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おやさま

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[0] 基本。 2006/11/21 22:43

中山みきというお方は、自分のことを世界の人間の親だという思想を持っていて、
それで、世界中の自分の子供は、みんな兄弟だという思想の持ち主でした。

奈良県天理市にある天理教会本部では、天理教の教祖を「おやさま」と呼んで、また、親神様として、信心しています。

しかし、「おやさま」の思想は、天理教という宗教思想というには、より大きな思想であり、宗教云々を絡めると、その思想が理解されない、狭い道に陥ることになります。
そこで、ここでは、全人類のおやだと自称した「おやさま」の思想そのものを、宗教は一切絡めないで、論じ合いたいと思います。

中山みきさんのことを、全人類のおやだと思う人も、思わない人も、ここでは本人の思想の一部である「おやさま」という共通の呼び方で呼んでください。
そして、絶対に、宗教を絡めずに、その思想について、討論しましょう。

ここでは一切、宗教の絡みは語らないルールです。

天理教という宗教の絡みは、ザ・天理教を語る4があります。
http://religion.bbs.thebbs.jp/1163859118/
また、天理教と政治の問題への基本の立場は、「教理とひながた」
http://www.yousun.sakura.ne.jp/public_html/wforum/wforum.cgi
にありますので、そちらのBBSなどへどうぞ。

504件のコメント 26番から26番を表示中

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[26] 基本。 2006/11/28 18:57

>>25
> 人身売買禁止令を布告し、神社仏閣から女性を解放した

神社・仏閣が、女性を奴隷としていたとの意味である。
調べなければなるまい。
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-16-5.html

�.日本の奴隷制
日本でも古代から最近に至るまで、さまざまな形の奴隷制、人身売買が行われてきた。

【縄文時代】
 三内丸山遺跡東北部の墓域には列状に墓がならんでおり、なかには他にくらべてすぐれて大きいものがみられる。また、土器に入れられた者、穴に葬られた者の別がある。その明確な差は社会階層をしめすものであろう。さらに、北側の谷から人骨が発見された。墓に埋葬されず、ごみと一緒に廃棄された人がいたのである。さらに、集落構成の規則性や膨大な労力を必要とする巨大構築物からも、当時の縄文社会が、一般にイメージされているような自由で平等な社会とは異なっていたことが推測される。縄文社会においても奴隷が存在していなかったとは断定できないであろう。

【弥生時代】
 107年に倭国王帥升らは「生口百六十人を」後漢の皇帝に献じており(『後漢書』東夷伝)、239年卑弥呼は「男の生口四人、女の生口六人」を議の皇帝に献じ、台与も「男女の生口三十人」を献じている『魏志』東夷伝倭人条(魏志倭人伝)。しかし、他のの東アジア諸国から「生口」を献じた例は。四〜五世紀からしか見られない。生口とは、本来は捕虜を指し、その多くは広義の奴隷とされたと推定されているものの、当時の邪馬台国には「生口」の他「奴婢」がいたことが記載されているため、生口が果たして奴隷であるどうかについては議論の余地がある。

昭和3年9月に、中山平次郎は「考古学雑誌」に『魏志倭人伝の生口』を発表した。この中で中山は、生口を日本初の留学生であると解釈したが、橋本増吉は同じ雑誌に同じタイトルで論文を発表し中山を批判した。橋本の生口論は、捕虜ではないが女王から贈り物として献上された特殊技能の持ち主達、例えば潜水夫のようなものである、とした。この後、二人の間で生口を巡る論争が行われた。途中、波多野承五郎が生口は捕虜であるとし、沼田頼輔がこれに賛同した。昭和5年3月に、市村讃次郎は生口論争に加わりこれを奴隷である、とした。直ちに橋本はこれを批判し、稲葉岩吉も市村説に反論した。しばらく論戦が続くが、しかしやがて橋本増吉は、生口は捕虜を意味しており奴隷の意味も併せ持っていると宣言する。

 近世のアフリカで、輸出用の奴隷を獲得する目的で部族間の戦争が激化したことはよく知れれている。弥生時代の倭においても、交易の品物としての生口を獲得するための戦争がなかったかどうかが課題である。

【古墳時代】
 大和朝廷は東北の未服属民を蝦夷、九州では熊襲、内陸部では土蜘蛛と呼んでいる。自分たちだけが人間で、他は動物という認識なのである。征服戦争の際に捕虜の奴隷化が当然のように行われたであろう。
 蘇我馬子と聖徳太子の連合軍に敗れた物部守屋の一族は奴婢とされて四天王寺に施入されたことが「日本書紀」に明記してある。
【奈良時代】
 「日本書紀」によると、大化の改新(645年)で良賤の別が定められた。中国の制度を模倣した律令体制の整備により、奴婢の身分が明確になり、良民と奴婢の間の子は奴婢の子とされた。奴婢の数は当時の人口の約10%といわれている。留意すべきは、良と賤の子は必ず賤、つまり両親の身分の低い方に帰属させることが決められたことで、身分制を維持するための施策と考えられる。これは大宝令にも受け継がれている。さらに「日本書紀」には大解除(おおはらえ)の祓柱(はらえつもの)に奴婢があてられたことが記述されている(681年)。
 律令国家においては、賤民は5つに区分された(五色の賤)。良賤間の通婚の禁止はもとより、同類の身分の相手としか結婚できないという「当色婚」が原則であった。国家権力によって婚姻をはじめ、罪刑、衣服などの面での差別があり、良民と一線を画す支配が行われていたことがわかる。
 近江の国司解文(746年)に当時稲1000束現代の価格でいえば約100万円程度で奴婢を売買した記録が残っている。当時の牛の価格が稲500から600束、馬が800から1000束程度であった。東大寺の大仏建立工事が進んでいた749(天平勝宝元)年、藤原仲麻呂は容姿端麗な15〜30歳の奴婢を、東大寺に貢進するように全国に命じた。翌2年、美濃国司の大伴兄麻呂らは美濃国内から奴3人、婢3人を貢進した。このうち、小勝と豊麻呂は、各稲1,000束の代価で買われている。
 奴婢には、国家が所有する公奴婢と個人が所有する私奴婢がある。、私奴婢の場合、主人が虐殺しても、役所に口頭の届け出をすればそれで済み、罪にならなかった。

(続く)

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