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おやさま

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[0] 基本。 2006/11/21 22:43

中山みきというお方は、自分のことを世界の人間の親だという思想を持っていて、
それで、世界中の自分の子供は、みんな兄弟だという思想の持ち主でした。

奈良県天理市にある天理教会本部では、天理教の教祖を「おやさま」と呼んで、また、親神様として、信心しています。

しかし、「おやさま」の思想は、天理教という宗教思想というには、より大きな思想であり、宗教云々を絡めると、その思想が理解されない、狭い道に陥ることになります。
そこで、ここでは、全人類のおやだと自称した「おやさま」の思想そのものを、宗教は一切絡めないで、論じ合いたいと思います。

中山みきさんのことを、全人類のおやだと思う人も、思わない人も、ここでは本人の思想の一部である「おやさま」という共通の呼び方で呼んでください。
そして、絶対に、宗教を絡めずに、その思想について、討論しましょう。

ここでは一切、宗教の絡みは語らないルールです。

天理教という宗教の絡みは、ザ・天理教を語る4があります。
http://religion.bbs.thebbs.jp/1163859118/
また、天理教と政治の問題への基本の立場は、「教理とひながた」
http://www.yousun.sakura.ne.jp/public_html/wforum/wforum.cgi
にありますので、そちらのBBSなどへどうぞ。

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[1] 基本。 2006/11/21 22:46

「おやさまの思想」� 念が入ったら血がくだる。

慶応三年のええじゃないか、はどのようなものであったか。

http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020621b.html
2002年6月21日(統一テーマ:『幕末』)
ええじゃないか  田中愛子
 ええじゃないかとは、慶応三年(1867)、伊勢神宮の神符等が降下したということを発端として起こった、乱舞を伴う狂乱的な民衆運動である。
 ・・・
 初発は慶応三年の七、八月頃、収束は翌四年の四月ごろであろう。
 ・・・
 ええじゃないかの流れは、概ね次の通りである。
 まず、御札が降る。
 降下した神符類には伊勢神宮の御札が多かったが、その地域で信仰されていた神社仏寺の御札、仏画、仏像、銭などもあり、非常に多種多様である。
 御札が空からあたかも雨のように降り注いで来、民衆が狂喜乱舞している、という絵や記述が残されているが、御札発見時の状況はそのようなものではない。朝起きると御札が家の前、軒下、垣根、庭、藪などに落ちていたという記録が多い。また、鳥が御札を落としていったという記録もある。この発見時の状況から、誰かが夜間密かに御札をおいていった、あるいは、何者かが鳥を使って御札を撒いた、というように考えることもできる。
 御札が降ったとなると、その御札は祀られ、さらに、祝祭が開かれることとなる。
 御札を祀り、祝祭を開く理由は2つある。ひとつは、神仏によって齎される災いへの不安、恐怖である。もうひとつは、降札は神意による降札であり、喜瑞、特に、世直しや豊作を示す喜瑞であるとして、祝うべしとするものである。
 自然発生的に祝祭が開かれることもあれば、村の指導者層や宮司たちによる協議で祝祭の開催が決定され、彼らの主導のもとに期限を決めて祝祭が行われることもあった。
 祝祭の内容は、着飾り、行列を組んでの社寺へ参詣する、手踊りの行列が出る、酒が振舞われる、蒔き銭、蒔き餅が行われる、等である。
 こうした祝祭は、特に東海地方では、通常の祝祭の秩序内で収まることもあったが、これは、ええじゃないかとしては少数である。
 祝祭は過熱化し、狂乱状態へと突入する。たとえ役人主導で始まったものであってもその制御を超え、狂乱に陥る。祝祭日は通常二夜三日に限られていたが、狂乱状態が抑制不可となり、七夜七日に延長されるということもあった。あいついで御札降りがあると、そのために祝祭が連続して開催され、狂乱を拡大させる要因となった。
 その狂乱の内容は、「ええじゃないか」の文句をくり返す歌と踊り、異装の行列、無礼講的な祝宴と大盤振る舞い等である。日ごろ心よく思わぬ富者の家に押し入るということもあった。そこには、例えば狂乱の中に加わっている男子の女装、女子の男装に見られるような、規範の無視や、日常性からの逸脱が見られる。
 通常、領主側、村役人側の命令・指導を以って沈静化し、二夜三日、あるいは七夜七日で狂乱状態は収束する。
 ええじゃないかの背景にあるものとして、概ね次のような事柄があげられる。
 ・世直りへの意識と期待、実現しかかった世直りへの歓喜
 ・おかげ参りの伝統(特に天保一年(1830)のおかげ参りの記憶)
 ・幕末の危機的な政治情勢・政情不安のための圧迫感・不安感。現実の不満・不安抑圧から、自由、陶酔への逃避
 ええじゃないかの仕掛け人として疑われるのは、次のような者たちである。
 ・討幕派志士
  ……倒幕計画を進めるため、幕府に対する目くらましとして、あるいは幕府の支配機構の混乱、人心擾乱をねらって彼らが仕組んだ計略であったとも、彼らがええじゃないかを仕組んだわけではないが狂乱を利用・助長し幕府の目を彼らから逸らしたのだともいわれる。
 御札の版木を持った浪人の逮捕を告げる記録が残っており、また、のちに自ら、御札を偽造して撒いたと述べている討幕派の志士もいる

昭和3年にも、ええじゃないかはありました。
http://www.city.matsubara.osaka.jp/walk/7-108.html

これは、薩摩の情報操作として、研究されています。

おやさまは、権力の情報操作に対して、このように思想を示しています。

「人間の身体にたとえて云えば、あげ下しと同じようなもの。あげ下しも、念がいったら、肉が下るようになるほどに、神が心配」

つまり、情報操作も念を入れると、国民の生命にかかわるという思想です。

[2] 基本。 2006/11/21 22:48

「おやさまの思想」その2 国会ではおさまらない。

おやさまは、ただ一人の正当な弟子の口を通して、国会ではおさまらない。と思想を明示しています。
根本的には、おやさまの立場は、律と神(中山みき本人の内なる存在)を対比させて、

「さあさあ一つの処、律が律が怖いか、神が怖いか、律が怖いか。」
「この先どうでもこうでも成る事なら、仕方があるまい。」

と、律とは真っ向から闘う姿勢でした。
また、おやさまは、律による社会の平等(ろくぢ)はあり得ない事を、思想として弟子たちに説いていました。
そして、律による支配の幸福ではなく、人間の内側に存在する「精神」によって、「この先どうでもこうでも成る」と、その思想を示していました。

しかし、宗教に固執した弟子たちは、おやさまの思想を、律に基づく宗教として世に広めようとし、弟子たちの師に対するむほん同様の状態となりました。
律に従順することで、宗教家という価値に到達しようとあせる背いた弟子たち。
かれらは、こともあろうに、自らの精神を解き放ってくれたおやさまに対し、最も大切な、律による精神の支配を認めないおやさまの思想を、おやさまに説かせまいとしたのです。
それは、おやさまに、死ねという行為そのものであることを、弟子たちは誰も自覚していなかった。・・のでした。

そしておやさまは、命を懸けて、唯一の正当な弟子、飯振伊蔵の口を通して、謀反を胸に抱く弟子につげます。
『「さあさあすっきりろくぢに踏み出す。さあさあ扉を開いて開いて、一列ろくぢ。』
『さあろくぢに踏み出す。』

告げる口は、唯一のおやさまの弟子。飯降伊蔵という大工の口でした。
聞く耳は、律が人間の精神を支配し束縛する。その律の束縛にゆだね、宗教家の栄誉を得ようとする弟子たち。
すでに、高山となってしまった弟子たちに、・・・おやさまは、ただ一人の一番心の低い弟子を通して、
「ろくぢ」に踏み出すことを告げました。

伊蔵はおやさまの精神を、口から発し、兄弟たちに問いかけました。

『さあさあ扉を開いて地を均らそうか。扉を閉まりて地を均らそうか地を均らそうか』。

内なる思想を表に現して、平等な社会をつくるのか、それとも、内なる思想を語らず、閉ざしたまま、平等な社会をつくるのか、
問われた弟子たちには、その真意は、分かるものではない。すでに閉ざしてしまった精神の扉は、律の万能を信じ宗教家の未来を求めるばかりであった。
そして出されたのが、

「さあさあ一つの処、律が律が怖いか、神が怖いか、律が怖いか。この先どうでもこうでも成る事なら、仕方があるまい。」。

この、おやさまの思想でした。

そして、おやさまは、思想を残して、この世から姿を無くしました。
そのねおやさまの思想は、「さあさあ一つの処、律が律が怖いか、神が怖いか、律が怖いか。」「この先どうでもこうでも成る事なら、仕方があるまい。」と、口から発した大工の伊蔵
の口によって、
「国会ではおさまらん」と告げられています。

[3] アルテミス 2006/11/21 23:17

こんばんは。
簡単に今の気持ちを語りますと、おやさまは『天の理』を説いたけれど、その存在も『天の理』そのものであると感じています。

そしてその『天の理』という世界は、この世のどの宗教より広くて深い、そのように思います。

[4] BigBug 2006/11/21 23:26

>>0
人生論を語るのであれば、いいですが、
「宗教の絡みは語らない」のであれば、別の(哲学など)カテに行った方が良いと思います。(ほとんどレスつかないと思いますが)

[5] アルテミス 2006/11/21 23:42

社会の中の人生という事なので、かまわないと思います。

もっとも、『天の理』という世界はどこにでもあると思いますが。

[6] 基本。 2006/11/21 23:43

>>4
助言有難うございます。
おやさまの語られた言葉のなかの「真理」について語り合うという意味では、ここが、一番妥当かなと思います。
当スレは、おやさまの、教えそのものを語り合うということで、宗派論や宗教組織論を語らないという意味です。

おやさまの教えの「真理」について、語り合いましょう。

[7] 基本。 2006/11/21 23:48

>>0
に追加情報です。

おやさま(天理教祖)の語られた、教えの真理そのものについて語り合うということです。
宗教の組織論や宗派論というようなものは、からめないで、「おやさま」の言葉、教え、行動そのものについて、語り合いましょう。

[8] 基本。 2006/11/22 01:08

おやさまの思想の対極をなすものを指し示す時に「世界並」と言う言葉を、おやさまは示して居られます。

その中でも、「見えてから言う」「見える前に言う」、これを対比して、

 「見えてから説いてかかる」→「世界並」

と、いう思想表現があります。
これは、人生観において、重大な分け目となる思想です。

歴史を振り返って語るのは、「見えてから説いてかかる」、そのものですから、「世界並」。

未来を予測して語るのが、大切という思想を、見いだせます。

[9] トリップ 2006/11/22 01:16

>宗教の組織論や宗派論というようなものは、からめないで、「おやさま」の言葉、教え、行動そのものについて、語り合いましょう。

ただ、そうなってくると必然的に
「正しい」「悪い」とかいうことは、挙げられなくなってくるけど、それでよい?

[10] 傍陽気 2006/11/22 03:30

社会的思想で宜しいのでしょうか。難儀している貧しい人々の為に、谷底に暮らす人々の為に、難儀から解放されるよう語られた思想は谷底せりあげという思想です。皆が平等になる為に、谷底が、自ら競り上がってより高い位置へと、それは闘争とか言うものではなく、政治に訴えると言うものではなく、谷底自らが競ってせりあがる平等な、「ろくじ」という社会的思想をお持ちの農家のご婦人でした。

[11] 傍陽気 2006/11/22 04:17

おやさまは、「さあこれから世界の普請に取り掛かる。皆祝って下さい。」という一声で、その先頭に立って実現に向けて、江戸の末期に社会的活動をお始めになりました。その初めての社会的活動、行動は中山家と言う自らの家のこぼちを皆に祝ってもらうというものでした。

[12] 基本。 2006/11/22 05:45

>>9
> 「正しい」「悪い」とかいうことは、挙げられなくなってくるけど、それでよい?

ひとつひとつの意見に対しては、賛否が生まれるかも知れませんが、それは、「善悪の問題」というよりも、思想への各人の意見の相違と言うだけのことですから、見解の上での対立と言うことで、討論があるかもしれません。
各人に、お任せします。

>>10-11
谷底せり上げと言うことは、おやさまの思想の最重要なもののひとつと、思います。
傍陽気さんの言われる>難儀から解放される、とは、具体的にどんなことを意味しているのか分かりませんが、基本的には、生活基盤そのものの、基盤の確立にあると思います。
しかし、それは、「資本」と呼ばれるものの事ですが、資本を平等に分け合うという事で、生活基盤が谷底の者に与えられると言うような、簡単なものではないと、思います。

貧乏という、経済的困窮という原因を、経済的に救済するということだけを、おやさまは、谷底せり上げの思想として示されただけではないと言うことです。
貧乏からいかに「せりあがるのか」。
これが、おやさまの思想の根底にあると言うことだと、思います。

それは、傍陽気さんが言われている、
> 「さあこれから世界の普請に取り掛かる。皆祝って下さい。」
この、おやさまの言葉にあふれている、積極性の裏付けに、何があるかという事でしょう。
自分の家が、没落していくことを公然と、皆と祝う。

そこには、その貧乏から吹きあがる事を、せり上げというんだよと、そのままに、示した、教祖の思想があります。

[13] 基本。 2006/11/22 06:04

>>12
谷底せり上げと、家の取り壊し。
この、矛盾した、二つの方向が、何故ひとつなのか。
そこには、重大なキーがあると思います。

おやさまの思想を示す言葉として、
「おちこめ、おちこめ」とか、「難儀せねばなんぎなるものの心わからん」とか、そういう、おやさまの内側から放たれた声があります。

この意味は、吹きあがるという大前提で、成り立つものです。

それは、吹きあがったときの、後の姿として考えたとき、吹きあがりの後に、「難儀なる者の心」「なんぎなるものの心」。これが分かっていなければ、単に、新たな高山がひとつ出来ただけだ、ということに過ぎないからです。

難儀している人の心が分からないのは、難儀したことがないからだ。
そういう、消極的な話ではなく、難儀そのものを良く知り、難儀な者の心が分かれば、もう誰も、誰一人も谷底をつくらなくてすむという、思想だということです。

往く、還える。と書いて、「往還」と呼ぶ、それは、おやさまのろくぢ思想の完成した姿を呼ぶものだと、基本は、考えています。
最下位のチームが優勝する可能性もある事が、往還であるという思想です。

「おふかん道」というように、おやさまは言われていますが、谷底に「おふかん道」を付けるのだという、おやさまの思想には、消極性はまるで見られません。

[14] 基本。 2006/11/23 23:29

「見えてから説いてかかるは世界並み」「見えん先から説いておくぞや」

このおやさまの思想は、徹底したものであり、預言者としての自らを定義しています。
見えてから説かないという事は、自らの発した思想の「永遠性と持続性」を普遍的に、保障した宣言であり、無責任ではないという事になります。

おやさまは、文久2年に、安堵村の飯田善六さんの子供で、飯田岩次郎と言う子供が病気の時に、おやさまの治癒能力にて、救済すると言う「おたすけ」をしています。
その後、飯田善六さんに対して、「あんたは前世でおじさんと言う血縁者であった」と、因縁の事実を告げています。
そして、金貸しをしていた前世では、寝ている病人の布団まで剥いで、回収した、守銭奴であったと、心の入れ替えを諭しています。

おやさまの思想の、「いんねん」思想の一端を示しています。

一つは、つまり、おやさまと親戚であるという事は、金貸しの因縁がある。と、いう事の意味ですが、中山家も金貸しをしていた。
その、因縁においては、「おんなじ」であるという、「因縁に隔てなし」と、言う思想です。

もう一つは、前世人を泣かせて金を集めてあれば、今生、自分の病気の姿として、苦しむことになると言う、思想です。「撒いた種は生える」という、思想です。

そして、もう一つは、そうした自分の悪い方の因縁を自覚し、心を入れ替えるならば、心を洗った結果として、人をたすけるための「こうのう」を、不思議な力を得られると言う、「人間は皆、綺麗な水と言う」共通の因縁です。

そこで゛飯田家では、教祖が来られるたびに、近在の悩む人を集めて、大勢のおたすけを、していました。
それは、本来は、前世の悪しき種を散財にて取り去る、「散財」であるべきものでした。
しかし、息子に、「水のさづけ」という、効能を授かったことから、飯田善六は、「散財」のために為す救済ではなく、「蓄財」のためになす、「不思議な水のさづけ」の悪用を胸に抱いていました。
金貸しとしての、悪行時代の悪因縁の心の根が、切れていなかった。
のでした。

その時、みえぬ先から説く、おやさまは、文久四年の事でした。
  さあさあ この屋敷をこうずい場所
  水屋敷といういんねんをつけおく
と、お言葉を以て、水屋敷の「はんらん」を、予言しました。

おやさまの教えの、真理を、最初はそうでないのに、やがて拝み祈祷の宗教に利用した人に、おやさまは、あらかじめ、「水」のさずけを与えているのも、ひとつの、予言です。

「水は」
まず、「おちこめおちこめ」。
「水は」、
貧に落ちきる事で、吹き上がるのだという、証拠の、さづけ。
見えない先に、といている、おやさまでした。

[15] 基本。 2006/11/25 21:45

おやさまの思想には、「ためし」と言う思想があります。
それについては、おやさまの、このようなお言葉があります。

『・・・ためしというは、人救けたら我が身救かる、という。我が身思うてはならん。どうでも、人を救けたい、救かってもらいたい、という一心に取り直すなら、身上は鮮やかやで。』
これは、加見兵四郎さんという人に諭した、教祖の思想です。

つまり、「ためし」のない者は、「ためし」をすませてない人は、
『人を救けたい、救かってもらいたい、という一心』ではない者、とていう思想です。

文久二年には、同様のエピソードが記録されています。
れんだいこさんと言う、天理教祖中山みき様の思想を研究されている方がまとめた、ものから、引用します。
れんだいこさんの、研究をご紹介しよう。http://www.gameou.com/~rendaico/mikiron/nakayamamikikenkyu_31_2.htm
 「この時文久3年12月10日の7ッ時なり。老婆とは、天理教教組、奈良県山辺郡三島村中山善兵衛様の令室、みき様なり」の書き出しで始まり、以下、みきのおたすけの様子が次のように記されている。「(中略)老婆は家族の者に一礼を述べ、病人の枕辺に至り、満面笑みを含ませられ、薬要らぬ、川に流しておくれ。祈祷するにも及ばぬ。皆、断り為したがよろしい」なる前口上が為されたことが明らかにされている。
「教組には御入りありても、別にまじないのようなこともせず、神仏を祈念するでもなく、居合わせし人にこれから先の道すがら、その道筋というのはな、これこれに変わる、世の中はかようかように移るのや。又は、人間の始まりはどういうことというならば云々と、謡う如く話するが如く、耳慣れぬ不可思議のことのみを語られました」。

 (文久4年正月、みきは再び安堵村の飯田宅に足を向けられた。)
 「老婆のまたもや安堵に参り落ち着くと聞くや、ますます多人数毎日夜のあけるを待ちては寄り来たり、門を開くを待ち兼ね、われ先にと入り来る有様なれば、家内一同仕事も出来ぬことゆえ、母上の思うには、これでは働くことかなわん、老婆に帰りて貰うにしかじと心のままを申し上げたるに、不思議なるかな、たちどころに身体そのまま動くこと出来ぬようにしびれ、息の止る如き心地して言葉も出しえず、如何とも為すことならぬよう相成りたり。家内一同驚き恐れ、顔見合わせ居たるのみなりしが、父上には老婆の前に進み、いろいろとお詫び申し入れたるに、老婆いつもながらに御笑い為されて、『さあさあ、これはな、無い寿命も助かるは神の力なるぞよ』、『さあさあ間違いやて゛間違いやで、我が子さえたすからば』、『人はどうでも良いという心得、その心を入れ替えて懺悔させねばならん』と教組はおっしゃって、母上も恐れ震いて懺悔せしかば、すぐさま自由用叶うようになりたり」。

『さあさあ間違いやて゛間違いやで、我が子さえたすからば』、『人はどうでも良いという心得、その心を入れ替えて懺悔させねばならん』

これが、安堵村の飯田家に、「ためし」の思想を示されたものです。

薬を全て川に流したのも「ためし」です。
我が子がたすかって、他にたすけを求めて集う人々の事を、たすかって欲しいと思わないでいた、その時の飯田家の妻女に諭し示したのは、神一条とは何かという、思想の、真髄でした。

 このたびハたすけ一ちょにかかるのも
 わがみのためしかかりたるうえ     三号44
 たすけでもをがみきとふでいくてなし
 うかがいたてていくでなけれど     三号45
 このところよろつの事をとききかす
 神いちじょでむねのうちより      三号46
 わかるよふむねのうちよりしやんせよ
 人たすけたらわがみたすかる      三号47

教祖の、ためしの思想は、「拝み祈祷」「伺い」を、否定しています。

否定しつつも、「いくてなけれど」と、けれど、人間にはそういう道があることには寛大なお心を示されています。

 いままでハいかなる神も山々に
 をがみきとうとやうたなれども     六号26
 このもとをしりたるものがあるならば
 たづねいてみよ神がゆるする      六号27

今までの拝み祈祷の神をたずねることは、許されているおやさまでした。

[16] 基本。 2006/11/26 22:50

>>14
> 「見えてから説いてかかるは世界並み」「見えん先から説いておくぞや」
> このおやさまの思想は、徹底したものであり、預言者としての自らを定義しています。

> その時、みえぬ先から説く、おやさまは、文久四年の事でした。
>  さあさあ この屋敷をこうずい場所
>  水屋敷といういんねんをつけおく
> と、お言葉を以て、水屋敷の「はんらん」を、予言しました。
安堵村、水屋敷の飯田岩次郎さんの入信は文久3年(1863)でした。
30年後の明治28年に、おやさまの思想の後継者である大工の伊蔵様を通して、その月、飯田岩次郎が設立した平安支教会のみちについて、教会の龍頭に゜相当する平野楢蔵に、その三十年の道を見抜き見通しだというおやさまの思想を告げています。
文久四年(1864)に知らせた予言そのものは、やはり三十年後の明治28年(1894)に、30年前と3年前の二回の予言のようになると、平野楢蔵に教えています。
予言が解読できなかった、ために、不幸にもその該当の年に、飯田岩次郎は橋本清と密約して、「はんらん」を起こしています。

預言者のおやさまの思想をそのままに、大工の伊蔵も予言的行動をしています。
水のさづけという、もので例を見るなら、山名の、諸井ろく、という小児に、水のさづけを与えています。
諸井ろくと言うのは、山名の初代の諸井国三郎さんの後妻さんの娘です。
後の初代表棟梁、諸井慶五郎は、諸井ろくさんの夫です。

明治21年(1888)年、ろくさんは、水のさづけを頂かれています。
そして、30年後の大正7年(1918)に、ろくさんの父、国三郎さんが死ぬと、葬儀において、喪主が二人並び立つと言う、異例な状態が起こり、「教統問題」が起きています。
先妻の娘婿で二代会長の清麿と、後妻の娘婿の戸主の慶五郎が、譲らずに並び立つと言う、継母継子の騒動が勃発したのでした。

つまり、水のさづけとは、それを頂いて30年の将来に対するものであると言う、おやさまの思想は、大工の伊蔵さまだけには、きちんと一つであったと言う事です。
 因業金貸しに水屋敷  →30年→水屋敷のむほん。
 後妻の幼女に水の授け →30年→教統問題(教会の正統後継者争い)

いんねんを切るには、「おちこめ」「おちこめ」。
おやさまには、みずからのひながたでお示しの事でした。

[17] 傍陽気 2006/11/27 01:32

明治24年11月15日夜一時 本席様身上より願い
一日経ち十日経ち
言うている間に二十日経ちついには忘れる

確かに、見えん先から説いておく中山みきは預言者です。

[18] 傍陽気 2006/11/27 01:57

おやさまは自ら自身を存命で、姿は無いけど存命は本当であると馬鹿げた事を言うのである。何を持って存命と言えるのか。雛型ではみな教祖は生き神様と言っていた。それが我々にも得心できないのはおや様らしくない。だから扉開いて後も、時間と言う月日によって確かに中山みきは存命でいる事が、その姿を拝見できない今においても誠にできる。おやさまは現実に月日と言う中に生きている。

[19] 傍陽気 2006/11/27 02:23

天理教会と言う道中にそんな予言が在ったとして、たとえ在ったとしてそんな事でどうして「世界の普請」ができるのか。まだ教えてもらってませんが。

[20] 基本。 2006/11/27 07:18

>>19
おやさまの思想においては、時間と言う概念は、人間の時間に対するそれを、はるかに超えています。
一日と一年、そして一生は、同じ理であるとの思想がそれです。
三十年かかる道も、三年の道も、三日の出来事にしか過ぎないと言う、思想を、教祖は示されています。
> 天理教会と言う道中にそんな予言が在ったとして、
> たとえ在ったとしてそんな事でどうして「世界の普請」ができるのか。
> まだ教えてもらってませんが。

この世のためしについて、理が見えるには、おやさまの残念を晴らすこと、大切と、思います。

[21] 基本。 2006/11/27 11:54

>>19-21
おやさまは、「こうき」という思想を提言されています。
おやさまの世界たすけは、「たすけ一条」とおやさま自らが定義をなされています。
おやさまの「たすけ一条」は、外観上のたすける立場の人と、たすけられる立場の人は、二つ一つにひとつであり、ともにたすけ一条である。一つであるとされています。

 このたびハたすけ一ぢよをしえるも これもない事はしめかけるで 三号17
 いままでにない事はじめかけるのわ もとこしらえた神であるから 三号18
 にちにちに神のはなしがやまやまに つかえてあれどとくにとかれん 三号19
 何ににても説かれん事はないけれど 心すましてきくものハない 三号20
 すみやかに心すましてきくならば よろづのはなしみなとききかす 三号21
 このよふのたしかためしがかけてある これにまちがいないとをもえよ 三号22
 このためしすみやかみえた事ならば いかなはなしもみなまことやで 三号22

おやさまが、たすけ一条のうえで、この世にかけた「ためし」が、間違いないと思うこと、そして、そのためしが見える事が、何よりもの、大切な事です。

 はやはやとみへるはなしであるほどに これがたしかなしょこなるぞや 三号26
 これをみてなにをきいてもたのしめよ いかなはなしもみなこのどふり 三号27

おやさまが、確かに仕掛けたためし、の目的は、「このどうり」と示されています。

 人のもの借りたるならばりがいるで
 はやくへんさいれいをいうなり    三号二八

即ち、「債務奴隷社会」からの脱却と言うためしです。

[22] 基本。 2006/11/27 14:23

>>21
> 人のもの借りたるならばりがいるで はやくへんさいれいをいうなり 三号二八
このおやさまのお筆先は、「人がものを借りたなら、利息もいるし、はやく返済して例を言うがよい。」(芹沢茂・おふでさき通訳)と、解釈されています。
さらに「(二八)に賃借のたとえをもって、お話下された真意は、・・貸物借物の教理を暗示している。」(芹沢茂・おふでさき通訳)と、このような解釈まで生んで、借りたら、利がいるから、お供えをしなさいという横暴教理として信者に強要している宗教もあるようです。
これは、大きな間違いで、宗教の因縁と言うものの自覚の無い姿です。

「債務奴隷」と言うのは、どのようにして生まれたのか、日本の場合を、学者さんの研究に教えて頂きますと、「貨幣の散歩道」には、このように書かれています。
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_11.htm
『12世紀になると、各地からの律令税の徴収や年貢米の都への輸送に不可欠な商業・輸送ルートを掌握していた神人(じにん)・供御人(くごにん)が請け負うようになった。彼らは、公家や社寺に奉仕者として仕えることが認められた特権的武士であり、天皇や神仏の権威により日本中を自由かつ安全に行き来することができた。』

http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_12.htm
『中世において社寺は有力な封建的土地所有者であっただけでなく、蓄財の利殖のため、金融業をも営んでいたのである。借銭・利銭、祠堂銭とも利息は年利5〜6割と高利であったことから返済は容易ではなかった。そのため、担保に差し入れられた土地・地頭職などが土倉や社寺の手許に流れるというかたちで御家人階級や農民の生活を圧迫した。
 出挙、借上、土倉、祠堂銭など、古代から中世にかけてみられた金融取引の多くが神社・仏閣により営まれていたという事実は、非常に興味深い。第1に、当時の社会における富の分布や金融取引が神仏と密接に繋がっていることを示しているからだ。第2に、彼らの金融業者としての拠り所は、「債務不履行は神仏の供物を奪う行為であり、そうした輩は死後地獄に堕ちる」という宗教的な返済強制力にあり、借り手も神仏の冥罰をおそれて約定どおり返済に努めたのであった。 』

つまり、文久の時代の飯田善六さんが五代前には、おやさまのおじさんで、宗教からみの金貸し「土倉」をしていたと、その因縁が、私にもあるよ、と、それがおやさまの、思想です。
それが

[23] 基本。 2006/11/27 14:49

>>22
(つづきです。)
それが、元々のいんねんが出て、宗教というもので『金を搾り取る』という、水屋敷の反乱につながったという事なのです。

紹介しました、「貨幣の散歩道」というサイトでは、日本の債務奴隷について、歴史がこのように語られています。
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_05.htm
�、日本においても古くから、出挙(すいこ)と呼ばれる金融取引が行われていた。
 これは、稲の貸借取引であり、もともとは豊作を祈念して神社に捧げられた初穂を翌春、神社が種籾として農民に貸し付け、秋の収穫時に利息に相当する利稲を付加して返済させるというものだった。
 ・・・第1に、農民からみた場合、種籾を貸与してもらえるため、種籾の確保を一切考慮することなく、収穫米を消費することができた。
 第2に、天災や飢饉に備えた米の集団備蓄が制度的に進められることになった。
 第3に、これが最も重要な論点であるが、神社からみた場合、ストックとしての富の品質維持が挙げられる。
 富としての米の価値を維持していくためには、少なくとも年1回程度は米の入れ替え取引を行う必要があり、これを農民の利益向上に繋がるような仕組みに仕立てたのが出挙と考えられる。
�、出挙は、大宝元年(701)に制定された大宝律令により制度化され、
 国衙(こくが)が班田農民に春先に貸与した種籾を、収穫時に利子を付加して徴収する制度のことを指すようになった。
 これを公出挙(くすいこ)という。公出挙は、種籾まで食してしまった農民の救済措置として始まった。

農民の豊年を祈願しての、神事において、また、万一の時の福祉において有効な制度であったはずの、「大宝律令」が、実は、「債務奴隷」を大量に生み、大社高山による差別社会の統治に悪用されたと言う事です。

�、しかし、その利息が年5割にものぼる高利であったため、次第に税のように強制的なものとなった。
 各地の国司はこの利息を当初は公共事業や国分寺の造営費用に充当していたが、やがて自らの懐に入れるようになった。
�、平安時代になると、土豪化した在地領主も出挙を行うようになった。
 これを私出挙(しすいこ)という。私出挙は半ば強制的に行われたが、その利息は、当然のこととして公出挙よりもさらに高利であったため、実質的な税として農民を苦しめた。
�、私出挙においては、貸し手の債権保全のため、農民の宅地・奴碑・雑蓄のほか口分田までが質物となった。
 利息未払いのため土地や家屋を没収された農民や、追い立てから免れるため逃亡する農民が後を絶たなかった。
 平安中期には、債務不履行となった場合、質物の所有権が債権者に移転する流れ質が一般的になったからだ。
 そうしたなかで、農民は債務奴隷へと墜していった。

鎌倉時代から明治時代までの封建制度のなかで、身分の格差と所得の格差は拡大した。
身分差拡大にそっせんしかかわった、その当事者が、「神社・仏閣」であったという事を、きちんと因縁として、自覚しなければなりません。

心澄まして思案してみましょう。
大宝の律令によって、農民には口分田が与えられ、神社は農民の豊年を祈願し、種もみを貸し与えた。

いつの間にか、それに利息をつけて、利を貪り、「土倉」を建てて富を蓄えた。
それは、宗教のしてきたことだった。
権力の高山を利用しての悪行三昧。
絶望の民衆に、「あの世の極楽」を説いた詭弁。

その詭弁を、おやさまは、厳しく、理を責めておられます。
人間を債務奴隷にしている、してきた、高山、そして大社。
このおふでさきは、きちんと理を示しています。

 人のもの借りたるならばりがいるで
 はやくへんさいれいをいうなり    三号二八

債務で縛り付けて、その人のものを借りて利用しているが、それならば、利がいるで。
早く返済し、例を言うが良い。

人を人が債務で支配する。その、債務奴隷からの開放こそ、おやさまの思想の一とすべきもの、世界ろくぢへの道です。
大社高山は、宗教は、債務奴隷の生みの親です。

[24] 基本。 2006/11/27 15:39

おやさまの思想は、「豊年をもって、世界ろくぢにする」と言う思想です。

その豊年を祈願する「拝み・祈祷」の宗教が、実は、日本の身分差別社会のルーツとして、「債務奴隷」を生み出し、富を蓄えて、大社高山として、谷底支配の一役を担っていた当事者であった。
それは、日本だけの問題ではありません。

「古代の奴隷制度」のサイトを参照しましょう。
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-16-2.html

『[聖書と奴隷]
 イスラエル人自身が私有財産として所有する奴隷に関しては、イスラエルの神もイスラエルの指導者も解放する意思を持ってはいない。イスラエル人が多くの奴隷を持つことは、他の財産と同じく、神のイスラエル人に対する恵みとされている。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、皆、数多くの奴隷を所有しており、私有財産として売買していた。

「わたしヤコブはラバンのもとに滞在し今日に至ったが、牛、ろば、羊、男女の奴隷を所有するようになった。」『創世記』
「ヨセフは、エジプト中のすべての農地をファラオのために買い上げた。飢饉が激しくなったので、エジプト人は皆自分の畑を売ったからである。土地はこうしてファラオのものとなった。また民については、エジプト領の端から端まで、ヨセフが彼らを奴隷にした。」『創世記』

 旧約聖書のなかでもっとも有名な物語はモーセがエジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を解放し新天地カナンへと導き出した物語である。旧約聖書の第五番目の書である『申命記』によれば、モーセは、カナンの地を目の前にしたイスラエルの民たちに対して、その地に入ったらいかに行動すべきかを教えている。モーセは、先住民は殺すか、さもなければ奴隷にせよ、と教えている。

「ある町を攻撃しようとして、そこに近づくならば、まず、降伏を勧告しなさい。
もしその町がそれを受諾し、城門を開くならば、その全住民を強制労働に服させ、あなたに仕えさせねばならない。
しかし、もしも降伏せず、抗戦するならば、町を包囲しなさい。
あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。
だだし、女、子供、家畜、および町にあるものすべてあなたのぶんどり品として奪い取ることができる。
あなたは、あなたの神、主が与えられた敵のぶんどり品を自由に用いることができる。
このようになしうるのは、遠くはなれた町々に対してであって、次に挙げる国々に属する町々に対してではない。
あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国民の民に属する町々で息のある者は、一人も生かしておいてはならない。
ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。」

 神も神のしもべモーセも奴隷制度に対して何の反対もしていない。イスラエル人が他の民族の奴隷になることはいけないが、他の民族がイスラエル人の奴隷となることはむしろ奨励されているのである。
 さらに、聖書によれば、ノアの子供たちが、セム、ハム、ヤフェトの3人である。
セムの子孫がアブラハム、ハムの子孫がアフリカ人、ヤフェトはその他の民族の祖となった。
3人のうちハムがノアを犯した罪で肌を黒くされ、呪われた民になったとおとしめられた。
黒人差別は、「神との契約を守るため」と、信仰からも長く正当化されてきたのである。』

このように、聖書は、債務奴隷を肯定しています。
新約聖書についても、債務奴隷を肯定する立場を説く牧師は、今もいます。

宗教は、高山思想の強大な裏づけとなり、谷底を、奴隷として支配する人間の歴史は、今日も続いています。

その人のものを、債務を理由にして、支配し思うがままにする。
この高山因縁は、先ず、とことん洗いきらなくてはならない。

水を澄み切らせること。
水のさづけの教訓こそ、おやさまの谷底せり上げの大前提となるべき、よふぼくの心得です。

[25] 基本。 2006/11/28 18:52

日本においても、宗教は奴隷を生み育てていたと言う、歴史があります。

こんな文章に驚かされました。
http://www.pref.saga.lg.jp/at-contents/kenseijoho/koho/sagamaga/12/power3.html

女性解放の点でも、江藤は画期的な先覚者で、人身売買禁止令を布告し、神社仏閣から女性を解放したり、女人禁制の登山を自由化している。

[26] 基本。 2006/11/28 18:57

>>25
> 人身売買禁止令を布告し、神社仏閣から女性を解放した

神社・仏閣が、女性を奴隷としていたとの意味である。
調べなければなるまい。
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-16-5.html

�.日本の奴隷制
日本でも古代から最近に至るまで、さまざまな形の奴隷制、人身売買が行われてきた。

【縄文時代】
 三内丸山遺跡東北部の墓域には列状に墓がならんでおり、なかには他にくらべてすぐれて大きいものがみられる。また、土器に入れられた者、穴に葬られた者の別がある。その明確な差は社会階層をしめすものであろう。さらに、北側の谷から人骨が発見された。墓に埋葬されず、ごみと一緒に廃棄された人がいたのである。さらに、集落構成の規則性や膨大な労力を必要とする巨大構築物からも、当時の縄文社会が、一般にイメージされているような自由で平等な社会とは異なっていたことが推測される。縄文社会においても奴隷が存在していなかったとは断定できないであろう。

【弥生時代】
 107年に倭国王帥升らは「生口百六十人を」後漢の皇帝に献じており(『後漢書』東夷伝)、239年卑弥呼は「男の生口四人、女の生口六人」を議の皇帝に献じ、台与も「男女の生口三十人」を献じている『魏志』東夷伝倭人条(魏志倭人伝)。しかし、他のの東アジア諸国から「生口」を献じた例は。四〜五世紀からしか見られない。生口とは、本来は捕虜を指し、その多くは広義の奴隷とされたと推定されているものの、当時の邪馬台国には「生口」の他「奴婢」がいたことが記載されているため、生口が果たして奴隷であるどうかについては議論の余地がある。

昭和3年9月に、中山平次郎は「考古学雑誌」に『魏志倭人伝の生口』を発表した。この中で中山は、生口を日本初の留学生であると解釈したが、橋本増吉は同じ雑誌に同じタイトルで論文を発表し中山を批判した。橋本の生口論は、捕虜ではないが女王から贈り物として献上された特殊技能の持ち主達、例えば潜水夫のようなものである、とした。この後、二人の間で生口を巡る論争が行われた。途中、波多野承五郎が生口は捕虜であるとし、沼田頼輔がこれに賛同した。昭和5年3月に、市村讃次郎は生口論争に加わりこれを奴隷である、とした。直ちに橋本はこれを批判し、稲葉岩吉も市村説に反論した。しばらく論戦が続くが、しかしやがて橋本増吉は、生口は捕虜を意味しており奴隷の意味も併せ持っていると宣言する。

 近世のアフリカで、輸出用の奴隷を獲得する目的で部族間の戦争が激化したことはよく知れれている。弥生時代の倭においても、交易の品物としての生口を獲得するための戦争がなかったかどうかが課題である。

【古墳時代】
 大和朝廷は東北の未服属民を蝦夷、九州では熊襲、内陸部では土蜘蛛と呼んでいる。自分たちだけが人間で、他は動物という認識なのである。征服戦争の際に捕虜の奴隷化が当然のように行われたであろう。
 蘇我馬子と聖徳太子の連合軍に敗れた物部守屋の一族は奴婢とされて四天王寺に施入されたことが「日本書紀」に明記してある。
【奈良時代】
 「日本書紀」によると、大化の改新(645年)で良賤の別が定められた。中国の制度を模倣した律令体制の整備により、奴婢の身分が明確になり、良民と奴婢の間の子は奴婢の子とされた。奴婢の数は当時の人口の約10%といわれている。留意すべきは、良と賤の子は必ず賤、つまり両親の身分の低い方に帰属させることが決められたことで、身分制を維持するための施策と考えられる。これは大宝令にも受け継がれている。さらに「日本書紀」には大解除(おおはらえ)の祓柱(はらえつもの)に奴婢があてられたことが記述されている(681年)。
 律令国家においては、賤民は5つに区分された(五色の賤)。良賤間の通婚の禁止はもとより、同類の身分の相手としか結婚できないという「当色婚」が原則であった。国家権力によって婚姻をはじめ、罪刑、衣服などの面での差別があり、良民と一線を画す支配が行われていたことがわかる。
 近江の国司解文(746年)に当時稲1000束現代の価格でいえば約100万円程度で奴婢を売買した記録が残っている。当時の牛の価格が稲500から600束、馬が800から1000束程度であった。東大寺の大仏建立工事が進んでいた749(天平勝宝元)年、藤原仲麻呂は容姿端麗な15〜30歳の奴婢を、東大寺に貢進するように全国に命じた。翌2年、美濃国司の大伴兄麻呂らは美濃国内から奴3人、婢3人を貢進した。このうち、小勝と豊麻呂は、各稲1,000束の代価で買われている。
 奴婢には、国家が所有する公奴婢と個人が所有する私奴婢がある。、私奴婢の場合、主人が虐殺しても、役所に口頭の届け出をすればそれで済み、罪にならなかった。

(続く)

[27] 基本。 2006/11/30 09:31

>>26
> 物部守屋の一族は奴婢とされて四天王寺に施入されたことが「日本書紀」に明記してある。
> 藤原仲麻呂は容姿端麗な15〜30歳の奴婢を、東大寺に貢進するように全国に命じた。
> 翌2年、美濃国司の大伴兄麻呂らは美濃国内から奴3人、婢3人を貢進した。
> このうち、小勝と豊麻呂は、各稲1,000束の代価で買われている。

古代の、大社・高山の実像は、ギリシャの民主主義と同じように、「奴隷制度」により、下支えされていたという現実が見える。

(続きです)
> �.日本の奴隷制
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-16-5.html
【平安時代】
 戦乱、飢饉、重税に苦しんで逃亡奴隷が続出し、他方では婦女子を略取・誘拐して売り飛ばす「人さらい」や「人買」が横行した。一般庶民の多くは、払いきれない借金に喘ぎ、人身を抵当にして金銭の貸借が行われて、返済できない場合、人質は奴隷化された。子どもの売買が日常化し、特異な例としては、兄が弟を奴婢として売ってしまったり、自分で自分自身を売ってしまうようなこともあった。
 「山椒大夫」は、もともと説教師が、ささらをすりながら町の辻で語ってきた歌物語である「説経節」であるが、全くの荒唐無稽な話ではなく「誘拐や人身売買による奴隷化」という「事実」が存在していたことの反映である。

【鎌倉時代】
 「長者」とはもともと名望家や富豪の旧家の主人をさしていた。この長者の家に貴族や高位の武士が旅をするときに泊まる風習があった。このとき長者は自分の妻に身の回りの世話、さらには夜伽の相手、いわば売春接待をしていた。その後、客の接待のために専属の女性を雇うようになり、鎌倉時代中期以降は、それが営業化して娼家のようになったという。

【戦国時代】
・・・・
生捕りにされ連行された人々は、下人や奉公人として働かされた。また、親族のいる者は身代金の支払いで在所に連れ戻されるということもあった。戦場にはこうした生捕りの人々を目当てとした商人とも盗賊・海賊とも言えるような人々がいて、仲介手数料を取ったり売買したりして利益を得ていた。また、ポルトガルなど外国商人により、生捕られた人々が海外へと奴隷または傭兵として売られていくことも珍しくはなかった。
こうした「日本国内」の習俗は、朝鮮役の際には朝鮮にも持ち出され、多数の朝鮮住民が生捕りとなり、日本のみならず東・東南アジア各地に売られていった。
・・・
秀吉による統一が達成され、「国内」の戦場が消滅すると、広域的な人身売買停止令が発布されることになったが、その後も関ヶ原役や大坂陣の際には、やはり人身売買も含めて濫妨が行なわれていた。
 では、戦場での濫妨、奴隷狩りはどこまで遡るのだろうか。中世の「公」的行為であった検断・追捕の際の濫妨は凄まじいものがあり、検断者には濫妨に関して大幅な裁量が認められていた。戦場での濫妨の「正当性」はここに由来する。日本では飢饉奴隷(飢饉の時に養った者を下人とすること)と犯罪奴隷(重い罪を犯して死刑になるべき者を許して下人とすること)は正当とされていた。両者に共通するのは、そのままでは失われるべき生命を助けるということであり、これは戦争奴隷にも共通する観念である。

【江戸時代】
 江戸時代になると、幕府は人身売買を禁じたが、年貢上納のための娘の身売りは認め、性奴隷である遊女奉公が広がった。また、前借金に縛られ人身の拘束を受けて労働や家事に従事する年季奉公制度が確立した。
 街道の旅籠屋(宿屋)で、給仕の女が売春することも多かった。江戸時代に「飯盛り女」と言えば駅妓を指す。また茶屋も売色をすることが目的の「遊び茶屋」が少なからず存在した。
 また江戸時代には湯女風呂というものが流行した。
これは蒸し風呂があって、女たちが垢を落とし、また当然色を売ったりもしたのである。
 公娼制とは幕府や政府といった為政者が売春を公式に管理する制度である。公娼制の存在がはっきりわかっているのは16世紀後半、豊臣秀吉が大阪・京都で認可した遊郭である。その後、徳川家康が江戸城に入城。江戸が繁栄し出すとあちらこちらに遊女の店が出来た。1612年庄司甚内が幕府に提案し、作られた遊郭が吉原である。

(続きます)

[28] 基本。 2006/11/30 10:07

おやさまが、「債務奴隷」についてのお筆先にては、
 「人のもの借りたるならば理がいるで 早く返済礼を言うなり」
と、債務そのものの、完済と言う説き方をされている。
その意味は、極めて深いものがある。

寺社が神社が、債務奴隷を拡大再生産させるシステムの温床であったという時代は、近代の明治まで続いていて、かつ、宗教そのものが女性を奴隷として所有していた。
佐賀の江藤新平が、>>25
> 人身売買禁止令を布告し、神社仏閣から女性を解放した
その明治5年には、おやさまの住まいの、丹波市村にあった女郎部屋が、あったという。

元は「金剛院」の住職の男が、愛人に経営させていた、「屋根屋」と言う屋号の店であると言う。(高野友治著作集・第6巻p257-260)
そして、元は「金剛院」の住職の男は、その当時には、大和でも格式高い「石上神宮」の神人であったと言う。(同)

おやさまに、思想的圧迫を直接かけた、「金剛院」、「石上神宮」も又、宗教と言う名の、奴隷支配者層であった。

おやさまは、こうした大社高山に対して、取払いを迫り、毅然として臨まれているが、それでは、現場の女たちにはどうであったろうか。

明治5年に、江藤新平の尽力で、人身売買禁止令を出したとき、この頃、金剛院の妾として、夫が在りながら屋根屋と言う女郎屋のおかみをしていた「おみか」は、この頃既におやさまを知っていたと言う。
そのおみかは、女郎屋を廃業し、抱え女に旅費を持たせて国へ帰したと言う。(同)
おみかの子と孫が、おやさまの前で三味と踊りを披露したともある。

じっと、みつめれば、おやさまの、「債務奴隷」の開放に向けての、凄まじい思いが、お筆先にも、ひながたにも、ほとばしり出ている。
その、債務奴隷の問題は、江戸・明治の問題ではない。
現代の、時代の問題である。

[29] 基本。 2006/12/03 02:25

>>28
> その、債務奴隷の問題は、江戸・明治の問題ではない。現代の、時代の問題である。

子供の債務奴隷の問題は、福祉週評第2回、より引用しよう。

 2002年のILO(国際労働機関)発表によると、働く子どもは世界で2億4600万人(5〜17歳)おり、世界の同年齢人口の6人に1人の割合である。アジア太平洋地域には、世界で最多の1億2700 万人(14歳以下)の働く子どもがいる。また約840万人の子どもが、最悪の形態の児童労働−人身売買、債務奴隷、性産業、ポルノグラフィーの対象など−に囚われている。

 宗教が差別する国、インドの問題は、和泉市立人権文化センター(ゆう・ゆうプラザ)人権資料室
講座「インドのダリット- 差別の現状と解決への課題 -」から引用しよう。

 ナリニ・アーレスユナイテッド神学大学(セオロジカル・カレッジ)教員
*講師はダリット出身(被差別当事者)の方です。
*当日は英語通訳にて講演をおこないます。

 インドには、依然として残るカースト制のもと「不可触賤民」と呼ばれる人々、すなわちダリット(dalit=抑圧されし人々)が1億6000万人いるといわれています。ダリットはその出生を理由に様々な差別、人権侵害を受けています。(中略)
 彼らは清掃業、糞尿や動物の死体の処理、皮革業を強いられ、極端な貧困状態にあります。また債務奴隷の状態に置かれることも多いのです。ダリット女性は性的虐待の犠牲となることが頻繁にあります。またダリットの子どもは債務の返還のために奴隷状態に置かれる事もあります。ダリットの権利の主張に対しては上位カーストからの強い反動があります。ダリットの人権侵害はこうした上位カーストや警察によっても行われ、その責任が問われることは少ないのです。
 こうした「不可触性」はインド憲法でも廃止がうたわれ、またダリット保護法として市民権保護法や残虐行為防止法が制定されていますが、上位カーストの抵抗で機能していません。
 このダリットに対する差別は国際社会においても非難されています。人種差別の根絶を目的とする「人種差別撤廃条約」は「人種差別(racial discrimination)」の例として、「門地・世系(descent)」に基づく差別を明示していて、条約の履行監視機関である人種差別撤廃委員会はインド政府の定期報告書の審査においてカースト制がこれにあたることを明確に示しています。
 [解説文は反差別国際運動(IMADR)「ダリット・グローバル・アクション」(2003年)解説文から抜粋、要約して作成しました。]

「ひとのものかりたるならば りがいるで はやく返済礼を言うなり。」
この、お筆先の思想は、「人のものとは、人の精神であり、肉体を意味している。」

債権の権利の人間が、債務と引き替えに、「人のものである・人の精神」「ひとのものである・人の肉体」を、借りているのである。
それは、早く返済して、礼を言うべきであると、おやさまは、告げてもいる。

債務者に対しては、完済し礼を言えと言う意味ではあるが、債権者に対しても、債務者を解放し、早く礼を言うように、理を、責めておられるのである。

この、「債務奴隷からの解放宣言」こそ、おやさまの思想の、世界ろくぢの根幹である。

 

[30] 基本。 2006/12/03 03:00

おやさまの、思想を知り、平野楢蔵は、「女郎屋」という債務奴隷の所有者であったが、女郎たちに、礼を述べて解放した。
明治18年のことである。

この事は二つの意味を示している。
明治五年の人身売買禁止令は、有名無実化し、法を免れる形で遊郭は経営されていたと言うことである。平野楢蔵は、その経営者であり、暴力で支配していた博徒である。
もう一つは、その楢蔵の「奴隷解放」よりも先に、おみかという女性が、奴隷を解放していたという、先覚の存在である。

> 明治5年に、江藤新平の尽力で、人身売買禁止令を出したとき、この頃、金剛院の妾として、夫が在りながら屋根屋と言う女郎屋のおかみをしていた「おみか」は、この頃既におやさまを知っていたと言う。
> そのおみかは、女郎屋を廃業し、抱え女に旅費を持たせて国へ帰したと言う。(同)

> おみかの子と孫が、おやさまの前で三味と踊りを披露したともある。
「この話は、舞踏をやった当のおますから、筆者(高野友治氏)が、直接聞いた話である。
 当時おますは、七、八才であったようで、踊りが終わるとおやさまが、
 『また来て屋や、』と、仰せられ、お菓子を下されたという話しだ。』
                           (同)

この、明治五年の前年には、おやさまは、「春を売る女を舟で運ぶ」家業の男の、耳の不自由を、たすけている。
大阪の三軒屋の、博多市次郎さんである。
この時、おやさまは、自分の耳が不自由となることで、博多市次郎さんの耳の自由を叶えている。

人も我も隔て無しという、おやさまの思想が、「債務奴隷」解放の思想の、基本にある。

[31] 基本。 2006/12/05 04:12

人のもの借りたるならばりがいるで
 はやくへんさいれいをいうなり    三号二八
おやさまは、明治7年に、このお筆先をもって、人の固有の精神と、それに神が貸し与えた肉体とを、つまり「人のもの」を奴隷のように束縛し利用する「高山」に対して、決然と、その、「返済」即ち「奴隷解放」を迫ったが、それは、明治6年に政府が、地租改正条例(太政官布告272号)を制定、明治7年から地租改正に着手した高山への、厳しい理の責めであった。

地租改正は明治14年に改正作業が完了した。
その間、お筆先は、この高山の意図のどこにあるかを、厳しく理を責めておられる。

 高山は世界いちれつをもうよう
 ままにすれどもさきはみえんで 三号四八

この地租改正は、日本の帝国主義の道に向けての、国家の財政基盤を固めて、国民を牛馬同等のみちにおとしめていく一大悪法であった。
女子の身売り、自作農の小作化、女工哀史、そうした直接的な「債務奴隷」を生み、国民を総奴隷化する道を開けた。
このことを、おやさまは見抜いていた。

明治7年四月、おやさまは、おふでさきに、
 このひがらいつのことやとをもている
 五月五日にたしかでてくる       四号三
 それよりもをかけはぢまるこれをみよ
 よるひるしれんよふになるぞや     四号四
と、日柄を予言した。

明治政府が、地租改正で実行し意図した、国民総奴隷化計画は、日清・日露の戦争において、具現化していく。

おやさまの唯一の弟子、伊蔵は、日清・日露の戦争の件にて、「五月五日」とは、今の事情だと解説している。

「五月五日」
「端午の節句」
「大本営誕生の日」

預言者、おやさまは、奴隷を産む社会は、戦争国家であると、見抜き、理を責めていた。

地租改正、それは、高山が谷底をままにする、税制と言う奴隷制度であった。

[32] 基本。 2006/12/05 07:13

>>31
ここで、現代に至る奴隷史を確認しておこう。
> �.日本の奴隷制
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-16-5.html
【近代】
 明治政府は、1870年(明治3)児童を中国人に売ることを禁止・・
 明治5(1872)年に「娼妓解放令」を出した。しかし、本人の意志に基づく売春行為は認めたため、公娼制度は再び発展、「貸座敷」と名称をかえたにとどまった。・・・
 明治・大正・昭和になっても、たくさんの娘たちが金と引き換えに貸座敷に連れてこられたという。
 山形県のある地方では9万の人口がいたのだが、そこで2000人もの女が娼妓になって村から消えたという話もある。
 昭和恐慌と東北を中心とする農村の壊滅的な貧困により、身売りはピークを迎える。
 製糸・紡績業が発達するに伴い、農村の年少女子が、わずかの前借金によって奴隷的状態に置かれ、搾取されるようになった。
 労働時間は10数時間で、牢獄のような寄宿舎での生活を強制され、逃亡者は残虐なリンチを受けた。
 過酷な労働・生活条件のため、結核などで病死する女工が続出した。このような状態の女子・年少労働者を保護するため、1911年(明治44)工場法が制定されたが、その効果は容易にはあがらなかった。
 売春に関連する人身売買=奴隷的拘束問題は解決困難であり、さまざまな対策が講じられたにもかかわらず、今日まで存続している。

地租改正は、農村を人為的に解体する政策であったと見て間違いはない。

奈良県の場合の一例はここにある。
http://kashiba-city.net/wiki/wiki.cgi/sekki?page=%285%29%C3%CF%C1%C5%B2%FE%C0%B5%A4%C8%BE%AE%BA%EE%C7%C0%A4%CE%C1%FD%B2%C3
(5)地租改正と小作農の増加
明治新政府の財政を確立するための地租改正事業は、明治六(一八七三)年七月に実施された。
 そのころまだ旧幕藩時代の慣行にしたがっていた租税は、主に米を中心とする現物納であり、豊凶や相場の高低で国の歳入が変化し、計画的な財政運営が困難であった。
 そこで政府は、国の税収の大部分を占めていた地租の徴税方法を統一し、現金による収納を企画する。
 その前段階として、まず明治四年に江戸時代以来の作物の作付け制限を解き、換金作物の栽培を公認する。
 続いて翌五年には、百姓を土地にしばりつけていた田畑の永代売買の禁令を解除し、土地の売買を自由にした。
 そして、土地の所有者に地券を交付して課税の基礎を明らかにし、その所有者(地主)に地価の百分の三の地租を現金で納付するよう義務づけた。
 こうした近代的な地租制度の導入も、政府が国の歳入を減らさない方針のもとでは、農民の負担は江戸時代とほとんど変わりがなかった。
 かえって、農産物価の下落した経済の不況時には、貨幣収入が減少して農民の生活は深刻であった。
 一方、地券の交付によって、土地そのものが売買の対象となると、生活に苦しむ小農民は、土地を手放して小作農に転落するものも少なくなかった。
 小農民の手放した土地は、経済的に余力のある地主や自作農のものとなり、地主の寄生化とともに小作農の問題が社会的な重大事となる。
 しかも、小作農は地主に従属して耕作権が不安定なうえ、高率の現物小作料を納めなければならなかったため、江戸時代以来長く続いた苦しい生活から解放されることはなかった。
 奈良県の統計によると、明治二十三(一八九〇)年の葛下郡の小作面積は総耕地面積の四十四・四パーセント、日清戦争後の明治三十三(一九〇〇)年には北葛城郡(葛下・広瀬両郡合併)の小作地率が五十八・七パーセントとなっている。
 それが、昭和五(一九三〇)年の香芝市域の小作地率は、五位堂村六十三パーセント、二上村七十四・六パーセント、下田村五十七・七パーセント、志都美村六十パーセントとなっていて、割合では小作地が増加の一途をたどっている。
 こうした、小作地漸増傾向の中で、大正十四(一九二五)年、志都美村で小作料の軽減を求める小作争議が起き、農民は慢性的な農村不況の中で呻吟する。
 この小作制度の変革は、第二次世界大戦後の農地改革の課題でもあった

[33] 基本。 2006/12/05 21:26

>>1
> おはらいさんが降る。
> おやさまは、権力の情報操作に対して、このように思想を示しています。
> 「人間の身体にたとえて云えば、あげ下しと同じようなもの。あげ下しも、念がいったら、肉が下るようになるほどに、神が心配」

明治政府は、「王政復古」をなすに当たり、大衆の心理に影響をあたえるべく、「お払いさんが降る」という情報戦略を用いて、お払いさんがあると言う神秘現象で、
 「明治維新」→「世直り」という、
神がかり的な演出をし、「幕府」から「朝廷」という流れに民意を誘導しました。

 慶応2年に、あったこと。→「農民は百姓一揆」「うちこわし」
 慶応3年に「高山のした事」→「お払いさんが降る」→「ええじゃないか」

天皇による新政府の政治に対して、民意を誘導するために、「伊勢神宮のお札」を撒くと言う手段を用いた、「維新・高山」は、これから先も、「神社信仰を絡ませて、人心を、誘導する」という操作に、まい進します。

おやさまは、慶応2年には、「あしきはらいたすけたまえ天理王命」のつとめを教えました。
慶応3年には、「みかぐら歌十二下り」を教え始めました。

 明治政府がお払いさんが降るを、作り上げ演出した「世直し」
 おやさまの、みかぐら歌の「よなおり」
 どちらもが、慶応3年の、事でした。

以後、おやさまは、明治政府の「高山」に対して、一貫して、対決姿勢を示したのです。

[34] 傍陽気 2006/12/05 22:18

信長は、神社仏閣と言うものの中に、高山権力そのものを見つめていた。天下布武という多義のため、自身が神にならざるを得なかった。月日の見せてくれた事だと思います。

[35] 傍陽気 2006/12/05 23:23

明治18年夏、神明組でお話に感銘を受け入信した大阪船場の足袋商、宮田善蔵は、今川清次郎の案内で、教祖にお目通りさせていただいた。身上からの入信でない彼は、キセル片手に世間話でも聞くように教祖の結構なお話を聞いていたのだが、その中で、
「商売人はなあ、高う買うて、安う売るのやで。」と言うお言葉だけが耳に残った。そして、善蔵は思った。「そんな事したら、飯の食いはぐれや無いか。百姓の事はご存知でも、商売のことは一向にお分かりでない。」と。

誠に身につまされる逸話です。教祖は百姓の事を御存知だったからこそ、商売人のあり方を、理を説かれた。「今の事」を説かれたんです。突き詰めていうと、百姓が、市場価格を、先物金融とか、商社ではなく、百姓自身が、自己責任において、商売をする。それが理の責めだと思います。

[36] 傍陽気 2006/12/05 23:55

>>35  に関連してある記事抜粋。http://ww4.enjoy.ne.jp/~macroway/currt/F1.html

種子メーカーのカルテル

2002年8月26日、公正取引委員会は、国内種子メーカー32社と業界団体の日本種苗協会を、独占禁止法違反で勧告と警告を行った。勧告を受けた32社は、平成10年3月から12年8月まで、白菜、キャベツ、大根、かぶの交配種の販売価格を話し合いで決めていた。この32社で、この4種子の国内の販売量のほぼ全てを占める。32社には、タキイ、サカタ、トーホク、カネコなど、よく見かける種子会社のほとんどが名を連ねている。

国内最大手のタキイ種苗は、南アフリカの種子会社(メイフォード社)を買収するなど、積極的にアフリカ、アジア方面への進出を狙っているようだ。米・モンサント社を始め先進国の種子メーカーの多国籍化は、共通の流れのようである。発展途上国の種子会社を買収し巨大化した多国籍アグリビジネス企業が、やがてその国の種子を掌握するようになるだろう。

「南」の経済的に困窮している発展途上国では、農産物を輸出してお金を稼ぐことを余儀なくされている。そのような状況では、農民は商品価値の高い農産物を作りたいだろうから、個体差が少なく、よく成長し、見栄えもよい、新しく入ってきた改良品種と称するF1種はとても魅力的だろう。

しかしこれは、後々呪わしい結果をもたらしそうだ。なぜなら、まず第一にF1種は採種ができないなので、毎年種子を買わねばならない。それに、新しい品種が永続的に多収性や耐病性を保っていられるかどうかは全く不確実である。仮に、F1種は出費がかさむ上土地にも適ないことが判明し元の在来種に戻そうとしても、その時はその在来種は消滅しかかっているといったことにもなりかねない。

このような話は、今世界中できかれる。種子メーカーの販売活動は、生態系全体への影響を考えれば、自然の法を侵すものである。F1種の拡大は、一私企業である種子メーカーによる種の支配につながり、多様性への脅威となって、最終的には貧困の拡大再生産にしかならないだろう。

立毛、百姓をままにする高山は、今の事です。

[37] 基本。 2006/12/06 00:42

>>36
> 種子メーカーの販売活動は、生態系全体への影響を考えれば、自然の法を侵すものである。
> F1種の拡大は、一私企業である種子メーカーによる種の支配につながり、多様性への脅威となって、最終的には貧困の拡大再生産にしかならないだろう。

>
まさに、神社が種籾を農民に与える仕組みから、債務奴隷が誕生したという、太古の宗教因縁のそのままの姿である。

おやさまは、「みな面々の口で言わす」との思想の持ち主であり、その思想で見るならば、「社」とは、社である。
企業ブランドへの信仰は、宗教の社への信仰と似ている。
そういえば、「タキイ」は、おやさまの「種をまく」の思想を理解して、種を売り歩いていたという文章を過去に読んだ記憶がある。

在来種を淘汰するのは、おやさまの思想に反する。
在来種の中から、超優良な種をはぐくみ育ててこそ、おやさまの思想に一致する。
一種会社という小さい「社」が、商社となり、「大社」となったとき、天然の理に反するむほんとなるようでは、おやさまの思想を理解したものとは、言えない。

明治政府は、お払いさんが降るを、自作自演し、「世直り」を、「ええじゃないか」で、プロパガンダした。
それにたいして、
おやさまは、
 一つ、正月おどりはじめはやれ面白い
 二つ、ふしぎな普請、かかればやれにぎわしや

 三つ、身につく
 四つ、よなおり

と、羽根突き歌のように諭されている。

本当の「世直り」とは、不思議な普請に取り掛かり、にぎわしく、身につく事で、実現する。
これが、おやさまの思想です。

明治政府の、仕掛けた、偽の神宮のお札が空から降ってきて、みんなが「ええじゃないか」と歓喜すれば、「世直し」となるというような、真っ赤な嘘ではない。
おやさまは、「世界ろくぢ」への普請が開始されて、「身につく」事が、自ずと世が直るという意味で、「よなおり」と、その思想を、示しています。

[38] 基本。 2006/12/06 13:01

明治5年に、福沢諭吉の「学問のススメ」の刊行が開始された。

{学問のすすめ 初編
 「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賎上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの者を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるものあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。
その次第甚だ明らかなり。「実語教」に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由って出来るものなり。また世の中にむつかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむつかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い心配する仕事はむつかしくして、手足を用いる力役はやすし。故に、医学、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召使う大百姓などは、身分重くして貴き者というべし。

 身分重くして貴ければ自ずからその家も富んで、下々の者より見れば及ぶべからざるようなれども、その本を尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとに由ってその相違も出来たるのみにて、天より定めたる約束にあらず。諺に云く、「天は富貴を人に与えずしてこれをその人の働きに与うるものなり」と。されば前にも言える通り、人は生まれながらにして貴賎貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。

・・
 されば今かかる実なき学問は先ず次にし、専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。譬えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合の仕方、算盤の稽古、天秤の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条は甚だ多し。地理学とは日本国中は勿論世界万国の風土道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見てその働きを知る学問なり。歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行いを修め人に交わりこの世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。

 これらの学問をするに、いずれも西洋の翻訳書を取調べ、大抵の事は日本の仮名にて用を便じ、或いは年少にして文才ある者へは横文字をも読ませ、一科一学も実事を押え、その事に就きその物に従い、近く物事の道理を求めて今日の用を達すべきなり。右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賎上下の区別なく皆悉くたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に士農工商おのおのその分を尽し銘々の家業を営み、身も独立し家も独立し天下国家も独立すべきなり。

内容は、実学をススメ、学問の有無が階級差を生む元であると、説いている。
学問をして、身分の上になれと、説いている。

当時の、日本の社会に大きな影響を与えた。
今日の学歴差別社会の、思想的バックボーンが、「学問のススメ」であり、経済界には「早稲田」出身者の多いのも、まさに、実学の実践としての、学問のススメと見える。

それは、富国強兵、国民皆兵に人心を導くための、思想としても、もてはやされ、「和魂洋才」の、才を求める若者を多数生むこととなったが、それは、「才」あるものは人の上に立つと言う、階級差別を産んでいて、おやさまの思想とは、対極に位置しているものと言える。

おやさまは、「道に学問はいらん」との思想を示した。
知識の有無よりも、まことの心が大切との思想が、おやさまの思想である。

[39] 基本。 2006/12/06 13:16

>>38
> 明治5年に、福沢諭吉の「学問のススメ」の刊行が開始された。

{学問のすすめ 初編 「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。}

これは、アメリカの独立宣言からの引用であった。

アメリカは、独立当時、「債務奴隷」状態にいた。そして独立戦争を起こした。
福沢諭吉が説いたのは、日本が、諸外国の「奴隷」的な扱いにある事からの「独立」であった。

もう少し、続きを引用しよう。
{> 右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賎上下の区別なく皆悉くたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に士農工商おのおのその分を尽し銘々の家業を営み、身も独立し家も独立し天下国家も独立すべきなり。

一人前の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、ただ自由自在とのみ唱えて分限を知らざれば我侭放蕩に陥ること多し。即ちその分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずして我一身の自由を達することなり。自由と我侭との界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。譬えば自分の金銀を費やしてなすことなれば、仮令い酒色に耽り放蕩を尽すも自由自在なるべきに似たれども、決して然らず、一人の放蕩は諸人の手本となり遂に世間の風俗を乱りて人の教えに妨げをなすがゆえに、その費やすところの金銀はその人のものたりともその罪許すべからず。

 また自由独立の事は、人の一身に在るのみならず一国の上にもあることなり。我日本はアジヤ洲の東に離れたる一個の島国にて、古来外国と交わりを結ばず独り自国の産物のみを衣食して不足と思いしこともなかりしが、嘉永年中アメリカ人渡来せしより外国交易の事始まり今日の有様に及びしことにて、開港の後も色々と議論多く、鎖国攘夷などとやかましく言いし者もありしかども、その見るところ甚だ狭く、諺にいう井の底の蛙にて、その議論取るに足らず。日本とても西洋諸国とても同じ天地の間にありて、同じ日輪に照らされ、同じ月を眺め、海を共にし、空気を共にし、情合相同じき人民なれば、ここに余るものは彼に渡し、彼に余るものは我に取り、互いに相教え互いに相学び、恥ずることもなく誇ることもなく、互いに便利を達し互いにその幸を祈り、天理人道に従って互いの交わりを結び、理のためにはアフリカの黒奴にも恐れ入り、道のためにはイギリス、アメリカの軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄てて国の威光を落さざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり。}

その部分を、重ねて読もう。

{日本とても西洋諸国とても同じ天地の間にありて、同じ日輪に照らされ、同じ月を眺め、海を共にし、空気を共にし、情合相同じき人民なれば、ここに余るものは彼に渡し、彼に余るものは我に取り、互いに相教え互いに相学び、恥ずることもなく誇ることもなく、互いに便利を達し互いにその幸を祈り、天理人道に従って互いの交わりを結び、理のためにはアフリカの黒奴にも恐れ入り、道のためにはイギリス、アメリカの軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄てて国の威光を落さざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり。}

「天理人道」に従って、とある。
福沢諭吉の説く、「天理人道」→「学問のススメ」→「富国強兵」→「列強との対等」

これは、まさに、「道に学問はいらん」姿ではないか。

[40] 基本。 2006/12/06 15:17

福沢諭吉の学問のススメは、明治5年から、明治13年頃にかけて公刊されている。

福沢諭吉→「人は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」
おやさま→「高山に育つものも谷底のものも同じたましい」

明治の同じ時期に説かれた、一見似て見える「平等思想」は、
福沢諭吉は早稲田大学創設者として歓迎され、
おやさまは、警察にひっぱられて、投獄となりました。

学問による新たな権力構築を説く、学問のススメ、説く所の愛国主義。

> { 国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄てて国の威光を落さざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり。}

「学問のススメ」それは、国民を戦争に駆り立てていく、道具として歓迎されたから、弾圧はされませんでした。

おやさまは、おふでさきに、明治七年に、それまでと一貫した態度にて、

 いままでもしんがくこふきあるけれど
 もとをしりたるものハないぞや    三号69

明治政府の方針に対して、真っ直ぐに、批判をしています。
明治六年には地租改正、そして、徴兵制度が制定されました。
学問のススメは、まさに「国民は国の為にしぬべし」を説いて、国家的人材を学問で育てるススメでした。

 いままでハがくもんなぞというたとて
 みえてないことさらにしろまい    四号89

「道に学問はいらん」おやさまの思想は、学歴・職能による新たな差別社会に対する、痛烈な批判であり、
明治政府の作為した「王政」=宗教による国民総奴隷統治政策への理の責めそのものでした。

明治政府の大方針とは「大教宣布」でした。
明治3年に、それは、「大教宣布の詔」として、打ち出されました。

このとき、おやさまは、明治3年、

 よろづよの せかいいちれつみはらせど むねのわかりたものはない

と、痛烈な、批判の一首を、序として、お書きになりました。

[41] 基本。 2006/12/06 16:12

> 明治3年に、それは、「大教宣布の詔」として、打ち出されました。
> おやさまは、明治3年、
> よろづよの せかいいちれつみはらせど むねのわかりたものはない
> と、痛烈な、批判の一首を、序として、お書きになりました。

ここで、「大教宣布の詔」について、確かめます。
http://www.jicl.jp/now/date/backnumber/20050103.html
{ 「大教宣布の詔」
1月3日 大教宣布の詔(1870年)

 明治新政府は、古代の王政に復古する立場から、祭政一致をとなえて神道を国教とし、1968年に神仏分離令を発して従来の神仏習合の風習を改めた。さらに新政府は翌年には神祇官を太政官の上位におき、1870年(明治3年)のこの日、大教宣布の詔(みことのり)(大教=神道を国民の間に広めるためという天皇のおおせ)を出した。翌年には皇室の祖先神を祭る伊勢神宮を頂点とした神社制度を設けた。これにより、神道は国家の精神的支柱となった(国家神道)。}

明治政府のめざしたものは「祭政一致」。
神道は、「国教」。
伊勢神宮を頂点とした神社制度。

慶応から明治にかけて、経済を握る高山は、「浪人・浪士」を資金援助し、凋落していた朝廷を祭り上げて、日本と言う国家を、列強に伍する経済・軍事大国に作り上げようとした。
既に、中国・朝鮮への経済覇権をめざしていた。
そのためには、その高山の意思を代行する能力ある強い政権の存在が急務であり、天皇への王政復古と言うナショナリズムを鼓舞する事で求心力を高めて、天皇1極に全ての権力を集中させた、「祭政一致」を理想としたのでした。

おやさまが、これも裏から教えていたと言う、神仏混融の「民間に伝承」の旧来の宗教思想に対しても、「国教=天皇制」により、支配を計ったのです。
元冶元年の頃には「大和神社」は、拝して通れと、おやさまは、敬意をしめされています。
しかし、「大教の詔」の後の、「大和神社」には、決然と、理非を諭されています。
この相違点こそ、明治維新の裏の「高山」たちが、本来の「やまと=にほん」に介入したと言う、宗教事情をきちんと示しています。

ほんらいは、おやさまの思想を「裏から教えていた」、「にほん」に、「とふじん」が、干渉し、支配を開始していたのです。

前年   ええじゃないか、(プロパガンダ)の世直し。
     王政復古。
明治1年、神仏判然令。
     排仏毀釈運動おこる。(プロパガンダ)の宗教統制。
明治3年 大教宣布の詔(みことのり)
明治4年 皇室の祖先神を祭る伊勢神宮を頂点に神社制度を設けた。

対して、おやさまは、明治2年、おふでさき二号にて

 とふぢんがにほんのぢいい いりこんで
 ままにするのが かみのりいふく     二号32

決然と、理を責めておられます。

おやさまと、たかやまのとふじんとの、たたかいは、一貫したものであったと言う事です。

[42] 基本。 2006/12/06 16:19

>>41
> 明治2年、おふでさき二号にて とふぢんがにほんのぢいい いりこんでままにするのが かみのりいふく 二号32

{「大教宣布の詔」について、おやさまにも縁のあった、稲荷神社の史実にて、確かめます。

http://inari.jp/g_koumu/g02.html
伏見稲荷大社の御祭神を敬仰する信仰者によって全国規模の講組織が確立されたのは、明治初期に結社された瑞穂搆社に始まります。
・・・
それは稲荷勧請による信仰者の結集、当社本願所愛染寺による信徒の結集、社家方による神事搆の結社、産土地における講の結社、商家の仲間による結社、稲荷祭礼における神事搆の結社、火焚祭を護持する神火搆の結社、というような形で個別に営まれ、各自独立して発展していったのであります。

維新後の明治3年、大教宣布の詔が発せられ、続いて神官の職制と社格の制定、あるいは神祇官の復興などの諸政策が打出され当社にとっても大きな変革期を迎えました。
それは、当社ご鎮座以来続いてきた社家世襲による神社運営が廃止され、明治4年に官幣大社に列せられると共に、翌年には政府により大宮司が任じられました。
・・・
当社も明治7年9月に教会結社が大教院より許可され、ここに「稲荷神社教会」が設立されたのです。その5ヶ月後の明治8年2月、詮議が重ねられた結果、この講名は「瑞穂搆社」と名づけられたのです。
この瑞穂搆社の結社は、全国各地の当社崇敬者をはじめ既に民間において結社されていた稲荷講を、維新政府の掲げる大教宣布の旗印のもとに、新たに組織化しようとするものであったのですが、小教院による布教のみではその場かぎりの説教で終わってしまうので、これを信仰による裏付によって持続性を期待したものでありました。
そこで、瑞穂搆社の結社にあたっては、全国各地の稲荷講がその先達として大きな役割を果たしました。これらの民間稲荷講の結社は、何々講という名称でしたから、瑞穂搆社に統括されるようになってからは何々組と呼ばれるようになりました。これを京都地区に見てみますと、商栄組・開信組・和順組・伏見豊栄組・南山城初穂組など22組にもなり、その他の府県でも大阪府下に御玉組・初穂組・玉穂組、三重県に敬神組があり、これらの組織は何々県瑞穂搆社第何号何々組と呼ばれました。そして、これらの組には、搆長・副搆長・搆掌が置かれて運営されていました。これらの結社数は年を追うごとに増えつづけ、明治10年には京都府下80号・大阪府下9号・滋賀県下6号・堺県下3号・三重県下4号・岡山・岐阜県下に各1号・福岡県下2号・徳島県下1号と結社は九州・四国にまで及び、その数107号、加入者数12,700余人にもなりました。今日のように交通機関が発達していなかった時期に、このように遠隔の地にまで崇敬者が及んでいたということは、いかに稲荷信仰が一般庶民の信仰として篤かったかを示すものといえるでしょう。}

[43] 基本。 2006/12/06 16:28

一般庶民の信仰であり、おやさまの「裏」から教えていた神仏のもろもろの教えを、「伊勢神宮]一色に塗り替えようとする。

それは、「高山」の、徴兵制度と地租改正と、よりも、それ以上に重大なものでした。
それは、「詔・みことのり」。
天皇陛下直々の、ご命令であり、絶対のものでした。

これを発布させた「高山」の意図は、日本を帝国主義の覇権者に育てる意図であり、「戦争に導くもの」

学問のススメは、平等を説いても弾圧されず、おやさまは、平等を説いて弾圧された。
それは、権力の本質を見抜いて対決し、権力悪の滅びを予言するからでした。
明治政府の高山には、おやさまの思想は危険極まりないものでした。

[44] 基本。 2006/12/08 01:58

学問のススメにも、明治維新の「高山」の一部にも、大きな影響を与えていたものは、それは、アメリカの思想である。

> {学問のすすめ 初編 「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。}
> これは、アメリカの独立宣言からの引用であった。
www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/amerikadokuritukakumei.htm から、引用しよう。

{ 「我に自由を与えよ。しからずんば、死を。自由は鮮血をもって買わざるべからず」
アメリカ独立運動の闘士パトリック・ヘンリ(1736〜1799)のこの言葉は、日本の明治初期の自由民権運動家のスローガンともなった。}

この様に、明治の時代に日本に大きく影響を与え得たのは、「米国」の思想であった。

そのアメリカには、奴隷制度があった。
drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-16-3.html から引用しよう。
{ アフリカ大陸から奴隷を狩り集めたイギリス、フランス、オランダの奴隷商人たちは、300年間に1500万人に上ると推計される黒人奴隷をアメリカ市場に売って巨利をむさぼった。この奴隷貿易は19世紀まで続いた。イギリスで奴隷貿易禁止令が出たのが1808年、イギリスでの奴隷制度の廃止は1830年代、アメリカ合衆国では1863年、ブラジルでは1888年でしあった。
 奴隷貿易には、ヨーロッパ文明諸国のほとんどが手を染めていた。そして、ほとんどが熱心なキリスト教徒であった。}

旧約聖書は黒人差別そのものを教義の中にもっていた。
罪深き者を神の奴隷にするというのは、「宗教では救済」を意味する。

そして、アフリカでは、アメリカに売られる以上に、劣悪な状態の奴隷が大勢いたことを忘れてはならない。
引用を続けよう。

{ 【三角貿易以前の西アフリカの奴隷制】
 サムエル・モリソンというアメリカ史家は、『オックスフォード・アメリカ国民史』[1965年](日本語訳の題は『アメリカの歴史〈3〉ヴァン・ビューレンの時代‐南北戦争 1837‐1865年』集英社文庫)のなかで、奴隷制度について「忘れてはならないことであるが、アフリカの奴隷貿易はアフリカの黒人たち自身のあいだで始まっている。暗黒大陸では、奴隷とされることはごく当たり前のことであって、奴隷制度の犠牲者となってアメリカに船で運ばれた者は、その航海を生き延びさえすれば、アフリカで奴隷のくびきにつながれたままの奴隷たちよりもましな暮らしができた」と述べている}。

{ 現代でも欧米諸国による奴隷貿易を正当化して、アフリカ人を奴隷としてハンティング(奴隷狩り)をして売ったのはアフリカ人であり、アメリカに連れてこられたアフリカ人は、奴隷ではあっても、アフリカで奴隷になっているよりも、はるかに文明的な生活をすることができたのだと述べる研究者たちがいる。}
{ たしかに、たとえば西アフリカのサハラ砂漠の南に12〜15世紀頃栄えたマリ帝国には奴隷制度があった。しかし、それらの奴隷の多くは土地や牛などをめぐる戦いの捕虜であり、家族内の下僕のような存在で、主人の信任を得れば主人との義理の親子関係を結んで、自由民となれたのである。}

{ 三角貿易の純然たる「商品」としての奴隷は、それ以前のアフリカ社会における奴隷とはまったく異なっていた。「商品」の調達のための奴隷狩りが始まったのは、ヨーロッパ人による三角貿易による奴隷の需要があったためである。ヨーロッパ人は はじめ、人さらいのような方法で奴隷を集めていた。しかし、黒人同士で奴隷狩りをしていることに目をつけ、これを利用した。ヨーロッパ人は黒人王国から奴隷を買い取り、西アフリカのダホメー王国、ベニン王国などいくつかの王国は、商品としての奴隷を調達するための戦いをするようになった。それが可能となったのは、それらの王国が奴隷貿易で鉄砲を多く手に入れたからである。
 奴隷の値段は一体いくらぐらいであったのか。1300ポンドで奴隷240人、一人平均5.4ポンドである。}

キリスト教徒には、罪深き黒人を、救うと言うことと、奴隷にすると言うことは、けっして矛盾したものではなく、アメリカの自由と独立は、そこに奴隷がいてのものであり、「とふじん」の思想そのものであった。
しかし、劣等国から先進国の仲間入りをめざした明治の「高山」には、その「とふじん」の思想が魅力的なものに見えていたと言うことである。
「米国」、「自由と独立」、その背景の強い武力に、あこがれを抱いた軍国主義者が、明治の高山の「とふじん」に大勢いた。

おやさまは、その思想背景をきちんと見据えておられた。

[45] 基本。 2006/12/08 03:22

>>44
> 学問のススメにも、明治維新の「高山」の一部にも、大きな影響を与えていたものは、それは、アメリカの思想である。
> おやさまは、その思想背景をきちんと見据えておられた。
この、アメリカの思想の影響は、明治維新の骨格に及んでいる。
www8.ocn.ne.jp/~senden97/meiji_isin1.html を引用しよう。
{明治維新 福地 惇 前野 徹 「第四の国難」 扶桑社}
{ぺりー提督率いるアメリカの東インド艦隊の黒船四隻が浦賀沖に姿を現したのは、嘉永6(1853)年6月3日。開国を迫るぺりーに江戸幕府は騒然となった。・・・}
{ 当時、西洋列強は、アジアの植民地化を着々と進め、虎視眈々と閉鎖中の日本の市場を支配下に収めんと狙っていた。長崎の出島での交易活動を幕府から許されていたオランダも、規制に我慢できず、出島以外での居住権を認めるよう、1840年代後半から幕府に圧力をかけ始めていた。}
{ぺりーの来航の目的も、日本市場開放と東アジアでの覇権への足がかりをつくることにあった。・・ペリーが来航した嘉永6(1853)年、帝政ロシアも南下を意図して日本に開国を迫っている。}
{ただ、アメリカもロシアも強引に武力で日本を侵略することはできなかった。当初、アメリカもロシアも極東の島、日本は未開の地で、野蛮な未文明の人間が住んでいる程度にしか考えてなかったが、実際に来て見ると以外に高い文明があった。火器は自由自在に使いこなしているし、規律も礼儀も正しい。教育レベルも想像以上に高かった。}
{そこでぺりーがとったのが、威嚇により開国を迫ろうという戦略だった。・・・安政(1854)年に日米和親条約を締結、英国、ロシア、フランス、オランダとも同様の条約を結んだ。}
幕府は、不平等条を受け入れたわけです。
{ これを不服とする武士たちは攘夷運動を展開し、志士となってこの国難から日本を守ろうと活動を始めた。この運動はやがて尊皇論と結びつき、尊皇攘夷となる。}
{ 安政三年には内外の圧力により窮地に立たされた幕府は、安政五年、井伊直弼を大老職に就け、同年、日米修好条約に調印、次いで英蘭仏露とも同様の条約を結び、遂に鎖国を解いた。}
{井伊大老は、この時、反対派の志士たちを封じ込めるため、安政の大獄を断行、多くの志士たちを処刑した。これが志士の激しい反発を招き、万延元(1860)年、井伊大老は桜田門で暗殺される。「桜田門外の変」である。・・・}
{ この間、英米仏蘭の連合艦隊は、下関を報復攻撃、長州藩はなす術もなく敗れ、攘夷の不可能を悟り、開国論へと転換していった。}
{さらに元治元(1864)年、長州藩は幕府の征討を受け、大軍に包囲され、あっけなく降伏した。}
{これを不服としたのは高杉晋作、木戸孝充らの長州の志士たちである。彼等は慶応元(1865)年、藩政府に弓を向け藩政を掌握した。この頃には、薩摩藩でも島津久光の公武合体論は、支持を失い、西郷隆盛、大久保利通らを中心に次第に倒幕に傾いていった。}
{・・文久ニ(1862)年、土佐藩を脱藩した坂本竜馬である。竜馬の仲介によって、薩長両藩は慶応ニ(1866)年、薩長連合の密約を結んだ。以後、討幕運動は急速に盛り上がり、慶応三年の大政奉還、慶応四年の五箇条の御誓文と進み、日本の近代国家の脱皮が始まるのである。}

アメリカの東アジア覇権をめざす、帝国主義的外交に、屈服した江戸幕府に対する批判が、尊皇・倒幕となっていく。
その時、情報戦略が行使され、国民は「世直し」として、明治維新をとらえていましたが、実は、維新の幹部たちは、奴隷制に支えられた大農場を基盤とするアメリカの経済力と軍事力を、模倣すべく、地租改正と徴兵制への準備に入っていて、それは、アメリカの思想の影響下にあったと言うことです。
   (続きます)

[46] 基本。 2006/12/08 03:33

>>45
> 実は、維新の幹部たちは、奴隷制に支えられた大農場を基盤とするアメリカの経済力と軍事力を、模倣すべく、
> 地租改正と徴兵制への準備に入っていて、
> それは、アメリカの思想の影響下にあったと言うことです。
(続きです。)

{ ・・・明治維新は、志士たち、幕府軍の多少の犠牲を伴ったが、大衆を巻き込むことはなかった。血を流さずに国難を乗り切り、近代国家へと変貌できたのは、立場の違いを超え、国論の統一がなったためである。}
{ 薩長土肥を中心として志を同じくする主要雄藩の下級武士たちは手を携え、一体となって国難に立向った。その下級武士たちを密かに陰で支えていたのは、朝廷の公家たちであり、藩主たちであった。・・・}
{ 明治維新は、・・・士農工商という階級社会にあって、特権階級であった武士が、国の将来のために自らの権益を捨て、体制を倒し革命を成就する。 これは欧米の常識では考えられない出来事だった。・・・}
{ 日本の明治政府は「特権階級が自ら改革を行った」点で特異だ。・・}

{ ・・「大日本史」を編纂した水戸光圀は、儒学の一派、「王道」を旨とする水戸学派を大成させ、天朝の尊厳を説いたこの水戸学が、幕末尊皇論を醸成した。吉田松蔭、坂本竜馬、橋本左内、佐久間象山など、勤王の志士は一度水戸の藩校・弘道館で学んでいる。}
{ なかでも三十歳で安政の大獄により処刑された萩の吉田松蔭が、志士たちに与えた影響は見逃せない。・・・}
{ 「日本を救うには、密航しかない。俺がやらなくて誰がやる」・・・松蔭を突き動かしたのはやむにやまれぬ大和魂である。}
{ 松蔭の密航計画は失敗に終わったが、万延元(1860)年の勝海舟、福沢諭吉らが随行した咸臨丸の渡米、さらには明治4(1878)年から足掛け三年にわたる岩倉具視の使節団派遣へとつながり、文明開化、明治政府の土台づくりに大きな役割を果たした。}

{ このまま手をこまねいていては日本はやがて白色人種の国に制服されるのは火をみるより明らかだった。}
{ この危機感は非常に強く、江戸時代、アヘン戦争が中国で起こった当時、徳川幕府は、すぐさま中国の文献を取り寄せ日本語に訳して、イギリスの戦力について既に研究している。・・}
{ 開国をした後、樹立された明治政府は「殖産振興」、「富国強兵」を合言葉に、強い軍隊を持つべく躍起になって経済力を高めようとした。これが行き過ぎて大東亜戦争まで突き進んでいくのだが、当時は軍事力なくして国をまもることができないという悲壮な決意があったのも確かな事実である。}

福沢諭吉に、威信の高山に、「とふじん」の思想が多大な影響を与えていた。
おやさまは、見抜き見通しでした。
「 国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄てて国の威光を落さざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり。」と、説いている、学問のススメは、まさに、国民を命捨ててもの道にススメる思想であった事。

日の本の、大和の庄屋敷の片田舎にいて、おやさまは、世界を動かす、帝国主義の覇権行動を、じっと見据えておられました。

 これからハからとにほんのはなしする
 なにをいうともハかりあるまい    二号31
 とふじんがにほんのぢいいいりこんで
 ままにするの神のりいふく      二号32

この時代、「唐人」と言えば、「唐人お吉」が有名です。
アメリカ人を「唐人」と呼んでいたのは、明治の社会の常識です。

[47] 基本。 2006/12/08 04:13

>>46
> この時代、「唐人」と言えば、「唐人お吉」が有名です。
www.izu.co.jp/~p-boo/okichi.html 参照します。
「 お吉は本名を「斉藤きち」といい、天保12年11月10日、愛知県知多郡内海(うつみ)に、舟大工市兵衛の次女としてこの世に生をうけました。4歳のとき家族が下田に移り住み、14歳で芸妓(げいこ)となりました。新内明烏(しんないあけがらす)のお吉とうたわれるほどの評判と美貌でしたが、それが奉行所の目にとまるとこととなり、17歳の時、法外な年俸と引替に心ならずもアメリカ総領事タウンゼントハリスのもとへ侍妾(じしょう)として奉公にあがることとなります。その後は、幕末、維新の動乱の中、芸妓として流浪(るろう)の果てに下田にもどり、鶴松と暮らし髪結業(かみゆいぎょう)を始めますが、ほどなく離別。さらに小料理屋「安直楼」(あんちょくろう)を開業しますが、2年後に廃業しています。「唐人」という相も変わらぬ世間の罵声と嘲笑をあびながら貧困の中に身をもちくずし、明治24年3月27日の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、自らの命を絶ってしまいます。波瀾にみちた51年の生涯のあまりにも哀しい終幕でした。
お吉は身よりもなく、宝福寺の第15代竹岡大乗住職が、慈愛の心で法名「釈貞観尼」(しゃくじょうかんに)を贈り、当時境内に厚く葬り、その後芸能人により新しく墓石も寄進され現在に至っています。
お吉の悲劇的生涯は、人間の偏見と権力、その底にひそむ罪の可能性と愚かさを身をもって私達に教えているようです。」

アメリカ人ハリスに買われた事から、唐人お吉とののしられました。
写真は、こちらにあります。
www4.i-younet.ne.jp/~hofukuji/okiti2.htm

 おやさまは、嘉永六年、アメリカのハリスの日本への脅しの時、次のような、行動を示されました。

 中山家の母屋を売り払う。
 小寒 大阪に神名ながし。

自由貿易を求めて、開港を迫る軍事大国アメリカ。
それは、日本に、没落する産業を生みました。
その難儀を、自らが、難儀の中に飛び込んで、ひながたとする。おやさまの思想です。

貧乏の中で、賭博に誘われてはまってしまう、兄。秀司。
それを、浪花の街に、拍子木を叩いて、神名をながし、兄をさがす小寒。

ここに、谷底せり上げの、隔て無きろくぢの思想があります。

南無 天理王命。
これこそが、おやさまの、高山のとふじんへの、闘う姿勢そのものでした。

中山家の母屋の買い手が見つかり、いよいよ母屋取毀ちの時、
「これから、世界の普請にかかる。祝うてくだされ。」と、おやさまは、仰せになり、いそいそと、人夫たちに酒肴をだされている。

白人の世界の中で、奴隷の立場にいたアメリカが、独立戦争を経て、列強の仲間入りをすべく、アジアの門として、日本に開国を迫った。
それは、まさに、谷底せり上げの世開けの到来であった。

嘉永六年。おやさま56才。
ひながたである。

[48] 基本。 2006/12/08 15:53

>>47
訂正があります。嘉永六年は、ペリーの来航です。ハリスは間違いです。訂正します。

「とふじん」が日本をままにした、と言う、歴史的史実は「不平等条約」という史実に、刻まれています。

国と国とが対等でない関係の条約を締結する。
日本に対して、開国を迫った「ペリー」の言い分は「自由な貿易をせよ」と言う主張です。
この「自由な貿易」を求めて「開港」を迫ると言う、「とふじん」さんの開港要求と、その手段の典型的なものは、「アヘン戦争」です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%98%E3%83%B3%E6%88%A6%E4%BA%89#.E3.82.A2.E3.83.98.E3.83.B3.E8.B2.BF.E6.98.93

中国に対して自由な貿易を求めていたイギリスは、制限つきの貿易しか認めない中国に対し、「アヘンの密輸」と言う手段で事実上の開港とし、それに対して中国が取締りをしたことから、戦争を起こし、開港をさせてしまった。
1840から2年の戦争の事です。

このアヘン戦争は、中国を奴隷国家にしていく、最初の列強からの干渉でした。
以後、中国の人民は、毛沢東の共産革命までの長い間、帝国の奴隷として、不当・不法な圧迫を受けることになります。

 1840年アヘン戦争。     ←→ この年「貧に落ちきれ」との神命。

 1853年ぺりーの軍艦威嚇。  ←→ この年「母屋のとりこぼち」。酒肴で祝う。

 1856年唐人ハリス下田に。  ←→ この年、足達重助の四歳の娘、足立つ。たすけ開始。

 世界中の、債務奴隷の難儀を、谷底からたすけあげようと言うおやさまの思想は、こうして、「とふじん」がままにする姿に対して、自ら難儀の底に落ちて、吹き上がると言う、思想を示しています。

http://www.geocities.jp/hatm3jp/069.html#6
に、簡明に整理されています。引用します。

{<不平等条約と開国の影響>
Q1 居留地は外国人にとってどういう土地になると思うか?
A1 列強は実力で居留地を拡大してゆくだろう。そうなると、日本の中に外国の領土ができるようなことになる。横浜では、欧米人は高台を占拠して都市整備をしていった。警察権を握り、自治をおこない、治外法権の規定もあったために事実上の外国領土である。清の場合、「中国人と犬は立入禁止」という立て札が立てられたりして、外国人に土地を取られたようなものだった。

Q2 関税とは何か? 自由にかけられないことのデメリットは何なのか?
A2 国内産業を保護するため、外国の安い製品に対して関税をかける。自由にかけられないということであれば、国内産業が打撃を受ける。日本の関税は約20%までかけられた。清は5%までだったので、それよりはましだったとされる

Q3 治外法権とは何か? これを認めたデメリットは何か?
A3 外国人の犯罪を日本人が裁けず、外国人の手に裁判を委ねるものである。身びいきとなって寛刑になる恐れがある。治外法権を認めたのは、外国人の裁判を日本がやらないのでよいので楽と考えていたからである。これでどういう問題が生じるのかが思い浮かばなかった。}

(続きます)

[49] 基本。 2006/12/08 16:31

>>48
(続きです)

{ Q4 貿易相手国を見てゆくと、1位はイギリスであり、2位フランスとなっている。日本を開国させたアメリカが貿易額第3位なのはなぜか?
A4 日本を開国させたアメリカは、南北戦争が勃発して貿易どころではなかった。}
{ 輸入・・・毛・綿織物、武器、艦船
 輸出・・・生糸、茶、蚕卵紙
・輸入品はイギリスなどの産業革命で作られた毛織物、綿織物が主であった。
・輸出の主力は生糸。当時、ヨーロッパの生糸産地である仏伊で蚕の病気が発生し、ほとんど全滅状態になっていた。このため、生糸の供給地としてアジアに目をつけたが、中国産生糸は質が悪く、日本に強く依存することになった。}

{・幕末貿易では当初は輸出が多かった。日本は儲かっていたのである。それだけ生糸輸出が好調だった。輸出入が逆転するのは1866年からで、それは改税約書を取り交わし、関税率を5%まで引き下げたのと関係がある。
・貿易のトラブルは多かった。言葉が通じず持ち逃げされて訴えても、治外法権でラチがあかなかった。}

{ [開国の影響]}
{A マニュファクチュアの進展
・手工業は農村家内工業→問屋制家内工業→工場制手工業と発展し、次に工場制機械工業へと進歩してゆく。日本では、江戸時代後期にはマニュファクチュアの段階まで進展していた。}
{ ・岩倉の木棉は一宮の三八市に売りに出された。これを買って手紡ぎで糸にする農家が一宮あたりにはたくさんいて、また市に出していた。これを尾西方面の村が買い、マニュファクチュアで生産した。}
{ ・尾西の中心の起では、当時は5軒に1軒は織り屋であり、10台の織機を入れて10人くらいの織り子を雇っていた。織り屋の中では、染色、経糸を織り機に掛ける整経、横糸を糸車に巻く仕事、織る仕事というように分業されていた。}
{ マニュファクチュアの段階まで生産形態が進んでいれば、資本主義経済に転化するのは容易。工場、労働者は揃っているため、機械を導入するだけでよい。機械導入で大生産に移行する直前の形であると言える。}
{ ・この時期、インドは植民地となり、中国は半植民地となった。日本が平気だったのはそのためだという説がある。}

{ cf)尾張の綿織物業の衰退→輸入綿糸利用で再生(明治期)
・製糸業が伸びたのに対し、綿織物業は打撃を受けた。機械生産の安価な綿織物が大量に入ったからである。尾張の綿織物も売れなくなり、一時期は完全に衰退してしまった。}
{・しかし、綿織物業はマニュファクチュアまで進んでいたため、ちょっとしたきっかけで立ち直ることができる。
国内木棉を紡績して糸にして生産していたのでは太刀打ちできないが、輸入綿糸は安価であったため、それを使えば輸入綿織物に価格面で対抗可能。一度は衰退した綿織物業も、明治の早い時期には回復している。}

{ B 物価の高騰
・貿易の開始は物価の急騰をもたらした。1859年から1866年にかけての物価の伸びは、米価換算で10倍である。生糸一包みは200$から800$へと4倍。蚕卵紙は1枚銀2枚が30〜40枚となり、20倍になっている。}
{ 無計画な輸出
・この原因の一つは、国内需要を満たすことなく、儲かるのでどんどん輸出してしまったためである。}
(引用は続きます)

「貿易の輸出関連の業者はどんどん儲かった」
「国内の物価は高騰し、生産者は困窮した」

そして、その「貿易で儲けた商人」たちが、「自由貿易」の利を保障してくれる政治権力の登場を期待し、「下級藩士」を支援して、明治維新を裏から支え、帝国主義的覇権に向けて、「市場拡大」の為に日本を富国強兵化、大日本帝国への道を開けさせた。
実に、「お払いさんが降る」の黒幕のとふじんとは、儲けた経済人と癒着した政治家。
人間を奴隷にする「自由」を武力で実現しようとした「高山」の正体。その現実的な手先であった「大社高山」の奴隷支配体質。

おやさまは、見えない先から、ひながたの史実にて、歴史の年表にて、その悪しきを払う道を示されています。
後に、おふでさきにて、文字にて、その記録と予言をしるされました。「とふじん」が「自由」の名の下に人を奴隷にする。
そこで難儀する、おやさまの子たち。
その救済は、にんげんのおやである、私が必ずするのだという、時々刻々のあゆみ。「ひながた」。「ひながた」と言う思想。

しかし、誰一人として、おやさまの真意を知るものはなく、大和の片田舎のきちがい婆さんとして、罵られ、さげすまれつつ、も、世界一列の陽気遊山を、見て楽しみたいと、覇権主義者の横暴を見据えて、世界の普請に掛かられていたのでした。

[50] 基本。 2006/12/08 17:10

>>48-49
(続きです)
{ cf)兵庫開港の遅れ→改税約書(1866)=日本の市場化の進行(関税5%)}
{ 兵庫の開港が遅れた代償として、列強は改税約書を押し付けてくる。また、攘夷運動が下火にならないのは、天皇が通商条約の勅許を出さなかったからだとして、兵庫に軍艦9隻を並べて圧力をかける。これで条約勅許が出されることになった}
(http://www.geocities.jp/hatm3jp/069.html#6 )

列強は、開港を求めて、「軍艦を並べて」威嚇しました。
天皇に対して「命令をだすように」迫ったのです。
関税を5パーセントに下げるという事は、日本の産業には膨大な損害を与えるものでした。
国内の産業は、輸入品の価格に対抗できず、破綻します。

 1866 軍艦9隻にて、開港・関税引き下げ要求。
       ←→
 1866 「あしきはらい」のうたと手振りを教えられる。

高山の横暴。
高山とのたたかいに、おやさまは、「天理王のつとめ」という「つとめ」にて、立ち向かわれています。

>>49
{ A4 日本を開国させたアメリカは、南北戦争が勃発して貿易どころではなかった。}

アフリカから輸入した奴隷を用いての大農場経営の南部と、マニファクチュアから、産業革命により、大量生産の北部とは、「自由貿易」か、「閉鎖貿易」かで、対立し、貿易の自由を制限する事で国内産業の保護を求める南部は、貿易の自由を拡大する事で「覇権」を目指す北部と対立し、南部は独立国家を作ろうとします。
これに対して、武力で制圧したのが「リンカーン」の北軍であり、その時「奴隷解放」と、「口で言わされてしまう」事になります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%88%A6%E4%BA%89
引用します。
{ 南北戦争(なんぼくせんそう, 英:American Civil War, 1861年-1865年)は、アメリカ合衆国に起こった内戦である。奴隷制存続を主張する南部諸州のうち11州が合衆国を脱退、アメリカ連合国を結成し、合衆国にとどまった北部(23州)との間で戦争となった。}

このために、アメリカは、対日政策に遅れをきたしました。
後の日英同盟につながる、英国との貿易拡大は、「偶然」の、南北戦争によるものです。

 1861年 南北戦争 ←→ 元の理の数理に基づく「つとめ」の開始。

 おふでさき六号の「六が敷き事」という、数理の世界を、具体的に体現化した開始は、アメリカの内部の戦争にて、「とふじん」の干渉が遅滞した、その時の事でした。

[51] 基本。 2006/12/08 20:22

おやさまの弟子たちは、上に従い、王政の「祭政一致」に媚びへつらい、こともあろうに、おやさまの思想の対極にある明治政府に、公認の道を模索していました。
それは、当時の信者の民意であり、総意であり、それは「真柱」にゆだねられた、信者の要求でした。

弟子の中でも「仲田義三郎」は、「山本利三郎」とともに、公認運動に教団をリードした指導者でした。
彼らの模索したものは、稲荷講の発展に見られるような、>>42
http://inari.jp/g_koumu/g02.html
明治政府の政策に迎合しての、教団の「繁栄」でした。
しかしそれは、お稲荷さん信仰の歴史の示すように、もともとの信心とはかけ離れた、「天皇中心の神道からの天下りによる思想支配」でした。

「大教の詔」を宣布し、国家を一つの宗教で統一しようとする高山に、迎合しようとする弟子たちは、真柱を代表として、おやさまに問答しました。

1887年一月十三日(明治20年陰暦12月20日)、真柱の立場にある中山真之亮と控え柱の立場にある前川菊太郎は、明治政府に迎合したいという趣旨で、おやさまに、おうかがいをします。

その時に言われたのが、

『ぜんもって つたえてある。むっつヶしきことをいいかける。ひとつのことにとって しあんせよ』

との、お言葉でした。
弟子たちは、
「前以って伝えてある。難しい事を言い掛ける。一つの事にとって思案せよ」
と、理解し解釈しました。

しかし、実は、
「「前以って伝えてある。六つが敷き事を言い掛ける。一つの事にとって思案せよ」
と、言う意味でした。

これが、おふでさき六号の事を示していた。わけです。
「お前たちの希望は、おふでさき六号の「元の理」の数理のままに実現するのだ。どんな事も、「元の理」の「一つ始まりに基づいて思案せよ」

事実歴史として、お筆先六号の元の理の数理のままに、天理教会神一条の道は、実現し、天理教は、一派独立しましたが、それは応法時代の、ことですが、
「ひながた」においても、元の理の数理のままに、歴史に刻まれているのです。

>>50
> 1861年 南北戦争 ←→ 元の理の数理に基づく「つとめ」の開始。

その開始は、【一寸身上に】逸話篇というもので始まりました。
『 文久元年、西田コトは、・・庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆、救けて下さる。」という事を聞き、早速お詣りした。すると、夕方であったが、教祖は、

「よう帰って来たな。待っていたで。」
と、仰せられ、更に、
「一寸身上に知らせた。」

とて、神様のお話をお聞かせ下され、ハッタイ粉の御供を下された。お話を承って家へかえる頃には、歯痛はもう全く治っていた。が、そのまま四、五日詣らずにいると、今度は、目が悪くなって来た。激しく疼いて来たのである。それで、早速お詣りして伺うと、

「身上に知らせたのやで。」
とて、有難いお話を、だんだんと聞かせて頂き、拝んで頂くと、かえる頃には、治っていた。
 それから、三日間程、弁当持ちでお屋敷の掃除に通わせて頂いた。こうして信心させて頂くようになった。この年コトは三十二才であった。』
おやさまの思想は、「命のやりとりは、おやさまが支配がする」という思想。身体そのものにおやさまが知らせるという思想。

大社高山の人間業では、絶対不可能な命題をつきつけて、命のやり取りの「理の世界」にて、人間のこころを掃除するという、思想であり、それだからこそ、元の理を伝え、つとめの理にて、世界を普請するという、真実真心が、おやさまの思想には、満ち溢れています。

元の理の数理を歴史に残した「六つが敷き事」。
それは、西田ことさんからはじまつた。
ろくぢはまず女からという、おやさまの思想。

とふじんの干渉し、とふじんの支配する「日本」。

おやさまだけは、せかいろくぢに向けて、元の理を教え、つとめの理の完成を、身をもってお説きになっていたのでした。
すべては理の世界にあると歴史に示して、のことでした。

[52] 通勤快速 2006/12/08 20:24

おちばひろい最近行ってないな。

[53] 基本。 2006/12/09 06:31

嘉永7年(1854年3月31日) - 江戸幕府と米国使節ペリーが横浜で日米和親条約(神奈川条約)に調印。鎖国が解除されました。

 1854年ペリーが横浜で日米和親条約(神奈川条約)に調印。      ←→ この年、おびや許しの初め。

このことに関連しますが、おやさまの思想として、「元の理」が根本思想として示されています。
それは、おふでさき六号には、元の理の時間的数理を示す、次の三種のお歌があり、具体的なものです。

 この人を三か三よさにやどしこみ 三ねん三月ととまりていた 六号64
 それよりもむまれたしたハ五分からや 五分五分としてせへぢんをした 六号48
 このものに一どをしえたこのしゆごふ をなぢたいない三どやどりた 六号49

ここに知らされた数理とは、具体的には、次のような数の事です。
「三日三夜」「三年三月」「むまれだし=約280日」「五分=五年、五分=五年」「三度宿りた=×3→3年3月×3=9年9月」

おやさまは、谷底をせり上げ、世界ろくぢにと、普請をしていく上で、「つとめと授け」を与えることを宣言していますが、「とふじん」のペリーに従い、開国した日本。
それは、隷従への道でした。
そのとき、「おびや許し」を開始して、たすけの道を示したのですが、それもきちんと、元の理の数理のままに、たすけの道を開けています。

 「三日三夜」      1854 年末  帯や許しの初め
→「三年三月」      1858     清水惣助妻ゆきに帯や許し。
→「むまれだし=約280日」 1859 清水惣助妻ゆきに再度の帯や許し。
→「五分=五年」     1864 扇の「授け」わたす。
→「五分=五年」     1869   「はったい粉」御供、渡す。
→「三度・・。=9年9月」1878 「金平糖」御供、渡す。

お授けの御供、それは、「おびやたすけ」から開始され、元の理の数理で、「たすけ」のために渡す。
おやさまの、元の理の生きた活用という思想が、貫かれています。

こうした、例は、おやさまのたすけの思想の基本として、重要なものとなっています。

[54] AFO 2006/12/09 07:52

次から次へとカルトはたえないですな

[55] 基本。 2006/12/09 08:49

明治七年の1月、おやさまは、おふでさき三号を記されています。
そこには、その当時の高山に対する、厳しい理の責めがあります。

 このたびハうちをふさめるしんばしら
 はやくいれたい水をすまして     三号56
 高山のしんのはしらハとふじんや
 これが大一神のりいふく       三号57
 上たるハだんだんせかいままにする
 神のざんねんなんとをもうぞ     三号58

しんのはしらを早く入れたいという、おやさまの思想は、三号の8に知らされていました。

 しんぢつに神の心のせきこみわ しんのはしらをはやくいれたい 三 8

現実として、しんばしらの真之亮が、「しん」であると信者の幹部に受け入れられたのは、明治18年3月7日の事でした。
おやさまは、
『さあさあ、今なるしんばしらはほそいものやで、なれど、肉の巻きよで、どんな偉い者になるかわからんで。』
と、言われて、信者幹部は、一同、納得しました。
そこまでの、道筋も、元の理の数理の世界でした。
 「三日三夜」      1861 5 西田伊三郎入信。>>51  よふぼく
→「三年三月」      1864 8 おつとめ後、勤め場所普請の資材手配。
→「むまれだし=約280日」 1865  懐妊中に、真柱の真之亮、とおやさま命名。
→「五分=五年」     1870  おつとめ、てをどりの一通り教え終わる。
→「五分=五年」     1875  おつとめ、かぐらの十二種類教え終わる。
→「三度・・。=9年9月」1885 3 『さあさあ、今なるしんばしらはほそいものやで、・・』

しんばしらを、信者の幹部らが、しんとして受け入れるまでの期間も、元の理の数理のままでした。

参考に、天理教会においても、「六ヶ敷き事」の元の理の数理のままである事も紹介しておきます。

 「三日三夜」      M18.4.29 天理教会結収願い提出。天理の呼称初使用。
→「三年三月」      M21.7.23 天理教会本部、ぢばに。
→「むまれだし=約280日」 M22.5  神道三等教会に昇格。
→「五分=五年」     M27.6.29 神道本局の普請にて、初代真柱責任者に。
→「五分=五年」     M32.5.21 神道本局管長より一派独立のすすめり。
→「三度・・。=9年9月」M42.2.19 天理教独立報告祭。

おやさまの、高山に対する厳しい理の責めは、しかし、神道天理教会では、その意味すら、見失われていました。

おやさまが、厳しく理を責めた、明治七年当時の、「高山」の姿も見ておかねばなりません。

 

[56] 基本。 2006/12/09 10:49

>>56
明治七年は、おやさまが、高山に対して、断固とした「ざんねん」を告げた大きな節の年でした。

 高山のしんのはしらハとふじんや
 これが大一神のりいふく       三号57
 上たるハだんだんせかいままにする
 神のざんねんなんとをもうぞ     三号58

明治七年、佐賀の乱が起きました。>>25
http://www.pref.saga.lg.jp/at-contents/kenseijoho/koho/sagamaga/12/power3.html
> 女性解放の点でも、江藤は画期的な先覚者で、人身売買禁止令を布告し、神社仏閣から女性を解放したり、女人禁制の登山を自由化している。
>
この江藤新平が、政府に諸兄されてから、すぐに、遊郭は、「自由恋愛の場を提供する、貸席業」として、復活してしまいます。
 この一事をみても、政府中枢を去った江藤新平と、残った政府の実力者たちとの、意識の差は分かると言うものです。
かたや、奴隷を解放する思想の持ち主。かたや、奴隷を生み出そうとする思想の持ち主。
 明治七年の佐賀の乱は、謀略によるものであると、最近の研究で、解明されました。
その説を否定する意見もありますが、紹介します。偉人図書館
第1回 教科書が語らない江藤新平
http://www.shutsumondou.jp/ijin/ijin01.html
「 今年6月末、新聞各紙が一斉に、佐賀の乱は「大久保利通の陰謀」だったと報じました。・・
 たとえば毎日新聞は「佐賀の乱は大久保一派が強行した計画的暴挙。最大の政敵だった江藤に反乱者の汚名を着せ、佐賀士族もろとも抹殺することを狙った」(6月27日)と毛利氏の見解を引用しました。」
「、『明治六年政変』は、明治四年の岩倉使節団の計画段階から話を起こし、政変の背景の複雑さを詳しく点検し、原因は「征韓」ではないと結論づけています。
さらに「征韓」ということ自体にも疑問を投げかけています。そこでは驚くことに、「征韓」派の中心人物とされる西郷ですら、「征韓」が本意ではなかった可能性が高いと指摘されているのです。教科書で知っていると思っていたことの危うさを感じます。」

つまり、大久保利通は、実際は行われていない「金融業者襲撃事件」をでっちあげて、戦争を挑発し、一気に、江藤新平を追い詰めたと言う事です。
そして、逮捕した江藤新平を、たった二日の取調べで、殺しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%B3%80%E3%81%AE%E4%B9%B1
「わずか2日間の審議で江藤、島はじめ11名が斬首となり、さらし首とされた。江藤らの裁判は当初から刑が決まった暗黒裁判で、答弁や上訴の機会も十分に与えられなかった。明治政府の司法制度を打ち立てた江藤当人が、昔の部下である河野にこのような裁判の進行をされたことが非常に無念に思ったとの伝が伝わる。」
 このような暗闘が、明治政府の高山には渦巻いていた。

 高山のしんのはしらハとふじんや
 これが大一神のりいふく       三号57

 江戸幕府は、寺社において宗門を管理し、人心を支配していました。明治政府は、明治七年に「葬儀は各自の信仰による」と布告し、寺社の支配の根拠をなくしました。
 明治七年に、「従軍殉国者の墳墓の修繕に国家が金を出す」という定めをだしました。後の靖国神社につながる、国家による戦没者の追悼というはじまりでした。
 明治七年に、「禁忌祈祷で医薬を妨げるものの取り締まり」をはじめました。
 明治七年には、仏教の各宗派に整理統合、様々干渉を加えました。
 明治七年に、信仰の講を結ぶ場合の届出について、決められました。
 明治七年に、官幣大社には官費が支給され、古い寺社にも「教導職」資格取得が義務付けられました。

 尊王思想の志士たちが起こした明治維新です。
 尊王思想を「祭政一致」の中心に据えて、宗教統制の様々な手をうったのも、謀略。
 利権と覇権とを求め、地租改正によって農村を破壊し、安価な工業労働力を確保させて、徴兵制を引いて、帝国主義の道に国民を誘導し、武力をもって意見を封殺する。それが、明治政府の正体でした。

日本を支配する高山は、唐人で・とふじんで、谷底をままにして、覇権を求め、世界を我が物にしようとする。

それは、人間を奴隷にして来た、宗教の悪いんねんであり、世界を我が物にするために、「大教=天皇教」を制度として、思想世界を支配しようという高山の、とふじんは、まさに、「神の残念」でした。

これと、たたかうには、綺麗な水のごとく、欲から離れたようぼくがいなければならないのに、にごりの水。
 おやさまの弟子と称する人たちは、目の前で起きていることの歴史的意味すら思案しなかった。・・奇跡ばかりに目がくらんで・・
「むほん」ばかり。

おやさまのおしえに、ついていった人は、大工と、しんばしらのみでした。

[57] 気配 2006/12/09 17:23

総理大臣曰く

創価学会 会長 池田大作はヒットラー

なる言動録があった。

虐殺をいとわない創価学会ですか?

その通りのようです

>政教新聞は人間(創価)の残虐性を人々に、
身をもって伝える新聞ですか?

その通りです

政治権力によって日本を歪めるから政教新聞と呼んでるんですよ。

>>そうした権力の魔性による悪事を「絶対」に許してはいけない。>>

権力の魔性はみずから作りだしているのはあなた方ですか?。

はい、そうです

>>聖教新聞という名の、活字の聖戦です。 >>

>君の書き込み内容はタリバンの破壊理論と変らんよ。
実際昔は神棚でも仏壇、位牌等々、何でも破壊していましたね。
今はそうなんでしょうかね?

今でも基本路線は変わってません。

[58] 基本。 2006/12/09 18:24

>>57
おやさまの思想には、国会では治まらない。と、いう思想が、弟子の本席によって示されています。
それに比較して、創価学会は「政教一致」を原則として、宗教思想(日蓮正宗の説く仏教思想)による政治(まつりごと)で、この世を浄土に立て替えるという活動を、具体的にしています。
それは、おやさまの思想としての「政治」では治まらないとの表明の、3625という預言思想の数理の時、つまり28年目に創価の政治行動一段、二段と、開始されました。

そのことを「善悪ともに」思案しますと、社会の庶民をせり上げたという現実的な側面があります。
「真善利」
経済行為を仏法思想で肯定し、利益を追求することを人生の高尚な目的と定義したことは、思想として、評価に値します。

けれど、「祭政一致」を目指した明治政府と過ちを犯している点では、大本教の出口王仁三郎の政治権力志向と同様に、おやさまの「世界ろくぢ思想」とは、完全に反対の極にあると言うことになります。

[59] 基本。 2006/12/11 05:12

おやさまの、債務奴隷解放の思想は、その方法手段を、しゅだんそのものについてまでも、歴史的に、「元の理」による数理で証明するというものでありました。
>>53 >>55
おやさまは、「つとめ」と「さづけ」を谷底せり上げの手段としての思想を示されていますが、
その、つとめとさづけの関係は、「元の理」の数理の世界において、理を証明していて、何を伝えたいかは、その数理の世界でも一覧できるというものでした。

 「三日三夜」      1866年「あしきはらいたすけたまえてんりわうのみこと」のつとめを教える。
→「三年三月」      1869年「十二下り」かぐらつとめを三年かけて教え終わる。
→「むまれだし=約280日」 1870年「ちょとはなし」「よろづよ」を教える。
→「五分=五年」     1875年「ぢば定め」「いちれつすます甘露台」を教える。
→「五分=五年」     1880年「初めて、鳴り物揃えておつとめ」
→「三度・・。=9年9月」1890年 現在の別席制度、おびや、お守りにつき整う。

おやさまは、人間としての死を迎えたとき、明治政府の公認を得たいという弟子たちに、
「世界を今からろくぢにする」。
「渡したいものがあったが、それを皆に渡せるようにする。」
と、二つのことを言われています。
その内の、「渡したいものがあったが、それを皆に渡せるようにする。」とのものは、今見たように、明治23年に現在のようにみなに、渡して下さるようになった。
その「さづけ」は、元の理の数理にて、この世に「渡す制度」が、誕生していて、それは、おやさまが、つとめの完成に向けての、出来事と「元の理の数理上」、一貫したものでした。

勤め場所と、真柱、用木は、>>55 、以下のような元の理の数理でした。
 「三日三夜」      1861 5 西田伊三郎入信。>>51  よふぼく
→「三年三月」      1864 8 おつとめ後、勤め場所普請の資材手配。
→「むまれだし=約280日」 1865  懐妊中に、真柱の真之亮、とおやさま命名。
→「五分=五年」     1870  おつとめ、てをどりの一通り教え終わる。
→「五分=五年」     1875  おつとめ、かぐらの十二種類教え終わる。
→「三度・・。=9年9月」1885 3 『さあさあ、今なるしんばしらはほそいものやで、・・』

地場にて、「つとめ」と「さづけ」の元となる天理教会本部は、次のような「元の理の数理」で「独立報告祭」をしました。

 「三日三夜」       M18.4.29 天理教会結収願い提出。天理の呼称初使用。
→「三年三月」       M21.7.23 天理教会本部、ぢばに。
→「むまれだし=約280日」 M22.5  神道三等教会に昇格。
→「五分=五年」      M27.6.29 神道本局の普請にて、初代真柱責任者に。
→「五分=五年」      M32.5.21 神道本局管長より一派独立のすすめり。
→「三度・・。=9年9月」 M42.2.19 天理教独立報告祭。

地場の天理教会本部から出す、「ゆるし」と「さづけ」は、次のような「元の理」の数理に基づくものでした。
 「三日三夜」      1854 年末  帯や許しの初め
→「三年三月」      1858     清水惣助妻ゆきに帯や許し。
→「むまれだし=約280日」 1859 清水惣助妻ゆきに再度の帯や許し。
→「五分=五年」     1864 扇の「授け」わたす。
→「五分=五年」     1869   「はったい粉」御供、渡す。
→「三度・・。=9年9月」1878 「金平糖」御供、渡す。

 いままでも今がこのよのはじまりと
 ゆうてあれどもなんの事やら    七号35

おやさまの、「天理によって世界をろくぢにする」という思想は、明治維新のなったばかりの当時の信者には、何んのことやら、何も分からなかったと言うことでした。

[60] 基本。 2006/12/12 12:36

「三日三夜」「三年三月」「むまれだし=約280日」「五分=五年、五分=五年」「三度宿りた=×3→3年3月×3=9年9月」
「3年3月後」→「およそ4年1月後」→「およそ9年1月後」→「およそ14年1月後」→「およそ23年10月後」

おやさまは、債務奴隷の立場に足を踏み入れて、毀ぼちぞめのお祝いをしています。
この事を、検討し検証します。

中山家の債務と債務奴隷の問題を整理しておかねば、おやさまの思想の現実的な問題は、理解できません。
先ず、中山家には、遊女の様な債務奴隷はいませんでしたが、年季奉公の様な債務奴隷がいた可能性はあります。
下女・下男・作男の存在は、何時までいたかと言うと、1853年までです。
家の毀ちぞめにより、下男下女を住ませておくことは出来なくなりました。
この時に、天日染めの話が残っています。

次に、大地主であった中山家が、「債務を抱えた」のは何時からかと言うと、「年きり質」に田地を入れた時からです。
土地を担保にお金を借りたと言う事です。
売り払おうとして買い手が付かなかったので、「年きり質にいれた」と、されていますが、それではその田地は無くなってしまったかと言うと、
その後に、中山家は百姓を続けています。
百姓の仕事をしていた人物としては、「西田伊三郎さん夫婦」など、逸話の中に数々登場しています。
つまり、田地は無くなっていないという事は、「借金を返した」という事が分かります。

おやさまが、金を借りた人物は、おやさまと同じ庄屋敷村の「足達重助」さんでした。
何時から借りていたかと言う事ですが、1853年に、家の毀ちぞめを命じた時に、土地担保で借りたとみなすのが合理的です。
年きり質の期間については、初代真柱の書き物では「8年」と「10年」の二つがあります。
1855年に残りの土地を年きり質に入れていますから、1853年には一部を、1855年には残り全部を、土地を担保にしてお金を借りたとみなすのが、合理的です。
借りた相手は、「足達重助」さん。
1853年から10年間、1855年から8年間、田地を担保にしてお金を借りた。そうすると、完済は、1863年までにはなされたものとみなされます。

おやさまの、「貧に落ちきれ」は、おやさま40歳7ヶ月以来の一貫した思想です。その目指していたものは「債務奴隷」体験を自らが通ると言う事であった。
そこから、「23年9ヶ月」後は、おやさま64歳4ヶ月の頃に該当します。
つまり、「23年9ヶ月」後は1862年10ヶ月の頃であり、その時点では、中山家では債務を完済していたという事です。

つまり、債務奴隷の立場に足を入れたという事情を軸として見れば、家の毀ぼちぞめにお祝いをしたという事は、「債務奴隷と同じ立場になったお祝い」をしたという事になります。
そしてそれは、元の理の数理の「23年9ヶ月」で、完済されて、普通の農家になったという事でした。

以上を加えて、年表を整理します。

1838 12月 9日 おつげ
12月12日 おやさまの「月日の社」宣言。
貧に落ちきれ。
1840 家財の施し
1841 をびやためし
1841 稲荷を祀る 拷問にかける
1842 この屋形取払え
        家の高塀取払う
1845 らい病の乞食が中山家に来る。
1846 安市にて、中山家の家財を売り、施す。
1848 お針子をとる。寺子屋をする。
1852     らい病施設への夫善兵衛とで寄付。
1853 母屋取り毀ぼち。土地担保の借金。
       女中を帰す。(天日染め)。
1855 残りの土地を年切り質。(土地担保の借金)
紋付さん。青物売り。(天日染め)。
1856 足達重助、娘の足が立つ。
1861 秀司、「万覚日記」 西田伊三郎入信。
1862 (土地担保の借金を完済)
1863
1864 元冶になる。

[61] 基本。 2006/12/12 13:17

おやさまは、証拠主義と言う思想の持ち主です。
評価すべき行為に対しては、おやさまは自ら製作した物をあたえるとか、格別の不思議を現すと言うことで、おやさまからの評価の証明としています。

債務奴隷関係の、おやさまの証拠主義は、史実に残されています。
「足達重助」さん。お金を貸した人。→ 貸した三年目に娘の足を立てる不思議。
家の毀ぼちそめに先立ち、中山家を去った「女中」→ 天日染め。
紋付を着て、青物売りを開始した秀司先生。→ 天日染めの紋付。

そこで、土地を担保にお金を借りていた中山家は、どのようにしてお金を返したかと言う問題があります。
それは、1861年の秀司の「万覚日記」という資料の存在が示すように、中山秀司は、「家業」をしていたと言う事です。

中山秀司が相場に手を出したり、みんななくしてしまった頃は、1853年頃の出来事として、博打に手を出して丸裸にされて、小寒が、兄を探して、浪速の町の辻辻にて神名を流した話が残されています。
それは、おやさまの妹の「くわ」さんの子供たちの博打好きに、秀司が巻き込まれたのでしたが、「くわ」さんの所では、相場をしていて、神様にお願いしたのに失敗して大損したと、そんな記録があります。
1853年頃には、中山秀司は、寺子屋をしていたけれど、家の毀ぼちぞめにて、寺子屋の維持継続を断念し「青物売り」をするようになります。
この頃から、立ち直って、家業を真面目にするようになったと見ると、年切り質の借金返済は、秀司の真面目な働きによるものと、理解されます。

1837年陰暦10月に秀司は、足痛の為に農作業が出来なくなり、以後一年間、拝み祈祷をたよりました。
足の立たない、家の立たないと言う「悪いんねん」の姿でした。

その「悪いんねん」の、身上は、足痛に現れましたが、その家の立たない「悪いんねん」の、事情は、博打好き、相場好きで、財産をなくす姿となっています。
それが、「家の毀ちぞめ」までの姿でした。

しかし、母屋も売り渡し、田地も、質に入れてお金を借りて、借りた当初は「悪いんねん」のままに、博打と相場でなくしてしまう姿でしたが、残った田地すべてを、「足達重助」さんに、担保として、お金を借りた時から、秀司さんは、心入れ替えて真面目にはたらく「家業第一の「白いんねん」。
それで、おやさまは、きっかけとなってくれた、お金を貸してくれた、「足達重助」さんには、娘さんの足を立てると言う「不思議」にて、証拠を残しました。
一方、青物売りを開始した秀司さんには、「天日染めの紋付」を与えて、おやさまの喜びの証拠としました。

「足達重助」さんは、油の商品作物売買で、儲けていた人で、秀司さんとも、取引をしていた証拠として、「万覚日記」があります。

債務奴隷からの開放とは、「悪いんねん」を切るという事と「白いんねん」を為すと言う事。
それを、きちんと示しているのが、おやさまの「不思議」です。

その、1837年から「23年9ヶ月」後には、

[62] 基本。 2006/12/12 13:22

その、1837年から「23年9ヶ月」後には、中山秀司は、中山家の当主として、家業第一の道にいましたが、・・・

宗教で儲けると言う、安堵村飯田善六さんの「応法」に誘惑されて、再び、迷い道にはまり込んでいくのは、「元冶」からの道筋での事です。

元の理の数理は、どこまでも、きちんとした史実にて、人間の生まれだしを示す数理です。

[63] 基本。 2006/12/12 20:19

>>60
歴史の年表から、おやさまと「債務奴隷への道・せり上げの道」「六ヶ敷き事」の数理にて確認します。

「3日3夜」       1838   おやさま  世界一列たすけるため神のやしろとなる。
→「3年3月後」     1842 おやさま  この屋形取払え
→「およそ4年1月後」    1843 中山家   村人、親戚友達、不付き合いとなる。
→「およそ9年1月後」    1848 おやさま  お針子をとる。
→「およそ14年1月後」   1853 おやさま  土地担保の借金。 母屋取り毀ぼち 奉公人の女を帰す。
→「およそ23年10月後」  1862 おやさま  土地担保の借金の完済。

歴史の年表では、おやさま、「貧に落ちきれ」は、1840年前後頃とされています。
そこで、中山家の因縁切りの道を、「六ヶ敷き事」の数理にて整理します。

「3日3夜」       1837   秀司   足痛から、散財の開始。
→「3年3月後」     1841 おやさま  貧に落ちきれ。
→「およそ4年1月後」    1842 おやさま  家の高塀取払え。
→「およそ9年1月後」    1846 おやさま  安市にて、中山家の道具一切を売り払う。
→「およそ14年1月後」   1852 おやさま  夫善兵衛とともに、らい病施設に寄付をする。
→「およそ23年10月後」  1861 秀司    中山家の家業の当主として、切り回す。

このように、因縁切りの歴史となっています。

おやさまの思想の普遍性は、中山家の事情においても、世界の普請の事情においても、「六ヶ敷き事」の数理にて、目に見えるように、歴史に残れていました。

[64] 普通の天理教徒 2006/12/13 07:10

基本さん。
「六ヶ敷き事」の数理が歴史上の事実に残されているという、基本さんの検証は、天理教会独立のように、きちんと数理として合致しているように感じられるものは、確かにと、納得できますが、
>>63  に言われた、
債務奴隷関係の「谷底せり上げ」と「中山家のいんねん切り」の数理は、事実のあった年月日の検証の内容に、すっきりと認めにくいものがあります。
どのように、考えて、元の理の数理のままであると、判断されたのでしょうか。
普通の天理教徒にも分かるように、説明をお願いします。

[65] 基本。 2006/12/13 07:36

おやさまの思想に、「26日にはじめかける」と言う思想があります。
同様のものとして「1月26日にはじめかける」と言う思想があります。
それは、「6」は「ろくぢ」と言う思想を含んでもいますが、数字で示すと、
 十月二十六日は、1〇26と表記されます。
 正月二十六日は、〇126と表記されます。

 つまり、126で始めかけるという数理上の思想があると分かります。

そこで、年表で確かめますと、

> 1838   おやさま  世界一列たすけるため神のやしろとなる。
これは、陰暦十月二十六日の出来事です。126で始めかけるという数理、そのものです。
> 1837   秀司   足痛から、散財の開始。
これも、陰暦十月二十六日の出来事です。126で始めかけるという数理、そのものです。

基本的には、全て実数の「新暦」で計算します。
しかし、このまるごと「陰暦」時代のことは、「陰暦」で基準にすべきではないかと、判断できます。

そこで、>>60 は、
> 「三日三夜」「三年三月」「むまれだし=約280日」「五分=五年、五分=五年」「三度宿りた=×3→3年3月×3=9年9月」
> 「3年3月後」→「およそ4年1月後」→「およそ9年1月後」→「およそ14年1月後」→「およそ23年10月後」
これは、新暦の数え方ですから、陰暦で数えてみますと、こう言う考え方になります。

陰暦十月二十六日→「三年三月後」→陰暦正月二十六日。
陰暦正月二十六日→「生まれるまでの日数」→陰暦十月二十六日。

このようになります。

つまり、陰暦時代においての「元の理の数理」は、必ず十月二十六日と正月二十六日という日を示すということになります。

おやさまは、126ではじめかける思想ですから、陰暦を用いての数理に、歴史の年表から、おやさまと「債務奴隷への道・せり上げの道」「六ヶ敷き事」の数理にて確認したとしますと、次のようになります。

「3日3夜」       1838 十月26日  おやさま  世界一列たすけるため神のやしろとなる。
→「3年3月後」     1842 正月26日  おやさま  この屋形取払えを命ずる。
→「およそ4年1月後」  1843 中山家    村人、親戚友達、不付き合いとなる。
→「およそ9年1月後」  1848 正月26日、おやさま  お針子を取れと命ずる。
→「およそ14年1月後」 1853 正月26日、おやさま  母屋取り毀ぼちを命ずる。
→「およそ23年10月後」1862 中山家 土地担保の借金の完済。

このように整理されます。
正月のこえのさづけという、おやさまの思想に、一貫しており、陰暦時代として、きちんと合理的なものです。

[66] 普通の天理教徒。 2006/12/13 08:45

>>65
つまり、おやさまの教えには、「10」も、「1」も、正月という事なのですね。
「算盤の玉を一つ上げて、『あんたこれをなんと言う』と、おやさまは言われたとの事ですから、1とも、10ともなりますから、そういう意味でも、「正月」というのは、天理教の立教の元一日の「10月26日」も正月の出来事で、扉開いた「1月26日」も正月の出来事であると、そのように基本さんは言われるのですね。
そして、「正月声のさずけ」とみかぐら歌にありますから、おやさまからの大切なお声は「正月」に出されたという事に、基本さんは考えていて、陰暦の頃の出来事の中で、重大なお言葉は、正月の出されたものとみなされたと言う事ですね。

それでは、1862年にも、お言葉があるような気持ちがするのですが、 > 中山家 土地担保の借金の完済。
は、債務奴隷関係の出来事として、強調するために、出来事として並べたのでしょうか。

[67] 基本。 2006/12/13 09:23

1862年には、「並松村の稲荷下げ」におやさまは、二両二分を与えています。

おやさまは、宗教で稼ぎをしていませんでしたから、この時の二両二分は、秀司の家業で得たお金と言う事です。

稲荷下げがどうして来たかという事は、中山家では、ほこらをつくり、稲荷を祀って、その時におやさまに拷問を加えて、つき物ならばされとしています。
中山家が稲荷を祀っていたと言う事で、この前頃からおやさまの不思議なたすけが開始されていますが、それならば金をよこせと、同業者からの何らかの要求があったものと、みなされます。
それに対応できて、二両二分もの大金が支払えたという事ですが、稲荷と言う名を利用したことに対して、「ひとのもの借りたるならば利がいるで」を実行されて意味にもなっています。

文久二年(1862)には、おやさまは、安堵村平井伊平の妻女のおたすけに、出かけておられます。
この事を示すのかもしれませんが、つまり、世界の普請の問題としてです。
債務奴隷関係の、何かの真理をしめす出来事があったものと推理されます。

中山家の「いんねん切り」事情においても、「10月」→「正月」→「10月」という、六が敷き事の事情は「陰暦」の時代とみなされます。

「3日3夜」       1837 10月 寄せ加持の開始。 秀司の足痛から、散財の開始。
→「3年3月後」     1841 正月   おやさま  貧に落ちきれの宣言。
→「およそ4年1月後」  1842 正月   おやさま  家の高塀取払えの命。
→「およそ9年1月後」  1846 正月   おやさま  道具一切売り払えの命  安市にて、中山家の道具一切を売り払う。
→「およそ14年1月後」 1852 正月   おやさま  夫婦揃うてのひのはしんの命 夫善兵衛とともに、らい病施設に寄付をする。
→「およそ23年10月後 1861 10月  おやさま  ○○の命 中山家の当主として、秀司、切り回す。この頃、西田こと、お屋敷に引き寄せられる。

このように、推理を交えて、整理をしました。
「西田こと」さんは、元治元年の前後から、夫伊三郎さんとともに、中山家の農業をしています。
つまり、家業に対する協力者であったわけです。

中山家は、貧に落ちきる事で「悪いんねん」を切り、新たなる農家として、経営に乗り出していたと言う事です。

[68] 基本。 2006/12/13 09:55

>>67
「中山家の悪いんねん」。
これを示す証拠として、教祖伝史実校訂本中1巻に次のような事実が記されています。
 A 元禄十六年十月二十五日に、銀子七十匁を、庄屋敷村の弥作、源四郎他四名に、屋敷を質物(担保)として、貸して、証文を出させている。
B 正徳五年十二月十四日に、銀子百三十五匁を、久作他三名に、田、六畝三歩を質物(担保)として、貸して、証文を出させている。
 C 享保三年十二月十四日に、銀子七十目を、孫四郎他三名に、畑二十歩を質物(担保)として、貸して、証文を出させている。

中山家の子文書から抜粋したほんの三つの資料は、元禄十六年(1704)、正徳五年(1720)、享保三年(1723)、の、金貸しの実態を証明してくれています。

「足達金持ち、善右衛門さん地持ち」と、歌にまでうたわれた、中山家の財産は、お金を貸して、家屋敷、田地・田畑を取り上げていた結果の大地主であった。
少なくとも、長男の秀司が足痛を起こし寄せ加持にて、祈祷した時の133年以上前から、金を貸しては、人を債務の奴隷にしていたと言う事が分かります。
133年よりももっともっと長く、積み上げていた、「債務奴隷」を生み出した「悪いんねん」を切る事が、世界のふしんの前に、なされるべき事であったと、おやさまの、元の理の数理の史実は、証明し、語ってくれています。

債務奴隷をうみ、奴隷を使用していた中山家。

この悪因縁を切るには、
1837 10月 寄せ加持の開始。 秀司の足痛から、散財の開始。
1841 正月   おやさま  貧に落ちきれの宣言。
1842 正月   おやさま  家の高塀取払えの命。
1846 正月   おやさま  道具一切売り払えの命 安市にて、道具一切を売り払う。
1852 正月   おやさま  夫婦揃うてのひのきしんの命 夫善兵衛とともに、らい病施設に寄付をする。
1861 10月  おやさま  ○○の命 中山家の当主として、秀司、切り回す。この頃、西田こと、お屋敷に引き寄せられる。

と、新たなる、出発を迎えるに置いては、

「貧に落ちきれ」

それしかないとの、真理を、おやさまの思想として示されたわけです。

[69] 基本。 2006/12/13 10:10

1837 10月 寄せ加持の開始。 秀司の足痛から、散財の開始。
これについては、都合九度の寄せ加持が実行されています。

それは、おつとめに関しての元の理の数理にある、「別席」が、九度の席である事と、一つの理として、示されています。

おやさまが、渡したいものがあると言う「おさづけ」、その為の別席は、九度の席であり、それは、実は、「悪いんねん」を切り、「家業第一」の健全な人生にて、始まるための、元の理の数理の世界の開始を意味しているものであると、数理そのものの年表が示しています。

悪いんねんで蓄財し、債務奴隷を生み、従え、そういう過去を自覚したなら、九度の席を運んで、三年三月の理においては、貧に落ちきるを実行する。
悪いんねんで蓄財したものを、なくす事でいんねんを切る。
黒板塀を取払い、母屋を売り払い、由緒ある道具一切を売り払い・売った代金を施し、難病の方々に施し、そして、貧のどん底に落ちきる事を教えています。

別席を済ませたという事の次には、悪いんねんのものを散財すると言う順序がある。

おやさまの思想は、現実として、債務奴隷をつくり支配した人たちには、現実として、人に施し、貧のどん底に落ちて行く事を行えと言う、思想です。
その中に、家業第一の夜明けに向う道がある。

いんねんの無自覚では、三日で切れるものも三年かかり、三年で切れるものも三十年かかり、六十年かかり、一生掛けて切れなければ、再び出直して、切るしかないと言う、その、気の長さが、おやさまの思想です。

[70] 普通の天理教徒。 2006/12/14 01:12

>>68
証文が、中山家に残されていたという事は、借金が返されていれば当然証文は返すはずですから、
> A 元禄十六年十月二十五日に、銀子七十匁を、庄屋敷村の弥作、源四郎他四名に、屋敷を質物(担保)として、貸して、証文を出させている。
> B 正徳五年十二月十四日に、銀子百三十五匁を、久作他三名に、田、六畝三歩を質物(担保)として、貸して、証文を出させている。
> C 享保三年十二月十四日に、銀子七十目を、孫四郎他三名に、畑二十歩を質物(担保)として、貸して、証文を出させている。
これらの例は、明らかに、借金のかたに土地建物を取り上げた証拠という事になります。

秀司さんの事が一年前にあって、立教になったという事は、先ず因縁切りと言う事を、時間的に示されたと、それは、分かりますが、せっかく、家業第一に頑張った結果、その後に宗教家業にはまり込んだのは、思想的になんとも、残念ですね。

[71] 基本。 2006/12/14 07:08

>>70
> 家業第一に頑張った結果、その後に宗教家業にはまり込んだのは、
> 思想的になんとも、残念ですね。
はい、残念と言う見方で言うならば、残念な事ですが、「理」の構造にて思案しますと、一つの因縁を切った後に、より、過去の因縁の道が登場するのが、道理です。
つまり、>>14 で、安堵村の飯田家の事情として、語っている事があります。
> その後、飯田善六さんに対して、「あんたは前世でおじさんと言う血縁者であった」と、因縁の事実を告げています。
> そして、金貸しをしていた前世では、寝ている病人の布団まで剥いで、回収した、守銭奴であったと、心の入れ替えを諭しています。
> しかし、息子に、「水のさづけ」という、効能を授かったことから、
> 飯田善六は、「散財」のために為す救済ではなく、「蓄財」のためになす、「不思議な水のさづけ」の悪用を胸に抱いていました。
> 金貸しとしての、悪行時代の悪因縁の心の根が、切れていなかった。のでした。
> その時、みえぬ先から説く、おやさまは、文久四年の事でした。
>   さあさあ この屋敷をこうずい場所
>   水屋敷といういんねんをつけおく
> と、お言葉を以て、水屋敷の「はんらん」を、予言しました。
>
この、飯田家へのおたすけは、
>>65
「3日3夜」       1838 十月26日  おやさま  世界一列たすけるため神のやしろとなる。
→「3年3月後」     1842 正月26日  おやさま  この屋形取払えを命ずる。
→「およそ4年1月後」  1843 中山家    村人、親戚友達、不付き合いとなる。
→「およそ9年1月後」  1848 正月26日、おやさま  お針子を取れと命ずる。
→「およそ14年1月後」 1853 正月26日、おやさま  母屋取り毀ぼちを命ずる。
→「およそ23年10月後」1862 中山家 土地担保の借金の完済。

この、中山家が、因縁を一つ切り、土地担保の借金の完済を成し遂げた、直後に、おやさまは安堵村、」飯田善六さん宅に、子供、岩治郎さんのおたすけに行かれています。
金貸しの因縁の中山家の、債務奴隷事情にいったんの決着はついていたのですが、そこで、おたすけされた飯田家は、「不思議なたすけで金を稼ぐ」と言う宗教家業のうまみに、誘惑されて、宗教商売を開始しますが、それは、おやさまのろくぢの思想への「謀反」であり、三十年後の氾濫を、「洪水屋敷」と、予言されていました。

普通の天理教徒さん、おたすけされた飯田家では、貧のどん底に落ちていこうとしたのでもなく、家業第一の健全な生活に新たに戻ったわけでもなく、「宗教家業」をもくろんだ。
それは、
>>22
> http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_12.htm
> 出挙、借上、土倉、祠堂銭など、古代から中世にかけてみられた金融取引の多くが神社・仏閣により営まれていたという事実は、非常に興味深い。
> 第1に、当時の社会における富の分布や金融取引が神仏と密接に繋がっていることを示しているからだ。
> 第2に、彼らの金融業者としての拠り所は、「債務不履行は神仏の供物を奪う行為であり、そうした輩は死後地獄に堕ちる」という宗教的な返済強制力にあり、借り手も神仏の冥罰をおそれて約定どおり返済に努めたのであった。 』
>
> つまり、文久の時代の飯田善六さんが五代前には、おやさまのおじ> さんで、宗教からみの金貸し「土倉」をしていたと、

>>23
> それが、元々のいんねんが出て、
> 宗教というもので『金を搾り取る』という、水屋敷の反乱につながったという事なのです。

このように、悪因縁のルーツを示しておきましたが、金貸しの元は宗教家。金融のルーツは宗教<神社・仏閣。
その、元もとの悪因縁が、飯田家では取れていなかった。
・・・
そして、秀司は、こともあろうに、飯田家を見習って、宗教家業の方便を採用しようと、元もとの、宗教からみの、しのぎ、それに走ります。
そのへんの事情は、櫟本分署跡の八島秀雄さんの説がかなり事実に近いでしょう。
秀司は、吉田神祇管領が一番偉いと認可を受けに行きましたが、明治維新で、「大教=天皇教・宣布」がなされますと、家業を盛り返ししていた、後の、明治六年、その時、秀司は、庄屋敷村の戸長となっていて、
お屋敷で<秀司宅で、・・・

 明治6年 11/9 秀司宅で「大教宣布説教」あり>聴衆150名。

明治政府に迎合しての、国家神道宗教化政策の先導をしています。

これは、世界ろくじに背いた、重大な謀反でした。
つまり、中山家の、元もとの宗教的悪因縁が、飯田善六さんに誘発されたものとして、おやさまの教えを表に出すと言うよりも、おやさまの起こす不思議を、権力国に結びつけて、宗教家業をしていこうという悪因縁のままの心が、行為にそのまま現れています。

一つの因縁を切ったと思っても、通り返さなければ、より昔の悪因縁の道に、再びはまり込むと言うことです。

普通の天理教徒さん、お分かり頂けましたでしょうか。

[72] 基本。 2006/12/14 11:26

中山家の「悪いんねん」の問題を、中山秀司さんの、実例から見ておく事で、おやさまの思想が見えてきます。

「高野友治先生の著作物」の内容を拾い出して整理しますと、以下のようになります。

中山秀司さんは、最初の奥さんは医師土屋宋仙の娘さんで、結婚して三日で、おやさまの言動が怖いと言って逃げてしまいました。
次の奥さんは、やそさんです。
やそさんは一時中山家に来ていましたが、「私はこの家の嫁になることは出来ない者」と言って、身を隠したと、伝えられています。
身分違いと言う事でしたが、中山家が田地四町持っているので、身分が違うと、身を引いたという事です。
その後へ出てくるのが、川原城のおちえさんです。
この人は、音治郎さんの母親です。

整理しましょう。
1、医師の娘。三日で離婚。 おやさまの行動に怯えて身を引く。
2、やそ。(娘しゅうの母親) 身分違いが理由で身を引く。(中山家田地四町所有)
3、おちえ。(息子音治郎の母親) おやさまが、埃の者として送り出す。 お筆先一号に登場の人物。

中山秀司さんが、4、として、結婚したのが、小東家のまつえさんです。

ところで、2、やそさんとの娘は1853年に生まれています。
これは、家の毀ぼちそめの前後、たぶん前と思われます。
娘が生まれると、身分違いを理由にしてやそさんは、身をかくし、やそさんの母親が生まれた娘「しゅう」さんを育てています。
傾きかけてはいても、中山家は資産家であり、やそさんには、身分差があって身を引いたという事は、おやさまの「世界ろくぢ」の思想を、中山家そのものが邪魔していたという事。
そこで、おやさまは、やそさんとの娘(しゅう)さんは、一度迎え取り、死なせてから、「中山たまえ」に、生まれかわらせて、中山家を継がせています。

一方、3、おちえさんとの息子は1858年に生まれています。
丁度、おちえさんとの関係が深まったとみなされる1857年には、
 1857、信者がはじめて米四合を持ってお礼参り。
と、あります。
中山秀司さんが、「宗教家業」に足を踏み間違う、その伏線が、「信者のお供え」の開始の頃に、「色情因縁」の深まりを見せたという姿で、中山家には、起きていたと言う事です。
おちえさんに対しては「正月みそかと日を切って、」送り出したおやさま。

低い身分であったために、身を引いた女。
中山家の宗教家業の間違いの道に入る秀司に、ぴたりと付いた女。

しかし、4、として、結婚した小東家からのまつえさんは、宗教家業にはまり込む秀司さんと同じ過ちにはまり込みます。

中山家の悪いんねんの、姿を通して、おやさまは、債務奴隷を生み育ててきた「いんねん」とは、『色情の因縁』でもある事を示しています。
心得ておくべき、おやさまの思想です。

[73] 基本。 2006/12/14 18:35

普通の天理教徒さんへ。
>>70
ひとつの悪因縁が切れたと見えた時に、実は、その悪因縁が新たな展開に開始されていると言う、そういう事を、秀司さんの実例が示しています。
おやさまの、谷底せり上げの思想は、徹底したものであり、とりあえず自分たちだけは、泥水の中から脱出できたと、自分たちだけは綺麗な水の中に暮らせるからそれでよいのだという人間の甘えた思案を、そのような甘さを許しているおやさまではありません。

飯田岩治郎さんのたすけの開始された頃、秀司さんが新たに宗教家業の悪いんねんに復古してしまうという過ちの道にはまりこむ頃、丁度その頃になされた、アメリカの奴隷解放宣言(1863)の実例でも、そうした悪いんねんの、新展開の事情がみられます。

http://www.tenri-u.ac.jp/tngai/americas/files/newsltrs/24/24.lecture.hatsutani.html
から引用します。
『米国の歴史において南北戦争はプランテーション奴隷制を維持しようとする南部と自由な労働力に基づく資本主義発展を志向する北部の抗争であった。
したがって、南部の敗北は米国史における奴隷制の終焉を画するものであったことは周知の事実である。
ところが、その南北戦争がとなりのメキシコにおいて奴隷制を復活させる契機となったのである。 』
・・・
『まず、エネケン・プランテーションの労働形態の問題である。
ペオンと呼ばれた定住労働者には、ティエンダ・デ・ラヤと呼ばれる地主の直営売店の金券が給料として支払われていた。
その売店では市価の数倍の価格がつけられており、またたくまに給料分はふっとび、多額の借金だけが残るシステムになっていた。
債務奴隷化しプランテーションに縛られたペオンたちは、やがてその債務額とは無関係に人身売買されるようになり、事実上の商品奴隷となったのである。
この再版奴隷制の犠牲者となったのは、ユカタン半島の先住のマヤ系インディオであった。
高度な機械設備を備え大規模な海外市場向けに生産するエネケン農場は、資本主義的プランテーションの典型であるともいえる。
資本主義が発展するほど、むしろ前近代的な労働形態が強化されたところにメキシコ資本主義の「従属的」性格が露呈しているといえよう。 』

『IHC.は、米国の収穫機市場におけるシェアーの90パーセント以上を占める巨大トラスト企業となった。そして、IHC.は、ユカタンの現地オリガルキーであるモリナ・ファミリーと手を結ぶことで、エネケン総輸出量の90パーセントを独占輸入し、事実上エネケンを支配した。
IHC.とモリナ・ファミリーとの密約によってエネケン価格は低く抑えられた。
そして一般のプランターは、IHC.の背景にしたモリナ・ファミリーに金融的に従属していき、エネケンを買いたたかれた。そのためのコスト削減のために労働力の搾取強化でカバーしようとしたところに、プランテーションで働くマヤ奴隷たちの悲劇があった。 』
・・・

奴隷解放と言うひとつの「因縁切り」に見える姿は、実は、新たなる奴隷制を生んでいた。

 1863年 おやさま 金融業者の因縁を持つ安堵村飯田家をおたすけに。
     ←→
 1863年 アメリカ奴隷解放宣言。

こちらを表としてみれば、
 中山秀司  宗教家業の悪いんねんへの「復古」。
     ←→
 マヤの奴隷制の「復古」。

おやさまの、「鏡のごとく映る」という思想は、「奴隷制度」の復古という人類史的悪いんねんにおいても、貫かれていました。

明治維新は「王政復古」。つまり、宗教が人を統治した時代への「復古」でした。
その「復古そのもの」を、中山家で明治六年、「大教宣布」の宣伝の旗振りをした中山秀司さんは、当時のアメリカの支配下に民族を奴隷に売った、ユカタン地元のエネケン産業人の姿そのものでした。

[74] 基本。 2006/12/14 20:13

宗教家業の悪いんねんの道にはまった、応法の秀司先生については、明治2年に、中山家の敷地内の建物に入り込んで秀司さんと内縁関係の夫婦であった、>>72
3、おちえ。(息子音治郎の母親) おやさまが、埃の者として送り出す。 お筆先一号に登場の人物。
さんの、送り出しと言う事情があります。

簡単に整理しますと、男子相続制の時代ですから、正式な結婚をしていなくとも、音治郎さんには中山家(資産家)の相続の可能性があった。
一方、2、やそ。(娘しゅうの母親) 身分違いが理由で身を引く。(中山家田地四町所有)、この人の娘の「しゅうさん」は年頃になっていた。
二三年仕込んだら、嫁に出せる年齢になっていた。
そこで、秀司とおちえは、「しゅう」を二三年花嫁修業で仕込んで、出してしまおうとした。
財産をめぐる、相続の謀略です。
言うならば、「娘しゅう」は中山家には無き者にしてしまおうという心が、「実父の秀司とまま母内妻のおちえ」さんには、あった。

そこでおやさまは、生き死にを司りますから、両親の心どおりの宣言をします。
 このこ供二ねん三ねんしこもふと
 ゆうていれども 神のてばなれ  一号六十
>>72
> そこで、おやさまは、やそさんとの娘(しゅう)さんは、一度迎え取り、死なせてから、「中山たまえ」に、生まれかわらせて、中山家を継がせています。
債務奴隷を生み育てた、かっての中山家の悪いんねんは、「長子相続」「相続争い」という、醜い悪事に染まっていたので、子供「しゅう」は、死。
そして、その醜い内縁関係を清算。
 一寸はなし 正月三十日とひをきりて、
 をくるも神の心からとて        一号三十九
明治二年、陰暦正月三十日とひをきり、内縁の妻を男子と女子と共に、中山家から送り出ししました。

 このあしハやまいとゆうているけれど
 やまいでハない神のりいふく      一号三十二
 りいふくも一寸のことでハないほどに
 つもりかさなりゆへの事なり      一号三十三
 りいふくもなにゆへなるどゆうならバ
 あくじがのかんゆへの事なり      一号三十四
 このあくじすきやかのけん事にてハ
 ふしんのしやまになるとこそしれ    一号三十五
 このあくじなんぼしぶといものやとて
 神がせめきりのけてみせるで      一号三六

> 3、おちえさんとの息子は1858年に生まれています。
> 丁度、おちえさんとの関係が深まったとみなされる1857年には、
>  1857、信者がはじめて米四合を持ってお礼参り。
と、あります。
> 中山秀司さんが、「宗教家業」に足を踏み間違う、その伏線が、「信者のお供え」の開始の頃に、
> 「色情因縁」の深まりを見せたという姿で、中山家には、起きていたと言う事です。
そして、その色情因縁は、財産相続を巡る様相をなしていた。

中山家の悪事とは、『債務奴隷生み出しの因縁』
そして、『宗教を利しての経済行為』
それこそが、中山秀司の悪事。

いのちのやり取りをもって、整理清算し、身分低き「娘しゅう」を、中山家の跡継ぎたる「中山たまえ」として迎えた、おやさまの思想には、差別なき社会しか在りません。

[75] 普通の天理教徒。 2006/12/15 10:17

>>74
基本さんは、正月二十六日の事を126と書き現すなどして、例えば126年目に神の掃除があるとか、書かれていますが、
http://religion.bbs.thebbs.jp/1163859118/e40  の[264]にありますが、
それに、真似すると、正月三十日は、130と書き表せます。

この、「正月三十日」と日を切って送る」というのも、予言になるのでしょうか。

[76] 基本。 2006/12/15 10:18

>>75
普通の天理教徒さん。
ご承知のように、おやさまの思想は、見えない先から説くと言うことにあります。
又、それまでの年数の記録と言う意味もあります。

> 正月三十日は、130と書き表せます。
その通りです。

そこで、130を、十三年と理解しますと、「正月三十日と日を切りて」は、どんな出来事からの十三年かといいますと、年表では >>60
日付を漏らしたかもしれませんが、1858 1/23 「秀司の子音次郎出生」となっています。
すると、音次郎さんの懐妊は、1857年の四月頃です。
そこで、おちえさんと秀司さんの間で子供の宿しこみをした、1857年を1と数え始めますと、1869年が丁度、十三年目です。
又、この「正月三十日と日を切りて」をお筆先に書いたのは、1869年ですから、1869年を1と数えますと、十三年目は、1881年が丁度十三年目です。

登場人物の史実で、数理130は13年にて整理しますと、
 内縁関係の開始。   1857年  秀司とおちえ 音次郎さん宿しこみ。
 130は、13年後。 1869年  「正月三十日と日を切りて」おちえの死。
 130は、13年後。 1881年  秀司の死。
このようになります。

正月三十日と日を切って、懐妊の事実から十三年目に掃除をしました。
そして、秀司には、「悪事を払い」と教えましたが、それが払えなくて、「悪事を払え」から、十三年で秀司を掃除しました。

おちえさんを、掃除した原因は、中山家の相続人は誰かと言う問題にありました。
その点にも触れておきましょう。

1854年に、梶本家に長男亀蔵さんが誕生しています。おやさまの外孫ですが、本来の中山家の相続人・真柱になるはずの人でした。
そして、
1857年に、梶本家に次男松治郎さんが誕生していますから、この松治郎さんが梶本家の相続人と言う事です。
そして、その当時には「娘しゅう」さんは、三歳くらいです。
亀蔵さんとしゅうさんで、中山家の相続をする事に、そういう約束と事実があったわけです。

ところが、「娘しゅう」さんの母親は、身分違いを理由に中山家を去っている。

そんな所に、秀司さんはおちえさんを身ごもらせてしまった。1957年です。
おちえさんは、極貧の時代の中山家には正式に嫁がないでいた。様子を見ていたというところでしょか。
ところが、後には、10年で秀司は家業を復興し、また、宗教家業としても興隆を見せだして、すると中山家のおやさまとは別宅に入り込んで生活を開始した。
そういうおちえさんであり、現実に、男子の母親であった。
こんな状況です。

梶本家では、長男亀蔵を中山家に入れたとしますと、中山家に二人の男子になる。
そんな状況では、可愛い長男を複雑な争いの渦に簡単に入れるはずも無く、すると、1860年に亀蔵さんは死にます。
そして、1865年に、真柱の真之亮さんの誕生でした。
おちえさんの悪事とは、「地位財産目的の結婚」。
秀司さんの悪事とは、梶本家からの養子の話を知りながら、「娘しゅう」がいながら、おやさまとの別宅での生活を構築した事です。

それは、「宗教家業」で、一家を成そうと言う、応法の道につきものの、色情因縁・後継者の揉め事。
そういう、事情です。

それで、おやさまは、秀司にふさわしい因縁の女性を、寄せました。

 小東松枝さん。・・・「宗教家業の悪事の因縁の持ち主」。

生駒郡平郡地方の旧家で、父は、法隆寺斑鳩御所の名目金を貸し付けていた。

おやさまが、「前世の因縁寄せて守護する」と、仲立ちした縁談は、まさに、宗教家業からみの金貸しの悪いんねんを、見せ付けるものでした。

[77] 基本。 2006/12/15 14:36

おふでさきでは、一号に、小東松恵さんと中山秀司さんの結婚について、このように記されています。

 せんしよのいんねんよせてしうごふする
 これハまつだいしかとをさまる     一号74

読み方は、「前生の因縁寄せて」ですが、文字は「先処の・せんしよの」です。
この場合、松恵さんの先にいたところという意味になります。

> 小東松枝さん。・・・「宗教家業の悪事の因縁の持ち主」。
> 生駒郡平郡地方の旧家で、
> 父は、法隆寺斑鳩御所の名目金を貸し付けていた。

天理教事典にある記述をそのままに紹介しましょう。
『 「小東政太郎」 ・・・
父政吉は、農業の傍ら法隆寺斑鳩御所の名目金を地方人に貸し付けていた。
取り立ても厳しかったと言う。
政吉が亡くなった時、箱に七杯黄金が残っていたとも言う。
そのような事が理に添わなかったのか、政太郎、定次郎、仙次郎の三人はともに身持ちが悪く、特に政太郎は、乗馬二頭を買い、賭博、女遊びと、財産を浪費、没落してしまった。
教祖(おやさま)は、
「小東の家は無理してあるから、何度改革しても家がつぶれる」
と、仰せになったこともあるという。  』
(改訂版・天理教事典p354)

「法隆寺斑鳩御所の名目金を貸す」。
名目は、由緒ある法隆寺の御所の名目を用いる。
そして金貸しをして、取立てはきつい。

宗教が、歴史において、行い・行わせていたシステム。
それを、現実にしていた父親。

飯田善六という前世の高利貸に影響されて、宗教家業の応法にそまる秀司。
それに相応しい、因縁の持ち主を、おやさまは、「小東松恵」と、「秀司」に、因縁寄せての守護をした。

それから、二人は何をしたのか。
「蒸し風呂」を経営している。
「蒸し風呂」、それは、風俗業者が経営した施設である。
信者の集まりを利用して、商売しようという。
その、下働きは、誰がしていたのか。
信者たちである。
宗教家業のいんねんの道を突き進んだというしかない、二人。
おんなじ、宗教の債務奴隷生み出し因縁を持つ、金剛院に所属して、宗教家業をまい進する事は、まさに、せっかくの、家業第一に、貧のドン底からせりあがった意味を見失ったものであったと言うしかない。

それは、後の時代に、おやさまの思想を歪曲化した、宗教家業家たちの誤りに通じている。

奴隷を解放した瞬間、さらに多くの悲惨な奴隷を生み出す、正義に似ている。

おやさまは、秀司という一個人において、奴隷解放の問題は、宗教では解決できない事を、きちんと示している。
なぜなら、宗教こそ、「神の下の不平等」を生み育て、「債務奴隷」を生み育てた元凶。

「大社高山取払い」は、おやさまの思想の中心をなすものである。

[78] 普通の天理教徒。 2006/12/16 04:07

>>78
ここでは、宗教を絡めないで、おやさまの教えについて語ると言うことですが、今まで普通の天理教徒は、おやさまの説かれた「かぐらつとめ」と言うのは、「特別な魂の人十人」が、神様により選ばれて引き寄せられて、おつとめするものだとばかりに、教えられていましたが、そう言う、「選ばれた」と言う思想は、おやさまの思想ではなく、おやさまの教えを宗教として利用する「宗教家の先生たち」の宗教の教えだったと言うことでしょうか。

ぢばの理につきましても、「理の無い者には、猫に小判のようなもので、ぢばの尊さが分からない」と言うような教えを、有名な天理教の先生の本で読んだことがあります。
そんな「尊いぢば」を囲んでの「かぐらつとめ」は、十人の、魂の徳ある選ばれたおつとめ人衆が、清らかな誠の心で、おつとめするもので、その心を受け取られて、親神様が不思議なご守護を下さるのだと、信じていました。

ところが、基本さんは、おやさまが「ぢば」に因縁があるとしてお引き寄せになった小東家の松恵さんの事を、「魂に徳がある」どころか、「法隆寺という由緒ある宗教を利用して、金貸しをしていた」と、「悪因縁」の方から、説かれています。

天理教事典に書かれてある事実からすれば、松恵さんの因縁として、そういうものがあったと言うことは、普通の天理教徒には、教えとしてはそのようになっていますから、納得できますが、それでは、「大食天命」の「魂」のお方というものと、一致しない。
尊いぢばに相応しくない、正反対の、強欲の女性と感じるしかないのです。

そういうものなのでしょうか。
つとめの人衆というものは、もっと、心の澄みきった人を言うのではないでしょうか。

そこが、理解に苦しむところです。

[79] 普通の天理教徒。 2006/12/16 05:00

> つとめの人衆というものは、もっと、心の澄みきった人を言うのではないでしょうか。
>>78
おやさまの教えには、「心澄ます」という教えはありますが、「> つとめの人衆というものは、もっと、心の澄みきった人を言うのではないでしょうか。」と言う思案そのものは、正しいものとは言えないと思います。

松恵さんは、仮に「強欲」の人だったとしますと、「欲」というのは、「大食天命」様のお嫌いな埃の心使いと、おやさまは教えられています。
それならば、「埃」と言うのは、何かと言いますと「正味」に対する埃です。例えば、木の屑は木に対する埃の存在。紙屑は紙と言う正味が屑になったもので、鉄があるから鉄のサビがでる。銅があるから銅の錆が出ます。
元々に、正味のものが、埃になるのでから、「欲」の強い松恵さんの正味は、「切る」という誠と言うものです。
何の矛盾もありません。おやさまは、人の心の正味しかみません。それがおやさまの思想です。

その心の埃を掃除すると、正味が出てくる。
松恵さんが正味を出していたら、中山家の悪の宗教家業因縁は、切れていた。が、しかし、松恵さんは、「欲」の方に心を多く使ってしまって、金の亡者のようなお心でもあった。
素材としては「切る神様の理に合致した素材」、でも、現実は「欲の埃。」と、同じひとつのものでありながら、「澄むと濁る」では、まるで違ってしまった訳です。

そこで、> つとめの人衆というものは、もっと、心の澄みきった人を言うのではないでしょうか。
普通の天理教徒さんの、この考え方そのものに、宗教家的差別があります。
普通の天理教徒さんは、おふでさきで、おやさまが小東家に理をしらされた事の、『五人あるなかのににんはうちにおけ あと三人は神のひきうけ』 一号68 のお歌ですが、きっと、
内におけと言われた二人と、神の引き受けと言われた後三人と、その両者に、神の引き受けと言われた人の方が、魂に徳があるとか、素晴らしいとか、つい、考えてはいませんか。
そんな風に、考えたとしますと、神が引きうけた「松恵さん他一名」と「残り三名」の間には、魂に差があって、尊いぢばに、引き寄せられない三人は、魂が悪いと、こんな風に、理解してしまうことになります。

それでは、普通の天理教徒さん。宗教の大好きな、「差別の思想」、そのものです。

良く、見つめて見て下さい。
 五人あるなかのににんはうちにおけ
 あと三人は神のひきうけ      一号68
「うち」と言うのは、おやさまから見ての、「内」です。
お筆先は、「内の者」に書かれたもの。外の者に書いたものは「おふでさき外冊」と、言います。

「五人あるなかのににんはうちにおけ」とは、二人は、おやさまのうちに置けと言うことです。「後三人」というのは、 >>77
> 政太郎、定次郎、仙次郎の三人はともに身持ちが悪く、
この、三人の事になります。

つまり、おやさまは、松恵さんともう一人を、お屋敷のうちに求めていた。
そして、その二人が、おやさまの思想を対して、「世界ろくぢ」にいそしむなら、後の三人は、神が引き受けると言われていた。
そういう意味のお筆先でした。

このように、普通の天理教徒さん。
神様の近くにいるのが尊いという「宗教家の選民意識」は差別の意識で、そういう差別意識から、松恵さんは信者を無給でこきつかい、信者から使用料をとり、宗教で、金儲けする道にはまってしまった。奴隷産み出し因縁。
その結果として、松恵さんの里の、三人は、> 政太郎、定次郎、仙次郎の三人はともに身持ちが悪く、> 財産を浪費、没落してしまった。
となりました。
それはそうでしょう。
おやさまの近くにいて、思想を理解し、伝えるはずの者が、信者を差別し、奴隷のように扱っていては、おやさまの思想そのものの近くにいる者が狂っていては、里にいる兄弟が狂うのは当然です。

 身分違いから身を引いた女の娘「しゅう」が死んだ、その13年目に、松恵さんは、死を迎えています。神の残念でした。

おやさまの教えを説く宗教には、差別を説く悪事が混じっています。
選ばれた人というのは、いないのです。
おやさまの思想には、差別無し。です。宗教思想を除外して、おやさまの思想をそのものを見つめることです。

[80] 普通の天理教徒。 2006/12/16 05:10

>>79
基本さん。
名を間違えて、私の名、「普通の天理教徒」で、投稿をされてますね(笑)

基本さんの言いたいことは、今までの投稿で、もう十分に理解できています。
>>78
で、私が質問したのは、そういう差別の意識を前提にしたものではなく、基本さんのように、「悪因縁」の側から見るのではなく、おやさまの教えの本筋から見た時には、「白いんねん」と言うことですが、それで見た場合には、
> つとめの人衆というものは、もっと、心の澄みきった人を言うのではないでしょうか。
という、見方が、あるべきだと、思うのです。

現実におやさまは、埃の心をお嫌いで、誠真実をお好きであった。
それならばなんで、選ばれた松恵さんは、「欲一条」と見えるような方であったのかという、素朴な疑問です。

[81] 基本。 2006/12/16 06:01

>>80
> なんで、選ばれた松恵さんは、「欲一条」と見えるような方であったのかという、素朴な疑問です。
普通の天理教徒さんの、この質問にお答えしますが、
>>80 、は、本当は、基本の名で投稿すべきところ、間違えまして、お詫びします。

私は、この問題において「宗教思想の悪」と言うことに、こだわっていて、問題の本質を見えていなかったと、反省しています。
基本的に、おやさまのなさることには、全てに「理」がある。

松恵さんを選ばれたと言うことは、そこに「理」があってのことで、その理を見つめていないと言う、普通の天理教徒さんからの厳しいご指摘でした。
善悪の、悪ばかり見つめていては、おやさまの思想に反するもので、重ねて、反省をします。

松恵さんは、それでは何が一番の「はくいんねん」であったかと言いますと、夫秀司さんと一体であったと言うことです。
誤解を恐れずに言いますが、松恵さんはおやさまの思想の側に立たないで、秀司さんの側に立った。
これは、なによりも最高の「はくいんねん」です。

仮に、松恵さんが思想的におやさまの側に立ち、秀司さんと対立するような行動をする女性であったなら、夫婦の中は対立し、「お子さんは授からなかったかもしれない。」のです。
松恵さんは、いんねん寄せての守護のなかで、「夫婦」として生きたという、白因縁の持ち主でした。

それは、結婚当時の中山家を思えば、直ちに、理解されることです。
中山家には、おやさまがいた。小寒さまがいた。おしゅうさんがいた。
秀司さんの娘のおしゅうさんとは、二歳しか違わない。
自分を、嫁にと所望したおやさまと、自分の夫とは思想的な対立にある。
その中で、決断力のある松恵さんは、夫の側に立った。
「ふうふ揃うて」の側に位置した。
それは、実に強い意志。

生き神様のおやさまと、若き神の小寒さま、言上の伺いの伊蔵さん、扇の伺いの仲田儀三郎さん。あたすけ熱心な辻忠作さん。
住み込んでいる人たちは、熱心な信者、おたすけにんたち。
この信仰思想集団に入って、ただの十八の若い女房が、中山家の嫁として、めそめそしていたのでもなく、物陰に隠れていたのでもなく、彼らに伍して負けることなく、中山秀司さんの筋を通し、信仰思想に負けていない鋼の精神力。

それが、夫婦を夫婦たらしめたもの。
なによりの「はくいんねん」だったと言うこと。
付記します。

その時、その場では、数々の間違いがあったとしても、松恵さんがいて、秀司さんのひとつの役割は終わり、そして、松恵さんが死んで、真柱さんとたまえさんの時代が、やがて来ます。
「芽を出す」。
それは、大食天命様の、ご守護の理。
松恵さんは、信念を持って、夫に対する妻であったという「はくいんねん」の人でした。
そこまで、捨てきれる。素晴らしい女性です。
「若き女房」。おやさまからの最高の誉め言葉のままの女性でした。

[82] 基本。 2006/12/16 06:42

いんねんなら、とおらにゃならんと、おやさまの思想に示されています。
通るとすれば、思い切って、一気に通るがおやさまの思想です。
松恵さんは、実家の悪も自覚されていたであろうし、「こじまつ」にする己の悪しきも知っていたであろうと思います。

しかしそれならば、たすけを求めておやさまの思想を学ぶ弟子たちは、どうであったか。
所詮は、「たすかりたい」だけの信心なのです。

おやさまの、奴隷解放の思想・ろくぢの思想そのもののように、秀司さんが通ったような「貧のどん底」など通ろうともせず、不思議な助けの宗教家をきどっているにすぎない。
実家の父を知る松恵さんから見れば、みな似たようなもので、女房としては、夫の秀司とひとつに、中山家と、その神信心を世間的に成り立たせることしか頭になく、いずれおやさまは死ぬのだから、私たちが後に備えてと真剣に宗教家業をした。
それは、通るべき、因縁でした。

おふでさき一号は、明治2年に書かれています。
その年に、一号に続いて書かれたおふでさき二号では、
「ちゃつんで」と、八十八年後のおふかんみちが預言されていました。
ザ天理教を語る4に、その事は投稿したことがあります。引用します。
http://religion.bbs.thebbs.jp/1163859118/  247−249
『明治二年(1869年)の陰暦1月、から、八十八夜は、1870年の陰暦1月までが、一夜に相当します。
 以後、一夜二夜と数えまして、八十一夜は、1949年の陰暦1月から、1950年の陰暦1月までが、八十一夜ですから、
八十八夜は、1956年の陰暦1月から、1957年の陰暦1月までの期間です。
新暦の1956年の事でした。
この年、1956年には、おふでさきが、全教会に、下付・送付されました。
そして、毎日の「かぐらつとめ」が、ぢばで勤められました。
午後二時の「サイレンのメロディ」が「みかぐら歌」になりました。
教祖伝が、本部から公刊されました。
八十八夜の出来事でした。』

『* お払いさんのええじゃないか ←→ 立って踊る十二下り。
* 神仏判然令。神と仏の分離政策。 ←→ 南無天理王命。一体に唱える。
明治2年
*           ←→ お筆先一号。「胸のわかりた者は無い」
*           ←→ お筆先二号。「唐人がにほんの地に入る」
明治3年
* 大教宣布の詔宣布  ←→ 神楽のだし「ちょとはなし」教えられる。
明治4年
* 伊勢神宮を頂点に神社制度。

この明治の御代の始まりに、帝国主義を意図的に邁進する、その「高山」の悪意を見抜いて、教祖は、理の証拠として、お筆先二号においては、おうかんみちが到来する刻限を、茶摘みの「八十八夜」にて、予言していたのでした。

初代真柱においては、「八十八夜」にて、その準備を、
二代真柱においては「八十八夜」にて、現実の「往還道」が到来しています。

明治二年のお筆先に知らされた「高山」の掃除の問題は、我々ようぼくの、心に置くべき、大切な教えです。

明治2年に、教祖は38日間の断食をしています。
明治2年から、38年を経て、明治41年に天理教は一派独立しました。』

それは、草ばえの道に於いて、何も予言の影もない中、松恵さんのように、夫一筋の若き女房の、献身的愛があってのものであり、人は笑うけれど、人の笑いを神は楽しむ。
「名はたまえ、早く見たいとおもうなら。」との、おふでさきも、母、松恵さんがいてこそのものでした。
ありがとう。
十八才で若き女房としておやさまに招かれ、神の仲立ちで婚約された松恵さん。
大食天命さまの、魂のお方の、松恵さん。
改めまして、心より、お礼申しあげます。

[83] 田中じゃ 2006/12/17 01:55

教主を「親」と呼ばせるのも カルトの常套手段です。

今更こんなレベルのこと 言わせないでください。

[84] 基本。 2006/12/17 03:41

>>83
カルト。
『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88
引用しましょう。
『カルト(cult)は、ラテン語 colere から派生した宗教色の強い文化活動を意味する語。儀式や崇拝を意味する。』
と、あります。

この掲示板は、宗教色を排し、思想を語る主旨のものです。
今までの所、おやさまの奴隷解放の思想、特に債務奴隷解放についての思想を話題としています。
『儀式・崇拝』の意味での、カルト要素は、無いと思います。

> 教主を「親」と呼ばせるのも カルトの常套手段です。
この事は、カルトの常套手段というよりも、宗教全般の常套手段です。
カルトの識別に、教主を「親」と呼んでいるかどうかで判断すると言う方法を採用するのは、その意味では、不適切と思われます。

「はてなダイアリー」では、カルトの識別について、
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A5%EB%A5%C8
『カルトの見分け方
真理はその組織に占有されており、その組織を通してのみ知ることができると主張する。
組織を通して与えられた情報や考え方に対しては、疑ってはならない
自分の頭で考えることをしないように指導する
世界を組織と外部とに二分する世界観を持つ
白黒を常にはっきりさせる傾向が強い
外部情報に対して強い警戒感を与え、信者の情報経路に様々な制限を加える
信者に対して偏った情報、偽りの情報を提供することがしばしばある
組織から離脱した人間からの情報に接することを禁じる
家庭や社会との関わりで多くのトラブルを生じている
社会からの迫害意識を持ち、それをかえってバネにする
外部に対して正体を隠す傾向がある
生活が細部にわたって規定される
組織が信者の生活のすべてになっている
共同体内部でのみ通用する言葉を多く持っている
組織からの離脱について極度の恐怖心を与える 』
と、定義しています。

おやさまは、知識の占有もしていませんし、ここでの議論も、実年数や歴史的事実を明示して、基本的に、論を展開しています。
誰かを思想的に束縛もしていないし、情報は、共有可能であり、拒否も批判も可能です。

つまり、「おやさま」は、カルトの定義には当てはまらないというのが、基本的な、立場です。

おやさま本人の、思想の検証をしてみて、基本が思うのは、きちんとした歴史認識と、数理的な証拠主義です。
世界観のみならず、細部まで、数理にこだわり、歴史にきちんと実現させている点は、評価に値します。
おやさまと、自称している、一点は、確かにカルト的ですが、預言者としての思想は、理知的で、合理的であると、評価出来る物です。

[85] 基本。 2006/12/17 04:26

おやさまの思想は、社会的存在としての人間の最小の構成単位を「夫婦・親子」=「家」として定義しています。
それに対して、明治政府の思想が示した定義は、「国家=家」というものでした。
日本国民は、皆天皇陛下の子供である。
この思想は、子供は国の宝と言う言葉の意味さえも、子供は国のために奉仕せよと、言い換えてしまう、洗脳の思想でした。
>>83 >>84
田中じゃさん、
明治維新で権力を得た「高山」について、チェックを入れてみましょう。

> 真理はその組織に占有されており、その組織を通してのみ知ることができると主張する> 組織を通して与えられた情報や考え方に対しては、疑ってはならない。
> 自分の頭で考えることをしないように指導する。
> 世界を組織と外部とに二分する世界観を持つ。
> 白黒を常にはっきりさせる傾向が強い。
> 外部情報に対して強い警戒感を与え、信者の情報経路に様々な制限を加える
> 信者に対して偏った情報、偽りの情報を提供することがしばしばある
> 組織から離脱した人間からの情報に接することを禁じる
> 組織が信者の生活のすべてになっている
> 共同体内部でのみ通用する言葉を多く持っている
> 組織からの離脱について極度の恐怖心を与える 』
>
との定義と比較してみれば、

→ 明治政府の教育政策。教育勅語。伊勢神道のよる宗教思想統治。
→ 明治政府高官・外務省の外交の秘密主張。軍部の軍事秘密の主張。大本営の設立。情報操作。
→ 神国日本。

まさに、明治の「高山」の、帝国主義者こそ、国家的カルトだと、分かります。

個人の自由や、人権を踏みにじっていたという様な、小規模の圧政ではなく、国家全体が天皇制のカルトと化していた。

それに対して、おやさまは、『歴史』(月日)が、「八十八夜」で、そのカルトを掃除して、「血矢積んで」、多くの犠牲の後に、おつとめが出来ると、予言した。
それは、夫婦・親子と言う、家庭と言う単位が大切なのだと、予言と思想を、二つ同時に、明治二年に書き記したのです。
明治維新という、神道国家形成時の、情報操作の、「お払いさんが降る」、「ええじゃないか」に対して、『肉が下ると』予言した、その思想は、ずばりと、明治維新政府の本質を射抜いていたと、思います。

カルト国家、大教日本を構築し、戦争に突っ走らせたカルトの本質こそ、糾弾されるべきものです。

[86] 基本。 2006/12/17 10:37

明治維新は、江戸幕府の前近代的国家を、近代国家に改革しようというものでしたが、その思想的根幹には「王政復古」の思想が在りました。「神武天皇」以来の伝統的天皇制による国の近代化と言うものであり、それには、国家が一つの宗教であると言う思想統制と言う意味が在り、そればかりか、「神政政治・祭政一致」と言う国家的カルトが国民を支配統治することとなったわけです。

その、国家神道について、確認しますと、国家神道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%A5%9E%E9%81%93
『概要
江戸時代の国学者・平田篤胤の思想に共鳴した平田派の神道家たちが、明治維新の精神を神武創業の精神に基くものとし、近代日本を王政復古による祭政一致の国家とすることを提唱した為、明治政府はそれを容れて中古以来衰えていた神祇祭祀を復活させ、神道の整備を行なった。その結果として成立した神道の一形態が国家神道である。』
『神道の宗教としての側面を維持しようとする教団は、公認された一部のものが教派神道として分離され、
祭祀としての側面のみを有するものが国家神道とされた。』
『それ故、・・「その実態は、日本式唯一神教(唯一絶対の権威を戴いた宗教)という事も可能である。』・・
『古事記』、『日本書紀』等の古典を根拠として万世一系の天皇が日本を統治すること、国家の中心に存在する天皇と国民との間に伝統的な強い紐帯があることを前提に、政治的な制度とともに作られた祭祀の制度が国家神道である。』
『神道は宗教だが、国家神道は神道の祭祀の側面のみを分離したものであるとされ、宗教ではないとされた。
そして、宗教としての神道は教派神道であるとされていた。』
『大日本帝国憲法で人権の保障が「安寧秩序を妨げず及臣民たるの義務に背かざる限に於て」と規定されていたように、その活動は必ずしも無制約ではなかった。
そのため、他宗教の礼拝を否定する一神教のキリスト教徒や、神祇不拝を唱える浄土真宗門徒も、神道儀礼への不参加の自由は存在しなかった。』

このようなものが、国家神道の概要です。
具体的には、海外での植民地支配に行われた宗教政策に明らかなように、国家神道による思想統制そのものでした。
『 海外統治領下の神社建立
台湾、朝鮮、南洋諸島などの統治領には神社が建てられた。これはもともとは統治領に在留する日本人が自分たちのために建てたものであったが、統治領の民衆への精神的支配も見据えたものであった。日本統治下の朝鮮では神社参拝が強制され、現地のキリスト教徒がこれに反発するなどしたため20以上の教会が閉鎖の憂き目にあい、さらに約2000人の教徒が投獄され、そのうち50人が獄死した。』
『統治領下の神社建立にあたり、神道家らは現地の神々を祀るべきだと主張したが、政府は賛同せず、多く明治天皇、天照大神を祭神とされた。主に朝鮮神宮、台湾神社、南洋神社、関東神宮、樺太神社などが挙げられる。』

この、国家神道思想という国家的カルトが、国民を近代化に導いたと言う考え方もあります。
必要悪だった国家神道という「カルト」と、言うような考え方です。
http://www.abysshr.com/san/san_co06.html
しかしそれは、基本的には間違いです。
既に、問屋制手工業(マニュファクチュア)の経済に安定した発展をしていた日本の経済は、カルト国家の登場を本来は必要としていなかったと見るべきです。

おやさまの、中山家もその例の一つですが、幕末期には、地方の豪農などは、「産業革命」直前の段階までに経済力を高めており、それは、国家の政策介入無くとも、近代化され得たものと、基本は理解しています。

国家神道は,近代天皇制国家がつくりだした国家宗教であり,明治維新から太平洋戦争の敗戦まで八十年間,日本人を精神的に支配しつづけた。
それは、おやさまの思想、世界ろくぢに反するものとして、理解されるべきものであり、国家全体を、「カルト奴隷制」に導いていると言う事にすぎません。

国家神道は、それまでの日本の伝統の神道とは別のもの。
全体主義を日本に持ち込んだ「とふじん」の思想でした。
>>45 >>46
今日的、対米追従外交と似ています。

[87] 基本。 2006/12/17 11:23

>>86
国家神道と言うのは、「敗戦後の占領軍の造語」で、本来は「大教」と呼称されるべきです。その成立について、確認しますと、
http://www.e-obs.com/top/heo/heodata/n255.htm
国家神道 ( こっかしんとう)から、引用します。
『〈国家神道の確立〉慶応4年(1868)の祭政一致の方針と 神祇(じんぎ)官復興の宣布、明治3年(1871)の 大教宣布(だいきょうせんぷ)、
同5年の教部省設置等々、明治政府はその発足当初から神道国教化への布石を矢つぎばやに打ち出していた。
しかし、不平等条約の解消という重い課題を背負って、信仰の自由容認のポーズと神道国教化の本音の調整に腐心しなければならなかった。神社神道非宗教の体裁を整えつつ、 大日本帝国憲法 は「安寧秩序ヲ妨ゲズ」「臣民タルノ義務ニ背カザル限リ」という条件をつけて「信仰ノ自由」を規定した。
明治前期、 神仏分離 と並行して、官幣社 国幣社 府県社 郷社 村社 無格社という神社の格付けが行われていたが、 日清 日露戦争 を経て神社信仰は強化された。
明治39年の国庫供進金制度の発足に引き続き、府県 郡 町村も 神饌幣帛(しんせんへいはく)料を供進して行く。
宗教局が内務省から文部省に移され、神社局とも完全に分離された
大正2年(1913)には官国幣社以下神社神職奉務規則が、翌3年には官国幣社以下神社祭祀令 同祭式が公布された。
すでに、 教育勅語 戊辰詔書 の拝読も定着しつつあり、国家神道はこのころ確立したということができよう。』
と、このように、明治政府成立以前からの、「カルト集団=平田神道門下の思想集団」の発想が発展していった過程が見えてきます。
それを、そのように、きちんと見据えていたのが、おやさまです。
>>1 参照下さい。>>31 参照下さい。>>41 参照下さい。>>56 参照下さい。
なお、天理教教祖として、明治維新の思想統制に厳しく対立した事は、宗教としての事情として、
http://religion.bbs.thebbs.jp/1163859118/e40  の、[249]に、
『神仏の分離を命じた政府に対し、教祖は、厳しく、理を責めておられました。その、経過です。
慶応3年
* お払いさんのええじゃないか ←→ 立って踊る十二下り。
* 神仏判然令。神と仏の分離政策。 ←→ 南無天理王命。一体に唱える。
明治2年
*           ←→ お筆先一号。「胸のわかりた者は無い」
*           ←→ お筆先二号。「唐人がにほんの地に入る」
明治3年
* 大教宣布の詔宣布  ←→ 神楽のだし「ちょとはなし」教えられる。
明治4年
* 伊勢神宮を頂点に神社制度。

この明治の御代の始まりに、帝国主義を意図的に邁進する、その「高山」の悪意を見抜いて、教祖は、理の証拠として、お筆先二号においては、おうかんみちが到来する刻限を、茶摘みの「八十八夜」にて、予言していたのでした。』
と、整理してあります。

そのおふでさきの二号の予言ですが、この事が八十八夜の予言であることを踏まえて、ろくぢの思想として、思想の本質に迫るなら、
 上たるハ心いさんでくるほとに なんどきにくるこくけんがきた 二号2
 ちやつんであとかりとりてしもたなら あといでるのハよふきづとめや 二号3
の解釈は、このように文字が充てられます。

 上たる(権力者)は、心が、「勇む」=「武勇」で、くるので、
なんどき(災・難時)に来る時が来た。
 血矢積んで、あと刈り取りて仕舞ったなら、(八十八年後には)、天理教のつとめが出来る。

それは、宗教と言う思想を借りた、反戦勝利の大予言と言うべきものでした。明治二年、翌年の「大教宣布の見える前に」、茶摘として予言した、おやさまの思想は、「カルト=平田神道門下」の「欧米追従」とふじん思想への、警告であり、日本古来の神仏を尊ぶ一貫した批判で貫かれていると言う事です。

[88] 基本。 2006/12/17 13:44

「王政復古」の思想と言うものは、「祭政一致」の思想といったいで、
>>2 国会では治まらないという、政治権力による統治で世界にろくぢを実現するものではないという、おやさまの思想に反したものです。

平田神道は、実は、「オカルト」でした。
神秘主義が取り込まれて、古事記・日本書紀と言う本来の歴史書が、宗教論理と活用されていった。
それが、祭政一致で、明治政府に利用された。
ここが、重大な問題点でした。
オカルト。
それにたいして、おやさまは、予言を、「理」として用いているわけです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A9%E5%8F%A4%E7%A5%9E%E9%81%93
『復古神道において大きな役割を果たしたのが国学者の平田篤胤である。彼は法華宗や密教、キリスト教などの他宗教や神仙道を取り入れた「平田派国学」を大成させた。この平田派国学の流れから後に川面凡児や出口王仁三郎といった宗教家が多く誕生してくる。』

神秘心霊主義の平田国学。だったと言う事です。
「おはらいさん」と言う神秘。神風と言う神秘。その虚構。
日本人の心を、間違わせました。

[89] 基本。 2006/12/17 16:28

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%B0%E7%AF%A4%E8%83%A4
『平田 篤胤(ひらた あつたね、安永5年8月24日(1776年10月6日) - 天保14年閏9月11日(1843年11月2日))は、江戸時代後期の国学者・神道家。秋田久保田の城下なる下谷地町に佐竹家の藩士大和田清兵衛の子息として生誕す。幼名正吉。寛政2年元服してからは胤行と名乗り、享和年間以降は篤胤と称す。号は気吹舎(いぶきのや)、家號を真菅乃屋(ますげのや)。医者としては、玄琢を使っている。死後、神霊能真柱大人(かむたま の みはしら の うし)の名を白川家より贈られている。

秋田藩士の四男として生まれ、成人してから備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となる。本居宣長らの後を引き継ぐ形で儒教・仏教と習合した神道を批判し、やがてその思想は水戸学同様尊皇攘夷の支柱となり、倒幕後の明治維新変革期の原動力ともなった。その思想は後の神仏分離や廃仏毀釈にも影響を与えた。又篤胤は机上の文献研究を超えた独自の神学を打ち立て、国学に新たな流れをもたらした。神や異界の存在に大きな興味を示し、死後の魂の行方と救済をその学説の中心に据えた。また、篤胤の独自の宗教観に基づき、当時としては珍しく仏教・儒教・道教・蘭学・キリスト教など、さまざまな宗教も進んで研究分析し八家の学と自ら称していたようで、ラテン語やキリスト教の教義まで吸収していたようである。関心は広く、暦学・易学・軍学などにも精通していた。』

『篤胤の学説は学者や有識者にのみ向けられたのではなく、庶民大衆にも向けられた。一般大衆向けの大意ものを講談風に口述し弟子達に筆記させており、後に製本して出版している。これらの出版物は町人・豪農層の人々にも支持を得て、やがて国学思想の普及に多大の貢献をする事になる。庶民層に彼の学説が受け入れられたことは、土俗的民俗的な志向を包含する彼の思想が庶民たちに受け入れられやすかったことも示している。特に伊那の平田学派の存在は有名である。後に信濃の文学者島崎藤村は『夜明け前』と言う作品の中で平田学派について詳細に述べている。』

『宣長没後2年経った1803年(享和3年)になって、本居宣長のことを初めて知ったようである。没後の門人として加わるために本居春庭に宛てた書簡によると、夢に宣長が現れて、そこで師弟関係を結んだと述べている。自分と宣長は特別な関係にあることを主張したかったのだろう。また、のちの伝記によると、1801年(享和元年)に本居宣長のことを知り、その門下に加わろうとするが、同年に宣長は没し、没後の門人としてその名を鈴屋塾に置いたということになっている。生きている間に宣長のことを篤胤が知ったということにしたのは、平田篤胤の学派を国学の正統として位置付けるために行なわれた後世の改竄だろうという。』

長く引用したが、『夢に宣長が現れて、そこで師弟関係を結んだ』。
これはまさに、オカルトの世界である。

もう少し、その神秘主義をみておくと、

[90] 基本。 2006/12/17 16:52

>>89
引用の続きを紹介する。
『 幽冥論
篤胤は、学問をするにはまず何よりも自らの死後の魂の行方を知らなければならないと言い切った。そうして心の安定を得ることによって、初めて学問に向き合うことができるとした。

本居宣長は、古典に照らして、人の魂はその死後、黄泉国に行くと考えた。黄泉の国はきたなき悪しき国であり、そのことは逃れようのないことで、だから死ぬことほど悲しいことはないと述べた。悲しいものは悲しいのであり、その現実をそのまま受け入れるべきだと説いた。
本居宣長の門人で、平田篤胤にも大きな影響を与えた服部中庸も同様に死者の魂は黄泉国に行くとした。ただし、中庸は黄泉国は空に浮かぶ月のことであり、その世界は須佐之男命(月読命と同神だという)が治めていると考えた。

一方、篤胤は、他の学者のように他界は現世とは切り離された全く別のところにあるとは考えなかった。黄泉の国の存在は認めたが、死者の国ではないとした。篤胤は、現実行なわれている習俗などから類推して、死者の魂は、死者の世界に行くが、その異界は現世のありとあらゆる場所に偏在しているとした。神々が神社に鎮座しているように、死者の魂は墓上に留まるものだと考えた。現世からはその幽界をみることはできないが、死者の魂はこの世から離れても、人々の身近なところにある幽界におり、そこから現世のことをみているという。彼らは祭祀を通じて生者と交流し、永遠に近親者・縁者を見守って行くのだとした。
これは近代以降、民俗学が明らかにした日本の伝統的な他界観に非常に近いものであるといえる。逆に言えば、民俗学は、国学の影響を強く受けているということでもある。

篤胤によれば幽界は、大国主命が司る世界だという。大国主命は死者の魂を審判し、その現世での功罪に応じて褒賞懲罰を課すとしている。ただし、その死者が受ける懲罰について、篤胤は具体的なことは述べていない。これは、篤胤の関心があくまで、この世における人生の不合理性をどのように解決・救済していくかにあったのであって、為政者が望むような倫理的な規範の遵守を人々に説くものではなかったことを示している。
この大国主命の幽冥界主宰神説は、篤胤以降復古神道の基本的な教義となった。近代以降の神道および政教関係を大きく方向付けることとなった1881年(明治14年)の祭神論争の出雲派の敗北で、公的には否定されるが、現在でも多くの神道系宗教で受け入れられている。
幽冥界の全体の主宰神は大国主であるが、各地のことはその土地の国魂神、一宮の神や産土神・氏神が司るとした。この発想は六人部是香に受け継がれ、発展させている。

現世は仮の世であり、死後の世界にこそ本当の世界であるとした。これはキリスト教の影響である。もちろん、篤胤にとっては、キリスト教の教典も、『古事記』や仏典などと同じように古の教えを伝える古伝のひとつとして見ていたのである。』

明らかに、神秘思想かであることは、間違いがない。

「神は幽冥とおもうなよ。」

おやさまの弟子の本席・伊蔵がつたえたおやさまの思想である。

この平田国学と言う神秘主義的尊王思想は、幕末のマニュファクチュアの担い手になっていた、各地の豪農に爆発的に受け入れられた。
それは、江戸幕府の閉塞した身分制度と経済活動の自由を束縛する封建制度を打破したいと言う、経済の側からの要求が、変革を求める富農層の側にあり、仏教の下に位置付けられた神道の神職の不満に応じ、死後の極楽往生を保障する仏教思想に成り代わるものとして受け入れられたと、みなすことが出来る。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)が語るように、キリスト教的要素をも取り入れて、編み出された、オカルト。
日本の伝統とは異なる、異学。

それが、政治と言う現実を支配した点に、「カルト国家誕生」の、元がありました。

[91] 基本。 2006/12/18 02:37

和魂洋才というのが、明治の近代化のうたい文句でした。

門弟に吉田松陰、小林虎三郎、勝海舟、河井継之助、坂本龍馬、橋本左内、加藤弘之らがいた、佐久間 象山は、洋学の第一人者として高く評価された人物であるが、日本に洋学の技術をもたらすことを第一義に考えていた「和魂洋才」の元祖的な人物と言えます。
吉田松陰が投獄されたのも渡米しようとしたからですが、吉田松陰の説いた思想は、「一君万民論」です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0  から引用します。
『松陰は「天下は一人の天下」と主張して、明倫館の山県太華と論争を行っている。「一人の天下」という事は、国家は天皇が支配するものという意味であり、天皇の下に万民は平等になる。一種の擬似平等主義であり、幕府(ひいては藩主)の権威を否定する過激な思想であった。』
松蔭の師の佐久間 象山は、『西洋の学問・歴史そのものに大きな関心を抱くようになった。 特にピョートル大帝とナポレオンの優れた業績に感嘆し、その手法を日本でいかに取り入れるか模索した。』人物です。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を引用します。
『ピョートル1世(Пётр I Вели́кий、Pyotr I Alekseevich、1671年6月9日 - 1725年2月8日)は、ロマノフ朝の5代目(在位1682年 - 1725年)。モスクワ大公で、初代ロシア皇帝(インペラートル)。 アレクセイ・ミハイロヴィチの子。その歴史的存在感と2mを超す体躯から、ピョートル大帝とも称される。妻、エヴドキア。後妻、エカチェリーナ1世。』
『3歳で父を亡くし、1682年に病弱な兄フョードル3世の死去の跡を継いで、異母兄のイヴァン5世とともにロシア皇帝の座に就いた。はじめ摂政の異母姉ソフィア・アレクセーエヴナの専横を許していたが、次第に宮廷内で支持者を獲得していくと、1689年にソフィア派を宮廷から追放することに成功した。ピョートル1世は同年イヴァン5世を廃位して単独統治を開始した。』

『ピョートル1世は1696年にロシア海軍を創設すると、オスマン帝国からアゾフ海の制海権を奪って黒海への出口を確保した。1700年に大外交使節団を編成して西欧諸国を視察し、先進技術を修得させ軍の近代化を進めた。1721年に、正式に皇帝(インペラートル)となった。』

つまり、佐久間象山とそのの門下生は、和製の「皇帝」による「天下は一人の天下」を創ろうとしていたということが分かります。

近代化に遅れたロシアは、追いつくために、「皇帝」に権力を集中させて、西欧諸国から先端技術を学び取り、軍事力による覇権行動に参入した、それを日本にて、行おうというのが、開国を唱えた尊王家の本音であったということになります。

この、国家の近代化を求める和魂洋才の思想が、一方の和魂と言う、その「魂」の思想問題の拠り所に、平田国学の神秘思想を採用していたと言うことが、「カルト国家」誕生の背骨にあたります。

例えば、吉田松陰は、
『獄中にて遺書として門弟達に向けて「留魂録」を書き残す。』
『その冒頭に記された辞世”身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂” 』
と、残していますが、日本の神道の思想には、「魂が留まる」と言う思想は、飛鳥。奈良。平安。見当たりません。
「祟りや怨霊が残る」事はあっても、高天原の神は、魂として留まらないのが、普通です。

魂が留まるというのは、平田国学が唱えた説であり、死後の世界について体系的な宗教思想を持っていなかった神道が、実は、洋学を学ぶ事によってキリスト教の思想を取り込むなどして、日本古来ではない、唐人の異説に変貌していたことを意味しています。

『その冒頭に記された辞世”身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂” 』

この大和魂が、実は、唐人の説にままにされていたものだったとという事実は、おやさま以外、誰一人も見抜いていなかった。
日本人は、天孫降臨の子孫として、天皇一人のための国家の下僕であるという、カルトは、熱狂的なナショナリストの吉田松陰や坂本竜馬の命がけの改革運動として、打ち出され、そこに、洋学と言う実学の果実があり、国民は、大教宣布を、世直しとして、何の疑いも無く受け入れていった。

おやさまの、心配されたことは、まさに「とふじん」が「にほん」をままにするという、幕末期の、カルトの問題であったと言うことです。

[92] 基本。 2006/12/18 10:29

アメリカは、植民地でした。
それも、イギリス本国と宗教的に対立する思想の人々が中心となってのものでした。
「世界史講義」によれば、このようなものでした。
http://members.jcom.home.ne.jp/spu/034.htm
「[1]植民地アメリカ
 コロンブスのアメリカ発見以後、中南米地域はほとんどスペインによって征服され、その植民地となったが、北アメリカの場合は状況が異なり、スペイン人以外にもフランス人やオランダ人、イギリス人などの冒険者たちが黄金を求めて出入りしていた。それらのなかで、徐々に有力な地位を築いていったのがイギリス人たちであった。 」
「エリザベス1世の時代に初めてヴァージニア植民地の建設が試みられたが、これは失敗に終わり、ついでジェームズ1世の時代になってヴァージニア会社の手によってヴァージニアにジェームズタウンが建設された(1607年)。その後この植民地では、インディアンたちが煙草を栽培しているのにならってイギリス人も煙草の栽培を始め、これをイギリス本国に輸出して利益をあげるようになり、女たちも入植し、黒人奴隷も運ばれて、農業植民地として繁栄するようになった。 」
「 ヴァージニア植民地の成功に刺激され、新大陸に希望をもってわたる人々が増加した。
イギリス国教会に服従を拒否して迫害されていたカルヴィン派(分離派)の人々が、1620年、メイフラワー号で新大陸にわたり、建設したのがプリマス植民地である。
「1629年には、イギリス国教会に服従するがその妥協的性格を嫌うカルヴィン派(ピューリタン)たちが新大陸にわたり、プリマス植民地に隣接してマサチューセッツ植民地を建設した。のちに両者は合併する。 」
「 国教会に不満のカトリック教徒も、1634年メリーランド植民地を建設した。
 クウェーカー教徒たちが1682年に建設したのがペンシルヴァニア植民地である。 」
「 また、イギリスは1664年、オランダの植民地であったニューネーデルランド(中心はニューアムステルダム)を奪い、ここをイギリス植民地ニューヨークとした。 」
「 1733年には、イギリスの慈善事業家が貧民救済のためにジョージア植民地を建設したが、これまでに北アメリカ東部には13のイギリス植民地が成立した。 」
「 イギリス植民地の北西に拡がる広大な地域はフランス植民地であったが、イギリスとフランスは北アメリカの植民地をめぐって長く抗争した。ヨーロッパでプロシアとオーストリアが七年戦争(1756〜63)を戦った時、イギリスはプロシアに味方し、フランスはオーストリアに味方して争った。この英仏間の抗争はイギリスの勝利におわり、パリ条約(1763)によって、イギリスはフランス植民地の大部分を獲得し、植民地の争奪をめぐるイギリスの勝利が確定した。 」

本国は、「イギリス国教会」。
植民地は、「不満のカトリック」「不満のカルビン派・清教徒」

宗教が、神の下の不平等を生み、差別と奴隷を拡大した歴史は、紛れもない現実です。

[93] 基本。 2006/12/18 10:54

世界の先進国は、みな宗教を信仰している。
それなのに、日本人には無宗教が多い。日曜日に教会に参拝にも行かない。・・・

これは、日本古来の伝統からすれば極めて自然なことでした。

聖書の思想は、差別であり、債務奴隷を肯定している。神に身を捧げると言う思想は、西洋の思想。
天然の自然の神と共に生きると言うのが、日本古来の思想。

日本には、宗教教育が無いために「道徳」教育が出来ていない。
明治政府が「教育勅語」を教育現場に押し付けたのは、キリスト教に代わるものとして、「大教=天皇教」を思想統制の武器に用いていたなによりの証拠となっています。
内容は、儒教的道徳ですが、学童全員に暗誦させるという方法は、洗脳意図の方法と言うより無く、是非の問題よりも、道徳そのものの価値をかえって見えなくさせたものといえます。

明治維新の思想リーダーは、キリスト教国家の「皇帝」の権力の拠り所が『唯一の神』より与えられた王権にあることの、絶大な効果を知っていて、利用したものと見えます。

>>92
植民地・アメリカを支配した本国は、「イギリス国教会」。
イギリス国教会の成立 をみますと、
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/kindai/13-kaikaku3.html
「 ヘンリ8世は、初めは熱心なカトリック教徒で、ルターの宗教改革がおこるとそれに反対する論文を発表し、教皇から「信仰の擁護者」という称号を受けるほどであった。 」
「 しかし、その後ヘンリ8世は王妃キャサリン(カザリン)との離婚を教皇に願い出たが、教皇が認めなかったために教皇と対立するようになった。 」
「  ヘンリ8世はキャサリンとの離婚を強行し、アン=ブーリンと再婚し(1533)、イギリス国民の間に強かった反ローマ教会の機運を利用してローマ教会からの独立を決意した。 」
「 ローマ教皇はヘンリ8世を破門に処したが、ヘンリ8世は議会の支持のもとに、1534年に首長法(首長令)を発し、
 イギリス国王がイギリス国教会の唯一・最高の首長であると宣言し、イギリス国教会をローマ教会から分離・独立させた。」
「 このようにイギリスの宗教改革は、ルターやカルヴァンの宗教改革のように教義をめぐる宗教的動機からでなく、
中央集権化をはかるヘンリ8世が、ローマ教会からの分離・独立と修道院財産を没収して王室財政の強化をはかるという政治的・経済的動機からおこしたということが特色である、」

権力は、神に与えられてこそ「強権」になる。
そこに、西欧の宗教の存在意義と理由があった。

維新の「とふじん」は、絶対的な「皇帝」に「天皇」をしたてる事で、日本の西欧化をもくろみ、謀略の中、成功したという事になる。

[94] 基本。 2006/12/18 13:03

おやさまの思想に、「裏守護」という思想があります。
それは、例えば、「なむあみだぶつ」と言うのは、

な→くにとこたちの命 む→おもたるの命 あ→くにさつち命 み→つきよみ命 だ→くもよみ命 ぶ→かしこね命 つ→たいしょく天命

このように、仏教での、「南無阿弥陀仏」の裏の道として、実は、天理王命の守護の理が裏にあったのだという思想です。

当然ながら、おやさまの思想には「死後の世界」はありませんから、平田神道のような「黄泉の国」と言う思想はありません。
しかし、裏守護として、仏教思想・神道思想・庶民の信仰にいたるまで、現実の生活の中での、真理の世界を裏から教えてきたというのが、おやさまの思想です。
その、日本古来の思想にもなく、おやさまの思想にも無いものが、「黄泉の国」の思想であり、「地獄極楽」の思想、「天国」の思想。
これらが、説話としての比ゆではなく、「実在する」として語られるとき、それは、「とふじん」の説という事になります。
「幽冥の神」を語るという事は、しかもその幽冥の神に現実の政権を任せるという事は、まさに、とふじんが日本をままにする姿。
民間伝承の信心を、ことごとく根絶やしにしようとした、「唐人」は、「和魂」と言う名の、「洋魂」を宣布していたと言う事です。

皇帝ナポレオンを崇拝し、見習おうとした佐久間象山先生と、その弟子たちハ、そのカルトゆえの狂信ぶりに、日本の維新をかけ抜けたと言う事です。
おやさまは、必ずくっきりと、対立軸を示しています。

[95] 三十三天慶大使 2006/12/19 02:36

okusama
[0]服部エンタープライズ社長 06/12/02 00:29 *vOys31uzjgw*cw6YpRxRwj

[96] 基本。 2006/12/19 05:11

アメリカに植民地の地位を強要していた英国は、当時、「王権神授説」の国です。
イングランド国教会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 引用します。

『1603年に即位したジェームズ1世は強く国教会派を支持、また王権神授説を唱えて国王の絶対性を主張したため、プロテスタント諸派から反感を持たれたが、一方で欽定訳聖書の出版を指示するなど、宗教的な貢献も大きかった。チャールズ1世の治世では国教会派をスコットランドにも教化しようとしたために、反発した人々の手によって清教徒革命が勃発し、敗れたチャールズ1世は1649年に処刑された。』
『しかしその後、王政復古や名誉革命を経て、かえって国教会主流派の地位は強化された。』

王権神授説とは、キリスト教の教えそのものを、元にしています。

同じく引用です。
『王権神授説 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『王権神授説(おうけんしんじゅせつ)は、王権は神から付与されたと考える政治思想である。ヨーロッパの絶対王政期における理論的根拠となる。』
『ヨーロッパの思想家ボシュエ(Jacques-Bénigne Bossuet)がルイ14世の王太子に講義した一節に端的にあらわれる思想である。』
『その内容は、新約聖書「ローマ人への手紙」13章を根拠として考えられている。』
『概要は「(キリスト教国の)地上の王権は、全て神の代理としての権限が与えられている。」というものであった。』
『今日ではイギリス王室の戴冠式において。新国王に聖油をつける儀式などにその名残が見受けられる。』

つまり、キリスト教の教えに基づいて、国王は神から絶対的な権力を授与されたという、思想であり、「宗教」と「高山」の密着した関係を、まざまざと見せています。

王権神授説の思想的根拠となった、ものを、見つめるために、ここで、
新約聖書(口語訳)1954 Input by M.Kato さんの口語訳を参照します。
「ローマ人への手紙」
『第一三章
1301> すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、神によって立てられたものだからである。
1302> したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむく者である。そむく者は、自分の身にさばきを招くことになる。』

「上に立つ権威」は、神によるものである。

この、王権神授説と、イギリス国教会のキリスト教。
アメリカという植民地を統治した権力の「とふじん」の思想であった。

「聖書」ローマ人への手紙には、次のような、教えも記されている。
『第一二章
1201> 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。』
神に体を捧げるという思想が、「とふじん」の思想として説かれている。

イエス・キリストがといたのではなく、弟子のパウロが説いて、ローマ教会が認知した。
イエス・キリストを悲しませるような、文言である。

[97] 基本。 2006/12/19 05:34

>>91
> 門弟に吉田松陰、小林虎三郎、勝海舟、河井継之助、坂本龍馬、橋本左内、加藤弘之らがいた、佐久間 象山は、
> 洋学の第一人者として高く評価された人物であるが、日本に洋学の技術をもたらすことを第一義に考えていた「和魂洋才」の元祖的な人物と言えます。
> 吉田松陰が投獄されたのも渡米しようとしたからですが、吉田松陰の説いた思想は、「一君万民論」です。
>>95
> 皇帝ナポレオンを崇拝し、見習おうとした佐久間象山先生と、その弟子たちハ、そのカルトゆえの狂信ぶりに、日本の維新をかけ抜けたと言う事です。

佐久間象山と、その思想を受け継ぐものが理想としたものは、ナポレオンの統治でした。明治政府とナポレオン、政策はまさに、模倣です。

ナポレオン・ボナパルト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』引用します。

『内政面でも諸改革を行った。
全国的な税制制度、行政制度の整備を進めると同時に革命期に壊滅的な打撃をうけた工業生産力の回復をはじめ産業全般の振興に力をそそいだ。1800年にはフランス銀行を設立し経済の安定をはかった。1802年には有名なレジオン・ドヌール勲章を創設した。また、教育改革にも尽力し「公共教育法」を制定してもいる。さらには国内の法整備にも取り組み1804年には「フランス民法典」、いわゆるナポレオン法典を制定した。これは各地に残っていた種々の慣習法、封建法を統一した初の本格的な民法典で「万人の法の前の平等」「国家の世俗性」「信教の自由」「経済活動の自由」等の近代的な価値観を取り入れた画期的なものであった。他にも教育・交通網の整備にも尽力している。』

この、「とふじん」の思想の根底には、人間に対する「上」による支配は、「神の与えた権利」という、王権神授の思想がしっかりと息していて、ナポレオンは、「統領」として、施策し、自ら「皇帝」の座に着いています。

日本の近代化において、西欧社会のキリスト教という支配論理のかわりに「大教=神道」をすえかえて、「天皇一人の下の不平等」を説いた吉田松陰は、その天皇を、神として、王政復古する思想を説いていた点で、「大和魂」を、「唐人思想」に置き換えた過ちをしていたわけです。

[98] 基本。 2006/12/19 05:46

>>97
訂正します。
> 、「天皇一人の下の不平等」を説いた吉田松陰は、その天皇を、神として、王政復古する思想を説いていた

訂正です。
吉田松陰は「天皇一人の下の不平等」を説いていた、は誤りで、「天皇一人の下の平等」を説いていた、に訂正します。

西欧での「法の下の平等」の、裏側には、キリスト教思想があり、「法」の権威は「神」が授与したという、思想があります。
日本では、皇上が神そのものですから、権威の重さが違う、効果絶大でした。
それだから、現在の国会も、天皇による開会宣言という「権威」の形を保持しています。
実は、天皇も皇女も皇子も、一列は兄弟である。

おやさまは、「とふじん」の思想に対し、厳しく対峙しています。

[99] 基本。 2006/12/19 12:47

おやさまの思想に無理解であった、明治の当時の(いわゆる)高弟たちと、維新思想との関係の事も、視野に入れておかねばなりません。

おやさまが、「六ヶ敷き事」と予言した、天理教会の設立の、おやさまとの関係は明治政府に公許を願う行為そのものですから、それは、断固おやさまの許すところではなかった。
真柱の真之亮との問答の中で、既に、「六ヶ敷き事」であり、予言の中の事であると示しているのは、おやさまの思想とは純粋に言うなら反したものであるというしかないが、泥海中からの始まりとしては、元の理のままに、実現すると言う思想を示されたものと、基本的には理解されます。
>>59
> 「三日三夜」 M18.4.29 天理教会結収願い提出。天理の呼称初使用。 > →「三年三月」 M21.7.23 天理教会本部、ぢばに。> →「むまれだし=約280日」 M22.5 神道三等教会に昇格。> →「五分=五年」 M27.6.29 神道本局の普請にて、初代真柱責任者に。> →「五分=五年」 M32.5.21 神道本局管長より一派独立のすすめり。> →「三度・・。=9年9月」 M42.2.19 天理教独立報告祭。

この、天理教会設立の最初の時、最も貢献した信者集団は、「神戸」、その中でも清水与之助という人物でした。
清水与之助氏は、幕末期には「勤皇維新思想」の持ち主であった。そして、自身、実業家でもあった。
高野友治著・「清水与之助伝考」によれば、天理教の公認手続きの方法を指導した人物と描かれている。

その中、維新思想の人物との交流が描かれている。その相手は、「丸山作楽」という人物である。
引用しよう。
『清水与之助は、同行の誰にも言わないで一人で丸山左楽をたずねた・・・』
『清水与之助は礼を厚うして丸山作楽に面会を求めた。』

丸山作楽。
天理教の公認に協力してくれたであろう人物として、高野友治さんが、清水与之助氏との交流を著作に残した、この人物は、「平田神道」 >>89 の門下生であり、後には朝鮮に、神道の教会を設立していく活動を推進し、それに賛同した清水与之助氏が、天理教を離れて、駆けつけようとした人物。
清水与之助氏の、かっての主家筋にあたる人物といわれています。

http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/p_nihonsi/episodo/151_200/182_02.htm
その政治思想は、明治15年の「立憲帝政党」設立の顧問である事から、理解されます。
 3月18日、福地源一郎・丸山作楽らは、立憲帝政党を組織しました。
 立憲帝政党の政策は、国粋主義で、国会は二院制、主権在君を主張。選挙権に制限を加えるという主張で、支持層は「官僚・神官・僧侶・国学者 」。
その、設立の大立者と言う事です。

丸山作楽の思想を知るには、「国家神道の真実」も参考になります。
http://asyura.com/0411/idletalk12/msg/586.html
『一方で神道側からも「神道非宗教論」が登場する。これは丸山作楽などが、当時の伊勢神宮の田中頼庸と出雲大社の千家尊福との間で起こった、神道事務局の神殿に奉祀する神に、大国主命を合祀するかでの論争から、出雲大社が一宗教として分離するに至った経緯などを憂えて、神道の国家的地位を保つべく提唱したのだ。丸山の「神道非宗教論」は島地のものとは異なり、神道は他宗教より上位に位置するとのものだった。この論争の調停に腐心した山田顕義が内務卿となると、政府の方針として「神道非宗教論」を進めてゆく。明治17年、神官は非宗教人とされ、「公人」の立場で神道宗教の活動をする余地を失ったが、府県社以下の神官が国家的な立場ではなしに神道式の葬式や宗教活動を行う事は、内務省通達の但し書きで認められ、法令違反とはならなかった。山田は吉田松陰の影響下にある人物で、皇典講究所の創立に尽力した実績もあるので、神道人からの反発を最小限に抑え得た。また、山田は神道が他宗教を非難するのを、宗教的であるとの理由で嫌った経緯もある。 』

[100] 基本。 2006/12/19 13:39

>>99
丸山作楽さんの全体の人物像は、以下を引用します。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/e_meijiishin/jinbutsu/maruyamasakura/maruyamasakura.htm
『丸 山 作 楽
(江戸島原藩校明親館句読師)天保11年(1840)10月3日〜明治32年(1899)8月19日
 幼くして肉親と死別した天涯孤独の身で、漢学・国学・蘭学に通じ、とくに国学は平田銕胤に受け、その学統の継承者として自他とも許していた。
 島原藩にあっては勤王派の首領に推され、やがて神習処塾を設け、諸国の志士と交わっては大政復古の実現に奔走し,藩庁に忌まれて先魁の獄に投じられた。明治維新御、長崎の広運館和学局長に選ばれ、翌2年東京に召され神祗官権判事に任じ、集議院下局次長に進み、外務大丞に転じ、樺太に使して露使と折衝、帰朝後朝鮮経路を唱えて4年捕えられ、13年1月の特赦まで約10年長崎県高島に幽囚された。
 出獄した翌年、自由民権論に対抗して忠愛社を設け、「明治日報」を刊行し、さらに15年には福地桜痴らと帝政党を結成して、極端な革命・急進論と戦った。19年宮内省図書頭となり、翌年海江田信義らと渡欧、オーストリアのスタインから憲法学説を聴き、わが帝室制度制定に資した。23年元老院議官、ついで貴族院議員に選ばれた。また仮名文字論者・万葉歌人として有名で、成城学校・日本体育会の創立など、その事蹟は広く多方面にわたっている。
年60没  参考資料:日本歴史学会編「明治維新人名辞典」』

この丸山作楽に、おやさまの弟子のひとりであった清水与之助が、天理教会公認への協力を要請していたという事、以後も交流を続けて、朝鮮の神社を建てにいきたいと、熱望したこと、
これらから分かるのは、おやさまの弟子たちの中で、天理教会信仰をまい進した弟子たちの思想は、実は、「とふじん」の思想であったという事です。

例えば、茨木基敬という、いち早く神道の教導職の資格を得て、宗教家業にまい進した弟子は、説くところは、「復古神道としての天理教」であり、それが時代に迎合していたことから、信者の獲得に大成功しています。
まさに、おやさまの見ていた、「世界ろくぢ」、「谷底せりあげ」、つまり「債務奴隷からの開放」思想は、天理教という組織では、明治以後、宗教の方便上、その逆向きに、「神に対する奴隷となれ」と説かれていたことになります。

>>96 「聖書」ローマ人へ手紙。
1201> あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、』
神に命を捧げるという思想が、「とふじん」の思想と言う事を識別できない、当時の日本人。そしておやさまの弟子。

おなじ因縁で、天皇のため国学のために、過激に命を捧げて生きた人物の、その生き様を信奉し、天理教の公認を依頼した、おやさまの弟子。

宗教の世界史において果たし、果たしている、「権力保持」という役割。搾取の道具としての宗教と宗教組織。
債務奴隷解放のための、現代の「大社・高山」取払いは、説く人とてなく、今もなお、おやさまお一人の思想にすぎないのです。
思い知らされます。

おやさまの真の思想を、伝える弟子は、誰もいない。
今日までの、天理教と言う宗教の枠をとりさらねば、おやさまの思想は、理解できるものではないという事になります。

誰一人も、おやさまの弟子は、おやさまのたすけとは、ならなかった。宗教と言う衣の下にいることそのものが、おやさまのひながたに無いことは、明白です。

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