ヤフーのトピでは宣伝してますが 新たなホライズンを求めて
ここにもトピを立てたく思いました 新しい哲学です
存在とは 人間とは エネルギーと性質とは 人間の行く先とは
について書いています ぜひ読んでください
存在性理論といいます 検索するとすぐ出ます(草馬由仁子の存在性理論)
http://www2u.biglobe.ne.jp/~yuniko37/
どうかよろしく!
①天上へと明ける明界
②暗黒な虚無の深淵の世界
③意識構造の自覚なしに日常に埋没している
今どの世界ですか?
内的行為の絶対的意識の無制約性は自己反省を伴う自由・・
世界内での主観性と客観性の両極性を持つ実存は倫理的宗教的行為としての自由がある・・
やはり単純では社会性が未熟なのでしょうか?
検索↓
社会が壊れる時 知性的であるとはどういうことか?
社会を壊さないためには、その複雑さに耐えなければなりません。 世界を理解するために、その複雑さに耐える力を身につけることこそが「知性的である」ということになるのです。 「知性」とは耐える力である。 摩擦の中にあってもじっと耐える・・
主観と客観を溶解させる運動が重要・・
単なる主観性のうちに孤立化したり(客観の身売り)
単なる客観の事物に充足する(主観の身売り)
このふたつは実存の危機である・・
検索は未熟である・・
『実存照明』という言葉を知らなければ
実存哲学の中の形而上学の神髄を見逃します・・
たった一つの言葉で大違い・・
自己存在の決意性は不動の根拠としての不滅性があるらしい・・
時間の長さと深さ・・
一瞬の永遠に刻まれる念・・不滅です・・
全体としては真の形象とならないで
むしろ真実に見えれば見えるほど一層分裂している所の
その上相対的な遠近法においてのみ客観視できる世界
例えば・・恒常的に存在するものが無となり消失するものが存在の現象となる・・
否定して肯定する弁証法・・(根源はあれかこれかではないのに)
外的な運命だけで無くその存在も他者と相互に絡み合うので
決意としての選択の根源において二者択一や間は存在しない。この根源の確信からはじめて、
もろもろの二者択一が決定されころころの問いが答えられる・・
もろもろの二者択一が決定され
もろもろの問いが答えられる
その根源は二者択一や間では無い・・
根源と違った仕方の選択や答え・・
まるで無意識が意識とは違っているみたいな・・
死んでからしか意識流の中に入れないみたいな
限界状況は飛躍の段階を経ます・・
その時、相互の関係を喪失したら飛躍の形態は逸脱します。
逸脱の例・・
知的な自己存在は局外者の頑固な主我主義となったり、
無関心性の非情で存在を持たない知になったりもあります。
ヤスパースさんの本から新しい発見がありません・・
一通り読んでしまったのです・・
私にぴったりの見解がズラッと書かれています・・
カントさんの実践的行為の立場を超えて
ヤスパースさんは伝統形而上学を研究される実存の立場です・・
永久に客観的な解決方法が無いので
その都その都度の解決方法しかない・・
世界は一断片のあつまり・・
時間は今という固体の集まりでは無い・・
時間は流れる流体だから・・
時間を超越した無時間制の次元がある・・
アインシュタインの相対性理論によると、宇宙には共通の現在が存在しないため、絶対的な時間も存在しません・・らしいです・・
時間は流体かなぁとかってに想像して申し訳ありません・・
流体にはニュートン流体と非ニュートン流体があるらしい・・
精神とは主観性と客観性の一体化であるが客観性の形態をとっている。
よって精神は完全な統一体では無い。
換言すれば完成されない統一体であり、
従って裂け目を持っている・・
時間の中では如何なる完結も、唯一つである所のものの内には存在しない。
早く流れたり浮いたり沈んだり
光の海を魂が泳ぐ・・
反抗と帰依の円環・・
両極端の一方に孤立化すれば空無性へと逸脱せざる負えない・・
この世をあるままに見てやろうという意地悪い反抗や空虚なニヒリズムに逸脱する・・
🥱
😲
諸現象・生命・意識内容が実体・死・無意識の中で消失しても
暗闇の中で無く対立の両側を超え出て存在自体へと超越する。
無意識の持つ豊満・・
心から精神への飛躍は対照的・・
心は体験として感覚、感動、衝動、欲求であり
精神は概観と計画を自由に遂行する、悟性と意志である・・
精神はその統一を創り出す実体として諸理念を持つ。
理念が恰も充実して終局的であるような時も
そこにはつねに瞬間的な誤謬が存在する。
理念の完成は単なる一つの階梯で自らを完結させる事は無い・・
キルケゴールさんとニーチェさん以後哲学者は何よりも先ず心理学者であるように見え、
ヘーゲルさんマルクスさんマックスウェバーさん以後哲学者は何よりも先ず社会学者であるように見える。
心理学と社会学は経験的個別科学という性格と実存開明的思惟(科学では無い)という性格の間で緊張する。
この緊張の中に創造性と空虚性が根ざしている・・
この緊張は今日の哲学的衝動が他のすべての諸科学より勝っていることの根拠である・・
対象的に思惟出来ずに現存在として探求されえず、体験として表象されえぬ絶対的意識は無のようである、それにもかかわらず絶対的意識は、実存そのものの最も深い内面を捉えるものである・・
否定的な不知、眩暈を起こす事を不安の中で肯定的なものとしてよみがえらせる。
没落の経験を通してこそ昴揚へとつきすすむ・・
この状況の中で前進しつつある者に対し、根源における運動は、良心の内に、弁別する基準と
決断への要請とをはっきり明白にする・・
絶対的意識の領域への、純粋意識の領域への絶対的還元という死の意識が
生が生として、死が死としてあるがままそのままに見えてくるらしい・・
根源的な意識構造全体の自覚・・死して成る(ゲーテさん言)・・
客観性を持つものは依然として一般的なものである。
そのものとしては客観性を持たない自己存在は、一般的なものの中に踏み入ることによって初めて存在するし、
普遍者と面する緊張を通して初めて自覚される。
どこまで自らを破壊すること無しに客観的なものの中に自己を組み入れることが出来るか・・
アリストテレスの第一哲学存在論の後は
個々の側面の孤立化とそこから発生する無際限の論証、片々たる教説への転化・・
要するに慰めの無い一種の実存的な紛糾である。
アリストテレス存在論の呪縛のもとを離れない・・
歴史的に一人の個別者にとって対象的言語において超越者の絶対的確信を
予言的形而上学は普遍妥当的な真理の言語として押し付けようとする・・
現象を存在から区別するところの真実の哲学の表現様式は可能な限り立ち現れるすべてを完全に注目する道を踏んでいる・・
無限の中に有限があり
時間を超えたものの中に時間がある・・
光の当たらない所で意識は流れている・・
実証主義と観念論は原理的には
一切のものを知ることが出来ると考える・・
単に客観的であるものは
単に主観的であるものと同様に
実存を喪失している・・
実存の主観性への身売り・実存の客観性への身売りは実存の破壊である・・
個人の各々の唯一の真理どうしは衝突する。
自身は他人の真理を現象としてみる・・
死について何事も知らない動物には限界状況は無い・・
終末についての悲しみが転じて実存の確信となる・・
現象と存在を区別する・・
真理か偽理か・・
万人に共通するものが果たして見当たるものかどうか・・
真理は一にして多
断片の根源は光の命・・
不安に抗する何らの客観的な保証もなくして、
もっぱら己の根源からして絶対的意識への道を探求する者は
哲学的に生きる者である。
そしてこの道についての合理的な開明の伝達がこの者にとっての哲学となる。
客観的な保証を確信する者は、宗教的に生きる者である。
この道からする合理的な開明は神学となる。
絶対的意識における実存の肉体であるにすぎない経験的なものが、
現存在として絶対的とみなされるならば
絶対的意識の深みは消失する。
人生を読み解く・・
神からの暗号を解読する(仕組みが解る)・・
言葉を手掛かりに思惟を超えたものを確信する・・
実存の緊張は強要の広さと共に増大する。
幼稚な状態においては無反省・・
より高い教養で実存が最も明晰な決意へと高まっていくための条件が横たわっている。
単に生きるだけで生きてゆきたいというのは盲目の生命欲である。単なる生命意志は現存在の制約としてどこまでも暗く、精神と無縁である。
生命意志は至る所同一で状況と時において内容に変化がある。
運命意志は歴史的であり、実存のための永遠の根拠である。
想像によって存在を観る目が自由となる・・
想像が無ければはてしない現実の現存在は
色あせた死者の国である。
ところが想像は、経験的な現実についての一切の単なる知に対して、一層深い真理を捉える・・
想像が実存の歴史的現在と出会わず
現存在の現実に刻印することが無ければ
まだ対象的現存在内で存在を追感するところの
遊戯にとどまっている・・
想像は自己満足的な存在としての形象や思想の世界内で満足している道を外れさせる生へと誘惑する。
実存の現象のうちには、つねに新たに起こる緊張が存している・・
可能的実存は誤った解決に対して警戒しつつ
それ自体で固定化する客観性の道と
決定的な主観性の道とを交互に試行する・・
いずれの道も孤立化することによって逸脱に陥る・・
主観的なものと客観的なものとの帰還の途上において根源を探求するため転回を行い緊張を解消しない・・
この緊張こそは、実存の相互作用において超越者への飛躍を果たす・・
客観の理念と主観の人格が一体化すること・・
主観と客観を程よく溶解させること・・
これ以外は主観と客観は暴走する・逸脱する・・
実存的自由と同様に因果律が妥当しない何ものかがある・・
因果的秩序の限界として認識される余地と
自由の実存的自覚とは
全く別のものである・・
身体が機能を失う死に於いて
意識流への物世界の写映は止み
その後意識流は物世界との関係の外に出た持続に移る・・
おかげさまです