暮らしを見て「郷里の貧乏を救わなければならない」という郷土愛に燃えるようになりました。そして、学問の必要性を痛感し、東京からわざわざ新聞を取り寄せたり、村の同志を集めて「夜学会」を開いたりしました。
 こうして広く世間を見る目が肥えてくると、当時の日本が郷里吉津村と同様に貧乏であることが分かってきました。そこで佐吉の郷土愛は祖国愛に変わっていったのでした。その祖国愛を実現する方法が、すなわち「発明」だったのです。「発明」によって、日本の産業を発展させ、日本を裕福な国にしようと考えたのです。

母の姿を見て、自動織機の発明を志す
  しかし、一体何を発明したらいいかは容易に定まりませんでした。そんなとき目についたのが、母の機を織る姿でした。
 当時の織機は「バッタンハタゴ」という極めて原始的な機械で、一反の木綿を仕上げるのに多くの時間と労力を費やさなければなりませんでした。明治20年(1887年)、佐吉はこの手機(てばた)の改良を志し、寝食を忘れて研究・工夫に熱中しました。

  しかし、織機に関しての知識もなく、周囲の理解も得られない佐吉にとって、この研究は困難を極めました。それでも佐吉は決してあきらめず、発明に精進しました。
  そして、明治23年(1890年)、ついに最初の発明「豊田式木製人力織機」を完成させたのです。佐吉24歳のときでした。

豊田佐吉さんの長男、トヨタ自動車 創業者・豊田喜一郎さんは、企業家です。
http://j-net21.smrj.go.jp/venture/retsuden/sougyousha5.html

喜一郎は生後2ヵ月ほどで生母と生別しているが、原因は佐吉の発明への執念、それによる生活苦であったかと考えられる。
 しかし、喜一郎は発明家の父の影響を色濃く受け継ぎ、同じ道を志した。否、のちのトヨタ自動車そのものが、佐吉の教えを今に抱きつづけているというべきか。

・・・・・・
企業家には企業家の苦労と努力がある。

発明の道中の貧困が、豊田家の家庭においての不幸も生んでいる。
おやさまのひながたとても、家庭的には、悲劇ばかりである。

さて、基本的質問さん。
そういう、貧困や夫婦離婚や、それでも、どんな苦労をしてでも、創業する道を選ぶ勇気は、ありますか。

イチローさんの話ではありませんが、おやさまの教えを学ぶにも、「型」の問題があります。
まず、「型」、形から入るのが、基本だと思います。<> 基本的質問<><>2007/03/05(月) 12:01:54 ID:<>>夫婦仲よくし、おやさまの逸話を学び、教会にて信心する、その結果陽気になれたのは、「偶然」ですが、奇跡ではない。
>基本さんにも、普通の天理教徒にも、おやさまの優しさだけで十分に幸せだからです。

この場合の陽気と幸せは違うものでしょうか?

>散財からはじまって貧困や夫婦離婚や家族との別れを伴うこと

が「型」の基本なのでしょうか?
先ず、散財するほどの財産はありませんし、慧可和尚やイエスのような処刑で今生を閉じる事に興味はありません。
不要な苦労が不要となる道をおつけ下さったという捉え方は不遜でしょうか?<> 基本。<><>2007/03/05(月) 14:13:19 ID:<>>>396
基本的質問さん、疑問についてお答えします。
> >散財からはじまって貧困や夫婦離婚や家族との別れを伴うこと
が「型」の基本なのでしょうか?

そうです。
それが、「大社・高山」因縁との決別には、絶対に通らなければならない道筋です。

 この子供二年三年仕込もうと言うていれども神の手離れ。
つまり、死別です。

 正月三十日と日を切りて送るも神の心からとて
すなわち、離別です。


達磨太師の教えについては、基本的質問さんに紹介しておきましたが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%94%E7%A3%A8
ここに、このように、記されています。
{ 仏教は後生の一大事の存在を知る事から始まり、その解決に終わる。}
これが、教えです。
つまり、天理教で言いますと、「前生の因縁切り」です。

引用をし、確認しましょう。

{ 仏教は後生の一大事の存在を知る事から始まり、その解決に終わる。
{ 後生の一大事の理解が出来ない者は、一切の仏教の理解が出来ないと言われる由縁はここにある。}

{ 達磨大師が、壁に向かい手足腐るまで仏道修行に挫けんとする自己の弱い心をにらみ続けた行動を理解するためには、一切の仏道修行の動機である後生の一大事の存在を理解しないと出来ないと言われている。}

つまり、悪因縁の自覚がないと、一切の「ひながた」の理解は出来ないと言う事が、達磨太師の教えにて、分かるわけです。

線香一本を立てて、禅を組む。
そして、正しい呼吸法を用いる修行をする。
前に紹介しました。

線香一本立てて、南無天理王命と唱える。
ただ、それだけの事が、「悪因縁」を切り替えていく事になるという「真理」は、因縁の自覚の中から、仏の慈悲を知り、親神のやさしさを知れば、理解される事です。

しかし、基本は、
> >散財からはじまって貧困や夫婦離婚や家族との別れを伴うこと
が「型」の基本なのでしょうか?
それが、基本です。

それを、「大難は小難、小難は無難」にと、
「三十年を三年、三年を三日」にと、
切り替えてくださるという、おやさまの思想です。<> 基本。<><>2007/03/05(月) 14:18:48 ID:<>基本的質問さんは、教祖伝逸話編を読まれているとの事です。
それならば、次の逸話は、お読みになっておられることでしょう。

【ここは喜ぶ所】逸話篇105
 明治十五年秋なかば、宇野善助は、妻と子供と信者親子と七人連れで、おぢばへ帰らせて頂いた。妻美紗が、産後の患いで、もう命がないというところを救けて頂いた、お礼詣りである。
 夜明けの四時に家を出て、歩いたり、巨掠池では舟に乗ったり、次には人力車に乗ったり、歩いたりして、夜の八時頃おぢばへ着いた。翌日、山本利三郎の世話取りで、一同、教祖にお目通りした。一同の感激は、譬えるにものもない程であったが、殊に、長らくの病み患いを救けて頂いた美紗の喜びは一入で、嬉しさの余り、すすり泣きが止まらなかった。すると、教祖は、

「何故、泣くのや。」
と、仰せになった。美紗は、尚も泣きじゃくりながら、「生神様にお目にかかれまして、有難うて有難うて、嬉し涙がこぼれました。」と、申し上げた。すると、教祖は、

「おぢばは、泣く所やないで。ここは喜ぶ所や。」
と、仰せられた。
 次に、教祖は、善助に向かって、

「三代目は、清水やで。」
と、お言葉を下された。善助は、「有難うございます。」とお礼申し上げたが、過分のお言葉に、身の置き所もない程恐縮した。そして、心の奥底深く、「有難いことや。末永うお道のために働かせて頂こう。」と、堅く決心したのである。

・・・・

さて、基本的質問さん。
おやさまが言われました。
『三代目は清水やで』、このお言葉の意味、思案してみてください。
そして、なんで美紗さんは「泣いたのか」。を。<> 基本。<><>2007/03/05(月) 14:26:28 ID:<>> 「三代目は、清水やで。」
それはつまり、一代目と二代目は濁り水だと言う事です。

宇野家の濁り水。
その水を澄ますには、一代二代では澄まない。

そこで、おやさまは「三代目は清水やで」と、三代目では水を澄ますようにと諭されたお言葉です。

聞いた宇野善助さんは、三代目には、そうなるという「予言」と理解して感激した。
とんでもなく誤解です。

達磨太師は、達磨は嵩山少林寺において、壁に向かって9年坐禅を続けたとされています。
たかだか九年です。
宇野家では、三代かかる。
それまで、泥水なのです。

美紗さんは、そんな泥水の中にいて、生き神様に会えて、「泣けてたまらなかった」。
泥水の中で、苦しんで、泣いていたのは宇野家の女だったという姿です。<> 基本。<><>2007/03/05(月) 14:40:53 ID:<>>>396
> 先ず、散財するほどの財産はありませんし、慧可和尚やイエスのような処刑で今生を閉じる事に興味はありません。
>
基本的質問さんに、慧可和尚やイエスのような、因縁があるなら、興味があろうと無かろうと、いずれ通るだけのことです。

少なくとも、教会や大教会の批判を口にしていると言う事は、慧可和尚やイエスのような態度と、近似しているわけです。
そんな、すさまじいやり取りを避けたいのなら、批判というものは、口にしない事、思いもしない事です。

> 不要な苦労が不要となる道をおつけ下さったという捉え方は不遜でしょうか?
不要な苦労は、最初から不要。
それが、天理であり、おやさまの思想です。

問題は、必要な苦労です。

処刑されると言う事は、イエスには必要だったのです。
キリスト教では十字架を祈ります。

達磨太師に入門したかたら、ダルマさんのように、「手も足も出ない」姿が、必要だったのです。

そして、天理教をしたかったら、おやさまのように「貧乏」する事は、絶対に、必要なのです。

それは、程度の問題を言うのではなく、方向の問題です。

基本的質問さんは、
「散財するほどの財産はありませんし」と、言われています。
それは、今の姿です。
しかし、家業第一にしていくと、必ず、金が儲かるのです。
それは、未来の問題です。(未来とは後生・達磨太師の思想の後生の事です)
その、未来に金が儲かったときに、間違いなく散財できる人物なのかどうかが、
神様から見ての、問題です。

空手を修行した。人を護衛した。そういう後生なら良いのですが、空手の修行した。人を脅して従えた。そういう後性の人に対して、神様は、あらかじめ、チェックを入れると言う事です。

そこで、今基本的質問さんは、とても、裕福ではないとして、そんな中でも、人をたすけられないとしますと、裕福になったら、まるで、自分の為にしかならない、お金の使い方をするでしょうから、その、後性が問題なのです。<> しょこたん V<><>2007/03/05(月) 19:01:37 ID:<>

鉄も車も出発点は家業だったことは当然ですが
100年前に戻すのは実際問題としてムリだろうと言ってるだけです。<> 基本。<><>2007/03/05(月) 20:20:39 ID:<>>>401
今、大企業がしようとしているシステムは、社員の在宅勤務。
つまり、「家業的社員」の系列化です。
ロケットであれ、自動車であれ、高性能のものは、専門技術を磨いた「家業・企業」に依存しなければ、実は、製造出来ないと言う、現実があることはご存知でしょう。

結局は、「個人の能力」、「家業的グループの能力」に依存しなければならないのが、「創造の世界」。「ものづくりの世界」。

貸し者借り物の世界です。

> 100年前に戻すのは実際問題としてムリだろうと言ってるだけです。
百年前よりも現在のほうが、個人の能力が発揮しやすい、それだけ時代が進歩しているということです。
大量生産・大量販売という、量販の時代は、終焉し、個性の時代が始まっている現代だから、「家業」化しようと、企業は模索を開始しているわけです。<> 基本的質問<><>2007/03/06(火) 01:26:52 ID:<>これまでの幾度の過去生と、これからの幾度の未来生において、この濁り水の堂々巡りはいつまで繰り返されるのでしょうか。

一代二代と泥が薄れ三代目には清水となれるという、励ましのお言葉であり、末永くお道が続いたら、という条件付の予言でもあるでしょう。

内なる泥を出すのは、泥混じりのお話しを真に受けていては無理なのですから、先行された清水の方が必要なのではないですか。
人様をたすける以前に、この濁りの水を澄ませる事と、又再び濁る危険性の少ない、神一条のコミュニティーを熟考したいのです。

つまり、当初からの質問、泥の混じらない清水のありかと泥の混じりにくい講のありかたをお聞きしたいのです。

この質問に性急に答えていただかなくても結構ですが、基本さんの考えるおやさまの思想の中に、家業というキーワードの中にそのようなヒントがありそうですので、それを期待して今後も読ませていただきます。
どうぞお進みください。
<> 基本。<><>2007/03/07(水) 07:39:30 ID:<> 日々に神のせきこみこのたすけ
 みな一れつハなんとをもてる   二号24
 高山のおいけにハいた水なれど
 てバなハにごりごもくまぢりで  二号25
 だんだんと心しづめてしやんする
 すんだる水とかハりくるぞや   二号26
 山なかのみづのなかいと入りこんで
 いかなる水も澄ますことなり     二号27

水を澄ますと言う事は、神が急き込んでいる、たすけそのものです。

 日々に心尽くするそのかたわ 胸をふさめよ 末は頼もし 二号28

胸を治めよ、と読みます。
文字は、「ふさめよ」と書きます。
「ふさめよ」とは、どのような意味なのでしょうか。
胸を塞ぐという意味の「塞めよ」と、基本は理解します。

心鎮めて思案する。と言う事は、「鎮める」。
胸を治めよ。と言う事は、「塞めよ」。

どちらも、内に向かうエネルギーを指示されています。
出鼻の濁りに、一憂しない、軽々しく反応しない事が、大切と思案されます。

水のにごりは、神が澄ませる。
その為には、用木は、心を鎮め、心にふたをして塞めて、心を尽くすると言う心で無ければならないと、おやさまは、示されていました。
<> 伊予<><>2007/03/08(木) 16:43:19 ID:<>はうはうはう<> 基本的質問<><>2007/03/11(日) 00:17:13 ID:<>本文を2048文字以内で記述してください。
ご利用のホスト()は、何らかの理由により投稿規制対象ホストに含まれております。
同じプロバイダやネットワーク的に近い場所からクラッキング等の犯罪行為が行われた場合などに、システム保護の為投稿規制の処置をとっています。心当たりのない場合は、掲示板のルールを確認のうえサブミットボタンを押下して頂くことにより投稿することができます。

これってどういう意味でしょうか?
<> 基本。<><>2007/03/11(日) 02:49:02 ID:<>>>406
同意ボタン、私は、いつも押しています。
一日に一回は、同意確認出ます。
今まで出なかったのですか。<> 基本。<><>2007/03/12(月) 01:46:49 ID:<>お筆先一号から二号を執筆された明治の初期の時代には、高弟たちは、おやさまの教えを理解出来ていなかった。

それどころか、明治政府に迎合しようとする動きすらあった。
その根本は、「ふうふ」の理の治まらない姿にあると、親神様は、一号にて、きちんと示した。
泥水の事情の根源には「一寸の理」の間違いがあった。
「一寸の理」とは、人間の元始まりの「一寸はなし」の理の事です。
つまり、世界の普請は「ふうふ」の元から始まる。
これが、悟れない、悟らない高弟たちの信仰のレベルは、今日までも、引きずっていると言えます。<> 基本。<><>2007/03/13(火) 22:13:08 ID:<>おやさまの思想の中で、一番に理解されていないものは、「高山」に対するおやさまの「理のせめ」がお筆先の主題の一つであるということです。
ところで、天理教の教典では、「高山」と言う文字は、あるのでしょうか。
みあたらない。

つまり、天理教の教典には「大社高山取り払い」は、全く書かれていない。

おやさまの思想の真相を、隠している。
埋めているのが、現在の天理教会です。<> 基本。<><>2007/03/14(水) 07:17:14 ID:<>>>408-409
当時の高弟の思想的なレベルは、この逸話に、良く見えます。

 山中忠七が、道を思う上から、ある時、教祖に、「道も高山につけば、一段と結構になりましょう。」と、申し上げた。すると、教祖は、
「上から道をつけては、下の者が寄りつけるか。下から道をつけたら、上の者も下の者も皆つきよいやろう。」
と、お説き聞かせになった。

「大社・高山取り払い」。この、おやさまの思想。
「道も高山につけば、一段と結構になりましょう。」。この、高弟の思想。

比較すれば、事は明白である。
まるで正反対である。

中山秀司が、公認を取り付けて、表に出ようとした。
それも、おやさまの思想とは、真逆である。

天理教の教典が、又、教義書が、「大社・高山取り払い」を正面から説いていない。
それは、信者たちの思想のレベルの問題が、一番の原因である。
分からない、何も分からないものに、教えを説明するのなら、それは簡単な事だが、まるで違う先入観のある信者に、説明するのである。

これには、独特のレトリックを用いるしかない。

それを「言わん・言えん」という。

だから天理教団は、教は、「対高山は」説かない。
そして、自らが、悪因縁を自覚するを待つという、組織となっている。<> 基本的質問<><>2007/03/14(水) 12:29:48 ID:<>>407
数週間前から突然出だしました。
投稿規制対象ホストに認定するのは誰なんですかね?
神様がもっと穏やかにと教えて下さっているのかもしれません。
横道に逸れるのでこの話題はやめましょう。
>408
これまでの悪事混じりの旧社会に、神一条文明が現れようとした時代に於いて、社会の基本単位である人間の関係性、夫婦を形成する男女のカップルが、神一条のコミュニティーからうまれることは、新しい神一条人間の誕生が期待され、神一条文明の幕開けとして、どれだけ祝っても祝い足りない出来事だったはずです。

神一条文明は勿論、一時の開花ではなく、地場という根がある限り再び幹が育ち、花が咲き、実がのり、新たな種を、汚染されていない土壌によって育むことになるのでしょうし、やがては世界中を健全化することにも繋がってゆくのでしょう。

肉体という仮の宿、人生という泡沫の夢をうたうブッダ達でさえ、なしえなかった極楽浄土が、幽冥ではなく、この地上に地場を中心として現れようとしていたのでしょう。

神一条文明は、夫婦が家庭を神一条化し、家業が小コミュニティーを神一条化し、講が社会を神一条化して、維持発展してゆくのでしょう。

もし、夫婦を神一条化し、家業を神一条化し、講を神一条化するはずの、根元付近の土壌が、大社高山イズムに汚染されてしまっているとしたら、神一条のコミュニティーが単独で成り立つ事を模索しなければならないとしたら、この綱渡りは骨のおれるものになるのでしょう。

さらに、神一条のコミュニティーの模索が、根元付近の土壌汚染の浄化も同時に考慮すべきだとしたら、困難さは増すばかりではないでしょうか?

神一条の道は先になりても成り立つ、という神様の約束は、模索と待機いう在り方をうながしているのでしょうか?
<> 基本。<><>2007/03/15(木) 01:47:52 ID:<>> 神一条のコミュニティー
この言葉の意味するものは、「陽気暮らし社会」と言う事であるとするならば、まず、天理教団内部においては、実現は不可能です。

天理教会組織というのは、普請現場の「普請用仮設事務所」と言うようなものです。
「地場と中山家」以外は、道具や用材、大工という存在であり、普請のためだけに設置されるものです。

その天理教会組織が、普請をするには、神の働きが無ければならない。
その意味で、おやさまの思想と、まるで違う向きの天理教信者の「陽気暮らし」は、「陽気遊山」とはまるで違うものといえます。<> 基本。<><>2007/03/16(金) 03:21:29 ID:<>天理教社会というのは、「陽気普請の職能・機能集団」です。
社会とは、一線を画した所に位置している。
それには、宗教社会という隠れ蓑は、宗教の因縁上からも、隠れ蓑として利用される事は、妥当です。

そして、世の中の「厄介者・廃れ者からたすける」。
これも、天理教組織の重大な役割です。

それに対して「講」というものは、「非天理教社会」です。
天理教会は、その意味で、「講」であるためには、職業を持ち家業をなさねばならない。
そして、社会の中の普通の経済体としての、存在に、戻る事しかない。
教会が講と言うのは、それだけの実践があった後の事です。

世の中そのものの中に、「講」としてあるというのが「講」です。
天理教系統信仰の、あり方の中では、それは、不可能です。
つまり、系統をばらしてしまう事は、幼稚園児が一列に手をつないで、いる姿を批判するようなもので、成人の途中としての姿である以上、系統はばらせない。解体できない。
一人前になった時から、自立した。
自立したものが、結ぶのが「講」。
自立できない信者の、手をつなぐ姿そのものは、意味を成さない。
と、言う事です。<> 基本。<><>2007/03/16(金) 10:14:05 ID:<>基本的質問さんの為に、もう少し詳細に述べましょう。
天理教の宗教組織と言うのは、
?、元々おやさまは許さなかった。
?、弟子(信者・特に高弟たち)は、宗教組織になりたがった。
?、教祖に物を言わせなければ、公認を認めてやろうという条件を飲んだ。
?、教祖は、ものを言わなくなった。(お体冷たくなる) >扉開いた。
?、この世の泥海の中に、天理教会本部という「苗代」=地場ができた。
?、各地の講は、天理教会と公認を望み、地場の万分の一の理として、地域の「苗代」になろうとした。

と、このような、?から?までの経過を経ました。

ところが、各地の天理教大教会は、「苗代」であろうとするよりも「水田」であろうとた。
違いは、収穫をあげるという事です。
「苗代」は育てるだけて、役割を終えます。が、「水田」は、収穫をあげます。

基本的質問さんは、「講」と言う前提で、教会を論じようとしておられるけれど、それは理想ですが、現実の大教会は、「我が田思想」。
つまり、「苗代」に徹していない。
そしても「講」でもない。

欲と高慢のなれの果てです。<> 天国は遊んで装備売買します<><>2007/03/16(金) 18:27:17 ID:<>+9武器から+10武器
http://www.netgamelivedoor.com/online/
その他アルティメットバトルに出現する全モンスターパターンも完全収録!
巻末にはNPCが買取りしてくれるアイテムの一覧や50音順の索引など“すぐに役立つ”インデックスを収録。
検証として各100回にわたるオーバーエンチャント実験の結果も掲載。
+9武器から+10武器ははたして100本中何本できるのか!?
その他の強化数でもn-daiとb-daiを各100枚使った実験をしてみました。
防具の強化についてもブラックミスリル製防具のOE実験も各100回ずつ検証。
興味深い結果が収録されています。<> 基本。<><>2007/03/17(土) 00:46:30 ID:<>ギリシャの奴隷制度と言うのは、ギリシャの民主主義を下支えしたと言われています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9#.E5.8F.A4.E4.BB.A3.E3.82.AE.E3.83.AA.E3.82.B7.E3.82.A2.E3.81.AE.E6.B0.91.E4.B8.BB.E4.B8.BB.E7.BE.A9
引用します。
{古代ギリシアの民主主義
現代の民主主義は古代ギリシアの都市国家(ポリス)にその起源を見ることができる。古典ギリシア語のデモス(demos、人民)とクラティア(kratia、権力・支配)をあわせたデモクラティア(democratia)がデモクラシーの語源である。しかし古代ギリシアの民主主義は各ポリスに限定された「自由市民」にのみ参政権を認めただけのものであった。例えば女性や奴隷は自由市民とは認められず、またギリシア人であっても他のポリスからの移住者には市民権が与えられることは少なかった。だが、やがて一部の扇動的な政治家の議論に大衆が流され衆愚政治化していき、やがてアテナイを初めとする民主制の国家は君主制・寡頭制の国家に敗れて崩壊する事になった。

このため、ソクラテス・クセノポン・プラトン・アリストテレス・アリストパネスと言った知識人はこれを批判的に捉え(ただし、彼らの批判が全て的を射ていたものであるかどうかは別問題であり、彼ら個人の偏見が含まれている箇所も存在する)、以後民主制は無統制で無責任、無能力な人間が政治を動かしていくという、所謂「衆愚政治」の悪名を持って呼ばれる事になり、以後大衆には国家を統治する能力はないとする政治学的な常識が人類史に定着する事になった。}

>>415
天国にいて、誰か奴隷として労働させ、自分はバーチャルゲームを楽しむという思想は、おやさまの思想ではありません。
おやさまの、弟子たちが陥った「幽冥」=「バーチャル」の思想・そのものと言えます。
それが、理の親信仰と言うものと全く同質のものであり、おやさまは、厳しく戒めています。

その、自分たちだけの「天国」を、そこにいて、「武器」のリストを・・

神の残念。
電磁波の肉体への影響と言うものは、それは、人の心への返しです。
必ず出るものでもない。
しかし、奴隷を支えとした「天国」は、それそのものが精神の因縁の道です。

<> 普通の天理教徒。<><>2007/03/17(土) 02:36:52 ID:<>ギリシャ文明のような高い文化水準は、一方で、支えている奴隷たちがいたから、出来た。
それだけの、生活基盤が無いと、あの時代には文化は、あんなに発達できなかったと、単純におもうのですが・・<> 基本。<><>2007/03/17(土) 02:43:22 ID:<>>>417
> 高い文化水準は、一方で、支えている奴隷たちがいたから、出来た。

そうではなく、奴隷社会を作っていなければ、もっと豊かな文化が出来たのだと言う事、それが天理だと思います。

今日の、ネット社会での、「ひきこもり」などの問題は、子供には楽園をと子の親が願い、働いて、そして、その願いどおりに、
>>415
天国は遊んで装備する。と、言う、ゲームに浸る子供を「ゲームの天国」に住まわせているわけです。

発想を変えて、文化とは、「遊山」とは、「はたらく」事を家族が共有する事としてみつめないと、人間らしい社会にはならない。

おやさまは、家業第一と言われている。
家庭・夫婦。人間関係の土台は、金銭ではない。
この、単純な原点に戻りたい。今の私たちです。<> 基本的質問<><>2007/03/17(土) 02:47:09 ID:<>神様の言われる地場屋敷のあり方をのぞいて、現在の天理教にほとんど興味はありません。

個人的には、なんでもない者でありたいという願望、現社会の政治に無縁でありたいと思うと同時に、宗教の中の政治や諍いとも無縁でありたいと思っています。コンパクトな陽気暮らし。あえて名付けるとすれば「ノンキ暮らし」に憧れます。

けれども神様のお言葉、国会では治まらない、この世治める真実の道、道は先になりても成り立つ、といった文言を覗き込むと、これまでの人類がなしてきた政治や宗教による暴力的で嘘つきな統治、から、神一条によるやさしい真実な統治というものが心に浮かんで来て、憧れを感じるのです。

神一条が世界を治めるということは、先ず宗教性が先行するコミュニティーの存在と、宗教を支配の道具に利用した宗教政治家の心の出直しが前提になることは理解できますが、それが広範囲に及ぶとなると、その中心と周辺部の関係はどうなるのかと想像します。

かつて、他の時代に類を見ないような、宗教性による統治が、卑弥呼の時代には、かすかに存在したという歴史家がいますが、それとても、永くは続かなかったのですから、卑弥呼のような存在が現れても、亡き後は又、拮抗、競争、闘争、他者への弱体化と所有支配、という権力闘争に明け暮れ、結局は国と人心は乱れ力による支配政治という破目に逆戻りしたのでしょう。

卑弥呼の時代は大量破壊兵器も地球環境への破壊力も、私達は手にしていなかったのですから、学びとして、過ぎ去った時代のことを大らかに考える事もできるかもしれませんが、これだけ途方もない破壊力を個々人が手にし、増長してゆく時代は、一国の都合を超え、待った無しに、神一条文明が浮上しない事には、世界が益々大変になるだろうことは容易に想像されます。


多くの信仰者は、精神的な自立はなくとも、経済的な自立はしているのであって、精神的にも経済的にも自立していないのは、所謂専従教会ではないでしょうか?

そもそも言及すべきは、「中心の専従教会」がはたして経済的にも精神的にも自立していると言えるかどうか、という点ではないでしょうか?

現在の中心の専従教会が、経済的にはともかく、精神的に自立していないなら、神一条文明は起こりえないだろうと思います。

中心からぶどうの房の様に繋がった、経済活動を伴ったKOUのネットワークというものが浮上した場合、そのKOUは経済的には自立していても、精神的には中心を頼りとして進むのでしょう。

また中心は、精神的には自立していても、経済的にはKOUを頼りに進むでしょう。

根は大地の養分を枝葉に送り、枝葉は太陽の養分を根に運ぶでしょう。

この状態を取り戻せば、根も枝葉も共に栄える為の、双方の養分を双方向に運ぶ、KOUMOTOという幹も存在理由があるでしょう。

病気の症状は、幹や枝葉の上に現れていても、根本の原因は、中心付近の土壌汚染に求めるべきではないでしょうか?

神様は現在こそ益々地場屋敷の掃除をいそがれているように思いますが、いかがでしょう?

心身共にもっと健康な人間、やさしくて便利で健全な社会、穏やかで潤いのある人間世界、「JIBAを中心とした神一条文明」が現れないなら、世界の暗闇は益々増すばかりでしょう。

根元の土壌汚染によって根からの純粋な養分を受給できないとすれば、KOUは脆弱なものになるでしょうし、ネットワーク全体としては社会に影響を及ぼすどころか、自立できないひ弱なお荷物にもなりかねません。

何よりも個々人の、神一条文明への陽気な遊山が始まらないではないですか。

神様の望まれる中心からの浄化はどのように起こるかは、神がなすことを見つめ続けるしかありませんし、個人としては自己の中心を見つめ続けるしかありませんが、神様の言葉に見入ると、現在でも、水面下で何かが進行していると感じるのです。それが何なのか、基本さんはどう読まれているのか?伺ってみたいと思うのです。

大げさに考えれば、地場から神一条文明を再浮上させる為の少数のコミュ二ティーKOUの存在が、伝統宗教の中にも秘教が存在するように、形としてはこれまでの企業を装い、教会を装い、講を装っていても、ありえるのではないか?とも想像するのです。
<> 基本。<><>2007/03/17(土) 04:58:34 ID:<>基本的質問さんの言われている事は、?地場はどうするのか、?、道専務の教会はどうするのか、という二つに集約されると思います。
が、教祖は、組織には期待していない。
その点を、見つめて頂けたらと思います。

「一人万人」と言うお言葉がありますが、それは「ワンマンアーミー」という見方が妥当だと思います。
一万人の組織よりも、一人の実践者。
そういえば良いのでしょうか。

先ず、基本的質問さんご自身が「一人万人」になる事を目指すことであり、組織に、求めるものではない。
ここの点に、おやさまの教えとの、根本的な違いがあります。

> コンパクトな陽気暮らし。あえて名付けるとすれば「ノンキ暮らし」に憧れます。
もし、それが本旨なら、組織のあり方などは考えないことです。
そして、自分に使命があるとしあんするなら、なおさらに、組織のあり方を考えるのは無意味です。
>
問題は、個人に帰結すると思います。

その前提で、論じてみたいと思います。<> 基本。<><>2007/03/17(土) 05:17:24 ID:<>先ず、おやさまの思想は「天にては・身の内にては・世界にては」です。
三つに分けて説かれています。
陽気暮らしと二代真柱に命名された、人間の理想生活を思案する場合にも、この三つの立場から、思案しなければなりません。
天というのは、「神様の守護」。
身の内と言うのは「各個人の肉体」。
世界というのは「世界」。

今、基本的質問さんが悩まれているのは、「世界」においての陽気暮らしの問題ということです。
この世を治める真実の道、と教えた教祖は、「人材」の来る事と育てる事を、第一義においておられます。
地場は苗代というのは、「人材の養成」。
では、地場はどうするのか。
「来る大工」。
それは、世界から来るのです。
「ひねた木」からです。

つまり、地場の改革の問題は、大工が来て真柱様がいて、なされるのです。
「北」「南」
来たと言うのは、これまで通って来た、「来た・北側」。
南というのは、これから育つ・集まる、「皆々・みなみ側」。
この両輪で為されます。
そのときには、過去の側近たちは、掃除されます。
地場の問題は、このように、すでに始動しています。

問題は、大教会制度です。
制度が悪いのです。人間が、求めて作りました。
・・・<> 基本。<><>2007/03/17(土) 05:27:53 ID:<>世界においての陽気暮らしの問題は、各人の心に任されていて、それに対して、どうしろこうしろと言うことは、言わないようにというのが、おやさまの思想です。

世界に対しては、どうするかといえば「山の中で天理王のつとめ」する一人の人間が先ず登場する事です。

おことばに、「道の中の世界」、「世界の中の道」と、ありますが、
世界の中の道をつける、通る人材がいれば、この世は陽気になります。

天理教の人は「道の中の道」を自負するから苦しいのです。
それは、「この道は道の中の道や」と教祖が言われたと、自分を追い詰めているわけです。

「来る大工」と言われているように、地場のものは世界に、世界の者は地場にと、新陳代謝しなければ、「代謝」の埃です。
その、循環が、隔てない天理教を作ることになります。

それを邪魔しているのが、大教会の「かなめ会」。
一列とろくぢの邪魔になっているということです。<> 基本。<><>2007/03/17(土) 05:32:32 ID:<>人材を、大教会管理をやめることです。
お世話したらよい。大教会は。
しかし、信者は全員、窓口は直轄教会としても、全員が本部直轄の信者になれば良いわけです。

それじゃ、苦労して丹精しても大教会にメリットがないという、発想をするとしたら、宗教家業の悪行因縁です。
元々、本部に尽くすための教会設立だと、初代たちは語っていました。
それを嘘にしないことです。
本部のお役に立って、礼を受け取らない。
良い心がけです。<> 基本的質問<><>2007/03/17(土) 12:30:39 ID:<>一身一家一宗教一宗派の囲いやラベル、現在の政治闘争、支配構造の詳細にはあまり興味を覚えません。

そういったものを超えて、百数十年前に姿を現した神一条文明を思案するとき、おのずと注意の焦点は、その神一条文明の中心である地場というものに向かいます。
そして、神様の望まれる地場と世界の浄化にとって、大工と真柱の存在が前提だと神様は仰っているようです。

この前提に立って、基本さんの仰る大工という存在は、どのようなものでしょう?

>つまり、地場の改革の問題は、大工が来て真柱様がいて、なされるのです。
「北」「南」
来たと言うのは、これまで通って来た、「来た・北側」。
南というのは、これから育つ・集まる、「皆々・みなみ側」。
この両輪で為されます。
そのときには、過去の側近たちは、掃除されます。
地場の問題は、このように、すでに始動しています。

すでに始動しているということは、真柱が具体的に誰かを大工と認めているということでしょうか?
<> 基本。<><>2007/03/18(日) 01:36:37 ID:<>まず、
> 真柱が具体的に誰かを大工と認めているということでしょうか?
と、その事ですが、真柱が誰かを大工と決める事は、ありえません。
大工が来ると言う事が、皆世界からだんだんと来る。と言う事が、教えられています。

ひな型というものは、数の理で知らされた理の世界です。
また、文字の理で知らされた理の世界です。

「元冶元年」
この文字は、「元を治める始まりの年」と、いう文字です。
この年に、つとめ場所のふしんをしています。
大工の伊蔵さんは、この年に、お屋敷に来ました。
それは、立教から二十六年目の出来事でした。

26というのは、「始めかけの数理」です。

おふでさきには、「26日に始めかける」と、知らされてあります。
そして、それは、「正月二十六日に始めかける」と知らされてもいます。
126。
おやさまが扉を開かれて、126年。
その時に、大工が来るというのが、基本の理の思案です。
<> 基本的質問<><>2007/03/19(月) 00:41:44 ID:<>>おやさまが扉を開かれて、126年。
その時に、大工が来るというのが、基本の理の思案です。

後5年ですか?
なんだか、人間の努力が無駄にも思えて虚しくも感じますが、その時までに私達が準備しておくことは何ですか?<> 基本。<><>2007/03/19(月) 00:54:05 ID:<>>>426
> 人間の努力が無駄にも思えて虚しくも感じますが、
> その時までに私達が準備しておくことは何ですか?
人間が努力してもしなくても、大工は来るでしょうが、人間が努力しておかないと、「普請」は、実施されない、または「ある段階までの」中途半端なものになる。
成人次第と言う事は、「努力+結果」次第と言う事です。

例えば私は、基本は、大工にはなれません。
すでにお地場に帰っているわけですから、「来る大工」になる資格は無い。
それがつまらないとは思いません。
陽気普請の用木にも、基本はなれません。
「九十九年たって皆出直し」、の側に基本はいます。過去の道具と言う事です。
つまり、「出直し」です。

それまでに何をしなければならないのか。
それは、教理の基本の匂いかけです。
それは、一つは宗教家業化した、系統理の親信仰思想の掃除、除去です。
根本には、原典に準拠した信心の復元ですが、本当の復元は、126から始まります。

その時基本は、世界にいます。
道にいてはいけないのが、理です。<> 基本。<><>2007/03/20(火) 00:54:14 ID:<>おやさまは、道の内外に隔てはない、人間の親である神です。
世界の陽気普請のためには、世界一列は兄弟であると言う自覚と、人間の精神の自由と言うものが、根底になります。
つまり、「元の因縁」の自覚です。

おやさまは、このように述べています。
 この世をはじめた神の事ならば 世界一列みな我が子なり 4号62
一列の子供が可愛いそれゆえにいろいろ心尽くしきるなり 4号63

宗教思想と言うのは、「神」として拝する、信心すると言う問題です。
それは、狭い思想。
>>0
> しかし、「おやさま」の思想は、天理教という宗教思想というには、より大きな思想であり、
> 宗教云々を絡めると、その思想が理解されない、狭い道に陥ることになります。
と、当スレ冒頭で申し上げてあります。

しかしおやさまは、宗教思想として、「天理王命」と言う一つの宗旨を、おさしづにおいて、示されています。
みかぐらうたでは、一に大工の伺いに何かのことも任せおくと、知らされています。

信心と言う形態は、「天理王命」という宗旨は、この世の普請のための、格別のものです。
それは、「不思議」な「普請」のための、宗旨です。

そして、おやさまは、
「不思議な普請をするなれど 誰に頼みはかけんでな」と、言われています。

誰にも頼まないと言うことは、この普請は、神のなす普請と言うこと。
人に頼む、信者に頼むと言う普請ではない。
神のお働きが、この世を普請するという思想、おやさまの思想です。<> 基本。<><>2007/03/20(火) 01:17:41 ID:<>つまり、
> おやさまは、「不思議な普請をするなれど 誰に頼みはかけんでな」と、言われています。
のですから、
>>426-427
神様に頼まれてすると言うことは、一つも無い。
自主的に、精神の自由と言う前提をきちんと踏まえて、自分が自主的に、したいならすればよい。
したくなければ、何もしなくても良い。

中途半端な、使命感などは、普請の邪魔であり、どうすればよいかと考えなければならないのは、不思議普請についての人間の思案ではなく、世界一列兄弟と言う、たすけ合いに向けての思案のみという事になります。<> 基本的質問<><>2007/03/20(火) 14:21:01 ID:<>>一に大工の伺いに何かのことも任せおくと、知らされています。
>大工の伊蔵さんは、この年に、お屋敷に来ました。

基本さんの大工像とは本席様のようなお方と想像しているわけですね?<> 基本。<><>2007/03/21(水) 02:07:45 ID:<>> 基本さんの大工像とは本席様のようなお方と想像しているわけですね?
そうです。

宗教の「天理教組織」の問題は、「おさしづ」にて、神意を知らせ、天理教会の独立までの道をとおして、組織についての「普請」をおさしづしています。
つまり、天理教会と言うもの、そのものの普請を通して、世界の普請の、要諦を示されたものです。

この世の普請というものは、宗教組織の普請は、それに含まれた一部門的な組織です。
そうではなく、もっと現実的な組織のあり方の上での「大工」さんたちが、登場し始めると言う事だと、理解しています。<> 基本。<><>2007/03/21(水) 02:26:52 ID:<>大工さんの言葉に、誤解があるといけません。
伊蔵さんは、お屋敷に来ても、大工仕事していて、その中で、おたすけをしていた。
これが、大工です。
本席が来るのではない。職能をもった、おたすけにんが、現場でおたすけし、「理をおしえる」と言う事です。
その時に、元の職能を維持し続けていると言う事です。

平野楢造さんは、やくざで、乱闘をして教祖を守った人、お屋敷に常詰めになってからは、乱闘乱闘、職能を生かし続けていた。

教会本部は職能集団として、「理をさとす」職人が、働きながら、地場を・お屋敷を維持する事になるわけです。
それが、世界の普請に人材を育てて、陽気世界組織に、普請する事になります。<> 基本的質問<><>2007/03/23(金) 13:35:02 ID:<>地場という神域、スピリチュアルスポットには、複数の本席様のような方々がいらっしゃって、初めて屋敷は神の田地になるのかもしれません。

神様は、世界の中心と自らの中心を意識する事しか知らない私のような無知な人間にも、素朴でよくわかる、お言葉を残して下さっているように感じます。

>来たと言うのは、これまで通って来た、「来た・北側」。
>南というのは、これから育つ・集まる、「皆々・みなみ側」。

この基本さんのお言葉に時間的な順序があるとすれば、
かぐらづとめを思案すれば、本来、「北」という永遠の意識の神は、「南」という無限の守護の神に先行すべきものなのではないか?とも思うのです。

二つの中心を一つにして眺め、北南という表裏一体の状態を想像すれば、穏やかな悦びに包まれます。

どのようにしてかは不明ですが、宗教性が先行する社会が現れなければ、この地上の苦悩と不健康は益々増すばかりだろうし、世界は広範囲に亘る非情な壊滅状態を見る事にもなるでしょう。

現在の世界の問題は、先行すべき「北」の不在が根本原因なのでしょう。

もし南北一対の地場屋敷が現れれば、多くの伝統宗教の方々も、開祖達の香りを取り戻し、その宗教活動にも悦びを取り戻せることになるのではないでしょうか?

この世界の中心にそれが成立すれば、中心付近の神一条文化はやがて世界に広がる神一条文明の発信地として認識されるようになるのかもしれません。
<> 基本。<><>2007/03/24(土) 06:47:24 ID:<>基本的質問さん。
簡単ですが、重大な事があります。
北の人は、南の人の正面にいます。
南の人は、北の人の正面にいます。

見つめているのは、丁度自分の反対側です。

例えば私は南の人です。
南の人が南の事をみたら、考えたら、それは、お勤めの理に反します。

真柱様の胸中は、「南の人」の事でいっぱいだろうと思います。<> 基本的質問<><>2007/03/26(月) 15:04:09 ID:<>真柱様にも北をお向きになることをお勧めしたいと思います。

業病も自殺も諍いも凶悪犯罪も戦争も自然破壊も、本をただせば、哲学者達の呼ぶ実存的苦悩、虚無感に行き着くのではないかと思います。すなわち「味気なさ」「からっぽさ」からやってくるのではないかな?と思います。

一例示せば、これまでの文明社会の教育は、内実の「味気なさ」への意識に蓋をし、最強の麻酔、支配欲という、欲と高慢のドンヅマリ剤を投与し続ける結果に陥っていないでしょうか?
支配競争に駆り立てられながら、自らを振り返らないように躾けられなければ、適合できない社会であれば、それはこれまでの社会のほうに問題があるのではないでしょうか?
そしてその社会を培ってきたこれまでの文明に問題があるのではないでしょうか?
子供の病気はそれを取り巻く家庭に問題があることは諭せても、それを取り囲む社会に問題があり、そしてそれはこれまでの(嘘)文明に問題があることを認識させなければ、根本的なたすけはおぼつかないだろうし、もしそれを宣言するのであれば、真実の文明からの挑戦状として到来するしかありえないのではないでしょうか?

その挑戦状が地場から発せられたときを旬刻限と呼ぶのではないでしょうか?
この立場からしか、「世界たすける一条ばかり」などはありえないだろうと思います。

お偉い様方は、足元に大社高山を抱えていることへの疚しさが麻酔の役割をして、深い眠りに陥っているのでしょうか?
まだ見ぬ神一条文明の香りを、おやさまの思想?から読み解く必要があるならば、

大社高山:宗教支配層

高山:支配層

高山のお池:これまでの神学思想家。虚無感に立脚した哲学思想化。これまでの支配体制の擁護者。借り物の知識の頭への集積者。

から:虚無感から他者支配へと向かう心の病、内実の虚無感への認識を避ける為の麻酔の増長から作られた、表面だけ賑やかで内面の虚ろなこれまでの文明社会

唐人:虚無感の土台の上に立ったこれまでの文明社会の信奉者。既存の高山支配体制の召使い。これまでの高山のお池に対してオウムのように反応する施行者、(宗教)教師など。

にほんの地:魂の大地

にほんの者:この世が神の体であるという認識の上に立っている者。この世に神聖さと法則性の双方を、ほのかであっても、感じている者。魂の実存主義者。

にほんの根:地場とかんろうだいつとめと神のはなし。

となりますか?

根を掘る模様もさとりもなく、闇雲に大社高山に従って、残酷な社会を維持しながら、自身の足元から苦悩の淵に陥っている、どこかの宗教団体の構成員を見ると、悲しくなります。

どのような律を説き、法を使っても、根源的なたすけ、を施せないなら、心が寒くなるように感じるのです。

地場の道は、谷底と高山の双方に居る、にほんの者から理解が始まるようですが、神様のお言葉に接するチャンスのある、高山のお池には、期待がかけられている様にも読み取れます。
これまでの高山のお池の水は淀んでいても、清い水に接する機会を得られれば、お池の底からも清い水が湧く可能性があるのではないかとも読めます。

地場に繋がったにほんのものに導かれた「から人間」にも、いずれは、この大地の表面を覆う大社高山が流したヘドロと唐人のばら撒いた犬の糞の下には、永遠無限の魂の大地が広がっていたことに気付かされるようです。

世界中がもともと「にほんの地」であったものを自身の目の曇りから「からの地」と見間違えていただけだったことにコロリと気付かされるのではないでしょうか?

大社高山は外科手術も必要かも知れませんが、その他は、自身の唐性を蒸発させ、魂の大地に気付けば、陽気遊山が始まる可能性があるのだと呼びかけてくださっているようです。

基本さんのように、傷つきながらも単独で根を掘る勇敢な方のほうが少数派であって、大多数の方の平和な目覚めの為には、地場屋敷の浄化は「世界たすける一条ばかり」の大前提ではないでしょうか?

>職能集団として、「理をさとす」職人

が他の職業と兼業であれば、世界中からかえられる方々の事を考えれば、私ような無知無明の者がお話を伺える順番がなかなか廻って来ないではありませんか?

魂の曇りを振り払い、悪しきカルマの原因を広範囲に払拭するには、やはり先行した魂の存在が必要ではないでしょうか?

私共凡夫には無理ですが、少数の目覚められた方々には、経済的な条件さえ整えば、「世界たすける一条」のおたすけ活動、地場屋敷の浄化活動に専念していただきたいと思うのが自然ですが、いかがでしょう?
<> 基本。<><>2007/03/27(火) 21:27:55 ID:<>誤解だけは解かせてください。
> 基本さんのように、傷つきながらも単独で根を掘る勇敢な方のほうが少数派であって

私は全然傷ついていません。
ホントに。
私は、自分にはでなく、おやさまには、絶対的な信頼を置いています。
だから、未来にも・現在にも不安がないのです。
問題は、一瞬です。その一瞬をきちんと迎えられるかどうかです。
そして、何十万人もの人が理想的なおたすけ活動を開始するときには、多数のおたすけ人。

そういう日が来るのです。
いつの間にか、そうなるから、天然自然の天理の道です。<> 基本。<><>2007/03/28(水) 14:58:47 ID:<>基本的質問さんのご質問に、問答していて、思ったのですが、基本的質問さんにはもう答が見つかっていると言う事で、基本はまだ答に行き着いていないという立場にあるという、立場の相違です。

つまり、基本的質問さんの趣旨で言いますと、地場を浄化し神一条の組織とすることで、陽気世界普請はできるではないかと、「正答」を言っておられる。

しかし、基本は、それは「不正解」だと思っている。

その相違点を見出す鍵は、「異端・異説」をこの世においているのは親神様の思惑によるものだと言う事が、それが鍵です。

例えば、天理本道の大西愛次郎さんは、人間こそ甘露台だと、悟り、それを説いた。
それは、「正答」です。
が、「正解」ではない。

大西愛次郎さんは、奈良の教会に全財産供えてしまって、その結果、大変な困窮という老婆のために、なんとかしたいと努力した。
が、供えてしまったお金は、教会本部も財政厳しいところから、みんな使われてしまっていた。
公認運動やら、普請やらに使われてしまっていて、戻せなくなっていた。
大西愛次郎さんのために尽力したのは増野正兵衛さん。
だかどうしようもなく、結果彼は、金集めの天理教とさよならして、一人の人間に立ち返り、「人間甘露台」説を説いた。

ここまでは、正解なのです。
現在の大教会初代級のおたすけ人であった、大西愛次郎さんは、教会長職を辞して、普通の市民として、そのように生きたのです。

けれど、その大西さんの周りに、人が集まった。
たった一年で、その大西さんの説を利用しての、組織作りが始まりました。
大西家の家族一人一人に神名がつけられて、「天理本道」と言う分派となった。
人間甘露台は、正答。
けれど、正答は、正解ではない。
教団批判した結果、新教団を作った事。
それで、大西さんは、赤い靴を脱げない赤い靴の踊り子となりました。つまり、異端となったと言う事です。

> 地場を浄化し神一条の組織とすることで、陽気世界普請はできるではないかと、「正答」を言っておられる。
>
しかしそれは、根本において、不正解です。

その意味が理解されない限り、おやさまは、「正答」への道は示されません。
そういうものが、おやさまの思想です。

<> 基本。<><>2007/03/28(水) 21:04:59 ID:<>水屋敷の飯田岩治郎さんの例を見てもそうです。
おやさまから水の授けを頂いて、大勢の人をたすけた人です。
けれど、おやさまが扉を開かれた時には、その後の推移をじっと見ていて、積極的には動かなかった。
それゆえに、新参者の、人たちの教会公認運動に先を越されて、本部の要職にはつけなかった。
そして、水屋敷と言う謀反に走ります。
それは、宗教家業の道です。

何もしないでじっと見ていた。
その飯田岩治郎さんの態度は、正答と言えば正答でした。
おやさまは、けっして教会公認を望んでいなかったことを知っているものとしては当然の態度でした。

しかし、橋本清にそそのかされて、水屋敷と言う組織を公然と作っていく。それは、おやさまの後継としての自分と言う行動であり、しかし、それは、異端になったと言うことです。

地場を浄化したかったのは、一面、飯田岩治郎の側であり、公認運動に成果を上げて、どんどん系統信仰が幅を利かしてくる中での、批判精神そのものならば、飯田岩治郎さんを悪しきとのみ言うわけにはいかないでしょう。
が、宗教組織を構築したところに、すでに、おやさまの教えとは、批判者本人が逸脱した。

水の授けの効能だけで、世界を助けようと言う発想そのものが、貧困と言うしかない。

茨木基敬さんの天啓事件も、本部の浄化のために名乗りを上げたと、見るべきでしょう。

本席亡き後を、天啓がある自分が、教団を導くべきであると言う、茨木さんの判断が、間違いであったとしても、それは、当時の教団の現状を見るに見かねていたと言うことです。<> 基本。<><>2007/03/28(水) 21:11:59 ID:<>大平良平氏にしても、山名系の信者として、教団のあり方に批判を持ち、浄化するために、新宗教にて、批判をした。

けれど、その批判している人たちは、或いは「正答」者もいたかもしれないが、正解者は一人もいない。いなかった。

理を、理解しないままに、批判すると言うことは、それは、「野次」とおんなじである。

「馬鹿やろう、あんなボール玉に手をだしゃがって」
と、やじる内容は、的を得ているとしよう。

問題は、自分が当事者として、何ができるのかである。<> 基本。<><>2007/03/28(水) 21:22:55 ID:<>おやさまは、通らぬ道は、道とは言わんと、お言葉されている。

批判した、批判者には、おやさまは、
「それならあんた通ってごらん」と、必ず、「道」を通す。

その時、きちんと通ることが出来る者だけが、批判者として、一筋であったという事になる。

八島秀雄さんは、教団組織の体質を批判し、現代的な天理教教理の展開を説いて、当時の教団の若者の耳目を集めた。
そして、共産主義思想としての中山みきの思想を展開し、お尽くしと系統信仰の閉鎖性を説いて、社会的に開かれるべきだと、批判した。

それでは、いったい、八島さんは教団から離脱となったとき、何をなしたか。
開かれた活動に出たのか、
いや、八島系の宗教組織を作り上げただけのことである。
櫟本分署跡の参考館というものをつくって、閉鎖された批判組織の中にいるだけである。

つまり、理を知らないで、野次を張り上げていても、そんなものだという事になる。

それならば、基本よ、あなたはどうなのか。<> 基本。<><>2007/03/28(水) 21:29:56 ID:<>少なくとも、基本は、批判のために、三十年以上を費やした。
理を知らないと言う、言い訳は、基本には当てはまらないはずであるが、基本の三十年などは、ほんの三日程度の理の思案である。

だが、大声で野次を怒鳴った以上は、
理解した、その解答を、示し行うしかない。
その解答を、おやさまの思想として、基本は、語ることから開始した。

それが、ザおやさまの、趣旨である。
そして、今、この、一連の問答の中で、解答を迫られていると感じている。<> 基本。<><>2007/03/29(木) 09:32:58 ID:<>全体を見ないで、部分の問題点を改善しようとすると、昔の諺でいうならば、「角をためて牛を殺す」という事になる。
天理教とは、もともと、「厄介者、廃れ者」からたすける道と言われている。
だから、「有能な清廉な者」は、後にまわすと言う原則がある。
特に、有能な人間は、言うなら、存在そのものが高山だから、後にまわすことになる。

「あんなものがこんな者」。
それがおやさまの思想である。<> 基本。<><>2007/03/29(木) 09:46:38 ID:<>つまり、この世界の普請には、人に笑われそしられると言う絶対的な条件がある。
人に笑われることも無く、そしられることも無いとすれば、それは「高山」であるから、普請には、直ぐには使えない。

つまり、異端になった人たちと言うのは、実は有能である。
有能であるから、組織のリーダーとして、人を束ね、異端化して行った。
おやさまから教えられた事を、素朴に行うだけの人なら、異端にはならない。
天理の教えや、ご守護の頂き方と言う「理」や「理の方便」を駆使して、人をただ助けると言う事を越えて、導き手になると、その人たちは有能であるからこそ、新たな高山となる。
それが、教えへの謀反である。

その、むほんの根があるうちは、「いつも笑われそしられる」という、「いつも貧乏」という、ワクチンが必要という事だ。<> 基本的質問<><>2007/04/01(日) 16:28:45 ID:<>「むほん」、、、残酷な革命というものが何故起きるのかと思案すると、谷底の嫉妬心に火が付き、高山の支配欲がご自分では取り除けないほど積もることから発するのでしょうね。双方共に神様がその魂を浄化しようとしてくださっていることに早目に気付けば、大難が小難でしのげるはずです。双方共にむごい心を治めれば、神様が何か不思議な優しい受け皿をご用意して下さるに違いありません。

私の上にも嫉妬妬み支配欲といった一つの雲がやってくるときがあります。
自身の中にある大社高山性を見つめているだけで、自然に消散するこの醜雲の元は、魂にこびりついたものがあるのかもしれません。
個人的なことはさておき、今ここで基本さんとお話ししたいのは、世界を珍しいたすけの坩堝にする為に現れた神様のはなしと模様立て、基本さんがおやさまの思想と呼ぶものの純粋な意訳です。

正統も異端も人間の頭の中だけの観念であって、神様の目から見ればそんな隔ては無いでしょう。
そもそも○○教徒だの○○宗派だのという囲いは、動員と集金にしか役に立たないでしょう。
外付けのレッテルは社会生活にとっての目先の便利さはあっても、人間の真実にとっては、それほど意味をなさないのではありませんか?

本当に地場の道が世界を治めるなら、いつかバチカン教務支庁もサンピエトロ大教会もできるかもしれませんし、頑なに初代の道に還れと叫んでも、天理教サンピエトロ大教会長が初代の職業に還るとしたら、困ったことになりませんか?

現在、飯田氏や大平氏が生まれ変わって、お道の熱心家になっているかも知れないのですから、魂の道においては、異端も正統も存在しないのでしょう。古いプロレスの悪玉も善玉も皆同じ出張バスに乗っているのです。

神様は不動の中心点を打ち立てたのであって、囲いを作ったのではないと思いますし、お地場に繋がる神性なる大地の上に立つなら、小さな高山群ができることはむしろ歓迎すべきことではないですか?

正統だの異端だのというレッテル貼は帰属意識の強い神学者さん達に任せておけばいいと思いますが、神様のお言葉を純化する為のたたき台としては、そういったものを見つめることは有効なのかもしれませんね。

純粋な魂には純粋な神様の理が映るのだろうと思いますし、基本さんのおさとりの基本線には共感するところがありますし、その勇敢さに感心しているのです。基本さんのお宅の経済状態や社会からのレッテルにも、どのようなワクチンにもモルヒネにも興味はありませんが、神学者さん達の手垢で汚れてしまって読みにくくなった、おやさまの思想?というものをピュアな基本さん視点でお聞かせ頂きたいのです。

本来この道は静かに潜行する類のものでもあるでしょうし、ひも付きの神学者では、いろいろ遠慮があって遠まわしにしか言えない事などもおありなのでしょう。

けれども、我々のむごい心と破壊力が増し続けるこの時代は、そんな悠長なことでは間に合わないようにも感じるのです。

個人の中心の曇りと同時に世界の中心の曇りが晴れなければ、神様の残念は大爆発を起こさざるを得ないのではないでしょうか?

たとえ嘘文明から神一条文明へのシフト現象だとしても、ソフトランディングでなければ痛すぎ、悲しすぎると思いませんか?

屋敷の大変はもちろん世界の大変も誰も見たくは無いはずです。

遠くに見える富士山を眺めて心を落ち着かせる為に、神様のお言葉を読ませていただきます。
この神様のお言葉をお出し下さいました尊い魂の方々には勿論ですが、書物を出版する労をとって下さった方々にも感謝しますし、ここに書かれていることが本当なら、大工の皆さんや棟梁の皆さんもお揃いになっておられるのだろうな、と遠くから想像します。

総合案内所で大工や棟梁さん方の所在を聞ける日が来れば、こんな素敵なことはありません。世界に問題などは何も無く、もし問題があるとすれば皆銘々のわが身恨みであっただけだと知ったら、どんな問題も解消するでしょうし、全ての方の人生は、その瞬間から陽気遊山に変容するでしょうし、世界が神一条文明を迎えたことを知って踊りだしたくなるのではないでしょうか?
<> 基本。<><>2007/04/02(月) 02:21:14 ID:<>宗教組織は、天理教団もそうでしょうが、組織の宿命として組織の維持を第一に機能しています。
人をたすけるために機能するのではなく、「神」「教義」「組織そのもの」を守るために機能しています。

今回、2ちゃんへのSOSの問題で、痛いほど、それを感じました。
天理教という組織を守るための意識が、とても強い。
一人の悩んでいる人がいる。
その人をたすけようと手を上げる教会は、誰もいない。

某教会に直接電話して、確認を求めましたが、情報としてしているはずの事も、何も語ってはくれませんでした。
無理も無いことです。
天理教会で、「保護司」として身元を引き受けた人が、ひとりぼっちの状態で、今、行き詰っているという事、分かれば分かるほど、何も出来なくなる。

それが天理教会なのです。

彼に彼が事件をおこしたり、事件そのものになったときには、天理教は何をしていたのかという問題になるわけです。
そういう場合、非は全て、彼にあるという方向に導きたい組織人間。

匂いかけた責任も、お助けしますという責任も、意思を何も示さない。
組織を守るという義務感だけがにじみ出ています。
<> 基本的質問<><>2007/04/03(火) 08:14:23 ID:<>支配したい心とたすけたい心は反対でしょうね。
支配欲という大ぼこりの枝先に、妬み嫉みの葉が付いたという状態でしょう。
概ね、目先のメリットが無い貧乏人は相手にしないというところですか?それでは組織の維持さえ無理ですね。
たすける気が出ない原因は根に理が無いからでしょう。
中心の理の肥やしをするところが流れ出てしまっているのでしょう。
心通りの守護は、ご当人にも教会本部にも適用されると思います。
中心が空虚な唐人屋敷にまで落ちないことを願います。
一部には、親切を施し心を立て直す事を諭せる生きた枝も存在しますから、ご当人の幸運を祈るしかありませんが、、、。<> 基本的質問<><>2007/04/05(木) 16:47:01 ID:<>おやさまや本席様のような方々が現れても、私達が月日支配を説きながら、これまでの支配欲のままに、その教えの一部を古い人間支配に利用し続けるのなら、するほうもされるほうも、心底の虚無感が拭い去られることはないでしょう。双方が唐人性を払拭することは無いでしょう。
双方が過去からの我が心の犠牲者です。多くの専務者の方々は帰属意識で、指導層は支配欲への執着心でお苦しみなのですから、その曇りの上からは、人様に諭せる覚りなどは生まれないでしょう。

その病の根が、多くの教会長様方のご家族の上にも及んで来ているのが実状ではないですか。

神様は全ての権力者が唐人だと言っている訳でも唐人が唐人であり続けると言っている訳でもありません。また唐人が即悪人なのではなく気の毒と思し召し下さっているのでしょう。

権力や財力や才能環境を持った家柄に生まれることも又因縁と徳であり、虚無感漂う場所に魂を配置されることも、様々な御縁を受けるよう魂を配剤されることも又因縁なのですから、全ては親心溢れる魂の配置配剤と捉えることが前提なのでしょう。
その上で神様の理を深め、我が心より魂の真実を感じ、心勇んで与えられた範囲で可能な限り現状を神様の望まれるであろう方向に転換すれば、勇み心と共に未来は開かれるのでしょう。

どのような組織であってもその組織の在り方やその望みが神様の思いと一致する組織であれば、発展も望まれますが、離れすぎていれば、その逆の結果が出るのも、たすけ一条で働かれている理の神の恩恵でしょう。又、不変の原理はあっても見えたる形態は神様の悦ばれる向きへと進歩し続けなければ廃れていくのは天然自然の法則通りでしょう。

どこかの組織の上に現れてきている状況もまた、親心の結果なのでしょう。結構な衰退と混乱をお見せいただいているのですね。

表面の大風に翻弄されて、怪我をされる方々は気の毒ですが、結局は最奥の神の大地に根を張ることを、親心の上から、いざなってくださっているのでしょう。

神一条文明社会では、徳有る高山の皆さんも、その治め方を地場屋敷に頼み尋ねるようになるとも書かれていませんか?
なかには早い段階から地場屋敷に繋がるはずだった、にほんの高山も存在するはずです。

そうなっていないのは、彼らが愚か者だからでも布教宣伝が行き届かないないからでもなく、神一条文明の出端のどこかでつまずきがあるからではないでしょうか?

地場屋敷から始まった、神一条文明の到来は上も下も共に心が勇む道だと書かれています。
現在はまだ上下共に魂が埃の山でいずんでいることは毎日ニュースが教えてくれています。

我々嘘文明の住人は幾生代にも渡って、自分自身にも嘘をつき続けてきた結果、真実が見えなくなっているのではないでしょうか?嘘社会に対応する為の嘘が悪いとは思えませんが、永い間にその方便が真実化してしまって、身体の健康、魂の健康を害しているのではありませんか?
宗教がモルヒネのように魂への麻酔の役しか果たしていないなら、地場屋敷の道が意識に昇ることは無いでしょう。
またタミフルのように一時のトリップ作用だけでは、危険で虚しいだけです。
銘々のこころの掃除と共にあるべき屋敷の掃除が必要です。

中山家も飯降家も上田家も、地場屋敷に神秘の魂を迎える為に残された神の模様立ての一環ではないかと思います。神一条文明の前提である大工さん方を地場屋敷にお迎えする為にこそ、この尊い家々は存在するのではないでしょうか?

もしそのことが無視され続けるのであれば、現人類の暗闇街道を地場の光が照らすことは無いでしょうし、これらの尊い家々の方々のよけいな苦労も絶えないだろうし、人様にもいらぬ重荷を被せ続ける加害者且つご自身方の人間思案の被害者であり続けるでしょう。

この嘘文明の全ての権威の嘘が暴かれ、大勢が秩序無き世界という曇った考えに翻弄されようとする時代こそ、神に与えられた魂の秩序とその高みが多くの方々の意識に浮上してくるに違いありません。

神一条文明の再浮上は、天保九年と同じく、神様の側から起こしているのだと思いますが、順序はあるにしても善玉悪玉などという問題を超えて、ゆくゆくは皆がやさしく喜べる真の文明社会を共有することは間違いないでしょう。

おやさまという媒体を通して教えられ、残された地場屋敷という神秘の媒体が活性化するとき、尊い魂の方々の尊い苦労も報われ、我々の人間思案の上に立った余計な苦労も、どのような姿を纏ってか、ついでに解消されてしまうのではないでしょうか?

その青年さんの、お地場で死のうと定められた心を受け取って、たすけあげる神屋敷の真価は発揮されるでしょうか?
もしその青年さんが神も仏もあるものかという結果を見るとすれば、残念ながら現在の地場屋敷は神屋敷では無いということを物語っています。

慈善に、霊能に、理による、そしてさらにそれを超えた尽きせぬ神秘によるたすけが溢れ続ける屋敷を鏡屋敷神屋敷とおやさまは呼ばれたのではないでしょうか?
<> molten<><>2007/04/05(木) 17:26:15 ID:<>??ナニヲカイテイルンダ?<> molten<><>2007/04/05(木) 17:26:27 ID:<>かわれ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜<> 基本。<><>2007/04/06(金) 00:35:20 ID:<>本当の神秘と言うのは、誰もそれを神秘と思わない状態でいて、実現している神秘の事です。

青年さんは、神殿の回廊掃除をして、町の中のごみを拾い集めて、・・
それから、飯田に来ました。
家族全員と、死別されていて、それも、ほとんどが自殺をされていて、自分も死んでしまおうとなされていたみたいです。

子供の頃から、親子の縁に薄い彼に、おやさまは、「可愛い」と、思われているのでしょう。
私の所に来る事を決めて、来てくれました。

しかし、どう生きていくと言う事は、彼の心にはまだ浮かんでいません。
待つしか無いでしょう。
本人の意思が、決まるまでは・・・。<> 基本的質問<><>2007/04/06(金) 02:08:04 ID:<>ご苦労さまです。基本さんとのご縁が有ってなによりです。
話が横道に逸れますが、仕事の縁でご家族の複数が自殺なされている方が数人いらっしゃって、うちお一人はご当人も欝の気があります。
今ではニュースにもなりませんが、上辺だけ見ていても気付かない心の苦悩というものは身近な現実社会に溢れているようです。
魂の生き通りという前提が納得されて無ければ、心通りの守護だとか欲の心を捨てればいいというアドバイスも逆効果に思えてきます。
そう簡単に心を立て替えて勇んでいただけません。


基本さんは自暴自棄になっていらっしゃる青年さんをどうやって勇められるのでしょうか?よろしければ教えてください。


<> 基本。<><>2007/04/06(金) 22:01:55 ID:<>現時点、彼は、自暴自棄でもないし、鬱でもありません。
ゆっくり休んで頂いています。
私の場合には、おやさまにお任せするしかないので、本人の心のままにと、自由に気楽にして頂いています。

そこで、漫画を読んだりしてのんびりしています。
神様が働いて下さるまでは、少し静養していて下さればと思います。

こんな話をしましたよ。
何が好きなの。 漫画。
何の漫画? なんでも。
テレビとかは? あんまり。
ネットは? あんまり・・
じゃ、PCは用意しなくてもいいよね。 はい。
仕事はどんなことしたい。 体使う仕事。人と折衝するのは苦手です。

じゃ、漫画喫茶に寝起きしている人たちのこと知ってる? 知ってます。
足伸ばして練れないんだって? いや、色々ありますよ。
漫画喫茶なら、お客さんしながら、お仕事できるかな? 出来ると思います。

そうか・・<> 基本。<><>2007/04/09(月) 17:47:17 ID:<>書くのが、遅くなりましたが、彼が寝起きするようになって数日したとき、長男の嫁さんが基本の奥さんに、
「何かあった?」と、
お知らせあったけど、覚えが無くて、そっちかなと思って、と聞いて来たとの事でした。
それで、今彼がいるよ、と、簡単に経過を話したら、
「仕事、手伝って欲しいな」と、
「神様から、知らせあったから、こっちに手伝った貰うよ」と、
・・
長男は基本とは完全独立していて、自営業していて、その仕事を頼みたいというのです。
・・
ま、長男夫婦のことは、何処までか、・・・
神様のお知らせだと、勝手に言っているわけですが、
今日は、基本の奥さんが案内して、どんな仕事か見てもらった。
本人は、やってみますと、そんな話のようです。
とりあえず、なる理に任せてみます。<> 基本的質問<><>2007/04/18(水) 17:23:31 ID:<>神様がおやさまを通じて残したものは、
せんじ詰めれば、人間の魂の頂(いただき)とその開花の永続するところ、です。
元の理と地場屋敷の理とは、おとぎばなしでもメルヘンでもなく、魂の真実の話です。

こかん様や本席様の様な方々が常在していない事のほうが可笑しな事です。

残念ながら、明治の時代までしか教会本部に神様の道は成立していなかったのでしょう。

その後、人類は怖き危なき道を通ってきてしまっているのです。

私達は多かれ少なかれ精神の病です。心通りの守護であればその病がたすかれば全ての病がたすかるはずです。
精神の病の自覚無きままに、様々な領域にも現実の病を醸し出してしまっているのです。

想像するに、事情や身上の原因である、精神の病をたすけるはずの地場屋敷が、宣伝文句のみ残り、その機能を果たせなくなっていれば、修養課だけではなく、専務者のご家族の上にも精神からの病の山が築かれてしまうでしょう。

世界たすけの前に、地場屋敷の方々の病を先ず、本席様やこかん様のような最も健康な方々にたすけていただくことが先決です。

>本当の神秘と言うのは、誰もそれを神秘と思わない状態でいて、実現している神秘の事です。

あるがままの神の世界に、あるがままの地場屋敷の理の浮上を、人間思案で阻んでしまった事を真柱様を先頭に我々全ての人間が心勇んでさんげする事以外に、人類の内的進化の糸口と、この宗教が目的を果たす方法は無いということが、おやさまの思想から読み取れる現時点での結論です。

そのありのままの神秘である地場屋敷の理が実現することを阻んでしまった歴史が続いていることが残念です。

虚無感も、自覚があれば違う方向が見つかる可能性もあるかもしれませんが、自覚が無ければ、麻酔の増幅か、死んだように生きるか、自爆を選ぶかは必然的な帰結ではないでしょうか?

熱心家の皆さんの親切心には敬服しますが、にんげんのたすかりとか成人と呼ばれるものの方向性がずれていれば、この尊い宗教も麻酔代わりにしかならないでしょう。

地場屋敷にこかん様や本席様の様な方々が納まることが内的な成長にとっても神一条文明にとっても、ほんとうの始まりだろうと思います。

百数十年前、灰色の世界に住み続けていた私達は、おやさまや本席様に触れることで、光の世界の一瞥を得たと言えるのではないでしょうか?

それまでは、過去(生)からの心通りの守護、すなわち魂を閉塞させる虚無感とその汚れを通して見る為に灰色の外界を見ていたのでは無いでしょうか?

ほんの百数十年前にこの地上の一点に起ったことは、魂の進化とその頂(いただき)の開花だったわけです。

そしてその開花を通して教えられていることは、その開花の永続と進展の約束です。

元の理で教えられる通り、もし人類が不後退の前進をとげる存在であるならその開花はどこかで起っているはずだと認識しています。

おやさまの道は、魂の定向進化とも言える現象そのものを、自己証明するはずの模様立てを、地場屋敷の理として残されたのではないでしょうか。

新しい文明は、広範囲の方々が、それをお祝いしながら心勇んで心の埃を払拭してゆけるものだったのではないでしょうか。

地場屋敷が現れて百数十年以上にもなるのに、うんざりする恐ろしく愚かな出来事のオンパレードは何なんでしょう?私達の内面は貧しさというより狂気に満ちているといったほうがいいかもしれません。

人類に先駆けて、お道に縁を頂いた私達そのものがどこかで道を間違ったに違いありません。

大正時代以降は、残念ながら、地場屋敷にお住まいの方々はお道を勘違いなさったのでしょう。

もう一度、広範囲の方々が光の世界という真実の認識を取り戻す為には、どこかにいらっしゃるであろう、本席様やこかん様のような方々を、地場屋敷にお座り頂くしかありません。

大工さん達を地場屋敷に迎える心構えを持って頂く事が、真柱へ肉を巻くことの意味だと思いますし、これが基本さんの結論とも一致するかとも思えます。

泡沫でも幽冥でもない神一条文明は、そのことからしか開かれないと思いますし、混乱のうちに死を選ぶ虚無感漂う自他殺指向の方々にも、神様のたすけたいばかりの理の立った世界であることに気付いて頂いてお勇みいただくにも根本的にはこのことを土台としてお話しさせていただくしかないと思います。
<> 基本。<><>2007/04/20(金) 02:47:58 ID:<>>>454
> こかん様や本席様の様な方々が常在していない事のほうが可笑しな事です。
> 残念ながら、明治の時代までしか教会本部に神様の道は成立していなかったのでしょう。

ここの所の見解は、私とは少し違うようです。

現在ほど、神一条になっている教会本部は無いと、思います。
これが、一点です。<> 基本。<><>2007/04/20(金) 02:51:51 ID:<>>>454
> 地場屋敷が現れて百数十年以上にもなるのに、うんざりする恐ろしく愚かな出来事のオンパレードは何なんでしょう?
> 私達の内面は貧しさというより狂気に満ちているといったほうがいいかもしれません。

ここの処の見解は、私の見解とかなり違っているようです。

人間には、通らなければならない道があります。
人間の愚かさを自覚する事こそ、何より大切な事です。
それには、愚かを、楽しんで通る事だというのが、基本の見解です。<> 基本。<><>2007/04/20(金) 04:02:54 ID:<>天理教会の、ホームページを見てみると、色々ありますが、みんな、天理教の教会のHPは、類型的に似ています。

天理教の教えを、表看板において、みなさんにご紹介するという形と、信者さんの親睦の場としての機能とがあります。

基本的質問さん風に言えば、> うんざりする恐ろしく愚かな・・
ものです。
天理教の教えは、表看板にするものでしょうか。
否、です。
おやさまは、そんな事なさらなかった。
なすべき事は、宗教家の看板を上げる事ではなく、見せる事ではなく、おやさまのひながた。

でも、おやさまの教えを看板にして、天理教のすばらしい教えですよと、案内する姿を、教祖は、微笑まれて、楽しまれているでしょう。


<> 基本。<><>2007/04/20(金) 04:11:27 ID:<>>>454
> もう一度、広範囲の方々が光の世界という真実の認識を取り戻す為には、
> どこかにいらっしゃるであろう、本席様やこかん様のような方々を、地場屋敷にお座り頂くしかありません。

これにも、基本的質問さんとは、違う見解です。

まず、今現在でも、> 本席様やこかん様のような方々・・
居られると思います。

なぜそんな事を言うかというと、その、お地場にいた、その頃の本席様は、大工の伊蔵さんで、下っ端の使用人みたいなものでした。
リーダーでも無いし、軽く扱われていた。
その頃の小寒さまも、行かず後家のようなもので、みなが、梶本家に追い出したというような、そんなくらいのものです。

つまり、あまり者や、厄介者ということです。

美化された話を読んで、小寒さまを神々しく、本席様を神々しく思うのは、思い込みに過ぎません。
本席様は、金剛院の地福時がお地場にて護摩をたいていたときにも、その下僕として、お手伝いしていただけです。

つまり、明治に、真の神一条はあって、小寒さまや本席様のような人がいたとおもうとしても、その姿は、基本的質問さんのイメージで言う、「光の世界」ではなく、
愚かにも、金剛院の下働きをしているという、伊蔵様のお姿であったという、そういう神々しさです。<> 基本。<><>2007/04/20(金) 04:20:52 ID:<>基本的質問さんの、見解との相違を述べてきましたが、その最も相違している箇所を示します。

> 新しい文明は、広範囲の方々が、それをお祝いしながら心勇んで心の埃を払拭してゆけるものだったのではないでしょうか。

そんな事、ひながたにありません。
おやさまのなされた事で、お祝いしながら心勇んで埃を払拭したようなひながたは無いと言う事です。

屋敷の掃除においての、秀司先生。
気の毒に、正月三十日に、日を切られて、送り出された女性の運命というものを、きちんと見つめなければなりません。
梶本家の、奥さんに、「いんでくれ」と、切り口上して、奥さんは出直した。
心勇んで、埃を払拭するなどと言うのは、幻想です。

現実は、苦しみの中にある。
それを、おやさまは、どんな苦労も、みんなおやがかわりにお通り下されてある。それだけの事です。

今の天理教団の、神一条は、今までに無く神々しい。
それだからこそ、いかな難儀もあり、いそいそと通る道もある。
その先頭には、おやさまがおられる。

それが、天理教祖の「ひながた」という思想です。<> 基本。<><>2007/04/20(金) 22:37:57 ID:<>泥の海と言うのは、人間の元始まりの現実でした。
それは、おやさまが、立教された時にも、泥の海と言う現実でした。
しかし、その現実の中に、陽気暮らしのファクターは全てある。
それが、道具の神様の存在であったと言うこと。
寄せて使うた、これに神名を、です。

お地場にいて、おやさまの役に立つと言うことが、どんなに小さなことでも、それひとつ出来たら、それは、人としての神の道です。

現状がどんなに、あざない人間心のものであろうとも、それを、たすけ上げたいと言う、おやさまの思い。
人間には、陽気暮らしをする、道がある。
その、おやさまへの信頼こそ、私達の、陽気暮らしです。<> 基本的質問<><>2007/04/26(木) 11:38:51 ID:<>世界には、自他殺だけをとってみても毎年々々百万を超える人が命を落とし続けています。
又片手はダイエットに苦しみ続け片手は餓えに苦しみ続け、又片方は支配欲に苦しみ続け、片方は帰属欲と自由への願望に苦しみ続けている訳です。これが私達が文明社会と呼ぶものの現実です。私達旧地球人類はうんざりするほど愚かです。そしてその方々の心の苦しみについて自分達はあまりにも無力です。
人様の心の苦しみを観ても解決の方法を知らなければ、心を閉ざす以外では、楽しむ事などはできません。けれどもその楽しみは貧相なものではないでしょうか?
世界一列をたすける為に天下った神が開いた地場屋敷であるなら、世界中の人間がたすかる理(ことわり)と構造がなくてはならないでしょう。

>今の天理教団の、神一条は、今までに無く神々しい。

一宗教が、そこそこイケテルかどうかは知りませんが、世界を救うために天下った神様が内々の事なかれサークルを作っただけだとは思えません。

神様の残された地場屋敷の理についての我々旧人類の認識に誤謬があるのではないかと思うのです。

>つまり、あまり者や、厄介者ということです。

あまり者や厄介者にしたのは私達愚か者達であって、神様にとっては、その方々こそが必要だったわけです。

>心勇んで、埃を払拭するなどと言うのは、幻想です。

かみがでて、なにかいさいを、とくならば、せかいいちれつ、いさむなり、いちれつに、はやくたすけを、いそぐから、せかいのこころも、いさめかけ。

幻想ですか。そうですか。

>しかし、その現実の中に、陽気暮らしのファクターは全てある。

泥海に揃っているファクターとそのエネルギー、泥海自体のポテンシャルにも余すところ無く、感謝しますし、自身が意識生命体として存在することにも感謝します。
そして、自然の中の無秩序から秩序が生まれるさまに神性を観るのと同様に、おふでさきの中に、この人間社会の無秩序さから、地場屋敷が浮上してくるさまに神を観て驚くのです。

魂の秩序化は神がしているのでしょうが、それを認識して悦ぶのは人間の栄光です。

おやさまは、惨めさを喜ぶマゾの道を教えられたのではなく、慰めの言葉を利用して支配欲を満たすサドの道を教えたのでもないのです。

ききたくば たずねくるなら ゆてきかす よろづいさいの もとなるを かみがでて なにかいさいを とくならば せかいいちれつ いさむなり

という地場屋敷が現れ、発展し続ける様(さま)を信頼し楽しむことが神への信頼ではないですか。

私達雑魚の魂の者であっても、それを楽しむのが陽気暮らしでしょう。

このお言葉から察すれば、勇みながら磨かれるのが本来の地場屋敷の構造です。
ご神言に詠われていても、過去の歴史にそれが無かったのなら、それはどこかで違ってしまったに違いありません。
神一条文明へたてかわる迄の過渡期において、了解した方々に外面的な苦労が伴なうとしたら、それは我々旧人類からの無理解攻撃故に余計なご苦労をお掛けするということでしょうね。

<> 基本的質問<><>2007/04/26(木) 11:46:50 ID:<>>おやさまが、立教された時にも、泥の海と言う現実でした。

多分現在も天保九年状態であって、この百数十年間は神一条文明へのプロローグでしかなかったのではないだろうか、と思います。
これを失われた百年と観るのか、残念の積み重ねと観るのか、素晴らしい序章と観るのかはそれぞれの心次第でしょうが。
ただ過去を変更する事はできないのですから、それに対して化粧を施す事も非難する事も虚しい事にようにも思われます。

これからの神一条文明の本番の第一章は、神様の書き物に則って顕われるだろうと思います。
私達の魂が曇っているために、秩序無き世界と映っているだけで、魂に天の秩序があるのでしょう。そして少なくともその頂(いただき)がおやさまを先頭に現れて来ているのではないでしょうか。
そしておやさまは先頭であっても神の一人子などではありません。ごく近い領域の弟や妹さん方がいらっしゃるはずです。

>気の毒に、正月三十日に、日を切られて、送り出された女性の運命というものを、きちんと見つめなければなりません。

信者として集うという事は万人に開かれた事であっても、地場屋敷の屋敷内に住まうという事は神に魂を見定められてのことでなくてはならないのでしょう。
その女性の晩年がどうであったとしても、おやさまは、放出されたといってもその女性の魂をたすけないと言っているのではなく、地場屋敷の理にはそぐわないということでしょう。
逆から言えば、地場屋敷の理とはそれほど尊いということです。

金剛院の下働きをしようが、梶本家に追放されようが、他に事情があろうが、その魂は私達の想像を超えた尊い魂だと想います。

人類を平和的に前進させる天命を自覚しなくてはならない程の魂の方々だったことには変わりないでしょうし、そのような魂でなければ、世界を救う地場屋敷の理にそぐわないのでしょう。

神は神のたすけ一条の理の立った世界に、たすけ一条の地場屋敷を天然自然に顕した過去があるのであって、一宗教の都合の為にそれがあるのではないはずです。

宇宙人でさえ、悦ぶには缶コーヒーと八代亜紀がいるそうですが、神一条文明の住人には、本来の地場屋敷の理を想うだけで悦びの涙が溢れてくるはずです。
百年後の地球人類は、今の我々旧人類が地場屋敷の理を勘違いしていたことに驚き笑うと思います。百年後のビートたけしは、現在の教会本部がおやさまにサドマゾの気を付け加えたことをコントのねたにしているのではないかと想像します。

かみがでて、なにかいさいを、とくならば、せかいいちれつ、いさむなり、いちれつに、はやくたすけを、いそぐから、せかいのこころも、いさめかけ。

>今の天理教団の、神一条は、今までに無く神々しい。
>人間には、陽気暮らしをする、道がある。その、おやさまへの信頼こそ、私達の、陽気暮らしです。

現在の地場屋敷に欠けている、いさいを説き聞かすであろう神一条の道がご神言どおり再来され、世界を照らし続けるであろう地場の光が前進を続け、その光に万人が同調する事ができる日を待つ事が、おやさまへの信頼です。
<> 基本的質問<><>2007/04/28(土) 17:25:12 ID:<>この身体は自然の一部だし、その最高峰でしょう。
魂は神の一部だし、その最高峰でしょう。
総ての人間はその交差点にいるのでしょう。
そして、どの体をとってみても同じものは一つとしてないのだから、平等という言葉は観念上のものに過ぎません。そもそも生きているものに均質、平等などというものは存在しません。

魂の成熟は人為的な努力で可能であっても、その成長速度はほとんど定まっているのではなのではないでしょうか?
とすれば、世界の危機を救ってきた宗教の開祖達の様な方々の中に、地場屋敷に引き寄せられている方々がいらっしゃったとしても不思議ではないと思います。
特に人為が作用しない天保九年の段階や、おやさま、本席様御在世中はそうだったのではないでしょうか?

>今の天理教団の、神一条は、今までに無く神々しい。

もし現在の地場屋敷がこれまでで最も神々しいとすれば、この宗教を権力や財力やエゴの増長の手段として利用できないことを知った人達が地場屋敷から居なくなりつつあるのかもしれませんね。

教勢とやらが衰退し、社会的に権威が失墜し、経済的にも疲弊する事は、一面気の毒かもしれませんが、神が本来の地場屋敷を回復する為に必要なことなのかも知れませんね。
そんなときこそ、真の神人間達に光が当たるのでしょう。
そうでなければ地場屋敷を中心にした調和のとれた神一条文明は浮上しないのでしょうね。
基本さんの想像どおり、この十年間は新しい展開の始まりとなるかもしれません。

流れが固定された池の水は淀んでしまいますが、流れのある海の水や、その源流である河にそそぐ湧き水には淀みはありません。

神の身体も成長しているのなら、その先頭である地場屋敷も成長し続けるのは天然自然のことわりでしょう。
固定化された池の水が新鮮な水へとたて変わる時代に立ち会えることにワクワクしては不謹慎でしょうか?

<> 基本。<><>2007/04/30(月) 01:04:54 ID:<>真柱様が、婦人会の総会で、身のうちへのお知らせを大切に思案するようにと、諭されたと、天理時報紙で知りました。

家に着た彼は、少しづつですが仕事をするようになりました。

身に知らせがあったという、長男のお嫁さんは、お席にも行ったことは無く、天理に一度参拝に行っただけの事です。
月に一度、基本の布教所でしているお勤めしている程度です。
左のわき腹が痛くなって、「何かあった?」と、基本の奥さんに電話を掛けてきて、それで、基本の奥さんが、彼が家に来たとつげました。

基本の長男の夫婦がしている仕事は、家内製工業の手作業なのですが、その仕事を、試しにして頂いてみたら、とても、手先の器用な彼で、少しづつ仕事を覚えていただくと言う事で、今日も夫婦で、教えに来ていたそうです。

おやさまは、人間の身の内に、お知らせを下さる。
それを、しっかりと思案して、女は、道の台。

天理教は、新たに躍進します。<> 基本。<><>2007/05/02(水) 04:25:17 ID:<>その人の持っている可能性は、おやさましかご存知で無い。
そしたら、おやさまにもたれる以外に、無い。
人間をはじめた元のおやの、おやさまを、信じると言う事は、誰一人でも、その可能性の存在である事を、受け入れると言う事です。

民を選び、人を選ぶという思想は、すべての一列の可能性を否定するものです。

人間社会の価値から見て、高い低いと決め付けていく思想。
とふじんの思想。
それに、汚染されていた当時の、幕末から明治初期の高弟たちは、
おやさまの教えによって、自分たちが「高い」ものになれると、錯誤し、おやさまの教えられた「不思議な力」を、
自分たちが「高く」なるために用いました。

おやさまの真似をした異端が生まれた、その姿は、まさに、「高山」になろうという露骨なものでした。

おつとめの、人衆の、たましいの因縁を、高貴なものと錯誤し、神格化の権威とみなして、
それが、「高山」の思想をそのままである事に気が付かなかった。

おやさまお一人。
天理教の、現実でした。
<> 基本。<><>2007/05/04(金) 19:44:46 ID:<>当時の高弟たちは、「高弟」と言う自白のままに、実は「道の高山」でした。

 十人の中の三人片腕は、火水風とも退くと知れ

このお筆先の責めがあります。

おつとめ人衆の中の、三人、片腕といわれた人たちは、道の高慢として、次々と出直しになりました。<> きほん<><>2007/05/13(日) 22:48:18 ID:<>利権共産主義社会や泥棒資本主義社会をおやさまの思想で変えられるのかゑ?<> 基本。<><>2007/05/14(月) 15:14:03 ID:<>鋭い突っ込みと思います。
> 利権共産主義社会や泥棒資本主義社会
これは、一つの現実の姿です。
おやさまの思想は、
「天にては」「身の内にては」「世界にては」と、一二三で一つに告げられています。

大雑把な把握で言いますと「神」「人」「社会」と、なります。

「社会」というものは、「みな面々口で言わせる」との神意により、
「やしろ」にて「会う」という、集合体が、「社会」と、自白している事になります。

唐人思想の代表である、「西欧型・聖書思想」は、まさに、「教会」に集う者の集合体として、「社会」を形成しています。
そして、宗教を中心軸にした、文字通りの「社会」の改革は、絶対になされなければならない事です。

「高山・谷底」と言う社会を立て直すという、中山みき様、おやさまの思想は、その意味で、「社の解体」を示唆しています。
「大社高山取り払い」という、端的な表現に示されています。

しかし、それは、
今の宗教が間違っているから、正しい宗教を社として集うというような、天理教が支配宗教になるというような、
そんな改革ではない。

今までの教えでは無い、「究極の教え・天理教」という、山名系教理の、プロパガンダ用のうたい文句は、実は、山名系は高山だという自白に過ぎません。
究極であれ、至高であれ、
今の社会の「社」に取って代わるような、宗教思想は、あってはならない。

つまり、「唐人の社」は、取り払う。
新たな社はいらない。
この徹底した思想こそ、おやさまの思想と言う事になります。<> 基本。<><>2007/05/14(月) 15:21:17 ID:<>具体的には、どうすべきなのか。
何がなされるべきなのか。

それは、「理」を用いての「利益」。
これに、集約されます。

まさか、本当に甘露が降ると信じているわけでは無いでしょうが、
「甘露」という言語にて、隠喩された「理」が、実現する事。
それが、「利益」である時に、「利益」をろくぢに分配するものにのみ「利益」があるときに、初めて、「天理」の意味が成就されるわけです。

「甘露」・・「かんろ」・・「完成」の「かん」なのか、「甘味」の「かん」なのか。
甘い汁を求める信心の、旧来までの応法天理教では、「甘露」が降る事が目的であった。

しかし、「道」を「完路」と隠喩されているわけであり、全うしなければならないのが、天理の道である。
そこに、現実に対する対応は、今までの宗教・天理教では、到底及びも付かない発想が、あると言う事です。
それが、基本です。<> 基本。<><>2007/05/14(月) 15:32:11 ID:<>例えば、山の中でもあちこちと天理王のつとめする。と、おやさまは、御神楽歌に示されています。

お筆先にても、高山の中に入っていくという意味のお歌があります。

それが何を意味しているのかは、明らかです。

例えば現在の政治経済は恐ろしいほどの速さで、変貌しています。
それは、「利益」の独占・寡占のためであることは、あまりにも露骨です。
大衆は、踊らされ、「甘い露」に惑わされています。
けれど、誰のものでもない「電波」は、権力に管理され、誰のものでもない資源も、一部の高山に寡占独占を許す構造になっています。
まるで、朝三暮四のサルのように、甘露の甘さにだまされて、メディアの情報に操作されて、高山・谷底と言う支配被支配の構図はますます強く堅くなっているのが現代です。

それは、「利益」を独占しているから、なせる業です。
そして、利権の保持と存続のために、その利益の、経済効果は利用されて、いる。
これを、山というならば、
山の中に入ると言う事は、何を意味するかは、自明です。

「山名系」の言うように、高山の人を信者にするというような、布教馬鹿の、発想は、悪阻まつに過ぎます。

山に入ると言う事は、山に入ることなのです。
そして、「山の中で」「天理王のつとめ」する。
それが、おやさまの思想の、行動規範の一つです。<> 基本。<><>2007/05/15(火) 03:35:03 ID:<>宗教を語る時、「老・病・死」という事が、宗教思想の背景として語られます。
人は、「老いる」「病む」「死ぬ」。
これが、逃れられない運命・因縁として、人の人生に同行しているという事、
そこで、老いると言う事に対する怖れ、病む事への怖れ、死ぬ事の恐怖から逃れようとして、「宗教」を必要としたという、議論です。

おやさまは、「病まず、死なず、弱りなきよう」という神の守護を説いて、思想を語られています。
その、寿命薬というものが「甘露」なのであると、天理教団の神学は説いています。
その証拠として、「つとめ」と「さずけ」が教えられていて、
天理教のお授けならば、どんな病気も助かるという、プロパガンダの時代に、天理教は、圧倒的な信者獲得をしたわけです。

それは、おやさまの格別のご守護であると、おやさま自らが示しています。
つまり、それは、明治十五年からの徹底的な国家権力からの弾圧の時代に、現実に甘露台石工の七次郎は、出獄を許されず獄死していて、消息不明となり、明治十九年には、おやさまに対しても、2月極寒の真冬に水をぶっ掛けるなどの行動に出た、つぶしてしまおうという警察官僚の実行の存在が、物語っているような、危機的な状況下でした。

その時に、「病をたすける」と言う奇跡は、天理教団を救った。
膨大な信者の数が、すくってくれたと言う事でした。

そういう、格別な事情は、今は、「老・病・死」には無い。

お父さんの病気が助かるのなら、神様の言うとおりにします、などという、事は、もはや絵空事であり、
お父さんが早く死んでくれたら、保険金が出るのにという時代においては、「老・病・死」すらも、経済行為に絡め取られている。

つまり、現代では、『老病死』からの救済よりも、『貧』からの救済が、最大の、テーマになっていると言う事です。

<> 道の端くれ者<><>2007/05/17(木) 21:43:07 ID:<>横から失礼します。
信仰三代目です。
私は天理王命様を、をや・神・宇宙の根本主体・宇宙の大元・宇宙そのもの・真理と考えております。
また、教典の14ページにあるように「まことに、人はただ中山みき様によって、初めて親神(宇宙の根本主体・そのもの・真理)を拝し、親神の思し召しを知る。中山みき様こそ、地上の月日におわし、我らの親にてあらせられる。」と言う言葉から天理王命=中山みきと信じて疑わない道の端くれです。

しかし、ひとつ合点がいかないことがあります。
逸話篇27でおやさまは松尾市兵衛家の仏壇を動かし神様をそこへ祀るようにおっしゃてますよね?
長男楢蔵の身上があってそうされたのでしょうが、私にはそれが理解できません。
仏壇は後日すっきりと取り片付けたとありますが、これは松尾家の意思でそうされたのでしょう。
いずれにしても、我が家にも神実様と仏様がありますが子供にどんな身上がでても先祖代々の仏壇を取り払うことなんて到底できません。
ちょっと飛躍しすぎですが、やはり天理教は一神教なのでしょうか?
皆さんの色々な御意見を聞きたいです。<> 基本。<><>2007/05/19(土) 06:11:13 ID:<>>>472
> 天理王命様を、をや・神・宇宙の根本主体・宇宙の大元・宇宙そのもの・真理と考えております
・・
> しかし、ひとつ合点がいかないことがあります。

宇宙の真理としては合点が行くけれど、その真理が、仏壇を動かすように命じたと言う事は合点がいかない。
それが、人の、現実ですね。

おやさまの教えられた真理として、人間の魂は生き通しであると言う事が教えられています。
これを受け入れますと、大昔に死んだ人は今も魂は生きていて、今生に別人格で存在している可能性が大と言う事になります。
つまり、今のAさんが仏壇で拝しているのは、実は自分の「みたま=霊魂」という可能性が、真理としての事実と言う事になります。

すると、数多く生まれかわりしていますと、別の家の仏壇にもAさんの魂が祭られている可能性も大になりますね。

その人の御霊が、唯一一個であるのに、仏壇としては、数多く祭られてしまう。
こういう、不合理が生まれます。

おやさまは、真理として、「死とは、古着を脱ぎ捨てたようなもの」と教えられています。

そこで、おやさまの真理を受け入れたとしますと、仏壇に祭ると言う事は、生まれかわってくるまでの間で良いと言う事に、基本は理解します。

そして、新たに生まれかわってきた、先祖を、大切にすることこそ、一番大切だと言う事になります。
新たに生まれかわってきた、先祖と言うのは、現在の身の周囲に、生まれかわっておられます。
つまり、自分の子供を大切にする事、それが、実は、なによりもの先祖の供養になり、自分の妻を大切にする事も、全くおんなじ意味です。

それを「前生の因縁寄せて守護する」と、おやさまは、教えられています。
仏壇は、取り払うのも取り払わないのも、その人の心次第、それが真理だと思います。<> 基本。<><>2007/05/19(土) 06:29:42 ID:<>>>472

【目出度い日】逸話篇27
 明治五年七月、教祖が、松尾市兵衛の家へお出かけ下されて、御滞在中の十日目の朝、お部屋へ、市兵衛夫婦が御挨拶に伺うと、

「神様をお祀りする気はないかえ。」
と、お言葉があった。それで、市兵衛が、「祀らせて頂きますが、どこへ祀らせて頂けば宜しうございましょうか。」と、伺うと、
「あそこがええ。」
と、仰せになって、指さされたのが、仏壇のある場所であった。
・・・・

さて、道の端くれものさん。
仏壇というものは、本来は、どんなものでしょうか。

http://nun.nu/ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%A3%87
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には、こうあります。

{ 仏壇の一例仏壇(ぶつだん)とは、一般家屋の中に常設された、仏を祀る厨子であり、家族の死者を祭る、祭壇でもある。内部は仏教各宗派の本山寺院の仏堂を模した豪華な作りになっており、仏像や位牌を納める。}

つまり、仏様を祭る場所が、本来の仏壇です。
その仏様が、教えられた、教えの後に、
「このたびは、神が表に現れて」と、教えられたのが、天理教です。

逸話編ではおやさまが、この様に尋ねています。
「神様をお祀りする気はないかえ。」

そして市兵衛さんが、「祀らせて頂きますが、どこへ祀らせて頂けば宜しうございましょうか。」と、伺うと、
「あそこがええ。」
と、仰せになって、指さされたのが、仏壇のある場所であった。
わけです。

仏様が教えられた、九つまでの教えを、「このたびは、神が」説かれているわけですから、
仏様の教えを裏から守護していた、元の神を祀るとすれば、当然、それまでの仏様の場所であるのは、自然の真理です。

なお、先祖の魂については、祖霊殿にて祀っているのが、現実の天理教です。<> 道の端くれ者<><>2007/05/19(土) 07:59:50 ID:<>待ってました。
基本さんのコメントを。
ありがとうございます。
私は天理王命様と先祖の仏壇を仲良く末永く丁寧に祀りつづけたいと思います。これが私の「心」です。
松尾市兵衛家も楢蔵の身上がもとで切羽詰まって行動だと察します。
実をいうと我が家は先祖代々真言宗で高野派ではなく新義真言宗です。新義派は真言宗の中でも拝み祈祷をいたずらに軽々しく行わないません。
天理王命⊂大日如来だなんて言ったら、八島系異端とかって基本さん
に攻撃されちゃいますかね?でも私はそう思っております。
最後に私の天理王命様への思いとする「宇宙の根本主体・そのもの・真理」を人類にはじめてお示しくださったのが中山みき様だと思っておりますが、これは基本さん的にいったらどうですかね?

天理王命=中山みきと信じて疑わない道の端くれ者でした。
<> 道の端くれ者<><>2007/05/19(土) 18:38:01 ID:<>まちがえました。
天理王命∋大日・・・・天理王命を元として大日如来を含む。でした。<> 基本。<><>2007/05/20(日) 05:03:03 ID:<>道の端くれ者さん。
天理王命様と大日如来様。「天理王命∋大日如来」と、ご思案されているとの事、なるほどと思います。
それは、道の端くれさんの信心の道すじであり、決して八島系異端と言うものと同次元のものとは思いません。

> 「宇宙の根本主体・そのもの・真理」を人類にはじめてお示しくださったのが中山みき様だと思っております
>
この事は、基本的には、(意味内容には言及しない事とすれば)、その通りだと思います。

本地、垂迹という思想があります。
神の正体は実は仏であったと言う、本地が仏、垂迹が神と言う思想と、
仏の正体は実は神であった、本地が神、垂迹が仏と言う思想と、
あります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9C%B0%E5%9E%82%E8%BF%B9%E8%AA%AC
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用しますと、
{ 垂迹神と本地仏の一例を以下に示す。}
{ 天照大神 = 大日如来、観音菩薩 }
このような例として、本地が大日如来で、天照大神が垂迹であるという説が、一例ですが、本地垂迹の説は、広範に説かれていて、諸神社の起源に記されてもいます。

おやさまの思想としては、
本地・天理王命という事になります。

本地垂迹思想では、はじめは「天照大神は、実は大日如来様であった」というように、垂迹の権威付けのために、本地が用いられました。
やがて、「天照大神は、実は大日如来様の本地である。大日如来様は垂迹である」と、逆転して、説かれる場合も、鎌倉時代以後には生まれています。

おやさまが、示されたのは、理です。
大日如来様も、おやさまも、理は一つである。
そうだと思います。それが基本です。
しかし、存命でいる元のおやさまは、唯一であるというのも、理は一つです。<> 道の端くれ者<><>2007/05/20(日) 11:53:01 ID:<>>しかし、存命でいる元のおやさまは、唯一であるというのも、理は一つです。

よく承知できました。
我が家一族の色々なしがらみがあって仏様を取り払うわけにはいきませんが、ご存命の元のおやさまのひながたを忘れず、これからも家族陽気にとおらせていただきます。

基本さん、ありがとうございました。<> きょうそ<><>2007/05/20(日) 21:02:44 ID:<>信者が金をくれという、天理教本部、信じてもらいたくない<> 基本。<><>2007/05/27(日) 10:57:04 ID:<>現在のおやさまの思想の、深層には、まだとても到達したとは言えない。
それは、現実の天理教団の状態にある。

しかし、大社高山が支配している「現代社会」の、本質的な建て直しこそ、おやさまの思想の根幹であることは、天理教徒なら誰もが口にする「世界一列皆兄弟」という思想と、現代の現実とを、対比すれば明らかなことである。

>>479
> 信者が金をくれという、天理教本部、信じてもらいたくない

このような、「嫌金思想」「倦金思想」、「集金否定」の、「信仰は金ではない」と言う思想は、実は、おやさまの思想の根幹に反しているものである。

つまり、おやさまは「精神至上主義ではない」という事である。

おやさまの思想を、夫婦仲良くと言う、陽気暮らしの思想と理解するのは自然なことである。
しかしそれは、地上に一対しかいない夫婦ではないために、一組の夫婦単位での幸福は、事実上ありえない。
一組の夫婦は、社会とかかわりを持って、暮らす。

おやさまが、人間は働くためにこの世に出たと言う、人間の存在の意義を「働く」という事に定義されたのは、天理教徒なら誰でも知っているであろう。
そしておやさまは、働くとは「はたはたを楽さす事やで」と、教えられている。

それでは、現実の働き人たちは、「はたはたを楽さすために」働いているであろうか。

否である。
労働者は経営者を楽させるために働いている。
経営者は、資本主を楽さすために働いている。
「大社・高山」のために、一日の時間の大半を費やして、人生の若々しい時代を費やしている。
この現実に、天火は降る。

人間はすでに、有り余るものを手にしていながら、はたはたを楽させるためにではなく、暮らすようになっている。
自分が楽するために働く人、自分が楽するために人を働かす人。
働く人のあげる利益を、吸い上げる事を仕事とする人。
そのシステムを維持管理するための、仕事をする人。

人間社会のほとんどは、この大社高山支配の、泥海に、巧妙に取り込まれている。

「金」は必要である。「世界一列兄弟のために」。
それは、おやさまの思想の隠された本質である。

<> 基本。<><>2007/05/27(日) 13:45:03 ID:<>例えば、おやさまは、「昼はたらいて、夜は休む」ように、人間の身体をおつくり下さっている。
甘露台世界になれば、雨は夜降るようになるという。

しかし現実の人間は、現状、二十四時間働いている。

この現実の奇妙さに、天理教信者は、疑問すら持っていない。

人間の身体のメカニズムに逆行させてまで、なぜ人は夜も働いているかといえば、
「はたはたを楽させる」為ではない。

昼から夜まで、「大社・高山」の為に精根使い切って「労働」する人の、夜の娯楽の為に、早朝の食事の為に、深夜から早朝までも「労働」する。
それは、天理に背いている。
そこには「家庭」は、ない。

大切にすべき「はたはた」は、互いに無関係に暮らす「雑居」にすぎない。

これを、「夫婦なかよく」の姿に改めようと思うなら、
立て替えようと思うなら、「大社高山」取り払いしかないのに、
そんな基本的な、おやさまの思想の本質は、いまだ、説く人はいない。

それほどに、天理教信者は、自分さえ助かればよい輩なのである。<> 基本。<><>2007/05/27(日) 15:42:36 ID:<>現状の天理教団の組織生活の形態は、大社高山の悪因縁を自覚するためにあると言っても、過言ではあるまい。

それは、まさに、「夫婦を台」として、「はたらく為に世に生きる」姿とはほど遠い。
身分制度と呼ぶほうが正しいと思えるような、会長・役員・住み込み人・青年づとめ。
下にいる信者各個人の、自由と主体を、上が支配する形になっている。
大教会や上級教会への、奉仕、御用は、制度化されているというに等しく、末端の夫婦や親子の「自由度」は、著しく束縛されてきた。

それも、もう終わりになる。

そういう「理」に反した、天理教大教会生活のあり方は、悪因縁の成れの果てとして、掃除され、おやさまの思想そのものの、「一列兄弟」に普請する、真の信仰者が、散在するという、教祖の立教頃からの、真のひながたが、開始されるからである。

天理教団という組織は、その「大社高山」体質を、全て拭い去り、谷底に指向する。
それは、貧乏になって、ひながただと錯誤するような、理の間違いでは無い。
豊年になって、ひながただと、そういう、方向の事である。


重ねて、言わねばならない。
大教会初代は、確かに、天理教によって豊かになった。
その時、何をしたのか。
「大社高山」因縁を、通り返しただけである。

「理の親信仰」というものは掃除されても、この「大社高山」因縁を切れないとすれば、それは、もはや天理教とは呼べない。

教祖のごとく、里にありて、
教祖のごとく、家業をし、
教祖のごとく、大社高山に対して、その取り払いにむけて、一貫し、
教祖のごとく、谷底にある

おやさまの思想とは、まさに、現代社会のゆがみそのものを、立て替える、この世の普請という思想なのである。<> 基本。<><>2007/05/27(日) 22:50:52 ID:<>しかし、それは、貧困である事ではない。
自由と書いて、「じゆうよう」と読ませたのは二代真柱様である。
「自由自在」、「じゆうようじざい」
それは、不自由がないということを意味する。

不自由が無いと言うことは、貧困にいる事とは不一致である。
病気でいる事とも不一致である。

宗教の偽善の仮面においての、幸福とはまるで違う。
真に人間らしく、そして、真に豊かであると言う事。
それを谷底にいて、なすべきが、天理教の信仰者の普通になる。<> 基本。<><>2007/05/28(月) 00:42:13 ID:<>つまり、おやさまは、「から」の思想の本質を、「から」と一言で諭しきっておられる。
「一に百姓助けたい」との、おやさまの思想。
「農業という業を営む」。これには、「から」は無い。

しかし、金融資本主義を見たらわかる。
尽くが「から」である。

株券が、電磁化された事は、まさに、「から」であることの自白である。
金融市場においては、実際の製造も製作も無い。
マネーゲームと呼ばれるが、元々、親神様が人間にお貸し下された無料の物を、人間が価格をつけて付加価値として金銭に交換した貨幣経済においては、貨幣と対価の物品が存在した。
しかし、それには、限度がある。
人間がルールをこしらえて、株式の売買というゲームにおいて、無から有を生み出し、世界中の経済は、そのゲームそのものに支配されている仕組みに見えている。

東京の不動産が高騰していて、バブルに向かっているという。
土地というものは、それ自体、親神様からの貸物借物である。

公地公民の時代には、天皇陛下からのお分けいただいた口分田であった。
少なくとも江戸幕府までは、土地は、公のものという認識が支配していた。

それを完全に崩壊させた、明治維新の唐人思想。
税制の改革で、土地は、マネーゲームの対象になった。
「需要と供給」という経済ゲームのルールは、土地に適用されて、大都市の地価は高騰し。その信用力に、金融資本が投下されて、貸物借物の土地は、「大社高山」の基盤となった。
・・・
今は、情報が、マネーゲームの対象となり、大社高山は、そこに、今までに成功したノウハウを集約している。
・・・

それは、親神様の、手ひどい返しの、道具を自ら構築しているようなものである。

旬刻限の到来の意味は、そんなに単純なものではない。
現代社会とは、「神が表に現れた」、「現れた時代」という自白とも解する事が出来る。

すでに、天火は、人類をろくぢに向けて、降り注ぎつつつあると言う事だ。
<> 基本。<><>2007/05/28(月) 09:16:08 ID:<>企業買収が現代の日本の経済の話題の中心になっているようだが、それは、結果的に、業界の再編を加速させている結果を生んでいる。

スティール:食品業界に照準 ブルドックの対抗策限られ…
 明星食品やサッポロホールディングスに続いてスティール・パートナーズが、ブルドックソースを相手に買収に動いた。日本での投資活動を積極化しているスティールは、主に食品業界に照準を定めており、同業界では警戒感が高まっている。サッポロへの買収提案をめぐっては、同社が買収防衛策に基づいて詳細な質問状を提示するなど長期化の様相を見せているが、防衛策を導入していないブルドックの対抗策は限られている。業界に新たな再編の動きを呼び起こす可能性もある。

 日本の食品会社は総じて、株価と発行済み株式数を掛け合わせた時価総額が小さく、買収の標的にされやすいようだ。ブルドックの時価総額は約250億円で、買い付け価額を2割上乗せしても300億円程度で全株を買い取れる。

http://nun.nu/www.mainichi-msn.co.jp/keizai/kigyou/news/20070517k0000m020092000c.html
 スティールは昨秋、即席めんの明星食品に対し、敵対的TOB(株式の公開買い付け)を実施。ホワイトナイト(白馬の騎士=友好的買収者)として登場した日清食品に株式を売却し、30億円程度の株式の売却益を得た。

このように、「はたらく」事で「はたはたを楽させる」という、人間本来のあり方ではない、情報の操作を利用した方法で、株の売買というものの元々の意味を超えて、マネーゲームで資産形成をバプル以上の高速度で達成していく、手法というものが、自由経済では許されている。

企業買収、業界再編。

「大社高山」は大社であり、高山であるために、あり続けるために、市場というルールを、最大限に巧妙に利用していると言う事である。

これが、ルールとして、国際経済全体を支配している事の、不自然さは、おそらく、「大社・高山」のサイドは気が付いているはずである。

この世のものは、親神様から、世界一列兄弟に貸し与えられたもの。

それを一度、貨幣に置き換えて、次には信用に置き換えて、経済の対象となし、生命も経済の対象におきかえて、
全てを、支配する事の不自然は、そうし続けようとする、高山の者こそ、誰よりも、理解しているはずである。

だから、情報は、平和を訴え、環境保護を訴え、自由経済の福祉を訴えて、あたかも、そこに、「ろくぢ」があるかのようにみせかけている。
見せかけ続けている。

その意味するところは、欺瞞であり、「うそ」である。

だから、彼らは「高山のから」、と言う事になる。
そして、彼らの仕掛ける情報操作に、踊らされているのは、「谷底のから」。

この唐人が、ころりと、心入れ替える日が、世界の普請の始まりになり、そのころりを促すものは、「天理そのもの」である。<> 基本。<><>2007/05/28(月) 09:19:55 ID:<>おやさまは、おやさまのひながたは、アヘン戦争の時代にも、帝国主義侵略の時代にも、一貫している。

唐人のプロパガンダには、まるで、影響されていない。

しかし、実際に明治政府が施行する「宗教政策」、「思想統制」には、きちんと、行動を起こしている。
おやさまは、最も本質的な意味で「政治行動」の人であったということ。
忘れてはならない。<> 返上ルスリクエスト<><>2007/06/03(日) 23:49:33 ID:<>戦火の勇気かな。何かちらこれ。おやさま、これ何?<> 基本。<><>2013/01/29(火) 03:02:09 ID:dt/RCU0dR7m<>復活、出来ますか。<> 基本。<><>2013/01/29(火) 03:14:07 ID:dt/RCU0dR7m<>投稿を再開します。
At this time,I,God,reveal Myself and teach the truth of all things in detail.

中山みきの思想は、
「詳細にすべての物事の真理を教える。」事にある。

第1号 7
かみがでてなにかいさいをとくならバ せかい一れつ心いさむる
teaches the truth of all things in detail,

それは、世界に勇気を与えるもの。
そしてそれは、世界世の中を、処繁盛にするもの。

「天理」を教えるとは、そういう意味である。<> 基本。<><>2013/06/16(日) 11:08:05 ID:vX/IzG9qZie<>それにしても、おやさまは何をどのようにしてこの世の普請をなさっているのか、天理の最大の関心事である。
詳細に万事の真理を教えるというおやさまには、そのたすけの模様の道筋はきちんと見えてあると、そういう中山みきの思想を理解するべき時期に来ている。<> 基本。<><>2013/06/16(日) 11:32:39 ID:vX/IzG9qZie<>肉体と(身の内と)、世の中と(人間世界と)、天理と(天と)は、一つであるという中山みきの思想において、男女一の道具は肉体において「一の道具」と定義されている。
それは女一の道具は、世界では金銭だとそのように定義されている。
つまり、この世の「一」の道具というのは、「金銭が三の神の理」「資本が四の神の理」で、資本主義社会というのは、その一の道具を高山が気ままにしている社会ではあるが、「資本と金」が無くては陽気暮らしにはならないという意味で、現在の金融資本主義も一の道具の天の理の世界であって、心の埃が問題であり、仕組みそのものの本質的な部分では、天理の世界にあるという事。
そこで、この世の普請においても、「金銭・資本」という一の道具が絶対に不可欠という事が、天理教の教えの本質という事になる。

かみがでてなにかいさいをとくならバ せかい一れつ心いさむる   7
いちれつにはやくたすけをいそぐから せかいの心いさめかゝりて   8
だん/\と心いさんてくるならバ せかいよのなかところはんじよ  9

何か委細を説くことで → 世界よのなか処繁盛

この大前提に貸し物借り物でいう処の一の道具、金銭と資本の問題がある事、
それだから、中山みきの思想を精神論や政治思想で理解していては、天理教を見誤る。
経済論で理解しないと、「処繁盛」に至る道は開かない。<> 基本。<><>2013/06/16(日) 11:43:53 ID:vX/IzG9qZie<>このさきハかくらづとめのてをつけて みんなそろふてつとめまつなり   10
みなそろてはやくつとめをするならバ そばがいさめバ神もいさむる    11
いちれつに神の心がいづむなら ものゝりうけかみないつむなり      12
りうけいのいつむ心ハきのとくや いづまんよふとはやくいさめよ     13
りうけいがいさみでるよとをもうなら かぐらつとめやてをとりをせよ   14

中山みきの経済論は本質オカルトである。
空から降る甘露にて、食費ゼロの健康生活になるというような、たわいもないオカルトであるから、「神楽てをどり」というオカルトで立毛(りうけ)の守護を頂こうと言う、神頼みがそこには基本として存在してある。
しかしそれは、中山みきの思想を危険視する高山に、高山には一番理解できない方法で、谷底せりあげを告げていて、そこに中山みきの思想家としての深い心が潜んでいる。

単にオカルトで陽気に暮らせるというのではなく、よろず委細に精通するという天理の基本で、経済的に一の道具的に、谷底をせり上げるという、資本構造、経済構造そのものを大変換する宣言が最初になされていること、見えぬ先から説くおやさまのおやさまたる、親心である。<> 基本。<><>2013/11/02(土) 19:42:58 ID:fr/rDj6Sya8<>衆知の代表がワイドショーのコメンテーターであり、マスメディアの報道番組は、その、良識と言う衆知を誘導し指導する。
社会的には、よろづ委細に最も精通した人たちとして、皆からの信頼を受けいる。

それは、現在の統治秩序の代弁者であり、おやさまは、お嫌いである。

以前に基本は、みのもんたさんを典型的なマスコミ悪の典型とみなして、報道姿勢を批判し続けたことがある。
彼らのような高山には、オカルトと言うものは、ごまかしの道具であり、この世を変革するとも出来るともおまっていないのは明らかである。

りうけいのいつむ心ハきのとくや いづまんよふとはやくいさめよ 

今のマスコミ人は、マスコミ人であるというだけで、気の毒な心に自らを仕立ててしまっているが、それは、互いのそれぞれにもある事であって、人心そのものがおやさまの教えとは遠いところにあって、それは、天理教信者もなんら替わらず、気の毒な心にあると自覚あって、しかるべきである。<> 基本。<><>2013/11/02(土) 19:57:44 ID:fr/rDj6Sya8<>いちれつに神の心がいづむなら ものゝりうけかみないつむなり      12

神はこの社会を嘆いておられてはいない。神はいずんでおられるわけでは無い。
それが証拠に、世界は「もののりうけ」は、豊かに満ち溢れていて、決して不作や飢饉が世界全体を覆っているわけでは無い。

基本はかって必ず来る米国の凋落を書き、戦争を開始に誘導したい高山の本心を指弾したが、それは、126の旬の到来と、大震災の予言の実現という天理を語ったことで、すでにおやさまのお働きはなされていて、天災や、人にてゆうなら身上事情やで、大きな戦争は神に抑止されていて、破綻そのものは起こすに起こせない状況に至っている。

ここからが肝心で、
りうけいがいさみでるよとをもうなら かぐらつとめやてをとりをせよ
 と、言う神意がきちんと現実味を帯びてくる。<> 基本。<><>2013/11/02(土) 20:02:31 ID:fr/rDj6Sya8<>中山みきが存命でいると言うのは世界一列のおやとして、豊年満作を教えたい一条にあって、
支配被支配では無い、一列兄弟の陽気遊山を見たいと言うおやの心の発露そのものである。

基本は、天理王の弟子の演歌王として、カラオケと楽曲の世界で遊山しようと思う。
基本は、おやさまの普請の大工として、急いで図面を書き、普請に取り掛かりたいと、そう思う。<> 基本。<><>2013/11/03(日) 10:46:24 ID:fr/rDj6Sya8<>戦争を続けたい米国のあがき。

対米関係見直しを表明=大使呼び抗議−パキスタン

【ニューデリー時事】パキスタンのニサル内相は2日、米国の無人機攻撃によって反政府勢力「パキスタン・タリバン運動」(TTP)との和平交渉が中止になったことを受け、米国との2国間関係を「全ての側面から見直す」と表明した。パキスタン外務省も同日、リチャード・オルソン駐パキスタン米国大使を呼んで無人機攻撃に抗議した。
 シャリフ首相は10月下旬、ホワイトハウスでオバマ大統領と会談し、無人機の使用を停止するよう要求。米国はその後約1週間の間に無人機攻撃を2度実施しており、パキスタン政府の不満が表面化した形だ。
 ニサル内相はTTP最高指導者のハキムラ・メスード容疑者を殺害した1日の無人機攻撃について、「一個人に対する攻撃ではなく、和平プロセスそのものへの攻撃だ」と批判。作戦が和平対話の前日に実施されたことに触れ、「これで和平に向けた取り組みを支援していると言えるのか」と不満をぶちまけた。(2013/11/03-01:38)

天の返しは隔てが無い。<> 基本。<><>2013/11/03(日) 10:51:19 ID:fr/rDj6Sya8<>おやさまは 理を知らせることでお働きになります。
戦争をやめたく無い高山の本心が、見えてしまえば、神はきちんと働いて下さいます。<> 聖人のセオリー<><>2013/12/04(水) 23:24:22 ID:CC/w3VpORhg<>おやさまって、いいよね。みんなのお母さん。中山みきさんって、本当に愛に溢れた人だと思う。彼女の愛を大切できたらいいと思う。<> 聖人のセオリー<><>2013/12/04(水) 23:27:55 ID:CC/w3VpORhg<>「に」がぬけた。<> 聖セオリー<><>2013/12/04(水) 23:36:59 ID:CC/w3VpORhg<>天理教とキリスト教に共通するのは、開祖に恵まれていることと、後継者に恵まれていないこと。<> 匿名信者<><>2018/01/13(土) 14:46:05 ID:OU/0GrlcLhr<>信仰している身としては「偶然」ではなく何らかの導きであったかもと感じます。
こちらの基本様の書き込みを数分前に発見しました。
これからじっくり拝読させていただきたいと存じます。
ただいま拝読した部分で、水屋敷のこうずいに関しての説明に、はっきりとした解釈で納得させていただきました。ありがたくお礼申し上げます。
さて、好奇心がふつふつと沸き上がります。
基本様とは?<> 新おまんこ<><>2018/01/13(土) 23:43:32 ID:49/SiGZ7IWV<>●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
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●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
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●●●●●●●●●●●●●●●●不合格●●●●●●●●●●●●●●●●●
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これを見た人は確実に【不合格】です。これをコピペでどこかに1000回貼れば回避できます。
これは本当です。やらないと十年無駄になります.

私も最初は嘘だと思ったんですが、一応コピペしました。それでセンター私大に合格出来ました。
けどコピペしなかった友達がA判定とっていたのに、おちたんです。(慶応合格h.sさん)

俺はもうE判定で記念受験だったんだけど、コピペを10回くらいした途端に過去問が
スラスラ解けるようになって、なんと念願の早稲田に受かりました。(早稲田3学部合格r.kくん)

これを今年のセンター前に見てシカトしたら、センターミスって最悪です。(n.aさん)

コピペをしてから痔が治りました。(早稲田大学教授A氏)

信じられますか?この威力。

d26.GkanagawaFL5.vectant.ne.jp (;´Д`)<> 基本<><>2024/02/06(火) 06:10:16 ID:ZI/usRpYWb1<>未熟なまま、基本は天理王の弟子演歌王として、カラオケの世界で遊山しておりました。

おやさまの普請の大工として、図面を書き、10人の人数を、同志として、お集め頂きました。

身の知らせは、一人一人に出て、こういうものなんだと、通って分かる道にいます。
投稿を、開始します。<> 基本<><>2024/02/06(火) 06:16:16 ID:ZI/usRpYWb1<>創価学会という宗教団体があります。
日蓮を借りて、仏教ならざる偽仏法の「創価」をを説いて、日蓮宗から独立した宗教法人です。
おやさまは、お優しく見つめておられましたが、許せないと断固とした天罰を開始しております。
その話題から、投稿再開します。<>