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認識と存在の関係について

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[0] ひょう 2005/08/28 00:45

なぜ存在は認識なしに存在すると言えるのでしょうか?
はたまた、認識なしには存在は存在できないのでしょうか?

「認識」と「存在」の関係について皆さんの御意見を聞かせてください。

400件のコメント 351番から400番を表示中

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[351] 青葉 2008/07/05 00:06

読み返すと、変なことを書いてますね。
「幸せの条件」「賢くなるための四段階」というタイトルには、惹かれてしまう、ということを書きたかったのです。
ただ、内容はちょっと難解でした。自分の生活の中で、具体的にどうすればいいのか、つかめないです。

とりあえずは、ヨガもどきのストレッチ!

[352] ギムレット 2008/07/05 00:25

>>350 青葉さん。

 こんばんは。
 ぼくにとっては、ようやく1週間が終わりました。
 2日間、ゆっくり休めます。

 いまの勤め先では、そろそろ夏休みを取り始めた人がいます。
 いまからとってしまったら、このあと何を楽しみに7,8月を乗り切るんだろう、なんてよけいな心配をしてしまいます。

 いまの職場では夏休みは二日間。各人適当に選んで取ります。
 有給休暇をいっぱい持っている人は、1週間とか、10日間近くもとったりもします。

 バカンスの習慣のあるフランスなどでは、バカンスものの映画がけっこうあります。ジャック・タチの『ぼくの叔父さん』などはもうクラシック。エリック・ロメールの『緑の光線』『夏物語』などもバカンス映画の佳作だと思います。

 日本にはバカンスはないけれど、大島弓子さんのマンガ『毎日が夏休み』はよかった。映画化もされて、なかなか良い作品に仕上がっていました。マンガのファンも、がっかりせずにみられたのではないかな。

 「もし私たちが、忙しい暮らしのなかで一瞬一瞬の可能性を存分に使うことを身につけられたら、その大きく開けた視野によって、心に感じる喜びは大きくなり、仕事への熱意が増すことにびっくりするでしょう」(カルロスG・ヴァレス『私を生きる勇気』エンデルレ書店)。

 2週間くらい前に読んで、いまでも心に残っている一節です。
 どうしたら一瞬一瞬の可能性を存分に使うことを身につけられるのか。

 十全に在りたい、十二分に生きたい。

 中島みゆきさんは、女神になりたかった人のように思えます。

 憐れみと抵抗の女神。

 きっと、突き詰めて悟るなら、世界は憐れみだけのような気もします。個人的な予感。

 青葉さんも、青葉さんだけの“自己超越”に招かれているのだと思います。
 認識的な自己超越。
 道徳的な自己超越。
 愛の自己超越。

 驚いたり、「なんだろう」「なぜだろう」と問わずにはいられない心が大切みたい。

 疲れたら休むのがいちばん。
 どんな休み方がいまいちばんいいか、きっと体が知っています。
 週末、ゆっくり休めるのかな。

 一アトムでいいから、祈ることができますように。
 

[353] 青葉 2008/07/06 23:55

ひたすら眠った日曜日。
ひとりぼっちで、すべてから忘れられたような気持ちで、汗をかいて寝ました。

どうして人並みのことができないんだろう?
活力が湧かないんだろう?
何もする気にならず、ただ眠っていたい。

ところで、「人並み」って何?
公務員のボーナスの支給額を見て、考え込む。

とりあえず、仕事の面で一人前になりたい。
人に何かを教えられるぐらいになりたい。
お金は、必要な分だけでいいはずなのに、贅沢がしたくなる自分が悲しい。

[354] ギムレット 2008/07/12 19:34

 こんばんは。
 青葉さん、一週間、お疲れさま。

 ただただ疲れて眠っていたいとき、あるように思います。
 ぼくは、とくに月曜日の午前中は、ほんとうに疲れて、無気力で、体にも心にも力が入らず、静かに眠ってそのまま夢の国だか子供の国だかに逝きたくなったりします。

 しばしば思い出す聖書の一節
 「神に心を閉じてはならない」
 にならって、しきりに心を天に向けて開こうと試み、神さまにすがりながら、なんとか1週間をはじめ、乗り切っている現状です。

 先週、いちばんしばしば思い出された御言葉は
 「かれは弱った葦を折ることなく、くすぶる灯心を消すことがない」。
 イザヤ書の一節、僕の歌のはじめの部分だったと思います。

 昨日今日とニュースをちょっとだけにぎわしている某タレント・キャスター嬢。
 彼女だけではなく、自分のことをふりかえっても、人は(自分の事を人一般に一般化するのは間違いかもしれないけれど)嫌というほど、同じような過ちを繰り返す。
 誰のせいでもなく、自分自身の愚かさゆえに、過ちを犯し、みずからの責任で、弱った立場というか、弱った状況というか、みじめで情けない状況に追い込まれ、追い込む。

 そんな、自分の軽率さや、弱さや、愚かさゆえに、「いい気味」「ほらみろ」「ざまあない」といった状態に陥った人に対する、上から目線の自分のまなざしに気づくとき。

 自分自身の罪を知る恵みを片時も忘れることがなければ、とても恥ずかしくてできないような、人様に対する上から目線のまなざしにきづかされるとき、思い浮かぶ聖書の御言葉。

 「かれは弱った葦をおることなく
  くすぶる灯心を消すことがない」。

 ************

 神に心を閉じてはならない。
 真理そのものであり、光そのものである神。

 ************

 人の心は重層的で、きっと誰の心にも、どうしようもなく邪な層もあれば、聖なる層もあって、ちょっとしたミルフィーユ状態。

 ************

 心が気づく前に、体は神さまと旧知の仲。
 深呼吸。
 ストレッチ。
 一分間でいいから、凝りをほぐしてみてあげてはいかがでしょう。

 ************

 

[355] ギムレット 2008/07/12 19:34

 すさみの時。
 霊的暗夜。
 沙漠。

 あらためて出会うための、いちばん大切な恵みの時かもしれません。

 いつも、主の平和がありますように。
 平安な心で、ほんとうの自分を知る恵みが与えられますように。

 信仰の道は、とても地味で、とても地道で、派手なこと、大げさながない。

 おどろくほど地味に地道に、コツコツ、コツコツ。

 ************

 「やっていることに専念すること」。(『私を生きる勇気』p.131)

 仏門を志す者に極致に達するには、そうすればよいのかという質問を受けられた時、釈迦釈迦牟尼は答えられました。
 「歩くときには歩くことに専念し、立つときには立つことに専念し、座るときには座ることに専念し、横になるときには横になることに専念するがいい。見るときには一生懸命に見、手を伸ばすときには一生懸命に手を伸ばし、着物を着るときにはそのことだけをすることだ。同じように、食べるとき、飲むとき、咀嚼するとき、味わうとき、そのほかどんな行動をするときにも、自分のしていることが何かを完全に理解して、それを完全に行うがよい」。

 ************

 自分を生きる勇気。

 主が必要な忍耐と信・望・愛を恵まれますように。
 

[356] 青葉 2008/07/15 22:03

♪人の不幸を願うようにだけはなりたくないと思っていたが
 今夜 お前の幸せぶりが 風に追われる私の胸に痛すぎる♪(怜子)

♪世界じゅうがだれもかも偉い奴に思えてきて
 まるで自分ひとりだけがいらないような気がするとき♪(蕎麦屋)

最近、よくこの歌詞を思い出します。
どうして何をやってもダメなんだろう・・・・
他の人は、どうして簡単にこなせるんだろう・・・・

自分のことをさげずんで、責めて、責めて、痛めつけて、ひがんで、他の人を妬んで、勝手に落ち込んで・・・・・

我ながら、ため息が出ます。

疲れがたまっているのか、熱を出してしまいました。
とりあえず、寝なきゃ。バナナとエクレアが今日の晩御飯。
一人暮らしは身にしみます。

「怜子」みたいな恋愛に憧れますが、そんな他力本願ではダメですね。
でも、何か支えになるものがあれば、少しずつ変わっていけるのかもしれません。その支えは、自分で見つけなければいけないですね。
信仰というのは、そのためにあるんでしょうね。
それと、人生の伴侶というのは、「怜子」ほどでないにしても、よい方向に導いてくれて、大事にしてくれる人が理想ですね。

[357] ギムレット 2008/07/18 05:48

おつかれさまです。
青葉さん、その後体調はいかがですか。
ぼくの住んでいるアパートは、毎晩、室温が29度くらいあって、眠りが浅い気がします。

学生時代に合気道をしていたのだけれど、師範の先生が話していたことを思い出します。

その先生は、きっと合気道の歴史に名が残るようなすごい先生だったのだけれど、長いこと、「疲れる」という言葉の意味がわからなかったんだって。

「よくみんな『疲れる、疲れる』というけれど、わたしは40歳代になるまで、どんなに猛稽古をしても、疲れたことはなかった。40歳を過ぎてしばらくして、はじめて、『ああ、もしかしたらこれが疲れるってことなのかな・・・』と思うような体験をするようになった」。

ぼくは学生時代から、ちょっと稽古をするとすぐに疲れた。
だから、稽古のはじめから、手を抜いたりして、乏しい体力の温存を考えたりした。いまになってふりかえると、倒れてもいいから、全力でやればよかったようにも思えるけれど、まあ、なんていったらいいのやら、我ながらお粗末な稽古ぶり。

それでも、気のせいか、学生時代の疲れは、いまの疲れとは違ったみたい。なんだか、疲れまで年をとっていくような気がしてしまいます。心の問題もあるけれど、体も確実に年をとっていくんですよね。

[358] ギムレット 2008/07/18 05:58

その合気道の先生が話していて心に残ったことの一つは。
ぼくがならっていた当時、その先生は60歳を少しすぎたくらいだったのだけれど、何度かこんなことを言っていました。

学生時代のような若いころと違って、人間誰でも、年をとると、だんだんと体のあちらこちらに不調が出てくるものだ。これはどんなに武道で鍛えても、どんなに生活を節制してみても、そうなんだ。あちらこちらが痛くなったり、がたが来たり、病気をするようになる。

病気にならない体、どこにも痛みも不調もない体をつくろうと考えても、それは無理というものだ。大切なことは、そんな不調や衰えと、どう付き合っていくかだ。

病気に気づかないのはいけない。不調や痛みに気づかないのはいけない。無視してもいけない。ちゃんと気づいていて、正しく対処していて、しかもそんな病気や不調にとらわれない心。それをいかに保つかが大切なんだ。

「とらわれない心」。
これはその先生の合気道のキーワードでした。
合気道は動く瞑想、合気道は動く禅。
そんなふうに捉えていた先生にとって、その目的は、繊細に気づいていながら、とらわれない、自由自在な心をもつこと。なにごとにつけて。

きっと合気道の達人クラスになるような才能と身体能力にも恵まれた、40歳代になるまで疲れることも知らなかったような先生だからなおさら、また身体の調子に敏感にならざるをえないような武道家という道を日々歩んできたかただからなおさら、60歳をすぎたころまでには、体の衰え、というものについて、ご自身、いろいろ考えさせられるところがあって、だから、何度も学生たちにそんな話をされたのでしょう。

このごろようやく、そんな話を他人事としてではなく、思い出すようになりました。

[359] ギムレット 2008/07/18 06:23

ときには、熱を出すのは、なんとなく、善いことのような気がします。浄化の時間みたいな気がする。

 ************

 「怜子」は印象深い曲だけれど、そのまえにあったメロディーのない曲、というより詩の朗読も、同じくらい印象に残っています。とくに「うらやましくて、うらやましくて」というところ。

 「蕎麦屋」は、なんだか切ないような曲だと思います。
 心のなかに吹いている、心のすきま風。そんなすきま風をあれほどよく表現してくれている歌は。あんまりないんじゃないかな。

 心のなかのすきま風をとらえた歌に思えるけれど、それと同時に、あのやさしいメロディーは、「蕎麦屋」という歌に表現されたような心象風景を、つまり、そんなすきま風の吹く心(の状態)を、愛情をもってみつめた歌のようにも感じられます。

 みゆきさんは、怒りや、悲しみや、さみしさ、といった、ともすると否定的にばかりとらえられがちな感情の貴さを、直感的にしっていたような気がします。愛や、喜びといった、肯定的に捉えられる感情とともに、怒りも悲しみも、聖なるものであること。

 彼女が、自分自身のさみしさや悲しみを、あれほどまでにゆっくりじっくり観想しつづけたのは、そんな感情たちにたいするいたわりや、敬愛のようなものに支えられている。

 カトリック信徒からみれば、イエスさまも怒ったり、悲しんだりなさった。だれよりも深く孤独をかんじられもした。しつづけただろう。だから、悲しみも、孤独も、怒りも、イエスさまも体験された聖なる感情として、ゆっくり、じっくり観想してあげるべき対象になります。

 すきま風がヒューヒュー吹いているような、自分の心。
 切ない心。
 もしそんな自分の切なさをはっきりと見極めていられるなら、おなじようにさみしかったり切なかったりするだれかのそばにたまたまいたとき、自分の切なさと、相手の切なさとが結ばれて、互いに癒されたりもする。

 だれでも人は、自分が体験して乗り越えつづけてきた、あるいは忍耐しつづけてきたのと同じような苦しみに苦しむ人だけを、励ましたり癒したりすることができるのは、癒す力の源は「共感」であって、共感するとは、自分の切と相手の切とを結びつけるような作業だから、だとも思えます。

 共感。聖書に「憐れみぶかい人は幸いである。その人は憐れみを受ける」とあるとおりですね。きっと。

 青葉さんに必要な恵みが与えられるように、ロザリオを一環祈りました。

 忍耐しつづけるなら、かならず、ほんとうに喜べるようになると思います。もし心の暗夜、心の沙漠、すさみの時のなかで、青葉さんが青葉さんの神さまと出会うなら、苦しみすらも、愛おしんで抱きしめるすべを、少しずつ教えてもらえるようにも思います。

 「神に心を閉じてはならない」。

 最近つくづく思います。
 恥ずかしいほどひどい自分だから、だからこそ、「神さまへの憧れ」だけが唯一のまことの宝ものだと。天に心を開きつづけること。いいかえれば、絶え間ない回心。いつも新たな心で、神さまに憧れつづけること。そこから、力を得て、なんとか生きている感じです。

 ほんとうの自分を見いだすことと、神を見いだすこととは、同じ一つの道だと思います。ファイト。

[360] 青葉 2008/07/22 00:13

ギムレットさん、暑い連休はどんなふうに過ごされましたか?
私は、あまりに疲れていたので、家でゆっくり過ごしました。
熱は一日ですぐに下がったのですが、どうも調子の悪さを引きずっていて、「休むべき」と判断いたしました。とはいえ、どっちにしろ、めんどくさがりやで出不精な私は、家でごろごろするのは大好きなのですが・・・・。
ここ数日の私の落ち込みの原因の一つは、仕事に関係するものです。自分の不甲斐なさに、自分ですら、自分を見放したくなっていました。
ひどい自分を自覚しているのだから努力すればいいのに、思うように集中できない情けなさ・・・・。
相変わらず自己嫌悪ばかり感じています。

[361] 青葉 2008/07/22 00:33

でも、世の中には、人を傷つけても全く気づかずに「自分はいいことをした。」と信じて疑わない人もいるし、そんなに完璧な人間ばかりいるわけではない。なのに、自分については減点法で見て、「もう、終わりだ。」なんて考えるんだから、本当に馬鹿みたいだなと、ときどき開き直れるようになりました。

そういえば、♪世の中 ばかなのよ♪という歌もありましたね。

私の苦しさや哀しさや淋しさを理解してくれる人は、同じような経験をした人だけだろうと思います。中島みゆきさんや、神様ではなくて、身近に現実にそういう人がいて、励ましてくれれば、それはありがたいことでしょうね。誰かから、そんなふうに思ってもらえれば幸せだけど、今の私は、自分のことだけで精一杯。本当に、恥ずかしいです。いつか、誰かを励ましたり癒したりできるようになれますように。それまでは、自分を立て直すことに専念してもいいですか?
いや、それでは、単なるわがままな人間になってしまうのかな・・・・。

数ヶ月ぐらい前に読んだ雑誌で、50代ぐらいの美容家だったかのインタビューの記事があったのを思い出しました。「忙しくて無理を続けていたら、体がボロボロになってしまった。それから一日二時間ストレッチをするようにした。1年ぐらい経ったら、やっと元通りになった。」
二時間は無理でも、せめて3分でもヨガのポーズをしたいです。「時間がない」というのは言い訳ですね。自分に厳しくならなければ。それにしても、一日二時間もストレッチをしたら、そりゃ体質が変わりそうですね。

[362] ギムレット 2008/07/22 20:09

 蒸し暑い日がつづきます。

 とくに平日は朝から疲れてなんとなく足腰に力が入らない感じなのですが、そんなふうに疲れて感じるのは、夏バテ気味なのか、気合いが入っていない(前向きな気持ちで一瞬一瞬を大切に味わいながら生きることができていない)からなのか、歳をとったせいなのか、いろいろ入り交じっているのか、よくわかりません。

 それでも、自分の思いを手放して、心を天に開こうとするたびに、ちょっと元気になったりもします。

 仕事のときの自分が、こうありたいと思い願う自分とずいぶん違うみたいだけれど・・・。

 ぼくはいまの職場で働き始めてはや9か月。
 それでも相変わらず失敗やいたらないところは多いし、ときどき怒られる点では、職場や仕事内容に多少とも慣れはしたものの、あんまり進歩はしていません。

 入って半年くらいがいちばんつらかったかな。

 ぼくの知人に、ちょっとキャラクターが聖ジャンヌ・ダルクのような、ほんとうに気持ちのいい性格をした女性がいましてね。

 彼女はいろいろな仕事をしてきた。
 劇団にはいって裏方をやっていたこともあるし、ある有名な能の先生の秘書みたいなことをしていたこともあった。キリスト教関係の雑誌の編集者として長年思いっ切り活動もしていた。

 編集の仕事は念願の仕事だったみたいで、それでもその仕事に出合うまでには、数年間にもわたる失業状態も経験し、いろんなアルバイトをかけもちしたり、親戚の子守をしたりしながら、ほんとうに自分を生かせる仕事を探しつづけた。祈りのうちに。もう中年になってからの話。

 編集長の仕事をポーンと辞めて、またまた失業。
 やり尽くしたと思ったみたい。
 あと数年勤め上げれば、無事定年退職だったのに。

 ハローワークにも通い、飛び込みで求職活動もいっぱいして、やってみたいかな、って思えることは全部駄目だった。

 いま、ほんとうに自分の残りの人生を賭けたいとおもう仕事を発見したみたいだけれど、その仕事につくためには勉強が必要で、退職金やら、ためていた貯金やらをはたきながらの、数年間の学業生活をはじめたところ。知人たちから、余っている食糧の寄附を募ったりもして。

 もう数か月前、慣れない仕事がつらくて、逃げ出したいと思っていたころ、彼女に言われました。「いまお幾つでしたっけ? えっ、まだ40・・・ 若いうちはせいぜい苦労をしてくださいよぉ!!! 」

 ************

 ヨガ。
 おすすめを一つ。
 背筋を伸ばして2分間静座(考え事などしないでリラックス)。
 そのあと脱力して背中を丸めて1分間。
 3分間のヨガです。

 ************

 休みの日。
 大好きな一色海岸に行きました。
 最初にいったのは夏の終わり。
 2度目に行ったのは冬。
 いつもひっそりしていた海岸が大にぎわい。
 また夏の終わりか秋にでも行きたいです。

 ************

 青葉さんが望む生き方と、天主が青葉さんに望む生き方とが、交わらない平行線のようにみえても、じつはゆるやかな八の字を描いていて、いつか一致するといいなと思います。明日の朝ロザリオを一環、必要な恵みが与えられますように。恵みを恵みと気づいて抱きしめる恵みにも恵まれますように。

[363] PCXP 2008/07/27 00:29

存在するから認識できるのか、認識したから存在できたのか。

私が月を見ていないとき、月は確実に存在しているだろうか。

知覚とは認識とイコールで、幻覚すら存在を示せるだろうか。

認識は、存在に対してどのくらいの確証を示せるのだろうか。

存在を何処まで疑えば良いのだろう……ということについて。

[364] み学 2008/07/27 17:16

原子論者デモクリトスによれば
本当にあるものはアトムと空虚。しかし人間にはそれが色に見え
味に思える。
例えば赤い色は615〜750ナノメートルの波長の光だと学習しても
波長の光が見える訳なく赤い色だけが見える。
人間の思いは真実と乖離している。
真実とは人間より遥かに大きい。

[365] PCXP 2008/07/30 02:41

デモクリトス、彼は古代ギリシャにおいて原子論を語った哲学者でしたね。

つまらない話ですが、私は自分の見ているものは正しいのか、が不安になるから哲学という学問を齧ろうとした気がします。
思考を用いて、真実について探求(理解)しようとする試み。こんなことをする学問は他にありませんでした。

真実と人間の思いが食い違っているから、解けない疑問が生まれたの知れないですね。
いや、面白い意見を拝見させて戴きました。(少し酔っているのかもしれまry

[366] み学 2008/07/30 18:13

最初の学問は世界は何で出来ているのか?
みたいな感じから始まったと思います。
嘘でごまかすのは、文学や演劇でしょう。

[367] PCXP 2008/07/31 02:05

そうですね。文学や演劇にごまかしは必要ですが、それらが含むのは嘘では無いと思います。
誰もが食い違ってしまっただけで、正義の敵は異なる正義であっただけであると。
少し逸れますが、最初の疑問は生まれてきた誰もが思うことなのかも知れないですね。
その疑問に対する答えとして、神話をもってくるというのは欺瞞に満ちている感じは否めないですが……。
いや、答えようのなかった問いに対して欺瞞を感じてしまうことに、真実との距離を感じます。

[368] み学 2008/07/31 18:27

文学で本物のたましいに触れることは、あまりなくなりました。
ちっぽけな私小説の三文小説に人間性の真実をを感じません。

[369] 2008/08/28 08:19

認識は存在の結果だから。つまり存在なくして認識はありえないから。いえば因果

[370] 2008/08/28 08:29

たとえ月を見ていたとしても、その月はそんざいしているのだろうか?我々が見ている星は、過去の星の姿。月があると認識するのは
月の光が目に届き、神経を通って脳に達したとき。
認識するまで時間的差が生じる。
言えば、我々が目にする世界は、過去の産物と言える。
認識は過去を映し出す。

[371] こりこり 2008/08/28 10:18

存在するものは、存在するものとして認識されているあいだは「存在している」のではないでしょうか?

現在この瞬間を語ることはできない。
語っている間に「現在だったもの」はどんどん「過去になっていく」からであります。
しかし。
語られたものは、やはり「現在」なのであります。

[372] 2008/09/01 20:06

存在するものは、存在するものとして認識された瞬間、それは存在しているものと切り離されます。というのは認識されたものは存在するものとは何の関係もありません。認識されたものは自我が作り出した仮想のイメージにすぎません。語られたものは、現在(今)が作り出した「過去」なのです。現在の産物が語られたもの

[373] み学 2008/09/02 18:09

存在は変化しながらも本質を残し継続して形を変え存在し続けている。

[374] Lonergan懐かし 2008/09/02 18:13

すあまさん、Lonerganの研究の様子はいかがですか。

[375] あい 2008/09/04 20:45

スレ主の言う存在ってのは五官を含むものだったんだね

[376] Mr.K 2008/09/06 03:28

まったくもって「あ」さんの372に集約されます。

脳と外部との作用により、瞬間的に「認識」されますが、持続的ではありません。また脳と外部とは、直接的な繋がりもありません。

脳の外部の物理的な存在(物体など)とは異なり、「認識」は外部からの刺激を受けて、自己が作り出した一瞬の「出来事」と見做すことができます。

[377] み学 2008/09/06 19:07

認識は認識にしか過ぎませんが
本質はそれ(認識)と接触することがある時が来るものでは?

[378] Mr.K 2008/09/06 20:54

>「本質はそれ(認識)と接触することがある時が来るものでは?



う〜ん、「本質」とはどういうことでしょうか?対象は「何で」、「どのような観点から」その本質をみるのでしょうか?

また、「ある時が来る」というのは、時間的将来事象という意味でしょうか?それとも自然科学でによるものでしょうか?それとも業によるものでしょうか?

それによってだいぶ話が変わります。

[379] み学 2008/09/07 08:27

変化していく物の中で
本質だけは変わらないものでしょう?
たましいには、本質があると思いませんか?

[380] Mr.K 2008/09/08 21:38

つまり、こういうことですか?「魂」=「認識」≠「物の存在」ということですか?それは、どうですかねぇ。物が変化すると、魂も変わるのではないでしょうか?

簡単に言いますと。例えば、階段からこけて骨折(物理的損傷)すれば「魂」も変化します。入院すれば、魂(気持ち)も滅入ります。最後には、寿命とともに「魂」は作動しなくなりますが・・・。「魂」が再び作動すれば、それは「ゾンビ」か「冷凍人間」です。

脈絡なく「本質」やら「たましい」などの事象がポンポンと入ってくるのは、「宗教」構成上の問題であり、話を複雑にします。仮に、「入院しても変わらず平気でいることが本質である」とするならば、それは単なる「我慢(修行)」です。そして、そこには「禅的な宗教観がすべてだ」ということが観察できます。(「禅」を否定している訳ではありません、誤解のないように。「禅」を語るのであれば、煙にまかずに、相手に判りやすいような説明が要ります。)

実存の問題と実存に入るバーチャルを分けて話します。「認識」自体は、瞬間的にリアルです。ただ、単発的なものです。それが経験として蓄積され、連鎖するだけです。つまり魂(思考・意識や心)は「脳」を外部環境として存在しておりますので、人間の多彩な機能が落ちていくとともに、魂(思考・意識や心)も変化します。
「宗教」はそうしたリアルにバーチャルを巧みに織り込む技術であるということです。もちろん、「宗教」の社会的意義もそこにあるわけです。

[381] み学 2008/09/09 16:57

例えばです。本質とは?
水は丸い器に丸く、四角の器に四角に・・。
石はどのような形にも削られます。本質は石です。

このように形は変わろうと質は変わらないと思います。

魂もまた何処か環境に適応して言葉遣いも変わろうとも根柢の心は同じと思います。

[382] Mr.K 2008/09/09 20:41

>>382 有難うございます。ただ、主語と述語を明確にして語ってくらさい。かなり意味不明です。

要は、「水や石がどんなカタチを採ろうと、水は水、石は石、でありそれは変わらない、魂もまた水や石と同じ」ということでよろしいのですか?

しかしながら、それではおかしいでしょう!?

�第一に、「石や水」と「心・魂」が同じにたとえられますか?

申し訳ないけど、それこそ、「本質」を大きく捕らえ損ねているかと思われます!前者は「物体」、後者は「生物」を根源とするものですよ?「石や水」自身の「心」があなたには聞こえますか?
「生物(他人)」の「心」さえも聞こえないでしょう?もし聞こえるのであれば、それはヒューマニズム的に言うと「配慮」であったりするわけで、それもあなたの過去の体験のフラッシュバックに過ぎません。

マンガのように直接他人の「心」の声が聞こえるようになれば、「世界」は間違いなく滅びるでしょう。大混乱です。しかも、それが未来永劫変わらないことが知覚できるのであれば、ノイローゼになってしまいますがね。。。人類誕生から現在に至るまでの人の魂が常に聞こえてきますか?現在、タンザニアの○○○○さんの魂が、そしてそれが変わらないのが知覚できますか?

�第二に、石や水と魂を一緒にしたため、「物理的事実」と「心的な出来事」とを混同されております。物理的事の観察は比較的簡単なんですがね。物理的観察からすれば「質」が変わることは、「人の心」を配慮するより、比較的わかりやすいじゃないですか。「水」も一日ためておくと変質して腐りますよ?最後は、環境に適応できなくなり、最後には「水」と呼べなくなる「質」になりますがね。

�無理やり「「水」は氷になっても「水」である」とレトリックされても上記��の観点から、困りますけどね。「水分」は固まった時点で、変質してますからね。冷たくなります、硬くなります。「魂」で説明するとこうなります。「魂」も心的システムが作動して、人間の「行動」等に変換されます。しかも、その「行動」もその時に消えてしまうじゃないですか?氷も量的・質的に、正確にもとの水に戻そうと思えば、相当のコストがかかるでしょう。(コストてお金だけと違うよ。)

なので、せいぜいDVDとかで採っておいて、お楽しみ下さい。。水とか石とか、例に挙げるから、よけいにわかりにくいっすよ。あなたの言う「変わらないということ」は、せいぜい「化学反応しにくい」ということしか示していないですよ?

�「環境に適応して言葉遣いが変わっても心は変わらない」て言われても。。それは、あなたが、あなたの中で勝手に想像しただけであって。別に外部環境に対応して、言葉遣いを変えない場合もありますがね・・・そのとき「魂」が荒れてるときもありますが?これはどう説明されますか?

と、いうか・・・私には、み学さんの発言自体に一貫した「魂」が感じられません。。。

[383] み学 2008/09/09 20:48

>>382
たましいの正体をご存知なのでしょうか?
魂を感じない?
内向的なあたしのたましいの性質でなく外見を見てそう思われたのでしょう?

例えば人形のように座しているだけの時の魂が解らないように?

[384] Mr.K 2008/09/09 21:11

座っているときにはたましいはないのですか?
「たましい」たるや何かを知りません。
お教えければと思ったのですが、すいませんが、何一つ会話が成立しておりませんので。
私は、あなたの何も知りません、故。
申し訳ありませんが。。

[385] che 2008/09/09 21:46

まあ、それにしても・・・
み学という人は、相変わらず「たましい」という言葉の大安売りだなぁ・・・。
実際は、おそらく空売りというべきだろうけど・・・・

安い魂・・・・空虚な魂・・・・

「たましい」という言葉を乱用するほど、周囲にとって、(結局は、本人にとってもだが・・・・)その人物の魂が安く軽薄なものになっていくという生きる見本。

[386] Mr.K 2008/09/10 00:14

>>385  Cheさん! どう思われますか?

まぁ、み学さんのレトリック(はぐらかし)に私が付き合っただけでしょう。バカにされた感はありますが・・・。こんなところで油売るな、ということもありますが、まぁまぁ。。

み学さんの話で理解したことは、「言葉は状況で変わるものだが、それは単に装いであって、「心(魂)」は永久に一定である。つまり、たとえ骨が折れても痛いというのは口から勝手に言葉が出たもので、「心(魂)」はそれ関して無関心で一定である。しかし、その「心(魂)」が何であるか、そういっている自分にもわからない。」

でも、み学さんのこの説明はすでに破綻してるんですね。この説明は、もともと解らないものに解説を加えていってるわけで・・・。

まぁ、「自給自足」の原理を説いてるととも見做せるわけですよね?
要は、外部から完全に閉ざして、外部からの影響をアテにしないわけです。「自給自足」で自己を成立させようとする(実際、成立するかアヤシイですが)観点から、「修行」系の思考かなぁと一瞬思ったですけどね。「魂を知らないのか!?」とこちらへ詰め寄るところからすれば「祈り」系かなぁとも思ったのですが(笑)

まあ、どうでもいいですけどね。うん、まぁ・・・なんとも・・・

[387] み学 2008/09/10 05:24

幼児達は、下ネタ系は教えずとも一度で理解しているのに
お勉強系は百回言っても理解しないみたいな・・
こういう経験は多いです。

[388] 禅問答 2008/09/10 07:52

月は我々が見ているからこそ存在している。
いや、人間が見ていようといまいと月は存在する。
インドの大哲学者とアインシュタインの論争です。
僕は後者を支持します。

[389] ふくろう 2008/09/10 09:03

>>386

Mr.Kさん、
横レス失礼します。

み学(旧HNはてな)さんの言説について、私は先日別スレで考察しました。
あなたの述べられた具体的問題とは異なり、より一般的な見地から論じたもので、直接的には関係しませんが、ひょっとすると面白く感じていただけるのではないかと思って一応お知らせします。

http://philosophy.bbs.thebbs.jp/1200308058/274-284

内容は除くとしても、長すぎるのが最大の欠点ですので、お嫌じゃなければ…どうぞm(_ _)m

[390] Mr.K 2008/09/10 15:35

>>389  「ふくろうさん」、全くです。すべて熟読する時間がないので、誤解があれば申し訳ないですが。「ふくろうさん」の観察を私がいうとこうなります。

�ふくろう氏による「み学さんと批判者の哲学観がまったく異なる」という観察。
⇒み学さんの話は、哲学ではありません。現実の会話に、「バーチャルな前提」を巧みに織り込む手法です。この世界にはまれば、現実に何が起ころうと、「バーチャルな前提」にだけ向き合っていれば自己の満足は得られます。つまり、これは「哲学」ではなくて「宗教」によくみられる手法です。

�ふくろう氏による「批判者はそのことを理解していない」という観察。
⇒「宗教」をとる場合、当然ながら、通常の会話は成立しません。この場合、始皇帝のような会話形式になります。つまり「鹿の絵」を見て、一人で「あれ馬やろ?馬やろ?馬ていえや!」とみんなに投げかけます。これを「洗脳」といいます。社会的過程を通していない場合、現実と乖離する危険性が生じます。

�ふくろう氏による「ゆえに批判者の批判は、み学さんの哲学観が自分たちのものと同じであるという大前提のもとでなされたものである」という観察。
⇒閉鎖的で「自己充足(注意すべきは「自律」ではない)」的な場合、多くの場合「大前提」は不明です。正確にいうと、「自己充足」を追求すると、「自己の無限な欲望の世界に漂い、それが実現不能であることを知り、苦難します」。

� ふくろう氏による「しかしみ学さんはその前提を共有していないため、み学さんにとって批判がまったく本来の意味をなしていない」という観察。
⇒自己充足的な人にとっては、本来の意味や、社会的な意味は必要ないんです。正確には「必要ないと思いたい」わけです。しかし「自己の無限な欲望が実現不能であることを知り、苦難する」と、それを乗り越えるために「自己充足を若干ゆるめて、外部から自己の欲望を満たす部分だけを取得」することになります。具体的にいうと、人間はいくら外部から遮断しようと思って大言をほざいても、「飯」というエネルギーのインプットを必要としますので、いずれ食わねば腹が減って生存不能に陥ります、そこで飯を外部から取得します。
しかし、それでは自己矛盾しますので、その後、「自己充足をゆるめた自分の行為を正当化するという手法」を用います。つまり、後で「それでも自己充足的である理屈」をコネます。「自己充足的であると理屈をコネる」ときに「訳のわからないバーチャルな前提」や「権威」が出てきます。

�−�の回帰性(循環)を保持することは、現実逃避の仕組みなわけですね。簡単に言えば、現実(リアル)から完全に離脱してバーチャルになんです。「現実を無視しよう、無視しよう」と頑張っちゃっている訳なんです。そこで、その「心」の支えにするために、有名な哲学の用語を借りたりするわけなんですよね。残念ながら、著名な学者でもそのような手法を採る場合がありますが、それを「引用」し、かつその「引用方法」が間違っているとですね、意味不明な文脈をバラ撒くことにるわけなんですね。こうなってくると、「宗教」の救済機能も無効化しますよね!?もはや、原始時代の「呪術」のレベルになる訳です。

[391] み学 2008/09/10 18:17

例えるなら現実とバーチャルは洋服の裏と表でしょう。
単刀直入
魂とは何ですか?

パラリンピックを見て本質の魂を感じました。

[392] che 2008/09/10 20:13

>>386

今までレスを見てきた上での、み学という人の思想原理に関する個人的な考察と印象。

まず、西洋神学的な二元論、陰陽思想的な二元論、女性優位を妄信的に信じる極端に偏向的なフェミニズムというのが思想の潮流として見て取れる。

具体的には・・・・

善⇔悪
非好戦的⇔好戦的
女性⇔男性
植物⇔動物
成熟⇔幼稚
やさしい⇔無関心・厳しい

というもので、自分は常に前者である(批判者や指摘者は後者である)という主張がよくなされる。
これらが彼女の思想の根幹であるのは(おそらく)確かだが、この単純で軽薄な思想原理にも関らず、時に思想に矛盾した発言や失言・言動を繰り返すのは、その思想自体が実に短絡的で軽薄だということにももちろん起因するが、それ以上に彼女自身がこの短絡的な思想原理をすら、十分に理解・統制できていないことに起因しているように思われる。

レスの内容に関しては、どれも既成の言説の部分的引用といったレベルであり、しかも個人においての思想として十分に咀嚼されていないため、他者に矛盾・異見を追求されるとすぐに破綻をきたす。
破綻以降は、思考逃避として恣意的、且つ、無意味で、言語的に不明瞭な発言を繰り返すのみであり、このときによく用いられるのが、先述の自分は女性・植物・非好戦的であるという主張であり、それに付随する形で「たましい」という言葉が登場することが多い。
だが、この「たましい」という言葉に対する自身の定義も明確に打ち出さないため(おそらく持ち合わせていないため)、結局は批判に対する弾除け・煙幕として「たましい」という言葉を乱用しているに過ぎないと思われる。(魂の安売り、空虚な魂・・・)

以上が、み学という人に対しての私見です。
ま、簡単に言えば・・・・

偏った思想・宗教への「狂信者」
哲学的・思想的「破綻者」

といったところが妥当なところでしょう。

[393] み学 2008/09/10 20:23

どうして男の子はうちにキックしてくるのだろう?

女の子は可愛いお姉さん(お世辞)とか持ち上げてくれるのに。

うちの何を知っていると言うのだろう。
推理と分析が妄想入ってますよ。

cheさんは、人格攻撃をして、まったく哲学への応答が無くなってしまいました。

[394] しろうと 2008/09/10 21:18

>>392

ず、ず、ずばり。

[395] Mr.K 2008/09/11 16:49

392>>cheさん、有難う

なるほど。(過去のやりとりは知りませんが)極めて明快で解りやすい説明です。み学さんも見習うべきです。

>「思考逃避として恣意的、且つ、無意味で、言語的に不明瞭な発言を繰り返すのみであり」・・・・「弾除け・煙幕として「たましい」という言葉を乱用」=(魂の安売り、空虚な魂)

全く同感です。

391>>み学さん
「たましい」とは、み学さんが使った言葉であり、こちらでは「解りません」。従って、み学さんご自身で「たましい」の「内容」とその「理由」を説明される必要があります。それができないのに「たましい」を連呼するのであれば、理論上「人をバカにした行為」「不誠実な行為」と見做される可能性を「理解」できませんか?

Che氏が指摘している「二元性」「二質コード」は、実は重要なキーワードです。まずは、「推理と分析が妄想入ってますよ」とおっしゃった「理由」を、ご自分で、説明されてはいかがですか?

ていうか、た、た、多忙になってきたので去りまする。。

[396] み学 2008/09/11 18:38

ソクラテスが

我々の魂は
実は生まれる前にも存在していて
信だ後にも存在している。
我々のこの魂は
何度となく生まれ変わってきたものだから
すべてのことを見てもいるし
知り尽くしている。
一見知らないようなことも忘れているだけであり
思い出せるだろう。
それを我々は学習と言うが
実際はただ思い出すことに他ならない。

なんとなく上の言葉が納得のいくこの頃。

[397] リズム 2008/10/09 00:21

ギムレットさんは、まだこのスレを見てくれているんでしょうか?

[398] ギムレット 2008/10/13 17:55

リズムさん、こんにちは。
見てます。
3連休は、風邪気味で、ひたすらゴロゴロしていました。
少しだけよくなったかな。
お元気ですか?

[399] SumioBaba 2014/05/20 13:41 Zp/tFOEzb6i

私は量子力学の哲学的解釈として「多世界解釈」を支持しますので、この立場で「認識」と「存在」との関係を説明します。結論は、こうです。
    「認識する」と「存在する」とは互いに必要十分な関係にある。・・・(*)
 二重スリット干渉縞実験で、1個の光子が左右どちらのスリットを通ったか観測していない場合。左のスリットを通った世界をWl、そこに居る自分を「自分l」とし、右のスリットを通った世界をWr、そこに居る自分を「自分r」とすると、「自分l」=「自分r」=「どちらのスリットを通ったか知らない自分」であるため、嫌でも「自分l」+「自分r」すなわちWl+Wrという重ね合わせの視点に立ってしまい、1個の光子は左右両方のスリットを同時に通ったかのように干渉を起こします。この時「自分」=「自分l」+「自分r」にとって、世界WlとWrはともに、確率1/2で「存在する」であると同時に、確率1/2で「存在しない」です。
 左右どちらのスリットを通ったかを観測した場合。「自分l」=「左のスリットを通ったことを知っている自分」、「自分r」=「右のスリットを通ったことを知っている自分」、すなわち「自分l」≠「自分r」となり、両者は矛盾して片方の視点にしか立てなくなるため、1個の光子は干渉を起こさなくなり、「自分l」にとってはWl+Wr→Wl、「自分r」にとってはWl+Wr→Wr、という波動関数の収縮が起こります。では、世界WlとWrとは「存在する」のか、「存在しない」のか、とちらでしょう? もちろんこうです。
    「自分l」にとっては、Wlは「存在する」、Wrは「存在しない」。
    「自分r」にとっては、Wlは「存在しない」、Wrは「存在する」。
「自分l」はWlを「認識する」がゆえに、「自分l」にとってWlは「存在する」です。つまり、
    「認識する」→「存在する」               ・・・(1)
一方「自分r」はWlを「認識しない」ので、「自分r」にとってWlは「存在しない」です。つまり、
    「認識しない」→「存在しない」             ・・・(2)
(2)の対偶を取って、
    「存在する」→「認識する」               ・・・(3)
(1)と(3)より、(*)が結論されます。

[400] 似非右翼オビツ 2019/12/10 17:13 v2/5usClWEx

舟橋市中山

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