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仏教について

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[0] pipit 2020/09/29 20:34 I2/tgpOc4Sf

仏教についてのスレッドです。
よろしくお願いします。

343件のコメント 294番から343番を表示中

最初から 前の100件 全部 最新20件 dat viwedatをダウンロード
[294] pipit 2021/01/06 22:59 JV/tgpOc4Sf

>>293
(パーリ語)
Abhijjhā ca vihesā ca cittamassūpahaññati

♪ あびっじゃー ちゃ びぃへーさ ちゃ
ちったまっさうぱはんてぃ ♪

あびっじゃー
貪欲

ちゃ


びぃへーさ
悩害

ちゃ


ちった


あっさ
これの

うぱはんてぃ
害する、破壊する

[295] pipit 2021/01/07 07:25 JV/tgpOc4Sf

>>294
Bhikkhu Sujato さまの英訳
「The mind is damaged
by covetousness and cruelty. 」
https://suttacentral.net/sn35.95/en/sujato

[296] pipit 2021/01/07 18:48 JV/tgpOc4Sf

>>293 続き
(パーリ語)
Evaṃ ācinato dukkhaṃ ārā nibbāṇaṃ vuccati.

https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sltp/SN_IV_utf8.html#pts.072
========
(Thanissaro Bhikkhuさまの英訳)
Thus amassing stress,
one is said to be far from Unbinding.

https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sn/sn35/sn35.095.than.html
========
(Maurice O'Connell Walsheさまの英訳)
Heaping up his store of pain and woe:
Thus for him Nibbaana's far away.

https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sn/sn35/sn35.095.wlsh.html
========
(莊春江さまの中国語訳)
這樣累積著苦,涅槃被說為在遠方。

https://suttacentral.net/sn35.95/zh/zhuang
========
(光明寺住職さまによるサイト【光明寺経蔵】に日本語訳があります。著作権侵害になるといけないので、アドレス情報を貼るにとどめます。(^人^))
https://komyojikyozo.web.fc2.com/
相応部>六処篇>六処相応>六品・の2番目「マールキャプッタ経(SN35-95)」
Māluṅkyaputtasuttaṃ

[297] pipit 2021/01/07 20:32 JV/tgpOc4Sf

>>296
(パーリ語)
Evaṃ ācinato dukkhaṃ ārā nibbāṇaṃ vuccati.

♪ えーわん あーちなと どぅっかん あーらーにっばーなん うっちゃてぃ ♪

えーわん
このように

あーちなと
積む

どぅっか


あーらー
遠く

にっばーなん
涅槃

うっちゃてぃ
言われる

Bhikkhu Sujato さまの英訳
「Heaping up suffering like this,
you’re said to be far from extinguishment.」
https://suttacentral.net/sn35.95/en/sujato

[298] pipit 2021/01/07 21:12 JV/tgpOc4Sf

偈の部分の復習。日本語訳はpipitなので間違えてたらすみませんm(_ _)m

♪Rūpaṃ disvā sati muṭṭhā piyanimittaṃ manasi karoto
♪Sārattacitto vedeti tañca ajjhesāya tiṭṭhati.
♪ Tassa vaḍḍhanti vedanā anekā rūpasambhavā
♪Abhijjhā ca vihesā ca cittamassūpahaññati
♪Evaṃ ācinato dukkhaṃ ārā nibbāṇaṃ vuccati.

♪ るーぱん でぃさわー さてぃー むった〜 ぴやんにみったん まなーしかろーと〜
♪ さーらった・ちっとー ゔぇーでーてぃ たんちゃ あっじょさーや てぃったてぃ 
♪ たっさ わっだんてぃ ゔぇーだなー あねーかー るーぱさんばわー
♪ あびっじゃー ちゃ びぃへーさ ちゃ
ちったまっさうぱはんてぃ 
♪ えーわん あーちなと どぅっかん あーらーにっばーなん うっちゃてぃ 

♪色を見て サティ忘れる
愛らしい相に 作意する
♪執着した心で 感受して
そこに 固執して 住する
♪そして受(ヴェーダナー)が増大する
数多の色(ルーパ)から
♪貪欲と害意とが 
その心を破壊する
♪このように 苦が積まれ
涅槃は遠い と言われる

[299] pipit 2021/01/07 21:13 JV/tgpOc4Sf

>>298
Bhikkhu Sujato さまの英訳
https://suttacentral.net/sn35.95/en/sujato

‘When you see a sight, mindfulness is lost
as attention latches on a pleasant feature.
Experiencing it with a mind full of desire, you keep clinging to it.
Many feelings grow
arising from sights.
The mind is damaged
by covetousness and cruelty.
Heaping up suffering like this,
you’re said to be far from extinguishment.

[300] 清水アキラ 2021/01/07 22:43 ザ-000,025,321号

300👲🏻

[301] pipit 2021/01/07 23:25 JV/tgpOc4Sf

🐼 熊猫

[302] pipit 2021/01/08 21:34 JV/tgpOc4Sf

コトバンクさん、より、六識の説明をコピペさせてもらいます。
『六識
(読み)ろくしき
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
仏教用語。6種類の識をいう。大乗仏教も部派仏教も,基本的にはともに6種類の識を提唱する。それらは眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識であり,それぞれ眼,耳,鼻,舌,身,意の6種の認識器官に依存して,それぞれ色 (形をもった物質) ,声,香,味,触,法 (考えられる対象) を認識する。』








で、

色形

香り

感触(熱などもかな?)
意識内容

を認識する。人間の認識って、これで一応全部かな??

見られたもの
聞かれたもの
嗅がれたもの
味わられたもの
触れ感じられたもの
思われたもの

[303] pipit 2021/01/08 21:54 JV/tgpOc4Sf

>>298
今、マールキャプッタさんの偈を読んでいってるのですが、もともとは、お釈迦さまの説法

「見られたものには見られたもののみがあるであろう、聞かれたものには聞かれたもののみがあるであろう、嗅がれたものには嗅がれたもののみがあるであろう、味わられたものには味わられたもののみがあるであろう、触れ感じられたものには触れ感じられたもののみがあるであろう、認識されたものは認識されたもののみがあるであろうことから、、、」
(pipitの今の理解、誤解してたらすみません)

を、「、、、」とpipitが省略したところも含め、マールキャプッタさんが「わたくし、理解いたしました!」と発表してるとこなんですね。

(上記釈尊説法箇所のMaurice O'Connell Walsheさまの英訳)
https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sn/sn35/sn35.095.wlsh.html

"Well then, Maalu"nkyaputta, in things seen, heard, sensed,[1] cognized: in the seen there will only be the seen, in the heard only the heard, in the sensed only the sensed, in the cognized only the cognized... Then, Maalu"nkyaputta, there will be no 'thereby' for you.[2]Having no 'thereby' you have no 'there.'[3] Having no 'there,' Maalu"nkyaputta, there is for you neither this world, nor the next, nor anywhere in between.[4] That in itself is the end of suffering."

[304] pipit 2021/01/08 22:07 JV/tgpOc4Sf

>>303
六識などについて釈尊が説かれているので、
マールキャプッタさんの偈も、それぞれ、認識の対象として、
色・音・香・味・触・法、という六種について歌われてるみたいです。

例えば、2番目の偈は、【   】の箇所の言葉が、一番目と変わってるだけで、あとは同じみたいです。

(パーリ語)
♪ 【Saddaṃ sutvā 】sati muṭṭhā piyaṃ nimittaṃ manasi karoto
♪ Sārattacitto vedeti tañca ajjhosāya tiṭṭhati
♪ Tassa vaḍḍhanti vedanā anekā 【saddasambhavā】
♪ Abhijjhā ca vihesā ca cittamassūpahaññati
♪ Evaṃ ācinato dukkhaṃ ārā nibbāṇaṃ vuccati.

Bhikkhu Sujato さまの英訳
https://suttacentral.net/sn35.95/en/sujato
When you 【hear a sound】, mindfulness is lost
as attention latches on a pleasant feature.
Experiencing it with a mind full of desire,
you keep clinging to it.
Many feelings grow
arising from 【sounds】.
The mind is damaged
by covetousness and cruelty.
Heaping up suffering like this,
you’re said to be far from extinguishment.

ほとんど繰り返し、みたいになるんですけど、偈を覚えたいので、
全部見ていこうかなー、と、思っています。📖

[305] pipit 2021/01/08 22:26 JV/tgpOc4Sf

>>303
うーむ、気づいてなかったけど、釈尊の説法で、この箇所では六単語挙げてなかったみたいです。説かれてると思い込んでたなぁ。わたしは相変わらず注意力散漫だなぁ。Maurice O'Connell Walsheさまの注釈では、一単語に三種の内容含めて解釈されてるみたいですけど。

(Maurice O'Connell Walsheさまの英訳、と、注釈)

"Well then, Maalu"nkyaputta, in things seen, heard, sensed,[1] cognized:

Notes

1.
Muta: i.e., smelt, tasted or touched.

https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sn/sn35/sn35.095.wlsh.html

[306] pipit 2021/01/08 22:46 JV/tgpOc4Sf

>>305
バーヒヤ経は、スッタセントラルさんに正田大観さまの日本語訳が載ってたんですけど、
ここでも、六単語ではなく、

『バーヒヤさん、それでは、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。『見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろう。聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろう。思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろう。識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろう』と。』
https://suttacentral.net/ud1.10/jpn/taikan

とありました。

そうだったんだぁ。

[307] pipit 2021/01/09 16:46 JV/tgpOc4Sf

寒すぎやなぁ ❄️

[308] pipit 2021/01/10 15:14 JV/tgpOc4Sf

>>304 音についての偈

♪ 【Saddaṃ sutvā 】sati muṭṭhā piyaṃ nimittaṃ manasi karoto
♪ Sārattacitto vedeti tañca ajjhosāya tiṭṭhati
♪ Tassa vaḍḍhanti vedanā anekā 【saddasambhavā】
♪ Abhijjhā ca vihesā ca cittamassūpahaññati
♪ Evaṃ ācinato dukkhaṃ ārā nibbāṇaṃ vuccati.


♪ 【さっだん すとわぁ】さてぃー むった〜 ぴやんにみったん まなーしかろーと〜
♪ さーらった・ちっとー ゔぇーでーてぃ たんちゃ あっじょさーや てぃったてぃ 
♪ たっさ わっだんてぃ ゔぇーだなー あねーかー 【さっださんばわー】
♪ あびっじゃー ちゃ びぃへーさ ちゃ
ちったまっさ・うぱはんにゃてぃ 
♪ えーわん あーちなと どぅっかん あーらーにっばーなん うっちゃてぃ 

♪【音を聞いて】サティ忘れる
愛らしい相に 作意する
♪執着した心で 感受して
そこに 固執して 住する
♪そして受(ヴェーダナー)が増大する
数多の【音】から
♪貪欲と悩害により
その心は害される。
♪このように 苦が積まれ
涅槃は遠い と言われる

[309] pipit 2021/01/10 15:16 JV/tgpOc4Sf

>>308
Bhikkhu Sujato さまのパーリ語偈の英訳
https://suttacentral.net/sn35.95/en/sujato

When you 【hear a sound】, mindfulness is lost
as attention latches on a pleasant feature.
Experiencing it with a mind full of desire,
you keep clinging to it.
Many feelings grow
arising from 【sounds】.
The mind is damaged
by covetousness and cruelty.
Heaping up suffering like this,
you’re said to be far from extinguishment.

[310] pipit 2021/01/10 15:52 JV/tgpOc4Sf

>>308 続き。香について。

♪ 【gandhaṃ ghātvā】sati muṭṭhā piyaṃ nimittaṃ manasi karoto
♪ Sārattacitto vedeti tañca ajjhosāya tiṭṭhati
♪ Tassa vaḍḍhanti vedanā anekā 【gandhasambhavā】
♪ Abhijjhā ca vihesā ca cittamassūpahaññati
♪ Evaṃ ācinato dukkhaṃ ārā nibbāṇaṃ vuccati.


♪ 【がんだん がーとわー】さてぃー むった〜 ぴやんにみったん まなーしかろーと〜
♪ さーらった・ちっとー ゔぇーでーてぃ たんちゃ あっじょさーや てぃったてぃ 
♪ たっさ わっだんてぃ ゔぇーだなー あねーかー 【がんださんばわー】
♪ あびっじゃー ちゃ びぃへーさ ちゃ
ちったまっさ・うぱはんにゃてぃ 
♪ えーわん あーちなと どぅっかん あーらーにっばーなん うっちゃてぃ 

♪【香りを嗅いだら】サティ忘れる
愛らしい相に 作意する
♪執着した心で 感受して
そこに 固執して 住する
♪そして受(ヴェーダナー)が増大する
数多の【香り】から
♪貪欲(欲)と悩害(怒り)により
その心は害される。
♪このように 苦が積まれ
涅槃は遠い と言われる

[311] pipit 2021/01/10 15:55 JV/tgpOc4Sf

>>310
Bhikkhu Sujato さまの英訳
https://suttacentral.net/sn35.95/en/sujato

When you 【smell an odor 】, mindfulness is lost
as attention latches on a pleasant feature.

Experiencing it with a mind full of desire,
you keep clinging to it.

Many feelings grow
arising from 【smells】.

The mind is damaged
by covetousness and cruelty.

Heaping up suffering like this,
you’re said to be far from extinguishment.

[312] pipit 2021/01/10 16:07 JV/tgpOc4Sf

今、六種の対象に触れた際にサティ(念、マインドフルネス、気づき、などと訳されてる印象あります。)忘れた場合の苦の生じ方、みたいなかんじが歌われてますけど、
六種おわったら、今度は、サティを伴って経験?する場合について歌われるみたいですね。

サティ、の定義が、学問的にも修学的にも、わたしには超難しそうなのですけど(^^;)

とりあえず、サティという表記だけで、、、今のところ、逃げます!!

ということで、続けていきます 😊

[313] pipit 2021/01/10 20:30 JV/tgpOc4Sf

>>312
まるっと逃げるのも気が引けたので、ウィキペディアで『サティ』を読んでみました。

wikiの『サティ(仏教)』の項目から、抜粋引用します。

『パーリ語でサティ(巴: sati[1]、梵: smṛti[1]:スムリティ)とは、特定の物事を心に(常に)留めておくことである。日本語では念(ねん)や[1][2]、気づき、英語ではマインドフルネス(mindfulness)[2]などと表現する。漢訳で念。仏教の実践において正念(しょうねん、sammā-sati)とは、八正道(はっしょうどう)の一つとして重視される。正しい念は、三十七道品のなかの四念住(しねんじゅう)などにおける念とあるように、基本概念の一つである。対象に執着あるいは嫌悪などの価値判断を加えることなく、中立的な立場で注意を払うことを意味し、仏教における瞑想の基礎的な技術の一つであり、念を深めると心が固定され、何事にも惑わされない定(じょう)の状態に至るとされる。

(略)』   

続く

[314] pipit 2021/01/10 20:31 JV/tgpOc4Sf

>>313
(略)
あらゆるものへ移っていくという心の散漫な動きを自覚することができるようになる、気づき、心にとどめるという訓練は最も基礎的であり、自分の呼吸を観察するのが一番基礎的で最適だとされる[6]。持続的な訓練によって、より小さな努力で行えるようになり、最終的には自動的に行うことができる[6]。

その特定のことに執着したり、嫌悪の対象として押し戻すように対峙するのではなく、中立的な状態で価値判断を加えることなく、意識を対象物に止めておくことである。また、常に意識を対象物に止めることで、意識の対象物に対する注意が途切れるということや、他の事に気が迷い別のことに意識が向かうこともなく、経つ時間を忘れるということもないとされる。

(続く)

[315] pipit 2021/01/10 20:32 JV/tgpOc4Sf

>>314(続き)

念が深まると意識が完全に固定され動かなくなる定(じょう、サマーディ)に至り、三昧(さんまい)の境地に入る。この三昧の境地は光悦感が伴い、釈迦は出家後に当時の数々の聖人の元で修行した時には、この念・定・三昧を非常に短期間で習得している。ただし、釈迦はこの光悦感がどれほど高次であろうとも最終的にはその光悦は一時的なものに過ぎないと知ることにより、釈迦これらの聖人達の下から離れて自ら苦行の道に進む。最後にこの苦行にも見切りをつけて菩提樹の下で瞑想するにあたり、まず最高位の三昧の境地に入った後、定の状態からその意識を森羅万象の変化に向けることによって観(かん)を得て、釈迦は悟りに至っている。

止(サマタ)の意識の対象は40程にあたり、息などの生理現象などから、仏・法・僧や戒、神々、また喜捨することを心に浮かべてそれに集中することも念という。例えば、仏を心に想起してこれに集中することは仏随念あるいは念仏(buddhānusmṛti)という。これらの6つの念じる対象を特に六念処と呼ぶ。

チベット仏教では、止を先に実践し最高位の状態へと至ってから、観の修行に入る。観を実践するだけであれば、途中の段階の止の能力にて実践することができる。
(続く)

[316] pipit 2021/01/10 20:33 JV/tgpOc4Sf

>>315(続き)
対して、近年で特に欧米で広く広まったヴィパッサナー(観)では、この念の対象を40程のサマタの伝統的な対象物でなく、最初から物事の変化に向けるため、念を深めて定に至っても三昧の境地に入ることはできない。また、念の対象を常に変化する現象に向けるため、変化に連続的に「気づく」という意味となるが、サマタの場合は対象物が固定されているので「気に留める」あるいは「意識を固定する」という意味で「念ずる」が適切な訳となる。念の途中で「気づく」たびに三昧から抜けてしまうという意味では念の訳として「気づく」は適さない。ヴィパッサナーではサティとは、「今の瞬間に生じる、あらゆる事柄に注意を向けて、中立的によく観察し、今・ここに気づいている」ことであるとされる。この様な観行にいたる境地と止行により至る境地の違いが現れる。

(略)



wikiからのサティの抜粋引用を終わります。

[317] pipit 2021/01/10 20:44 JV/tgpOc4Sf

次に、wikiの『マインドフルネス』という項目から、仏教用語のサティに関連した箇所を抜粋引用します。

『マインドフルネス』の項目より抜粋引用。
『(略)
マインドフルネス(mindfulness)という用語は、仏教の重要な教えである中道の具体的内容として説かれる八正道のうち、第七支にあたるパーリ語の仏教用語サンマ・サティ(Samma-Sati、漢語:正念、正しいマインドフルネス)のサティの英訳である[12][13]。サンマ・サティは「常に落ちついた心の行動(状態)」を意味する[14]。サティはいくつかの仏教の伝統における重要な要素である[15][16]。

仏教において、八正道として説かれる8つの教えは互いに有機的に関連し合った一つの修行システムであり、独立して行われることは想定されていない。八正道により「分離した自我」、孤立的に存在する実体的存在としての自我という(仏教において)誤った認識を解体し(無我)、全てが相互につながりあって生起している(縁起)という正しい認識に基づいて生きることができるようになると考えられ、正念もこのヴィジョンに基づいて理解され実践された[13][17]。正念は、人を苦しみからの完全な解放や悟りと呼ばれるものへと徐々に導いていく自己認識や智慧を発達させることに役立ち、「無我」や「無常」という真理を悟り解脱に至るための方法として実践されてきた[15][17]。

(続く)

[318] pipit 2021/01/10 20:45 JV/tgpOc4Sf

>>317 (続き)

仏教における語義 編集
satiとsmṛti

mindfulness[注釈 2]と英訳された仏教用語は、パーリ語のsati(サティ)および、サンスクリットにおいてsatiに相当するsmṛtiに起源がある。Robert Sharfによれば、これらの語の意味は、広範囲に渡る討論や議論のテーマとなっている[54]。元来、smṛtiは、to remember(思い出す、記憶している[55])、to recollect(思い出す、回想する[56])、to bear in mind(心に留めておく[57])を意味した。satiもto rememberを意味する。大念処経(訳者注: または念処経)においてsatiは、仏教の法を思い出すこと/覚えていることを意味し、それによって修行者は諸現象の本質を見ることができる[54]。「サティが生じることは、四念処、五根、五力、七覚支、八正道などの健全な諸法を心に呼び起こす」と説明している『ミリンダ王の問い』をSharfは参照している[58]。

(続く)

[319] pipit 2021/01/10 20:47 JV/tgpOc4Sf

>318(続き)
翻訳 編集
mindfulness の意味を一般的に捉えると非常にあいまいであり、これがマインドフルネスという言葉の分かりにくさにつながっている[59]。英語として日常的には「注意で満ちた」「注意でいっぱいの状態」という意味で使われており、心理学でも注意と結びつき、「十分な注意」を表すと考えられる[60]。mindful という形容詞は「よく覚えていること」という意味で14世紀中盤から使われ、次第に「心をとどめておく」「心を配る」「気づかう」といった意味も持つようになり、16世紀には現在とつづりは違うが、名詞として使われるようになった[61]。しかし、本記事における意味のマインドフルネスは、もともと英語にあった mindful から生まれた言葉ではなく、19世紀に仏教用語を英語に翻訳する際にあてたものであり、徐々に専門的な意味が加えられて一般に広まった。そのため本記事の意味での mindfulness は、英語圏でも2000年頃の段階では、専門家以外にはあまり知られていなかったようである[62]。
(続く)

[320] pipit 2021/01/10 20:49 JV/tgpOc4Sf

>>319(続き)

1845年、Daniel John Gogerlyがsammā-satiをCorrect meditation(正しい瞑想[63][64])と初めて英訳した[65]。

1881年に原始仏教の経典に使われているパーリ語の学者であるトーマス・ウィリアム・リス・デイヴィッズが、八正道におけるsammā-satiをRight Mindfulness(the active, watchful mind)と訳したのが、sati が mindfulness と英訳された最初である[66][62]。サティとは「心をとどめておくこと、あるいは心にとどめおかれた状態としての記憶、心にとどめおいたことを呼び覚ます想起のはたらき、心にとどめおかせるはたらきとしての注意力」であり、この「心をとどめておく」「注意」などの意味が英語の mindfulness の含意と近かったため、英訳として選ばれ、mindfulness が仏教的な意味を帯びるようになった[62]。

(略)』

wikiの『マインドフルネス』からのサティに関わる記事の抜粋引用を終わります。

[321] pipit 2021/01/10 21:32 JV/tgpOc4Sf

いろんな解釈があるようなのですが(実践者のレベルによって、言語の指し示す中身が変わっていく可能性もあるかもですしね、、、言葉の空性!)
pipitの現在の心づもりとしては、

『「念(サティ sati)」は「気づき」です。「今・ここ」に目覚めていること、覚醒している状態のことです。過去のことや将来のことについて心を無駄に回転させることをやめて、「今・ここ」で起こる現実を認識することです。』
(『心の中はどうなってるの?』アルボムッレ・スマナサーラ長老著、サンガ新書、p140より引用。)

を念頭において、マールキャプッタ経を読み進めてみたいと思います😊

[322] pipit 2021/01/11 00:23 JV/tgpOc4Sf

>>310 続き ・味について

♪ 【Rasaṃ bhotvā 】sati muṭṭhā piyaṃ nimittaṃ manasi karoto
♪ Sārattacitto vedeti tañca ajjhosāya tiṭṭhati
♪ Tassa vaḍḍhanti vedanā anekā 【rasasambhavā】
♪ Abhijjhā ca vihesā ca cittamassūpahaññati
♪ Evaṃ ācinato dukkhaṃ ārā nibbāṇaṃ vuccati.


♪ 【らさん ぼとわー】さてぃー むった〜 ぴやんにみったん まなーしかろーと〜
♪ さーらった・ちっとー ゔぇーでーてぃ たんちゃ あっじょさーや てぃったてぃ 
♪ たっさ わっだんてぃ ゔぇーだなー あねーかー 【らさんばわー】
♪ あびっじゃー ちゃ びぃへーさ ちゃ
ちったまっさ・うぱはんにゃてぃ 
♪ えーわん あーちなと どぅっかん あーらーにっばーなん うっちゃてぃ 

♪【味を味わう】サティ忘れる
愛らしい相に 作意する
♪執着した心で 感受して
そこに 固執して 住する
♪そして受(ヴェーダナー)が増大する
数多の【味】から
♪貪欲(欲)と悩害(怒り)と。
その心は害される。
♪このように 苦が積まれ
涅槃は遠い と言われる

[323] pipit 2021/01/11 00:26 JV/tgpOc4Sf

>>322
Bhikkhu Sujato さまの英訳
https://suttacentral.net/sn35.95/en/sujato

When you 【enjoy a taste】, mindfulness is lost
as attention latches on a pleasant feature.

Experiencing it with a mind full of desire,
you keep clinging to it.

Many feelings grow
arising from 【tastes】.

The mind is damaged
by covetousness and cruelty.

Heaping up suffering like this,
you’re said to be far from extinguishment.

[324] pipit 2021/01/11 23:24 JV/tgpOc4Sf

>>322 続き・触について

♪ 【Phassaṃ phussa】sati muṭṭhā piyaṃ nimittaṃ manasi karoto
♪ Sārattacitto vedeti tañca ajjhosāya tiṭṭhati
♪ Tassa vaḍḍhanti vedanā anekā 【phassasambhavā】
♪ Abhijjhā ca vihesā ca cittamassūpahaññati
♪ Evaṃ ācinato dukkhaṃ ārā nibbāṇaṃ vuccati.


♪ 【ぱっさん ぷっさー】さてぃー むった〜 ぴやんにみったん まなーしかろーと〜
♪ さーらった・ちっとー ゔぇーでーてぃ たんちゃ あっじょさーや てぃったてぃ 
♪ たっさ わっだんてぃ ゔぇーだなー あねーかー 【ぱっささんばわー】
♪ あびっじゃー ちゃ びぃへーさ ちゃ
ちったまっさ・うぱはんにゃてぃ 
♪ えーわん あーちなと どぅっかん あーらーにっばーなん うっちゃてぃ 

♪【触に触れて】サティ忘れる
愛らしい相に 作意する
♪執着した心で 感受して
そこに 固執して 住する
♪そして受(ヴェーダナー)が増大する
数多の【触】から
♪貪欲(欲)と悩害(怒り)と。
その心は害される。
♪このように 苦が積まれ
涅槃は遠い と言われる

[325] pipit 2021/01/11 23:24 JV/tgpOc4Sf

>>324
Bhikkhu Sujato さまの英訳
https://suttacentral.net/sn35.95/en/sujato
When you 【sense a touch】, mindfulness is lost
as attention latches on a pleasant feature.
Experiencing it with a mind full of desire,
you keep clinging to it.
Many feelings grow
arising from 【touches】.
The mind is damaged
by covetousness and cruelty.
Heaping up suffering like this,
you’re said to be far from extinguishment.

[326] pipit 2021/01/17 15:31 JV/tgpOc4Sf

>>324 続き

♪ 【Dhammaṃ ñatvā 】sati muṭṭhā piyaṃ nimittaṃ manasi karoto
♪ Sārattacitto vedeti tañca ajjhosāya tiṭṭhati
♪ Tassa vaḍḍhanti vedanā anekā 【dhammasambhavā】
♪ Abhijjhā ca vihesā ca cittamassūpahaññati
♪ Evaṃ ācinato dukkhaṃ ārā nibbāṇaṃ vuccati.


♪ 【だんまん にゃとわー】さてぃー むった〜 ぴやんにみったん まなーしかろーと〜
♪ さーらった・ちっとー ゔぇーでーてぃ たんちゃ あっじょさーや てぃったてぃ 
♪ たっさ わっだんてぃ ゔぇーだなー あねーかー 【だんまんさんばわー】
♪ あびっじゃー ちゃ びぃへーさ ちゃ
ちったまっさ・うぱはんにゃてぃ 
♪ えーわん あーちなと どぅっかん あーらーにっばーなん うっちゃてぃ 

♪【法(意の対象、例えば思考概念??)を知る】サティ忘れる
愛らしい相に 作意する
♪執着した心で 感受して
そこに 固執して 住する
♪そして受(ヴェーダナー)が増大する
数多の【法】から
♪貪欲(欲)と悩害(怒り)と。
その心は害される。
♪このように 苦が積まれ
涅槃は遠い と言われる

[327] pipit 2021/01/17 15:33 JV/tgpOc4Sf

>>326
Bhikkhu Sujato さまの英訳
https://suttacentral.net/sn35.95/en/sujato

When you 【know a thought,】 mindfulness is lost
as attention latches on a pleasant feature.
Experiencing it with a mind full of desire,
you keep clinging to it.
Many feelings grow
arising from 【thoughts. 】
The mind is damaged
by covetousness and cruelty.
Heaping up suffering like this,
you’re said to be far from extinguishment.

[328] pipit 2021/01/17 16:56 JV/tgpOc4Sf

ここまでは、
『sati muṭṭhā』念(気づき)がないために、知覚対象から煩悩に突っ走って行く場合みたいなかんじでしたけど、
ここからは、
『patissato』念をもって、、、知覚を知覚として気づいて、苦を積み上げる方向へ流れないなら、、、みたいな感じみたいです。

引き続き、マールキャプッタさまの詩偈を読んでいきます。

、、、あー、今、カント哲学の傾向性という訳語を思い出しました。
欲に流されちゃうんですね。
それが生命の当たり前のスタンダードですよね。
それを破る、という可能性、、、

カント哲学も大好きだ〜

あ、これは、法に対する執着だなぁ(^^;)

♪法を知る サティ忘れる
愛らしい相に 作意する
♪執着した心で 感受して
そこに 固執して 住する
♪そして受(ヴェーダナー)が増大する
数多の【法】から
♪貪欲(欲)と悩害(怒り)と。
その心は害される。
♪このように 苦が積まれ
涅槃は遠い と言われる

[329] pipit 2021/01/17 18:48 JV/tgpOc4Sf

>>326 続き 
(パーリ語)
Na so rajjati rūpesu rūpaṃ disvā patissato
Virattacitto vedeti tañca nājjhosāya tiṭṭhati
https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sltp/SN_IV_utf8.html#pts.072
========
(Thanissaro Bhikkhuさまの英訳)
Not impassioned with forms
— seeing a form with mindfulness firm —
dispassioned in mind,
one knows
and doesn't remain fastened there.
https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sn/sn35/sn35.095.than.html
========
(Maurice O'Connell Walsheさまの英訳)
He who's not inflamed by things he sees,
Seeing forms retains his mindfulness,
Not in passion's grip, simply feels,
On him clinging cannot get a hold.
https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sn/sn35/sn35.095.wlsh.html
========
(莊春江さまの中国語訳)
當持念見色後,他不在色上被染著,
以離貪著之心感受它,不持續固持它。
https://suttacentral.net/sn35.95/zh/zhuang
========
(光明寺住職さまによるサイト【光明寺経蔵】に日本語訳があります。著作権侵害になるといけないので、アドレス情報を貼るにとどめます。(^人^))
https://komyojikyozo.web.fc2.com/
相応部>六処篇>六処相応>六品・の2番目「マールキャプッタ経(SN35-95)」
Māluṅkyaputtasuttaṃ

[330] pipit 2021/01/17 19:58 JV/tgpOc4Sf

>>329 続き
(パーリ語)
Yathāssa ghāyato gandhaṃ sevatocāpi vedanaṃ
Khīyati no pacīyati evaṃ so caratī sato
https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sltp/SN_IV_utf8.html#pts.072
========
(Thanissaro Bhikkhuさまの英訳)
While one is seeing a form
— and even experiencing feeling —
it falls away and doesn't accumulate.
Thus one fares mindfully.
Thus not amassing stress,
https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sn/sn35/sn35.095.than.html
========
(Maurice O'Connell Walsheさまの英訳)
If he just observes the things he sees,
Not reacting to their shape or form,
He'll pull down the pile, not build it up.
Mindfully proceeding on his way,
Heaping up no store of pain and woe:
https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sn/sn35/sn35.095.wlsh.html
========
(莊春江さまの中国語訳)
即使見色,以及經歷感受,
他這樣運行念,[苦]被耗盡不被堆積,
這樣減少著苦,
https://suttacentral.net/sn35.95/zh/zhuang
========
(光明寺住職さまによるサイト【光明寺経蔵】に日本語訳があります。著作権侵害になるといけないので、アドレス情報を貼るにとどめます)
https://komyojikyozo.web.fc2.com/
相応部>六処篇>六処相応>六品・の2番目「マールキャプッタ経(SN35-95)」
Māluṅkyaputtasuttaṃ

[331] pipit 2021/01/17 20:07 JV/tgpOc4Sf

>>330
あ、間違えたかも。
それぞれの英訳、中国語訳の最後は、まだ引用してないパーリ文のところを先走って引用してしまってたみたいです。

次の投稿で、その部分のパーリ文も含めて引用を続けます。m(_ _)m

[332] 清水アギラ 2021/01/17 21:01 ザ-000,025,321号

🤗

[333] 清水アギラ 2021/01/17 21:01 ザ-000,025,321号

333👲🏻

[334] pipit 2021/01/17 22:58 JV/tgpOc4Sf

🦔🦦🦚

見えるかなあ ? 🍵

[335] pipit 2021/01/17 23:08 JV/tgpOc4Sf

>>330
(パーリ語)
Evaṃ apacinato dukkhaṃ santike nibbānaṃ vuccati.

https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sltp/SN_IV_utf8.html#pts.072
========
(Thanissaro Bhikkhuさまの英訳)
Thus not amassing stress,
one is said to be
in the presence of Unbinding.

https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sn/sn35/sn35.095.than.html
========
(Maurice O'Connell Walsheさまの英訳)
Heaping up no store of pain and woe:
Then for him Nibbaana's very near.

https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sn/sn35/sn35.095.wlsh.html
========
(莊春江さまの中国語訳)
這樣減少著苦,涅槃被說為在面前。

https://suttacentral.net/sn35.95/zh/zhuang
========
(光明寺住職さまによるサイト【光明寺経蔵】に日本語訳があります。著作権侵害になるといけないので、アドレス情報を貼るにとどめます。)
https://komyojikyozo.web.fc2.com/
相応部>六処篇>六処相応>六品・の2番目「マールキャプッタ経(SN35-95)」
Māluṅkyaputtasuttaṃ

[336] pipit 2021/01/17 23:27 JV/tgpOc4Sf

これ以降の偈も、対象に関する箇所だけ変えて、繰り返されるようです。最初はまず、眼に色が触れて眼識が生じる際にサティ(気づき)が伴ってる場合の偈ですね。

(パーリ語)
Na so rajjati 【rūpesu rūpaṃ disvā 】patissato
Virattacitto vedeti tañca nājjhosāya tiṭṭhati
Yathāssa 【passato rūpaṃ 】sevato cāpi vedanaṃ
Khīyati nopacīyati evaṃ so caratī sato
Evaṃ apacinato dukkhaṃ santike nibbānaṃ vuccati.

(Bhikkhu Sujato さまの英訳)

When you 【see a sight】 with mindfulness,
there’s no desire for 【sights】.

Experiencing it with a mind free of desire,
you don’t keep clinging to it.

Even as you 【see a sight 】
and get familiar with how it feels,
you wear away, you don’t heap up:

that’s how to live mindfully.

Eroding suffering like this,
you’re said to be in the presence of extinguishment.

https://suttacentral.net/sn35.95/en/sujato

[337] 2021/01/17 23:54 Co/ipic7T1J

眼と色で眼識。三つの和合で眼触。この触に縁り感受が起こったとき、渇愛が生じますが、この時の渇愛のある状態が五妙欲です。

そしてこの五妙欲(五根によって識られる、可愛、可楽、適意の、愛すべき形相ある、欲の具わった、染心を煽る五境)が捨断されると、五取蘊が五蘊に戻ります。つまりは、欲のある状態である「見られたときに愛すべき歓喜する色があり、聞かれたときに愛すべき歓喜すべき音がある」ような状態(五取蘊)から「見られたときには見られた色だけがあり、聞かれたときには聞かれた音だけがある」状態(五蘊)になると言う事です。そこには「私=五取蘊の状態」はありません。

そして別経典では、この五妙欲の捨断の方法は、八支聖道(正念=四念処)だと説かれます。いずれにしても正しく理解が起こるためには、通常、八支聖道の行は必須のようですね。

[338] 2021/01/18 09:08 Co/ipic7T1J

「如来はこれら両極端を離れて、中に縁りて法を説く。」

法に執着せず、念をもって法を知るならば、離貪した心の者として感受し、そして固執せずに住する。

これが「中で説かれた法を中で理解する」と言う事です。一切においての固執、執着が取り除かれた状態です。そしてこの中での理解が崩れ去らないように中を維持継続できていれば、ここでいわれる苦は取り除かれ、その人物は涅槃に近いと言われるのですよと言う事でしょう。

一切とは(眼・耳・鼻・舌・身・意とそれらの対象となる色形・音声・香・味・触覚・法)。つまりは、六根(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根)と六境(色・音・香・味・触・法)の事ですね。

[339] 2021/01/18 11:04 Co/ipic7T1J

仮に、パーリの内容が最小限度の改変しかされずに現代に残っていたとするならば。

学処としてその教えを学び、実践として生活することは可能だろうと思います。当時との大きな違いは、師である仏陀がそこにいたかいないかです。例えば、何か学ぶ者(弟子)同士での、或いは、他教徒との論争が起こりかけたとき、当時は、最終的には師である仏陀にその内容の是非を確認できたと思われます。しかし現代ではその仏陀が存在しませんので、その最終的な確認ができませんが、現代においてはそれは致し方ないとも思います。例えば、時の書くこともそのほとんどが原始仏典にその根拠がありますが、だからと言ってそれに固執しないようにしています。なぜならば、それは日本語で書かれた訳文からのパーリの文化背景を持たない時の解釈だからです。仏陀の死後、その各人の解釈には最終的な仏陀の判断と言う歯止めが効かず、実際に多くの宗派が宗教として現れています。そしてもともと仏教は、宗教でもなければ哲学でもないのだと思います。同時にその教えを歪めずに学べた者には、論争は起こり得ませんし、平安で静寂な心の状態が獲得できるとも思います。

六触処の生起と滅没、楽味と過患と出離を如実に了知するような者は、これら六十二見より、さらに優れたことを了知する。長部1経

犀の角のようにただ独り歩め。(スッタニパータ)・・あの時、背中を押していただいたYさんは、お元気でしょうか。

[340] 2021/01/18 17:13 Co/ipic7T1J

五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)は我に非ず(五蘊非我)と言う教えが最短でしょうか。もしもこれだけで理解が起これば、苦の滅尽に関しては、これ以上の事は必要なさそうです。

四聖諦(苦聖諦・集聖諦・滅聖諦・道聖諦)の中の苦聖諦である苦とは何か?は、苦(生・老・病・死・愁・悲・憂・悩・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・要略すると五取蘊苦)との記載により、要略すると五取蘊苦です。

五取蘊苦は、五取蘊(色取蘊・受取蘊・想取蘊・行取蘊・識取蘊)に生起する苦であり、その原因が五蘊に対する貪欲であり、貪欲と取が別にあるのではなくてその貪欲な状態が取なので、五取蘊の状態ならば私は未来の時、このような色、受、想、行、識あるものになりたい。と言う事で、~になりたいと言う渇愛が生起しています。そしてこの渇愛が苦の原因なので、五蘊非我の教えで五蘊に戻ります。これは同時に有身見の滅を意味しますね。少し乱暴でしょうか。

[341] pipit 2021/01/18 18:14 JV/tgpOc4Sf

時さん、こんにちは。コメントありがとうございます!(^人^)

『「見られたときには見られた色だけがあり、聞かれたときには聞かれた音だけがある」』状態(五蘊)、この執着のない状態を、まずお釈迦さまが説かれた。

その説法を、こう了解しました、と、マールキャプッタ長老が、念がなく欲があるとき・・・五取蘊の状態と、念があり欲から離れている・・・五蘊の状態のとき、に分別されて話された。

五蘊非我だと体得できると、『私』を五蘊に練り込むことによって生じていたあらゆる欲が落ちる、その時、取は無く、五蘊に戻る。

そうかぁ、有身見の滅と直通しているものなのかな、と、時さんのコメントを読んで考えて思いました。

また後ほどゆっくり考え直してみようと思います。
心底感謝いたします!ありがとうございます😊🍀

[342] 2021/01/18 19:21 Co/ipic7T1J

>>341 
pipitさんへ こんばんは。返信をありがとうございます。

>>251
> 有身見(私と言う不変の存在があると言う見解の事。邪見。邪思推)ですが、有身とは、五取蘊の事だとの記載があります。

つまりは、有身(五取蘊の事)の状態での見解が、有身見ですね。この有身見を滅尽するためには、有身(五取蘊)を滅尽して五蘊に戻せれば、有身は滅尽し、同時にその見解は有身見ではなく、単なる見解となります。見解があるときには、ただその見解だけがあるのですと言う事ですね。

>>341
> そうかぁ、有身見の滅と直通しているものなのかな、と、時さんのコメントを読んで考えて思いました。

はい。直結だと思います。仏典内の記載は、同じ事柄を多角的に多次元的に違った言葉で表現されているようですので、1対1で言葉と意味を対にしてしまっては分かり難いのかもしれません。

ですので今回の場合も、五取蘊は我の~と言う一人称の表現の事であり、有身見の事です。

うわぁー、私はとっても綺麗な朝陽だー(色取蘊)
うわぁー、気持ちい朝だなぁ!(受取蘊)
今日の彼とのデートは何を着ていこうかな♪(想取蘊)等々の事になるでしょうか。

有身見の滅は五取蘊の滅であり、同時に我の執着、固執した見解の滅ですね。ですので心の平静、静寂が獲得されます。

[343] 2021/01/18 19:25 Co/ipic7T1J

>>342 失礼しました。訂正です。

> うわぁー、私はとっても綺麗な朝陽だー(色取蘊)

うわぁー、とっても綺麗な朝陽だー(色取蘊)

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