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聖書のみことば

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[0] kagayakuegao 2008/06/23 15:03

日々聖書を読む中で与えられたみことばを、
お互いに分かち合いませんか。

1024件のコメント 875番から974番を表示中

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[875] kagayakuegao 2009/01/05 08:38

信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。

その中でもっとも大いなるものは、

愛である。1コリント13:13

[876] 植木 2009/01/05 10:22

まずはヨハネがあって、「かわく」と共感三福音の整合性から詩篇22:と結び付いたものと思われます。ユダヤ伝承との関連も伺える。
しかし、エリ<エロイ>以下が詩篇22:に記されて居ない。意訳でいいのなら詩篇31:5も捨てられないし外典とは言え論拠はある。

レビ記は文字通りとして読めるレーマ・サバフット・アニーの箇所として単純に納得が行くと思われる。しかし、より重要だと思うのは
ユダヤ人の子が最初に勉強するトーラがレビ記からである事が十字架上の苦しみで意識朦朧とした人間イエスが根源への回帰としてふと
口に出した言葉である可能性はあると考えます。新約なる新しき律法の完成されたキリスト者の留まる時としての十字架のイエス最後の
言葉が救世主の預言の詩とされる詩篇によるとする方がキリスト者は好むのでしょう、イエスのユダヤ人的側面は余り強調されない様だ。

[877] 慈・シュルレアリスム 2009/01/05 13:59

>>876
謹賀新年

拝啓、植木様

厳寒の候
松も取れましたが相変わらず寒い日が続いております。

ご報告遅れましたが、わたくし去年の9月吉日に無事に入籍する事ができました。
日頃からのご支援の賜物と厚く御礼申し上げます。

今後とも御指導の程よろしくお願い申し上げます。

[878] 植木 2009/01/05 17:45

婚姻の制度は悪くは無いと思います。制度であるので該当する資格が必要で有資格者であれば制度を利用する事に何ら不都合は有りません
慈・シュルレアリスムさんが有資格者であった事実が伝わるだけの事ですから。入籍の一件の法的解釈云々はさて置いて
結婚にまつわる話として、教会で二人の永遠の愛は誓えない!と言うのが事実です。愛<神>は永遠であるかも知れませんが人の場合
死が二人を分かつまでと限定的であるのがキリスト教の結婚です。制度であるので有効な範囲があるのは当然です。それが法律による
範囲の有資格者であれば良いのか、キリスト教の神から与えられた恵みとしての有資格者で有りたいのか、その他の基準もあるでしょう。

嫁して三年子無きはされ。そんな時代もあったと昔話として笑って済ませる覚悟は慈・シュルレアリスムさんに有りますでしょうか?
以外とこれが高いハードルに場合が有るのだと実感しました。それは私が死線を彷徨っていた時の事、結婚して10年以上なるが子は無い
しかしその責任を彼女に押し付けるのは嫌だし、私に責任があるとも思いたくないし、ましては子作りの為に結婚したのでは無いと
覚悟は出来ていたハズでした。しかし、死の手前で私の心を乱す強烈な子孫を残さねば成らないとの妄想と戦う羽目になろうとは
思っても居ませんでした。私の死後、私の精巣より人工授精で子を生せ、私の遺志を継げと危うく口から出るのを抑えるのに苦労しました

もしも、口に出していたらその妄想が魍魎に取り憑かれ生きては居なかった、今は無かったと思います。誰にもいずれそんな日が来る
子が有れば有った成りに、無ければ無い成りに。あの思いを乗りこえ、その先に希望が持てる力を付けたい。出来れば二人してそれが
結婚の意義だと思います。ちなみに上記のことはまだニョーボに話しても居ませんこの先も話すことは無いと思って居ます。

死が二人を分かつまで。慈・シュルレアリスムさんが結婚をまっとう出来ますようにとお祈り致します。

[879] まるも 2009/01/05 18:29

神父さんが、コリント人への手紙 第一 13章を唱えます。特に13:4-7
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

・・・誓いますか。はい、誓います。・・・誓いますか。はい、誓います。指環の交換をして、ちゅぅをします。バージンロードを歩いてライスシャワーを浴びる。
高砂ヤー、三三九度、白無垢やきんらんどんすの文金高島田よりも、
ウェディングドレスにブーケ姿の方が女性のあこがれのようです。
でも、和服もステキ、と思う女性も最近増えてるようです。

ご結婚おめでとうございます。お幸せに。

[880] 慈・シュールレアリスム 2009/01/06 00:18

>>878
祝福のお言葉ありがとうございます。
僕の良くない癖で変に深読みすると
「慈・シュルレアリスムさんが有資格者であった事実が伝わるだけの事ですから。」という文面が私がそのような年齢に見えないという風に聞こえるのは気のせいという事でしょう。たとえそうであっても自業自得かもしれませんねw

「嫁して三年」に関しては妻を攻めるだけとはいかないでしょう。
若年での非行で内臓にかかった負担はそう簡単に取れるものではないと実感しております。
それに例え受精したとしても、受精段階の遺伝的欠陥までそれで補えるともかぎりません。生まれた方がお金は確実にかかりますし子供を作るに関してリスクがまったく無いというのは無いですから。
それでなくともこの国のこの時代は中国のようにあからさまではないものの間接的な一人っ子政策を掲げていると思いますから。
「しかし、死の手前で私の心を乱す強烈な」
相手が居る事ですでにその様な葛藤は発生しております。自分で改めて人間の欲求というものは恐ろしいと思います。(余裕→異性→子供)
(話が前後しますが)とは思うものの、逆に早い段階で子供を作りたいと思い、己の成長に合わない賜物を頂いた事で結婚の意義が薄れ離れる夫婦もあると思います。

子が居るのが必ずしも幸せかと言うとそうでもないと思います。
カミサンの年齢から行って三年無ければ無いと勝手に思っているしだいでもあります。
希望と欲望紙一重かと。

インスピレーションで書いているので話が前後左右して色々とgdgdになっていてすみません。

>>879
引き続き祝福のお言葉ありがとうございます。
式はチュウもしませんでしたし、ライスシャワーも浴びませんでした。
僕の年代は挙式を上げる率が一昔前より少ないので慎ましくあげさせていただきました。
それでもあげさせて頂けた事に感謝です。

[881] kagayakuegao 2009/01/06 00:38


正義を洪水のように

恵みの業を大河のように

尽きることなく流れさせよ。 アモス 5:24

[882] まるも 2009/01/06 06:10

「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。
産みの苦しみを知らない女よ。
喜びの歌声をあげて叫べ。
夫に捨てられた女の子どもは、
夫のある女の子どもよりも多いからだ」
と主は仰せられる。
イザヤ書54-1

ああ。流血の町。
虚偽に満ち、略奪を事とし、
強奪をやめない。
ナホム書3-1

[883] 植木 2009/01/06 07:02

文字になると入籍と婚姻が結婚とはそれぞれに別の意味合いを持つ場合が有ります。松が取れるとは1月7日以降、場合によってもっと
長いのでそこで滋さんがワザと間違いを起こしたとするならそのメッセージとして短い付き合いの彼女と結婚した、まだ早いかな?と
思いつつも一緒になった?いやいや、解かっている事は慈・シュールレアリスムさんが有資格者である事のみとこちらも深読みでした。

しかし、当たらずとも遠からじで、ちゃんと挙式をしたとの事で、入籍≒婚姻届の提出と新戸籍の作成は有資格者であれば誰でも出来ます。
これが挙式となると別で、神が、今日おいで私が貴方たちを夫婦として祝福してあげるからと神が決めた日であり主役はここでも神です。
私が嬉しいのはここでも慈・シュールレアリスムさんが有資格者であった事です。挙式が人生で最高な時期である人は稀だと思います。
むしろ、まだ早いかな?、でもこのチャンスを逃したくないからと言う方が多いのだと思います。つまり、最高の時期はその後に来る。
最高に向かって居るのだと双方で思える家庭をお築き下さい。こればかりは一人では成し得ない事であるともお気付き下さい。

[884] まるも 2009/01/06 12:15

原始キリスト教会には神殿娼婦という人達がいて、聖母マリアもだったという話があります。本当ですか?

また、イスラエルでは未婚女性と既婚男性の性行為は姦淫や姦通ではないと教会の人が言ってましたが、事実としたら、イスラエルの結婚制度と形態はどうなってるのでしょうか。

[885] 植木 2009/01/06 13:32

両方とも『偽』です。神殿の情婦との交わりはそれなりの儀式であったことが解かっていますが神殿派<サドカイ>は滅亡しているので
事の詳細は残って居ません。この様な女性は未婚であり交わる方は既婚ある場合が多いそれは姦淫、姦通では無い儀式であった。
しかし、それは滅びたユダヤの伝統であるので現在のユダヤ、イスラエルと何ら関係は無い。父の無駄に流された精液は悪霊を産むと
されるので父の死に際してその贖いの祈りを家で行う風習は残っています。遊牧民はとことんタネにこだわるものだと思うしだいです。

中世の宗教改革においてマリア信仰を否定し、ユダヤ教は悪そのものでありその寺院<シナゴーク>は魔窟である。彼らは滅びなければ
ならないと改革者ルターは言っている。教皇の冠には666と記されている等と言いふらし教皇カバなる架空の動物まで登場させ人心を煽った
そんな過去のプロバガンダに振り回されている人はけっこう居るものだと思います。その手の話がちょくちょく話題になる事で解かります

マリアの一族は商人であった。大工ヨゼフと比べるとマリアの実家の方が格上であった。その商家としてのネットワークがエジプトへの
逃避行を可能にし、戻る時期も的確であった。カナの婚礼に招かれたのは実にマリアでありイエスはそのお供に過ぎなかった事を思えば
少しは納得が行くと思います。十字架のイエスが弟子にマリアを託した形を取っているが、マリアに子として弟子を託すが故に敬語で
マリアムとイエスは呼ばれのだとする説もあり、テオトコスとしてのマリア信仰が最長期を迎えるのは大聖堂が多く建てられる12世紀
からであり、欧州の大聖堂の多くがマリアに捧げらてている事への反発が宗教改革初期の段階からあったと推測されている。

[886] nanasi 2009/01/06 17:30



■ 一神教の聖地のどこに <愛> が・・・・? ■

<イスラエル軍>ガザ都市部で本格交戦、侵攻後最大規模に ■
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090106-00000033-mai-int
                 (1月6日12時3分配信 )

【エルサレム前田英司】パレスチナ自治区ガザ地区に地上侵攻したイスラエル軍は5日夜、主要都市ガザ市東部で、
イスラム原理主義組織ハマスの戦闘員と激しく交戦した。3日の侵攻以来、最大規模で、都市部での本格的な衝突
は初めて。ガザ北部を中心に地上戦が激化の様相を呈している。

AFP通信などによると、先月27日の空爆開始後のパレスチナ人死者は少なくとも555人に達した。地上侵攻で
一般市民への被害が拡大しており、救急関係者によると、うち死者の約100人は子供。★☆
国連のホームズ事務次長(人道問題担当)は「人道危機が急速に悪化している」と指摘。攻撃にクラスター爆弾が
使われたほか、現地では飲み水や燃料、食料、医薬品が不足していると訴えた。

[887] よしふみ 2009/01/06 21:17

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記事:いろいろある時、やっぱり『みことば』

[888] T 2009/01/06 23:04

植木さんへ
解説ありがとうございます。まだ、あんまり理解はできてませんが。
レビ記 26:44にへブル語で「レーマ・サバフット・アニー」という読みがあって、それが「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」の元ということなのですね。
よく調べてますねぇ。
へブルを読めたら、もうちょっと感想でも言えるのですが、まるで分らないのでただ凄いなぁと思います。

>まずはヨハネがあって、「かわく」と共感三福音の整合性から

共観福音書ではぶどう酒を飲まずに死んでるけど、ヨハネ福 19:30でぶどう酒を飲んでいます。
「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(マルコ 14:25)というイエスの発言との絡めて読む、ということでしょうか。
ヨハネ福音書が、共感福音書とつなげて読むように意図されているのか微妙なところです。
マルコ 14:25をカットしているならば、ヨハネはむしろこれを都合が悪い話だと思っていたのでは?

マルコ 14:25は差し迫った終末の到来をイエスが前提していて、次にぶどう酒を飲むときは神の国で飲むのだという楽観的な希望を語っていたのか。
イエスの期待に反して、処刑されてしまったことで、この伝承は宙に浮いてしまった、と考えた方が僕には素直に思えます。
つまり、この話は信徒にとって躓きのタネになるわけです。
それをヨハネ福音書はカットします。
さらに、処刑されることで逆にすべてが成就するという構想で描いた。
「こうして、聖書の言葉が実現した」(ヨハネ福19:28)というとき、マルコ 14:25を指しているつもりはないように思えます。

[889] 慈・シュールレアリスム 2009/01/06 23:28

>>883
色々申し上げますと
挨拶文に関してはわざと間違えました。
僕が参考にしたあいさつ例文の中に正月中に挨拶すると言うものがなかったので、明日から仕事の人も居るから良いだろうと思いそのような挨拶にさせていただきました。
まぁ、すでに挨拶をする時期も間違えていると思うので多めに見ていただければありがたいです。

それと、俗に言う神が主役とされるならば、僕は挙式というようなものはあげなかった事になります。(宗教的なものは絡ませませんでしたから)
まぁ、儀式がどうであれ、色々な事がかなり意図的とも思えるタイミングのよさは否めませんが。

あとは、相手は植木さんも知っている人です。

去年、よくわからない身に覚えの無い感謝レスに返信しませんでしたか?

ちなみに、それを最初に言わなかったのはまずったとも思いました。

[890] まるも 2009/01/07 00:51

>>886 nanasiさんへ
多分にまるもの妄想である話を聞いてくれますか。
今のイスラエルは肉においては世界中の血が混じっているのです。本来のユダヤ人以外にも、大航海時代に奴隷にされたり鎖国で逃げた日本人も、アメリカのインディアンも、いつしか自分達はユダヤ人だと本気で信じるようになった。肉における自分達のルーツはわからなくなり、ユダヤ人だからキリスト教でなく、元々のユダヤの先祖の信仰のユダヤ教に帰ろうという想いが与えられた。
どうでしょうか、この仮説は。ローマ2-29、9-25、11-17、エペソ2-13などなど。
察するに、パレスチナとイスラエルの争いは本能的なものに近く、サンタやイースターエッグに表わされる森の民と、ケガレを嫌う砂漠の民とのせめぎあいではないかと想う。エゼキエル16-49が、砂漠の神の民が、森と農工商の国々を知って抱く基本的な感想のイメージはこれではないでしょうか。
ちなみに、私は、神武やスサノオの性質は、砂漠の民に近いのではないかと思ってます。
というわけで、今は住み分けてる我々ですが、将来環境破壊と食料争奪戦が加速して住み分けできなくなった時、パレスチナとイスラエルの争いの形は、我々にもふりかかるかもしれない。人類の宿題でしょう。
人間は本能的にサルとかワニとは違うとか考えるが、異質なものを排除したい真理は、サルとの混血は吐き気がするほど忌まわしいことからも明らか。相手はサルではなく、人間だと心底考えられる正しい心が求められています。
念の為ことわっておきますが、サルはサルですから、人間ではありませんので、絶対エッチしないでくださいね、危ないですよ。(おぇっ笑)

[891] kagayakuegao 2009/01/07 08:59


どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。

何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、

求めているものを神に打ち明けなさい。

そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、

あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。 ピリピ 4:6,7

[892] 植木 2009/01/07 14:54

酸いブドウ酒が飲めるものかどうか、匂い消しには役立つだろうが、等と言う話は重要では無い。詩篇69:21が参考になると思われます
共観三福音書の後から出来たとされるヨハネ伝が使徒ヨハネが書いたと云われるのはユダヤ的表現を多用している事と自ら弟子であると
称している事によります。他の福音書の補完として特にユダヤ人向けに書かれた居るならトーラを知っている者向けに書かれたと居得る。
先にユダヤ人はレビ記から習うと書いたようにレビ記はトーラの集約された書であり、これも先に書いたレビ記26:44からの引用とした
理由にヨハネ伝ではエリ・エリ・・・は周知であるので記する理由が無かった、共観三福音書の後に書かれたので省いたのだろうと思う。

何よりもヨハネ伝の21:25の言わんとするのはイエスこそ律法そのものであると断言している点です。これが解かれば何故7度も
自分自身に言及したのかもトーラ由来と解かると思います。ヨハネ伝は他の福音書と異なる点が多いのですが、
同じイエスの話ですので重複する点があり強調する箇所の違いがあっても福音<良き便り>です。

※何故レビ記を挙げるのかと言うと『犠牲と義務』が先に説かれるからです。

[893] 植木 2009/01/07 15:25

慈・シュールレアリスムさん、そう言えば思い当たりますが、お気になさる事も有りません。私は滋さんの異能を楽しんで居ますので
こちらこそ感謝して居ます。

[894] 植木 2009/01/07 16:01

焦点がぼけている印象なので、補足。

ヨハネ伝の『かわく』を解釈しようとしたユダヤ人でない者が詩篇22:15かわくとある、なるほど救世主の預言とされた箇所である。
するとあのエリ・エリ・・・はわが神、わが神、と同じ詩篇22:1にあるのでこれに違いないと解釈し定着したのでは無いかと思っています
だいぶ前にこの箇所の最初の解釈者を探したのですが見つける事はできませんでした。最初に『かわく』があってとはそんな意味です。

聖書に関しての蔵書をほとんど持たない現状ですので一次資料をあげる事もまま成りません。覚えている知識のみで書いて居ますので
全般に雑な文になっている事にご容赦下さい。

[895] よしふみ 2009/01/07 22:23

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[896] まるも 2009/01/07 23:33

前にキリストはスサノオの子孫だと言ってた人がいたけど、もしかすると有り得ない話ではないと想う。
連想するのはアラビヤ半島の古代都市スサ。スサノオはスサの王を連想させる。非常に強大で長く続いた都市であり、聖書とも無関係ではないどころか、ヨハネの黙示録でさばかれる大淫婦のイメージも、スサを含む中東の古代国家から来ている。おしりかじり虫の先祖の国、アッシリアです。
かつてイスラエルの強敵だった時、アッシリア兵は、イスラエル兵のおてぃ○ぷぉを切り取って空に放り投げ、落ちて来るそれを剣に突き刺して遊んだという伝承があるそうです。
。(≧Д≦)。。
こんなことをすれば、永遠に呪われても仕方ありませんね。

[897] まるも 2009/01/08 00:02

神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。
また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての草を与える。」そのようになった。
創世記1章29、30節

「呼ばわれ。」と言う者の声がする。
私は、
「何と呼ばわりましょう。」と答えた。
「すべての人は草、
その栄光は、みな野の花のようだ。
主のいぶきがその上に吹くと、
草は枯れ、花はしぼむ。
まことに、民は草だ。
草は枯れ、花はしぼむ。
だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
イザヤ書 40章 6節から8節

[898] T 2009/01/08 00:43

先にヨハネの伝承資料があって、その解釈がマルコの受難物語に実は影響しているという説なんですね。
なるほど。

僕はどうもヨハネ福音書に偏見をもっているようで、ヨハネ福音書に書いてあることはあんまり信用できないと感じてしまってます。
たぶん、共感福音書の方が古くて、ヨハネは「福音書」という文学スタイルで独自の展開しただけなんだ、とどこかで思いこんでしまってるからです。
そんな風に資料仮説にあんまり囚われて考えてるのはよくない。

それでも、ヨハネの「渇く」は二次的な付加に思えます。
「渇く」というセリフは、酸いぶどう酒を飲ませるきっかけとして描かれています。
このセリフを足したくなるのは、マルコの文章に原因があるように思えます。

(マルコ 15:36)
ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。

この「待て」という部分が、意味が分からないわけです。
イエスに酸いぶどう酒を飲ませようとしながら、誰に何を待てと言っているのか。
走って酸いぶどう酒を飲ませに行く行為と、「待て」というセリフがどうも矛盾しているように思えるのです。
マタイは、下記のように書き換えています。

(マタイ 27:48-49)
そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。
ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。

酸いぶどう酒を飲ませようとした人物に向かって、ほかの人々が「待て」と止めています。
僕は、この「待て」の方が自然だと思いましたので、マタイの描いたものが実際に近いのかなと思ってました。
マタイの文脈だと、イエスが飲み物を欲しがったという文脈になっているように思えます。
つまり、ヨハネのように「渇く」とイエスが言ったので、ローマ兵が酸いぶどう酒を飲ませようとした、それをほかの人々は「待て」と止めている。
ヨハネの「渇く」は文脈にマッチしているので、これも古いのだろうと思えてくる。

でも、マルコは違った場面を描いているようです。
田川建三氏の「訳と註」によると、マルコが描いているローマ兵は、酸いぶどう酒(これは酢、そのもののことだそうです)を着付け薬として飲ませていて、もう少し様子を見てみようと仲間たちに言っているようです。(p840)
マルコの「待て」のニュアンスを、マタイは理解しそこねているようです。
僕は、ヨハネも同じ解釈をして「渇く」を付加したように思えます。

(…でも、喉が渇いて酢を飲みたがることもあるのだろうか。僕の感覚ではない…というだけですが)

[899] まるも 2009/01/08 01:27

渇くは文字通り渇くです。日本の気候なら、ただはりつけにされただけではすぐに死なないので、刺殺すか火あぶりにします。八百屋お七も火あぶりです。
しかし、屋外にはりつけにされれば半日で死ぬ国々があります。手足に釘を打つと血も流れるので効果絶大です。例え酢でも水分ですから、ひとなめでもあと少しはいのちが延ばせます。

昔スペインの力のある領主の若い貴公子が、鎖国下の日本に宣教師として潜入して海岸でつかまり、なぶり殺された時の話は外国では有名です。体に穴をあけるのは拷問としては苦しみの増大にも絶大な効果があり、逆さにつるされ額などに小さな穴をあけて血抜きをされた上で様々な拷問としばらくの放置などされた旨、文献にあります。雄叫びながら亡くなられたとのことです。
天正少年使節に行った中浦ジュリアンも、そうして殺された一人です。我こそはローマを見た中浦ジュリアンである、と雄叫びして亡くなられたとのことです。
天文学者のスピノザ(だったかな)は火あぶりだったようです。彼は重要な発見もしている名のある学者ですが、日本で天体観測をしていたところだったようです。

よしふみさんの今抱いておられるおそれはまるもにも何となく分かるので、神様はもっとよく十分に分かっておられると思います。
自分の力を神とする者は呪われるらしいです。聖書のどこかにありました。未来のことは神様しかわからないことなので、まるもには何もいえませんが、まるもは以前プロテスタントの教会に行って何となく危機を抜けてたことがありました。祈りはすぐに聞かれるというものでなくても、正しい祈りはいつか必ずきかれるので、失望せずに待ってみられてはいかがでしょうか。

[900] 植木 2009/01/08 05:25

The Last Temptation of Christ <最後の誘惑>はご覧になったでしょうか、映画の批判云々は抜きに私がこの映画で一番気に入っている
箇所は生き延びたイエスが弟子と再会し、何故私が死んだと言うのか、生きているではないかと迫るが、弟子はいやイエスは死んだ
生きている貴方とは関係ないと取り合わない。そんなシーンがある。そこに福音書とはの真の意味があると私は面白く観ていました。

イエスはキリスト教の教祖とされるが、当人はユダヤ教徒として死んだのでキリスト教の成立になんら関わっては居ない。
宗教として教祖は死んでいた方が都合が良い場合がある。自らの履歴書とも言える書<福音書>の整合性に教祖としての責任が無いからだ
またその教義書<福音書を除くその他の書>に付いての矛盾性からも逃れられる。ましては伝承を排した宗派においては
どの様に解釈しようと他の宗派からは非難できない都合の良さが浮かびあがる。福音書とは見方を変えるとそんな側面もあります。
解釈して解かれば苦労は無い。

[901] kagayakuegao 2009/01/08 08:08


土からできた者たちはすべて、

土からできたその人(アダム)に等しく、

天に属する者たちはすべて、

天に属するその人(キリスト)に等しいのです。

わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、

天に属するその人の似姿にもなるのです。1コリント15:48,49

[902] 植木 2009/01/08 14:08

なんと言うか、酸いブドウ酒がお酢であるのは当然でそれの説明が要るとは思っても居ませんでした。
気付けに使用したとして何故それが磔刑の場所にあったのか、その説明も必要なようで書いて置きます。

現代的に言えば、処刑場所の清掃のための洗剤として酸いブドウ酒<お酢>を使用した人の血液、脂肪、嘔吐物、糞尿などを洗い流す効果
これは食肉の処理場でも使用された。ちなみに、神殿の大理石上では石を傷めるのでお酢の使用は避けられた。
そんな酸いブドウ酒に入っていた海綿は掃除道具で言えば雑巾にあたります。織った布より安あがりであった。
現代風に要約すると、『掃除のための洗剤に入れてある雑巾を棒で口の前に差し出された』となります。
それを飲んだとするか、飲まなかったとするか、はご自由に。

ついでに、スレ主さんの上げたコリントに付いて:
アダムのA・D・A・Mはギリシャ語の東西南北の頭文字に等しい事を知っていると何故アダムを例に出したのかを理解できよう。
これもついでにその総計はギリシャ由来のゲマトリアでは46との数字に成り、ユダヤの民が46年かけて築いた神殿と一致する。
キリストの体なる教会とはの理解の一助になればと思い書きおきます。

[903] よしふみ 2009/01/08 19:37

>>901
48節49節は
15章の始め『主イエスの十字架とよみがえり』の延長線上にある文章ですね。
____________________________

『パウロが伝えた大切なメッセ』

� キリストの十字架と復活

イエス様が私たちの罪のために死んでくださったこと。
葬られて三日目に復活されたこと。

� 復活後、多くの弟子たちに現れた。

ペテロに現れ、十二弟子に現れたこと。
多くの弟子たちに現れて、
パウロにも現れたこと。

� 神の恵みによって

十字架と復活。
そのキリストの恵みによって、
今日の私があるのだということ。
その恵みは無駄にならず、
多くの働きをしたということ。
それはじつに自分の力ではなく、
すべては神の恵みであるということ。
_____________________________

1コリント15:48,49はまさに、
上記の重要メッセの延長線上にある言葉です。
アーメンです。

1コリント15:48,49のみことば、信じます。

[904] T 2009/01/09 00:50

「最後の誘惑」観てます。生き延びたイエスと弟子(たしかパウロだったかと)のやりとりの場面ですね。
神殿で暴れる場面は福音書のイメージをよくとらえていたような。
よく分からない場面もありましたが。

福音書の整合性というか。
大半の問題は、マルコ福音書に書いてある通り読むというのが難しい、という点にあるように感じてます。

ベンハーにもちょっとイエスが登場します。
ベンハーの母と姉が薄暗い牢獄にとらわれている間に皮膚病におかされてしまい目も当てられない姿になってしまいます。
最後にイエスが十字架に架けられると、雨が降ってきて、母と姉妹が雨を浴びると洗い流されるように病気が治る場面があったと思います。
幼いころにこの映画を観て結構感動したのですが、大人になってから福音書を読んだときに、雨が降って病気の人々が救われましたという場面がないのがちょっとショックでした。

[905] T 2009/01/09 01:12

酸いぶどう酒が酢であることは知りませんでした。
物を知らないもので、ご教示頂けると勉強になります。ありがとうございます。

[906] kagayakuegao 2009/01/09 08:38


わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。

神は、その保証として““霊””を与えてくださったのです。 2コリント 5:5

[907] よしふみ 2009/01/09 09:18

>>899  まるもさん

まるもさんの言うように、
待ってみることにいたしましょう。

生きていくってのは『瞬間』の連続
『その時・その時』っていうようなもの。

”今、この瞬間”の問題に対して、どう処理できるか。

問題があった後で、
いろいろ対策考えても
あんまり役に立たなかった。

再び、問題の場面に直面する時とは
思いがけない時なわけで。

それが来た時には
自分が対処する余裕などはないんですよぉ。
頭は真っ白
対処なんかできない。

失敗の連続になることが多々あるなぁ。

困難に出会う その瞬間・瞬間に
どういうふうに対処するか
どういう考え方をもつか
その違いが大きな違いの積み重ねになって
人生が 暗闇になり 明るみにもなる。

自分の欠点のゆえに
トラブルを招くってこともあるんだけど。
しかしながら、私は
”人に迷惑をかけないように、失敗をしないように対策する”
という思考は絶対しないようにしています。

”人を恐れるとわなにかかる”と聖書に書いてあります。

私のやり方はいつも、
聖書の言葉に帰るというシンプルな思考でやっています。
何かに直面したときは
それが一番いいと私は思っています。

それから、そのときに祈ること、自分の罪を告白すること、
十字架と復活のイエス様を信じる祈りをすること。
それだけです。
問題解決や自分の願い事は祈りません。

これが今、私のBestなやり方です。

[908] 植木 2009/01/09 10:28

イエスを演じた役者は大成しないとのジンクスがありますが、ウィレム・デフォーさんはガンバっている様ですね。
成立年からマルコとの気持ちは解かりますが、それは成り立ちであって内容の古さからはヨハネであると思います。
ユダヤ教を知っているがもはやユダヤ教に属さない決別のバルコクバの乱以降に編纂されたにしてはイスラエル崩壊以前に詳しい。
全体的な印象からはユダヤ教からの決別を前面に出しているのでユダヤ教を知っている者が対象になっている。
逆に言えば、ユダヤ教の教えを逆手に取った手法で、これこそがトーラと言い放っている冒涜の書であるとも言える。

共観三福音が歴史書<イエスの履歴書>とするなら、ヨハネは教えに特化した書で成らなければいけない宿命があった。
それは新約の『約』との性格上の役目を担うべき書との思惑があった。故に補完的に付け足した観がぬぐえないつまりは最後に出来た
一番古い資料を元にできた一番新しい福音書であると思っています。イスラエル陥落以前から伝播していたバビロニア北まわりで
伝承されていた短い聖書の手法を取り入れたタルムードがあったのでファリサイを感じるのではと勝手に思っています。

酸いブドウ酒=ビネガーの語源です。酢とすると他の酢もあるので酢一般との区別を付ける必要性からあえて酸いブドウ酒と訳して
いるのだと思いますが真意は不明です。

[909] ボンボン 2009/01/09 21:29

突然ですが、聖書って何について書かれているのでしょう?

[910] ボンボン 2009/01/09 22:14

今日の炭素は美味しかった〜的な話の腰を折ってすみません。

スレ主さんは >>0 かく語りきなもんで、つい。ソーリー!

[911] kagayakuegao 2009/01/09 22:38

>909

聖書はわたし(イエス・キリスト)について証しをするものだ。 ヨハネ福  5:39

[912] ボンボン 2009/01/09 22:42

本当にそうですね。

ぼくは個人的には、神の国について書かれていることを思い出しています。

では、失礼します。

[913] まるも 2009/01/10 02:47

聖書は神の国については例えでしか書かれてないです。神の霊感で書かれたものですが、聖書を筆記した人間が恐らく誰も神の国を実際にその目で見たわけではないので、仕方ありません。
まず、自分で聖書を買って全部読んでから、後で解説を読むといいと思います。
新改訳か、新共同訳が、内容に忠実で、しかも現代の言い回しに近くて分かりやすいです。
大きい聖書には、歴史年表や地図など、またその他の解説がついてるのがあります。
まるもの場合は、聖書の解説は全く読まないで、何回も通読しました。また日曜日に教会へ行って、お話を伺いました。
苦しいことを話すと、その場で、牧師さんや教会の信徒の方などがお祈りしてくれたり、ご自分の体験から思ったことを話してくれたりしました。
一番絶望する時は、周りが暗くなって視界も狭くなり、もう自分の魂は終わりかもしれないなどという、サタンからの悪い想いが襲ってきます。しかし、神の御手の中に包まれていれば、暖かいのです。
ぜひ、ボンボンさんも聖書を買われて、お持ちになってみてください。必ず、どこかに、神の平安につながる言葉が見いだされるはずですから。

[914] kagayakuegao 2009/01/10 10:56


赦されることの少ない者は、愛することも少ない。ルカ7:47

[915] T 2009/01/10 11:36

読み手の姿勢のなかに、聖書があるように感じるときもあります。
僕のような読み方では、聖書を読んだことにならんかもなぁと。

ヨハネ福音書の成立年代は、田川建三氏の「書物としての新約聖書」によると、
>著作年代、著者、著作の場所等、一切不明。しかし、内容からして、マタイ、ルカとほぼ同時期と考えるのが妥当だろう。ただし、残っている写本からして、おそくとも九〇年代。
とのことです。

>成立年からマルコとの気持ちは解かりますが

そうなんです。成立年代を中心にすえてしまうので、「内容の古さ」を判断はなかなかできてません。
成立年代とか、資料仮説といったものはかなり強力な分析手法なので、ついそれだけで満足してしまう。
成立年代順にならべただけで安心してしまって細かい内容を確認しなくなってします。
伝承が古い順に書き残されるとは限らないと分かってるつもりなのですが。

ヨハネ福 8:1-11などは、後年の付加なのははっきりしてます。
でも、伝承はとてもイエスらしいものに思えます。どちらかというとヨハネ福音書全体よりも、この付加の方がイエスらしいです。
学説によってはここは古い伝承が後に足されたものではないかとされるところだそうです。(「イエスという男」p333)
イエスの律法に対する態度が当時のユダヤ社会には刺激的すぎて残すことができなかったものが、後にユダヤ社会から離れるなかで書き残すことができたということか。

共観福音書のなかにヨハネっぽく感じる部分はあります。

マタイ 11:25-27 (平行ルカ 10:21-22) 口語訳
そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。
父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。
すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。

こういう伝承が拡大されて伝えられたような印象があります。
でも、後年の教会によって作られたのではないかと疑われている部分のようです。
エレミアスという学者は、11:27を、イエスに由来する伝承と論じてます。
アッバというイエスの神の呼称との内的関連や、文体などを根拠にしてます。(「イエスの宣教」p112)

[916] 植木 2009/01/10 13:44

信仰など抜きに思う事は、同じ男の履歴書が複数あってしかも実在したかどうかも不明な人物の物語を
民族の歴史、系譜の書よりも重要な価値を持つと少数の人間が言い切っても当時誰が信じたであろうか。

セム系民族にまで広がっていた伝承が聖書であるのでユダヤ限定でも無かった。さらなる異郷の民にまで拡大したのが新約聖書である。
真似る必要性は旧約にあったのか新約にあったのかを思えば答えは観得てくる。新約なる書が必要とした者たちがいた。
その者たちは異郷に移り住んだ者と異郷の民に新しき書に付いて語った。既に無くなった拠り所<エルサレム>をその書に見出した者を
引き付ける魅力は古き面影がその書にあればこそであった。当初より団体の伝承を受け継がれているのでその団体の移行に副った書であり
離散<ディアスポラ>により同時多発的広がりがあり、その最初の摺り合わせが宗教会議の発足となる。

当初より教会の都合で書かれた書であるのでその解釈に教団による違いがあっても良いと私は思っています。
前にも書いたが沢山とか一杯ある書が聖書<バイブル>の意味であるので文字通り解釈一杯で良いのが新約聖書でしょうし
これからも増えるので沢山になるのがユダヤの聖書だと思っています。正直言って私はヨハネ伝は200年代半ば以降と思っています。
その伝承が1000年至福説と結び大聖堂時代はキリスト誕生から1000年では無く教会成立からおよそ1000年を経た頃より始まるのだと思います。

[917] ボンボン 2009/01/10 13:45

>>913 まるもさん

ご返事を有難うございます。最後の投稿になることを先ずお詫びしておきます。

礼拝に行っても霊とまことで礼拝できなくなった時
聖書を読めなくなった時
祈れなくなった時
兄弟姉妹が兄弟姉妹と思えなくなった時
この世のことに忙殺されて祝福を見失った時
批評学方々の学者的アプローチに辟易としながら、肉の心に影響を受けてしまった時
神様のご支配される力を見失っている自分を発見するあらゆる瞬間

そんな自分が串から外れた具のように感じられます。
そのような時に、書かれていないようで書かれている「串」、神様のご支配の世界すなわち『神の国』を思います。

ただ、それだけのことです。

箴言8:22〜31

[918] 植木 2009/01/10 13:49

意向を移行と書き間違っています。

おっさん度が上がるにつれ誤字脱字が多くなってきたと感じるこの頃。ゴメン

[919] 植木 2009/01/10 14:02

私から言うのもなんだが、耳さんは最後ですか。

それでは、イエスが書かれて居ない事を根拠に話をした事は無い!。
付けられた印を印と思うなら失うものは無いだろう。ごきげんよう。

[920] ボンボン 2009/01/10 14:11

追伸です。

植木さんは本当によきサマリタンだと思っています。今でも。

ヘンデルというより・・・バッハだって感じています。

色々有難うございました。

[921] ボンボン 2009/01/10 14:48

あっ、もう一回追伸です。

『ボンボン』はリボンさんから頂きました。

リボンさん、そろそろクリスチャンになったらどーです? あはっ!

[922] T 2009/01/10 20:54

「P52」がヨハネ福音書の断片だったならば、文字の形から推測すると125年頃に書かれたものと見られるようです。
これが発見されたのがエジプトなので、その写本の普及にかかる期間を考えると1世紀末にはヨハネ福音書は書かれただろうと田川建三氏は書いてます(「書物としての新約聖書」p354)
どれぐらい妥当な説なのか、ちょっと僕には判断できないですが。

http://en.wikipedia.org/wiki/Rylands_Library_Papyrus_P52
よくこんな断片をヨハネだと調べられたなぁと思います。

---
事実のある側面をとらえて神学的に描くということと、事実はどうだったか(これはあくまで伝承のなかの蓋然性だけですが)ということをちょっと区別するだけのことなのですが。
とくにヨハネ福音書は、神学的に描こうとしているように思える。
神学は神学として、言わんとするところを理解すればいいのであって…と思う非信者でした。

(ヨハネ福 18:28)
人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。

イエスが裏切られ、逮捕され、ピラトのところへ連れてこられる場面。
ユダヤ人たちは、官邸には入らない。異邦人と接触して汚れないようにしている。なぜなら「過越しの食事をするためである」とのこと。
ヨハネ福音書のイエスは、過越しの前日に逮捕されているようです。

共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)では、イエスの最後の食事は過越しの食事です。
過越しの食事の後で、逮捕されている。
さて、どちらが事実に近いのでしょう。

こういう福音書の相違点を挙げるような話が鬱陶しいのでしょうけど。
イエスが死んだのはいつなのか、福音書記者はとくに気にしていなかったから、どちらかが間違えたのでしょうか。
間違えたのではないのかも知れない。

で、それは一方が神学的な理由から日にちを一日ズラして描いているのかも知れない。
福音書記者の時代ならば、その意味はすぐ分かるものだったのかも知れないけど、そこが分からないので学者の解説を求めたりするわけです。

[923] 2009/01/10 22:59

どうも、参りましたね。 三度目の追伸です。

T さん お気になさらないように。

ぼくの言いたいことは>>909 に尽きますので。

神の国はことばにはなく、力にあるのです。 �コリ4;20

では。

[924] T 2009/01/10 23:09

耳学問派さん、お呼び止めした形ですみません。
祈りの場で雑談してしまってる僕の方が静かにしているべきだなぁとは思いつつ…。

[925] 植木 2009/01/10 23:10

パスオーバー<過ぎ越し>はエクソダスの再現であるので神がユダヤの民の家々を過ぎ越しエジプトの初子を取り上げた記念であるが
トーラには七日の間、発酵の為のタネ<酵母菌>を入れないマッツオと呼ばれるパンを食べる事になっている。

そして、主たる集会は第1日目の夕と第7日目にと2回行われる。伝統に従えば旅支度で、出口に近い広間で行うのが慣わしである。
二階の部屋で過ぎ越しの主たる集会を行ったとするのは無理がある。現在でもエレベーターのボタンすら押さないのが彼らの安息日である
二階に上がるのが労働と見なされ、火の使用、歩数すら限定される祭りでパンを裂いたとすれば過ぎ越しの風景あるが

過ぎ越しの期間ではあったので一度は行ったが二度目は無かった。現在では大きな集会は一度、二度目は家族だけでと形式的になっている
それでも二度行うのであるから私はイエスに二度目が無かったとだけ思っています。

[926] 植木 2009/01/10 23:24

今度は脱字です。過ぎ越しの風景ではあるが です。

耳さん、髪型がバッハと言われていた頃があったので一瞬、ドキッとしました。

ユダヤの中でも少数民族であるサマタリアンとエジプトのコプトは大好きです。スレよごしは賑わいの内と大目にヨロシク。

[927] T 2009/01/10 23:46

文章から人の姿をイメージするというのは不思議ではありますが。
バッハの肖像画を確認すると、なんとなく思い描いていたイメージとちょっと近いような…。

過越しの期間は、馬鹿にならない人数の人々が集まります。
食事をとるスペースがないため2階だけでなく屋根の上で食べられたとの記録があるようです(「イエスの聖餐の言葉」p56)。
屋根の上や、外で食べるのはルール違反と見なされます(出エジプト 12:46)。

2回食事をとるのでしょうか。それは知りませんでした。
過越しについて、僕はやはりよく分かってないです。

子羊を食べるのにほぼ10人ほどで食事するのが通例だったそうです(同上p65)。

[928] まるも 2009/01/11 04:20

江戸時代の学者は、神道は誠(まこと)の心、清き、明かき心だと言いました。
ある現代の研究家は、仏教は諦観(たいかん:あきらめ、但し絶望ではなく、すべてをを明らかにする前向きなあきらめ)と言いました。
牧師先生にお伺いしたところ、キリストはゆるしと愛だとおっしゃった。

それは、日本の人に誠がなく、釈迦族にあきらめがなく、イスラエルにゆるしがなかったことを意味する。

そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。ルカの福音書23章34節
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネの福音書3章16節

天の下では、何事にも定まった時期があり、
すべての営みには時がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
植えるのに時があり、
植えたのを引き抜くのに時がある。
殺すのに時があり、いやすのに時がある。
くずすのに時があり、建てるのに時がある。
泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。
嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
石を投げ捨てるのに時があり、
石を集めるのに時がある。
抱擁するのに時があり、
抱擁をやめるのに時がある。
捜すのに時があり、失うのに時がある。
保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。
引き裂くのに時があり、
縫い合わせるのに時がある。
黙っているのに時があり、話をするのに時がある。
愛するのに時があり、憎むのに時がある。
戦うのに時があり、和睦するのに時がある。
伝道者の書3章1-8

[929] まるも 2009/01/11 08:36

昔、インドネシアのイスラム教徒の方に、イスラム教はどんな宗教かお尋ねしたことがあります。
イスラム教には詩(うた)があると言われました。
どんなうたなのだろう、と想う。

[930] よしふみ 2009/01/11 09:44

イスラムでは”詩”は、”うた”そのもとは違った意味で遣われるのでしょうか?
日本語で使われる
『〜には”花”がある』みたいな言葉でしょうか。

[931] よしふみ 2009/01/11 09:45

訂正

イスラムでは”詩”は、”うた”そのもとは違った意味で使われるのでしょうか?
日本語で使われる
『〜には”花”がある』みたいな言葉でしょうか。

[932] kagayakuegao 2009/01/11 09:59


たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、

わたしたちの「内なる人」は

日々新たにされていきます。2コリント4:16

[933] よしふみ 2009/01/11 10:04

どんな宗教か?と質問しているのだから、
『〜な宗教です」『これこれこういう宗教です』と答えるはずですよね。
イスラム教は『詩♪、な宗教』という意味かな、、。

キリスト教にだって、諸宗教ににだって”詩”はありますから。
読んだり歌ったりする”うた”のことを言ってるのではないのでは、
とかんじたりもしますが、>>929 の文章からは。

[934] よしふみ 2009/01/11 10:31

ちょっと、話が変わりますが、
今、聖書ギリシア語の動詞のところを勉強中なので、
”動詞”で例を出してみます。

τυγχανω(ティンハノまたはテュンカノー)
�出会う �身にふりかかる �打つ

聖書ギリシア語の動詞ティンハノは、
ハプニングに出会うといったような意味合いを持つようですが、
�打つ というような別の意味もあるようです。

日本語では、ありえないですね。

当然、原典聖書は全部、日本語と違った使われかたをしているので、
日本語訳聖書だけではまずいことになる場合もある。

日本では、ギリシア語を知ってる牧師の説教が必要かもしれない。

日本語訳聖書を日本語のニュアンスで解釈して、
なおかつ牧師の自己主張が入った説教になれば、
ギリシア原典の御言葉の”真のメッセージ”からは
ほとんどかけ離れた代物になってしまう危険性もあるんですよ。

[935] まるも 2009/01/11 10:36

うたというのは、コーランのことで、お祈りはただ大声を張り上げているのではなく、うたっていらっしゃるのだそうです。

それは、二つのことを意味します。イスラム社会には、娯楽の歌はなかったこと、伝統的なお祈りや賛美のうたがあったことです。
それは古くから、少なくとも族長時代からあり、かつてのイスラエルにもあったことでしょう。聖書にも祈りのうたの場面が出てきますが、おわかりになりますか。

記紀にも、日本人がその様にしていたのではないかと想わせる記述があり、ある女がおおきみの杯に酒を注いだ時、枯れ葉が舞って入るという大変な失敗をしてしまった時、おおきみをたたえ、そそうをわびるうたをうたい、その見事さに命を救われたとあります。
日本の民謡の発声も、コーランのお祈りに通じるものがあります。

[936] よしふみ 2009/01/11 10:53

日本語訳聖書を、日本文化の中で解釈すると
原典とまったく別の意味になってしまう危険性があります。

昔、キリスト教組織に在籍していたころ、
セルの話し合いの中で
なぜ日本ではクリスチャンが増えないのか?
という話をしたことがある。
その時に、みんなのいろいろな意見があったんだけど、
僕は「日本語訳聖書のせいではないか?」って、
言いました。
たしか、そういったはずです。
あの時は、よくわからずに思いつきで言ったんだけど。
インターネットでどんどん調べていくうちに
まんざら私の意見もハズレではなかったことがわかりました。

私達、プロテスタントは新改訳か新共同訳を使ってるわけですが、

日本語訳聖書では注解書なしで”行間”を読むのは見当違いなのです。
それぞれ個人のインスピレーションで読むなんて馬鹿げた話です。
日本語訳聖書では、一語一語を詳しく吟味することはできません。

行間を読むのは、原典聖書の領域です。

日本語訳で行間を読みたいって言うのなら、
ティンダル注解書!w 必要ですほんとうに。
でも、高価です。

私も貧乏ですから、買い揃えることはできない。

[937] よしふみ 2009/01/11 11:06

>>936  続き

私が日本語訳聖書を読む場合。

だーっと2・3章読んで、それを一個としてとらえて、
キリストの十字架と復活を通して理解すると。
そういうやりかたで、やっています。

日本語訳聖書は一語一語の言葉を解釈することは困難だけど、
それでも”キリストの十字架と復活の重要メッセージ”はちゃんと
読み取ることができるので、
そういう読み方でやればいいと思います。

日本語訳聖書を読む場合は、
”キリストの十字架と復活”を念頭にざーっと全体的に読む。

[938] よしふみ 2009/01/11 11:19

日本語訳聖書から、
聖霊さまの声を聞くときは
”イエス・キリストの十字架と復活”を通して
読むことが絶対に必要。

[939] よしふみ 2009/01/11 11:25

日本語訳聖書を、
自分のインスピレーションでチマチマ読んでいくと、
武士道がどうのこうの、
宇宙人がどうのこうの、スサノオがどうのこうのって
って解釈になってくるwwww
妄想がどんどん膨れ上がってくるから注意。

[940] よしふみ 2009/01/11 11:59

疑問

キリストを信じてるわけでもなく、キリスト信仰に興味あるわけでもなく、だけど新約学、旧約学に詳しい人たちがいるってこと。

植木さんとか、Tさんとか、そうですよね。。
おらにはまったく理解できんです。

おらだったらキリスト信じてないんだったら、
聖書には興味もたないですよ、絶対。

植木さん、Tさん、
キリストに信頼してもないのに、
何でそんなに新約学、旧約学にくわしいんでしょうか??

田川建造の本のどこが面白いんでしょうか?
まったく理解できんです。

リベラルってりかいできんです。

信じてないんだったら、
聖書なんか関係ないじゃん。
聖書なんかほっといて、
外で遊んだほうが楽しいよ。

神様・イエス様を信じてるから、
神様・イエス様を信じることに関する本を読むんであって。

その聖書の根拠を問う学問を、
キリストを信じてない人がやることに
なんの意味があるんでしょうかwwwww

植木さん、Tさん、どうなんでしょう。

[941] 植木 2009/01/11 12:33

Tさんは本当に良く勉強されている様で、それが良き事に繋がります様にと願っています。
実は過ぎ越しの食事云々はなるべく避けたいと思っている箇所でしてそれは史実と言うよりも伝承側に多く傾くからです。
まず、ご指摘の10人程度での過ぎ越しの10人とは終わりと完成との意味を持ちます。十戒の10、指の10本、等です。

過ぎ越しの祭りは7日間続き普通に過ぎ越しの食事とは最初の夕から始まる食事を指します。そして最終日の7日目の火祭で閉じる行事です。
一連の行事の最後まではイエスは行えなかった。しかし、過ぎ越しの食事をしたのかどうかに付いてはしたとすればユダヤ的です。
体としてパンを裂くこと、ブドウ酒を血として飲む事は過ぎ越しの作法でありキリスト教に由来する事では無く過ぎこしに由来します。
同じく山上の垂訓もイエスのオリジナルでは有りません。次の過ぎ越しはエルサレム<天>でとは今のユダヤ人も言います。
ヨハネにそれらが欠ける事実が意味する事とは何であるのかを考えます。そしてイエスの弟子からまずユダを引いて、不信者トマス。
すると、弟子の数は10人となる事も注目されるべきだと思います。浮かび上がるキーワードはユダヤとの決別では無いでしょうか。

自ら過ぎ越しの生贄に成らねば成らなかったとすれば脛が折られない理由も解かります。祭りの主である神の体なるマッツオのイエスは
買い取られたとするのは当然でこの辺りも言及しない事からもユダヤを知っている者としてのヨハネ伝の特徴があります。

ギリシャ語だろうが、ヘブライであろうが、ラテンであろうが背景を探る力、よしふみさんの言う行間を読む力が必要と思います。
こう書くと何やらメシアニック・ジューの様相を呈していますが、宗教の根幹と成る重要な教えに付いて述べては居ません。
キリスト教様式の成立の土台となる背景に付いて私見を述べているだけでこれが信仰の躓きになる様でしたら無視して下さい。

[942] 植木 2009/01/11 12:52

イエスをキリストとするかどうかで聖書の価値がきまるので有りません。キリスト教の為だけに聖書があるのであれば
イエスをキリストと認める事は出来ません。もしそうであれば新約だけで運営している団体だけがキリスト教であり
そんな団体は確かに存在しますのでそれがキリスト教でよいのですか。

前にも書いた様に私はトマスを生きると決めて居ますのでそれが私の信仰ですので復活それ自体に興味は有りません。
その手、そのわき腹を自身で確認できればそれで良いだけです。モチロンそれを他の人に勧めて居ない事は理解して下さい。

[943] まるも 2009/01/11 13:03

よしふみさんが日本語訳書いて、ネットにのせてください。お願いします。

ところで十字架のイエス様に白ワインか赤ワインのビネガーを含ませたのがゾウキンと言ってる方がいましたが、日本の感覚でとらえないほうがいいですよ。日本料理でも、ちゃんとした料理人なら、魚をさばく前に酢で洗うし、まな板などにも酢をかけて手入れします。伝統ですから。
酢やお茶や檜、ヨモギなどには殺菌作用があり、酢はサルモネラ菌にもいくぶんの効果があるそうです。
向こうは乾燥してるので、汗すらその場で蒸発するので、頭から日光を通さない厚手の白い服を着ます。ウンチもすぐに水分が蒸発してからからになり、ポロポロに崩れて砂になる。すなわち、自然の便所すら無菌です。
日本の場合は、濡れた布はいつまでも濡れているし、厚手のゾウキンはいつまでも渇かないし汚れを吸い込んでいるので、ばい菌が繁殖します。

[944] 植木 2009/01/11 13:32

まるもさん残念ですが本当です。エグ味がありドス黒くしかも暫くは鼻に付くそんな代物です。布だと染まります。
雑巾の方が高価であるとの意は当時布を織る手間と海から拾ってくる手間を考えれば海から拾ってくる海綿の方が安上がり。
しかも、海綿は乾くと崩れるので常に水分に漬けたまま保管します。少し前の日本では常識であった海綿の保管方法です。
昔の役人は書類を綴じるこよりをちゃんと作れる事と切手、印紙に使用する海綿の水分調整をできるのが最低の常識でした。
ちなみに英語ではスポンジですが、自然からの物はナチュラル・スポンジと現在では使い分けます。

[945] T 2009/01/11 14:52

あぁ、ごめんなさい。聖書には詳しくないです。
読んだばかりの本を受け売りで語ってしまってます。

基本的に宗教に対してアンチでして、批判的なスタンスしか持ち合わせていません。
聖書についても否定的なスタンスから始まって、でも学者の説を読んでいくとどうも思っていたほど出鱈目でもないらしい、と思うようになりまして。
なので、書き込んでいるときにはどちらかというと、「聖書の記載は思ったより信用できる」と驚いて書いてる状態だったりします。
それでも、そもそも否定からスタートしてるので、懐疑的なスタンスでしかないですが。

あと、信仰上の問題からすれば、まったく意味ないことを探し回っているだけであることも自覚してます。
それは単にアホなんだと思ってください。
ほんとに外で遊ぶべきだなと思います。

---
もったいつけずに書いてしまいます。

過越しが10人程度で食べられたというのは、共感福音書で前提されていて。ヨハネで描かれる食事でも一致しています。
他にも過越しの食事の特徴が、ヨハネ福音書の食事のなかに見られます。
(当時の習慣より遅い夜の食事であること、横になって食事することなど)

おそらく、ヨハネ福音書は一日ズラして描いていると思われます。
一日ズラすことによって、過越しの小羊を屠る時刻と、イエスの十字架による死の時刻が一致します。小羊は過越しの前の午後に屠られるとのことです(「イエスの聖餐のことば」P122)。
イエスは真の過越しの小羊である。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ福 1:29)と紹介されています。
その骨は折ってはならない。(出エジプト 12:46、ヨハネ 19:34)
イエスを過越しの小羊にたとえることはパウロも用いていて古いものです。ヨハネはその理解を福音書にこめているのではないかということです。

>自ら過ぎ越しの生贄に成らねば成らなかった

つまり、おそらく、こちらの理解が妥当なものなのだとおもいます。さすがです。

たぶん、信者さんは読みこんでいるので直感で分かるのかも知れないですが、
僕は逆立ちしても思いつかない。

[946] よしふみ 2009/01/11 18:40

植木さん Tさん

そうですかぁ。
応援はしませんが、
でも自発的にそれをやってるところは
いいなあと思います。

我々キリスト者が聖書を読み込んでいるっていっても、
せいぜい新改訳・新共同訳などの日本語訳ですから、、。

特に福音派の一般信徒は、新約学の知識など皆無だと思います。
私も、植木さん・Tさんのような知識は持って無いです。

”神の権威”としての聖書の根拠を問い直す学問には、
まったく興味ない私達ですからねぇ。

[947] よしふみ 2009/01/11 19:01

兄弟姉妹よ。
日本語訳聖書だけで、
自分のインスピレーションで
妄想を膨らませて
読んでる兄弟姉妹。
それは、ほんまにいかんと思う。

兄弟姉妹よ。
新改訳というのは、
聖書を日本語で解釈しなおして
訳したものにすぎないって事を
知ってほしい。

究極的に言えば新改訳は
聖書ではなく、”解釈”のひとつにすぎない。

だから新改訳を読むときは、
注解書なしで
一語一語の言葉を吟味しながら
読むのは危険だからやめてほしい。

兄弟姉妹。
人が語る説教をうのみにしないでほしい。
僕が20年前に聞いていた説教と、
10年前に聞いていた説教と
今で聞かれる説教と、
それぞれ霊性はぜんぜん違う。
人の語ることは、
時代によって、
どんどん変わってしまう。

そんな牧師の語る
ころころ変わる教えなどに
絶対に振り回されないでほしい。

そんなもので振り回されて
人生を大なしにしてほしくない。

兄弟姉妹。
結局、”みことば”なんだけど
ほんとに読み方に注意してほしい。
聖霊様に聞くのはもちろんだが、

自分のインスピレーションと聖霊の声を
ごっちゃにしないためにも、

”イエス・キリストの十字架と復活”
ちゃんとこれを念頭において、
全体的に聖書の流れをつかんでほしい。

新改訳を、一語一語チマチマ読むのは、
あんまり意味ないですから。
これは牧師の説教のやり方です。
自分の主張を通したい牧師の説教のやり方です。
注意してください。

人の教えに振り回されないで、
安定した信仰生活を送ってください。

[948] 植木 2009/01/11 19:46

昔、地中から大きな大腿骨と思われる骨が出た。それは聖書にある巨人族の骨であるのではと更なる調査が行われた。
それが発展し考古学となるわけですが、骨が人の物で無かったからと言って信仰に影響を与えたわけでも無い。
学問が真理の探索から下りモデルビルダーとして位置にある気楽さが科学発展へと繋がって行った。
ここでのTさんとの会話は提唱モデルの有効、優位性であってモデルの妥当性を語っている。たしかに信仰云々の話では無いが
聖書にまつわる話であるのは確かです。信仰ならよしふみさんとスレ主さんが一番でしょうから。

[949] まるも 2009/01/11 22:26

よしふみさんが言うように勝手に解釈すると、テロとか戦争とかしかねないなと想えるほど、旧約聖書は激しいよね。でもそれは日本の記紀にも言える。仏教にも鬼子母神とかあるからね。
ヒンドゥーの神様も最近注目を浴びてきてる。他にも世界中の古代からの神様ってどんな信仰だったかっていうのが話題になってる。神代文字の頃、大和朝廷以前の日本とかも。
それらは心の原風景を知る上で助けになるから。

けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。
明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。
「眠っている人よ。目をさませ。
死者の中から起き上がれ。
そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」

それで、キリスト者に言いたいけど、苦い根というのは、偶像礼拝のことではないとまるもは思う。キリスト教も立派な偶像礼拝だからね。古代イスラエルの偶像礼拝はいけにえと食人を伴っていました。そのことについてはステパノもはっきり指摘しています。あなたがたはモロクの幕屋とロンパの神の星をかついでいた。使徒7-43より。苦い根とはこのことであります。キリスト者が苦い根として破壊しようとする仏教も神道は、全く彼らの知るところではなかった。本当に拡大解釈は恐ろしいですね。

[950] よしふみ 2009/01/12 00:26

>>949
お気に触るかもしれませんが、
言わせてもらいます。
私たち、キリスト者が信じてるのはキリストの神様だけであって、
”他に神様はない”としていますので。

そこからの偶像礼拝にたいするあれこれを考えてます。

”偶像礼拝の定義”から始まってないですから。

まず最初に”キリスト”。真の神。
彼以外に神は無い。
そこからスタートしていますから。

キリストの神、それ以外に神と呼ばれるものは偶像、という考え方です。

[951] よしふみ 2009/01/12 00:40

私個人のお話ですが。

私は、両親がクリスチャンで
小さいときからイエスさまの話を親から聞いてましたから。

私がクリスチャンになる前から、
イエスは神様なんだよって
そういうことを覚えてました。

だから、他の神様や仏様のことを知りたいってゆう欲求そのものが
ぜんぜんないんですよね。

いまでも、どんなに苦しいことがあろうが、
人生うまくいかなくなっても、
「他の神様や仏様のことを知ればうまくいくかな?」なんてことは
ぜんぜん思わないわけなんです、ほんとに。

実際に私は、現在、中年男性フリーター、結婚もせず、
風船のようにふわふわと落ち着かない生活を続けて、
ときどき自分のことがみじめになることがありますけど、
それでも”キリストだけ”ですからねぇ。

「キリストか、それとも仏陀か」なんて、比較したり、
統合して考えたりとか、
そんなことは私にとっては無意味だし。

キリスト以外に良い道はないかと戸惑ってる意味もないと思ってます。

もー、キリストだけ。

キリストだけです。

[952] まるも 2009/01/12 00:42

まるもは、聖書は解説書抜きで読むべきだと思う。解説書を読むと、その解説書の執筆者の考え方や人間性に大きく影響されてしまうからです。キリスト教は神と個々人との関係であって、神と団体との関係ではないはずです。
現在の日本のプロテスタント教会はほとんどアメリカ主導ですね。カトリックも含めて、彼らは隠れキリシタンを離れキリシタンとして見捨てましたが、果たして実際に神の前で離れキリシタンよりもキリスト者であると胸を張れるのかはなはだ疑問ですね。たいして変わらないのではないでしょうか。まず自分の目の中のはりを取る事が出来ないで、苦い根を除くために偶像を破壊する、つまり仏壇や神棚を壊すことばかりでは。他人の非難にはものすごく熱心だけど、謙譲の美徳がまったく見られない。
その点は、今はもういない隠れキリシタンの方が、はるかに立派でした。イスラエルの罪、すなわちいけにえの儀式とそれに伴う食人について、はっきりと教えていました。ステパノのように。いったい彼らのどこが離れキリシタンなのか、離れたのはどちらなのか。
キリスト教の聖書世界にある偶像礼拝は東はせいぜいアッシリアまでの範囲であり、バビロンの彼方など全く預り知らないことなのですから、改宗を促すにしても、聖書に書いてある偶像礼拝の罪だと強弁するのはおかしいです。元々アメリカ人は日本人に対して罪人意識を求めているので、宗教活動というより原爆を正当化する政治活動と受け取られてしまっては、信徒が集まらないのも当然です。まず日本人を愛してから、それから布教すべきでしょう。

[953] まるも 2009/01/12 01:09

サンタクロース、イースターエッグとうさぎ、南米のマリア、岩のキリスト、すべて土着の神との融合ではありませんか。日本人は仏教や神道とは切り離せないのです。長い歴史があるのですから。切り離せないなりのキリストの教えを求めていくべきであって、すべてを破壊して全く亡きものにしてしまおう、つまり聖絶は、キリストの教えだったのでしょうか。違います。全く違います。キリストの言葉を幾度も読み込めば、はっきり分かります。自分の目の中のはりを取り除けば、はっきりと見えるようになります。

[954] 2009/01/12 01:28

あきれて・・・追伸5

>>キリスト教も立派な偶像礼拝だからね。

非キリスト者がそのように思っているというのは知っています。

キリスト者の神はそもそも像ではありません。

なぜなら生きて私達と交わって下さる方だからです。

御子は旧い時代には顕現され、終りの時代には受肉されましたが、生きておられます。

キリスト者は何より万物の創造に御子が関与されていることを信じているのです。

先の箴言8章では顕現、ヨハネ伝1:3、ヘブル1;2 など

肉に属している人間は時間軸を超えることはできません。もちろん私達の肉も。

神は霊ですから時間軸の奴隷ではありません。時間軸をも創造された方ですので。

PS.追伸もこれくらいにしておきます。(笑)

[955] よしふみ 2009/01/12 01:39

>>954
耳さん、掲示板離れるんですね。
どうぞこれからの、
信仰生活、教会生活、守られますよう。

何かあればすぐに閉じるつもりのブログ
by よしふみ
『生活ダラダラしすぎで、困ってまんねん!』
http://zaulahbwou.blog79.fc2.com/blog-entry-47.html

[956] 2009/01/12 01:49

よしふみさん

離れるというか、もうすぐ終了でしょう?

クリックしておきます。

信仰生活は問題ありませんよ。

批評学の方々の博識には感心しているのですが、まあ私達には関係の無い世界ですからね。

掲示板をみて、ユダヤ教とキリスト教なんて書き込みを呼んで

困っているクリスチャンがいるならと思い、書き込んだだけです。

彼等から、返事が無かったでしょう? スレ主さんだけですよ、返事をくれたのは。

イエスキリスト、神の国、契約 この3本柱から外れた書き込みは、

どれほど学識に富んでいても・・・的外れですよ。

ではね。よしふみさんも、お元気で。

[957] 2009/01/12 01:50

呼んで⇒読んで です。(笑)

[958] 2009/01/12 01:53

アレフ ダレット メム クリスチャンはギリシア語じゃなくてもアダムと読みますよ。あはっ!

[959] 2009/01/12 02:20

イエスキリスト、神の国、契約 この3本柱から外れた『異邦人の』書き込みは、

どれほど学識に富んでいても・・・的外れですよ。

『異邦人の』を追加しておきます。

                   by.アブラハムの霊的子孫

[960] T 2009/01/12 02:31

初めて書き込んだ掲示板がザ掲示板で、以来ずっと楽しく利用させて頂きました。
最近はとくにネット依存症気味になってしまっていて、手厳しい批判を浴びて頭を冷やすべきだなぁと思っておりました。
耳学問派さんから的外れとのご批判はありがたく頂戴いたします。

よしふみさん、植木さん、まるもさん、耳学問派さん、ほかお相手頂いたみなさんありがとうございました。たいへん勉強になりました。
では、僕はこのあたりで失礼させて頂きます。

[961] 2009/01/12 02:37

Tさんも お元気で。私も失礼します。

おやすみなさい。

[962] まるも 2009/01/12 02:43

キリスト教が偶像礼拝だというのは、クリスチャンの方々自身がおっしゃってました。
キリスト、ユダヤ、イスラム以外の宗教には、偶像礼拝という概念すら存在していません。

[963] 2009/01/12 02:54

偶像というのは...本物を志向範囲に小さくすること全般を意味します。

キリスト者が陥り易いことですが、位牌をお作りになる時は気をつけて下さい。

意外と捨てにくいらしいですよ、経験者によると、ですが。

『悟りと救い』藤井圭子著 をお勧めします。では。

[964] 2009/01/12 02:55

志向⇒思考 もう・・・寝ます。ZZZzzzz

[965] まるも 2009/01/12 08:21

位牌を捨てさせる。神棚と仏壇をぶち壊す。墓参りや葬式に行かせない。

いったい、どこが、キリストの教えですかぁ〜?
まず、クリスチャンが自分達の家族と親類のお墓を全部破壊してから、そういうことを薦めたらどうでしょうか。

カトリックの方がまだマシですね。どのような宗教でもかまいません。イエス様の前で祈りたい方は、中に座ってお祈りください、とおっしゃってましたから。
プロテスタントの信徒さんからすると、偶像礼拝者でサタンの会衆に属してるらしいですが・・・。

[966] まるも 2009/01/12 08:33

位牌は絶対に捨ててはなりません!

位牌はお墓だからです。位牌は家主のものでもなんでもありません。死んだ人のものです。墓石は地震があれば壊れるし、土地の持ち主が変われば失われる。だから小さな木の板をお墓として、どこへでも行けるようにしてあるのです。

昔の方の魂が、死んだ後に自分のお墓が破壊されてると思ったら、どうしますか。あなたは、死者に説教して、クリスチャンに改宗させることができますか?

それができるのならかまいません。しかし、出来ないはずです。キリストは死んだ人の神ではなく、生きている人の神ですから。

死んだ人にも生きている人にも説教できるのは、死んで三日目によみがえられたイエス様以外にいないはずですが。

[967] まるも 2009/01/12 08:51

未開のジャングルに入って行き、おまえたちのものは全部ケガラワシイ、全部捨てて、おまえたちの存在のゆるしを請いなさい、と言ってる人を見掛けたら、あなたはどう思いますか。なんて傲慢なヤツだとは思わないでしょうか。

日本の文化も学ばず、何らの敬意も払わずに、日本人はクリスチャンになってくれないなどとホザクとは・・・!へそが茶を沸かす。
パウロの爪のアカでも飲みなさい。

[968] 2009/01/12 09:40

上記、お勧めの本は出家して仏門に帰依された方の、釈迦を最も尊敬しておられる方の本です。

先ずは読まれたし。それ以上は何も言っていませんぞ。まるもさん。

[969] 2009/01/12 09:51

http://yaplog.jp/stephan/archive/258

スクロールすれば、多少あらすじが分かるかも知れませんね。

では。

[970] 蒼雲 2009/01/12 09:59

耳さん、前の記述で「神は霊」であると書かれておりましたが
もう少し詳しく教えてくださいませんか。
よしふみさんが「聖霊、霊性」とおっしゃられていますが、
三位一体ということの意味でよろしいのでしょうか。

[971] まるも 2009/01/12 10:09

そこでパウロは、アレオパゴスの真中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。
私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、[知られない神に。]と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。
使徒の働き17章22、23節

[972] 蒼雲 2009/01/12 10:21

耳さんはもういらっしゃないかな。

>>963 意外と捨てにくいらしいですよ、経験者によると、ですが。

位牌はお寺に預かってもらうと良いと思いますよ。
もともとそういうものですから。

[973] 2009/01/12 10:23

蒼雲さんへ

即答が難しく、栄光のキリスト教会牧師川端先生の著書が良いと思います。(東大哲学科—トゥリニティー神学校)

『スッキリわかるキリスト教』だったと思います。

神は霊です。

原罪は霊的なものです。  など。

三位一体ということばは、実はぼくの所では使いません。悪しからず。

究極の幻的深みのあることばだと思います。もちろん霊のことです。

[974] 2009/01/12 10:28

私のところに86歳になる方が来られまして言われるには、
『位牌を6つ寺に預けて供養していただくお金が無いから死ねないんです。』ですって。

だから、作るときには十分気をつけて下さい。ということです。

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