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おやさま

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[0] 基本。 2006/11/21 22:43

中山みきというお方は、自分のことを世界の人間の親だという思想を持っていて、
それで、世界中の自分の子供は、みんな兄弟だという思想の持ち主でした。

奈良県天理市にある天理教会本部では、天理教の教祖を「おやさま」と呼んで、また、親神様として、信心しています。

しかし、「おやさま」の思想は、天理教という宗教思想というには、より大きな思想であり、宗教云々を絡めると、その思想が理解されない、狭い道に陥ることになります。
そこで、ここでは、全人類のおやだと自称した「おやさま」の思想そのものを、宗教は一切絡めないで、論じ合いたいと思います。

中山みきさんのことを、全人類のおやだと思う人も、思わない人も、ここでは本人の思想の一部である「おやさま」という共通の呼び方で呼んでください。
そして、絶対に、宗教を絡めずに、その思想について、討論しましょう。

ここでは一切、宗教の絡みは語らないルールです。

天理教という宗教の絡みは、ザ・天理教を語る4があります。
http://religion.bbs.thebbs.jp/1163859118/
また、天理教と政治の問題への基本の立場は、「教理とひながた」
http://www.yousun.sakura.ne.jp/public_html/wforum/wforum.cgi
にありますので、そちらのBBSなどへどうぞ。

504件のコメント 101番から200番を表示中

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[101] 基本。 2006/12/20 05:07

島原市観光ガイドによれば、『 上新丁には後に元老院議官となった丸山作楽が、文久年代(1861頃)に青少年に国学を講じ、国事を論じた私塾「神習処」の跡が残っています。』
と、あります。

丸山作楽は、テロリストでもあり、活動家でもあり、歌人としては正岡子規に影響を与えたと言われている人物で、天皇への信仰は徹したものであったと言えます。

第三十一 明治初年の外交 には、丸山作樂の過激な思想行動が書き記されています。

drhnakai.hp.infoseek.co.jp/kyoukasyo/sub-book32.htm
『明治元年對馬の宗氏をして王政維新の旨を告げしめて、修交をはからしむ。然るに、朝鮮國王李熙は若年にして、その實父大院君李?應政權を握り、固く鎖國主義を執りて、いたく外人を侮り、我が歐米に親しむを嫌ひて、我が求を拒みたり。よりて、政府はしばしば使節を遣はして、彼の誤解を辨じ、鋭意修好を勸めたりしも、なほ頑として應ぜざりしかば、民間の志士はその不遜を憤り、これを責めんと主張するものあり。外務權大丞丸山作樂らも、ひそかに黨を結びて朝鮮を襲撃せんと企てしが、事あらはれて罪せられぬ。』

明治維新に影響を与えた、思想として、「水戸学」も有名です。
初めは水戸学に学んでいた吉田松陰が、後には水戸学を離れて、平田国学の尊皇活動に邁進するのも、徹底した「尊皇」思想以外に、日本を近代化する思想はないという、信念に基づくものと思われます。
水戸学は、藤田東湖が大地震で死亡し、その後は、明治維新の思想の主軸と張らず、明治政府によって解体されてしまうのは、儒教を中心においた思想が、その時には江戸幕府解体の邪魔であったと言う事です。
「明治維新」は、実は、日本を「洋化」する思想運動であり、それを、庶民に分からせないように、「大和魂」と言う名で、説いていた、維新思想の「とふじん」の、高山。
これに、欺かれていたのは、つい今までの、我々であり、
おやさまのみは、「西欧列強の、キリスト神に裏づけられた、絶対的政治権力」、その帝国主義の本質を、「大社(宗教権威)」と呼び、「大社・高山取り払い」を命じていたのです。

おやさまの弟子の伝えた、「史実」「言葉」は、大切ですが、おやさまの弟子の解説した「天理教祖」の思想なるものは、まるで小さく、まるで狭い。

おやさまは、維新に命をかけた人達の精神の高揚のはるか、高い次元で、人間の思想史をみつめ、谷底のせり上げに、「針の鍬(とんが)でおうかんの道」を、説き続けていた、百姓女でした。

[102] 基本。 2006/12/21 10:01

日本の維新思想に多大な影響を与えた「とふじん=西欧人」の思想。
それは、現代でも、アメリカにおいては、民意に深く根付いています。
「宗教真理アカデミー」メールマガジン005号(2005/5/3配信)
http://www.hannya.net/melmag005.htm
では、
「記事タイトル−<<8割が「処女懐胎本当」 米国民の信仰浮き彫り >>−−」
【ニューヨーク2004年12月5日共同】新約聖書のキリスト降誕の話で聖母マリアの処女懐胎を信じている人は、米国民の79%、キリスト教徒では87%に上ることが米誌ニューズウィーク(電子版)が5日報じた調査で分かった。
 反対に「信じていない」と答えたのは米国民のわずか15%で、クリスマスを目前にした季節的な調査ながらも、米国民の「信仰の深さ」があらためて浮き彫りになった。
 同誌によると、キリスト生誕を祝福するため「東方の3博士」が訪れた話など、新約聖書の話を歴史的に正しいとみている人は米国民の67%(キリスト教徒では75%)に上り、「キリスト教信仰を肯定するためにつくられた神話」との見方は24%にすぎなかった。
(共同通信) - 12月6日9時11分更新

と、このように、共同通信の記事を紹介して、「人類の始祖はアダムとエバ(イブ)なのか?−−−マリアの処女懐胎説の真偽と共に考える−−−」との記事を展開しています。

キリスト教の教会においての、「宗教洗脳」は、このように、アメリカ社会において、顕著であるという事。
それは、心に刻んでおかねばなりません。

「割礼」と言う宗教儀式があります。
割礼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を引用します。
『割礼(かつれい)とは、宗教習俗上の理由で行われるもので、性器の包皮(など)を切除すること。
「男性」に対するものと「女性」に対するものがあるが、単に割礼という場合は、少年期の男子に対して陰茎の包皮を切除するものを指す』
『ユダヤ教『創世記』(旧約聖書)17:9-14には、
アブラハムと神の永遠の契約として、男子が生まれてから8日目に割礼を行うべきことが説かれている。(ヘブライ語のBritは契約を意味するが、割礼の意味でもあるという)。ユダヤ教では、この伝統を引き継ぐ。』
『「イエスの割礼の日」 カトリックのカレンダーでは、12月25日にイエスが生まれたことになっているので、8日後に割礼を行うユダヤ人の習慣から1月1日が、キリストの割礼の日である(とされる)。』

男の子の性器の皮を幼児の内に手術して、剥けた上体にしてしまう事を「割礼」と言います。
それは、青春期の「自慰」などで「性欲」が高まる事を抑える目的とされています。
「汝姦淫するなかれ」の教えが基礎にある。
ユダヤ教の儀式として有名です。

http://www.akashi.co.jp/menue/read/read_1.htm
「ユダヤ人とマホメット教徒は、割礼の偉大な布教者だった」(『大百科事典』「割礼」の項)。とのことです。

その割礼は、現代のアメリカでも、六割が割礼していると言う状態があって、それを減少させようという運動もあるようですが、「聖書」の原理主義に基づいて行動しようとすると、「割礼」は、避けて通れない。

聖書の執筆者の一人パウロが、「ローマ人の手紙」で書いたものは、ユダヤ教からキリスト教を経由して、アメリカと言う聖書主義の国に、「割礼」の子たちを、数々排出しているという事。
それは、もう一方で、「マリアの処女受胎」を受け入れてしまう民を大勢生んでいるという事。
現実です。

[103] 基本。 2006/12/21 10:10

>>102
> 「とふじん=西欧人」の思想。それは、現代でも、アメリカにおいては、民意に深く根付いています。
> 聖書の執筆者の一人パウロが、「ローマ人の手紙」で書いたものは、ユダヤ教からキリスト教を経由して、アメリカと言う聖書主義の国に、「割礼」の子たちを、数々排出しているという事。
それは、もう一方で、「マリアの処女受胎」を受け入れてしまう民を大勢生んでいるという事。

このような、「天然自然の理に反した思想」は、「高山の支配の道具」になっています。
おやさまは、「高山の真の柱はとふじんや」と、権力構造そのものを「大社・宗教と言う権威」として、「取払いの思想」を語られているのは、その「オカルト利用の悪意」に対する批判からです。

イエスキリストの教えを「弟子。使徒たち」が、書き記したものが「新約聖書」として世界中に、イエスキリストの思想を伝えています。
おやさまは、神が「啓示=おつげ」として説き聞かしたものを弟子たちが書き残した書物の事を「こふき」と呼び示しています。
おやさまの思想では、イエスは「完成の意義」を伝えた神です。

新約聖書は、その、神・イエスキリストの言葉そのものではなく、それを弟子たちが、イエスの行動の記録と共に思想の記録として、死後に著述したものです。
「聖書と言うこふき」、それには、「神の言葉=イエスの言葉」は含まれているけれど、実は弟子たちの思想の書。でした。

中でも、キリスト教社会の思想に多大な影響を与えたのは、「使途・パウロ」の思想でした。

パウロは、イエスキリストの死後の弟子です。
>>88
> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A9%E5%8F%A4%E7%A5%9E%E9%81%93
> 『復古神道において大きな役割を果たしたのが国学者の平田篤胤である。彼は法華宗や密教、キリスト教などの他宗教や神仙道を取り入れた「平田派国学」を大成させた。この平田派国学の流れから後に川面凡児や出口王仁三郎といった宗教家が多く誕生してくる。』
>>89
> 『宣長没後2年経った1803年(享和3年)になって、本居宣長のことを初めて知ったようである。没後の門人として加わるために本居春庭に宛てた書簡によると、夢に宣長が現れて、そこで師弟関係を結んだと述べている。・・』
> 『夢に宣長が現れて、そこで師弟関係を結んだ』。
これはまさに、オカルトの世界である。

> 平田篤胤が本居宣長の、死後の弟子であった。

イエスキリストの死後の弟子が、キリストの「こふき」を「聖書」として書き記したという事。
その「こふき」が、世界の列強の海外侵略の、強い思想根拠となっていたことを、おやさまは、見抜いておられたということです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AD
パウロ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用します。
『ダマスコへの途上において、復活したイエス・キリストに出会うという体験をし、目が見えなくなった。
アナニアというキリスト教徒が神のお告げによってサウロのために祈るとサウロの目からうろこのようなものが落ちて、目が見えるようになった(「目からウロコ」という言葉の語源)。
こうしてパウロ(サウロ)はキリスト教徒となった
(『使徒行伝』9章)。
この経験は「パウロの回心」といわれ、紀元34年頃のこととされる。』

このパウロが、「ローマ人の手紙」の冒頭に、神の教えを異邦人に伝える事を、神に対する神の子の義務だと説きました。
異邦人を、キリスト教によって、教化すると言う行為は、実は「奴隷」を増やし集める行為として、歴史に無数の悲劇を刻みました。
日本に来た宣教師が奴隷を本国に搬送していたのは、紛れも無い事実。
それで、日本の江戸幕府は、仏教による統治を敷いて、キリスト教を禁じたのであり、明治の開国において、「大教=天皇教」を宣布したのも、その強迫観念に由来するのかもしれません。
「毛唐」と忌み嫌う思想の根底にあったものです。

死後の弟子パウロと、死後の弟子篤胤。
それは、元々の教えを、オカルト絡みで、政治思想に育て上げた、「祭政一致」の「こふき」の作者という事になります。
世界を支配している「パウロのこふき」、日本を支配した「国学のこふき」。
その根は、旧約聖書の思想にあります。

[104] 基本。 2006/12/21 13:09

>>103
> 世界を支配している「パウロのこふき」、日本を支配した「国学のこふき」。
> その根は、旧約聖書の思想にあります。

これは、「絶対的な唯一の神」という思想の事です。
「にほんの思想は八百万の神」です。そして世界中には「数々のその国々の神話」があります。
それに対して、この世を支配するのは「唯一絶対の神」であると説く思想は、「ユダヤ教」です。→「その思想の流れに位置するキリスト教、イスラム教」です。
そして、日本では、それを取り入れた「平田神道」の構築した、「天皇陛下絶対主義」です。

その源流を確かめますと、旧約聖書。それは、モーゼの説いた教えの記録です。
モーゼは、「奴隷解放の思想」を説いた、思想家です。
モーゼが、絶対的な権力を説いたのではなく、いうならばモーゼの弟子に相当するはずの、ユダヤ教の司祭(パリサイ人)がそれを説いたのです。

ユダヤ人の思想家として有名な「心理学のフロイト」は、旧約聖書について次のような作品を著しています。
「『モーセと一神教』」
そこに、書かれている内容はモーゼの思想のルーツとして、「アートン教」という一神教を、フロイトは、指摘しています。
「松岡正剛の千夜千冊」にその書評があります。フロイトの思想の概要は理解されるところです。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0895.html
『 フロイトは紛れもないユダヤ人である。むろんユダヤ教に対しては敬虔な気持ちをもっている(フロイトは社会的にはカトリック教会に親近感をもっていた)。
 一方、モーセはユダヤ教を開始した張本人である。モーセによって一神絶対者としてのヤーウェ(ヤハウェ・エホバ)が初めて語られ、初めて「十戒」が定められ、初めてユダヤの民が選ばれた。割礼も始まった。ということは、こう言ってよいのなら、それまで歴史上、ユダヤはなかったのだ。ユダヤ人もいなかったのだ。
 しかしそのフロイトは本書において、なんとモーセはユダヤ人ではなくエジプト人であると断定したのである。それだけではない。フロイトは、モーセはエジプト第18王朝のアメンホーテプ4世が名を変えてイクナートンとなったときに、ごくごく限られた宮廷集団で信仰していた「アートン教」の“直系”だとみなしたのだった。
 アートン教というのはマート(真理と正義)に生きることを奉じた信仰で、人類史上で初の純粋な一神教となった例だった。ただしイクナートンの死とともにアートン教は廃止され、涜神者の烙印を捺されたファラオーの王宮は破壊・・』
『それにしてもフロイトは、なぜこんなことを言い出したのか。フロイトの仮説が何を示しているかというと、「エジプト人モーセがユダヤ教を作った」ということを告げている。まさにパウロがキリスト教を作ったように、だ。
 しかしパウロが作ったキリスト教は「キリスト人」とか「キリスト民族」という血の創造ではなかった。パウロはそこまでの創作はしていない。パウロがしたことは情報の編集である。けれどもフロイトによれば、モーセはユダヤ教を作っただけでなく、ユダヤ人を作ったのである。実際にもそれまでユダヤ人の母集団であるセム族とヤーウェとはまったく結びついていなかったし、だいたいヤーウェという神の名がなかった。またセム族の集団や部族が割礼をするということもなかった。割礼はエジプト人の一部の慣習だった。
 モーセはこれらを一挙に創作したか、制作したか、出エジプトにあたって“持ち出した”のである。
 モーセはシナイ半島を渡り、こうして特定の地に落ち着いた。そここそがパレスティナの南のカナーンの地だった。そしてその結果、何がおこったかといえば、アブラハムやイサクたちがユダヤ人となり、かれらによる初期ユダヤ教が生まれたのだ。つまりモーセは「ユダヤという計画」を実施した。これではモーセは、まるで遺伝子操作をしたということになる。本当にそんなことがあったのか。』

書評から引用したが、フロイトは、ユダヤ教のルーツを語っていたのである。それは、「エジプトにある」と。
フロイトの仮説が正しいとも、正しくないとも誰も証明は出来ない。
しかし、モーゼが「エジプトの奴隷の民を解放した」その歴史的事実は間違いない事実である。

[105] 基本。 2006/12/21 14:53

基本的に、「とふじん」とは、「問う人」と文字が当てられる。

預言者モーゼは、まさに「問う人」であったと言える。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BB
『旧約聖書の『出エジプト記』によれば、モーセはイスラエル人のレビ族の父アムラムと母ヨケベドの間に生まれ、兄アロンと姉ミリアムがいた(6:19)。当時、イスラエル人たちはエジプトで奴隷として使役されていたが、モーセは数々の妨害を打破して、彼らをエジプトから連れ出すことに成功した。(出エジプト=エグゾダス)』
『シナイ山(あるいはホレブ山)で神ヤーウェから十戒を授かってイスラエル人たちに与えたので、立法者と呼ばれている。モーセとイスラエルの民は、四十年もの間シナイ半島の荒野をさまよい、約束の地カナンにたどり着くが、モーセ自身はカナンを目前にして120歳で没したという。』
『モーセが生まれた当時、イスラエル人が増えすぎることを懸念したファラオはイスラエル人の男子を殺すよう命令した。出産後しばらく隠して育てられたが、やがて隠し切れなくなり、葦舟に乗せてナイル川に流された。そこへファラオの王女が通りかかって彼を拾い、水からひきあげたのでマーシャー(ひきあげる)からモーセと名づけた。』
『成長したモーセは同胞であるイスラエル人がエジプト人に虐待されているのを見てエジプト人を殺害。ファラオの手を逃れてミディアンの地(現在のアラビア半島)に住んだ。ミディアンでツィポラという女性と結婚し、羊飼いとして暮らしていたが、ある日燃える柴のなかから神に語り掛けられ、イスラエル人を約束の地(プロミスト・ランド)へ導く使命を受ける。こうして彼の預言者としての活動が始まる。』

このモーゼの思想のルーツは、「アートン教」と言われています。
>>104
> モーゼの思想のルーツとして、「アートン教」(アトン教)という一神教を、フロイトは、指摘しています。
具体的には、このような史実があります。
http://www.ican.zaq.ne.jp/rekishi/world_history05.html  を引用します。
『ツタンカーメンの死後、アメンホテップ4世・ツタンカーメンは、アメン神信仰などのエジプトの全ての神々を否定・廃止して、アテン神の唯一神信仰樹立しようとした異端の王として歴史から抹殺さた。全ての記録が削りとられ、抹殺されていたのである。首都とされたアケトアテンも破壊されつくされた。しかし、アメンホテップ4世のアテン神信仰は、ユダヤの預言者たちに受け継がれた。アメンホテップ4世が自ら作ったアテン賛歌と旧約聖書の詩編104篇の類似性が指摘されている。モーセに率いられてエジプトを脱出したユダヤ民族は、アメンホテップ4世のアテン神信仰を捨てなかった民との説もある。モーセは、ファラオの養子として育てられていたということ。唯一神の信仰が確立していたと言うこと。祭司階級としてレビ族が確立しており、このことは、エジプトの神官階級の世襲制度と類似するということ。さらに、奴隷としてエジプトを脱出したにのかかわらず数多くの財宝をたづさえていたことなどが傍証とされる。また、聖書の「出エジプト記」に該当する記述が、エジプトの記録や遺跡から見つからないことも歴史から抹殺されたアメンホテップ4世の宗教改革に絡んでいるからではないかとされる。モーセにはアメンホテップ4世につらなるエジプト王家の血がながれていたかもしれない。』

モーゼの行ったこと。
それは、奴隷解放と同時に、宗教改革でもあったということでした。

そしてモーゼは神に「なぜ?」と問うたまま、約束の地にたどり着けなかった、「問う人」として、さまよい続けて、死にました。
「とふじん」・・・。理を説きながら、実は、理を問う人の事です。

おやさまは、その「約束の地」に到達できない「とふじん」の理由を一言で諭しています。「高山」であると。
ユダヤ教は、エジプトの神殿内での乱交を否定し、奴隷差別を否定して生まれながら、司祭階級を特権化し階級をつくり、「十戒」の教えのなかでも、「汝殺すなかれ」を破る歴史でした。
同じようにモーゼを預言者とするイスラムも・・・。

安心の無い「とふじん」。その、「とふじんころり」を待つ、おやさまの思想。天然自然という思想は、八百万の神を拝する、思想です。

[106] 基本。 2006/12/21 16:33

>>105
モーゼの旧約聖書が今日もなお、現代社会に影響をしっかり与えていて、それは、「割礼」という蛮行をアメリカに残しています。

割礼 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B2%E7%A4%BC#.E3.82.A2.E3.83.A1.E3.83.AA.E3.82.AB
割礼を行う国・・・
『「アメリカ合衆国」
1990年代までは生まれた男児のほぼ全数が出生直後に包皮切除手術を受けていた。アメリカの病院で出産した日本人の男児が包皮切除をすすめられることも多かった。しかし衛生上の必要性は薄いことが示されるようになり、手術自体も新生児にとってハイリスクかつ非人道的との意見が強まって、1998年に小児科学会から包皮切除を推奨しないガイドラインが提出された。これを受け、21世紀に入ってからは包皮切除を受ける男児は全米で約6割に減少している。 』

割礼は、ユダヤ教では、信徒の資格条件です。
しかし、ユダヤ教の司祭でもあり、そこから回心した使徒パウロは、>>103 ,
キリスト教徒として、ローマを布教するとき、割礼の義務を、「方便」を説いてしなくてもよいことにします。
西欧社会時では「正月・一月一日」は、イエス子リストの「割礼記念日」 >>102
> 『「イエスの割礼の日」 カトリックのカレンダーでは、12月25日にイエスが生まれたことになっているので、
> 8日後に割礼を行うユダヤ人の習慣から1月1日が、キリストの割礼の日である(とされる)。』
であるのに、パウロは、次のように「説法」しました。
http://www.wcsnet.or.jp/~m-kato/bible/romans.htm  第三章
0301> では、ユダヤ人のすぐれている点は何か。また割礼の益は何か。
0302> それは、いろいろの点で数多くある。まず第一に、神の言が彼らにゆだねられたことである。
・・・
0321> しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
0322> それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
・・・
0328> わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
0329> それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。
0330> まことに、神は唯一であって、割礼のある者をも信仰によって義とし、また、無割礼の者も信仰のゆえに義とされるのである。
0331> すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。

その、パウロ型キリスト教は、ヨーロッパを席巻した。キリスト教は政治権力となった。
そこから逃れた、キリスト教徒は、「教会を否定」し、「聖書」を崇拝し信奉した清教徒が、多かった。
>>92
> 本国は、「イギリス国教会」。> 植民地は、「不満のカトリック」「不満のカルビン派・清教徒」

パウロは<とふじんの「こふき」 から、今日もこう語っている。
0101 > キリスト・イエスの僕、神の福音のために撰び別れた、召されて使徒となったパウロからーー
0102 > この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、
0103 > 御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
0104 > 聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである。

0105 > わたしたちは、その御名のために、すべての異邦人を信仰の従順にいたらせるようにと、彼によって恵みと使徒の努めとを受けたのであり、
0106 > あなたがたもまた、彼らの中にあって、召されてイエス・キリストに属する者となったのであるーー

0107 > ローマにいる、神に愛され、召された聖徒一同へ。わたしたちの父なる神および主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
0108 > まず第一に、わたしは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられることを、イエス・キリストによって、あなたがた一同のために、わたしの神に感謝する。

エジプトの「カルト」モーゼ。
テロリストであり、その思想行動は、「とふ」事でありつづけた。
その思想と行動をしっかりと学んだパウロは、眼病を助けられて、キリスト教になった時、モーゼのように「約束の地」に民衆を導くのではなく、神への信仰のみで救われると言う「方便」を用いて、信者獲得を救われる道と、宗教の高山への道を諭した。

「割礼」は、果たして、性犯罪を、防止できたか。

唯一絶対と言う事の、危うさを、心得るべき時代は来ている。

[107] 基本。 2006/12/21 16:55

>>106
> エジプトの「カルト」モーゼ。テロリストであり、その思想行動は、「とふ」事でありつづけた。

それは、太古の信仰の多神教を否定した唐人の思想。
明治政府の、民間宗教弾圧の、思想背景は、ここにありました。

エジプトの宗教史の「異端」。そこから生まれた「ユダヤ教」。でした。そのユダヤ教から、キリスト教。そして、「パウロ」のキリスト教。
最後の審判思想のルーツは、エジプト。死者の書といわれます。
http://www.actv.ne.jp/~yappi/tanosii-sekaisi/01_sensi&kodai/01-06_miira.html
『古代エジプトは、さまざまな神が共存する多神教の社会で、人々は自然界の事物に神性を認め、神として崇拝していました。太陽はもとより月、ナイル川、動物や鳥、昆虫などその種類は多岐にわたっています。それぞれのノモス(都市国家)には、その地方の守り神が定められており、独自に崇拝されていました。こうした二千種類もの神々の中心に置かれたのが、太陽神ラーでした。
ファラオたちは、自ら「ラーの子」と称する名前をつけ加えるようになりました。
死後、王が昇る太陽への階段としてピラミッドを造営し、太陽神をまつる神殿を築きました。
こうして太陽神崇拝はますます隆盛となり、中王国時代、都がテーベに移されると、テーベの守護神アメンはラーと結びついてアメン=ラーとなり、一躍エジプトで最高位の神に昇格したのです。

ところが、アメンホテプ4世は、太陽神アトンだけを至上の神として崇拝し、権勢をふるっていたアメン神の信仰を禁止しました。しかし、この宗教改革は、神官たちによって反発を受け、わずか10年で挫折し、再びアメン神の信仰が復活しました。

古代エジプト人たちは、来世を現世のつづきだと考えました。

来世は終着点のない永遠なものであり、現世のように辛いことはそこにはない。逆にいえば、現世は来世へのテスト期間なのです。

だから、そこへは誰もが行けるのではないとして、この世でしてはならないこと("罪")をしなかった人だけが行けることとしました。ここに人類史上初めての道徳・倫理が生まれたのです。

そして、来世に行くための道しるべとして書かれたものが「死者の書」です。来世に入るためには、生前しておかなければならないことがいくつかありました。』

豊穣の神の多神教だったと言うことですが、それは、性的には乱れた社会であり、絶対的な一神教での戒律をもって、秩序を正そうとした、アトン教の祭司がモーゼだったと言う説は、辻褄が合います。

史実をみれば、古代エジプトでは、王が王の娘に王自身の子を生ませることは、神の認めている所であり、王妃が夫以外の男(神)と交わって子を産む事も、神の認めている事でした。
http://www.moonover.jp/bekkan/chorono/topics10.htm

神々の戦いで、敗れたアトン神。歴史的には、エジプトでは消滅しました。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Akiko/5151/link_3071.html
『アメン神というのはもともとこのテーベの一地方神にすぎなかったのだが、この地に誕生した王朝が拡大し国土を統一するようになると、王権の伸張とともに、アメン神そのものの肥大化も見られるようになる。
それは具体的にはアメン神を祭るアメン神官団の勢力の拡大という形を取り、やがて王権と神官団が対立するようになる。

そこでアメン神官団に対抗するために、イクナアトンがもちだした新しい神がアトン神であった。』

政治と宗教。
その「悪因縁」を切ること。
「大社」「高山」取り払いこそ、おやさまの思想の真髄ですが、宗教儀式が日常化した、アメリカの現実は、カルトの思想では、世界はたすからないことを示したいます。
「とふ」ならば、おやさまに、問うしかないと、それがおやさまの思想です。

[108] 基本。 2006/12/21 17:21

おやさまの思想は、一神教では、無い。「理」である。
しかし、おやさまの弟子のなかでも、神学系の学者は「一神教」であると説きましたが、それは、実に、モーゼの影響でした。
>>103
> 死後の弟子パウロと、死後の弟子篤胤。
> それは、元々の教えを、オカルト絡みで、政治思想に育て上げた、> 「祭政一致」の「こふき」の作者という事になります。
> 世界を支配している「パウロのこふき」、日本を支配した「国学のこふき」。
> その根は、旧約聖書の思想にあります。

そして「平田国学」と、「パウロ神学」の両者には、「死後の世界」という、「幽冥の思想」が共通してあります。

人間が、この世に生まれかわるという、おやさまの思想。
現実の谷底を、せり上げると言う思想は、いかに死ぬべきかを説き、「幽冥の」死後の世界を説く、宗教では、到底理解は考えられません。

[109] 普通の天理教徒 2006/12/22 02:47

古代エジプトの宗教とモーゼの思想との関係と、それが現代社会にもたらしているものと、それはアメリカでの「割礼」と言う儀式の日常化の中に見え隠れしているという事は、理解できます。
 隔世遺伝のように、西欧のローマ教会での割礼の空文化を経て、現代アメリカの生活習慣の中に甦っている事には驚かされます。

ただ、なんでフロイトの「一神教とモーゼ」の話題が出てきたのか、少し話題が横道にそれたような気がするのですが、・・

又、平田篤胤が、正統な古事記解釈の後継者ではなかったと、それは理解されますが、直接にモーゼの思想とつなげるのは、論理に飛躍がありすぎると感じますね。

基本さんの言われようとする、「唯一絶対の一神教」こそ「にほんには無い」、「唐人の思想」という、それは、分かるような気がします。

たぶん基本さんは、「カルト」と言う言葉で、両者を括っておられる。括りたいのですね。

平田篤胤の「カルト・オカルト」は、「文政3年に異界から来たという仙童寅吉と邂逅する事による影響で有る事は否めない。」と、言う、これですね。
本当に存在したとは思えないはなしですが、・・。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%B0%E7%AF%A4%E8%83%A4#.E7.B3.BB.E8.AD.9C  では、
『以前から異境や隠れ里の存在に興味を抱いていた篤胤は、寅吉に邂逅し異界について聞くことにより、幽冥の存在を確証するに到った。篤胤は寅吉を説得する事により、幽冥で寅吉の見えた師仙の神姿を絵師に描かせ、以後はその尊図を平田家家宝として斎祭った。寅吉が幽界に帰る際には、この師の住まわれると言う信濃国浅間山の隠れ里の山神に対して、篤胤自ら認めた手紙と自著「霊能真柱」を添え、又神代文字への質疑文を、寅吉に托し委ねて山神に献上手渡したという。これ等の経緯やその折に山神や寅吉に手向けた歌などを詠じた文や和歌を、仙境異聞の中に記述する。』・・・
『「七生舞の記」の記録は、寅吉の物語る幽境の舞についての模様を篤胤が詳細に論じたもので、七生舞は御柱の舞(おはしらのまい)とも称され、楽器は短笛五管 一丈の笛 九尺の笛 各々一管 りんの琴一挺 かりょうの笛五管 浮鉦二つ 此の六品にて唱歌は五十音を、聲を長く引きて唱ふるなり。りんの琴 舞人は五十音に合わせて五十人なり。此の舞楽は天神地祇の大きに歓びたまふ楽にして此れを行ふ時は感応あり。それに替わりて妖魔のたぐひは殊の外に忌み嫌ふ舞楽なり。舞人50人・楽人24人合計74名の異境人が参列し神々に奏上報告をなす祭典なり。此の詳細な検証や図解については数年前に平田神社宗家の資料提供により、集英社版の文庫「荒俣宏コレクション」の中に公開されている。新玉の春の余碁登「初春に 五十連音の風韻 縹渺と轟き亘り 諸国山川草木 穏やかに 四海の波も静まりぬ 其の奇しき調べぞ 神代より伝え来る 七生の舞」。寅吉は、此の舞楽は、神祇をなぐさめて感応を蒙らむと欲する時か、または山人たちの住する山々の、妖気を祓い浄むる時などに行うもので崇高な祭典の一つであると篤胤に語ったと記述されている』

『天狗小僧寅吉の出現は文政3年秋の末で、篤胤45歳のころである。
寅吉は神仙界を訪れ、そこに住むものたちから呪術の修行を受けて、帰ってきたという。この異界からの少年の出現は当時の江戸市中を賑わせた。
発端は江戸の豪商で随筆家でもある山崎美成のもとに少年が寄食したことにある。弟子達の噂が篤胤の耳に入り、予てから異界・幽冥の世界に傾倒していた篤胤は、山崎の家を訪問する。以後この天狗少年を篤胤は養子として迎え入れ文政12年まで足掛け9年間面倒をみて世話をしている。』

基本さんは「お払いさんが降る」とおんなじような、情報操作とみているのですか。
「カルト」の「オカルト」には、情報操作があると。

もう一方のとふじん思想の拠点、西洋では「パウロ・聖書」のカルト・オカルトですが、これは、「マリアの処女受胎」と「イエスの復活」。誰もが知っているキリスト教の教えの「奇跡」。ですね。
つまり、「処女のまま受胎する」事と「一度死んだイエスが墓場から復活する」と言う事はまるでありえないことです。
それを逆手に、絶対の唯一の神だからこそ、ありえない「奇跡」は起きたと、キリスト教会では説き、布教しましたが、この世にまるでありえない不合理を説くことで、逆に、常識を超えた奇跡的な神の権威を証明したわけですから、「カルト」は、「死からの復活を説いて」プロパガンダに成功したと、基本さんは、そのように言いたいのでしょうか。

割礼をしている戦士が戦う戦場なのですね。イラクは、パレスチナは。
戦争と言う「謀反」の根は「とふじん」の思想にあるという事を言われたいのでしょうか。基本さんは。
普通に考えると、そんな気がして来ました。

[110] 基本。 2006/12/22 04:25

おやさまの思想では、「理」が神です。

先ず、分かりやすい処から、「マリアの処女受胎」と言うプロパガンダを合理的に、宗教思想として、理解しなければなりません。
現代アメリカでは、>>102
> 新約聖書のキリスト降誕の話で聖母マリアの処女懐胎を信じている人は、
> 米国民の79%、キリスト教徒では87%に上ることが米誌ニューズウィーク(電子版)が5日報じた調査で分かった。
天皇陛下は神であるという不合理を信じ込んでいた国のように、聖母マリアは処女で受胎したと信じている国。

「ファラオはイスラエル人の男子を殺すよう命令し、出産後しばらく隠して育てられたが、やがて隠し切れなくなり、葦舟に乗せてナイル川に流された。」
「そこへファラオの王女が通りかかって彼を拾い、水からひきあげたのでマーシャー(ひきあげる)からモーセと名づけた。」
そして、「乳母は、実は実母だった」と、乳母を王女に推薦したのは、モーゼの姉。モーゼの兄アロンは王宮の聖職者だった。と、聖書に語られていますから、王宮内の司祭職とファラオ一家の出来事としての、妊娠出産とわかります。

>>107  で触れましたが、
> 古代エジプトでは、王が王の娘に王自身の子を生ませることは、神の認めている所であり、
http://www.moonover.jp/bekkan/chorono/topics10.htm
エジプトでは、王家の子は、母系で継承を正当化されていたのです。
つまり、王の娘の胎内にいたと言う事実が、正統な後継を証明してくれたということです。> 王妃が夫以外の男(神)と交わって子を産む事も、神の認めている事でした。
神殿は乱交と売春の場でもあったとされますから、生まれた母親でしか、出生は証明できない事なのでした。
王女が拾ったということですから、場合によれば王女自身の子である可能性もあると言うことです。王と実母との身分違いの妊娠で、王女が拾わないと、証明不能だったのかもしれません。姦淫の子。

宗教思想で言うなら、「淫行」によつて生まれた罪の子を、川に流して拾うことで、ロンダリングした。浄化した。
「洗礼」とは、この「淫行」の穢れを清めること。
それは、全て、エジプトのモーゼの出生から、開始されたいるものと分かります。
乱交を認め一夫多妻思想の古代エジプトの思想に対し、「一夫一婦」の思想を提起した。「性」を罪と定義したキリスト教の根は、古代エジプト。
> 唯一神教はアメンホテプ4世による古代エジプトのアトン信仰(世界最古の唯一神教とされる)とユダヤ教だけに興り、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%86%E3%82%A3#.E3.82.A2.E3.83.9E.E3.83.AB.E3.83.8A.E9.9D.A9.E5.91.BD
ここに、アマルナ革命の説明がありますが、アトン信仰を起こしたものは、全て歴史的事実とともに消滅しています。引用します。
『トゥトアンクアメンの早急な死後、大神官エイエはファラオの位に登り、アメン神殿と宥和して、将軍ホレムヘブを派遣してヒッタイトをパレスティナより撃退する。ホレムヘブがやがて、エイエの後を襲ってファラオとなり、アクエンアトンの名と存在、その事績をすべて抹消する。こうして、アマルナ革命は、アクエンアトンやその家族、宮廷の記録と共に、エジプトの砂の彼方に埋もれた。』

フロイトは、この「消失させられたアトン信仰」こそ、「ユダヤ教の原型」であると、分析したわけです。的確と思います。
それは、モーゼの母親の原罪であった。
エジプトのファラオの王女の水からのとりあげで、清められた洗礼思想は、「性」を原罪として説く教義と、割礼と言うエジプト時代の儀式をともに継承し、教義と信仰の骨格を形成した。
性の深層心理がモーゼを「アトン信仰」に駆り立てていた。

そこでイエスキリストの場合には、「キリストは唯一の神の子」であるという神の権威の上で、キリストが夫以外の子として生まれていた事実を、表現するには、「夫のいないマリアのみの子」として、説いた。
ちょうど、古代エジプトの王妃が誰の子を妊娠していたとしても、「神の子・ファラオ」の子であると、説いたように、です。

おやさまは、「胎内へ宿しこむのも月日なり、生まれだすのも月日世話どり」と、思想を示しています。
そして、それは、−「なむあみだぶつ」の守護であり、「な・国床立」「む・面足」・・の八柱の神の守護であると、唯一絶対ではない、八百万の神々による守護により「生命がある」と、示しています。

処女受胎には、嘘があるという、それが基本です。

[111] 基本。 2006/12/22 12:01

>>110
割礼について、パウロが用いた論理、それは宗教の方便ですが、ローマ人への手紙の中で、こう語っていた論理です。>>106
> 0328> 人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
 神の教えを信仰するのなら、→ 割礼は当然の義務です。 しかし、その前に、「信仰するかしないかがもっと重大だ」と説く事で、肉体的に「割礼」しなくても、信仰者として神に捧げきる事で、「霊的な割礼になる」と、肉体と精神の二重構造を論理として持ち込んでいるのでした。

マリアの処女受胎の場合の論理も同様で、「神と交わる」という事は、肉による行為」の問題ではなく『神と交わったマリア』は、信仰として、「霊的に処女」なのです。
 この、「肉」と「霊」の使い分けがパウロのキリスト教論理の特徴です。

モーゼにおいても、肉体として生まれた事情は、「川に流して拾う」事で、神の子ファラオの娘によって浄化されているとされて、洗礼で肉の穢れを、神の浄化にて救済するとする一方で、現実には、割礼と言う直接的な肉体への手術で対応している。霊と肉の、教義の二重性が実態でする。これは、例えば、モーゼは杖を蛇に替えたとされていますが、豊富な天文学・薬学の知識と、加えて奇術的トリックが古代エジプトの神官プロパガンダのテクニックであった事から説明されます。
農業のための「実学」と、神秘を演出するマジック、神官モーゼの世界の神官の芸であり、モーゼが、「約束の地」と言う「霊的な地」と豊富な知識集団を束ね、「神の律法」という法治による統治をしたのも、「霊肉二元」の実践だったわけです。

そこで、パウロ・聖書は、実際にあったとされる「死後の奇跡」、そして、「墓から失われた遺体」という事実。多くの信者がその死後に見たと言う「イエス」との遭遇体験。
これらの事実から、「霊的に復活した」と、パウロは説きました。

信仰的な意味での「霊的な割礼」があるように、信仰的な意味での「霊的な神との交わり」があり、「霊的な復活」がある。
それは、神を信じるものだけが受け入れられる「霊的な事象」であり、神を疑うものには、見えない。
そういう説かれ方をしたわけです。

「霊」と「肉」の二元論。
「洗礼」と「割礼」の二大信仰教義。

旧約聖書の世界観は、古代エジプトの魔法使いの「実学」と「マジック」を、思想的に由一一神教として整えたものでした。
イエスキリストは、ユダヤ教の改革者として、神の愛を説き、律法者の堕落を批判した存在と言う事で、数々の奇跡を起こしましたが、それは、具体的には病たすけであった。
パウロは、『目の病』をイエスの弟子にすくわれて、「目からうろこが落ちた」。
イエスキリストの教えの伝道者になりましたが、その時、古代エジプト以来の、ヘブライ伝統の「肉と霊」の「実学と神秘」の思想を持ち込んだと言う事です。

それが、肉の穢れの救済は、キリストにおいては、「やまいたすけ」であり、それが、元ユダヤの宗教家で、使徒のパウロにより、「やまいたすけ」はかなたに置き去りにされて、見えざる死後の、「霊界」においての救済、「最後の審判」という「幽冥」の究極教義へと連なっているのです。

どこか、山名系の教義に似ているのは、同じ「絶対神一神教の教義」をプロパガンダしたいんねんの同一性からでしょう。

[112] 基本。 2006/12/22 12:12

>>109-111
確認のためですが、新約聖書にはイエスの洗礼の話があります。
http://www.ne.jp/asahi/art/dorian/Bible/CLater/01Baptism/01Baptism.htm
『 洗礼者ヨハネは、ヨルダン川で説教をしていた。そこにイエスがあらわれる。ヨハネから洗礼を受けるためである。
ヨハネはためらい、言った。「私こそ、あなたから洗礼を受けなければならないのに、なぜ私のところへ・・・」 』
 又、イエスの誕生時には、三人の博士が祝福に訪れています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E3%81%AE%E4%B8%89%E5%8D%9A%E5%A3%AB
これらの事実の意味ですが、ヨセフが語ったように、『私こそ、あなたから洗礼を受けなければならないのに、なぜ私のところへ・・・』
司祭としては、イエスは格上であった。
東方の三博士が表敬訪問したように、です。
 つまり、イエスキリストは、(母系)ユダヤ教の身分高き司祭であり、マリアや周辺の人々には、神秘を演出するマジックの持ち主がいて、イエスの死後の神秘の演出は、神の働きとしてのそれというよりも、エジプトの神官のテクニックと言うべきものでしょう。
死者の美化は、古代エジプトの伝統です。
イエスキリストは、ユダヤ教の中では、ユダヤ教の人物として、尊敬されて理解されている事も忘れてはなりません。

つまり、イエスの復活は、「現実としての事実」から、「霊的復活」として作り上げられた、プロパガンダと言う事です。

 ユダヤ教の元司祭者であったパウロは事情を熟知していたはずで、肉体の復活とからつめつつ、それは実は霊的な復活だと説いている。

ローマ人への手紙 8  引用します。
http://www.creationism.org/japanese/romans8.htm
9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
10 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

現実の肉体ではない復活とは、パウロの自白そのものですが、「霊的」な「神霊の前」と、こう説かれてしまうと、「詭弁」、宗教のまやかしテクニックというしかありません。

普通の天理教徒さん、お分かり頂けましたでしょうか。

聖書世界の死後の世界、国学の学者として、本来は、「穢れ」として説いていたはずなのですが、幽冥の世界を説かなければ、「人は見えざる死後の世界に支配される」のであるから、人を導く思想となり得ない。
ここに、平田篤胤や、後の出口王仁三郎が、霊界・幽冥界を思想として説く発想の原点があるわけです。

人は、死に恐怖し、そして死後の世界の「幸福」を得ようとして、宗教の奴隷となります。
 爆弾を抱いて、戦車に飛び込む人には、「死後の幸福」を、「割礼の神」が保証している。
 「神風」と呼ばれる思想は、「宗教の思想が生んだ思想奴隷の姿」

「大和魂に敵は無い」。
 靖国に祀られた英霊も、イラクの爆弾を抱えた少年も、「とふじん」の思想の、生贄として、神にささげられた子羊である。

おやさまが、「とふじん」がままにすると、断固と立ち向かった先には、現代の大社高山の、思想奴隷が、数々見えていたということでしょうか。

[113] 基本。 2006/12/24 05:08

おやさまの思想�、ここは、この世の極楽やという思想。
>>1-2
ここは、この世の極楽やという思想は、立って踊る「御神楽歌」の中で、示されたものです。

おやさまは、「死」とは「古い着物を脱ぎ捨てたようなもの」と、死生観を思想として示しています。

天理教という宗教思想では、「魂は元のぢばに帰り、また肉体という衣を新たに借りて生まれかわって来る」という、解説をします。
これは、一種の唐人の思想との融合という説き方で、宗教の方便の匂いがします。
もっと、すっきり、人間が主体的に「脱ぎ捨てる」というものとして、おやさまは、「着替え」の思想を説いています。

良い心だから、良い肉体と言うような因果律の、「生まれかわり前の審判」、そんなものは、おやさまは説いておられません。
天理教という狭い宗教思想の言う様な「再び肉体を借りて地上に生まれかわる時に、(幽冥時の)神の判断が入るということなら」、それは、死後の世界が、「幽冥の死後の世界」なのか「死後だけれど現実の今の世界」なのかと言う、相違はあるというものの、「生まれかわり前の審判を説くようでは、」
古代エジプトの「死者の書」やその思想的流れにあたる「新旧聖書」の、「審判の思想」と、何ら変わりないことになります。
>>107 参照。

おやさまは、みかぐらうたで、

「 八つ 病のすっきり根は抜ける 心はだんだん勇み来る。
  九つ ここはこの世の極楽や わしも早々参りたい   」
と、思想を示しているように、「肉体的には、病のすっきり(完全に)根が抜けた状態で、『ここはこの世の極楽や わしも早々参りたい』と、思想を示されていますから、

人間が、「病の根の切れた状態」とは、「生きていたいだけいきて」→「死にたいときに生まれかわれる状態」です。
おやさまの言われた、
 「死」とは「古い着物を脱ぎ捨てたようなもの」
とは、主体が人間にある思想。
神に生死の審判を受けなければならないような、「とふじん」の思想とはまるで違います。

[114] 基本。 2006/12/24 06:09

基本的に、「とふじん」とは、「問う人」と文字が当てられる。

>>113
おやさまの思想では、「ここはこの世のごくらくや」と示されています。

モーゼは、古代エジプトでの、王権の絶頂期の「妻を155人」有した王(ファラオ=神)の時代に、奴隷の身分の男子として死ぬ法の下で、王女に「川から拾われて」、「神官」となり、そして、「ここ(エジプト)には楽園はないと、十二の部族をつれて、「約束の地」を求めて、さまよいました。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%83%97%E3%83%88#.E3.82.A8.E3.82.B8.E3.83.97.E3.83.88.E6.96.B0.E7.8E.8B.E5.9B.BD.E6.99.82.E4.BB.A3.EF.BC.88.E7.AC.AC18.EF.BD.9E20.E7.8E.8B.E6.9C.9D.EF.BC.89
・・・
紀元前1360年頃、アメンホテプ4世(アクエンアテン)によるアマルナ宗教改革(伝統的なアメン神を中心にした多神崇拝を廃止、太陽神アテンの一神崇拝に改める。世界最初の一神教といわれる)。戦闘を避けたため国力が一時低下する。
紀元前1345年頃、ツタンカーメン王によるアメン信仰復活。
紀元前1300年頃、セティ1世によるアジア遠征。
紀元前1285年頃、カデシュの戦い(ラムセス2世、対ヒッタイト)。
紀元前1270年頃、ヒッタイトと和平条約。
紀元前13世紀、古代イスラエルの人々が、モーゼとともにエジプトを脱出。後に一神教のユダヤ教の元になるグループである。

アメリカの建国の道筋は、
>>92
> http://members.jcom.home.ne.jp/spu/034.htm
> 「・・ジェームズ1世の時代になってヴァージニア会社の手によってヴァージニアにジェームズタウンが建設された(1607年)。」
> 「その後・・イギリス人も煙草の栽培を始め、これをイギリス本国に輸出して利益をあげるようになり、女たちも入植し、黒人奴隷も運ばれて、農業植民地として繁栄するようになった。 」
> 「 ヴァージニア植民地の成功に刺激され、新大陸に希望をもってわたる人々が増加した。」
> 「イギリス国教会に服従を拒否して迫害されていたカルヴィン派(分離派)の人々が、1620年、メイフラワー号で新大陸にわたり、建設したのがプリマス植民地である。」
>
イギリス国教会の統治下で「新天地」を求めて、奴隷制度で成功している、当時のアメリカに渡った、『聖書主義キリスト教徒たち』。
それは、約束された地を「たずね求めるとふじんの姿」。

「ここはこの世のごくらくや」という、おやさまの思想。

とふじん」は、神に問い、新天地を求め、新たな奴隷制を生み出し続け、そして、インドを中国を西欧の奴隷国家として侵略支配し、にほんに対しても、武力をもって、威嚇してきた。
対して、日本の「とふじん」は、同様に、アジアに日本の新天地を求めた。

「なぜか」を問う。
「人はどこから来てどこに行くのか」問う。
その哲学的問う思想は、「霊」とするなら、
他国・他民族を(異邦人)を、教化し、奴隷制の上での「楽園」をどこかにと問う行動を、「肉」として、今のこの世を「仮」とみなして、幽冥の審判と楽園に奴隷たちを、導く。

まさに、「とふじん」は、「ころり」を、待つしかない。
現代までの、「とふじん思想史」でした。

[115] yoshio2028 2006/12/24 22:36

質問です。
あしきをはろうてのおつとめは
いつの頃からあるのですか。

[116] ジャンプ 2006/12/24 23:47

http://72.14.235.104/search?q=cache:Q8myQtlI8bYJ:www.oyasama.com/page020.html+%E3%81%82%E3%81%97%E3%81%8D%E3%81%AF%E3%82%89%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%A4%E3%81%A8%E3%82%81&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=8

[117] 基本。 2006/12/25 03:45

>>115
yoshio2028さん。
> あしきをはろうてのおつとめはいつの頃からあるのですか
>>33 、に整理しておきました。
> 明治政府は、「王政復古」をなすに当たり、大衆の心理に影響をあたえるべく、「お払いさんが降る」という情報戦略を用いて、お払いさんがあると言う神秘現象で、「明治維新」→「世直り」という、
神がかり的な演出をし、「幕府」から「朝廷」という流れに民意を誘導しました。
> 慶応2年に、あったこと。→「農民は百姓一揆」「うちこわし」
> 慶応3年に「高山のした事」→「お払いさんが降る」→「ええじゃないか」

> おやさまは、慶応2年には、「あしきはらいたすけたまえ天理王命」のつとめを教えました。
> 慶応3年には、「みかぐら歌十二下り」を教え始めました。

百姓の苦難は、明治維新政府が、佐久間象山の打ち出した方針に従って、皇帝ナポレオンを見習い、税制改革を行った「地租改正」以後、零細な百姓は急激な貧困に襲われ、土地を奪われていきます。
その以前に、「あしきはらい」のおつとめを教えています。

旧約聖書のモーゼは、古代エジプトの神官でしたが、神官であると言うことは、奴隷制度と深く関わりがありました。

http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-16-2.html  にありますが、
『[古代エジプトの奴隷制]
 歴史の父ヘロドトスは「エジプトはナイルの賜」と言ったが、全長670kmにも及ぶ世界最長の大河ナイルは毎年夏季にゆるやかな大氾濫を起こし、流域一帯を沃土に変える。エジプトの天文学はナイル河の水量増減の周期を算定し農作業の適切な時期を知る必要からうまれた。天文を司る僧侶身分による支配が成立し、その対極に奴隷が発生した。』

つまり、農業の実学に於いての知識を占有していた「神官」がいたから、無知な奴隷が生まれたという構図です。

日本の場合にも、それは同じです。
「水軍九鬼氏と三田・神戸の歴史『九鬼奔流』 」のサイトから引用しますと、
『 「中臣は大和朝廷にあって、古来神祇をつかさど司る家系であった。伊勢神宮の斎王に仕える斎宮寮の中に、神官を統括する主神司があり、その主神司として中臣・忌部(いんべ)・宮主(みやじ)・神部(かんべ)・卜部(うらべ)がおかれていた。(これらは皆、職名である。)中臣という氏は『ナカツオミ』に由来するとされており、この場合の『中』は神(=天皇家)を指し、神に仕える者という意味であった。
始祖は、天ノ岩戸伝説の中で天照大神が岩戸から出てくるよう祈祷した天児屋根命(あまのこやねのみこと)とされている。中臣氏が神代の時代に遡り、如何に古くから司祭者として天皇家に奉仕していたかを裏付ける伝説である。(ちなみに、伊丹のこや昆陽寺や昆陽池という地名の由来は、付近が昔、児屋 (こや)郷と呼ばれたことから来ているが、この郷名は天児屋根命から来ているとされる。)しかし、実際に彼らが司祭者の地位に就いたのは、六世紀初頭の継体朝の頃からであろうという説が有力である。」』
と、あります。

神官は、債務奴隷を産み出した張本人です。
大宝律令の時代の藤原氏もそうでした。
そして、神官時代のヘブライ人も、そうでした。

日本を奴隷国家にしてしまおうという、西欧列強の思想が、日本を思想的に侵略した説き、おやさまは、「悪しき払い」のおつとめを教えられた。
それは、「大社・高山」の「とふじん」思想を払うという、意味のおつとめでした。

[118] 基本。 2006/12/25 05:36

古代エジプトでの、大量の奴隷発生は、こうした実例として、旧約聖書が伝えています。
http://www.page.sannet.ne.jp/tcchp/yosefu/yosefu3.htm  引用します。
{ やがて親任式があって、ヨセフは王に次ぐ位を与えられ、王の全権を持ち、王の印綬を帯び、王の衣、装具をつけ、先払いを立てて王の車駕を駆り、全エジプトの運命を双肩に担うことになりました。
 七年の豊作の間、エジプトの全地は山をなして産物を生じました。ヨセフは周到な指示と厳重な監督で官民を励まし、予定通り税として産物の五分の一を納めさせました。ヨセフ自身もまめに全国を巡回しました。
 この税は、あまっている物の物納だから、決して重い負担ではなく、かえって価格の混乱がなくて人々も助かったのです。むしろ限りもなく集まってくる産物を収納、処理する役所の仕事の方が大変でした。しかし次に続く七年の飢饉のことが分かっていましたから、どんどん倉庫を増設して収納したので、ついには計量も記帳もできなくなってしまいました。
 ご承知のようにエジプトはナイル川の定期的氾濫によって産物が豊かだったので、はやくから農業が発達しました。そこで共同作業の必要などのために、次第に農民の組織が生まれ、紀元前数千年の頃から、秩序的な社会生活や政治形態が整い、また進歩していました。ですからこの条件のなかで、ヨセフの政策もうまく実行されたようです。
 多忙な中にも、ヨセフにようやく幸福な月日がめぐって来たといえましょう。
 この頃ヨセフは多分三十才を少し出たくらいだったでしょうが、間もなく結婚しました。
・・・
 七年の豊年が終わると、やがて恐ろしい飢饉がやってきました。飢饉が続いたために食糧がなくなった人々が王に助けを求めると、王の言葉は簡単でした。「ヨセフのところに行け。ヨセフの言う通りにせよ」
 ヨセフは今度は全国の倉庫を開いて、国民に食糧を払い下げました。
 凶年は続きました。人々のお金もなくなりました。するとヨセフは家畜を引き換えにして食糧を売りました。もちろん、所有権を王家に移して登録を済ませれば、家畜はもとの通り彼らに渡したでしょう。こうして人々の財産は全部王家に帰して、残るものは土地だけになりました。次にヨセフは土地を代償にして食糧に代えることも認めました。もちろん、名義が王家に移行しただけで、彼らは従来通りその土地に住み、その土地を耕作して生活したから別に困ることもありません。
 人々は、諸外国の人たちが飢饉のために飢えて惨澹たる状態なのに、自分たちが満腹して生活できるのは、王家のおかげ、国のおかげ、政治のおかげとよく分かりました。王家に従うことが自分たちの生きる道だと言うことを体験したわけです。
 その一方、一切の所有権は合法的に王家に帰し、国民は王家の恩恵のもとに、納税、労役、軍役の義務に従いつつ生活することになったから、これに服従しない場合は、土地、財産を取り上げることも、追放することも王家の自由となり、支配権のまだ確立していなかったヒクソス王家の支配は、今や全エジプトにおよび、完全に全エジプトを掌握することになりました。
 これらは全部総理大臣ヨセフの功績だといえました。 }

この方法は、律令時代の「天皇と藤原氏」の方法でした。
>>23
> 公出挙は、種籾まで食してしまった農民の救済措置として始まった。

宗教の、福祉と救済が政治となるとき、人を奴隷とする。
それは、歴史の示す人類の悪因縁である。

「悪しきをはろうて たすけたまえ てんりをうのみこと」

「てんりをうのみこと」とは、思想として文字をあてるなら、
「天理合うの御事」である。

「天の」「理」に「合う事」が「てんりをうのみこと」の思想。

不作と飢饉とを利用して、土地を取り上げる、「天理に反した」方法は、今も、世界中で行われている。「とふじん」は、奴隷の犠牲に、「楽園」を求める。
「天理に最も反しているもの」それは「宗教の悪因縁」である。
おやさまは、何も気づかないで、天理教という宗教にすがる、おろかな弟子たちに、・・
それでも暖かいまなざしをそそつつも、「天理」に「合う」ような「事」をしてほしいと、「南無」「南無」と成人を促されている。

>>115
yoshio2028さん。
零細農家の意図的な没落の仕掛けられた明治に、おやさまは、「天理」をといて、「天理」によるたすけを、開始されたと言う事です。

[119] 基本。 2006/12/26 02:16

>>118
「債務奴隷」を、宗教の権威で生んだ人物として登場した「ヨセフ」は、旧約の時代の由緒ある人物で、後のイエスキリストの父「ナザレのヨセフ」の、名の由来となった人物でした。
ナザレのヨセフ 引用します。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B6%E3%83%AC%E3%81%AE%E3%83%A8%E3%82%BB%E3%83%95
{ ヨセフは伝統的に「イエスの父」ではなく「イエスの養父」と表現される。」
「このことは、旧約における同名の、ヤコブの子ヨセフの出生に由来する。ヨセフのヘブライ語の意味は、「加えるように」。彼の母は、彼を生むと「神がわたしの恥をすすいでくださった」(創世記30:23)と言い、「主がわたしにもう一人の男の子を加えてくださいますように」と願ったので、その子をヨセフと名づけた(創世記30:24)。このエピソードは、新約に至って、ヨセフが母マリアの恥をすすぎ、実子ではない一人の男の子を加える根拠となった。」 }

ヨセフは神の奇跡により、奴隷から、上った人物です。
http://www.salvastyle.com/data/theme_01_01_12.html

{「父ヤコブと母ラケルとの間に生まれた初子ヨセフは、父ヤコブに特別に愛でられていたため、異母兄弟の兄たち(父ヤコブと、母ラケルの姉レアに間に産まれた息子ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルンら)に疎まれていた。ある時、ヨセフは「兄たちの農作物が、僕の農作物にお辞儀した」と風潮したことがキッカケとなり、エジプトへ向かうアラブ人の隊商に身売りされてしまう。」
・・「エジプトでは奴隷でありながら、知恵の高さからエジプト軍に仕えるまでに出世するも、軍隊長ポテパルの妻の誘惑を断った為、投獄されてしまう。」
「 しかし獄中で、王の毒殺を図った料理長の罪と、疑いをかけられた給仕長の無実を見抜き名を上げる。またエジプト王パロの≪七頭の痩せた牛が、七頭の肥えた牛を飲み込む≫という夢を、七年間の豊作と、その後訪れる七年間の飢饉と夢解きし、王直々に再度認められ、宰相の地位を得ることとなった。」}

エジプトの全土の奴隷を掌握したヨセフのもとへ、一族は、参集します。
{「 数年後、ヨセフの夢解きのとおり飢饉がおこる。この飢饉で一族の窮地に陥ったヨセフの兄弟たちは、食料の助けを求めエジプトへと旅立つ。無事エジプトで食料を与えられたヨセフの兄弟たちは、一度、父ヤコブの下へと戻り、御礼を示すため、末子ベニヤミンを連れ再度エジプトを訪れる。そこで、一族に施しを与えた人物が、かつで身売りし宰相まで出世したヨセフと知る。兄弟たちはその事実に猛省し、ヨセフもまた兄弟たちを許す。その後、一族はエジプトへと移住した。」}

旧約聖書の物語は、神の愛と摂理の物語として、「ヨセフ」を讃えます。
確かに、飢饉に対応した。でも奴隷を大量に生み出した、それは、撒かれた種。
後に、モーゼは、イスラエルの民を率いてエジプトを脱出します。
「約束の地」に「楽園」を求めて、です。
>>24

見落とされているのは、奴隷を犠牲にした「楽園」という、その中身の「空虚・から」という事です。
誰かを「いけにえ」に捧げる思想。
神に命を捧げるという思想は「いけにえ」の思想。
真のまこと、では無い。だから、その先には、陽気遊山は見えてきません。

[120] yoshio2028 2006/12/26 09:12

あしきはらい、じゃなく
あしきをはろうてのおつとめです。

[121] 基本。 2006/12/26 15:30

>>120
> あしきはらい、じゃなく
> あしきをはろうてのおつとめです。

yoshio2028さん、失礼をしました。

「あしきをはらうて」のつとめは、あしきはらいのつとめの後に、おしえられたつとめです。
おやさまの思想の上では、「あしきはらいのつとめ」と、「あしきを払うてのつとめ」との、語句の相違は、そのままに、「理の相違」となっています。

「悪しき払い」は、史実上は、次のような「ひながた」でした。
 「三日三夜」      1866年「あしきはらいたすけたまえてんりわうのみこと」のつとめを教える。
→「三年三月」      1869年「十二下り」かぐらつとめを三年かけて教え終わる。
→「むまれだし=約280日」 1870年「ちょとはなし」「よろづよ」を教える。
→「五分=五年」     1875年「ぢば定め」「いちれつすます甘露台」を教える。
→「五分=五年」     1880年「初めて、鳴り物揃えておつとめ」
→「三度・・。=9年9月」1890年 現在の別席制度、おびや、お守りにつき整う。
これは、元の地場の、組織的な「たすけ」の、制度の開始と言うものを示す「ひながた」と理解されます。

それに対して、「悪しきを払うて」は、「おたすけ→おつとめ、のひながた」でした。
 「三日三夜」      1859年『ゆきに帯や許し』安産。
→「三年三月」
1862年『安堵村に産後の煩いの危篤の病人』(平井伊平の妻)おたすけに三日間出向く。
→「むまれだし=約280日」
1863年『講を結べと言われる』
→「五分=五年」
1868年『神の打ち分け場所』の一つ、山中宅に出向かれる。( 「なむてんりわうのここと」「なむてんりわうのみこと」)と唱えて「物種」をわたす。
→「五分=五年」
1873年飯降伊蔵に命じて「かんろ台の模型制作着手」。

「三度・・。=9年9月」
1882年10月12日〜10月26日毎日つとめ。(「あしきをはろうてたすけたまえ」のおつとめにて。)

「おびや許し、やまい助け、つとめ」という、ものが「悪しきを払うて」のつとめを教えられるまでの順序です。

それに対し、「悪しき払いのつとめ→甘露台つとめ→ぢばでの・人間のうまれかわり」が、「悪しき払い」のつとめでした。

yoshio2028さんの質問ですが、「悪しきをはろうて」は、つとめとして、
今述べましたような順序で、
「明治十五年」に「10月12日〜10月26日」に毎日つとめ。(「あしきをはろうてたすけたまえ」のおつとめにて。)
と、史実にはあります。
この時に、つとめられたと言う事です。

[122] yoshio2028 2006/12/26 22:54

ありがとうございました。

[123] 基本。 2006/12/28 20:36

おふでさきに、
『どのような夢を見るのもみな月日、まこと見るのも皆月日やで』(12号163)と、理が知らされています。
夢を見るという事は「月日のお働きである」と言うおやさまの思想です。

すると、平田篤胤が夢で師弟関係を結んだことも、旧約聖書のヨセフが、ファラオが夢で見た、豊年と飢饉の謎解きをしたことも、「月日のお働き」であったという事は、おやさまの思想に立てば、明らかです。

現実に、古代エジプトにおいて奴隷の身分の者が、ファラオの夢の謎解きをすることも、それが可能なまでには、大変な神の加護が必要であっただろうし、それを謎解きしたとして「外れていたら」命が無い。
それを、ピタリと解読し、エジプトだけには天災時に「危機管理」が出来ていたという事は、神の加護と言うより無い事です。
異母兄弟たちに殺されようとして穴に落とされた「ヨセフ」は、その復讐をしたのではなく、その兄弟たちを一族をたすけようとした。
その真心と言うものは、天にかなうものであったと理解されます。

そして、神からの特別の駕篭のあることが、国王の権威の、又神官の権威の裏づけとして説かれて、「大社・高山」が奴隷を産み、所有する事が当然となっていた歴史なのですが、この時、神は天災から大勢の民を救おうとして、ヨセフを使ったのであろうと、理解されます。

それは、おやさまの、『どのような夢を見るのもみな月日、まこと見るのも皆月日やで』(12号163)との思想にて、明らかです。

谷底のせり上げにおいての、「夢」のはたらきは、

おやさまの、おふでさき第十四号にて、

 どのようなゆめをみるのも月日なり
 なにをゆうのもみな月日やで    十四ー1
 月日よりにちにち心せきこめと
 そばの心わいづむばかりで     十四ー2
 いつむのもどふしていつむ事ならば
 上にハなにもしらんゆへなり    十四ー3
 せかいにハそれをしらすになに事も
 みなしたこふていつみいるなり   十四ー4

このように、理を知らされています。

西暦1879年、明治12年6月の時です。

この、十年後に「夢」の意味を理解しようと目覚めた人物がいます。
それが「フロイト」です。
http://www.shosbar.com/psycho/psych-db/nenpyou.html
この、「フロイト、ユング関連年表」によれば、その頃に、フロイトは、
『ナンシーに旅行、ベルネイムの催眠術を見学。夢に関心を持つ。』とあります。

『夢は、理をしらせるもの』と言う「おやさまの思想」とは、全く別の観点から探求した、フロイトと言う思想家は、夢の知らせを解読した、「ヨセフ」さんの夢の解釈の歴史を持つ、旧約の「ユダヤ教」の民でした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%88
ジークムント・フロイト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

[124] 基本。 2006/12/29 17:55

犠牲と言うものが社会思想にあると言うことは、それ自体が、社会のゆがみを意味しています。
谷底と言うのは、高山に対して、「社会の犠牲」です。

イスラム教では、犠牲祭と言う祭りをすると言います。

http://homepage1.nifty.com/yukiko_world/Islam10.html
{ イスラム教・主な行事は? [断食明けの祭りと犠牲祭]
分派に関わらず、すべてのムスリムが宗教的義務として行う公式の行事は2つの祭りです。
ひとつは「断食明けの祭り(イード・フィトゥル)」
もうひつとが「犠牲祭(イード・アドハー)」。 }

・・・
{「犠牲祭」は、第12月の8-10日のメッカ巡礼の最終日に行われます。
巡礼の参加者は、この日にメッカ郊外のミナーの谷で、動物(羊、やぎ、牛、ラクダ)の犠牲を行い、それを貧者と分かち合います。また、この日には巡礼に参加しない人も同様の犠牲を行います。
この犠牲について、コーランには明確な説明がありません。}
{ただ、異教時代のアラブは、メッカのカーバ神殿に巡礼した際、動物を犠牲にしていたといわれ、ムハンマドがこれを取り入れたものと思われます。}
{ただ、ムスリムの間では、アブラハムが神の命で息子を犠牲として差し出したまさにその時、天子ガブリエルが息子と動物を取り替えたとの故事にならったという説もあり。 }

その、アブラハムの話は、ユダヤ教の話として、も伝えられています。

旧約聖書では、イサクの犠牲と言われる記述があります。
巨匠レンブラントの名画の説明の中から、それを引用しましょう。
http://www.salvastyle.com/menu_baroque/rembrandt_isaac.html

{ イスラエルの民の祖アブラハムと妻サラの間に生まれた待望の男子イサク(笑いの意)を山上で焼き、我に捧げよと神がアブラハムに命じ、迷い苦しんだ末にアブラハムは息子イサクを山上へ連れてゆく決意を固め、アブラハムは牡羊を、息子イサクは薪を背負って山頂へ赴き、祭壇上で息子イサクの喉元へ小刀を当てた(息子イサクも自分が犠牲であることを悟ったが抗わなかった)次の瞬間、「お前が神を恐れる者であることがわかった。」と神の祝福の御言葉が響き、「お前の子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る」とアブラハムが神から祝福を得る、旧約聖書に記された重要な場面≪イサクの犠牲≫である。}

明治の到来した、覇権主義者の「とふじん」の思想には、「犠牲」と言う思想が、元々から存在していたことが、この「イサク」の物語で理解される。

社会の谷底は「犠牲」であり、イエスキリストは「さまよえる子羊」と呼んで、たすけの道を示し、自らも十字架に架けられた。
そして、イエスの弟子たちの「宗教思想」は、征服による楽園創造を説いてしまっていて、現在も、それが世界の中心思想にある。
それは、「神からの信頼を得ると言う・神からのためし」という思想に原因が見出せる。

[125] 基本。 2006/12/29 18:27

>>124
> 「神からの信頼を得ると言う・神からのためし」という思想に原因が見出せる。
>
これは、おやさまのなされたためしとは、「たすけのためし」であるのに対して、「犠牲のためし」と言う相違点を有している。
神を信じているのなら、死後の「復活」を信じているのなら、我が子を犠牲に出来るのかと、「問う」。
「問う」のは「神」であり、問われたのは「アブラハム」であると、旧約聖書の文意は、そうなっている。
しかしそれは、問うのは、実は「人間」であり、問われているのは「神」であるという、論理になっている。
つまり、命がけで、神に忠誠心を示す事で、神の本心を見たいと言う人間の「問い」なのである。

http://www.nunochu.com/bible/01_genesis/gen29.html
ここに、牧師さんの解説があります。
『命より大事な息子とヤハウェと、どちらを選ぶのかとアブラハムに迫り、ヤハウェを選んだときに、息子もアブラハムに残されました。生涯失敗だらけのアブラハムですが、この事件で見せた信仰によって、今も「信仰の父」とまで呼ばれているのです。 』
『キリストもこのように弟子たちを教えました。
「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」』

神を疑わなかった時、「子羊」が得られて、我が子は救われた。
これが、旧約聖書の「信仰の父」なのですが、その疑わない先には、神が「楽園」を準備していると、奴隷支配を前提にした「祝福」を期待している。

おやさまの、たすけ一条のためしとは違うと言うのは、このイサクの犠牲により得たいものをみれば、それは「たすかり一条」の精神そのものにあります。

聖書を伝える宗教家は、神に問う。「とふじん」。
問う事が、宗教の価値だからです。哲学の価値だからです。
問う目的は、幸福の保障。それは転じて「死後の天国の門」。

おやさまの「ためし」は、そのような「哲学的なためし」ではなく、「神学的なためし」ではない。
おやさまの「楽園」は、ここにある。そして、「犠牲は一人もいらない」。
本質的に、まるで相違するものです。

[126] 基本。 2006/12/29 23:59

>>125
イサクと言う子供は、アブラハムにとって、どんな子であったか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%82%AF
[ イサク 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
から引用します。
[ イサクは旧約聖書の『創世記』に登場する太祖の一人。父アブラハム、母サラ。彼の名はヘブライ語でイツハークといい、「彼は笑う」の意である。アラビア語ではイスハークという。]
[ アブラハムの妻サラは不妊の女であり、子を産まぬまま年老いていたが、三人の人が訪れてアブラハムに子供の誕生を知らせる。その言葉のとおりサラから生まれた子供にイサクと名づけ、イサクは元気に育った。]

宗教の主題の一つである「生命の誕生」。
高齢者となっていた夫婦の間に生まれた子が「イサク」と言う事。
そのイサクが、「神から犠牲に召され、信仰を試された」と、旧約聖書に記された人物です。

我が子の命を犠牲に出来るのか。
神のためしと言う言葉で表現されていますが、それは、我が子孫の繁栄を祈る信仰に対する神の問いとすれば、「的を射ています」。
我が子孫の繁栄を望むというのなら、一番大切な「我が子」そのものを捨てきれるかと言う問いに置き換えるなら、神からの問いかけとして、的を得ています。

すこし、深刻に、見つめておきましょう。
イスラム教には、類似の話がありました。
>>124
イスラム教の「犠牲祭」という最大の行事も、子供を「神への犠牲」に出来るのかと言う「試練」の話でした。

しかし、イスラム教では、話は、肝心な部分で相違しているというのです。
[イスラム教と聖書]と言うサイトを参照しますと、
http://www.al-pha.com/fp/seisho/11seisho.htm
引用します。
{ 旧約聖書では、アブラハムは妻サラとの間に生まれたイサクを、犠牲として捧げるよう神に言われ、それに従います。 }
{ ところがイスラム教では、アブラハムとハガル(サラの召し使い)の間に生まれたイシュマエルが捧げられたことになっています。そしてイシュマエルはアラブ人の祖とされているのです。イスラム教の聖地メッカでは、今も、ハガルとイシュマエルを記念する方法で巡礼が行われています。}
{ 現在エルサレムの中心にある岩のドーム(モスク)は、アブラハムがイシマエルを神に捧げた場所を記念して、紀元七世紀に建設されました。今もイスラム教の大切な聖地となっています }
と、このようにあります。

つまり、旧約聖書では、犠牲になろうとしたのは唯一の子「イサク」のはずなのですが、異母兄弟「イシマエル」がいて、イスラム教では「イシマエル」が犠牲になろうとしたという話なのです。
この相違が、アラブとイスラエルの相違であり、多数陣営はアラブ。
この相違が聖書圏の欧米と、イスラムの相違でありね多数陣営は西欧キリスト教圏。

思想的には、奴隷妻の存在があったという、「高山・谷底」のいんねんを見ておかねばなりません。

[127] 基本。 2006/12/30 00:14

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で、この話題の説かれ方を見てみましょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%82%AF
{ 出産をあきらめていたサラは、女奴隷のハガルによってアブラハムにイシュマエルをもうけさせていた。}
{ ところが、ハガルは増長して主人のサラを軽視するようになり、サラの腹から生まれたイサクをイシュマエルがからかっている光景をサラが目にしたことから、サラはアブラハムに母子を追い出すよう迫る。}
{アブラハムは神の「心配せず妻の言う通りにせよ(取意)」とのお告げを受けてこの母子を追い出す。}

{母子は放浪のあげく、泉を見つけて安堵する。この系列はイシュマエル人としてヘブライ人(ユダヤ人)とは別の民族になった}
{母子は放浪のあげく、泉を見つけて安堵する。}
{この系列はイシュマエル人としてヘブライ人(ユダヤ人)とは別の民族になったとして、旧約にも登場する(ヨセフをエジプトへ連行したのもイシュマエル人の隊商である)。}

{ アラブ人はこのイシュマエルを祖とするイシュマエル人の子孫と称し、アラブ人が開いたイスラム教ではイサクよりもイシュマエルが重視される。}

旧約聖書述べられている事柄は、夫と奴隷妻の子の存在を前提にしますと、すでに奴隷妻の子がいたのに、正妻の子がない事から、願って、神から「イサク」を授かったことになります。

そして、父親のアブラハムは、どちらかの子を、神の命令で、「山で、焼き殺そうとした」事にねなります。

ユダヤ教・キリスト教側では、「正妻の子」が犠牲になろうとして、神は、父親の信仰により、犠牲にしないように計らったことになります。
イスラム教側では、「奴隷の子」が犠牲になろうとして、神は、父親の信仰により、犠牲にしないように計らったことになります。

すくなくとも、奴隷の母子はね追放されたという事になります。
イスラム教とユダヤ教では、このように、「正妻の子」の子孫・イスラエルと、「奴隷で妾の子」の子孫イスラムが、おのおのの子を「犠牲」としてささげた神の正義を信奉し、
今も、犠牲をささげて「大社高山」どうしの、戦いを、していると言う事になります。

宗教が、戦争を肯定して争わせているようなものです。

これを治めたいという、おやさまの思想。
宗教は、人の生死と言う問題をてこにして、奴隷を生み差別し、支配してきました。
教育と情報戦略で、「大社・高山」は、「谷底」をままにする。し続ける。

「大社・高山」の、その本質を見抜いて説かれたねおやさまの思想は、現代への予言であり、人間の歴史の「欲に切り無い」本質を、見抜いています。

[128] 基本。 2006/12/30 11:57

我が子がいないために、自分の奴隷の女に夫の子を産ませる。
そして、その奴隷女の子がいるのに、今度は、「我が子」を神に願って授けてもらう。

欲に切りが無い姿と言うものです。
そして、我が子に対する、腹違いの兄の態度に腹を立てて、母子を追放してしまう。
これも、随分と自分勝手な、欲に切りが無い姿です。
その子を、犠牲として神に捧げよと命じる声を聞いて、父は、焼き殺そうとしている。

この一連の物語には、「たすけ一条」はありません。
「恨み」の思想がそこにはあります。
それは、後に、ヨセフを殺そうとしたのは、ユダヤの兄弟であり、たすけたのはアラブの民であったという事実で、誰にも分かります。
「兄弟の闘い」は、旧約の因果です。

後にモーゼが、イスラエルの民を引き連れてエジプトを脱出する時、こんなエピソードがあると言います。
http://www.vivonet.co.jp/History/b01_Create/Moses.html
{ 神の啓示  シナイ山の前で羊を追っていると、柴の茂みから炎が上がっているのを見る。そこでモーセは、神の声を聞く。
「エジプトに帰り、イスラエルの民を救え。そして、カナンの地に連れて行くように」}
{モーセは妻子を連れてエジプトに向かった。エジプト王ラムセス2世に会い、神の言葉を告げたが、全く聞き入れられなかった。困ったモーゼは神に相談し、>10の災害をエジプトに下した。}
{ 1.ナイル川の水を血に変え、魚を殺し水を飲めなくする 2.カエルを異常発生させる 3..ブヨを異常発生させる 4..あぶを異常発生させる 5.疫病を発生させ、エジプト人の家畜を殺す 6.膿を出す腫物をエジプト中に流行らせる 7.雹を降らせて畑の作物を全滅させる 8.イナゴを大発生させて稲を全滅する 9.3日間、エジプト中を暗闇にする }

{ そして、第10の災害を起こす前に、神はモーゼに告げる。「雄の子羊の血を門柱に塗り、肉を翌朝までに全て食べなさい。私はエジプト中を回り、人間でも家畜でも初子は全て殺す。しかし、血の塗られた家だけは過ぎ越していくだろう。」これが、過越祭の始まり。}
{ 出エジプト  最後の災害はエジプト王を震え上がらせ、イスラエル人がエジプトを出ることを許した。モーゼは200万人のイスラエル人を連れカナンの地に向かう。BC1250年のことである。}

ここにも、たすけ一条はない。
「破壊工作による情報操作」の発想がある。

神の啓示を「問う」事と、博学を用いて「お払いさんを振らす事」。
そこには、底抜けの兄弟なかよくは無い。
Gの国は、まだ「とふじん」に支配されている。
それが、おやさまの指摘した事である。

後日談はこうであるというる
{ エジプト王は後悔し、イスラエル人を皆殺しにすべく軍勢を率いて追跡した。前方には葦の海、背後にはエジプト軍と、絶体絶命の危機に陥った時奇跡が起こる。モーセが、手を海の上に差し伸べると、神は強い東風を吹かせて海を退かせた。イスラエル人は、無事に海を渡ることができた。 これが葦の海の奇跡である。}

{ 十戒  エジプト脱出の日から3ケ月が経ち,イスラエル人はシナイ山のふもとにたどり着く。シナイ山の山頂において神はモーセに十戒を授けた}

神官であったモーゼの一族は、ヨセフの時代には、「博学とマジック」で、国の全権を掌握していたが、強大な軍事国家の時代には、人員整理の対象となり、一部は奴隷の立場に追い落とされていた。
その奴隷から、せりあがるのに、モーゼは宗教を利用し、宗教国家を構築した。

宗教的結合による国家創造の神話。
カルト国家がそこには見えます。

[129] 基本。 2006/12/30 12:03

おやさまは、けっして宗教として国に認知されることをお許しにならなかった。

天理教と言う宗教は、抑圧されるおやさまを救うためと言う名目ではあっても、実態は、おやさまの思想を矮小化しました。
国家神道の思想奴隷に、追い込まれ、ついには、「とふじん」に従い、すすんで戦争協力をしたのです。

おやさまの思想で、またふしぎな力で、理想国家を作ろうとした、天理教の中の「とふじん」は、ついね昨日までの私たちと言うことになります。

[130] 基本。 2006/12/30 14:12

おふでさきで説かれた事は、きちんと「理」として実現する。
そうでないとするなら、天理教は「嘘」の教えだという事になります。

そして、たった一つでも、「理」として実現しないとしたら、天理教は「嘘」の教えという事になります。

この世界を陽気くらしに普請すると言うのは、宗教として「普請をリード」していくと言う事ではなく、「理」を知らして、「理」を用いる事で、人間自らが、陽気な世界を普請する事なのです。

 わがみにハもふ五十やとをもへとも
 神のめへにハまださきがある    一号63
 ことしより六十ねんハしいかりと
 神のほふにハしかとうけやう    一号64

これは、中山秀司さんの事だと言われます。史実としてです。
それならば、なんで秀司さんは、もっと若くして死んだのだと、疑問になります。
明治2年の正月に書かれていて、秀司さんが死んだのは、明治14年三月です。
陰暦で表記しましたが、実数は西暦で数えますから、
 ちなみに、西暦では、明治2年の2月11日から3月12日の間におふでさき一号は書かれています。
 明治14年4月8日に秀司さんは死んでいます。
すると、おふでさきの予言からは、12年と、ほぼ1月の寿命であったという事です。
 一年=五年、と数理は教えられていますから、丁度60年の数理に一致しています。

つまり、嘘は無かったという事になります。

こういうところで、理と現実とが合っていないで、ふでさきが、利として間違えているとしたら、天理教のおふでさきは、信じてはいけません。
「嘘」になるからです。

この件では、たまたま、合っていたと言う事になります。
それとも、他の件でも、合っているのでしょうか。
疑ってかからなければ、嘘にだまされることになります。

さて、明治2年(1869)年のおふでさき執筆から、実数の六十年後は、1929年以後になります。
おふでさきでは、「ことしより六十ねんハしいかりと」とありますから、六十年間の守護は約束されていることになります。

その60年の期間の最終の年、昭和三年、秀司さんの生まれかわりと言われる二代真柱様は、結婚をしています。
 十代の若い女房でした。

 これからハ心しいかりいれかへよ
 悪事はろうてハかきによほふ   一号65

このおふでさきは、秀司先生は、応法の悪事を掃除できなかったのに、十代の若き女房と結婚したという事と、その後の、生まれかわりの後の若き女房とを、数理としての六十年で、「理」として一つにつないでいると、いう事に、この件ではあっています。

とりあえず、嘘は無かったと言う事ですが、後の世代の結婚は、年代操作も可能ですから、丸ごと信じるようでは、「嘘」に騙されるという事になる。
ご用心です。

[131] 基本。 2006/12/30 14:21

>>130
そうなりますと、同じ頃のおふでさきで、

 このこ供二ねん三ねんしこもふと
 ゆうていれども神のてはなれ   一号60

これも、「嘘」でないとするならば、このおふでさきの書かれた二年後、三年後に、何かの仕込を出来ているはずはない事になります。
つまり、1年以内に死なないと、おふでさきは「嘘」ということになります。

宗教と言うのは、そいいう騙しのテクニックが宗教の一面ですから、調べておかないと、いけません。

問題の子供は、「明治三年陰暦3月15日」に死んでいます。
西暦では、2月の14日に死んでいますから、確かに、二年三年は仕込めなかった。
とりあえず、この件も、現実と合っていましたから、天理教は「うそ」とは、ならずに済んだと言う事です。

[132] 基本。 2006/12/30 14:24

天理教祖は「理」を教えた。
「理」には、「嘘」は許されません。

宗教の説く説教や法話は、「嘘も方便」ですから、比ゆや例話に、嘘があっても、「真理を伝えるための嘘」として許されたりします。

しかし、天理教の原典に、「一箇所」でも嘘があったら、天理教は全て嘘なのですから、きちんと吟味して、騙されない事です。

[133] 基本。 2006/12/30 14:57

つまり、明治2年の、「とふじん」の思想の襲来の嵐の中で、おやさまが示していたのは、わたしが説くのは「理」なのだよ、と言うものです。
>>130-132
しかし、おやさまの教えを利用して、秀司や高弟たちは、国家神道に利用される事で、「宗教家業」を作り上げた。
「神道・天理教」を作り上げた。

それは「方便」の教えとしての、天理教であり、自分たちの幸福のためだけの宗教であり、「人をたすけるというのも・実は自分がたすかりたい」ための宗教であった。

「理」を教えたおやさまと、「宗教」を説いた弟子。
弟子たちの説いた「宗教」は、それは、モーゼの信仰よりも優れていたとは、とても言えない代物でした。
「理の子」と言う思想奴隷を従えて、「ここはこの世の極楽や」と言う理の親天国をつくろとしていた。

天理教の神は唯一絶対の一神教である。などと、見てきたような嘘をついていた、宗教家の大先生たちと、その仲間。
私たちの、その誤った思想のルーツは、幕末、明治の日本の国家形成においての「とふじん」の思想に在りました。

ここまで、見つめるならば、
「とふじんとにほんのものと分けるのは 火と水とを入れて分けるで」2-47
この、おふでさきが、思われます。

>>128
> { 神の啓示  シナイ山の前で羊を追っていると、柴の茂みから炎が上がっているのを見る。そこでモーセは、神の声を聞く。

古代においても、「火」と「水」が見えたときに、神の声として聞こえて来た事があったのですが、・・・
その時に、モーゼは、なにをしたか、
>>128
> { 1.ナイル川の水を血に変え、魚を殺し水を飲めなくする 2.カエルを異常発生させる 3..ブヨを異常発生させる 4..あぶを異常発生させる 5.疫病を発生させ、エジプト人の家畜を殺す 6.膿を出す腫物をエジプト中に流行らせる 7.雹を降らせて畑の作物を全滅させる 8.イナゴを大発生させて稲を全滅する 9.3日間、エジプト中を暗闇にする }
{ 「雄の子羊の血を門柱に塗り、肉を翌朝までに全て食べなさい。私はエジプト中を回り、人間でも家畜でも初子は全て殺す。しかし、血の塗られた家だけは過ぎ越していくだろう。」

仮におやさまなら、何をされたろうか。

ミサイルが打ち込まれるかもしれないと、「火」が見えたとき、モーゼの取った方途は「とふじん」の思想。
おやさまならば、まず、自らの悪事を掃除し、先ず自らに「よふきくらし」を創るのではなかろうか。

思想が問われるのは、「火と水」とが見えたときである。

[134] 基本。 2006/12/30 18:03

旧約聖書の説いている世界は、「絶対唯一の神の世界である」
おやさまは、八百万の神を仏を裏から守護して教えてきた。
旧約聖書は、キリスト教とイスラム教、ユダヤ教のルーツにあたる。
言うならば、「こふき」である。

「こふき」には、口述されたものを記録したと言ういみで「口記」だと文字を当てる思想がある。
それは、実は、おやさまの思想と言うよりも、弟子たちの解釈である。
また、同じく弟子の解釈として「功記」と言うような解釈もある。

新約聖書が書かれた事について、秀司の生まれかわりの中山正善氏は、死後百年以上たって「聖書」は作成された。
天理教でも、ちゃんとした書き物が書かれるには、おやさまが姿をかくしてから、百年は要するであろうと、書いた文章を読んだ記憶がある。
教祖直々の原典があり、それなのに、「天理教の聖書」が必要なのかと疑問に思った記憶があるが、それは、聖典といわれる宗教書とは、信者の信仰告白であり、同時に、教祖の思想を伝えるものであるために、教祖が死なないと、作成されないためであると言うことだと思う。
聖書や仏教の経文は、弟子の作成した聖典であるからこそ、当時の信仰のありのままを伝えてもくれる。
神の言葉だけでは無いから、人間には理解されやすい。

さて、旧約聖書の伝える信仰とはなんであったのか、神の思召しとはなんであったのか。

創世記に、それはきちんと「口記」されている。
http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/7shigyou.html
{ 神の約束(15章)—土地授与の儀式}
{以前、「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見える限りの土地を全て、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回れがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」(13・14〜17)}
{ とすでに、神から土地の取得と、子孫繁栄の保証を告げられていたアブラムは幻の中で、再び神の啓示を受けます(15・1)。}
{それは、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(15・6)からです。そして、神から命じられた通りの、犠牲の動物を準備します(15・9)。}

つまり、旧約聖書とは「こふき」を文字にあてはめると「子富貴」そのものだと分かります。

絶対的唯一の神は、「目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見える限りの土地を全て、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。」と、約束されています。

もし仮に、欲一つ無き農夫であったなら、「見える限りの土地」とは、せいぜい、農夫本人と、妻と子の、ささやかな土地の広がりに過ぎなかったでしょう。
「高山」に登って、そこから、見渡していたら、もっとたくさんの大地が手に入ると、「欲深くなき農夫」ではなかった族長のアブラハムは、「高い山に登ろう」とします。

神の言葉は、そのような意味だったのか、「問う」事が、全ての始まりにありました。

唯一絶対の神は、『あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回れがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。』と、言われています。

それゆえに、「歩いた土地は全て自分の子孫のものになる」と解釈した事は、船と、汽車と、戦車と、どんな機械を使って歩いた土地でも、自分のものになるのだという、人間のおごりを生んでいます。

神は、「歩いて」と言われています。
人の身の分限の中での富貴を諭されている。

伝承を受け止めて、それを聖書にまとめ上げた「モーゼ」は、奴隷を支配しての地上の楽園を「子孫の富貴」だと、「こふき」である聖書にまとめたわけです。

おやさまの教えた「よふき」とは、これに対照して、「世富貴」。

我が子、我が子孫の永遠の繁栄を求めるあまりに、神から与えられた見渡す限りの土地を手に入れようと、「衛星」から見下ろして、我が物にしようとする、「高山」の思想。

その肝心の、「子供」を神が、(聖書風に言うならば)犠牲にしろと迫るほどの、心得違いが、そこにはあるのではないか。

肝心の子供の精神に、「夢に」、神の働きかけるものは、なんなのか。

おやさまは、世界中の子供の「よふき」を望む思想。
幕末、明治に日本に到来した「とふじん」の「こふき」は、モーゼの旧約聖書であり、それは、「高山のたたかい」の原因である、我が子、我が一族のみの繁栄を求める、帝国主義思想にあると、
それに、対抗しうる、「世」を全て「富」ませ豊かにし、人を「貴」ぶ、真の「よふき」を伝える書物。
にほんの「こふき」を求めると、その思想を早く伝えたいと、語られています。

[135] 基本。 2006/12/31 11:03

 明治2年。
 首都が京都から東京に遷都されました。
 版籍奉還がなされて、それまでの江戸幕府の将軍にかわって、天皇が直接に政治を行う、明治政府が、名実共に樹立された年です。

その、中心の思想は、国学。古事記日本書紀をベースとした、「天皇一人の下の平等」という国体の思想形成と確立。
政治理想としたものは初期は「ナポレオン」。「ピュートル大帝」。
国力を高めて、列強と伍する事でした。
独立と開放のアメリカの思想を取り入れて、現実的な経済政策としての「殖産興業」に政策実行に向けて、農村の再編成を促す政策が取られることになります。
人為的に、産業革命を日本において起こす為です。
これらは、日本本来の思想をも解体して、伊勢神道系の思想に統一しようというものであり、それが、実はモーゼの旧約聖書の思想に色濃く影響された、「唯一絶対神」の構築のためであったことは、これまでの投稿で、検証してきたとおりです。

世界中の土地を我が物にしてよいと言う思想、それが旧約聖書の思想であった。

包囲し、従うものは、奴隷にしてしまえ。
従わないものは、攻撃して、殲滅せよ。
これが、西欧列強の植民地政策の根幹にある。

しかし、それは、宗教を政治の道具として利用するもののなしていた事であり、モーゼもイエスキリストも、「汝、殺すなかれ」を教えていた。

「神の教え」→「汝殺すなかれ」
「神を祭り上げた宗教思想」→「神の教えに従わぬものには死を」

「神の教え」→「お前が見渡せる土地を与えよう」
「神の教えを祭り上げた宗教思想」→「高い山からみおろして見える全ての土地を頂こう」

おやさまは、
「やしきは神の田地やで」と、言われています。
「欲に切り無い、泥水や」と、言われています。

泥水と言う事情を、心得なければなりません。

幕末、明治維新の頃に栄えたのは、実は「遊郭」でした。
遊郭は、債務奴隷の奉公先の一つであった。つまり、泥水です。
その遊郭で、幕末の志士たちは、「豪商」から資金を提供してもらっていた。

奴隷は家畜と同じですから、遊郭の女たちは、奴隷ですから、情報漏洩の危険度はかなり低い。
そこで、遊郭において、スポンサーの「大社・大商人」から接待を受け、活動資金を得ていた、それが明治政府の大立者たちの泥水事情と言うものでした。

その遊郭は、東京遷都によって、寂れてしまいます。

確かに、明治政府は、幾つかの法律を出して、法的に遊郭を解体しています。
>>28
おやさまの周辺でも、遊郭の廃業は起きています。

それは、自分たちの過去を消してしまうためであったと思慮されます。
そして、舞台を、東京に移してしまった。
まさに、奴隷とは、奴隷牧場も含めて、権力の道具に過ぎないと言う事です。

ここに、思想集団としての維新グループの中に、泥水事情が入り込んでいると言う事が、見えます。
純思想集団のグループは、例えば、天理教団の公認、独立までの道に、多大な協力を受けた人物、国学平田派の大物丸山作楽は、
>>99-100
維新政権の、宗教の要職、外交の要職につきながらも、明治五年には「天皇を侮辱した朝鮮ゆるすまじ」と、騒乱を計画し、逮捕されています。
これは、朝鮮の支配統治という意図よりも、「天皇絶対性」というものを信奉するカルト的な行動と見てよいでしょう。
平田神道的に言うならば、丸山作楽は、純粋という事になるでしょうが、「経済の支配」を意図するものに取れば、不都合なこと。
あくまでも、西欧の仕組みに伍してからの事、と、このような、「欲」からの泥水の事情があったと、分かります。

[136] 基本。 2006/12/31 11:20

>>135
明治2年、正月。
この年には、東京遷都がなされました。ただし国民に内緒のようにしてです。
http://www.kitanet.ne.jp/~kiya/hometown/topics004.htm
引用します。
{ 東京遷都
慶応3年大政奉還され新しい中央集権政治の中心地をどこに置くかが議論になった。京都返還論、大久保利通の浪速(大阪)遷都論、前島密の江戸遷都論、江藤新平の西の京都(西京)に対して江戸を東京とする東西二京論があった。
欧米列強を強く意識した大久保はそれらの首都と遜色のない都市を建設すべく思案したが、結局のところ、前時代からの政治支配体制と経済システムの遺産を継承しやすい利点と、広大な都市面積をもつ(旧武家地が全体の70%あり廃墟となる)ことから江戸を都と定めて再建に未来を賭けた。また関東や東北に残存する旧幕勢力に対するけん制の必要もあった。}
{慶応4年(明治元年1868)天皇の詔書がなされた。「江戸ハ東国第一ノ大鎮、宜シク親臨ヲ以テ其政ヲ視ルベシ、因テ自今江戸ヲ称シテ東京トセン。東西同視スル所以ナリ」。・・}
{この詔勅によって江戸が東京と改称されたが、この「東京」にふりがながなかったために「とうけい」「ひがしのきょう」などとも解釈され、「とうきょう」の呼び名に落ち着くまでに明治の15,6年を要したらしい。明治の新聞には漢字のすべてにルビがふってあるが20年ごろの新聞にさえ東京には"とうけい"のルビがふってあり西京(京都)には"さいきやう"とふってある。}

http://www.ffortune.net/social/history/nihon-mei/tokyo-sento.htm
引用します。
{ 東京遷都?(1869)
慶応4年は9月8日に改元され明治元年となり、その翌年の3月28日、若き天皇
睦仁(明治天皇)は江戸城改め東京城に入り、城の中に太政官府を設置します。
これを一般には東京遷都としています。}
{国民に自分たちこそ日本の中心であると納得させるためには天皇自らが江戸城に入り、そこから天下に号令することが一番よいと維新の中核メンバーたちは考えました。しかしその為に
天皇が京都を捨てるとすればそれは京都の民衆の同意を得ることは難しいものと思われました。}
{そこで取り敢えず天皇は明治元年9月20日江戸に向かい10月13日江戸城入城、
ここを東京城と改名する詔を出します。しかし京都市民の思いに応える為この
年は12月22日に京都に戻り、28日には一条忠香の娘美子(はるこ,皇后になる以前の名前は寿栄姫)を皇后として立て戊辰戦争で慌ただしい中一通りの祝儀が行われます。

しかし天皇は再び3月7日東京に向かい、この28日着。結局正式な遷都の布告はなく、「天皇が東京にいる間は太政官も東京に置く」というなんとも玉虫色の
宣言がなされただけでした。しかも京都市民に向けて「東国は未開の地であるから度々行幸して教化するが、決して京都を見捨てたりしないので安心するよ
うに」というメッセージまで出されます。要するに日本の首都はどうも法的に厳密なことをいうとまだ京都であり、天皇が東京に「滞在」している間だけ、臨時に東京が首都とみなされるということのようです。}
{しかし京都市民はこのようなまやかしの言葉に納得はしませんでした。同年9月になって皇后も東京へ「行啓する」という話になりますとその行列を止めようとする民衆が道にあふれ、兵が蹴散らさなければならなかったといいます。}

国民を欺いての遷都。
この「欺く」という体質こそ、宗教組織の方便の体質そのものです。

[137] 基本。 2006/12/31 11:54

おやさまは、欺きません。

明治2年、正月。
おやさまは、
 よろつよのせかい一れつみはらせど
 むねのハかりたものハないから   一号1
と、このように、おふでさきに記されました。

 そのはずやといて聞かした事ハない
 なにもしらんがむりでないそや   一号2

明治維新の遷都の直前、
維新革命思想の、根底にある「神は幽冥」と思う平田国学、そして、元にある古事記・日本書紀。明治政府の大立者が多大な影響を受けた西欧と言う「唯一絶対神の神の国」の思想奴隷の存在。モーゼの旧約聖書の支配の思想。
そして、「欲に切り無い」「大社・大商人の泥水」。

これらが、正に、日本を席巻しようとした時、おやさまは、ふでをもって、知らしめました。

 よろつよのせかい一れつみはらせど
 むねのハかりたものハないから   一号1
 そのはずやといて聞かした事ハない
 なにもしらんがむりでないそや   一号2
 このたびハ神がをもていあらハれて
 なにかいさいをといてきかする   一号3

『我は天の将軍なり。この屋敷は天より深く思惑ありて、この度天降りしなり』
天保九年十月二十六日におやさまは、このようにも語ったと伝承されています。

その前年、天保八年、大塩平八郎が徒党を組んで、乱を起こしました。
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic18.html
[あの人の人生を知ろう 〜 大塩平八郎]から引用します。
{内部告発の為に証拠を集める大塩は、西町奉行所(奉行所は東と西がある)にとんでもない与力がいることを知る。この弓削という男は裏社会の犯罪組織のボスで、手下に恐喝や強盗、殺人まで行なわせて自身は遊郭で遊び暮らし、与力という立場を利用して捜査を妨害する大悪党だった。
大塩は徹底的に戦う決意をし、大阪各地に潜伏する弓削の手下を片っ端から摘発、弓削のシンジケートを壊滅させた。弓削は自害し、大塩は没収した3千両という莫大な金銭を貧民への施し金とした。ところが事件はこれで収まらなかった。捜査の過程で、複数の幕府高級官僚が不正に加わっていた証拠を掴んだのだ!「余計なことをするな」「大人しくしていろ」と幕府中枢部から圧力を受けた大塩は、身の危険を感じて同棲中の恋人を親戚の家に匿ってもらい、腹をくくって巨悪に立ち向っていった。}

この時の、大塩平八郎の思想は、儒教の陽明学。
これも月日が教え来るでと、おやさまが言われた、思想の一つです。

{1830年(37歳)、大塩が不正行為を暴いた一大スキャンダルの裁決が発表される。それは大塩を深く失望させる内容だった。幕府高級官僚の悪事は揉み消され、小悪党の3名が遠島や改易処分になってこの事件は幕が下ろされた。そして処分の一ヵ月後、大塩を陰ながら応援してくれていた上司が辞任。これに連座する形で、名与力として人望を集めていた大塩も、職を養子・格之助に譲って奉行所を去った。こうして大塩の25年にわたる奉行所生活が終わった。}

(引用続きます。)

[138] 基本。 2006/12/31 12:06

>>137
> 『我は天の将軍なり。この屋敷は天より深く思惑ありて、この度天降りしなり』
> 天保九年十月二十六日におやさまは、このようにも語ったと伝承されています。
> この時の、大塩平八郎の思想は、儒教の陽明学。
> これも月日が教え来るでと、おやさまが言われた、思想の一つです。
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic18.html
[あの人の人生を知ろう 〜 大塩平八郎]  (引用の続きです)。
{1833年(40歳)、冷害や台風の大被害で米の収穫量が激減し、米価は高騰した。凶作は3年も続き餓死者が20〜30万人に達する。世に言う「天保の大飢饉」だ。1836年(43歳)、商都大阪でも街中に餓死者が出る事態となり、大塩は時の町奉行・跡部良弼(老中・水野忠邦の弟)に飢饉対策の進言をする。凶作とはいえ“天下の台所”大阪には全国から米が集まってくる為、庶民は飢えていても米問屋や商家にはたっぷり米があったからだ。「豪商たちは売り惜しみをして値をつり上げている。人々に米を分け与えるよう、奉行所から命令を出してはどうか」と訴えたが、跡部は耳を貸すどころか「意見するとは無礼者」と叱責する始末。}
{さらに大塩を憤慨させることが。将軍のいる江戸に米をどんどん流して点数を稼ぐ為、奉行所は大阪に搬入されるはずの米を兵庫でストップさせ、それを海上から江戸に送っているというのだ。しかも米価を吊り上げ暴利を得ようとする豪商と結託しているからタチが悪い。飢饉につけ込む豪商らの米の買占めで、大阪の米の値段は6倍まで急騰した。一方で奉行所は大阪の米を持ち出し禁止にし、京や地方から飢えて買い付けに来る者を牢屋に入れ厳罰に処した。もうメチャクチャだ。あくまでも出世の為に組織の論理を優先し、利己的な考えに終始する為政者たち。}
{日々餓死者が出ているのに何の手も打たない大阪町奉行。大塩は三井、鴻池ら豪商に「人命がかかっている」と6万両の義援金を要請したが、これも無視された。「知行合一、このまま何もしなくていい訳がない」。大塩は言葉が持つ力を信じていたし、けっして武力を信奉する人間ではない。しかし、事態は一刻を争った。窮民への救済策が一日遅れれば、一日人命が失われる…。12月。ことここに及んで、大塩はついに力ずくで豪商の米蔵を開けさせる決心をした。堺で鉄砲を買い付け高槻藩からは数門の大砲を借りた。大塩が睨む最終目標は、有り余るほど大量の米を備蓄していた「大阪城の米蔵」だ。}
{蜂起の前に大塩は、門下生や近隣の農村に向けた木版刷りの檄文(げきぶん)を作成する。「田畑を持たない者、持っていても父母妻子の養えない者には、市中の金持ちの商人が隠した金銀や米を分け与えよう。飢饉の惨状に対し大阪町奉行は何の対策を講じぬばかりか、4月の新将軍就任の儀式に備えて江戸への廻米を優先させ一身の利益だけを考えている。市中の豪商たちは餓死者が出ているのに豪奢な遊楽に日を送り、米を買い占め米価の吊り上げを謀っている。今こそ無能な役人と悪徳商人への天誅を為す時であり、この蜂起は貧民に金・米を配分するための義挙である」。}

忘れてはならないのは、この時の豪商が、明治維新の志士たちに「遊郭で」、資金を提供していたスポンサーであったという事である。
>>135
> おやさまは、「やしきは神の田地やで」と、言われています。「欲に切り無い、泥水や」と、言われています。
> 泥水と言う事情を、心得なければなりません。
> 幕末、明治維新の頃に栄えたのは、実は「遊郭」でした。
> 遊郭は、債務奴隷の奉公先の一つであった。つまり、泥水です。
> その遊郭で、幕末の志士たちは、「豪商」から資金を提供してもらっていた。
> 奴隷は家畜と同じですから、遊郭の女たちは、奴隷ですから、情報漏洩の危険度はかなり低い。
> そこで、遊郭において、スポンサーの「大社・大商人」から接待を受け、活動資金を得ていた、それが明治政府の大立者たちの泥水事情と言うものでした。
>

「知行合一」・・・つまり、「嘘が無い」という事。
大塩平八郎の信じた、儒学の教えは、その意味で、おやさまの思想と、きちんと一致していたと言う事です。

(引用が続きます)

[139] 基本。 2006/12/31 12:27

>>137-138
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic18.html
[あの人の人生を知ろう 〜 大塩平八郎]  (引用の続きです)。

「1837年1月。大塩の同志連判状に約30名の門下生が名を連ねた。内訳は与力や同心が11名、豪農が12名、医師と神官が2名ずつ、浪人1名、その他2名。役人と百姓が主軸だ。
2月、民衆の窮状を見るに見かねた大塩は、学者の自分にとって宝ともいえる5万冊の蔵書を全て売り払い、手に入れた六百数十万両を1万人の貧民に配った(奉行所はこれをも“売名行為”と非難した)。そして檄文を周辺4カ国の貧農に配付した。そして一切蜂起の日時を、新任の西町奉行が初めて市内を巡回する2月19日、町奉行が大塩邸に近づく夕刻とした(2月の夕刻なら陽も落ち、闇に乗じて攻撃できる)。}
{決起の前日、大塩は幕府の6人の老中に宛て、改革を促す書状を送った。蜂起後に江戸へ届くはずの文面はこうだ。「公然と賄賂をとる政治が横行していることは、世間の誰もが知っているのに、老中様たちはそれを存知ながら意見すらおっしゃいません。その結果 、天下に害が及ぶことになったのです」。仮に蜂起が失敗しても、心ある老中が一人でもいれば改革を行なってくれるかも知れない、そう願った。
※この書状は何者かの手によって、後日山中に打ち捨てられていた。}

{●大塩の乱 蜂起当日の午前4時。門弟の与力2人が裏切り、計画を奉行所へ密告した。当直で奉行所に泊まっていた別の門弟が「バレた!」と大塩に急報する。事態急変を受け、大塩は午前8時に「救民」の旗を掲げて蜂起した!朝の大阪に大砲の音が轟く。計画が早まり仲間が集まらず最初は25人で与力朝岡宅を砲撃し、続いて洗心洞(大塩邸)に火を放った。「天満に上がった火の手が決起の合図」と伝えていたので、近隣の農民が次々と駆けつけてきた。}
{ 70名になった大塩たちは、鴻池善右衛門、三井呉服店、米屋平右衛門、亀屋市十郎、天王寺屋五兵衛といった豪商の邸宅を次々と襲撃し、奪った米や金銀をその場で貧民たちに渡していった。難波橋を南下し船場に着いた昼頃には町衆も多く混じり300人になっていた。島原の乱から200年目の武装蜂起は街のド真ン中で起きた。次なる目標は大阪町奉行、そして大阪城!「救民」の旗をひるがえし進軍する大塩たち。
・・
しかし、正午を過ぎると奉行側も反撃の態勢が整い、大阪城からは2千人規模の幕府軍が出てきた。幕府軍の火力は圧倒的だ。砲撃戦が始まると民衆は逃げ始め、大塩らは100余名になった。100対2000。私塾の門下生と正規軍では勝負にならない。大塩一党は砲撃を浴びながら淡路町まで退き、二度目の総攻撃を受け夕方には完全に鎮圧された。しかし火災は治まらず翌日の夜まで類焼し、「大塩焼け」は大阪中心部の5分の1(約2万軒)を焼き尽くした。}
{ 事件後の執拗な捜査で門下生たちは軒並み捕縛されたが、大塩と養子の格之助だけは行方を掴めなかった。最終的に、約40日間逃走した後、3月27日に市内靱油掛町の民家に潜伏しているところを包囲され、大塩父子は自ら火を放つと火薬を撒いて爆死した。享年44歳。}
{この乱で処罰された者は実に750人に及ぶ。重罪者31人のうち6名は自害、2名は他殺、1名は病死、そして17名は1ヶ月の間に獄中死している。仲間の名を吐かせる為に過酷な拷問が行なわれたと見られる(大塩の恋人も獄中死)。刑の執行まで生存していた者は、わずかに5人だった。
{ 幕府はこの騒動が各地に波及するのを恐れ、反乱の実態を隠し「不届き者の放火騒ぎ」と封印しようとした。しかし、大塩が1ヶ月以上も逃亡したことで、広範囲に手配せざるを得なくなり、乱のことは短期間に全国へ知れ渡った。しかも爆死したことで人相確認が出来なかったことから、「大塩死せず」との噂が各地に流れてしまう。
乱から2ヵ月後の4月に広島三原で800人が「大塩門弟」を旗印に一揆を起こし、6月には越後柏崎で国学者の生田万(よろず)が「大塩門弟」を名乗って代官所や豪商を襲い(生田万の乱)、7月には大阪北西部で山田屋大助ら2千人の農民が「大塩味方」「大塩残党」と名乗って一揆を起こした。この様な大塩に共鳴した者の一揆や反乱がしばらく続いた。}

徳川幕府の要職は汚職にまみれていた。
それは、「大社・大商人」との癒着であった。

明治維新のとき、その「大社・大商人」は、幕府に見切りをつけて、有能な若者の集う、維新の思想家カルト集団を支援した。
そして、その資金と支援で明治政府は成立した。

大塩平八郎のような、「知行合一」とは反した、「方便の嘘の宗教思想家」。
彼らをくみしやすしと見て取った「経済人」こそ、裏にいる「大社・高山」である。

おやさまの見ていたものを、同じように見据えなければ、ならない。
おやさまは、嘘は嫌いである。

[140] 基本。 2006/12/31 13:07

>>137-139
おやさまの思想を、宗教思想としてのみ見ていると、「経済の高山」に欺かれる。

債務奴隷とは、「経済行為の結果としての奴隷」である。
宗教は、直接的には、思想奴隷をつくる恐れがある。
その、思想奴隷を利用して、債務を科して、奴隷を作るのは「経済人の経済行為」である。

ユダヤ商人は、経済人の「大社」として名高い。
「金儲けなんて、卑しい」という、宗教思想は、経済行為を蔑む事で、身分を下において置く事で、参入の防止の弁となっている。
誰もが、金儲けは素晴らしいと思ってしまったらどうなるか。

金持ちこそ天国にいける。
天国に行くには、金儲けしかないと、仮に、そんな思想が蔓延したらどうなるであろうか。

そしたら、ごく一部の金持ちだけがいる社会の不公正間は、著しいものになるだろう。

ところが、金金金と金の亡者では天国にいけないと、言うから、人は、亡者になりたくないと、「引いてしまう」。
又、金儲けをする機会が与えられていない事への不公正感は薄らいで、金儲けしている人を、どこかで蔑む。
有名な「ベニスの商人」のユダヤ商人に対する、「蔑視」こそ、思想的な罠と心得なければならないという事になります。

この世にしか、楽園は無いとしたら、普通には、「金持ち」にしか楽園はないのです。

が、あの世に楽園があると思うから、あの世の楽園の為に、「貧乏」でいようと言う思想。
「幽冥」の神を説く思想は、現世での債務奴隷にマインドコントロールする思想。
現実は「裸の王様」ならぬ、「裸の貧乏人」であるのに、

 神の王冠があなたの頭には、見えます。

と、諭されて、幸福になってしまう、それは、マインドコントロールであり、アメリカの国民が、子供に「割礼」してしまうのも、>>102
死後の天国の為への親心です。

「ここがこの世のごくらくや」。
おやさまは、断固として、この世を、「世の富と貴」を「よふきづくめ」を普請するという思想を、対極として示しました。

方法論の差こそあれ、大塩平八郎は「知行合一」。命をかけた。
そこには、霊魂としてまで留まるような「怨念」はない。
学者としての良心と信念と言う「理」しかない。
カルトとの相違です。

天保九年前の、1年前の事でした。
http://www.idudono.jp/iduwaku11oosio.html
ここにも、ありますが、大塩の家は、一家断絶となりました。
関係者もまた、思い罪を受けています。

そして、天保九年、大塩平八郎の乱の翌年の事でした。
『我は天の将軍なり。この屋敷は天より深く思惑ありて、この度天降りしなり』
『今より親子もろともに神の社に呉れるなら、三千世界をたすけさそ。』
『否と言うなら、この家断絶に及ぼす』

おやさまは、告げたと伝えられています。

人をたすけるとは、まさに、「断絶の覚悟」なくしては出来ないと言う、ものなのです。
そのおやさまの思想が、告げられた時から、中山家は、「貧のドン底」に、・・『落ち込め、落ち込め』
嘘の無い、おやさま。

その貧乏と言う現実の中でしか説けない、「谷底せりあげ」の、現世そのものの「富貴」の実現を諭しきっていかれたと言う事です。

[141] 基本。 2007/01/01 14:44

>>1
おやさまは、明治元年の前年に、こう言われていました。

『年が明けたら、春はおかげやおかげやと、いふているけど、
 年が明けたら、もんくがかはる。
 おかげどころやないどこやないほどに、
 おはらいがふる、何がふるといふて、たのしんでいるけれど、
 血の雨がふるようなものやで。
 さあ、年があけたら、
 もんくころっとかわるで。』

王政復古となり、秀司が、吉田神祇管領に願い出て得た認可も無効となったとき、「取次人の先生」がたは、改めて、願いに出ようとした。
そのとき、おやさまは、

『願いに行くなら行ってみよ。行き着かぬうちに息が尽きるで。そんな事、願いに出るやないで。』
と、言われました。

慶応四年を、明治元年とし、明治二年には東京遷都した、
>>136
おやさまの弟子の、取次人という高弟たちは、「認可」を得たいと、心中にあって、息子秀司を代表にして、なにかと画策していくことに、堕落していきます。
錦の者でも、ぼろに、堕落する、「三十八年」の道。
それは、天理教会として、独立するまで続く。
>>8
おやさまは、「何一つ召し上がらない」という三十八年を、体現し予言します。
明治41年までの、天理教は、おやさまが、「何一つ召し上がらない」、受け取るところの何も無い、自ら求めての思想奴隷の道と、なりました。
それは、苦難の道と言いますが、じつは、おやさまの思想を外れた謀反である事を、おやさまの、断食の体言による予言は示しています。

弟子たちが、事もあろうに、「とふじん」の思想に、自ら媚を売ろうと画策していたとき、おやさまは、おふでさきを示しました。

 この処 大和の地場の 神館と 言うていれども 元は知ろまい 一号4

高弟たちこそ、ここは、ぢばだ、神の館だ言うのです。
信者こそ、ここはお地場だ、神様の館だと説くのです。
しかし、「元」は、知ろうまい。
宗教家の、ぼろと堕落していく、信徒の弟子の、三十八年。
天理教会公認の道は、まさに、古代に、モーゼ・キリストの、その弟子たちの犯したものと、まるで同じ、過ちでした。

世界中を、全て天理教会にしてしまうとか、弟たちの国を教化・指導するとか、なおも、突き進んだ天理教会の、宗教の思想では、おやさまには、「食べていただけるものなど何も無い」。
心得ねばなりません。

明治二年、まだ地場定めも出来ていません。神の館もありません。

「このところやまとの志バのかみがたと ゆうていれども元はしろまい」一号4

「かみがた」とは「上方」、それは、「神がた」。大和の神のふるさと。日本の伝統の、大和の上方から遷都する、唐人の思想集団。
東京遷都に対する、痛烈な、批判があります。
皇室を利用し、利権を独占する「泥水」との闘い。

大塩平八郎を死体塩漬けで、磔にした、黒幕は、明治維新の黒幕でもあった。
>>139

かみがたの伝統を破り、「将軍」の後釜に「天皇」をすえた「とふじん」の泥水を、見抜いていた、大和の片田舎の百姓女。

おふでさきは、過去と現在と、未来を語るおやさまの思想書です。

[142] 基本。 2007/01/01 16:54

> このところやまとの志バのかみがたと ゆうていれども元はしろまい 一号4

おやさまの思想書、おふでさきは、「音と文字とで」「複層」に読み分けます。

「志バ」と書いています。
読みは「地場」です。そう読みならわしています。又、「地場」は、「ぢば」と書くのがおふでさきの普通です。
ところが、「こころざし」の「志」を用いているのは、勤皇の志士たちの、「志」を踏まえています。

かみがたの朝廷を中心とした、「勤皇の志士」。

「> このところやまとの志バのかみがたと ゆうていれども元はしろまい 一号4」

勤皇を志して、古事記・日本書紀のふるさと、上方(かみがた)の思想を説いていたはずの、明治維新の「志士」たち。
>>136
> 中央集権政治の中心地をどこに置くかが議論になった。
> 京都返還論、大久保利通の浪速(大阪)遷都論、前島密の江戸遷都論、江藤新平の西の京都(西京)に対して江戸を東京とする東西二京論があった。
>
武家の精神の故郷は、関東。鎌倉、江戸。
勤皇の志士たちの思想のルーツは、上方にあった・・はずなのに・・
その行動は、
> 国民に自分たちこそ日本の中心であると納得させるためには天皇自らが江戸城に入り、そこから天下に号令することが一番よいと維新の中核メンバーたちは考えました。
>
との事情と、
> 結局のところ、前時代からの政治支配体制と経済システムの遺産を継承しやすい利点
との事情で、天皇を、とりあえず東京にお連れしたという事。

まさに、「日ノ本日本は、皇祖の国である。」と言いながら、元を忘れた「志士」の変節。
坂本竜馬さんや吉田松陰さんが生きていたら、そんな変節は無かったでしょう。
それは、善悪の問題ではなく、日本の元を知らぬままに、軍事国家の「武家の」関東に、東京に遷都した事が、「志士の」心どおりの姿であったと言う事です。

[143] 基本。 2007/01/01 17:10

>>142-143
> このところやまとの志バのかみがたと ゆうていれども元はしろまい 一号4
> 勤皇を志して、古事記・日本書紀のふるさと、上方(かみがた)の思想を説いていたはずの、明治維新の「志士」たち。

その堕落は、既に維新政府の発足時からあったという事になります。
おやさまは、それを見据えて、おふでさきに、知らせました。

天皇を真から尊敬し、平田国学を純粋に信奉していた、ある意味では思想カルトと言うべき人物たちと、
「> 政治支配体制と経済システムの遺産を継承しやすい利点」、を主としていた人物たちとは、
対朝鮮政策で、ぶつかります。
征韓論を唱えたのは、実は、思想カルト的な人物たちであった。
征韓論者の方が、天皇への忠誠心と言う点では、はるかに、重いものがあります。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を引用します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E9%9F%93%E8%AB%96
{ 征韓論(せいかんろん)は、
日本の幕末から明治初期において、当時留守政府の首脳であった西郷隆盛(西郷自身の主張は出兵ではなく開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことであり、むしろ遣韓論)、
板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによってなされた、武力で朝鮮を開国しようとする主張である。}
{ 江戸時代後期に国学や水戸学の一部や吉田松陰らの立場から、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと古事記・日本書紀に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられた。}

この、「天皇教」でありながら、方便に次ぐ方便で、東京遷都を妥協してしまった人物たちは、「西欧の唐人思想」により深く洗脳された人物たちと、征韓論で争いますが、破れます。
おやさまは、志士たちが変節していく様も、ご覧になっています。
古事記・日本書紀を日本の元と、説きながら、「かみがた」から、仮に天皇を移そうと言う、「方便」に負けた時から、志士の純粋さは失われて、政争の道具としての思想と堕落しています。

明治2年から、「38」年。明治政府は、錦からぼろに、維新の志士たちは、維新の元勲に、変節しています。
http://www.geocities.jp/kazuo714/kapitel2.htm
{四十一年七月には再び桂内閣が誕生する。このころはまだ政党の力が微弱であった上に薩長藩閥の勢力が強くのこっていた上に明治天皇から厚い信頼を蒙っていた伊藤博文・井上馨・大山巌・黒田清輝・松方正義・山県有朋らは元勲として政治に大きな発言力を持っていたのも当然である。彼らの中でも日露戦争が終わってからの山県は侮りがたい力を政界に発揮していた。その山県の後輩であり子分であった桂が、再度首相として選ばれたのもうなずけないことはない。とにかく桂は再び首相の座に就いた。こういう両者の関係があったために、政策の決定については一々山県にお伺いを立てるという有様だった。}

この頃には、経済も又、財閥支配下に置かれています。
(引用続きます)

[144] 基本。 2007/01/01 17:32

>>142-143
> このところやまとの志バのかみがたと ゆうていれども元はしろまい 一号4
> 「かみがた」とは「上方」、それは、「神がた」。
> 大和の神のふるさと。日本の伝統の、大和の上方から遷都する、唐人の思想集団。
> 東京遷都に対する、痛烈な、批判があります。
> 皇室を利用し、利権を独占する「泥水」との闘い。
> 勤皇を志して、古事記・日本書紀のふるさと、上方(かみがた)の思想を説いていたはずの、明治維新の「志士」たち。

> 明治2年から、「38」年。明治政府は、錦からぼろに、維新の志士たちは、維新の元勲に、変節しています。
http://www.geocities.jp/kazuo714/kapitel2.htm
(引用続けます)

{ 第二節 戊申詔書(二律背反の時代)}
{
 日清日露の両度にわたる戦勝が、まだ国民の心を酔わせていた。だからといって、彼らの日常生活を支えるつっかい棒にはなっていない。・・
 戦争による増税や戦場に駆り立てられたところから生じた人手不足や、租税の過重な負担など、いろいろな悪条件に次々と責めたてられたからである。農民は田畑の荒廃を嘆き、商人は働き手を取られて貧乏ひまなしの生活がつづいた。こうなっては先祖代々の家業をつづけることが出来なくなった者もいる。}
 {その一方では、戦争のおかげで三井、三菱などの大企業はますますふくれ上がり、貧富の差はひろがる一方であった。}
{ このため、ある者は政体の変革を心ひそかに望み、またある者は国体をすら根底から揺るがそうと企てるようになる。自分たちではどうしようもないとあきらめた者は、「あせ水流して働くばかりが能ではない。享楽を求めて生きることにも意義がある」などという風潮さえきざしはじめていた。}
{ 事実三十一年ごろに発足した「社会主義研究会」のメンバ−の中には、前に書いたような国家体制の変革を願って実際行動に向かおうとする者もいた。}
{西園寺内閣の時に起こった「赤旗事件」も、そのような時代の一つあらわれである。}
{ ゆるみかけている国民の精神を緊張させようと考えた。こうして発布されたものが、『戊申詔書』である。}

ただしこれは桂の意図によるというよりは、もとをただせば山県の発意から出たものといった方が適切かもしれない。
 {「方今人文日ニ就(な)リ月ニ将(すす)ミ、東西相倚(よ)リ彼此相済(な)シ、以テ其ノ福利ヲ共ニス」で始まる詔書の・・・
 この主旨とするところは、「勤倹節約につとめ、荒れすさんだ気持ちを離れて、あくまでも国運発展のために尽くせ。」というのである。}

日清日露の戦争には勝ったが、国民はみなが貧困にあえぐことになった。
それが、東京遷都から「38年」後の姿である。

それに先立つ明治2年には、おやさまは、「志」の元から離れたすがたを、体現し、示されていた。
>>141
その、おやさまの思想を、筆にて知らされ、身近に教え知らされながら、弟子たちは、高弟たちは何をしていたのか、
天理教発展の為に、「台湾への殖産興業」を試みた教団幹部もいる、「海外布教」を試みたものもいる。朝鮮に渡ろうとした幹部もいる。
情けない、どのように思案をしていても、おやさまをたすける心はどこにも無かった。

恥ずかしいのは、天理教である。
宗教とは、「大社・高山」いんねんの、走狗なのか。
志の地。大和の地場のかみがたと、言うていれども、元は知らない。

やまいたすけの成果はあげたと言うけれど、「谷底せりあげ」を、真剣に行った幹部は、誰一人としていない。

明治2年のおふでさきを、いまだ読めない、我々なのである。

[145] 基本。 2007/01/02 11:23

訂正があります。

>>141
> 大塩平八郎を死体塩漬けで、磔にした、黒幕は、明治維新の黒幕でもあった。
この、「大塩平八郎」と言うのは間違いで、「大塩権八郎」でした。
お詫びして、訂正します。

「大塩権八郎」という人は、大塩平八郎の叔父で、>>140 、で、 「> 関係者もまた、思い罪を受けています。」と、ご紹介しましたように、
http://www.idudono.jp/iduwaku11oosio.html
吹田市にあります、「泉 殿 宮」 に、宮司さんの養子に行かれてからの名は、「宮脇志摩」さんと言います。
改めまして、「塩漬けの磔」の事などの処罰の事を引用させて頂きますと、
{ 翌2月20日、与力2人、同心22人、尼崎藩兵250人余りが宮脇家を取り囲んだ。
志摩は自宅にて切腹し、家のものに「只今、宮脇志摩は、自刃いたしました」と三宝の上に載せたはらわたを見せた処、捕らえられる事もなく引き返した。
その後、直ちにはらわたを腹に詰め込みさらしを巻いて、槍を杖に、止める妻 理加 を突き飛ばし、
目はもうろうとして「まだ役人は居るのか」と更に止める、義母 直 を槍で突き伏せ、大阪市内へと向かったが、庄本村のため池にはまり亡くなった。}

{宮脇志摩(有妥)は、41歳で亡くなり、死体を塩漬けにされ、磔(はりつけ)の刑となる。}

{当時の刑罰は、当事者だけでなく、家族にまで及んだ。
長男発太郎は天草島に、次男慎次郎は壱岐に、特に三男辰三郎は、乱当時お腹の中にいて、7歳になり隠岐に流された。
当時の決まりでは、島流しは15歳まで待つのが通例であったが、よほど幕府への衝撃が大きかったのか倍以上早まり、童流人と民衆の涙を誘った。
島の庄屋さんがとても親切で、読み書き算盤を手ほどきし、島の娘と結婚し子どもも設けた。}

宗教家と武士の潔さを貫いた「大塩権八郎・宮脇志摩」さん。
同じ宗教家の中にも、このように潔い人がいた事は、まさに、天理教におきましての「泥水事情」とは、対照的なものと感じます。
吹田市にあります、「泉 殿 宮」
{ 当宮往古は、次田ノ社と称え奉り、河内の次田連の祖神 天香山命を氏神として、五穀の神「宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)」}
{ [伏見稲荷大社の御祭神]を祀(まつ)る。}
http://www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/kamigami/ukamitama.html
おやさまが、これも月日が教え来るでといわれた八百万の神の宮司さんの純粋さは、まさに、鏡とすべきものでした。

大塩平八郎は、爆死しておりました。訂正致しました。

「大塩平権八郎を死体塩漬けで、磔にした、黒幕は、明治維新の黒幕でもあった。」でした。

[146] 基本。 2007/01/03 11:03

明治維新の時に、勤皇の志士たちが豪商から資金を得るための会談の場所として利用していたのが、「京都島原」。
http://www.tonkatsuichiban.com/map/simabara/simabara02.html
ここに紹介があります。
{幕末には西郷隆盛・久坂元瑞などの勤王志士達が、軍用金調達のため時の豪商を角屋へ招いて会談を行ったところであり、また彼等を探し求めた新撰組が乱舞した場所でもあります。}
{長州藩志士 久坂玄瑞の密議の角屋
石標裏面文 久坂玄瑞は 吉田松陰死後塾徒を率い 尊攘に挺身 文久政変に山口へ七卿落ちを斡旋するも 元治元甲子年七月 蛤御門(はまぐりごもん)の変に遭い 壮烈な死を遂げた 享年二十五 }
{角屋は玄端が屡々暗殺の難を避け潜行密議した場所である}

薩摩と長州が明治政府の中核になっていた、その始まりは、この「島原」という「遊郭」(厳密には花街で遊郭ではないと定義されています)が、にての、談合にありました。

おやさまが、明治二年に、おふでさきにて、

対決姿勢を明示したのは、その、維新の志士たちの中にある泥水事情にあったということでした。
> このところやまとの志バのかみがたと ゆうていれども元はしろまい 一号4
> 「かみがた」とは「上方」、それは、「神がた」。

『天皇親政政治』と、うたい文句にして、明治の御世にしたけれど、明治2年から38年間、国民は、ますます貧しく格差拡大は著しくなります。
>>144
> > 明治2年から、「38」年。明治政府は、錦からぼろに、維新の志士たちは、維新の元勲に、変節しています。
http://www.geocities.jp/kazuo714/kapitel2.htm

おやさまは、元冶元年につとめ場所の普請の時、「神前にては拝をして通れ」と、命じておられましたが、おやさまの弟子たちは、「大和神社」では、太鼓を叩いて、おつとめをしてしまいました。
「拝をする」という事の意味が理解されなかったという事でしたが、明治の元勲たちと政商・財閥との癒着は、元冶のころの維新の志士の姿に既にその萌芽があったように、
おやさまの弟子たちの、尊大なおごりは、元冶の頃からあって、それが、宗教の高山と言う、なってはならないものを目指す体質の元にありました。

それを、中山家のいんねんそのものから、切り替えていく。
おやさまの思想は、「わが身のためし」でありました。

立教の宣言と言われる、「我は天の将軍也」と、江戸幕藩体制化で宣言された事の意味を、明治2年には、おふでさきにて書き記しました。
 よろつよのせかい一れつみはらせど
 むねのハかりたものハないから   一号1
 そのはずやといて聞かした事ハない
 なにもしらんがむりでないそや   一号2
 このたびハ神がをもていあらハれて
 なにかいさいをといてきかする   一号3
 このところやまとの志バのかみがたと
 ゆうていれども元はしろまい    一号4
 このもとをくハしくきいた事ならば
 いかなものでもみなこいしなる   一号5
 ききたくバたつねくるならゆてきかそ
 よろずいさいのもとのいんねん   一号6

 かみがでてなにかいさいをとくならば
 世界一れつこころいさむる     一号7

神が出た、出ている。
明治政府に対する、痛烈な批判の思想でした。

[147] 基本。 2007/01/04 09:38

「理を」神と、説くおやさま。
理とは、説かれ明かされた時から「表に出る」ものであり、
「理」そのものは、現実に存在してあるとしても、それが、「理として説かれ」、「理として試され」、「理として実行され」、しないと、この世に「理」として表に現れないものであります。

おやさまは、おふでさきに思想を示す前に、「理」を説きました。
それは「説き流しのおうた」として説かれたように、文字ではなく伝承のものとして、説かれました。
そして、「理」を試されました。
それは、「谷底せりあげ」とは何かと言う「理」でした。
それは、「世界ろくぢ」と言う「思想=理」でした。

その道筋は、「世界の飢饉」と密接につながったものであった。

おやさまは、「世界の飢饉」について、次のような思想を示されています。
 いちれつに神の心がいづむなら
 もののりうけかみないつむなり  一号12

http://www.eishindo.co.jp/iyosaku/nanimono/kikin.html
ここに、天保の飢饉の時の話があります。
天明・天保の飢饉と下館藩
『天保の大飢饉 (1832−1837) は天明の飢饉 (1783−1787) を上回る規模でした。 百姓たちの不満は高まり、 一揆や打ち壊しが激化し、 全国に広がり始めました。 』
『下館藩では、 二つの飢饉の後、 領内の人口が半減するほどの惨状でした。 五行、 小貝の両河川の氾濫を始め、 打ち続く凶作に下館の農民は極度の困難に陥いりました。 藩主の治世能力の欠如は決定的で、 借財もかさんで藩財政は破局に直面していました。 』

『しかし他の藩をみると、 日本全国を襲った飢饉のなかで衣食に困らず余裕を見せていた藩もありました。 その一つ近隣の桜町 (栃木県二宮町) では、 一人の餓死者も出さずに大勢の領民を救っていました。 』
『この時の指導者が二宮尊徳で、 下館藩でも、 尊徳の力を頼り、 その指導を仰ぐために一年をかけて口説き、 ついにその指導を受けることができ、 藩の財政は立ち直っていくのです。』

天保の飢饉の時、宗教家にも「徳者」がいたと伝えられます。
http://suzu1.matsusaka.ne.jp/sakura/history/tenhonokikin.html
『そこで紀州藩は、10月18日から12月6日まで、西町の長竹庵、博労町(本町)の惣安寺、平生町の真行寺、新町の真台寺の4ヶ所で粥の施行を行った。また、12月7日から26日にかけては、町会所において米の施行を行い、翌年1月末にも粥の施行を行った。しかし、飢民は絶えることもなく、むしろ施行の噂を聞いた近在の農民や参宮途中の旅人たちが押し寄せ、市中は飢民であふれたという。』

『そのころ、来迎寺の妙有上人(1781〜1860)は、飢民の窮状を見兼ねて、寺費でもって救済に乗り出した。上人は、天保7年10月初旬から粥の施行を始め、翌年4月29日まで、1日も休むことなく施行を続けた。この間、当初1日平均70人程度であったものが、12月下旬には180人、1月下旬には820人、2月下旬には1280人と増え続け、施行を受けた者は、7ヶ月間で延べ12万6464人にも及んだ。また、施行の経費は、寺費はもとより、上人の功徳に感化された、市中の商人や近在の農民たちの寄付が充てられた。』
『前の紀州藩主徳川治宝は、天保8年7月に上人の善行をたたえて報奨金を与え、翌年6月には自ら「無量寿」と認めた横書物を与えた。この横書物は、掛け軸に表装され、今も来迎寺に寺宝として大切に保存されている。』

天保8年陰暦十月二十六日の秀司の足痛は、こうした「飢饉」の事情の中に、見せられたものである。
 > あしのちんばが一の残念
>>64-65
「3日3夜」       1837   秀司   足痛から、散財の開始。
→「3年3月後」     1841 おやさま  貧に落ちきれ。
→「およそ4年1月後」    1842 おやさま  家の高塀取払え。
→「およそ9年1月後」    1846 おやさま  安市にて、中山家の道具一切を売り払う。
→「およそ14年1月後」   1852 おやさま  夫善兵衛とともに、らい病施設に寄付をする。
→「およそ23年10月後」  1861 秀司    中山家の家業の当主として、切り回す。

このように、飢饉の事情の、債務奴隷事情の、因縁きりを、「理」として、現している。
それが、おやさまの思想である。

[148] 基本。 2007/01/04 09:56

>>147
天保の飢饉の時、知行合一の思想家大塩平八郎がいた。真実の宗教家大塩権八郎がいた。>>140

そして、天保の飢饉の時、篤農家二宮尊徳がいた。
二宮神社に祭られた二宮尊徳を「引用します」
http://www.ninomiya.or.jp/sontoku/index.html
『二宮尊徳翁(公文書では、金次郎、自筆は金治郎)は天明7年(1787)、相模国栢山村(今の小田原市栢山)の豊かな農家に生まれました。再三にわたる酒匂川の氾濫で田畑を流され、家は没落し、過労により両親は亡くなり、兄弟はばらばらに親戚の家に預けられました。金次郎は 、朝暗いうちから夜遅くまで汗と泥にまみれて一生懸命働き、その間余裕ができればわずかな時間も無駄にせず勉強をして、先人の教えを理解しようとしました。荒地を開墾して収穫を上げお金を貯め、質に入れていた田畑を少しずつ買い戻し、一生懸命努力して24歳までに一家を再興しました。 』
『毎晩勉強していた金次郎は、読書をするための油代を稼ぐために荒地に菜種を植え、たった一握りの菜種から7〜8升の取り入れになった経験や、捨て苗を荒地で丹精こめて育てて、秋には一俵の籾を収穫したことにより、自然の恵みと人の力の素晴らしさを知 ると共に、小さな努力の積み重ねが大切(積小為大)だと学び、これが後の行いや考え方の基になりました。』
『大人になった尊徳翁は、生涯を世の中のためにささげ、小田原藩家老服部家の財政再建をはじめ、藩主大久保忠真候の依頼により分家宇津家の桜町領を復興させるなど、自分の体験をもとにして大名旗本等の財政再建と領民救済、北関東から東北にかける各藩の農村総合的復興事業(仕法)を行い素晴らしい成果をあげました。』
『大飢饉で農村が疲弊しきっていた当時、尊徳翁が仕法を手がけた村々は600ヶ村以上に上ります。多くの農村や藩を貧困から救い、独自の思想と実践主義で人々の幸福を追求し、数理、土木建築技術から文学まであらゆる才能を発揮した世界に誇れる偉人です。』
『内村鑑三著『代表的日本人』の中でも、19世紀末、欧米諸国に対して「日本人の中にも、これほど素晴らしい人物がいる」と苦難の時代を救った偉人として尊徳翁は紹介されています。 』

『最初の信用組合
尊徳翁は藩の使用人や武士達の生活を助けるために、お金を貸し借りできる「五常講」をつくりました。信用組合の発祥はドイツといわれていますが、尊徳翁はそれより40年以上も早く信用組合と同じ組織である五常講を制度化し実施していました。 』

『自然と環境
現在、注目されている自然との共生を尊徳翁は百数十年前にすでに実践し、常に自然と環境のバランスを考えていました。』

「飢饉」は、「泥水事情に対する理の責め」である。
その時、真実・まことが、試される。

一つは、「知行合一」。一つは、「積小為大」。大塩平八郎と二宮金次郎。
天に恥じぬ生き様は、これが、天保九年前の、日本人の心である。
対比して、明治維新の泥水事情は、やがて日本に、あらたな飢饉を生むことになる。
おやさまの、断食は、飢饉の事情を身体に現してのものであった。

理とは、人の精神にて、発動する。
おやさまの思想である。
「知行合一」「積小為大」。
おやさまは、「おちこめおちこめ」「天然自然」。

この世を立て直すものは、日本の心であり、「幽冥を説く洋魂」ではないことは、自明といえる。

[149] 基本。 2007/01/04 13:03

現代社会に債務奴隷というものをもたらした原因は、1600年の東インド会社と言う「貿易会社」の設立の時からです。
1602年にはオランダにも東インド会社が出来ています。
日本は江戸時代オランダとの貿易国でしたから、その事は承知されていたわけです。
http://homepage3.nifty.com/asia-kenbunroku/Shokuminchi.htm
{18世紀中頃、イギリス国王から貿易独占権を与えられていたイギリス東インド会社は、インド東部においてムガール帝国から徴税権や行政権を獲得し、インド東部を実質的に支配し始め、19世紀中頃になると、インド領土のほぼ全部がイギリス東インド会社の支配下になってしまった。}
神から権力を授与されたとの立場の「国王」が、「貿易会社」に独占権を与えると言う、「許認可」による「大社・高山」の横暴はこうして、アジアを席巻しましたが、
それは、それまでにあった、奴隷貿易を利用しての肉体労働者としての奴隷から、債務を課して奴隷にする宗教的奴隷生産システムへと、あくどい変化をしていきます。
キリスト教の宣教師たちが、実は江戸時代に日本人を奴隷として売買する手引者であったという事を、忘れてはなりません。

その肉体の奴隷制度そのものに対する批判は、自由主義革命の思想として、行われたとあります。
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/kindai/30-syokumin3.html
{17〜19世紀(18世紀がピーク)にかけてアフリカから新大陸に運ばれた黒人奴隷の数は1000万人前後と推定されているが、彼らは暴動を防ぐために船底に鎖につながれて、身動きできないほどのすし詰め状態で運ばれたので、途中で約3分の1が船中で死亡したといわれ、その数を加えると1000万人以上の黒人奴隷がアフリカから輸出されたと推定されている。}
{黒人奴隷の多くはアフリカ西海岸、特にギニア湾岸の地域(現在のナイジェリア・ベナン・トーゴ共和国の辺りは奴隷海岸と呼ばれた)の地域から連れ去られた。当時この地域では部族間の抗争が続いていたので、ヨーロッパ諸国の商人は武器を輸出し、部族同士を戦わせ、その戦争捕虜を奴隷とした。そのため部族間の抗争に敗れれば奴隷とされるので、抗争に勝つためにより多くの武器を手に入れようとした。しかし、ヨーロッパの商人は奴隷との交換でないと武器を売らなかったので、奴隷狩りも盛んに行われた。}
{こうして、ヨーロッパからアフリカへ武器・雑貨を輸出して黒人奴隷と交換し、アフリカの黒人奴隷を西インド諸島に運んで砂糖と交換するヨーロッパ・アフリカ・新大陸間の三角貿易が盛んとなり、イギリスなどのヨーロッパ列強はこれによって莫大な利益を得た。}
{労働力としての黒人奴隷の対象になったのは若い男女の黒人であったので、黒人奴隷を連れ去られたアフリカ西海岸を中心とする地域では、人口が減少し、貴重な労働力を失って社会の発展は阻害され、次第に後進地域に陥っていった。}
{この非人道的な黒人奴隷貿易は19世紀の初めまで続いた。黒人奴隷貿易に対する反対運動はフランス革命の中から起こり、イギリスでは1807年にまず奴隷貿易が禁止され、1833年には植民地での奴隷制が廃止された。}

個人の肉体を奴隷にすると言うものに対して、禁止されたという事は、債務奴隷の解放を意味してはいません。
国家全体、地域全体を奴隷国家にしてしまうという、帝国主義的植民地が拡大した事で、個人に対する非人道的な行為としてよりも、民族や国家に対する奴隷化運動として、行われたと言う事です。

宗教思想による支配を試みたアメリカと、そのアメリカ以前からカトリックの宗教思想による支配を試みていた西欧人との対立の例が、フィリピンにあったと言う。
「アメリカのフィリピン植民」から引用しよう。
http://www.rikkyo.ac.jp/~makorin/fm014ich.htm
{1907年度まで教員の1割以上をアメリカ人が占めた。(表1参照)このアメリカ人教員の大多数はプロテスタントであった。}
{1903年にはアメリカ人教員の92.3%がプロテスタントであった12)。カトリック教会にとり,信徒子弟がプロテスタントの教員から授業を受けるのは望ましいことでなかった。}

もともとの土俗の神を排除し、カトリックも排除して行われたフィリピンでの学校教育の普及のやり方。
モーゼの思想を背景にした、侵略主義は「学校」を建てた。

「がくもんなぞと言うたとて みえてない」

思想で奴隷にして債務でしばる。
古代の思想が「復古」していたのは、フィリピンを支配するアメリカにおいてでありました。
明治の学校教育の現場に、>>148 、二宮金次郎の銅像がなかったなら、日本人は完全に思想奴隷となっていた。

「とふじん」が「にほん」のぢに入りこんでままにする。
それは、「フィリピン」においても、そうであった。残念なことでした。

[150] 基本。 2007/01/05 11:45

大塩平八郎のごとく、精錬潔癖で有能な官僚が中国にいました。
林則徐。
彼は、イギリスの阿片の密貿易に対して、断固として、闘った官僚であり、それが、アヘン戦争の開戦の理由、きっかけとなりました。
阿片戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』引用します。http://ja.wikipedia.org/wiki/ アヘン戦争

{阿片戦争は清とイギリスとの間に1840年から2年間行われた戦争で、南京条約をもって終戦とした。名前の通り、アヘンの密輸入が原因となっておきた戦争である。}
{イギリスは清へ輸出出来る物品として、植民地のインドで栽培させたアヘンを仕入れ、これを清に密輸出する事で超過分を相殺し、三角貿易を整えることとなった。}
{1796年(嘉慶元年)にアヘンの輸入を禁止していたが、アヘンの密輸入はやまず、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していった。}
{林則徐は阿片を扱う商人からの贈賄にも応じず、非常に厳しい阿片取り締まりを行った。1839年(道光十九年)には、アヘン商人たちに「今後一切アヘンを持ち込まない」と言う誓約書を出す事を要求し、イギリス商人が持っていたアヘンを没収し、これをまとめて焼却処分した。(実際は、海水<食塩水>と消石灰による化学反応によって、阿片を無害な物質に変えて処分したことから、その時まきあげた化学反応の煙によって、焼却処分したと庶民には伝承されてきた)この時のアヘンの総量は1400tを越えた。その後も誓約書を出さないアヘン商人たちを港から退去させた。}

{イギリスの監察官のチャールス・エリオットはイギリス商船達を海上に留めて林則徐に抗議を行っていたが、林則徐は「誓約書を出せば貿易を許す」と返した。実際にアメリカ商人は誓約書をすぐに出してライバルがいなくなった事で巨利を得ていた。}
{1839年11月3日、林則徐による貿易拒否の返答を口実にイギリスは戦火を開き、清国船団を壊滅させた。「麻薬の密輸」という開戦理由にはイギリス本国の議会でも、野党であった後の首相ウィリアム・グラッドストンを中心に『こんな恥さらしな戦争はない』などと反対の声が強かったが、清に対する出兵に関する予算案は賛成271票、反対262票の僅差で承認され、イギリス東洋艦隊が清に向けて進発した。}

おやさまが、「立教いらい、三年」、内蔵にこもられていた期間は、丁度「阿片に対する取締りと戦争勃発、英国の支配確立」の時になります。中国侵略の第一歩でした。

英国が求めていたのは、「美味しく紅茶を飲むための陶磁器、美しく着飾る絹」でした。
「グルメ・セレブ」が「アヘン戦争」をおこしたようなものでした。
{「アヘン貿易」 当時のイギリスでは喫茶の風習が上流階級の間で広がり、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入していた。逆にイギリスから清へ輸出されるものは、時計や望遠鏡のような一部の富裕層にしか需要されないようなものはあったものの、大量に輸出できるようなものはこれと言って無く、イギリスの大幅な輸入超過であった。}

貧に落ちきれ、とのおやさまの思想は、「谷底」の債務奴隷をうむものの「本質」をずばりと突いていました。
それは、「奴隷」を踏み台にして「華麗に暮らす、陽気に暮らす」、高山の生き様。
立教の前夜、政治と宗教は癒着し、日本では財閥による支配が開始された。
英国の議会は、国会は、「幸福に暮らしたい自国民の為に」、他国を奴隷にする事を、議決していた。

>>2
おやさまは、「国会ではおさまらない」と言う思想を示しています。
そして、「理」にたいする深い思案で、対する姿勢を示されています。
セレブ・グルメでは、この世の難儀はたすけられない。
アヘン戦争の発端の教訓です。

[151] 基本。 2007/01/05 12:03

>>150
イギリスと断固闘った、林則徐は、
{清朝の官僚、政治家。1785年、福建省福州生まれ。25歳で進士となり、江蘇巡撫、湖広総督を歴任。清廉な政治で民衆の人望を集めた。やがてアヘン問題が持ち上がると徹底した厳禁論を主張、その上奏文が時の道光帝の目に止まり、欽差大臣として広州に派遣された。林則徐は、外国人居留地を実力で封鎖し、外国商人所有のアヘンの引き渡しに成功、強制的に焼却処分した。}人物です。
{アヘン問題処理のため、林則徐が友人の魏源らに編纂させたヨーロッパ事情の研究書「海国図志」は、幕末の日本へも伝わり、明治維新にも大きな刺激を与えたといわれる。}

林則徐が、友人の魏源らに編纂させたヨーロッパ事情の研究書「海国図志」、これが、明治維新の志士たちの思想理念の根拠になったと言う事です。
http://ww7.tiki.ne.jp/~abab/i-mode/heisyo/23.htm
から引用します。
{23.外国に学んで外国を制することを提唱した魏源およびその著『海国図志』}
 魏源は清代後期の進歩的な思想家・史学家・文学家、「外国の特技を学んで外国を制する」戦略の提唱者で、彼が著した『海国図志』はその軍事地理思想と海防思想を全面的に反映しており、清代後期に推進された自国の軍事を強化する政策を理論武装する役割を果たしました。
{(2) 外国の特技を学んで外国を制することの代表作『海国図志』・・(西暦1842年)に刊行され、あわせて50巻、57万字、附地図23幅、西洋火砲図式8頁で、これは魏源が『四洲志』をベースにし、増補して完成させたものです。}

おやさまが、内蔵に籠もり、「刻限」と「元の理」を自らに反芻していた、その三年の期間の間に、相当します。

林則徐と友人魏源は、西欧を研究し『開国図志』を刊行にいたらしめました。
{その書が刊行されたあと、国内の争いがあい伝わり、魏源は社会の需要を満足するため、さらに増補して60巻とし、道光二十二年(西暦1847年)に、揚州において第二版を刊行し、書中には蒸気機関で動く外輪船、地雷、水雷、望遠鏡などの製造と使用の方法を増加しました。}
・・・
{「外国の特技に学んで外国を制する」というのが『海国図志』の主旨です。魏源は書中において外国の実情を入手して、外国に学ぶことを手段とすることから始め、最後に外国を制するという目的に到達しています。}

(引用を続けます)

[152] 基本。 2007/01/05 13:00

>>151
 聖書の神により権威を与えられた、英国の国会・議会。
 それが、他国に対して「制裁」を行うと言う正義。
阿片戦争は、世界の泥水事情として、英国が自由貿易を認めない国を劣等国として制裁した形になっています。
 日本もまた、朝鮮に対して自由貿易を求めて、侵略をします。
その手段は、「武力」であった。

それに対して、> 外国に学んで外国を制することを、
これが、圧倒的に不利な戦いで破れた清国の、林則徐と魏源の目指したものであったわけです。
(引用の続きです)
http://ww7.tiki.ne.jp/~abab/i-mode/heisyo/23.htm

{「外国の特技に学んで外国を制する」というのが『海国図志』の主旨です。魏源は書中において外国の実情を入手して、外国に学ぶことを手段とすることから始め、最後に外国を制するという目的に到達しています。彼は西洋の特技には三つあるという見解をもっています。一つ目は戦艦、二つ目は火器、三つ目は兵士を訓練し兵隊を育成する方法です。国家の武備を振興するには、西洋の戦艦の建造・火器の製造・そして兵士の選抜と訓練の方法についての理解と学習が必要です。}
{ ・・このため、魏源は下記のような主張を提出しました。虎門要塞区の大角と沙角において、造船所と火器局を建設し、アメリカ・フランスの技術者を広東に招聘して銃砲・艦船を製造します。同時に有能な職人や壮健な兵士を派遣して、アメリカ・フランスの技術者のもとで欧米の艦砲の製造法と使用法を学ばせます。このようにして数年を経過すれば、西洋の特技はこちらの特技となってしまいます。}
{彼は造船所と火器局の場所の選択について、外国を制する戦略から出発しており、軍需工場と海防基地の建設について全面的に考慮しています。これは魏源が人よりの一歩ぬきんでているところです。}

{ その2。一部の旧式水軍を廃止し、一まとまりの小型・中型の戦艦を購入し、外海において敵に対抗できる新艦隊を一つ編成します。}
{彼は、以下のように求めました。戦艦の建造と大砲や水雷の製造を行える人を、科甲出身(国家公務員)と同様にみなすこと。暴風波浪を乗り切るのがうまく、風雲沙綫と射撃技術を熟知している人を、行伍出身(正規軍将兵)と同様にみなすこと。もし厳格に選抜して合格したなら、沿海水軍に送って技芸を教習すること。およそ水軍の将官は、必ず造船所と火器局のなかから選抜し、あるいは操舵士・水夫・砲手から任命すること。国家がもしこれらの人の地位を向上させたなら、艦船の建造と火砲の製造という新式軍事を熟知した人材と軍隊を一つ作り上げられます(「籌海篇三・議戦」)。}
{ その3。造船向上と造兵工場の建設は、民用工業を開設するのと一体でなければなりません。}
{・・火器局は銃砲を製造するほかに、天尺・千里鏡・火輪機・千斤秤など国が民生を計るのに役立つ品物を量産できます。これと同時に、もし沿海の商人がみずから進んで工場を設立し、銃砲や艦船を製造しようとするなら、それは好きなようにさせます(「籌海篇三・議戦」)。}
{軍事技術と工業技術が、また軍事工業と民用工業が互いに並んで発展していくとする思想を提出したのは、清末においては、魏源がその第一人者だと言えます。}
 {その4。「外洋を守るのは海口を守るに及ばないし」「海口を守るのは内河を守るに及びません」(「籌海篇一・議守上」)。この一種の「守ることを戦争のメインとする」海防思想の提出は、外人の堅固な戦艦と強力な火砲、そして海上での戦争における優勢を回避するためのものです。}
{魏源は有利な地形を選択して内河を要地に拠って守り、堅固な城壁を築き、周辺の敵に利用されそうな建物を破壊して食料を回収し、壮健な兵士を選抜して訓練し、奇兵をひそませ、優良な火器による攻撃に備え、敵を深く誘い込み、その後で砲兵と地雷、水陸にひそんでいた奇襲部隊を使って外国の軍隊を攻撃します。この種の戦法を採用すれば、こちらの長所によってあちらの短所を攻めることができ、たとえば「落とし穴を作って虎を待ち、あみをしかけて魚を待つ」のと同じになり(「籌海篇一・議守」)、敵を死地においこめます。}
{魏源は『海国図志』巻84から巻93にかけて、当時の国内の有名な軍事技術者の研究成果、とりわけ西洋の銃砲・艦船と水雷や地雷について初歩的な研究を行っている状況を収録しました。}
{『海国図志』が世に問われて後、当時の国を愛する将兵・役人と文人・学士のなかに、強烈な影響を生み出し、彼らに堅固な艦船の建造・優秀な火砲の製造・精強な兵士の訓練に着手させて、中華民族の独立と生存を守ろうとする気にさせました。}

{『海国図志』は東の日本に渡ったあと、日本の維新派に歓迎され、明治維新を発動させる理論的根拠の一つとなりました。}

明治政府の、富国強兵の論理の原点がありました。

[153] 基本。 2007/01/05 13:08

>>151-152
> 外国に学んで外国を制することを
それは、実は机上の空論であり、「外国は肝心なことは教えない」と言う「高山」なのです。
結果、武力で対抗しようとした中国は、列強からの分割支配を受けることになります。
日本も、はじめは武力で対抗しようとしますが、完膚なきまでに負かされます。

奴隷貿易の輸出国アフリカでそうであったように、同じ民族どうしが武器を買い争って、闘いあえば、どうなるのか。

おやさまは、「内蔵の三年」、理とひながたで世界をたすけるという思想を、先ず体現しています。

中国の王朝は「天命」により王位について、人民を奴隷として来た。
英国の王は「神授」された権力を「国会」に与えて、自国民には繁栄をもたらすとして、異教徒の植民地は、奴隷として支配してきた。
おなじ因縁の構造の中で、あい争いあう権力と権力。
いずれもが、「学問」により、「技術革新」により、特権的幸福を維持しようとするものたち。

天の理をとく、おやさまは、人間が元々の神の魂の、清らかな存在に復元する道筋を、まず、じっくりと、身につけて、「家業第一」という、自然で人らしいありかたを、中山家に実現した行く事を示しました。

夫婦親子からの、ささやかなまことの道が、何よりもの、陽気暮らしへの道であると、示されました。
それが、五十年のひながたのみちの開始でした。

おなじ三年の間に、まるで違う方向を向う、
中国の専守防衛論的富国強兵政策は、結局、清朝の崩壊にむかって、日本の富国強兵も、結局天皇神格制の崩壊にむかった。

ユダヤ教の思想は、「実学とマジック」にあり、それは「経済第一」と言う思想であり、「マジック」は、あくまでも、「経済」のための武力に過ぎない。
その「西欧」の原理原則を、きちんと把握していなかった結末と言うしかない。

逆に言えば、「自国・自民族」を愛していて、大切にしていると言う点では、西欧の思想は勝っていたといえる。
その分、異教徒・異民族には、むごかったのだが・・・。

[154] 基本。 2007/01/05 16:23

商人の発想は、商売にある。
経済と言うものを思想の根底においた西欧社会と、「統治・支配」を根底に置いた江戸幕府社会では、国力と言うものの認識が違う。
武力と言うのは、ある意味では「必殺技」のように見える。
しかし、経済力と言うものは、その元の基礎体力である。
幕末の日本に対して、欧米が思想支配、武力統治に踏み込まなかったのは、日本には、「寺子屋」「私塾」が全国規模で展開されていて、欧米式の学校を西欧主導で行うことは、容易ではなかったからである。
士農工商の下級身分に置かれた「工商」の立場のものが、学問をし、一定の文化・教養を身につけていたという事は、それを思想支配するという事は容易に出来るものではない。

そして、経済的には、日本は問屋制家内工業の発達著しく、事実上経済は自由化されていた。
薩摩、長州が財をなしたのは、「密貿易」の利益によるものであり、そこには、経済行為の基盤があったと言うことである。
英国に単を発した産業革命は、機械化による大量生産を可能とし、生産者を富める者とそれに隷従するものとに分離した。
資本家と労働者と対比されるものも、元は同じ程度の生活水準の生産者であった。
しかし、産業革命は西欧社会の構造を格差拡大著しく変化させた。
毎日を、陽気に遊んで暮らす「貴婦人たちとそのとりまき」を産み、彼女たちのドレスとティータイムの為に、「アヘン戦争」を起こしたのも、経済のためである。

おやさまは、元の理の話の中で、「柿と栗」という話をされている。
神は陸住まいの人間に、「柿」と「栗」を食物として、与えるよう守護されたと言う。
そしたら、人間は「柿の木」は自分のものだと、「垣根」を拵えた。
また、「やりくり」をして、「富の蓄財」をした。
そして、この世に、「八百八段」の差別が出来たという。

植民地とは「垣根」である。
経済支配とは「やりくり」である。

甘い果実を永遠に「陽気に貪ろう」というブルジョアの思想。
それが、この世に新たなる大きな差別を産むと言う時代であった。
おやさまは、「内蔵」にこもった。

隣国、中国清王朝の優秀な官僚は、
>> 152
> {造船所と火器局を建設し、アメリカ・フランスの技術者を広東に招聘して銃砲・艦船を製造します。同時に有能な職人や壮健な兵士を派遣して、アメリカ・フランスの技術者のもとで欧米の艦砲の製造法と使用法を学ばせます。このようにして数年を経過すれば、西洋の特技はこちらの特技となってしまいます。}
>>151
> {一つ目は戦艦、二つ目は火器、三つ目は兵士を訓練し兵隊を育成する方法です。国家の武備を振興するには、西洋の戦艦の建造・火器の製造・そして兵士の選抜と訓練の方法についての理解と学習が必要です。}

モーゼの思想の大前提は「経済」にある。
西欧列強は経済を近代化していた。
このことは、林則徐や魏源には理解されていなかった。
「自由と平等」を説く社会が、なぜ他国に侵略をするのか。それは、「経済的特権の拡大」にあるのであり、経済的弱者の経済支配にある。
その、根底を見落としていたのは、彼らが経済人ではなかったからです。

日本は、経済戦争と言う現実の前に、敗戦しました。
二宮尊徳が教えた、勤労の精神を、真の国力に変える事が出来なかったのは、日本の財閥と結びついた軍部の支配が、国や民族に優しくなかったからと思慮されます。

おやさまは、「家業第一」という、「はたらき」の思想を、「人間がこの世に生まれた理由」と、示しました。
そして、人間の「欲」の中の、善としての「欲」ではなく、「埃としての欲」を、「欲に切り無い泥水や」との視点から、人間の夫婦親子単位の「家業」という最も自然な経済行為の、構築から、説き起こされました。

宗教家は、「神事」・「神への行事」としての「つとめ」を説きます。
しかし、つとめとは「勤め」。
「勤皇の志士」とは、「天皇に勤める志士」と言う意味です。
おやさまは、「理に勤める」、「天理王の務めの志士」を、求めておられて、それは、小さな家業から、小石を集めて、巌石となすような、大望の道でした。

[155] 傍陽気 2007/01/07 09:14

お筆先解釈の、にほんとは、教祖の思想の治まった地、から(唐)とは未だ治まっていない地という事から、そのような先入観で基本さんの語るおやさんの思想を読んでいては理解できないようです。唐人とは、西欧思想そのものだと、唐とは西欧そのものだと、混じらせず文字をダイレクトに読まなくては解らないとやっとここまでです。

[156] 傍陽気 2007/01/07 09:21

西欧列強の奴隷生産の思想を借りた明治維新、尊皇攘夷という思想そのものが、唐人のそのものであったと、やっとここまでです。

[157] 傍陽気 2007/01/07 09:51

しかし、天保の飢饉、大塩の乱という江戸末期の時代背景は、鎖国と言う国策そのものの大転換を迫られていたと思います。そういう意味では開国は、ペリーによって迫られましたが、時代が迫っていたともいえると思います。そして、西欧と手を組む、にほんのじを守るために避けられないことであったのではないでしょうか。基本さんが言う、日本の家内工業は当時既に成熟していて、というのはちょっと違うと思うんですけど。

[158] 基本。 2007/01/07 11:36

>>157
http://www.econ.aoyama.ac.jp/~rmiwa/lec/jphist/8.htm
ここに、要約がありますので、引用します。
{ 1 幕末の経済発展段階と世界経済
幕末の経済発展段階  鎖国下の商品経済の発展
三都(江戸・大阪・京都)を中心とする全国的商品流通が展開
地域的商品経済も展開
マニュファクチュアの存在 織物業・醸造業・製糖業・製鉄業・鋳物業など
マニュと問屋制家内工業の併存の事例
機屋共ハ、銘々機織女並糸繰紋引等大勢召抱、渡世仕、・・・」
〔上州足利郡機屋共始末書付(1835 天保6 年)〕  }

日本経済の未成熟を指摘する別な見解もありますので紹介します。

http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_1161533007/content.html
{ 日本でも幕末から明治初年に紡績や製糸業などでマニュファクチュアが形成されたが、産業革命を準備するにはいたらなかった。}

全体像から言えば傍陽気さんが言われるように、日本経済は英国ほどは成熟していなかったことは、ご指摘のとおりだと思います。
しかし、幕末期には、日本は工業製品で貿易黒字国であったと言う時期の例もあります。
その事は、桐生の問屋の実例を含めて、>>48>>49 に、紹介しましたが、尾張地域の実例などを踏まえて、「マニュファクチュアの進展」説を、基本は採用しています。

http://www.geocities.jp/hatm3jp/069.html#6
{[開国の影響] A マニュファクチュアの進展 }
{ 日本では、江戸時代後期にはマニュファクチュアの段階まで進展していた。}
{ 工場内での分業と並び、材料調達に当たっても分業が成立していることが大切である。}
{ 尾張中島郡は、綿織物のマニュファクチュアを成立させていた地帯であったが、ここでは岩倉、一宮、尾西で役割分担をしている。
・綿織物の原料である木棉栽培は、島畑地帯の岩倉あたりでおこなわれていた。島畑は大河川流域に展開している地形で、川の氾濫で土砂が流れ込んでくるため、田の中に島状に畑が形成された。畑に肥料を与えると、これが田に入って土地が肥えてゆき、生産効率がよかった。
・岩倉の木棉は一宮の三八市に売りに出された。これを買って手紡ぎで糸にする農家が一宮あたりにはたくさんいて、また市に出していた。これを尾西方面の村が買い、マニュファクチュアで生産した。繊維産業は、糸が切れると困るため、河川流域の湿潤なところが産地となる。
・尾西の中心の起では、当時は5軒に1軒は織り屋であり、10台の織機を入れて10人くらいの織り子を雇っていた。織り屋の中では、染色、経糸を織り機に掛ける整経、横糸を糸車に巻く仕事、織る仕事というように分業されていた。
・マニュファクチュアの段階まで生産形態が進んでいれば、資本主義経済に転化するのは容易。工場、労働者は揃っているため、機械を導入するだけでよい。機械導入で大生産に移行する直前の形であると言える。
・この時期、インドは植民地となり、中国は半植民地となった。日本が平気だったのはそのためだという説がある。}

[159] 基本。 2007/01/07 12:25

>>157-158
> 日本の家内工業は当時既に成熟していてというのはちょっと違うと思うんですけど。

ひながたに於いては、おやさまは、「糸つむぎ」をされています。
これは、「問屋制家内工業」の一作業工程です。

又、中山秀司が、中山家として取引していた相手に足達重助さんがいます。娘さんが足が立った人であり、中山家にお金を貸した資産家です。
>>60-61  参照下さい。
高野友治先生の著作・ご存命の頃には、文政元年の出来事として山辺郡での「菜種油」の商売をめぐる騒動が書かれています。
菜種油とは、商品作物です。幕府から許可を得た問屋が商売をしていたが、その生産方法は、問屋制家内工業でしょう。
その流通の支配を幕藩体制が行っていておきた騒動があったと言う事です。
その、菜種油で儲けたのが足達重助であったわけで、生産システム、流通システムの土台があったと言う事です。

そして、封建時代の幕藩体制化に、自由に往来できた宗教家業の関係者が「商品作物」の流通に関係したことの、事実もそこには触れられています。
養徳社刊・高野友治編「天理教史参考年表」には、周辺事情として要約が整理されています。

植民地支配の、支配の目的は「経済」にありますが、1600年の東インド会社設立以来、西欧の方法は、モーゼの、旧約のパターンです。

強大な軍事力を先ず誇示します。それを大前提に、
�、おはらいさんを降らせる (>>1 参照) つまり、宗教の布教。ありがたさの普及。神の愛と死後の世界の幸福と言う、二元論を流布する。
�、科学力を土台としたマジックを見せて、武器を売りこむ。国内の分裂。内戦の誘発。分割統治。又は、貿易による利益を、その国の支配層のみと享受する。
�、教会・学校などの教育文化の侵略。

このようにして、思想奴隷であり、経済奴隷である債務奴隷の道に導いていくのです。
それは、死後の神の国にいざなう行為そのものですから、罪悪感すらない。
戦国時代に、イスパニアやポルトガルの宣教師が、日本に対してなした事もそれでした。現実に日本の子供は奴隷として売られたいました。(>>27 )
> �.日本の奴隷制 http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-16-5.html

しかし、目的は経済的利得にある。
日本が、経済システムを構築していた事は、西欧の侵略支配方法そのものに大きな「盾」の役割を果たしたという事は、間違いないことと思います。

足達重助さんは、菜種油の商売で幕末に利益を上げていたとあります。
そうした、自衛農家の中の豪農と言うものは、問屋制家内工業に関係していたものが大勢いて、自由経済を求めて、明治維新には倒幕に意見を集約していったと思います。

[160] 基本。 2007/01/07 13:06

>>157
> しかし、天保の飢饉、大塩の乱という江戸末期の時代背景は、鎖国と言う国策そのものの大転換を迫られていたと思います。
>
世界史全体の流れとして、つまり、月日の示すものとして、経済の自由化と言う大転換の旬が到来していたと、
それには間違いがないと思います。
鎖国とは、元々西欧からの宣教師の布教を邪魔するための制度であり、又貿易を幕府が管理する事で、幕府の支配体制を保持するためのものでした。

織田信長は、宣教師の本質を見抜いたと思います。
秀吉は、自ら朝鮮出兵して、西欧と同じ事を試みていますが、支配とは思想と経済。これを理解できていなかったのではないかと思います。
家康は、徳川の幕府安泰の為に、鎖国した。
それが、時代の流れによって、開国を迫られたという事は、言えると思います。

> 時代が迫っていたともいえると思います。
これは同感です。
しかし、
> 西欧と手を組む、にほんのじを守るために避けられないことであったのではないでしょうか。
これは、江戸幕府のとった開国そのものを指しているとすれば、「開国は仕方なかった」という事になります。
「開国」は、「西欧と手を組む」とは、一寸違うと思います。

手を組もうとしたのは、長州であり、薩摩であり、「尊王攘夷」転じての「維新開国派」であって、手を組もうとして、「拒否」されています。
「野蛮人が何を言うのか」と。

鎖国は国際感覚を鈍くします。
織田信長のように積極的に接触しながら、本質を見抜いた感覚がない。
いつも自分たちが上位にいて、管理する貿易に慣れてしまった清王朝も江戸幕府も、「自由貿易の恐ろしさ」に気が付いていなかった。
経済支配は、思想支配よりも恐ろしいものであるという事に気が付いていなかったと言う事です。

相手を「夷」とさげすむ思想で貿易をしていたものが、今度は自分たちが「野蛮人」と言われた。「未開人」と言われた。
これは、実は「西欧の価値観」の押し付けなのです。
現実の日本には、よりすぐれた思想もあり、マナーもあった、
「利休」「世阿弥」「管弦の道」「和歌」「俳句」「古謡」「俗謡」「武士道」「柔」「囲碁」「将棋」「歌舞伎」「山水」「花鳥風月」「禅」「真言」「南無阿弥陀仏」。
「人情噺」「世話噺」「落語」「漫才」「三味線」「和太鼓」「舞踊」。
何一つ、卑下するところの無い、繊細で心豊かな日本の文化。
おやさまは、「とふじんコロリ」を待つ思想です。

野蛮なのは、他民族すらも支配し、楽園にしようという「唐人の思想」そのもの。
それは、「唯一の思想にて支配しようという・カルト」。
この、こころの空虚を、「たすけたい」と言う思想こそ、おやさまの求めていたものでした。
手を組むと言う思想は「唐人」には無いものでした。

[161] 基本。 2007/01/07 13:30

>>157-160
現実を見てみましょう。
西欧は、イラクでイラクの支配層に、「大社・高山」に「自由平等への変革」なんか、求めていません。
経済的な、「利得」を保障してくれるなら、その政治体制には干渉しません。
今回アメリカは「フセイン大統領」を死刑に誘導しました。
失敗例です。
普通は、アラブ社会の古い「野蛮な」と言いたいはずのシステムには、異議を唱えていたら、商売にならないから、言わないのです。成功するには、従わせて利用する。これです。
「火」を見せて、「砲火」するぞと見せて、従うなら、「隷従の感覚で」債務奴隷として、従わせる。

これに、対抗しようとすると、武力侵略をするけれど、目的は「経済支配」にあるから、やがて市場であり消費地、消費者になる、原料供給者になるというものは、活かしておくのです。

日本の戦国時代、幾ら戦争をしていても、相手の農地を耕作不能にすると言うような戦法は取っていません。
それとおんなじで、「経済が最優先」するのが、西欧の思想です。
それ故に、従わない国となれば、「カルタゴの農地に海水をまいて耕作不能とした」という手段に出ます。

日本の減反政策は、アメリカの意思で、食品の自給率を日本は押さえられているのですが、それはつまり、「完全に従っているとはみなしていない」という意味です。

日本が、健全な経済を構築する事で列強と伍する道こそ、おやさまの求めていた思想では無いかと思います。
つまり「和魂・和才」です。
元々、火薬の発明も西欧ではありません。
インド、中国、メソポタミアの文明から学んで、「実学」としての蒸気機関・印刷、に到達し、その「経済」での「産業革命」が、西欧の「強者」の部分であったわけです。
その経済の構築とは、西欧が自国内ではそう近づいていたように、「自由平等」と言う「人間性の尊重」から生まれるものです。

おやさまの、見ていたものは「子供の出世」です。「子供の成人」です。
ゆたかを生み出せるのは、「政策」でも「研究機関」でも「特権的保護」でもない、人間の心のじゆうにある。

「じゆうよう自在とは どこにあるとは思うなよ ただ面々精神ひとつの理にある」

それを、日本人一人一人が自覚する時、「家業第一の夜明け」がくるのだと、おやさまの思想は告げています。

[162] 基本。 2007/01/07 18:35

>>161
おやさまの女性の弟子で、明治7年に入信した「増井りん」と言うお弟子さんがいました。
その人の書かれたものや、残された講話が道友社新書に公刊されています。
おやさまの膝元では大変な苦労難儀をされた方ですが、次のような一文があります。
『現在の詰所(信徒の宿泊施設)のようなものを拵える必要がありましたので、中川嘉平さんの、西の隠居を拝借しましてそれにあてました。
・・・
ある年の、おおつごもりの日も、私の手元には五銭しか残っていなかった事がありましたが、それで正月の台所のきり廻しをしようとするのですから、普通から考えたらちょっとした心細さや不足心が出るものでしょうが、しかしその当時は勇み勇んだものであります。』
と、その当時の中山家のお屋敷の財政事情が困窮していたと言う記述がありますが、その後に、こんな一文の記録がありました。

『河内の家に言ってやれば、驚いて随分持ってきてくれるのですが、それでは不足になる。不足心は堅く神様から戒められていましたので、どんな心細い時になっても心楽しんで通らせて頂きました。』

つまり、増井おりんさんの河内の実家では信者詰所の施設の運営費などは調達可能なほどお金は何時でも出せたと言うのですが、その、増井りんさんは「信仰者」として、お金を河内から運ばせたら、神様、増井りんさんの「神様」は、「今のおやさま」ですから、神様=おやさまに、戒めを破ることになると運ばせなかったと言うわけです。
つまり、不自由を楽しまないで調達する信者のお供えを、おやさまは、嫌がっていたと言うことなのですが、後家さんの増井家にどうしてそんなお金があったのか。

増井家は、代々村の年寄り役を命じられていた。名字帯刀を許されたほどの旧家で、大地主であった。その家の跡とり娘でした。
明治5年に、りん30才の時に、父と夫が死にました。
明治6年に、りんは、「りゅういんしゃく」と言う病名で、「後三年の命」と宣言されました。
明治7年に、りんは「そこひ」にて、目が見えなくなりました。
子供たちはまだ10才以下です。

そして、明治7年にたすけられて、入信してからは「信心」に夢中です。三年は布教布教の日々といいます。
そして、明治10年には、おやしきに住み込みました。
お金を誰がどのように、稼いでいたのでしょうか。

道友社編「誠真実の道・増井りん」には、このようにあります。
『父にしなれ、夫に先立たれた私は、当時三人の子供を抱えて、一時途方にくれたのですが、何とかして子供だけは一人前に成人さしてやりたいと決心いたしまして、さっそく家の整理に取りかかりまして、農業の方は大部分人手に頼み、また油商の方も、それぞれ整理してやめてしまいました。』

つまり、増井りんさんの家は、幕末の豪農で、「地もちで」「油商売」をしていた、中山家や前述足立家と「おんなじ因縁」だったと言う事です。
それは、システムとしての「問屋制家内工業」であったという事に理解されます。
農業は、「人手に頼み」ですから、「小作」或いは「賃貸」だと思われます。

江戸時代の幕末の豪農は、子供を教育しています。
りんは、6歳の頃から大県村の学者小山千斉と言う人に読み書きを習ったと言います。
12歳には裁縫の先生から教授を受けています。

システムが利益を上げていく、その素朴な形態が「問屋制家内工業」です。
機械化されて、産業革命になる。
その原型の形態として、流通生産、各々の分業システムが確立してあるなら、後は、機械の導入だけの問題と言う事です。
幕末から明治には、綿工業、油製造などで、豪農はシステムとして利益を上げていて、学問も普及していたと言う事です。
それが、それが「格差拡大」に向けて、明治政府の人為的な産業革命が実行されたこと、残念です。

[163] 基本。 2007/01/07 19:24

おやさまは、明治2年のおふでさきにて、
 なににてもやまいいたみハさらになし
 神のせきこみてびきなるそや     二号7
と、知らされました。

茶摘の八十八夜の往還道の予言のすぐあとのお筆先です。
これは、「勤めの人衆」が欲しいからだとの意でした。

おやさまの弟子に山本利三郎という人物がいます。
山本家は、牛二頭を飼う大農家で「綿商」をしていた。屋号は「綿利」です。
明治6年に、おやさまにたすけられた話は、逸話編にあります。
{国の掛け橋 逸話篇33}
{「この屋敷は、人間はじめ出した屋敷やで。生まれ故郷や。どんな病でも救からんことはない。早速に息子を連れておいで。おまえの来るのを、今日か明日かと待っていたのやで。」}

これも、豪農の綿商、つまり、問屋制家内工業の産地問屋と思慮されます。

{教祖は、「案じる事はない。この屋敷に生涯伏せ込むなら、必ず救かるのや。」と、仰せ下され、つづいて、}
{「国の掛け橋、丸太橋、橋がなければ渡られん。差し上げるか、差し上げんか。荒木棟梁 々々々々」
と、お言葉を下された。}

念の為に、申しますが、おやさまが「待っていた→利八」。「生涯ふせこむのやで→利三郎」と、理は明確です。

おやさまは、おやさまの為に「勤める」人材を求めていた。
それは、一人は「山本利三郎」さんの例に残されているわけです。
「国へ橋を架ける」とは、おふでさき二号全体の趣旨としては、「高山」への匂いがけ、であることは明らかです。
そしてそれは、「経済としての組織の母胎」なくしては、不可能であることは、おやさまのご承知の事でした。
明治維新革命が成功したのは、幕末の「豪農」階級を、おはらいさん効果で支持者にしたことです。

大戦後アメリカが農地解放をして、日本の大地主を解体したのは、日本の国力の元が「豪農」にあった事を経済として理解していたからです。
その、豪農と言うのは、産業の基盤となり産業革命の中核を為すという事の意味と理は、おやさまの弟子たちには、まるで理解されていませんでした。
「利八」は経済行為をし、「利三郎」はおやさまの思想活動をする。
このバランスこそ、最初のおやさまのおさとしの意味と思慮されます。
国の改革は、経済行為によってなされる。
これは、おやさまが、示していたものです。
「いつも豊年教えたい」。この思想は、単に拝み祈祷として「豊年を神にすがれ」と言うものではない。
人間を債務奴隷にしない形での、差別無き経済体としての『家業』の存在が、この世を変えると言う、空前絶後、誰一人として説いていなかった思想。
人間の個々人の、嗜好と思考と経済行為の集積が、自由な発想が、この世界に満ち満ちるという、人間の「はたらく世界」。

まだだれも見たことの無い世界に、国の橋をかける使命。
「荒木棟梁、荒木棟梁」。

前人未到の、「経済体としての個人の価値」そのものの開放を唱えたおやさま。
山本利八が、山本利三郎が、「宗教家業」に固執して、「道」を忘れた。
それは、増井りんさんも同じで、天理教大県分教会を設立していますが(後の大教会)、嫁さんが死んで、信者の間にゴタゴタが出て、神殿普請の借金に負われて信者も寄り付かなくなっています。

おやさまは、(可哀相に)、
だれひとり私を助けてくれるものはいなかったと、言われています。

「家業」を第一に興隆させて、その経済活動の中での「働きと遊山」。

これを説けないままに、天理教会と言う集団は神道の思想奴隷と堕落した戦前の道。
宗教の悪いんねんを切るどころか、はまり込んだ理の親信仰の道。
階級社会。天理教と言う、恥。
いんねんを切らねば、「家業」を起こさねば、おやさまをたすけるものは、今も、誰一人もいない事になります。

[164] 傍陽気 2007/01/08 02:46

>大戦後アメリカが農地解放をして、日本の大地主を解体したのは、日本
>の国力の元が「豪農」にあった事を経済として理解していたからです。
>その、豪農と言うのは、産業の基盤となり産業革命の中核を為すという
>事の意味と理は、おやさまの弟子たちには、まるで理解されていません
>でした。

富国強兵の中核となった豪農のその中心、財閥の解体は、アメリカが戦後日本の統治を目指した政策であったと思いますが、これもまた、月日の為した業だと思います。尊王攘夷、そして富国強兵へと突き進んだにほんに唐の思想を持ち込んだ高山は、逆にその思想によって、月日の返しとして、人間宣言、財閥解体と形からでもろくじの方向に、守護されたのだと考えます。

[165] 傍陽気 2007/01/08 03:39

西欧と手を組む。それは当時の軍事力の歴然とした差から、日本の選択した事で、薩長が選択したことであったのではないでしょうか。ロシアの皇帝?を迎え入れたり(何者かに殺されましたが)しましたよね。近代化の為に受け入れたと、そのように考えられるのではないでしょうか。当時まだ日本と言う国家と言うものは存在せず、列強は植民地にしようにもできない。そういう状態であったでしょう。

しかし、その思想までも習おうとした日本の中のとふじん達では無かったのでしょうか。よく考えれば日本と言う国が生まれたその時すでに、唐人は日本の地に入り込んでままにしていたと考えられますね。

[166] 基本。 2007/01/08 03:44

>>164
> 財閥の解体は、アメリカが戦後日本の統治を目指した政策であったと思いますが、これもまた、月日の為した業だと思います。
>
人為と、成ってきた理とは、雲泥の相違と思います。
アメリカが解体しなくとも、それは必然として解体されたものであるでしょう。
しかし、アメリカが解体したと言うのは、プロパガンダであり、例えばアメリカに市民権を移して経済活動を維持した財閥もあるように、「財閥の延命」と「アメリカ経済への追従」の誘導に過ぎないと思います。
月日は、つまり、おやさまは、そうした人為はお嫌いであり、「作り策」として排除すべきものです。

日本に平和と民主主義をもたらしたという、プロパガンダも、西欧流の「お払いさん」と、理解します。

日本は、共産革命中国・共産革命ロシア・共産革命北朝鮮の思想侵略の防衛ラインとして、南朝鮮とともに、要所にありました。
旧約聖書・新約聖書そのものを、真っ向から否定する「共産思想」は、ユダヤ人の思想家「カール・マルクス」が、「資本論」をあらわして世に出ました。
http://nun.nu/ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9#.E7.94.9F.E6.B6.AF
{資本主義はカール・マルクスが著書『資本論』の中で定義した。一般に誤解されているが、マルクスは資本主義の矛盾・問題点に目をむけて研究を進めていたが、資本主義そのものは社会の生産性が高まる必要な時期と捉えており、資本主義が成熟し、やがて共産主義へと移行すると考えていた。}
共産主義は、何よりも宗教を否定していた。
西欧の価値観を根底から覆すものであった。
それが、ロシアの共産主義革命で、世界革命思想として抑圧されていた国家の思想基盤となる国が現れた。

日本は、米軍基地の国として、必要とされ、そのために占領政策は融和の色が濃いと言うだけの事で、アメリカは、財閥に自由主義の「首輪」を付けたかっただけと見ておかないと、「作り策」のプロパガンダに欺かれると思います。

農地解放も、農家を解放し救ったと言うものではない。
経済的・経営的にみれば、農業経営が著しく非能率的なものになってしました。
結果的に食えなくなった農家からは、工業労働者がうみ出されました。
朝鮮動乱の特需で日本は景気が好転し、労働力を彼らが支えています。
その分、農家は、疲弊し、保護なしではやれない農家が大多数となって行きます。

見出しと見かけでは、アメリカは財閥解体、農地解放。
実態は、アメリカによる経済支配。日本農業の零細化。
それが、丸ごとアメリカの意思のままにならなかったのは、「信用保証制度」という、世界に無い、日本独自の制度によって、「中小企業」というものが、数々生まれ、日本経済の中核として発展したからです。

> 財閥の解体は、・・・これもまた、月日の為した業だと思います。
それは、月日の意図だと思いますが、月日がなしてはいません。
それが証拠に、財閥は、今も日本経済の頂点にいます。

[167] 傍陽気 2007/01/08 03:48

近代国家日本を、と言うのは、唐の思想そのもので、教祖が公認を願うことを許されなかったのも、当然ともいえますね。教祖の思想には、くに・国と言う思想はなく、ただ、にく・肉体とこころ・精神のみがこの世を立て替えられる元立てなのだと、そう思います。

[168] 基本。 2007/01/08 04:54

>>165
おやさまは、「日ノ本 庄屋敷」と言われていて、おふでさきには「日本」とありますから、
> 当時まだ日本と言う国家と言うものは存在せず、
> 列強は植民地にしようにもできない。そういう状態であったでしょう。
との認識は、維新当時の状況において生まれた思想に感化されていると思われます。

戸籍を作成し、口分田を国民に与えたとき、大宝の律令の制定時には国家・日本は存在しているわけです。
鎌倉幕府が、義経を探索のために全国に探索機関を設置しているように、日本は、一国であった。
それが、室町幕府の時代に、群雄割拠する状態となり、「戦国乱世」で、天下統一をしなければ、国として一つではない状態になった。
それを統一したのが、信長・秀吉・家康。
秀吉と家康は、検地をし、戸籍を整備し、統一国家を作っています。
日本国というのは、秀吉の頃には、対外派兵している国家です。

その国家の統一を、幕末の頃には、「密貿易」事実で破綻させていたのが、長州・薩摩。
汚職で腐敗していた老中たちには、取り締まる能力すらなかった。

幕府は、英国のアヘン戦争勝利を知って、うろたえつつ有能な人材の登用を行い、フランスと手を組んで、兵制をフランス式にしていこうとしました。
これに対して、イギリスと組んだのが長州。維新軍はイギリス型。
そのまま戦えば、イギリス仕込みとフランス仕込みの、戦争になる。
つまり、日本の国は、一国ではなくなる。

そこで、勝海舟と西郷隆盛が、「将軍が大政を天皇にお返しする」という、内戦回避の策をとり、徳川慶喜が、無血で、江戸城を明け渡したのです。
日本は一つの国家。
それは、国民に定着していた意識であり、明治維新が意識を一つにしたのではありません。

そして、これは重大な事ですが、
幕府がフランスを頼り、長州がイギリスを頼った段階では、内戦寸前、つまり「植民地」状態一直線のコースにいた。事です。

幕末からの日本は、国家として立派に存在していた。
それを、内戦を起こさせる事で植民地にするのは、インドで、イギリスはしたこと。裏守護の仏教の地で、してきた事です。

奴隷貿易をしたアフリカで、英仏のした事。アメリカの奴隷は、西欧により作為されたアフリカ人どうしの戦争で、武器を売っては仕入れたものです。
現在のイラクでもアメリカは内戦を起こさせている。
武器商売も含めて、内戦を起こさせるのは、支配の、テクに過ぎません。

大切なのは、「にほん」はあったのに、唐人を受け入れたのは、「経済行為」の為です。

アメリカは植民地時代、煙草を栽培していました。
日本では、煙草を売る事で、もちろん密売に当たりますが、諸国に出入りし、商売と情報収集していた藩があって、その、密輸と煙草販売の金が維新の活動の調達の原資だったという、事情。

冷静に考えてください。
国体を破壊していたのは、一方に腐敗した賄賂の幕閣。
国体を破壊していたのは、密輸と、ご禁制品の全国販売。

フランスは、幕府についた。武器を売った。
イギリスは、勤皇についた。武器を売った。

そのとき、将軍は天皇に無血で明け渡した。
こんな事の出来た国は、世界に例が無い。

それは、日本だから出来た。
文化国家だから出来た。
それも、国を思うトップだから出来た。
その無血入城の段階では、唐人のままではなかったということです。

が,維新の現場では、白虎隊の死を生み、大量の血を流しての、戊辰戦争を、行い、京都島原での維新の志士の実像を知る、「会津藩」殲滅を行っていきました。
こちらは、とふじんの思想。
フランス仕込み対イギリス仕込みの、戦争でした。
合図藩の戦死者の埋葬も認めなかった。数ヶ月も野ざらしにした。
この事実が、「唐人の思想」そのものを示しています。

[169] 基本。 2007/01/08 05:07

>>167
> 教祖の思想には、くに・国と言う思想はなく、ただ、にく・肉体とこころ・精神のみがこの世を立て替えられる元立てなのだと、そう思います。

この事は、元の理のこふき話と関連しますので、国とはなにか、そういう思案になります。
つまり、
> 教祖の思想には、くに・国と言う思想はなく
とは、言えません。
「国とこたち命」とも、「国見定め命」とも、神名を教えられています。
つまり、「国」というものは、おやさまの思想にはあると言う事です。

おやさまの思想はおふでさきとひな型の厳密な考証で確認する。
それが基本です。

> ただ、にく・肉体とこころ・精神のみがこの世を立て替えられる元立てなのだと、そう思います。
>
この事は、基本的にはそうですが、「時間・年限・旬」も加わります。

そして、社会の中での「普通の生活」がひながたです。

[170] 傍陽気 2007/01/08 14:02

家業第一を思想として説くおやさまが、豪農と言う資産家をひながたにて道具に使われたのは、よふきの世へのこふきの入り口であったといふことですね。こふきとは口記と二代真柱は説かれています。天理教という思想を信心するなら、その話しの台を先ずは作る事から始めて欲しいというのが、おやさまの思想の根底にあったのでしょうか。

ひながたにおいての、日本人の国家観はよく理解できました。ありがとう。

[171] 基本。 2007/01/08 21:53

>>170
> 豪農と言う資産家をひながたにて道具に使われたのは、よふきの世へのこふきの入り口であったといふことですね。こふきとは口記と二代真柱は説かれています。天理教という思想を信心するなら、その話しの台を先ずは作る事から始めて欲しいというのが、おやさまの思想の根底にあったのでしょうか。
>
基本的には、そのように理解しています。
増井りんさんの場合で言うならば、病気をたすけられて自分は「信心」にまい進し、おやさまの元で修行されました。
その間の増井家の家業は、使用人がしていた。
その修行を生かして、増井家の家業において、今度は真から谷底をせり上げる位置に立場を置き換えたらよかったということです。
「おふかん」とは、「王冠」ではなく「往還」と文字を当てたのは二代真柱様ですが、「王冠」の道に出ようとすると、自分が権威になる。
しかし、「往還」とは、往く、還る。
今度は私たちが家業をするから、みなさん「信心」の修行をなさい。
そういう、転換があることを、理として知るべきだったと思います。

増井りんさんの入信のとき、最初の三日のお願いで何の効も無かったとき、信心をためらったときに、使用人が、私が行って確かめてまいりましょうと、言い出して、りんさんの命は繋がったのです。
真の恩人は、使用人さんでした。
文字も書けないので、仲田義三郎さんに書いて頂いて、それを、おりんさんに届けた。

だれが「おたすけにん」であったのか。
使用人の男。無学な男衆。
その、元一日の原点の示すものが、あります。
そして、おりんさんが、信仰三昧出来たのも、経営者の留守を踏ん張った使用人がいた。
その恩は、どうするのか。

おふかん道とは、「王冠」ではなく「往還」である。
おやさまの本当にほしかったものは「口記」の理を実社会に活用し、用いての「(成功の)功記」。
それは、「口記」のみでは、通ったことにならない。
「口記」の理のままに通り、誰もが通れる道として残したときに「功記」となるという、天理があるからです。

「口記」は、例えれば研究機関での理の習得です。それが社会に生かされた時「功記」となる。

天理教の信心の話の台をこしらえて「口記」。
そして、それが里において実践されたときに「功記」。
二つ一つに無ければならないものと思います。

[172] 異端ってまだいたんですか? 2007/01/09 05:36

ひとつの効もみにゃならぬ。

効記・・・
信心して、世界で、里で利益をみる、「こう」をみる。
それが出世でしょう。

[173] 基本。 2007/01/09 13:50

>>172
異端ってまだいたんですか?さん。そうですね。それが出世だと思います。
有難う御座いました。今年も宜しくお願いします。

自国民の、経済の繁栄を第一義に思案する西欧の自由主義は、他民族に対しては、抑圧と搾取という手段に出てしまう。

それは、唐人の思想の中核をなす「幽冥」の思想に真相があります。

ユダヤ人の思想家「カール・マルクス」は、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9#.E7.94.9F.E6.B6.AF
その、宗教観は、あまりにも有名で、
{ 「宗教は、逆境に悩める者のため息であり(中略)、それは民衆の阿片である。」とある }
と、神を抜きにした、経済の原理を説きました。

基本的には、マルクスもフロイトも旧約聖書の世界観・思想観に基盤をおいていると、みなします。
http://kprint.jp/nishigaki/philosophy/1974-2.html
ここに解説されているので、紹介しよう。
{両者の思想にはともに人間学的に共通せるものがあることを指摘するために、その思想の基本的前提を、過去のアフォリズムを利用して表現する。それは次の三つのコトバである。1.すべての事について疑わねばならぬ。2.人間的なもので自分にとって無縁なものはない。3.真実は人を自由にする。}
{マルクスもフロイトも、この自然科学の方法論の基礎を人間学に応用したのてある。詰り、両者の「壊疑はとくに人間の自己と他者についての見解にむけられたのである。」}
{このような懐疑の結果、マルクスはあらゆるイデオロギー、理念、理想等は幻想であり、人々はこのような幻想を持つことにより、現実生活の因難に耐えて来たのてはあるが、これらが幻想である理由は、これらのすぺてが社会、経済的利害を持っておるのであって、マルクスによれば、この社会、経済的構造こそが基本的現実なのてあって、これは幻想ではなく真実以外のなにものでもないのである。}
{フロムによれば、更にフロイトの精神分析的方法全体が懐疑の方法であり、そこから明確になった真実のリビドー構成が基本的現実である、という事実なのてある。}
{マルクスもフロイトも、このような基本的現実を根幹にして理論を組み立てていったのである。それは彼等が「真実は人を自由にする」という信念を持っていたからに他ならない。}
{マルクスは真実を究明することによって、疎外や経済的隷属から人間を解放しようと考えたのてある。その方法論はフロムによれば「広く信じられているような暴力ではなくプロパガンダであるという。}

基本は、「疑う」と言う事で「真理は汝を自由にする」という、旧約聖書の思想の根幹を実は再現していたと言う事です。
形を変えた、モーゼであり、「問う人」であった。

フロイトは、モーゼの出エジプトの行為そのものを「モーゼ個人の精神的素因から分析し、宗教的実験とみなした。
マルクスは、宗教は経済行為によって生ずる痛みを和らげるものと認定し、実は、「経済」こそ人間であるとみなした。

モーゼ自身の、「実学とマジック」のエジプトの神官の要素を、「実学」のみが真実とみなしたマルクスと、「神秘の教義」に潜む精神の奥にに焦点をあてた、フロイト。
その二つは、あわせてしまえば、元の「唐人」の思想に、還元されるもの。
疑うと言う事が、全てであったのは、モーゼ自身であり、原理を示しながらも、空虚と化し、それゆえに、信仰は「権威主義に」陥り、神が保障した「楽園」を、絶えず絶えず求めると言う不毛を産みました。それがキリスト教の政治による「神の国」でした。

ここがこの世の極楽である。
人間は「はたらく」ためにこの世に生まれた。
「人のもの借りたるならば りがいるで 早く返済礼をいうなり」
・・・

マルクスが「プロパガンダ」を用いる思想家であったとすれば、「共産主義」という楽園を『思想実験』的にこの世に作ろうとしたこと、やはり、モーゼの楽園思想そのものということになります。
「階級闘争」という思想も、「とふじん」の思想・・
おやさまの思想には、「なぜ?」はない。
この世は、「理」で責められた合理の世界と言う事です。

モーゼの出生の謎は、つまり、不義の子であったという事。
旧約聖書のイブの犯した姦淫とは、モーゼの母親と王との不倫であり、実は古代エジプトは、乱交の宗教国家であり、それを批判する思想組織が「ユダヤの民」。
そこで、アトン教と言う、「真理と愛」の宗教を純化し、「多淫教のエジプトの王の怒りをうけて、新天地を求めて脱出した。こんな図柄に見えます。

[174] 基本。 2007/01/09 14:28

>>173
しかし、
> http://kprint.jp/nishigaki/philosophy/1974-2.html
> {マルクスもフロイトも、この自然科学の方法論の基礎を人間学に応用したのてある}
この事は、間違いのない事実です。

科学的な分析というものが、二人の思想の基盤をなしているから、普遍性をもたらしているのだと思います。
科学的な分析、
この時、聖書は、新約聖書も旧約聖書も、人間学の原理とはならなかった。
すなわち、阿片であり、痛み止めであると言うのは、人間学の原理になりえないと言う、キリスト教・ユダヤ教への批判です。
現実の社会は経済社会としての人間関係だから、現実を支配している「実」は、「経済」である。
と、そのように説いたマルクスは、その意味では「幽冥の世界」をきちんと否定した。
しかし、旧約聖書の思想そのものを否定していたわけではない。
現実の「経済社会」の債務奴隷を解放しようという、思想を示したに過ぎません。
黒人に対しての発現には、旧約聖書の黒人差別の思想がそのままに、残されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
引用します。
{自身ユダヤ人であるにも拘らず、親友のフェルディナント・ラサールを「ユダヤの黒んぼラサール"Der jüdische Nigger Lassalle"」「頭の格好と髪の生え方からして、奴はモーゼと一緒にエジプトから脱出したニグロの子孫に違いない(さもなきゃ、奴のお袋さんか、父方の祖母さんがニガーと交わっていたということさ)}

モーゼは、古代エジプトの神官として国王に仕える中で、「真理の神」を報じて、絶対的唯一の神を掲げて、二百万人の「イスラエル」を導いて、革命を指導した。
マルクスは、
{産業革命後の資本主義経済を分析し、フリードリヒ・エンゲルスとともに、自らの共産主義を打ち立てた。『共産党宣言』の結語「万国のプロレタリアよ、団結せよ!」}
と、万国のプロレタリアを、「真理の思想・共産主義」を報じて、絶対唯一の「資本論」を掲げて、革命を指導した。

しかし、胸の内は「空虚」であり、モーゼのそれもマルクスのそれも、「真理の実験」であり、多くの「犠牲」を真理に捧げさせたものの、「楽園」は、いまだ実現していない。

一方の、フロイトは、「マジック」という、普通に言うならば詐術の部分の分野に、科学的研究を持ち込んでいるが、それは、逆に、モーゼの「実学による楽園」こそ、嘘である事を見抜く方法であったと思慮される。

古いとの研究は、現実には、人の心の「精神」の問題が、それは「宗教マジック」で癒されているように見えたとしても、その奥深くに深層心理として、行動に大きな影響をもたらしていると、「精神ひとつ」に肉薄した。
経済行為の発生の以前の、幼児期に焦点をしぼり、「性」に焦点をしぼった研究は、それだけに、思想としての「原罪」意識を喚起し、
結局は、モーゼの説いた「原罪・楽園追放」の意識を説いていることになる。

こうして、ユダヤ人の二人の偉大な思想家は、人間に再びモーゼの思想の是非を、世に問うと言う二人であって、階級闘争の思想は、権力の側への警鐘乱打となり、資本論は、「大社・高山」の延命思想に利用され、幼児の性体験の原因説は、結果としてアメリカの幼児の割礼を抑止しておらず、「性」そのものの、「原罪」意識を、背景から煽っている。
二人は、モーゼの亡霊に勝利し得なかった。

おやさまは、
「あしきの事はいわんでな」と「性」の問題は、「悪しきではない」と、明示した。

「悪いことか」と疑い続ける「モーゼ」。
「悪いことの結果として生まれたのか」と怯える「モーゼ」。
宗教は、阿片であり、
「悪いことの結果としての子供を焼き殺して神の犠牲にすれば救われるのかと」と疑う「モーゼ」。

それは、人間の思想に「とふじん」が教え持ち込んだ、「悪しき」である。

[175] 基本。 2007/01/09 15:25

>>174
モーゼは懐疑した。マルクスも懐疑した。
それは真理の探究であり、自分の幼児体験から一貫した精神の抑圧からの開放のためであった。
イエスキリストも懐疑した。

イエスは十字架上でこう叫んで息を引き取った。
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」

これは、懐疑そのものです。

イエスは、出生に秘密があった。
三人の博士が訪問して、処女から生まれたとされて、実は父親の子ではないイエスキリスト。
実は父親の子ではなかった、モーゼ。その人。
そして、旧約聖書には、なお、もうひとり、それを疑うべき人物がいました。
百歳のアブラハムと九十歳のサラの間に約束の子イサク(=「彼は笑う」)が与えられました。
と、生まれた子、イサク。
この誕生の時にも、三人の博士が登場しています。
>>126
> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%82%AF
> [ アブラハムの妻サラは不妊の女であり、子を産まぬまま年老いていたが、
> 三人の人が訪れてアブラハムに子供の誕生を知らせる。その言葉のとおりサラから生まれた子供にイサクと名づけ、イサクは元気に育った。]

こうして、三人には、出生の秘密があると言う事、
それは、「誰の子かわからない」「誰と誰の性行為の結果か分からない」という、しかし、自分は、この世にいると言う。
神の子として、(古代では王の子とは神の子の事です)、存在している。神が奇跡を起こして、生まれたと言う三人は、科学的に検証するならば、生まれたと言う事実以外には、他は証明のしようがない。
つまり、「神のさずかりもの」と言うしかない。

アブラハムの子はイサク。この物語を、神からの奇跡的な妊娠と説く立場もあります。
http://www.page.sannet.ne.jp/mayumy/link21.htm
を参照下さい。
しかし、自分の女奴隷「ハガル」との間に夫との子をつくらせた「サラ」。
それが、第二婦人の「ハガル」の地位が登った事で、私にも子供をと神に願って授かった子と素直に信じるのは「宗教」ですが、基本的には、それは、宗教の方便とみなします。

わざわざ、三人の博士に認証させている事が、怪しいところです。

人間には「経済的存在」としての幸福もある。・・・・マルクス的。
人間には「夫婦の中に生まれた命の存在」としての幸福もある。・・フロイト的。

経済活動以前の、生命のそのものとしての、夫婦親子の陽気暮らし。
そして、経済活動としての陽気暮らし。
そいいう思案に立てば、人間にとっては、「家業」というものが、その人間の存在基盤をきちんと踏まえたものとして、どれほど重大かが見えてきます。

 この世の 地と天とをかたどりて
 ふうふをこしらえ 来るでな

人間には、原罪などない。
悩みがあるとすれば、それは、「地と天」を型どっての「ふうふう」の始まりを、知らないだけである。

真実と真実、真心と真心に、子供はさずかり、生命となった。
「悪しき」の事はなにもない。

おやさまの「家業第一の思想」は、その根本は、簡明です。
「ふうふ揃うての日の寄進」と、言われています。

[176] 基本。 2007/01/09 16:04

>>173-175
> モーゼは懐疑した。マルクスも懐疑した。
> それは真理の探究であり、自分の幼児体験から一貫した精神の抑圧からの開放のためであった。
> イエスキリストも懐疑した。
思想家や預言者や、教祖や、神の子は懐疑したとしても、「権威主義者」は、懐疑しない。
「権威主義」は、モーゼの十戒の思想を、武装して、信じるものを支配し疑うものを攻撃する「宗教」となった。
「権威主義」は、キリストの愛を、教会権威に、武装して、奴隷を生み出す帝国をつくらせた。
「権威主義」は、マルクスの思想を開放の権威として、闘争の組織を世界に波及した。

原理を尋ねるならば、モーゼの求めたものは、民の楽園である。
キリストの求めたものは、隣人への愛である。
マルクスの説いたものは、経済の発展と繁栄の理論としての「資本論」である。

権威主義は「ドグマ」を生む。
改革者がいたことは、歴史上どんな意味と結果をもたらしているのか。
古代エジプトは、モーゼの為に改革されたか。N0、である。
ローマは、イエスキリストの教えで改革されたか。NO、である。
現代は、マルクスの思想で改革されたか。NOである。
逆に、みな、支配層の強化にてこ入れに用いられている。

反して、大塩平八郎や二宮尊徳は、結果として世を改革している。
そこには、嘘が無いからである。

疑いは嘘である。
対して、大塩平八郎の思想行動には嘘が無い。(>>)
二宮尊徳の思想行動にも嘘が無い。(>>)
だから、権威主義とはならない。そんざいそのものが、ろくぢなのである。
日本の思想とは、もともと、隔てが無い。
封建思想の江戸時代の徒弟制度といえども、丁稚がのれんわけされて、店主になることは自然な道理であった。
そこには、嘘ではなく、誠実なものに対する、誠実な評価があった。
井原西鶴の商人の出世話しは、そういうものであった。

しかし、唐人の思想では、その唯一の出口は「唯一の思想」であり、死後の世界においての「神の審判」にあった。
それは、「幽冥」であり、「嘘と嘘」で構築した「神秘」にあった。
つまり、答えは「最後の審判」まで分からないと言う、詭弁があった。
マルクスは、資本主義の成熟した時の共産主義を説いた。
現実は、資本主義の成熟していないロシアで革命として発動した。

経済の成熟の問題ではない、「共産革命」は、血矢の道であった。
「維新革命」も又、経済の後進国での、無理な改革のための、「嘘」・お払いさん、と、唯一絶対の権威を持ち出す権威主義。

対して、元の理の「原理」にて、人間の本質を説くおやさまの思想。

我々は、教条主義になってはならない。
権威主義ではならない。
本来の、「日の本の」おやさまの、膝元の子として、陽気づくめに暮らそう。

それが、おやさまの見たい、我々の楽しむ姿である。

[177] 基本。 2007/01/09 21:02

おやさまの思想は、きちんと確認しないと権威主義に陥ることもあります。
>>1
> 「おやさまの思想」� 念が入ったら血がくだる。
> おやさまは、権力の情報操作に対して、このように思想を示しています。
> 「人間の身体にたとえて云えば、あげ下しと同じようなもの。あげ下しも、念がいったら、肉が下るようになるほどに、神が心配」
> つまり、情報操作も念を入れると、国民の生命にかかわるという思想です。
基本は、これを、日清日露戦争、大本営の設立時の事情と言う、予言として理解しています。
しかし、その未来的な予言としてのものの解釈です。
慶応三年の出来事に即した解釈と言うものも、思想として語られた事実です。
http://www.city.sakurai.nara.jp/rekishi/rekishi02.html
桜井市の記録によれば、
{1867 慶応 3 10 当地にお祓札が降り「ええじゃないか」が流行する。10・14 大政奉還。12・9 王政復古。 }
このように記されています。
つまり、慶応三年の十月におやさまは、お払いさん騒動に対し、
「人間の身体にたとえて云えば、あげ下しと同じようなもの。あげ下しも、念がいったら、肉が下るようになるほどに、神が心配」
と、言われました。
戊辰戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用します。
『戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古で成立した明治新政府が江戸幕府勢力を一掃した日本の内戦。
 1868年の干支が戊辰だったことからこの名で呼ばれる。』
基本的には「あげくだし」とは、情報の操作です。
「あげくだし」を「念を入れる」とは、念には念を入れるということです。

敗者の側の歴史を、見れば、「念には念を入れて」、京都島原での「維新の志士の事実の記録」を消去しようとしていたことが分かります。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/aizu-byakkotai.html
ここに、整理されています。
{孝明天皇について「岩倉(具視)が毒殺」と平然と書かれている}
{「会津藩と新撰組の働きにより一時的に安定をみせた京ではあるが、尊攘派を中心に脅迫と暴行が続いていた。なかでも尊攘派の長州、薩摩、土佐の主導権争いでもっとも力をつけはじめた長州藩の陰謀は過激であった」}
{書籍などでは、(1)について入念にふれているものがあります。}
{以下は星亮一『白虎隊 燎原に死す』からの抜粋です。
「この日の戦争で捕らえられた会津藩兵と仙台藩兵白河某は、松の木に縛られた。薩摩兵が取り巻いて、『会賊より殺せ!』とわめいている。万座がどっと笑うと、一人が抜刀して耳を斬り落とした。次に鼻をそいだ。『ギャー』会津藩兵が断末魔の声をあげるや、一刀のもとに胸を割った」
「敵兵は手当たり次第に民家に押し入り、財貨を盗み、牛馬に満載して、滝沢峠から後方に運んでいる。一面、荒野と化したあちこちに銃弾に斃れた会津兵の遺体が投げだされ、衣服を剥ぎ取られた婦女子が晒されている。自分の妻が、娘が、目の前で凌辱され、ある者は舌を噛み切って死に、ある者は抵抗して殺された」}

{この白虎隊のことをふくめ会津側は、いわば明治新政府に逆らった「賊軍」という扱いをうけてきました。飯盛山の白虎隊の死体も、新政府軍からその埋葬を固く禁じられ、3カ月も野ざらしにされていました。じっさい、靖国神社には、このときの会津軍の犠牲者は葬られていません。}

会津討伐は、これは、板垣退助指揮官の「官軍」の念を入れた戦争でした。
それは、徹底した情報操作というものと思慮されます。

[178] 基本。 2007/01/10 11:24

おやさまの思想を語る上で、中山家の長男、中山秀司の「あしのちんば」と言う問題が、ある種の「原罪的なもの」のように語られる事が見けられますが、それは、「原罪そのものが唐人の思想」(>>174-175 )なのだという点からだけでなく、お筆先本文から明確に読み取る事が出来ます。

 よろづよにせかいのところみハたせど
 あしきのものハさらにないぞや    一号52
 一れつにあしきとゆうてないけれど
 一寸のほこりがついたゆへなり    一号53

唐人の思想では、旧約・新約聖書は、人間の「罪」として、「性」の問題をとらえ、理解し、諭します。
それゆえに、「性行為」から生まれた人間そのものを「罪びと」と断定し、「処女から生まれた」、とか「生まれる事を博士三名が告げた」とか、「神に祝福された」場合だけが、「けがれの無い出生」であるという、思想を蔓延させています。
生まれた子供に「洗礼」をするのも、幼子の男性器に刃物を入れて「割礼」するのも、「みだらな性行為=原罪」という思想を、体現し、この世で清らかに生きる事で、最後の審判の後のあの世での、「天国」を理想としているからです。

しかし、おやさまは、中山秀司とおちえとの関係を清算させて、掃除するにおいて、おふでさきにて、中山家の債権支配者の悪いんねんを、具体的には掃除していたのですが、(>>130-131 参照)、その中で、
 よろづよにせかいのところみハたせど
 あしきのものハさらにないぞや    一号52
 一れつにあしきとゆうてないけれど
 一寸のほこりがついたゆへなり    一号53
と、これを示されました。
つまり、性の罪と言うようなものを問題としているのではなく、秀司の足のちんば、(>>61 等参照)とは、債務奴隷を産んできた「金貸し・土地持ち」の悪いんねんの問題であり、「色情の罪」の問題ではないという事を、「一れつ」の問題として、明示されています。

死ねば、古い着物を脱ぎ捨てる。
人間の陽気な遊山としての、「性」を、人間の元始まりのはじめだしに、にんげんを拵えたというおやさまの思想には、人間は清らかなもの。
それを、「一寸のほこり」にて、濁りの水にしたものは、「欲」。
柿と栗を、我が物に、我が支配に治めようと言う、「垣根」と「やりくり」。
宗教こそ、それを実行した、確信犯で会ったという事。
欺かれない事です。

「原罪」とは、思想支配のための方便です。

[179] 異端ってまだいたんですか? 2007/01/11 23:16

神様には国という思想はないと以前は言っていたのに、
唐人(西欧人)との情報操作はこれいかに。

ウィキより

朝鮮通信使を模した踊りが「唐人」とされているのは、江戸時代には外国人の総称であったためである。

朝鮮通信使を模した踊りが「唐人」

江戸時代には外国人の総称

[180] 基本。 2007/01/12 03:42

>>179
異端ってまだいたんですか? 07/01/11 23:16
> 神様には国という思想はないと以前は言っていたのに、

以前の投稿の中で、国境は人間が定めたものという事を語ったことがありますが、神様には「国という思想はない」と言うことは、その意味で、人間が条例や法律で定めた、きわめて高山の意思が色濃く、神様の「思いに適っていない」という意味で、
> 神様には国という思想はないと以前は言っていた
その通りです。

傍陽気さんの投稿に対して、
[169]基本。 07/01/08 05:07 ccGs9jZlRs
>>167
> 教祖の思想には、くに・国と言う思想はなく、ただ、にく・肉体とこころ・精神のみがこの世を立て替えられる元立てなのだと、そう思います。

この事は、元の理のこふき話と関連しますので、国とはなにか、そういう思案になります。
つまり、
> 教祖の思想には、くに・国と言う思想はなく
とは、言えません。
「国とこたち命」とも、「国見定め命」とも、神名を教えられています。
つまり、「国」というものは、おやさまの思想にはあると言う事です。

このような投稿をしていますのは、「こふき話」においての「国」という思想は、「存在している」からです。

人間の今の社会においての「国」は、戦争の結果であったりしてさまざまな形態の「国家群」があり、都市ほどの小さいものから大陸の大きな面積を占める国家まであります。
それは、本来の「国床」でない、支配と被支配の関係にある場合もあります。
そういう意味では、国際社会の国家というものは、神様から見た場合には「認知されていない」と、基本的には、そういえます。
しかし、「こふき話」に説かれ、「みかぐらうた」に説かれた「にほん」は、元の理にもとづくものとして、おふでさきの雛型として、「日本」であるわけです。

基本が、おやさまの思想として認識しているのは、「おやさまの教えた裏守護の世界が思想としてある世界」これは、「にほん」の仲間。
八百万の神々のいる世界。これが、「にほん」。
つまり、土着の民族の思想のある世界は、「にほん」。
と、いう認識です。

そこで、
>>149  には、
> もともとの土俗の神を排除し、カトリックも排除して行われたフィリピンでの学校教育の普及のやり方。
> モーゼの思想を背景にした、侵略主義は「学校」を建てた。
> 「がくもんなぞと言うたとて みえてない」
> 思想で奴隷にして債務でしばる。
> 古代の思想が「復古」していたのは、フィリピンを支配するアメリカにおいてでありました。
> 明治の学校教育の現場に、>>148 、二宮金次郎の銅像がなかったなら、日本人は完全に思想奴隷となっていた。
> 「とふじん」が「にほん」のぢに入りこんでままにする。
> それは、「フィリピン」においても、そうであった。残念なことでした。

と、このように、「フィリピン」でのアメリカの教育での思想侵略について語りましたときに、

> 「とふじん」が「にほん」のぢに入りこんでままにする。
> それは、「フィリピン」においても、そうであった。残念なことでした。

と、書きました。
土着の神、おのおのの民族の固有の信仰は、おやさまの思想では、「にほん」ということに他なりません。
地域としての「日本」は、「にほん」のひながたとしての日本である。
けれど、おやさまが裏から教えてきたものを、神として拝するものは、「にほん」ということになると、基本は、そう思っています。

神様には、国際法に定めたような「国」という概念はない。
おやさまの思想には、元始まりの「ひながた」の「にほん」として「日本」がある。
傍陽気さんは、
[170]傍陽気 07/01/08 14:02 cJFcDsEaRc
> ひながたにおいての、日本人の国家観はよく理解できました。
と、言われておりますので、その点は、ご理解いただけてと思っています。

[181] 基本。 2007/01/12 04:20

>>179
異端ってまだいたんですか? さんの、
> 神様には国という思想はないと以前は言っていたのに
> 唐人(西欧人)との情報操作はこれいかに。

この事ですが、
唐人と言うのは、「唯一絶対的な神」を信奉する「思想集団=カルト」と、定義をしてきています。
異論反論はねあるところと思います。

ですから、「唐人」という言葉の意味は、ご指摘のように、
> 江戸時代には外国人の総称
で間違いないところですが、天理教の知識人たちは、戦前は、「唐人」とは「唐の人=中国人」と言う教理を説いていました。
山名系の方も本部系の人も、そのように説いていました。
現実には、仏教・道教の国であり、八百万の神の故郷でもあり、中国や朝鮮は、土着の思想的には「にほん」とみなすべき所です。

おふでさきを読んだ明治の頃の人々の解釈は、「とふじんころり」とは、中国の人や朝鮮の人が「唯一絶対の神の・天理教に入信すること」
これを意味していると説かれていました。
つまり、天理教団幹部の中に「とふじん」がいて、低学歴の布教師たちに、プロパガンダしていたということです。

こういうことも、「とふじん」がにほんの地をままにすると、おやさまは、厳しく理を責めておられます。
天理教の理の親信仰というのは、「唯一絶対の一神教として天理教を究極の宗教だと説いた・高山」のつくりあげたものです。

それらは、「宗教の天理教」の問題であり、「ザおやさま」では、その「天理教内部のとふじん事情」は、最小限にとどめてね原典に知らされ、ひながたに示されたものを、現代の思想に対する「おやさまの思想」として、対比しつつ、明らかにしていく作業です。

そこで、
> 唐人(西欧人)との情報操作はこれいかに。
とのことは、単に「西欧人」のというものではなく、明治維新政府の中の「とふじんの思想」、民間人の中の、学問のすすめという「とふじんの思想」。
そういう、より広範なものとして、取り上げています。

たとえば、時間外労働には残業手当を付けないという法律が、「アメリカ政府」によって、要請されてね国会に提出される。
http://nun.nu/allabout.co.jp/career/jijiabc/closeup/CU20061120A/index2.htm
解説はここにありました。企業社会を揺るがす「ホワイトカラー・イグゼンプション」とは?
{えっ、もうすぐ残業手当がつかなくなる?!}
{結果、事業主は、「ホワイトカラー・イグゼンプション」の対象となった社員には、残業をさせても割増賃金を支払わなくてすむようになります。}
{対象者は1,000万人超! 失う残業代は1人当たり114万円!}

アメリカ企業の日本進出には、日本も同じ制度でなくては困ると・・

その国にはその国の固有の文化と価値観がある。
日本の伝統の雇用制度を解体する。
そういう思想を「唐人の思想」として、おやさまは、厳しく見つめておられると、それが、基本的なものの見方です。

[182] 基本。 2007/01/12 05:56

たとえば、ブッシュ大統領はイラク政策の失敗を認めて、更なる派兵を決定しました。
つまり、派兵が少なかったから統治に失敗した。もっと増やせば鎮圧できるというわけです。
基本的には、イラクの内戦は、「一部の唐人」には歓迎するものであっても、イラクの治安安定は心から歓迎しているものではないと言うことにみなされます。
イラクでのブッシュの失敗は、一年前にすでに分かっていたことです。
ジャーナリストの田中 宇さんは、2005年1月5日にアメリカの敗戦を記事にしています。
http://tanakanews.com/f0105iraq.htm
その中で、「やっぱりわざと負けている? 」という「?」付きの記事があります。
アメリカは勝てるところで勝ち切っていないという事実についてかたる箇所です。
そして、ジャーナリストの田中 宇さんは、【2006年12月28日】に、半年以内に米イラン戦争が始まる?
との記事の中で、
http://tanakanews.com/g1228mideast.htm
{アメリカのキリスト教原理主義者の一部の勢力は、ブッシュ政権と共和党に対して強い政治影響力を持っているが、彼らは聖書の黙示録などの預言どおり、間もなくイエス・キリストがこの世に再降臨すると信じている。彼らは、再降臨の前に起きると書かれている大戦争が、イスラエルとアメリカによる、イランやヒズボラとの戦争のことであり、それがこれから起きるに違いない、その戦争を誘発せねばならないと考え、アメリカとイスラエルの政府に、イランを攻撃せよと圧力をかけている。}
と、解説しています。

「カルト」に武力を行使させている。
これは、現実の現代なのです。
マリアの処女受胎を信じ、イエスの復活を信じ、子供に割礼をさせている国民には、聖書の世界は、生活の一部なのです。

明治の時代におやさまがみつめていたのは、この「唐人」の思想の、空虚とうそと、その支配欲。大社高山。谷底をままにする姿。

日本でも、帝国支配の、その思想を取り入れた「自由」の思想は、維新政府に恭順の意思を示した会津藩を戦争に巻き込み、攻撃し、白虎隊の死体を、三ヶ月ものざらしに放置させた。犠牲を捧げる思想。

明治維新から敗戦までの日本が帝国主義だったというだけではなく、戦勝国の米国も帝国主義であり、日本のそれは「神国・日本」の思想で中心に「天皇の神格化」があった。
アメリカには「旧約聖書」と言う思想がある。そして、帝国主義であり続けている。
イラクで負けたら終われると言うものではない。次がある。
アメリカの後ろ盾を失えば滅びるしかないというイスラエルは、利用されようとしていると言う。
http://tanakanews.com/070109israel.htm
{イスラエルが勝手にイランとの戦争を始めて、アメリカも参戦せざるを得なくなれば、イスラエルは米軍を使ってイラン潰しができるし、米政界では再び好戦的な気運が強まり、チェイニーやネオコンも復権できる。一石二鳥である}

本当は、そこが焦土と化すことを願って、宗教をめぐり、民族間の抗争をあおっているだけの、決して勝利しようとしないで、泥沼を広げ続けているに等しき、アメリカの軍事行動。それは、どこまでもプロパガンダ。世界の思想支配のための愚行そのものということです。

情報操作も念が入ると肉が下る。その理の返しはある。
唯一の神という思想が軍事力で支配する現代に、返しはあるけれど、真のおさまりには、「豊年」がなければならないと、その大前提が、おやさまの思想です。

この、現代の泥海。
おやさまの思想だけが、解決の道を示していると、それが基本です。

[183] 基本。 2007/01/12 06:21

たとえばフィリピンでは外国からの資本の参入を厳しくガードする法律があり、自国民以外の場合には、法人の出資比率に制限がある。
つまり、資本による支配が出来なくなっています。
それは、自国経済の保護のためです。
支配されて事で、支配されない仕組みを作ったということでしょう。

日本は?

本来のにほんの思想。
誰が語り継いでいるのか。

日本の終身雇用制度を破壊し、それが、会社と社員の間をきちんと他人の関係にすりかえた。
残業手当をなくして、能力のある社員のみが優遇される制度にしていこうとする。
そして、「海外で何億、何十億と稼ぐ、スポーツ選手のお祓いさんのお札は、毎日、テレビに流されて、最高級のグルメが、勝者には与えられてね敗者には罰ゲームと言う、支配原理を、面白おかしく、子供に見せ付けて、テレビに流されて」

勝者と敗者が、褒美と罰を与えられる。
これが、お笑いであり、クイズであり、・・
毎日あふれるほど見せられている。
子供の社会に、虐めは、無くなる訳がない。

何を日本人は、思い出すべきか。
それは、おやさまの生涯であり、思想である。

世界の債務奴隷よりも、日本の債務奴隷の方が、グルメでファッショナブルだという幸福感は、お祓いさんのお札をありがたがっていた、明治維新前の、大多数の農民である。

今、日本は、次の徴兵制に向けて、始動しているということを、明治の教訓から、学んでおかねばならない。
食うためには、軍隊。
そういう貧民層が大勢いれば、何も難しいことではなく、公務員としての軍人ならなりたいという志望は、いくらでも増える。
階級差と格差拡大。
軍隊を作りたい時、権力の用いる手段である。
国防でもなんでもない。
大社高山を守らせるための、奴隷に過ぎない。

[184] 基本。 2007/01/12 07:02

そこで、アメリカと国名をあげて語っているが、実は「カルト思想集団」であり、国名で呼ぶべきではないものである。

「とふじん」の問題ということに理解して頂きたい。
アメリカの国民もまた、お祓いさんのプロパガンダで、統治されているにすぎない。

たった三千人死んで、何が困るのかといえば、軍人は紛れもない公務員である。
つまり、三千人戦死すると、国家がその遺族に支払うべき金は膨大なものとなる。
戦費の負担は、戦死者が出るたびに加速度的に増す。
国民の貧困層は、軍に就職することで生活費を得るしかないから、軍に行くのであり、それゆえに、お国のために死んでも、遺族は、うれしくない。
そこに、戦死者の数がもたらす負の経済効果がある。

あくまでも、自国民のために軍隊に入ったのであり、他国で死ぬことは目的ではない。
そこに、現代の帝国主義者たちの誤算がある。

前述の、ジャーナリスト、田中 宇さんは、このような事実を指摘している。
{▼互いに無視しつつ暗闘する和平派と好戦派 }
{イスラエルが陥っているもう一つのまずい状態は、イスラエルの中枢が一枚岩であるように見えて、実は和平推進派と好戦派が互いに相手を無視して動き、互いに潰し合いの暗闘を続けていることである。}
{和平派と好戦派が議論をして国論を一つにまとめれば、自滅的な戦争は避けられるだろうが、そのような方向には進みそうもない。 }
{ イスラエルは1990年代にオスロ合意で和平が画策されたころから、表向きは「一枚岩神話」を保持しながら、実は分裂していた。}
{95年に暗殺された首相のイツハク・ラビンは「イスラエルは、まるで和平交渉などやっていないかのようにテロ(パレスチナ人)との戦いを展開する一方で、まるで戦いなどやっていないかのように和平交渉を展開している。}
{戦いと和平という2つの路線の意志決定は、別々に行われている」と述べている。}

{(ユダヤ人の中には、イスラエルの建国に賛成する「シオニスト」の人々と、反対する人々が、シオニズム運動の初期段階からいたが、彼らの間の戦いも、表向きは「ユダヤ人は一枚岩である」という神話を保ったままの暗闘として行われてきた。}
{この手の暗闘は、誰が敵で誰が味方か分かりにくく、偽善と詭弁に満ちたものになる)}

つまり、大戦で両陣営に武器を商売したユダヤ資本は、一枚板として「イスラエル」を建国していない。
それは、金儲けを軽蔑させることで、経済を支配してきたそれまでの思想行動とは、矛盾することになるからである。
どちらにも良い顔をするから「商売」になる。
ライバルのどちらにも売るから商人である。
それが、顔を持ち、敵味方を持つということは、恐れられるということは、経済行為には、まるでマイナスとなる。

そういう、伝統的手法を捨ててまでも建国したイスラエルは、誰とも仲良く商売するのではなく、宗教対立の顔になってしまった。
資本で支えることで、成り立たせるのではなく、武力で維持するしかない国家。
それは、決して、すべてのユダヤ教徒が望んでいたものではないということである。
そして、それは、大社高山の宗教の指導であるために、外部のものには見えないし、見せない。

つまり、アメリカ国家もまた、思想奴隷、債務奴隷ではと、考えるしかない。

簡単に言えば、「よふきづくめ」を見たことがないということが、すべてのいさかいと争いの元にあると言うこと。
疑いが支配する「宗教」を、世界の支配思想としたままでいてはならない。
仲間同士ですら疑う世界には、よふきづくめは無い。
むごい心と、欲に切り無い泥水がそこにはある。

しかし、おやさまだけには存在した「よふきづくめ」を、一人一人が実現するためには、おやさまの思想を、お筆先とひながたからしっかりと掘り切る努力が必要である。

そこで、高山のプロパガンダに踊らされないおやさまの思想を、「対唐人の思想」と「債務奴隷」の問題を中心にすえて、研究し語ろうとしています。

[185] きほん? 2007/01/12 23:48

今までは唐が日本を儘にした 神の残念なんとしよなら
同じ木の根と枝との事ならば 枝は折れくる根は栄える
この元を詳しく知りた事ならば 病のおこる事は無いのに
高山の説教聞いて真実の 神の話を聞いて思案せ
高山の芯の柱は唐人や これが大一神の立腹
実やとて法が偉いと思うなよ 心の誠これが真実

[186] きほん? 2007/01/13 00:03

おやさまは浄土や生老病死を、法前仏後を否定されたんやと思います。
中国朝鮮より伝来の仏教をはじめとする中国の思想を否定されたんやと思います。
おやさまは元を教えたかった。一列兄弟と言う真実、そしてそれを心の芯としてほしかった。ちゃいますか?

[187] きほん? 2007/01/13 00:22

それから
おやさまは勿論、天理教は唯一絶対神を振りかざすような思想では無いですよ。
立教に先立ち元の神、実の神と宣言された訳ですから最高神には違いない訳ですがセム系一神教と混同されると話がややこしくなります。
それよりも日本の田舎の農婆が、それまで日本の思想になかった最高神を説いたことがどれほど凄いこと分かりますか?おやさまには今現在、日本を我がものにしようとする朝鮮系カルト集団の姿も見えていたんでしょうね。

[188] 基本。 2007/01/13 01:37

>>186

> おやさまは浄土や生老病死を、法前仏後を否定されたんやと思います。
きほん?さん。こんにちわ。
そのように理解されているということですね。
原典に、あるいは、伝承の教理(こうき話や逸話編など)に、そのことは、どのようにおやさまの思想として語られているのか、ご紹介頂けますでしょうか。
おやさまの教えとして、伝承されているものに「半牧のおふでさき」と言われる物があります。
その中では、「浄土」は否定されていません。
そうした事実から、基本的には、おやさまの思想として、「> おやさまは浄土・・・を否定されたんやと思います。」とは、ならないと思います。
又、おやさまの教えとして、人間は自分の出直したいときに出直せるようになるという思想があります。
つのれ、「死にたいときに楽に死ねる」と言うことです。
お筆先の注釈に書かれています。
つまり、「> おやさまは死を、・・・否定されたんやと思います。」とは、ならないと思います。

「このたすけどふいう事にをもうかな病まず死なずに弱りなきよに。17号53」と、お筆先にはあります。
きほん?さんは、この事を根拠として、「> おやさまは・・・老病死を否定されたんやと思います」と語られているのかも知れません。
これを文字通りに理解しますと、「このたすけ」とあります。
それは、
 たすけでも悪しき直するまでやない 珍したすけをもているから 17号52
 このたすけどういう事に思うかな 病まず死なずに弱りなきよに 17号53
と、ありますから、「珍しいたすけ」と言うおやさまの思想として示されています。

さて、きほん?さん、石造りの甘露台が完成して、神楽勤めが陽気に勤められるようになったとして、
先ず人間の誕生の問題ですが、夫婦の間から生まれると思います。
なぜなら、「この世の地と天をかたどって生まれる」のが人間だから、男女の一の道具での交わりがあって、生まれることには、理として変化がないと思えます。
「胸と胸」「口と口」が一つになって宿しこまれると、昔の教理本の内容は、きっと普遍だと思います。
次に、胎内には、胎児として、羊水の中で成長すると思います。
それは、元始まりのいんねんとして、通らねばならない道だからです。
そして、その人の個性が一人づつ違う状態で、個性的に胎内で生育されると思います。
生まれた時は、「赤ちゃん」だと思います。
生まれたばかりの赤ちゃんが、大人とおんなじ知恵や学問は持っていないと思います。
赤ちゃんを親が育て、知恵や学問を仕込んで成長すると思います。

つまり、甘露台世界になっても、人間の心一つの自由がある限り、「老病死」は、胎内に宿しこみのときから、両親の心遣いの内容によっては、ありえる。
それは、生まれた人間の心の成人の上では、病による手引きは不可欠だからです。

子供から大人になっても、「働く」と言うことはあると思います。

甘露台世界になったら、神楽勤めさえしていたら、世界は豊年とはなるはずが無い。
産業を発展させていくことは、甘露台世界でもおんなじことだと思います。

どうでしょうか。
地場で本勤めの神楽が完成したら、なおさら、家業第一に、個性的な経済生活が営まれる事になる。
それが基本の考え方です。
おやさまは、「世界がろくぢでない」事を立て替える思想です。

又、きほん?さんのお考えの中の、
> 中国朝鮮より伝来の仏教をはじめとする中国の思想を否定されたんやと思います。
これは、天りん王の講として各地で宗教活動をしていた、大教会初代たちが、明治政府に公認を受けやすいようにと、明治維新政府の「廃仏毀釈」に迎合して、「仏教こぼち」をしました。
仏教思想に対して、攻撃した時の当時の弟子たちの語ったものが、きほん?さんのいわれる、「> 中国朝鮮より伝来の仏教をはじめとする中国の思想を否定された」という説です。
それは間違いであることは、「こうき本」の内容により明らかといえます。

[189] 基本。 2007/01/13 01:48

> 朝鮮系カルト集団の姿も見えていたんでしょうね。
もうすこし具体的に、きちんと歴史的事実、社会現象として言われる所の内容を示して頂けたらと思います。

何よりの問題は「高山」と「谷底」と言う問題です。
例えば、ですが、イラクの中にもカルトはいるでしょうし、ソマリアにもいるでしょう。
それらを「イスラム原理主義」と呼んで、テロリストと呼んで、攻撃をしているという構図は、米国の行為として目に見えています。
確かに、「イスラム原理主義」の中に「カルト」はいるのかもしれません。
が、「谷底」にいるもののことを、そのような形で問題視するのは、「高山」の思考方法です。

仮に、きほん?さんには日本を我がものにしようとする朝鮮系カルト集団の姿が明示できるとしましても、朝鮮は、アメリカと比較した時、谷底のアジアです。
現実に分断国家を生んだのは、西欧の帝国主義です。
重大な問題として、認識しなければならないのは、「大社・高山」です。

[190] 基本。 2007/01/13 02:00

例えば、日本の財閥の当主がアメリカ国籍を得て、そこで経済活動で経済活動の分野でシェアを占めたとしても、それは、帝国主義「高山」の手のひらの上での侵略であり、手のひらの上での経済の駒の一つとして、いつでも使い捨てられるのです。
北朝鮮の日本での行為も、日本高山は泳がせていただけで、拉致の問題も使える駒として、今は、利用価値があって利用している。そんなものです。
弱者や谷底にも「カルト」はいるし、弱者社会の中にも「高山」はいる。

そういう構図を根本から立て直す思想は、おやさまの思想です。
そういう意味では、きほん?さんは、向かうべきものを「大社高山」取り払いに置いていないで、「中国・朝鮮」の思想排除に向かわれているようで、残念です。

[191] きほん? 2007/01/13 03:16

?原典を先に書きましたよ。
生老病死とは子の世を苦と捉えあの世に極楽浄土があるとする仏教の根本思想です。
おやさまから授かったさずけは心の誠が効くのだと筆先に書いてあります。

[192] 基本。 2007/01/13 04:35

>>191
> ?原典を先に書きましたよ。
>>185 のこれの事ですか。
> 今までは唐が日本を儘にした 神の残念なんとしよなら
> 同じ木の根と枝との事ならば 枝は折れくる根は栄える
> この元を詳しく知りた事ならば 病のおこる事は無いのに
> 高山の説教聞いて真実の 神の話を聞いて思案せ
> 高山の芯の柱は唐人や これが大一神の立腹
> 実やとて法が偉いと思うなよ 心の誠これが真実

これは、おやさまの思想の書、おあでさきの引用だと思います。
が、順序はばらばらで、きほん?さんが、勝手に並び替えています。
また、号数と番号がついていないので、一つながりのように誤解させています。
これでは、おやさまの言われたことを「編集しなおした」ものであり、思想書を、論理的に読んでいるとは言えません。

自分勝手な順序で並び替えるのなら、ちゃんと、その並び替えの理由を明示すべきです。
そこで、きほん?さんが、抜書きしてならべたおふでさきを、ひとつづつ確かめてみます。

> 実やとて法が偉いと思うなよ 心の誠これが真実
これは、明治七年の五月の執筆のおふでさきで、五号の45のおうたです。

明治政府は、庶民の信仰であった「拝み祈祷」を禁止します。
そして、政府の許した認可宗教のみに「拝み祈祷」の営業を許可しました。
明治七年六月に、「祈祷禁忌をもって医薬を妨げるものの取り締まり令」が出されました。
これによって、江戸時代までの祈祷場は、「神道の統制下」に入ることになりました。
 いままでハいかなるほふとゆうたとて もふこれからハほふハきかんで 五号36

それは、宗教の統制下に入った結果、「枝先にては法なぞと教えてあれど」と、おやさまが、裏から教えてきた「法」なぞというものであったのですが、禁止されて、伝統的な人たすけの拝み祈祷は、庶民のものではなくなり、「官製の」「高山の支配の道具」「高山の収入源」になつたと言うことです。
おやさまの時代の「金剛院」は拝み祈祷していたのですが、そこには、許可制となり神道のトップダウンで、天下り人事となった。

>>28 で触れましたが、
> 元は「金剛院」の住職の男が、愛人に経営させていた、「屋根屋」と言う屋号の店であると言う。(高野友治著作集・第6巻p257-260)
> そして、元は「金剛院」の住職の男は、その当時には、大和でも格式高い「石上神宮」の神人であったと言う。(同)
>
この金剛院の住職も、明治政府のトップダウンに職を追われて、愛人を捨てて転居していた。
それが、明治七年に三月に中教院を設立した明治政府が、祈祷で暮らす民間宗教を支配した事のひとつの結果です。

「法やとて誰がするとは思うなよ この世始めた神のなすこと」五号39

おやさまは、36では、「これから先は法は利かない」と言われています。
しかし、39では、「法とは、この世を初めた神のなすこと」と、言われています。

この世を初めた神のなすこと、である「ほう」は、実があって、珍しいものであった。
それが、利かないというのは、
この五月を最後に、神道、仏教、民間宗教問わずに、すべての拝み祈祷が、明治政府の統治下にはいつた。

その、高山の走狗と化した宗教では、この世を初めた神は、とても働くわけには行かないという、その事情がある。
ここを思案しなければ、ひながたの史実に基づいた原典解釈とはなりません。

もう少し深く、この問題続けます。

[193] 基本。 2007/01/13 06:13

>>185 >>191-192
きほん?さんの引用されたおふでさきを一首づつ確かめています。
> 実やとて法が偉いと思うなよ 心の誠これが真実
まず、このお歌は、おふでさき第五号の36から45の一連のおうたの中で示されています。44番です。

時代背景として、この年、明治7年、明治政府が拝み祈祷の業をする神社仏閣、民間のものまで統制し、支配する支配組織体制を三月に整えて、六月には、取り締まり令を出したということです。

一連のおふでさきを示します。
「今までは如何なる法と言うたとて もうこれからは法は利かんで」五号36
「これまでは枝先にては法なぞと 教えてあれど先を見ていよ」五号37
「にほんには今まで何も知らいでも これから先の道を楽しめ」五号38
「法やとて誰がするとは思うなよ この世始めた神のなすこと」五号39
「どのような難しい事というたとて 神が真実受け取りたなら」五号40
「いままでは唐やにほんと言うたれど これから先はにほんばかりや」五号41
「枝先は大きに見えてあかんもの かまえば折れる先を見ていよ」五号42
「元なるは小さいようで根がえらい どの様な事も元を知るなり」五号43
「実やとて法がえらいと思うなよ 心のまことこれが真実」五号44
「人間はあざないものであるからに 珍しい事を法なぞという」五号45

そこで、おやさまは、五号の前の三号で、87・88にて、同じ木と教えられていることを確認しておかねばならない。
「この先はにほんが唐をままにする みな一列は承知していよ」三号87
「同じ木の根と枝との事ならば 枝は折れくる根は栄いでる」三号88
にほんも「唐」も同じ木である。これが大前提にある。
しかし、ここで言う「唐」とは、>>179 で、異端てまだいたんですか?さんが言われているように、江戸時代には外国人の総称 であり、明治には西欧人をさしても呼んでいたわけです。

もう一度確認しますが、この明治の時代に「日本を支配していた唐人」とは、欧米人です。
中国はアヘン戦争で日本支配どころか、国が奴隷にされてしまっています。

つまり、明治の史実に即して解釈すると、「法」には二種類あって、ひとつは明治政府が禁止した「江戸以来の拝み祈祷」。ひとつは思想支配しようとする唐人(西欧米人)の旧約聖書の「律法」というものが考えられるわけです。
当初思想侵略を恐れてキリスト教を禁止してきた明治政府が、西欧の要請で明治6年にはキリスト教を認める発布を出している点を含めて考えます。
西欧の祈祷とは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%88%E7%A5%B7%E6%9B%B8  に、整理されています。
十戒とは、次のようなものです。
http://www.salvastyle.com/data/theme_01_01_18.html
ユダヤ的解釈
1. ヤハウェが唯一の神である。
2. 偶像を作ってはならない(偶像崇拝の禁止)。
3. 神の名をいたずらに取り上げてはならない。
4. 安息日を守る。
5. 父母を敬う。
6. 殺人をしてはいけない。
7. 姦淫をしてはいけない。
8. 盗んではいけない。
9. 偽証してはいけない。
10. 隣人の家をむさぼってはいけない。

さらに続けます。

[194] 基本。 2007/01/13 06:40

>>>>185 >>191-193
> 「今までは如何なる法と言うたとて もうこれからは法は利かんで」五号36
> 「これまでは枝先にては法なぞと 教えてあれど先を見ていよ」五号37
> 「にほんには今まで何も知らいでも これから先の道を楽しめ」五号38
> 「法やとて誰がするとは思うなよ この世始めた神のなすこと」五号39
> 「どのような難しい事というたとて 神が真実受け取りたなら」五号40
> 「いままでは唐やにほんと言うたれど これから先はにほんばかりや」五号41
> 「枝先は大きに見えてあかんもの かまえば折れる先を見ていよ」五号42
> 「元なるは小さいようで根がえらい どの様な事も元を知るなり」五号43
> 「実やとて法がえらいと思うなよ 心のまことこれが真実」五号44
> 「人間はあざないものであるからに 珍しい事を法なぞという」五号45

そこで、五号の37と38を読み比べて見ます。
「これまでは枝先にては法なぞと 教えてあれど先を見ていよ」五号37
「にほんには今まで何も知らいでも これから先の道を楽しめ」五号38

仮に、江戸時代までの拝み祈祷の事だとすると、まさか、「何も知いでも」ということはないわけです。
おやさまは、裸足参りもしているし、秀司の時には加持祈祷もしています。
と、言うことは、37の「法なぞと教えてあれど」と言うのは、旧約聖書の「律法」、「祈祷」と言うことになります。

次に、39、40を見ます。
「法やとて誰がするとは思うなよ この世始めた神のなすこと」五号39
「どのような難しい事というたとて 神が真実受け取りたなら」五号40
これは、旧約聖書にある神の起こした奇跡も、神が真実を受け取っていた。成り立ちます。
江戸時代につづく拝み祈祷も、神が真実を受け取っていた。成り立ちます。
この二首は、「法」とは、真言の法もモーゼの法も、神が真実受け取ったならという、理をしめされたものです。

「いままでは唐やにほんと言うたれど これから先はにほんばかりや」五号41
と、ありますから、この41の前の、40までは、「唐や日本」と、双方の事情を語っていたとわかります。
「これから先は日本ばかりや」ですから、
42からは、日本の事情だけということを示されています。

「枝先は大きに見えてあかんもの かまえば折れる先を見ていよ」五号42
41に「これから先は日本ばかりや」とことわりがありますから、42のおふでさきの、「これは、にほんの事情のことです。

そこで「かまえば」と言うのは、方言で手出しするとか、干渉することです。いじめるというようなニュアンスの方言です。
おやさまは、人をかまうことはしません。弟子にもさせません。
つまり、かまえばとは、日本の事情ですから、これは明治政府のことです。
大寺院、大祈祷場でも、権力が干渉すると、すぐ折れてしまう。
と、いう意味です。

「元なるは小さいようで根がえらい どの様な事も元を知るなり」五号43
「実やとて法がえらいと思うなよ 心のまことこれが真実」五号44
政府に干渉されて、折れない。
「小さいようで根が偉い」。元を知るから挫折、屈服しない。
おやさまの、毅然としたお姿そのままです。

「人間はあざないものであるからに 珍しい事を法なぞという」五号45
これは、人類全体へのお諭しです。
神の起こした奇跡を珍しいから「法」としてまとめる。
不思議な霊救を「法」と呼ぶ。
それはあざないことだと、言われています。

唐人の思想への厳しい批判がありました。

[195] 基本。 2007/01/13 12:18

>>185 >>191-194
きほん?さん。
きほん?さんが 示されましたおふでさきの内、「実やとて法がえらいと思うなよ 心のまことこれが真実」五号44
は、中国や朝鮮の思想に対して、語られたものではなく、人類全体に対して「珍しい」事を珍重して「法」と言う言葉で表現したことを、戒められている。その「律法主義」に対して、心のまことを、教えられたものです。

> 「実やとて法がえらいと思うなよ 心のまことこれが真実」五号44
> 「人間はあざないものであるからに 珍しい事を法なぞという」五号45

キリスト教もユダヤ教もイスラム教も、祈祷の方法がきちんと定められています。唱える聖句も、きちんと定められています。
それは生活習慣に溶け込んだ作法になってもいます。洗礼。割礼はわかりやすい実例ですが、神への祈祷の法、これを尊んでいるのが、旧約聖書の思想です。
イエスキリストは、律法のみで救われるものではないと「愛」を説きました。
しかしキリストは、律法を否定されたのではなく、それを成就するために私はいると説いています。
モーゼの十戒は、ひとつは地上の楽園のための、ひとつは死後の最後の審判のための戒めであった。

日本ではいままでそんなことはしらなかった、西欧式の祈祷。
それも、元は月日が教えてきたものです。
おやさまに、十字架を見せて、「これは何ですか」と質問したとき、おやさまは、「それは完成の意義や」とお答えになられたと、明治の宗教学者中西牛郎の著作物の中で読んだ記憶があります。
戒律を神の愛で成就させる。
それがイエスキリストの教えの中心課題です。
おやさまは、「愛」ではなく「心のまこと真実」を示されています。

「愛」には嘘がつきものです。
「心のまこと真実」には嘘がない。

おやさまの思想書、おふでさきは、「理」を知らせた書物であるから、論理的にきちんとした構成になっています。
明治政府は、大教で宗教統一をしようとした。
唐人は、戒律の思想を日本に持ち込みました。

日本ではおおらかだった混浴が禁止されたのも、西欧の戒律思想が、野蛮・低俗と非難したからです。
現在は、「家族風呂」でさえも、混浴禁止にしている県がたくさんある。
事の是非ではなく、西欧の価値観のおしつけが日本の些細な法律にまで及んでいるということです。

明治四年に岩倉具視が、日本が不平等に扱われている条約の改正を願い出たとき、野蛮で低俗な日本の習慣をあらためないかぎり、改正は無理だと言われた。
そして、キリスト教の禁止の解除も要請された。
呪術という形態の拝み祈祷に対して、教会信仰という形態の西欧式拝み祈祷が、要請された。

同志社大学などが設立されていった時代の要請は「欧化」に゜あった。
そうした史実を見るとき、洋学を学ぶためには、洋魂・西洋の思想を学びなさいという、西欧の押し付けは明らかです。

つまり、この明治の時代の力関係の中では、日本に干渉していたのは欧米です。
戒律主義の旧約聖書を信奉する思想は、日曜日は信仰の拝礼の日として日曜日休みという生活を日本に定着させています。

きほん?さんが引用されていた、
> 今までは唐が日本を儘にした 神の残念なんとしよなら
このおふでさきは、三号の86のおうたです。
明治7年正月の執筆です。
アヘン戦争で中国の清王朝を経済侵略に成功した西欧米は、日本に対しても経済侵略を行いました。
おやさまが、家財道具一切までも安市にかけて売ってしまい、施した年、弘化三年に、「通商を求める」外国船があらわれます。
鎖国を続ける日本でした。
おやさまが、中山家母屋とりこぼちをした嘉永六年、ペリーが軍艦四隻を率いて、浦賀に入港します。

武力を背景にして、開国を迫られた日本は、幕府が屈辱的な不平等条約を結びました。
安政元年、おやさまが「おびや許し」のはじめをされた時、日本の隷従が始まっていた。

日本をままにしたのは、当時の中国朝鮮ではなく、「アメリカ」「西欧」、つまりそれが、日本を言うがままにした唐人さんたちです。

> 今までは唐が日本を儘にした 神の残念なんとしよなら
唐人の思想は、西欧型の文化以外は「野蛮」とみなすものでした。
そして、根本にある戒律思想をもって、思想支配しようというものでした。

[196] きほん? 2007/01/13 17:09

基本さん、キリスト教に奇跡はありますが仏教に奇跡はありません。
前者には神がありますが仏教にあるのは法だからです。
おやさまは元をしれば病はおこらないと説いています。
仏教は人は生まれ老い病んで死ぬと説いています。
ご自身の共産サヨ思想をおやさまの思想にこじつけるのは辞めていただきたい。

[197] 基本。 2007/01/13 17:12

きほん?さんには、基本は左翼思想に見えるようですね。

> おやさまは元をしれば病はおこらないと説いています。
この事の根拠はどこにありますか。

[198] 基本。 2007/01/13 18:32

>>198
それから、真言宗、天台宗、日蓮系の宗派、みな「法力」による奇跡を示して来られた歴史があります。
きほん?さんは、
> 仏教に奇跡はありません。
と、言われていますが、「天理教の本で仏教を学んだ」のでしょう。
各宗教の宗祖開祖の物語を読まれるべきです。
各宗派、立派な奇跡の逸話を宗祖開祖は、みな残されていますよ。
各寺院には、今も祈祷の受付がなされています。奇跡を念じて頂いているのです。
拝み祈祷は、様々な願い事へのものです。

天理教の中だけの、天理教の人の解説した仏教思想を丸呑みにしていませんか。
信仰の現場では、みんな奇跡を願って信心しています。

基本は、おやさまの言われたように、八百万の神が伊蔵さんを手を打って待っていたと思っています。
日本の神仏は、天神地神、天台宗、真言宗、日蓮宗、宗派問わずに、おやさまの教えの世に出たものと理解しています。
信心の現場を見ないで、天理教の本の中や天理教の先生のいう事だけを丸飲み込みして、「仏教には奇跡が無い」と、語っていては、おやさまの思想は、理解は遠いと思います。
どんな宗教にも、奇跡を願うと言うものがある。
それは、各宗派の現場に行けば、直ぐ分かる事です。

左翼と言うのは、共産主義の思想の事を指しますが、左翼とは、無神論です。
基本は、八百万の神々と神仏を拝しますから、無神論ではなく、つまり左翼ではありません。
谷底せり上げはおやさまの思想です。
「大社高山取払い」も、おやさまの思想です。
基本が、こじつけているのではありません。
おふでさきに書かれています。
「世界ろくぢに踏み鳴らす」とは、おやさまの思想そのものです。

明治の時代に日本をままにしていたのは、中国清王朝ではない、朝鮮でもない、西欧です。不平等条約として日本国民を苦しめた。
そういう、事実は、ごまかさない。

ごまかしてこじつけて、朝鮮や中国に侵略の片棒担いだのが、戦前の天理教の本部であった。
昭和12年の天理教会本部機関誌「みちのとも」七月号には、こんな記事がありました。

「日本民族の使命」・・神国日本と天理教・・
天皇陛下を中心とする我が大和民族の理想国家は世界各国に対する美しき模範をたれるべきものであることを教え給い、世界人類に対する大なる使命を明示するものであります。
明治維新の大業も、民族精神の発露とは言え、世界各国における革命精神と異なり、ようするに「神ながら」の大精神への復古であります。
この根本精神をあまねく世界の国と人に及ぼして、その浄化を祈念し、その共存と共栄を本願するのが神国日本の天賦の使命であります。
それは、我らの命の限りを尽くして、天皇陛下の御みいづを輝かしまつる事に他ならぬのであります。
底にこそ、我らの永遠に生きる道が存するのであります。
・・・

そして、天理教祖は根の国日本と説いていて、天理に基づいて天皇陛下の神の国による世界の統治を説いていると言う要旨につなげています。

こういうのを、こじつけというのです。

基本は、当時の事実と、おふでさきのきちんとした順番にそって、かな文字の言語の解釈も、きちんと一語づつ、理解して、解釈しています。

きほん?さん、どこかに書いてあった事を受け売りしないで、自分で事実関係を確認して、そして、その上で、言葉の定義を曖昧にしないで、論理的に語ってください。

日蓮の奇跡、有名です。引用し紹介します。
http://www.kuonji.jp/20_daimk/20_00206.htm
 同年9月12日、日蓮聖人はついに捕らえられ佐渡流罪となります。しかし、これは表向きで、実は途中の龍口(たつのくち)において侍所所司平頼綱により密かに処刑されることになっていました。ところが、まさに首を切られようというその瞬間、奇跡が起きます。突如、対岸の江ノ島のほうから雷鳴が轟き、稲妻が走りました。これに頼綱らは恐れをなし、処刑は中止になったといわれています。

みんな、おやさまの思想を、おやさま以前の時代に現した、昔からの神仏は大切にせよ。
おやさまの教えです。

[199] きほん? 2007/01/13 18:56

基本さん、おやさまは何処かへ修行に行き月日の社となられたのですか?
山へ登り滝に打たれましたか?
厳しい戒律を守った者に不思議はあるのですか?違うでしょ。
しんのはしらとは思想そのものであり当時の日本人の思想を西洋人が支配していたとの解釈は無理がありすぎます。

[200] 基本。 2007/01/13 20:46

>>199
きほん?さん。

私からの問いに対する答えになっていませんが、きほん?さんの問いにはお答えします。

> おやさまは何処かへ修行に行き月日の社となられたのですか?
そうです。

> 山へ登り滝に打たれましたか?
はだし参りはしています。

> 厳しい戒律を守った者に不思議はあるのですか?
ありました。

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