「ここはどこ?わたしはだれ?」
>>446
いや、そういう言い方はおかしい。迷いがなくなり、苦しみがなくなるのではなしに、わたしたちは大きな悟りの世界の中でしっかりと迷い、どっぷりと苦しめばいいのです。迷いや苦しみをなくそうとするから、かえってわたしたちは迷いに迷い、苦しみに苦しむのです。そんな馬鹿なことを考えず、迷っているときはただ迷う、苦しいときはただ苦しむ。それこそが身心脱落にほかなりません。
道元は身心脱落して、悟りの世界に溶け込んだのです。道元の悟りというものはそういうものです。
わたしたちはついつい、これはいけないことだと知っていながら、でもこれぐらいのことはしてもいいだろう……と思ってしまいます。それは自分を甘やかしているのです。その背後には、自分は仏ではなしに凡夫なんだという気持ちがあります。しかし、自分が仏だと自覚すればどうでしょうか? もちろん、仏といっても、悟りの世界に飛び込んだばかりの新参の仏、赤ん坊の仏です。しかし、仏だという自覚があれば、〈自分は仏なんだから、こういうことはしてはいけない〉と考えて、悪から遠ざかることができます。それが、仏になるための修行ではなく、仏だからできる修行です。
道元はそういう結論に達したのです。
そうだとすれば、坐禅というものは、悟りを求める修行であってはならないのです。いや、そもそもわたしたちが何のために仏教を学ぶかといえば、
- 仏らしく生きるため -
です。その意味では、悟りを楽しみつつ人生を生きる。それがわれわれの仏教を学ぶ目的です。
ただひたすらに坐り抜く、眠り抜き、歩き抜く、その姿こそが仏なのです。仏になるための修行ではなしに、仏が修行しておられるのです。道元がたどり着いた結論はそのようなものでした。