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哲学自由議論 序曲

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[0] 葉隠武士 2007/07/19 09:04

タイトル通り、議題を特定しないで、皆さんに議論をしていただきたい。

最低限のルールとして、議論をする相手を特定する場合には、必ずその相手尊名を冒頭に入れる。レスアンカーを利用して、議論の流れを明確にする。

横レスも制限は加えない。

議論内容と全く関係のない誹謗中傷に関しては、私より厳重注意を行う。勿論、誹謗中傷が議論の起爆剤になることもあるので、いちいち細かいところにケチはつけない。

さぁ!古今東西、老若男女を問わず、何でも自由に語り合い、議論してください。

627件のコメント 478番から577番を表示中

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[478] チーズ 2007/08/07 18:46

>>477
諸葛孔明さん
 たぶん風さんは、植物の種を運んでくれたりする感覚でしょう。
 風鈴が風の心地よさを知らせてくれたりとかでしょう。

 古代人が火をおこす術を憶え、水を貯める習慣になり
 一日中光を用い、風を起こして今に至ります。

 怖がって逃げ回る人々だけでなく、恐怖に打ち勝ち智恵を絞った
 古代人の何パーセントの人々の遺伝子が今科学者の中にあると
 思えませんか?

[479] 諸葛孔明 2007/08/07 19:18

>>478
チーズさん
「恐怖に打ち勝ち知恵を絞った古代人の何パーセントの人々の遺伝子が、今の科学者の中にもあると思えませんか。」

成る程ね。あるでしょうね。実際科学の発展は、極一部の科学者の叡知だろうからね。そしてその叡知を信じた当世の人々が頑張ったから、科学は火や水や光や風の恐怖に打ち勝った、と言える。

じゃあチーズさん。こうも言えない。古代人の畏敬とは、それを克服して科学となった、故に、火や水に対する「古代人の畏敬とは、科学に克服されるためにあった」てことに、なりはしない。?

[480] チーズ 2007/08/07 20:11

>>479
 諸葛孔明さんレス有難うございます。

人間は自分一人さえ思い通りに出来なくて
 どうして社会や自然をコントロールできるでしょう。
 克服してきたのではなく暴走してきたと・・
 あえて反論してみました(笑)

[481] 諸葛孔明 2007/08/07 20:26

>>480
チーズさん
克服したのではなく、暴走した。?(笑)科学が?(笑)
恐れに対する反動としての、暴走ってことなのかな。

[482] チーズ 2007/08/07 20:30

>>481
何も原爆を作らなくても良かっただろうにと
 悔やまれてなりません。

[483] 諸葛孔明 2007/08/07 20:41

>>482
チーズさん
そうだな。原爆はまさに、科学の暴走だな。火や水や風や光に対する畏れの反動としての、人間の敵愾心とか猜疑心が、ああいうものを発明した。

戦争というものも詰まるところ、相手を殺さなければ自分が殺される、という猜疑心と被害妄想の塊なんだろうね。

いやいやこれは哲学ではないか。(笑)

[484] チーズ 2007/08/07 20:56

>>483
人間の欲望が悪と手を組むと
 限りなく負の方向へ進んで行ってしまいます。

 

[485] 諸葛孔明 2007/08/07 21:08

>>484
チーズさん
「人間の欲望が悪と手を組むと限りなく負の方に進む」

確かにそのとうりだ。しかしチーズさん。科学の発展に、もともと悪意は無かったと思うよ。人間の欲望は多次元なんだな、本来。多次元な欲望を、この三次元空間で満たそうとすると、どうしても羽目を外さなければならなくなる。

つまり、人間の欲望自体は、決して悪とは手を組まない。ただ「限りない」という一点に、悪魔が棲むんだろうね。

[486] チーズ 2007/08/07 21:13

>>485
朝は早いのでこれくらいにしておきます・・

 諸葛孔明さんのレスは、考える所があります。

[487] エゼキエル 2007/08/07 21:22

>>477
>諸葛亮先生
>火と水は怖かったが、風と光はそうでも無かったという、格差みたいなものが、あったのかな。

だから、それは最初に戻る、だよ。風の神はかつて非常に恐れられていた。それが神話での風の神の地位の高さに反映されている、って。

>自分達が歴史の事実になれば、こんな面白いこと無いのじゃないか。!!

だから、まさに証人となっているだろ。「千の風になって」はまさにそういう新しい価値観を生み出している。
とだけレスっておくか。

[488] ゲスト 2007/08/08 20:09

例のスレが終了したのでこちらに。
スレが終了するまえに言いたかった事を。

「孔明氏。私は貴方の主張に同意するところが
いくつかあったので、貴方の議論が成功することを願っている。
だから少し批判がましいことを言うが、真摯に受け止めて欲しい。

>>230 -のsunsar氏とのやりとりはちょっといただけない。
sunsar氏が誤読していたことを認めるか否かをやりあっても不毛。
そんなことよりもっと大切な主張をするべきだったのではないか。
貴方の本意は>>169 ->>188 であるはずなのだが、
なぜそれを本人にぶつけないのか。問い詰めないのか。」

以上が言いたかったことだが、
確かに全く哲学的ではないsunsar氏に哲学的な何かを
期待しても無駄であるという判断は正しいだろう。

>>0 で「このスレでは、内容に踏み込んだ貴方との
議論をしたい」とあるが、そもそもそれは無理というものだ。
sunsar氏の主張には内容がない。
反論のしっかりとした土台と成るべきsunsar氏の主張が
全然哲学ではないからだ。

スレを終了させた事は懸命かもしれない。

[489] sunsar 2007/08/08 20:14

僕にはウィトゲンシュタインのパラドックスが哲学的でないようにはとても思えませんがね。

[490] 諸葛孔明 2007/08/08 20:41

>>488
ゲストさん!ありがとう。貴方のご批判ごもっとも!私も後で読み返して、自分が本当に情けなかったよ。だから、もうこのスレを終わらせたいと思った。

貴方のその言葉は、今の私にはありがたい。有り難くて、それ以上に言葉がない。ゲストさん。これからも頼む。

[491] keita 2007/08/08 21:10

>>488-489
一部の人々にとって「哲学」という言葉は、実は哲学を意味している訳ではない
のだと思うようになった。このカテの名称にある「哲学」も、しかり。

哲学と彼らの「哲学」との関係は、数学と教育における「数学」との関係によく似ている。
数学志望でも数奇者でもない多くの大学生は、「数学」の名の下に、20歳を過ぎても
読み書き算盤の延長としての計算技術を教わる。だが、そこで教わるものは、
(歴史を通じて多くの先人が数学を行った結果として生み出された何か)でこそあれ、
教わったものを運用して、積分が求積できるかとか、微分方程式が解けるかとか、
そういった観点で行われる「数学」は、およそ数学とは縁遠く、
むしろ実態に即して「算数」と呼ぶべきものである。

自分の「信条」や生活上の「こだわり」を「哲学」と呼んでしまう人は少なくない。
特に、それが哲学や思想史の学習を通じて形成された「こだわり」である場合には、
哲学と「哲学」を区別することが困難なことも考えられる。
しかし、数学の例と同様に、哲学においても、哲学する行為と
(歴史を通じて多くの先人が哲学を行った結果として生み出された思想)を運用して
自己の置かれた社会状況に当てはめてみる行為とは、本来区別されるべきものだろう。

まづ、「哲学」を定義するところからだね。

[492] ゲスト 2007/08/08 21:13

>>489
哲学者の議論「について」語ることが哲学なのではない。
哲学者や議論相手の議論内容や反論内容を理解し、分析し、
自分の頭で組み立て、組み立てたものを
自分の言葉で論理立てて説明する、
そういった一連の作業を地道に繰り返していく。それが哲学だ。

ヴィトゲンシュタインの議論を自分の発言内容に入れたから
すなわち哲学的な内容を持っているとでも思っているなら
勘違いも甚だしい。

>>490
名前のとおり「ゲスト」なので、頻繁には来れないが、
こちらこそ宜しく申し上げる。

[493] ゲスト 2007/08/08 21:36

>>491
哲学者の議論「について」語ることが哲学なのではない
という理屈は容易に納得してもらえることと思う。

バッハの作品について語ることが作曲ではないのと同じことだ。
作曲せずに作品について語っているだけの人を
作曲家とか作曲しているとは言わない。

[494] sunsar 2007/08/08 21:46

僕はウィトゲンシュタインのパラドックスをただちに主張していたわけではありませんし、
実際その名称を知ったのは最近のことです。
要は、帰納的でかつ無矛盾な帰結はいくらでも構成できるというところに本質があります。

これは、別にそういう事実を適用したものではなくて、
考察によって得られる帰結ですが。

[495] エゼキエル 2007/08/08 22:24

>>491
>keita氏
微分積分は算数の範疇ではないのだが。正確には算数は小学校までの習得科目で、中学からは数学と呼ばれるのだが。ちっとも実態に即していない言語を振り回されてもな。広辞苑を引けばわかるが、「算数」とは小学校の教科名、もしくは計算、数えることを言う。
哲学の定義も適当だな。

>自分の「信条」や生活上の「こだわり」を「哲学」と呼んでしまう人は少なくない。

少なくない、じゃなくて、それも哲学と呼ぶのだが。広辞苑にもちゃんと書いてあるのだが。人生哲学、といった用例を引いて。
つまりkeita氏は広義の哲学と狭義の哲学を区別せよ、と主張したいようなのだが。
哲学の定義云々の前に、日本語の習得が先のようだな。

>>492-493
>ゲスト氏
同意。
sunsar氏は数学を専門とする学生であるから、哲学については全くの門外漢であり、彼が「哲学」と称するものは、keita氏の言う、自分の信条やこだわりというものなのであろうと思う。

彼の主張の危ういところは自分の主張と過去の哲人の主張を同列に並べる点にある。過去の哲人がこう評価されているのだから、自分も同様に評価されるべきだという主張が多い。
それもまた彼のこだわりであろうから、哲学と呼ぶことはやぶさかではないが。
彼の過去の発言より、おそらく彼にとって作品について語ることも、作曲している、と呼ぶのだろうと思われる。

[496] ゲスト 2007/08/09 02:23

学問の哲学カテで哲学したいと言うのであれば、
学問としての哲学では何を以って「哲学」というか
どんなやりとりを「議論」というかは知っておくべきである。

哲学で何かを正しいとして主張する時は、
その論が正しいことの論証を必ずしなければならない。

また、そのうえで、
その論に対する反論が正しくないことをも
論証しなければならない。

この両方を論理的に矛盾なく整えていく作業が
『哲学的議論』と呼ばれるものである。

そのような作業をする人を
『哲学的な人、哲学している人』というのである。

sunsar氏は哲学としての最も大切な要素を
両方とも放棄してしまっている。

そこが問題であるというのが孔明氏の主旨だと私は思っている。

>>495
エゼキエル氏。

孔明氏は、sunsar氏を学問的哲学をやりたがっている人と見て、
助言を与えたがっているのだとみたのだが、どうだろう。

数学と哲学の思考の仕方には非常に似通ったものがあるので
数学ができるなら哲学もできるだろうと期待されているのだと思う。

[497] 諸葛孔明 2007/08/09 05:33

>>496
ゲストさん
ちょっとだけ違うな。(笑)少し私を買いかぶりなされてますか。?(爆笑)実は私はヘラクレイトス見たいなところがある。エゼキエルさんや貴方見たいに、論理的考察をする方への憧れは物凄くある。所謂哲学のど素人なんだよ。(笑)

ゲストさん。貴方の言われた「哲学の本道」は、誠にそのとおりで、その通りと思いながら、私には弁慶の泣き所なんだ。体質的に論理が合わない、しかし、そんな自分と格闘しているだけなんだ。志は聖にして、言動は凡夫にも劣るんだ。

sunsarさんの哲学を、残念ながら、哲学と思わない。あの方には哲学に対する敬意に欠けていると感じる。しかし、哲学素人の私が彼に助言というのもおかしな話しだと思うし、sunsarさんと議論するなかで、人間としてともに成長して行けたらいいかな、という気持ちでレスしている。

だから、ゲストさん。私は貴方に期待されるほどの、議論はまだまだ出来ないかも、と申し上げて起きましょう。(笑)

[498] エゼキエル 2007/08/09 07:30

>>496
>ゲストさん
あなたの哲学の定義は胃の腑にすとんと落ちる。
そう俺も理解してきたし、哲学カテ利用者の多くがそのように理解していると思う。
その当たり前のことが、何故か、sunsar氏とその周囲の人間には理解されない。
哲学において「明らかであることはない」という主張など基本中の基本で、それを踏み越えて先へ行くのである。全てに「明らかではない」ことが存在することは「明らか」であるから、そのことは無視される事項であることを理解しなければならない。
言語とは差異である。そこに異なる事象を見出し、それに言語が与えられる。哲学における「明らか」とは全てに存在する「明らかではない」ことの上に「明らか」であると認められることに与えられる表現である。
そのことに彼らは気づかない。何故なら、彼らは哲学していないからだ。
そこに拘泥することは思考の停止を意味することをこれから彼らは知るのだろうと思う。彼らの若さに俺はまだ期待している。

孔明さんの立場の理解はゲストさんの指摘であっているだろうと思う。本人は卑下しているが、そんなのは知ったこっちゃねえ。
孔明さんもまた彼らに期待しているのだと思う。
少々気短過ぎるがね。もう少し気長にやらないと、単に揚げ足を取られるだけだ。

>>497
>諸葛亮先生
体質に合わないなどと言ってないで、論理的思考を身につけやがれ。
哲学やるには避けて通れない。論理を振りかざす奴の相手をするには、同じ技術を身につける必要はあることくらい、先生ならわかるだろう。俺は論理は単にテクニックの問題だと思っている。だから修練で身につくものだ。繰り返しているうちに身についてくる。
論理的思考が身につけば、もっと先へ行ける。
先の風景を見たくないか?哲学はもっと面白いぞ。
あんたもまだまだ若い。老け込むには早すぎる。

[499] 未完 2007/08/09 08:19

おはようございます。
エゼキエルさん、孔明さん、ゲストさん、sunsarさん、keitaさん。
私も、少なからず影響を受け、反応し、影響をあたえ、共に、このスレに出会えていることを光栄に思います。
有難う!(゚_゚)(。_。)
自分の考えのいたらなさを又つくづく思い知らされました。

また、いいアイデアが浮かんだら、お邪魔します。

黙して辞さず。
では、また。(^^)

[500] 未完 2007/08/09 08:22

ゲットー
しとこ。

[501] エゼキエル 2007/08/09 15:37

>>500
>未完さん
キリ番ゲトおめでとう(笑)

こちらこそだよ。
いつもいい刺激になっている。未完さんの直感と哲学には感謝している。

[502] チーズ 2007/08/09 19:28

影のない光の空間を美術館で見ました。
光だけの密室ですが・・

[503] 諸葛孔明 2007/08/09 22:09

>>502
そういえば、光を題材にした画家がいたよね。名前は忘れたが。画家なんかが感じる光って、凄い強烈なテーマじゃないのかな。

だって、色の三原則が(黄色、赤、青)のに比べ、光の三原則が(青、赤、緑)だからね。ある一つの色を再現する場合でも、色と光では、成分も配合も違う。そんななかで、あの絵の具で光を再現しようとするのだからね。

[504] エゼキエル 2007/08/09 22:49

>>503
>諸葛亮先生
光を題材にしたというと印象派か?それともラトゥールかな?
俺は餓鬼の頃、スケッチで光を描きたくて白を多用し、よけいに絵がくすんで戸惑ったことが何度もある(笑)学習能力がなかったんだな(笑)

[505] 諸葛孔明 2007/08/09 22:57

>>504 (爆笑)

エゼキエルさん。光を描くというのは、著名な画家でも永遠のテーマだった見たいですよ。印象派・・・確かルノアールだったか。

しかし、絵を生かすも殺すも、光が最大のテーマだというのは、誠に幽玄ですよね。

[506] エゼキエル 2007/08/09 23:06

>>505
>諸葛亮先生
俺は餓鬼の頃モネが好きで、モネみたいな絵が描きたかったんだよ(笑)餓鬼ってのは恐ろしいね;;
絵を見ると白を使ってあるから、水彩画でも白を使えば光が描けると思ったんだね。
油絵と水彩画の区別もついてなかったんだな。
スラーに憧れて点描にチャレンジしたこともある(笑)で、図工の時間内に描き終わらずにタイムアウトってこともあった;;

って、雑談になっちまってるな。すまん;;

[507] 諸葛孔明 2007/08/09 23:16

>>506
いやいやエゼキエルさん。なかなか面白い雑談ですよ。

その白っていう色は、すごく曲者じゃないですか。画用紙の白地も白だけど、子供心ながらに、白を着色することに対する嫌悪みたいなもの、ありましたね。

詳しくは分からないが、光というものは、画家にとっては、色の遠近法なんだな。どの当たりから色を明るく、あるいは白くしていくかで、光を表現していた。

画家には「光=影」が、ものすごい微妙な確信だったと思う。自分で絵を描いてみて、そう思うし。

[508] エゼキエル 2007/08/09 23:26

>>507
>諸葛亮先生
油絵はね、絵の具同士が勝手に混ざることはないから、キャンパスの上で白は白のままで光を演出できるんだよ。それを水彩画でやったら最後、滲んでくすんで光どころか曇り空になっちまうんだよな;;
せめて画用紙が乾くまで待てばいいのに、その理屈が餓鬼にはわからなかったんだね。
白は混ぜちゃいけないんだよ。赤はピンクになるし、青は水色になって、ぼやけた色になるからよけいに光は感じられなくなってしまうんだよな。

[509] 諸葛孔明 2007/08/09 23:33

>>508
エゼキエルさん(笑)
白は難しいんだね。
でもあれ?油絵では色同士では混ざらないの?だから油絵っていうのかな?

[510] エゼキエル 2007/08/09 23:38

>>509
>諸葛亮先生
いやいや、混ざるんだけど、油絵は水彩画のようには塗った上から塗っても滲まないだろう?だから油絵は重ね塗りができるんだろ。
絵の具の重なり具合も臨場感に繋がるから油絵は一度やってみたかったんだよな。結局、一度もしたことないんだよ。

光を絵画に取り入れようとしたのは印象派が最初ってことになるのかね。
印象派ってのは、ジャパネスクの影響は受けているんだっけな。
記憶曖昧だが。

[511] 諸葛孔明 2007/08/10 00:06

>>510
エゼキエルさん。ジャパネスク?

[512] エゼキエル 2007/08/10 00:13

>>511
>諸葛亮先生
…ジャポニズム、だよ…間違えてる俺;;

[513] 諸葛孔明 2007/08/10 19:49

今日も暑かった。光も感じなかったよ。本当に画家は光をどう感じているのかな。焼き付くような光と、涼しい風、この二つの媒体が、何を運んで来てくれたのかな。喉の乾きとぼんやりとした脳髄。光よりも風よりも、ビールが飲みたいという哲学。

そして、ビールと麦茶をがぶ飲みして、この掲示板に向かう無上の喜び。

一体光はいつ死神の顔をだすか。「光=死」私はやはり、この命題を、現代から受けたと思うが、原爆とか溶接機の光とか、そんな理由からではない、もっともっと本能に根差したもののような気がしてならない。

何だろう。この「光=死」の直感にまといつく荘厳さは。一杯のビールより、2リットルの麦茶よりも、私の乾きを潤す「光=死」の直感!!今日はとことんこだわって見るか。・・・

[514] エゼキエル 2007/08/10 23:36

>>513
>諸葛亮先生
何かこだわりの中から見えてきたかね?

[515] 諸葛孔明 2007/08/11 03:45

>>514
いや、こだわりの果てに、眠りが訪れた。(爆笑)
エゼキエルさん。私は思うが、直感も論理も、本当は弱く見えにくい、「蜘蛛の糸」見たいなものじゃないのかな。芥川龍之介の小説じゃないけど、皆が一様に辿ろうとすると、音も無く切れて仕舞いそうな、そんな代物じゃないだろうか。

私は貴方が指摘される通り、短気だよ。でも、この真理を焦る「短気さ」というものを、独創性の宝庫に到る「天与の特権」だと得手勝手に受け止めている私にとって、光と風からビールが飲みたいという卑劣な哲学を得ることも、美しく弱い目に見えない邂逅なのかも知れないな。(笑)何にも浮かばないから、また妄言を書いているが・・・。

[516] エゼキエル 2007/08/11 07:16

>>515
>諸葛亮先生
それでいいんじゃね?余人はいざ知らず俺はそれでもいいと思うよ。
俺は先生が心底短気とは思ってないよ。表面的に短気なんだよ。でなければ、一人の論者と向き合うことを選択するわけがねえ。心底短気なのは俺の方だね。すぐに結論づけて終わりにしちまうからな。
ただ、表面だけの短気が、俺みたく心底短気な奴と一緒に見られちまうのはもったいないだろ?天与の特権は生かし、蓄え、養ってこそ真価を発揮するんだよ。
ビールが飲みたいという哲学は人生哲学というやつだ(笑)
だが、その現象を論理的に考察すれば、ビールを飲むという行為から得られる「快」に辿り着くことを知ることも可能だ。
このカテにあって具体物は抽象に比べ、低く見られがちだが、それは具体物の彼方にある論理を見抜けぬ奴が間抜けなのさ。
妄言と思うよしなしごとの向こう側へ行け。
そのためには論理が要る。
論理を駆使して、その向こう側へ渡ってこその哲学だろう。

[517] 諸葛孔明 2007/08/11 18:22

>>516
エゼキエルさん
つまり光と風とビールの論理的共有点を論じればいいのだな。任せてくれ。(笑)エンゼルパイの定理より簡単明瞭だよ。

光は私に死を予感させる。いわば現代において光は、恵みではなく余剰物である。風は光と違い、余剰になることはなく、絶えず人間の親しい言語である。古代のままの風と、余剰物にまで進化した光の間に挟まれた人間は、底知れない心の乾きを覚えるのだ。

光と風、つまり、現代と古代の媒体の狭間にいる人間の乾きというものを、たった一杯のビールの苦味が、潤してくれる。

このビールは、喉の乾きを癒すのではない。光と風、死と生、現代と古代の狭間の葛藤を癒す、中庸の哲学と言えようか。

ビールの冷たさと苦味は、中庸の思想の核と言えよう。冷たさは人間を冷静にし、苦味は人間を謹慎にさせる。己れの思考停止に歯止めをかけるビールは、光と風による人間の疲弊ある故となろうか。

また新たな考察があれば、レスをします・・・っていうか、何じゃこれは?(笑)

[518] 諸葛孔明 2007/08/11 21:21

サーバーの状態が善くなかったせいか、接続エラーになっていた。(>_<)

私はふざけて>>517 を書いて見たが、なかなか面白い。風が極めて古典的な媒体、光が極めて現代的かつ飽和的な媒体であることの落差の中点に「ビールの中庸」を説いた。

照りつける光の暑さと僅かにそれをなだめる一陣の風・・・・・・その落差を受け止めるのに消耗する体力と精神力・・・・・。

恐らく、「暑さにまいる」ということの哲学的実情は、人間の言葉を拒む光に対して、人間が何かを必死で訴え、光とのコミュニケーションを図ろうとする、不毛の努力を言うのだろう。努力が不毛であればあるほど、人間は体力を消耗する。

その時であろう。風を感じるのは。コミュニケーションの取れない光のなかで、人間は言葉に餓える。その餓えが風を呼ぶ。風を感じるとき、光と暑さの意味が、少しだけ和らぐ。

そうだ。喉を潤すビールは、決して、本当の乾きを癒さない。ただ、喉ごしの良い「冷たさ」と「苦味」が、一時的に「光の死神」に出会った体験の厳しさを、忘れさせてくれるだけだ。

人間は中庸を得たからといって、中庸を長く保持することは出来ない。得ては失い、失いては得る、その繰り返しこそが、中庸の醍醐味であり、人間の深淵でもあろう。

恰かもビールの喉ごしを、長く楽しむことが出来ないように、中庸もまた、一時の邂逅の悦楽に他ならない。

[519] 諸葛孔明 2007/08/11 21:38

何だか私の独り言レスだな。悪い悪い。だが、直感は熱いうちに書かないと・・・(笑)

エゼキエル氏が何故、「風は媒体」は納得出来るが、「光は媒体」というのが、胸にストンと来ない、と言われたか。

それは、こうではないか。風は古典的な媒体であり、国によって、その様子が違うことからも、極めて国民性を含んだ媒体なのだ。神話を愛する氏にとりて、風というものの、日本的かつ古典的な匂いというものが、何よりも親しいのであろう。

風が言語であるということに、ふくろう氏が興味を示されたのも、本当は氏が、哲学の日本的かつ古典的な匂いというものを、真底愛し、その対比としての西洋哲学に傾倒したからに、他ならない。ふくろう氏は日本人であることの謎を解き明かしたい一心で、西洋の哲学を選んだ。

私はエゼキエル氏もふくろう氏も、日本語に対する強い情景、嫉妬にも酷似した美しい情景があるのを、強烈に感じる。

[520] エゼキエル 2007/08/11 22:57

>諸葛亮先生
いろいろ考えたね(笑)
残念ながら光=熱、じゃないあたりが少しずれてるな。
光がなくても日本の夏は暑いんだよ(笑)

光と風を人間がコントロール下に置いた、という考察はうなずける。そして、風の無力化にはある程度、成功したが、光に関してはコントロールに失敗したといったところか。

ただ、俺は哲学する時、国民性は考慮しない。
風に日本的なものを見ることはない。そこは分けて考えているよ。

[521] チーズ 2007/08/12 15:50

>>519
>>520
日本人らしい人は哲学版にはいないような気がします。

[522] エゼキエル 2007/08/12 16:24

>>521
>チーズさん
哲学という言葉自体、まだ日本語になじんでないきらいはあるよな。

[523] チーズ 2007/08/12 17:04

>>522
哲学書は翻訳した時点で間違いです。
 かといって原書で読むとなると・・
 膨大な原書を読めません。

 例えばニーチェの超人は平凡な善良な人々を罵倒し
 道徳を無視していて耐えられません。
 哲学や学問がこのような暴君ばかりでないと信じたいです。

[524] 諸葛孔明 2007/08/12 17:47

>>523
チーズさん。ニーチェは難解ですか。哲学を否定する哲学者の言葉は、貴方には耐えられませんか。(笑)

>>522
エゼキエルさん
私の推論はまだ妄語の域ですよ。(爆笑)
しかし、妄語妄想を冷静に繰り返すことで、妄想では収まらない美しい論理が現れるのを、一日千秋の想いで待ってる人間ですわ。孔明流哲学です。

それと、貴方が日本を意識しなくても、日本が貴方を意識してる見たいだよ。エゼキエルさん。貴方は今の日本人が忘れてしまった、古武士の気骨を、哲学の中に取り戻そうとしている異端児ですよ。だから、志は聖にして、言動は匹夫以下です。(笑)私の言葉の裏、貴方なら分かりますよね。

[525] チーズ 2007/08/12 19:01

>>524
諸葛孔明さん
 自分には、力を振りかざし踏みにじる人は耐えられません。
 正しい認識を妨げるイドラには光をあててほしいと思います。

[526] 諸葛孔明 2007/08/12 19:09

>>525
チーズさん
私は実ははっきりとニーチェを読んだことは無いのですが(笑)、何となく貴方は他人の言葉の裏を見ていないような気がしますよ。

[527] チーズ 2007/08/12 19:18

>>526
裏というよりも
 物事の全体を把握していないのだと思います。
 自分には表も裏もないので・・

[528] エゼキエル 2007/08/12 19:28

>>525
>諸葛亮先生
確かにな(笑)俺の意識しない俺の輪郭がそう見えるのなら、それはそれで否定しないよ。謹んで有難くお受けする(笑)
俺のスタンスは日本的かもしれないが、俺の哲学は対外的に日本を理解させるものとして構築しているつもりだ。

[529] 諸葛孔明 2007/08/12 20:35

>>527
チーズさん。裏を読めないのではなく、全体を把握していない。?成る程ね。でもときどき貴方の突っ込みにドキリとさせられるから、なかなか油断は出来ないな。チーズさんは曲者だよ。(笑)

>>528
エゼキエルさん
毎日根気よく妄言にレスして戴いてありがとう。

真面目に「光」=「死」の論証を考えてはいるのだが・・・・・・。断片なことしか想い浮かばない。現実と毎日の暑さに忙殺されているからかな。哲学をしているというより、何かを書かなければという気持ちになっているのだろうな。他人の思考停止は指摘するとも、自分の思考停止は理解しない。これが私なんだな。

で、光っていつから人間の異物になったのかな。いや、何から考えればよいのか。エゼキエルさん。このレスにはレスしないでくれ(笑)私は哲学する対象物を失い、瓢箪から出てくる駒の呪文を書いている。

光って本当に恵みなのか?本当に死なのか?単なる直感の余剰物でしかないのか?

[530] チーズ 2007/08/12 20:54

>>529
自分は曲者?(笑)
 自分はいつも人の思いと予想の遥か外にいますから・・
 諸葛孔明さんにとって哲学することは何ですか?

[531] エゼキエル 2007/08/12 23:39

>>529
>諸葛亮先生
明日からちょっくら里の方へ行ってくるからレスできんけど、暇だったらまた妄言(笑)書いといてくれよ。
自分の思考停止は理解しない、とわかっているなら、改めることができる。わかっていて改めないのが本当の思考停止だよ。

>>530
>チーズさん
俺にとっちゃチーズさんは想定内だけどな(笑)
ミクロに物事を見つけてくるよね。

[532] 諸葛孔明 2007/08/13 12:52

>>531
エゼキエルさん。
ゆっくりとお里帰りしてください。

元、公儀介錯人拝一刀。

彼には風は生であり、風は血である。この男には、死の美意識などない。名刀『どうたぬき』は、ひたすら人を斬り、敵の刀を斬るためにある。

大五郎は待ってる。腹がへっても、父を待っている。父をひたすら。

風が聞こえるのだ。大五郎には。だから、父の馬の蹄の音が。

光は無力である。風は力である。拝一刀がそのことを教えてくれた。風は命であり言葉であり血であり、そして力である。光は紛れもなく、無力である。論証は、馬の蹄である。

風は馬の蹄の音を運ぶが、光は音を運ぶことが出来ない。

[533] 諸葛孔明 2007/08/13 17:43

 風が音を運ぶのに、光が音を運ばないのは何故か。

風は空気の振動であり、音も存在と存在の触れ合う振動である。性質が同じだから、風は音を運ぶのであろう。

光は空気を振動ささない。光はもっと高い次元から生まれいづる存在だ。電力や火力による光は、確かに科学の副産物だろが、これも元を正せば、太陽の光からの発想と応用である。光は存在と存在が触れ合うことによって生まれる存在ではなく、光・・・それ自体が独立した存在と言える。

風が存在の依存に起因するのに比して、光はそれ自体が独立して存在している。風が極めて古典性を維持・継承したのに、光は「アニミズム的な恵み」の域を脱し、進化につぐ進化を遂げた。独立した光は、その強い明確なアイデンティティーのもとに、人間の従にもなり主にもなった。(笑)

突然だが私は、スレタイの「自由」に戻る。自由な議題で議論することが主旨だから、風や光にこだわる必要はない。

今の哲学カテには、ちょっと活気がないな。意見が断片的になりつつあるな。sunsar氏と議論していた頃には、もっと人が集まった。いや、哲学カテ自体が、もともとこういう静かさだったのだろうか。

[534] チーズ 2007/08/13 18:05

>>533
sunsarさんに余計なことをしてすみませんでした。
 実はちょっぴり数学(sunsarさんでなく)が好きだったんです。(笑)
 論理しいうものが如何に噛み合わないのか解りました。

[535] 葉隠武士(亡霊) 2007/08/13 18:20

哲学における自由な論議とは何であろうか。

 この掲示板に集まる人間は、当然に互いの素性を知らぬ。リアルな世界では、殆んど語られる機縁もないであろう言葉や論理を駆使して、哲学の妙味をあやつる。一体人間とは、どこまでも未知で謎めいた暗愚を抱えて、それでも他人との関わりを渇望するものか。

新しいスレタイが続々登場したり、古く眠っていたスレに書き込みしたり、全くリアルの世界と変わらないんだな。(笑)

哲学の自由な議論とは、人格同士の、ちょっと不自由な切磋琢磨を抜きにしてはあり得ない。人格の触れ合いがない哲学の議論は、不毛であろう。ちょっと関わりたい人が、このカテに単発書き込みをしてくる。
そもそも日本人には哲学議論というものに、慣れていないのかな。(笑)

長老諸葛孔明殿。!!ご貴殿はもっとこのカテを啓発すべきではないのか。万事において、少し慎重過ぎるぞ。その慎重さ故に、ご自分の暴走に迂濶なところも、しばしば見受けられるぞ。!!ご貴殿の実力は、そういうものではないはずと思うがな。エゼキエル殿やYotan殿を、もっと上手く使われてはいかがかな。

[536] 葉隠武士(亡霊) 2007/08/13 18:40

>>534
おうチーズさん(笑)はじめまして。葉隠武士でござる。貴方のご意見は、拙者も天界より拝見いたしておる。貴方はお若いし、面白い方ですな。(笑)sunsarさんへのご自身の態度を反省なされておられるが、ご無用(笑)

若いうちは、自らを省みず、とことん突っ走りなされ、とだけ申し上げておこうな、では拙者、長居無用にて帰依つかまつる。

[537] 2007/08/13 19:15

あなたに合掌

[538] チーズ 2007/08/13 19:17

>>536
シェイクスピアの小説はよく亡霊が出てきますが・・
 葉隠武士さまがお亡くなりになられた経緯が謎です。
 帰依された世界は光に包まれていますか?

[539] 諸葛孔明 2007/08/13 19:42

>>538

チーズさん。
葉隠武士殿は、私なんですよ。(笑)だが、ハンネを変えることで、ある魂の試みを変えようと心に誓ったのであります。粋な心意気でしょ(笑)と思うのは、私だけか(笑)

[540] チーズ 2007/08/13 20:14

>>539
死ぬ時の名前が真の名前なら
ほんとうの名前とは?

 戒名や法名は何故自分で考えないのでしょうね?
名付けるとはどういう行為でしょう。(軌道修正)

[541] 諸葛孔明 2007/08/13 20:23

>>540
戒名を生前から考える人も結構多いんだよ。チーズさん。

命名とはまさに、哲学そのものやね。人間の思考活動の原始は、「命名」なんだね。名前をつける=定義なんだね。古代人の哲学だよ。

[542] keita 2007/08/13 22:40

人名の命名は、名称を「定義」しているのであって、
人物を定義している訳ではないからね。
概念の命名とは、ちょっと異なる。
参考:鏡の国のアリス

[543] 諸葛孔明 2007/08/13 23:11

>>542
keitaさん
確かに「概念の定義」と「命名」を一色単にしたら、まずかったかな。

しかし私の古典的直感によれば、古代人にとって「命名」とは、「概念の定義」と同じくらい、切実な行為だった。

ものや人の名前を考えるという行為は、彼らの生活のすべてじゃなかったのかな。彼らにとって命名は、単なる言葉遊びじゃ無かった、その命名という思索行為そのものが、貴方のおっしゃられた「概念の定義」よりも、より重要な哲学行為だったのだろうね。

[544] keita 2007/08/15 14:00

>彼らにとって命名は、単なる言葉遊びじゃ無かった、
>その命名という思索行為そのものが、貴方のおっしゃられた「概念の定義」よりも、
>より重要な哲学行為だったのだろうね。

古代人にとっては、そうだったろう と私も思う。
彼らにとって、呪術のほうが科学よりも重要なものであった という意味では。
それは歴史的必然であって、何ら間違ったことでない。
さて、その上で、
哲学が呪術であるのか、科学であるのか 私は知らない。

[545] 諸葛孔明 2007/08/15 14:45

>>544
keitaさん
「哲学が呪文か科学か・・・」は、私にも分からない。(笑)しかし面白いですな。

哲学は恐らく、呪文も科学も、両方拒んだようにも思うな。論理的人倫かな。

[546] keita 2007/08/15 17:05

面白いね。
それは、「実学としての世の中に対する表の貢献」をすることを拒んだ
という意味かな?

[547] 諸葛孔明 2007/08/15 17:22

>>546
そうかも知れない。実学としての世の中への貢献を拒絶したのが、哲学だろうね。哲学はやがて、世の拗ね者としての学問の呈をそうしていく。誰もこの哲学の四面楚歌に、歯止めがかけられないんだろうな。

アニミズミや宗教、そして科学への反骨を示した哲学が、その反骨そのものを空洞化させているという、実に辟易たる現象だ。

[548] 諸葛孔明 2007/08/15 17:52

keitaさん
今の哲学の多くは、世捨て人の隠居道楽ですよ。何にも責任が必要ないんだから、気楽な趣味・道楽ですよ。和歌や川柳をたしなむように、哲学という言葉の遊びをたしなむ訳ですからね。

[549] 諸葛孔明 2007/08/15 18:51

keitaさん
私の言葉の字面をそのまま読まないでくださいな。(笑)言葉の行間に書いてあることを、読んでくださいな。志は聖にして、言動は匹夫以外という。

[550] エゼキエル 2007/08/16 14:14

帰ってきたぜ。

>>540
>チーズさん
>戒名や法名は何故自分で考えないのでしょうね?

名前というもの自体が自分でつけるものじゃないのが一般的だよ。
生まれ持った名前も自分でつけられるわけじゃないしな。

>名付けるとはどういう行為でしょう。(軌道修正)

その本質を表わすということ。
かつての名付けはその子の所属する親や一族であることを示すものであり、何番目の子であることを示すものであり、その後、目標とする人格を表わすものだった。現在でも、生まれた子供の本質がそのようになってくれたらという親の願いがこめられている。その願いが叶うかどうかは別として。

>>542
>keita氏
そういうわけで↑人名の命名は名称を定義しているわけではない。
「鏡の国のアリス」を参考に持ってきたってことは、名無しの森のエピソードを引用したいのだろうかと推測するが、あれで>>542 を補足するのは無理だろう。違うエピソードの場合はこの限りじゃないが。

>>543
>諸葛亮先生
そういうわけで↑命名と概念の定義はイコールとしてもよかろうと俺は思う。そういうわけで、>>545 は「古代人にとって」だけでなく、現代人にとってもそうだろう、と思う。科学なんてのは結局、呪術と同義なんだよ。信奉者にとってそれは絶対的なものだ。だが、結局はそれで全てが解決するわけではない。

>>547-549
同意。

[551] 諸葛孔明 2007/08/16 14:54

>>550
おぉっ!!エゼキエル大将お帰りなさい。(笑)

そこそこ退屈でしたよ。退屈だから、馬鹿ばかり書いていました。(爆笑)

レスが続くのは、貴方とsunsarさんくらいなもので(笑)、いやいやこれは失礼!!

確かに現代に於いても、命名は本質だよね。別スレでゲスト氏が「影の本質」について、有益な主張をされてましたが、名前があるものはすべて「存在」であり「本質」である、と考える。

[552] エゼキエル 2007/08/16 15:04

>>551
>諸葛亮先生
だから言ってるじゃねえか、俺とsunsar氏は同類なんだって。
口先ばかりで実がねえ(笑)それも一つの苦悩のあり方だとは思ってるけどね。

ゲスト氏のレス見たよ。よくわからんかった(笑)俺には難しいよ(笑)だからあのスレには参加してないんだが。もう少し鍛錬が必要だよな。

名前については、名前の歴史をつぶさに見ることをお薦めする。
北欧のある国では現代でも名字がない。その代わりに〜の息子(娘)という形容詞がつく。日本人から見るとちょうどこれが名字のように見える。
また、名字の起源を辿ると、たいていは人間の特徴や職業が語源だったりする。ブラウンさんはその祖先が茶毛だったわけだし、サムソンさんはサムの息子という意味だ。メイスンさんは石工の子孫。
名前も元は本質というわけだ。時代とともに本質が形骸化しているわけだね。哲学みたいなもんだ(笑)

[553] 諸葛孔明 2007/08/16 15:19

>>552
エゼキエルさん
悪いが爆笑した。(笑)謙遜の仕方が半端じゃねぇ。

貴方の謙遜はすべて、貴方の本心の鏡像と解しましたよ。(似ているが正反対)

名前も時代とともに形骸化している・・・同感ですね。時流や人気ある名前に意識が向いていたりする。どんな子に育って欲しいという親の願いが、読み取れない名前も多いな。

ゲストさんの主張は難しいが何となく読みやすい。私は頓珍漢なことを言って、よく指摘されましたが、まぁそうしながらでも、論理に強くならなければと思い、ついて行ってますが、落ち武者さんとゲストさんの会話は、私の理解の五歩六歩先を行くので、とても情けなくなります。

[554] エゼキエル 2007/08/16 16:55

>>553
>諸葛亮先生
謙遜じゃねえよ(笑)本当にそう思ってんだって。
二人は門外漢って意味でよく似ているよ。違うところは俺はそれを知ってるが、あっちは自覚ないところだろうね。
学問カテの大学受験スレ行ったことあるかい?なるほどなあ〜ってレスがあるぜ。必死なんだろうなあ、ってのがよくわかった。

>どんな子に育って欲しいという親の願いが、読み取れない名前も多いな。

一時期話題になった悪魔ちゃんとかね。インパクトあればいいって感じだな。

落ち武者さんの読解力のレスがあったが、俺は最近は?だね。本人も言ってたけど、買い被ってたね。俺の読解力もまだまだだなあ、と改めて思う。

[555] 諸葛孔明 2007/08/16 20:41

で、科学も呪術も絶対的信奉という点では同義語である、という大将の指摘は、なかなか面白いな。

哲学にはそれがない、というより、それを疑うためにある。勿論疑うことが目的ではないが、絶対的信奉を持たない故の、表面的な弱味と、それゆえに真実に近づくための「無私」を得る故の強味というものがあるよな。

私は切に思うよ。何の為に、論理を用いるのか、それは「人間としての無私」を得る為じゃないかってね。

命名が本質なら、また、本質は命名であるとも言える。哲学という学問の目指す目的が「無私」と「中庸」を得ることにあるなら、私は哲学における思考や考察の原点を、「命名」という行為に定めても、遜色は無いように思われる。

[556] エゼキエル 2007/08/16 21:08

>>555
>諸葛亮先生
呪術もその時代においては現代の科学と同じ役割だったんだよ。それを考慮に入れれば、同義で語れるっしょ、という発想だけどね。

先生は哲学について語る時、よく「無私」という言葉を使うね。
真理を得る、ということ自体が俺にとっては究極の欲だから、無私という発想はないんだけどね。
だから、先生の発想は面白いなと思ったんだけど。

哲学は俺にとっては最高に我欲を満たしてくれる理屈なんだよな。だから、「無私」と「中庸」という発想は最高に面白いね。そういう視点も持っていていいかもしれん、と思う。

[557] 諸葛孔明 2007/08/16 21:40

>>556
エゼキエルさん
無私と我欲は同じなんだな。私は新興宗教なんかが唱える無私には、糞ほどの興味もないが、哲学者や学問における無私には、興味深々なんだな。

無私を得る、というのは、「自分」という名の他人が、何を感じ、何を目指して考えようとしているのかを、敬虔に知ることだと思う。

だから、私、論理的に考えてますっていうポーズが、一番気に入らない。論理的に考えようとする「自分」を、構えて譲らないからね、そんなものは論理でも客観でもない、醜い我執だよ、と言いたい。

そのときそのときに主観や感覚は揺らぐ、という。でも、客観や論理だって揺らぐんじゃないのか、本当は。生きている論理に頼れば、客観的思考は揺らぐ、その揺らぎを直視しないで、揺らぎの傍観者になることに、いったい何の意味があろうか。揺れているものを直視するときの、気分の悪さこそが、真の客観に到る道では、ないのか。

持論の客観性や思考の方法論を過信して、他人との論の衝突に際しての、おのれの心の揺らぎに目を背け、何が論理だ。論理が聞いて呆れるというものだ。

命名はただ「ものの名前を考える」こと。大将が言われたように、「名前を考える」ことが、本質を知ることに到る。また、存在の本質とは、名前を確かめて号泣することだ。

今の哲学は、いわば、客観的に対象を洞察することの、おのれの心身の変化というものを、軽視しているような気がする。下らない傍観者が、生きた論理を振り回す。あまりにも滑稽である。

で、今、何が議題だったっけ。?

[558] エゼキエル 2007/08/16 22:15

>>557
>諸葛亮先生
興味津々、ね(笑)深々じゃなく。

>だから、私、論理的に考えてますっていうポーズが、一番気に入らない。論理的に考えようとする「自分」を、構えて譲らないからね、そんなものは論理でも客観でもない、醜い我執だよ、と言いたい。

言い切ったね(笑)なるほどね、だからsunsar氏のスタイルが気に入らなかったんだな。まあ、偏差値コンプレックスの大学生なんてみんなあの手のスタイルだけどね。コンプレックス抱えてると、型にすがりたくなるんだろうね。型とか権威とかポーズとかさ。
だが、結局見えているのは「論理的に考えようとしている自分」という自画像なんだよな。その「自分」に気を取られているから、議論自体が空洞になるんだよな。それはよくわかる気がする。
自分がいかに論理的であるかということに酔うんだろう。酔っているから冷静な判断が下せないんだよな。
その論者の本質を看破できない読解力ってのは大したことないな、と思う。浅いなあ〜ってね。
数学カテのやりとりも読んだが面白かったよ(笑)相手、かっか来てたじゃん(笑)あの悪口の向こう側にあるものになんで気づかないかね〜突っ込みたかったくらいだ。

命名は奥が深いね。
何事も言語で定義することは、その思考に命名することでもあるんだよな。我々が哲学を言語を用いて行う限り、命名することとは縁が切れないんだよな。
「名前を確かめて号泣すること」がよくわからなかったな。もっと噛み砕いて説明してくれないか?

>今の哲学は、いわば、客観的に対象を洞察することの、おのれの心身の変化というものを、軽視しているような気がする。

「我思う、故に我あり」だって自分の心身の変化に着目してるんだけどね(笑)
心身の変化を軽んじている割に自分の感情には素直だよな(笑)その自己矛盾なんとかしろよ、と思う論者が多い(笑)

議題は置いといて(笑)もう少し先生の哲学論議聞かせてくれよ。

[559] 諸葛孔明 2007/08/16 23:42

>>558
ヒヤー!?エゼキエル大将!何で数学カテでの書き込み分かったの?(笑)

ちょっとうとうとしてたら、sunsarさんが加勢に来たぞっ(笑)四面楚歌だよ。(笑)数学カテが哲学カテになりそうだった。

それから・・・興味津津失礼(笑)
・・・エゼキエルさん。私の素人談義をまともに聞いて戴けるのは、貴方だけですね。感謝しています。

そうですね。私にとってあの人の存在は、貴方と同様に、一つの衝撃的事件だったですね。

前レスでの「号泣」については、あまりにも奥が深いので、少しく後に説明させてください。

これから返事を書こうと思ってますが、「死の美意識について」スレでの貴方の回答!!・・・見事ですよ。一つの新たな境地に斬り込んだ、今までの貴方なら出来なかった、恐るべき回答です。

敬服脱帽ですわ。(笑)

[560] エゼキエル 2007/08/17 00:06

>>559
>諸葛亮先生
先生のレスの奥の数学への愛情がわからんかなあ〜と思いつつ見てたよ。四面楚歌かよ(笑)まあ、頑張れ。

>素人談義
素人でも直感のある人間の説を聞くのは楽しいよ。彼さん然り、よたん氏然り。まあ、二人は素人とは言えないかもしれないけどね。

>号泣
待ってるよ。

はっきり言うけど、俺にとっちゃsunsar氏はいいカモだった(笑)議論吹っかけられたくてこういうキャラだって言ったじゃん?まさに期待通りのカモだったね(笑)なんてお決まりな奴、とおかしかった。
相手の言説の向こう側まで見通す力のなさがsunsar氏の命取りだね。若さ故の浅さなんだろうし、それはそれでいいと思うんだよな。まあ、あれだけ粘着質ってのは想定外だったけど(笑)
たいてい見下して議論に入っても、殆どの奴は途中で気づくんだよ。俺のキャラづけに。でもsunsar氏は気づかなかったからね。そんな奴は正直初めてだったから辟易したよ。
まあ、粘着もやめてくれたし、今となっては過去の人だな。

「死の美意識」に俺、何書いたっけ?(笑)感心されるようなこと書いた記憶ないんだが;;ちょっと見に行ってくるわ(笑)

[561] チーズ 2007/08/17 18:01

>>559

諸葛孔明さんも数学をコーナーで発見!
数学は間違った解釈を受け入れない・・
 「自分の色眼鏡で見るな」とある先生に指摘された自分は
 数学だけは
 誰からも批判されない楽な学問なのだと思ったものです。

[562] 諸葛孔明 2007/08/17 19:21

>>561
チーズさん
ちょっと>>561 の主旨が読めなかったんだけど。(笑)
数学カテでの主張のきっかけは、あのスレタイと、sunsarさんが

「数学とは自明なものの集合である」

という言葉を、ご自分のスレタイでおっしゃったのを思い出したことに単を発する。

sunsarさんは、「自明の意味が違う」と言われたが、結局私の想像するところ、数学でいう「自明」とは、「数学の為だけの閉ざされた自明」でしかないのだろうな、と思う。その数学の自明さを、哲学の世界にまで拡大解釈して持ち込もうとされたところに、あの人の失敗があるんだろうね。

[563] 諸葛孔明 2007/08/17 19:24

チーズさん
数学は確かに気楽な学問ですよ。多くは、疑うことを前提としなくていいんだからね。

[564] チーズ 2007/08/17 19:26

>>562
 諸葛孔明さん

世界地図を見て
 数学のすばらしさを発見するのは
 世界の端っこに小さな我が国日本を発見して
 世界の中心ではなく極東なのだと落胆するときの
 哀しさを含みます。

[565] 諸葛孔明 2007/08/17 19:41

>>564
チーズさん
貴方は詩人ですね。貴方の言葉は詩そのものですよ。とても評価しますよ。

日本が世界の中心ではなく、極東だと落胆するとき、それがどうして数学の素晴らしさと繋がるのです。?

いや、何となく分かるんだが、チーズさんに答えて欲しい。

[566] チーズ 2007/08/17 19:48

>>565
諸葛孔明さん
心の拠り所は母国日本なのです。
 似ていますが生活の拠り所も数学の時が多いのです。
 実際は数学はそれほどまででないのですが
 正しい計算という安心感とでも言ってしまえば・・

[567] 諸葛孔明 2007/08/17 20:07

>>566
なるほど!

私は貴方のおっしゃる数学なら、きっと心の拠り所となると思いますよ。

[568] チーズ 2007/08/17 20:27

>>567
本当の拠り所ははやさしさと ひとりも泣かない
 この方針なのですが
 ちょっと自分の力では通用しないので
 後ろ盾が頼りなのです。(笑)
 

[569] 諸葛孔明 2007/08/17 20:31

>>568
はっはっは。チーズさんの若さが出たね。良い良い。!!

[570] エゼキエル 2007/08/18 06:49

>>563
>諸葛亮先生
俺は小学校に上がった時、算数がわからなくてね。
1の次になんで2が来るかがわからなかったんだね(笑)誰もその理由を教えてくれなかった。
今思えば、あれは疑っちゃいけなかったんだね(笑)
俺は何でも疑問に思う餓鬼だったから、算数はまるでダメだったよ。

あるスレである人が、答えがないかもしれない恐怖を感じつつチャレンジする、と発言していたが、答えがないことが恐怖なんてどんだけ利益至上主義なんだよとおかしかったな。学問ってのはそんなもんじゃねえだろ。答えがないことが恐怖なら哲学なんてやれねえよな。

ところで先生は随筆を持つ気はねえか?
俺はそろそろ撤退しようと思うのだが、先生が随筆を持ってくれれば、ちょくちょく議論できるなと思ってね。

[571] 諸葛孔明 2007/08/18 06:54

>>570
おはよう大将!・・・随筆!?・・・この「ザ・随筆」ってことかな。?

[572] エゼキエル 2007/08/18 06:57

>>571
>諸葛亮先生
おはようさん。
うん。そうだよ。ザ・随筆。

[573] 諸葛孔明 2007/08/18 07:12

>>572
分かった!登録してみるよ。

撤退考えてんだな。了解!私はまだ留まって見る。

[574] エゼキエル 2007/08/18 07:36

>>573
正直、最近は自己肯定に固執する論者が増えた気がしてね。
不毛だなあ、と思い始めてるところさ。
呟く論者にも興味ねえ。
ただ意見の羅列も見飽きたよ。

[575] 諸葛孔明 2007/08/18 08:03

>>574
なるほど・・・早い話しが、質の低下ってことだな。(笑)
エゼキエルさん。リアルの世界でも同じですね。

言葉に奥行きが無い人が多いよね。

[576] 諸葛孔明 2007/08/18 08:05

さっき随筆登録したけど、ハンネの色が変わらないな。・・・間違えたかな。?

[577] 諸葛孔明 2007/08/18 08:50

確かにこの哲学カテを眺めてみれば、議論になるのを嫌がるという論者が、物凄く増えてるな。

他人との論や意見の衝突を恐れ、他者との軋轢を回避することばかり考える。

哲学というものが、他者との議論無くしては成り立たないことを考えれば、議論を回避するなどというのは、まさに本末転倒なんだけどな。何故だろか。

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