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哲学自由議論 序曲

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[0] 葉隠武士 2007/07/19 09:04

タイトル通り、議題を特定しないで、皆さんに議論をしていただきたい。

最低限のルールとして、議論をする相手を特定する場合には、必ずその相手尊名を冒頭に入れる。レスアンカーを利用して、議論の流れを明確にする。

横レスも制限は加えない。

議論内容と全く関係のない誹謗中傷に関しては、私より厳重注意を行う。勿論、誹謗中傷が議論の起爆剤になることもあるので、いちいち細かいところにケチはつけない。

さぁ!古今東西、老若男女を問わず、何でも自由に語り合い、議論してください。

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[1] 葉隠武士 2007/07/19 09:46

端は私から・・・昨日のエゼキエル氏とsunsar氏のやりとりは、「仮定と定理」というスレで、またしても尻切れとなった。

エゼキエル氏が「哲学のあり方」に関して、何かを開眼したように見受けられたが、その行く先が知りたい、そんな私の勝手強引な思いで、これを建てた。

sunsar氏は来るだろうか。私は間違いなく、来ると思う。

エゼキエル氏は受けるであろうか、間違いなく受けると思う。

哲学の不毛や空洞化に、甘んじようとするsunsar氏と、不毛や空洞化に抵抗しようとするエゼキエル氏の、いわば、死闘のようなものを、私は強烈に予感するのである。

sunsar氏・・・

ご自分の主張というものを、何もしないといふ立場を守り続けることが、一体貴方の何を高め、貴方の哲学が、何に貢献しうるかを、真面目に考えられたことがあるか。

自明の理である「死」まで、相対化し、符号化し、ゲーム感覚で、弄ぶ。恐らく、貴方に欠如しているものは、日本語の力などではない。日本語を潜り抜けた後に残される、ご自分の現実といふものに対する、畏敬だけなのであろう。

sunsar氏・・・。貴方は社会に出て、働かれたことはおありか。?

そして、貴方の周りに、哲学とは無縁で、生き死にしてをられる人たちの、如何に多いかを、ご存知であろうか。

sunsar氏。貴方がもしも、哲学と無縁で生きておられる人に、本当に哲学と無縁な人間の姿しか、感じられないというのであれば、貴方の考えられる哲学など、所詮、貴方のつまらぬ自尊の域を、出ないものだ、と思われよ。

他人との言葉の共有を、馬鹿馬鹿しいとして拒む、その貴方の姿勢は、当然、現実の社会にも通用しない。それでもこういう、無味乾燥な持論を、淡々と繰り返せるというのも、sunsar氏!貴方が現実の社会といふものと、関わっていない証拠であろう。

sunsar氏!哲学を侮辱することが、そんなに快感でおありか。!現実社会から遊離して、根なし草のような、持論主張を繰り返すことが、そんなに愉快であるのか。!?

sunsar氏・・・もしも貴方にひとかけらでも、人間らしく哲学したい願望があれば、いつでも参られい。!

[2] エゼキエル 2007/07/19 15:00

>>1
>昨日のエゼキエル氏とsunsar氏のやりとりは、「仮定と定理」というスレで、またしても尻切れとなった。

申し訳ない;また俺が終わらせてしまった…

>sunsar氏は来るだろうか。私は間違いなく、来ると思う。

たぶんsunsar氏は来ないと思うな。
何故なら、スレ主が「来る」と予言しているから(笑)
彼はあまのじゃくだ(爆)
相手が肯定するような質問の投げかけをし、その後でそれを否定する展開が大好きなんだよな。
彼は相手を否定するという行為に今は取り憑かれているんだろう。

まあ、「彼は来ない」と予言することで、もしかしたら彼は来るかもしれないわけだが(笑)

だが今更不毛なやりとりに関心は持てない。
折角の新スレなんだから、もっと有意義な議論をしようよ(笑)
俺としてはスレ主の哲学論をもっと伺いたい。

[3] Amandil 2007/07/19 16:35

葉隠武士さん、スレ建ておめでとうござます。
えーっと、sunsar氏との議論の続きはここでいいんですよね?

>>sunsar氏
http://philosophy.bbs.thebbs.jp/1183342152/943
http://philosophy.bbs.thebbs.jp/1183342152/963
>ともかく、疑う余地と反証の違いを具体的に教えてください。
疑う余地というのが、あなたがたびたび用いられてきた
「今後覆される可能性」のことであれば、疑う余地と反証は異なる概念でしょう。

>では、洞窟の壁が幻覚であった、ないし日本語のように見えたものは見間違いであったとします。
>このときは、これ(「これ」とはその文章や幻覚の内容のことを指す)は証明と認められますか?
たとえ幻覚や見間違いであっても、その文章の内容が正しく証明を成しているのであれば、証明でしょう。

あと、横レスですが、
>日常的(数学的)には確かにそうですが、哲学で言う明証性といった概念については
>「差し当たって真」の方の用語ではありません。
日常的であってはいけないのですか?
いくら哲学の場であるとはいえ、用いる単語の一文字一句、
その全てが徹底的に哲学して得られた定義に沿って用いなければならないのでしょうか?
そんな人間がいるでしょうか?

[4] sunsar 2007/07/19 16:52

>>3
僕としてはあまり好ましくありませんが。

>疑う余地というのが、あなたがたびたび用いられてきた
>「今後覆される可能性」のことであれば、疑う余地と反証は異なる概念でしょう。
そうですね。
では、疑う余地というのは「今後覆される可能性」のことであると認めるのですか?

>たとえ幻覚や見間違いであっても、その文章の内容が正しく証明を成しているのであれば、証明でしょう。
そうですね。幻覚は、純粋に脳内の現象です。
では、幻覚を見ている人にとって、正しいかどうかはどのようにして判断されるのですか?

>日常的であってはいけないのですか?
>いくら哲学の場であるとはいえ、用いる単語の一文字一句、
>その全てが徹底的に哲学して得られた定義に沿って用いなければならないのでしょうか?
>そんな人間がいるでしょうか?
日常用語を哲学用語に訂正された場合は、それを受け入れればよいと思いますが。

余談。
これらの問題を表面的な言葉遣いの問題だと感じている人も多くいるようですが、
僕はそうだとは思っていません。
「真であると言えることは何もない」ということは、
自己の主張の正当性を「証明」によって保ってきた人にとっては、
その正当性を失墜させうるという意味で耐え難い主張になりえます。
僕は、正しいという保障がなくなるだけで実際には特に問題ないと思っていますが、
哲学に「絶対的な」救いを求めるような人にとっては反論の対象になるわけです。

「自分の主張が常に誤りを含みうる」ということの何が問題なのか、理解に苦しみますがね。

[5] エゼキエル 2007/07/19 18:29

>>3
Amandilさん、またしても俺が前スレを終了させてしまい、申し訳ない。
ご不便をおかけします。

[6] 葉隠武士 2007/07/19 19:31

エゼキエルさん・・・レス遅くなって申し訳ない。貴方の言葉を噛み締めながら、やはり、その線での貴方の選択肢もあるのだな、と感情を堪えながら読ませて戴きました。

貴方が一つの殻を破られたとき、同時にそれは、何かを卒業することでもある。エゼキエルさんがsunsarさんとの議論のはてに、ご自身でこの掲示板との関わり方を考えられたのであれば、私は心から貴方の卒業を祝福したいです。

といいながら、・・・何か・・・寂しくもある・・・

エゼキエルさん・・・私は貴方との出会いというものが、私にとって、真に哲学との邂逅であったと思います。貴方がいなければ、こんなに長く、この掲示板と関わることも、無かったと思います。

このスレを勝手に立ち上げたことを、改めてお詫びします。貴方の気持ちも考えず、私の憶測を書いて、貴方の心の奥に、泥を跳ねたことを、貴方にお詫びします。

エゼキエルさん。どんどん上に行ってください。そしてまたいつでも教えてください。

ちょっとこれ以上言うのはキツイので、・・・ご容赦ください。

[7] 諸葛孔明 2007/07/20 06:29

常連の皆さん。私は葉隠武士殿の遺志を受け継ぎ、このスレを受け継ぎます。

よろしくお願い申し上げる。

[8] 未完 2007/07/20 07:03

おはようございます。こちらこそよろしく。
日々是新。

[9] 2007/07/20 08:32

三国志の人に進化(笑)面白い

[10] 諸葛孔明 2007/07/20 08:56

彼さん!ありがとう。sunsar氏と議論するための、進化ですな。(笑)よろしくお願いいたしますよ。(^.^)

[11] エゼキエル 2007/07/20 09:08

>>6
いやいやいや、そういう意味ではないから、お詫びはなしでお願いしたい。泥を跳ねたなんてことも思ってない。
期待されることは嬉しいことだしね。
ただ、俺は自分勝手なんだ(笑)
自分の中で結論の出たことに拘泥しているのは性に合わないだけなので。

常に聞き手であった葉隠さんの哲学をゆっくり聞く機会がなかったから、この機会に語ってくれると有難いね。
本来、俺の掲示板での目的は人の哲学を理解することなので、本旨に戻れると有難い。

って、諸葛孔明さんになられたのか(笑)
孔明さんも期するところがあるのかな。
改めて孔明さんの哲学を拝聴仕るよ(笑)

[12] 諸葛孔明 2007/07/20 09:19

エゼキエル氏。ありがとうございます。

私の哲学に対する志は、葉隠武士氏と同じです。しかし私は葉隠武士の言われる「情念」を知的に高めて参りたいと思っています。

「知者は知に溺れる」という言葉もございますが、知を自尊心の為に用いるとは、まさに愚の骨頂ですな。(笑)

エゼキエル氏。貴方は「鏡の兵法」をご存知であろうか。

[13] エゼキエル 2007/07/20 09:32

>>12
諸葛孔明さん。
スレの主旨に従って、冒頭に議論相手尊名とレスアンカーを(笑)

葉隠さんと同じ口調で頼むよ(笑)でないと、やはり寂しい(爆)
俺らは寂しんぼか(笑)

>「情念」を知的に高めて参りたいと思っています。

それは理解できる気がする。結局はそういうことなんだろうね。
帰納とはそういうことなんだと思う。極めて私的な情念から抽出されるところのものを、昇華させて、理論化する。
そういう視座に立つと、正直、反対へと振れる座標には興味が持てない。「ある」ところには当然「ない」が存在するが、「ない」には興味が持てないということ。
「ない」を論じる場合、どうしても論理ゲームの色合いは避けられないと思うのだが、何故「ない」を論じるのだろう、という疑問が自分の中にはある。
きっとふくろうさんあたりはこの答えを持っていそうなのだが、問題はそれに俺が納得できるかどうか、なのだと思う(笑)
論理ゲームに胸躍らせたこともあったが、今はまるで興味がないな。
現実に演繹できない理論に一体どんな存在価値があるのだろう。
もしかしたら、その答えをもう得てしまったから、自分には必要がないのかもしれない、とも思う。

[14] エゼキエル 2007/07/20 09:34

あ、俺、質問に答えてねえ;

>>12
諸葛孔明さん
>貴方は「鏡の兵法」をご存知であろうか。

いや、まるで無知だ。ご教示いただければ有難い。

[15] 未完 2007/07/20 09:54

ヘイヘイホォ〜
ヘイヘイホォ〜♪
気立てのいい子だよ〜
ヘイヘイホォ〜
ヘイヘイホォ〜♪

[16] 諸葛孔明 2007/07/20 10:09

>>13

エゼキエルさん(笑)何か・・・貴方の言葉の方が、葉隠武士氏の口調に、似て参りましたな。(笑)

いやこれは失礼。・・・エゼキエルさん。・・・私の哲学とは、ひとことで言えば、「鏡」と「彫刻」なんですよ。

「他人」に対しては、他人のどんな意見や態度に対しても、ただ、自分は鏡でありたいと願う、そしてね、自分の意見といふものを披露するときは、ただ、彫刻家でありたいと願う、それだけなんです。

鏡になる、彫刻家になる、とは、自分の情念や知性というものを、過信しない、といふ、深いかなしい確信に到ることだ。

おのれを鏡とすることで、映し出されたものの、真如を信じ、同時に、夢幻を信じる、といふことですね。

行動は、どんな作品になるか、本人さえ分からない、彫刻家の態度になる。与えられた材料の前で、真剣に悩み苦しみ、やがて手が動いてゆく、そんな彫刻家の仕事に、前提とか持論とかが、一体何の足しになろふか、それがいわゆる、哲学への畏敬というものでは、ないでしょうかね。

私にとって、哲学のあらゆる材料には、鏡と彫刻家の無私があれば、十分深化できると感じるのです。

[17] 未完 2007/07/20 10:11

同じ過ちを繰り返すことは、同じ痛みを伴うことになる。私は、厭だ。私は、もうこれ以上の苦痛には耐えられない。だから、私は私の嫌な過去を脱ぎ捨て、今日新に、明日を夢見る。
私には、自由に生きる権利がある。

[18] 諸葛孔明 2007/07/20 10:19

>>17
これが本来の未完さんの良心だったのですね。

私も凄くうれしいですよ。

[19] 未完 2007/07/20 11:04

なんか…

[20] 未完 2007/07/20 11:06

本来と言うより、本音です。

[21] エゼキエル 2007/07/20 15:18

>>16
諸葛孔明さん
鏡の葉隠れ氏は十分に拝見したが、彫刻家の葉隠れ氏はまだ見足りないな(笑)
代りに孔明さんの彫刻家ぶりを堪能させていただきたいね。ところで、

>真如を信じ、同時に、夢幻を信じる、といふことですね。

は、「夢幻」でいいのか?一瞬、「無限」の変換ミスなのかな、と思ったのだが。

>>18
俺もすごく嬉しいね。

[22] 諸葛孔明 2007/07/20 16:27

>>21

エゼキエルさん。レス遅くてすみません。

私は葉隠武士殿から貴方のことは、詳しくお聞きしてましたが、・・・やはり手強いですね。(^^)

貴方の洞察力には、何か美しい余力を感じますよ。

あれは「夢幻」ですね。「真如」と「夢幻」は、相反する言葉のようにも見えて、これ程酷似した意味の言葉もありませんね。真実の如くみえて、同時にそれは、夢まぼろしである。ただ、そう言ってこれほど詰まらぬ言葉もない。

だから、鏡を一枚置くしか無かった。いわば哲学とは、この、たった一枚の鏡といふものに、もがき苦しむことでしかない、となりましょうか。

哲学の空洞化に歯止めをかける、二つの方法・・・ひとつは、哲学を捨てること、もうひとつは、中庸を知ることです。

エゼキエルさんがsunsarさんとのやり取りにおいて、哲学の不毛と空洞化をお感じになられたのなら、それは恐らく、貴方が真に中庸を理解する、絶好の好機といふものを、与えられたのかも知れませんね。

今、よたん氏がいいスレを建てましたね。ほどなく私も参加させていただきますが、こういうスレで、原点回帰して、哲学の本来の活気を、取り戻していきたいと思います。

エゼキエルさん。私から貴方に教えることなんて、何もありませんよ。

一枚の鏡に、苦しみましょう。私は葉隠武士氏同様、貴方のため息と元気に、深い敬意と期待を、抱くだけですから。

[23] エゼキエル 2007/07/20 16:59

>>22
>諸葛孔明さん
なるほど、鏡写しだから「夢幻」の方で正解、というわけか。孔明さんの方が手強いよ(笑)
俺も実を言えば、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」よりもルイス・キャロルの「人生とは夢でなくて何だろう」の方により真理を見出す人間だから、孔明さんの言うことはわかる気はする。

>エゼキエルさんがsunsarさんとのやり取りにおいて、哲学の不毛と空洞化をお感じになられたのなら、それは恐らく、貴方が真に中庸を理解する、絶好の好機といふものを、与えられたのかも知れませんね。

その鋭さはどこからくるのかな。実に御明察。
俺が葉隠れさんから得たキーワードは「哲学の空洞化」と「中庸」だった。「中庸」についてはやりとりでは語らなかったが、やりとりの根幹を成すものが中庸だった。sunsar氏は頑として認めたがらないが(笑)彼に足りないものは中庸であり、それは感情のコントロールでもあるね。現に別スレで彼は他の論者からも「感情的」と指摘されているようだ(笑)誰も見る目は一緒だね。他人の指摘は一度は見ないとね。自分を改める絶好の機会なのに惜しいことだよ。
「ある」と「ない」の真ん中に位置することもまた中庸であると思う。ゼロの視点。感情のゼロ。それは「無」ではなく「満」なんだよな。「色即是空空即是色」。空でありかつ色である。ゼロでありかつ満である。
二律背反ではなく、中空思想なんだな。sunsar氏は二律背反だね。文句があるならレスつけるな、という姿勢もall or nothing.。主張には見るべきものはないが、あれだけ膨大に垂れ流されると観察するには絶好のモデルだね。

何も教えてくれないのか?それならば盗むしかないようだ(笑)しばし観察者に徹するのも悪くない。

[24] 諸葛孔明 2007/07/21 06:49

>>23

エゼキエル氏。おはようございます。
「中庸」について、貴方にひとつの謎を送ります。これを解かれてみてください。
フランスの思想家レミ・デ・グウルモンの言葉です。「無益な正論を子供のようにふりまわす、世の大糞馬鹿どもよ。その醜い顔を洗って、私の戯言を真摯に聞け。

偉大なる真理は、極論の果てにあるのだ。わかるか、馬鹿どもよ。極論の果てに、美しい中道がある。分かるか、大糞馬鹿どもよ。

美しい中道のみを求めようとして、極論を避けることも、中道を得るために、極論に敢えて身を置くことも、ともに救われない馬鹿というものだ。中道は焦がれて求めるものだという馬鹿が、いちばん始末に負えなくて困る。・・・。が、かく言う私も、始末に負えない馬鹿の一人に過ぎないことを、この私の醜い顔に誓って、断言しておこう。

さて、私には奥の手がある。・・・こんな馬鹿でも、中道に到る唯一の奥の手が・・・簡単なことだ・・・ただ、発狂するということ・・・」

さてエゼキエルさん。発狂を中道に到る奥の手だと言ったグウルモンの言葉の真意を、解釈してみてください。

[25] エゼキエル 2007/07/21 12:52

>>24
諸葛亮先生(笑)
先生は意地悪だねえ(笑)謎かあ…難しいな。

正論が無益なら俺は発狂でいいな、とは思うな。
実際、無益な正論に直に接してきた経路がある。正論だが、実に無益で不毛な主張。それを感情的に振り回し、感情的ではないという矛盾。その一本道から一歩も外へ踏みだそうとしない怯懦。臆病者に何がわかるというのか。自分だけを後生大事に守り、傷つくことを恐れて真理に辿り着こうとするから、他人の弁を借りてくるしかないのだろう。出てくる事例は全てフィクション。いかに現実から逃避しているかがわかる。

正論の一本道しか知らなければ、どこに中道があるかは理解できないという気はする。極論の果ての限界の壁に触るから、その真ん中が初めてわかるのではなかろうか。
極論を知る。その世界の全てを知る。だから、その真ん中の美しい道の存在がわかるのだろう。

さて、謎はここから先だな。
発狂の世界もその「世界の全て」に含有されると解くか?発狂することで極限に到達できると解くのだろうか?世界の果ての壁に触る。
そして、中道に戻ってくる。果てと果てがわかるから、その真ん中がわかる。

ダメだ。降参だ(笑)

[26] 諸葛孔明 2007/07/21 14:46

>>25

おおっ!・・・素晴らしい解答!!・・・まさにグウルモンが泣いて喜ぶであろう、情熱的な解答!

貴方の答えは100点満点で99点である。

残りの1点は、この孔明から差し上げる。

グウルモンの「発狂」とは、フランス革命以降の「人道博愛」を起点とした「中道・中庸」の思想が、当世の優秀な学者達の権威によって、形骸化され空洞化されていることに対する、彼独特の憂いだったようです。

なお、グウルモンに関しての私の洞察を、以下に記しました。http://philosophy.bbs.thebbs.jp/pin/Mirenjo/1184803459

[27] 諸葛孔明 2007/07/21 14:54

>>25

ああ折角書いた長文が、エラーになりましたね。(;_;)どうもすみません。エゼキエル閣下!

[28] エゼキエル 2007/07/21 15:01

>>24
諸葛亮先生。
おお、意外と高得点だ(笑)

>当世の優秀な学者達の権威によって、形骸化され空洞化されていること

権威による空洞化、というのはいつの世でも曲者なのかもしれないな。権威づけられたものを有難がる世間知らずの餓鬼どももいるしね。
明らかなものは何もない、と斜に構えつつ、自らは権威の能書きに依存している矛盾にまるで気づかない、よく言えば純真、悪く言えば単純なお子様も多い。
俺の哲学の師は東大出だったが、権威にまるで興味のない人だった。ジャージ着て雪駄履いてぶらぶら歩いてた(笑)講義案内に、大風呂敷の広げ方をお教えする、と臆面もなく書いていて、それ以来、俺は、哲学とは大風呂敷の広げ方を教えるものなのだ、と承知している(笑)

空洞化していく実態は、知を弄ぶことに悦楽を感じる人間がいる以上、止められないのだろう。空洞化を高度な議論だと思っている向きがあるのも周知の通りだ。
現実から乖離していく知に一体何の価値があるのだろう。
それはそれだけで十分に芸術的なのかもしれないが、哲学というものが本来鑑賞するものではなかったことを思い出す必要もあるような気はする。

[29] エゼキエル 2007/07/21 15:01

>>27
リンク先が読みたいが、どっか読めるところはないかな?

[30] 諸葛孔明 2007/07/21 15:47

>>29

一時間近くかけた文章なので、何とかしてみます。!

哲学が大風呂敷ねぇ(笑)

実に下町って感じ、昭和初期の哲学書生あたりを、思わず想像しましたよ。つまりエゼキエルさん。貴方の哲学は、下駄と共に去りぬ・・・ですな。

ただ「哲学が本来鑑賞するものでは無かったことを思い出す」のところは、確かに文脈からすると、私もイエスですが、深い部分では、「偉大なる哲学は芸術でもある。良く鑑賞に耐えられる思想でなければ、一流の思想とは云えぬ」も真と心得ます。

勿論、貴方には「釈迦に説法」でしたね。(笑)

sunsarさんの建てられたレスで、ひとり逸材を見つけましたよ。

五平餅・・・じゃなかった(笑)黄金餅さん・・・。

何か一陣の涼風でしたよ、あの方の言葉は・・・。

どこかエゼキエルさん!貴方を彷彿させる、「スピード」「キレ」「クオリティ」があります。またあの方の主張を、ご覧になって見てください。

[31] 諸葛孔明 2007/07/21 21:08

以前、宮本武蔵の『五輪書』を読んだとき、風の巻ってあったっけ。

哲学では風って、議題になるのかな。『白南風(しろばえ)』とか『東風(こち)』とか『手打ち風』とか『古風』『聞いた風なことを言うな・・・』とか、その風について、哲学出来るのかな。

『風光る』とか『風薫る』とかいうけど、風って本来、無味無臭だよね。そんな風の存在理由って、なんだろうかね。「何か」を「運ぶ」とか、「何か」を「知らせる」とか「何か」を「伝える」とか、媒体の役目は、確かにある。でも・・・それだけ??『風が悪い』とか『古風』とかは、媒体じゃない。そのものの主体の印象を示している。・・・・・・いやまてよ?・・・やっぱり「印象を伝える」という「媒体」なんだろうか。

風の洞察って・・・もうこれで終わり?・・・まさかね?・・・でも他に思い浮かびません。誰か?風を教えて・・・。

[32] 落ち武者 2007/07/22 09:34

哲学というよりは、国語になりそうな…。

で、まとめていいものと悪いものちゃんと区別して考えないと、ただのこじつけになってしまう。
「「あくまで」と「悪魔」には関連があるのだ!」みたいなトンデモ説になる。

考える方向として、例えばこういうのは?
「風がある」とはどういうことか。
自分が走った場合とどう違うのか。

[33] エゼキエル 2007/07/22 10:02

>>30
>偉大なる哲学は芸術でもある

大事なのは、芸術「でも」ある、の部分かと。
芸術オンリーになってしまうと空洞化するよってことだと思うんだよな。古典芸能と呼ばれるものを現実世界とリンクさせることの難しさみたいなものかも…比喩的に合ってるかな?(笑)

[34] エゼキエル 2007/07/22 10:17

>>31-32
諸葛亮先生。
風か。
アプローチの問題だな。
神話的アプローチで始めさせてもらおう。
神話的アプローチの目指すところは人類の風に対する原初的な意識を理解するということ。
現在ではあまり顧みられることのない「風」という現象だが、古代においては「風」は絶大な存在として受け入れられていた。
それは風信仰に見ることができる。
風の神は古い神話であればあるほど、重要な地位を占めていることがわかる。
日本でも風の神を奉る神社は少なくない。
風に対して人間が畏れを抱いていたことの証拠だと思う。

次は言語的アプローチを試みる。目指すところは神話と一緒だ。
>>31 で孔明さんが挙げているように日本に限定しても、様々な風を意味する言葉がある。
『白南風(しろばえ)』『東風(こち)』の「はえ」「こち」は外来語だね。何語だったか失念したが。
『手打ち風』『古風』『聞いた風なことを言うな・・・』の「風」は風の特性からの比喩的使用と見るが、さてどうだろう。
風の特性として、ある一定方向へ物をなびかせる、というものがある。その特性から、ある方向へなびいているものを「〜風」と表現するものかと。だから「手打ち風(手打ちの方向へなびく)」「古風(古い方向へなびく)」…「聞いた風なことを」はちょっと趣が異なるか。

とりあえずここまで。

[35] 落ち武者 2007/07/22 10:28

>>34
>風の神は古い神話であればあるほど、重要な地位を占めていることがわかる。
具体的には?

[36] エゼキエル 2007/07/22 10:57

>>35
落ち武者さん

神話カテじゃないから割愛したんだが(笑)聞いてくるんだな(笑)
カテ違いだが、まあ、紹介しておくよ。
北欧神話の主神オーディンは嵐を神格化したもの。
ヒッタイトの神話ではイルルヤンカシュと争った名前不詳の嵐の神のエピソードが伝わっている。
シュメール神話の主神エンリルも風の神だ。
とりあえず思い出せるのはこれくらい。

[37] ふくろう 2007/07/22 11:22

>>34
エゼキエルさん。

>神話的アプローチの目指すところは人類の風に対する原初的な意識を理解するということ。
>現在ではあまり顧みられることのない「風」という現象だが、古代においては「風」は絶大な存在として受け入れられていた。

そうですね、こういうの面白いですね。
たぶん、こういった原初的意識とつながっているのではと思うのですが、山でキャンプをして、夜中に物凄く風が鳴り、木々が呼応するかのようにどよめいているのをテントの中で聴いていると、

>風に対して人間が畏れを抱いていた

ということもよくわかる気がします。
それを「神」と呼ぶかどうかは別として、それがなんらかの「意志をもったもの」という気はします。
そのとき同時に、自分がいるテントの存在する場所も、理性的に捉えられる近代的宇宙ではなく、神話的宇宙の中であるような、そんな感じになります。

[38] 落ち武者 2007/07/22 11:36

しかしまた、
火や空、大地などと違って、風は神そのものというよりは、
その息であったり、袋に入っていたり、何かを振り回して起こしたものであったりした。

[39] 諸葛孔明 2007/07/22 11:53

皆さん申し訳ない!子守りで書き込みができないが、ロムはしてるから・・・ホントすみません。面白い!

[40] シリウス 2007/07/22 13:13

「聞いた風なことを」

という言葉は存在しません。

「利いた風なことを」

なら存在しますが(笑)

[41] エゼキエル 2007/07/22 13:23

>>37
>ふくろうさん
そうだね。守られるものの何もない吹きっさらしに我が身を置くと、古代人の風への畏敬は理解できる気がする。

>理性的に捉えられる近代的宇宙ではなく、神話的宇宙の中であるような、そんな感じになります。

たぶんね、現代人にとっての理性とは科学に裏打ちされたものだと思うのだが、それは自然への畏れを克服するのに役に立ったとは思うんだが、古代においては神話的な解釈はまたそれはそれで「理性的」なものだったと俺は思うんだよね。科学がそれに取って代わっただけで。理性の対極に神話を置くのは、だから自分としては違和感があるね(笑)

>>38
>落ち武者さん
正確に言えばダウトだな(笑)

>しかしまた、火や空、大地などと違って、風は神そのものというよりは、
>その息であったり、袋に入っていたり、何かを振り回して起こしたものであったりした。

しかしまた、という並列ではないんだよな。
神として畏れられていた時代と、風が息であったり、袋に入ったりするのは時代が異なるということだ。
当然、前者がより古く、後者はそれより後世ということになる。
神格化され畏敬されていた時代から、長い時を経て人間は風への恐怖を克服する。防風林を設置したり、より強い家屋を発明したりしてね。
だから、時代が下るに従って、風への畏れがかつてよりも小さなものへと変貌する。それが神話に反映されているというわけだ。
主神の座を占め、絶大な権力をふるった風の神はやがてその権力を失い、神の息や袋詰めにされたりするわけだ。
神格の剥落は、その対象への畏れが遠ざかったことを意味している。
人が畏れる対象が別のものへと移っていく過程だな。

その後、風がどう認識されるようになるかは、洋の東西で異なってくるような気がするな。風の音に秋の訪れを感じるのは日本人くらいだと聞いたことがあるからな。

>諸葛亮先生
子守とはハイセンスなことをしているな(笑)そこからも得ることがあるだろう。頑張ってください、とエールを送る。

[42] エゼキエル 2007/07/22 13:26

>>40
>シリウスさん
ちなみに広辞苑を引いてみた(笑)
「利いた風・聞いた風」存在しているよ(笑)

この「ふう」は「なびく」の援用だろうな。そっちの方向になびいている→それのような→ような=ふう、なんだろうな。
うむ。国語になったな。

[43] シリウス 2007/07/22 13:49

>>42
まあまあまあ。あんまり私を苛めるのもやめて下さいよ。(笑)
広辞苑まで引かれたんですか。
どんな言葉もそうですが、辞書によっては許容されているものがありますね。
正確には「利いた風なことを」なんですがね。

早期内定の事を「青田買い」と言いますが、「青田刈り」を許容している辞書もあります。

[44] 諸葛孔明 2007/07/22 14:01

>>42

閣下の風の話しは、実に含蓄があり深いですな。(笑)因みに自慢ではないですが、私も赤壁の戦いにて東南の風を吹かせました。(笑)

私にとっても、風は私の味方でもあり、私の存在を脅かす敵でも、ありましたな。(笑)・・・

風穴を開ける、とは面白い言葉ですな。・・・いや、また長男が、お父さん携帯見るな、と怒ってきましたわい(笑)

[45] エゼキエル 2007/07/22 14:27

>>43
>シリウスさん
苛めてないって(笑)
ちょっと調べてみただけだよ;;
字引は趣味なんだ(爆)辞書引いてると時間を忘れるw

>辞書によっては許容されているものがありますね。

そうだね。誤用も流布すれば許容例になるからね。

>>44
>諸葛亮先生
そうだった。赤壁の戦いで風を吹かせたんだった(笑)
あれは科学的にはどう解釈されるのだろうか。
気候の変化を知っていたのだとする説があるが、それなら呉の人たちが知らないのはおかしいという疑問が残るんだよな。
って、ホントこのスレは話題自由だな(笑)

>風穴を開ける
日本は気候上、案外、風には敏感なお国柄かもしれないね。
家屋も夏を基本として作られているというし。高温多湿では風をいかに取り入れるかは重要な案件だったろうしね。
ちなみに風も調べてみる。
「かぜ」という名称は、擬声語とも、「フカセ(吹かせ)」の「フ」が落ちたとも言われているらしいよ。

[46] エゼキエル 2007/07/22 14:30

>>43
>シリウスさん
ちょっと思ったが、「青田買い」と「青田刈り」では根本的に意味が違うよな(笑)青いうちに刈ってどうする、みたいな(笑)
そうか、刈ってしまうから今の若者は使い物になら、(ry

[47] 諸葛孔明 2007/07/22 15:21

>>45
閣下!

風の向きや強弱は、雲の動きや海の水の温度で分かる見たいですよ。例えば、雨や風雨のあるなしは、気象予報士よりも地元の漁師の見立ての方が、より現実的に正確だった見たいです。

孔明の知恵は、その道の達人とか名人とかの経験を細やかに聞き学び、その経験に対して、何の規則性も定理も、導き出そうとは、しなかったところに、あったと思われます。いわば、人間の弱い心は、偶然に因果を見たり、不規則に規則性を見い出そうとしたがるものだからでしょう。

彼は、科学的直感により、風の向きを知ったようです。

[48] エゼキエル 2007/07/22 15:32

>>47
>諸葛亮先生
「閣下」はなしの方向で(笑)確かに俺は偉そうだけどね(爆)

漁師の方が正確だったというのはわかりやすい話だが、呉の人は既にそうした経験則からも離れてしまってたってことなのかなあ、と思うんだよね。
周ユ(漢字が出てこん)なんかは土地の人だし、孔明よりそうした自然変化に詳しそうじゃない?なのに、なんで孔明にしてやられたかなあ、というのが疑問なんだよね。
やっぱりそこは宮廷暮らしが長くて土地勘鈍ってたってことなんですかねい?

[49] 諸葛孔明 2007/07/22 15:52

>>48

そのとうりだと思いますよ。軍師!

孫策、孫権の二代に仕えたといふプライドは、げすな漁師の経験なんか、耳にも貸さなかったでしょうね・・・って、歴史カテかって(笑)

[50] エゼキエル 2007/07/22 16:44

>>49
>諸葛亮先生
軍師も嫌だ(笑)呼び捨てでいいですから。
俺は周ユは嫌いじゃないんだが、どうも利に勝ちすぎるのかもしれんね。って歴史談義に明け暮れたところで。
じゃあ、そろそろ哲学に戻るか(笑)

風への畏れの気持ちが残っているのが「風邪」という言葉かなと。風が病を運ぶとかつての人は考えたのかもしれないね。
吹く風と病の風邪が同じ「音」であることは一考に価するだろう。

[51] 諸葛孔明 2007/07/22 16:58

>>50

エゼキエル!!そうか!音か!って、呼びづてはいかんわな(笑)

風と言えば、匂いや向きだけじゃない、確かに音があったよな。流石エゼキエルさん。この孔明の一番弟子だけある・・・って、俺は何様か・・・(笑)

風の音ってなんだ。?やっぱり空気の擦れる音なのかな。?

[52] 落ち武者 2007/07/22 17:03

>>41
「しかしまた」は確かに変だな。何に対してか分からん。

要点は、
古代とはいえ、風と、その神本体は別になってることがままあるよ
ということだわ。
例えばミトラ教では太陽のしっぽが風を起こすように。
というのは、身近な例に風を起こす仕組みを見てとることができ、古代人なりにも理解していたからじゃないか。
つまり、
・物を動かすと風が起きる。
・呼吸すると風が起きる。

[53] エゼキエル 2007/07/22 17:19

>>51
>諸葛亮先生
別に呼び捨てでもいいよ(笑)
孔明さんは恩人だからね。
どっかの餓鬼が呼び捨てにしたらキレるかもしれんけどね(爆)

「音」ってそういう音じゃないよ(笑)「風」と「風邪」では「かぜ」という響きが一緒だって言ったんだけど、まあいいや。どっちでも(笑)

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる

って和歌があったな。風の音は科学的にはいろいろと説明がつくんだろうが、さやけき風の音に注目するのは日本人くらいだろう、という話を聞いたことがあるが、知らないかな?
ヨーロッパでは疾風怒濤の音はあの有名な「魔王」って曲になっているね。シューベルト作曲、ゲーテ作詩だっけな。
なんかこの魔王を聞くと、俺は伊勢物語の白玉の露は何かと尋ねる話を思い出すわけだが。とりあえずどうでもいいな。
で、神話のところで挙げたけど、この疾風怒濤の元ネタは北欧神話の主神オーディンなんだよな。疾風怒濤の音を、死者の霊魂が通り過ぎる音だとあっちの人は解釈したわけだね。

しかし、この風ネタは、事象の羅列でなかなか理論になってかないな。こっから何か抽出できるのか?
誰か楔打ち込んでくれ。

[54] 諸葛孔明 2007/07/22 17:25

落ち武者さん!シリウスさん!抽出を頼む。

エゼキエルさんの風に打ち込む楔が見つからない。(笑)

[55] エゼキエル 2007/07/22 17:28

>>52
>落ち武者さん
>「しかしまた」は確かに変だな。何に対してか分からん。

うん。それがあると、並列になる。

>古代とはいえ、風と、その神本体は別になってることがままあるよ
ということだわ。
>例えばミトラ教では太陽のしっぽが風を起こすように。

ミトラは俺が挙げた古代よりも後の時代だね。ミトラよりもシュメールのエンリルの方が古い。だから、風の神が絶大な権力をふるったのは本当に古代なんだよな。いかに早い段階で人間が風の脅威を克服したかがわかる。

>というのは、身近な例に風を起こす仕組みを見てとることができ、古代人なりにも理解していたからじゃないか。
>つまり、
>・物を動かすと風が起きる。
>・呼吸すると風が起きる。

これには同意。
古代人は古代人なりに科学的に理解はしていたと思うんだ。ただ、まだ科学的な用語がなかったから、それを神話という形で理解していたんだと思うんだよね。表現法が違うだけで、神話はそれなりに科学的だと俺は思ってるんだが。

[56] 未完 2007/07/22 17:36

エゼキエルさん、

何かを求めぇーて
振り返ってもぉー
そこにぃーはただ風がぁー
吹いているだけぇー
振り返らず
ただひとりぃー
一歩づぅーつー
人は誰も
ただひとりぃー
生きていくだけぇー♪

って、歌知ってる?
今日、NHKでやってたけど いい歌やね。

[57] エゼキエル 2007/07/22 17:44

>>56
>未完さん
それはふぉーくぶーむの頃に流行った歌では…
孔明さんの方が知ってそうだ。

でも、歌詞書くと著作権違反で訴えられるよ(笑)

[58] 諸葛孔明 2007/07/22 17:47

>>55

神話が理性的で科学的というのは、私も直感的に強烈に共感しますよ。理論に耽溺しない神話の逸話の表すところは、まさに、虚構などではなく、真理の象徴ですからね。誰も逸話は嘲笑出来ない。あぁ・・・こういう話しは、故・葉隠武士氏の得意だったのに・・・。

[59] 諸葛孔明 2007/07/22 17:52

>>57 >>58

私が長老か(げらげら)

[60] エゼキエル 2007/07/22 17:53

>>58
>諸葛亮先生
>こういう話しは、故・葉隠武士氏の得意だったのに・・・。

いやいやいや;;故はやめよう;;
死を弄んではいけないよ(^^;俺ぁ好きじゃない(だからどーしたなのだが)
そういや、先日、河合隼雄氏が亡くなられたな。大林太朗氏に続いて惜しい人が鬼籍に入られてしまった、とつくづく思う。

[61] 諸葛孔明 2007/07/22 18:06

>>60

形あるものは滅び、形なきものは、受け継がれる。そうでしたか・・・ご冥福をお祈り申し上げる(-.-)

・・・で・・・風の抽出と楔の話しは・・・今、どうなったの?(笑)

[62] エゼキエル 2007/07/22 18:11

>>61
>諸葛亮先生
>・・・で・・・風の抽出と楔の話しは・・・今、どうなったの?(笑)

どうもなってねえ(笑)
とりあえず放置、だなw
放置すると熟成するからたぶん抽出も可能になるんじゃないかと。

[63] 諸葛孔明 2007/07/22 18:19

自然発酵か・・・(笑)。ちょっと真剣にこれまでのレスを読み返して見るよ。ひょっとしたら、楔なんかよりいいものが打てるかも知れない。(笑)

やっぱりハンネとは自己矛盾の、理解の貧しさだな・・・情けないよ(笑)

[64] 諸葛孔明 2007/07/22 18:55

>>53

エゼキエルさん
>>この疾風怒濤の元ネタは北欧神話の主神オーディンなんだよな。疾風怒濤の音を、死者の霊魂が通り過ぎる音だとあっちの人は解釈したわけだよ。

しかし、この風ネタは事象の羅列でなかなか理論になってかないな。

事象の羅列とは何のことですか。?

理論って、貴方のおっしゃられる理論という定義が、僕にはよく分かりませんが・・・(笑)・・・

どうです(爆笑)こんな言い方・・・(爆笑)

取り敢えず質問は真面目です。

[65] エゼキエル 2007/07/22 19:09

>>63-64
>諸葛亮先生
>どうです(爆笑)こんな言い方・・・(爆笑)

あはははははは(^^;どうです、じゃねえよ、普通にむかつくよ(爆)

>事象の羅列
風にまつわるよしなしごとをただ並べてるだけだなあ、と思ったんだよ。風の神の話から始まって、風邪との音の符合、魔王の話とか並べて、で?って感じだな、と。

>理論
なんかそこから抽象概念が抽出できねぇかなぁ、と思ったの。

まあ、とりあえず思ったのは、風という存在にはもともとあまりいいイメージはなかったということかな。
ヨーロッパの死霊の狩猟団といい、日本の「風邪」との符合といい、やはり畏怖の念の方が強いんだろうな。
目に見えないだけに畏れる気持ちは強かっただろうね。

[66] 諸葛孔明 2007/07/22 19:41

>>65

エゼキエルさん

>>53 だけでは無かったのですね。(笑)了解しました。
今のところ、何も抽出出来そうにありません。やはり時間を置きましょう。失礼しました。

[67] ふくろう 2007/07/22 22:53

>>41
エゼキエルさん。
なるほど、非常にエゼキエルさんらしい一貫した感想ですね。
それでは私も、私らしいと思われるかもしれませんが(姑息?(笑))、古代の人々に失礼だといけないので、誤解なきよう訂正させていただきます。

>>37
>そのとき同時に、自分がいるテントの存在する場所も、理性的に捉えられる近代的宇宙ではなく、神話的宇宙の中であるような、そんな感じになります。

× 理性的に捉えられる近代的宇宙ではなく、
⇒○ 近代的理性に捉えられる宇宙ではなく、

ちなみに私は、宇宙の説明方式として、古代の神話的説明が、近代科学的説明方式よりも絶対的に劣っているということはない、という見解には同意します。
すなわち、神話的説明も近代科学的説明も、それぞれ宇宙を説明するひとつのパラダイムとして、絶対的な意味の優劣はない(相対的にはもちろん優劣を比較することは可能ですが)、と考えます。
おそらくエゼキエルさんがおっしゃったのもこういうことなのではないかと思います(もちろん、すべてではないかもしれませんが)。

しかし私はそれと同時に、これらが独自のパラダイムに基づくもので、それらによって解釈される宇宙(観)は、根本的に異なったものであるという点を強調したいと思います。
たとえば、同じ理性を有する人間の、単に二つの異なった世界解釈、というふうに捉えると、本質を見落とすことになると思うのです。
なぜなら、宇宙(観)が違うということは、それと相即して、そこに住まう人間(観)もまた異なる、ということを意味するからです。

諸葛孔明さん、「風」のテーマからズレちゃって、すみませんね。
このテーマは興味深いと私は思っています。
なぜあなたが「風」を考察のテーマにしたいと考えられたのか、よかったら教えてもらえませんか?
きっとあなたの哲学的センスに何かひっかかるものがあるのではないですか?

[68] エゼキエル 2007/07/23 00:22

>>67
>ふくろうさん
>近代的理性に捉えられる宇宙ではなく

その訂正なら了解だ(笑)

>たとえば、同じ理性を有する人間の、単に二つの異なった世界解釈、というふうに捉えると、本質を見落とすことになると思うのです。
なぜなら、宇宙(観)が違うということは、それと相即して、そこに住まう人間(観)もまた異なる、ということを意味するからです。

同意。
俺も同じ理性を有する人間の単に異なる世界解釈、とは捉えることは危険だと思う。宇宙観の違いが人間観の違いである、ということにも同意だよ

[69] 諸葛孔明 2007/07/23 02:44

>>67 ふくろうさん!
もう(笑)ふくろうさんたら・・・お人が悪い(爆笑)

人のおだてかたに、実にご堪能でらっしゃる。

私が風をテーマにしようと思ったのも、実はふくろうさん・・・エゼキエルさんには内緒なんですが、「風」というものは、どうも哲学の本質を直撃しているように感じて仕方ないのです。

「私の心に、一陣の風が吹いた」なんて言うでしょ。
これ、比喩のように見えて、比喩じゃない、哲学の本質だと直感します。でもこのことは、エゼキエルさんには内緒ですよ。

[70] ふくろう 2007/07/23 07:52

>>69
孔明氏。
いやいや、エゼキエルさんにはね、最初からバレバレだと思いますよ(笑)
あなたのそういう直感力に一目も二目も置いてられるのがエゼキエルさんですから。

哲学の本質ということなら、あなたに哲学の王道と言える問いかたでお尋ねします。

あなたにとって「風とは何か?」

さあ、スレ主として、テーマ設定者として、責任をとってお答えください孔明氏!(笑)

[71] 諸葛孔明 2007/07/23 08:48

>>70
はっはっはっはっ
ふくろう殿(笑)あっぱれなる度胸!!この孔明に責任を取れとな。(笑)

では私の拙い直感を申し上げる。

「風とは、言葉の重みだね。言葉の重みに、感心したり、威圧されたり、不愉快になったり、解放されたり、それがまた、言葉の重みのもつ「風」なのだろう、と思う。そしてその風を知ることこそが、哲学の本質なのではないか、と私は感じている。

さらに言葉とは、口から発せられる饒舌や雄弁だけではない。たった一言であったり、時に沈黙であったり、ときに妄語であったりもする。

太古の人間がしていた、厳粛な哲学とは、「命名」ではなかろうか。あらゆる存在に敬意を払い、その存在の「呼び名」といふものを、考える、これがまさに、太古の人間が行った、真摯な思考活動といふものでは、無かったか。

食べるものと食べられないものの区別を、彼らは「ミミズのような形をした言語」で、了解した。この、命名といふ行為こそは、おのれの種族の共栄共存のために、必須であったといふ以前に、太古の人類にとっては、あらゆる存在に神を観るほどの、神聖深淵なる、思考儀式というものでは無かったのか、と私は想像する。

顧みるに今日、「命名」とは、子供の生誕に合わせて、親が名前を考える、という狭義の意味に、限定されてはいるが、実にこの「命名」こそ、太古哲学の本質であり、妙味といふものではないのか、つまらぬ想像を、抱いています。

風は言葉の重みである。もし哲学が、太古の人間が感じた、この、「命名」という自覚に立ち返るならば、それは、人間にとっても、哲学にとっても、健全なことであろうか、とも思う。「命名」の自覚を失った言葉の群れが、いわば、風を失った哲学が、どのように難解な理屈を迷走しようとも、生まれ来る子の名前に、幾日も費やす親の思考活動には、その喜びというものは、足元にも及ぶまい。

つまらぬ答えでしたな、ふくろうさん(笑)

[72] ふくろう 2007/07/23 10:23

>>71
諸葛孔明さん。
さっそくのお答えありがとうございます。

言葉というものの重要性についての考えについては、私なりにある程度理解できるつもりです。
ただ、残念ながら、言葉の重みと風がどうしてつながるのか?というところがいまひとつ私にはピンときません。
直観的なるものなので言葉にできるわけねーのだ、とはおっしゃらずに(笑)、なんとか説明してもらえませんか?

ちょっと時間がないので、とりあえず質問だけm(_ _)m

[73] 諸葛孔明 2007/07/23 11:06

>>72

貴方には納得しずらいことでしたね。(笑)ではこの先の私の説明は、貴方に伝えるための、辻褄合わせということで、あまり期待しないでお読みください。

風を何故、言葉の重みと言ったか、実は、そういうより他に形容が無かった、というのが、正直なところでしょう。

「新風を興す」という風も、新たな言葉の力を巻き起こす、というニュアンスを帯びているでしょう。

私は初め、風は媒体だと言いました。しかし、何かを運ぶ媒体である風が、突然に、運ばれる目的物に科学変化するときに、私はそういう風とは、人間の言葉以外に無いのだと思うのです。

例えば、風が爽やかさというもの、爽快感を運んでくることを考えます。そのときほとんどの人が、「風が気持ちいいね」と言うでしょ。

そのときの風は、確かに、媒体であると同時に、「爽やかさや気持ちよさ」を含んだ、目的物である、ともいえましょうね。

ところがふくろうさん。そこで「ちょっと待て」なんです。

sunsar氏ではないが、「風が爽やか」だと感じた、その「爽やか」って、本当に風のことなのだろうか、というところなのです。

つまり「空気の移動」でしかない「風」自身に、爽やかさというものは無い。

爽やかというのは、ある意味、人間の主観でしょ。もし風が、爽やかさというものを人間に運んだ、と考えたら、じゃあその爽やかさの発信元をたどれば、何と、受け取り先である人間そのものといふことになりますよね。だって爽やかは、受け取り側である人間の中にしかないからです。

ならば私はこの矛盾をこのように考えるのです。

「風が爽やかだね」と人が言うとき、風は「爽やかさ」を人間に「運ぶ媒体」ではなく、その人間の裡に眠っているものを、目覚めさせる媒体・・・つまり「覚醒させる媒体」として、働いたのだ、と。

つまり風は、人間の外側では運ぶ媒体だが、人間の内面にあっては、覚醒させる媒体だ、という考察に導かれるのです。

取り敢えずここまでは異存ございませんでしょうか。

[74] ふくろう 2007/07/23 11:43

>孔明さん。
大変興味深い考察です。
続きをお願いしますm(_ _)m

[75] 諸葛孔明 2007/07/23 13:22

ありがとう。ふくろうさん!
だが、この考察も極めて表面的ですよね。

そこで私はもう一歩踏み込んで考察します。つまり・・・風が覚醒した「爽やかさ」って、何だろう。単なる五感ではあるまい。いや、五感には違いないのだろうが、肉体的なものではなく、風と自分との間にある「爽やかさ」というものに対する、精神的な共感見たいなもが、もっと言えば、風と人間の間には、「爽やかさ」についての言語的な暗黙の了解がある、ということです。

「爽やかさ」についての、風と人間とのあいだにある言語的な暗黙の了解!?・・・彫刻家でなければ、こんな表現は彫れないでしょうね。(笑)

つまり、「爽やかさを感じるのは自分自身である」をA、「風が自分の爽やかさを覚醒させる」Bとすると、A、Bの考察から「風が爽やかさやね」の結論は、普通論理的には出てきません。A、Bから導かれる爽やかさの論理的結論は、
「風が爽やかさをかんじさせてくれるね」となります。.

だが、爽やかさについての、風と人間の間にある暗黙の了解は、風を媒体として扱うことを、互いに良しとせず、風を爽やかさの主演として呼ぶことを、要求するのです。

ふくろうさん。実は私が始めに、「命名」という行為についての、考察を行ったのも、風が太古の時代には、神として遠く、言葉として近い存在である、という信仰が、恐らく「風」といふ「呼び名」を発明したときに、一緒に成立していたのではないのかな、と思うわけです。(うーん!ここは飛躍だな(笑))

ふくろうさん!正直言って、今の段階で、私の直感と理論を結びつける言葉が、まだ見当たらない。これが、思想彫刻家である私の、今の素直な限界であることを、貴方にさらして、一旦ここは撤退します。また、論理が閃いたら書きますし、貴方に気が付くことあれば、お願いします。

[76] 諸葛孔明 2007/07/23 13:45

追記
「爽やかさについて、風と人間とのあいだに、言語的な暗黙の了解がある」という言葉も、直感の域をでず、論理の飛躍も否めない。では何故、このような言葉が出てきたのであろうか。

実に判然としないまま、書いている。

何故この魑魅魍魎な表現と論理の飛躍となったか。風というものについての、言葉の印象を、逆に辿ろうとしたゆえの、天罰であろうか。

いやいや、まだまだ罰など当たっていない。そもそもこのレスが、誰に何の為に書かれているのか、当の本人にも、分かってはいないのだ。!

再び撤収。

[77] 諸葛孔明 2007/07/23 16:07

閃きました。!!ふくろうさん。風と人間とのあいだに成立した「言語的な暗黙の了解」とは、エゼキエルさんがおっしゃられた、太古の人間が風を克服するまでに成立していた、風と人間との暗黙の了解でもあった。!!

つまり、太古の人間と、風のあいだにあった、「脅威」と「親近」の同棲は、太古の人間に「風をあなどってはならないぞ」という、信仰にも似た「畏敬」を、潜在的に植え付けられていた。そしてそれは、あまりにも早い時期に克服されて仕舞ったため、2007年経った今日に於いても、誰にも省みられることもなく、太古の状態のままで、とり残されてしまっている、と思われる。それは紛れもなく、風害なんぞを、一度も経験したことのない、私の脳裡にさえも、微々たるものではあろうとも、脈々と受け継がれてきたのである。

もし、その太古の記憶というものが、人間の自衛本能の奥底深くに、ねじり押し込まれて仕舞ったのなら、「風」というものに対する、恐怖や憧れは、十分得心のいくものである。

人類は良くも悪くも、風を克服してはいない。台風でもない限り、この力に対する備えも、考えぬ。

そして、風と人間のあいだにある「言語的な暗黙の了解」とは、風といふものに対する、何とも形容の出来ない、畏敬の感情というものが、私の思考と口を借りて、この機とばかりに、今日まで押し込められたうさを、晴らしたのかも知れぬ。

つまり、今でも人間は、風に対する、隠れた畏敬をもっている、憧れをもっている。ならばその憧れというものは、風という言葉の使われ方というものにも、如実に現れてしまうのである。

この考察の結果、私は「風とは言葉の重みである」といふ言葉を、現段階では、撤回訂正しなければならぬ。

「風は、人類の歴史のなかに、押し込められて来た、人間との言語的な暗黙の了解の、重みである」と。

そしてこれが、哲学の本質と、どう関わって来るのかについては、私の直感は、まだ何も教えてはくれません。

[78] 未完 2007/07/23 16:58

普通に考えて、風は温度差によって実現している。
大気は、なにもなければ、地球にへばりついているだけ。
地球が自転していても慣性の法則に従って、地球の動きに合わせている。しかし、一つの例として、15度地軸が傾いているから、地球が公転している間つまり季節によって、太陽光線の当たり具合がかわり、地域の大気の温度差を生じさせる。暖められた空気は上昇しようとする。まわりの空気が移動する。空気の流れ。すなわち、これを風といふ。

[79] 未完 2007/07/23 17:33

ここで、一つ考えなければいけないのは、地球を地の球と考えるならば…と、いうことです。
地球も、夜空に輝く同じ星だと考えることができるならば、大気も月も、星の一部とみなすことができる。
さて、どの方向へ向かいたい?
地表のほうがリアルかな?

[80] 未完 2007/07/23 17:46

違ったね。
人間と風の関係だったね。
私も、成り行きを見守りましょう。
大変失礼いたしました。
そうそう、物理の計算において、大気の圧力は忘れられがちなそうです。余談でした。

[81] チーズ 2007/07/23 18:44

永遠不滅と無を
弱さと強さを
こういう両極端を同時に内包していて
目に見えない大切なこと・・
自己矛盾に陥ったときは風になりたいです。

[82] 諸葛孔明 2007/07/23 19:31

>>79>>80
未完さん有り難う。

確かに温度差によって発生する、確かにそのとおり。
>>81

風になりたいね。本当に・・・。

[83] エゼキエル 2007/07/23 20:12

>諸葛亮先生
>ふくろうさん

なんだよ、二人で十分、楔を打ち込んでいるんじゃないか。
しばらくは傍観者でも十分楽しめそうだ(笑)

>>71
>哲学とは、「命名」ではなかろうか

相変わらずこの人は素人だのとぬかした舌の根も乾かぬうちにぺろりと痺れることを言う(笑)
ああ、そうだな、哲学とは命名なのかもしれない。
イメージを言語で括り、輪郭を与えるもの、それが哲学なのかもしれず。

>言葉の重みのもつ「風」なのだろう

蓋し名言だな。イメージに命名が行われる時、常にそれは「こんなふうな」ものだという共有のイメージを得て、名前がつく。
「こんな風なもの」
つまり、それはそちら側になびく、そちら側にベクトルを持つイメージなわけだ。なびくものは「風(ふう)」とまず名付けられる。
古めかしければ「古風」と呼ばれ、現代的ならば「今風」と名付けられるわけだ。そこから更なる名詞を得ていくわけだが、最初の段階として与えられる名前、それは確かに「風」なのかもしれない。

>>73
>風は媒体だ

確かに媒体というのも重要なファクタだね。
俺がもっとも関心のある神話における神の役割に境界と境界を繋ぐものという概念がある。生と死を繋ぐもの、あの世とこの世を繋ぐもの、過去と未来を繋ぐもの。
あらゆる両者を行ったり来たりするものの存在は、古代神話においてはとても重要視された。現代では他者との境界は単なる線に過ぎないかもしれないが、移行する時間軸、移行する異世界の間を行き来するものに古来、人間は関心を払ってきた。
だから、神が三柱であることが重要となる。
創造するものと破壊するものを繋ぐ媒体者、維持するものの存在。
インド神話でいえば、創造するブラフマー、破壊するシヴァ、そして維持するヴィシュヌ。
東洋では中心をなす存在に傀儡的な存在を置く。中空思想だ。
よく言われることだが、三国志では関羽、張飛を従えてもっとも影の薄い劉備が中心を為す。水滸伝での宋江もあまり活躍しない。
そういう存在を理想とし、そういう存在を真ん中に据えた。
両者を繋ぐものは、真ん中を統べるものでもあるわけだ。
風が媒体であることはとても重要なことだと思う。

かつての国家は内的世界は善で、外的世界は悪だと理解されていた。だが、王は外的世界との交流もしなければ、内的世界を守ることができないという矛盾も抱えている。内的世界と外的世界を繋ぐものの存在がここに必要となる。それが道化であったと言われている。よって、道化とは外国人がなることが多かった。道化は愚かであるがゆえに外的世界と通じ、愚かであるがゆえにそれを許された。道化という存在が国家の内包する矛盾を昇華していたわけだ。
人間にも同様のことが言えないだろうか。
内的世界と外的世界の矛盾に風穴をあける存在が必要なのではないだろうか。

風が空気の流れならば、人間の言葉を伝えるものもまた空気の流れなのだろう。
言葉により共有される普遍的概念が哲学であるならば、それを媒介するものもまた風なのだろう。

[84] ふくろう 2007/07/23 20:59

>>73>>75-77
諸葛孔明さん!
これはお世辞抜きに本当に興味深い考察です!
あなたは風と言語とのある本質的共通性を直感的に感じ取っておられるのだと私は思います。
たぶん、こういうのを「メタファー思考」と呼ぶのではないかと思います(自身はありません(笑))。
私の解釈では、あなたの「風」論は、即ち「言語」論であると思います。
つまり、あなたの風論は、そのまま言語論として読むことが可能なのです。
というのは、あなたはこう述べています。

>私は初め、風は媒体だと言いました。しかし、何かを運ぶ媒体である風が、突然に、運ばれる目的物に科学変化するときに、私はそういう風とは、人間の言葉以外に無いのだと思うのです。

ここであなたは明らかに、媒体としての風は言葉に他ならない、と主張しています。
そこであなたの主張通り、次のようにあなたの「風」論の文章にちょっと変更を施します。

 風 ⇒ 言葉
 爽やかさ ⇒ 意味

つまり、あなたの風論がほとんどそのまま言語論でもあることを示すために、「風」という語を「言葉」という語に置き換え、「爽やかさ」という語を「意味」という語に置き換えることを中心に、ちょっとだけあなたの文章に手を入れます。
以下、(言葉)のようにカッコでくくった語が変更したものです。
すると、どうなるか?ご覧あれ(笑)

>例えば、(言葉)が(意味)というもの、(意味感覚)を運んでくることを考えます。そのときほとんどの人が、「(言葉)が(有意味)だね」と言うでしょ。

>そのときの(言葉)は、確かに、媒体であると同時に、「(意味)や(意味感覚)」を含んだ、目的物である、ともいえましょうね。

>ところがふくろうさん。そこで「ちょっと待て」なんです。

>「(言葉)が(有意味)」だと感じた、その「意味」って、本当に(言葉)のことなのだろうか、というところなのです。

>つまり「空気の(振動)」でしかない「(言葉)」自身に、(意味)というものは無い。

>(意味)というのは、ある意味、人間の主観でしょ。もし(言葉)が、(意味)というものを人間に運んだ、と考えたら、じゃあその(意味)の発信元をたどれば、何と、受け取り先である人間そのものといふことになりますよね。だって(意味)は、受け取り側である人間の中にしかないからです。

>ならば私はこの矛盾をこのように考えるのです。

>「(言葉)が(有意味)だね」と人が言うとき、(言葉)は「(意味)」を人間に「運ぶ媒体」ではなく、その人間の裡に眠っているものを、目覚めさせる媒体・・・つまり「覚醒させる媒体」として、働いたのだ、と。

>つまり(言葉)は、人間の外側では運ぶ媒体だが、人間の内面にあっては、覚醒させる媒体だ、という考察に導かれるのです。

>そこで私はもう一歩踏み込んで考察します。つまり・・・(言葉)が覚醒した「(意味感覚)」って、何だろう。単なる五感ではあるまい。いや、五感には違いないのだろうが、肉体的なものではなく、(言葉)と自分との間にある「(意味)」というものに対する、精神的な共感見たいなもが、もっと言えば、(言葉)と人間の間には、「(意味)」についての言語的な暗黙の了解がある、ということです。

>「(意味)」についての、(言葉)と人間とのあいだにある言語的な暗黙の了解!?・・・彫刻家でなければ、こんな表現は彫れないでしょうね。(笑)

>つまり、「(意味)を感じるのは自分自身である」をA、「(言葉)が自分の(意味)を覚醒させる」Bとすると、A、Bの考察から「(言葉)が(意味)やね」の結論は、普通論理的には出てきません。A、Bから導かれる(意味)の論理的結論は、
「(言葉)が(意味)をかんじさせてくれるね」となります。.

>だが、(意味)についての、(言葉)と人間の間にある暗黙の了解は、(言葉)を媒体として扱うことを、互いに良しとせず、(言葉)を(意味)の主演として呼ぶことを、要求するのです。

以上、どうです?
面白いでしょ?
まさしく、孔明さんは風に語りつつ、同時に言語について語っているのです。
この観点に立って読めば、>77は、一種の言語思想を述べたものと解釈できます。
そして、それはエゼキエルさんが抜群のタイミングでレスしてくださった内容とも、リンクしていくと思います。
そのことについてまた改めて。

[85] 諸葛孔明 2007/07/23 21:04

>>83
エゼキエル騎士!

やっぱり貴方の洞察の方が、遥かに面白いわ。(笑)

>イメージを言語で括り、輪郭を与えるもの、それが哲学だな

私、こんな潔い表現なんか出来ません。(笑)やっぱり貴方の方が、凄いですよ。(笑)

最後の軽い国家論は、圧巻だな。あれ「道化」って、「おどける」って捉えていいのかな。?ピエロみたいなのイメージしていいのかな。?もしそうなら、国家の外的世界と内的世界を道化で融合させる貴方の記述は、卓見中の卓見ですよ。

流石、東大文学部民俗学科の知性は、・・・私のような自称哲学者には、雲の上のような憧れですわ。(笑)!

[86] 諸葛孔明 2007/07/23 21:13

ふくろうさん!

私はどうしたらいいのですか。?(笑)貴方にあんな風に料理され手玉に取られたら(爆笑)・・・いやいや、風を言葉、爽やかさを意味に置き換えると、・・・いや、私もびっくりですわ。ふくろうさん・・・これは面白いというより、怖いです。やっぱり正真正銘の変人ですね。(笑)

[87] っ^∀^ っよたん 2007/07/23 21:27

私も言葉には何か原始的な、原風景的なものを感じるんであります。
それは、そう、風が初めて吹いたとき・・の感動のような、そういった感動を、原風景を、内蔵して今に至って居るかのようである。

[88] 諸葛孔明 2007/07/23 21:31

>>87
やっぱりあるんですよね。言葉に対する原始的な「畏敬」って・・・。貴方なんか特にそれを深く感じやすいのじゃないのかな。(笑)

[89] 諸葛孔明 2007/07/23 21:36

>>86
の変人とは、私のことを形容したもの(笑)誤解なきよう

[90] っ^∀^ っよたん 2007/07/23 22:58

>>88
ひょっとしたら言葉の製作者は、言葉を自然として作ったのかもよ?w
その制作意図はとっくに忘れ去られている・・などと想像してみた。

[91] エゼキエル 2007/07/23 23:25

>>84
国家論については故河合隼雄先生の本のそのまんまなので(笑)俺の卓見なんかじゃございませんので、お間違えのなきよう。
媒介するものの例として最適かなと思って引いてみた。引用じゃないので出典は書かなかったんだが、それでも卓見とわかるあたり、さすが孔明先生だよ。
道化はピエロの方だね。道化師っていう、あの道化。シェイクスピアなんかによく出てくると思うんだが。

東大出でもないので(笑)哲学の師が東大出だったってだけだよ。
俺は田舎の大学出(笑)金も頭もなかったんでね、東大なんて無理(笑)

孔明先生の直感にふくろうさんと俺とで改めてアプローチさせてもらったという感じだね。
楔を打ち込む人がいる。思考を耕す人がいる。そうして抽出される理論がある。一人では辿り着かない真理に掲示板では辿り着ける。議論する意味がそこにあると思う。
すごい有難い僥倖だよ。
俺には直感がないから、孔明先生のような直感を得て初めて辿り着ける境地もあるんだ。
掲示板にいる意味という奴だね。感謝感謝。

言葉については語り尽くせぬ思いが俺もあるが、それはまた改めて。

[92] ふくろう 2007/07/24 00:12

>>83
エゼキエルさん。

>神話における神の役割に境界と境界を繋ぐものという概念がある。生と死を繋ぐもの、あの世とこの世を繋ぐもの、過去と未来を繋ぐもの。
>あらゆる両者を行ったり来たりするものの存在は、古代神話においてはとても重要視された。現代では他者との境界は単なる線に過ぎないかもしれないが、移行する時間軸、移行する異世界の間を行き来するものに古来、人間は関心を払ってきた。
>内的世界と外的世界を繋ぐものの存在がここに必要となる。それが道化であったと言われている。
内的世界と外的世界の矛盾に風穴をあける存在が必要なのではないだろうか。

私も同じことを考えていたんですよ。
そして神話学や文化人類学からの見方を書いてもらおうと思ってたら、その前に来てました(笑)

言語における風、すなわちコード=規範の外部と内部とを越境するもの、それは詩的言語です。
コードを逸脱し、日常と非日常、生と死、境界線を消し去るもの。
風とはどこにも属さず、どこからともなく現れ、どこかへ過ぎ去っていく、遊牧民であり旅人であり、流れるもの、でしょう。
風は本質的に、流れるものであり、差異の運動です。
風は存在が明らかなのに、いわばその痕跡しか見せない、そのような存在とも解釈できるでしょう。
つまり、それは境界に囲まれた内部の存在とはまったく異なった存在様式の存在だろうと思われます。
エゼキエルさんなら感じられているのでは?と思うのですが、孔明さんの言う「暗黙の了解」とは、いわば共同体が成立するとき、コードの成立とともに抑圧されていく禁忌(タブー)とつながっているのではないでしょうか?
風が畏怖の対象となるのは、抑圧されたもの、おぞましきものでもあり、安定した共同体そのものの根底を脅かすものの象徴、あるいはそれをもたらすものだからでしょうね。
その意味で台風の時空とは文化人類学などでいう祝祭的空間・時間だと思われます。

諸葛孔明さん。
あなたの直観的言語思想は、丸山圭三郎という人の言語思想と似ています。
この人の文化記号学はあなたの直観的言語論と、エゼキエルさんの語られる神話や文化人類学の知見とを結びつけるヒントになると思います。
何かの参考になるかもしれないので、次を紹介しておきます。

http://nun.nu/homepage3.nifty.com/tamamystery/kanrinin_0212.html

どういう人か全然知らないのですが、丸山の教え子みたいです。
要領よく丸山言語思想をまとめています。

[93] 諸葛孔明 2007/07/24 08:39

>>92

ふくろうさん、エゼキエルさん、昨日は有り難う御座いました。ふくろうさんのような「正統派純正哲学者」の方に、お認めいただいたことは、天にも昇るほどの、光栄でした。「メタファー思考」も知りました。お二人のお陰をもちまして、私も昨夜は心地好い眠狂四郎になれました。

エゼキエルさん!貴方がこの掲示板に留まることの意味を、おっしゃって下されたことは、私にとっても、亡き葉隠武士氏にとっても、わがことのように嬉しい限りです。

風に対する洞察、哲学、はこんなものでは無いでしょう。彫刻家、葉隠武士・・・おっと・・・諸葛孔明は、また思い付きを書きますので、よろしくお願い申し上げます。

敬具

[94] 諸葛孔明 2007/07/24 12:09

今、sunsar氏とのやり取りをしているが、・・・私のレベルが余りに低いせいか、気分的に盛り上がらないのもその要因だが、氏は明らかさの概念を弄んでいる、と分かる。黄金餅さんの言ったように、明らかさの問いかけ自体の、不毛・無毛を感じる。

で、私はsunsar氏の建てられた「明らかさ」の議論についての「風」について、考察することにする。sunsar氏があのスレで醸し出す風について。

一つの前準備として、未完さんが言われた「温度差」を考えて見る。

私の見立てでは、sunsar氏の言葉の体温というものは、かなり低いと感じる。その理由として、

�自らの持論から逸れる「明らかさ」については、sunsar氏は関心を示されない。

�議論の形が、sunsar対個人になり、個人対個人の議論が乏しい。渦形ではなく星形議論。

�議論が各自の「明らかさ」を戦わすのではなく、sunsar氏の「明らかさ」の持論に、陣中お見舞いをする流れになっている。

ここで「風」が、温度の高い方から低い方に流れることを考えれば、「明らかさ」のスレの風は、参加者からsunsar氏の方に、一局集中で吹いている、と分かる。

ここまでの洞察を第一段階とする。

次に、sunsar氏から議論相手に風は吹いているのか、と見るに、確かに吹いている。しかも、レスをした個人一人に一つづつ吹いているのではない。

sunsar氏のなかでは、どうも対話のランクがあるらしく、いわば、そのランクの有限個の風が、吹いているようだ。

続く・・・

[95] 諸葛孔明 2007/07/24 12:38

その数までは把握出来ない。

sunsar氏から吹く風は、直線的な風のようである。誰も議論に巻き込まない風、敢えて星形議論を崩そうとすると、突風で阻まれる。議論が星形なら、風も星形・・・敢えてこのスレに参加しようとするなら、参加者のレスは、陣中お見舞いの形を、取らざるを得ない。

sunsar氏から吹く直線風とは、誰も巻き込めれない、誰も受け入れられない、微弱な風である。

ここまで考察して、何とも言えない寂漠を感じるのは何故か。

つまり、風を起こす人間には、風を起こすだけの、器といふものが居る。どんなに正面切って議論をしようとも、器の無い人間相手では、風は、起こりようがない。

またしても彫刻は頓挫した。少し気分が悪くなったので、失礼する。

[96] sunsar 2007/07/24 12:58

>>94-95
あなたが僕の行いを不毛や「無毛」であると考えるのは自由ですが、
そう思うのならば、あなたが発言しなければよいだけだと思います。
僕は別にあなたの発言を求めてもおらず、またみんなが僕の発言を無価値だと解釈すれば
自然に僕の建てたスレッドは消滅するでしょう。

[97] 諸葛孔明 2007/07/24 13:13

なんだ(笑)ロムしてたんだな、sunsar氏(笑)

私が貴方のスレにレスをするのは、恐らく、人間としての良心ゆえですね。

この掲示板での偏狭な貴方に、どうしてもご自分の殻を破っていただきたい、という良心だけなんだと思います。

とりあえずレス有り難う。

[98] エゼキエル 2007/07/24 13:15

>>94
諸葛亮先生
不毛だとわかりきっているスレでよく頑張っているよな。感心するよ。
sunsar氏の場合、没コミュニケーションだろうな。他人とのコミュニケーションが成り立ってない。自分の気分次第で相手への態度が変わるが、そのことを本人の言を信じれば、本人が気づいていない。
sunsar氏の言動は感情をキーワードに読み解くと非常にわかりやすい。感情からもっとも遠いことについて議論しているように見えて、その言動の全てを支配しているのは感情なんだよな。だから、もう少し感情をコントロールできるようになると、ぐっと主張はわかりやすくなると思うんだがね。

その上、言葉に対する感覚が非常に鈍い。理数系にありがちな言葉への無理解だね。彼は哲学の空洞化以前に、言語の空洞化を引き起こしているんだよな。
だから、なかなか彼の主張は理解されない。彼の主張を理解するだけで、膨大なレスを消費しなければならないんだな。主張を議論する以前の問題だろうな。

更に言葉の真意を読み取る能力が欠如している。哲学の議論の場合、多少相手の言葉が的外れでもその主張を理解する努力というのはお互いするし、たいていの場合、それが可能なのだが、彼はその能力が欠如しているね。だから、表面通りの理解しかできない。それなのに、その言語能力が極めて低いから、議論はどんどん論点がずれていく。
彼の議論の特徴の論点ずらしは、最初は意図的かと思ってたが、どうもそうじゃないみたいだね。あれは言語能力の低さから来るものだろう。

テクニックの問題が彼には多すぎる気がする。哲学を語るには向いてない体質なんだと思わざるを得ない。彼が何かを語るにはカテ違いなんだろうな。たぶん、違うカテでは彼は普通に理解されるかもしれんが、哲学カテでは多くの人間に疑問符を振りまくだけだろうな。

[99] ふくろう 2007/07/24 13:16

>>93
諸葛孔明さん。

>ふくろうさんのような「正統派純正哲学者」の方

とんでもない、ぜんぜん正統派でも純正でもないですよ。
(中島義道氏の言葉を借りると)私はただ、哲学病患者のひとりにすぎません。

>私も昨夜は心地好い眠狂四郎になれました

えっ、そんな剣豪にっ!?(笑)

[100] エゼキエル 2007/07/24 13:17

突っ込みどころ満載のスレはそれだけで存在価値があると思われ(笑)
逆に完成度が高かったり、難易度の高いスレの方が消滅しやすいよな。それが一般に開かれた掲示板の特徴という奴だ。

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