こりこり<><>2008/04/11(金) 06:33:48 ID:<>オートバイは、乗るものに「自立」を要求する。
オートバイに乗り、そして、それを語ること。
それは、「哲学すること」に他ならない。

(ほんとうは、
ふくろうさんに立てて戴きたかったのだが^^)

哲学するもよし。
あれこれ雑談するもよし。<>『哲学とオートバイ』 ふくろう<><>2008/04/11(金) 08:41:19 ID:<>こりこりさん、ありがとうございますm(_ _)m

また書き込ませてもらいます(^o^)/<> ふくろう<><>2008/04/11(金) 10:41:41 ID:<>スレ立て、ご面倒お願いして申し訳ありません。

しかしながら、私のオートバイ乗りとしての、および人格の未熟さを鑑みるに、スレ主はやはりこりこりさんがふさわしいと考えた次第です。

同意されることが稀有な私ですが、この見解については大方の同意を得られると確信しております。

私は一参加者として、へりくつ妄想を述べる所存です。

<> ふくろう<><>2008/04/11(金) 12:13:08 ID:<>で、さっそくですが、せっかく哲学カテにオートバイに関するスレが立ったわけですので、ただ事実としてオートバイに乗っている人を「オートバイ乗り」とする客観的定義ですますのではなく、改めて
「オートバイ乗り」とは何か?
という定義を提案したいと思います。

愚見は
『オートバイ乗り』とは「自分はオートバイ乗りである」と自認している人のことである
というものです。
その理由は、
このように自認する人にとってオートバイに乗ることは、自分が自分であるということのうちに、オートバイに乗ることが他のことと取替え不可能な重要な意味をもっている、もしくは、そう思い込んでいる(笑)
からです。
実際にいくら長い時間オートバイを使っていても、そのようにあえて自認しようとしない人にとっては、オートバイはいわば便宜上必要なだけで、本質的には取替え可能な単なる移動手段としての足の代用、道具にすぎないと思われます。

なお、「オートバイ乗り」は「バイク乗り」「単車乗り」「鉄馬乗り」「ライダー」「自動二輪乗り」…等でも構いません。
呼び方にこだわりがある人、その人はそれだけで条件を充たします。
すなわちオートバイ哲学を有している人、あるいは、バイクバカです(笑)。

どんなもんでしょう?
<> che<><>2008/04/11(金) 17:52:40 ID:<>腕のいい職人さんになると、手足を通り越し、使う道具の先端にまで意識が及んで道具が体の一部になると言いますが・・・・
バイクは、そういう感覚をわりと身近に感じさせてくれる存在に思えますね。カーブを曲がるときなんかは特に・・・・
バイクのエンジンの振動に呼吸を感じて、一体感を味わいながら進む道に、いつのまにか自分の生きる道をオーバーラップしてることはあるなぁ・・・。

>>0
>>オートバイは、乗るものに「自立」を要求する。
>>オートバイに乗り、そして、それを語ること。
>>それは、「哲学すること」に他ならない。

う〜ん、確かに哲学だね。
<> み学<><>2008/04/11(金) 18:18:07 ID:<>オートバイのお兄さんと衝突した時
携帯を持たない自分が電話を探して警察を呼んでいる間に
逃げていかれました。
オートバイのお兄さんは点数が危なかったのでしょうか?
お巡りさんは、事件にしますか?と
事件にしたら自分もゴールド免許じゃなくなるので事件になりませんでした。
オートバイの事故現場を目撃したことが10件以上あります。
死神を背中に背負って走っているのでしょう。
<> ですね<><>2008/04/11(金) 18:22:38 ID:<>>>5

災難でしたね。

交通事故というものは、己の「不注意」も原因のひとつなのですよ。


>死神を背中に背負って走っているのでしょう。

背負ってはいない、ですね^^<> み学<><>2008/04/11(金) 18:43:52 ID:<>早朝車がどんどん右折するのです。
前を走っていたバイクの集団がいました。
信号待ちで後ろを振り向いて自分の車と目線が何人か合いました。
その中に白い仮面をかぶっている少年がいました。
いよいよ我が町も早朝までも・・

そのほかいっぱい車バイクよもやま話はありますあります。<> こりこり<><>2008/04/11(金) 21:23:34 ID:<>他のスレがお祭り騒ぎ。
(といいつつ、おいらも一役買ってはいるんだが^^)

しばらくsage進行で、ひっそりと行こうかなぁ・・<> moon light<><>2008/04/11(金) 22:00:42 ID:<>なに?(゜-゜*) <壁に耳アリ<> moon light<><>2008/04/11(金) 22:03:37 ID:<>正体発見> (゜-゜*)

ガチョーーン...。<> こりこり<><>2008/04/12(土) 05:14:39 ID:<>とりあえず、夜が明けたので。

あとでオートバイに乗ることにしています。<> こりこり<><>2008/04/12(土) 05:23:01 ID:<>哲学もオートバイも共通して世間の多くの人々から投げかけられる言葉がある。
曰く。
「はしかのようなもの」
「ものずき」

<> こりこり<><>2008/04/12(土) 05:25:35 ID:<>「思考するオートバイ乗り」はその両方だからね^^
<> こりこり<><>2008/04/12(土) 05:27:46 ID:<>言葉が足りませんでした。

「思考するオートバイ乗り」は哲学とオートバイの両方で言われる、
といいたかったのでした。

<> 大迷惑2スト原付は禁止汁!<><>2008/04/12(土) 11:36:37 ID:<>騒音 悪臭 大気汚染 2ストは追放だ! <> 2スト禁止派<><>2008/04/12(土) 11:41:52 ID:<>電動バイク乗りがまだましだ。 自転車乗りは、バイク乗りよりはるかに層が厚く多用だ。 バイク乗りは自動車乗りにとってウザイ存在。 交通界のゴキブリでありネズミである。<> ふむ<><>2008/04/12(土) 12:22:03 ID:<>なるほど。<> ふむ<><>2008/04/12(土) 12:24:13 ID:<>では、次の方。どうぞ。<> 匿名希望<><>2008/04/13(日) 03:26:34 ID:<>>>8
絡まれると迷惑がかかりそうなので・・・匿名希望のcheです(笑)

ところで、こりこりさんは、どのバイクにお乗りで?

sage<> こりこり<><>2008/04/13(日) 04:21:24 ID:<>捨てハン多用のこりこりです^^
>>19
>ところで、こりこりさんは、どのバイクにお乗りで?


いまは3台。
 ズーマー50、セロー250、XJR1300。
ホンダが一台、ヤマハが2台です。

どれも「お気に入り」ですね。

cheさんは?


<> che<><>2008/04/13(日) 04:29:19 ID:<>ROYAL ENFIELD BULLET 500 Classic
一本でかれこれ7年です。<> こりこり<><>2008/04/13(日) 04:33:26 ID:<>また、しぶいのに乗ってますねぇ。
<> che<><>2008/04/13(日) 04:35:18 ID:<>メンテナンスが大変で・・・(泣)<> こりこり<><>2008/04/13(日) 04:38:55 ID:<>やっぱり^^
いまそれを尋ねようかと思っていたんだ。

でもえらいね。7年か。<> che<><>2008/04/13(日) 04:44:11 ID:<>いい感じにがたがきてる(笑)
でも、またそれが良かったりもして・・・。
もう手放す気になれんのです。<> こりこり<><>2008/04/13(日) 04:49:12 ID:<>エンフィールド以前にはなにか乗ってたの?<> che<><>2008/04/13(日) 04:52:57 ID:<>いえ、エンフィールドが最初で最後(?)のバイクですよ。
イッツ マイ ライフ
イッツ マイ ワイフ
って感じですね(笑)

<> che<><>2008/04/13(日) 04:58:31 ID:<>なんか久しぶりにバイクの話をしてたら、ちょっと近場の海に行きたくなってきたなぁ・・・・

う〜ん、駄目だ・・・我慢できん。

これにて失礼。(朝飯は海鮮にしよう・・・・)

ではでは。<> こりこり<><>2008/04/13(日) 05:03:23 ID:<>いってしまった・・
これだからな、「オートバイ乗り」は^^

おいらも、走ってこようかな?<> み学<><>2008/04/13(日) 10:18:15 ID:<>哲学好きなら
車もオートバイも唯の交通機関ではない。
ただ走るだけではない。<> み学<><>2008/04/13(日) 10:20:24 ID:<>体育会系の人は、自分の足で走る時脳内麻薬が出るらしい。
ランナーズハイそういう経験がない。<> こりこり<><>2008/04/13(日) 21:14:12 ID:<>誰が言ったか忘れたけれども、
「ライダーズハイ」ということを言った人もいたね。

オートバイは車と違い、快適装備がほとんどない。
(一部、ツアラーと呼ばれる種類のバイクにはステレオやエアコンまで装備されているものもあるが、例外的)
たとえば500キロのツーリングに出たとき、
ライダーが聞くことができるのは、ヘルメット越しの風切り音と
自らのオートバイの排気音だけ。
しかし、決して退屈することはない。
(おいらは四輪も乗るけど、
四輪に乗っているときは音楽がないとちょっと耐えられない)

これも思えば不思議なこと。<> ふくろう<><>2008/04/14(月) 22:17:24 ID:<>>>21
ものすごくいいのに乗ってますね、私にとって垂涎のオートバイ(笑)

エンフィールドと言って私が思い出すのは村上春樹が訳したアーヴィングの『熊を放つ』です。
車種は憶えていませんが、主人公がエンフィールドでタンデムして旅をします。
明るいとはけして言えない作品でしたが…

>>32
客観的にはアドレナリンだかの脳内分泌物に影響されるらしく、スピードによって分泌される量が若者は明らかに多いと聞いたことがあります。
つまり、スピードによって若者は医学的・生理学的に明らかに快感をより多く感じるということらしく、それが保険料の高さにも反映しているとか。


<> che<><>2008/04/14(月) 22:41:09 ID:<>>>33

う〜ん、今年の9月から始まる新・排気ガス規制で、350CCバレットも新品で買えなくなるのは悲しいね。<> ふくろう<><>2008/04/14(月) 22:44:07 ID:<>えっ!そうなんですか(ToT)<> che<><>2008/04/14(月) 22:48:51 ID:<>はい。500CCに至っては、すでに輸入、販売ともに中止です。<> ふくろう<><>2008/04/14(月) 22:51:14 ID:<>(ToT)(ToT)(ToT)<> moon light<><>2008/04/15(火) 01:53:41 ID:<>ナチュラルハイ。<> こりこり<><>2008/04/15(火) 03:41:00 ID:<>オートバイは「速度」の大切さを教えてくれる。
オートバイは、速すぎても遅すぎてもコントロールすることが難しくなる。
思考する際にもおなじようなことがいえるのじゃないか、とこのごろよく思う。
精神の動きをコントロールすること。
言葉を発する速度。
バランス。
精神の均衡をどのような思考速度でも保つことができるようになるためには
オートバイを操ることと同様に訓練が必要なのではないか、ということ。
自覚的に技術向上を目指さなければ、どんなに長く乗り続けていても「へたくそ」なままだ。
そして、無自覚に乗り続け、「自分はうまいのだ」と錯覚しているものはいつか重大な「事故」に遭遇する。

言葉の世界では、その「事故」がすぐさま命にかかわるわけではないが、
オートバイの世界では「ほんとうに死ぬ」んだ。
だからおいらは、
オートバイに乗るときはいつも緊張する。
そしてこころをリラックスさせてから動かし始める。


<> こりこり<><>2008/04/15(火) 04:21:25 ID:<>世の人々の間違った認識のひとつ。

「オートバイは危険な乗り物。それにくらべて車は安全な乗り物」

おいらはむしろ逆だと思っている。
<> こりこり<><>2008/04/15(火) 04:25:50 ID:<>もちろん、あんぽんたんな人間が動かせば、どちらも「危険」です。


<> che<><>2008/04/15(火) 05:29:39 ID:<>>>39
凄くいいことが書いてある。
そうなんだ・・・・そう、運転は一回一回が真剣勝負。
剣客に通ずるところもあるだろう・・・・死を意識し向き合うこと・・・それは生を充実させるには不可欠な要素なんだと僕は思う。

>>40
>>「オートバイは危険な乗り物。それにくらべて車は安全な乗り物」
おいらはむしろ逆だと思っている。

これも理にかなっている、心構えに違いが生まれ易い。
実際に四輪と二輪の運転では、木剣試合と真剣試合くらい違いがある。当たれば死に直結する真剣試合においては、緊張は必須の要素にして、その向き合い方が生死を分けるのである。
本当のバイク乗りは、そこら辺を熟知している。<> che<><>2008/04/15(火) 05:38:58 ID:<>>>39
>>オートバイは「速度」の大切さを教えてくれる。
オートバイは、速すぎても遅すぎてもコントロールすることが難しくなる。
思考する際にもおなじようなことがいえるのじゃないか、とこのごろよく思う。
精神の動きをコントロールすること。
言葉を発する速度。
バランス。
精神の均衡をどのような思考速度でも保つことができるようになるためには
オートバイを操ることと同様に訓練が必要なのではないか、ということ。
自覚的に技術向上を目指さなければ、どんなに長く乗り続けていても「へたくそ」なままだ。
そして、無自覚に乗り続け、「自分はうまいのだ」と錯覚しているものはいつか重大な「事故」に遭遇する。


確かにそうかもしれない。
バイクの制するものは、情動を制するのかもしれない。

しかし、未だ僕はバイクも情動も制しきれていないのであった・・・・(笑)
日々精進、それが大事。
<> che<><>2008/04/15(火) 06:25:05 ID:<>うあぁ・・・・

バイク「の」制するものは、情動を制するのかもしれない。


「を」の間違いだった・・・oTZ
<> こりこり<><>2008/04/15(火) 06:45:29 ID:<>>>44

どんまい^^<> 水原<><>2008/04/15(火) 23:48:15 ID:<>SR乗りの水原です
オートバイと哲学ってなんか良いですね!

道路を人生に例えると

色々な人(車)が行き交う中で

守るべき物が無い代わりに、自由と言うスロットルを手に入れた

「妬まれる」アウトロー かな?

因みに季節や、海 山が近くなると「空気が変わる」のに気付く事のでき

るのは「ライダー」の特権です!ね


<> ふくろう<><>2008/04/15(火) 23:50:11 ID:<>昨夜のショックがまだ尾をひいているふくろうです(笑)

こりこりさんとcheさんの大変興味深い考察をみて、流れとしてピッタリだと思い、このスレが立つきっかけになった
http://philosophy.bbs.thebbs.jp/1204969528/96-97
の続編を、次に一挙投稿します(ですから次のレスを読む前に、ぜひ上のレスを読んでいただきたくお願いしますm(_ _)m)。
しばらく前から準備していたものの、まだ推敲が不十分なのでもう少し後でと思っていたのですが、タイミング的には今かなと感じますので、とりあえず。
問題意識的には非常に近いもので驚いています。
しかし何しろ個人的思いですので特に微妙な感じ方は人それぞれ異ると思います。
本当のバイク乗りの真理はこれだ、というふうな偉そうな言い方に感じられたら申し訳ありません、けしてそんなつもりはありませんので、ご容赦ください。
http://philosophy.bbs.thebbs.jp/1204969528/104
も一応参考にお願いします。
<> ふくろう<><>2008/04/15(火) 23:54:17 ID:<>さて、私は四輪=日常性、バイク=非日常性と対比させましたが、そのポイントのひとつは四輪が本来的に止まっていても転倒しないものであるのに対して、バイクが本来的に転倒するものであるということでした。
これが主観的に捉えた四輪と二輪の本質規定における違いのひとつ。
そして前に述べたような意味、転倒した状態のバイクというのは走れない=生命のない存在、むしろバイクとしては本来的には非存在である、ということ。
つまり、ここで言う「転倒したバイク」とは、「止まった状態の風」が風の非存在であり、「死んだ風」であるように、「死んだバイク」を意味します。
むろん客観的には転倒したからと言って死ぬとは限りませんが。
しかし、ここでは必ずしもそういった客観的な転倒による死の可能性を直接意味しているのではありません(と言うか、むしろ事故も含めてバイクが走りえなくなる状態=バイクの死を象徴・含意しているメタファーだと言っても良いかもしれません)。

時速100キロで走る4輪と2輪、その客観的危険性ではなく、ドライバーとライダーの意識を想像してもらえばわかりやすいかもしれません(ただ、誤解のないように述べておくと、現代のバイクは大きさにもよりますが、時速80キロ〜100キロの速度域というのは、客観的にはむしろ安定した状態です)。
走り出す前から転倒する四輪はありえません。
四輪にとって転倒(死)は本来的には「ない」こと、安定しているのが前提です。
もちろん100キロで走っていれば実際には転覆もありうるものであるけれども、四輪にとって安定は元々あるものであり、自らが限界を超えない限り安定は失われない=転倒は無いもの、あるはずのないもの。
実際ドライバーで常に転倒を意識しているという人はいないでしょう。
それに対して100キロの速度でバイクが走っているとき、客観的にはいかに安定した状態にあるとしても、ライダーは常に転倒=死を意識していると言ってよいでしょう。
前述したように、ライダーにとっては、バイクが走り続けることは、即ちバイクが立ち続けること=転倒しないでい続けることであり、それはもともと「ある」ものではなく、なり続けることによってあるものにほかならないからです。
意識の上でのドライバーとライダーのこの違いは、四輪と二輪の主観的な存在意味を考える場合、私には決定的だと思われます。
バイクとは本質的に転倒するものであり、立っていることはけして必然的・前提とみなしえないものだということ。

本来的に転倒(死)の可能性を有するバイクの走行(生)において、今現在立ってあることは次の瞬間も立ってあるということを何ら保証しません。
バイクが転倒するときは、いかに簡単に、ちょっとしたことで転倒するかということは、バイクにある程度長く乗った人に共有されている実感であると思います。
バイク・カテをご覧になればわかると思いますが、ベテラン・ライダーほどバイクの本質的危険性を知っています。
だからこそ彼らは逆に事故る可能性が低い、とも言えます。
バイクが主観的に本質的に危険なものであるという認識が、逆説的に、客観的な安全性を生むわけです。
<> ふくろう<><>2008/04/15(火) 23:57:09 ID:<>ライダーがどんなに完璧にコントロールしたとしても、いわば未来に対してその偶然性を完全に支配することは不可能であり、限界があります。
ライダーのコントロールは本質的に転倒しないための必要条件にすぎないのであって、けして十分条件ではありえません。
つまり、いついかなる次の瞬間にも常に、立っている=生の可能性とともに転倒=死の可能性があるのがバイクであり、言い方を換えれば、いついかなるとき転倒しても(死んでも)不思議ではないのです。
すなわちバイクにおいては、存在可能性=非在可能性ということ。
それゆえその意味で言えば、走行し続けている=転倒しないでい続けていることは、共にある生の可能性と死の可能性のうち前者が、いわばたまたま現実化しているということであり、いわば常に偶然の僥倖、奇跡の連続とも言えます。
言い方を換えれば、立って生きてあることは、あらかじめ保証された資格ではなく、瞬間瞬間常に新たに更新され続けているということ。
なぜ立っていられるのか、倒れないのか?頭で理解する物理的理由とは異なる意味の不思議さを、多くのライダーはどこか体感的に感じているのではないかと思うのですが、どうでしょう?(たぶん考え過ぎかも(^。^;))
たとえばカーブにおける遠心力は四輪にとって安定を損なう可能性のある制御すべき対象でしょう。
しかし二輪にとってはそれと同時にまた、自らが身をゆだね(バンクし)それが支えてくれることによってカーブすることが可能となるものでもあるのです。
バイクは車体を倒さねば曲がることが出来ません(ハンドルを切って曲がるのではない)。
初心者はバイクを思い切って倒すことが怖いのですが、倒せるようになることは、いわば目に見えないあるものが、自分を支えてくれると信じることができるようになることでもあるのです(そしてその関係はちょっとしたことで壊れてしまいます)。

バイクにおける「速度=スピード」とは、惰性化し安定した必然性の支配するどこまで行っても既在のものにしか出会わない日常世界を、不安定で偶然性に満ちた未知の非日常世界へと、その存在様態を変貌させるものです。
バイクにおける速度、それはけして単に地点AからBへの移動時間の短縮を意味するものではありません。

ライダーの意識に次々に立ち現われ変化する風景世界は、常に偶然=未知の世界です。
常にここ(此岸)からむこう(彼岸)へと地平線を越境していくこと。
そこはあらかじめ実体として存在している特定の場所・約束された場所ではなく、たんに「ここではないところ」であり、「ここではないむこう、外へと出て行くこと」です。
<> ふくろう<><>2008/04/16(水) 00:25:30 ID:<>>>46
スルーしたみたいになってすみませんm(_ _)m

空気の変化、温度の変化…、ほんとバイクに乗ってると感じますよね。

ただ困るのは、今くらいの時期や秋口くらいに、ふつうの人が半袖なのに、ふつうの人の真冬なみのかっこうだったりすることかな(笑)
バイクの場合、寒さが倍化というか何倍にも感じられますから、寒がりな私はすごく着込むんですよ。
それで観光地など行くと自分だけ浮いてかっこ悪い(笑)<> こりこり<><>2008/04/16(水) 06:19:11 ID:<>>>46
>>「空気が変わる」のに気付く事のできるのは「ライダー」の特権です!ね

ツーリングにでかけると、川ひとつ越えただけで
気温が下がり、空気が変化したのを身体で感じますよね。
三鷹に住んでいる頃、ツーリングにでて、多摩川を越えると
「ああ、これで東京から離れるんだ」と感じたことを思い出します。
(実際は、日野も八王子も「東京都」なんだけどね)
<> こりこり<><>2008/04/16(水) 06:23:30 ID:<>>>50

>自分だけ浮いて・・

たしかに
オートバイ乗りはすぐわかりますね。
<> こりこり<><>2008/04/16(水) 06:27:45 ID:<>おいらは冬でも二輪に乗り続けているので
寒さに強くなったみたいです。
職場で、風が流行っていてもマスクをしていないのは
「おいらだけ」みたいなことが多いです。

バイク乗りはタフでなければ生きていけない^^
<> こりこり<><>2008/04/16(水) 06:28:17 ID:<>風は風邪でした。<> こりこり<><>2008/04/16(水) 06:53:47 ID:<>>>49
>バイクは車体を倒さねば曲がることが出来ません(ハンドルを切って曲がるのではない)。

この部分はちょっとちがってます。
オートバイもやはり「ハンドルを切って」曲がるんです。
極低速で試してみるとわかると思いますが、
バイクを立てた状態のままハンドルを切って曲がることは可能です。

表現としては、
「バイクはハンドル操作をしなくても、重心をずらすことにより
勝手にハンドルがきれて曲がる」というのが正しいと思います。
<> こりこり<><>2008/04/16(水) 07:18:45 ID:<>>ライダーの意識に次々に立ち現われ変化する風景世界

いい言葉ですね。
感心しました。
<> ふくろう<><>2008/04/16(水) 17:13:58 ID:<>>>0
こりこりさん、

追加情報、気を遣ってくださってありがとうございますm(_ _)m

夜、このスレにおける「雑談」について書き込みます。
<> che<><>2008/04/16(水) 18:23:12 ID:<>>>46
>>道路を人生に例えると
色々な人(車)が行き交う中で
守るべき物が無い代わりに、自由と言うスロットルを手に入れた
「妬まれる」アウトロー かな?

自称バイク乗りであり、大酒飲みにして、ヘビースモーカー、更に、守るべき物が無い独身貴族、ならぬ独身平民(泣)である僕は、知り合いの大多数を占める既婚者の野郎どもの羨望の眼差しを一身に集めながら、ドSであるにも関らず日々日々規制に締め上げられる「妬まれる」アウトロー ならぬ 「怨まれる」アウトローです(笑)

>>57
レス読ませて頂きました。これまた文学的表現が、見事に哲学的表現に昇華されたなぁとしみじみ感じ入っています。
ところで、エンフィールドショックはまだ尾をひいていらっしゃるのでしょうか?
あの後、ふくろうさんの(ToT) レスを見返して、凹みました・・・自分で書いてて何なんですが・・・もらい凹みって奴でしょうか(笑)
<> ふくろう<><>2008/04/17(木) 00:19:49 ID:<>別スレで「雑談」が問題になっているようですね。
本スレにおいても、>>0 で「あれこれ雑談するもよし」とありますので、これがこのカテのスレ主旨として妥当か否かということが問題になろうかと思います。
私は以下で、「オートバイ(に乗るという行為)について哲学する方法としての対話」において「雑談」というものが果たしうる役割・意味を若干考察します。
そして、この哲学のために「雑談」は有意義・必要であり、スレ主旨はこのカテとして適切であるという私見を述べたい思います。

ここで私が述べたいのは、一般的に「雑談」が哲学において必要か否かについてではありません。
あくまで、より限定した「オートバイ(に乗ると言う行為)についての哲学」を対話を通して行うこのスレの場合、「雑談」は明らかに有意義かつ現実的に必要だ、ということです。
もちろんどんなものでもいいわけではなく「雑談」と言っても「オートバイ」に何らかの意味で関係する(んじゃないかなあと思われる)もの?いわゆる「オートバイ談義」?ですが。

言うまでもなく「オートバイの哲学」とか「オートバイ乗りの哲学」などという確立した分野・方法があるわけではないので、手探りで行わざるをえません。
とすればさしあたり可能なことと言えば次のようなことではないかと思います。
?オートバイに乗る上でどうしてもこだわってしまうとか、理由は上手く言えないけどそうあるべきだと思うこととか、何か意味があるのじゃないかとか、オートバイのここが他にない楽しみだとか、その他そのまま話せばそりゃ雑談にしか過ぎないようなことを出し合いながら、思い・考えが一致・共感するところ、ちょっと考えても共通してこだわってしまう理由がわからないとか不思議に思える、といったことを発見し、そういったものの意味を対話を通して探っていく・掘り下げていくこと
?こういったことが、このスレッドの存在意義・目的であると私は考えます。
それは例えば最初からある具体的な問題・テーマについて議論・討論を目的とするようなスレとは明らかに異なったものだと思うのです。
<> ふくろう<><>2008/04/17(木) 00:22:47 ID:<>哲学スレに建てる限り、オートバイ談義(雑談)といっても、それが哲学と何らかの意味で結びつかないのなら、あるいは結びつけることを目的にしていなければ、意味がない。
つまり、オートバイ談義のためのオートバイ談義なら、オートバイ・カテに立てればいいじゃないか、という見解はあるでしょう。
そしてそれはさしあたり私も同意です。

しかし問題は、最初からそれが哲学と結びつく話題なのかどうかということは、実際のところたいていわからないのです。
たとえばバイクの好みについての話題が哲学に関係するでしょうか?
あるいは、これはバイク・カテでこりこりさんがスレ主のスレタイに関係しますが「バイクにナビは要らない」と思っている人があって、この主張は哲学カテにふさわしいでしょうか?
私は両者とも、(広義の)哲学に関係すると思っています。

前者について少し触れると?四輪好きの方にも理解してもらえるのではないかと思いますが?バイクというものにはその背後にメーカーのもの作りの思想、その時代・その国におけるモータリゼーション文化の精神が反映しており、「こだわり」と言えるような好みは、こういった思想と無縁ではありません。
したがって物凄く省略して言うと、自分がなぜこのバイクを好きか、ということを考えることは、思想的問題とつながる契機になりうるのです。
またカーナビについての発言も、私は十分哲学的考察に値する主張であると思います。
これについては近く私見を投稿するつもりです。

しかし、このような例でも、その発言のみ見れば雑談にしか思えない人もいると思いますし、実際これらを発言する人自身が哲学に結ぶつくかどうか前もってはわからない場合のほうが多いかもしれません。
また微妙なタイミングというのもあり、そのときの雰囲気、参加者etc.いろいろな要因で、哲学的思索と言える次元まで深まらず、そのまま終わってしまうということも実際にはあるでしょう。
ですがこのカテであることを意識しつつバイク談義をすることは、バイクカテで行うのとはメンバーにも影響するでしょうし自ずから違いが出る(はずだ)と思われます。
そして「何かここに意味があるのじゃないか?」という直観から出発するほかないのではないでしょうか。
したがって、このスレはさしあたりどうなるかわからない雑談的発言も含めて自由に出し合い、そこから哲学的な意味を発見し、探っていく、というのでいいのじゃないでしょうか。
そう試みること自体、既に哲学の第一歩であると思うのです。
それ以外にやり方がけしてないとはいいませんが、私としてはそれ以外に方法を思いつきません。
仮に雑談を禁止して、最初から「はい、バイクについて哲学を語って」と言われて、語れる人はほとんどいないと思われますし、あったとしてもすぐ終了だと私には思われます。

実際まだこのスレは始まって間もないですが、上に述べた存在意義という観点から言えば、今までのところ、なかなかいい感じではないかと私は思います。

ですからとりあえず、
http://philosophy.bbs.thebbs.jp/1207082682/489
「雑談は豊かな哲学を育てる土壌である」

をモットーに、このスレではバイク談義に花を咲かせましょうo(^-^)o
<> ふくろう<><>2008/04/17(木) 00:25:19 ID:<>こりこりさん、

遅くなってすみませんm(_ _)m。

なんかしまりのないものになってしまいました(>_<)。

<> ふくろう<><>2008/04/17(木) 00:31:15 ID:<>>>58
あい…(;_;)

実はずいぶんと前からエンフィールドのファンで、現実的いくつかの理由からなかなか手に入れることが出来ないできました。
まあ今絶版にならなくても、状況的に言って当分はやはり無理なんですが…でも、販売され続けていれば、いつかは…と。。。
最近カタログ本から500ccが抜けているようだったので、うすうす気になっていました。
もう日本では絶版になっていたとは…

メインテナンスが大変とのことでしたが、世話のかかるバイクほど可愛いというのは私も経験的に知っています。
どうか末永く可愛がってあげてくださいねm(_ _)m

私は現在約二十歳になるナナハンに乗っています(個人的理由で車種はひかえさせていただきますご容赦m(_ _)m)

私の文章に関するレス、ありがとうございましたm(_ _)m
<> こりこり<><>2008/04/17(木) 01:44:32 ID:<>>>61
>なんかしまりのないものになってしまいました(>_<)。

いえいえ、なかなかおもしろく読みましたよ。
特に、最後の締めのことば。

「雑談は豊かな哲学を育てる土壌である」
をモットーに、このスレではバイク談義に花を咲かせましょうo(^-^)o


笑いました^^

なぜかって?
文太は「あるおかたがおっしゃっておりました・・」と言ってますが、
その方とは、なにをかくそうこのわたくしでござるのである・・
他の格言めいたものもそうですよ。
おいらの「でっちあげ格言」。

でも、意外と「真実」に迫ってませんか^^
自画自賛。


<> こりこり<><>2008/04/17(木) 01:47:39 ID:<>>「雑談は豊かな哲学を育てる土壌である」

これ、そのままスレタイに使えそうだなぁ・・・
(と、よからぬことを企てたりしてみるおいらであった。)
<> こりこり<><>2008/04/17(木) 01:58:46 ID:<>でも、案外おいらは真面目ですよ。

そもそも、哲学論というのは
「森羅万象、あらゆるものを考察するもの」であるはず。
ならば「雑談」化するのは、むしろ必然ではあるまいか。

と思ったりしますね。<> こりこり<><>2008/04/17(木) 02:13:25 ID:<>>>60
>仮に雑談を禁止して、最初から「はい、バイクについて哲学を語って」と言われて、語れる人はほとんどいないと思われますし、あったとしてもすぐ終了だと私には思われます。


むこうのスレで「マナーを守れ、雑談を禁止せよ」とやかましい人がいますね。
昔の人はいいことを言いました。

「角を矯めて牛を殺す」

(これはご承知だとは思いますが、おいらの言葉じゃありません)
<> こりこり<><>2008/04/17(木) 02:27:04 ID:<>>>62
>私は現在約二十歳になるナナハンに乗っています

ホンダのCBか、カワサキのゼファーか・・・


(独り言)
個人的理由・・・
どっちかの会社に勤めているのかな・・?

<> 捨てハン多用の男<><>2008/04/17(木) 03:43:49 ID:<>こりこりです。

>>46
>道路を人生に例えると

ツーリングも人生に似てますね。

ツーリングは「哲学」にも似ている。
「真理」という目的地にむかって走る。
しかし、「目的地」とはなんだろう。

バイク乗りにとって、目的地に着いたとき、
そこに在るものは、「目的」ではなく、「過程のみが残されている」ことに、
バイク乗りは気がつく。のであったりする。<> 水原<><>2008/04/17(木) 06:23:09 ID:<>>>68
目的地に向うのに色々な交通手段がありますが、どうして私達はオートバイで向かうのでしょ? 人生もなんか一緒だね! 道程や手段に幸福を感じる今日この頃です。<> こりこり<><>2008/04/17(木) 06:30:28 ID:<>>>69

同感です^^<> ふくろう<><>2008/04/17(木) 08:45:24 ID:<>>>63
格言の作者についてですが…

もちろんそうだろうと思っていましたよ^^
だからこそ…です(^_^)v<> こりこり<><>2008/04/17(木) 19:01:31 ID:<>>>71

なぁんだ。お見通しだったのかぁ・・

そりゃそうだ。
あんなふまじめな「格言」なんかあるわけがないし、
そんなものを書き込むのは、おいらが「客観的に」みたって、
おいらしかいないよね・・・

はい。納得です。
でもって、ありがとう、です^^<> こりこり<><>2008/04/17(木) 19:14:58 ID:<>おいらが「哲学カテ」に来たのはいつからだろう?
たしか二月の中頃。二ヶ月前か・・
それまではもっぱら「時事カテ」とか「政治カテ」・「歴史カテ」・「プロ野球カテ」を転々としていたんだ。

雑談好きなおいらですが、
「雑談カテ」をちょっとのぞいてみて、「あ、すみません。失礼しました・・」って感じ。二度と覗きたくない場所だったね。

最近おいらが哲学関係の本をよく買ってくるので、年老いた母親が心配してますね^^
「おまえ、大丈夫か?」とよく言います。
哲学とは無縁の、無学な母親にとっては、
そうとう「物騒な」ものに映っているんだろうね、哲学は。


<> ふくろう<><>2008/04/17(木) 22:34:34 ID:<>>>72
実際ぴったりだと思いまして^^

>>55
前後してしまいますが、ご指摘ありがとうございますm(_ _)m
やっぱりあれですね、私の技術的なというか、構えというのか、その甘さが出ているような…(^_^;)

実はこりこりさんのような方は、

>走行し続けている=転倒しないでい続けていることは、共にある生の可能性と死の可能性のうち前者が、いわばたまたま現実化しているということであり、いわば常に偶然の僥倖、奇跡の連続とも言えます。(>>49 )

という言い方には抵抗を覚えられるのではないかと思っていたのですが、どうでしょうか?

それと関係ないですが、私はたいていすぐにはレスを返すことができませんので、ご了承くださいm(_ _)m
<> ふくろう<><>2008/04/17(木) 22:36:33 ID:<>>>68
ひょっとすると、ちょっとずれてしまうかもしれませんが…

友人に影響を受けてバイクに乗り始め、彼らとツーリングに出るようになったときから思っていました。
ツーリングに出るときいつも「今度はどこどこへ行く」とか、一応一つ乃至複数の目的地を設定するのですが、どうも「目的地」というのは怪しいんじゃないか、嘘なんじゃないか?と。
そういうところというのはたいてい観光地であったり史跡であったりするわけですが、「目的地」に着いてもだいたいほとんどの場合観光なんてしない(笑)
ひどいときにはバイク置き場からさえ離れない。
とにかくひたすら走る。
だから実際上休憩ポイントにすぎないような気もするわけで。

で、考えました。
目的地を設定するというのは本当は「帰る理由を作っておくこと」なんじゃないかと。
それがなかったら帰って来れなくなっちゃうからとりあえず作っておかなくてはいけないのでは?と。
全部目的地は見た、十分満足・納得しただろう、だから帰ろうみたいな。。。

私はキャンプ・ツーリングをするので、キャンプ場でよく、何ヶ月も日本中を放浪しているというライダーに出会います。
そんなときふと彼らは帰る理由を忘れちゃったんじゃないのだろうか、などと勝手に想像したりします。
彼らはむしろ帰る理由を見つけるためにこそ出発したのかもしれませんが…

それでも多くの場合、彼らはやがてそれぞれの帰る理由をみつけ帰っていくのだろうと思います。
中には北海道と沖縄を渡り鳥のように季節ごとに行ったり来たりしている人もあると聞きますが。
そうなると「自由だけど妬まれないアウトロー」(>>46 、>>58 )ってところでしょうか。
ん?考えたら、cheさんなんか、資格十分のようなんだけどなあ^^
どうです?「怨まれるアウトロー」から「自由かつ妬まれもしないアウトロー」へ、っていうのは?(^_^)v

もちろんツーリングにもいろんな意味があるでしょう。
私も今は以前とは異なったツーリングをしています。
<> こりこり<><>2008/04/18(金) 02:17:57 ID:<>>>74
>走行し続けている=転倒しないでい続けていることは、共にある生の可能性と死の可能性のうち前者が、いわばたまたま現実化しているということであり、いわば常に偶然の僥倖、奇跡の連続とも言えます。
>という言い方には抵抗を覚えられるのではないかと思っていたのですが、どうでしょうか?

この文章を、おいらは

走行し続けている=生き続けている=死なないで「存り続けていられる」ということは、共にある生の可能性と死の可能性のうち前者が、いわばたまたま現実化しているということであり、いわば常に偶然の僥倖、奇跡の連続・・

という風に勝手に読み替えて理解していたかもしれません。
だから、なんの抵抗もなく腑に落ちておりました。
つまり。
「そうだよなぁ・・なにかが『存在すること』自体が奇蹟なんだよなぁ・・」

この世の中で最大の奇蹟は「宇宙そのものが在るということ」だと思うし、その宇宙のなかで「地球のような生命にあふれた天体が存在している」ということはさらに奇跡的なことだと思います。
そして、その地球のうえで原初の生命が誕生し、数十億年の歳月の果てに現在のわれわれまで連綿と存在し続けてこられたということも、
軽いめまいを覚えるほどの「奇蹟」です^^


<> こりこり<><>2008/04/18(金) 04:21:51 ID:<>>目的地を設定するというのは本当は「帰る理由を作っておくこと」なんじゃないかと。

たしかに。そうなのかも知れない。
おいらが立てたhttp://philosophy.bbs.thebbs.jp/1203161484/e100
(最近は下に沈みっぱなしですけど)の主題は

「我々はどこからきたのか。我々は何者であるのか。我々はどこへ行くのか。」

いまのところ、おいらはこの言葉が「哲学の出発地」だと思っております。

われわれは「哲学」という「オートバイ」に乗って、解答(目的地)をめざしてさまざまな場所へ旅立つわけです。
そして、再び「我々はどこからきたのか。我々は何者であるのか。我々はどこへ行くのか。」
ここに戻ってくる。
常に。


<> こりこり<><>2008/04/18(金) 04:41:43 ID:<>最近のおいらの「ツーリング」はもっぱら「日帰りツーリング」のみ。
長期の休みがなかなかとれない職種に就いている、というのも理由のひとつですが、最大の理由(おおげさ?)は・・

ねこ。

ねこを飼っている、じゃなく、ねこと同居しているので、長期不在がしづらいからなのですね。
<> こりこり<><>2008/04/18(金) 04:53:08 ID:<>おいらはオートバイで出かけるとき、あまり目的地をきめないことが多い。
近所の本屋さんに行き、立ち読みをして、
おもしろそうな本があったら何冊か買ったりする。
再びオートバイに跨ったあと。「さて、どこにいこうか?」
とりあえず右(あるいは左)へ行ってみる。
道路標識に「浜松・静岡」とでているのを見てそっちへ向かう。(おいらは現在愛知県東部に在住)

そんな感じで走って、富士・本栖湖・八ヶ岳・諏訪湖・高遠・飯田・・・と巡り、帰って来たのは明け方ちかくなどということもあったりします。<> ふくろう<><>2008/04/18(金) 20:01:05 ID:<>>>76
そうですか、それはまさに私の意図した通りの解釈です。
そしてこりこりさんの述べられたことはおそらく、存在論哲学に惹かれる人たちすべてが共有する思いでしょう。
ちょっと予想がはずれました。
でも伝わっていることがわかって嬉しいです(^O^)

例によってものすごく省略しますが、?世界を必然的なものだと捉えるタイプの人と、?世界を偶然的である、と捉えるタイプの人があるように思います(これはオートバイ乗りに限定したものではありません)。
?のタイプのある種のライダーにとって、マシンあるいは状況を思い通りにコントロールすることは、世界の偶然性を排除する=世界を必然化・支配する、そんな意味合いをもつ場合がある、と思うのです。
いわば「意志による世界の必然化」ですね(他のスレで述べたことがありますが、三島由紀夫がこのタイプであると私は考えています)。

こりこりさんはオートバイについて一見ロマン的な語り方もされますが、同時に、その実私なんかよりずっと現実的でシビアな目でもオートバイを捉えておられるように感じているのです。
別にこれだけでは?のタイプか?のタイプか決められませんが、私が?のタイプなので、ひょっとするとこりこりさんは?かなあ、と思ったのでした。
<> ふくろう<><>2008/04/18(金) 20:02:47 ID:<>>>73
>哲学とは無縁の、無学な母親にとっては、そうとう「物騒な」ものに映っているんだろうね、哲学は。

けしてショーペンハウアーの『自殺について』なぞをテーブルの上に置き忘れたりしてはいけません^^

>>79
>そんな感じで走って、富士・本栖湖・八ヶ岳・諏訪湖・高遠・飯田・・・と巡り、帰って来たのは明け方ちかくなどということもあったりします。

う〜む、正確な距離はわかりませんが…かなりの“強者”ですね(^。^;)
<> こりこり<><>2008/04/19(土) 06:47:56 ID:<>出かける前にレスをしておかないと。

>>80
>存在論哲学に惹かれる人たちすべてが共有する思いでしょう。

おいらが「哲学初心者」だというのはほんとうなんです。
哲学書の類は現在まで「全く」「一切」読んだことがない、という意味でだけど。
読みかけたことは何度もありますが、たいてい数行読んだところで頭がぼ〜〜っとなってきて眠くなります。
完読した本はまだない、と思います。

だから「存在論哲学」というものがどんな哲学的内容のものかは知りません。

最近「図解雑学 哲学」を読みはじめたのですが、
まだソクラテス、プラトン、アリストテレスあたりの解説で停滞しております^^
なにしろ勉強中のおいらなのでとんちんかんなことを言い出すかもしれませんが、
どうか寛容なこころで見守ったり、突っ込んだりしてやってください。

>哲学のわが師 ふくろう様

勝手に弟子を名乗る こりこりより<> こりこり<><>2008/04/19(土) 07:09:38 ID:<>師匠といえば、まだご本人には言ってませんが、
別スレでかけあい漫才みたいに語り合っている葉隠さん。
この方もおいらは「師匠」にしようかな、と思っております。
<> ふくろう<><>2008/04/19(土) 10:24:03 ID:<>>>82
>>哲学のわが師 ふくろう様
>勝手に弟子を名乗る こりこりより

とんでもございません(^。^;)
これはあまりにも荷が重すぎますので、どうか辞退させてくださいm(_ _)m
それよりも、わずかですが私のもっている知識でお役に立ちそうなものがあれば、利用していただければ嬉しいです。
ただし利用上の注意書きは、「信用してはならない」です(^_^)v

私の方こそこりこりさんからいろいろ学ばせてもらいたいと思っています。

ところで自分で言っておいて何なんですが(^_^;)、「存在論哲学」はあんまり通常用いられる呼称ではありません(どちらかと言うと、「このカテ向け用語」かな)。
むしろ一般には哲学のひとつの分類の仕方で「存在論」という分野がある、と言ったほうがよいと思います。
<> こりこり<><>2008/04/19(土) 20:25:18 ID:<>>どうか辞退させてくださいm(_ _)m

だめです。
きっぱり。


もう決めたんだから^^

<> こりこり<><>2008/04/19(土) 20:29:04 ID:<>こういうときのおいらは、
おもいっきり身勝手な人間です。

師は、「生きている人間でなければならない」
この「哲学カテ」で生きた言葉で哲学を語っている人間はそういない。

<> 振ると糞食らえ<><>2008/04/20(日) 19:10:15 ID:<>
おまえは干物だねえ。

<> こりこり<><>2008/04/20(日) 19:19:33 ID:<>はい。<> ふくろう<><>2008/04/20(日) 22:08:52 ID:<>>>85-86
こりこりさん、そんなに高く評価してくださって光栄です、ありがとうございますm(__)m
にもかかわらず固辞したり、こだわったりするのも失礼な(あるいは滑稽な)気がしますが、やはり、ここではあくまで対話の場において「なる」関係性・間柄としてのお互いであったほうがよいと思うのです。

リアルな世界を考えてみれば明らかだと思うのですが、対話・議論する上で、最初から「ある」「固定的な」間柄を前提・意識してしまうことは、自由な意見の交換にとって妨げになっても、プラスの効果はあまりないように思います。
私としてはこのようなネット世界における議論・対話の可能性は、むしろリアル世界における「ある」関係性(社会的身分・性別・年齢etc.)から自由なところにあると考えています。
しょせん擬似的なものに過ぎないといっても、師弟関係のようなものを持ち込むことは、そういった自由をむしろ損なうとしか思えません。

また既に経験的にご存知ですが、このような場におけるそういった固定的関係(あるいは他者からそう括られてしまった関係)は、当事者以外の他者からはとかく偏見の目で見られがちですし、また確かにそういった弊害もありえます。
たまたま立場を共有する(何らかの共通のものに関心がある)者同士が、その立場を土台として利用し、ものを考えようとしても、仲間だけの「馴れ合い」というふうに見られるのは珍しいことではありません。
ですから正直言って私自身は相手が誰であっても、対話を行う上で本当に必要とされること以外、ことさらに特別な仲間関係をもつということはしたくないのです。
こりこりさんがオートバイについて最初に書き込まれたとき、あなたの言葉を借りれば、「この人は“思考するオートバイ乗り”だ」と私はすぐにわかりました。
ここで「哲学とオートバイ」について対話をするのに、それ以上の関係はまったく不要であると私は思います。

ということで、再度、
>哲学のわが師 ふくろう様
の件につきましては、きっぱりと、お断りさせていただきますm(_ _)m。
以上述べたことは、ネット世界のこの掲示板において、私が対話・議論を通して哲学することを有意味たらしめるための、基本的条件のひとつと考えていることです。
ご理解の上、ご了承くださいm(_ _)m
<> ふくろう<><>2008/04/20(日) 22:12:05 ID:<>今日は私も午後からですが、ショート・ツーリングをしてきました。
天気もよく、山の方はまだ桜も残っていてとても気持ちよく走れました。
またこんな日なので当たり前なのかもしれませんが、バイクの多かったこと!
それと休憩中に十数台止まっているバイクを見て改めて思ったのですが、本当に大型車が多くなりましたね。
そこでは大型車のほうが明らかに多かったと思います。
きれいなカワサキZ1300があったので、じろじろ見てきました(笑)
<> 捨てハン多用の男<><>2008/04/21(月) 04:58:33 ID:<>こりこりです。

>本当に大型車が多くなりましたね。

うん。おいらも昼間、近くの山と海の周辺を走ってきたんだけど、
道の駅の駐車場に停まっているオートバイのほとんどが「大型二輪」だった。とくにハーレーが多いですね。

>きれいなカワサキZ1300があったので、じろじろ見てきました

浜松からの帰り。一号線沿いのバイク屋の店頭にぴかぴかのCB750FOURが停まっていた。気がついて即座にUターン!
しばらく眺めてました・・

<> 捨てハン多用の男<><>2008/04/21(月) 06:28:53 ID:<>こりこりです。

オートバイは見ているだけでも楽しい。
特に、「ネイキッド」と言われているバイク。
(昔はこんな言い方はしなかったんだけどね)
なぜなんだろう。

オートバイのデザインは四輪にくらべて制約が多い、
というところに「理由」があるようなきがするけど。。<> ふくろう<><>2008/04/21(月) 19:07:19 ID:<>>>92
>オートバイは見ているだけでも楽しい。
>特に、「ネイキッド」と言われているバイク。
>なぜなんだろう。

私としてはパーツひとつひとつの存在意味(機能性を含めて)が目に見え、直感的に感じとれるからではないかと思います。
いわば象形文字みたいに形とその意味の結びつきが直感的に理解できる(もちろんある程度知識は必要ですが)。
だから主観・感覚に訴えかけるいわば形・存在の「説得力」が大きいように感じます。
むき出しのエンジン、特に昔のオートバイのそれは、いかにも「発動機」って感じがしますし、深く切られたフィンなんかもとても美しい。
カバーリングしてしまうとそういった形と意味の結びつきが見えにくくなるので、形そのものや色は美しくても、「説得力」という点に関してはどうしても弱くなる気がします。
<> 葉隠<><>2008/04/21(月) 19:27:55 ID:<>>>93
 視覚効果なんだけど、バイクのパーツがむき出しになっていることで、バイクのパーツの意味が、ある存在感を帯びて目に飛び込んで来る、それがバイクが大きく見える理由の一つだといふのは、確かに哲学的で面白い着眼だね。

<> 葉隠<><>2008/04/21(月) 19:33:44 ID:<>となると・・・バイクが大きく見えるというより、バイクのパーツの存在理由を、大きく見ているといふのかな。<> 水原<><>2008/04/21(月) 20:04:08 ID:<>>>93 〜>>95
皆さんの考え良くわかりますよ! 何か面白くなってきた!
僕の場合は「機能美」とまとめています。

戦闘機や戦車、軍艦など別に子供やマニアに受けを狙った訳でもなく

格好良いですよね!

僕の乗るSRは特にそう思いますね!(自分で言ってりゃ世話ない)

<> 葉隠<><>2008/04/21(月) 20:08:21 ID:<>>>96
受けを狙った訳ではないのに、何かしっかりと美しく見える、確かにそういうことはあるよね。その理由を哲学するのも面白い。

<> ふくろう<><>2008/04/21(月) 21:41:27 ID:<>>>96
うん、SR乗りの方ならわかってくださるように思いますね(^O^)
ただ反対ではないので気になさらないでほしいのですが、確かに「機能美」なんですが、私の場合、この表現ではまだ十分捉えきれていない気がするんですよね。
機能性から遊離してしまったものは説得力を欠きます。
でも機能性を極限まで追及するのも、ちょっと私の感覚では存在意味がわからなくなるというか、機能美も抽象的になってしまう気がするのです。

ほら戦闘機っても最新鋭(?)のステルス戦闘機と、昔のゼロ戦とか複葉機だったら、後者のプロペラ機の方がなんか説得力がありませんか?
リニア・モーターカーより蒸気機関車。
エアコン・ヒーターより薪ストーブ・暖炉。
IHクッキングより炭火焼。
バイクなら、レーサーやスーパースポーツよりSRやエンフィールド。
…みたいな。

機能というのはバイクを構成するパーツの本質的な存在理由ですが、そのひとつひとつが形や材質を含めて見え、直感的・感覚的にその存在の意味を訴えかけてくるとき、抽象的な洗練された美ではなく、ある意味泥臭い、しかし実感される具象的な美のように思うのです。
たんに骨董趣味と言えなくもないかな(笑)
<> 水原<><>2008/04/21(月) 22:30:20 ID:<>>>98
仰る通りですね!

常識のように時代や地域などで揺らいでいく物!だけじゃ割り切れない気がしますね。

何だろうね?レトロに見る「機能美」と最新鋭の「機能美」の違いって・・

究極の「機能美」は自然や宇宙でしょうか?その辺から紐解けるかな?

<> ふくろう<><>2008/04/21(月) 22:55:36 ID:<>>究極の「機能美」は自然や宇宙でしょうか?その辺から紐解けるかな?

どうでしょうねえ、より本質的、より大問題って気もしなくはないんですが…(^_^;)

それにしてもSRも500はなんでなくなっちゃったんでしょうねえ(∋_∈)
<> 数学0点の男 <><>2008/04/22(火) 01:32:41 ID:<>こりこりです。

短命に終わるかと思ったこのスレ。
レス100をクリアしました。まずはめでたい^^

あくまでおいらの「私見」ですが、
オートバイの魅力というのは結局のところ「エンジンによるもの」が大きいのではないかということであります。

自転車もおいらは好きで、名古屋・東京の単独往復旅行をしたくらいでありました。
高校へ通うのも自転車。
毎日のようにロードレーサータイプの自転車で走り回っておりました。
そんなおいらでしたが、
偶然バイクに乗る機会がありました。(もちろん無・免・許)
それは・・忘れもしない17歳の春のできごと。
<> 数学0点の男 <><>2008/04/22(火) 01:46:15 ID:<>春休み、郵便局でアルバイトをしておりました。

休み時間。
当時の郵便局の職員は今と違い「おおらか」でした。
「おい、バイクのってみるか?」と
おいらに赤いカブを指差しました。

もちろん、好奇心旺盛なおいらのことです。
即座に「はい」でした。

そして、数十秒後、おいらは廃ダンボールの山に突っ込んだかたちで
オートバイの初体験を終了しておりました・・<> 数学0点の男 <><>2008/04/22(火) 01:48:23 ID:<>しかし。
そのときの「感動」は
今もありありと脳裏に浮かんできます。

「エンジンつきの乗り物ってこんなにおもしろいのか」

それ以降、現在に至っています^^<> 葉隠<><>2008/04/22(火) 06:01:21 ID:<>段ボールにバイクを突っ込ませた貴方が、今は、哲学に心のバイクを突っ込ませている。(爆)・・・まさに・・・ローリングストーンズ。!<> 物理でも0点をとった男<><>2008/04/22(火) 19:41:37 ID:<>こりこりです。

>>104
おもわず、声をだして笑ってしまいました^^
葉隠さんは「愉快な人」だったんですね・・
<> 葉隠<><>2008/04/22(火) 20:07:39 ID:<>ありがとう(*^^*)
こりこりさん。ユーモアの意味は、「You more」なんだな。つまり・・・「貴方をもっと」ってことだ。

自分はこうだ、とか、自分はこんな人間だ、とか、私はこういう考えだ、とか言っている人には、実はユーモアがない。つまり「You more」(貴方をもっと)が足りない。自分の矮小な殻を破るのは、論理じゃない。ユーモアだよ。もっと分かりにくく云えば、・・・論理ではなく、ローリングストーンズなんだ。論理んぐ・ストーンズだな。いやいや・・・私はふざけてはいない。到って真面目だよ。

私の目の前に、哲学カテといふ段ボールが山積みになっている。そこに突っ込んで転ぶのが、私の哲学であり、ローリングストーンズなんだよ。こりこりさん。この老人の「You more」・・・分かってくれるかな。<> こりこり<><>2008/04/23(水) 06:46:27 ID:<>現代詩の分野で大きな足跡を残し、また現代思想の分野でも「巨人」として存在する吉本隆明。
かれの著書に「言語にとって美とはなにか」がある。

おいらは例によって、背表紙しか読んではいないが、
この「言語にとって美とはなにか」という言葉には、
言いようの無い詩的な魅力を感じる。

さて。それにならって、わたくしは

「オートバイにとって美とはなにか」を語っていきたい、のであります。
ここで、出勤時間・・
また夜に続きを。。
<> こりこり<><>2008/04/23(水) 06:52:53 ID:<>言いようの無い詩的な魅力を感じる、というより
哲学的な、といったほうがよかったかも・・>>107 <> こりこり<><>2008/04/23(水) 07:05:59 ID:<>>>106
>もっと分かりにくく云えば、・・・論理ではなく、ローリングストーンズなんだ

わかりにくい言い方のほうが、「おいらには」わかりやすかったかもしれない。
オートバイでツーリングをしているとき、
道をまちがえて、同じ道をもどることがあります。
そのとき思うのは「同じ景色でも反対側から眺めるとまったく違ってみえるんだなぁ」ということ。
定点観測も大切なことですが、違った視点から物事を捉えることもまた大切なことだと思いました。

遅刻しそうです。
<> 準荒らし<><>2008/04/23(水) 12:42:17 ID:<>>>0
オートバイは進化した自転車なのか、
それとも走行機能以外を徹底排除した自動車なのか。
<> ふくろう<><>2008/04/23(水) 13:07:03 ID:<>>>110
その問いは「オートバイとは何か?」、すなわちオートバイの本質を考える上できわめて有効な、良問であると思います。
言い方を換えれば、そのように問うことは、オートバイの本質というものを際立たせてくれると思います。

絶賛します。
<> 準荒らし<><>2008/04/23(水) 13:47:43 ID:<>>>111
ありがとう。

おそらく前者と感じるものは、走行中の爽快感・一体感等に価値を見出し、
後者と感じるものはメカニカルな機能美に価値を見出すと私は思います。

<> 考える人<><>2008/04/23(水) 18:53:13 ID:<>こりこりです。

オートバイと車の似て非なる違いのひとつ。
どちらも「エンジン」で駆動するものであるが、
バイクの場合の場合は「制御可能な」範囲内のエンジンしかとうさい<> 考える人<><>2008/04/23(水) 18:54:01 ID:<>できない、ということであります。<> 考える人<><>2008/04/23(水) 18:54:45 ID:<>とうさい→搭載<> 保留保留保<><>2008/04/23(水) 18:57:36 ID:<>車が制御不能なエンジンを搭載しているとは知らなかった。
<> 考える人<><>2008/04/23(水) 18:59:26 ID:<>もし、オートバイにダンプカーと同様の大トルク、大出力のエンジンを搭載したものがあったとしたら。
コントロール不能に陥って、危険極まりない乗り物になるわけで。
人間が扱える範囲内(動力も、サイズも)に制限されるのが四輪との大きな違い。<> 考える人<><>2008/04/23(水) 19:00:45 ID:<>>116
>車が制御不能なエンジンを搭載しているとは知らなかった。

そうではなく、
車なら制御可能なエンジンを、ということですよ^^

<> 山桜<><>2008/04/23(水) 19:42:32 ID:<>>>110
凄い着眼ですね。驚きました。ふくろうさん同様に、絶讚です。拡張か省略か、視点を変えることで、バイクの本質は客観的なものに純化されそうな気がしますね。久々に哲学的衝撃を味わえたレスでした。
<> こりこり<><>2008/04/24(木) 05:18:53 ID:<>>>110
オートバイは自転車から「進化」したものではないと考えます。
また、
走行機能以外を徹底排除した自動車でもないと思います。


『オートバイは自転車から「進化」したものではない』

理由は簡単です。
オートバイの発生時はたしかに自転車にエンジンをのせたものです。
しかし。
初期のオートバイの走行性能は自転車に対してはるかに劣っていまた。
自転車とくらべて「重い・遅い・壊れる」の三大要件を満たした?未完成な代物でしかありませんでした。
で、「そこから」オートバイは「オートバイとして進化した」のです。
もちろん、自転車は自転車として進化し続け、現在に至っています。


<> こりこり<><>2008/04/24(木) 05:24:30 ID:<>劣っていまた

劣っていました<> こりこり<><>2008/04/24(木) 05:30:33 ID:<>『走行機能以外を徹底排除した自動車でもない』

自動車から走行機能以外を徹底排除するとどういったものになるのか。
たとえば、「四輪バギー」。
あれがそれに近いものだと思います。

オートバイから走行機能以外を徹底排除するとどういったものになるのか。
これはちょっと誤解をまねきそうですが、
強いて言えば「トライアル車」「モトクロッサー」でしょうか?

やはり、二輪と四輪は「別の乗り物」というほうがよいかと思います。
<> こりこり<><>2008/04/24(木) 05:35:11 ID:<>走行機能以外を徹底排除した自動車には、
他に、
ロケットのような形をした「最高速トライアル車」
ゴキブリのような形をした「エコラントライアル車」
などがありますね。<> こりこり<><>2008/04/24(木) 05:43:27 ID:<>つまり、自動車から走行機能以外のものを徹底排除しても
けっしてオートバイにはならないのです。<> 山桜<><>2008/04/24(木) 06:14:30 ID:<>するとこりこりさん
貴方の説では、オートバイは自転車から発想された乗り物ではあるが、自転車とは別の進化を果たした、独自の乗り物ということになる。

また、四輪自動車の余分を除いた乗り物でもない。ということですね。


四輪と二輪の発生の歴史はどちらが先なの?
<> こりこり<><>2008/04/24(木) 09:46:03 ID:<>>>125
>オートバイは自転車から発想された乗り物ではあるが、自転車とは別の進化を果たした、独自の乗り物ということになる。
>また、四輪自動車の余分を除いた乗り物でもない。ということですね。

その通りですね。

>四輪と二輪の発生の歴史はどちらが先なの?

発生順で言うと、

四輪自動車、自転車、オートバイですね。


<> こりこり<><>2008/04/24(木) 10:13:40 ID:<>もう少し、自転車とオートバイは別の乗り物である、ということについての根拠を言います。

自動車と馬車との関係をみてみます。

自動車の発生以前に、長い馬車の歴史がありました。
動力としての馬の代わりに、はじめは外燃機関(蒸気機関)を載せていました。
そして内燃機関が発明された後に、自動車は急速な進歩をとげます。
それとともに馬車は存在理由を失い、現在では特殊な例を除いて、ほぼ「絶滅」しています。
こうした理由から、
自動車は、その馬車の「進化したもの」だと思うのです。

一方。
同じような関係で、自転車からオートバイが発生しました。
が、自転車は馬車とは異なり、衰退することはありませんでした。
オートバイの出現は、自転車にとってなんの影響も与えていないのです。
むしろ、自転車はより進化・発展した。

なぜなのでしょうか?
<> こりこり<><>2008/04/24(木) 10:19:11 ID:<>動力としての馬の代わりに、はじめは外燃機関(蒸気機関)を載せていました。

自動車は、動力としての馬の代わりに、はじめは外燃機関(蒸気機関)を載せていました。
<> こりこり<><>2008/04/24(木) 10:26:05 ID:<>自動車は、その馬車の「進化したもの」だと思うのです。

これは「変化したもの」と言ったほうがいいかな?<> こりこり<><>2008/04/24(木) 10:55:04 ID:<>オートバイと、他の動力付き乗り物との決定的なちがい。(ロケットを含む飛行機をのぞいて)

それはオートバイのエンジンとして「内燃機関(モーターは今は考慮していません)以外のエンジンは搭載できない」という点です。

自動車、艦船、機関車・・そのいずれも動力を外燃機関に求めた歴史があります。
オートバイと飛行機だけが、その出現のためには「内燃機関」の発明を待たねばならなかったのです。

その意味でも、オートバイは自動車の仲間というよりも飛行機の仲間だと言ってよいと、おいらは思っているのですね。

<> こりこり<><>2008/04/24(木) 10:57:20 ID:<>オートバイとは、飛ばない(飛べないではなく)飛行機である。

これが、おいらのオートバイの定義であります^^<> こりこり<><>2008/04/24(木) 11:09:08 ID:<>>>131 に関連して。

ひとつだけ、オートバイと飛行機の似かよっているところを。
それは

オートバイも飛行機も
旋回するときはどちらもバンクさせている、というところです。<> こりこり<><>2008/04/24(木) 11:17:03 ID:<>すみません。まちがったことを書いてしまいました。

ロケット、ならびに飛行機のなかでも「ジェット機」のエンジンは、
外燃機関でした。

訂正の上、深くお詫び申し上げます・・<> ふくろう<><>2008/04/24(木) 12:10:13 ID:<>>>120
>オートバイは自転車から「進化」したものではないと考えます。
>また、
>走行機能以外を徹底排除した自動車でもないと思います。

完全同意です!!
さらに言えば、この見解に同意するものこそ、「オートバイ乗り」である、と言っても言い過ぎではないのではないか、つまり、この見解を支持することが「オートバイ乗り」の定義に含まれると言ってもよいのではないか、とさえ私は思います。
<> ふくろう<><>2008/04/24(木) 12:13:20 ID:<>>>127-137
の考察は非常に秀逸だと思います。
ものすごく面白い。
飛行機との類似性は考えたことありませんでした。
なるほど、です。
そう言えば川崎は飛行機も作っていましたね。

>オートバイも飛行機も
>旋回するときはどちらもバンクさせている、というところです。

後、付け加えられるとすれば…
速度が0になると、オートバイは倒れ、飛行機は落ちる、というのはどうでしょう?
速度を有すことによってのみ、それ自身になり/でありうる。
それなら私の前の考察ともつながると思うのですが…

あと私はよく知らないのですが、ジェットエンジンは次の記述によると内燃機関ということになるように思うのですが、どうなのでしょう?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%87%83%E6%A9%9F%E9%96%A2
<> こりこり<><>2008/04/24(木) 12:47:27 ID:<>>>135
>ジェットエンジンは次の記述によると内燃機関ということになるように思うのですが、どうなのでしょう?

ほんとうに、すみません。。
そのとおりです。
蒸気タービンが外燃機関であるということが頭にあって、
ガスタービンエンジンも同じようなもの、とつい思い込んでおりました。
再々訂正させてください。。。<> ふくろう<><>2008/04/24(木) 12:50:15 ID:<>補足

飛行機もバイクも旋回時にバンクするということは、それらにとって“安定”というものがバランスをとることによってなっている(常に実現されている)ものであって、もともとあるもの(それ自身の内に持っているもの)ではない、ということを意味しているのではないかと思います。
つまり本来的・本質的に不安定であるということにおいてバイクと飛行機は共通する。

四輪の場合は旋回時、バランスをとるのではなく、もともと有している安定を失わないように維持する(綱渡りを考えれば明らかなように、バランスをとる必要があるのは安定がないから)。
<> 山桜<><>2008/04/24(木) 16:37:11 ID:<>>>137
バイクと飛行機にバランスが必要であることは、エンジンの構造から導かれた『必然』なのですね。

速度を有することにより、初めて、バイクはバイク、飛行機は飛行機たりうるというのは、成る程興味深い内容です。

では、四輪自動車は止まっていても、四輪自動車ということですか。?<> 山桜<><>2008/04/24(木) 16:42:43 ID:<>それと・・・今ふっと想像したのですが、バイクという乗り物の発明された必要性とは、「車の通れない狭い道を、自転車より速く走りたい」というところに、あったのかも知れませんね。

<> 山桜<><>2008/04/24(木) 17:48:25 ID:<>>>138
いや・・・違いますね。不安定な乗り物で動かなければ安定性が保たれない乗り物なればこそ、内燃機関とい発明が必要だったのですね。失礼!

<> 名無し<><>2008/04/24(木) 17:56:42 ID:<>>>138
「速度を有することにより〜」ってのは間違いだろ。速度云々は一切除外。無関係。定義付けしたいだけならWikipediaを見れば解決。<> ふくろう<><>2008/04/24(木) 18:25:48 ID:<>>>138
>バイクと飛行機にバランスが必要であることは、エンジンの構造から導かれた『必然』なのですね。

というより、バイクと飛行機の存在が可能となるためには、内燃機関の存在が必要条件であった、という仮説は成り立ちうるかもしれませんが、私自身は別にそう主張していません。
誤解のないように言っておきますが、こりこりさんの、

>オートバイとは、飛ばない(飛べないではなく)飛行機である。(>>131 )

という定義にも、私は同意したわけではありません(否定でもなく、保留です)。
私はこりこりさんの興味深い指摘・見解を受けて、私なりの解釈を加えて、飛行機とバイクの共通点は確かにあると思ったのです。
しかし、この私の解釈を施した理解が、こりこりさんの同意を得られるかどうかもわからないわけです。

なぜこりこりさんの定義に同意できないか、というと、こりこりさんの定義では、翼を持つことは飛行機の本質とはみなされない、ということになると思われます。
私としてはこの点に関しては正直躊躇を憶えますし、飛行機についてよく考えたこともないので、判断保留せざるをえない、ということです。

>では、四輪自動車は止まっていても、四輪自動車ということですか。?

http://philosophy.bbs.thebbs.jp/1204969528/97
<> ふくろう<><>2008/04/24(木) 18:30:46 ID:<>>>142
補足訂正

>なぜこりこりさんの定義に同意できないか、というと、こりこりさんの定義では、翼を持つことは飛行機の本質とはみなされない、ということになると思われます。



>なぜこりこりさんの定義に同意できないか、というと、こりこりさんの定義では、翼を持つこと、実際に空を飛ぶことは飛行機の本質とはみなされない、ということになると思われます。
<> こりこり<><>2008/04/24(木) 19:44:31 ID:<>>>142-143

>「オートバイとは、飛ばない(飛べないではなく)飛行機である。」

またまた、おいらの言葉足らずだったかもしれません。

>これが、おいらのオートバイの定義であります^^

「おいらだけの」か「おいらにとっての」という言い方をするべきだったのかな・・

無論、飛行機の普遍的な定義は、「固定された翼をもち〜〜」となります。
だからオートバイは飛行機ではありません。
しかし、おいらにとっては「飛行機なのだ」ということであります。<> こりこり<><>2008/04/24(木) 19:49:51 ID:<>適切な表現が思い浮かばないのですが、

>>131 の発言をしている時のおいらは、

「哲学者」ではなく「詩人」なのでありました。(面映い・・)<> 名無し<><>2008/04/24(木) 21:36:43 ID:<>自転車ができる

自動四輪ができる

自転二輪ができる


飛行機は全く別なわけでw<> 名無し<><>2008/04/24(木) 21:37:02 ID:<>自転車ができる

自動四輪ができる

自動二輪ができる


飛行機は全く別なわけでw<> ふくろう<><>2008/04/24(木) 21:59:59 ID:<>>>144-145
いえ、私としてはよく承知しているつもりです。

もとより、このスレで行っている試み自体がオートバイとは何か、を客観的に定義することではありません。
http://philosophy.bbs.thebbs.jp/1204969528/104
にも述べましたが、私見では、あくまで私という主観にとってのオートバイという存在の意味を問う試みです。
つまりそれは、我々の外にあるオートバイを互いにあーだ、こーだ主張しあって、いやそれは間違い、これが正しい、といった議論を行って、正しい客観的認識に至ろうとすることではありません。
もしそうであるなら、>>141 で述べられた通り、調べれば済むことだと思います。

しかし我々がここで行おうとしていることは、いわばそれぞれの内にある自分にとってのオートバイというものの意味を言葉へともたらし、そこに一致点あるいは普遍的意味を探ろうということではないでしょうか?
したがってさしあたり「ふくろうにとってのオートバイとは何か」「こりこりさんにとってのオートバイとは何か」ということをそれぞれが考えるところから出発するほかないわけです。
ま、とりあえず妄想ですね(笑)。
<> ふくろう<><>2008/04/24(木) 22:01:43 ID:<>で、ある意味それぞれの勝手な妄想にすぎないものが、もし意外に共感できるとしたら?
それは「ふくろう」や「こりこりさん」という個別主観を超えた、「オートバイ乗り」という主観にとってのオートバイという乗り物、存在の普遍的意味を見出しうるかもしれない、ということではないかと思うのです。

こりこりさんが詩的表現とおっしゃったものを、散文的・あるいは理詰めの言語で解釈したり追求したりしていくことは、芸術的感性の持ち主にとってはあるいは抵抗のあることかもしれません。
特に私が一見反対意見を述べるような場合そうかもしれません。
しかし、それは相手の意見を否定するのが目的ではなく、むしろお互いの表現を提示・交換しあうことによって、その表現との微妙なズレや一致点を探りながら、お互いがもっているイメージを明確にし、より自分の主観的認識を深め合おうとするためのもののつもりなのです。
一言で言えば、ここでは「あなたは間違っている」ということは基本的にないわけです。
ですがこれが主観的とは言え認識の深まりを求める追求・探求である限り、どうしても煮詰める必要があると思います。
そのような場合、失礼な言い方をしてしまうこともあるかもしれません。
その場合はどうかご容赦くださいm(_ _)m
<> こりこり<><>2008/04/24(木) 22:03:52 ID:<>>ふくろうさん

安心しました。


>ま、とりあえず妄想ですね(笑)。

妄想は楽しいものです^^

<> こりこり<><>2008/04/24(木) 22:10:06 ID:<>>>149
>散文的・あるいは理詰めの言語で解釈したり追求したりしていくことは、芸術的感性の持ち主にとってはあるいは抵抗のあることかもしれません。

ご心配なく。おいらは「芸術的感性の持ち主」であると同時に、
どうやら「哲学的論理性の持ち主」であることが次第にわかってまいりました。(自分でいってれば世話が無い?)

>ここでは「あなたは間違っている」ということは基本的にないわけです

そう思いますよ。
<> こりこり<><>2008/04/24(木) 22:14:51 ID:<>真面目にいうと、
自分とは異質の感性、論理をもった人とこうして話ができるのは
とても幸せなことです。<> 哲学的な詩人こりこり<><>2008/04/25(金) 03:23:58 ID:<>昔のオートバイ乗りの正装は飛行機乗りの姿に酷似している。
飛行帽を被り、ゴーグルをはめ、飛行用ジャケットに身を包み、皮の手袋をはめている。
となりにバイクがなければ、飛行気乗りにしかみえない格好だ。

飛行機といっても、オートバイは「旅客機」ではない。
セスナやパイパーなんかの軽飛行機。
あるいは、第二次大戦以前の戦闘機でなければならない。
ようするにレシプロエンジンを搭載したプロペラ機がオートバイなのである。

近年の「大排気量車」(たとえばおいらのXJR1300)
は、ジェット戦闘機に近い気がする。
おいらの飛行機のイメージに近い存在は、
やっぱり中〜小排気量車である。
理想は原付二種。

原付ニ種のバイクで峠越えをすると、
アンデスの山越えを命がけで敢行したサンテグジュペリの世界に浸ることができる。
まめにシフト操作をくりかえし、低いギアでエンジンを高回転に保つ。
そうしないと、登れないからである。
大排気量車だと、5速ホールドのままでいとも簡単に登ってしまうので
この醍醐味は味わえないのである。

エンジンは空冷単機筒がよい。
空冷単機筒エンジンがアイドリングをしているのを耳をすまして聴いていると、
たしかに、バイクの「鼓動」を感じる。


<> 哲学的な詩人こりこり<><>2008/04/25(金) 03:38:28 ID:<>スズキに「隼」という名前のオートバイがある。
(1300ccのこのバイクは隼というより大鷲といったほうがいいかもしれないけど)

とりあえず、鳥の名前がついている。

第二次大戦時の名機に「隼」という名前の戦闘機があった。
中島飛行機製。(現在のスバルの前身である)<> 哲学的な詩人こりこり<><>2008/04/25(金) 03:48:00 ID:<>ホンダには「ホーネット」という名前の250ccのオートバイがある。
「ホーネット」は「スズメバチ」のことである。
これもまた、空を舞うものである。<> み学<><>2008/04/25(金) 17:32:53 ID:<>白バイのおじさまがちょっと上手いぞと言わんばかりに曲がっていましたが
自分も今日は、ちょっと急カーブをそんな風に曲がりました。
あれは、ちょっと快感なのは何故でしょう?
<> 哲学的な詩人こりこり<><>2008/04/25(金) 18:42:02 ID:<>>>156
>あれは、ちょっと快感なのは何故でしょう?

オートバイのコーナリングの楽しさはスキーの楽しさに通じるものがあるんだ。

バイクライディングがスポーツといわれる由縁かも。。<> み学<><>2008/04/25(金) 18:47:03 ID:<>曲がる時に傾ける身体と振り子のような感覚とスピードの変化。
これは空間が曲がるという宇宙的です。<> 哲学的な詩人こりこり<><>2008/04/25(金) 18:52:08 ID:<>>振り子のような感覚とスピードの変化。

すばらしい表現です。


<> ふくろう<><>2008/04/25(金) 20:07:18 ID:<>>>153-154
う〜ん、むちゃくちゃ面白いなあ(笑)
なんだかわかる気がするんですよ、なぜわかる気がするかはわかんないんだけど(笑)
本来考えが違うはずなのにねぇ…
こりこりさんの文章に説得力を感じたことは間違ありません。

で、とにかく触発されて考えてしまったことがあるので、また改めて書きます。
今夜中に投稿できるかどうかはわかりませんが。

自分の心に映っているオートバイではなくて(それはとりあえず措いて)、こりこりさんの描いたオートバイの絵を見て、こりこりさんが見ているオートバイってこんなんかな、んじゃ、こうも描けない?って感じの勝手なことを書くと思いますm(_ _)m
<> 哲学的な詩人こりこり<><>2008/04/25(金) 21:33:40 ID:<>>>160
>で、とにかく触発されて考えてしまったことがあるので、

言葉は「触媒」なんだね。
異質のもの同士が触れ合うことで、当事者には「思いも寄らぬ化学反応」を起こすことは、
「化学でも0点をとった男」と名乗れるおいらにも、
理解できることなのです。


>んじゃ、こうも描けない?って感じの勝手なことを書く

楽しみだなぁ^^
<> ふくろう<><>2008/04/25(金) 23:13:55 ID:<>話はものすごく遠回りしますm(_ _)m

つい先日たまたま『皇帝ペンギン』と『DEEP BLUE』っていうネイチャーもののDVDを連続して観ました。
で、それらにはペンギンが出てくるのですが…
実は私、前からペンギンって、一応「鳥」ってことになってるみたいだけど、ちょっと納得いかなかったんですよ。
あの身体にあの羽でしょ、どうも進化とかいろんな理由でただ飛べなくなっちゃったというより、そもそももう飛ぶ意志というものがないんじゃないか、飛ぶ意志さえ失ってしまったものを「鳥」と呼ぶのはいかがなものかと…(笑)

ところが映画を観て自分が間違っていることに気づきました。
餌となる魚を追うためペンギンが海に飛び込んだ映像を観て思ったわけです、「あ、飛んでる」って(笑)
水中でものすごいスピードで魚を追いまわす姿を観れば一目瞭然、あれは飛んでます、もう間違いありません(独断的確信)、ペンギンってやっぱ鳥なんだと、そのときやっと認識したわけです。

でね、名前はわかりませんが海鳥もでてくるんです。
たくさんの海鳥たちが魚群を見つけて、そりゃもうなんかカミカゼ特攻隊が突っ込んでいくように次々に海に突入していくんですよ。
その海鳥たちの水中の姿を見たら…やっぱり同じ、飛んでるんですよ(笑)
つまり、海鳥たちは空中でも水中でも全く同じ、飛んでるとしか思えないんですね。
<> ふくろう<><>2008/04/25(金) 23:16:00 ID:<>いや、もちろん水中なら「泳いでる」んだろう、ということはわかっています。
でもね、こうも考えられませんか?そりゃ人間の勝手な分類にすぎない、って。
人間だって地球の陸上とはまったく異なる場所、重力も違う、空気のない月面を「歩いた」って言いますよね。
それなら鳥だって場所は違うけれども、空中でも水中でも同じ行為をしている=飛んでると言って何がいけないんですか?って事です(笑)
いや、実際観たらわかります、空中でも水中でも彼らは飛んでます(決定(笑))

でそうすると、ペンギンは空中は飛ばないけど、水中を飛ぶ鳥である、ってことになるわけです。
さて、ここでようやく本題です。

こりこりさんは「オートバイとは飛ばない飛行機である」とおっしゃいました。
が、これをペンギンと類比的に、次のように言うことはできないでしょうか?
「オートバイは空中を飛ばない飛行機である」
と。
そしてペンギンが水中を飛ぶ鳥であるのと類比的に、次のように定義できないでしょうか?
「オートバイとは陸上を飛ぶ飛行機である」(仮説:翼はハンドル)

どうでしょう? このへりくつ(笑)
<> 準荒らし<><>2008/04/25(金) 23:45:34 ID:<>ただひとつ言いたいのは、
人間は自分が執着するものをとかく特別視したがるという事だ。
そしてそれは仰るとおり妄想であって哲学ではない。

<> ふくろう<><>2008/04/26(土) 00:46:27 ID:<>補足します。

ペンギンが水中を飛ぶと私が言うとき、少なくとも外見的に飛ぶ動作に見えます。
しかし、オートバイの場合は外見上はあまり似ていません。
そしてむろんここで言う「飛ぶ」は、外見的に捉えたものではなく、あくまで「主観的意味体験」として、ということです。
こりこりさんの書かれた、サンテグジュベリのアンデス越えと小排気量単気筒バイクによる峠越えを、自分の主体的体験として想像するとき(これは一種の思考実験では?)、その共通性を感じたわけです(現象学の本質直観?)。
ま、今のところ何だかわからないその共通性を「飛ぶ」ことの本質とみなしたわけです。
前にこりこりさんが、
http://philosophy.bbs.thebbs.jp/1204969528/85-89

では「跳ぶ」と書いてらっしゃいますが、やはりどこかでバイクは飛ぶもの、という直観をお持ちじゃないかという気がしたので、あえて「飛ぶ」ことにこだわったということもあります(カン違いならすみませんm(_ _)m)。

またバイクに鳥などの名をつけるのは、やはり、バイクで走ることと飛ぶこととが主観的に「近い」という直感があると言っても、それほどこじつけとは思えないのですが。
バイクで飛ぶような感覚、そう言えば…
<> 驚く人こりこり<><>2008/04/26(土) 00:47:31 ID:<>>>162-163
>どうでしょう? このへりくつ(笑)


ふくろうさん。
「どうでしょう」なんていってるあなたが、に・く・い・

あなたが書き込んだことのすべてが現在のおいらを「びっくり」させております。

なぜか。

おいらが考えていた「どんでん返し」の理屈を
さあこれから書き込もうとしていた、其の矢先の出来事にしてしまったのであります^^
<> 驚く人こりこり<><>2008/04/26(土) 00:48:32 ID:<>其の矢先の出来事にしてしまったのであります

其の矢先の出来事にしてしまったからなのであります<> 驚く人こりこり<><>2008/04/26(土) 00:57:22 ID:<>『DEEP BLUE』は、
おいらのもっとも好きな映画のひとつです。
そして、
海のなかを飛ぶペンギンの姿に衝撃を受けたひとりです。

これだけ言えば、あなたの書き込みにおどろき、口をあけたままの
おいらの心が・・・
わかっていただけるものと思います。

神よ。おいらは今まであなたを、ちょっとばかにしておりましたが、信じそうです・・<> ふくろう<><>2008/04/26(土) 01:04:43 ID:<>わお(笑)

<> che<><>2008/04/26(土) 07:28:24 ID:<>ちょっと見ない間に、大分進んだなぁ・・・・。

たまった未読レスを読んでいたら・・・

目が、目がぁ・・・・


わお(笑)


<> こりこり<><>2008/04/27(日) 01:53:39 ID:<>cheさん、おひさしぶり^^

<> こりこり<><>2008/04/27(日) 03:13:04 ID:<>前にもちょっと書いたと思うんだけど。

『オートバイの美しさとは何か?』

機械のもつ構造的・静的な美しさももちろんだけど、
すぐれた乗り手が走らせているときのオートバイの美しさは際立っている。
動的な美しさ、と言ったらいいのかな?

レースシーンばかりでなく、
ごく普通の交差点をなにげなく曲がっていくときにも
それは充分に感じることができる。
淡々とまっすぐ走らせているときでさえ、すぐれたライダーが乗っている時のバイクは美しい。
(逆にいうと、へたくそが走らせているときのバイクは「美しくない」)

なぜなんだろう?


<> み学<><>2008/04/27(日) 14:18:22 ID:<>白バイのおじさまたち以外の走りに
反社会的な走り方を見ます。
背中に死神が感じられます。<> こりこり<><>2008/04/27(日) 14:48:22 ID:<>>>173
>白バイのおじさまたち以外の走りに
>反社会的な走り方を見ます。
>背中に死神が感じられます。

一部には其の通りのバイク乗りもいますが、
実は、心優しく礼儀正しいのが大多数の「オートバイ乗り」なのですよ。

嘘だとおもうなら、
どこかの駐車場でたむろしているオートバイ乗りの誰かに、
み学さんが「にっこり笑って」話しかけてみてくださいな。
認識を改めること請け合いです。

ただし、○走族はとりあえず避けたほうが無難かも・・
(でも、案外素直な連中も多いんですけどね)

<> ふくろう<><>2008/04/27(日) 16:48:35 ID:<>上のレスにはつながらなくて申し訳ないのですがm(_ _)m

こりこりさんのレスを読んで考えていたら、自分もオートバイと飛行機との関係について考えたことがないわけではない、ということを思い出しました。
忘れちゃってたんですね(笑)

たとえばSR好き(あるいは旧車好き)の人でもいわゆるバイカーズ・スタイルが好みの人ではなく、レトロ・カスタムの好きな人があります。
そういうSR500でいい音のマフラーに換えたものは、確かに第一次大戦あたりの戦闘機を思わせるものがありました。
『紅の豚』の世界ですね。
考えたらそういうものも結構好きだったんです。
だいたいからして、エンフィールド好きってのもそっちの好みから来てました(笑)

なんで忘れてたかというと、どうも私が二気筒エンジンを好きだということがあるように思うのです。
最初の中型バイクがそうだったのですが、二気筒エンジンの性質(もちろん一概には言えませんが)がそれを心臓に思わせ、私にはバイクを生き物のように感じさせるのです。
それで主にハーレーについて言われる「鉄馬」という感じがどちらかというとしっくり来るように思っていたので、ここのところもっぱらその路線で考えていたんですね。

エンジンのことはいずれまた改めて書きます。
<> 紅のこりこり<><>2008/04/28(月) 03:35:26 ID:<>>>175
>『紅の豚』の世界ですね。

ここまで読んで、おいらは浪曲師二代広沢虎造「遠州森の石松」の名場面を思い出した。

「お、江戸っ子だってねぇ!」
「あったりめえよ。神田のうまれよ。」
「さあ、寿司喰いねぇ、酒呑みねぇ^^」

たぶん、ふくろんさんの頭の中に、今「???」がいっぱい浮かんでいるんじゃないかな?^^

石松は「うれしくてしょうがない」んですよ^^

つまり、おいらもうれしくてしょうがないのであります。
なぜなら。
『紅の豚』の主人公「ポルコ」こそ、オートバイに乗っているときの
おいらの姿だからなのであります。
(『紅の豚』についてはまたいずれ語り合いたい。
なぜなら、話がなが〜〜っくなってしまうから。)

<> ふくろう<><>2008/04/28(月) 21:31:22 ID:<>う〜む、ひょっとしたらとは思ってましたが、そこまでとは…(^。^;)

で、どーも、なんだか、その…あの…、

こりこりさんの姿が、もう紅の豚さんにしか思えなくなってきたんですよ…(笑)

<> こりこり<><>2008/04/29(火) 01:34:10 ID:<>よくこどもが一人遊びをしているとき。
両手を拡げて「ぶ〜〜ん〜〜」といいながら
飛行機のマネをして走り回っている。

オートバイに乗っているときのおいらは
そんな感じなのかもしれないな、と思ったりしました^^

あと。

「ダンディズム」ってやつ。

ダンディズム【dandyism】
1 おしゃれ、伊達(だて)に徹する態度。19世紀初め、イギリスの青年の間に流行したもので、その影響はフランスにも及んだ。2 その男性の、生活様式・教養などへのこだわりや気取り。

これはありますね。
<> み学<><>2008/04/29(火) 20:08:25 ID:<>オートバイのお兄さんのスピードがすごかったので
危うく曲がりの時急ブレーキをかけました。
やっと免許の点数が元通りになったのに
もう危険がいっぱい。<> ふくろう<><>2008/05/01(木) 00:11:38 ID:<>>>110 の問いを受け、こりこりさん(>>120 )と同様、オートバイは進化した自転車でもなく、走行機能以外を徹底排除した自動車でもない、というのが私の見解だと前(>>134 )に述べました。
四輪と二輪の違いについては既に述べてあります。
ついでにその理由から三輪は基本的に四輪の仲間と私は考えています。

で、今度は同じ二輪同士、自転車とオートバイの違いについて、私なりの考えを述べてみたいと思います。
むろん客観的にはエンジンの有無ではっきり区別されます。
これを「進化した自転車」として連続的に捉えることができるか否か?
「原動機付自転車」というのがありますので、連続的と言ってもいいようにも一見思えます。
しかし、やはりエンジンをもつということは、ライダーという主観にとってオートバイという存在の意味を、自転車のそれとは根本的・本質的に異なるものに変えるように思われるのです。

道具も使い慣れると身体の一部になる、という言い方をしますね。
バイクもライディングにおいて「バイクと一体化する」ことは理想でしょうが、しかしバイクはエンジンをもっていることによってやはりちょっと違う気がします。

バイクはエンジン=心臓をもつあくまで“相手”であり、バイクとの「一体化」はたんに自分の身体の一部のように使いこなすことができるということではなく、息がぴったり合うことという感じが私の場合強いです(だから「一体化」ってより「一体感」かな) 。
「使い勝手が悪い」というより「相性が合わない」とか。
高級な(性能のよい)道具はたいていへぼな使い手でも使いやすいですが、自分にとって高級すぎるバイクはバイクのほうからダメだしされるというか見限られるというか…(笑)
本当の「自転車乗り」がどう言うかはわかりませんが、私の場合、自転車に対してこういった感覚・感情はありません。
<> ふくろう<><>2008/05/01(木) 00:14:11 ID:<>「鉄馬」という言い方がありますが、要するに、
馬を乗りこなす≠馬を使いこなす
と同じ様な感覚なのかもしれません。
そう言えば「じゃじゃ馬マッハ」と呼ばれる昔の伝説的バイク(カワサキ500SS)もありますが、同じ二輪でも自転車の形容として「じゃじゃ馬」とはあんまり言いそうにありませんよね。
ちと恥ずかしい言い方ですが…あくまで“相棒”って感じかな(^。^;)
自転車を「道具」と言うべきか否かはちょっと保留しますが、少なくとも相棒という感じはしません。

ですからまあ客観的に自転車とバイクが違うのは当たり前ですが、主観的な存在意味の観点から言っても、やはりエンジン=心臓の存在の意味は大きいのじゃないでしょうか。
その意味で原動機付自転車と電動アシスト自転車とは表面的には似ているかもしれない(程度の差にすぎない気もする)けど、やはり法的のみならず本質的にも違う!って気が私はします。
電動アシスト自転車のモーターは心臓ではありえない、ということです。

で、前に少し触れましたが、その「エンジン=心臓」という感覚をもっとも受けるのが、私の場合二気筒エンジンということなのです。
そしてこれもあくまで私にとってですが、生き物感を感じさせるのは、最新鋭の高性能マシンよりも、むしろ古いタイプの性能的には洗練されていない部分を残したオートバイ、ということになります。
<> 水原<><>2008/05/07(水) 21:48:37 ID:<>>>181
それぞれの時代の最新鋭モデルと言うのは、テクノロジーを体験するのが
目的なんじゃないでしょうか?

これは持論ですが、市販車に「ラジアルタイヤ」を履き出した辺りから
特にその傾向が強くなってきた様な気がします。
(1988NSR辺りからかな・・・)

カテ違いな話なのであんまり追求しませんが、同じスピードレンジで走っていても、乗り手が介入する事が多いバイクの方が操っている感じがする。って所でしょうか・・・

あと「馬」って言葉が出てきましたね。
ニーグリップとか結構乗り方に共通点が多いですよ。
僕のSR、初めて乗ったときの印象が「パカラッ パカラッって馬みたい」と思いました。

季節によって変わる混合比、暖気時間

ノスタルジーなパターンのおかげでスキール音のしないタイヤ(ズーって鳴きます)

ワダチやギャップで振れる車体

手間のかかる始動方法(デコンプを使うキックスタート)
http://www.yamaha-motor.jp/mc/lineup/sportsbike/sr400/cafe/kick/index.html

全てが愛しい  <> ふくろう<><>2008/05/07(水) 23:20:24 ID:<>>>182
雑談って怒られるかもしれないけど、いやあ、いいなあ、この文章(笑)

実はものすごく残念なことに、未だSR乗ったことないんですよ(ToT)
乗りたくなるなあ(笑)

そうですねえ、テクノロジーの追求はもちろん重要ではあると思いますが、それがテクノロジズムって感じになると、どうもちょっと違う点もでてくるような気が…

ただ最近のバイク雑誌で、20代,30代、40代、50代の編集者が集まってビックバイクに乗ったあと話し合うってのがあったのですが、その中で20代の編集員が「バイクはあくまで速く走るために操る道具であって、余計な味など必要ない」というようなことを言って物議をかもした(笑)って書いてありました。
やはり、人それぞれ違うんですねえ。<> ふくろう<><>2008/05/07(水) 23:42:30 ID:<>こりこりさん、
おかえりなさい(-^〇^-)

さて、またオートバイの話をしましょう^^

私は休みの間、オートバイの哲学についての方法論的考察を行っていました(笑)

まだ出来上がりませんが、そのうちにと思っています。<> こりこり<><>2008/05/08(木) 02:38:20 ID:<>オートバイに対して人が抱くイメージがさまざまで面白いな、と思った。

ある人は「エンジンのついた自転車」に乗っている。
水原さんは馬に乗っている。
おいらは飛行機に乗っている。
(でも、時々馬になったり、自転車になったりもしていますけどね^^)

ちょい乗りでも、遠乗りでも、
バイクを停めたあと、たたずむ其の姿はたしかに馬です。

眺めていると、水原さんのいうように「全てが愛しい」


<> こりこり<><>2008/05/08(木) 03:10:12 ID:<>>>181
>その「エンジン=心臓」という感覚をもっとも受けるのが、私の場合二気筒エンジンということなのです。
そしてこれもあくまで私にとってですが、生き物感を感じさせるのは、最新鋭の高性能マシンよりも、むしろ古いタイプの性能的には洗練されていない部分を残したオートバイ、ということになります。

四気筒エンジンのXJR1300の場合だと、
確かに馬というよりジェット戦闘機のような気がします。
セローに乗っていると、これは確かに馬だ、と感じます。
(カブはロバかな?)
ただ、XJR1300もふくろうさんの言う
「古いタイプの性能的には洗練されていない部分を残したオートバイ」
の範疇に入るオートバイだと思います。
丸目のヘッドライト(昔風のレンズカット)
空冷エンジン(キャブではなくインジェクションにはなっていますが)
二本リアサス。
などなど。


ダーウィンの進化論のことを昨日のテレビでやってました。
見ていて、なんとなく「オートバイも同じなんだなぁ・・」と思ったりしておりました。

<> こりこり<><>2008/05/08(木) 03:19:44 ID:<>>>182
>カテ違いな話なのであんまり追求しませんが

オートバイについて考えを追求することは
「哲学」の実践であります。

おいらは休んでいる間
「哲学」とはなんだろうとずっと考えておりました。

世界のありとあらゆることを知ること(知ろうとすること)である。
というのがとりあえずわかったこと。

なので。
あたかも哲学とは無縁であるかのごとくバイクについて考えること、
は完全に哲学なんだと思います。
<> こりこり<><>2008/05/08(木) 03:28:53 ID:<>カントやデカルト。
フッサールやウィトゲンシュタイン。
かれらが考えた思考について考えることが「哲学」ではないのだとおもいます。
それは言ってみれば「哲学評論」「哲学批評」なのであって
哲学の実践とはすこし違ってくるのではないか、というのは言いすぎであるにしても
世界の構造を言葉によってとらえ、表現することと同様に
日常的な事物の細部を理解しようとする行為・思考もたしかに「哲学」だと
おいらは確信しています。<> きりんぐらす<><>2008/05/08(木) 14:48:11 ID:<>お初に。
バイク糧から来ました。ちなみにセローに乗ってます。以前はカワサキのZR-7というマイナーなバイクに乗ってました。


良いですね、ここのスレの主旨。っていうか他のバイクの掲示板サイトでもこのような主旨のスレを見たことがなかったです。みんな『走り』に徹するからかな(^^;)


でも私はここに居る皆さんみたいに理論でカキコできない=頭が悪いので今書いてる文章でも見づらいかも知れません。悪しからずm(__)m


セローとSR400、どちらも良いバイク=鉄馬みたいな存在ですね。こういう味のあるバイクが最近少なくなってきましたね。W650も乗ってみたら何となくかっ飛ばせそうなエンジンの感覚ですしトライアンフもユーザーの知人が言うには昔からのパラレルツインの味わいが現行車は薄くなってきたと…


私はバイクで走りに行く場所はたいてい山奥の小川のせせらぎがあるとこだったりします。自然保護の為にできるだけ浅瀬には入らないようにはしてます。


長文になるので、とりあえずここまでに<> こりこり<><>2008/05/08(木) 18:33:04 ID:<>>>189
>きりんぐらすさん。

ようこそ、哲学カテへ^^
おいらも、もともと「二輪カテ」の住人でした。
あちらではおもに「バリ伝」を名乗ってます。

そう言ったら、わかりますよね?^^

哲学はおもしろいですよ。
難しいけれど。
でも、その難しさは、オートバイに乗ることとと同じくらい、かな?

難しいのは、じつはバイクを理解することも同じ。
基本の大切さは、むしろバイク乗りのほうが「身にしみて」理解しているのだと思います。
だから、
どんどん言いたいことを書き込んでくださいな。

楽しみが増えました^^


<> こりこり<><>2008/05/08(木) 19:49:05 ID:<>SR400は、おいらも過去に所有して乗っていたことがありました。
中古で手に入れましたね。
フロント、ドラムブレーキ。
キャプトンマフラー付き。
スポークホイール。
このSRとの出会いは、因縁があるんだ。

SRを手に入れたきっかけは、
その一ヶ月前に、CBX400を(やはり中古で)買ったことでありました。
なにせ、古いバイク。
しかも結構いじってあったりしました。
結果。
調子、最悪。
アイドリング調整を何度やっても、不安定ですぐエンストをおこし、
ままならぬ。
Uターンの際にもよくエンストをして、一度は転倒の憂き目にも会いました。(後部シートに最愛の娘を乗せた状態で・・・凹・・)
で、業を煮やしたおいらは、バイク屋にいき、CBXとほぼ同じ売値が付いていたSRを見て、
「こっちと交換してくれませんか?」とお願いし、
ほとほと困り果てていたバイク屋さんも「渡りに船」だったのか、
「いいですよ」と即決。

おいらは、SRをこうして手に入れたのでありました^^
<> ふくろう<><>2008/05/09(金) 00:07:24 ID:<>>>189
きりんぐらすさん、ようこそいらっしゃいました!

私はへなちょこライダーであることを、へりくつでごまかすのが得意なふくろうです。よろしくお願いしますm(_ _)m

ZR-7というマイナーなバイクに乗っておられたということ、個人的にはなんだか嬉しいです。

といいますのも、私は旧車好きであると同時に、「隠れ名車」好きだからです。
かく言う私も、以前、乗っている間ただの一度も同じオートバイに出会わなかった隠れ名車(と信じています)に乗っていました。
バイク屋さんも含めて、誰も名前を知りませんでした(笑)

古い年式の二気筒エンジンだったので、振動も消されすぎず、今のバイクに較べると荒々しさがあってすごく気に入ってました。
友人のエストレアやスティードに乗ったらマイルドすぎてつまんなく感じたくらいです。

とにかく、また気軽にきてくださいm(_ _)m

<> きりんぐらす<><>2008/05/09(金) 16:12:33 ID:<>仕事っていうか電車で移動中のカキコ……


>>190 こりこりさん=バリ伝さん、覚えていてくれてたようで、サンクスです(^^)SR400のバイク購入の経緯を読ませていただきました。なるほど、やはり皆さんバイク購入時の苦労をしてらっしゃるのですね。私は購入前の商談(見極め?)に何ヵ月かかかったくらいでしたから購入後の苦労はあまりしてない方ですね。故に皆さんから比べればバイク全体の知識&経験不足…


私は過去にSR400を何度か試乗したことがあります。その度にこのバイクの個性と共に自分の日常生活に置けるバイクの必要性のようなもの…言い換えれば毎日通勤で使うのにSRのパワーやハンドリングでは充分すぎるくらい、むしろ余裕のある通勤感覚を感じるのではと推測するくらいです。(チト文章になってないかな?)


ただキック始動が時にはかかりにくかったりするのがタマニキズ…バイク仲間の先輩いわく、朝の寒い時期の始動時には20回くらい蹴飛ばさないとかからないこともあるという…


噂によると次期SR400は空冷のまま、FIを積んでセル始動も付けるのだそうな……これじゃまるでCB400SSと変わらなくなるのでは?


もし私が次に乗り換えるバイクがあるとしたらSR400かエストレヤかな<> きりんぐらす<><>2008/05/09(金) 16:33:00 ID:<>>>192 ふくろうさん、お初&お邪魔します。

隠れ名車がお好きとは何だか私とある意味共通点があるかも知れませんね。私も欲しいと思うバイクの大半は旧車で、それもマイナー&不人気車だらけ。例を挙げると…
HONDA SPACY125 STRIKER(初代=リトラクダブル・ライト)

KAWASAKI EX-4

YAMAHA ディバージョン600
まだまだあるのですが挙げるとキリがないので、この辺で。


ちなみに私が以前に乗ってたZR-7は当時、一部のサイトで「カワサキで存在意義がないバイク」とまで叩かれた機種です。確かにHONDAやYAMAHAでは作りそうにないバイクかも知れませんね。


当時、あのバイクでGSで給油しに行ったら店員いわく「これ、ホーネットの仲間ですか?」とまで言われる始末(+_+)


でもあのバイクが私にとってバイクの楽しさやテクを磨く為の貴重&大きな存在だった。いや、むしろ当時の主流だったリッター・ネイキッドに無い良さを理解する意味でも良かったと思ってます。


哲学スレとは主旨が違う内容になってしまい、スミマセン…<> 論理的思考<><>2008/05/09(金) 19:34:27 ID:<>>>181
ひとつふくろうさんに聞きたいんだが、「相棒感」はかなり一般的な感覚のひとつで、
個人差はあれど、愛着のある使い込んだ道具にはかなりの人がそう感じる。

自転車も相棒と呼ぶ人はざらにいるし、それどころかそれ自体では
まったく動かないバットやボールを相棒と呼ぶ人もいる。

そこら辺に関してはどう感じるだろうか?
<> 水原<><>2008/05/09(金) 19:56:37 ID:<>きりんぐらすさん 皆さんこんばんは

>>194  哲学スレとは主旨が違う内容になってしまい・・・

いえいえ難しく語るだけが哲学ではないんじゃなないと、>>187 でこりこりさんが仰っています。僕なんかメカ的な話をしてカテ違いなんじゃないかと考えていました。

原付以外の二輪免許を持っていない方、乗ったことの無い方もレスしてくれればもっと盛り上がることでしょう!
(乗用車から見たスリ抜けへの哲学とか・・・強引か?)

SRのキックについては、そんなに不便ではありませんよ!
逆にエンジンの掛からない訳を考える事が出来るバイクだと思います。
(チョークの引きすぎ アクセルの開けすぎとか)
因みに僕は腕でキックペダルを下げます。
(手間ではなくコツだと思います)
1.2回で掛からなければ原因を探すものです。一度キルスイッチがOFFになっていた事もありました。

後自称隠れ名車は、GPZ250ベルトドライブです。

2気筒バイクって結構ツボですね!

<> 水原<><>2008/05/09(金) 20:02:31 ID:<>連続すいません

>>194  きりんぐらすさんのKAWASAKI EX-4は

ホンダのVRX

それと現愛愛車 SRと

候補でした。
<> こりこり<><>2008/05/09(金) 23:22:03 ID:<>別スレでカテ違いとはなにかについて議論が続いてますね。(http://philosophy.bbs.thebbs.jp/1210198190/ )

と、他人事のように言いましたが、
スレを立てたのはおいらなんでした^^

おいら自身のシンプルな見解。(「カテ違い」とそうでないものを分ける分岐点についての)

それは、「なにか?」という問があるかないか、だと思っています。

オートバイとは何か。
根底にこの「何か」が存在する限り、どんなテーマでも哲学カテの範囲内にあるのだということです。
逆にいえば、
それがなければ「カテ違い」。

たとえ、「哲学」について語るスレであっても、
カテ違い。

じゃないのかな?
<> ふくろう<><>2008/05/09(金) 23:33:26 ID:<>>>195
最初にお断りしておきますが、いまひとつ質問の意図がつかめませんので、的外れの答えになってしまうかもしれませんが、ご容赦m(_ _)m

私自身としては道具についてそれらを「相棒」と呼ぶ感じは正直言ってよくわからないのです。
いわば「相棒を自分の道具にするなんてとんでもない」って言えば感じをわかってもらえるかな。

ですから逆にそういった方に質問したいですね。
たとえばバットやラケットがスポーツ選手にとって自分の身体の一部になる、というのならわかる気がするのですが、私の感覚ではそのことと、それが相棒であることは齟齬をきたす気がするわけです。
バットを相棒と感じる人はそのあたりに齟齬を感じないんでしょうか?
<> こりこり<><>2008/05/09(金) 23:56:31 ID:<>>>198 に関連して。

このスレを立てるときに、
「どんなスレタイにしようか?」とけっこう考えました。

単に「オートバイについて語るスレ」とした場合、
カテ違いだ、という非難を浴びるのは目に見えてましたから。
(ほんとうはそれでもよかったわけですが、
そうなるとこのスレの流れは
現在とはまったく異なったものになっているでしょうねぇ・・)

『哲学とオートバイ』

つまりこのスレタイに「哲学」を頭につけたのは
いってみれば「避雷針」・・

なのでした。(でも、ちゃんと哲学してますけど)


<> ふくろう<><>2008/05/10(土) 00:08:52 ID:<>>>200
スレタイについてですが、私は『哲学とオートバイ』であったことで、こりこりさんにスレ建立をお願いしてやはりよかったと思いました。

私なら『オートバイの哲学』か『バイク乗りの哲学』だったと思います。

そしてすぐに書き込みがなくなり、過疎スレとして沈んでいったでしょう(笑)。
<> きりんぐらす<><>2008/05/10(土) 09:29:29 ID:<>>>196 水原さん、お邪魔しております。


どうも私はメールでカキコするとき、書こうとする思いが先行しすぎて文章が乱れ気味になりがち……やることなすこと焦りすぎなのかなf^_^;


SRの話になればなる程、どんどん欲しくなってくる願望の種火が心の奥底からチラチラ…


GPZ250とはまた懐かしい。たしか昔のテレビ番組で斎藤由貴が乗ってましたな(私の歳がバレるな)


一部でカテ違い云々のスレが立ってるようなので、こちらもレスの内容を自粛&吟味せねばなりませんかな?


では、また<> きりんぐらす<><>2008/05/10(土) 17:28:22 ID:<>私にとってバイクを走らせるとは何か。


単純に言えば通勤とツーリング、買い物利用だが、通勤においては二の次に近いものがある。なぜなら通勤に使うのにセローのようなオフ車でなくとも原チャリで充分なはずだからだ。ま、経済的な理由から今は一台しか所有できない故にセローで通勤してるのだが…


セローを選んでる理由とはオン&オフを走れる走れるフィールドの広さ等と燃費の良さなどの経済面であり、購入時に一時期は他のビッグスクーターも考えたが購入資金もさることながら、あのボディの大きさ等が案外、走るフィールドを狭くしてる面=押し歩きや林道走行の難点=もあり購入を断念した


セローの本領発揮するのは通勤時よりもツーリングでの遠出であり、燃費などにそれが顕著にあらわれている。ただツーリングといえど300kmを越すような長時間&長距離になってくるとシートの関係か尻が痛くなってくる。この辺はツアラーと呼ばれるジャンルのバイクでないとキツいのかもしれない


私のセローは長距離云々より林道や草むらの自然の中の道を走ってこそ本領発揮するバイクだと私は思うし、私もそのような自然の真っ只中をゆっくり走ったりするのが大好きだ。私にとってはバイクは峠をギンギン走らせるより、山奥の一本道をノンビリと走らせるのが性にあってるようだ。


何だか自分の独断の感想ばかりで哲学のての字にもなってない文章で申し訳ない……<> きりんぐらす<><>2008/05/10(土) 17:38:36 ID:<>前の投稿の続きになるが、私がバイクを走らせたりするもう一つの理由に、私のもう一つの趣味である廃墟&遺跡巡りや鉄道の廃墟跡を探したりするのに移動の足として使ったりするからだ。特にこれらの場所へは砂利道や凸凹道だったりする故にセローのようなトレール車が威力を発揮する(SR400やエストレヤなどのネイキッドバイクでも行けなくはないけどね)


廃墟や廃線跡の趣味に関してはここではスレ違いになるので割愛させてもらいます。


鉄道の線路跡だった砂利道を走ってみたりすると、ここの鉄道が現役だった頃に電車に乗ってたらこんな景色だったろうな〜〜〜と想像したりと色々楽しくなったりしてきます。


……う〜ん、やはりスレ違いっていうかカテ違いみたいになりそうなんで、この辺でやめとこう…皆様、悪しからず(≧ε≦)<> こりこり<><>2008/05/10(土) 18:00:18 ID:<>>きりんぐらすさん

セロー乗りでもあるおいらだけど、
使用内容は、ほとんどは通勤。

でも、片道4キロ程度の短い距離ではあるけれど、
セローはいいバイクだな、と乗るたびに感心してます。

おいらのセローは、最新型の一つ前。
キャブ仕様の最後のセローになったものです。
(ちょっと、大事にしようかな、などと思っております^^)

繰り返しになりますが。

セローの他に、おいらはXJR1300とズーマーを所有してます。
その上、四輪のデミオまで「扶養家族」になりました・・・

今、「扶養家族」という表現をしましたけど、
本当に「彼ら」は家族のような気がしてなりませんね。

どのバイクも代えがたい存在ではあります。

なのに・・

SRまで
いまは欲しくなってしまいそうです^^


<> 哲っちゃん<><>2008/05/10(土) 21:33:55 ID:<>久しぶりの7.4馬力。
クラッチをジャストミート。加速は腕次第。
細いタイヤ。軽い車体。
連続コーナー、加速度と遠心力ねじ伏せる。
人間の体重。ギアチェンジ。2ストとシンクロ。
トラックが撒いた砂。滑ってもABS無し。
良く見ろよ、落ち着けよ、俺。死ぬも生きるも。
18歳のガキだったころの俺が蘇る。
電車みたいな100馬力には無い。
走りきる、喜び。思い出す。
今日はロケットみたいにぶっ飛ぶのはやめにして、夏の夜の夢。
月の下、走馬灯の速さ、妖精の軽さで、走るのさ。
<> こりこり<><>2008/05/11(日) 05:28:24 ID:<>>>206

ランボーがオートバイに乗っていたら、
こんな詩を残したかもしれないと思わせるような^^<> こりこり<><>2008/05/11(日) 06:12:33 ID:<>>>203
>何だか自分の独断の感想ばかりで哲学のての字にもなってない文章で申し訳ない……

きりんぐらすさん、無理して「哲学的に語ろうとする」必要はないと思いますよ。
無理すると、脳が捻挫しちゃいますよ^^
ご自分の普段の語り口でいいのでは?
<> ふくろう<><>2008/05/12(月) 22:36:09 ID:<>きりんぐらすさん、

ほんとうにあまり哲学ということを意識せずに、オートバイに関することなら自由に書き込んでくださいね。
その中で哲学的意味を見出しうるものもひょっとしたらあるかもしれませんし、見出しえなければ自然とここでは話題にのぼらなくなるでしょうし、またたとえばその時点で次のスレや私のスレに移ることもできますし(^_^)v。
http://philosophy.bbs.thebbs.jp/1207082682/

スレ主さんの意図は、最初からあまり固定観念で制限をもうけずに、自由に考えを出し合って、そこから発見していくというスタンスのほうが、より豊かな哲学的意味を見出しうるのではないか、ということでしょうし、私もそれはいい考えだと思うのです。
エラそうなことを言ってまったく申し訳ないですがm(_ _)m、要は気にせずどんどん何でもおっしゃってくださいねってことで^^。

たとえば「廃墟」がお好きということ(興味を惹かれたのですが)とオートバイ(好きであること)、あるいはそこへ「オートバイ」で行くことと何らかの関係はありますか?
つまり、同じ場所でも車で行くのとバイクで行くのとではまったくその体験の意味は異なりますよね。
もし「廃墟」好きになったことの理由にバイクで最初にそういった場所へ行ったことが自分の中で関係しているようなら、その理由は何なのか考えてみることはひょっとすると面白い哲学的考察が可能かもしれません。

…と、「廃墟」にちょっとひっかかってみたくなったのは、ツーリングのとき、私も気になったことがあったからです。
廃墟にもいろんな形のものがありますが、一般に廃墟は強烈に「死んだ場所・空間」を感じさせるもので、その独特の濃密な死の雰囲気には哲学的精神を刺激するものがあると思います。
「本来人のいるべき場所」に人がいないとき、物凄く怖いですよね。
最初からいるはずないところにいなくても、それほど怖くはない。
いるはずないところにいるのも怖いけど(笑)
これは廃墟ではないですけど、ツーリングのとき、人っ子一人いない設備のある大きなキャンプ場で泊まったことがありますが、むちゃくちゃ怖かった(笑)
今思うと私の印象では「廃墟」という感じです。
設備があんまり整っているので人がいる気がするんですね。
夜テントの外で音がしたら絶対霊のような気が…(笑)
去年もツーリングで泊まっていたキャンプ場から、少し離れた山の上にすごく立派な建物が見えていたので人に尋ねたら、バブル期に建てられその後廃墟となったホテルだということでした。
昼間バイクで行ってみようと思ったのですが、仮に人がいなくて無料でキャンプできる場所が見つかっても、絶対泊まる気になれないと思ったのでやめました(笑)。
おお、キューブリックの映画「シャイニング」を思い出しました。
ん…でもそのせいか今ちょっと思ったのですが、車なら、中に逃げ込める、って気がちょっとしますね。
つまり、廃墟の夜は異空間、車に逃げ込めればこっちの世界に帰れるような…
ライダーは…う〜ん、だめな気が(ToT)(笑)

もしご自分の中で、廃墟とオートバイの間に何のつながりもないとお感じなら、もちろん別問題として扱うべきかもしれませんけどね^^
しかし廃線跡を走るのもお好きなようなので、何か「人がいなくなってしまった場所」への志向がおありなのかもしれませんね。
私の場合オフ車に乗ったことがないので、廃線跡を走る気分なんて経験したことがないですし、また気が向いたらどんな感じか教えてください。
勝手なことばかり言って、ご容赦m(_ _)m
<> ふくろう<><>2008/05/12(月) 23:09:35 ID:<>連投で申し訳ないですが、思い出したことを書きます。

もうずいぶん前のこと、確か福井県だったかと思うのですが、たぶん単線列車の廃線になった古いトンネルを、車道用に変えただけと思われるトンネルをバイクで走ったことがあります。
後で考えると、ふつうなら入り口に信号でGO、STOPを絶対指示するべきところなのに、何もありませんでした。
どう考えても二車線の幅がなく、まったく灯りのない真っ暗闇なんですよ、しかもかなり長い。
サングラスをかけていて、はいったらいきなりまったく何にも見えなくなって、驚きふためき、もうダメだと思いました(笑)。
あわててサングラスを引き抜くようにしてはずしたのですが、とにかく真っ暗、対向車が来たらどうしようか不安いっぱいで走り続けました。
と言うのも、引き返すにも怖くて止まれない(笑)
トンネルと言うより「隧道」って感じで、まっすぐなので遠くにちっさく出口の明かりが見えていた気もしますが、とにかくバイクの灯りで壁が丸く浮き上がって、それ以外は闇を飛んでる気分。
黄泉の国へと続いているのじゃないかとさえ感じました。
たぶん、これは車では感じなかったろうなと思います。
あそこはまだあるのかなあ…
<> che<><>2008/05/12(月) 23:28:33 ID:<>>>209

1人バイクから降りたとき、そこが廃墟だったら怖いなぁ〜。
僕はバイクから降りるとき、いつも何か凄い孤独感を感じるんですよ。走った距離や時間が長いほど、降りるときには孤独を感じるんです。走っている最中も十分孤独なんですけどね・・・・風を切って走っているときは、不思議と孤独に感じない。そのせいなのか、降りたときは一気に孤独感が押し寄せてくる。
1人ギターを弾き終えたときにも似たような感じはあるけど、あれはギターを置いた後の静けさが凄くいいんだよな・・・沈黙がいい。好きな孤独感です。
でも、バイクを降りたときの孤独感は未だに慣れないなぁ・・・・。
いい歳してちょっと焦る・・・何かに。
(何なのかは、全然わからないのだが・・・・)

う〜ん・・・・
だから、降りたところが廃墟だったらやっぱり怖いなぁ〜。<> こりこり<><>2008/05/12(月) 23:55:07 ID:<>廃墟。
おいらも廃線、とか好きでよく見に行ったりしたっけ。

「廃墟」にも二通りあるような気がする。

完全に死に絶えていて、時に洗われた感じのする廃墟と、
まだ生の余韻というか未練というか、死に切れていない廃墟とがあるんじゃないかと。


完全に白骨化した死体はさほどこわくはないが、
死んだ直後の死体は怖いんだ、おいらは。


<> 山桜<><>2008/05/13(火) 04:14:55 ID:<>>>209-212

突然の関係のない横やりで申し訳ない。でも、言わずにおられないので、言わせていただく。

感動した。!!


<> きりんぐらす<><>2008/05/13(火) 15:36:43 ID:<>>>205-213 皆様、アドバイス及び関連したコメント、ありがとうございます(^O^)1つ1つ読ませていただきまして、山桜さん同様にコメントの内容に本当に感動しました(T_T)


皆さん、廃墟に関心もってらっしゃる事に私はホッとしてる面があります。それは私の周りには誰一人として廃墟や廃線跡に興味を示す方がおらず逆に「ネクラ」とか「将来が危ない趣味」などと批判&警戒される有り様……特にバイク仲間からは「そんなとこに行くよりもっと走る道がある云々〜」と言われたりして全く相手にされません(-o-;)


私が散策ツーリングに行く場所には自分で意識しなくても必ず途中に廃墟や廃線跡が存在します。それだけ全国あちらこちらに点在してるということですが、中には廃線跡というよりも作りかけ途中で放棄した未成の構造物もあり(関西では奈良県・五條市あたりに存在)未完成のままの鉄橋やトンネルを見ると何と勿体無い&無駄な金のかけ方を〜〜と半分憤りを感じることすらあります。特に国鉄時代の未完成モノだと税金がこんなところで無駄に使われて!!と


私が廃墟に行く時間帯はたいてい休みの日の昼間ですんで、まだ光が差し込む静寂な、時の止まった空間って雰囲気で良い感じ(中<> きりんぐらす<><>2008/05/13(火) 15:59:12 ID:<>ケータイから書き込んだせいか、途中の (中 ってとこで文章が途切れてる……紛らわしい文章で申し訳ない。


自分のバイクで廃墟に直接入り込んだのは数える程度(たいていバイクから降りて行ってる)で、それもたいがい鉄道の駅跡だったりする。和歌山のある駅跡にはホームの形が残ってるとこまでバイクで進入したが京都の愛宕山のケーブルカーの駅跡は急斜面すぎてホーム跡の寸前で断念した。ちなみにその先の線路跡は森のジャングル化=自然に帰りつつあり、バイクで進入は不可能だった…ハイキングで賑わったケーブルカーの跡も廃止から60年も経てば自然に帰っていくのかと……道すら分からぬ森の木々を見て、これぞまさに栄枯盛衰の〜〜………あとの言葉が思いつかないwww


ま、このような例から察する通り(ちとイミフな言い方かな)私の廃墟や廃線跡探しはバイクのツーリングに欠かせなくなってしまい、時にはバイク仲間と走る時ですら寄り道してしまうこともあったくらい(その場合、たいてい廃線跡っていうより旧道探索に近い)。でもそれらの道にはたまに土砂崩れや道が崩壊して引き返さざるを得ないことも……自然の脅威をまざまざと見せつけられるいい勉強にもなってます


廃墟に関しては話が尽きないくらいあるのですが、あまり長くなると見にくかったり文章がカットされそうなんで、いったんこの辺で(‘o‘)ノ<> きりんぐらす<><>2008/05/13(火) 16:22:08 ID:<>連レス スミマセン


私の会社の仲間や親からたまに私がバイクに乗ってることについて問いかけられる。それは「何のためにバイクに乗るの?」と…


その時の私の答えはいつもこうである
「そこにバイクがあるから、そしてそこに道があるから」


答えになってないかも知れない。また人によってはそんな行為は無駄&非効率&非生産だとも…


しかしそれであっても私はバイクに乗る。何故なら通勤は別としてバイクで自分の走りたいとこ(山道や廃線跡などに)に行くことが自分にとって満足だからだ。この行為に付け加えて、色々なジャンルのバイクに乗り換えたりしながらそのような場所に走りに行けたらもっと満足であり快感なことこの上もない。ま、そのような夢を実現しようとしたらバイクを最低20台ぐらいは所有することになってしまうが……


でもこないだの日曜日に行われた試乗会で、そのような夢がますます膨らんでしまった。いわば1つのバイクだけで満足はしないという、端から見れば愚かな願望に……宝くじでも当たらないと無理な話だが、実現できるなら実現したいと。その日と気分によって時にはSSの600ccクラスでメインルートから外れた道を散策に出かけたり、時にはビッグスクーターで細い山道を走ってみたりと色々とやっとみたいと……


私のレスの内容がスレの主旨などから脱線しすぎたり意味不明だらけで問題だったりするのなら、どうかご指摘のレスを下されば幸いであります<> こりこり<><>2008/05/13(火) 23:40:42 ID:<>『美しいオートバイはなぜ美しいのか』

短くいきます。

おいらが美しいと感じるデザインに共通しているものは
「こうするしかなかったんだろうな」という形。

反対にそうではないと感じるデザインに共通しているものは
「こうしてみたらどうだろう」というデザイナーの意図が見える形。

<> こりこり<><>2008/05/14(水) 06:23:21 ID:<>また、
おなじオートバイでも、
センタースタンドを立てた状態でまっすぐ立っている姿よりも
サイドスタンドを使用して、すこし傾いだ状態の姿のほうが美しいし、
その状態で、ハンドルがまっすぐになっているよりも、
ハンドルを切った状態のもののほうが美しい。
そして、ハンドルは、右側に切った状態ではなく、
左側に切った状態のものでなければならない。

そして、そのオートバイの左側面斜め前方からしばし眺めると
オートバイはほんとうに美しい。

とおいらは感じるのであります。<> こりこり<><>2008/05/14(水) 06:35:03 ID:<>>>216
>「何のためにバイクに乗るの?」

おいらは3台のオートバイを通勤に使用しています。
ズーマー、セロー、XJR1300。

職場までわずか4キロの距離しかない通勤が目的であれば、
ズーマーがもっとも効率がよい。
なのにおいらはセローで行くこともあるし、
わざわざ重いXJRをひっぱりだしてたった4キロの距離を走ったりします。(それもかなりひんぱんに)

なぜなんでしょうね・・
<> こりこり<><>2008/05/14(水) 06:47:05 ID:<>ズーマーに乗るときに、なにを着ていくか。

おいらがいちばん気に入っているのは、
フルフェイスのヘルメット(シールドはスモーク)
カドヤ製の革ジャン。
バギーの夏用革グラブ(黒)
バイク用のスニーカータイプのシューズ。

ビシッと決めて(!)

ズーマーでとことこ走る。
これが楽しい^^
(交差点で信号待ちのときたまに視線を感じますが、これもたのしい)

楽しいからかな?こんなことをするのは。
通勤って「退屈」だもんね。<> こりこり<><>2008/05/14(水) 19:47:40 ID:<>ふと思ったんだけど。

オートバイって「二足歩行」?
<> ふくろう<><>2008/05/15(木) 00:06:40 ID:<>>>212
>完全に死に絶えていて、時に洗われた感じのする廃墟と、まだ生の余韻というか未練というか、死に切れていない廃墟とがあるんじゃないか
>>214
>私が廃墟に行く時間帯はたいてい休みの日の昼間ですんで、まだ光が差し込む静寂な、時の止まった空間って雰囲気で良い感じ

私も感じていたのですが、奇しくもというか、この二つの文章にも触れられているように、廃墟の空間というのは「時の止まった空間」なんでしょうね。
怖く感じるとき、それは時の流れが止まってしまっている“澱み”と感じられる。
そこに生の余韻・未練・死に切れていないものが留まっている。
しかしその澱みも、やがては流れに徐々に洗われていく…
<> ふくろう<><>2008/05/15(木) 00:10:08 ID:<>私もいろんなバイクを欲しいという気持ちがあるのですが、ただ少しだけ、本当は一台のバイクにすべきじゃないかという気持ちもどこかにあったりします。

いつでもどこへいくのもおんなじ一台のバイク。

たぶん相棒と感じるから、場合に応じて相手を換えるのが、ちょっとうしろめたく感じるのだろうと思います。
でもそういう観点からすると、なんと言ってもセローが一番いいバイクってことになるのかな。
<> ふくろう<><>2008/05/15(木) 00:23:26 ID:<>>>221
2足歩行かぁ、どうかなあ。

自分の場合、サスを鉄馬の足のように感じてるので、やっぱ4本足じゃないかな。
だからどうしてもリヤサスは二本であってほしいんですよね。
後ろ足二本でふんばってくれなくちゃ、って感じ(笑)

でもそうすると車輪はなんだってことですね。
む〜ん、わかんない。
ねむくて、もうだめ(-.-)zzZ<> こりこり<><>2008/05/15(木) 00:31:39 ID:<>いまからちょっと走ってきます・・
深夜の徘徊をするにはほんとうにいい陽気になりました。

では。


<> こりこり<><>2008/05/16(金) 17:13:17 ID:<>今日は非番日。
快晴。
あさ、8時ごろまで寝て(早起きのおいらにはかなりの寝坊)
10時過ぎに、XJRで隣町のバイク屋にいき、夏用のジャケットを買いました。
お金がなかったので、
「支払いは給料日でもいいですか?」と
だめもとで訊いてみたら
「いいですよ。で、これ在庫長いから半額にしておくから」と二つ返事。
うれしかったなぁ。

世の中、悪いことばかりじゃないと再認識。

帰ってから、3時まで読書。
それからズーマーに乗って歯医者さんに行き、
帰宅してから再びセローに乗り換えてわが町の世界を探索にでかけてきました。

街中を流れる川の土手道を走っていたら、
亀をみつけました。

亀は「哲学者」のような顔をして、日向ぼっこをしておりましたね^^

<> ふくろう<><>2008/05/20(火) 21:33:34 ID:<>ちょっとのご無沙汰でございます( ~っ~)/

内緒ですが、実はツーリングに行ってたんです(笑)

で、考えたことがあったのですが、それはまた、ということにして、とりあえず、別スレの「世界はいつから存在しはじめたのか」という問いについて、実存的オートバイ乗りとしての答えを書いておきます。

今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今今…
<> こりこり<><>2008/05/21(水) 01:14:09 ID:<>>>227
>実はツーリングに行ってたんです

なんだ。そうだったんですか^^

実は、心配しておりました。

>別スレの「世界はいつから存在しはじめたのか」という問いについて、実存的オートバイ乗りとしての答えを書いておきます。

楽しみですね。10連ちゃんレスくらいの、長論文?


<> こりこり<><>2008/05/21(水) 05:27:03 ID:<>>>221 で、オートバイは2足歩行?と書いたけど、
おいらの場合、飛行機なんだから違いました。

え〜〜っと。

「オートバイの後輪(駆動輪)はプロペラである。
前輪は方向舵である。」

タイヤというプロペラを回転させてわがバイクは大空ならぬ大地をどこまでも飛翔するのであります。
決して墜落することのない飛行機。(崖から飛び出してほんとうに空中を飛行したら話は別です)
それが、オートバイ^^
<> ふくろう<><>2008/05/21(水) 23:06:43 ID:<>>>228
>楽しみですね。10連ちゃんレスくらいの、長論文?

いえ(^。^;)あの…、>>227 の最後の行に、一行で既に書いたのですが…

>>229
またこりこりさんにとってのオートバイの話に横から口出しして申し訳ないのですが…

タイヤ=プロペラというのは私もそんなふうに感じてました。

でもですね、空中ならぬ地上を飛ぶ飛行機であるオートバイにとって、転倒=地面に落ちること=墜落という気がするのですが、どうでしょう?
<> こりこり<><>2008/05/21(水) 23:25:47 ID:<>>>230
>>>227 の最後の行に、一行で既に書いたのですが…

もしや、そうではないかと思ってはいたのですが。
パソコンのキーボードの調子が悪いのかな?と思っていたのも「事実」・・なのでした。

「今」。
そう、何時でも「今」

過去を思い起こすのも、未来に想いを馳せるのも、

「今」ですもの。

<> きりんぐらす<><>2008/05/24(土) 12:00:50 ID:<>皆様、おひさな私のレスになりがちで……悪しからずm(__)m


こりこりさん、バイク糧でセローのスレ立て感謝いたします(^^)v早速、活用させていただきます。


……成る程、『今』という感覚の……未来を考えるのも過去を考えるのも今……博学不足な私でもホント深いテーマだなぁと感じさせられます。言葉足らずかも知れませんが、人間はその場で直ぐ10分後の行動を出来る訳ではなく、その逆も出来ない(過去の事なら同じ繰り返しみたいなものは出来る=模倣みたいな事もアリかな?)


……駄目だ、これ以上考え込むと頭の回路がパンク寸前に(!?)ただでさえ今月の仕事の事で頭が一杯詰め込みすぎるくらいなのに……今でも頭の中には生産計画やペース配分、品質管理の提案の何だらかんだら〜〜と頭の中を数値や記号、様々な文章が駆け巡ってる状態(>Σ<)もっと脳味噌をPCみたいに容量拡大&バージョンアップできないかと思ったりする今日この頃……


乱文悪しからず<> きりんぐらす<><>2008/05/24(土) 12:18:24 ID:<>バイクとは関係ないが連休時の所用で電車で移動してた時のことを


所用が終わり帰り道の電車での移動中、とある山あいの駅で暫く停車していた。あたりは民家の灯りすら数える程度だったが、蛙の大合唱が車内含め全ての空間の音と化していた。それはまさに子供の頃、夕暮れ時の田んぼの真ん中を歩いていた時に聞こえてた音の風景と一緒で、私は車内でもこの心地よい音に酔いしれてた。


以前、前に勤めていた会社の先輩は田舎や山奥で夜中にこの蛙の大合唱だけ聞こえる空間には絶対に行きたくないと言い張ってた。そんな音が支配されてる空間にいるとノイローゼになるとも言っていた。


私も都会生まれの都会育ちだが、そこまで自然の音が支配する空間を毛嫌いする人の感覚がよく分からない。と共に都会でも住む場所によっては体感的に自然の様々なモノに馴染まなくなってしまうものかとも思うようになった。


私はそんな都会の色=メトロポリタンな一族にはなりたくない。いっそのこと私は大の麺類好きなんで、メトロポリタンと呼ばれるよりかはナポリタンとで呼ばれる方が頼もしいかと( ̄∀ ̄)


今のバイク=セローは私にとって自然の空間を誘う道具になるのかな〜と思う今日この頃。しかしバイク仲間が言うには今のセローは都会的だとw<> こりこり<><>2008/05/25(日) 01:00:13 ID:<>>>233
>バイク仲間が言うには今のセローは都会的だとw

現行セローのデザイナーは女性なんだよ。
それを知ってからおいらは女性的なものをセローに感じるようになりました。
「君は女の子だったのか」という感じ。<> こりこり<><>2008/05/25(日) 01:07:44 ID:<>おいらがツーリングが好きなのは
淡々と走っていて、空気が急にかわるのが感じられるから。
あのかんじはちょっと表現できないんだけどね。<> こりこり<><>2008/05/25(日) 01:12:53 ID:<>いきなりですが。
ツーリングを予定していたその日が「朝から一日雨」の予報。

あなたは「雨天決行」?
それとも「中止」?<> こりこり<><>2008/05/25(日) 20:20:28 ID:<>もうずいぶん前のことなので、いつ、どこで書いたのかを失念してしまったのですが、
確か、おいらは「エンジンについて考察します」なんてことを言ったんじゃなかったっけ・・・?

そろそろ始めようかな。

と、言いつつ。

準備不足のため、いましばらく「お待ちください」です。<> きりん<><>2008/05/26(月) 23:24:08 ID:<>エンジンに対する考察ですか……う〜ん…………………レスに応答した答がでない(◎o◎)


……エンジンに関してにならないかも知れないが、私個人の指向として、4気筒のシリーズはここ最近の新型のバイクを試乗したりしてるうちに、あまりバイクの感覚が薄らいできたような気がしてきた。


今月初めに試乗したSUZUKIのB-KINGには上記で示した印象が特に強く表れた。いわく、このバイクで本当に楽しめるものがあるのかと。そりゃ180馬力もあるからネイキッドバイクとしては最強かも知れないが、走ってみるとハンドリングの感覚がバイクとしては異次元さえ感じるくらい普通の速度では面白くないのだ。これならまだ空冷4発のモデルの方が、ゆっくり走っても味があると……


何だかバイクのインプレみたいな内容になっちまったが、私が言いたいのはバイクというのはメカニズム的に最新が絶対良いとは限らないということ。むしろ最新になればなるほど扱いやすかったりするかも知れないが、何かバイク本来の味のようなものが薄くなって行くような気がしてならない。これはバイクに限らず車の世界でも……いや鉄道の世界でも言えないだろうか?


ちと分かりにくい内容だったかな(^_^;)<> きりんぐらす<><>2008/05/26(月) 23:41:23 ID:<><こりこりさん

なるほど、セローのデザインは女性の方が手がけてたんですね。だから前のモデルと比べると都会風な洒落たボディラインになったわけで……


他のスレで関連したことを書きましたが、昔のヤマハのトレール車でBRONCOというバイクがありましたが、これが意外と今のセローとは別の意味でお洒落なバイクに見えたりする。バイクのショーや部品店等で売ってたり飾ってたりする水彩画に何故かBRONCOがモデルになってたりしてるとこからすると、やはり美術的な面から見ても洒落た雰囲気が良い題材にされるのであろうと


まさに新しいのが古いのより優れてるとは限らないということをデザインの面でも表している証拠であろうかと……


他にも水彩画に似合うバイクはいないかなぁ〜とたまに考えたりする。クラシカルなスタイルのスクーターやSRのようなレトロ風なバイクが一番合うようだが、昔のGPZ400Fあたりもヨーロピアンなラインで好ましい


う〜む、どうしても私は哲学に沿うような理論の展開にならない。哲学スレに集う皆様、申し訳ありませぬm(__)m<> 悩める男<><>2008/05/27(火) 01:05:07 ID:<>こりこりです。

う〜ん、確かに哲学と言うにはちょっとレベルが低いですね(笑)

ただ、愚痴をこぼすくらいなら勉強しましょう。

おいらも最初はあれでしたが、今や哲学カテのホ?プですから(笑)

きりんぐらすさんも、頑張ればそこそこのものを書けるはず。


たぶん・・・<> こりこり<><>2008/05/27(火) 01:12:15 ID:<>>>240 は「おいら」ではありませんよ。

最低の人間があらわれたようですので、
クリプトをかくにんしてください。>みなさん。<> 文太の父<><>2008/05/27(火) 01:25:29 ID:<>こりこりです。上の書込みは、おいらの息子の文太です。さっきちょっと揉めたため、今は携帯から(文太は自宅のPCから)書込んでいます。管理さん申し訳ありません。削除依頼は私から取り消しておきます。<> こりこり<><>2008/05/27(火) 19:03:34 ID:<>>>242 も「騙り」・・・

おいらは「人気者」?
な、わけないよね。

でも、めげずに「わが道をゆく」

であります^^

sage<> きりんぐらす<><>2008/05/27(火) 23:17:54 ID:<>(?_?)ややや?どれが真の こりこりさん か分からなくなってきた!?!?


確かにご指摘どおり、哲学の本質から外れ過ぎた私のレスが他人から見れば目にあまるようなものであったかも知れません。というわけで、ここでレスするには慎重に考えてレスするようにします。


あくまでも こりこりさんはじめ哲学カテに真面目に集う方々の意見に従う故の私の判断であり、哲学とは無縁な横やりだけするだけの荒らしの連中に従った訳ではないということを言っておきます。


ちと挑発的な意見で賛否両論でるかも知れませんが…御理解の程を……なんせ、今この時期だから知れませんが他のサイトでも、こんな横やりだけする荒らし共が増殖しまくりで対応に追われてる有り様でして……


ちと感情気味になってたからか乱文気味に……あしからず<> こりこり<><>2008/05/27(火) 23:44:03 ID:<>>きりんぐらすさん
>(?_?)ややや?どれが真の こりこりさん か分からなくなってきた!?!?

ずっとあなたが「こりこり」として話をしてきたのは

こりこり 08/05/27 19:03 *7SP3bi2b1bj*

書き込み時刻の後ろのクリプトが*7SP3bi2b1bj*になっている「こりこり」であります。
とりあえず、
それ以外の「こりこり」は偽物と考えてください。
(もっとも、おいら自身がクリプトの入力を間違えていたり、
入れ忘れたりすることもあるんだけど)
今後おいらは「かならず」*7SP3bi2b1bj*を入れますので
よろしくお願いいたします。

age

<> こりこり<><>2008/05/27(火) 23:53:31 ID:<>ちなみに「バリ伝」も「こりこり」です。

【某ツーリングカテにおける書き込み】
[208]バリ伝 08/05/11 13:18 *7SP3bi2b1bj*r5Pkaokz42
最近のおいらは、地元の田舎道ばかり好んで走り回っていますね。
国道から一本はずれた道や、川の土手沿いの道とか。
日常とほんの少しだけずらすだけで全くちがった風景をみることができる、そのことにようやく気が付いたようです。

知らない道に迷いこんだときもオートバイの「機動性」はとてもありがたいものであります<> きりんぐらす<><>2008/05/28(水) 00:33:44 ID:<>>>245 >>246 こりこりさん、了解しました。クリプトを判別しつつレスしていきますね。


>>244 の私の後半の発言はやはり今見ても感情的&挑発気味でした。もし宜しければ削除していただいても構いません。スレ主である、こりこりさん=バリ伝さんの判断にお任せしますm(__)m


え〜と、あとは……ダメだ思考回路が完全にオヤスミモードになってしまった!ってことで、また次の機会に…(-.-)zzZ<> こりこり<><>2008/05/28(水) 19:33:34 ID:<>>>244

ぜんぜん「乱文」じゃないと思いますよ。

よく理解できます。<> きりんぐらす<><>2008/05/29(木) 21:14:22 ID:<>>>248 こりこりさん、ありがとうございます(≧∇≦)励みになります


できるだけ哲学のカテに沿うように努力はしたいと思いますし、バイクの愚痴話やツーリングの話題はバイクカテで話そうと思います。


では、また改めて………<> ふくろう<><>2008/05/30(金) 00:39:59 ID:<>きりんぐらすさん、私もあなたのレスを楽しみにしていますよ。
前にも言ったと思いますが、あんまり哲学的ってことを意識しすぎると、かえって可能性を狭めてしまうように思いますので、あなたの感受性で感じられたことを、論じることなど気にせず、話してくださいね。
そこに何か共通のものを感じるものがあれば(廃墟のときのように)、きっと哲学的にも意味のある思索がでてくると思います。

ツーリングで感じたことなどまた書いてくださいねm(_ _)m
また、同じようなバイクがないわけじゃないのに、セローがこれだけ長期間人気を保っている理由については、けっこう興味があるんですよ。
まあこれはバイクカテでもいいかもしれませんが、セローというバイクを通して、自然とオートバイの関係を考えるのもいいかもしれません。
自然の中に、徒歩でもなく四輪でもなく、オートバイで入っていくことの意味ですね。
セローって、カモシカでしたっけ?
でもふと思うと、もののけ姫で山犬にのって山中を走るイメージにもちょっと似ている気がします。

まあ、あせらず、一緒にぼちぼち考えましょう^^
<> ふくろう<><>2008/05/30(金) 00:47:06 ID:<>ふと思いついた、過去の哲学書とオートバイの類比を考えます。
思いつきでどれだけ行けるか、意味があるかはまだわかりませんが…

問題意識としては、まずこういうのがあります。
よく哲学することは過去の哲学者の残した哲学書を研究することではない、といったふうに、いわゆるアカデミックな講壇哲学への批判があります。
もちろんその批判がまったく妥当でないとは言いませんが、私としては基本的にちょっと違うのではないかというふうに思っています。
私のそのもとになる考えをを次の類比を通してある程度表せるように思います。

まず、過去の哲学作品をオートバイに類比します。
たとえば『存在と時間』『論考』『純粋理性批判』『精神現象学』などは、オートバイで言うと、歴史を超えて乗り続けられる旧名車に比されます…たとえば日本車ではZ1やW1やCB750FOURetc.あと外車ではトライアンフやハーレー、BMWやインディアンなどにもいろいろあります。
プラトン(の作品)なんかはいわばカブに比すといいのじゃないかな。
哲学はプラトンに始まりプラトンに終わる、ように、オートバイはカブに始まりカブに終わる、みたいな感じ。
哲学書の著者である哲学者は当然、オートバイ製作者に比され、いわば名オートバイの作り手は真のオートバイ乗りである、とみなします。
オートバイという彼の作品には、オートバイの思想、オートバイに乗るということのすべてがいわば体現されて含まれています。
我々乗り手がそのオートバイに乗ることは、その哲学作品を通して、哲学することに比されます。
いわゆるプロの哲学者がその基本的修行期において、ある特定の哲学者の哲学(作品)にとことんこだわるのは、ある一台の名車にとことんこだわり、ただ乗るのではなく、部品のひとつひとつまで分解し、再構成できるまでそのオートバイを理解しようとすることに似ています。
さまざまなオートバイを自分の求める楽しみのためにいくつも乗り換える人もいますが、一台のオートバイにとことんこだわることによって、より深くオートバイとは何かを知ることが可能ではないかと思います。
アカデミックな哲学が研究者養成の方法として伝統的にそういった形態をとっているのは理由なきことではなく、それがもっとも哲学とは何か、ということを知る有効な方法であることが認められているからだと思うのです。

過去の名車も、技術的には明らかに乗り越えられている部分は大きいにもかかわらず、現代でも人を惹きつけてやまない魅力を有しています。
カント哲学などもそういったことが言えるように思います。
いわばなまじっか技術的に優れた現代のオートバイや哲学作品より、旧い名車や哲学書の方が、オートバイの本質や哲学の本質そのものは、はるかに大きく含まれている、ということは言えるのじゃないでしょうか。
そしてそういった作品は、偉大であればあるほど、それを十分に乗りこなしたと言えるまでには至らない、ということです。
<> 哲学67<><>2008/05/30(金) 14:53:43 ID:<>>>251
オートバイに乗らない部外者で申し訳ないんだが・・・

その類比は面白い。
面白いが、オートバイでなければ成立しないものではないという気がしてならない。
つまり、廃れたものでなくある程度発展進歩しているものであれば、
当然のごとく技術の進歩や時代の要望の変化があり、製品は姿形が変遷する。

つまり、一般的に様々な製品に当てはまる類比では無いだろうかと思う。

聞きたいのは、「オートバイでなければならない事・もの」です。
人間を人間足らしめる・・・というスレッドが建っているが、
オートバイをしてオートバイ足らしめる必要不可欠かつ根源的な要素と言うものを、
オートバイ乗りの方たちから聞いてみたい。

空気を読めてなければ申し訳ない。

<> ふくろう<><>2008/05/30(金) 23:03:35 ID:<>>>252
どうもm(_ _)m。

実はオートバイと哲学の関係については前からいろいろ考えているのですが、まだちゃんと把握できた気がしていません。
この類比はふと思いついたばかりで、それほど深く考えられていません。
しかしまあ今のところ自分的には意外に悪くないかな、とも思っています。
ただ未だ言葉にうまくならないものの、もう少し深いつながりがあるようにも感じています。

>オートバイをしてオートバイ足らしめる必要不可欠かつ根源的な要素と言うものを、
>オートバイ乗りの方たちから聞いてみたい。

については、このスレのメインテーマでもあるので、ある意味それをずっと話し合っているとも言えなくはないのですが、もう少し絞ると、まず、このスレ建てのきっかけになった、
http://philosophy.bbs.thebbs.jp/1204969528/96-97
および
>>48-49
に、大袈裟かもしれませんが、いわば「オートバイに乗ることの実存的意味」についての私の考察があります(未完です)。
それと、
>>110 -
以降で、オートバイというものの主観的本質について、主にこりこりさんと私が対話しながら考察しています。

こういった考察が、ただの妄想にすぎないとお感じになる場合、>>148-149 を参照願います。
簡単ですが、このスレにおける考察の方法論について述べています(むろん正しいかどうかは分かりません)。
ここでの考察は「オートバイの解釈学」と言えるのではないか、と私は考えています。
<> ふくろう<><>2008/05/31(土) 10:33:23 ID:<> >>253
補足説明です。

http://philosophy.bbs.thebbs.jp/1204969528/96-97
および
>>48-49
の文章を読んでいただければ、私がなぜ哲学とオートバイとを類比したかということの理由もある程度ご理解いただけるのではないかと思います。
たとえば、四輪となら私は絶対この類比を思いつかなかったでしょう。
私は少なくともバイクであるからこそ、この類比を思いついたし、それが私にとってバイクというものがかけがえのない意味を有している、ということを示していると思うのです。
こういったかけがえのなさは主観的なもの(ある意味「にすぎない」)ですから、客観的にみたら、いや、何もそれはバイクに限ったことではないだろう、ということになるわけです。
そしてそれは「自己という存在」の意味についても同様に言えることだろうと思います。

簡単に言うと、バイクの非日常性、本質的不安定性、が哲学と通じるものがある、ということ。
哲学は日常そのものを成立させている根本前提(あるもの)をあえて疑い、それまで疑うことなくどっぷり浸りきっていた日常世界に主観的変容をもたらし、哲学する主体はいわばその外(非日常性)へと出ます。
それは一方で、既在の日常性から自己を解放し、自由を得ることを可能にしますが、
他方でそれは、自己自身が拠って立つ基盤そのものをも失うことを意味し、寄る辺なき不安をもたらします。
したがって、それはその意味で、属すべき場所を失うことです。
すなわち、類的存在から、ただの個=実存へ。
<> ふくろう<><>2008/05/31(土) 10:37:52 ID:<>>>12 にも書かれていますが、オートバイも哲学も、若いときに誰もが一時的にかかる病気みたいなもの、という世間的イメージがあります。
いわば誰もが一度は自由に憧れるが、再び自覚的に自分の属すべき場所をみつける、それが大人になることであり、同時にオートバイも哲学も用済み・卒業することを意味する…、そんな感じでしょうか。
そして実際そのイメージのままにオートバイを卒業する人は多いのです。
乗り始めてから卒業までの期間が短い場合は、ふつう仲間も多く、ひょっとすると個としての自己を感じることはむしろ少ないかもしれません。
しかし周りの仲間の多くがバイクを降りてもなお乗り続ける人は、単なる事実としてソロライダーになるだけでなく、オートバイに乗ることの本質的単独性とでも言うべきものに向き合うことになる、そう私は思います。
オートバイに乗ることは、思想としてではなく、頭でではなく、自己が唯の個であることを否応なく体感させるように思われるのです。
すなわち、自分がただ独りの存在であること、自分がただ独りの生を生き、ただ独りの死を死ぬ存在であることを。
>>211 でバイクに乗るとき(降りたとき)の孤独感について書かれていますが、おそらくこれは多くのライダーが感じることだと私は思っています。

「つるんで走っていようとも、心はいつもソロライダー」(笑)
人生哲学はもちろん、
「さよならだけが人生だ!」(笑)

ツーリングの途中、道の駅などでたまたま出逢ったバイク乗り同士が語り合い、方向が同じ間だけ一緒に走り、ある別れ道がきたとき一方が左手をあげ、他方がホーンで応え、それぞれが異なる道を選んで走っていく
そういうことがあります。
つい先日のツーリングでも私はそういう経験をしました。
それは「同じものに属する仲間」の別れではない、と思います。
ちなみに、この場、このカテ・このスレも、
そんな機会を提供してくれる場であると私は思うのです。
<> 般若湯<><>2008/05/31(土) 10:44:27 ID:<>私はバイクも車も靴も服も、単なる消耗品と認識してるんですが、これは(少なくともバイクの)本質を見誤っていると言う事なのでしょうか?
<> ふくろう<><>2008/05/31(土) 11:44:00 ID:<>>>256
いや、それはあなたにとってはそういうものだということで、それはそれで真実なのでしょうから、別に誤りというような問題ではないのじゃないですか?

存在論という哲学の分野があることはご存知かと思いますが、そこでメインとなる考察テーマのひとつに存在の意味を問う、ということがあります。
あらゆる存在者の存在の意味を問う、とか、人間存在、あるいは自己存在の意味を問う、などといったものですね。
これは意味を問うわけですから一般に主観的な営みとなり、したがってやり方によって解釈学とも言われたりするようです(私もそんなに詳しいわけではありません)。

しかし世の中には当然存在者が存在することに何の意味もない、という人もいます。
でこの場合の意味は客観的なものではありませんから、それが誤りというわけではありません。
ただ、そういう人には存在論や解釈学はあるいは無意味に感じられるかもしれません。
要するに存在論などは、そういう人には無縁であるということではないでしょうか。

オートバイに乗っている人間はみんなこんなふうに思うべきだ、思わない奴は間違っている、というふうに私の文章で感じられたとしたら、申し訳ありません。
(何度か断ったように)そんなつもりはないのですが、語るときは意味があることを前提に語ってしまいますので、そんなふうな印象を与えてしまうのかもしれないですね。
スルーしてください。

<> 般若湯<><>2008/05/31(土) 12:47:37 ID:<>うーむ。
しかしそれでは、同じ意見の人としか意思疏通しない表明ではないですか。
他者の意見も真摯に受け入れ検討し止揚するのが哲学ではないでしょうか。
「これは私の主観だからスルーして」では、せっかく哲学カテにいる意味が失われます。

<> ふくろう<><>2008/05/31(土) 15:29:28 ID:<>>>258
>しかしそれでは、同じ意見の人としか意思疏通しない表明ではないですか。

いいえ、まったく違います。
私の意図はむしろ逆で、
私の表現のまずさから、あなたのような考えを最初から否定・拒絶しているかのように読めたのであれば、それはそんなつもりはないので、気にしないでほしい、ということです。

もし、あなたがオートバイについて哲学をお持ちなら、大いに語っていただきたいと思います。
お待ちしていますよ^^
<> 般若湯<><>2008/05/31(土) 16:43:31 ID:<>では。

私は、オートバイに限らず、乗り物は全て、「人間の足」が進化したものだと考えます。
進化の順を追うと、
足→馬→オートバイ

ひとまずここまで。

<> ふくろう<><>2008/06/02(月) 09:21:09 ID:<>ひとつ訂正があります。

>>49 のレスにおいて「速度=スピード」とありますが、これをただの「スピード」に修正します。
もともとどちらの語を選ぶかで迷っていて、決めかねたのでごまかした形で投稿してしまたのですが、後でみると恥ずかしくて気になっていました…(笑)

ついでにオートバイにとってのスピードについて述べておきます。
これは同じ二輪車である自転車との本質的違いに関連した補足です。

私の感覚では自転車の場合、自転車という道具に頼るものの、あくまで基本的には自力で走るものであり、それによって到達可能な世界も当然自分の力で到達可能という意味をもちます。
その意味で自転車は私にとって足の(機能の)延長として捉えられるものです。
しかし私にとってオートバイのスピードは、自分の力では到達不可能な世界(たんなる物理的距離・速度の意味以上の)を経験させるものであるという意味で、自転車とは根本的に異なった意味を有しているように思います。
その意味で私にとってオートバイとは(自転車とは異なり)「自分の足を超えたもの」「もはや単なる足の延長とは考ええない意味をもつもの」です。
この相違点が、ほかならぬオートバイこそが実存としての自己を体感させる上でポイントとなっているように思うのです。

自分が生きて在ることは、自分の意志であると同時に、(ある意味では)自分の力によるものではない。
自分が走って在ることは、自分の意志であると同時に、(ある意味では)自分の力によるものではない。

つまり、いまここにこうして在る自分の生世界の根拠(存在の十分条件)が自分ではないこと、自分の内にはないこと…ある依存性…をバイクに乗るとき体感的に知る、あるいは無意識的に感じ取る・取らざるをえない。
それは日常世界の必然性・安定性が、その根底において偶然性・不安定なるものに依拠していることを知ることでもある、そう思わせる体験であると思います。

歩く → 走る → もっと速く走る → 自転車で走る →
の先に「オートバイで走る」は存在せず(もちろん客観的にはそうですが)、
こりこりさんの表現を借りると、(主観的体験の意味としては)「飛ぶ」ことの仲間かもしれない、という感じですね。
この違いは「空間移動の方法上の違い」というより、「世界と自己との関係性の違い」であるように思います。
<> SUB<><>2008/06/02(月) 10:36:59 ID:<>自転車は20km/h、どんなに追い風に乗って走っているときでも40km/hぐらいしか出ませんが、
Autobikeは60km/h、高段ギアーがあるのでは80km/hぐらい出てしまいます。それは結局人間的
限界(最速Sprinterで40km/h)を超えた哲学的概念を保有するに至ると思うんですけど、
着座席(椅子)の非活動〈運動)性、Handleの掌握という「執着」からの脱却の無理性が、
哲学的思考を日常(物質的低俗精神)化させているのかもしれません。<> 般若湯<><>2008/06/02(月) 12:49:25 ID:<>>>261
一般的に、移動手段を「足」と呼ぶ。
これは、「あらゆる移動手段」が「足」の進化形態であるからだと私は思います。
もちろん、目的によって(あたかも生物の進化のように)多様化しており、私も自転車とオートバイは別種だと感じます。

狼とフクロオオカミが別種であるように。

しかし、「足」と言う同根から誕生したのは明らかです。

<> sunsar<><>2008/06/02(月) 13:25:36 ID:<>まず,「ある概念に誕生したときの経緯しか関係しない」ということはないので,
誕生の経緯が概念に本質的であるかというと,そうとも限りません.

次に,バイクが移動手段にも使えるからといって,
「足の延長たる移動手段」であったのかというと,それは謎です.
一般に,足があるとかないとか言う言葉の使い方をする際には,
「足がない」という場合には移動不可能なことをさします.
もちろん,脚がある人間からすれば,本当に純粋な意味で移動不可能な訳ではなくて,
例えば時間に間に合わないとか,文脈に沿ったある種の制限上の意味で
「移動不可能」である,ということになります.
そうすると,この「足」の概念からすれば,たとえば飛行機が発明される前には,
アメリカと日本の間で「足がある」とか「足がない」とかいう概念は意味を成さなかった訳で,
「足」という概念の成立は「そうした移動手段が確立されることによって広げられる」
と考えることもできます.
将来的には,地球から火星の間の話でも「足がある」「足がない」などといわれるようになるのでしょう.

一般に,任意の移動方法を「移動手段」として抽象化することは可能ですが,
「任意の移動方法を抽象化してできた概念」を知っている人間は,
地球上にはただの一人もいないでしょう.
だって,ワープが実現するかどうかですら,今の人間には分からないのですから.

ところで,脚の機能を移動以外にも,たとえばキックに見出せば
サッカーをするロボは脚の進化系だと言うこともできます.
単純な生物の進化ですら「進化の系譜」を一意的に定めることができないのに,
生物のように「完全な」前後の繋がりがあるようなものではなく,
概念のように明確な因果関係を把握できないものについては,なおのこと,
AがBの進化したものである,と断定するのは非常に難しいでしょう.
付け加えておくと,バイクは,見方を変えれば蒸気機関の進化系であるとも言えますし,
当時の工学的技術力の帰結であるとも言えます.

したがって,「バイクの発明の一因としては足の進化という概念がある」とは言えるでしょうが,
>>263 で言われるように「明らか」だとはとても思えませんし,
このスレッドで展開されているバイク/ライダーについての解釈とはあまり関係がないと思います.

そもそも,バイクの発明経緯が本当に「足」,あるいはもっと緩く「移動手段」なのか,
というのも少し謎です.現在移動手段としても使われているからといって,
必ずしもそれが移動手段として開発されたことを意味するものではないでしょう.

もちろん,いろんな切り口から哲学とオートバイについて考えるのがスレッドの趣旨なので,
「足」という観点からオートバイについて語るのは,スレッドの趣旨からは特に外れているとは思いませんが.<> sunsar<><>2008/06/02(月) 13:27:45 ID:<>>もちろん,脚がある人間からすれば,本当に純粋な意味で移動不可能な訳ではなくて,
これは陸続きの場所を移動する際のことを想定しています.
逆に,陸続きでない場所の移動については,上に述べるようにそもそも
「足がある」「足がない」という概念の成立のしようがなかった訳です.<> 般若湯<><>2008/06/02(月) 16:13:37 ID:<>Σ(゜Δ゜*)<> sunsar<><>2008/06/02(月) 16:52:11 ID:<>ちなみに,少し意味が違いますが,>>264 で述べた「足」の概念についての話からも,
バイクで走る感覚が,飛行機で飛ぶ感覚に近いことを説明できたりもしますね.

また,バイクや飛行機の存在意義を,「それが役目を果たしているとき」にのみ求めるならば,
(物質的には常に存在していても)バイク(/飛行機)は走る(/飛ぶ)ときにのみ存在して,
走っていないときは(人間の足が実現不可能なことを達成する道具である以上)
人間の足のように定常的には存在しない,というのも,
「足の進化系にない」からこそあり得る解釈ですね.
バイクから離れてしまって申し訳ないですが,寝台列車やスペースシャトルなど
居住性が特に強調される移動手段については,あまり足という概念は当てはまらないような気もします.
そもそも,本当に「移動手段」なのかも微妙に謎ですね.


バイクの話に戻すと,僕の周囲には結構バイク乗りが居ますが,
そのごく一部のせいで,バイクといえば山にのぼって転んで遊んでいるイメージが強いですね.
この間も,朝,学校に行く前にどこぞの山へ出かけて遊んでいたようです.<> ふくろう<><>2008/06/02(月) 22:14:22 ID:<>>>262
質問なんですが、あなたの仰っている「Autobike」というのは、このスレのタイトルである「オートバイ(motorcycle)」のことではないのですか?
調べてみたのですが、よくわからないので、せっかくの
>着座席(椅子)の非活動〈運動)性、Handleの掌握という「執着」からの脱却の無理性が、
>哲学的思考を日常(物質的低俗精神)化させているのかもしれません。
というご意見が、何についてのものなのか、私にははっきりわかりません。
できれば説明していただけないでしょうか?m(_ _)m

>>263
>しかし、「足」と言う同根から誕生したのは明らかです。

で、オートバイというものにとって、その事実はどういう哲学的意味があるのでしょうか?

>>264
>もちろん,いろんな切り口から哲学とオートバイについて考えるのがスレッドの趣旨なので,
「足」という観点からオートバイについて語るのは,スレッドの趣旨からは特に外れているとは思いませんが.

そうですね。
私とは異なる般若湯さんの観点から哲学を語ってくださることを楽しみにしているんですよ^^
<> ふくろう<><>2008/06/02(月) 22:16:55 ID:<>>>264-265 、>>267
うーん、なかなか興味深い話です。
私は般若湯さんがおっしゃる「移動手段」ということについては、それに乗って移動することが不可能なオートバイがありえないという意味で、オートバイのいわば客観的本質をなすと思っていました。
したがって客観的観点から観る限り、オートバイの進化を空間移動の手段としての進化、という風に捉えるのも、まあそうかな、とも思っていたんです。
が、このsunsarさんの一連の見解を読むと、確かにそう単純ではないように気がしてきました。
まとまりませんが、触発されて考えたことを書いてみます。

>付け加えておくと,バイクは,見方を変えれば蒸気機関の進化系であるとも言えますし,
当時の工学的技術力の帰結であるとも言えます.

という指摘とも関連しますが、オートバイの進化を考えるとき、やはりある意味工学的技術の進化そのものを自己目的としたかのような進化、という側面はあるように思います。
メーカーはやはり技術屋ですから、工学的観点から優れたものを徹底的に追求する一種のテクノロジズムが多かれ少なかれあり、たぶん90年代のレーサーレプリカブームのときに、激しい性能競争の末、一度その限界までいったのではないか、と思われるのです。
つまり、ある意味公道で一般の人間が乗る乗り物(移動手段としても)をはるかに超えた性能をバイクが有してしまい、人間から遊離してしまったというか…
そこからかなりバイクの方向性は変化したように思います。

そのとき大雑把な言い方ですが、そのとき導かれた方向性のひとつは「感性に訴えるものとしてのバイク」というのをキーコンセプトにしたものであるように思います。
そしてその方向性へと導くモデルになったバイクがあります。
実はレーサーがものすごく人気になって、速くなければバイクではない、と言われた時代にも、どこ吹く風と、基本性能を変えることなく、ずっと造り続けられたバイクが、このスレでもよく話題になるSRというバイクです。
そしてもうひとつ、オフ車ではセローというバイク。
これらふたつのバイクはともに、ある意味技術的進化・移動手段としての進化を拒否したかのようなバイクなのです。
で、この二台のバイクはともに、ヤマハのバイクなんですね(以上以下、ご存知のことなら表現をご容赦m(_ _)m)。
<> ふくろう<><>2008/06/02(月) 22:19:45 ID:<>日本のバイクメーカーは、本田・鈴木・川崎・山葉さんがあり、それぞれものづくりの思想に特色があります。
この中で山葉さんが唯一元々楽器作りのメーカーであるということは、上に述べたことと無縁ではないように思われるのです。
すなわち豊かな感性的(芸術的)経験を創造するための道具を製造するということが、オートバイを造る上でも、山葉さんのものづくりの思想の根底にあるのではないか?
「感性的経験を創造するための道具」をメタファーとして「楽器」と呼ぶことにすると、山葉さんにとって、オートバイ製造もやはり、その目的は本来的に楽器造りであって、けして実用目的の移動手段としての乗り物を作ることではないのではないか?ということです。

私はオフ車に乗ったことがないので残念ながら自分のインプレをかけないのですが、sunsarさんの周囲のバイク乗りの方たちがお好きな、山で遊ぶのに最適なバイクのひとつがセローです。
似たようなバイク、移動手段として性能的に優れたバイクは次々に登場するものの、初心者からベテランまで、長年にわたって支持され続けています。
もちろん、セローも進化はしているのですが、その進化が単に移動手段としての進化を目指したものではないことだけは確かなように思われます。
先のメタファーで言えば、それは「楽器としての進化」を目指したものであるように思われるのです。
<> sunsar<><>2008/06/03(火) 01:01:42 ID:<>僕の周りは,まあいろいろです.CBの750に乗っている人も居れば,
SRから(単気筒の)某オフ車に乗り換えた人や,まさにYAMAHAのシェルパに乗っている人もいます.

YAMAHAはバイクだけじゃなくて,発動機関係でマリンでもいろいろとやっていたりして,
僕はどちらかというとそっちの方が縁が深いのですが,自動車だけはやってないですね.

周囲の反応から窺い知る雰囲気だと,移動手段を目的としない進化といえば,カワサキを想像します.
むしろアレはアレでまあ移動手段なのかもしれませんが^^


ふくろうさんも仰っているように,エンジンの振動に好みを見出したりとか,
もっと幅広くスタイルに好みを見出したりとかいうのは,
人間工学的な話に集約されてしまうのかもしれませんけど,
やっぱり「楽器」としての何かがあるんだろうなぁと思います.
特に,エンジンの振動は,まさに躍動というかリズムなので,純粋な意味でも楽器的だと思います.
クラッチのつなぎ方なんかも,ハーモニーと称されることがよくありますが,
それは音に見出す調和と共通するものがあるんだろうなぁと思ったりします.
まあ,僕はバイクには乗らないし乗れない素人なのですがf^^;<> sunsar<><>2008/06/03(火) 03:27:07 ID:<>>自動車
四輪と書くべきでした。失礼をば。
どうも僕はオートバイではなくバイクと言いたくなりますが、自動二輪なんですよね。
そのへんにも何かがあるんだろうな、とは思います。<> 般若湯<><>2008/06/03(火) 08:02:16 ID:<>話はそれるが、「楽器」も人体が元。
一定のリズムや振動を「快」と感じるのは、脈動(生物感)を感じるからだろう。

同様に、自転車よりオートバイに相棒感(生物感)を感じるのは、独自の振動(リズム)があるから。<> sunsar<><>2008/06/03(火) 10:25:50 ID:<>>ふくろうさんも仰っているように
ふくろうさんも仰っているような、ですね。

>>273
僕は道行く車からたまに響いているバスドラムその他の重低音を
そこまで不快だとは思いませんが、重低音を不快だという人は結構います。
脈動を感じると直ちに快、ということはないでしょう。
快の理由として、生物感を感じるから、というのは変な話で、それが例えば母胎の脈動に似ているとしても、
母胎の脈動を快と思わなければならない根本的な「理由」は
(生物学的な人体構造上にしか)存在しないと思われる以上、
理由として語るのは変な気がします。
もっとも、意味として語るのは正しいので、振動を脈動のように解釈している、
というのは正しいかな、と思いますけど。<> sunsar<><>2008/06/03(火) 11:19:00 ID:<>あ、快不快と関係なく、バイクが振動によって生物的である、ということには同意します。

ただ、僕は自転車でも割と「相棒」だと思います。
その一方で、同じ脈動するものでも、この間まで運転していた四輪を「相棒」と思うことはなかったです。
まあ、彼/彼女(←性別すら一定してない!)に愛着がなかった訳ではないですし、
小さい頃は、家の車が変わると聞いて泣いた事もあったので、
四輪に感情移入ができないという訳じゃないですが、
「相棒」には何かしらの条件があるように思われます。<> 般若湯<><>2008/06/03(火) 15:40:27 ID:<>>相棒の条件

(^▽^)つ「使用頻度」&「愛着」<> こりこり<><>2008/06/03(火) 15:43:08 ID:<>「相棒」に関しては、
バイクでも四輪でも自転車でも犬でもねこでも、
区別はないでしょうね。多分。。<> 般若湯<><>2008/06/03(火) 15:51:22 ID:<>>相棒の条件

(^▽^)つ「杉下右京」&「亀山薫」

<> ふくろう<><>2008/06/03(火) 19:55:52 ID:<>私なりに「あるものxが私にとって相棒である」ということが成立するための条件を簡単に考えると、次の二つの要素が不可欠であると思うのです。

? xが私にとって他の何物とも代替不可能な意味・価値をもつこと
? xが主体性(生命、意志)をもった存在として捉えられること

「道具」というのは、?の要件を充たすことがあり、そのとき感情移入もしますし、使用不可能になって処分するとき感謝の気持ちも抱いたりします。
どうも、この?の条件を充たすだけで「相棒」と感じる方がけっこういらっしゃるということのように思います。
しかし、私の場合、この代替不可能性=かけがえのなさを、そのまま相棒の条件とはみなせないんですね。
かけがえのない道具、かけがえのない相棒は考えられますが、
「私にとって道具である相棒」
というのは考えられません。換言すると、
xが私にとって相棒である限り、xを道具とみなすことはできない
ということ。
つまり、私にとって「相棒」であることと「道具」であることは互いに排他的なのです。

?を補足説明すると、
たとえば
xが自分の身体の一部である
とか、
xは自分の身体の延長である
と感じられる場合、それはあくまで道具であって、相棒とはみなせないと思うのです。
xを私の意志で操るのではなく、xが私の意志に応答してくれている感じ、とでも言えばいいかな…

バイクの雑誌に『ヤングマシン』というのがありますが、私はバイクを「マシン」というふうに捉えるのには抵抗を覚えます。
それはあくまで私が操るべき道具として捉える呼び名であると思われるからです。
もちろんそういうふうに捉える人がいるのは知っていますし、間違いというつもりもありませんが。
<> sunsar<><>2008/06/03(火) 20:14:57 ID:<>>>279
そうなんですよね.>>180-181 を読んでいても思ったのですが,
その辺僕は「日本人的」というか,八百万の神々ではないですけど,
より「無生物的な」(無機的な?)物に対しても,相棒だと思えたりします.
それは,僕が「自律性」じゃなくて,「反応性」で考えているからなのかなぁ,とも思います.

例えば自転車だと,両手を離して「まっすぐ」進もうとしたときに
どちらにどれぐらい進もうとする傾向があるとか,抵抗がどれぐらいあるかとか,
車体の傾きと曲がり具合とか,そういう「個性」があります.
これは,自転車自身が「自主的に動く」訳ではないにしても,独自の反応性があるということで,
それが「半主体性」というか,人格的な何かとして認識される,という気もします.
まあ,単純な愛着というのもありますけどね.

あとは,使いこなせているかというか,「相棒」の能力を引き出せているのか,
というのもある程度関係している気がします.
能力が引き出せていないときには,それを「相棒」と呼ぶのは憚られる気がします.<> ふくろう<><>2008/06/03(火) 20:23:59 ID:<>>>280
うん、その「反応性」は私も非常にわかる気がします。

<> sunsar<><>2008/06/03(火) 23:38:33 ID:<>ところで,オートバイというのは,何をする上での「相棒」なのでしょう?
まあ,生涯の伴侶という言い方もありますから,抽象的な「相棒」というのもあるとは思いますけど.<> sansur<><>2008/06/04(水) 05:54:34 ID:<>・・・<> ふくろう<><>2008/06/04(水) 08:56:06 ID:<>すみませんが、>>282 はちょっとおいて、「反応性」ということについてもう少しこだわってみたいと思います(反応性に意志を読み取ると「挙動性」かな)。
前に述べたことと、不整合をきたすかもしれませんが…

私はでxが相棒であることの条件として、xが主体である、ということを挙げましたが、これはむしろ「自律性」を意図するものじゃないんです。
だから表現としてはまずかったと思うんですが、むしろ「主体感」みたいなもので、もっと平たく言うと、「バイクの気持ち(を感じること)」です(笑)
一番顕著なのは、アクセルスロットルをひねったときに応えてくれる、その反応の仕方に、そのバイクの気持ちを感じるんですよね。
この場合、あんまり反応がよすぎてもかえって気持ちを感じないというか…
アクセルをひねっただけで、タイムラグもなくやすやすとモーターのようにスムーズにシュイーンとエンジンの回転数が上がり、あっというまに100キロ、みたいな感じだと、「マシン」って感じであんまり気持ちも何も感じにくいんですよ。
そうじゃなくて、たとえば私の最初の古いバイクなんかだと…
こちらが「よし、追い越すぞ」って気合をいれてガンガンと蹴り込むように一二段シフトダウンし(なくちゃいけない)、アクセルをぐいっとひねると、若干のタイムラグの後エンジン音がまず大きく「ズダダダダッ!」と吼えて、振動がハンドルバーを通して伝わり「わかりやしたっ!」って答えるわけです。
でもすぐにスピードが出るわけじゃなくて、「うおりゃ〜」みたいに吼えつつズガガガガッとエンジンの回転数が上がっていくんですが、気合の割りにパワー全開になるのは遅いんですよ(笑)。
ようやくアドレナリンが全身にゆきわたり力がみなぎってきたかなと思っていたらドッヒューンって感じで爆発的にスピードがでて、こっちの頭が後ろにおいていかれる感じなんです(絶対速度はたいしたことないんですけどね)。
車体も剛性がやわやわなんで全身が震える感じ、ヨーイングも発生するし高速道路なんか走るとミラーも振動で見えない、腕は白蝋病になる、みたいな感じ、おまえもうちょっとスムーズに走れないの?って言いたくはなるんですが、とにかく能力は低くても一生懸命こちらの気持ちに応えてくれるその気持ちが嬉しい!みたいな(笑)

どうもそういう観点から言うと、今のバイクは反応良すぎなんですよね。
ウィンカーでも今は操作と同時に点滅する感じでタイムラグがほとんどない。
もどすのもプッシュキャンセルで押すだけ。
でもたとえば馬相手だったら、手綱などで意志を伝えるでしょうから、抵抗感もタイムラグもあるはずで、右に進むなら右に、左にもどるなら戻すといった動作が必要でしょ?
ただボタン押すだけなんて、いかにもスイッチって感じであんまりよくないのです、私としては(笑)
一概に言ってしまうと、今のバイクは私にはクールすぎるんです(それがある意味逆に“自律性”“自己完結的”って感じもするんです)。
それはマシンぽさなんですよね。
でマシンとしての能力の低さは、必ずしもオートバイにとって欠点じゃなかったりすると、そう思うわけです。
たぶんハーレーが人気である理由のひとつに、こういった感覚があるのじゃないかと私は思っています。

ちょっと「反応性」もsunsarさんのおっしゃってる意味とずれてしまったかもしれませんが、でも、なんとなく伝わったかな(^_^;)
<> sunsar<><>2008/06/04(水) 11:16:55 ID:<>ふむふむ.「応答」とも言えますね.
相棒が自律的すぎると,確かに「逆の意味で」相棒ではなくなるのかもしれません.
もっとも,自律と従順は必ずしも一致しないので,
その辺はきちんと区別するべきなのかもしれませんが.
まあ,究極的には「相棒に求める態度の差が相棒と呼ぶに値するかどうかを決める」
ということになるのでしょうが,それだとあまり面白みがなくて,
やはり具体的にどういうものを相棒に求めるのかを考えると面白いですね.

僕は,たとえばオートマのバイクを見ていると,
「なんでお前はバイクなのにオートマなんだ」
といつも思ってしまいます.
フォルム的に,どうしてもおなかが膨らんでしまうのもありますが,
なんだかバイクとしての魅力に欠ける,と素人ながら勝手に判断してしまう訳で,
そう考えると反応/応答は重要なのだと思います.
今気がつきましたが,英語で言えばレスポンスですね.

オートマと言えば,前におじいさんがおばあさんを後ろに乗せて走っていたのを見かけたことがあって,
「あれならオートマのバイクでも許せるなぁ」なんて思ったのでした.
バイクに乗りもしない人間に勝手に「許され」るなんて,僕は何様なんだという気もしますが,
ああいう乗り方を考えると,オートマのバイクも素晴らしいと思いました.

二人でバイクに乗る場合,相棒の立場がなかなか難しいですね.
僕の友達に,自分のバイクを「姫」と呼んでいる奴がいて,
僕は彼の「姫」じゃないバイクにお世話になったことがあるのですが,
これがもし「姫」だったら,なにやらアレですね...

>こっちの頭が後ろにおいていかれる感じ
加速のGが大きい訳ですね.前述の750乗りの先輩が,
「強めに加速すると失神しそうになって,まだこいつを本気で乗りこなせてはいない」
というようなことを言っていたのを思い出します.
公道を走る性能をはるかに超えて,という話にも通じますが,
やっぱり「不必要」な能力を備えている,というのは間違いないですね.
四輪にしても,本来の目的に沿って,かつルールを守って走る限りでは,
180km/hなんて出さないしメーターも必要ないですからね.
にも関わらず,多くの普通四輪自動車のメーターの中央に100km/hがあるというのは,
ある意味では間違ってます.まあ,だからいいのですが.<> こりこり<><>2008/06/04(水) 15:52:43 ID:<>>>284
>ふくろうさん

ちょっと、反論。(ふくろうさんに『反論』なんて、無謀かもしれないけど^^)

>アクセルをひねっただけで、タイムラグもなくやすやすとモーターのようにスムーズにシュイーンとエンジンの回転数が上がり、あっというまに100キロ、みたいな感じだと、「マシン」って感じであんまり気持ちも何も感じにくいんですよ。

そんなことはありません。
「アクセル一ひねり、シュイーン〜〜」
これ。めちゃくちゃ気持ちいいんです。

なんとういうか、
「次元の違う世界をみせてくれる加速感」と言ったらいいのかな。

おいらは、そもそもSRを買うつもりでバイク屋に行き、
まずSRを試乗しました。
それなりの加速感、(等身大の、といった方がいい?)
アイドリング状態での、文字通り「しびれるような」振動。
高速で、80キロを超えると「もう勘弁してください」というようなエンジン音の悲鳴。

たしかに、そこには「人間的な」魅力が確かに存在します。

しかし、試乗のあと。
おいらはなぜか「即購入」に踏み切れませんでした。
迷っていました。
「いいんだけどなぁ・・でも、おいらの「今」求めているものなのかなぁ・・」
と思っていたのであります。

<> こりこり<><>2008/06/04(水) 16:02:19 ID:<>(続き)

考えていると、バイク屋の大将が
「じゃ、こっち乗ってみる?」
と言って、指差したのが

現在のおいらの「相棒」こと「XJR1300」

乗ってみました。
発進後、数十メートルでおいらは「即購入」を決めておりました。

『加速感』これがすべてでした。
「次元が違う!!」とおいらはXJRを走らせながら
「本当に」感動に包まれていたのであります。

「これだったら『飛べる!』」そんな感じでありましょうか。

現在まで約一年XJRに乗り続けました。
「飽きません」
ず〜〜っと、気持ちいいままであります。
照れずにいえば、
「大きな愛に包まれる感じ」のするバイクなのであります。
あんなに、とてつもない力を秘めているのに、
かれは、実にやさしくおおらかなものも併せ持つ、最高の「相棒」なのであります。<> sunsar<><>2008/06/04(水) 17:03:51 ID:<>反応がすぐ来るかどうか、という要素と、反応が大きいかどうか、という要素は
きちんと分けて考える必要がありそうですね。>>285 で触れた
>自律と従順は必ずしも一致しないので
ということとも関係してくるのだろうと思いますが。


即座に大きな応答を返すのがよいのか、ちょっとタメがありつつ応答が返ってくるのがよいのか、
あるいは少し違うところで、繊細な応答がよいのか、図太い応答がよいのか、
そういうのは、まさしく「好み」になるんでしょうね。
もう少し突っ込んで、なぜその「好み」なのかが説明できたとしたらもっと面白いですね。<> sunsar<><>2008/06/04(水) 20:27:30 ID:<>ところで、相棒そのものが代替不可能か、というと、また違ってくる気がします。
というのも、例えば野球のバッテリーを相棒と呼ぶ場合、例えばピッチャーは常に
同じキャッチャーでなければならないのかというと、そうではないです。
もちろん、相性とか「バッテリーとしての個性」というのはありますけど、
相棒が必ずしもその相棒でなければならないのかというと、なかなか難しいと思うのです。
例えば、相棒のボディーペイントを変えたとすると、
ボディーペイントが変わったぐらいでは相棒の本質は変わらないという人もいるでしょうし、
逆に違うボディーペイントの相棒は相棒だと認めたくない人もいるでしょう。
いまもし、相棒の本質を加速感や鼓動に求めるなら、臓器(エンジン)と固有振動数(大まかなボディー)が等しければ、
任意のバイクが相棒となり得ることを示す訳で、相棒の個性を具体的に示せば示すほど、
その個性を持った似て非なるバイクが相棒になることを示唆しているのではないか、と思ったりします。
実際、相棒は車種及びパーツで示されることが多いですが、
それは「表面的には」そっくり同じもので組み上げたバイクは相棒たりえることを意味するんじゃないか、と思ったりします。
バイクのアイデンティティーって何でしょうか?<> ふくろう<><>2008/06/04(水) 21:21:53 ID:<>>>289
むむ、sunsarさん、ちょっと待っててくださいねm(_ _)m。
レスが遅くなっちゃってすみません。
なんかいろいろ面白いから考えているんですが、なかなかまとまらなくて。

こりこりさんのレスも面白いので考えてみようと思ってますし、遅くなったらご容赦ください。
前のから投稿します。
だんだんまとまらなくなってきてます(笑)
<> ふくろう<><>2008/06/04(水) 21:23:19 ID:<>>>282
>ところで,オートバイというのは,何をする上での「相棒」なのでしょう?

という質問ですが、どんな答え方をすればよいか、ちょっと迷う質問ですねf^_^;
で、考えた結果、とりあえず単純に。
オートバイとは旅の相棒である。
オートバイを相棒としてする旅をツーリング=バイク旅という。
で、“バイク旅”とはこれまで考察してきた“オートバイに乗ること”とほぼ同等であると。
ですから、意味としてはこの「バイク旅」は事実的・客観的というより、抽象的で、日常世界の外にでること、世界の外から世界を眺めること…などを意味すると言ったほうがよいようにに思います。
よって、ふだん暮らしているよく知った街中を走っても、それは世界を外から眺めること、ということになります(実用目的の場合を除く)。
この「外」という表現はメタファー的というか元々抽象的な意味ですから、これを「上」と置換(解釈)しますと、世界を上から眺めること、ということになって、飛ぶことともつながるかと思います。
いわばいつも地面にへばりついて見ている街を、渡り鳥の目で観ること。
要は前にも少し言いましたが、バイク旅人(風・遊牧民・漂泊の詩人)になることは、世界を眺める視点・視座が変化することであり、世界との関係が変化して、それにより自己にとって(自己と共に)世界が意味変容するわけです。
<> ふくろう<><>2008/06/04(水) 21:25:22 ID:<>>>285
実は私、スクーターに偏見があって、そしてまさにこれは単なる偏見なんですが、ずっとこいつをオートバイと言ってよいのか、って思っていたんです(笑)。
ビッグ・スクーターに乗ったことがなくて、乗った人プロ・素人含めて意見を聞くと、感性的乗り物として私が思っている次元を既にはるかに超えているみたいなので、これは本当にたんなる偏見であると思っているんですが、一応その偏見の理由としては主にふたつ(もうひとつ、ある意味最大の理由がありますが、本質的でないので省略します)。
一つはオートマということ。
もうひとつは>>262 でも指摘されていましたが、「腰掛スタイル」なんです。
最近のビグスクはあんまり腰掛スタイルじゃない感じのも多いので、そういう意味でも一概に言えないのですが。

オートマでも、ひょっとすると「レスポンス」がより直接的に感じられるようなものに技術的に改良され、問題解消される、されている可能性があると思います。
乗車スタイルについては、要するに私の場合「バイクは跨るもの」というイメージがあるんですね。
これはバイク=鉄馬という発想で、飛行機という発想とは違ってくるようにも思うのですが、けっこう捨てがたいポイントなんですよ。
ニー・グリップをできるほうが人馬一体感が得られてより良いのですが、カブでも別に構わないので、たぶん「またがる」ならいいんじゃないかな、と思うんですよね。
実際に乗ったとき、どう感じるかは、けっこう楽しみだったりします。
<> ふくろう<><>2008/06/04(水) 21:27:22 ID:<>それとパワーの話ですが、純粋な意味で私がバイクにもとめる・必要とする絶対的速さなどぜんぜんたいしたものではないと思います。
ただ、現実的というか実際上の理由で、必要な速さとかパワーっていうのがある程度決まってくるんですね(ちょっと話はズレるかもしれませんが)。
たとえばsunsarさんの先輩さんのナナハンのパワーですが、タンデムで高速道路を使ったツーリングをするとすれば、400ccのバイクとは圧倒的違いがでてきます。
追越する場合、ナナハンなら楽にできても、車種にもよると思いますが、一般に400ccだとけっこう大変だったりします。余裕がないんです。
一人の時にはあまり差がでなくても、タンデムだと歴然とその違いがでるんですよ。
下道を走る場合でも、登り坂などで違いが出て、後ろに速い4輪などがいる場合、ナナハンならぜんぜん問題ないのですが、250ccや400cc(特に単気筒)などではけっこうしんどかったりします。
パワーの余裕が精神的にも物理的にも余裕となり、安全性につながりますので、タンデムすることの多い人などは、やはりナナハンレベルのパワーがあるほうがよいように私などは思います。
<> ふくろう<><>2008/06/04(水) 21:31:37 ID:<>>>288
そうですね、この問題は精確に表現することがけっこう難しいですね。

>あとは,使いこなせているかというか,「相棒」の能力を引き出せているのか,
というのもある程度関係している気がします.
能力が引き出せていないときには,それを「相棒」と呼ぶのは憚られる気がします.(>>280 )

というのとも関係すると思うんですけど、xを相棒と感じるためには、xもまたある種の不完全さをもった存在でなくちゃいけないような気がするんです。
xと私の関係において、xが常に正しいものであって、間違いは私のほうにある場合(たとえば運転ミス・操作ミス)、どうも相棒と呼びにくい気がします。
ライディングにおいて常に間違い・責任は自分にあって前提としてxに誤りがありえないと感じるとき、xはマシンと感じるのではないかと思うのですが…
つまり、悪いのは道具を使う人間であって、道具にはない、という感じかな…。

xは完璧、xに間違いはない、失敗は常に私のミスが原因、と感じるとき、xはいわば「コンピュータ(ロボット)みたい」って言うか、非人間的な感じが強いです。
で、これを一言で言うと、「他者性」の問題ではないかと思うのです。
つまり、言い換えると、あまりにxが完全であるということは、非人間的であり、それだけ他者性を感じないということ。
私が正しく要求することは完全に応え、間違った要求をしても時に補正してくれたり。
相棒と感じるということは、xに他者性を感じることであり、その為には、むしろxは不完全さをもった存在であると感じる、ということが必要ではないかと思うのです。
時に「もうダメです〜」とか弱音を吐いたりとか。
頑張りすぎてへたばったりとか。

ご存知かどうかわかりませんが、S.キューブリックの『2001年宇宙の旅』に宇宙船のメイン・コンピュータ「HAL」というのがでてきます。
宇宙船を完全に統御する人工知能的存在であり、HALは乗組員と喋ったりゲームしたりもするのですが、あるとき明らかな誤りが見つかります。
しかし乗組員がそれを言っても、HALはけして認めようとしないんです。
このとき初めて、ものすごくHALが「他者性」を帯びてくるわけです。

そういった意味で、不完全さというのは、相棒と感じる上でもひとつのポイントになるのじゃないかと思うのです。
ただこれはかなり個人的かもしれませんね〜(-.-;)。

う〜ん、このレス、特にまとまってません、ごめんなさいm(_ _)m。
たぶん、今日はここまで…って書きすぎ?(笑)
<> sunsar<><>2008/06/04(水) 22:08:06 ID:<>ふむふむ.というリアクションしかないのはアレですが.

>>290
もともと僕の質問がまとまっていないというか,wideという意味でも
難しいという意味でも話を広げる方向にあるので,まああまり気にせずに
意見を述べていただければ十分です(僕は).

>>291
車上,特に単車上という,特殊な「場所」から世界を眺めるという体験をする,ということですね.
(僕はバイクに乗らないので,具体的な体験を共有することはできませんが)
意味はよく分かります.
>>292 の,スクーターの話と関連して,スクーターの極端なもの,
例えばピザ屋さんの出前のアレを考えると,もはやクルマとほとんど変わらないわけで,
「跨るべき」バイクを通すことで特異というかそれに固有の体験が付随する,
というのは分かります.
もちろん,その体験がどれぐらい固有の色を帯びているのかということは,
実際にバイクに乗らなければ分からないでしょうけど.

>>293 は,素人からすると,なるほどなぁ,という感じです.
加速した状態から追い越しのための加速を,というのはあんまり考えたことがなかったです.
坂道については,近所に比較的有名な山道があって,
50ccと400ccの間に絶大な壁があることはよく分かっているんですが,
100ccそこそこの原付二種でも結構な加速性能があったりして,
400ccと750ccの間の坂道でのパワー差についてはあんまり実感がなかったです.
オフ車の排気量も,前述の奴らは250ccぐらいでいつも山で遊んでいるので,
坂道で違いを感じるとはあんまり思っていませんでした.
まあ,やっぱり差があるものなんですね.
…などと,素人丸出しの話をここでするのはかなり恐縮ですが.

>>294
よく分かります.
たとえば人間のタッグであっても,片方が完璧でもう片方が下手だったりすると,
あんまり「相棒」というか「ペア」という感じで解釈することができない場面もありそうです.<> ふくろう<><>2008/06/05(木) 09:20:26 ID:<>>>286-287
こりこりさん、反論ありがとうございます。
たまには、こういう違いがあって詰めてみるのもいいですよね。
以下、ふたつの観点から述べてみたいと思います。
その後の方(次のレス)で、いわば哲学的観点からあえてこりこりさんのお考えを批判する考えを提示しますが、その前にこのレスでは、現実的観点から述べたいと思います。

現実的観点から言うと、要は私とこりこりさんとのライダーとしての力量がかなり影響しているように思うのです。
私の場合正直へなちょこライダーなので、高性能バイクはすぐに私の限界を超えちゃうんです(笑)
前に某高性能バイクに試乗したとき、ほんとにアクセルひとひねり、ヒュイーンといってあっと言う間に7,80キロに達してしまい、びっくりしました。
速さにびっくりしたと言うより、そんなに速くないと思ったのにもかかわらず、メーターを見たら自分が実感していた速度感よりはるかに速度が出ていたことにびっくりしたのです。
で、これはやばい、いってしまう、と思ったんですね(笑)

バイクには最高出力や最大トルクのピークとなるエンジンの回転数ってのがあって、もっともそのバイクを運転していて気持ちよく感じる速度域とか、回転数みたいなのがある程度ありますよね。
そこに達していないとバイク自身が欲求不満になって要求してくるというか…そんな感じがするんですよ。
高性能バイクの場合、バイクの限界と、私の限界がぜんぜん一致していないんですね。
すると知らぬ間に自分の限界を超えた速度域まで絶対いってしまう気がしたのです。
言うまでもなくライダーの力量は各人によって違うわけですから、同じヒュイーンでも、ライダーの能力によってその意味がぜんぜん違うと思うのです。
こりこりさんにとっては気持ちよく、それが「大きな愛に包まれる感じ」をもたらすのであり、
私にとっては、気持ちよく、それが逆に「ものすごくやばい感じ」をもたらすわけです。
その意味で、バイク選びをするときは、やはり自分に合ったものを選ぶ(私の場合、分を弁える)ことが重要ですね。


さて、次のレスでは哲学的見地から、こりこりさんの>>286-287 における私への反論に対して反批判します。
前もって言っておくと、大雑把なイメージとしては、キルケゴールによるヘーゲル哲学批判、ニーチェによる西欧キリスト教批判に少し通じるものがあると思います(まあ、これだけでは何のこっちゃわからないと思いますが、参考まで)。
<> ふくろう<><>2008/06/05(木) 09:24:18 ID:<>哲学もバイクも、私にとって本質的に危険なもの、「やばい」ものです。
それらはともに日常世界の外からの視点で世界を眺めることです。
哲学的な世界の根本前提の批判は、同時に自己の根本前提の批判でもあるから「やばい」のです。
その視点はメタ視点とも言えます。
そしてそのメタの位置に立つことは、本来とてつもなくやばいことであり、その「やばさ」を感じさせない、あるいは忘れさせる哲学やオートバイは、どこか嘘なのではないか?と思ってしまうわけです。
いやむしろ哲学やバイクそのものはものすごくその危険性を有しており、それがまた魅力でもあるのに、自分がそれに関わるとき、けしてその危険性には触れることがないような関わり方は、嘘なんじゃないか?

100キロの速さというのは、間違いなく死と隣り合わせの世界の存在様態です。
それは存在と無、生と死の境界・限界に身をおくことです。
そのとき不安を意識しているのがいわば「正しい」のであって、「大きな愛に包まれている」と感じているとしたら、それは幻想・幻覚であり、「間違っている」のではないか?(失礼)
あるいはその愛というのは、自分の代わりに死と向き合い、その限界をつきつめてくれた誰かの愛であって、自分はその誰かのおかげでやばさを経験することなく気持ちよくいられるのではないか?
それは哲学に比されるべきものではなく、むしろ宗教・信仰に比されるべきものではないのか?

どうも「嘘」と「宗教」を等置しているようでまずいんですが、私はけして信仰を否定しようというのではありません。
なんというか、信仰=哲学は存在しない、信仰的癒しの得られる哲学が存在するように思えたらそれは間違いじゃないか、それは哲学ではなく宗教ではって感じかな…。

哲学のメタ視点、超越論的視点は世界の外からの視点という意味で宗教と共通します。
しかし、哲学はあくまで限界に踏みとどまるものであって、完全に出てしまうもの…いわば世界を超越するもの…ではありません(超越論的視点と超越的視点の違い)。
飛ぶことであっても、あくまで地上を飛ぶことであって空中を飛ぶことではない、と言ったらよいかな。

つまり私にとって哲学もバイクも、自己と世界の限界を、“自ら”見つめようと(凝視)することであって、ある種死の匂いを含んだ興奮(ハイな状態)をもたらしますが、けして「大きな愛に包まれる気持ちよさ」を味わうことではないのです。

したがってその私の目的のためには、リッターバイクの異次元へと誘うような加速感は必要ありません。
私にとってその異次元は「宗教的次元」であるように思われます。
私の目的にとって必要な速さは、条件さえそろえば物理的には原付でも十分可能であると思うのです。
<> こりこり<><>2008/06/05(木) 10:09:24 ID:<>今朝、再び外出許可をいただき、市電でターミナル駅にでて、
そこからタクシーで会社にいってきました。
同僚や上司に挨拶を終え、地下の駐輪場へ。
そこには一週間「主」の帰りを待っていた「ズーマー」が居りました。

松葉杖をズーマーの荷台に載せ、またがってからスタンドをはずし、
セルをまわすと、ズーマーはけなげに一発でお目覚め。
そのまま走って帰宅してきました。

帰ってくる間、おいらは、ズーマーに「語りかけて」おりました^^
かれは何もいわず「身障者」であるおいらをちゃんと家まで送リ届けてくれました。
エンジンを切ったあと、
おいらは「おまえはえらいねぇ。」とつぶやいておりました。

どうやらかれはまさしくおいらの「足代わり」、
『足』になってくれそうです。

ズーマーは原付バイク。パワーはたかだか4馬力ちょっと。
最高速50キロ。
でも、走っていて「とても気持ちよかった」
XJRの「気持ちよさ」とはまったく次元は違っていてもね^^

ズーマーもまた「よき相棒」なのでありました。


<> こりこり<><>2008/06/05(木) 10:29:43 ID:<>おいらがXJRにもとめているのは、
『限界』ではないのであります。『限界を超えるための力』なのであります。

喩えていうとなんだろう?

宇宙空間に飛び出すためには
地球のもつ重力から脱出するのに必要な『加速度』を得なければならない。
通常の飛行機のパワーではそれは不可能であります。
ロケットのパワーが必要。

XJRにはそのパワーを感じたわけであります。
しかしながら、
XJRは、通常の使用速度領域においても、おいらを気持ちよくつつんでくれる、その意味で「大きな愛を感じた」のであります。

思考を大気圏外に運ぶ力と、通常の飛行領域を穏やかに飛ぶ力、
XJRは、その双方を併せ持つオートバイなのであります。<> きりんぐらす<><>2008/06/05(木) 12:22:17 ID:<>皆様、話を分断してしまうようなレスかも知れませんが、どうか私の、ここのレスで思ったことの発言、ご了承願いたくm(__)m
私は理論を述べたり証明したりするのが下手なんで、上手く表現できないかも知れないが…


先ほど幾つかのレスを見てて、成る程と思ったのは400ccと750cc、いわば中型クラスと大型クラスの排気量やパワー差等を議論されてて、これらは私が想像する以上に人によっては感じ方が千差万別に近いのかなぁ〜と思った次第です。


私のバイク仲間では400と750とを比べるよりも600と1000を比べる事が多く、やはり高回転域で伸びやコーナーからの立ち上がりが云々と議論したりします……が、これらのパワー差を実感するにはサーキットのような場所でないと公道では危険極まりないものでもあります。その前に私はそこまで限界まで性能を引き出すテクがありませんが(^^;)


400と750の差に関しては、下手すれば機種によっては400の方が速い場合があります。残念ながら今の750は一世代前に近い性能のモノが多く、400の方が最先端の性能を持ち合わせてたりします。また重量差やバイクの使い分けを限定せずに上手く利用したりする=例えば400のオフ車を公道で走らせると高速道路以外では750を余裕でブチ抜いたりするなど。


今私が乗ってるのは250cc単気筒のオフロード向けのセローですが、実は同じ排気量で単気筒のオフロードバイクでもパワーやバランスが全然違うバイクが存在し(WR250やXR250、2stモデルなど)山道の登り坂で一緒に走っても勝負にならないくらい速いくらいです。


でも満足度では今のセローで満足してるつもりです。何故ならパワーのあるバイクだとノンビリ走らせると却ってエンジンに悪影響及ぼしてしまい、私の指向に反する走りを常にしなければならない=常に後ろから推されてるような走り方みたいになってしまうからです。私はこんな走り方では緊張と疲労ばかりが続く&追われるだけの虚しい走り方だと思ってます。


え〜と支離滅裂な中身のように見えたかも知れませんが、皆さんはどう思われたでしょうか?<> ふくろう<><>2008/06/05(木) 12:50:59 ID:<>>>299
>宇宙空間に飛び出すためには
>地球のもつ重力から脱出するのに必要な『加速度』を得なければならない。

この比喩に沿って私にとってのオートバイを喩えると、「人工衛星」になると思います。
人工衛星が地球の周囲を飛び続けること
= 地球から離脱し続けること/地球に落下し続けること
∽ 蝋燭の炎が燃え続けること/蝋燭の炎が消え続けること
∽ 私が生き(有化し)続けること/私が死に(無化し)続けること

ところで、どちらが正しいとかはどうでもよく(と言ってしまうと言いすぎかもしれませんがf^_^;)、この違いは面白いですね。
ようやく違いが鮮明になってきたように思います。

前から混乱があることからもわかるように、私もこりこりさんの仰るオートバイを求める気持ちがないわけではないと思います。
しかしたぶん、本質的に私はロケット派ではなく、人工衛星派なのだろうという気はします。
こりこりさんがロケット派なのは、宗教的というより、芸術的だからなのかもしれません。
<> きりんぐらす<><>2008/06/05(木) 12:51:31 ID:<>連レスすみません。追伸かねて……


私が過去に試乗したバイクの中には時速200kmを軽く越える事が出来るバイクがありまして私も専用コースで試乗してみたらあっという間に200kmに達してしまいそのあと減速する為のブレーキかけるのに距離があまりなくてビビりまくりでした。あの時の恐怖の緊張感は今でも忘れられません。


その後の試乗会では同じパニックになった方がシフトミス(多分ギア落としすぎか?)でひっくり返ったりしてました(空中でバイクとライダーが3回転してたくらい…)。いかに時速200kmオーバーからの減速ってのが難しいってのがよく分からされたような気がします


なのにメーカーは平気でそんなハイパワーなバイクを毎年新型を発表したりして作り続ける。それ故にライダーもそれらのパワーをフルに活用しようとする者も出てくる。私のバイク仲間には最高速チャレンジ=時速300km台に挑む方もいるくらい。


果たしてこんなパワーはいるであろうか?人の趣味=バイク版の嗜好性だから云々と言われるかも知れないが、ここまで来るとレース以外でこんなことをするのは危険行為かつ自殺行為な趣味かと。極端に言えば、薬物に手を出して自分を麻痺させるのと何ら変わりがないのではとさえ思わせる。


それから比べると日本でも人気のハーレーはあんな排気量=1300cc前後=もあるのにパワーの数値は下手すりゃ400cc並みに近く平均速度もノーマルだとそれらに近いとも聞く(バイクを押し出すトルク感は400の何倍もあるが)でも、これがある意味、理想的なバイクではなかろうか。最高速やコーナー云々よりも何事もイージーでいこうというコンセプトが。


私もたぶん、年齢が50〜60代になるころにはハーレーか、それに近いアメリカンに乗ってノンビリと田舎の道を走らせたいものだと思っている


追伸のつもりが長すぎた!あと一部が自己満足のスレでバイク糧の話題になってしまった〜( ̄○ ̄;)

<> sunsar<><>2008/06/05(木) 14:48:54 ID:<>僕の素人的なバイクに関する認識は,「極端に言えば」
>薬物に手を出して自分を麻痺させるのと何ら変わりがないのではとさえ思わせる。
に近くて,全体的に>>300 ,>>302 に通じる感じだなぁと思います.
少々失礼な言い方になるのかもしれませんが,バイク自体,「必要性」で考えるならば,
それこそピザの出前やバイク便みたいな運送的業務の一部でしか必要ではないんじゃないか,
という気さえします.
その意味で,僕はバイクというのは基本的に娯楽の一手段だと思っていて,
娯楽の手段の割にはやや危険性が高めかな,という認識です.

で,排気量が分かりやすかったので排気量を「適当に」物差しとして使ったんですが,
排気量に限らず「常識的な走行」をする限りでは,多くのバイクは
基本的にオーバースペックなんじゃないかなぁと思っていたりします.
まあでも,それは思っているだけで,特に定量的な根拠がある訳でもなくて,
実際例えば高速で加速することを考えるとエンジンはよいほうがいいのかー,とか思ったのでした.

そう考えると,やはりバイクというのは基本的に「非日常」を求めるための道具の一つ,
もっと言えば「非日常の世界へ旅立つための相棒」なんじゃないかな,と思ったりします.


アメリカンは,アメリカほどだだっ広いストレートが続かない日本には
ちょっと不向きなのかな,という気もします.
日本で田舎に行くと山が多いので,そういう意味でも.<> sansur<><>2008/06/05(木) 17:07:56 ID:<>>>バイクというのは基本的に「非日常」を求めるための道具の一つ,
もっと言えば「非日常の世界へ旅立つための相棒」

車でも同じように言える気がします。バイクに特定しての主張とするなら、車には代弁できない「非日常」の根拠を述べられたほうが、よろしいかと思われます。<> sunsar<><>2008/06/05(木) 17:16:17 ID:<>>>304
たとえば>>292 <> sansur<><>2008/06/05(木) 17:45:05 ID:<>>>305
ふくろうさんの例は、車には無い感覚としては納得できます。ただそこには、非日常を求める道具という表現は、ちょっと飛躍的にも感じますよ。バイクにまたがる、という感覚が、非日常を求める道具、と直結するのか。極めて主観的な表現ですね。<> sunsar<><>2008/06/05(木) 17:57:17 ID:<>>>306
>>291 <> ふくろう<><>2008/06/05(木) 18:00:44 ID:<>>>302
きりんぐらすさんのおっしゃったこと、簡単に答えにくいですねー(^。^;)
アンビヴァレントな感情があります。

まあどちらかと言うと、現実的立場に立って言うと…
隼という最高時速300kmを超えるバイクがあります(きりんぐらすさんは、もちろんよくご存知ですが)。
世界最速をめざして造られたバイクだと思います。
でね、これが市販車なんですが、公道で、普通の人間が隼の存在意義を十分に発揮したら…
ほぼ間違いなく死にますね(笑)
非日常の世界への相棒というより、
「あの世への道連れ」
になってしまうでしょう(笑)
違反うんぬんはともかくとしても、これってどうなの?みたいな感じはなきにしもあらずなんですね。
きりんぐらすさんの仰っているのも、こういったところにもあるんじゃないかと思うわけです。

でもね〜、そう簡単に割り切れないんですね〜(^。^;)。
日本にCBナナハンが出て世界最速を達成してから、Z1やニンジャなど、世界最速を誇ってきた日本のオートバイの栄光の一台が隼って気もするんですねえ。
どうも讃えてしまう自分がいるわけです(笑)
<> sunsar<><>2008/06/05(木) 18:25:20 ID:<>技術者・製作者・その他それらに準じる立場の人たちにとっては,
常識的な走行を目的としないバイクであっても,技術的挑戦として有意義なのは間違いないと思います.
そして,最高速への挑戦を「普通の人」がするとあれば,それはやっぱり自殺行為的だと思いますし,
「普通の人」でなくても,やはり死につながる確率は十分にある訳で,その意味では自殺行為的です.
ただ,たとえばその挑戦者が「俺はバイクに乗ってしか輝けない」みたいな生き方をしているのであれば,
その挑戦というのは直ちにその人の存在意義であって,それこそ「自分が自分であるために」,
「生きるために」バイクに乗ることになります.
>>301 に通じる話なのだとも思いますが.<> sunsar<><>2008/06/05(木) 19:34:32 ID:<>>>303 の
>そう考えると,やはりバイクというのは基本的に「非日常」を求めるための道具の一つ,
>もっと言えば「非日常の世界へ旅立つための相棒」なんじゃないかな,と思ったりします.
は,なんだか場所が変ですね.後から文章挿入すると,いつもこうなるんです...すみません.<> 山桜<><>2008/06/05(木) 19:43:07 ID:<> 面白い話しだね。バイクを非日常の相棒とする主張は。あくまでも主観的な話しだが、バイクを愛する人間の主体性を哲学する点においては、これもメタファー思考による哲学と言っていい。

ただ一つ気になるのは、バイクにまたがって走るときの「非日常」という言葉が「日常」と区別される根拠が、極めて弱い、という点だ。

<> ふくろう<><>2008/06/05(木) 20:01:49 ID:<>>>309
そうですね。
ふと思ったのですが、山好きの人にも山旅をする人と、いわゆる頂上をアタックする人がいますよね。

バイクでも限界にアタックすることに自己の生の輝きを見出す人は、私の考えるバイク旅人ではないのかもしれません。
<> ふくろう<><>2008/06/05(木) 22:19:45 ID:<>sunsarさん。

話はちょっとはずれますが、
新たな数学的真理を求める数学者の営みというのは、やはり、思考の限界、世界の限界を超えていこうとする意志に基づくものなのでしょうか?
<> 山桜<><>2008/06/05(木) 22:40:51 ID:<>横レス失礼

数学者の真理に対する思考とは、限界が何か、何処にあるかを見極めようとするのかも知れません。あらゆる定義の自明さから、いわば原則から、具象的な事例をもとに、一般的な命題を導き出す。だが実は、その一般的命題を得る過程において、経験や実験に依らない一般的命題がある程度予測され抽象されている、と考えられる。

ならば、その一般的命題の真偽を図る思惟というものが、ある論理という制約に寄ってなされるならば、そこに繰り広げられる思考の営みとは、限界を超えようとするものではなく、むしろ、命題の真偽についての限界を見極めようとする働きに、成らざるを得ないであろう、と思われます。<> sunsar<><>2008/06/05(木) 23:09:23 ID:<>>>313
http://philosophy.bbs.thebbs.jp/1200308058/193 に書き込みましたので,そちらをご覧くださいm(_ _)m

>>312 とも関連しますけど,バイクでどこを走るか,というのも重要な要素ですね.
たとえば田舎の田んぼが並んでいる横を走るのか,
山奥の細い道をオフ車で突き進むのか,高速道で突っ走るのか,
峠を攻めるのか,…などなど.<> こりこり<><>2008/06/06(金) 13:59:04 ID:<>「オートバイに乗るという行為自体が非日常的なこと」なのではありません。
オートバイに乗ることが『非日常的な行為』になるのは、
「オートバイに乗ることで『日常のなかに隠れていた非日常的なるものが炙り出されて来る』から、
それが非日常的な行為となる」ということなのではないか、
という気がします。
つまり、行為のみでは日常性から離れることはできない。
そこに「思考」が伴ってはじめて現れる現象なのではないか、ということであります。

おいらは「日常的に」バイクにのる立場の人間なので、
それはよくわかるのです。

<> sunsar<><>2008/06/06(金) 15:57:22 ID:<>まああんまり言葉遊びに興じたいとは思わないのですが、ただバイクに乗っかった場合、
それはバイクに乗ると言うのでしょうか?
「自立」を要求する程度に「乗る」なら、そこにはもう何らかの意図があるのではないか、
という気がします。<> ふくろう<><>2008/06/06(金) 17:53:50 ID:<>>>315
一般にどこを走るのが好きかということはちょっと措いて、
目下の問題と関係する形で考えると、
私の場合、サーキットや峠で攻めるような走りにはまったく関心がないんですよね。
だからレースにも全然興味なし。
純粋にライディング・テクニック上達のためのトレーニングのようなものなら別ですけど。
林道は本当は走りたいけど、ただ現実的諸事情によって無理なだけ。
だからやっぱり完全に私にとっては旅の相棒なんですよね、オートバイは。

でもレースに否定的感情などはまったくなく、むしろ、バイク雑誌でよく見かけるので自然と知っていたレーサーが亡くなったというニュースを知ると、自分でも不思議なくらい悲しく、残念な気持ちになります。
そういったことを考えると、人工衛星も地球の引力圏を離脱してしまわないけれども、元々ロケット(世界の外へでようとする存在)であることに変わりはない、っていうことなのかもしれません。

でもこれって仲間意識なんだろうか…だとすると前言ったことと矛盾するなあ(笑)
<> ふくろう<><>2008/06/06(金) 18:21:38 ID:<>>>304 、>>306 、>>311
元々私の考えに対する批判であるにもかかわらず、sunsarさんやこりこりさんにお手数かけて申し訳ないので、一応レスします。

とにかくまず言いたいことは、私の考えをちゃんと読んでから批判して欲しいということです。
http://philosophy.bbs.thebbs.jp/1204969528/96-97
>>48-49
に、バイクのもつ非日常性に関する私の考えは、詳しく書いています。
これらを読んだ上で、なお批判があるなら、具体的に指摘してください。
どうも読んだ上での批判と思われません。

またこれと関連して、哲学とオートバイの関係については次を読んでください。
>>251-255
それと
>>110 -
以降で、オートバイというものの主観的本質について、主にこりこりさんと私が対話しながら考察しています。
またこのスレでの考察の方法論については簡単に>>148-149 で説明しています。

もし真剣に対話に加わる気がおありなら、最低でもこれくらいはちゃんと読んだ上でのことにしてください。
<> 山桜<><>2008/06/06(金) 21:36:14 ID:<>>>319
別に反論している訳ではなく、貴方の意見に私の感想をレスしたに過ぎない。貴方の意見が面白いと思ったから、その面白さに敬意を表して、意見を述べさせていただいただけ。貴方と議論する力はないので、スルーしていただいて結構。(笑)

<> ふくろう<><>2008/06/07(土) 00:30:26 ID:<>ここで突然ですが、私がバイク乗りになるきっかけとなった経験のひとつについて書いてみます。

当然話はまだ私が中型二輪免許を取る少し前のことです。
実はその頃、私は哲学青年にありがちなニヒリズムに陥り、気がついたら若干離人症の症状に似た精神状態にありました。
つまりあるとき気づいたら自分が長い間まったく感動するということがなくなっていることに気づいたんです。
目に見える世界は何かガラス越しのようで、手で触れてもすべてが遠くにしか感じられず、実感をもって直接世界に触ることができなくなってしまったようでした。
そのとき思ったのは、自分の世界には色がない、灰色だということでした。
もちろん色覚異常ではなく、世界から情というか意味というかが失われてしまい、無味乾燥そのものになっていたんです。
でも症状としてはまだ軽かったんだろうと思います、というのも自分で「これはまずい」と思ったんですよ(笑)
まあみなさんにはどうでもよい、そんな頃の話です。

で、私をバイクの世界に引きずり込んだ親友がいます。
その友人のバイクの後ろに乗せられて、ツーリングによく行くようになった、そんなある年の春、4月終わり頃のことです。

ある上りの長い山道をずっと快走し続け、山の頂上近くでトンネルがありました。
そのトンネルを抜けると頂上にでるわけです。
確かそこそこ長いトンネルだったように記憶していますが、定かではありません。
とにかく言えるのは、川端康成の『雪国』ではありませんが、そのトンネルに入る前の世界と、出た後の世界はまったくの別世界だったということです。
つまり、延々と続く上り坂を登りきり、その頂上付近の長いトンネルを抜けると、
そこは…もの凄い桜吹雪の世界でした。
<> ふくろう<><>2008/06/07(土) 00:34:51 ID:<>先に書いたように4月の終わり頃だったので、下界ではもうとっくに桜の時期は過ぎ、終わっていました。
坂道をあがってくる途中も桜は見かけた記憶がありません。
ですからまったく予想すらしていませんでした。
今となってはいったいどれくらいの本数の樹があったのかわかりませんが、トンネルを出てからの頂上付近、しばらくずっと桜並木が続いていたわけです。
そしてそこはトンネルに入る前とはまったくの異世界だったのです。

その日はいわゆる花曇の灰色の空だったのですが、風に花びらが舞う、というようなレベルではなく、さえぎるもののない山の頂上で風が強く吹いたのでしょう、まさしく桜吹雪というしかないものすごい桜の花びらが、ざーっと降りしきっており、そこにバイクが突っ込んだのです。
どんよりとした灰色の空を背景に、ちょうど雲の切れ間から日の光が差し、その何万何千とも思われる桜の花びらが浮き立つように乱舞しており、それは美しい光景というより、むしろ妖しい幻想的世界そのものでした。

後で考えると不思議なことに、ふつうならそんな光景に出くわせば、必ず停まって桜見物、ということになったはずです。
しかし、友人はバイクを止めるどころか速度を遅くすることもなく、その桜吹雪の中を疾走、駆け抜けて行きました。
私はタンデムシートでその幻想的世界に包まれながら、梶井基次郎の「桜の樹の下には死体が埋まっている」という詩を思い出していました。
確かにその世界には死の匂いが立ち込めているように感じられたのです。
<> ふくろう<><>2008/06/07(土) 00:36:57 ID:<>私にとってこの経験が重要なのは、その光景に色があったからです。
つまり、私の世界は、降りしきる桜吹雪の中で、なぜだか急に色を取り戻し始めたのでした。
結局その友人のバイクの後ろに乗ってしたそのツーリングが私にとって非常に大きく、その桜吹雪の後も、風景に感動している自分に感動したという、私にとっては笑えない笑い話がありました。
その前に、原付に乗っていたということも大きなポイントではありますが、このツーリングがきっかけになって、ものすごくめんどくさがりやの私が中型免許を取る気になった、ということは間違いありません。
そして私の世界に色が戻ってきたことも。

ところでこの話には少しおまけがあります。
それから何年かして、その親友と、かのツーリングの話になったのです。
私はふと思い出して、なぜお前、あのとき停まらなかったんだ、と訊いてみました。
そうすると変な話、「なんで」って顔をして、友人はその質問の意図がわからないんですね。
それで「いや、あんなに桜が咲いてるわけだから、ふつうなら停まって花見でもしようと思うだろ」って言うと、ようやく意図は理解したのですが、しばらく考えて「不快だった」って言うんです。
おかしなこという奴だなと思って、どういうことか問い詰めていくと、要するに私と同じ、ものすごく死の雰囲気を感じて、むしろ一刻も早くここから抜け出さないと、と思ってけっこう必死だった、みたいなことを言うんです、停まるなんてとんでもないって(笑)。
<> ふくろう<><>2008/06/07(土) 00:39:41 ID:<>話は以上です。
どうでしょう。
楽しんでいただけましたか?
私の話はどうしても硬くなりがちなので、たまにはこんなふうにちょっと文学的に語ってみるのもかえってわかりやすいかなと思って書いてみました。
おわかりいただけるのではないかと思いますが、このスレで私がオートバイについて語ってきた考察の原点もまた、この経験の中に既にけっこうあるように思うのです。
私のオートバイの世界の原イメージと言えるかもしれません。
桜吹雪と死とオートバイ。
<> ふくろう<><>2008/06/07(土) 00:56:42 ID:<>>>321
う〜ん、文学的才能ないなあ(^。^;)

訂正します。
>つまりあるとき気づいたら自分が長い間まったく感動するということがなくなっていることに気づいたんです。

>つまりあるとき気づいたら自分は長い間まったく感動するということがなくなっていたんです。

他は目をつぶってくださいm(_ _)m
<> こりこり<><>2008/06/07(土) 01:11:48 ID:<>>ふくろうさん とても興味深く読みました。 おいらにも同様な経験がありますね。 おいらも長い間、鬱に苦しんだ期間がありました。 だからよくわかるんです。<> sunsar<><>2008/06/07(土) 01:50:35 ID:<>>>326
他人を騙るのは楽しいですか?

>>321-325
いろんな出会い方というか,契機があるものですね.
僕が人生でバイク(の後ろ)に乗ったのは5回ぐらいで,
そういう「派手」な経験がある訳ではないですが,
実感ではなく印象として,死の近くにいる,というのはあります.
それが,バイクの魅力に惹かれる人が全体的にそういうことを好むことによるのか,
それともバイクが本質的に死の近くにいることをライダーに要求するからなのか,
というのは謎ですが.

>>316 とも関係して,乗り手が意図的に死に近い世界を見ようとしなければ,
バイクに乗り続けても特に何も感じないままで人生を終える場合もあるのかもしれません.

桜のお化け,とでも言うか,桜って怖いことがたまーにあります.
近くに寄ってよく見つめてみると,実は不気味というのもありますし,
桃というよりずっと白い花びらが散っていく景色は,
ほかの植物ではあまり類を見ない気がします.


そういう景色に触れたとき,車や電車だと,空間として切り取られているように感じるのに対して,
生身だと連れて行かれそうな感覚にはなりますね.
バイクでその場を走り去るのは,黄泉比良坂を振り向かずに走り去るのに近い気がします^^


何だか,思ったことを列挙しているだけで,まとまりがないですね...
まあ,いつものことの様な気もしますが.<> こりこり<><>2008/06/07(土) 03:59:30 ID:<>>327 >sunsarさん >他人を騙るのは楽しいですか? 誤解であります。 今入院中なので、携帯から書き込みを しています。クリプトがパソコンで書き込む時と異なったふうに表示されてしまうので省略しております。 明日、パソコンから書き込みます。 (誤解されてしまうようにしたおいらが悪い) sunsarさん。 申し訳ありませんでした。<> sunsar<><>2008/06/07(土) 05:59:54 ID:<>あ、ほんとっぽい。
これは大変な失礼をm(_ _)m
自重します。。。<> 山桜<><>2008/06/07(土) 07:04:47 ID:<>独り言をば失礼(爆)

ふくろうさんの体験談は実に面白かった。その体験から、バイクを非日常としたのなら、それは立派な貴方のなかの『非日常』だったんだね。そこからバイクの非日常を云々するのも、また哲学だと思う。

ふくろうさんは哲学の輪郭ばかりを語ろうとする今のスタイルより、文学的な邂逅から哲学にアプローチするスタイルの方が、貴方自身のために、いいかも知れない。貴方に西洋哲学・分析哲学は向いていない・・・ていうか、無理だろうね。文学的な邂逅を素直に受け入れるところから、自分を見直す必要が、貴方にはあると感じる。<> こりこり<><>2008/06/07(土) 08:20:43 ID:<>>>330

山桜さんは「批評家」なんですね^^<> こりこり<><>2008/06/07(土) 08:24:12 ID:<>>>329
>sunsarさん

自宅のパソコンから書き込んでいます。
>326>328はおいらであります。

おいらを「騙り」と思ったのもやむをえません。
ほんとうにsunsarさんにはすまないことをしました。
どうか、気になさらないよう。
<> こりこり<><>2008/06/07(土) 09:29:52 ID:<>かなり「遅レス」ではありますが。
>>292
>実は私、スクーターに偏見があって、そしてまさにこれは単なる偏見なんですが、ずっとこいつをオートバイと言ってよいのか、って思っていたんです。

これはおいらもよく考えますね。
ちょっと前までは、おいらはスクーター(いわゆるビグ・スク)を
「バイクという『種』ではなく、車の『変種』である」と考えておりました。
つまり、
鳥のように羽根もあるし、空も飛ぶけれども、『鳥類』ではなく『哺乳類』である。(こうもりとかかな)
あるいは、
魚のように海にいて生活し、泳ぐこともするのだけれど、『魚類』ではなく『哺乳類』である。(鯨やいるかとか)
そんなふうに見ておりました。
ビグ・スクは『二輪』ではなく『四輪』の仲間である、と。<> こりこり<><>2008/06/07(土) 09:41:36 ID:<>そして、入院している現在。
ズーマー(原付スクーター)に乗って移動しているわけでありますが、
ズーマーは今のおいらにとって、
「原動機付車椅子」そのものなのであります。
車椅子の一般的な形態は、椅子と主輪が二個プラス前方に方向転換用の補助輪がついた『四輪』であります。
また。
市販されている「電動車椅子」も四輪、もしくは三輪の形式をとっております。
足で支えられない身障者のための器具ですからとうぜんなのでありますが・・・
ズーマーは「二輪」であり、おいらは左足は自由であるので
停止時においても支えることができます。
しかし、歩行不完全なおいらを補助する器具としてみたとき、
ズーマーは今、完璧に「車椅子」なのであります。

時速50キロで移動できる「スーパー車椅子」

目から鱗でありました^^<> こりこり<><>2008/06/07(土) 09:46:29 ID:<>そして、ズーマーのシート下は、
もともとスケボーなどがつめるように解放されています。
そこのスペースに松葉杖が「ぴったり」収まってくれるのであります。

ズーマーと松葉杖。
このセットで、ズーマーは『ハイブリッド車椅子』となったわけなのであります。<> こりこり<><>2008/06/07(土) 10:12:28 ID:<>話は変わりますが、掲示板がなくなったとして、何人かの人たちとこのまま「さよなら」をするのがちょっとしのびない。。

で、みなさんからちょっとアドバイスを。

考えたのでありますが、
今おいらは入院中であります。(あと二週間くらい)
もしおいらが
入院先の病院の住所と部屋番号を掲示板に(たとえば○○市××町5番地 おおやぶ病院 101号室内こりこり)と
書き込んで、はがきか何かでみなさんの連絡先をいただき、それに
おいらが返事をだしたい、
と考えて掲示板に書き込んだ場合、なにか問題が生じるでしょうか?
(もちろん、いただいた『個人情報』を掲示板に公開するようなまねは決していたしません)

よろしくお願いします。
<> sunsar<><>2008/06/07(土) 11:32:58 ID:<>>>332
いえいえ,こちらこそすみません.

>>334-335
原動機付車椅子とバイクの本質的な違いはいったいなんでしょう?
哺乳類,鳥類,魚類の差を与えるのはいったいなんだろう,ということです.

>>336
たとえばあなたを狂信的に嫌っている人から鉄砲玉が差し向けられるかもしれません.
というのは,まあ冗談のつもりですが,実際,現実的にザ掲示板の管理グループに対して
嫌がらせが行われていると言われていて,それもあっての閉鎖だとも言われます.
何より,書き込みは削除されなければ文字通り「一生」のこり続ける可能性があるものですから,
病院に迷惑がかかる可能性を考えても,あんまりよくないと思います.
どんな人が見ているか,たとえばあなたに好意的な人だけが見ているとは限らない訳ですし.

こういうとき,ネットの流儀では,yahooとかmsn hotmailとかで捨てアドと呼ばれる
メールアドレスを取得して,それを晒して連絡を募るのが一般的ですが,
まあその方法にしても,善意の人を装ってあなたの個人情報を聞き出したりできるかもしれないので,
その辺は自己責任ということになるのでしょうね.<> こりこり<><>2008/06/07(土) 18:53:38 ID:<>>sunsarさん

アドバイス、ありがたいです。
もう少し考えてみたいと思います。<> こりこり<><>2008/06/07(土) 19:00:04 ID:<>>>337
>原動機付車椅子とバイクの本質的な違いはいったいなんでしょう?

「本質的な違い」というところで考え込んでおります・・

車椅子には明確な「使用目的」がありますが、
バイクには限られた「使用目的」というのはないわけで。。
100人が100通りの異なったそれをもっていてもおかしくはない。
だからこそ、こうして「異論」をだしあい「語る」ことができるんですよね。
あとは・・
ふくろうさんの登場を待って・・と逃げてしまおう。
ごめんなさい、であります。
<> REDRUM<><>2008/06/07(土) 22:02:27 ID:<>更に付け加えれば、連絡をとりたい人には連絡がついたので、削除してください。は無しです。

インターネットには善意の人も居れば、悪意の人もいる。
自己責任の範疇でお考えください。
<> こりこり<><>2008/06/07(土) 22:22:40 ID:<>ありがとうございます。<> こりこり<><>2008/06/08(日) 06:45:22 ID:<>考えてみたら、おいらは手術して3日目にはバイクに乗っていた。うーん。 やっぱり「阿呆」ですね^^<> ふくろう<><>2008/06/08(日) 20:46:09 ID:<>>>339
そんな…こりこりさん、あなたのイメージですので…(^。^;)

まあ、でも、私も気になるところだし、種の違いとして捉えるというのは、興味深いですね。
ズーマー(車椅子)とビグ・スクはちょっと分けて考えた方がいいかもしれませんが、とりあえずその前に、これまで私がバイクと四輪を対比させてきた主観的本質に関わる諸特徴について、まとめてみたいと思います。
網羅的なものを意図しているわけではなく、まあ、大まかでもイメージをはっきりさせることを主目的とします。

オートバイ  ⇔ 四輪
個的存在(実存)⇔ 類的存在(人・人間)
遊牧民(馬賊) ⇔ 農耕民
世界外志向  ⇔ 世界内志向
非日常性   ⇔ 日常性
非実用的   ⇔ 実用的
差異性(否定性)⇔ 同一性(肯定性)
事(現象)   ⇔ 物(実体)
生成(なる)  ⇔ 存在(ある)
未在(未来)志向⇔ 既在(過去)志向
偶然(不確実)性⇔ 必然(確実)性
不安定性   ⇔ 安定性
非定在性   ⇔ 定在性
自由     ⇔ 不自由
(旅)     ⇔ 旅行(観光)
<> ふくろう<><>2008/06/08(日) 20:47:46 ID:<>さて、以上の整理を踏まえて、「道具」というものについて考察してみます。
これまでオートバイを「相棒」と呼んできたわけですが、ここではあえてオートバイも4輪(車)と同じく空間移動の「道具」=乗り物とみなして、いわば最初から考え直します。

しかしそうするともっとも簡単に道具を区別することができるのは「実用的道具」と「非実用的道具」であると思われます。
では実用的道具と非実用的道具との違いはどうでしょう。

【実用的道具(の使用)】
… その道具使用が、別の事柄を実現するための手段である。つまり、ある目的となる事柄実現のための道具使用。
(例1) 新聞を配達するためにオートバイに乗る。
その目的(行為の理由・根拠)となる事柄は、一般に日常世界の中にある事柄であり、(広義で)客観的に語ることのできる事柄。
したがってその道具使用は日常的な意味で「有用である」と言え、それが「実用的」の意味。

【非実用的道具(の使用)】
… その道具を使用するという事柄それ自体が目的である、あるいは、当の事柄のうちにその目的が含まれているような使用。
 (例) ツーリングのためにオートバイに乗る
非実用的道具の使用それ自体の中に含まれる目的(意義・行為の理由・根拠)は、客観的に語りえず、語る場合、主観的抽象的になる。
日常的(客観的)な意味での有用性はなく、その意味で「非実用的」。
<> ふくろう<><>2008/06/08(日) 20:49:49 ID:<>次に以上を前提して、>>337 で問われた問題について、少しだけ考えてみます。

車椅子は当然実用的道具です。
たとえばズーマーは、その使用によって、こりこりさんに病院からの帰宅を実現するきわめて有用な道具です。
その足の代わりの道具としての有用性に、今回こりこりさんは改めて感心した、ということではないでしょうか。
しかしXJR1300は、どう考えてもそういった意味での実用的道具ではありませんね。

また、4輪、特に自家用車(いわゆる「家の車」)も、一般に日常生活の有用な道具であり、その空間は(特に子供にとっては)、いわば「家のもうひとつの部屋」です(夏の高速道路のSAで降りてくる人たちを見るにつけ、私なんかはそう思います)。
地の果てまで遠征していくべく油断なく重装備したライダーが水分補給している横で、茶の間でくつろいだかっこうのままで出てきたかのような、Tシャツ、短パン、サンダル履き、色白小太りのオヤジがアイスを食べている、という光景が夏のSAでは見られます(笑)

いわゆるビグ・スクの普通のオートバイの違いは、要するにオートバイと較べてはるかに日常性・実用性が高いということ。
いわば日常性を失う(損なう)ことなく、その方向にオートバイの実用性(利便性)を高めたのがビグ・スクである。

まあ思い付きですけど、止まったら倒れるバイクを止まったら死ぬマグロに喩えるとすると、形的にもビグ・スクはイルカっぽい気がしますね。
哺乳類ってのはやはり、我々と同一の類的存在というイメージが強いのではないでしょうか。
いわば我々と同じ世界内存在者(肺呼吸生物)であり、世界の外(空気のないところ)に存在していても、自らが帰るべき場所(母、空気のある場所)をもつ…というような。

ちょっと考えただけなので、自信はぜんぜんありません。
どんなもんでしょうかね^^
<> こりこり<><>2008/06/09(月) 09:59:35 ID:<>>>343-345
>ふくろうさん

おいらはむかしから
「お前は発想はいいんだけど、展開する能力がない!」
と言われ続けてきました。
そのことを、またしても「再確認」いたしました。

世話をおかけしました・・
ふくろうさんに感謝、であります。

話は変わって。
おいらは「ザの人」になりました^^
遊びに来ていただけますか?

http://39575.hito.thebbs.jp/resume.html <> こりこり <><>2008/06/09(月) 19:49:44 ID:<>ふくろうさん、ご来場ありがとうございました。
コメント、また読んでおいてくださいね。
スレに関係ないレスをしてすみませんでした<> こりこり <><>2008/06/10(火) 10:47:29 ID:<>いまさらですが。
バイクは「ゆっくり走る方がむずかしい」
現在のおいらは右足負傷中。
右バンクのとき、「絶対に右足をつけない」という過酷な試練に耐えております。
一度、右足をつかざるをえない状況に追い込まれました。
で、つきました。

「激痛」が走りました・・

技術の未熟さを痛感。まだまだ「精進の日々」が続きます^^<> ふくろう<><>2008/06/10(火) 12:09:43 ID:<>>>348
以前、S・トゥールミンというウィトゲンシュタインに直接教えを受けた哲学者がインタビューでこんなことを言っていました(正確ではないかもしれませんがm(_ _)m)。

自分がウィトゲンシュタインの講義に出て学んだこと。

自転車に乗ることに哲学することを喩えてその大切なことを言うと、ここからここまでをいかに、どれだけゆっくり進むかということだ。
<> こりこり<><>2008/06/10(火) 14:13:53 ID:<>う〜〜ん。
同じようなことを言っているのに・・
この重みの違いは何故?

ウィトゲンシュタインも自転車でおいらが感じたようなことを感じたんだろうなぁ。。。

じゃ、おいらも多分ウィトゲンシュタインになれるな。よし。
しかもおいらが乗っているのはオートバイなんだから、ウィトゲンシュタインを超えてしまうかも^^


んな、わけはありませんね。

<> 亜老<><>2008/06/10(火) 18:42:25 ID:<>そうなんかなぁ。
すべてをすべてそのままに伝えることは、皆無であって、すべてに
おいてのその全部だけのみで、ある。
 つまり、その自分の自己たる自我に支えられるだろう全部を伝える
うることも、すべてでの、かつ、かつ、かつという集合みたいなモノ
であるとかでないの?(切りがないのだが、、、)

クローン人間(可能であり、実現した実体があるとして)が本当にそ
の当人が、生きているかどうかの類比するかもしれませんけれども。

<> ふくろう<><>2008/06/10(火) 21:05:18 ID:<>>>350
>>349 の続きで、今度は私の印象です。

この「自転車」というのは「オートバイ」に交換しても構わないと思うのでそれで言いますが…(オートバイ乗りは「一本橋」を思い出しますね^^)
面白いことにですね、ウィトゲンシュタインの哲学を実際に学んだり、伝記を読んだりすると、おそらく誰もが受けるであろう印象があります。
それは先の「ここからここまでを、可能な限りゆっくり進む」ということと表面上は明らかに矛盾します。
ですから整合的に理解するには何らかの理屈付け、解釈が必要です。
しかし、それを考えること自体が意味のあることだと思うので、あえて私見は述べないでおきます。
すなわち、その印象とは、

ウィトゲンシュタインはいつでもエンジン全開で走っている、しかも尋常でなく

ということです。
それは間違いのないことです。
にもかかわらず…
なのです。
<> こりこり<><>2008/06/11(水) 08:46:13 ID:<>>ウィトゲンシュタインはいつでもエンジン全開で走っている、しかも尋常でなく

これはそのとおりだと思います。
おいらとウィトゲンシュタインを同じにしちゃいけないとは思いつつ、
おいらもかつては「全開バリバリ」の男であったのでよくわかるのです。
(オートバイに乗るときのみ、であります。考えるときはそのころから休み休みでありました)

ウィトゲンシュタインの「ゆっくり云々・・」という言葉は
「全開バリバリ」を徹底的につきつめた人間だからこそでてくる言葉なのだと思います。<> こりこり <><>2008/06/11(水) 09:12:40 ID:<>おいらはかつてジムカーナというものをやっておりました。
自動車教習所やひろい駐車場にパイロンを立てて、一定のコースをつくり、タイムを競う競技であります。
使うギアはほとんどが一速、二速。
ブレーキもほとんどフルブレーキ。
フロントタイヤをロックさせてしまうことはあたりまえ。
両サイドのステップから火花を散らせて走る様は、目に怖ろしく映る激しいものであります。
しかし、
なのであります。

一見、激しく走っているかのごとく見える「上級者」の走りを
ちんたら走っているとしかみえない「初心者」の走りとくらべてよく観察すると、「不思議なこと」に気がつきます。

それは、上級者は「すべての操作を『ゆっくり』おこなっている」ということであります。
反対に初心者の操作は「早い」「急」「力まかせ」。

ところが、オートバイの「動き」は、
上級者「速い」
初心者「遅い」
という現象となって現れるのであります。

「ゆっくりが速く」「はやいが遅い」
この「論理的矛盾」はジムカーナにかんしては「真理」なんです。<> 水原<><>2008/06/14(土) 16:09:04 ID:<>こんにちは
天気良いです。今日は先程までチェーン交換とリア周辺の整備してました。グッタリ
>>354
なんか判る気がします。
「じっくり早く」って普通の感覚だと、矛盾した言葉ですが、スロットルの開け方なんかそうではないでしょうか!<> こりこり <><>2008/06/15(日) 10:30:34 ID:<>>>355
>スロットルの開け方なんかそうではないでしょうか

そうですね。
グリップを「生卵を握るくらいの力で」扱い、オートバイと呼吸を合わせて「じわぁ〜〜」と開けていく。
(言うは易し、行うはなんとか・・で、なかなかできませんが)

水原さんのおっしゃるとおりであります。<> 水原<><>2008/06/15(日) 21:41:15 ID:<>いえいえ

以前本で読んだ「タコメーターの針を追っかけるように素早く開ける感覚」と言うのを覚えていて、一応実践してます。

じゃないと ガバッ って開けると失速+息つきをおこしてしまいます、僕のバイク・・・

ジムカーナやってたんですね、こりこりさん! それは凄い!
公道でも技術生きますでしょ?
<> こりこり <><>2008/06/16(月) 13:12:05 ID:<>>>357
>ジムカーナやってたんですね、こりこりさん! それは凄い!

あ、おいらはあんまりすごくないほうの参加者でありました。
>>354 の「ちんたら走っている」初心者とは、実はおいらのことであります^^

>公道でも技術生きますでしょ?

それは確かにあるとおもいます。
もちろん、純粋な「技術的向上」もあるとは思いますけど、
むしろ
自分の技量の拙劣さを思い知らされることにより、
公道では「無理・無茶」をしなくなったことのほうの意味が大きいかなと思います。
たとえば、参加者の走りを観察することで、自分以外にも、「へたくそ」がいかに多いかということも判り、
いい意味で「他人の運転・操縦技術」を信用しなくなりました。
つまり、「防衛運転」の重要性を理解して公道を走るようになるということであります。

(骨折入院中の男としてはかなり勇気のいる発言?)
  ↑
油断大敵であります。


<> ふくろう<><>2008/06/16(月) 23:40:51 ID:<>流れに沿わなくてすみませんm(_ _)m

最初にお断りしておきますが、以下の文章はまとまった考えを提示するものではなく、現在のまとまらない考えを、これまでの考えと結びつけながら語ってみるものです。
まあ私の問題意識の提示と言えなくないはないです。

>>327
>僕が人生でバイク(の後ろ)に乗ったのは5回ぐらいで,
そういう「派手」な経験がある訳ではないですが,
実感ではなく印象として,死の近くにいる,というのはあります.
それが,バイクの魅力に惹かれる人が全体的にそういうことを好むことによるのか,
それともバイクが本質的に死の近くにいることをライダーに要求するからなのか,
というのは謎ですが.
>>316 とも関係して,乗り手が意図的に死に近い世界を見ようとしなければ,
バイクに乗り続けても特に何も感じないままで人生を終える場合もあるのかもしれません.

というsunsarさんの考えに対する応答というのが、直接的な出発点です。
一応この問いについて私見を書いておかないと、何だかきりが悪い気がするのです。
 ☆             ☆

現在科学的見方に慣れた我々は、客観的性質=実在的性質とみなし、主観的性質、あるいは事物の意味のようなものは、実在的性質ではなく、主観=主体が事物に投影・貼り付けたもの、というふうに捉えるのが一般的ではないかと思います。
私もそういう傾向があり、このカテでも過去にはそのような立場で書いていたこともあるかもしれません。
しかし、詳細は述べられませんが、ここで採るのは、主観的性質(いわゆる第二性質も)も実在の性質とみなす立場です(むろんすべてではない。例えば、視覚的に認識されるりんごの赤い色が、りんごそのもののもつ実在的性質であるとみなす)。
ちなみに自分としてはアフォーダンスの考えに近いのでは、と思っています。
<> ふくろう<><>2008/06/16(月) 23:44:16 ID:<>ということで、先の引用で言えば「>それともバイクが本質的に死の近くにいることをライダーに要求するからなのか」という問いについては、「然り」と答えたいのです。
すなわちバイクそのものが、そういう性質を持っている、ということ。
しかし、それはあくまで主観的性質であって客観的性質ではないので、すべての人にそうだ、というわけではありません。
直感的には芸術的価値を素直に考えていただけば、わかりやすいだろうと思います。

したがって、
>乗り手が意図的に死に近い世界を見ようとしなければ,
>バイクに乗り続けても特に何も感じないままで人生を終える場合もあるのかもしれません.
という見解にも一応同意できます(微妙な問題はとりあえず措いて)。

ただ、実際にどうかということを考えると、断定はできませんが、たとえばバイクを道具として使用している人たち、それ以上のものとみなしていない人たちは、バイクと死を結びつけるとしても、日常的な意味での事故=死の危険性という観点からしかたぶん捉えることはないのではないかと思います。
つまりこれまで問題にしてきているような主観的・形而上学的な意味での“死”を感じることはないのではないでしょうか。

しかし、私が>>3 で定義したような「オートバイ乗り」は、何らかの意味でこの“死”を感じ取っているのではないかと思うのです。
一応その根拠は、その“死”を感じることこそが“生”を特別なもの、かけがえのないものと感じさせるものにほかならないからです。
すなわち自覚的か否かは別として、“死”こそがオートバイ乗りにとってオートバイに乗ること(生)をかけがえのないものたらしめるのではないかと思われるのです。

(なお、主観的生・死の意味については、次も参照してください。
http://philosophy.bbs.thebbs.jp/1194802592/364  )
<> ふくろう<><>2008/06/16(月) 23:46:52 ID:<>武道の達人の言葉としてどこかで書かれていましたが「考えるな、感じよ」ということはたぶんオートバイのライディングでもいえることではないかと思うのですが、オートバイを無心に操る状態というのがあります。
ライダーがライディングに集中し、日常的な自己意識・反省的意識を失い、無心な状態で風景と一体化しているとき、いわゆる「ライダーズ・ハイ」と言われる状態になります。
この状態などは自覚的か否かは別として、実存的自己を感じている、と言ってよいのではないかと私は思うのです。
十代、二十代前半のライダーが峠を攻めたり、スピードにとりつかれたような走りをするのも、医学的には脳内麻薬のなせる技なのかもしれませんが、主観的に言えばそのスピードが、自分の世界=生を別の世界たらしめるからだと言えるのではないでしょうか。

しかしまだ二十歳前後の人間にとってはしばしば実在世界の他者性=外部性は未だ十分に理解できておらず、自己のいわば独我論的幻想世界の限界が実在世界の限界とアプリオリに一致するかのごとき錯覚(これもまた脳内麻薬のなせる技)に囚われがちです。
つまり幻想の中では限界を超えていないにもかかわらず、実在世界の限界を超えてしまうのです。
そしてその結果である客観的事実としての死。
統計結果に明らかに現われるその死の可能性の大きさは、保険料の差となって厳然と存在します。
<> ふくろう<><>2008/06/16(月) 23:48:47 ID:<>ちょっと小難しい表現になってしまったかもしれませんが、別に当たり前のことを言ってるにすぎません。
具体例でちょっと説明しましょう。

夜十時台だったと思います。
片側二車線の道路、バイクで帰宅途中、信号待ちで止まっていました。
人通りも、交通量も比較的少なく、道の両側はずっとビルが続いていますが、住宅が少なく、また街灯も少ないので全体として薄暗い印象の道でした。
そこに後ろからエンジン音が聴こえ、私の横にレーサータイプのバイクが並びました。
他は車がいたとしても後ろに一台ほど、たぶんいなかったんじゃないかと思います。

信号が青になったとたん、横のバイクはいきなりウィリーして(前輪が浮き上がること)猛スピードで飛び出しました。
私はふつうにスタートしたのですが、数秒のうちにみるみる差は開いていきました。
そのとき私は正直「バカじゃないか」と思いました。
というのは、先述した状況から私が直感するには、「ありえないスピード」だったからです。
当たり前のことですが、公道における安全性というのは他者、すなわち自分とは別の存在、車や人やその他もろもろの要因によって大きく影響を受けます。
その時の場合、主に道の広さや明るさの問題がありました。
そこでそのスピードは、自分の命を完全に他人様まかせにしたとしか言いようのないものだということです。
私の直感は当たってしまい、その直後、2,300メートル先で対向車線から、こちら側にあるガソリンスタンドに入ろうとして、ごみ収集車がいきなりこちらの車線を横断しようとしたのです。
おそらくそのごみ収集車の運転手には、近づいてくるバイクの姿はまだ遠くに感じられたのでしょう。
そしてそのスピードはよくわからなかったのでしょう。
しかし後ろから見ていた私は瞬間的に「だめだ」と思いました。
そして同時に前を走っていたバイクはフルブレーキ、後輪がロックし、すべって横を向きながらそのままごみ収集車の側面に音を立てて突っ込みました。
当然最初に事故現場に私が到達したのですが、バイクは大破、ガソリンがあたり一面に広がり、ライダーは収集車の側面に変な形で足がひっかかったまま倒れていました。
その後、いろいろ大変だったのですが、まあそれは省略しましょう。
結果だけを言うと、骨折などはもちろんあったものの、フルフェイスのヘルメットのおかげと思いましたが、後で聞いたところによるとライダーの命に別状はなかったということでした。
<> ふくろう<><>2008/06/16(月) 23:50:39 ID:<>私が言いたいのは、事故った彼は、明らかに限界を超えていた、ということです。
しかし彼はそれを認識していなかった。
彼はバイクのスピードのもつ自由性に酔っていたのでしょうが、その裏面である“死の可能性”に対して無自覚であったと言えると思います。
彼が限界を超えていないと思っていたとしたら、それは彼の独我論的世界の限界にすぎなかった。
彼の世界には、他者性・外部性・偶然性というのものが根本的に欠如していたということです。

とエラそうなことを言っている私も、乗り始めた頃は明らかに自分の限界がわからず、比較的早くに事故ったことがあるんですねf^_^;
結果的に大きな事故ではなかったものの、たまたま死ななかった、と自分では思っています。
それでそれからは最初に較べると格段に意識的・慎重になり、そのおかげで事故らず今でも生きているのだと思いますが、それでもしばしば限界を超えてしまい、危ない状況は何度も経験しています。
そして言うまでもなくその危険性はバイクに乗る限りなくなることはありません。

十代、二十代の早い時期にバイクに乗ったことがなく、比較的歳をとってから初めて乗ったというアダルト・ライダーの場合、私にはどうなのか想像がつかないのですが、若いときに乗り始めた、乗っていたライダーは、おそらくそういうバイクのもつ魅力が危険性と表裏一体のものであることを体感的に知っているのではないか?という気がするのですがどうなんでしょうね。
あるいは、若いとき一時だけバイクに乗り、比較的早くに「卒業」した人は、バイクの日常的な意味での危険性は理解したとしても、形而上学的な死の意味を感じたことはないのかもしれないのかなとも思うのですが。
<> ふくろう<><>2008/06/16(月) 23:52:52 ID:<>またここで言う形而上学的な死、あるいは、実存的自己にとっての死の意味も、人によって異なります。
それは当然主体によって自己の生世界の意味が異なることと相即しています。
こりこりさんと私との対話では、そういったところまでようやく達しつつある感じです。
これについてさらに掘り下げて考えることはもちろん哲学的に非常に面白いことなのですが、とりあえずここまで。

>>74 、>>76 、>>80 のところで私は一応さぐりを入れたりしています。
しかしそのときは、むしろこりこりさんは私と同意見のようでした。
>>80 で述べた三島についての私見は次を参考にしてください。
http://philosophy.bbs.thebbs.jp/1194802592/91
http://philosophy.bbs.thebbs.jp/1194802592/102

ただし三島の発言について記憶に頼って書いていたので、どうもかなり間違いがあるようです。
できれば確認して訂正したいと考えています。

いつものように、連レス、ご容赦くださいm(_ _)m
<> こりこり <><>2008/06/18(水) 16:31:43 ID:<>>>362-363
事故というものは何度遭遇してもいやなものであります。
直接的にせよ間接的にせよ、
見知っている人間が重大事故を引き起こし死亡したばあい、また、
死に至らずとも、その後の人生に大きなハンデを背負う怪我をした場合などは、さすがのおいらもオートバイのことを考えたくなくなることもありました。

おいらの認識では、本来オートバイは他の乗り物(自転車や四輪)に比べ「相対的に」安全なものであります。
下記のスレはおいらが以前に立てたものであります。(現在は終了済み)
(スレ中の「バリ伝」はおいらの元・ハンネです)
よければご覧になってください。
http://motorcycle-touring.bbs.thebbs.jp/1191929658/ <> み学<><>2008/06/18(水) 20:14:41 ID:<>ナンバープレートを外した骨董品の原付バイクちゃんに
ガムテープで電話一本でお引取りしますの張り紙が・・
何で人の庭に?
何でうちの原付バイクちゃんは狙われるのだろう?
バイクなんて何処がいいのか解らない。
飾っているだけでいいのに。<> 水原<><>2008/06/18(水) 22:03:29 ID:<>バイクって車より人が操作する部分が多いですよね!

車を運転していると、例えばハンドルを切るときなんか

「このカーブは90度だからこの位ハンドル切って・・・」

なんて考えずに、行きたい方向を見ているとそちらへ行くように身体や感覚が、ハンドルを切りますよね!

バイクはそういった「人の能力」(例えば三半規管)に頼る度合いが強い乗り物だと思います。

そう言った意味でふくろうさんは「人の限界を超えたとき」、人に頼る部分が大きいバイクは危険度が高い! と僕は解釈しました。わかりますよ!解釈あっていればだけど?

こりこりさんは、同じ「人の能力」に頼る度合いが大きいバイクは、安全って事でしょ? それも良くわかります。

車って、4WSとか色々な補助を付けて変わってきているけど、力学的には大分無理してコーナーを曲がったりしていると、昔本で読んだことがあります。

逆にバイクは、キャンバースラストって言葉に有るように十円玉を転がして傾いて倒れていくように・・・って話は長くなるから省くけど、利にかなった乗り物ですよね!

キチンと扱えば、手足同然になる。よって反応速度も速くなる。
イコール安全って、僕もそう思いますよ。


<> ふくろう<><>2008/06/19(木) 00:04:50 ID:<>水原さん、こんばんは。

最初に謝っておきますが、今日頭がぼーっとして、ぜんぜん働いていません(笑)
で、的外れのことしか言えないと思いますが、ご容赦くださいm(_ _)m

自分のライディング技術のせいという可能性大ですが、私はどうも「バイクは安全だ」とあんまり言えないんですよね、躊躇すると言うか。
同語反復的になりますが、バイクって安全に乗れば安全だけど、安全に乗らなければものすごく危険っていう乗り物のように思います。
経験上なのかどうなのかもはっきりしませんが、どちらかと言うとどうも危険な気がしてしまうんですよね。
これは少なくとも客観的判断ではありません。
が、たとえば私を含め、私のバイク仲間数人は、みんな事故った経験があります。
幸い全員大事故には至らなかったものの、自分としてはみんな運がよかったって思うのです(客観的データで言うと、だから死ぬ可能生は低いのかもしれませんが)。
たぶん一度事故ると、かなり慎重になるので危険性は格段に減少するようにも思うんですが、20代前半までに乗り始めた場合、けっこうバイクのスピードがもつ魔力に限界を超えてしまうのではないかと思わざるをえないのです。
つまり、慎重に、安全に乗れば安全だけど、バイクの本質的魅力でもあるスピードが、その慎重さそのものを奪ってしまう要素を含んでいるのではないか?ということ。
もしそうなら、バイクの本質的魅力の中に、限界を超えさせようとする誘惑の力がある、ということになります。
そして若ければ若いほどその魅力=誘惑に夢中になり、必然的に限界を超えてしまう…そういう可能性があるように思えてならないわけです。
だから私はバイクを他人にすすめられないのですよ。
むしろ止めたこともあります、死ぬよって(笑)。

ちょっとズレてしまいますが、後ろにヒールでスカート、グローブもせずろくなヘルメットも被っていない女の子を乗せているライダーを見かけることがありますが、免許を取り上げるべきだと真剣に思いますね(笑)

う〜ん、何が言いたいのかわからなくなってきたので、今日はこのへんでm(_ _)m
<> 水原<><>2008/06/19(木) 05:50:37 ID:<>スピード違反なんかして、違反者講習でビデオを見せられた時があります。
人間は即座に危機回避できる能力が「徒歩」のスピード 時速5km前後だと習った様な気がします。

空想距離が無いって事かな?

なので怖いと感じるのも当然なのかも知れませんね!<> こりこり <><>2008/06/19(木) 13:23:36 ID:<>「バイクが安全だ」とおいらが言うのは、ある種の『詭弁』なのかもしれないですね。
危険といえば、そりゃ危険なものです。
おいらが「全治三ヶ月の重傷」を負ったのもバイクならではのことですから。
これが、四輪だったらバンパーがすこし凹んだくらいで、おいらは無傷であっただろうと思います。(ブロックに足をぶつけたときの速度は時速にして10キロもでていなかったでしょう)
なのに、この怪我!
水原さんの言う、
『人間が即座に危機回避できる能力が「徒歩」のスピード 時速5km前後』というのは本当でしょうね。

おいらが言いたかったのは、
現代の混合交通のなかで他者を傷つける可能性の低さ、という点で
「バイクは安全な乗り物」だ、ということの方が大きな意味を持つことだったのかもしれません。
(ただ、今でもおいら自身は、「重大事故をおこす可能性はどちらにより多くあるか?」と訊かれたら、迷わず「四輪」と答えますが。)

オートバイ乗りが犯す過ちのひとつが、
「自分が見えているように他のドライバーも見ているはずだ」という誤解から車の想定外の動きを予測しない、ということであります。
これが死亡事故につながる大きな原因なのだと思います。

「四輪は四輪を見ている、二輪をほとんど見ていない、見ていたにしても、錯覚をおこして見ている」

このことはすべてのライダーに徹底的に教え込むべき「心構え」であると思っています。


<> こりこり <><>2008/06/19(木) 13:27:44 ID:<>>>369
水原さん。

>空想距離が無いって事かな?

多分、「空走距離」なんだと思いますが、
たのしい気持ちにさせてくれる「誤変換」です^^

「空想距離」かぁ・・
いいなぁ^^

おいらも気をつけないと・・
<> み学<><>2008/06/19(木) 19:57:20 ID:<>原付バイクに乗っていた2〜3年一度も事故を起こさなかったのに
普通車ではぶつけてばかり・・
ということで一番安全な乗り物に適しているのは一番の小型車軽です。
<> み学<><>2008/06/19(木) 20:09:55 ID:<>ぶつけて拉致とか、いまやバイクは犯罪の匂いがします。<> ふくろう<><>2008/06/20(金) 18:13:58 ID:<>オートバイとは何であるか?

ふと、ひとつの答えを思いつきました。

それは

「イカロスの翼」である。<> こりこり <><>2008/06/20(金) 19:04:05 ID:<>>>374
>「イカロスの翼」である。

自損事故をおこして転倒したオートバイ乗りはたしかにそう言えるかな。
ブリューゲルの絵がおいらは好きなんですが、
イカロスが海に墜落した直後の情景を描いた変な絵があります。
イカロスの足だけが水面からでているという絵であります。
また、その悲惨なイカロスの姿を周囲の人々はまったくみていない、という絵であります。
オートバイ乗りには感じるところの多い絵かもしれません。

画面右下に小さく描かれているのが墜落したイカロスであります^^

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Pieter_Brueghel_de_Oude_-_De_val_van_Icarus.jpg <> ふくろう<><>2008/06/20(金) 20:20:19 ID:<>>>375
このブリューゲルの絵、去年私は現物を見ました。
あの足がなんとも言えず…印象に残っています。
確かに変な画ですよね。

私がバイクとイカロスの翼との本質的同一性を見出すのは、

http://www5f.biglobe.ne.jp/~icarus/icarus.htm

? それは脱出するための道具であるということ
? 高く飛び(ハイ・スピード)すぎても、低く飛びすぎても生命とりになるということ
? しかし高く飛ぶ誘惑がきわめて強いということ

でも今回この画を見て思ったのは、こりこりさんが仰っているように、イカロスの失墜は日常風景の中では無意義・滑稽な姿でしかない、ということです。
ちょっと三島の最期を描き出す社会の視点と似ている気がしないではない…
<> ふくろう<><>2008/06/20(金) 23:35:25 ID:<>うん、何だか>>374の定義、私としてはここまでこのスレで話し合ってきたことの一応のまとめになるような気がします。

この定義に従うと、

オートバイ乗りとは…イカロスの末裔である。

けしてご先祖様の轍を踏んではなりません。。。
<> こりこり <><>2008/06/21(土) 14:46:14 ID:<>話はぜんぜん関係ないことへ・・

ザビビが「閉鎖に」なったら過去ログはどうなるんでしょう?
残してもらえるのか、消えてしまうのか・・

ふと心配に。<> アロウ<><>2008/06/21(土) 17:42:50 ID:<>さあ、どうなんでしょう。

この前からの脳裏に痛く焼き付き,思い考えていたことがふと何か
に思いつきました。あー、あんましこちらも関係ないことですが

哲学病とかですね。うー、単純にはなんか取り付かれるか打破できな
いか。それらしき自己なる喪失を伴いに、結局自決のとかの下り以外
とは何か。これはなにかと問題ともなって哲学自身の学校教育といっ
た中等教育あたりでしょうか。縮小させるといった具合ですね。
まぁ、普通に哲学と聴けば,こちらを思い当たるという人は少なから
ずだと思うのですが

ではなく、別な支店から哲学病とは、
 つまり、教育的(教育学)の延長したジレンマのような方法論
と意識せざる他者と自己とさせるジレンマのような認識論の
2通りな、大別があるような気がしたのですね。悔しいので、では
無哲とはどうなるか。そりゃまぁ、ぶちゃけまして、民俗学なるなろ
う(無?非のほうが適当かな)哲学病あたりに、こっちが僕としては
思いたい希望的観測なのですが、、、すれば、揶揄すれば、それ自体は継続の懐古になってしまいまして、なんだか進歩も進展も、ぎゃくに言えば連続のない弱肉強食の日記な風になるんじゃないか。悪くと
ればですが、それなり、郷土史とか史実とか重んじるような事はあり
ますし、
なんとすれば、人間がここに存在する証があるならば、そこには、
厳然たる現前な考古学があるべきでしょうからね。

実在論にして解決が、なんとなくわかるような気がしてます。ただし
実在(じつぞん)論となると、すこし迷ってしまいます。

とっとっ、切りが悪いところで、気になったんで。。。<> アロウ<><>2008/06/22(日) 15:02:44 ID:<>とはいえ、このままではいけない。というのでなく、何となくヒント
みたいなのが転がって来まして,このようなことだろうかなぁっとぉ。ですね。
実存と形式と結び付きあるいは、故事付けを嫌うのでしょうね。
僕として。まぁ、単なる振りであるかもしれませんけども

つまりには、実存は実存として人間の生きる争いであるということは
本来僕としても認めている訳でして、それが、括られてくる形式化に
する不安を覚えてしまうのでしょう。
心理部分の領域となるんでしょうけれども
 分裂型
 エディプス型
 発作的てんかん(?なんか別な表現を求められていたような)型
 自閉的カイン型
 感動的神経症的型
 脅迫神経症的型
 罪業念慮・刑罰不安に悩む
とか、んーなかなか。しかしにも。言語領域をすべく空間認知を
はせて、どこかとおーくにとなると、真水にすむ海魚なように
なってしまう気がする。。やっぱ、経度な哲学病は止むなし。かな

それとも、実存(じつぞん)を実存(じつぞん)してこそなる実在
(じつざい)か?

これって、どうなの。

http://www.gizmodo.jp/2007/02/ventureone_1.html
バイクなのか。車なのか。どちらでもいいのですが<> こりこり <><>2008/06/23(月) 11:36:13 ID:<>>>380
>これって、どうなの。
>http://www.gizmodo.jp/2007/02/ventureone_1.html
>バイクなのか。車なのか。どちらでもいいのですが

それは「三輪車」です。<> こりこり <><>2008/06/23(月) 12:04:03 ID:<>スレのはじめのほうでバイクとは何か、みたいなことをけっこう書き込んだので重複になるかと思いますが。
単に「バイク」=「bike」と言ったときは、bicycle=自転車が本来の意味であります。

辞書でも、
bike shed=自転車置場、bikeway=自転車専用道路
となっております。

ま、「オートバイのこと」だとも一応でてますけど、
基本的にはバイクは自転車です。

で、オートバイというのは「正しい」英語表現ではありません。
英語では「motorcycle」となります。
だから、英語風に省略するとしたら「モトバイク」?

でも、
おいらは正しい英語じゃなくていいいから
「オートバイ」の方が好きな言い方でありますね。

ま、『オートバイ』は日本語なんだと思っていればいいんですよね。

ひらがなで書くと『おーとばい』ですか・・

赤ちゃん言葉みたいだな^^
<> アロウ<><>2008/06/23(月) 12:49:31 ID:<>因みに、中国語ではどう謂うでしょうか?
自動車は「汽車」
自転車は「機車」

クールと謂うべきか?
自ら動いたり転がったりするコトがない字面そのままで興味するけど、、、
騎車だとも、鉄馬?しかして生物なだとおかしい。
ん〜!?<> こりこり <><>2008/06/23(月) 13:23:18 ID:<>>因みに、中国語ではどう謂うでしょうか?

摩托車といいます。
もー・たー・ちょぅですかね、発音は?<> アロウ<><>2008/06/23(月) 14:24:47 ID:<>>>384
こりこりさん、ありがとうございます。
以外に二文字な構成でなかったのですね。
発音でしょうか。
日本語の母音は、今日に5つです。平安時代には6つだったとかも、聞いたのですが
なにがしか、発音出来ない音声があると自己が認識せれるならば、自己修復とかありえるだろうか。と思ったことがあります。
言霊といった依り、音霊とでも言うかもしれない。

僕の知見なると、空想距離を走るのがオートバイで、空走距離の走りがバイク、但し、単車よりは自動二輪です。語句を借りて来て説明のたまってます。ハイ

<> こりこり <><>2008/06/25(水) 19:13:23 ID:<>>>385
>発音でしょうか。

そうですね。

中国語には外来語的な言葉を漢字で表さなければならないのでおもしろい表現がありそうであります。
有名なのは

「可口可樂」(コカコーラ)がありますよね。

あと、国名。「美国」(アメリカ)、「法国」(フランス)、「徳国」(ドイツ)

美国」は「美利堅」、「法国」は「法蘭西」、「徳国」は「徳意志」の最初の字を取ったものであります。(微妙に日本の漢字表現とちがっているのがおもしろい。日本語だと、「亜米利加」「仏蘭西」「独逸」ですもんね^^

オートバイとも哲学とも、関係ないけど・・<> アロウ<><>2008/06/25(水) 20:03:16 ID:<>あ〜!!、哲学病とかを気にしてんですね。
http://philosophy.bbs.thebbs.jp/1200308058/126
ふくろんさんとsunsarさんのやり取りを、ROMってて、気になんったん
ですよ。で、どうなのかなぁ。謎気持ちを押さえられなくなって、
向こうのスレはsage進行を思ってるらしいので、勝手にこっちに
投稿してしまった次第ですよ。失礼しました。

>>386
ふーん、どうしてか。日本の中では良く文章の行間を読めとか。
たしかに、情緒的な部分を多く占める文化様があるので、否定する
ことはできないのですが、普通にしたら白けるを売るかもしれないで
すが、文章の語る声に耳を傾けるとか。ですかね。
修辞学が哲学の完全なる基台みたいになってるでしょうから、擬人化
する方法的には、しらねど60通りぐらいあるとか。
僕は、暗喩とか比喩とかなら、数えれるけれど、今日現在を過去から
数えて文学表現がそうなんだ。っと。

やっぱり、国境線の問題というような距離感な違いなんでしょうと
思うけど
イギリス人とフランス人はやっかみ半分で半分半分に羨ましがってい
るような、変なライバル心があるような。でもでも、ともに、揶揄す
る事象が、その国の特性である人間を追従が見事な場合があるような
気がします。まぁ、簡略かすれば、イギリス人はギチギチだような
私生活を、フランス人はおおらか過ぎる私生活を。
(というのか、文章的書類を崇めないは、性格がきっぱり。とも)
けども、イギリス人は文学的な引けめを感じてフランス語を韻みたい
なように踏みたがるとありました。シェイクスピアぐらいしかいない
のが気に食わないそうです。イタリア人の日光そのままに生きる様を
それような私生活を揶揄することわざにさしてみたり、、、
日本人には無い感覚なので、うらやましい気がします。
(アッたしかに、シャーロックホームズとか超超有名です)

それと、なんだか似てる。んー、これは言い表しがすごく的を得てる
のか僕の頭がどこか古文なのか(得意では当然ないです。)
<> こりこり <><>2008/06/28(土) 20:31:51 ID:<>アロウさんのレスを読んでいて、思ったことがあります。

オートバイのメーカーでありますが、(ヨーロッパにおいて)
イギリス、イタリア、ドイツ、オーストリアなどはオートバイの生産が盛んでありますが、なぜ「フランス」にはバイク産業が栄えなかったのだろう?ということであります。
自動車産業ではフランスはプジョー、シトロエン、ルノーなどがあるのに。
思えば、不思議なことではありますね。<> こりこり <><>2008/06/28(土) 20:34:24 ID:<>スペインにも「ブルタコ」とかありましたね。<> こりこり <><>2008/06/29(日) 12:56:24 ID:<>このごろ、また飛行機に惹かれるようになってきている。
昨日も何年ぶりかで、「航空情報」という雑誌を買った。

雑誌をぱらぱらめくって、色んな飛行機の写真を眺めていたら、
「やっぱりオートバイと飛行機はどこか似ている・・・」
このことを感じたのでありました。
<> アロウ<><>2008/06/30(月) 07:35:30 ID:<>>>388
バイクメーカですね。そういえば、そうですし、敢えてフランス製の
バイクとかさっぱり知りません。なんとなくは、スクターみたいな
もっと簡便な二輪自転車を乗ってるようなイメージが僕にはあります

フランスの国家に、自国は国民で防衛するけれど、諸外国の中の
国境地は自国民で防衛することはないそうです。なぜなら、フランス
の傭兵部隊は有名ですし、日本人でも傭兵入りしてその著書を
発表されている人も居ますね。ハウスマヌカンとか一時はやりました
けれども、基本的に買い物する側と売る側とは同立場であるという
以上のことのようで、会話せず、物色するだけ消費者は敬遠されるよ
うですね。ここらへん、日本とは真逆なるとこ、と思います。
僕自身行って、直に知ることでないので恐縮です。
 まぁ、最近はシングルマザーの自活する生活面での対応で、婚姻す
ることの意味も書類的な側面を見直しする方は増えているそうですが

ナポレオンは、バイクに乗るイメージは無いような。
違うんでしょうか。どうしてか、国民性に結びつけたくなった僕です


>>390
最近のお気に入りは、パイロットの消せるボールペンです。
60度以上でインクの発色が消えます。安心して本に線引して
検討できます。とか、読み進めて間違いに築いた線引がイヤだし
かといって、鉛筆だとアクセントというか自分が足りない気がする。
飛行機に、ちなみ引っ掛けてみまし他。
(しかし、基本はノートというする立場もある。)<> こりこり <><>2008/07/04(金) 02:13:52 ID:<>そういえば。
ふくろうさん、最近全然来ませんが、心配であります・・<> おっさん<><>2008/07/09(水) 20:45:48 ID:<>言いたいことがあれば、議論をしなさい。<> ふくろう<><>2008/07/10(木) 09:08:06 ID:<>>>393
横レス(?)失礼します。

このスレで我々が行おうとしていることは、ある問題について意見を主張し合い、それを互いに批判すること(討論)を通して、答えを見出したり客観的認識を得ようとすることではありません。
そうではなく、
ある主題・課題についてアイデアを出し合い、共感しうる一致点を見出し、それを触媒として各人相互に考え、またそれをフィードバック・対話し合いながら広げ・深めること。
それによって、個人単独では到達しえなかったような間主観的に共有可能な新しい視座・観点を創造・獲得すること
です。
(目指すのは「客観的真理」(ex.科学的真理)ではなく、「間(共同)主観的真理」(ex.芸術的真理)だと言えるかもしれません)

簡単に言うと、このスレの目的は議論あるいは討論を行うことではなく、ブレーンストーミング的な対話(そこでは基本的に批判は禁止です)を行うことなのです。
つまり、どの主張・解答が正しいか・誤りであるかを明らかにすることではなく、
より良き答えを参加者共同で探求・創造すること、
と言えると思います。

そういったこのスレの主旨…議論・討論ではなく対話…からは、
>>393 のアドバイスは、いささか不適切であるように私には思われます。

なお、このスレの主題により即した形でのその目的・方法論の簡単な説明は、>>148-149 にあります。
また、上で述べた議論(討論)と、対話についての少し詳しい説明が、

http://philosophy.bbs.thebbs.jp/1200308058/3
http://philosophy.bbs.thebbs.jp/1200308058/10-11

にありますので、よかったらご参照ください。

以上の私見が、>>393 の意図の誤解に基づく、まったく的外れなものだとしたらすみません、ご容赦m(_ _)m
<> おっさん<><>2008/07/10(木) 15:07:08 ID:<>>>394
下記スレッドに於いての書き込みの件についてです。

もし世界が…
明日に滅びるとしたら
あなたなら何をしますか?

[16]おっさん 08/07/09 13:13
>>0
極端な例を持ち出しても、実感の無い答えは想像でしかありません。
勿論、君の指摘通りの騒乱状態が起きてもおかしくないよ。
だが、世界の終わりを迎えても理性を保つ人もいるはずです。

このアンケートに意味があるのでしょうか。

[18]流れ星 08/07/09 17:22 *2y1sP/HbOcy*KTw8H6FDpD
>>16

スレの流れを読まない人は相変わらずいる。

>このアンケートに意味があるのでしょうか。

貴君が意味がない、と思ったなら、レスしなければいいんじゃないのか?
いやみな人間だ。
こういう人間はほんとうに多い。

[19]おっさん 08/07/09 20:05 *Y1gESPhTjUy*SDmFPmzLu3
>>18
流れ星さん、
>貴君が意味がない、と思ったなら、レスしなければいいんじゃないのか?

私はスレ主に
「このアンケートに意味があるのでしょうか。」
と問いかけて、返事を待っています。

解釈違いをしないで頂きたい。

[20]おっさん 08/07/09 20:25

こりこり <>7SP3bi2b1bj<>08/06/30 15:32 ID:KTw8H6FDpD<> 哲学と言う ...こりこり <>7SP3bi2b1bj<>08/06/30 15:32 ID:KTw8H6FDpD<>
哲学と言うと、おおむねギリシア哲学に ...

【ザ】日本人の哲学 『葉隠』そして「武士道」[0]こりこり 08/06/30 15:32 *7SP3bi2b1bj*KTw8H6FDpD: 哲学と言うと、おおむねギリシア哲学に端を発する「西洋哲学」を ...

ねことオートバイと哲学[1]こりこり 08/07/03 03:05 *7SP3bi2b1bj*KTw8H6FDpD >0 >奥さんが不細工なプロ野球選手 それが野球を語ることと関連して ...

[8]こりこり 08/07/06 06:32 *7SP3bi2b1bj*KTw8H6FDpD
>>7
>無外さんみたいな強い人と普段じゃ絶対出来ないことをする弱い人がでると思う。

>>18
こりこりさん、貴方でしょうか。

-------------------------------------------------------------------
ふくろうさん、お分かりいただけるでしょうか。
人違いであれば申し訳ないことですが、こりこりさんから、一切の釈明もありません。

以上です。<> ふくろう<><>2008/07/10(木) 16:30:00 ID:<>>>395
そのようなスレ違いの問題を、>>393 のような形で何の断り・注釈も入れることなく書き込むのは、マナー違反以前に、基本的な規則違反ではないですか?
大変迷惑ですので、今後、>>393 や>>395 のような、このスレッド・テーマと無関係な他スレッドでの問題に関する書き込みはやめてください。
このスレッドで発言したいのなら、何らかの形でスレタイに関係すると思われることを書き込んでください。
それが基本ルールです。

この私のレス自体本来望ましくありませんが、非常にうまく有意義な対話が行われているこのスレが荒れるのを防ぐためと、おっさんさんは単なる荒らしではないと思いますので、あえてコメントしました。
ご理解ください。
<> おっさん<><>2008/07/10(木) 17:01:43 ID:<>>>396
了解しております。<> み学<><>2008/07/13(日) 20:30:44 ID:<>あぁ男であったなら毎日オートバイに乗ると思います。<> こりこり <><>2008/07/13(日) 21:11:36 ID:<>>>398
>あぁ男であったなら毎日オートバイに乗ると思います。

男じゃないと、毎日オートバイには乗れないのですか?^^<> み学<><>2008/07/14(月) 05:55:44 ID:<>昨日人家のない道でヤンキーな車にあおられて
80キロ出したらぴったりついてこられた。
車で良かったと思います。
お巡りさんごめんなさい。スピード違反。

<> ふくろう<><>2008/07/14(月) 17:13:00 ID:<>>>398
あれ?
み学さん。
こないだまで確か、ライダーは背中に死神を背負っているとか、バイクは犯罪の臭いがするって言ってらしたのに(笑)、いったい、どういう風の吹き回しでしょう?
まさかこりこりさんに感化されたんじゃないでしょうね。

いや、そうでなきゃ良いのですが…
とにかく、こりこりさんやきりんぐらすさんには、くれぐれも注意された方がいいですよ^^
<> み学<><>2008/07/14(月) 18:13:26 ID:<>>>401
ここ一・二年50キロで走っていたから
80キロ出したら曲がるとき気持が良かったので
カーブをスピンしたくなっただけです。
こりこりさんは、遊び上手の人ではないでしょうか?
リアルのほうが実はいつも恐怖なのです。
高校の時に呼び出されてすっぽかした人とか・・<> こりこり <><>2008/07/14(月) 19:49:47 ID:<>>>401
>とにかく、こりこりさんやきりんぐらすさんには、くれぐれも注意された方がいいですよ^^

たしかに。
「朱に交われば赤くなる」ともいうし。
赤い、といえば。
さっき、リハビリから帰る途中、あんまり夕焼けがきれいだったので
病院から自宅まで3キロしかないのに、
30キロ以上も余分に走ってしまいました。
オートバイの魔力であります。

>>402
>こりこりさんは、遊び上手の人ではないでしょうか?

いえ、書き込みを見ていただければお分かりのように、
いたって真面目な、愚直な男であります。
ただ、少々「お調子者」であるだけであります。
<> み学<><>2008/07/14(月) 20:04:39 ID:<>気分良く運転するのは理性と感情のバランスとコントロールが
いいということらしいです。
運転するとは人生をコントロールする術にも似ているらしいです。<> こりこり <><>2008/07/17(木) 02:02:12 ID:<>「バイクはファッションであるか?」というお題をふくろうさんからいただいたので、考えてみたいと思います。

「バイクはファッションであるか?」

本屋の雑誌売り場には現在本当に多くの「バイク雑誌」がならんでおります。
昔は、
『オートバイ』と『モーターサイクリスト』の二誌しかない時代を知っているおいらには「隔世の感」がありますね。

その雑誌の中のひとつにバイクを「ファッション」として捉えている「ライダー」のための雑誌もあります。
おいらはファッションにはほとんど興味がないので、
手にとって眺めるということはあまりないのですが、
それでもたまにぱらぱらとめくってみたりはいたします。

どの「ライダー」も渋谷か新宿のような繁華街を背景にして写っております。
おいらには、やや「異様な」印象を感じますが、そういうオートバイとの接し方もあってよい、とは思うのでとくに感じるところはありません。
「バイクはファッションでもある」なら、それはそれでかまわないからであります。

が。

われわれがオートバイの本質を語っているときに、
彼らによって「バイクはファッションである(あるいは、ファッションでしかない)」と断定されたら、
おいらは「意義あり」なのであります。

(めんどうなので、深くは考察いたしませんが^^)


<> ふくろう<><>2008/07/17(木) 08:54:44 ID:<>お題はいまいちでしたかね?(^_^;)

別スレでの「哲学は娯楽(流行)である」という主張で思いついたものですが、
まあバイクをファッションと捉えている人がいるわけです。
私もふだんは別段なんとも思わないし、そういう系統の雑誌を見て、
ふつうにかっこいいなあ、などと思ってみたりします。
でもあらためてじゃあ「好きか、嫌いか」って問われたら、
まあ正直なところ「あんま好きじゃない」という感じです。
これはビグスクがあんまり好きになれないのとも連動しています。
取り立てて否定したいわけではないですけど。
でもなんか反感というか、抵抗のようなものを感じる気がするので、それがいったいなぜか少し掘り下げて考えてみてはって思ったのです。

ファッションとしてのバイクの目指すところを「カッコいいバイク」と単純に言い表すとして、そのカッコよさは前に話したことのあるオートバイの美しさと相反する場合があると思うのです。
バイクの美しさは前にも述べたように、実用的な意味での機能性ではないものの、バイクの存在意義そのものである「走ること」という目的に裏付けられた機能美だと私は思います。
で、それは形に必然性がある、と言ってもよいと思うんです。

ところがいわゆる「カッコいいバイク」の中には、この意味での機能性・必然性を著しく欠いたものがあります。
どうもそれが私は嫌なんだと思うのですよね。

それとやはり単純に、ファッションということはすなわちバイクもファッションアイテムのひとつにすぎない、ということであり、そこに取替え不可能なバイク固有の意味を見出していない、という気がするのですね。
自分がこれだけ意義があると思ってるものを、いや、そんな大層なものじゃないよ、と言われて、腹立って「君にはわからないんだ」って言ってるようなもの、って可能性も。
それに少なからずやっかみもあるかも(笑)。
すんごい良いバイクに乗ってるひといますからねぇ。

まあ何にでもアプリオリな意味を求めてしまう哲学病の一種かもしれませんが…
<> こりこり <><>2008/07/17(木) 09:58:49 ID:<>>お題はいまいちでしたかね?(^_^;)

いえ、そんなことはありません。
ふくろうさんが別スレで、「哲学は娯楽(流行)である」というkyrieさんの主張への反論をしている内容が、このお題のおかげでおいらにもよく理解できたからであります。

kyrieさんが「哲学は娯楽(流行)である」という主張が、
「哲学は娯楽(流行)である((kyrieさん個人にとって)」というかぎりでは、全く問題はないし、おいらはそれもあり、と思います。
しかし、kyrieさんが「哲学とは娯楽(流行)である(普遍的に)」と言った場合は話が違います。
「異議あり」なのであります。(ついでに>>405 のレスでの「意義あり」は「異議あり」の誤りであります)

>まあ何にでもアプリオリな意味を求めてしまう哲学病の一種かもしれませんが…

それはとても「健康的な」病気だ、という気がいたします。

「適度な不健康は過度な健康に勝る」と、誰かが・・・

<> こりこり <><>2008/07/17(木) 10:00:11 ID:<>kyrieさんが「哲学は娯楽(流行)である」という主張が、

kyrieさんが言うところの、「哲学は娯楽(流行)である」という主張が、

<> こりこり <><>2008/07/17(木) 10:22:03 ID:<>肝心なことを書き忘れました・・・

おいらにとって、オートバイは「ファッション」ではありません。
そう思って乗っている人たちに対して
「オートバイとは〜〜である」と積極的には言いませんが、
たまたま話をする機会があったときには、
おいらは、しっかりとおいらの考えを主張いたします。(そんなもんじゃないよ、と)
最低限、「ヘルメットだけはちゃんとかぶりなさい」と説教はします^^<> 水原<><>2008/07/18(金) 22:53:22 ID:<>みなさんこんばんは
>>409  気持ちは良くわかりますが

チョット別な意味で ロレックス 見たいな時計はどう思いますか?

追伸 ヤマ発主催、SR発売30周年記念が静岡でこの週末行われます。

当然行って来ます。片道300キロですが 今からドキワクです。

<> こりこり <><>2008/07/18(金) 23:16:47 ID:<>>ロレックスみたいな時計はどう思いますか?

「時計」として見たとき、いい時計である、と思います。
「値段」を見たとき、時計ではない、と思います。

>追伸 ヤマ発主催、SR発売30周年記念が静岡でこの週末行われます。
当然行って来ます。片道300キロですが 今からドキワクです。

あら。
おいらもいきますよ。
20日、21日の二日とも。(近いので)


<> み学<><>2008/07/19(土) 18:07:00 ID:<>叱られた時バイクを飛ばしたくなるのは何故なのでしょう?
<> ふくろう<><>2008/07/20(日) 09:48:11 ID:<>>>412
自由を感じることができるから<> み学<><>2008/07/20(日) 17:07:00 ID:<>ちょっと山に行ってきたのですが
バイクのおじさまたちスピード無茶し過ぎです。
その間放ってるおばさまたちは、夕方の家の買い物で疲れています。
何作ろうかと女の子にスーパーで口説いているお兄様たちより
たくましすぎる体格のライダーさんたち。
まだ二十歳前位の子たちまで20人くらいで怖そうに走ってます。<> こりこり <><>2008/07/21(月) 01:33:48 ID:<>袋井のヤマハテストコースでおこなわれた、「SRミーティング」に行ってまいりました。
おいらは「セロー」で行ったので、遠くのほうに「隔離」された駐車場へ誘導されてしまいました・・

しかし、「SRばっかりあんなに集まると」壮観であります。
中には熊本から来た人も。

水原さんもあのなかにいたのかな?<> 水原<><>2008/07/21(月) 09:59:43 ID:<>>>415
こんにちは メモリアルラン! 総勢300台位の走行 ご覧になられましたか?

当然参加しましたよ メモリアルラン!! 二日間で700キロの強行でしたが、一生の思い出になりました。(因みに磐田に泊まりました)

印象的だったのは、誰もが心からの笑顔だった事!

最高でした!
<> み学<><>2008/07/21(月) 17:41:42 ID:<>今日前の軽の黒車のおふたりが
運転中キスしたりもたれあったり
あぁもう見ていられなかったのですが
初めてカップルに嫌悪を感じました。(変態っぽくて)
それに比べてオートバイで抱きついて走っているペアには
何故か憧れてしまいました。<> こりこり <><>2008/07/23(水) 01:31:18 ID:<>>>416
>メモリアルラン! 総勢300台位の走行 ご覧になられましたか?

観ておりましたよ。
ああいう雰囲気を感じたのはひさしぶりであります。
学生時代のデモに参加したとき、を思い出しておりました^^
<> ふくろう<><>2008/08/01(金) 18:20:32 ID:<>え〜、直接オートバイとは関係ないのですが、前に廃墟について話したとき(>>209 )、無人の常設テントについて語ったことがありました。
今オートバイと直接関係ないといいましたが、テントというのは貧乏ツーリング・ライダーの必需品なので、少なくともある種のオートバイ乗りにとってはむしろきわめて関係の深いものです。
そこでちょっと書き残していた考察の続編を…

まずテーマはこうです。
現在比較的大きなキャンプ場というのはたいてい常設テントがあります。
私の経験ですが、シーズン・オフにこういった無人の比較的大きなキャンプ場に泊まると、夜、常設テントが非常に怖いのです。
というか、状況設定としては、そのキャンプ場にたどりつくのが既に日暮れ以降暗くなってから、でキャンプ場が設備の整ったところであるにもかかわらず、無人で電気ひとつついていないような場合。
そうして暗闇のなかに常設テントが並んでいると、非常に怖い。
何かいるような気がしてしまうのです。
以前これを廃墟と非常に似た感じだと述べたのですが、なぜこの常設テントが怖いのか、ということがテーマということになります。
<> ふくろう<><>2008/08/01(金) 18:21:56 ID:<>で、話は大きく迂回します(哲学的迂回(笑))。
これから述べるのは指示代名詞についてですが、後述するテントというものの存在意味を考えるために、後で指示代名詞とテントを類比するからです。
内容は言語哲学の論理的固有名についての議論と関連しますが、けして議論として正しいことを主張しようというものではありません。
ただ、わかりやすい類比として利用するためと、このような一見何の関係のないところにも観ようによっては関連がつきうることを示唆しようとするものです。

さて、
「これは存在しない」
「最大の自然数は存在しない」
「シャーロック・ホームズは存在しない」
といった言明を考えると、最初の「これは存在しない」という言明だけはちょっと他と異なって、偽でしかありえない、あるいは無意義だと感じられるのではないでしょうか?
というのは、
たとえば「これはAだよ」とある人が言明したとして、「これ」の指示するものが存在する場合、その当のものがAであるか否かは事実に拠り、それがこの言明の真偽となります。
しかし、「これ」の指すものが何ら存在しない場合、真偽以前にこの言明は意味不明でしょう。
「これ」という語が正しく用いられ、「これはAだよ」という言明が有意義である限り、「これ」という表現は何らかの実在の対象を指示していることが前提となります。
つまり、「これ」の指すものが存在しないのなら、「これは〜」という言明自身がそもそも無意義になるわけです。
それに対し「最大の自然数」や「シャーロック・ホームズ」はその指示対象が現実存在しなくても、それを含む言明は無意義とはならず、たとえば上の「最大の自然数は存在しない」「シャーロック・ホームズは存在しない」という言明は、ともに正しいと考えられます。
まとめると…
一般に「これ」のような指示代名詞は、言明において正しく使用され存在するとき、必ずその指示対象の存在を含意あるいは前提する。
したがって「これは存在しない」という言明はその意味でアプリオリ(事実がどうであるかに依存せず)に偽、それゆえそれを用いて真であると言明・主張することは無意義あると思われるのです。
<> ふくろう<><>2008/08/01(金) 18:23:49 ID:<>で、本題にもどります。
私が思うに、テントというのは、そもそも常時定在すべき家ではなく、本質的にあくまで臨時に設営される家の代用・仮の宿です(「代用」「仮の宿」という表現は問題があると思いますが、ここでは措きます)。
そのとき・その場で必要だから設営され、必要なくなったら撤収され、移動するべきものです。
それはいわば指示代名詞が言明中に現れるとき、かならず何かを指しているように、テントが存在するなら、そのときそれを必要とする人がいなければならないはず。
すなわち、そのテントを必要とする人の存在を、テントの存在が指し示しているのもののはずなのです。
逆に言えば、必要とする人がいないなら、設営されるはずもなく、したがって存在するはずのないものなのです。
ログ・ハウスのコテージがキャンプ場にある場合がありますが、これは普通の固有名と同様、いわば固定的家であって常時存在するのが本来的在り方、それゆえ逆に人が留守であっても何ら矛盾的なことはなく、まあ納得できます。
しかし、テントが留守なんてことは本来おかしい。
たとえば雪山で無人・空っぽの山小屋が見つかるのと、無人のテントがみつかるのとではぜんぜん意味が異なるでしょう。
明らかに後者の場合、遭難ではないかと…

要は、テントというものは、それが存在する限り、それを必要とし設営した、それを使用する人が存在すべきものである。
テントがあるのに人が存在しないというのは、指示代名詞が存在するのにその指示対象が存在しないのと同様、本来使用が間違っている。
宿泊者が存在しないなら、テントも撤収されるべきものである。
ゆえに常設テントはその存在自体間違っている、
テントとはその時その場で必要とする人がいて、あくまでその限定つきで設営されるべきものであって「常設テント」など存在矛盾であり、無意義な存在である!
と、まあ、そう言いたいわけです(笑)

で最初にもどると、
人がいないキャンプ場の常設テントを夜、暗闇の中で見ると、本来存在すべき住人が存在しない抜け殻として感じられる。
というか、どうしても誰かが、何かがいるように思えるのです。
あるいは、常設テントの存在自体、あるはずのないものが現にそこにある(∽ 幽霊)わけですから、いるべきでないものがそこにいてもおかしくないというか…(笑)
このへんに常設テントの怖さがあるように私には思われるのです。

嘘だと思われる方は、十月以降、お試しあれ(笑)
<> ふくろう<><>2008/08/02(土) 09:28:49 ID:<>私はこりこりさんが以前バイクカテに立てておられた、
http://motorcycle-touring.bbs.thebbs.jp/1197633055/

というスレの主旨に同意するものです。
前にこのことについて述べると言って(>>60 )から書かないままになっていましたので、今回はこの「バイクにカーナビはいらない」という主張の根拠付けを行います。

>>343 において示したように、意味としてのオートバイの世界は、日常世界と異なり偶然性の世界であり、未知の世界です。
地図というものがもつ意味は、この人間の住む地上世界が即ち地球上の世界であるという認識もなかった大昔、大海原を航海した船乗りたちが星を読むことによって方角を知った、そういう知識とつながっていると思います。
地図を読むことはひとつの技術であり、その技術をもつ者は未知の世界を行くとき方向を決定する能力がある者…たとえば船長…です。
逆に言うと、地図はけして誰でもそれを持っていれば必然的に目的地へと到着できる道具ではありません。
地図をもったからと言って必ず目的地につけるとは限らず、世界が未知であることに何ら変わりなく、ツーリング世界はいわばご先祖様から伝えられた知識を導きの糸に冒険の航海へと出て行く船乗りにとっての海のようなものです。
ですから、迷うことはあたりまえのこと。
迷わなければうまくいったことで喜ばしいこと。
グループでツーリングする場合、地図を読める能力の有る者が正しくリーダーであり、その人物はその限り実質的に「えらい」のです。
<> ふくろう<><>2008/08/02(土) 09:30:54 ID:<>しかし、カーナビは根本的にその意味が地図と異なります。
カンタンに言うとカーナビは世界の偶然性を排除し、世界をを既知のものへと変えてしまいます。
目的地へ着くのは当たり前、必然的に着かねばならない。
つかなければ腹をたててしかるべきものとなります。
宝の在りかを示した地図をもって旅立つ海賊の宝探しは、そこへの到達が必然的に約束されたものではないがゆえに、冒険です。
しかし、カーナビでは冒険ではありえない。
カーナビで行く世界は偶然性が存在せず、どこまでいってもあらかじめあるとわかっている=既知のものが、それのみがあり、そこへと必然的に到達する世界であり、冒険ではありえないのです。

ゆえに地図とカーナビのその存在意味はまったく異なるものだと私は思います。
カーナビはたんにより便利に進化した地図ではない意味をもっているのです。
そしてそれは世界から偶然性を排して、世界を日常化します。
これはオートバイに乗ることの本質的意味と相反する意味を持ちます。
オートバイに乗ること自身が世界の偶然性を取り戻し、未知なる世界へと旅立とうとする行為なのに、カーナビをつけるということは、オートバイに乗るという行為の根本的意味をいわば剥奪してしまうからです。

ちょっとずれますが、設備の整いすぎたキャンプ場を嫌うアウトドアマンの気持ちも、同様に解釈できるでしょう。
日常化されたキャンプ場的アウトドア世界は、すでに“自然”という意味を失っている。
カーナビが冒険の旅から冒険性を奪うように、便利なキャンプ場の利便性は、ネイチャー体験からその自然性を奪ってしまうのです。
<> み学<><>2008/08/02(土) 18:50:59 ID:<>オートバイなら渋滞をスイスイ
カーナビのこんな道通れないというコンクリにミラーをこすった道
引き返せない、りごうできない、対向車に出会いませんようの道
こんな崖っぷちどうやって行くの道・・(死)
そんな道もオートバイならスイスイ。<> こりこり <><>2008/08/04(月) 05:35:43 ID:<>昨日は久しぶりに「ロングツーリング」400キロを走ってまいりました。もちろん、ナビなし、高速SAでもらった「おまけの地図」のみで^^。
豊橋→本宿→豊田→新城→設楽→茶臼山→下条村→飯田→下栗
→飯田→恵那山→中津川→多治見→豊田→岡崎→豊橋

感じたことは・・・「夏は暑い」・・・<> こりこり <><>2008/08/04(月) 05:46:25 ID:<>人間もまいりましたが、わが愛車、現代の日本の技術の粋を尽くした「ヤマハXJR1300」もついに「弱音」を吐きました^^

下栗からの帰りの下り坂。えんえんと続くタイトな急坂。
ブレーキに頼るしか減速の方法がない状況。
おいらはうまれてはじめて「フェード現象」というものを体験したのであります。
突然、リヤブレーキが抜けたようになり、まったく「効かない」。
踏み応えが無く、ふにゃ〜〜。
フロントBは無事でありましたが、こっちがアウトになったら「どうするよ!」
しばし恐怖の「ダウンヒル」ではありました。

こういうとき。人間は「哲学的には」考えていられない^^
<> ふくろう<><>2008/08/09(土) 08:32:48 ID:<>夏バテバテなんで、今日から明日、山の方へ、
ショート・ツーリング+キャンプ
に行って来ます。
<> み学<><>2008/08/09(土) 18:57:28 ID:<>カーブで体を傾ける時の快感は、何なのでしょう?
<> こりこり <><>2008/08/10(日) 04:08:55 ID:<>>>428
>カーブで体を傾ける時の快感は、何なのでしょう?

それは、身体をつかってものを考えるときの快感なのかもしれない。
<> こりこり <><>2008/08/10(日) 04:11:08 ID:<>>>427
>ふくろうさん
気をつけていってらっしゃい。<> ふくろう<><>2008/08/10(日) 21:27:37 ID:<>こりこりさん、ありがとうございますm(_ _)m

さきほど7時30分頃ツーリングから無事帰りました。
二日で320km程のたいした距離ではなかったものの、
それでも暑い最中に走るのは、私にはけっこうハードでした。
38度という表示のところもあったぐらいで、見たときにはげんなりしました(笑)。
お盆という時期だからかもしれませんが、
ライダーの数は五月の連休時期と較べるとだいぶ少なかったように思います。
>>425 で書かれていたように、私も「夏は暑い」と実感しました。
でも去年体調が悪くて夏まったくツーリングができなかったことを思うと、
今年は満足です。

昨夜は標高600メートルほどの高原の湖畔でキャンプしました。
さすがに夜は涼しく快適で、夕食はキャンプの定番カレーを食べました。
ちなみにカレーはキャンプの王道ですが、バーベキューはしたことがありません。
夕食後は焚き火をしつつおやつを食べ、コーヒーを飲みながら話をしました。
焚き火については椎名誠が興味深い話を書いており、その影響もあるかもしれませんが、かなり好きなんですよ。
DNAの奥底に格納されている原始の記憶が、焚き火の空間・時間では呼び起こされてくる感じがします。
そう言えば京大霊長研のパイオニアたちが50年ほど前にアフリカのジャングルでフィールド・ワークしたときも、一晩中ずっと焚き火をしてその周りで寝袋にはいって寝たそうです。
朝起きたら近くにライオンの足跡が残っていたりしたらしいです。

そう言えば、さすがにライオンということはありませんが、私は以前、朝起きたらテントの周りが鹿のふんだらけで、驚いたことがあります。
後できいたらそこは鹿の水場で夜中に群れが水を飲みにきてたようでした。

たぶん大昔から火は人を守り、安心させ、癒す力があるのでしょう。
現在の都市生活では火のそういった原始的な意味は失われ、機能に分解されてたとえば「食べ物を熱する・調理する」ということは電子レンジやIHヒーターで代用・置換されていってるのかもしれません。

ただツーリング主体の場合はキャンプ場でそんなにゆっくりできないので、ここのところずっとやっていませんでした。
久しぶりに焚き火はやっぱりいいなあと思いました。
夜空もすっきり晴れていて、満天の星でした。

セローなんかで山の中へ行って、キャンプするのは楽しいだろうなあ^^

<> こりこり <><>2008/08/12(火) 04:33:49 ID:<>焚き火・・・

よみがえる若き日の熱い情熱の日々・・

恋の炎!!!

消えて・・久しいな。<> こりこり <><>2008/08/12(火) 04:45:05 ID:<>そうそう。
おいらも昨日走ってきました。
例によってあてなく走り出し、
ついたところは「御前崎」

海が丸くみえる灯台のある岬でありました。
あーいうところでながめると、海ってほんとに広いのね。

文庫本を2冊ポケットに入れていったのであります。

「西洋哲学史」と「恋するコンピュータ」。

状況的には哲学かな?と思い、哲学史を30分ほど海をまえにして読んできました。
ある意味ぜいたくな読書。

タレスが万物の根源は水であると、言うのもわかります。

海は広いな、大きいな。<> こりこり <><>2008/09/01(月) 07:53:03 ID:<>テレビでめずらしくオートバイの番組をやっておりました。
清水国明と国井律子が、山形県を出発点として、青森県の本州最北端、大間岬をめざして走る、という企画物。
ロングツツーリングの魅力がなかなかよく伝わってまいりました。

目的地の大間岬に着いたときの清水のことば。
「ようよう着いたんやけど、なんかうれしいような、うれしくないような・・」

この気持ち、よくわかる。
「着く」ということは「終わってしまう」
ということだからでありますね。<> こりこり <><>2008/09/20(土) 10:46:57 ID:<>久しぶりにツーリング(バイク屋さんのメンバーと)に今から行ってきます。一泊で八ヶ岳まで。午後、出発予定であります。

さっき、歯医者さんに行き、帰りに本屋さんで新書を一冊買って帰ってきました。
買ったのは、『自由に至る旅?オートバイの魅力・野宿の愉しみ』花村萬月著。
まえがきに、
オートバイは人を(他人を、あるいは自分を)殺す可能性のある道具である。
オートバイに乗ることは現実に死ぬ(殺す)かもしれないという可能性を選択したということである。
それは
ひたすら自分が選択したことである。
それが『自由』の意味である・・・

みたいなことが書いてあります。

この本をもって今から行ってきます^^


<> ふくろう<><>2008/09/20(土) 11:26:57 ID:<>いいなあ、気をつけていってらっしゃい( ~っ~)/<> ふくろう<><>2008/09/20(土) 11:28:45 ID:<>あれっ、そういえばもう、手首治ったんですか?(笑)<> こりこり <><>2008/09/20(土) 11:48:49 ID:<>>あれっ、そういえばもう、手首治ったんですか?

治って、ません。
でも、動くから大丈夫です。

心の痛みと体の痛みをかかえ、これ以上の余計な痛みをつけくわえないように心して、いってまいります。

<> ふくろう<><>2008/09/20(土) 12:08:44 ID:<>>治って、ません。
>でも、動くから大丈夫です。

まあ、どうせそんなことだろうと(笑)


ふむ、“心の痛み”かあ…

ほうき星は宇宙のはぐれ者
衛星になろうなんて、望んじゃいけません。

「ほうき星は自由に呪われている」 by 偽サルトル<> み学<><>2008/09/20(土) 19:06:17 ID:<>自由と友達は恐怖ですよ。(in犯罪都市)
<> み学<><>2008/09/20(土) 19:31:30 ID:<>日本語で言うと誤解されるので
Fearfulnes with freedom とすると
正しく認識されるのです。

物事を一面だけで捉えると間違いです。<> ふくろう<><>2008/09/21(日) 12:45:05 ID:<>
地獄とは他人である by サルトル(ホンモノ)<> み学<><>2008/09/21(日) 17:35:00 ID:<>探していた青い鳥とは家の中の鳥かごの中?<> 死に神<><>2008/09/21(日) 17:49:47 ID:<>444(σ^-')σゲッツ!

縁起悪っ!

イワコデジマ・イワコデジマ

ほん怖・五字切り


皆・祷・怖・無・

弱気退散‥



オフバイクで土手下ったり、上がったり

オモロー

ほな元気でな〜〜〜

(^O^)ノ[]☆[]ヽ(^O^#)

ルネッサ〜〜ンス
<> み学<><>2008/09/21(日) 19:28:37 ID:<>福祉にかかわることに中流は夢のまた夢。<> こりこり <><>2008/09/23(火) 00:30:26 ID:<>ツーリングは独りでするのが基本だ、とマスツーリングをするたびに思いを新たにするのでありました。
たまにはマスも悪くはないんだけど・・・<> こりこり <><>2008/09/24(水) 03:40:17 ID:<>オートバイとは何か。

オートバイの構造を理解すること。
乗り方=操作方法を理解すること。
オートバイの「本質」とは何かを考えること。

哲学とは何か。

哲学の構造を理解すること。
哲学のやり方=思索の方法を理解すること。
哲学の「本質」とは何かを考えること。

<> こりこり <><>2008/09/24(水) 03:53:54 ID:<>オートバイの構造は、どのバイクも似ている。
フレームがあって、エンジンがあり、シートがあり、ステップがある。
操作系では、スロットルグリップがあり、クラッチレバーがあり、ブレーキレバー(ペダル)がある。
操作方法もおおむね同じである。

オートバイを走らせるためには、必ずしも「構造」を正しく理解している必要はない、が、操作方法は正しくおこなわないとえらいことになる。
間違った操作をおこなえば、オートバイは「正しく」まちがった挙動でしっかり答えてくれる。
オートバイはその点で、とてもわかりやすい。

オートバイの本質に関しては、「これ」というものはない。
ないわけではないが、人によって異なる答えがあるからである。
<> こりこり <><>2008/09/24(水) 04:04:42 ID:<>で、哲学である。

哲学の構造は、どの哲学も似ている(のだろうか)
言葉があって、言葉があり、言葉がある。
操作系では、言葉があり、言葉があり、やっぱり言葉がある。
操作方法もおおむね同じである(のだろうか)

哲学をするためには、必ずしも「構造」を正しく理解している必要はない、が、操作方法は正しくおこなわないとえらいことになる(のだろうか)
なっているのかも知れないが、オートバイと異なり、転倒とかのように具体的に眼でみることができないので、その点で、とてもわかりにくい。
<> み学<><>2008/10/06(月) 19:23:39 ID:<>政治家のいのちは言葉です。
二人いれば政治です。<> こりこり <><>2008/10/06(月) 20:37:43 ID:<>政治家にとって、言葉は命かもしれないけれども、
政治家の言葉からは「命」を感じない。<> み学<><>2008/10/06(月) 20:54:48 ID:<>言葉はいのち
しかし命は言葉じゃないのです。
逆は必ずしも真ならずなのであります。
<> こりこり <><>2008/10/07(火) 03:58:10 ID:<>夜中の空気がだいぶ冷たくなってきましたね。
さて、これからオートバイに乗って秋の哲学の始まりであります。

なにをいってるんだろうね、おいらは。<> み学<><>2008/10/07(火) 17:36:34 ID:<>時間と空間に限定されないもの真実を探して・・<> こりこり <><>2008/10/07(火) 22:57:01 ID:<>きょうは久しぶりの遠出をしました。
オートバイに乗って走っていると、ふだんよりも強く「死」を意識していることに気がつく。
ひとつの小さなミスが死と生との境目に直面させてしまう。
オートバイに乗るということは「わざとバランスを崩して、安定した状態から不安定な状態にさせて、コントロールする」ということなんだとこのごろよく思う。
オートバイの操縦とはそういうことなのだ。
何事もなく無事に帰りついた今日でも、「もしもあの場面でなにかミスを犯していたら、死んでたかな?」と思い起こすことが何度かあったし。自分がミスを犯さなくても他者のミスで危機に遭うということもあるわけで・・・
「無事だった」ということは、「危機が顕在化しなかった」ということだけで、それはやっぱり「単なる僥倖でしかなかったのだ」と思うのであります<> み学<><>2008/10/08(水) 18:19:55 ID:<>車に乗っていると、誰かを轢き殺しはしないかという加害者意識になったのは
事故で軽くぶつかっただけで被害者のお兄さんがその場で物損になったのを
人身事故に後からされて何度も警察から電話がかかってきて
現場検証とかしてあやうく免停になりかけて
事故って車に傷がつかなくてもこんなに大変なことになるんだなぁと
車の運転をすることの恐ろしさをしみじみ感じたことです。

オートバイは目の前で拉致されたのを見たことがあるので
オートバイに乗ったら百パーセント危険だと思います。<> み学<><>2008/10/08(水) 18:36:35 ID:<>人身事故を起こしたのにお金の経費は全くと言っていいほど要りませんでした。
これもインターネットと保険屋さんのお陰です。<> こりこり <><>2008/10/11(土) 10:07:21 ID:<>>み学さん

オートバイはたしかに危険なものであります。
しかし、それは生きることが危険であるのと同じなのであります。

「危険」といえば、哲学をすることもそうとう危険なことであります。
ひとつ間違えば死ぬこともありうる・・・

「人生に意味はない。生きることに価値はない。自殺こそ人が選びうる最良の結論である。」みたいなことに考え至ることだってあるし、
実際そんなことを書き残して滝壺に飛び込んだ人もいたような。。。

言葉のみによって構築された世界は「危険」であります。
かなり危ういバランスのうえになりたっていることに気づきにくい。

オートバイは、その点、じつにわかりやすい。
バランスを崩せば、転倒が待っている。
過剰な速度で限界を超えれば、死に直結する事故が待っている。

哲学をする心構えを知ることにおいても、オートバイに乗って走ることはじつに多くのことを教えてくれるのであります。

ただね、漫然と走っているだけではオートバイも何も教えてはくれません。それは、読書でもおなじですよね?
自分で考えてみることがほんとうに大事なんですよ。<> み学<><>2008/10/11(土) 17:39:21 ID:<>自分は原付バイクで冬に一時間走って震えました。
バイクの冬は耐えられません。<> こりこり <><>2008/10/12(日) 02:01:57 ID:<>真冬に軽装備でツーリングに行くことは、
サンダル履きで冬山に登ることと同じくらいに
「無謀」。
冬の日没は耐えられません。
(み学さんの文体をまねてみますた)<> み学<><>2008/10/12(日) 18:50:36 ID:<>オートバイってこけたら死ぬの?<> こりこり <><>2008/10/12(日) 19:06:43 ID:<>>>461
>オートバイってこけたら死ぬの?

「こけ方」によります。<> こりこり <><>2008/10/12(日) 19:12:22 ID:<>>>462 の補足

こけたら死ぬ、ということは、歩いていても「ありうること」なのであります。たとえば。

バナナの皮を踏む→すべってこける→そこに大きな石がある→石に頭をぶつける→死ぬ

こういうことなのであります。<> こりこり <><>2008/10/13(月) 10:46:43 ID:<>昨日から今朝にかけてほとんど寝ていないので、
オートバイに乗ることは「危ない」のですが、
あんまりいい天気(晴れ)なので、
どこかで昼寝をするためにでかけます。<> こりこり <><>2008/10/13(月) 23:03:19 ID:<>渥美半島先端の伊良湖まで行ってまいりました。
文庫の哲学入門書と小さなスケッチブックを携帯して。

スケッチ三枚。
海。家と木々。山の崖。

哲学入門書のエピクロスの説明の章を読んでおりました。
読んでいて気がついたことがありました。
最近のおいらが考えていたのはこの人が考えたことに似ているということでありました。
どうやら、
このごろのおいらはエピクロスだったのでありました。

<> こりこり <><>2008/10/18(土) 08:09:30 ID:<>むかしむかし。
あるところにおじいさんとおばあさんがおりました。
おじいさんは山へバイクで哲学に・・・・<> こりこり <><>2008/10/25(土) 06:55:07 ID:<>オートバイの雑誌を立ち読みしていたら、
もとGPレーサーの岡田忠之が
「すべての操作をやさしく流れるように」と言っていた。

同意であります。<> こりこり <><>2008/10/25(土) 06:59:35 ID:<>今日は磁石をもってツーリングにいこうかな。
ひたすらある方角をめざす・・・
といっても、南はすぐ海岸だからそれ以外。
「東西北」
西もダメだ。伊良湖岬だ。
北か東か。

ばかか、おれは。
地図見りゃわかるんだった。。。<> ふくろう<><>2008/10/29(水) 09:40:15 ID:<>
街中乗ってるぶんには大丈夫ですが、こないだツーリングで日が暮れてから乗ってたら、寒くて震えました(笑)

山中の外灯のまったくない道を走っていると、夜の世界は昼の世界と完全に異なる世界であるという気がします。
こういう主観的体験が自然哲学の基礎なんだと思います。
考えれば考えるほど、なかなか面白いことは尽きませんね…^^
<> 地下水<><>2020/06/26(金) 01:13:42 ID:LI/P9JJXjky<>>>469 ふくろうさん、自分は三歳の時に、外で走って転んで、ゴミ出しに割れてあったガラス瓶で右手の平をザクロの様に切って大怪我しました。五歳の時に初めて乗った自転車で水の少ないコンクリートの水路に落ちて、気付くと自分の血で夕焼けの様だったので、救急車に乗りました。

この間は寝不足で車で配達途中に崖や、交差点でウトウトしてヒヤッとしました。

梶井基次郎の檸檬を読んで、丸善と、梶井の何回忌かの時に上本町の仏壇に檸檬を供えてきました。

大学の実験では、僕の放電装置が不安定で危なかったので半分に切る様に先生に言われました。指導者の居ない夏休みに同様の実験をした大学では、吹っ飛んで二人亡くなりました。

その大学では激光に使われるのでしょうか、僕の使っていたレーザーと原理は同じですが、連続発振していたので、逃げ出しました。

原付は自由で、喜んで鳥本の神社にツブラジイの種を拾いに行った帰りに、長い川の上の橋で風にあおられましたので、もう少し重い車重が必要だなと思いました。

ウィトゲンシュタインは、数学科指導法で桜井先生が引用されましたが、非常に細やかな思考過程であった事だけ覚えています。あとで戦場に向かわれたことを知って、熱い人だと思いました。

桜井先生は、お上に一揆する村人が、サスケの様に秘密の技を受け継ぐ様なものです、と言われました。僕は秘密主義は嫌いで、誰にも役立つシェーマが、有難いと思っていたので、違うと思いました。

大府大哲学1号館の大きな満開の桜に夕日に照らされて、渦を巻いて雀の大群が帰って、枝に宿る様子はスゴかったです。

哲学の道の関雪桜まで桜尽くしの一日も大好きです。

母が亡くなりましたが。落ち着いて好きでしたが、「カノンのセレナーデ」は葬儀場の曲だと解りました。


<> ふくろう<><>2020/06/26(金) 19:55:14 ID:LI/yStA9QYE<>地下水さん

私の母も亡くなりました。
私はいわゆるマザコンで、宗教的縛りを含む、母からの精神的自立=独我論的世界からの離脱という意味があったので、なかなか青春期は七転八倒というか迷走しました(笑)

私は幼いころ身体が弱く、小児結核にかかって、母の背に負ぶわれて毎日近所の医院に通い、看護士だった母に注射をおしりにうってもらいました。
ただ、そのころから、おまえはこの世界に必要だから神様が命を授けてくださったんだよと洗脳されたおかげで、これまで犯罪と自殺だけはしようと思ったことがありません。
今でも、母の前に立って服を着せてもらっていたときのことを思い出します。
正座している母より、私は背が低かった。
その母が亡くなる前、すっかり小さくなって、病院のベッドから車いすに移るとき看護師さんらに抱えられていました。
あのとき、私が抱き上げて移してやればよかったと、それが今でも心残りです。
<> 地下水<><>2020/06/26(金) 20:46:43 ID:LI/P9JJXjky<>>>471 ふくろうさん

「今宵逢う人皆美しき」の桜の下で両親と神聖の御酒を頂いたのは良い思い出です。

母のお尻を拭きフキ、ご飯を上げたのも。

病院で、おみかんを上げたのも。

母はセント・アグネスで、僕はセント・ヴィアトールでしたが、入院の現実は砂漠の40日より厳しい様でした。

母は生前、「また会う日まで 神の守り 汝が身を離れざれ」とうたっていました。お華の教授もとり、庭のお華を生け、毎月教会の短歌会で十首詠み、時々お薄を入れてくれた一時が有難い思い出です。

母は第一勧銀の窓口を13年も務めたので、1億までなら1円も間違えずに暗算できるそうです。かないませんね。(笑)<>