長く歴史認識に関する諸問題が取り沙汰されてきた。
だが、多くはイデオロギーに埋没した形として見受けられる。
確かに、歴史は政治と深く繋がるものであり、宗教的思考に陥りがちではある。
歴史は、歴史を見つめる個人が入り込み、個人の価値と同一となりがちだからだ。
ただ、本当に、其れで良いのか?
ここでは、そもそも「歴史とは何か?」という、歴史に対する根本的な問いー歴史哲学を論じ合いたい。
※誹謗中傷の類は禁止。建設的な議論を楽しみましょう。
明晰な把捉と関与が無ければ、歴史的存在は無い。
また歴史的現実が無ければ何らの知も存在しない。
>タンチョウさん
レス感謝致します。
確かに、歴史は、歴史に対して積極的に語りかけてこそ、返答ががあるもの。
ですが、ここで「明晰な把促と関与」という問いに、一種の整理の必要を見ます。
何故ならば、歴史を解釈する上で、完全な主観も客観も困難な為、「明晰な把促と関与」も、幾ら明晰性を希求しても、「歴史」に触れる各々で足並みが乱れがちなわけです。
ここで、「歴史」に関して、混乱が再生産されていくのです。
ですから、「明晰な把促と関与に基づく歴史的存在」が、如何に困難なものであるか。
上記課題は、「歴史的現実」においても言える事で、そもそも「歴史的現実」とは、如何様な事でしょうか。
「知」は歴史の連続性から生ずる事には、何ら異論はありません。
ですが、「歴史」把促と関与を試みる人間も、「歴史」を遺した人間も、共に歴史や事象に対して解釈・精神等が含有されます。
つまり、「歴史的現実」と一言に申しましても、変化変容するものであり、歴史とは有機的な存在なのだと思われるのです。
さて、タンチョウさんは、非常に良い課題を投じて下さいました。
皆さんの御参加の程、お待ちしてます。
>>2
じょさん
この掲示板に来る人はほとんどいませんので私などで申し訳ありませんが・・
歴史は一般的なものではありません。しかしまた、その反対でもありません。
他の全体におよび非全体に関係しながら発展していく生成です。
歴史性は決して一般的なものや全体的なものを否定しては、現表出来ないらしいです。
じょさんも>歴史とは有機的な存在なのだと思われるのです。<とおっしゃっています・・
そういえば小林秀雄さんは「歴史には死人だけしか現れて来ない。従って退っ引きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ」・・日本人には哲学が無いので感性でお書きになられたのでしょう・・
毎日聖恵ちゃんでシコってます。
あげます。
タンチョウさん、お久しぶりです。
最近、無気力ですので歴史哲学的レスは差し控えますが、書込み感謝致します。
知り合いの知り合いに短大の講師をされて脳卒中になり寝たきりになって10年の方がいらっしゃいます・・
とにかく先生と言う職業は息抜きが出来ないのでどこかがブチ切れるものでしょう・・
数千年にわたる西欧的思惟を通じてただ一つの哲学の中に・・すなわち永遠の哲学に生きている。
永遠の哲学は、過去の思想に関する一切の知識にも拘わらず、自己の現在と自己の根拠に基づき外側の
なんぴとからも知られることのない歴史性における真理を持つ。
なんぴともこの永遠の哲学を所有することはない・・
哲学する場合、真実なものは過去において既に終局的に把握されていたという根本的態度が生じてくる。
人間はこの真実なものを失ってしまっているだけであって、今はこれに還ることが問題なのである。
過ぎ去ったものがその中に現存する所の意味は本質的である。
時間性と無時間性との同一としての瞬間とは、
事実的時間を永遠への現在へと深めることである。
歴史的意識において・・
現象としての時間的経過と、この現象をつらぬく永遠の存在とを一つのものとして意識する。
歴史的現実が無ければ何らの知も存在しない。
明晰な把握と関与の知が無ければ歴史的存在は無い。
存在と知は不可分である。
歴史的意識は根源的には個人的に覚知される・・
故きを温ねて新しきを知るが普通なのでしょう・・
私は来世の予習ばかりしていました・・
そうしたら新しきを温めて古きを知る・・になりました・・
逆もまた真なり。
信仰は想像無くば未展開のままにとどまり、
想像は信仰無くば非現実のままである。
この両者は愛無くば虚偽である。
想像はそれが実存の歴史的現在と出会い(現存在の現実に刻印・念写)が無い限り道を外れる・・
歴史学的知は自己の真の歴史的意識に転換する
以外は純粋な理論の中間的段階に過ぎない。
永遠回帰は本来的存在意味についての思想である。
あらゆる現存在が実存の現象として同時に永遠であるということが自己確信である。
客観的な思想は反対の事を意味する場合がある。
歴史の反復を陳腐な機械的なものとして投げ出すことが出来る。
しかし真の自己存在の確信として反復を求めれば反復は歴史的存在の現象として持続する。
実存的な真理は歴史的な全体性の信仰と無歴史性(客観性を否定して個人や大衆の粗野な暴力や野放しの自由)のいずれをも否定する。
二つの対極性の真理は緊張を解除しない・・
歴史性は非合理的なものが残るが残りものでは無く超合理的なものである。
思想の飛躍で無く個々人の意識自身の飛躍として思想を意識的現実へ転換することを通じて
初めて歴史的意識は閃くことが出来る・・
理論的な、記述的または因果的な識見をまだ持たないで、実存たちの決断する決意をまだ自覚しないでも、
歴史学的知識と実存的衝撃を貫き通して・・
諸々の歴史的な変換における決定の一押しが超越的な出来事として感知されるようになる・・
キーワードは変換・・
永遠の哲学の下に真実の存在の自己知識を理解することが永遠の哲学の中に生きているということ・・
過去の思想に関する一切の知識にも拘わらず、
自己の現在と自己の根拠に基づき外側の何人からも知られない歴史性における真理を持つ・・
これが永遠の哲学の中に生きるということ・・
歴史的知を自己に変換できれば過去世からのカルマを受け入れられる・・
歴史に平和が記されることはない。
人は歴史を構築するための歯車である。兵も市民も王でさえ、それは例外ではない。
しかし、それでも人は人として生きる。
人を愛し子を育み、友を助け敵を許し、共に笑い幸福な生活を望み、人生を築いていく。
そして……それが歴史に記されることは決してないのだ。(ナレーション)
戦争と平和名言より・・
『戦争と平和』の本当の名言はネットに載っていません・・
ナポレオンの悪口だからです・・
子供の心の内にさえも、
郷土や氏神や、祖先に対する忠実性というものが、一人の人間との触れ合いというものが、私が好んで再び訪れるというような場所に対する忠実性というものが、
宿っている。
氏神様・御霊の神社に初詣に行くお正月が来ました・・
三社か五社・・
地元なら三社・・京都もなら五社・・
御霊信仰・・
怨霊(おんりょう)信仰とも。無実の罪,疫病などで非業(ひごう)の死を遂げた者の霊が祟(たた)ると考えた信仰。奈良末期〜平安初期に盛んとなり,863年(貞観5年)神泉苑において怨霊をしずめるための御霊会(ごりょうえ)が宮中行事として初めて行われ,上下の御霊神社が設立された。
それは菅原道真が有名ですね
雷神になったとか
人の怨念は死後もすさまじく働くわけです
成仏するには
末期の水を貰うか
誰かに抱かれて死ぬか
半数は天国も地獄も知らず輪廻転生・・
良いお年を!
ヤスパースさんも
私の根源を究明しようとすることによって、
私は世界の根源を形而上学的に問題にする・・
私は根源の中へ進入することが出来ないと同様に、世界存在の中へ進入することもできないだろうが、
それを問うことを放棄することは出来ない・・らしい・・
歴史は時間の中で消失しながらも存在するものとして力強い・・
哲学においては、歴史の中から完結せるものとして私たちに語りかけてくる所のものが与えられる。
私たちは、このものをそれ以上よいものにすることが出来ないであろうということを、確信している。
一つの歴史的理念は断片的で根源的で無いばかりでなく、それ自身独立しているものでもないから、
理念は来るべきものを喚び起こし且つこれに影響を与える・・
現存在と自己存在の統一としての歴史性の逸脱2つの側面・・
〇自己存在を欠いた現存在・・自立的な存在意識を犠牲にして偶然や恣意(しい)や多様性のなかに自らを失う。儚いだけ・・
〇現存在を欠いた自己存在・・単に否定するだけの否定の作用以外何も残らない無に等しくなる。
私が内心に衝撃を受けると、過去からして実存が私に呼びかける・・
実存は過去から聴き取る固有の顕在を開明する・・
今結婚しない(子供部屋)おじさん達は若くして散っていった特攻隊の方々の生まれ変わりではないのかと思います・・
父親は国に何かあったら一番に戦争に行くと言っていました・・
私が第二次世界大戦で日本が悪かったと言ったら〇ち外と罵られ家族全員から総スカン・・
その父親も小学校に招待され小学生に戦争だけはしてはいけませんよと演説したらしいです・・
サバイバルゲームの面白さにはまっているYouTubeを見ていたら・・
いつか戦争があるなと思ってしまいます・・
強者な健康な男は攻撃性が強いですから・・
地上は本能の弱肉強食の世界ならば殺戮の繰り返し・・
人間は理性という自由を持ち殺戮の無い平和を築く・・
本能と理性の二律背反・・
実存的歴史性の開明の諸方式は、真実の存在についての知識として応用されて後そのまま極度の錯誤へ陥ることがある。
わがままな振る舞いに陥った地盤を喪失した絶望は極端な破壊への傾向が生じる。
日本はもう一度焼け野原に戻らなければならないと言う極端な危険思想も生まれる・・
人間には守護霊と魔人が影響したりします・・
ご先祖様の護って来た永遠の輪廻がある人も・・
現存在は歴史的である。
現存在の二律背反的な完成されない様相は、(矛盾を排し)他のものになることへの・・終息することのない要求である。
↑踏めません(≧◇≦)
ご先祖様が見ていらっしゃいます・・
歴史を自己の真の歴史的意識に転換できてこそ・・歴史は明るい・・
客観的な因果的な探求は純粋な理論の中間的段階にしか過ぎないから・・
過ぎ去ったものがその中に現存する所の意味は本質的である。
過去の失敗の本質を見極め改めなければ
同じ失敗を繰り返す・・
有機的に成長するには過去の失敗から学ばなければ・・
守護霊と魔人(悪霊)が
必ず
護ったり苦しめたり
神話的存在が入り込む
一つの全体としての精神を歴史の中で把握するという課題は、精神の普遍史の歴史となるが、
この理念は具体的研究を回避し、ただ歴史哲学的ににのみ実現されてきたであり却って一切の精神が私自身の内に内在する歴史的な仕方・・
哲学的客観化・・私自身を一つの全体へと完成させる。
精神諸科学は根底において歴史学的な諸科学である・・
近づき難い仕方で真理に対する真理として立っているが
担い手としての実存から分離することもできない・・
豊かだなあ。
無とは限定されない豊満・・
人間には必ず習性がある・・
過去の習性から学ぶことが出来る・・
戦争と言う同じ失敗を繰り返しても
時代が変われば学習出来たりもする・・
江戸時代は戦争をしないという学習をした時代でした・・
昭和も戦争をしないと学習しました・・
現存在が絶対的ならば明晰な歴史的意識の無い実存無しの存在である。
自らの特殊な現存在の世界から他の現存在に連れ出されるならば
あるいは決定的な体験をした環境に対し自由に振舞い得ないならば
自己を喪失してしまう・・