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哲学自由議論 序曲

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[0] 葉隠武士 2007/07/19 09:04

タイトル通り、議題を特定しないで、皆さんに議論をしていただきたい。

最低限のルールとして、議論をする相手を特定する場合には、必ずその相手尊名を冒頭に入れる。レスアンカーを利用して、議論の流れを明確にする。

横レスも制限は加えない。

議論内容と全く関係のない誹謗中傷に関しては、私より厳重注意を行う。勿論、誹謗中傷が議論の起爆剤になることもあるので、いちいち細かいところにケチはつけない。

さぁ!古今東西、老若男女を問わず、何でも自由に語り合い、議論してください。

627件のコメント 1番から627番を表示中

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[1] 葉隠武士 2007/07/19 09:46

端は私から・・・昨日のエゼキエル氏とsunsar氏のやりとりは、「仮定と定理」というスレで、またしても尻切れとなった。

エゼキエル氏が「哲学のあり方」に関して、何かを開眼したように見受けられたが、その行く先が知りたい、そんな私の勝手強引な思いで、これを建てた。

sunsar氏は来るだろうか。私は間違いなく、来ると思う。

エゼキエル氏は受けるであろうか、間違いなく受けると思う。

哲学の不毛や空洞化に、甘んじようとするsunsar氏と、不毛や空洞化に抵抗しようとするエゼキエル氏の、いわば、死闘のようなものを、私は強烈に予感するのである。

sunsar氏・・・

ご自分の主張というものを、何もしないといふ立場を守り続けることが、一体貴方の何を高め、貴方の哲学が、何に貢献しうるかを、真面目に考えられたことがあるか。

自明の理である「死」まで、相対化し、符号化し、ゲーム感覚で、弄ぶ。恐らく、貴方に欠如しているものは、日本語の力などではない。日本語を潜り抜けた後に残される、ご自分の現実といふものに対する、畏敬だけなのであろう。

sunsar氏・・・。貴方は社会に出て、働かれたことはおありか。?

そして、貴方の周りに、哲学とは無縁で、生き死にしてをられる人たちの、如何に多いかを、ご存知であろうか。

sunsar氏。貴方がもしも、哲学と無縁で生きておられる人に、本当に哲学と無縁な人間の姿しか、感じられないというのであれば、貴方の考えられる哲学など、所詮、貴方のつまらぬ自尊の域を、出ないものだ、と思われよ。

他人との言葉の共有を、馬鹿馬鹿しいとして拒む、その貴方の姿勢は、当然、現実の社会にも通用しない。それでもこういう、無味乾燥な持論を、淡々と繰り返せるというのも、sunsar氏!貴方が現実の社会といふものと、関わっていない証拠であろう。

sunsar氏!哲学を侮辱することが、そんなに快感でおありか。!現実社会から遊離して、根なし草のような、持論主張を繰り返すことが、そんなに愉快であるのか。!?

sunsar氏・・・もしも貴方にひとかけらでも、人間らしく哲学したい願望があれば、いつでも参られい。!

[2] エゼキエル 2007/07/19 15:00

>>1
>昨日のエゼキエル氏とsunsar氏のやりとりは、「仮定と定理」というスレで、またしても尻切れとなった。

申し訳ない;また俺が終わらせてしまった…

>sunsar氏は来るだろうか。私は間違いなく、来ると思う。

たぶんsunsar氏は来ないと思うな。
何故なら、スレ主が「来る」と予言しているから(笑)
彼はあまのじゃくだ(爆)
相手が肯定するような質問の投げかけをし、その後でそれを否定する展開が大好きなんだよな。
彼は相手を否定するという行為に今は取り憑かれているんだろう。

まあ、「彼は来ない」と予言することで、もしかしたら彼は来るかもしれないわけだが(笑)

だが今更不毛なやりとりに関心は持てない。
折角の新スレなんだから、もっと有意義な議論をしようよ(笑)
俺としてはスレ主の哲学論をもっと伺いたい。

[3] Amandil 2007/07/19 16:35

葉隠武士さん、スレ建ておめでとうござます。
えーっと、sunsar氏との議論の続きはここでいいんですよね?

>>sunsar氏
http://philosophy.bbs.thebbs.jp/1183342152/943
http://philosophy.bbs.thebbs.jp/1183342152/963
>ともかく、疑う余地と反証の違いを具体的に教えてください。
疑う余地というのが、あなたがたびたび用いられてきた
「今後覆される可能性」のことであれば、疑う余地と反証は異なる概念でしょう。

>では、洞窟の壁が幻覚であった、ないし日本語のように見えたものは見間違いであったとします。
>このときは、これ(「これ」とはその文章や幻覚の内容のことを指す)は証明と認められますか?
たとえ幻覚や見間違いであっても、その文章の内容が正しく証明を成しているのであれば、証明でしょう。

あと、横レスですが、
>日常的(数学的)には確かにそうですが、哲学で言う明証性といった概念については
>「差し当たって真」の方の用語ではありません。
日常的であってはいけないのですか?
いくら哲学の場であるとはいえ、用いる単語の一文字一句、
その全てが徹底的に哲学して得られた定義に沿って用いなければならないのでしょうか?
そんな人間がいるでしょうか?

[4] sunsar 2007/07/19 16:52

>>3
僕としてはあまり好ましくありませんが。

>疑う余地というのが、あなたがたびたび用いられてきた
>「今後覆される可能性」のことであれば、疑う余地と反証は異なる概念でしょう。
そうですね。
では、疑う余地というのは「今後覆される可能性」のことであると認めるのですか?

>たとえ幻覚や見間違いであっても、その文章の内容が正しく証明を成しているのであれば、証明でしょう。
そうですね。幻覚は、純粋に脳内の現象です。
では、幻覚を見ている人にとって、正しいかどうかはどのようにして判断されるのですか?

>日常的であってはいけないのですか?
>いくら哲学の場であるとはいえ、用いる単語の一文字一句、
>その全てが徹底的に哲学して得られた定義に沿って用いなければならないのでしょうか?
>そんな人間がいるでしょうか?
日常用語を哲学用語に訂正された場合は、それを受け入れればよいと思いますが。

余談。
これらの問題を表面的な言葉遣いの問題だと感じている人も多くいるようですが、
僕はそうだとは思っていません。
「真であると言えることは何もない」ということは、
自己の主張の正当性を「証明」によって保ってきた人にとっては、
その正当性を失墜させうるという意味で耐え難い主張になりえます。
僕は、正しいという保障がなくなるだけで実際には特に問題ないと思っていますが、
哲学に「絶対的な」救いを求めるような人にとっては反論の対象になるわけです。

「自分の主張が常に誤りを含みうる」ということの何が問題なのか、理解に苦しみますがね。

[5] エゼキエル 2007/07/19 18:29

>>3
Amandilさん、またしても俺が前スレを終了させてしまい、申し訳ない。
ご不便をおかけします。

[6] 葉隠武士 2007/07/19 19:31

エゼキエルさん・・・レス遅くなって申し訳ない。貴方の言葉を噛み締めながら、やはり、その線での貴方の選択肢もあるのだな、と感情を堪えながら読ませて戴きました。

貴方が一つの殻を破られたとき、同時にそれは、何かを卒業することでもある。エゼキエルさんがsunsarさんとの議論のはてに、ご自身でこの掲示板との関わり方を考えられたのであれば、私は心から貴方の卒業を祝福したいです。

といいながら、・・・何か・・・寂しくもある・・・

エゼキエルさん・・・私は貴方との出会いというものが、私にとって、真に哲学との邂逅であったと思います。貴方がいなければ、こんなに長く、この掲示板と関わることも、無かったと思います。

このスレを勝手に立ち上げたことを、改めてお詫びします。貴方の気持ちも考えず、私の憶測を書いて、貴方の心の奥に、泥を跳ねたことを、貴方にお詫びします。

エゼキエルさん。どんどん上に行ってください。そしてまたいつでも教えてください。

ちょっとこれ以上言うのはキツイので、・・・ご容赦ください。

[7] 諸葛孔明 2007/07/20 06:29

常連の皆さん。私は葉隠武士殿の遺志を受け継ぎ、このスレを受け継ぎます。

よろしくお願い申し上げる。

[8] 未完 2007/07/20 07:03

おはようございます。こちらこそよろしく。
日々是新。

[9] 2007/07/20 08:32

三国志の人に進化(笑)面白い

[10] 諸葛孔明 2007/07/20 08:56

彼さん!ありがとう。sunsar氏と議論するための、進化ですな。(笑)よろしくお願いいたしますよ。(^.^)

[11] エゼキエル 2007/07/20 09:08

>>6
いやいやいや、そういう意味ではないから、お詫びはなしでお願いしたい。泥を跳ねたなんてことも思ってない。
期待されることは嬉しいことだしね。
ただ、俺は自分勝手なんだ(笑)
自分の中で結論の出たことに拘泥しているのは性に合わないだけなので。

常に聞き手であった葉隠さんの哲学をゆっくり聞く機会がなかったから、この機会に語ってくれると有難いね。
本来、俺の掲示板での目的は人の哲学を理解することなので、本旨に戻れると有難い。

って、諸葛孔明さんになられたのか(笑)
孔明さんも期するところがあるのかな。
改めて孔明さんの哲学を拝聴仕るよ(笑)

[12] 諸葛孔明 2007/07/20 09:19

エゼキエル氏。ありがとうございます。

私の哲学に対する志は、葉隠武士氏と同じです。しかし私は葉隠武士の言われる「情念」を知的に高めて参りたいと思っています。

「知者は知に溺れる」という言葉もございますが、知を自尊心の為に用いるとは、まさに愚の骨頂ですな。(笑)

エゼキエル氏。貴方は「鏡の兵法」をご存知であろうか。

[13] エゼキエル 2007/07/20 09:32

>>12
諸葛孔明さん。
スレの主旨に従って、冒頭に議論相手尊名とレスアンカーを(笑)

葉隠さんと同じ口調で頼むよ(笑)でないと、やはり寂しい(爆)
俺らは寂しんぼか(笑)

>「情念」を知的に高めて参りたいと思っています。

それは理解できる気がする。結局はそういうことなんだろうね。
帰納とはそういうことなんだと思う。極めて私的な情念から抽出されるところのものを、昇華させて、理論化する。
そういう視座に立つと、正直、反対へと振れる座標には興味が持てない。「ある」ところには当然「ない」が存在するが、「ない」には興味が持てないということ。
「ない」を論じる場合、どうしても論理ゲームの色合いは避けられないと思うのだが、何故「ない」を論じるのだろう、という疑問が自分の中にはある。
きっとふくろうさんあたりはこの答えを持っていそうなのだが、問題はそれに俺が納得できるかどうか、なのだと思う(笑)
論理ゲームに胸躍らせたこともあったが、今はまるで興味がないな。
現実に演繹できない理論に一体どんな存在価値があるのだろう。
もしかしたら、その答えをもう得てしまったから、自分には必要がないのかもしれない、とも思う。

[14] エゼキエル 2007/07/20 09:34

あ、俺、質問に答えてねえ;

>>12
諸葛孔明さん
>貴方は「鏡の兵法」をご存知であろうか。

いや、まるで無知だ。ご教示いただければ有難い。

[15] 未完 2007/07/20 09:54

ヘイヘイホォ〜
ヘイヘイホォ〜♪
気立てのいい子だよ〜
ヘイヘイホォ〜
ヘイヘイホォ〜♪

[16] 諸葛孔明 2007/07/20 10:09

>>13

エゼキエルさん(笑)何か・・・貴方の言葉の方が、葉隠武士氏の口調に、似て参りましたな。(笑)

いやこれは失礼。・・・エゼキエルさん。・・・私の哲学とは、ひとことで言えば、「鏡」と「彫刻」なんですよ。

「他人」に対しては、他人のどんな意見や態度に対しても、ただ、自分は鏡でありたいと願う、そしてね、自分の意見といふものを披露するときは、ただ、彫刻家でありたいと願う、それだけなんです。

鏡になる、彫刻家になる、とは、自分の情念や知性というものを、過信しない、といふ、深いかなしい確信に到ることだ。

おのれを鏡とすることで、映し出されたものの、真如を信じ、同時に、夢幻を信じる、といふことですね。

行動は、どんな作品になるか、本人さえ分からない、彫刻家の態度になる。与えられた材料の前で、真剣に悩み苦しみ、やがて手が動いてゆく、そんな彫刻家の仕事に、前提とか持論とかが、一体何の足しになろふか、それがいわゆる、哲学への畏敬というものでは、ないでしょうかね。

私にとって、哲学のあらゆる材料には、鏡と彫刻家の無私があれば、十分深化できると感じるのです。

[17] 未完 2007/07/20 10:11

同じ過ちを繰り返すことは、同じ痛みを伴うことになる。私は、厭だ。私は、もうこれ以上の苦痛には耐えられない。だから、私は私の嫌な過去を脱ぎ捨て、今日新に、明日を夢見る。
私には、自由に生きる権利がある。

[18] 諸葛孔明 2007/07/20 10:19

>>17
これが本来の未完さんの良心だったのですね。

私も凄くうれしいですよ。

[19] 未完 2007/07/20 11:04

なんか…

[20] 未完 2007/07/20 11:06

本来と言うより、本音です。

[21] エゼキエル 2007/07/20 15:18

>>16
諸葛孔明さん
鏡の葉隠れ氏は十分に拝見したが、彫刻家の葉隠れ氏はまだ見足りないな(笑)
代りに孔明さんの彫刻家ぶりを堪能させていただきたいね。ところで、

>真如を信じ、同時に、夢幻を信じる、といふことですね。

は、「夢幻」でいいのか?一瞬、「無限」の変換ミスなのかな、と思ったのだが。

>>18
俺もすごく嬉しいね。

[22] 諸葛孔明 2007/07/20 16:27

>>21

エゼキエルさん。レス遅くてすみません。

私は葉隠武士殿から貴方のことは、詳しくお聞きしてましたが、・・・やはり手強いですね。(^^)

貴方の洞察力には、何か美しい余力を感じますよ。

あれは「夢幻」ですね。「真如」と「夢幻」は、相反する言葉のようにも見えて、これ程酷似した意味の言葉もありませんね。真実の如くみえて、同時にそれは、夢まぼろしである。ただ、そう言ってこれほど詰まらぬ言葉もない。

だから、鏡を一枚置くしか無かった。いわば哲学とは、この、たった一枚の鏡といふものに、もがき苦しむことでしかない、となりましょうか。

哲学の空洞化に歯止めをかける、二つの方法・・・ひとつは、哲学を捨てること、もうひとつは、中庸を知ることです。

エゼキエルさんがsunsarさんとのやり取りにおいて、哲学の不毛と空洞化をお感じになられたのなら、それは恐らく、貴方が真に中庸を理解する、絶好の好機といふものを、与えられたのかも知れませんね。

今、よたん氏がいいスレを建てましたね。ほどなく私も参加させていただきますが、こういうスレで、原点回帰して、哲学の本来の活気を、取り戻していきたいと思います。

エゼキエルさん。私から貴方に教えることなんて、何もありませんよ。

一枚の鏡に、苦しみましょう。私は葉隠武士氏同様、貴方のため息と元気に、深い敬意と期待を、抱くだけですから。

[23] エゼキエル 2007/07/20 16:59

>>22
>諸葛孔明さん
なるほど、鏡写しだから「夢幻」の方で正解、というわけか。孔明さんの方が手強いよ(笑)
俺も実を言えば、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」よりもルイス・キャロルの「人生とは夢でなくて何だろう」の方により真理を見出す人間だから、孔明さんの言うことはわかる気はする。

>エゼキエルさんがsunsarさんとのやり取りにおいて、哲学の不毛と空洞化をお感じになられたのなら、それは恐らく、貴方が真に中庸を理解する、絶好の好機といふものを、与えられたのかも知れませんね。

その鋭さはどこからくるのかな。実に御明察。
俺が葉隠れさんから得たキーワードは「哲学の空洞化」と「中庸」だった。「中庸」についてはやりとりでは語らなかったが、やりとりの根幹を成すものが中庸だった。sunsar氏は頑として認めたがらないが(笑)彼に足りないものは中庸であり、それは感情のコントロールでもあるね。現に別スレで彼は他の論者からも「感情的」と指摘されているようだ(笑)誰も見る目は一緒だね。他人の指摘は一度は見ないとね。自分を改める絶好の機会なのに惜しいことだよ。
「ある」と「ない」の真ん中に位置することもまた中庸であると思う。ゼロの視点。感情のゼロ。それは「無」ではなく「満」なんだよな。「色即是空空即是色」。空でありかつ色である。ゼロでありかつ満である。
二律背反ではなく、中空思想なんだな。sunsar氏は二律背反だね。文句があるならレスつけるな、という姿勢もall or nothing.。主張には見るべきものはないが、あれだけ膨大に垂れ流されると観察するには絶好のモデルだね。

何も教えてくれないのか?それならば盗むしかないようだ(笑)しばし観察者に徹するのも悪くない。

[24] 諸葛孔明 2007/07/21 06:49

>>23

エゼキエル氏。おはようございます。
「中庸」について、貴方にひとつの謎を送ります。これを解かれてみてください。
フランスの思想家レミ・デ・グウルモンの言葉です。「無益な正論を子供のようにふりまわす、世の大糞馬鹿どもよ。その醜い顔を洗って、私の戯言を真摯に聞け。

偉大なる真理は、極論の果てにあるのだ。わかるか、馬鹿どもよ。極論の果てに、美しい中道がある。分かるか、大糞馬鹿どもよ。

美しい中道のみを求めようとして、極論を避けることも、中道を得るために、極論に敢えて身を置くことも、ともに救われない馬鹿というものだ。中道は焦がれて求めるものだという馬鹿が、いちばん始末に負えなくて困る。・・・。が、かく言う私も、始末に負えない馬鹿の一人に過ぎないことを、この私の醜い顔に誓って、断言しておこう。

さて、私には奥の手がある。・・・こんな馬鹿でも、中道に到る唯一の奥の手が・・・簡単なことだ・・・ただ、発狂するということ・・・」

さてエゼキエルさん。発狂を中道に到る奥の手だと言ったグウルモンの言葉の真意を、解釈してみてください。

[25] エゼキエル 2007/07/21 12:52

>>24
諸葛亮先生(笑)
先生は意地悪だねえ(笑)謎かあ…難しいな。

正論が無益なら俺は発狂でいいな、とは思うな。
実際、無益な正論に直に接してきた経路がある。正論だが、実に無益で不毛な主張。それを感情的に振り回し、感情的ではないという矛盾。その一本道から一歩も外へ踏みだそうとしない怯懦。臆病者に何がわかるというのか。自分だけを後生大事に守り、傷つくことを恐れて真理に辿り着こうとするから、他人の弁を借りてくるしかないのだろう。出てくる事例は全てフィクション。いかに現実から逃避しているかがわかる。

正論の一本道しか知らなければ、どこに中道があるかは理解できないという気はする。極論の果ての限界の壁に触るから、その真ん中が初めてわかるのではなかろうか。
極論を知る。その世界の全てを知る。だから、その真ん中の美しい道の存在がわかるのだろう。

さて、謎はここから先だな。
発狂の世界もその「世界の全て」に含有されると解くか?発狂することで極限に到達できると解くのだろうか?世界の果ての壁に触る。
そして、中道に戻ってくる。果てと果てがわかるから、その真ん中がわかる。

ダメだ。降参だ(笑)

[26] 諸葛孔明 2007/07/21 14:46

>>25

おおっ!・・・素晴らしい解答!!・・・まさにグウルモンが泣いて喜ぶであろう、情熱的な解答!

貴方の答えは100点満点で99点である。

残りの1点は、この孔明から差し上げる。

グウルモンの「発狂」とは、フランス革命以降の「人道博愛」を起点とした「中道・中庸」の思想が、当世の優秀な学者達の権威によって、形骸化され空洞化されていることに対する、彼独特の憂いだったようです。

なお、グウルモンに関しての私の洞察を、以下に記しました。http://philosophy.bbs.thebbs.jp/pin/Mirenjo/1184803459

[27] 諸葛孔明 2007/07/21 14:54

>>25

ああ折角書いた長文が、エラーになりましたね。(;_;)どうもすみません。エゼキエル閣下!

[28] エゼキエル 2007/07/21 15:01

>>24
諸葛亮先生。
おお、意外と高得点だ(笑)

>当世の優秀な学者達の権威によって、形骸化され空洞化されていること

権威による空洞化、というのはいつの世でも曲者なのかもしれないな。権威づけられたものを有難がる世間知らずの餓鬼どももいるしね。
明らかなものは何もない、と斜に構えつつ、自らは権威の能書きに依存している矛盾にまるで気づかない、よく言えば純真、悪く言えば単純なお子様も多い。
俺の哲学の師は東大出だったが、権威にまるで興味のない人だった。ジャージ着て雪駄履いてぶらぶら歩いてた(笑)講義案内に、大風呂敷の広げ方をお教えする、と臆面もなく書いていて、それ以来、俺は、哲学とは大風呂敷の広げ方を教えるものなのだ、と承知している(笑)

空洞化していく実態は、知を弄ぶことに悦楽を感じる人間がいる以上、止められないのだろう。空洞化を高度な議論だと思っている向きがあるのも周知の通りだ。
現実から乖離していく知に一体何の価値があるのだろう。
それはそれだけで十分に芸術的なのかもしれないが、哲学というものが本来鑑賞するものではなかったことを思い出す必要もあるような気はする。

[29] エゼキエル 2007/07/21 15:01

>>27
リンク先が読みたいが、どっか読めるところはないかな?

[30] 諸葛孔明 2007/07/21 15:47

>>29

一時間近くかけた文章なので、何とかしてみます。!

哲学が大風呂敷ねぇ(笑)

実に下町って感じ、昭和初期の哲学書生あたりを、思わず想像しましたよ。つまりエゼキエルさん。貴方の哲学は、下駄と共に去りぬ・・・ですな。

ただ「哲学が本来鑑賞するものでは無かったことを思い出す」のところは、確かに文脈からすると、私もイエスですが、深い部分では、「偉大なる哲学は芸術でもある。良く鑑賞に耐えられる思想でなければ、一流の思想とは云えぬ」も真と心得ます。

勿論、貴方には「釈迦に説法」でしたね。(笑)

sunsarさんの建てられたレスで、ひとり逸材を見つけましたよ。

五平餅・・・じゃなかった(笑)黄金餅さん・・・。

何か一陣の涼風でしたよ、あの方の言葉は・・・。

どこかエゼキエルさん!貴方を彷彿させる、「スピード」「キレ」「クオリティ」があります。またあの方の主張を、ご覧になって見てください。

[31] 諸葛孔明 2007/07/21 21:08

以前、宮本武蔵の『五輪書』を読んだとき、風の巻ってあったっけ。

哲学では風って、議題になるのかな。『白南風(しろばえ)』とか『東風(こち)』とか『手打ち風』とか『古風』『聞いた風なことを言うな・・・』とか、その風について、哲学出来るのかな。

『風光る』とか『風薫る』とかいうけど、風って本来、無味無臭だよね。そんな風の存在理由って、なんだろうかね。「何か」を「運ぶ」とか、「何か」を「知らせる」とか「何か」を「伝える」とか、媒体の役目は、確かにある。でも・・・それだけ??『風が悪い』とか『古風』とかは、媒体じゃない。そのものの主体の印象を示している。・・・・・・いやまてよ?・・・やっぱり「印象を伝える」という「媒体」なんだろうか。

風の洞察って・・・もうこれで終わり?・・・まさかね?・・・でも他に思い浮かびません。誰か?風を教えて・・・。

[32] 落ち武者 2007/07/22 09:34

哲学というよりは、国語になりそうな…。

で、まとめていいものと悪いものちゃんと区別して考えないと、ただのこじつけになってしまう。
「「あくまで」と「悪魔」には関連があるのだ!」みたいなトンデモ説になる。

考える方向として、例えばこういうのは?
「風がある」とはどういうことか。
自分が走った場合とどう違うのか。

[33] エゼキエル 2007/07/22 10:02

>>30
>偉大なる哲学は芸術でもある

大事なのは、芸術「でも」ある、の部分かと。
芸術オンリーになってしまうと空洞化するよってことだと思うんだよな。古典芸能と呼ばれるものを現実世界とリンクさせることの難しさみたいなものかも…比喩的に合ってるかな?(笑)

[34] エゼキエル 2007/07/22 10:17

>>31-32
諸葛亮先生。
風か。
アプローチの問題だな。
神話的アプローチで始めさせてもらおう。
神話的アプローチの目指すところは人類の風に対する原初的な意識を理解するということ。
現在ではあまり顧みられることのない「風」という現象だが、古代においては「風」は絶大な存在として受け入れられていた。
それは風信仰に見ることができる。
風の神は古い神話であればあるほど、重要な地位を占めていることがわかる。
日本でも風の神を奉る神社は少なくない。
風に対して人間が畏れを抱いていたことの証拠だと思う。

次は言語的アプローチを試みる。目指すところは神話と一緒だ。
>>31 で孔明さんが挙げているように日本に限定しても、様々な風を意味する言葉がある。
『白南風(しろばえ)』『東風(こち)』の「はえ」「こち」は外来語だね。何語だったか失念したが。
『手打ち風』『古風』『聞いた風なことを言うな・・・』の「風」は風の特性からの比喩的使用と見るが、さてどうだろう。
風の特性として、ある一定方向へ物をなびかせる、というものがある。その特性から、ある方向へなびいているものを「〜風」と表現するものかと。だから「手打ち風(手打ちの方向へなびく)」「古風(古い方向へなびく)」…「聞いた風なことを」はちょっと趣が異なるか。

とりあえずここまで。

[35] 落ち武者 2007/07/22 10:28

>>34
>風の神は古い神話であればあるほど、重要な地位を占めていることがわかる。
具体的には?

[36] エゼキエル 2007/07/22 10:57

>>35
落ち武者さん

神話カテじゃないから割愛したんだが(笑)聞いてくるんだな(笑)
カテ違いだが、まあ、紹介しておくよ。
北欧神話の主神オーディンは嵐を神格化したもの。
ヒッタイトの神話ではイルルヤンカシュと争った名前不詳の嵐の神のエピソードが伝わっている。
シュメール神話の主神エンリルも風の神だ。
とりあえず思い出せるのはこれくらい。

[37] ふくろう 2007/07/22 11:22

>>34
エゼキエルさん。

>神話的アプローチの目指すところは人類の風に対する原初的な意識を理解するということ。
>現在ではあまり顧みられることのない「風」という現象だが、古代においては「風」は絶大な存在として受け入れられていた。

そうですね、こういうの面白いですね。
たぶん、こういった原初的意識とつながっているのではと思うのですが、山でキャンプをして、夜中に物凄く風が鳴り、木々が呼応するかのようにどよめいているのをテントの中で聴いていると、

>風に対して人間が畏れを抱いていた

ということもよくわかる気がします。
それを「神」と呼ぶかどうかは別として、それがなんらかの「意志をもったもの」という気はします。
そのとき同時に、自分がいるテントの存在する場所も、理性的に捉えられる近代的宇宙ではなく、神話的宇宙の中であるような、そんな感じになります。

[38] 落ち武者 2007/07/22 11:36

しかしまた、
火や空、大地などと違って、風は神そのものというよりは、
その息であったり、袋に入っていたり、何かを振り回して起こしたものであったりした。

[39] 諸葛孔明 2007/07/22 11:53

皆さん申し訳ない!子守りで書き込みができないが、ロムはしてるから・・・ホントすみません。面白い!

[40] シリウス 2007/07/22 13:13

「聞いた風なことを」

という言葉は存在しません。

「利いた風なことを」

なら存在しますが(笑)

[41] エゼキエル 2007/07/22 13:23

>>37
>ふくろうさん
そうだね。守られるものの何もない吹きっさらしに我が身を置くと、古代人の風への畏敬は理解できる気がする。

>理性的に捉えられる近代的宇宙ではなく、神話的宇宙の中であるような、そんな感じになります。

たぶんね、現代人にとっての理性とは科学に裏打ちされたものだと思うのだが、それは自然への畏れを克服するのに役に立ったとは思うんだが、古代においては神話的な解釈はまたそれはそれで「理性的」なものだったと俺は思うんだよね。科学がそれに取って代わっただけで。理性の対極に神話を置くのは、だから自分としては違和感があるね(笑)

>>38
>落ち武者さん
正確に言えばダウトだな(笑)

>しかしまた、火や空、大地などと違って、風は神そのものというよりは、
>その息であったり、袋に入っていたり、何かを振り回して起こしたものであったりした。

しかしまた、という並列ではないんだよな。
神として畏れられていた時代と、風が息であったり、袋に入ったりするのは時代が異なるということだ。
当然、前者がより古く、後者はそれより後世ということになる。
神格化され畏敬されていた時代から、長い時を経て人間は風への恐怖を克服する。防風林を設置したり、より強い家屋を発明したりしてね。
だから、時代が下るに従って、風への畏れがかつてよりも小さなものへと変貌する。それが神話に反映されているというわけだ。
主神の座を占め、絶大な権力をふるった風の神はやがてその権力を失い、神の息や袋詰めにされたりするわけだ。
神格の剥落は、その対象への畏れが遠ざかったことを意味している。
人が畏れる対象が別のものへと移っていく過程だな。

その後、風がどう認識されるようになるかは、洋の東西で異なってくるような気がするな。風の音に秋の訪れを感じるのは日本人くらいだと聞いたことがあるからな。

>諸葛亮先生
子守とはハイセンスなことをしているな(笑)そこからも得ることがあるだろう。頑張ってください、とエールを送る。

[42] エゼキエル 2007/07/22 13:26

>>40
>シリウスさん
ちなみに広辞苑を引いてみた(笑)
「利いた風・聞いた風」存在しているよ(笑)

この「ふう」は「なびく」の援用だろうな。そっちの方向になびいている→それのような→ような=ふう、なんだろうな。
うむ。国語になったな。

[43] シリウス 2007/07/22 13:49

>>42
まあまあまあ。あんまり私を苛めるのもやめて下さいよ。(笑)
広辞苑まで引かれたんですか。
どんな言葉もそうですが、辞書によっては許容されているものがありますね。
正確には「利いた風なことを」なんですがね。

早期内定の事を「青田買い」と言いますが、「青田刈り」を許容している辞書もあります。

[44] 諸葛孔明 2007/07/22 14:01

>>42

閣下の風の話しは、実に含蓄があり深いですな。(笑)因みに自慢ではないですが、私も赤壁の戦いにて東南の風を吹かせました。(笑)

私にとっても、風は私の味方でもあり、私の存在を脅かす敵でも、ありましたな。(笑)・・・

風穴を開ける、とは面白い言葉ですな。・・・いや、また長男が、お父さん携帯見るな、と怒ってきましたわい(笑)

[45] エゼキエル 2007/07/22 14:27

>>43
>シリウスさん
苛めてないって(笑)
ちょっと調べてみただけだよ;;
字引は趣味なんだ(爆)辞書引いてると時間を忘れるw

>辞書によっては許容されているものがありますね。

そうだね。誤用も流布すれば許容例になるからね。

>>44
>諸葛亮先生
そうだった。赤壁の戦いで風を吹かせたんだった(笑)
あれは科学的にはどう解釈されるのだろうか。
気候の変化を知っていたのだとする説があるが、それなら呉の人たちが知らないのはおかしいという疑問が残るんだよな。
って、ホントこのスレは話題自由だな(笑)

>風穴を開ける
日本は気候上、案外、風には敏感なお国柄かもしれないね。
家屋も夏を基本として作られているというし。高温多湿では風をいかに取り入れるかは重要な案件だったろうしね。
ちなみに風も調べてみる。
「かぜ」という名称は、擬声語とも、「フカセ(吹かせ)」の「フ」が落ちたとも言われているらしいよ。

[46] エゼキエル 2007/07/22 14:30

>>43
>シリウスさん
ちょっと思ったが、「青田買い」と「青田刈り」では根本的に意味が違うよな(笑)青いうちに刈ってどうする、みたいな(笑)
そうか、刈ってしまうから今の若者は使い物になら、(ry

[47] 諸葛孔明 2007/07/22 15:21

>>45
閣下!

風の向きや強弱は、雲の動きや海の水の温度で分かる見たいですよ。例えば、雨や風雨のあるなしは、気象予報士よりも地元の漁師の見立ての方が、より現実的に正確だった見たいです。

孔明の知恵は、その道の達人とか名人とかの経験を細やかに聞き学び、その経験に対して、何の規則性も定理も、導き出そうとは、しなかったところに、あったと思われます。いわば、人間の弱い心は、偶然に因果を見たり、不規則に規則性を見い出そうとしたがるものだからでしょう。

彼は、科学的直感により、風の向きを知ったようです。

[48] エゼキエル 2007/07/22 15:32

>>47
>諸葛亮先生
「閣下」はなしの方向で(笑)確かに俺は偉そうだけどね(爆)

漁師の方が正確だったというのはわかりやすい話だが、呉の人は既にそうした経験則からも離れてしまってたってことなのかなあ、と思うんだよね。
周ユ(漢字が出てこん)なんかは土地の人だし、孔明よりそうした自然変化に詳しそうじゃない?なのに、なんで孔明にしてやられたかなあ、というのが疑問なんだよね。
やっぱりそこは宮廷暮らしが長くて土地勘鈍ってたってことなんですかねい?

[49] 諸葛孔明 2007/07/22 15:52

>>48

そのとうりだと思いますよ。軍師!

孫策、孫権の二代に仕えたといふプライドは、げすな漁師の経験なんか、耳にも貸さなかったでしょうね・・・って、歴史カテかって(笑)

[50] エゼキエル 2007/07/22 16:44

>>49
>諸葛亮先生
軍師も嫌だ(笑)呼び捨てでいいですから。
俺は周ユは嫌いじゃないんだが、どうも利に勝ちすぎるのかもしれんね。って歴史談義に明け暮れたところで。
じゃあ、そろそろ哲学に戻るか(笑)

風への畏れの気持ちが残っているのが「風邪」という言葉かなと。風が病を運ぶとかつての人は考えたのかもしれないね。
吹く風と病の風邪が同じ「音」であることは一考に価するだろう。

[51] 諸葛孔明 2007/07/22 16:58

>>50

エゼキエル!!そうか!音か!って、呼びづてはいかんわな(笑)

風と言えば、匂いや向きだけじゃない、確かに音があったよな。流石エゼキエルさん。この孔明の一番弟子だけある・・・って、俺は何様か・・・(笑)

風の音ってなんだ。?やっぱり空気の擦れる音なのかな。?

[52] 落ち武者 2007/07/22 17:03

>>41
「しかしまた」は確かに変だな。何に対してか分からん。

要点は、
古代とはいえ、風と、その神本体は別になってることがままあるよ
ということだわ。
例えばミトラ教では太陽のしっぽが風を起こすように。
というのは、身近な例に風を起こす仕組みを見てとることができ、古代人なりにも理解していたからじゃないか。
つまり、
・物を動かすと風が起きる。
・呼吸すると風が起きる。

[53] エゼキエル 2007/07/22 17:19

>>51
>諸葛亮先生
別に呼び捨てでもいいよ(笑)
孔明さんは恩人だからね。
どっかの餓鬼が呼び捨てにしたらキレるかもしれんけどね(爆)

「音」ってそういう音じゃないよ(笑)「風」と「風邪」では「かぜ」という響きが一緒だって言ったんだけど、まあいいや。どっちでも(笑)

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる

って和歌があったな。風の音は科学的にはいろいろと説明がつくんだろうが、さやけき風の音に注目するのは日本人くらいだろう、という話を聞いたことがあるが、知らないかな?
ヨーロッパでは疾風怒濤の音はあの有名な「魔王」って曲になっているね。シューベルト作曲、ゲーテ作詩だっけな。
なんかこの魔王を聞くと、俺は伊勢物語の白玉の露は何かと尋ねる話を思い出すわけだが。とりあえずどうでもいいな。
で、神話のところで挙げたけど、この疾風怒濤の元ネタは北欧神話の主神オーディンなんだよな。疾風怒濤の音を、死者の霊魂が通り過ぎる音だとあっちの人は解釈したわけだね。

しかし、この風ネタは、事象の羅列でなかなか理論になってかないな。こっから何か抽出できるのか?
誰か楔打ち込んでくれ。

[54] 諸葛孔明 2007/07/22 17:25

落ち武者さん!シリウスさん!抽出を頼む。

エゼキエルさんの風に打ち込む楔が見つからない。(笑)

[55] エゼキエル 2007/07/22 17:28

>>52
>落ち武者さん
>「しかしまた」は確かに変だな。何に対してか分からん。

うん。それがあると、並列になる。

>古代とはいえ、風と、その神本体は別になってることがままあるよ
ということだわ。
>例えばミトラ教では太陽のしっぽが風を起こすように。

ミトラは俺が挙げた古代よりも後の時代だね。ミトラよりもシュメールのエンリルの方が古い。だから、風の神が絶大な権力をふるったのは本当に古代なんだよな。いかに早い段階で人間が風の脅威を克服したかがわかる。

>というのは、身近な例に風を起こす仕組みを見てとることができ、古代人なりにも理解していたからじゃないか。
>つまり、
>・物を動かすと風が起きる。
>・呼吸すると風が起きる。

これには同意。
古代人は古代人なりに科学的に理解はしていたと思うんだ。ただ、まだ科学的な用語がなかったから、それを神話という形で理解していたんだと思うんだよね。表現法が違うだけで、神話はそれなりに科学的だと俺は思ってるんだが。

[56] 未完 2007/07/22 17:36

エゼキエルさん、

何かを求めぇーて
振り返ってもぉー
そこにぃーはただ風がぁー
吹いているだけぇー
振り返らず
ただひとりぃー
一歩づぅーつー
人は誰も
ただひとりぃー
生きていくだけぇー♪

って、歌知ってる?
今日、NHKでやってたけど いい歌やね。

[57] エゼキエル 2007/07/22 17:44

>>56
>未完さん
それはふぉーくぶーむの頃に流行った歌では…
孔明さんの方が知ってそうだ。

でも、歌詞書くと著作権違反で訴えられるよ(笑)

[58] 諸葛孔明 2007/07/22 17:47

>>55

神話が理性的で科学的というのは、私も直感的に強烈に共感しますよ。理論に耽溺しない神話の逸話の表すところは、まさに、虚構などではなく、真理の象徴ですからね。誰も逸話は嘲笑出来ない。あぁ・・・こういう話しは、故・葉隠武士氏の得意だったのに・・・。

[59] 諸葛孔明 2007/07/22 17:52

>>57 >>58

私が長老か(げらげら)

[60] エゼキエル 2007/07/22 17:53

>>58
>諸葛亮先生
>こういう話しは、故・葉隠武士氏の得意だったのに・・・。

いやいやいや;;故はやめよう;;
死を弄んではいけないよ(^^;俺ぁ好きじゃない(だからどーしたなのだが)
そういや、先日、河合隼雄氏が亡くなられたな。大林太朗氏に続いて惜しい人が鬼籍に入られてしまった、とつくづく思う。

[61] 諸葛孔明 2007/07/22 18:06

>>60

形あるものは滅び、形なきものは、受け継がれる。そうでしたか・・・ご冥福をお祈り申し上げる(-.-)

・・・で・・・風の抽出と楔の話しは・・・今、どうなったの?(笑)

[62] エゼキエル 2007/07/22 18:11

>>61
>諸葛亮先生
>・・・で・・・風の抽出と楔の話しは・・・今、どうなったの?(笑)

どうもなってねえ(笑)
とりあえず放置、だなw
放置すると熟成するからたぶん抽出も可能になるんじゃないかと。

[63] 諸葛孔明 2007/07/22 18:19

自然発酵か・・・(笑)。ちょっと真剣にこれまでのレスを読み返して見るよ。ひょっとしたら、楔なんかよりいいものが打てるかも知れない。(笑)

やっぱりハンネとは自己矛盾の、理解の貧しさだな・・・情けないよ(笑)

[64] 諸葛孔明 2007/07/22 18:55

>>53

エゼキエルさん
>>この疾風怒濤の元ネタは北欧神話の主神オーディンなんだよな。疾風怒濤の音を、死者の霊魂が通り過ぎる音だとあっちの人は解釈したわけだよ。

しかし、この風ネタは事象の羅列でなかなか理論になってかないな。

事象の羅列とは何のことですか。?

理論って、貴方のおっしゃられる理論という定義が、僕にはよく分かりませんが・・・(笑)・・・

どうです(爆笑)こんな言い方・・・(爆笑)

取り敢えず質問は真面目です。

[65] エゼキエル 2007/07/22 19:09

>>63-64
>諸葛亮先生
>どうです(爆笑)こんな言い方・・・(爆笑)

あはははははは(^^;どうです、じゃねえよ、普通にむかつくよ(爆)

>事象の羅列
風にまつわるよしなしごとをただ並べてるだけだなあ、と思ったんだよ。風の神の話から始まって、風邪との音の符合、魔王の話とか並べて、で?って感じだな、と。

>理論
なんかそこから抽象概念が抽出できねぇかなぁ、と思ったの。

まあ、とりあえず思ったのは、風という存在にはもともとあまりいいイメージはなかったということかな。
ヨーロッパの死霊の狩猟団といい、日本の「風邪」との符合といい、やはり畏怖の念の方が強いんだろうな。
目に見えないだけに畏れる気持ちは強かっただろうね。

[66] 諸葛孔明 2007/07/22 19:41

>>65

エゼキエルさん

>>53 だけでは無かったのですね。(笑)了解しました。
今のところ、何も抽出出来そうにありません。やはり時間を置きましょう。失礼しました。

[67] ふくろう 2007/07/22 22:53

>>41
エゼキエルさん。
なるほど、非常にエゼキエルさんらしい一貫した感想ですね。
それでは私も、私らしいと思われるかもしれませんが(姑息?(笑))、古代の人々に失礼だといけないので、誤解なきよう訂正させていただきます。

>>37
>そのとき同時に、自分がいるテントの存在する場所も、理性的に捉えられる近代的宇宙ではなく、神話的宇宙の中であるような、そんな感じになります。

× 理性的に捉えられる近代的宇宙ではなく、
⇒○ 近代的理性に捉えられる宇宙ではなく、

ちなみに私は、宇宙の説明方式として、古代の神話的説明が、近代科学的説明方式よりも絶対的に劣っているということはない、という見解には同意します。
すなわち、神話的説明も近代科学的説明も、それぞれ宇宙を説明するひとつのパラダイムとして、絶対的な意味の優劣はない(相対的にはもちろん優劣を比較することは可能ですが)、と考えます。
おそらくエゼキエルさんがおっしゃったのもこういうことなのではないかと思います(もちろん、すべてではないかもしれませんが)。

しかし私はそれと同時に、これらが独自のパラダイムに基づくもので、それらによって解釈される宇宙(観)は、根本的に異なったものであるという点を強調したいと思います。
たとえば、同じ理性を有する人間の、単に二つの異なった世界解釈、というふうに捉えると、本質を見落とすことになると思うのです。
なぜなら、宇宙(観)が違うということは、それと相即して、そこに住まう人間(観)もまた異なる、ということを意味するからです。

諸葛孔明さん、「風」のテーマからズレちゃって、すみませんね。
このテーマは興味深いと私は思っています。
なぜあなたが「風」を考察のテーマにしたいと考えられたのか、よかったら教えてもらえませんか?
きっとあなたの哲学的センスに何かひっかかるものがあるのではないですか?

[68] エゼキエル 2007/07/23 00:22

>>67
>ふくろうさん
>近代的理性に捉えられる宇宙ではなく

その訂正なら了解だ(笑)

>たとえば、同じ理性を有する人間の、単に二つの異なった世界解釈、というふうに捉えると、本質を見落とすことになると思うのです。
なぜなら、宇宙(観)が違うということは、それと相即して、そこに住まう人間(観)もまた異なる、ということを意味するからです。

同意。
俺も同じ理性を有する人間の単に異なる世界解釈、とは捉えることは危険だと思う。宇宙観の違いが人間観の違いである、ということにも同意だよ

[69] 諸葛孔明 2007/07/23 02:44

>>67 ふくろうさん!
もう(笑)ふくろうさんたら・・・お人が悪い(爆笑)

人のおだてかたに、実にご堪能でらっしゃる。

私が風をテーマにしようと思ったのも、実はふくろうさん・・・エゼキエルさんには内緒なんですが、「風」というものは、どうも哲学の本質を直撃しているように感じて仕方ないのです。

「私の心に、一陣の風が吹いた」なんて言うでしょ。
これ、比喩のように見えて、比喩じゃない、哲学の本質だと直感します。でもこのことは、エゼキエルさんには内緒ですよ。

[70] ふくろう 2007/07/23 07:52

>>69
孔明氏。
いやいや、エゼキエルさんにはね、最初からバレバレだと思いますよ(笑)
あなたのそういう直感力に一目も二目も置いてられるのがエゼキエルさんですから。

哲学の本質ということなら、あなたに哲学の王道と言える問いかたでお尋ねします。

あなたにとって「風とは何か?」

さあ、スレ主として、テーマ設定者として、責任をとってお答えください孔明氏!(笑)

[71] 諸葛孔明 2007/07/23 08:48

>>70
はっはっはっはっ
ふくろう殿(笑)あっぱれなる度胸!!この孔明に責任を取れとな。(笑)

では私の拙い直感を申し上げる。

「風とは、言葉の重みだね。言葉の重みに、感心したり、威圧されたり、不愉快になったり、解放されたり、それがまた、言葉の重みのもつ「風」なのだろう、と思う。そしてその風を知ることこそが、哲学の本質なのではないか、と私は感じている。

さらに言葉とは、口から発せられる饒舌や雄弁だけではない。たった一言であったり、時に沈黙であったり、ときに妄語であったりもする。

太古の人間がしていた、厳粛な哲学とは、「命名」ではなかろうか。あらゆる存在に敬意を払い、その存在の「呼び名」といふものを、考える、これがまさに、太古の人間が行った、真摯な思考活動といふものでは、無かったか。

食べるものと食べられないものの区別を、彼らは「ミミズのような形をした言語」で、了解した。この、命名といふ行為こそは、おのれの種族の共栄共存のために、必須であったといふ以前に、太古の人類にとっては、あらゆる存在に神を観るほどの、神聖深淵なる、思考儀式というものでは無かったのか、と私は想像する。

顧みるに今日、「命名」とは、子供の生誕に合わせて、親が名前を考える、という狭義の意味に、限定されてはいるが、実にこの「命名」こそ、太古哲学の本質であり、妙味といふものではないのか、つまらぬ想像を、抱いています。

風は言葉の重みである。もし哲学が、太古の人間が感じた、この、「命名」という自覚に立ち返るならば、それは、人間にとっても、哲学にとっても、健全なことであろうか、とも思う。「命名」の自覚を失った言葉の群れが、いわば、風を失った哲学が、どのように難解な理屈を迷走しようとも、生まれ来る子の名前に、幾日も費やす親の思考活動には、その喜びというものは、足元にも及ぶまい。

つまらぬ答えでしたな、ふくろうさん(笑)

[72] ふくろう 2007/07/23 10:23

>>71
諸葛孔明さん。
さっそくのお答えありがとうございます。

言葉というものの重要性についての考えについては、私なりにある程度理解できるつもりです。
ただ、残念ながら、言葉の重みと風がどうしてつながるのか?というところがいまひとつ私にはピンときません。
直観的なるものなので言葉にできるわけねーのだ、とはおっしゃらずに(笑)、なんとか説明してもらえませんか?

ちょっと時間がないので、とりあえず質問だけm(_ _)m

[73] 諸葛孔明 2007/07/23 11:06

>>72

貴方には納得しずらいことでしたね。(笑)ではこの先の私の説明は、貴方に伝えるための、辻褄合わせということで、あまり期待しないでお読みください。

風を何故、言葉の重みと言ったか、実は、そういうより他に形容が無かった、というのが、正直なところでしょう。

「新風を興す」という風も、新たな言葉の力を巻き起こす、というニュアンスを帯びているでしょう。

私は初め、風は媒体だと言いました。しかし、何かを運ぶ媒体である風が、突然に、運ばれる目的物に科学変化するときに、私はそういう風とは、人間の言葉以外に無いのだと思うのです。

例えば、風が爽やかさというもの、爽快感を運んでくることを考えます。そのときほとんどの人が、「風が気持ちいいね」と言うでしょ。

そのときの風は、確かに、媒体であると同時に、「爽やかさや気持ちよさ」を含んだ、目的物である、ともいえましょうね。

ところがふくろうさん。そこで「ちょっと待て」なんです。

sunsar氏ではないが、「風が爽やか」だと感じた、その「爽やか」って、本当に風のことなのだろうか、というところなのです。

つまり「空気の移動」でしかない「風」自身に、爽やかさというものは無い。

爽やかというのは、ある意味、人間の主観でしょ。もし風が、爽やかさというものを人間に運んだ、と考えたら、じゃあその爽やかさの発信元をたどれば、何と、受け取り先である人間そのものといふことになりますよね。だって爽やかは、受け取り側である人間の中にしかないからです。

ならば私はこの矛盾をこのように考えるのです。

「風が爽やかだね」と人が言うとき、風は「爽やかさ」を人間に「運ぶ媒体」ではなく、その人間の裡に眠っているものを、目覚めさせる媒体・・・つまり「覚醒させる媒体」として、働いたのだ、と。

つまり風は、人間の外側では運ぶ媒体だが、人間の内面にあっては、覚醒させる媒体だ、という考察に導かれるのです。

取り敢えずここまでは異存ございませんでしょうか。

[74] ふくろう 2007/07/23 11:43

>孔明さん。
大変興味深い考察です。
続きをお願いしますm(_ _)m

[75] 諸葛孔明 2007/07/23 13:22

ありがとう。ふくろうさん!
だが、この考察も極めて表面的ですよね。

そこで私はもう一歩踏み込んで考察します。つまり・・・風が覚醒した「爽やかさ」って、何だろう。単なる五感ではあるまい。いや、五感には違いないのだろうが、肉体的なものではなく、風と自分との間にある「爽やかさ」というものに対する、精神的な共感見たいなもが、もっと言えば、風と人間の間には、「爽やかさ」についての言語的な暗黙の了解がある、ということです。

「爽やかさ」についての、風と人間とのあいだにある言語的な暗黙の了解!?・・・彫刻家でなければ、こんな表現は彫れないでしょうね。(笑)

つまり、「爽やかさを感じるのは自分自身である」をA、「風が自分の爽やかさを覚醒させる」Bとすると、A、Bの考察から「風が爽やかさやね」の結論は、普通論理的には出てきません。A、Bから導かれる爽やかさの論理的結論は、
「風が爽やかさをかんじさせてくれるね」となります。.

だが、爽やかさについての、風と人間の間にある暗黙の了解は、風を媒体として扱うことを、互いに良しとせず、風を爽やかさの主演として呼ぶことを、要求するのです。

ふくろうさん。実は私が始めに、「命名」という行為についての、考察を行ったのも、風が太古の時代には、神として遠く、言葉として近い存在である、という信仰が、恐らく「風」といふ「呼び名」を発明したときに、一緒に成立していたのではないのかな、と思うわけです。(うーん!ここは飛躍だな(笑))

ふくろうさん!正直言って、今の段階で、私の直感と理論を結びつける言葉が、まだ見当たらない。これが、思想彫刻家である私の、今の素直な限界であることを、貴方にさらして、一旦ここは撤退します。また、論理が閃いたら書きますし、貴方に気が付くことあれば、お願いします。

[76] 諸葛孔明 2007/07/23 13:45

追記
「爽やかさについて、風と人間とのあいだに、言語的な暗黙の了解がある」という言葉も、直感の域をでず、論理の飛躍も否めない。では何故、このような言葉が出てきたのであろうか。

実に判然としないまま、書いている。

何故この魑魅魍魎な表現と論理の飛躍となったか。風というものについての、言葉の印象を、逆に辿ろうとしたゆえの、天罰であろうか。

いやいや、まだまだ罰など当たっていない。そもそもこのレスが、誰に何の為に書かれているのか、当の本人にも、分かってはいないのだ。!

再び撤収。

[77] 諸葛孔明 2007/07/23 16:07

閃きました。!!ふくろうさん。風と人間とのあいだに成立した「言語的な暗黙の了解」とは、エゼキエルさんがおっしゃられた、太古の人間が風を克服するまでに成立していた、風と人間との暗黙の了解でもあった。!!

つまり、太古の人間と、風のあいだにあった、「脅威」と「親近」の同棲は、太古の人間に「風をあなどってはならないぞ」という、信仰にも似た「畏敬」を、潜在的に植え付けられていた。そしてそれは、あまりにも早い時期に克服されて仕舞ったため、2007年経った今日に於いても、誰にも省みられることもなく、太古の状態のままで、とり残されてしまっている、と思われる。それは紛れもなく、風害なんぞを、一度も経験したことのない、私の脳裡にさえも、微々たるものではあろうとも、脈々と受け継がれてきたのである。

もし、その太古の記憶というものが、人間の自衛本能の奥底深くに、ねじり押し込まれて仕舞ったのなら、「風」というものに対する、恐怖や憧れは、十分得心のいくものである。

人類は良くも悪くも、風を克服してはいない。台風でもない限り、この力に対する備えも、考えぬ。

そして、風と人間のあいだにある「言語的な暗黙の了解」とは、風といふものに対する、何とも形容の出来ない、畏敬の感情というものが、私の思考と口を借りて、この機とばかりに、今日まで押し込められたうさを、晴らしたのかも知れぬ。

つまり、今でも人間は、風に対する、隠れた畏敬をもっている、憧れをもっている。ならばその憧れというものは、風という言葉の使われ方というものにも、如実に現れてしまうのである。

この考察の結果、私は「風とは言葉の重みである」といふ言葉を、現段階では、撤回訂正しなければならぬ。

「風は、人類の歴史のなかに、押し込められて来た、人間との言語的な暗黙の了解の、重みである」と。

そしてこれが、哲学の本質と、どう関わって来るのかについては、私の直感は、まだ何も教えてはくれません。

[78] 未完 2007/07/23 16:58

普通に考えて、風は温度差によって実現している。
大気は、なにもなければ、地球にへばりついているだけ。
地球が自転していても慣性の法則に従って、地球の動きに合わせている。しかし、一つの例として、15度地軸が傾いているから、地球が公転している間つまり季節によって、太陽光線の当たり具合がかわり、地域の大気の温度差を生じさせる。暖められた空気は上昇しようとする。まわりの空気が移動する。空気の流れ。すなわち、これを風といふ。

[79] 未完 2007/07/23 17:33

ここで、一つ考えなければいけないのは、地球を地の球と考えるならば…と、いうことです。
地球も、夜空に輝く同じ星だと考えることができるならば、大気も月も、星の一部とみなすことができる。
さて、どの方向へ向かいたい?
地表のほうがリアルかな?

[80] 未完 2007/07/23 17:46

違ったね。
人間と風の関係だったね。
私も、成り行きを見守りましょう。
大変失礼いたしました。
そうそう、物理の計算において、大気の圧力は忘れられがちなそうです。余談でした。

[81] チーズ 2007/07/23 18:44

永遠不滅と無を
弱さと強さを
こういう両極端を同時に内包していて
目に見えない大切なこと・・
自己矛盾に陥ったときは風になりたいです。

[82] 諸葛孔明 2007/07/23 19:31

>>79>>80
未完さん有り難う。

確かに温度差によって発生する、確かにそのとおり。
>>81

風になりたいね。本当に・・・。

[83] エゼキエル 2007/07/23 20:12

>諸葛亮先生
>ふくろうさん

なんだよ、二人で十分、楔を打ち込んでいるんじゃないか。
しばらくは傍観者でも十分楽しめそうだ(笑)

>>71
>哲学とは、「命名」ではなかろうか

相変わらずこの人は素人だのとぬかした舌の根も乾かぬうちにぺろりと痺れることを言う(笑)
ああ、そうだな、哲学とは命名なのかもしれない。
イメージを言語で括り、輪郭を与えるもの、それが哲学なのかもしれず。

>言葉の重みのもつ「風」なのだろう

蓋し名言だな。イメージに命名が行われる時、常にそれは「こんなふうな」ものだという共有のイメージを得て、名前がつく。
「こんな風なもの」
つまり、それはそちら側になびく、そちら側にベクトルを持つイメージなわけだ。なびくものは「風(ふう)」とまず名付けられる。
古めかしければ「古風」と呼ばれ、現代的ならば「今風」と名付けられるわけだ。そこから更なる名詞を得ていくわけだが、最初の段階として与えられる名前、それは確かに「風」なのかもしれない。

>>73
>風は媒体だ

確かに媒体というのも重要なファクタだね。
俺がもっとも関心のある神話における神の役割に境界と境界を繋ぐものという概念がある。生と死を繋ぐもの、あの世とこの世を繋ぐもの、過去と未来を繋ぐもの。
あらゆる両者を行ったり来たりするものの存在は、古代神話においてはとても重要視された。現代では他者との境界は単なる線に過ぎないかもしれないが、移行する時間軸、移行する異世界の間を行き来するものに古来、人間は関心を払ってきた。
だから、神が三柱であることが重要となる。
創造するものと破壊するものを繋ぐ媒体者、維持するものの存在。
インド神話でいえば、創造するブラフマー、破壊するシヴァ、そして維持するヴィシュヌ。
東洋では中心をなす存在に傀儡的な存在を置く。中空思想だ。
よく言われることだが、三国志では関羽、張飛を従えてもっとも影の薄い劉備が中心を為す。水滸伝での宋江もあまり活躍しない。
そういう存在を理想とし、そういう存在を真ん中に据えた。
両者を繋ぐものは、真ん中を統べるものでもあるわけだ。
風が媒体であることはとても重要なことだと思う。

かつての国家は内的世界は善で、外的世界は悪だと理解されていた。だが、王は外的世界との交流もしなければ、内的世界を守ることができないという矛盾も抱えている。内的世界と外的世界を繋ぐものの存在がここに必要となる。それが道化であったと言われている。よって、道化とは外国人がなることが多かった。道化は愚かであるがゆえに外的世界と通じ、愚かであるがゆえにそれを許された。道化という存在が国家の内包する矛盾を昇華していたわけだ。
人間にも同様のことが言えないだろうか。
内的世界と外的世界の矛盾に風穴をあける存在が必要なのではないだろうか。

風が空気の流れならば、人間の言葉を伝えるものもまた空気の流れなのだろう。
言葉により共有される普遍的概念が哲学であるならば、それを媒介するものもまた風なのだろう。

[84] ふくろう 2007/07/23 20:59

>>73>>75-77
諸葛孔明さん!
これはお世辞抜きに本当に興味深い考察です!
あなたは風と言語とのある本質的共通性を直感的に感じ取っておられるのだと私は思います。
たぶん、こういうのを「メタファー思考」と呼ぶのではないかと思います(自身はありません(笑))。
私の解釈では、あなたの「風」論は、即ち「言語」論であると思います。
つまり、あなたの風論は、そのまま言語論として読むことが可能なのです。
というのは、あなたはこう述べています。

>私は初め、風は媒体だと言いました。しかし、何かを運ぶ媒体である風が、突然に、運ばれる目的物に科学変化するときに、私はそういう風とは、人間の言葉以外に無いのだと思うのです。

ここであなたは明らかに、媒体としての風は言葉に他ならない、と主張しています。
そこであなたの主張通り、次のようにあなたの「風」論の文章にちょっと変更を施します。

 風 ⇒ 言葉
 爽やかさ ⇒ 意味

つまり、あなたの風論がほとんどそのまま言語論でもあることを示すために、「風」という語を「言葉」という語に置き換え、「爽やかさ」という語を「意味」という語に置き換えることを中心に、ちょっとだけあなたの文章に手を入れます。
以下、(言葉)のようにカッコでくくった語が変更したものです。
すると、どうなるか?ご覧あれ(笑)

>例えば、(言葉)が(意味)というもの、(意味感覚)を運んでくることを考えます。そのときほとんどの人が、「(言葉)が(有意味)だね」と言うでしょ。

>そのときの(言葉)は、確かに、媒体であると同時に、「(意味)や(意味感覚)」を含んだ、目的物である、ともいえましょうね。

>ところがふくろうさん。そこで「ちょっと待て」なんです。

>「(言葉)が(有意味)」だと感じた、その「意味」って、本当に(言葉)のことなのだろうか、というところなのです。

>つまり「空気の(振動)」でしかない「(言葉)」自身に、(意味)というものは無い。

>(意味)というのは、ある意味、人間の主観でしょ。もし(言葉)が、(意味)というものを人間に運んだ、と考えたら、じゃあその(意味)の発信元をたどれば、何と、受け取り先である人間そのものといふことになりますよね。だって(意味)は、受け取り側である人間の中にしかないからです。

>ならば私はこの矛盾をこのように考えるのです。

>「(言葉)が(有意味)だね」と人が言うとき、(言葉)は「(意味)」を人間に「運ぶ媒体」ではなく、その人間の裡に眠っているものを、目覚めさせる媒体・・・つまり「覚醒させる媒体」として、働いたのだ、と。

>つまり(言葉)は、人間の外側では運ぶ媒体だが、人間の内面にあっては、覚醒させる媒体だ、という考察に導かれるのです。

>そこで私はもう一歩踏み込んで考察します。つまり・・・(言葉)が覚醒した「(意味感覚)」って、何だろう。単なる五感ではあるまい。いや、五感には違いないのだろうが、肉体的なものではなく、(言葉)と自分との間にある「(意味)」というものに対する、精神的な共感見たいなもが、もっと言えば、(言葉)と人間の間には、「(意味)」についての言語的な暗黙の了解がある、ということです。

>「(意味)」についての、(言葉)と人間とのあいだにある言語的な暗黙の了解!?・・・彫刻家でなければ、こんな表現は彫れないでしょうね。(笑)

>つまり、「(意味)を感じるのは自分自身である」をA、「(言葉)が自分の(意味)を覚醒させる」Bとすると、A、Bの考察から「(言葉)が(意味)やね」の結論は、普通論理的には出てきません。A、Bから導かれる(意味)の論理的結論は、
「(言葉)が(意味)をかんじさせてくれるね」となります。.

>だが、(意味)についての、(言葉)と人間の間にある暗黙の了解は、(言葉)を媒体として扱うことを、互いに良しとせず、(言葉)を(意味)の主演として呼ぶことを、要求するのです。

以上、どうです?
面白いでしょ?
まさしく、孔明さんは風に語りつつ、同時に言語について語っているのです。
この観点に立って読めば、>77は、一種の言語思想を述べたものと解釈できます。
そして、それはエゼキエルさんが抜群のタイミングでレスしてくださった内容とも、リンクしていくと思います。
そのことについてまた改めて。

[85] 諸葛孔明 2007/07/23 21:04

>>83
エゼキエル騎士!

やっぱり貴方の洞察の方が、遥かに面白いわ。(笑)

>イメージを言語で括り、輪郭を与えるもの、それが哲学だな

私、こんな潔い表現なんか出来ません。(笑)やっぱり貴方の方が、凄いですよ。(笑)

最後の軽い国家論は、圧巻だな。あれ「道化」って、「おどける」って捉えていいのかな。?ピエロみたいなのイメージしていいのかな。?もしそうなら、国家の外的世界と内的世界を道化で融合させる貴方の記述は、卓見中の卓見ですよ。

流石、東大文学部民俗学科の知性は、・・・私のような自称哲学者には、雲の上のような憧れですわ。(笑)!

[86] 諸葛孔明 2007/07/23 21:13

ふくろうさん!

私はどうしたらいいのですか。?(笑)貴方にあんな風に料理され手玉に取られたら(爆笑)・・・いやいや、風を言葉、爽やかさを意味に置き換えると、・・・いや、私もびっくりですわ。ふくろうさん・・・これは面白いというより、怖いです。やっぱり正真正銘の変人ですね。(笑)

[87] っ^∀^ っよたん 2007/07/23 21:27

私も言葉には何か原始的な、原風景的なものを感じるんであります。
それは、そう、風が初めて吹いたとき・・の感動のような、そういった感動を、原風景を、内蔵して今に至って居るかのようである。

[88] 諸葛孔明 2007/07/23 21:31

>>87
やっぱりあるんですよね。言葉に対する原始的な「畏敬」って・・・。貴方なんか特にそれを深く感じやすいのじゃないのかな。(笑)

[89] 諸葛孔明 2007/07/23 21:36

>>86
の変人とは、私のことを形容したもの(笑)誤解なきよう

[90] っ^∀^ っよたん 2007/07/23 22:58

>>88
ひょっとしたら言葉の製作者は、言葉を自然として作ったのかもよ?w
その制作意図はとっくに忘れ去られている・・などと想像してみた。

[91] エゼキエル 2007/07/23 23:25

>>84
国家論については故河合隼雄先生の本のそのまんまなので(笑)俺の卓見なんかじゃございませんので、お間違えのなきよう。
媒介するものの例として最適かなと思って引いてみた。引用じゃないので出典は書かなかったんだが、それでも卓見とわかるあたり、さすが孔明先生だよ。
道化はピエロの方だね。道化師っていう、あの道化。シェイクスピアなんかによく出てくると思うんだが。

東大出でもないので(笑)哲学の師が東大出だったってだけだよ。
俺は田舎の大学出(笑)金も頭もなかったんでね、東大なんて無理(笑)

孔明先生の直感にふくろうさんと俺とで改めてアプローチさせてもらったという感じだね。
楔を打ち込む人がいる。思考を耕す人がいる。そうして抽出される理論がある。一人では辿り着かない真理に掲示板では辿り着ける。議論する意味がそこにあると思う。
すごい有難い僥倖だよ。
俺には直感がないから、孔明先生のような直感を得て初めて辿り着ける境地もあるんだ。
掲示板にいる意味という奴だね。感謝感謝。

言葉については語り尽くせぬ思いが俺もあるが、それはまた改めて。

[92] ふくろう 2007/07/24 00:12

>>83
エゼキエルさん。

>神話における神の役割に境界と境界を繋ぐものという概念がある。生と死を繋ぐもの、あの世とこの世を繋ぐもの、過去と未来を繋ぐもの。
>あらゆる両者を行ったり来たりするものの存在は、古代神話においてはとても重要視された。現代では他者との境界は単なる線に過ぎないかもしれないが、移行する時間軸、移行する異世界の間を行き来するものに古来、人間は関心を払ってきた。
>内的世界と外的世界を繋ぐものの存在がここに必要となる。それが道化であったと言われている。
内的世界と外的世界の矛盾に風穴をあける存在が必要なのではないだろうか。

私も同じことを考えていたんですよ。
そして神話学や文化人類学からの見方を書いてもらおうと思ってたら、その前に来てました(笑)

言語における風、すなわちコード=規範の外部と内部とを越境するもの、それは詩的言語です。
コードを逸脱し、日常と非日常、生と死、境界線を消し去るもの。
風とはどこにも属さず、どこからともなく現れ、どこかへ過ぎ去っていく、遊牧民であり旅人であり、流れるもの、でしょう。
風は本質的に、流れるものであり、差異の運動です。
風は存在が明らかなのに、いわばその痕跡しか見せない、そのような存在とも解釈できるでしょう。
つまり、それは境界に囲まれた内部の存在とはまったく異なった存在様式の存在だろうと思われます。
エゼキエルさんなら感じられているのでは?と思うのですが、孔明さんの言う「暗黙の了解」とは、いわば共同体が成立するとき、コードの成立とともに抑圧されていく禁忌(タブー)とつながっているのではないでしょうか?
風が畏怖の対象となるのは、抑圧されたもの、おぞましきものでもあり、安定した共同体そのものの根底を脅かすものの象徴、あるいはそれをもたらすものだからでしょうね。
その意味で台風の時空とは文化人類学などでいう祝祭的空間・時間だと思われます。

諸葛孔明さん。
あなたの直観的言語思想は、丸山圭三郎という人の言語思想と似ています。
この人の文化記号学はあなたの直観的言語論と、エゼキエルさんの語られる神話や文化人類学の知見とを結びつけるヒントになると思います。
何かの参考になるかもしれないので、次を紹介しておきます。

http://nun.nu/homepage3.nifty.com/tamamystery/kanrinin_0212.html

どういう人か全然知らないのですが、丸山の教え子みたいです。
要領よく丸山言語思想をまとめています。

[93] 諸葛孔明 2007/07/24 08:39

>>92

ふくろうさん、エゼキエルさん、昨日は有り難う御座いました。ふくろうさんのような「正統派純正哲学者」の方に、お認めいただいたことは、天にも昇るほどの、光栄でした。「メタファー思考」も知りました。お二人のお陰をもちまして、私も昨夜は心地好い眠狂四郎になれました。

エゼキエルさん!貴方がこの掲示板に留まることの意味を、おっしゃって下されたことは、私にとっても、亡き葉隠武士氏にとっても、わがことのように嬉しい限りです。

風に対する洞察、哲学、はこんなものでは無いでしょう。彫刻家、葉隠武士・・・おっと・・・諸葛孔明は、また思い付きを書きますので、よろしくお願い申し上げます。

敬具

[94] 諸葛孔明 2007/07/24 12:09

今、sunsar氏とのやり取りをしているが、・・・私のレベルが余りに低いせいか、気分的に盛り上がらないのもその要因だが、氏は明らかさの概念を弄んでいる、と分かる。黄金餅さんの言ったように、明らかさの問いかけ自体の、不毛・無毛を感じる。

で、私はsunsar氏の建てられた「明らかさ」の議論についての「風」について、考察することにする。sunsar氏があのスレで醸し出す風について。

一つの前準備として、未完さんが言われた「温度差」を考えて見る。

私の見立てでは、sunsar氏の言葉の体温というものは、かなり低いと感じる。その理由として、

�自らの持論から逸れる「明らかさ」については、sunsar氏は関心を示されない。

�議論の形が、sunsar対個人になり、個人対個人の議論が乏しい。渦形ではなく星形議論。

�議論が各自の「明らかさ」を戦わすのではなく、sunsar氏の「明らかさ」の持論に、陣中お見舞いをする流れになっている。

ここで「風」が、温度の高い方から低い方に流れることを考えれば、「明らかさ」のスレの風は、参加者からsunsar氏の方に、一局集中で吹いている、と分かる。

ここまでの洞察を第一段階とする。

次に、sunsar氏から議論相手に風は吹いているのか、と見るに、確かに吹いている。しかも、レスをした個人一人に一つづつ吹いているのではない。

sunsar氏のなかでは、どうも対話のランクがあるらしく、いわば、そのランクの有限個の風が、吹いているようだ。

続く・・・

[95] 諸葛孔明 2007/07/24 12:38

その数までは把握出来ない。

sunsar氏から吹く風は、直線的な風のようである。誰も議論に巻き込まない風、敢えて星形議論を崩そうとすると、突風で阻まれる。議論が星形なら、風も星形・・・敢えてこのスレに参加しようとするなら、参加者のレスは、陣中お見舞いの形を、取らざるを得ない。

sunsar氏から吹く直線風とは、誰も巻き込めれない、誰も受け入れられない、微弱な風である。

ここまで考察して、何とも言えない寂漠を感じるのは何故か。

つまり、風を起こす人間には、風を起こすだけの、器といふものが居る。どんなに正面切って議論をしようとも、器の無い人間相手では、風は、起こりようがない。

またしても彫刻は頓挫した。少し気分が悪くなったので、失礼する。

[96] sunsar 2007/07/24 12:58

>>94-95
あなたが僕の行いを不毛や「無毛」であると考えるのは自由ですが、
そう思うのならば、あなたが発言しなければよいだけだと思います。
僕は別にあなたの発言を求めてもおらず、またみんなが僕の発言を無価値だと解釈すれば
自然に僕の建てたスレッドは消滅するでしょう。

[97] 諸葛孔明 2007/07/24 13:13

なんだ(笑)ロムしてたんだな、sunsar氏(笑)

私が貴方のスレにレスをするのは、恐らく、人間としての良心ゆえですね。

この掲示板での偏狭な貴方に、どうしてもご自分の殻を破っていただきたい、という良心だけなんだと思います。

とりあえずレス有り難う。

[98] エゼキエル 2007/07/24 13:15

>>94
諸葛亮先生
不毛だとわかりきっているスレでよく頑張っているよな。感心するよ。
sunsar氏の場合、没コミュニケーションだろうな。他人とのコミュニケーションが成り立ってない。自分の気分次第で相手への態度が変わるが、そのことを本人の言を信じれば、本人が気づいていない。
sunsar氏の言動は感情をキーワードに読み解くと非常にわかりやすい。感情からもっとも遠いことについて議論しているように見えて、その言動の全てを支配しているのは感情なんだよな。だから、もう少し感情をコントロールできるようになると、ぐっと主張はわかりやすくなると思うんだがね。

その上、言葉に対する感覚が非常に鈍い。理数系にありがちな言葉への無理解だね。彼は哲学の空洞化以前に、言語の空洞化を引き起こしているんだよな。
だから、なかなか彼の主張は理解されない。彼の主張を理解するだけで、膨大なレスを消費しなければならないんだな。主張を議論する以前の問題だろうな。

更に言葉の真意を読み取る能力が欠如している。哲学の議論の場合、多少相手の言葉が的外れでもその主張を理解する努力というのはお互いするし、たいていの場合、それが可能なのだが、彼はその能力が欠如しているね。だから、表面通りの理解しかできない。それなのに、その言語能力が極めて低いから、議論はどんどん論点がずれていく。
彼の議論の特徴の論点ずらしは、最初は意図的かと思ってたが、どうもそうじゃないみたいだね。あれは言語能力の低さから来るものだろう。

テクニックの問題が彼には多すぎる気がする。哲学を語るには向いてない体質なんだと思わざるを得ない。彼が何かを語るにはカテ違いなんだろうな。たぶん、違うカテでは彼は普通に理解されるかもしれんが、哲学カテでは多くの人間に疑問符を振りまくだけだろうな。

[99] ふくろう 2007/07/24 13:16

>>93
諸葛孔明さん。

>ふくろうさんのような「正統派純正哲学者」の方

とんでもない、ぜんぜん正統派でも純正でもないですよ。
(中島義道氏の言葉を借りると)私はただ、哲学病患者のひとりにすぎません。

>私も昨夜は心地好い眠狂四郎になれました

えっ、そんな剣豪にっ!?(笑)

[100] エゼキエル 2007/07/24 13:17

突っ込みどころ満載のスレはそれだけで存在価値があると思われ(笑)
逆に完成度が高かったり、難易度の高いスレの方が消滅しやすいよな。それが一般に開かれた掲示板の特徴という奴だ。

[101] 諸葛孔明 2007/07/24 13:31

>>99
ふくろうさん(笑)ご謙遜無用・・・宝玉をガラス玉と言ったところで、この孔明には通用しませんぞ(笑)

私は貴方の至るところでのご慧眼を知っていますから・・・。

>>100

素晴らしい!!ひとつの真実ですね。エゼキエルさん!!私のような馬鹿ほど長生きするという。(爆笑)

[102] 諸葛孔明 2007/07/24 15:04

今、「明らかさ」でのsunsar氏の言葉は何だ!!

落ち武者さんやふくろうさんの質問に、全然答えてない。いや、答えられないのか。?相手の質問の中身を全く考えず、質問を無視して自説を繰り返すのみ。

これが本当に、全うな議論と言えるのだろうか。

sunsar氏の言語理解能力は、まさに、人並み以下なのかも知れない。sunsar氏はこの先も、自分の言葉で、他人を納得させることは、出来ないのであろう。

永遠の孤高・・・sunsar氏

[103] 諸葛孔明 2007/07/24 15:24

エゼキエルさん。私もうsunsar氏のスレに書き込みするのをやめます。

どうもピント外れが酷いみたいです。

sunsar氏からこちらに来る分には応対しますが、こちらからの書き込みは、やめます。

sunsar氏はご自分の渇きには、ご自分で気付かれてはいない。熱中症で倒れるまでは、自分カテで頑張ることでしょう。さて、反論相手を失ったsunsar氏が、陣中見舞いへの挨拶議論を繰り返す滑稽さに、いつご自分でお気づきになるかは、実に見物ですが。

兎も角、エゼキエルさん。この先、私の方からsunsar氏とは、きっぱり縁を切ります。不毛はどこまで行っても不毛ですから。自分の彫刻に専念します。

[104] チーズ 2007/07/24 16:55

人間は土を離れては生きていけない・・

そういえば風ってニヒルで侘びしくて虚無的で不毛な感じです。

一隅を照らす(火)国宝や
上善水の如しや・・
自然界の要素ですが
風に心惹かれるときはニヒルな感じがしています。
古来日本には言霊というものがあったそうですが
たった一言で人生が変わるのは明らかです。

[105] 諸葛孔明 2007/07/24 17:18

>>104
風がニヒルですか。?(笑)私は逆に、古典的だと思うよ。不毛という気はしないなぁ。(笑)砂漠でも風がふくと、ヤバい、目をまもらなきゃなんて思ったりする。何か命の近くにあるって実感はするけど、不毛とかニヒルって感じはしないな。(笑)まぁこれはチーズさんの感性から出た、正直な実感なんだろうね。

[106] チーズ 2007/07/24 17:49

しょせん人間は「風の前の塵に同じ・・」と今日もどこかで
お坊さんが言っているのでしょう…

[107] 諸葛孔明 2007/07/24 18:43

>>106
言ってるんだろうな。(笑)どこかで。

私は壇之浦に平家の亡霊見にいったことがあるが、風が気持ちいい日で、こんな海辺で幽霊を想像するのも、悪くはないなぁと思ったよ。

[108] チーズ 2007/07/24 18:55

たましいについて何も知らない。
しかし
たましいをたましいの世界を少し感じる

先祖は平家の家来でした・・

[109] 諸葛孔明 2007/07/24 19:01

そう言えば・・・幽霊が現れる前に、生暖かい風が吹いたり、なんて設定多いよね。風は死者の雰囲気や気配なんかも、伝えたりするのかも知れない。

[110] 諸葛孔明 2007/07/24 19:09

>>108
へぇ。平家の家来だったの?
やっぱり源氏の血とは、今でも相容れないのかな。(笑)

[111] チーズ 2007/07/24 19:14

風は光ったり薫ったり死んだり(広辞苑)
きっと風は生きているんです。(子供の目で見ると)
大部分の子供たちは幽霊の話が何故大好きなのでしょう?

[112] チーズ 2007/07/24 19:47

パソコンの調子が悪くて下手に記号を使うと
接続できなくなるので
話を端折ってます。
源氏に縁はありません。が親王の落ち延びたところには
滝に虹が出ていて荘厳な何かを感じました。

[113] 諸葛孔明 2007/07/24 19:55

>>111

子供にとって幽霊は、目に見えない生物じゃないからだろうか。目に見えない生物は、大人以上に怖いし興味深々なんだろうと思うよ。

ついでに言えば、「風」って言うのも、子供にとっては、目に見えない「速さ」と「力」の象徴なんだろうな。だから、子供はパイロットに憧れる。(笑)子供は大人よりも、直に、風のこゑを聞いて、素直に畏敬しているのかも知れないね。

[114] ふくろう 2007/07/24 19:57

>>102
諸葛孔明さん!

私のことは全然気にしてくださらなくていいんですよ。
sunsarさんと孔明さん、エゼキエルさんとの件に関しては、私よく知らないので余計な口出しはするべきではないと思って、sunsarさんのスレで孔明さんに質問を受けたときも、あえて事実だけを簡潔に答えるにとどめました。
でも、孔明さんは私のことを気にかけて述べてくださっているので責任を感じますし、sunsarさんに対してもこのままでは申し訳ないので、少しコメントさせてください。

少なくとも私に関しては、sunsarさんの私に対する態度が失礼だなんて思っていませんし、誠実に対応してくださっていると思っています。
それに私はsunsarさんと問題意識を共有しており、彼の立場に興味があるので、彼が自説を述べられるのは何の問題もないし、間違っていると思うならこちらが反論すればいいだけですしね。
実際私はおかしいなと思うときはそう述べています。
ただ、そのほとんど誤解に基づいているというのが困りものなんですけど(笑)

とにかく、私にとっての最大にして(たぶん)唯一の問題は、sunsarさんの説明が私にとっては難しすぎるということなんです。
それ以外は私に関しては今のところ問題はなく、sunsarさんはどうかわかりませんが、誤解に次ぐ誤解を重ねてはいても、いろいろ考える過程は私にとって意義のあることだと思っていますし、知的刺激を受けてもいます。

ですから、孔明さんには孔明さんの考えがおありでしょうから、それについては先述したように私は意見しようなどとは思いませんが、以後、どうか私のことはお気遣いのないよう、お願いしますm(_ _)m
お気持ちは感謝しますm(_ _)m。

[115] 諸葛孔明 2007/07/24 20:00

>>112
レスが交錯したね。(笑)

虹か・・・ロマンチックだな。悠久の歴史を感じるよ。・・・って、ここは哲学カテだから(笑)。

チーズさんは何か歴史哲学ってもってるの?

[116] チーズ 2007/07/24 20:06

哲学は完璧にでなく広く浅く一般的にですが
ソクラテスとプラトンの話は興味があります。
詭弁を言い負かすとか・・(恥)

[117] 諸葛孔明 2007/07/24 20:11

>>114
いやぁふくろうさん!!こちらこそ申し訳ない。

決してあなた方の議論の仲を批判したのじゃないことは、貴方のご賢察どおりなんです。

ただ私も・・・まだまだ未熟な人間で、どうしてもsunsar氏に対しては、「何で?」と感情が先立つのは、事実なんです。それがために、私のsunsarさんへの感情が、貴方を不愉快にしたことは否めません。伏して貴方にお詫びします。

ただ、貴方もご理解とは存じますが、私やエゼキエルさんのsunsar意見は、紛れもなく、自分の存在を賭けた意見であることは、繰り返し申し上げておきます。勿論、貴方もご存知であることを周知で。

sunsarさんとの議論、どんどん深めてください。私もロムはしてますから。お気を使わしてしまってすみません。

[118] 諸葛孔明 2007/07/24 20:19

>>116
貴方とこうしてやり取りをするのは初めてだが、・・・そうですか。・・・広く浅く・・・ですか。(笑)なら私の方が下だ。・・・狭く浅くだからな。(笑)本当に素人だよ。(笑)形而学の意味も、ろくすっぽ分からん。こんなのが哲学カテに来ているんだからな。(笑)困ったもんだよ。

[119] チーズ 2007/07/24 20:40

諸葛孔明さんというハンドルネームから
はかりごとが好きなのかと?(無礼ばかりですみません)
自分は魂に興味のある素人です。
名前を付けるとは心を入れる・・
名付けるとは何なのでしょう?

[120] エゼキエル 2007/07/24 20:57

>>104
>チーズさん
風のニヒリズムというのは俺はわかる気がするな。
風来坊とかいうしね。

ちなみに俺は清和源氏の子孫だ(笑)チーズさんとは敵対関係になるな(笑)

>>109
>諸葛亮先生
>幽霊が現れる前に、生暖かい風が吹いたり、なんて設定多いよね

たぶんあの世とこの世の媒介としての風なんだろうね。
そう考えると、日本人も風を媒介と考えていたと言うことができるかもしれないな。
未完さんの言によれば、二つの世界の温度差による風かな。

>>103
あなたらしいね(笑)信頼する他者への無礼な態度にキレたか。
レスするもしないも自由だからね。先生の自由にするといいさ。

>>114
>ふくろうさん
俺とsunsar氏の間に何があったのか、実は俺にもわからない(笑)
彼は初対面の時から俺には臨戦態勢だったよ。その理由が未だに不明なんだよな。聞いても答えは得られなかったし。気になるなら直接sunsar氏に聞いてみればいいよ。気にならないならスルーの方向で。
俺はあっちから突っかかってくるから応えていたまでで、こちらから関わる気はないし、孔明さんも関わらないと言っているから、これからはもうふくろうさんが気を病むことは起きないと思うぜ。

>>98 も誤解がないように言っておくと、別にsunsar氏を批判しているわけじゃない。言語能力が欠落していても、直感でそれを補える人もいるわけだしね。回りの人間がそれを補えば議論は十分に成り立つし。

>>119
>再びチーズさん
横レスすまん。
名付けるとは、俺はイメージに輪郭を与えることだと思っている。
哲学とは命名だとは、孔明さんの言だけどね。

[121] 諸葛孔明 2007/07/24 21:10

>>119
チーズさん(笑)・・・私は孔明の知力の部分よりも、劉備が亡くなってからの、自分の損得を抜きにして、劉禅や国を守ろうとした、勇気や精神力というものに、強く惹かれるんですよ。

で、貴方のおっしゃられた「名づけ」とは、このカテの>>77 だったかな、太古の人間が行った、神聖にして厳粛な、思索活動だったと思うのです。これは、貴方の言葉を借りれば、「心を入れる、魂を入れる」ってことですよね。

特に日本人は、貴方もおっしゃられていましたが、「言葉」に「たましい」が宿ると信じた民族なんです。

だから、このカテにおられる哲学先輩を前に、こんなことを口にするのは気が引けるのですが、日本人の哲学のあり方は、言葉による直感形哲学ではないかな、と思うんですね。

ひらがなを発明した「やまとだましい」というものは、「カミカゼ特攻隊」の「やまとだましい」と、何ら矛盾するところではない。

日本語という言語が、本来、分析といふ作業に、耐えられない矛盾構造というものを、本質的に内蔵しているのでは、あるまいか。分析は、まずはじめに、大きな直感や確信があってこそ、その余儀として、許されているに過ぎず、直感によって得られる分析はあっても、分析によって得られる直感は、あり得ない、それが恐らく、日本語というものの、やまとだましいの性質なんだろうな、と思うんですね。いや、悪い妄語ですな。

[122] ふくろう 2007/07/25 10:35

>>121
横レスすみません。
諸葛孔明さん。

>日本語という言語が、本来、分析といふ作業に、耐えられない矛盾構造というものを、本質的に内蔵しているのでは、あるまいか。分析は、まずはじめに、大きな直感や確信があってこそ、その余儀として、許されているに過ぎず、直感によって得られる分析はあっても、分析によって得られる直感は、あり得ない、それが恐らく、日本語というものの、やまとだましいの性質なんだろうな、と思うんですね。

このあなたの考えを大雑把に受け取っての話ですが、あなたのおっしゃる通りであれば、そもそも日本語は「哲学」そのものに馴染まない、ということにならないでしょうか?
確か「哲学」という語は明治期に西周が「Philosophy」の訳語として作った語ではなかったのではないかと思うのですが、この西洋哲学が古代ギリシャにおいて、それ以前の世界の神話的説明方式にかわって、徹頭徹尾ロゴスの言語、論理的言語によって語る営みとして確立されたということはたぶん哲学史の常識と言ってよいと思います。
あなたのおっしゃるように、西洋哲学でも出発点は直感から出発する、と言ってもよいと思います。
それはしばしば「哲学は驚きからはじまる」と言われるゆえんです。
しかし、前述したようにそこから一貫して論理的に語ろうとする営為が哲学というものではないかと思うのです。
直感は重要、しかし、それを論理的に語ろうとしないものは、そもそも哲学ではない、ということ。
したがって、あなたの見解を前提にさらに推し進めれば、明治より前の日本には、思想はあっても哲学は存在しなかった、ということになるのではないでしょうか?
宣長的に言えば、そもそも哲学する心は「からごころ」ようなもの、つまりいわば「非やまとごころ」というようなものでは?ということです。

むろん、本当に重要なことは論理的言語では捉えられない、という立場もありうるでしょう。
それは哲学的真理に対する異なった捉え方、あるいはそれを否定する捉え方として、異なる真理観を提示する立場、たとえばニーチェやハイデガーの言ういわゆる「反哲学」がそうかもしれません(ん?じゃハイデガーはカテ違いか?(笑))。
ここまで来ると私も実のところよくわかりませんが、仮に哲学が論理的言語を放棄するなら、それでは哲学そのものの存在意義はどこにあるのか?という気もするのです。
哲学以外にも出発点となる直感それ自体を共有するものは、文学・芸術・宗教・神話etcさまざまに存在します(さしあたりここではいわゆる「科学」を除外します)。
その直感が捉えたものを、他のアプローチではなく、あえて哲学的に把握しようとすることの意味はどこにあるのか?
たとえば禅に影響を受けた思想家に鈴木大拙と西田幾多郎がいますが、ふつう西田幾多郎は哲学者と呼ばれますが、鈴木大拙は呼ばれません。
これは上に述べたような事情が関係しているのではないか、と思うのですがいかがでしょう。

現代日本における「哲学」という語の使用は、一般に「思想」と区別しませんし、それ自体やっきになって否定しても意味はなく、私自身通常はそれで問題もないと思ってこのスレにも参加しているわけです。
ただ、孔明さんの先の発言などは、本来「哲学」とはどういうものか、どうあるべきか、ということに関わってくることだと思いますので、一応の私見を述べさせていただきました。

以上、確信あっての主張ではなく、ひとつの仮説、ひとつの問題提起と受け取ってください。

[123] sunsar 2007/07/25 11:18

さらに失礼。
>>122
広義の哲学および文学・芸術・宗教・神話はそれ自体が対象であって、
方法論である狭義の哲学や科学と一線を画するというのはわかります。

ところで、哲学の薀蓄や文学・芸術・宗教・神話を受け取るときの「直感」は、
実はその多くを経験に依存します。
単語の意味を持っていなければ哲学も文学も理解できず、
宗教的・神話的な主張はその文化圏においてようやく力強く体感できるものであり、
便器に泉という名前をつけても原住民はそれを理解できず、
4分33秒の沈黙が音楽であることを理解できる幼児もまたいないでしょう。
対照的に、科学によって論じられる「事実」は、
それが誰であっても「直感的に」感じることができます。
直感とは一体何なのでしょうね。

[124] sunsar 2007/07/25 11:21

>原住民
土人とでも言ったほうがよかったかな。。。
まあ多分に語弊を含みますが、お察しください。

日本語の部分集合は論理的たりえるので、どうしても矛盾を感じるならば
日本語の部分集合で哲学をすれば十分です。

[125] 諸葛孔明 2007/07/25 11:57

>>122 >>123 >>124

ふくろうさん!sunsarさん!実に素晴らしい問題提起を有り難う。その問題については、私も信念とするところと、その信念を覆せれるものなら覆したい、という両方の思いがあり、極めて重要な本質を包括していると感じます。

で、ふくろうさんのレスで最後にありました、「西洋の哲学も直感から始まる」は、私も同感であり、逆に言えば、人間に許される本質的なものへの認識といふものは、実に、古今東西を問わず、直感に依るものだとい確信があります。

では、その直感を論理的に辿るといふ、その「論理」とは、一体、日本語にとりて、そして、日本人にとりて、何なのでしょうか、これはとてもエキゾチックな問題です。

ふくろうさん!sunsarさん!ご拝受いただきましたご両人様のレスを、もう一度再読考熟し、彫刻家としての意見を、今日の午後くらいに、出させていただきます。

ご両人様、本当に血の疼くような問題提起、心より感謝します。!

[126] ふくろう 2007/07/25 14:53

>>122
えー、私の記述では、神話的説明が悪い意味で「非論理的」であると言っているかのような誤解を与える可能性があるかもしれませんが、そうではありません。
神話の言語がその意味で非論理的であれば、もちろん無意義で理解不可能でしょう。
その限りで神話の言語もまた論理的です。

じゃ、哲学的説明と神話的説明とどう違うんだ、と問われれば、これは難しい問題になりますが、さしあたり次のような区別で納得していただけないでしょうか。
哲学的説明は言葉による論証をその本質とする、あるいは本質として含む。
神話的説明は、世界の原理等、被説明事象を一気に説明する物語=神話が天下り的に与えられ、論証は説明の本質的役割を果たさない(たとえば雷鳴=カミナリさんの太鼓)。

まあ、不十分でしょうが、とりあえず、先の問題提起については、こういったところで了解いただければと思います。

ねっ、エゼキエルさん!(笑)

[127] 諸葛孔明 2007/07/25 18:26

ふくろうさん!sunsarさん!大変お待たせ致しました。彫刻家諸葛孔明の心血を注いだお答えを、これから述べて参ります。

長いレスにはなりますが、趣旨をひとつに絞って、主張を展開して参りたいと、そのうえで、ふくろうさんの「日本語は哲学に果たして向かないのか」という問題と、sunsarさんの「直感って一体何でしょうね」の問題の本質に、あらん限りの洞察を以て、お答えし、お二人様の反駁をお待ちしたいと思います。

では第一に

『直感による分析はあっても、分析による直感はあり得ない』について・・・

私の直感は、この命題について、絶対の確信を抱いているようです。
この命題を言い換えると、以下のようになるのです。

『人間に分析という独立した思考活動などは、本来ありはしないのだ。分析している気になっているだけで、本当はみな、初めに直感して、分析の真似事をして、再び直感するだけなのである。つまり、個々の独立事象に対する直感が、初めに人間の裡に了解されるからこそ、その個々の独立事象に対する直感の、湧き出でた正当な理由を求めて、分析し論理や定理を得るのである。しかも・・・直感の生まれいずる理由というものも、実は、再び違う音色の直感によってしか、得られはしない。理論や定理を得るのも、最終的には、直感なのであり、分析はその直感を得るための、手段のような、陽炎でしかあり得ない。故に、思考活動の健全な営みというものが、分析によってなされるというのは、誠に不可思議な、本末転倒である。ただ、学者の自尊心が、この悠久な直感の営みといふものを、素直に「直感」とは認めず、『分析』と呼ぶだけのことに、他ならぬ。」

如何です、ふくろうさん。・・・この挑発的な命題が、単なる私の思い込みでないことを、証明するには、私の直感が貴方の直感に、直訴するしかない、と思っています。

[128] チーズ 2007/07/25 18:26

哲学するときの問題で
あるベストセラーでは
「わたしは誰?」と問題提起がありました。
自己とは?
世界とは?
たましいとは?
直感だろうと他の科学的論理的なものだろうと
その時その場で確かにそうだと自覚できるでしょうか?
意識という思考すべてを疑っても疑っている自分だけは
はっきり解る。
自分の名付け親は名前のとおりになったと言っていますが
名前に思いを八万四千の思いが込められていたとは・・

[129] 諸葛孔明 2007/07/25 18:28

分析は単独で、人間に許されてはいない。論理さへも。すべては直感によってしか、得られはしない。人間はどんな叡智を以てしても、論理的に考えることに、耐えられはしないのだから。それは、人間の脳の構造が、分析に依って得られる「命題」といふものを、自浄してしまうからに、他ならないからであろう。何故、何故苦労して考えたことを、水に流そうと、脳はしたがるのか。

人間の脳が、もしも口というものを持っていたら、きっと、こんな生意気を言うかも知れぬ。「俺は自力で考えることに、耐えられぬ。人間が見たものを、やったことを、つぶさに受け入れ、あるいは人間の経験知によって、閃いたところのものを、受信することしか出来はしないのだ。なぜなら俺は、受信という切実な仕事のためにしか、この世に存在し得ないからである。」と。・・・ふくろうさん!恐らくここまで読まれても、貴方の目に私の言葉は、身勝手な私の主観にしか、映るまい。よろしい。それでいい。彫刻家諸葛孔明の言葉の真髄は、これからであろうから。明治以前の日本人に、哲学者と呼ばれる人が居なかったのは、真実でしょう。

貴方が本居宜長の例を用いましたが、彼はもっとも、「分析」の百害を説いた学者であった。

宜長によれば、日本語といふ言語が、そもそも、太古の人間の直感によって生まれた、虹色のよもだでしかなく、その(よもだ)とも(よもくれ)とも言われる、日本語の姿こそは、無のなかに無限の実在を見い出す、やまとだましいというものの、本質であるからだ。

当世の学者は、「古の大義」という、つまり、今でいう所の、理論とか論理というものを極めることに、夢中であった。

宜長は一人、その態度を軽蔑する。

「君達はいったい何の為に、大義といふものを、見極めようとしたがるのか。大義などというものは、日本語には、有害無益なものだといふことが、何故分からぬか。君らが大義を極めることで、大義の方が君らを、宇宙の果てに、葬るであろう。それは、大義を知らぬ庶民よりも、愚かな自尊といふものだ。
大義を極めるなどといふ馬鹿も、休み休みに言いたまえ。今ここに、二十あまりの和歌がある。さて、君達に問題だ。この万葉の和歌の中には、私の作った和歌もある。果たして君らの大義で、その違いといふものを、判別し得ようか。出来ない、君達には判別など、出来はしないのだ。君達は直感を軽蔑しているから。人間の叡智の、本質に至るうえでの直感を、軽蔑しているからだ。故に、君達は歌の姿が分からない。どれが、万葉集の和歌で、どれが私の作った和歌か、直感を軽蔑した君達には、何もわかるまい。これを例えば、歌を知らない、寿司屋の平三にでも見せれば、たちどころに私の歌を見抜くであろう。まさに、意は似せ易く、姿は似せ難しだ。」

[130] 諸葛孔明 2007/07/25 18:30

ふくろうさん!繰り返しで恐縮だが、彫刻家の思想を証明する手立ては、ひたすら非論理的ではあるが、貴方の直感に直訴するしかない。何故なら、私が日本語という名の鑿(のみ)を用いて、おのれの思想を掘るように、また貴方も、日本語といふ名の「感性」を用いてしか、私の言葉を、聞けないからである。

再び命題に戻る。「直感によって得られる分析はあるが、分析によって得られる直感はあり得ない」

恐らくこの言葉の真意というものは、この言葉の姿というものに、他ならず、恐らく日本語は太古より、人間が分析には耐えられない生き物であることを、看破していたと、思われる。日本人ではなく、日本語といふ言語そのものが、日本人よりも先に、人間の本質に、肉薄して仕舞った、といふことであろう。

この心地好い矛盾の中に、日本人は、明治の時代まで、「分析」といふ名の陽炎を見ることのない僥倖を得た、と言えようか。

ふくろうさん。私は分析といふ行為を、否定するのではなく、分析と思っているもののすべてが、分析の真似事に過ぎないことを、主張するに、他ならぬ。

よって、人間の脳が、分析という思考活動には、耐えられないものである限りにおいて、欧米の哲学者たちが、分析と試みるものも、実は、その真似事であり、直感から得られたものの「陽炎」でしか、あり得ない、ということに、なりましょうか。

ふくろうさん。!本質に到るものは、哲学も宗教も、直感でしかなく、分析は余儀でしかない。本当に理論や論理を用いて、帰納的に真理に到る道があるとすれば、人間はその道に順じた瞬間に、発狂するしかない、と言えましょう。

ニーチェは哲学や宗教の弊害を、「神は死んだ」の、明快な五文字で表したが、この言葉の真意というものは、恐らく、ニーチェの脳髄が主張した、正当な自衛本能では無かったのか、と思っているのです。いわば、ニーチェの脳髄は、自らを自衛するために、ニーチェを発狂させた。帰納法の果てに、真理など微塵も無かったことへの絶望と、演繹法の自明さというものの、ある種のくだらなさといふものの、深い自覚と覚醒を、ニーチェ本人に、与えながら。

ふくろうさん。・・・そして、・・・sunsarさん。冒頭のお二人の問いかけにお答えする。

「日本語は哲学に向かないのか」の問いかけは、実は、「哲学は日本語に向かないのか」と問いかけるべきであろう。

つまり、哲学に歩みよらなければならないのは、日本語そのものではなく、哲学のあり方そのものでしかない。日本語だろうと、英語だろうと、哲学は絶えず、自らの襟を正さなければならないのだ、と私は確信する。私が日本語が哲学に向かない、との印象の発言をしたのも、言語は何時の時代でも、誰の言葉であろうとも、それは立派な鏡でしかない、と思うからだ。つまり、使われる言語そのものに、哲学に向く向かないは無い、今の理論や論理を辿って真理や定理に到るという、分析哲学というものが、日本語に向かないことを、改めて主張する。哲学自身が、陽炎のような帰納的推論や、理論・論理をもっての思考活動というものの限界を、真摯にわきまえなければ、それは単なる、うちわのゲームでしかあり得ないのだ、といふことなのである。

論理は直感の陽炎に過ぎない、という自覚をもって哲学に臨むことは、決して、論理や帰納法への侮蔑を意味しない。むしろ、空洞化している帰納法の、本来の健全な姿を取り戻す為には、腐り果てた今の哲学の存在理由を棄てて、貴方がおっしゃられた「哲学が驚きだった」頃の、原始の姿に、立ち戻るべきだと、そう思うのであります。

[131] sunsar 2007/07/25 18:44

>>127
>人間に分析という独立した思考活動などは、本来ありはしないのだ。分析している気になっているだけで、本当はみな、初めに直感して、分析の真似事をして、再び直感するだけなのである。
これは、http://philosophy.bbs.thebbs.jp/1184805893/272
>「それが必然的であることが許されるような世界(ex.論理が成り立つ世界)において、
>必然的真理(ex.論理)は存在しうるけれども、世界が本当にそれを許すような構造をしているかどうか
>ということはアポステリオリに知られるものであり、
>ゆえにそれが必然的真理であったとしても必然的であると主張するに足る根拠はない」
に通じる意味でそうだと思います。しかし、次の
>つまり、個々の独立事象に対する直感が、初めに人間の裡に了解されるからこそ、その個々の独立事象に対する直感の、湧き出でた正当な理由を求めて、分析し論理や定理を得るのである。
については、はじめの論に従うならば分析は許されないのであって、
したがってここで言う「分析」は「分析の真似事」にあたります。
「分析の真似事」についての話であれば、「分析の真似事」によって新たな直感を
生み出すことは不可能ではありません。
ピカソのデッサン技術、クラシックの根底を流れる音楽理論などはその最たるものでしょう。

>>129
本居宣長の主張は、大義と歌を鑑賞する能力を比較しているという意味で
今の主題とは関係がないように思います。
というのも、今の話題は必ずしも「哲学が直感に迫らねばならないかどうか」ではないからです。

>>130
「直感に基づいて、論理的な展開を要請する」ということは、
>哲学自身が、陽炎のような帰納的推論や、理論・論理をもっての思考活動というものの限界を、真摯にわきまえ
ることとなんら矛盾するものではないでしょう。

[132] チーズ 2007/07/25 18:45

論理が客観的に誰もが正しいと思うなら
人類の一部の人の切なる願い
変わらないもの・・
すべて死んで行き変わってしまう
無常な人生の
切実な願い・・永遠・・(楽観主義者の)
正しくて普遍で誰もが認める理想を哲学するとしたら・・

[133] チーズ 2007/07/25 19:16

人は真実を受け止められない・・(上の文より)
人間がただの肉食獣だとしたら受け止められませんね・・
その為にも神や仏に心を求めたいです。

[134] 諸葛孔明 2007/07/25 19:43

>>131

sunsarさん
早速のレスありがとうございます。貴方のご意見は意外でした。もっと辛辣な反駁を頂く予想をしていたのですが・・・。

ただ後半の「直感に基づいて理論的な展開を要請することは、哲学自身が陽炎のような帰納的推論や理論・論理をもっての思考活動というものの限界を真摯にわきまえることと、なんら矛盾することはないでしょう。」にお答えします。

確かに理想論を言えば、その通りです。

だが、現実に今の哲学が、哲学と無縁に生きていると思われている人の関心を引いているのか、を振り返るとき、今の哲学の、「直感」と「論理」の溝は、浅くは無いようにも感じますね。

哲学が万人に開かれた可能性を、生き生きと取り戻すには、今の哲学の「現実離れ」という現実の問題を、哲学をする者が真摯に認める必要を、感じるのです。

[135] sunsar 2007/07/25 20:22

>>134
ピカソの絵の美しさを「真に」感じるには、それなりの素養が必要です。
それと同じように、哲学の意味というのも、必ずしも一朝一夕に理解できるものではなく、
その思想が肌で感じられるまでには長い歳月や特殊な体験を要する場合もあるでしょう。

啓蒙がうまくいっていないということはある意味で確かなのでしょうが、
しかしそれは哲学ないし哲学者の問題ではないでしょう。
哲学者の快、ないし目標とは知を掘り下げることであって、
知を広めることは教育者の任務であるからです。

また、直感に多くを依存する主張は、その「正しさ」において多くの疑問を持ちます。
僕は、哲学の在り方として(教育学としてではなく)、
ウソをばらまくというのは適切でないと考えます。
それが実際にウソでなかったとしても、そのようなあり方が許されるという誤解を
招きかねないという意味で、ある事を主張する際にはその依存する直感を
できる限り万人に受け入れられるものにするのが妥当でしょう。
そのような態度による結論が難解で多くの人に受け入れにくいものであるとしても、
それは仕方のないことで、その難解な事実を広めることに勤めるしかないでしょう。

[136] 諸葛孔明 2007/07/25 20:24

>>133

チーズさん。レスありがとう。お返事遅れてすみません。>>133 は見方によっては、とても深い真理を暗示しているように、感じますね。

「人間は真実に耐えられない」
「人間は肉食獣だから耐えられませんね。」

「その為に神や仏に心を求めたいですね。」

この貴方の三つの言葉といふものは、ロシアの大作家ドストエフスキーを彷彿させますよ。

「肉はかなしい。・・・そして、心は暗く鋭いのだ」の言葉を思い出しました。(笑)

ドストエフスキーの「カラマゾフの兄弟」の小説のなかに、こんな逸話がある。
「敬虔なキリスト信者が、ある日、親友の持っている腕時計が堪らなく欲しくなった。そこで彼は神殿にひれ伏して懺悔した。何を。これから犯す自分の罪を、はらはらと涙を流しながら懺悔したのである。

やがて・・・・・・彼は眠りについた親友の脳天に、ナタを何回も何回もふり落とし、まるでキャベツでも切るように、親友をなます切りにし絶命させて、血まみれになった腕時計を嬉しそうに手に入れて、その場を立ち去ったという、その話しをカラマゾフの兄弟の兄が弟に興奮気味に語りながら、『これこそが、真に敬虔な信仰なんだよ』と叫んでいる、という描写だ。

[137] チーズ 2007/07/25 20:31

諸葛孔明さん
実は自分はドフトエフスキーを読むほどの強い精神ではありません。
せいぜい中途半端と批判されるトルストイくらいしか
読むこころを持ち合わせていません。

真実に面と迎えない軟弱な弱さを持っています。
ドフトエフスキーのその小説は人生の真実があるとか・・
少しお話を聴けて良かったです有難うございます。

[138] 諸葛孔明 2007/07/25 20:47

>>135

sunsar氏
お説は一理ありますね。しかし、・・・真理の探求の為に、あるいは、ある正しいと思われる体系を得る為に、難解な理論や言語に依存することが、哲学をする正統な態度であっても、一般に啓蒙を求めない、そういう偏狭さは、やはり、哲学自身の存在を、より自閉的に偏狭にしてしまうのでは、無いのでしょうか。

つまり、哲学用語や哲学理論を知らない人間は、哲学が出来ないのを仕方ない、とするなら、哲学はますます、現実から離反して、言葉の遊戯となり、哲学をする人間同士の、自慰行為に収拾してしまうでしょう。

これがいわゆる、空洞化では、ありませんか。そして、貴方は哲学が空洞化の危機を深めようとも、哲学自身の「正統な態度」といふプライドを守りたいですか。

哲学者の「うちまの自尊心」を満たすこと以外に、世の中に対して、何の貢献も出来ない「哲学」の姿を、貴方は仕方ないと認めますか。?

[139] 諸葛孔明 2007/07/25 20:54

>>137
いやいやチーズさん。そういう貴方の謹慎さこそが、ドストエフスキーの難解さを理解することよりも、遥かに大事なことですよ。

だから私は、貴方の断片的な言葉も、確かに心に入ります。

そして、少しずつでいいから、そういうご自分の限界について、話し合っていけたらいいですね。

[140] sunsar 2007/07/25 21:04

>>138
>一般に啓蒙を求めない、そういう偏狭さは、やはり、哲学自身の存在を、より自閉的に偏狭にしてしまうのでは、無いのでしょうか。
啓蒙の意味を否定している訳ではありません。
啓蒙したいと思う人が、啓蒙に励めばよいと思います。

>つまり、哲学用語や哲学理論を知らない人間は、哲学が出来ないのを仕方ない、とするなら、哲学はますます、現実から離反して、言葉の遊戯となり、哲学をする人間同士の、自慰行為に収拾してしまうでしょう。
哲学用語や哲学理論を「礼儀」や「人の感情」に置き換えて得る文章は、
まさしくあなたの僕に対する態度そのものではないですか?
また、人生のすべてが遊びでありえるならば、
人間の行いが本質的に自慰行為でないと主張する根拠は希薄です。

>これがいわゆる、空洞化では、ありませんか。そして、貴方は哲学が空洞化の危機を深めようとも、哲学自身の「正統な態度」といふプライドを守りたいですか。
まず、哲学は学問ですから、それまでの考察の上に新たな考察が置かれます。
その意味で、哲学の進歩が空洞化することはありえても、
哲学自体が空洞化することはありえません。
また、哲学の進歩については、実際に空洞化していないからこそ
理解できない人がでてくるのでしょう。
ピーターの法則に通じるものがありますが。

>哲学者の「うちまの自尊心」を満たすこと以外に、世の中に対して、何の貢献も出来ない「哲学」の姿を、貴方は仕方ないと認めますか。?
僕は哲学者でないのでなんとも言えませんが、
そもそもかつて哲学が「世の中に対して」貢献していると主張しえた時代があったのでしょうか?
実際、哲学がたとえば人を幸せにするのであれば、
それを研究する哲学者などはもっとも幸せでありえるでしょうが、
精神を病んだり主張を認められず不遇のまま死んだりしている
哲学者はしばしば見受けられます。
というよりも、僕は「こいつは間違いなく幸せでかつ人徳もあった」と言えるような
哲学者を知りません。
哲学者が十分に幸せであると必ずしもいえないことを考えるならば、
哲学のそもそもの目的が人の幸せにあるなどとは言えないように思います。

[141] チーズ 2007/07/25 21:11

哲学を又はこころを
粗末にして
最後まで幸せになりえるでしょうか?

[142] sunsar 2007/07/25 21:29

ボクは一貫して自己満足です。めざすものは。

ロックンロールバンドが目指す場所はね、無いんだよ。中学生でもいい。小学生でもいい。高校生でもいい。例えばホウキでもいいんだ。ギター持ってなくてさ。ロックンロールに憧れて教室の隅っこでワァーってなる。すっげぇ楽しいんだ。そこがゴールです。そこにずっといるんだよ。そっからどこにも行かないよ。それが東京ドームになろうが教室の隅っこであろうがそんなの関係ないんだ。ロックンロールバンドは最初から組んだ時点でゴールしてんだ。目的達成だよ。

by 甲本ヒロト

哲学は、直接的な貢献を求められる実学でないからこそ意味があるように思います。
科学と本質的に同じ方法論を擁する哲学が哲学たりえるゆえんとは、
それが虚学であるということでしょう。

[143] 諸葛孔明 2007/07/25 21:46

>>140
sunsar氏・・・。
お説、大変感動しましたよ。私のレスの言葉を、真剣に掘り下げられて、気迫あるレスをお返しになられますね。

確かに・・・哲学の価値、貢献というものは、貴方がおっしゃられたように、万人に拍手喝采を浴びるといふ、性質のものではありませんよね。

確かに・・・哲学の進歩は空洞化しているかも知れないが、哲学そのものは空洞化していない、・・・その通り、良くお考えになられてますね。

問題は、・・・非常に微妙なところにあるのでしょう。つまり・・・ソクラテスにしても、サルトルにしても、哲学がどう現実に益をもたらすか、所謂「実益」の部分に苦しみ、明快な答えや確証もないまま、生涯を閉じています。

しかしそうであっても、哲学は最後の最後まで「啓蒙」と「実益」を離れてはならない、と思う。同時に、「啓蒙」にこだわった哲学が、ある政治戦略の一部に悪用されたりという危険も、無くはない。そう考えると、偏ることがいけない、となりますね。

ここで「中庸」が大事になりますね。この「中庸」の一点から、今の哲学を観るとき、やはり空洞化は進んでいる、という実感です。

例えば、貴方がおっしゃられるような、「どのような主張も、それが真であるとは言えない」という立場を、「中庸」と言えるかと言えば、私は言えない、と思うのです。つまり、ある意地悪い政治家が、貴方を重く用いて、貴方の論を採用して「戦争が悪であるとは主張できない」として戦争を始めた場合、貴方の主張そのものは、確かに「中庸」かも知れないが、その「中庸」を悪用されて戦争に到った場合、果たしてその貴方の主張が、真に中庸であったのかは、疑わしい限りになりますよね。最悪の場合、貴方は戦争犯罪人にされてしまう可能性も出てきます。これはあくまでも喩え話しなんで(笑)俺はそんなことない、と、気を悪くされないで下さいね。

つまり、この喩え話しで私が申し上げたいことは、哲学が「啓蒙」と一線を切り離して、哲学独自の世界を守ろうとも、空洞化したものは、必ずやそれを悪用される危険もあり得る、ということなのです。

ちょっと仕事の時間が近くなりましたので、失礼します。

[144] sunsar 2007/07/25 22:04

>>143
>しかしそうであっても、哲学は最後の最後まで「啓蒙」と「実益」を離れてはならない、と思う。
あなたの信念がそこにある、ということについては了解しています。

>同時に、「啓蒙」にこだわった哲学が、ある政治戦略の一部に悪用されたりという危険も、無くはない。そう考えると、偏ることがいけない、となりますね。
悪用という言葉が具体的に何を意味するものであるか、ということをおくとしても、
啓蒙にこだわろうがこだわらまいが政治戦略に用いられることは十分ありえると思いますが。
中庸が大事だと主張するのは結構ですが、この話は中庸を主張する根拠にはならないでしょう。

>つまり、ある意地悪い政治家が、貴方を重く用いて、貴方の論を採用して「戦争が悪であるとは主張できない」として戦争を始めた場合、貴方の主張そのものは、確かに「中庸」かも知れないが、その「中庸」を悪用されて戦争に到った場合、果たしてその貴方の主張が、真に中庸であったのかは、疑わしい限りになりますよね。
僕は、そもそも戦争が必ずしも悪であるとは思っていません。
ないし、戦争は悪であったとしても必要悪であることがあると考えています。
加えて言えば、僕は人を殺害することがただちに悪であるとは考えていませんし(死刑など)、
たとえば自分の肉親が殺されたとすればそれが悪であると知って
そのような行為に走ることもあるでしょう。
まあ、戦争が悪であるかどうかという話はたとえのひとつにすぎず、これ以上深入りするつもりはありませんが。

>つまり、この喩え話しで私が申し上げたいことは、哲学が「啓蒙」と一線を切り離して、哲学独自の世界を守ろうとも、空洞化したものは、必ずやそれを悪用される危険もあり得る、ということなのです。
「啓蒙」と「悪用」は無関係でしょう。
その最たるものがナチスに与したハイデッガーである、とはかつて述べたとおりです。

僕は、あなたたちが一般に哲学と呼ばれる学問体系を誤解していると思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6%E8%80%85 より、

>思想家と違い、哲学者(てつがくしゃ)は哲学という学問的方法論に基づき、存在や認識に対する強い疑問を解決するために自説を展開する。その思考は基本的に自己充足的であり、論理的な整合および内省を重んずる。デカルトは自らが提示した「暫定道徳」のうちで、「社会の秩序を変革するより、自らの秩序を変革する」旨の態度を定めている。

僕は、あなたたちが重んじているのは思想であって哲学ではないように思います。

[145] ふくろう 2007/07/25 23:28

諸葛孔明さん。
渾身のレス、ありがとうございます。
見ていない間に、sunsarさんとの議論がどんどん進んでいたんですね。
なかなか興味深い展開です。
私もレスしたいのですが、残念ながら今晩中は無理かもしれません、申し訳ないです。
よく読ませていただいて、遅れても必ずレスはさせていただきます。m(_ _)m

[146] エゼキエル 2007/07/26 01:50

>>126
>ふくろうさん

なんで「ねっ、エゼキエルさん!(笑)」とあるのかよくわからないが(笑)俺は神話は哲学の違う形だと思っているので、ふくろうさんの言う哲学はここでは狭義の意味での哲学、つまり、西洋哲学に限定したものと理解しておくことにするよ。
神話がなぜ哲学の違う形かと言い出すと長くなるので割愛するが、それを読み解くにはとりあえずテクニックがいるということだけは事実だろうと思う。テクニックについて知りたいならば、レヴィ=ストロースやストレム、エリアーデ、河合隼雄氏、山口昌男氏らの書籍を参照されることをお薦めする。
まあ、興味ないだろうけどね(笑)カテ違いなのでここまでにしておく。

>>127
>諸葛亮先生
>『直感による分析はあっても、分析による直感はあり得ない』

俺は哲学する時に直感に頼らないし、俺自身にも直感とは訪れるものではないから、この点に関しては先生と立場を異とする。
直感とは体質だよ。それに恵まれぬ者は愚鈍な事実の積み重ねを繰り返し考察し、地道に真理への道を辿るしかない。
恐ろしく時間はかかるが、その変わり、現実から乖離することは少ないのは有難いかもしれないな。
立場は異なるが、先生の言わんとすることはよく理解できる。
ただ、力説するあまりに振り子が極端に振れちまっているね(笑)
おそらく御説の中庸を取り出せば、俺と立場は同じだろうという「直感」はあるね(笑)

明治以前の日本において哲学はなかったかといえば、狭義ではイエスであり、広義ではノーだろう。
狭義とは近代西洋哲学を指す。確かに、それと同質の哲学は明治以前の日本には存在しなかった。
だが、広義の哲学は存在していたと俺は思っている。
例えば、十牛図。中国起源だが、あれも哲学と言っていいだろうと思う。例えば、禅問答。例えば、大津絵。瓢箪鯰も哲学と呼べるのではないだろうか。例えば、水墨画。
例えば、般若心経。翻訳本が出ているので御一読されることを薦めるが、これはインド哲学である。これがなぜに日本語訳されなかったかの歴史については割愛するが、インド哲学に日本人は日常的に接してきたのだということがわかる。
東洋における哲学とは実学である。
空論を振りかざし、自慰に耽る輩が哲学の空洞化に拍車をかけているのが現状ではあろうが、それは歴史を知らぬ無知から来る衝動だろう。日本社会に根ざす舶来信仰の果ての極めて浅薄な行動であるといえる。
真理とは極めれば本来シンプルなものである。
シンプルに辿り着かないのは、まだ真理ではないからだろう。

[147] 諸葛孔明 2007/07/26 08:42

sunsar氏
昨日は貴重なご意見ならびに議論をありがとう。あれから冷静に貴方とのやり取りを振り返って、貴方の方が、明らかに冷静に私の疑問に対して、しっかりと答えを賜ったと感じる。どうも私は貴方に視線を合わしすぎたか、自分の考え以外の論を展開したように思う。最後の中庸と政治的利用の喩えなどは、論旨がぼやけて、貴方に対して頓珍漢な問いかけになった。(笑)実に申し訳ない。

sunsar氏。
貴方の哲学の取り組む姿勢については、色々な問いかけをすると思うが、貴方がどんな状況下にあろうと、こちらの問いに貴方なりの答えを出そうとなされる誠意は、はっきり理解できた。私は哲学の挨拶的常識というものを、知らない。その点においては、貴方にも学ばなければと思う。私の態度に、哲学に相応しくないと思われる頓珍漢な言動があれば、これからも忌憚なくおっしゃられて下さい。宜しくお願いします。

エゼキエルさん。

貴方のご指摘通りである。(笑)つまらぬ感情移入をみとめます。(笑)

やはり、直感に訴えるという手段を口にするのではなく、筋を通すという意味での、自分なりの冷静な論旨を組み立てる努力をしなくちゃならない、と反省したね。

本当、反省ですわ。(笑)

[148] エゼキエル 2007/07/26 18:09

>>147
>諸葛亮先生
感情移入が先生のいいところでもあるけどね。
感情のままに突っ走っても、俺らでフォローできる部分は拾っていくから、安心して突っ走ってほしい気はする。
先生の直感は俺の創造の天沼矛でもあるからね。

[149] チーズ 2007/07/26 18:19

詩作にふけっていたら左手が器用になってしまいました。
パソコンのせいで右手で書かなくなって以来
数学が苦手になりました。
よってこれからは右手を器用にする論理を磨きたいと思います。
筋の通らないことは直感で回避するという
右脳と左脳の連係を・・
論理だけでは通らないことがあると思えます。

[150] 諸葛孔明 2007/07/26 18:32

>>148

エゼキエルさん
そう言っていただけると、正直嬉しいです。ひとりくらい頓珍漢がいても、いいかなとも思い直し、また明日からも仕事中の青空哲学頑張ります。(笑)

ほんまエゼキエルさんは、私をおだてるのが上手い。(笑)

>>149

チーズさん。
「筋の通らないことは直感で回避する?」
何て私の嬉しくなることをおっしゃるんでしょうね(笑)貴方は(笑)

チーズさん・・・直感にひれ伏して考えるは、やまとだましいの伝統なんです。どんどん貴方の直感!・・・見せていただきましょう。(笑)

[151] チーズ 2007/07/26 18:49

言葉を用いた理性的で合理的な哲学が
かたすみに追いやられているのは
きっと感性の所為ではないでしょうか?

[152] 諸葛孔明 2007/07/26 20:00

>>151
チーズさん。私もそう思いますよ。哲学を知らない世間の人の拠り所は、論理ではなく、感性なんですね。だから、哲学がこの先どんなに、至高の論理に到ろうとも、それは世間一般からすると、一隅の暗闇の世界でしか、無いのです。

[153] チーズ 2007/07/26 20:15

モナリザの微笑みに永遠を感じるのは
細やかな分析と背景の永遠への憧れがあったような

哲学という合理的な理性的な調和のとれた言葉は
迷える者のこころの糧として輝くはずです。

笑顔で救われるように一言で救われる・・ことがあるはずです。

[154] ふくろう 2007/07/26 21:07

諸葛孔明さん、
エゼキエルさん、
レスが遅くなってすみません。
時間が十分取れないので、お二人まとめてのレスみたいになってしまいますが、ご容赦ください。

>>146
>明治以前の日本において哲学はなかったかといえば、狭義ではイエスであり、広義ではノーだろう。
から
>これがなぜに日本語訳されなかったかの歴史については割愛するが、インド哲学に日本人は日常的に接してきたのだということがわかる。
まで、
私はほとんど異論はありません。
つまり、エゼキエルさんのおっしゃる意味では、同意できる、ということです。
ですが、どこかでエゼキエルさんが述べておられたと思うのですが、「人生論は哲学と違う。哲学は学問だから」みたいな意味で、哲学を一般に「学問としての哲学」捉える見方がありますね。
ここのカテ区分も一応そんな感じだと思うのですが、その意味では神話や芸術、文学などは哲学ではないということになりますが、とりあえず、その用語法で以下述べることにします。
そして広義の哲学(神話・芸術・文学etc.を含む)を、これらが学問としての哲学ではないものの、哲学とその核心である内容、思想(出発点である直観)が重なっているという意味で、「哲学的思想」と呼ぶことにします。
むろん、これらは便宜上の区分に過ぎず、東洋哲学も学問とみなしうる限り、上の定義でも哲学とみなします。

ところで問題は「実学」の意味なんですよ。辞書的には、
じつがく 【実学】<
理論より実用性・技術を重んずる学問。実際生活の役に立つ学問。農学・工学・商学・医学など。
じつがく-しゅぎ 【実学主義】<
実用と実践を重んじ、日常生活に即した具体的・実際的な学習を中心とする立場。
大辞林 第二版 (三省堂)

という意味になり、まあ、一般には、数学・哲学はもっとも実学から遠い学問とみなされるのが一般的です。
こういった学問も実学的部分をもちろん有しますが、中心とみなされる分野(ex. 数論、存在論)は特に普通の意味では実生活に何の役にも立ちません。
フィールズ賞を受賞した京大の森教授の研究も、現在のところ実用的応用はまったくないそうです(間違っていたら訂正してくださいsunsarさんm(_ _)m)。
したがってこれらの学問の目的は、実用ではなく、純粋に真理の探究を目的とする、という意味で、ここでは「純粋学問」ということにします。
今も述べましたが、これらの学問が実用面にまったく役立たない、ということではありませんし、あくまでその学問の本質的特長とみなしうる、ということです。

[155] ふくろう 2007/07/26 21:08

先に「問題」と述べたのは、エゼキエルさんが、>>146 において、
>東洋における哲学とは実学である。
と述べられた意味は、かなりこれとは違うものだと思われるからです。
というのも、エゼキエルさんはこの東洋の哲学に「禅問答」を含めています。
しかし、「禅問答」は辞書的に、
ぜんもんどう —もんだふ 【禅問答】大辞林 第二版 (三省堂) <
(1)禅宗の僧が悟りをひらくために行う問答。

(2)何をいっているのかわからない難解な問答。話のかみ合わない珍妙な問答。
の意味で、(2)の慣用があるということは、「禅問答」はむしろ非実学とみなすのが一般的ではないかと思うのです。
エゼキエルさんにはご自身の解釈があると思いますが、それを言い出すと異論も出ると思いますので、ここは「実学」の意味を一般的意味で解釈することで同意していただきたいのですm(_ _)m。

そこで重要なことは、純粋学問と実学は必ずしも排他的ではないが、純粋学問のより中心部、基礎になればなるほど非実学化するということ、つまり、本質的に純粋学問と実学は排他する部分を含む、ということです。
そして、その部分こそが純粋学問の本質を特徴付けるものだということ。

お二人の共通した見解として、現在の哲学が現実と遊離して、空洞化している、という批判があります。
これは言い換えますと、哲学が非実学化していることを批判しているものとみなすことができるでしょう。
しかし、上にも述べたように、哲学は最初から本質的に非実学=純粋学問であり、それは批判に成らないのではないか?というのが私の見解です。
「世界はなぜ存在するのであって無でないのか?」という存在論のメインテーマなど、何の実用性もありません。
日常生活において世界が存在することは自明とみなされ、それを問うことは実用的に何の役にも立ちません。
目の前にコップがあると自分は思っているが、それは本当に正しいのか、正しいとしたらいかにそれを知りうるのか?という認識論のメインテーマも、日常生活において問うことはありません、むろん何の役にも立たないからです。
“風”について実学として捉えるなら、例えばそれは風を気象学的に研究することでしょう。
まちがっても「風とは言葉の重みだ」という命題が実学上の真理であるということはありません。
実学的にはこの命題はまったく無益です。
無益だけど面白い、そう感じるところがなければ哲学は始まらないのです。
学問としての哲学も、哲学的思想も、その多くが実学ではありません。
しかし、重要なのです。
私は哲学が多くの現代人に省みられなくなっている風潮は、お二人とは逆に、実学のみに価値をおく、そんな価値観が現代社会に広まっているからだと思います。
これは大学の現状の問題について、多くの研究者が警鐘を鳴らしているところです。
一般に純粋学問は基礎学・基礎研究であり、直接役立たない場合がほとんどなのです。
その価値を否定して、「何の役に立つんだ?何の意味があるんだ?」と、目先の実用化のみに価値を見出す風潮、これこそが真に重要な基礎学としての純粋学問を軽視する傾向を生んでいる、そう私は考えます。
むろん、現在の講壇哲学に何の問題もない、と言いたいわけではありません。

不十分ですが、とりあえず。

[156] ふくろう 2007/07/26 21:58

なんか自分で定義しておいて、「実学」の誤用がありますね(^_^;)
どうかご推察ください。

ちなみに、アリストテレスの研究した

すべての人間は死すべきものである。
ソクラテスは人間である。
よって、ソクラテスは死ぬ。

という三段論法は、お二人の嫌いな論理学ですが、実際これだけ見れば当たり前のことで、これを取り立てて言ってなんの役に立つんだ、って気もしなくはないですよね。
しかし、ライプニッツ、ブール、フレーゲ、ラッセル、テューリングなどを経て、論理学はコンピュータを生みました。
約二千年近くかかったのです。
我々がこうしてネットでコミュニケーションを取れているのも、論理学を研究した哲学者・数学者のおかげなのですよ。

[157] sunsar 2007/07/26 22:21

>>154-155 に便乗して少し。

>フィールズ賞を受賞した京大の森教授の研究も、現在のところ実用的応用はまったくないそうです
たぶん現在に限ればそうだと思います。

ただし、たとえば昔の例で言えば、ガウスやリーマンの考えた
必ずしもユークリッド空間において展開されない幾何学は
アインシュタインの相対性理論を経て、GPSなど今日の社会を支える科学技術の柱となっています。
森先生の研究も将来的にはそのような立場にあるのではないかと思われますが、
重要なのは、虚学(という言葉はふくろうさんの好みではないようですが)においては
それが実用的でありえるかどうかは無意味である、ということですね。
純粋な知的好奇心の対象かどうかが、虚学においての本質でしょう。

まあ、>>156 にほぼ同じようなことが書かれていますが。。。

なお、
>私は哲学が多くの現代人に省みられなくなっている風潮は、お二人とは逆に、実学のみに価値をおく、そんな価値観が現代社会に広まっているからだと思います。
については多少の異論があります。
現代人をとりあえず日本に限定するならば、日本においてはむしろ逆で
数十年前と比べて、いわゆる「趣味の時間」は長くなり、
(注:増加傾向が今に至るまでずっと続いているかどうかは詳しくは知りませんが、
ニートやひきこもりを考えると増加しているような気がします。あくまで気がするだけですが。)
また趣味自体も多様化の一途をたどっているように思われます。
それは、カルチャースクールの発生や発展などからもわかります。

また、日本の代表的なサブカルチャーである漫画においては複雑で抽象的なテーマも扱われ、
その思想の根底は禅に通じるように思われますが、
こうした思想は「大衆的に」脈々と受け継がれています。

そうした意味で、必ずしも虚学の需要(知的好奇心・知的探究心)が減少しているとは思われません。

まあ、ぶっちゃけてしまえば、「多くの農民は哲学なんて昔から気にしてねぇよ」とも言えます。
僕は昔よりも哲学の地位はずっと向上しているのではないかと思います。

[158] エゼキエル 2007/07/26 22:24

>>154
>ふくろうさん
忙しいのにレス有難う。急がなくてもいいよ。掲示板は逃げないし、問題点はいつでも遡って話題にしてくれていいから、無理しないようにね。

ふくろうさんの言っていることはよくわかるんだよ。
だからね、それを踏まえた上で、俺は非実学を実学化したいんだよ。
禅問答については、当然、指摘が来ると思ってたよ。
禅問答が何故、(1)の意味から(2)の意味になってしまったか、というところを俺は顧みたいんだよね。
その上で、俺は(2)から(1)に戻したいんだよ。
世間一般では非実学として顧みられない哲学や禅問答も、その本質のところを見てみれば、本当は面白いんだよ、役に立つんだよ、というところをみんなに見てほしいわけですよ。
ふくろうさん言うところの世間一般では、哲学は非実学だというのが一般認識、ということになるけれど、本当にそうだろうか、というところを疑ってみてもいいんじゃないか、と思うわけ。

今の子供達の所在なさに俺は哲学が効果的なんじゃないかと思うんだよな。それは幼児教育の場で「神話的時間の必要性」が叫ばれているのと同じような意味合いで、現代の少年の成長過程に哲学的時間が必要で、哲学的時間を持つことで、救われていく思春期の絶望感というものがあるんじゃないかと考えている。
もうずいぶん前の話になるけれど、「ソフィーの世界」がなぜあれだけ売れたか、ということを考えるのは有効だと思うんだよな。

>一般に純粋学問は基礎学・基礎研究であり、直接役立たない場合がほとんどなのです。

確かにそれが一般的な見解だということは理解できる。だが、「直接役立たない」ということは、逆から言えば、何にでも適応できるとも考えられると思うんだよな。
そして、適応が可能ならば、それを現実に演繹することを考えてはいけないのかな、と思うんだよね。
その方法が多くの悩める子供、あるいは悩める大人の精神を解放するのに役に立つんじゃないか、というのが俺の見解。
もちろん、その見解は俺一人のものだし、世間一般では認知されていないけれど、掲示板という自由な場でそれを試してみることは禁止事項ではないだろうと思うわけだよ。
それを否定するのもまた、ふくろうさんの自由だしね。

[159] エゼキエル 2007/07/26 22:28

>>156
>ふくろうさん

やっぱりふくろうさんは誤解しているね(笑)
俺は論理学を別に嫌いじゃないよ。むしろ好きな方だよ(^^;
どこから嫌いという発想が出てきたのか知らないが、反論するつもりなら、せめてど真ん中に当ててくれよ(笑)
嫌いでもないのに、嫌いと決め付けられて、レスつけられちゃ、口あんぐりだよ。

[160] sunsar 2007/07/26 22:39

そうそう、また余談で申し訳ありませんが、
>>102-103 などは、>>155 でいう
>(1)禅宗の僧が悟りをひらくために行う問答。

>(2)何をいっているのかわからない難解な問答。話のかみ合わない珍妙な問答。
に変わる「瞬間」をまざまざと見せ付けてくれますね。

[161] エゼキエル 2007/07/26 22:47

>>160
あんたのレスはどこを取っても禅問答の(2)まんまだから、心配すんな(笑)

自分のスレじゃあ余談に厳しいくせに、他人のスレじゃ平気でそういう書き込みすんのな。相変わらず、自分にだけ優しく他人に厳しいねw他人のスレは荒らしていいと思っているらしいw

[162] sunsar 2007/07/26 22:58

>>161
>>160 における余談とは「今の議題からは少し外れるけれども」という意味合いであって、
>>0
>タイトル通り、議題を特定しないで、皆さんに議論をしていただきたい。
となんら反するものではありません。
それよりも、>>161 のような中身のないレスの方が気になりますが。

[163] ふくろう 2007/07/26 23:01

>>159
エゼキエルさん、私の誤解だということ、申し訳ありませんm(_ _)m。

実のところ私は、あなたの哲学に対する考えがどうもよくつかめないところがあるのです(>>158 には書いてくださっていますが、またよく検討します)。
それについてはまた、できれば書かせていただきますが、とりあえず、論理学に対する見解を教えていただければと思います。

[164] 諸葛孔明 2007/07/27 08:29

ふくろうさん
真摯なレスありがとう。エゼキエルさんがおっしゃられたことに同意です。私はふくろうさん・・・貴方も後半おっしゃられたように、哲学は学問として、純粋に論理を追求して行けば、それぱ、直接実益とはならないが、実益を産む基盤と成りうることは、私も認めます。

ところが、純粋な学問としての哲学に、私個人的に魅力を感じません。

つまり、sunsarさんがなされておられることを、純粋な哲学というなら、論理を追求する面白さとか喜びとは、哲学は程遠い世界だな、と感じただけです。

つまり、「現実から遊離した」とは「現実の学問の喜びというものから遊離した」という意味を含んでいるものと、思われてください。

例えば、似たような主旨であっても、ふくろうさんが言えば、子供で興味を抱きそうな、そんな面白さの予感がある。つまりふくろうさん!

学問をする上で、その人間の「人格」や「良心」は、基本中の基本でしょう。この人格や良心を、学問をするうえで無益だと称する輩が、哲学という学問に携わるというのは、非常に問題だと感じるだけです。

ふくろうさん!

哲学は実学でなくても、私は構わない、と思います。その理論を追求するもの の「人格や良心」が根底にあれば、それは必ず深いところでは、実学とか実益と、繋がってくるものと思われるのです。

[165] 諸葛孔明 2007/07/27 10:25

エゼキエルさん。ふくろうさん。そしてsunsarさん。・・・・・・あらゆる学問における純粋な喜びの根底に、そこに関わる人間の「人格」と「人格」の触れ合いというものがある。これは、世間一般の常識が、人間関係に重きを置くのと同じように、哲学という学問にあっても、人間関係の重さ、いわゆる、信頼とか信義、或いは、発言に対する責任感というものは、論理を追求する上での基本だと思うのですが、お三方?違いますでしょうか。

他人との関わりがあり、他者の存在や発言に敬意を払いながら、切磋琢磨していく、そういう態度を哲学に求めることについては、お三方?合意を得られますでしょうか。

人格や良心を哲学の世界に持ち込むことを、平気で無用だとかお門違いだとかおっしゃる方も、この掲示板でもいらっしゃいます。

でも、私はそれは違うと思うのです。

学問だから、自分の良心さえ守っていれば、排他的になってもいい、というのは、私は間違いだと思うのですが。

[166] sunsar 2007/07/27 11:10

>>165
>あらゆる学問における純粋な喜びの根底に、そこに関わる人間の「人格」と「人格」の触れ合いというものがある。
そんなことはないでしょう。
もしそうであれば、人間不信の学者というのは意味不明です。
学者にとっては、純粋に学問自体が対象であることもしばしばあるのです。
あなたには理解できないものかもしれませんが。
人格と人格の触れ合いは学問においては皮相的なものです。

>哲学という学問にあっても、人間関係の重さ、いわゆる、信頼とか信義、或いは、発言に対する責任感というものは、論理を追求する上での基本だと思うのですが
そんなことはないと思います。

>他人との関わりがあり、他者の存在や発言に敬意を払いながら、切磋琢磨していく、そういう態度を哲学に求めること
他者の存在に対して敬意を払う、ということについては同意してもよいでしょう。
しかし、それは直ちに任意の発言に対して敬意を払うことにはなりません。

>学問だから、自分の良心さえ守っていれば、排他的になってもいい、というのは、私は間違いだと思うのですが。
まったくそのとおりです。だから、あなたはそのような良心を守ることによって
排他的になる(>>102-103 )行為をやめたほうがよいのではないですか?

[167] エゼキエル 2007/07/27 11:37

>>163
>ふくろうさん
俺の哲学に対する考えは過去レスが全てだよ。それで理解できないのなら、それはそれでいい。俺は自分を理解されたいわけじゃないのでね。
他の哲学カテの利用者と同じスタンスだから、気にするほどのこともないと思うし、それについて語ることにも関心が持てない。
論理学についても見解というほどのものもない。
ただ面白いから読むだけ。
俺はもともと言語について調べてて、その関係で論理学に行き着いたんだよ。賢いふくろうさんなら察しがつくだろうがね。だから、仏教論理学だとか、普遍言語だとか、興味持ってるのはそのあたりで、数学的な論理学を掘り下げようという意思はまるでないので。
典型的な文系人間なんでね(笑)

>>165
>諸葛亮先生
仰る通りだね。
ここで発言している人間に関して言えば、他者が存在することを承知の上で参加しているわけだし、掲示板での他者を無視した学問活動は単なる自己顕示と見られても文句はいえないよな。
大学で研究している人間にしてもそうだね。大学という機関に所属している以上、他者との関わりを否定することはできないだろうし、また学会で自説を発表するにしても、他者の存在を認めているからこそ発表するわけで。必要ないというのなら、自分一人で学問し悦に入っていればいいだけの話。

>他人との関わりがあり、他者の存在や発言に敬意を払いながら、切磋琢磨していく、そういう態度を哲学に求めることについては、お三方?合意を得られますでしょうか。

俺は合意。
他者との関わりを否定するなら、自説を主張すること自体に意味がない。敬意のない発言は他者不在の発言でしかなく、自己満足でしかない。自己満足なら他人に迷惑がかからないようチラシの裏にでも書いておけ、ということだね(笑)

>学問だから、自分の良心さえ守っていれば、排他的になってもいい、というのは、私は間違いだと思うのですが。

確かにね。
中には自分の発言だけを意味あるものとし、同様の他人の発言を撤回せよ、とのたまう馬鹿がいるが、これこそ究極の排他主義だね。
他者の発言の撤回を求める前に、何故、自分が受け入れられないのか考えるべきだと思う。他人に排除されているという被害妄想に陥る前に、自分が他人を排除しているから受け入れられないのだという現実をまず直視すべきだろう。

[168] sunsar 2007/07/27 11:47

>>166 の続き。

たとえば、>>1 における主張などは葉隠武士という個人の良心にすぎず、
それを守ることで排他(排sunsar)的になっている訳です。
>>102-103 なども、あなたの目にはそれがやりとりとして成り立っているように見えなかったとしても
その後僕と落ち武者さん、ふくろうさんのやりとりは続いている訳です。
良心の理解を超えることが起こったときに、実際に排他的なのはあなたの方ですよ。

僕は、主張の動機が排他的な気分であったとしても、
主張の内容には一切排他性を含めていません。
それこそ、「証明できないなら認められない」としか主張できない
(僕が「では証明できるものとは何ですか」と聞いてもいまだにその例が挙がらない)
エゼキエルさんや、あなたの方がよっぽど排他的なのです。

エゼキエルさんは最後の方はそれらの話をすべて放棄して価値についての議論に転換しましたが、
そもそも哲学に「価値」がなければならないという思想自体が恣意的であり、
その思想を強制することこそ排他的です。
(ついでに言うと、僕は訂正することには価値があると思っている訳ですが。)

[169] エゼキエル 2007/07/27 12:15

ある意味、嘘つきってのは最強だな(笑)
嘘八百でも他スレで書けば本当のことのように聞こえるしな。
初めに結論ありき、でそれに必要な事例を捏造するのは自己顕示欲の強い人間にありがちな行動ではあるけどね。

人間の嘘をつく心理、ってのはどうだろう、次の議題として。
心理学になっちまうか(笑)

[170] 諸葛孔明 2007/07/27 12:20

sunsar氏
早速のレス、ありがとうございます。貴方のようにはっきりとものを言っていただけると、私も反駁しやすいので助かります。(笑)

>>102 >>103 を排他的と見られたのなら、明らかに貴方の誤解ですね。

私は貴方の存在に敬意を払うからこそ、>>102 >>103 のようなことを言えたのです。愛憎の簡単な心理学、お分かりになりませんか。

初めに断って置きます。

私は貴方に嫌悪も侮蔑も、全くありません。このカテでの私とのやりとりにおいても、貴方の誠意を再認識したくらいですから。(笑)ですから、そこはご安心下さい。

貴方がおっしゃられたように、哲学の地位は昔に比べて、向上したのかも知れませんね。

でも、私にとって、例えばkyrieさんの哲学なんか、まるで分からない。何をどうおっしゃりたいのか、てんで分からないのです。言葉があまりにもアカデミック過ぎて(笑)

でもね。sunsarさん。私、分からないけど分からないなりに、kyrieさんの主張を、一生懸命理解しようとしてます。何故だかお分かりですか。感じるんですよ、彼の良心と人格を・・・。そして、彼は自分の存在を賭けて、こう言ったのです。
「この掲示板にあるスレッドは、すべて哲学ではなく妄語だ、私は純粋に哲学の議論がしたいのだ」と。

勿論、この言葉に異論はある。しかしsunsarさん。彼の言葉はそのまま、彼の「良心」であり「人格」なんです。すべてが統一されているから、分からなくても、反駁を感じながらも、彼の言葉には惹かれるのですね。

しかし、貴方の言葉に、或いは、貴方のレスに、kyrieさんのような、哲学に対する純粋な問題提起や啓発を感じないのは、何故でしょうか。

勿論部分的には貴方の人格らしきものはありますが、貴方の言葉は他の方のレスにくらべて、言葉が軽いのです。

多分、貴方と議論をしている皆さんが、一様に感じるのは、何故そんなに難しい言い回しをするのか、ということではないのですか。

[171] 2007/07/27 12:33

>>170
大人な感じがして格好いいからだよね(笑)たぶん

クールな感じがでて、まるで高級なスーツを着ているような感覚かな?(なんか難しいよね、笑)

[172] sunsar 2007/07/27 12:48

>>170
まず、
>貴方のようにはっきりとものを言っていただけると

>何故そんなに難しい言い回しをするのか
という発言の趣旨がかみ合いません。
僕の発言が「はっきりしている」ことを読み取れるのならば、
それは「そこまで難しいことを言っている訳ではない」ということを意味すると思いますが。

次に、排他的であるということについてですが、僕が排他的であるといっているのは、
「あなたたちが自分の良心によってしか僕の主張を解そうとしないこと」
に他なりません。

もちろん、最終的な解釈は良心によるものでしょうが、
主張の意味を把握するということには必ずしも良心を要する訳ではありません。
ところで、あなたは、僕と落ち武者さんやふくろうさんとの会話が難解であるがゆえに
解釈することを放棄して>>102-103 の発言をしています。
僕や落ち武者さん、ふくろうさんの間では、
(それが僕の真意を完全に反映しているかどうかはともかくとして)会話は成立しており、
僕や落ち武者さんやふくろうさんの立場では理解不能なものではないにもかかわらず、
あなたは>>102-103 のようにそれが理解不能なものであるかのように決め付けている訳です。

僕は、そのような態度をさして「排他的」と言っているのであって、
あなたの僕という人格に対する感情などは知ったことではありません。

kyrieさんの言葉は日本語として意味不明で、
単に難しそうな単語を振りかざして遊んでいるだけのように思われますが、
僕の言葉は少なくとも日本語としては理解されるものです。
用語も、それほど難しい言葉を用いているわけではなく、
むしろ簡単な言葉しか用いていません。
僕の主張が難解であると思われるのは、主としてその内容によるでしょう。

それもそのはずで、僕の書いている言葉は「難しく」こそないものの、
少しでも誤読があれば意味が劇的に変わるようなものだからです。
誤読があれば意味が変わるというのは、本来任意の言葉が持つ性質ですが、
もし「もともと」相手と意思が疎通されているならば、
多少の誤読があっても相手の言わんとすることは通じる訳です。
しかし、僕とあなたの間においては、「もともと」の意思疎通がないのであって、
少しでも誤読があればまったく意味が変わってしまう場合もある訳です。
あなたはその意思疎通を「自明なもの」ないし「前提」として求めますが、
もともと考え方の異なる僕とあなたがどこまでを共有しているかということは
まったく明らかではなく、僕は余計に慎重に成らざるを得ない訳です。
(この状況こそが、「論理が仮定できない世界においては論理すらも真理でない」
を髣髴とさせるものですね to ふくろうさん)

僕の言葉について、その良心が感じられないというのは、
単にあなたの経験不足ないし想像力不足だと思います。
たとえばふくろうさんや落ち武者さんであれば、僕の良心の全貌などはわからずとも
その一端を力強く感じることはできるでしょう。

僕とあなたはまったく異なる文化圏にいるようなものです。

[173] 諸葛孔明 2007/07/27 12:56

>>171
(笑)確かに・・・kyrieさんのは哲学だが、sunsarさんは「哲学の真似事」かも知れませんね。

だから、議論は成立していない。sunsarさん。貴方のレスの中に、他者はひとりも居ない。貴方はご自分に言い聞かせるように、難解な言い回しをするばかりです。他者との共有を無視されて、ご自分の主張を繰り返されるのみ。果たしてここに、貴方の人格や良心を見ることが、可能でしょうか。貴方自身は、排他的になっているつもりは無いのでしょうが、貴方の言葉や言い回しが、他者を意識されない、淡々として独善的なものにしか、聞こえない。kyrieさんが議論に参加しない理由を考えて見てください。私やエゼキエル氏を排他的とおっしゃる前に、ご自分のレスを、もう一度正直に振り返られてください。

私はただ、sunsarさん、貴方に一刻も早く、気が付いて欲しいです。貴方ご自身の哲学が、他者との議論を初めから拒んでいる、という現実に・・・。

[174] 未完 2007/07/27 13:34

sunsarさんは、初めから議論なんか望まれてなんかおられてないと思います。彼は数学に於いて何かしら疑問を感じ哲学のカテを訪ねた。
たまたま感情論なるものが交わされており、彼にとっては未知との遭遇。成るほど文章としては成立こそすれ、そこに記号や数字をあてはめても数学としては成立しない。彼は、未だ数学の世界から抜け出せずにいる。
日常生活を振り返ってみれば、彼も彼なりにそれらを楽しみエンジョイしているとは感じているらしい。要は、数学が哲学の一部であることを認めない限り、その楽しみもエンジョイできる生活もエセと思う。勝ってですガ

[175] エゼキエル 2007/07/27 13:45

>>171
>彼氏
相変わらず正確なところを突いてくるね(^^;
裏を返せば、本質が子供ということだね。大人に憧れるその本質が子供だからこそ大人のスーツを着たがるということだ。
だが、いかんせん、そのスーツを着こなせていないために不格好になってしまっているから回りから見るとどうしても不自然なわけだな。
うーん、妥当な気がするな。

間違いを指摘。

>「あなたたちが自分の良心によってしか僕の主張を解そうとしないこと」

この「あなたたち」ってもしかして俺も入っているのか?
だったら、訂正してくれ。
俺は良心で誰かの主張を理解しようとしたこともなけりゃ、そう主張したこともない。そもそも俺は議論に良心を必要としていない。
sunsar氏の言によれば、訂正には価値があるのだろう?
実践してみせてほしいね。どうせスルーするんだろうが。
氏の言葉と行動は常に矛盾しているからね。

[176] 未完 2007/07/27 13:45

序曲というところがナカナカ渋いね。
ワインでいうならイタリア産しかもトスカーナ辺りのを彷彿とさせて、そそります。つまり、ワクワクしまんなぁ…

[177] 諸葛孔明 2007/07/27 13:51

>>174
同意!!

sunsarさん。傍目から見ても、貴方が他人との議論の真似事をされながら、実は、何一つ議論をしていないという現実は、明白のようですね。

貴方は、落ち武者さんと何か確かな合意を得ましたか。?ふくろうさんと何か確かな合意を得ましたか。?ふくろうさんが、落ち武者さんが、貴方の主張のどこに、戸惑っておられるかを、貴方はきちんと把握してますか。?把握しないで、どんどんご自身の主張を、繰り返しておられるのでは、ないのですか。?いわば、そういう貴方の、隠れた排他的態度に、貴方はいつになったら、お気づきになるのですか。?

[178] エゼキエル 2007/07/27 13:55

>>174
>未完さん
俺もsunsar氏は議論を望んではいないと思う。
ただ自分の主張を認め、崇め、奉れ、ってことなんだろう。
でなきゃ、レスのいちいちがこうも自己の正当化ってことはありえんだろう(笑)笑えるほどの自画自賛だぜ。こんな奴ってホントにいるんだな。初めて見たよ俺ぁ。やっぱり氏の言動を解くキーワードは自己の肥大化が適切なような気がする。

>>176
俺も「序曲」ってあたりが気に入っている(笑)
しかしワクワクするって…何にワクワクしてんだよ(^^;

[179] エゼキエル 2007/07/27 14:01

>>177
>諸葛亮先生
先生、俺はsunsar氏は今、そのことに気づかなくてもいいんじゃないかと思うぜ。若いうちは尊大になってみるのもいい経験なんじゃね?
肥大化した自己に浸って、その自己を否定されて、初めてそこから気づくことも出てくると思うんだよな。

奴が議論ができていないという状態にも関わらず、また意識的に議論を望んでいないかもしれないにも関わらず、掲示板に来るということは何よりも奴が無意識なりとも他者を必要としているからだろう。
他者を必要とする以上、いづれ自分の真の姿に気づく時が来る。
でなきゃ、引きこもるかどっちかだろうね。
幸い、奴には親切で気長なふくろうさんと落ち武者さんがいてくれる。彼らなら奴の拙い言語も補って理解してくれるだろうし、そうしてもらううちに頑なな自己肥大にも気づくこともあると思うぜ。

気が済むまで繰り返せばいいよ。付き合ってくれる相手がいるうちはさ。そのうち見えてくるものもあろうってもんだ。

[180] 諸葛孔明 2007/07/27 14:38

>>179

エゼキエルさん
流石!ご慧眼ですな。(笑)逆にこうして私なんかが意見するから、意固地になって、ご自身の殻を破ろうとはしないのかも知れませんね。(笑)

そういう意味では、貴方がおっしゃるように、sunsarさんのなされることを、黙視するという方が、いいのかも知れませんね。

ただエゼキエルさん。

ここは敢えて、不純なことを言わせて下さい。私がsunsarさんとやりとりをすると、掲示板にほんのりと赤い紅が浮き出てはきませんか。(笑)

つまり、sunsarさんの態度は、私の評論家魂にとっては、立派なサンプルでもあるのです。私はsunsarさんを変える、四つのプログラムを考えて、今、一つ目を実行しています。

だから私は、sunsarさんを貴重なサンプル材料として、畏敬しているのですよ。(笑)私はこのサンプルを簡単には手放しませんよ。

エゼキエルさん。

この私の言葉は、恐らくsunsarさんも見ているですからね。でも大丈夫です。sunsarさんは、自分の感情に流される人ではありません。私は安心して、sunsarさんをサンプルとして考えることが出来るのです。

[181] 諸葛孔明 2007/07/27 15:01

>>180

sunsar氏
私のサンプル発言は不適切でした。・・・お詫びして撤回します。

[182] sunsar 2007/07/27 15:09

>>177
http://philosophy.bbs.thebbs.jp/1184805893/278
http://philosophy.bbs.thebbs.jp/1184805893/282
http://philosophy.bbs.thebbs.jp/1184805893/285

>>180-181
僕は、「殻をやぶろうとしない」のはあなたたちの方だと思いますよ。

ちなみに、>>173>>175 で解釈がまったく違うのも面白いですね。
僕は>>171 だけではその意図を必ずしも理解するものではありませんが。

[183] fat 2007/07/27 15:13

独善的なのは、どちらでしょうね。
皆さんよくお考えになったほうがよろしいかと。

[184] 諸葛孔明 2007/07/27 15:18

>>182

sunsarさん
意見が違うのは極めて自然でしょう。これのどこが面白いのですか。?(笑)

[185] sunsar 2007/07/27 15:23

>>184
面白いところがわからなければ、それはどうでもいいですが、
それよりももっと本質的な部分に答えていただきたいものです。

[186] 諸葛孔明 2007/07/27 15:26

>>185
本質的な問題とは?

[187] sunsar 2007/07/27 15:30

>>186
>>182 前半などが放置されておりますが。

[188] 諸葛孔明 2007/07/27 15:34

>>187

いえ、残念ながら貴方の殻が破れていません。貴方は自衛ばかりしています。殻を破られて下さい。

[189] sunsar 2007/07/27 15:40

>>188
いえ、ふくろうさんや落ち武者さんの話ですが。

[190] 諸葛孔明 2007/07/27 15:54

>>189
落ち武者さんとの同意が取られているようにはみえませんね。それと、ふくろうさんに関しては、ふくろうさんなりに、貴方の主張を理解なされた、という意味での「同意します」ではないのですか。そして、貴方はふくろうさんの「同意します」の言葉を黙認なされたということでしょ。ふくろうさんは確かに、貴方の主張を、理解なされた。でも、貴方はふくろうさまの理解(何を理解できたのか)を、理解はされておられない。このような同意を、果たして「ふくろうさまとの同意を得られた」と言えるのでしょうか。?

[191] エゼキエル 2007/07/27 16:25

>>180
>諸葛亮先生
そういう御主旨なら余計なお世話だったね(笑)もう何も言わないよ。先生には先生のやり方があるということだ。御随意にどうぞ(笑)

>>183
>fatさん
俺は独善的なのはどちらか、という疑問は的外れだと思うけどな。
とりあえずこのスレに今のところ、独善的な人間は存在しないと思うね。fatさんが何を見てそう思ったか、レスアンカーがはっきりしねえからわかんねえけど。
それなりの主張があって、意見を交換していることが独善的だというのなら、哲学カテのレスはみな独善的ということになる。
むしろ、自分の立場をはっきりさせずにぼそっと発言する人間が一番独善的かもしれないね(笑)言葉の責任を取る覚悟もない奴が自己主張するというのもおかしな話だ。さぞ自分をお高く買っていらっしゃるのだろうよ。

>susar氏
で、>>175 はやはりスルーされると(笑)
相変わらず議論以前の問題として、自分のミスの訂正のできない奴だな。そんなに間違いを認めるのが沽券に関わるのかねえ。
sunsar氏の殻が破れるとか破れないとか、俺にはどうでもいい。
sunsar氏の主張には興味ないし。
孔明さんと俺を十把一からげで考えるのもやめてくれ。そんな大雑把なことするから、指摘が的外れになるんだよ。
俺らを同意見だなんて思う奴ぁあんたくらいだよ。
孔明さんと議論するなら孔明さんの主張を把握しとく必要があるんじゃね?っていうか、勝手に勘違いして、いちいち俺の名前を出してくんなよ。

[192] sunsar 2007/07/27 16:32

>>190
そりゃあふくろうさんの理解の「全貌」など知る由もありませんが、たとえば
>「そもそも原理的にアポステリオリに知られるものだから
>実際に成り立たない世界がありえる」というほうがより正確です。
ということについて理解が得られた、ということは僕は承知しています。

落ち武者さんに関しても、提示された例によれば、主張の真偽はともかく
意味はある程度理解されたものと考えます。
主張の真偽に関する同意については、もっと彼らの理解が深まってからの話なので、
もう少し先になるでしょう。
そもそも、ある個人が長年あたためてきた主張を、
簡単に理解できると考えること自体がナンセンスだと思いますがね。

[193] sunsar 2007/07/27 16:34

>>191
ピーチクパーチクと構ってほしいのはよくわかりましたが、
あなたは、「証明できないなら認められない」という「良心」にしたがって僕を非難しているのですが。。。

[194] sunsar 2007/07/27 16:45

たとえば、
http://philosophy.bbs.thebbs.jp/1183342152/953
>何のための文脈なんだ?何のための哲学なんだ?
>本末転倒になってやしないか?
>文脈だけを理解していればいいのか?
>辻褄さえ合っていればいいのか?
>そうじゃないだろう?
>何のために使われるのかを理解しなければ思索する意味がない。
>存在することは否定しない。
>だが、それに何の意味があるんだ?
>その存在に何の価値があるのだ?
>論理ゲーム的な存在価値は認めるがね。

これは、良心とでもいうべきもの以外の何者でもありません。

>現実の意味を、文脈の真偽を疑うことができることは誰もが知っているが、誰もしないのは何故だ?
>それが単なる記号の変換に過ぎないことを知っているからじゃないのか。
>知っているから、誰もがsunsar氏に納得がいかず、質問を繰り返しているのじゃないのか。sunsar氏自身がその無意味さに気づくようにと質問を繰り返しているんだろう?
>本当にsunsar氏の主張がわからない、という人はいないはずだよ。
>みんな理解している。
>だが、それは納得できるものではないから、レスがここまで伸びているんだろう。
これは、上記良心に基づくならば、僕の主張は認めることが出来ない
という主張にほかなりません。
エゼキエルさんは、自身の良心によって、僕の主張を意味がないものだと判断しているわけです。

[195] エゼキエル 2007/07/27 17:03

>>193
>ピーチクパーチクと構ってほしいのはよくわかりましたが、

こういう発言が感情的だ、と指摘されていることに気づかないかね(^^;
しかも>>191 の文章が読めないらしい。構ってほしくない、と書いてあるのが、構ってほしい、と読めるらしい。日本語が通じないんだからな。参るよ。
>>175 の訂正は?する気ないなら、訂正に価値がある、とか言わなきゃいいんだよ。
で、またしてもこちらのレスとは無関係なことばかり返してくる(笑)もうどうしようもないね;;笑うしかない。
そんなに論破されたのが悔しかったのか?論破されてなんぼだろ。いつまでもこだわってんなよ。

日本語が読めないのはよくわかったよ。
良心という言葉の意味を辞書で調べてみるといい。
日本語理解できるようになったら、もう少しまともな話もできるようになるよ。まあ、頑張れ。
俺から言えることはそれだけだ。

[196] sunsar 2007/07/27 17:07

>>195
あなたは>>194 が読めないのですか?

[197] エゼキエル 2007/07/27 17:10

>>196
あなたは>>195 が読めないのですか?

[198] sunsar 2007/07/27 17:16

ちなみに、毎度の辞書的意義の講釈ですが、

りょうしん りやう— 1 【良心】
(1)道徳的に正邪・善悪を判断する意識。
「—の呵責(かしやく)を感ずる」
(2)〔倫〕〔conscience〕善悪を判断して善を命じ悪を退ける知情意の統一的意志。その起源や妥当性に関して、生得説・経験説・批判説などがある。

(1)で出てくる道徳については、

どうとく だう— 0 【道徳】
(1)ある社会で、人々がそれによって善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範の総体。法律と違い外的強制力としてではなく、個々人の内面的原理として働くものをいい、また宗教と異なって超越者との関係ではなく人間相互の関係を規定するもの。

とあります。>>194

>何のための文脈なんだ?何のための哲学なんだ?
>本末転倒になってやしないか?
>文脈だけを理解していればいいのか?
>辻褄さえ合っていればいいのか?
>そうじゃないだろう?
>何のために使われるのかを理解しなければ思索する意味がない。
>存在することは否定しない。
>だが、それに何の意味があるんだ?
>その存在に何の価値があるのだ?
>論理ゲーム的な存在価値は認めるがね。

ということは、何に意味があり、何に価値がないのか、ということを主張する文です。
これは、哲学を考える際の態度として何が正しく何が正しくないかを主張しているととることができます。
正しい・正しくないという言葉遣いが気に食わなければ、
哲学として正当なありかたは何であるかを主張している、と解釈すればよいでしょう。
これは一方で、僕のあり方を邪道であると言っているのと意義的に同じでしょうが、
これらの主張は正邪の判断について述べているので彼の良心を主張しているといえます。

[199] 諸葛孔明 2007/07/27 17:19

>>192-194
sunsarさん
この際はっきりと申し上げておこう。

貴方のレスはその8割から9割が、頓珍漢なんですよ。ふくろうさんの全貌を知る由もない、・・・そりゃ誰だってそうですよ。でも問題は、そういうことを、平気で人前で言える、その貴方の神経なんです。

ふくろうさんは一生懸命貴方を理解しようとして、貴方に質問を投げ掛けているのですよ。それに対して>>192 見たいな言い方は、ちょっと酷いんじゃないですか。あまりにもふくろうさんに対する礼を欠いてはいないか。!?

そういうところ・・・そういうところだよ。貴方が根本的に駄目なとこは。!!・・・貴方の発言には、本当に他人が居ないんだよ。貴方は議論の真似事をするために、ふくろうさんや落ち武者さんを、巻き込んでいるだけなんだよ。一体いつになったら、そのことに気が付くのか!!いい加減目を覚ましてくれないか。!!!!

>>193 >>194 など
他人の言葉を全く理解しようとしない、君の典型的な態度だろう。他人からの問いかけを、君はいつも侮辱で返す。それが学問か!・・・それが貴方の哲学なのか・・・!もしそうだと云うなら、貴方は本当にさびしい人間だ!・・・だがな!!sunsarさんよ。!!・・・自分がさみしいからと言って、他人を巻き込むのはやめろよな!!・・・見苦しいぜ・・・sunsarさんよ。てめえだけが、悲劇のヒーローじゃないんだぜ。!!他人に心を開けない自分の苦しみを、他人のせいにするんじゃないよ。世の中なめたらアカンよ、sunsarさんよ。もっと真摯に自分を振り返れよ!!もっと自分以外の人間の存在を、認めろよ。頑固にカッコつけんじゃないよ。・・・sunsarさんよ。・・・あんたって、本気で本気で本気で本気でよ、その程度の人間なのか!?・・・本気でやる気あんのか!?

[200] エゼキエル 2007/07/27 17:22

>>198
>これは一方で、僕のあり方を邪道であると言っているのと意義的に同じでしょうが、
これらの主張は正邪の判断について述べているので彼の良心を主張しているといえます。

はい、読み違え。
な、もうやめようや。
あんたには読解力がない。
とにかく、あんたにあるのは、被害妄想だけだよ。
だから、全ての俺の言葉はあんたへの非難だとか、批判だとか、勝手に改竄されるんだからさ。
不毛だろ。

[201] sunsar 2007/07/27 17:24

>>199
>ふくろうさんは一生懸命貴方を理解しようとして、貴方に質問を投げ掛けているのですよ。それに対して>>192 見たいな言い方は、ちょっと酷いんじゃないですか。あまりにもふくろうさんに対する礼を欠いてはいないか。!?
僕には、なぜあなたがそう解釈できるのかがさっぱりわかりません。
僕がいつふくろうさんの主張を理解しようとしていないなどといいましたか?
僕は、掲示板に書き込まれてはいない「ふくろうさんの理解の全貌」を
知る由はないと主張しているだけなのです。
何がどう酷いのですか?全く意味がわかりません。

後半については、ますますもって意味がわかりません。
あなたの思考回路においてはそれらが順接的につながるのかもしれませんが、
僕にはそれを理解することも、また共有することもできないように思われます。
理解や共有を求めるのであれば、もっときちんと説明していただくのが筋ですし、
理解や共有を求めないのであれば、それこそただの戯言として右から左へ流させて頂きます。

[202] sunsar 2007/07/27 17:25

>>200
読み違えだと主張するのであれば、具体的にどう読み違えなのか説明してみてはいかがですか?

[203] 諸葛孔明 2007/07/27 17:30

>>201
どうしても、他人の日本語が理解出来ないんだね。私は、「そういうことを平気で言える貴方の神経が問題なんです」と言ったの。だから私は貴方に「やる気があんのか?」と言ったの。他人の言葉を感情的に受け止めるから、冷静に相手の言葉の意味が取れないんだろ。まずは、・・・sunsarさん・・・冷静になりなさい。

[204] エゼキエル 2007/07/27 17:32

>何のための文脈なんだ?何のための哲学なんだ?
>本末転倒になってやしないか?
>文脈だけを理解していればいいのか?
>辻褄さえ合っていればいいのか?
>そうじゃないだろう?
>何のために使われるのかを理解しなければ思索する意味がない。
>存在することは否定しない。
>だが、それに何の意味があるんだ?
>その存在に何の価値があるのだ?
>論理ゲーム的な存在価値は認めるがね。

>>200 じゃ不親切だから、もう少し付け足しとくよ。
sunsar氏が引用してきた上の部分はそもそもsunsar氏に向けられたレスじゃなかったはずだよ。なのに、なんで、

>これは一方で、僕のあり方を邪道であると言っているのと意義的に同じでしょうが、
これらの主張は正邪の判断について述べているので彼の良心を主張しているといえます。

と解釈してるのかがまるでわからない。
何度も言うが、俺はsunsar氏の哲学には興味がない。
興味も持てない主張を否定しなきゃならない理由も俺にはないし、非難する必要もない。そうだろ?
被害妄想なんだよ。
それは自己の肥大化による過剰反応。
俺はあんたが思うほどにはあんたに執着はないし、関心もない、と何度も言っている。
そのことを理解しない限り、あんたの被害妄想は止まらないし、正しい読解も不可能だと思うよ。

[205] sunsar 2007/07/27 17:34

>>203
いや、あなたが「酷い」というから、僕にはどこが酷いのかわからない、と言っているのですよ?
あなたは確かに
>「そういうことを平気で言える貴方の神経が問題なんです」
と言っていますが、僕はどこが問題なのかわからないので、
ではどういう風に問題なのか説明してください、と言っているのです。
感情的に受け止めるも何も。。。

[206] sunsar 2007/07/27 17:37

>>204
では、その直後に現れる
>俺は何でsunsar氏の主張に納得がいかないのかずっとわからなかった。
>だが、わかったよ。奴の哲学が現実から乖離しすぎているんだ。
>そう。哲学の空洞化。
>別スレで葉隠さんがそう書いているのを見て、そうなんだ、と理解した。有難うな。
>俺は過去レスを見て、こう言うことができるだろう。
>sunsar氏の主張は哲学の空洞化だと。
>そして、自己の肥大化によるジレンマがレスを無意味な反論の羅列にしてしまっているのだ、と。
>肥大化された自己は他者との認識とのギャップにジレンマを感じざるを得ない。
>sunsar氏が現実を見ていないのは過去レスの例を見てもよくわかる。
>ドラえもんにブラック・ジャック。麻薬漬けの条件付けに、人は死なないかもしれない、という主張。
>過去レスを浚えば、もっとたくさんの例が見つかる。
>それらはあまりに非現実的だ。
>誰もがそれらが現実的ではないことはわかっている。
>
>現実の意味を、文脈の真偽を疑うことができることは誰もが知っているが、誰もしないのは何故だ?
>それが単なる記号の変換に過ぎないことを知っているからじゃないのか。
>知っているから、誰もがsunsar氏に納得がいかず、質問を繰り返しているのじゃないのか。sunsar氏自身がその無意味さに気づくようにと質問を繰り返しているんだろう?
>本当にsunsar氏の主張がわからない、という人はいないはずだよ。
みんな理解している。
>だが、それは納得できるものではないから、レスがここまで伸びているんだろう。
これは一体何なのでしょうか。
それこそ、あの文脈で冒頭のような主張をすることは、
僕に対する反論や批判でしかありえないでしょう。

[207] エゼキエル 2007/07/27 17:42

>>202
>読み違えだと主張するのであれば、具体的にどう読み違えなのか説明してみてはいかがですか?

爆笑;;
なんで?
なんで説明してやらなくちゃいけないの?
関心もないことを強要される必要はないと思うがねw
ただ単に、読み違えを指摘しているだけ。間違いを指摘しているだけなんだよ。
ああ、間違ってました、で済む話じゃね?
なんでいちいち俺が説明までしてやらなきゃならないんだよw
ホント読解力ないよな。

[208] fat 2007/07/27 17:43

>>191
批判は歓迎すべきことなのでしょうが、一方的な診断、非難は中傷と取られかねません。それは得てして独善的です。
その傾向というものはある程度免れ得ないことなのかも知れませんが、わざわざ書き込む必要もないと思いますし、あったとしても(人格を変えたい、等——それも手前勝手だと思いますがね)、他多くのスレッドにまで書き込むことはないでしょう。
いずれにせよ、こういう、主張とはあまり関係のないような所の応酬というものは、当事者、第三者ともに見ていて気持ちのよいものではないと思います。

[209] 諸葛孔明 2007/07/27 17:45

>>205
こう言えばいいのかな。・・・貴方が「そりゃあふくろうさんの思想の全貌を知る由もない」と言ったとき、貴方はふくろうさんの理解に、何の関心も示していないことになるのだよ。これをね。ふくろうさんに配慮すれば、こういう言い方になるんだよ。

「それはね。確かに私もふくろうご自身の思想については、その全貌は理解していませんね。」

これが他人に対する礼儀なの。知る由もない、という貴方の言い方が、駄目。

[210] エゼキエル 2007/07/27 17:48

>>206
別に反論でも批判でもないよ。
俺の考察だよ。
最初の一文読めないか?
あんたの主張に納得がいかない理由がわかった、と書いてあるだろ。
そのまんまだよ。
やっと納得がいったから、それを書いたまで。
その証拠にsunsar氏あてのレスじゃねえだろ?
俺の中で納得がいったから、その疑問はもう解消されたし、終わったよ。
何度も言ってることだが、俺は別に他人に理解されたくて書いているわけじゃないしね。
第一、どこにも良心なんてのは出てこねえし。
読み違いだろ?

[211] sunsar 2007/07/27 17:51

>>209
>貴方が「そりゃあふくろうさんの思想の全貌を知る由もない」と言ったとき、貴方はふくろうさんの理解に、何の関心も示していないことになるのだよ。

なりません。
あなたは、知る由もないという単語の意味を知っていますか?
知る由もないとは、「知るための手段がなく、わからない」という程度のことを意味します。
ふくろうさんが今後詳細に語ってくれれば、知る由はあります。

ここで、一京歩ほど譲って、言葉遣いが不適切であったとしても、
僕の意図するところは普通に伝わるでしょう。
それにもかかわらず、こうしたことに拘るのはなぜですか?

[212] sunsar 2007/07/27 17:53

>>210
やれやれ。
では、

>何のための文脈なんだ?何のための哲学なんだ?
>本末転倒になってやしないか?
>文脈だけを理解していればいいのか?
>辻褄さえ合っていればいいのか?
>そうじゃないだろう?
>何のために使われるのかを理解しなければ思索する意味がない。
>存在することは否定しない。
>だが、それに何の意味があるんだ?
>その存在に何の価値があるのだ?
>論理ゲーム的な存在価値は認めるがね。

ということは、何に意味があり、何に価値がないのか、ということを主張する文です。
これは、哲学を考える際の態度として何が正しく何が正しくないかを主張しているととることができます。
正しい・正しくないという言葉遣いが気に食わなければ、
哲学として正当なありかたは何であるかを主張している、と解釈すればよいでしょう。

この主張については認めますか?

[213] 諸葛孔明 2007/07/27 17:56

>>208
fat氏
貴方の主旨は分かる。だが、哲学カテと関係ないというのは、違うな。それは貴方の感情だよ。哲学をする以前の姿勢が出来ていない人間に、それを訴えることが、本当に哲学と関係のないことか。そういう貴方の偏見が、逆に哲学を矮小にしているんじゃないの?

学問も人間だよ。その姿勢に意見をすることも、立派な学問のひとつだと思うがね。他人の言葉を、もっと深く洞察したほうがいいね。

[214] エゼキエル 2007/07/27 17:59

>>208
ああ、確かにsunsar氏はたびたび一方的な診断やあからさまな中傷という手段に訴えては、何が中傷なのかわかりません、ととぼけてたな。
主張と関係ないレスを引用してきては、掲示板って楽しい、とか言ってたのも確かだが(笑)
まあ、でも、それはあんまり言ってやるなよ。まだ若いんだしさ。
掲示板の利用の仕方もまだ知らないんだと思うんだよな。俺は甘いのかもしれないけどね。

掲示板の利用法はそれこそ本人の良心の問題だし、他人に止めることはできないんじゃね?
掲示板では利用者の良心に負うところが大きいと思うな。
確かに当事者、第三者ともに気持ちいいものじゃないよ。でも、本人が自覚しない限り、止めることは難しいし、第三者としてできることは、繰り返し、注意することくらいだと思うよ。

[215] エゼキエル 2007/07/27 18:01

>>212
やれやれ(笑)
日本語読めてるか?
俺はあんたに関心がない、と言っているんだよ?
理解したか?

[216] sunsar 2007/07/27 18:02

また>>213>>214 で解釈が違うのが面白い。
とりあえず、自分の都合のいいように解釈しようとするのは
やめたほうがよいように思いますよ。

[217] エゼキエル 2007/07/27 18:03

>>213
やっぱり俺は甘いらしい(^^;
ちょっと甘かったか;

でも、俺はsunsar氏には関心ないんだから、どーしよーもねーよな。
fatさんの哲学の話の方がずっと関心あるね。
sansar氏の掲示板の利用の仕方についてじゃなく、次はfatさんの哲学について聞かせてくれると嬉しいね。

[218] sunsar 2007/07/27 18:03

>>215
まあ、どちらが正当なことを言っているかということは
おそらく誰の目にも明らかだと思うので、
あなたが関心がないというのであればひとまず追求はやめましょう。

[219] エゼキエル 2007/07/27 18:04

>>216
そのまんまあんたに返すよ(^^)
自分の都合のいいように解釈するのはやめたほうがいいよw
全ての日本語を理解する時に心得ておくといいと思うぜ。

[220] エゼキエル 2007/07/27 18:06

>>218
助かるよ(^^)
そしてもう関わるなよ(笑)
俺はあんたには関心がない。
俺はあんたに理解されたいとも思ってないし、理解したいとも思ってない。
それでいいんじゃね?

[221] fat 2007/07/27 18:39

>>213
私が言えることはもうあまりないのですが、要は「好き嫌い」だと思うんですよね。

[222] 諸葛孔明 2007/07/27 18:59

>>221

fat氏
うんうん。分かるよ。好き嫌い。貴方の不快・・・哲学の議論とは関係のない相手人格批判への応酬・・・勿論、私の未熟もある、それが故に貴方に不快を感じさせたことは、お詫びする。ただ、貴方にお願いしたいのは、この議論も、哲学議論に入るための、必要条件としての前座と観て、堪忍して欲しい。私はsunsarさんを心から認めているからこそ、彼のいい加減な態度がどうしても許せない。貴方に分かってくれなんて、甘えたことは望まんよ。ただ私も必死で彼を批判してる。それは誓って、誹謗中傷ではない。!

[223] チーズ 2007/07/27 19:10

風は爽やかだと言うひとがいる。
風は恐ろしいという人がいる。
経験の違いでしょう。
経験だけでは視野が狭くなると思いました。

[224] っ^∀^ っよたん 2007/07/27 19:20

ついに引きずり出されたかな。
良心が入っているかどうかだったと思う、論点は。

入っているんじゃないの?

自覚してるかどうかは別として。
僕は後から気づくこと多いけど。
あ〜あのときの自分の行動は、そういうわけだったのかってね。
人間(自然)は凄いよ、無意識に良いことをしてる。
それを良いことだと自覚して行うずっと前からね。

[225] 諸葛孔明 2007/07/27 19:20

>>211
sunsarさん
知る由の単語の意味じゃないんだよ。そんなことに神経張るなよ。sunsarさん。
ただ、貴方の書き込みはふくろうさんも読むんだよ。そのふくろうさんの気持ちになって書けよってことだよ。sunsarさん。

貴方の>>192 のふくろうさんを自分の名前に書き換えて読んでみろよ。どういう印象を受けるか。

貴方の主張に興味を抱き、貴方の主張を丁寧に理解しようとする人の気持ちを、心無い『一言』で、断ち切ってしまったんだよ、貴方は。!

[226] 諸葛孔明 2007/07/27 19:27

>>224
よたん氏!
慧眼だな。!驚いたよ。実はな。sunsarさんにも良心や人格はあるんだ。けど、当の本人が、どうしてそのことに気が付かないんだ。!!本当にそこまでの人間なのかよ。自分の折角の素晴らしい蘊蓄を、自分のつまらない自尊心で覆い隠すなよ!それがどうしてあの人には分からないんだろうかね。!!

[227] sunsar 2007/07/27 19:36

>>224
僕の良心は「哲学がその他の良心の上に築かれるのを傍観しない」ことだと
他の言い回しで何度も述べているはずですが。

>>225
>貴方の>>192 のふくろうさんを自分の名前に書き換えて読んでみろよ。どういう印象を受けるか。
別に普通の印象しか受けませんが?
>貴方の主張に興味を抱き、貴方の主張を丁寧に理解しようとする人の気持ちを、心無い『一言』で、断ち切ってしまったんだよ、貴方は。!
僕だったら何の印象も受けないので断ち切られませんし、
もしその程度のことで断ち切られるような興味であったのならば、
それは最初から興味などと言えたものではないでしょう。
興味があるとは、そうした皮相的な部分を一切無視できることを言います。

>>226
僕は、自分に良心がないなどとは一言も言っていません。
僕は、哲学を語る際には良心に出来る限り依拠しないほうがよい、と言っているのです。

[228] 諸葛孔明 2007/07/27 19:45

>>227
そこまで言うなら教えてくれ!sunsarさん!

何故「哲学を語る際には、良心に出来るだけ依存しない方がいい」のかを。

教えてくれ。!!

何故哲学に関して良心を邪見にされるのかを。

[229] sunsar 2007/07/27 19:56

>>228
おかしな結論が出ることが多々あるからです。
すごく簡単な例を挙げましょう。
Aさんは、人から物を盗むことは死罪に値するほどの悪である、と考えていたとします
(日本には少ないでしょうが)。
これは実際に死罪にすべきかどうかということではなく、
それぐらいの悪であると考えている、とでもしておいてください。
逆に、Bさんは、人から物を盗むことは大した罪ではない、
というより盗まれるほうが悪いのだ、と考えていたとします。
人を誘惑して物を盗ませたほうにこそ罪がある、など。
そうすると、Aさんの良心に依存した哲学とBさんの良心に依存した哲学は
窃盗という題に関して互いに相反するものになりえるでしょう。

[230] チーズ 2007/07/27 19:56

善悪で判断するときと
真偽で判断するときと
物事が平面でないですね。
物事の一面しか人間は捉えられないのでしょうか?

[231] sunsar 2007/07/27 20:04

>>230
善悪という判断の基準がそもそも一義的でないでしょう。
真偽は一義的でありえますが、一部の人によれば真偽も主体によって変化する概念です。

[232] っ^∀^ っよたん 2007/07/27 20:06

>>227
>>僕の良心は「哲学がその他の良心の上に築かれるのを傍観しない」ことだと 他の言い回しで何度も述べているはずですが。

確かに覚えています。
でもさ、それならあなたは自分の哲学に良心を組み込んで語ってらっしゃいますよね?
てことは、良心が入っているかどうかという問いには、Yes.なんだよ。
そこの所を諸葛さんやエキゼエルさんは解っているのだろうか。
解っているのなら、今争っている争点はなんなの?

[233] チーズ 2007/07/27 20:11

sunsarさん
あなたは時間という概念を通しています。
あなたに真実はありますか?

[234] sunsar 2007/07/27 20:15

>>232
僕は完全に主観を排することはできないけれども、
出来る限り主観を排するべきであると主張しています。

たとえばエゼキエルさんはhttp://philosophy.bbs.thebbs.jp/1183342152/961-962 において、
>自明ではないものを厳密に挙げていくなら、全てのものがそうだろう。
と言っておきながら、
>論証できない主張に何の意味があるのか俺にはさっぱりだ。
と言っており、なかなか意味不明です。

諸葛孔明さん(などというのも本当の孔明に対して不敬ですが)は、
僕の主張もある仮定(良心)に依存していることは認めているはずなのに、
なぜか良心が云々と文句を言うので、僕は理解できないことにたいして説明を求めています。

[235] チーズ 2007/07/27 20:18

sunsarさん
今までに批判できなかった完璧な文章を教えてもらえませんか?

[236] sunsar 2007/07/27 20:25

>>233
日本語でお願いします。
>>235
意図するところがよく分かりませんが、批判者の立場によっては
どんな主張も批判されうると思います。
僕の信条であれば、たとえば甲本ヒロトの

ボクは一貫して自己満足です。めざすものは。

(>>142 )とか、僕の座右の銘の

まじめにふまじめに生きる

なんかがそうですが、これは実に多くの批判の対象となりうるでしょう。

[237] チーズ 2007/07/27 20:27

総ての言葉・文章は批判できる。
これは明らかですか?

[238] sunsar 2007/07/27 20:29

>>237
僕はすべての言葉を見たわけではないので、明らかではないように思います。
ただし、批判できると根拠もなく思います。

[239] チーズ 2007/07/27 20:31

あなたに絶対というものはないのですね。

[240] sunsar 2007/07/27 20:34

>>239
たぶんありません。
もちろん、絶対ありませんとはいえません。

[241] 諸葛孔明 2007/07/27 20:39

>>229
この喩え話しを私の>>228 の答えとした根拠が分からない

>>234
この日本語自体が分からない

>>236
チーズさんの質問の答えになっていない。

日本語の使われ方そのものが、sunsarさんの場合、頓珍漢かピント外れ・・・本当に分からない、何を主張したいのか、さっぱり分からない日本語だ。・・・

[242] チーズ 2007/07/27 20:39

あなたには明らかなことがないと思います。
総てを批判し絶対的なものが無いのですから。

[243] っ^∀^ っよたん 2007/07/27 20:40

>>234
確かに主観は良心に依拠するものだよな。
ということは、「出来る限り主観を排するべきである」という主張は同時に「出来る限り良心を排するべきである」という主張でもあるわけですよね。
ここからは私の私見ですが「これは私の良心なのです」という弁は、なんの説得力も感じないです。
空論をそれらしく見えるようにする工作なのかな?と疑ったりさえします。
ですから「良心良心言わない!」っていうのを「出来る限り良心を排するべきである」と言い換えることも可能なんですよ、その点ではあなたの主張は論理的正当性があると言えます。
「出来る限り良心を排するべきである」の結果、良心が完全に排されることはないのですし、その意味では、むしろあなたのほうが良心とはどのようなものであるか知っているようにも感じますよ。

ところで良心というのは誰しもそんなに違わないと思うのですが。

あなたの例示した盗む盗まないも結局「盗んでいるところから盗むのなら良いだろう」ということに帰結したとき、盗むも盗まないもどっちにしろ「盗むのは良くない」という良心の上に築かれる行動なのです。

それとあなたの「哲学がその他の良心の上に築かれるのを傍観しない(>>227 )」という一文は正直、読めません。
しかしあなたが自分の良心を自覚していること、それを誇張しないように務めていることは解ったので、僕の問いに対し、論理的ではない一文を用いつつも、論理的な文章を書いたと評価しますよw

[244] チーズ 2007/07/27 20:42

sunsarさんには気に入る哲学があるのですか?

[245] sunsar 2007/07/27 20:48

>>241

>>229 について
では、>>229 のような場面はどのようにして解決されるのですか?

>>234 について
>諸葛孔明さん(などというのも本当の孔明に対して不敬ですが)は、
これの意味はよいでしょう。
>僕の主張もある仮定(良心)に依存していることは認めているはずなのに、
僕の主張がある仮定(僕の良心)に依存しているということは、
かつて認識していたと思いますが。
>なぜか良心が云々と文句を言うので、僕は理解できないことにたいして説明を求めています。
なぜかあなたの良心がどうのこうのと文句を言われますが、
僕にはなぜ文句を言われるのか理解できないので、
理解できないことに対して説明を求めているのです。

>>236 について
批判できない文章などないと主張した上で、批判しない文章が何か例を挙げています。

>>242
そう思います。

>>243
>哲学がその他の良心の上に築かれるのを傍観しない
とは、この主張をAとしたとき、A以外の良心に基づく哲学を直ちに認めるようなことはしない、
ということです。

[246] sunsar 2007/07/27 20:49

>>244
なんともいえませんが、今のところ「本当に満足のいく答え」は得られていません。
適当な妥協案ならいくらもありますが。

[247] っ^∀^ っよたん 2007/07/27 20:50

>>234
エキゼエルさんは空論を振り回してるね。
諸葛さんはあなたの日本語を責めてますが、逆に、日本語の理解力が無いですね(笑)

まぁ夢さんがいたら「人其々」で済まされますね(だからエキゼエル、葉隠武士、夢が争うのは滑稽だったのに)。

[248] チーズ 2007/07/27 20:51

ときどき女の人にいるのですが・・
好きだけど嫌いとか?
泣きながら笑うとか?
まったくどきどきする男心をまどわせるテクニックですか?

[249] sunsar 2007/07/27 20:52

>>247
僕はそんな三人組が哲学と銘打った哲学でない何かを語るのが我慢できなかったという、
ただそれだけのことです。

[250] sunsar 2007/07/27 20:53

>>248
よくわかりませんが、そんなに複雑なものではないように思います。
ただ、今そこにある哲学が僕の知識欲のすべては満たしていないというだけです。

[251] っ^∀^ っよたん 2007/07/27 20:54

>>245
>>この主張をAとしたとき、A以外の良心に基づく哲学を直ちに認めるようなことはしない、ということです。

それは、

僕の良心は「哲学がその他の良心の上に築かれるのを傍観しない」ことだと他の言い回しで何度も述べているはずですが。

っていう一文を読めば解りますが。
「」で囲われてる部分だけ読んだら読めないよってことね。
まぁどうでもいいんだけどさ(笑)

[252] っ^∀^ っよたん 2007/07/27 20:59

>>249
自滅してくサンプルには丁度良かった(笑)

[253] 諸葛孔明 2007/07/27 21:20

>>245

>>229 の喩え話しの暗示することは、十分分かるが、それを何故私の>>228 への答えとするのか、その飛躍が分からない。それに、こちらに質問するのは、>>229 を持ち出した理由を、きちんと貴方自身の口で説明されてから後だ。順序が逆だろう。順序が。!

何故私が貴方の良心に云々文句を言うのかって!!

貴方が哲学の前提である『ご自身の良心』を、頑なに否定するからですよ。

チーズさんは、「今まで批判出来なかった完璧な文章を教えてもらえませんか。」と尋ねておられるのに、「どんな主張も批判されうると思います」なんて前置きをするのかね。常識ある人が見たら、「それなら無いって言わんか!」と突っ込みたくなるでしょう。

sunsarさん。そこ・・・そこなんですよ。人の質問に素直に答えない、人の質問の意味を、素直に考えない、根本的な貴方の欺瞞は・・・。「どんな主張も批判されうると思います」を言った時点で、貴方は、「批判出来なかった完璧な文章」を求めたチーズさんの質問に答えられない筈なの。!分かる!?そういう自己矛盾が・・・。それをシャーシャーと答える貴方の神経が、全く理解出来ないんだよ。私は・・・。!!

自分で否定しておいて、敢えてチーズさんに答えを言うなんて、失礼でしょ。

[254] 諸葛孔明 2007/07/27 21:39

>>243 >>247
よたん氏
私は貴方の発想のユニークさや貴方の人柄は、高く評価しますよ。ただ、>>243>>247 の発言に関して言えば、かなり「エゼキエルさんへの憎悪」の感情に支配されておられるのが明白なため、評価はしません。感情に支配された意見は、時間とともに、二転三転するものです。

sunsarさんは貴方が思っているような「柔軟な方」ではありませんよ。貴方にはまだまだsunsarさんの日本語が、見えてはいません。

[255] っ^∀^ っよたん 2007/07/27 21:53

>>254
とはいえ「それはね。確かに私もふくろうご自身の思想については、その全貌は理解していませんね。(>>209 )」というあなたの発言、これはおかしいが、誰も責めてないですよね?

「ふくろうご自身」に さん を補足して「ふくろうさんご自身」であるのだろうなと良心的に解釈して貰っているのですよ、あなたが。

そういった「赦す心」というのはあなたには無いのですか?

それともふくろうにさんなど付けるのは心外ですか?

[256] 諸葛孔明 2007/07/27 21:59

>>255
おおっ!確かに・・・敬称を忘れていた!!・・・ふくろうさん!ごめんなさい・・・よたん氏!ご指摘ありがとう。貴方のおっしゃった通り、私は日本語を知らない。!

[257] っ^∀^ っよたん 2007/07/27 22:05

>>256
良いんだよ「ふくろうご自身」のほうが面白くてw
そうやって他人の言うがままに自分の良さを削って削って削っていっても、つまらない抜け殻が残るだけだと言いたい。

「ふくろうご自身」とはなんと美しい旋律であろうか。

私は小うるさい礼などよりよほど自然の出来事のほうが美しいと思うのですが。

[258] 諸葛孔明 2007/07/27 22:20

>>257
含蓄ある言葉・・・そうだな・・・削ることで残る脱け殻・・・いゃー・・・目からウロコかも!

[259] っ^∀^ っよたん 2007/07/27 23:41

>>258
ちなみにふくろうさんが作った軍隊!
http://aun-0.log.thebbs.jp/1127453649.html
http://aun-2.log.thebbs.jp/1127640186.html
大福一家w
当時俺も不毛に居たからね。

結構手を焼いた覚えがあるw

[260] っ^∀^ っよたん 2007/07/27 23:43



[4]【幸】ふくろう【狩】 05/09/23 14:40 LE/Qh9heOP
逃げて逃げて逃げて
戻りますw

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ワロタww

[261] エゼキエル 2007/07/28 00:18

>>254
>諸葛亮先生
フォローさんきゅー。
なんかみんなそろってヒステリーだね。sunsar氏は論破されたのが気に食わなくてヒステリックになってるんだってのはわかるが、よたん氏までヒステリックになってんのは、なんかあったの?
前スレの途中じゃ、本質まで知るかよ、とのたまわってたのに、俺が空論を振り回してる、って、今更かよw
江戸の敵を長崎で討つって奴なのかな。
まあ、よたん氏の意見が二転三転するのは今に始まったことじゃないけどさ。
なんで二人が必死に他人攻撃しているのかが流れを見ても意味不明だな。
個人攻撃なんて不毛なだけだろ。

俺は哲学に良心は必要ねえ、と言っているのだが、そいつもスルーされて、誤解の上に誤解を積んでレスが進行してるね(笑)
俺、良心の話なんて一度もしてねえんだけどw
捏造してまで何したいのかもよく見えてこねえな。
でも捏造に必死なのは既成事実にしたいからなのかな?

[262] さんさーら 2007/07/28 00:22

>>253
僕が否定したのは批判できない主張であって、批判しない主張ではないので、
もしチーズさんの意図が僕の思想を知ることにあったのであれば、
僕の思想はかようなものであると主張したにすぎません。
「批判できなかった」の意味を考えると、普通
「批判の意図をもっていたが、力量不足その他により批判できなかった」
というものになるでしょう。
しかし、本当にそのような質問を意図していたのか謎だったので、
1.原理的に批判できるかどうかについてと、
2.批判しなかった主張があったかどうかについての
返答をしたのです。

[263] っ^∀^ っよたん 2007/07/28 00:40

>>261
>>前スレの途中じゃ、本質まで知るかよ、とのたまわってたのに、俺が空論を振り回してる、って、今更かよw

え?
何処でそんなことを言った?

[264] 諸葛孔明 2007/07/28 00:44

>>262
さんさーらさん
もういいよ(笑)・・・そんな言い訳しなくてさ。(笑)素直に認めるこったな。・・・自分のそういう日本語のいたらなさを・・・。言い訳するより、きちんと認めること・・・そこから始めましょうよ。

[265] エゼキエル 2007/07/28 00:55

>>263
言ったよw
空論って思ってたんならそん時言ってほしかったぜよ(笑)
今更言われてもなあ…;;
俺の中じゃもう終わっちまってることだしな。

[266] 諸葛孔明 2007/07/28 00:58

>>261
エゼキエルさん
いえいえ(笑)貴方こそ今日はお疲れ様。!

私も昨夜は久しぶりに冷静にキレちゃいました。(笑)

しかし、よたんさんもちょっと、貴方に対しては格好良くなかったよな。(笑)どのスレでも貴方に対して挑発的だったが、このスレで「空論を振り回している」と断言したときには、(笑)流石に驚いたよ。(苦笑)

で今見たら>>263 でしょ!(笑)

よたん氏に悪意は無いと思うよ。ただ私もよたん氏が煽ってくれたお陰で、sunsar氏の主張の矛盾を、的確に指摘できた。(笑)よたん氏の意外性は、腹も立つが、またどこかで、奇想天外な突破口の糸口も、与えてくれる。

いやそれにしても、エゼキエルさん。今日の貴方の態度はあっぱれでしたよ。徹底してスルー、問答無用でしたよね。あれでいい!!・・・私もsunsarさんの日本語の未熟さに、はっきりとした確信をもちましたので・・・。

[267] っ^∀^ っよたん 2007/07/28 01:00

>>265
マクロな視点で見れば途中までは論理的だったんだと思う。
でも

>自明ではないものを厳密に挙げていくなら、全てのものがそうだろう。
と言っておきながら、
>論証できない主張に何の意味があるのか俺にはさっぱりだ。

を読むとどうしても空論と言わざるを得ない。
無論あなたとの議論で得たものもあります。
幾つか同意なりしてきたことも覚えています。
そういった物事はいつまでも私の中で生き続けることでしょう。
ありがとう、エゼキエルさん。

[268] 諸葛孔明 2007/07/28 01:03

>>267
おいおい(笑)・・・君という人は・・・(笑)

[269] エゼキエル 2007/07/28 01:15

>>266
>諸葛亮先生
俺はsunsar氏の主張は理解しているし、新しく見るべきところはない。関心もないのに、レスに付き合ってやる義理もないしね。

>>267
>よたん氏
たぶんそうじゃないかな、と思ったんだけどね。
誤解する奴いるだろうなあ、と思ったから、嘘つきは最強だな、ってレス入れたんだけど、よたん氏もやっぱ誤解してんだよな。だからさ、

>>自明ではないものを厳密に挙げていくなら、全てのものがそうだろう。
と言っておきながら、
>>論証できない主張に何の意味があるのか俺にはさっぱりだ。
>
>を読むとどうしても空論と言わざるを得ない。

って引用が既にsunsar氏の作為が入ってるだろって話だよ。自分に都合のいい文を抜き出して羅列することで俺がそう主張したみたいに捏造しているわけだよ。嘘つき最強伝説の始まりなんだよ(笑)
それがsunsar氏の最初からのやり方。
孔明さんの主張が妙に見えるのもそのせいだよw
興味ある奴は過去レス読むだろうから、俺はいちいち突っ込みは入れないし、あほらしいから無視してるけど、よたん氏みたいにここでのレスしか読まないで、レス入れてくる奴がいると、ホントあほらしくなるよ。
捏造してまで、自分が正しいと思われたいのかねw
一体sunsar氏が何やりたいのか全く意味不明だよw

ふくろうさんにしたってそうさ。過去レス読まないで、ここでのsunsar氏のレスだけ読んで、俺のスタンスを理解しようとするから、見当はずれのレスをつけるんだよ。
だから、俺はsunsar氏に俺に構うなよ、と言っているんだよ。

自分が正しいと言いたいのなら、俺はいつだってそう主張してやるよ、と最初から言っているのにな。

[270] エゼキエル 2007/07/28 01:31

sunsar氏は叩かれて叩かれて、さすがに最近では少し日本語がわかりやすくなったから、今になって議論に参加してくる奴も多いんだよ。
そこで奴は昔の主張を持ち出して自分の正当性を主張しにかかってるんだろう。今なら理解してもらえるんじゃないか、ってね。
その時にあんなアホみたいな膨大な過去レス読む奴なんていねえから、sunsar氏は自分の説に都合のいいレスだけを抜き出してきて、羅列して、相手の主張を捏造するんだよ。
自分の主張の正当性を証明するのにちょうどいいように並べてね。
どこから抜き出したかなんて確かめに行く奴なんていやしねえから、それがあたかも俺の主張みたいに思う奴が出てくるわけだ、よたん氏やふくろうさんみたく。

sunsar氏も自分にとって都合の悪いことは口を拭っているし、俺はあほらしいからいちいち反論もしないから、それを信じてレスが進むってわけだ(笑)
きちんとレスに向き合う姿勢があれば、惑わされることのない子供じみた真似だよ。誰が騙されるか見るのも一つの勉強だね。
現に彼氏は騙されなかったしね(笑)

まあ、大人の方が騙されやすいかもな。まさかそこまでなりふり構わない奴がいるとは思わないからね。

まあ、そういう事態になったら、また同じことを指摘するだけだね。
俺は言ってねえよ、そんなこと、ってね。
それ以上sunsar氏に構ってやる義理もないし、興味もないからね。

[271] 諸葛孔明 2007/07/28 01:47

>>269
了解!(笑)
エゼキエルさん!貴方の洞察は正しいよ。貴方は一貫して、はじめから分かっていたからね。だから、まともに主張なんかしなかった。私もいずれはそうするのかも知れない。・・・だが、これは全く私の個人的感情で卑屈なんだけど、sunsarさんにやっぱり悪意はないんだよね。(勿論貴方も分かってらっしゃるけど)私はまだまだ甘いかも知れないが、sunsarさんのピントを、何とか合わせれないかという希望を、まだ捨てきれないのです。ピントさえ会えば、あれほど議論の面白そうな男もいない。

>>199 で言った、「貴方は本気で本気で・・・その程度の男なのかよ。」の叫びは、・・・誠に恥ずかしながら、本心なんです。

fatさんに言わせれば、他人を変えるという発言自体が、私の独善なのかも知れません。

しかし、ひとつ間違えたら、本当の独善に陥るかも知れない、火中の栗拾いを、どうしてもしておきたい気持ちがあります。これは私の甘さですが。・・・エゼキエルさん・・・すみません。

[272] 未完 2007/07/28 02:28

エゼキエルさん、ちょっとお尋ねしますが、今まで生きてきたなかで一番辛かった思い出を思い出してみてください。あなたは、それを精神的に乗り越え(自己解決)ましたか?それとも、そのままですか?
言葉に出して答えなくてもいいのですよ。
もしも、まだその辛い出来事を引きずっているのならば、まだ修業は足りないと 私は判断します。
誠に勝手な自己判断で、申し訳ない。

[273] エゼキエル 2007/07/28 02:34

>>271
>諸葛亮先生
いや、先生は先生のやり方でいいと思うよ。
なんかsunsar氏は俺と先生をごっちゃにし始めているみたいだけどね(笑)分けて考えられないほどヒステリックになっているんだろうけど、冷静に考えてくれると先生には有難いんだろうね。俺にとってももちろん、有難いが(笑)

>>272
>未完さん
ごめん。質問の意味がわからない(笑)
なんで、最近、人生の辛い経験とか、良心とか、学問とは無関係なことばかり堀り下げられるんだ?(笑)
もっと哲学的な話題をしようや。
ヒステリックな若者を眺めているのにも飽きたしな。

[274] 諸葛孔明 2007/07/28 15:26

スレ主としての、次なるテーマを追加じゃ(笑)

風の次は『光』じゃよ。『光』!光の哲学的意味を・・・

光には、少し否定的なニュアンスがあるような気がしている。風が流れであるのに比して、光は明らかに直線だ。それだけに、色々な法則も見い出しやすい。光ファイバーや光ケーブルなど、その科学法則の実用化に成功した、好例であろう。だが、私は光という、科学法則だとか応用だとか、そういう華々しい面の裏面にあたる、いわば、原始人にとっての光の存在意味は、一体何であったろうか、もしくは、光のもつ、その原始的哲学的意味について、考えてみたい。またあるいは、風との比較をしてもいいし、新たに風の意味を発見したのなら、それについて論じてもいい、と思う。

で、私の光についての哲学的直感を言う。

「光は死である」

と・・・。

[275] っ^∀^ っよたん 2007/07/28 16:57

ほ〜た〜るの〜ひ〜か〜り♪窓の雪〜♪
文読む月日重ねつつ〜♪

っていう歌がある。
これは夜でも蛍の光や月光の雪への反射で、文を読んで勉強していたという情景を描いている。
夜に勉強することはとても一般的だ。
なぜだ?
原始から徐々に時間を進めれば、夜に勉強することなどあり得るだろうか。
いや、現実今はパソコンや携帯のモニターには光が搭載されており、夜でも文字通り文字が読める。
でもそれは相当な科学発達の後の話。
電気もない頃の人達が夜にも勉強していたのはなぜだろう。

もしかして大昔には電気があった???
そのころの習慣を現在に引き継いでいるのだろうか。

[276] 諸葛孔明 2007/07/28 17:16

>>275
思うが、蛍雪は喩え話しじゃないのかな。蛍の光や月明かりを雪に反射させた位の「光」では、生活は無理だろうな。・・・しかし、太古に電気があったかも・・・という貴方の逆転の発想は、面白いかも。!電気ナマズとか捕まえて、(笑)

[277] エゼキエル 2007/07/28 17:16

>諸葛亮先生
>>274
次なるテーマは「光」ときたか。
「光は死である」から「もっと光を」を連想した俺の方向は合っているのかいないのか。「光あれ」では死とは逆方向になるな。
戯れに広辞苑を引いてみたが、光の神とは雷神を指すらしい。古人にとって光とは雷のことであったのだな、と知る。
雷はその名の通り、「神鳴り」なわけで、その光には古代人は神の存在を見たわけだ。そして稲妻という。これも文字通り「稲の妻」であり、農作業と密接な関係があった。
もっと時代を遡ると、光は陰陽へと行き着く。光あるところに陽があり、故に陰が生まれるわけだ。

というわけで、俺は「光は影の母である」とでもしておくか。

ちなみにデカルトが「屈折光学」という書籍を著していることもついでに知った。もっとも哲学者としてではなく、自然学者としての著作物なわけだが。

とりあえずとりとめもない妄想を書き留めて、放置。

[278] っ^∀^ っよたん 2007/07/28 17:22

>>276
電気ナマズや蛍は実は太古の電気製品だった(爆)

[279] エゼキエル 2007/07/28 17:25

>>276
>諸葛亮先生
オーパーツで古代の乾電池がバクダッドから見つかったんじゃなかったか?

ちなみに蛍はどうかわからんが、満月の夜なら雪明かりで本は読めるらしいよ。

[280] 諸葛孔明 2007/07/28 17:36

>>277
博士!!「神鳴り」と「稲の妻」ですか。(笑)流石にズバッと来ましたね。

光=神という古代人の信仰は、おっしゃられる通り、理解できますな。

そして、光と影の影の存在・・・恐らく、この影についても、古代人の信仰はあったように思いますよね。例えば、「影絵」とかいう遊び、あれも一種のアニミズム的な遊びじゃないかな。

よたんさん!古代人が電気を有していたかも知れないという発想は、なかなか興味深い・・・。哲学的に証明できないかな。(笑)

[281] 諸葛孔明 2007/07/28 17:40

>>279
ああ!そういえば・・・聞いたことありますね。電気理論は確立されては居なかったかも知れないが、乾電池の雛型は、既にあった!・・・ってことか・・・

じゃあ、光についての発明も、そのときにあったような気もするね。

[282] 諸葛孔明 2007/07/28 17:54

でも、太古の人間にとっての「光」とは、基本的に太陽と火しか無かったよね。この二つの光源に対して、古代人に「光は直線」という概念は、普及しては居なかったかもね。

勿論、賢い人はいち早く気が付いていたんだろうが・・・。

「光」と「米」って、字が似ている。「光」には、「八方に分散して広がる明かり」って意味があるのじゃない。もっとも私の漢字解析だが・・・(笑)
「米」はいわば、「光」の恵みを受けて出来た農作物ってことだ。「稲の妻」と同じ、農作物の恵みとしての「光」が、あったんだろうな。

[283] エゼキエル 2007/07/28 17:59

>>281
光は火を使えるようになった時に手に入れた、とも言えるんじゃないかな。藁葺屋根の家屋だと、囲炉裏は暖と照明の両方の役割を担っていると思うし。
ただ、陰陽五行だと「陰陽」と「火」は別扱いなんだけどね。そこがうまくない。

とりあえず俺は「光は死である」へ至る過程が聞きたいな。

一般的な理解からすると、光は生の象徴だと思うし、ヨーロッパの祭りでも聖ルチアの祭りといって、春の到来を祈念する祭りがあるんだよな。ルチアとは光の意味だから、やはり生の復活という意味合いがあると思うのだが、その光を「死」と見なす直感の出所に興味ある。
俺が「光は影の母である」としたのは、影を死と見なして、孔明さんの御説から派生させたものだけど、とりあえずその端緒となった直感の由来が知りたい。

[284] エゼキエル 2007/07/28 18:02

>>282
>でも、太古の人間にとっての「光」とは、基本的に太陽と火しか無かったよね。

いや、古代においてもっとも重要だったのは太陽でも火でもなく、月だったんだよな。太陰暦の方が太陽暦より古いし、「八十八夜」や「十二夜」と言われるように洋の東西を問わず、かつては日にちの数え方も夜を基準としていた。「カレンダー」の語源は「月が出たぞ」という意味なんだよな。
月は現代人が思う以上に古代では重要な価値観を得ていたんだよ。

[285] チーズ 2007/07/28 18:04

ひかり
波の要素と粒子の要素とを持ち
どっちつかずの光
紫外線と赤外線をも合わせ持ち
ひかり本体に入れば焼き尽くされてしまうほどの強さも
昔話とは天才の人が考えたのでしょうか?
ねずみの嫁入りという話で
この世で一番強い者の候補者ですね。風も光も・・

[286] エゼキエル 2007/07/28 18:06

>>280
>、「影絵」とかいう遊び、あれも一種のアニミズム的な遊びじゃないかな。

簡単にぐぐってみたら、古代中国で降神術的口寄せだったとあった。孔明さんの直感はあたってるよ。

[287] エゼキエル 2007/07/28 18:08

>>285
昔話も昔の人の意識が現れていて興味深いね。

[288] チーズ 2007/07/28 18:15

光と反対のものは
影なのでしょうか?闇なのでしょうか?

[289] チーズ 2007/07/28 18:17

光と闇の子供が影?

[290] 諸葛孔明 2007/07/28 18:18

>>284
なるほど!・・・月の方が古かったな(笑)確かに。・・・
で、何故「光は死である」と直感したのか、だね。実はエゼキエルさん。私にも確かな説明が出来ないんです。ただ直感の根拠を申し上げますね。

風の議論したでしょ。そのとき「風は言葉であり命」だと感じたんですよ。

それに比べ、「光」は後に「さす」とか「遮断する」とか結果響きの冷たい言葉がくっつくでしよ。それに「爽やかな風」とは言うけど「爽やかな光」って、ちょっと違和感ありますよね。何かそういう言葉の響きというものの『ふところ』見たいなものが、光と風とでは、随分正反対のような気がするのです。

つまり、太古の人間にとって、風は人間の言語ともいえる暖かさを内包しているのに比べ、光は確かに恵みでありながら、どこか『異物』という感覚も、強烈にあったのじゃないのかな。

それで私は本能的に「光は死である」とやったら、これが光の本質を見事に端的に暗示したような気がしたんです。

[291] 諸葛孔明 2007/07/28 18:23

>>288
チーズさん!光の反対は影か闇かって、面白いね。多分影だと思うが、違うかな。(笑)

[292] チーズ 2007/07/28 18:31

光の反対は影。
エゼキエルさんは、そうは思っていないみたいですね。

[293] エゼキエル 2007/07/28 18:35

>>288
>チーズさん
光の反対は何だろう?やはり闇の方かな?影は光がないとできないから>>289 は合っているような気がする。

>>290
>諸葛亮先生
光と風と夢、だったかな、中島敦の短編は(笑)

なるほどな。
言葉への感じ方というのは人によって違うものだね。俺は風の方に畏れを感じるのだが。
後で思い出したが、風の神といったら竜田神社だね。

光に死を思うのだとしたら、それは光が影と対だからじゃないかな。
「月影」といえば月の光のことだしね。
影とはすなわち、光なんだね。

[294] 諸葛孔明 2007/07/28 18:35

>>292
えぇっ。そうなの。国語辞典で調べたが、分からなかったよ。でも「光と影」って言い方が、一般的だと思うが・・・。

[295] エゼキエル 2007/07/28 18:37

>>291-292
二人ともはずれ(笑)
影=光、だから、光の反対は闇、ということになるね。

[296] エゼキエル 2007/07/28 18:39

>>294
広辞苑で調べた(笑)
影の最初の意味に「日・月・灯火などの光」とある。

[297] 諸葛孔明 2007/07/28 18:42

>>293
光は影でもあった・・・・そうですね。分かるような気がします。光があるからこそ影がある。生があるからこそ、死もある。

今閃いたんだが、博士!!
光と影を生と死に対比させるとね。

「影=生」 「光=死」

って感じしない。?私は

「影=生」

って、凄く分かるんだけど

[298] チーズ 2007/07/28 18:46

光が映し出す物の姿が影なのでしょうか?
エゼキエルさんの言うように
光は影の母ならば
親子の対立というものは
要するに光と影との対立は無い物でしょうか?

[299] 諸葛孔明 2007/07/28 18:49

>>298
(爆笑)
これは博士に答えてもらわんとな!(笑)

[300] エゼキエル 2007/07/28 18:50

>>297
言葉の意味から辿ると、もともと人間は光=影と認識していたということになるね。光と影の渾然一体。実に両者はもともとカオスの中にともにあったわけだ。

だから、博士って言うなって(^^;
ホント孔明さんはひねくれ者だからな(笑)普通の人はここでキリスト教を想起して「光=生」とやるんだよ(笑)
神の天地創造。「光あれ」といって世界が作られた、っていう陳腐な発想ね。
だが、そう来ない。
ここが孔明さんの面白いところ。
俺が楽しいところ(笑)
「影=生」なんだからな。

その直感に理屈を与えようとすれば、人間=影だからということができるかもな。人生とは影。
空蝉とはよく言ったもんだ。

[301] チーズ 2007/07/28 18:53

光の源は原爆のような爆発ですが
源から四方八方に発する電磁波は
暖かな命育むものでしょう。
寒さで震えるものが暗闇で怯えるものが
一番有り難がる光とは・・

[302] エゼキエル 2007/07/28 18:56

>>298
>チーズさん
>光が映し出す物の姿が影なのでしょうか?

うん。広辞苑の二番目の意味がそうある。「光によって、その物のほかにできる、その物の姿」。

>光は影の母ならば
>親子の対立というものは
>要するに光と影との対立は無い物でしょうか?

影の母とは、影を生み出したもの、という意味だよ。文字通りの母と取らないでくれよ(笑)
親子の対立はないのかといえば、それは微妙だな。
例えば、ブルガリアの伝承に、神と悪魔は時間の始まる前から共にいた、というのがある。
それを光と影だと例えるならば、悪魔はいづれ神を裏切る。影が光を裏切らないとはいえないかもしれないよ。まあ、あくまでも比喩として。

[303] 諸葛孔明 2007/07/28 18:56

>>300

そうそう大臣!!
人間は影なんだよ。だから必然的に「光=死」となる・・・って、数学の証明じゃねぇってね。(笑)

この「光=死」を、もっと深く考えたいな。

で・・・大臣?・・・チーズさんの>>298 ・・・もう答えているかも(笑)

[304] エゼキエル 2007/07/28 18:58

>>301
だから太陽に近すぎる惑星には生物は存在しない。遠すぎる惑星もまた同じ。
一番有難い光は適切な距離においてはじめて得られるのだろう。
大事なのは光源との距離。
つまり、中庸だ。

[305] 諸葛孔明 2007/07/28 19:00

>>301
チーズさん。確かにそうなんだ。貴方のおっしゃられる通り、光は命を育む。正解だよ。でもね。闇も寒さも、命を育む暖かさとなることもある。そこが人間の分からない面白いところだな。

[306] エゼキエル 2007/07/28 19:02

>>303
例えば、北欧神話の光の神バルデルは一度死んで荼毘に付される。そして、世の中の終わりに再び甦るんだがね。
そこにも光と死の関係をみることもできるかもしれない。

光ある世界は一度死ぬ。冬の到来という季節の巡り合わせでね。そして、再び甦る。この繰り返しが生命を営む。
となれば、光は死でもあるわけだ。

あの世のイメージとして多くの人間が光を連想するのも無関係ではないかもしれんね。

[307] エゼキエル 2007/07/28 19:03

>>305
闇があり寒さがあるから、人間は進化してきたとも言えるしね。温かい環境では人間への進化は起き得なかっただろうし。

[308] 諸葛孔明 2007/07/28 19:04

>>304
イャー(笑)しびれるね。(笑)そこで中庸をもって来られたら、お手上げだよ。(笑)流石!曲者!

[309] エゼキエル 2007/07/28 19:06

>>308
チーズさんが牽引してきた結論だよ(笑)<中庸

[310] チーズ 2007/07/28 19:09

夜空は何光年もの光を多く見られますが
光は何故貫き通せず
遮断されるのでしょう?
暗闇は恐怖ですが?

[311] エゼキエル 2007/07/28 19:12

>>310
ん?意味がわからないな。

[312] チーズ 2007/07/28 19:14

光ある世界が何故死ななければいけないのでしょう?

[313] 諸葛孔明 2007/07/28 19:14

>>306
しかしエゼキエルさん。
その説明では、私の中では、復活が気に入りませんね。(笑)

私の直感した「光は死である」とは、復活無しの、もっと心地好い絶望なんだけどな。(笑)

と言いつつ、今はうまく説明出来ない。強いて言うなら、光って人間にとって、もっと冷酷なものだという気がする。

太陽の光、火の光、近くに寄れば、失明したり焼け死んだりする、そんな冷酷な世界だな。だから余計に、太古の人間は、光を絶対的なものとし、距離を置き、聖域、禁断の域として、崇めたのだと思う。

と言ってみたが、・・・何か納得しない。

[314] エゼキエル 2007/07/28 19:18

>>313
確かにね。
孔明さんの直感は一般論じゃ説明つかないんだよ(笑)
古代においては光はたいてい待ち望まれる春の象徴だったりするからな。

アジアの伝説に10個の太陽が次々と地上を照らし、農作物を枯らすから、太陽を打ち落としに行く英雄の話があるが、これなんかが孔明さんのお眼鏡に適うのかな?

ギリシア神話では、神の真の姿を見た者は業火に焼き尽くされる、というのがあったな。

光への絶望を探すなら、中東あたりの伝承がいいかもしれんな。

[315] チーズ 2007/07/28 19:18

諸葛孔明さんは
光をそれほどありがたいとは思えないのですが?
目が見えなくても平気なのですか?

[316] エゼキエル 2007/07/28 19:19

>>312
冬が来るからだよ。
古代の思想のたいていは自然現象の反映だから、光溢れる季節は冬の到来とともに一度死ぬこととなるわけだね。

[317] チーズ 2007/07/28 19:21

光があれば仲間と分け合う事が出来るものが
自然界には多く存在すると思えませんか?

[318] 諸葛孔明 2007/07/28 19:28

>>312 >>315

チーズさん(笑)私は決して「光」の存在を忌み嫌っているんじゃないんだ。心情的には、光は万物の命だし恵みなんだな。そこは誤解しないでくれ。

ただ私が「光は死である」と言ったのは、「光」といふものの本質をね、深く深く深く深く深く深く深く深く考えたときにね。どうしても「光」の「冷酷な部分」に行き当たったの。キザな言い方だが、哲学的直感というやつかな。その哲学的直感をもとに、その光の冷酷な部分を、洞察したい、と思った訳・・・、分かってもらえたかな。

[319] 諸葛孔明 2007/07/28 19:49

>>314
エゼキエルさん
「光は死である」という直感は、貴方のご意見を伺って、段々分かって来たのですが、どうも精神的な意味合いではないような気がします。つまり、これは、神話や歴史では説明のつけようがない、もっと隔絶された肉体的な感覚のような気がします。

何でしょうね。「光」が「風」と違って、これほど科学的興味の対象にされたのは、「風」が人間の歴史と暗黙の了解で共存して来たのに比べ、光は随分と、人間と敵対関係にあったような気がするんですね。

こんな言い方したら、またチーズさんに突っ込まれそうですが・・・。

つまり、光は確かに人間の生存に必要不可欠でありながら、同時に、人間に肉体にとっては、一種の「異物」として、或いは「外敵」として、距離を置かれて来たのでは無かったのか。あくまで肉体的な感覚です。それゆえに、光は文明の力にもなったし、凶器にもなった、共存と敵対の、この二つの肉体的な感覚が、ずっと今日まで続いているような、気がするのです。

[320] チーズ 2007/07/28 20:04

人間を堕落・誘惑させる闇の力のほうへ
心が支配されないように
強烈な光が存在するのではないでしょうか?

[321] 諸葛孔明 2007/07/28 20:11

>>320
同意!・・・その通り・・・。ただチーズさん。光は反面凶器にもなることを、忘れたらいけないんだろうね。太陽の紫外線は、直浴したら、皮膚がんになる可能性もある。溶接機の放つ光は、直接見てはいけない。原子力発電の放射線の光は、無数の人命を奪う。光には、そういう面もある。恵みばかりじゃない。時に、人命も容赦なく奪う。そこだね。「光は死である」のひとつの姿は・・・。

[322] チーズ 2007/07/28 20:26

目がくらむ光で見えなくなることがあるとしたら
闇よりもなお危険ですね。
過ぎたるは及ばざるが如し。

自分は諸葛孔明さんに洗脳されることが出来ません。

[323] 諸葛孔明 2007/07/28 20:50

>>322
そうだ!過ぎたるは及ばざるが如し、だ。(笑)中庸だよ。中庸が大事・・・。

それと、洗脳なんかされちゃ駄目だよ。(笑)チーズさん。・・・貴方・・・確か、あの難物sunsarさんと、堂々と渡り合っていたよね、昨日は。感心しましたよ、チーズさん。貴方、何となく雰囲気からしてお若いようだけど、・・・ご自分を見失わない冷静な議論を、なされてましたね。・・・洗脳なんか、特にこの哲学のカテでは、もっての他だから(笑)。

[324] チーズ 2007/07/28 20:59

そう言えばsunsarさんは反論されていません??

[325] 諸葛孔明 2007/07/28 21:04

>>324
うん、してこないね。今日は忙しいのかも知れないな。

チーズさんはsunsarさんのこと、議論相手として、どう観た。?

[326] チーズ 2007/07/28 21:08

sunsanさんの数学には興味があります。
と言っても
たったの数行しか会話してませんよ(笑)

[327] 諸葛孔明 2007/07/28 21:10

>>326
そうなんだ。貴方も数学は好きなの?

[328] チーズ 2007/07/28 21:14

数学と物理は不良高校で男子の中にたった一人で
授業を受けるくらい
理論が好きでしたけど。
今から考えると良く度胸があったというか身の程知らずというか・・

[329] っ^∀^ っよたん 2007/07/28 23:18

>>318
>>どうしても「光」の「冷酷な部分」に行き当たったの。

あれだ、日本刀w
刃を目の前に構えると後ろの刺客も見える。

[330] エゼキエル 2007/07/29 12:34

>>319
>諸葛亮先生
孔明さんの光に対する死のイメージはもしかするとかなり現代的なものなのかもしれんね。
原爆の光とか、光線からイメージされるものとかね。
科学的なイメージかな、という気はする。自然界の光にない死のイメージが現代では付加されているということなんじゃないだろうか。

[331] 諸葛孔明 2007/07/29 13:05

>>330
はい!エゼキエルさん!
そう思います。太古というより現代のイメージですね。(笑)流石は機敏!

貴方に言われて気付きましたよ。(笑)

[332] エゼキエル 2007/07/29 13:30

>>331
>諸葛亮先生
そうやって手探りで真理に近づいていくんでいいんじゃない?(笑)

現代人にとっては光は多分に多義的だということだね。
太陽光へのスタンスも今では紫外線による恐れの方が大きいのだろうし。レントゲンのX線も光のようなものでいいのかな?コピーも光か。
光を照射されることへの未知なる畏れというものはあるかもしれない。

[333] 諸葛孔明 2007/07/29 13:57

>>332
そうだね。エゼキエルさん。こうして会話しながら議論しながらでしか、気が付かない真理ってあるんだよね。

因みに、私のレスが遅いのは、またハイセンスな子守りのためです。(笑)

[334] エゼキエル 2007/07/29 17:06

>>333
>諸葛亮先生
毎度ハイソなこって(笑)
さて、選挙に行ってくるか。

[335] 諸葛孔明 2007/07/29 17:54

>>334
私も(笑)本当は権利なのだけど、心の中は義務として、重い腰を上げて行ってきたよ。

帰りに息子と娘で『ガリガリ君』のコーラ味を買って食べたが、いやなかなか旨かったよ。

暑いときには身体を冷やすと心が温まるね。で、そのガリガリ君を買ったコンビニで「待つわ」という『あみん』の名曲を聞いて、大阪の街を犬のように徘徊した大学生の頃を、茫然と思い出したよ。

顧みればあの頃って人生は、心地好い影だったかな。(笑)あの若い青春時代を、影にしてしまったものの正体が、この「待つわ」を聴きながら、思い出されてしまったよ。

でね。余談ついでに、下らないことを付加するよ。あの浮浪者のような学生時代の暗愚に、一条の光ってものを体験した。

自殺未遂を経験してから、一年半後、私は相手のおごりで、タダ酒を煽った後で、放置自転車を盗んで乗って帰ったことがある。その自転車をしばらく愛用していたが、ある日、お巡りさんに検問されて、盗難がバレた。そのお巡りさん!取り調べを終えた後で、こう言った。

「持ち主不明やけん、一応形だけの調べはさしてもたけど、兄さん堪忍な。前科はつかへんけん、安心し。・・・やけど、やったことは間違いなく泥棒やで・・・」

制服のお巡りさんは、年輩の人やった。厳しく頑固そうな雰囲気やったが、

「帰りの電車代あるんか?・・・米・味噌、あるんか・・・」

と言って人気のないところに呼ばれ、一万円を握らされた。

「これは、兄ちゃんにやるけん、もう変なこと考えなよ。ごっつう嫌なことがあったら、ワシのとこ来いや」と言って、名刺までくれた。

一条の光だった。

私が二度と自殺を考えなくなったのは、このお巡りさんのお陰やったかも知れない。

「光は死である」でも、「わたしまーつーわっ♪」の初々しい歌声が、まるで、「光の死の翳」を、今日はかきけすような気がした。

つまらぬ体験談失礼した。

[336] チーズ 2007/07/29 18:42

地の塩となれ。
敵に塩をおくる。など
昔々塩は貴重品なのに
現代では塩は高血圧のいけないもの。
光も又同じ。
昔は貴重だったのに今は危ない。
時代と共に変っていく価値観。
変らない物は・・

[337] エゼキエル 2007/07/29 20:36

>>335
>諸葛亮先生
いろんな経験が人の影(姿)を形成していくわけで。
先日物故された河合隼雄氏の書籍に「影の現象学」という本がある。
お薦め、ということで。

>>336
>チーズさん
時代とともに変わるものを自覚しておくこと。
それが大事なんかもね。
変わっていくからこそ、変わらないものを求めるわけで。
普遍的概念を追求する哲学の本領発揮かもしれないな。

[338] 諸葛孔明 2007/07/29 21:02

>>336
チーズさん!レス遅れて申し訳ない。・・・
貴方のメッセージは、まさにこれまでの光の討論に対する、貴方なりの剣先と観た。

確かに現代といふ時代が、光を人間と敵対関係に導いたのかもしれないな。溶接機も原子力発電も無かった太古には、光は優しい恩恵でしか無かった。

するとチーズさん。光=死という直感とは、もしかして、私自身が現代という時代から「光」というものの印象を、古代にまで、すり替えてしまったといふ事か。・・・もう少し深く反省・内観してみるよ。

>>337

エゼキエルさん。・・・私の感情移入の拙い意見に、ご自身の独創の泉を観ると貴方に言われてから、雑然と書きくさしている自分に、改めて辟易している。こんなんでいいのかな。

古代神話から抽出した「光」の概念といふものについては、貴方の把握で正しいかも知れないな。

私は今日ははからずも、25年前を思い出して、光って何か、節目節目で、その人間を助けてくれている、って気がしたな。不思議な心境の機敏といふものが、どんな深い洞察よりも、深いということも、あるのかも知れないね。

貴方からご紹介いただいた「影の現象学」・・・おりにふれて拝読させていただきます。

[339] エゼキエル 2007/07/29 21:14

>>338
>諸葛亮先生
そんなんでいいんじゃない?
って俺が言うことじゃないけど(笑)俺的には経験談は参考になるということ。哲学カテ的にはどうかしらんけど。
俺は帰納的にしか物事を考えられないから、最初に仮定ありきは無理なんだよね。だから、いろんな経験が俺の糧になる。俺は俺のことしか考えてないから(笑)俺の言う通りにしてると踏み外すこともかもよ?と忠告はしておくよ(笑)
他人から体験談書くな、と批判レス来たら、エゼキエルの役に立つから、とでも言っとけよ(笑)

昔の光に対する概念をまとめたから、チーズさんの不変への疑問も出てくるわけで、だから、孔明さんの光への直感が現代的なものらしいということもわかってくるわけで、まあ、それも過去の事例という光を当てることであぶり出されてくる本質の影でもあるだろう。

「影の現象学」は別に読まなくてもいいよ(笑)自分のレス否定になるけど。まあ、思い出したから言っただけで。俺も人から薦められた本はたいてい読まないから(笑)

体験談読んで思ったけど、光=死というのは、逆からいえば、孔明さんにとっては死=光なんだろうなとも思う。死に光りを見るから、自殺への誘惑というものがあるのかもしれんなとちょっと思った。
俺は死のうと思ったことがないから、死に光りを見ることはないのかもしれん。

[340] 諸葛孔明 2007/07/29 21:42

>>339
エゼキエルさん。(笑)
ご忠告有り難う。(爆笑)

だが、私もパスカルの『パンセ』を愛読してから、漫然と断片的な評論詩を書くスタイルが、気に入っている。だからすべては自己責任ってやつだな。(笑)

それにしても鋭いね。(笑)「死=光」か・・・。なるほど考えても見なかったな。(笑)いや、数学では見慣れたつまらない定理だが、この定理が、ここでは深い発見だな。・・・
・・・・・・いや、まてよエゼキエルさん。この「死=光」に感動したのは、今だよ。「光=死」は、漫然と直感したことだ。

つまり、あとから醤油を足したんじゃないよ。

この直感はやはり別々の独立したものとして、考えなければならない。それが、直感に溺れてははらない哲学だろうから。(笑)

今のところ「光=死」が、現代今日から受けている偏狭の確率は、私のなかでは、極めて高い。

「死=光」は、貴方から授かった、新たな別の邂逅だったよ。(笑)

[341] っ^∀^ っよたん 2007/07/29 23:04

レーザー光線には破壊能力があるんだと。

[342] ふくろう 2007/07/29 23:59

>>158
エゼキエルさん。
レスが遅くなってすみませんm(_ _)m
>>158 におけるあなたの見解の実質的内容が、

「哲学は一見実生活上で何の意義・価値もないように見えるかもしれないが、そうではなく、実生活上でも(異なる意味かもしれないが)十分意義がある」

というものであると仮定しますと、この点について私はもちろん同意できます。
その場合私たちの意見の異なる点は、この見解を理由に哲学を「実学」と呼ぶか、あるいはみなすか、という点であると思います。
私の見解は、哲学を実学と呼ぶこと(みなすこと)は、現在「実学」と一般に呼ばれている学問と、哲学(や数学)との本質的差異を見失わせる可能性を孕み、それがひいては哲学(のような純粋学問)の本質的価値をも見失わせる危険性をも孕むという意味で、私は哲学を「実学」と呼ぶことに反対です。
私は「純粋学問」は確かに非実学=直接役立たないが、しかし、(あるいは)だからこそ、重要な意義を有するのだ、と考えるからです。
先年ヒットした「博士の愛した数式」という作品は、小川洋子さんの原作も、小泉監督による映画も、ともに数学について(あるいは、数学に託して)、そういったメッセージを含んでいたと思います。

>確かにそれが一般的な見解だということは理解できる。だが、「直接役立たない」ということは、逆から言えば、何にでも適応できるとも考えられると思うんだよな。
>そして、適応が可能ならば、それを現実に演繹することを考えてはいけないのかな、と思うんだよね。
>その方法が多くの悩める子供、あるいは悩める大人の精神を解放するのに役に立つんじゃないか、というのが俺の見解。

ということについても、大雑把には同意できます。
しかし、そこで問題となるのは、一見「何にも適用可能とは思えないもの」の価値を認めうるかどうか?ということです。
前述したように、実生活上へ適用可能となるまで何千年もの歴史を必要となることもめずらしくなく、原理的には、仮に純粋学問的にきわめて価値の高い真理であっても、何の役にも立たない可能性すら存在します。
また、数学もそうですが、哲学の場合、それが「世界とは何か?」という全体性への志向を含む学問であることを考えれば容易に想像可能なように、きわめて抽象度の高い議論・考察が行われます。
抽象度が高いということは、いわば現実世界への距離が遠い、ということです。
その結びつきはほとんど(or多く)の場合、天才でもない限り直感的には明らかではなく、直感的にその結びつきを把握できるようになるためには、それなりの学問的トレーニングが必要です。

[343] ふくろう 2007/07/30 00:02

例えば前に述べた存在論的・認識論的問いもそうですが、哲学は日常において自明とみなされることを本当にそう言えるのか?と問うたり、その「自明さ」というものがどういうものか明らかにするために、とりあえず「判断中止(エポケー)」したりetc. とにかく日常自明とみなされているありとあらゆるものについて、反省・再考・懐疑の目を向けます。
私が>>156 において例文としてとりあげた、

すべての人間は死すべきものである

という命題も、日常生活では自明とみなされ、懐疑の目を向ける人は普通いません。
しかし、ふつう自明と思って誰も疑わないようなことにさえ懐疑の目を向けることが、デカルトの確立した哲学における最も重要な方法(いわゆる「デカルト的懐疑」、思考実験)のひとつであることは言うまでもありません。
我々は真理といっても、無自覚に、あるいは直感的にさまざまな真理を区別しています。
我々は、すべての人間は死すべきものである、ということを普通自明な真理だと考えますし、1+1=2をふつう絶対に正しい真理と考えるでしょう。
しかし改めて、ではこれらの真理は同等の確実性のある真理なのか?と問うたとすると、大抵の人は即答するには躊躇を覚えるのではないでしょうか?
過去の哲学者は、こういった疑問・問題にアプローチするさまざまな方法を開発することによって、考察しました。

詳細な説明は省きますが、「人間は死すべきものである」というような命題を、たとえばライプニッツは「事実の命題」あるいは「綜合的命題」と呼び、数学の命題のような命題を「永遠の命題」あるいは「分析的命題」と呼びました。
そしてカントは前者を「アポステリオリな総合的命題」、後者を「アプリオリな総合的命題」とよび、区別しました。
二十世紀になると、前世紀から飛躍的に発展を遂げた数学的論理学による知見・分析方法を背景に、論理実証主義者は前者を「経験的命題」とよび、それらをアポステリオリかつ総合的かつ偶然的命題とし、数学や論理の命題を「分析的命題」と呼び、アプリオリかつ
分析的かつ必然的命題としました。
その観方によれば、要するに(物凄く省略しますが)「人間は死すべきものである」というような命題は「たまたまそうである」命題である、ということであり、「そうでないということもありうる(えた)」命題であるということ。
つまり、「すべての人間は死すべきものである」というような命題は、(論理的には)偽でありうる命題である、ということです。
これをデカルト的に言えば(むろん大雑把ですが)、この命題は「その真であることを疑いうる命題である」ということになります。
(注:以上の説明は法則文としての全称命題に関わる論理・言語哲学的問題を一切無視して命題「すべての人間は死すべきものである」をたんなる経験命題(議論領域が有限個の対象をもつものとした全称命題)として扱っており、本来正確ではありません。しかしながら、こういった問題をも考慮に入れれば、この文はいわばますます「疑わしい命題」であることになりますし、当面無視してもよいと思われます。説明の目的上ご了承くださいm(_ _)mあ、それと初歩的ミスがあればご指摘をよろしく(笑)m(_ _)m)。

[344] ふくろう 2007/07/30 00:03

今述べたことは、哲学史や論理学の初歩を学んだものには常識と言えることに過ぎませんが、論理学・哲学のトレーニングをしたことのない人や哲学的センスの乏しい人にとっては、「何を馬鹿なこと言ってんだ」と言いたくなるような意味のない考察に思われる場合もあるでしょう。
しかしこういった考察の価値を否定することは、それがすなわち「近代以降の西洋哲学のほとんどすべての哲学の価値を否定する」ことになるのだということ、このことも哲学史の初歩を学べば容易に理解できることです。
このことを逆の角度から捉えれば、哲学的議論はいかに初歩的・基本的に重要なものであっても、実用的な見地からは、容易に無価値であるように見えてしまう可能性がある、ということを意味します。
ごく初歩的レベルでもこういった誤解が生じうる可能性があるわけですから、もっと抽象度が上がれば、哲学の専門家以外にはその考察の意味・価値が十分には把握できないということもありえます。
したがって、そういったいわゆる「専門化した哲学」「専門家にしか理解できない(しかし、原理的には万人に理解可能な)哲学」の意義を認めうるかどうかということが、問題になってくると思います。
言い換えますと、自分の理解できない哲学、自分の関心の持てない哲学の価値(の可能性)を認めることができるか、ということ。
ま、要するに、学問としての哲学は抽象度が高くなればなるほど、地道に積み上げるトレーニングをしていない者にとっては、何の価値もない議論に見えることがあるので、>>158 におけるエゼキエルさんの見解では、「一見「何にも適用可能とは思えないもの」の価値を認めうるかどうか?」ということが難しい問題となるだろう、というのが私の考えです。
もし仮に(あくまで「仮に」の話ですが)、高度な学問的トレーニングを積まないと理解できない純粋学問としての哲学を、
自分がそれを理解できない=自分は関心がない=自分には無価値である=無価値である、
とみなす、人が陥りやすい偏見に基づいて批判するなら、それは批判とすら言えないと私は思います。
哲学を非実学=純粋学問と認めないことは、こういった偏見を生む危険性を孕むのではないか?というのが、私の懸念するところです。

なお、以上の例による説明は、確か過去スレにおいて「すべての人間は死ぬ」の命題が論じられていたようですので、わかりやすいかなと思って取り上げたものです。
この命題をどう考えるかということについての当の議論参加者の方々の立場は、ちゃんと読んでいないので私はぜんぜん知りませんが、そのことはここでの私の説明の内容には何の関係もありません。

[345] ふくろう 2007/07/30 00:05

諸葛孔明さん。

前に引き続いてこんなことをわざわざ投稿するのもどうかと思うのですが、これから少なくとも当分の間(気が変るかもしれませんが)、私はこちらのスレへの参加を遠慮させていただきます。
sunsarさんのスレの方へは、今のところまだ参加させてもらうつもりでいます。
もし、あなたが待っていてくださっていたら申し訳ないので、一応お知らせしておきます。

「光」についての考察、張り切っておられるようですね( ~っ~)/

みなさん、長文、連投すみませんm(_ _)m

[346] 諸葛孔明 2007/07/30 08:07

>>345
ふくろう様。お早うございます。レス有り難うございます。

気をお使いいただいてすみません。了解しました。また、いつでも遊びにきてください。

[347] エゼキエル 2007/07/30 08:23

>>344
>ふくろうさん
俺はふくろうさんの見解に別に意義はないよ。自分にとって無価値であることがすなわち、一般的に無価値であるなんてとんちんかんな主張はしないし、純粋学問を実学と呼ぶか非実学と呼ぶかは俺にとっては記号の問題でしかない。あくまでも俺は俺にとってどうなのか、ということしか考えてないから、学者先生が困ることでも俺にとってはどうでもいい。
純粋学問としたところで、それを純粋に研究している人間にとってはそれだけで存在価値があると思うから、俺はそれも含めて実学と呼びたいだけなので。
ていうか、なんで適応したいと思う、という主張が、適応できないものに価値を認めるかどうか、という問題にすり替わってるのかが疑問。適応可能と思えないものに価値を認めることがどうして難しい問題となるのかがさっぱりわからない。適応できないから無価値だなんて即断する馬鹿はいないだろ?
飛躍しすぎてないか?

>自分がそれを理解できない=自分は関心がない=自分には無価値である=無価値である、

まず、こんな発想をする奴なんていないだろ?
「人が陥りやすい偏見」と言っているが、俺の知る限り、こんな発想する人間会ったことないが。本当にそれは「人が陥りやすい」のか?
もしかして俺がsunsar氏の主張を馬鹿げている、と言ったことを遠回しに指摘しているのかもしれないが、過去レスをきちんと読んでもらえばわかるが、氏の問題点は哲学的主張にあるのではなく、自分の主張でもって、俺が反戦を主張することをやめさせることができる、と言った点にあるんだよ。氏の主張は明らかなことなど存在しないし、自由に主張することができるというものなのに、それをもって俺が主張することをやめさせられるというのは無理な話だろ、と反論したに過ぎない。
sunsar氏とは無関係に以上のふくろうさんのレスがあるのなら、ますますもって意味不明だ。>>158 から以上のレスが引き出されたのだとしたら飛躍しすぎていて、論理的じゃないね。ふくろうさんの中でアクロバティックな意味変換が起きたのだと思うしかない。

[348] sunsar 2007/07/30 08:51

>>347
なぜあなたはそんなに日本語を勝手に解釈するのですか?

>純粋学問としたところで、それを純粋に研究している人間にとってはそれだけで存在価値があると思うから、俺はそれも含めて実学と呼びたいだけなので。
だから、その純粋学問に対して実学という呼称をあてるという行為について
ふくろうさんは異議を唱えているのです。そして、
>ていうか、なんで適応したいと思う、という主張が、適応できないものに価値を認めるかどうか、という問題にすり替わってるのかが疑問。
これなどは完全に誤解です。ふくろうさんはまず、認めるかどうかではなく
認めうるかどうかが問題であると言っているのです。
問題のすり替えも存在せず、あなたが「すり替わっている」と評した
>そして、適応が可能ならば、それを現実に演繹することを考えてはいけないのかな、と思うんだよね。
への回答としては、ふくろうさんはきちんと>>342 において
>その結びつきはほとんど(or多く)の場合、天才でもない限り直感的には明らかではなく、直感的にその結びつきを把握できるようになるためには、それなりの学問的トレーニングが必要です。
と答えています。
ふくろうさんは、哲学を演繹するためには学問的トレーニングが必要であることを主張し、
さらにその説明としてあなたが「すり替わっている」と評して抜き出した部分を
前置き的に付け加えてあるにすぎません。それは、>>344
>ま、要するに、学問としての哲学は抽象度が高くなればなるほど、地道に積み上げるトレーニングをしていない者にとっては、何の価値もない議論に見えることがあるので、>>158 におけるエゼキエルさんの見解では、「一見「何にも適用可能とは思えないもの」の価値を認めうるかどうか?」ということが難しい問題となるだろう、というのが私の考えです。
を読むことでもわかるはずです。
「認めうる」を「認める」と誤読したり、主張の趣旨を理解しなかったり、
ふくろうさんがまともに話をしたくなくなるのはよくわかります。

[349] 諸葛孔明 2007/07/30 09:04

エゼキエルさん
ふくろうさんからのレスは、「哲学の純粋性=非現実性」ということを、哲学を始める初期の段階から認識甘受出来なければ、哲学の歩みに、大きな偏見を抱くことになる。そして、純粋な学問である哲学に、実学の意味を持たせようとすることは、哲学そのものの純粋性を、危うくさせる、というものでしたね。

エゼキエルさん。例えばね。私と出会う前の貴方の哲学とは、少なくとも、ふくろうさをがおっしゃていた、学問としての純粋な理論の美しさとか、自分の既成概念を破る新しい論理の構築とか、そういうところに、あったと思いますね。でも、貴方はそういう哲学の純粋な聖域に、疑いを抱いた。いわば、貴方のなかで、何かが弾けたんだね。

貴方は、哲学の現状にうれいたのではなく、哲学の根本にうれいた。貴方が今後、哲学に実益を求めていくということは、哲学の存在意義とか哲学の歴史というものに、たてつくことを意味する。ふくろうさんのレスは、そんな風なことを、言いたかったのだろうか。

[350] sunsar 2007/07/30 09:14

>>349
違います。
僕の言葉で語るならば、ふくろうさんは、一見ばかげたゲームのようにしか
見えないような地道な考察を経ることでようやくたどり着くことのできる
「真理」があって(既存の哲学体系)、また逆にそうした「真理」を
きちんと理解するためには論理に従う必要があって、「地道な作業」を経ずに
哲学的な考察を行うのは甚だ「殆い」ことであると言っている訳です。
そして、「哲学が直ちに役に立つことを与える」というような思想を広めることは、
その本来の地道な積み重ねを怠らせる可能性があるという点において問題である、
と言っているのです。

[351] 諸葛孔明 2007/07/30 09:39

>>350
エゼキエルさん。貴方にとっては符号でしかない「実学」という言葉も、ふくろうさんにとっては、かなりご自身のなかで、区別されるべき言葉として、重い意味を含んでいるのかもしれませんね。私には貴方の言葉も、ふくろうさんの言葉も、どちらも分かるような気がします。

でも>>250 はまた、違う主観を述べておられるに、過ぎません。

[352] 諸葛孔明 2007/07/30 09:56

エゼキエルさん。面白いですね。

>>348 >>350
などは、まるでふくろうさんの主旨と、ピントが合っていませんよね。(笑)

ただ、ふくろうさんの言葉に便乗した、主観や信念でしかありませんよね。(笑)

でも、何故にこうもピント外れなのか、ここまでくれば不思議です。

[353] エゼキエル 2007/07/30 09:58

>>348
>>350
相変わらず日本語が不自由だね。

>「認めうる」を「認める」と誤読したり、主張の趣旨を理解しなかったり、

とか言っているが、ふくろうさんのレスを読めば以下の通りだということがわかる。

>したがって、そういったいわゆる「専門化した哲学」「専門家にしか理解できない(しかし、原理的には万人に理解可能な)哲学」の意義を認めうるかどうかということが、問題になってくると思います。
言い換えますと、自分の理解できない哲学、自分の関心の持てない哲学の価値(の可能性)を認めることができるか、ということ。

「認めうる」と「認めることができる」をふくろうさんは区別していない、ということだよ。
感情的にレスするのは構わないが、せめて論理的な文章にしてくれ。
それにトレーニングが必要だというふくろうさんの主旨を理解し享受する気があるのなら、哲学なんぞまるで知らないと放言したあなたは哲学を語ることはできないんじゃないのかな?ここでもまた、言葉と行動が矛盾するsunsar氏を見ることができるのかな?

>>349
>諸葛亮先生
俺はそれほど大望を抱いたわけでもないと思うんだけどね。
ふくろうさんの言う哲学は、御自身でも言っている通り、近代以降の西洋哲学なんだと思うんだよね。
それを指して、俺の先生はおそらく「大風呂敷の広げ方」と言ったんだと思うんだ。だから、その枠をぶちこわすような俺の奇天烈な指摘を面白がってくれたんだろうと思うし、俺は先生のその考え方を踏襲しているんだろうと思う。
だから、俺が哲学に楯突くと思われるのなら、それはそれで仕方がないのかもしれないね。正直、俺は自分の探求心に従っているだけだから、自分のポジションがどこに位置するのかよくわかっていないところはあるからね。
正直、ふくろうさんの定義にあてはめれば、このカテのほとんどのスレが定義からはみ出していると思うんだが、それをなんで俺にだけ言うのかがまた意味不明なんだよな(笑)これはsunsar氏にも言えることなんだけど。該当するスレにそれらをコピペする方がよほど思想の伝播を防げるはずだが、それをやらないで、俺にだけレスをつける(笑)
その行動の意味するところは何だ?と思うわけだよ(笑)
行動心理を考えるに、要するに偉そうな俺が気にくわないんだろうと(笑)だが、それはレトリックの問題だ(笑)そこが見抜けてないあたりが、読解力の問題だと思うんだよな。
ふくろうさんがsunsar氏より理解できていると思うのは、俺と孔明さんの区別ができているところだね。

[354] エゼキエル 2007/07/30 10:00

>>352
>諸葛亮先生
誰も見る目は一緒だな(笑)

[355] sunsar 2007/07/30 10:03

>>352
勘違いをするのは自由ですが、なぜ>>345 なのかよくお考えになったほうがよいと思いますよ。

[356] sunsar 2007/07/30 10:05

>>353

「認めうる」とは、はじめから「認めることができるかどうか」という意味です。
それは、日本語として当然です。
問題はそこではなく、「認めるかどうか」と「認めることができるかどうか」を
同義に扱っているから問題なのですよ。

まあ、僕はもうこれ以上何も申しませんが。
どんだけ〜

[357] 諸葛孔明 2007/07/30 10:11

>>353
貴方が、実学とか実用とかいう言葉のつまらない定義につまづいてはいないことを、確信しましたよ。私にとっては、嬉しい限りです。ふくろうさんに、哲学といふ言葉の尊厳がいくら傷つけられようとも、いや仮に、哲学という言葉自体が、この世から消えて無くなろうとも、広大無限な哲学の喜びのあることに、気が付いて欲しいですよね。

純粋だ学問だといっても、哲学の本質を矮小化しているのは、他ならぬ、哲学に関わっている、第一人者の学者さんたちだということに気が付いたら、ふくろうさんの『殻』も、破けるように思うんだけど・・・。

[358] エゼキエル 2007/07/30 10:11

>>355
別にどのスレに顔出そうが出すまいが、個人の勝手だと思うが。
現に俺は”「明らか」という概念”というスレには一度も顔を出したことがない。
きっとそのことを氏はよくお考えになったほうがいいのだろうな。

>>356
だからそう言ってるじゃないか。
自分で自分に突っ込んで何が楽しいんだ。意味不明。

[359] 諸葛孔明 2007/07/30 10:18

>>355 >>356
末梢末葉の言葉の定義にこだわるお得意芸は、結構なことだが、それを以て他人の主張を代弁しているという『勘違い』は、辞められた方がよろしい。見苦しい限りである。

[360] エゼキエル 2007/07/30 10:20

>>357
>諸葛亮先生
哲学の定義の一つとしてふくろうさんが間違っているとは俺も思っていない。彼は正しいだろう。だけど、それは最初からわかっていることで、それを了解した上でも逸脱は許されるだろうと思うんだよね。
大学ならいざ知らず、ここは掲示板上なわけだから。
掲示板上で一般人が哲学の議題に乗せたい、って言ったら、それはたいていは実用的な意味での哲学の適応だと思うのが普通じゃね?
掲示板の枠の外から、掲示板という性質まで考慮に入れてないから、ふくろうさんの反論があるんだと思うんだよな。
掲示板利用している人間ならみんなそこらへんはわかって哲学カテに参加してるんじゃね?
それはまさにsunsar氏が言ってた誰でもわかる理屈と同じだよ。絶対的に明らかなことなんてない、なんてのはさ、誰でもわかりきっていることでさ、それを承知の上で、その上で明らかなことをみんな探しているわけだしね。
ふくろうさんの哲学の定義も同じだと思うんだよな。
ふくろうさんの意見は正論だよ。
でも、落ち武者さんが他のスレでいいこと言ってた。
正論ほど役に立たないものはない、ってね。
その通りだと言わないが、間違ってもないだろうと思うね。

[361] 未完 2007/07/30 11:01

おはようがざいます。(^^)v
今朝、主人とベランダで食事していたら、トンボモドキ(正式な名称がワカラナイノデ取り合えず仮にこう呼ぶ事をお許しください)が、サンルーフの硝子窓でバタバタはばたいていました。想像するに、そのガラス窓の上空に行きたいらしい。おバカだにゃ。チョット下がって横から飛べば、広い空へ飛んでいけるのに…ドナイスルネン と、観察していたら疲れたらしく窓枠の垂直な所にとまってじっとした。しばらくしたら、またバタバタ。ウルサイから箒でそっと追い払おうと思ったけれど、主人が「もうじき、のぞみの新型が通るよ。」と、言ったので、 (続く)

[362] 未完 2007/07/30 11:02

一キロ程先の新幹線の通る方を眺めた。流石にかっこいい。先頭車両は以前のモノより長く、流線型になっている部分は、二本?ぐらいヘコミが入り、窓は丸く小さめだ。音も静かでまるで線路を舐めるようだ。きっと、摩擦抵抗を抑える力学の最先端の工夫が懲らされているからなのでしょうね。カッコイイ! よその国が新幹線に憧れるのも頷ける。なんて思っていたら、なんとバタバタしていたトンボモドキが、のぞみの風圧に吸い込まれるかのように、天窓から離れ、大空へ飛んで行った。難とも生や。イキレー って、つぶやきました。
朝食の団欒のヒトコマより

[363] チーズ 2007/07/30 18:57

自分は正論を愚弄するほどの
ずる賢さを持ち合わせてはいない。

[364] エゼキエル 2007/07/30 22:47

>>361-362
その新幹線がひかりなら、スレの流れに即してたのにね。残念。

>>363
落ち武者さんには愚弄するだけの賢さも謙虚さもあるんだろうさ。

[365] 未完 2007/07/30 23:07

ひかりよりのぞみの方が静かで速い。新幹線。
鳥の巣状態のブラックホール。
まさしく、則してるなぁ。
エゼキエルさん、望遠鏡で月のクレーターをみたけれど、なんか逆さまのようで、レンズの組み立てが間違ってるんでしょうね。でも、きれいでした。満月で、雲もなく、くっきり。宇宙に浮いてる感じ。荘厳な感じ。太陽の光を反射させているから、その姿を見ることができる。光りあればこその、視界。ナム。

[366] エゼキエル 2007/07/30 23:11

>>365
のぞみ高いからな(笑)

望遠鏡なんか持ってるのか。いいな。貸してほしいな。
今日は確か満月だったろ?
古代において、月の光は闇の中のまさに望みだったろうと思うね。
街灯のない田舎で満月の夜、外を歩くとそれがよくわかる。
月の明るさ、という奴ね。

[367] 未完 2007/07/30 23:19

満月だったよ。厳密には違うのかも知れませんが。
この目もだいぶ使い古しで、老眼ですしね。

[368] 諸葛孔明 2007/07/30 23:34

>>367

ええっ!!未完さんまだ若いんでしょ(笑)

[369] 未完 2007/07/30 23:39

ノーコメント!

[370] エゼキエル 2007/07/30 23:42

>>367
いや、今日は厳密に満月だよ(笑)

先生、女性に年を聞くもんじゃないよ(笑)
俺のマドモアゼルになんてことしてくれるんだい!

[371] 諸葛孔明 2007/07/31 14:18

>>370
(笑)そういえば11時のラジオのテレホン人生相談の回答者に、「マドマーゼル・アイ」さんって方が、いらっしゃいましたね。

て、光の話し?いや蝉の話し?

[372] 諸葛孔明 2007/07/31 22:26

光が死である、という直感を離れ、光についての哲学的認識について、話しをして見る。

光に七つの色があることは、プリズムによっても認識されている。光によって色を認識するとは、「光という色」によって、この世の「色」を、認識することになる。つまり、色を認識するために、光の存在は必須であろう。

そしてさらに考えた。光によって明らかになるものは、色だけではない、形もそうである。

光は人間にとって、切実な認識の一手段である。

ここで私は一つの問題提起をする。それは・・・

『光によって明らかになる、この世の事物の「色」や「形」というものは、人間にとって、正確無比と言えるのだろうか。』

光によって明らかになる事物の色や形が、脳に保存されるとき、その、保存という行為に、既に、様々な「歪み」や「錯覚」が、内包されているものと、考えられる。

これは人間の脳が、光によって認識した形や色を、正確無比に記憶することによって生じる、ある弊害といふものを、咄嗟に回避するために、その脳の、強いては人間の、自衛本能として、「歪み」や「錯覚」が内包されている、と私は考えるのである。

つまり極論すれば、人間の脳といふものは、この世の事物の色や形のすべてを、正確無比に認識することには、耐えられぬ、となる。誤認も神聖な認識活動の一つと認めれば、問題提起はさらに確実となろう。

人間の認識に携わる脳に、既に歪みがあるなら、認識される事物の「色」や「形」というものは、「光」によって、すべて「明らか」にされている、と言えるのだろうか。

つまり、「光」によって明らかになる「色」や「形」というものは、人間にとって「正確無比」と言えるのだろうか、ということなのである。

ここでもう少し具体的な例をあげる。

赤い旗は赤といえ、黄色い帽子は黄色と答えられる。
だが、人間の肌の色、などは、確かに「その色」を「その都度」認識しながら、その色をひとつに形容できぬ。光の当たり具合や本人の体調によって、色は変化する。この時である。

それでも光は、人間の肌の色を、正確無比に明らかにしていると、言えるのだろうか。

ここで私は、答えを仮定した。

光によって明らかになる事物の「色」や「形」は、人間にとって、正確無比である。ただ人間の方がそれを、正確無比に認識する術を、持たないだけである。
曖昧な人の肌の色も、太陽の色も、光は正確無比に、人間に明らかにしている、と考えられる。

さて私はこの仮定を真と仮定する。

さて、ここからが、哲学的用語を知らない私の分析である。

続く

[373] 諸葛孔明 2007/07/31 22:28

事物の色や形を認識するものは何か。紛れもなく、人間の視覚であろう。光によって明らかになる色や形が正確無比ならば、それを見る人間の視覚自体も、極めて正確無比と言わなければならぬ。

誤認や錯覚は、その後の認知といふ、脳の作業において、起こるのであるから。

光が色や形を正確無比に明らかにするなら、光は人間の視覚を、スルーしている、と言えよう。

すると、誤認の元である人間の脳においては、光は「遮断」されたり「歪曲」されたりしている、と考えられる。

いや!違う。!光の性質を考えたら、歪曲などはあり得ない。!光は脳で歪曲されるのではなく、遮断されるだけだ。!

つまり、人間の脳に届くものは、「光そのもの」ではなく、「光の運んだ情報」でしかないのだ。

光は人間の視覚をスルーするが、脳の手前で遮断され、光の運んだ情報のみが、脳に届くということだ。

ここで一つの疑問。

遮断された光は、何処に行くか。

光の反射の性質を、人体にあっても例外なしとするなら、光は脳に当たって反射し、再び視覚をスルーすると考えるが、妥当であろう。

「目の裏に焼き付いている」といふ表現などは、この光の人体における性質を、本能的に直感した比喩と言えよう。

更に、脳に反射して再び視覚をスルーした光は、再び外界に反射する。
ここで、面白いことを考えてみる。

人間が十秒間に一点を目視し続けた場合、光は人体でどう動くかを、哲学的に考察してみる。

この場合、光の性質に頼って論理的に考察した場合に、光は目視する事物の同じ情報を、無数に運んで行くことが、帰納的に推測出来よう。つまり、同じ情報が、無限に脳に届くことになるのだ。果たして脳がこれに耐えられるか。

耐えられない。一点を目視しても、情報を運ぶ光のポイントは、耐えずずれている、と観るべきだろう。勿論、脳が自衛の為に、光の正確無比な同じ情報を、受け付け拒否するゆえであろう。

それと、光の量である。鏡でもないかぎり、100%量の反射はあり得ないだろう。

同一無比の情報でも、それを届ける光の量によっては、違う情報として脳は判断するのであろう。ゆえに、明るくなったり暗くなったりする環境にあっては、脳は、一点目視にも耐えられる。

ここまでの考察のまとめとして、

『光が明らかにする事物の色と形の情報は、人間にとっては、正確無比である』
『光は脳には届かす、脳に反射し、外界にゆく。脳に届くものは、光の運ぶ情報である』

『一点目視という行為も、光の量の変化によっては、脳に違う情報として届くので、可能になる』
と。

今日はとりあえずこれにて

[374] エゼキエル 2007/08/01 07:32

>>372
>諸葛亮先生
>『光によって明らかになる、この世の事物の「色」や「形」というものは、人間にとって、正確無比と言えるのだろうか。』

これと同じ問いをこの間、NHKで哲学取り上げてやってたよ(笑)

>光によって明らかになる事物の色や形が、脳に保存されるとき、その、保存という行為に、既に、様々な「歪み」や「錯覚」が、内包されているものと、考えられる。

同意。だが、

>つまり極論すれば、人間の脳といふものは、この世の事物の色や形のすべてを、正確無比に認識することには、耐えられぬ、となる。誤認も神聖な認識活動の一つと認めれば、問題提起はさらに確実となろう。

この説に説得力を持たせるためには、なぜ正確に認識することが耐えられないのか、という理由が必要となるだろう。

>赤い旗は赤といえ、黄色い帽子は黄色と答えられる。

俺はここに疑問を抱く。赤と言う時、本当に全ての人が同じ色を見ているのだろうか、という疑問。誰も他人がどんな色を見ているかを知ることはできないからね。赤、というのは単に記号に過ぎない。

>それでも光は、人間の肌の色を、正確無比に明らかにしていると、言えるのだろうか。

更なる疑問。人間の「肌の色」は残念ながら「肌色」ではない。黒人もいれば白人もいるのだ(笑)。だから最近ではクレヨンの色は「肌色」と言わずに「ペールオレンジ」と呼ぶらしいね。

>曖昧な人の肌の色も、太陽の色も、光は正確無比に、人間に明らかにしている、と考えられる。

ここで異論。
色は光の反射によって認識される。光の反射の具合が変われば色は違って認識されるわけだ。例えば、空。普段は青いが、夕暮れには赤くなる。これも光の反射の違いによって異なる色が認識されているだけで、光は正確無比に色を明らかにしているわけではない。
例えば、深海魚。人間の目には鮮やかな色合いをしているものが多いが、これは深海で見ると目立たない色合いとして存在している。深海魚の色は人間の認識する色とは異なる概念を深海において有していることになる。なぜなら、深海においてと地上においてでは光の量が異なるからであり、つまり、光は正確無比に色を明らかにしている、とはいえないことになる。

[375] エゼキエル 2007/08/01 07:39

>>373
>諸葛亮先生
>『光が明らかにする事物の色と形の情報は、人間にとっては、正確無比である』

これは>>372 の理由により、意義あり。

>『光は脳には届かす、脳に反射し、外界にゆく。脳に届くものは、光の運ぶ情報である』

これはよくわからなかったな。光を認知するのは目で、脳じゃないと思うが。それに光自体が目に反射するものでもなく、あくまでも光によってもたらされた情報が届くんだと思う。脳に届くのが情報というのはわかる。

>『一点目視という行為も、光の量の変化によっては、脳に違う情報として届くので、可能になる』

一点目視という場合でも、そこには常に瞬きという動作が存在し、瞬きのたびに新しい情報が届くのだと思う。瞬きを拒否した場合どうなるかはやってみるとわかるが、正確な情報は得られなくなる。

[376] 諸葛孔明 2007/08/01 11:23

>>374-375
エゼキエルさん。
私の拙い考察に対する丁寧真摯なレス、有り難うございます。

今、仕事中なので、十分考熟した内容でのご返信ではありませんが、ご容赦ください。

光が明らかにする色や形が、人間にとって正確無比であるという仮定に対する貴方の反論、よく分かりましたよ。

私も、この仮定の真偽には、全く自信はありません。(笑)
ただ、自分立てた仮定を自分で覆す準備は、勿論十分にあります。哲学の基本は、前提を疑うところから始まる、でしたよね。(笑)

ただ、エゼキエルさんのレスを読めば、私自身の考察のつめの甘さを、痛感させられますね。疑い方が半端というか、赤い旗のところなども、そのいい例ですね。

ただ、エゼキエルさん。素朴に思うのですが、光によって明らかになる形や色の確からしさというものは、人間だけに限って言うなら、これを疑わない方がいいのではないか、つまり、視覚にスルーするものを疑う時点で、光に対する考察は、出来なくなるという気もするのですが、いかがでしょうか。?

[377] チーズ 2007/08/01 18:37

光はいくつかの束なのでしょうか?
仏教に例えれば
仏や菩薩の放つ智恵や慈悲の光は
凡夫や愚かな者たちは
南無釈迦釈迦ムニ仏(漢字を度忘れしました。)
南無妙法蓮華経
南無阿弥陀仏
他にもありますが
これほどの違いがあるのかというくらいの
捉え方の違いがあります。

きっと個人の目に映る光の束も
波長と屈折の違いで
かなり個人差があると思えてなりません。
自らを灯とし法を灯とし他を灯とするなかれ・・とは
他の灯が見え方が違うからなのでは無いのかも・・(少し冗談)
思いつくままで考察なしですみません。

[378] エゼキエル 2007/08/01 20:27

>>376
>諸葛亮先生
>素朴に思うのですが、光によって明らかになる形や色の確からしさというものは、人間だけに限って言うなら、これを疑わない方がいいのではないか、つまり、視覚にスルーするものを疑う時点で、光に対する考察は、出来なくなるという気もするのですが、いかがでしょうか。?

光自体の考察か、光という概念に対する考察なのかによって異なってくるように思うんだが。
とりあえず今朝の先生のレスは、光自体の考察だと俺は思ったので、それによって生じてくる形や色の不確かさを話題にさせてもらった。
光という概念に対しての考察ならば、形や色は記号として疑わない方向で考えるというのには賛成だよ。

>>377
>チーズさん
確かにそういう光もあるよな。
威光とか光背とかもそっちの分類の光だと思うんだが、今のところ、俺はそっちの方は保留している。
チーズさんがそっちの話をしたいなら、その流れで行こうか?
お望みのままに。
あるいは孔明さんの「光は死である」という直感もそちらから何か得られるかもしれず。

[379] 諸葛孔明 2007/08/02 06:05

>>378

エゼキエルさん。レス有り難う。今は光の概念より、光自体でいきましょう。

>>377
チーズさん!
貴方の持ち出す視点は、実にユニークで面白いな。そちらからのアプローチも言いかもな。光の概念にはなるが、光自体の考察と、矛盾交錯してもいいんじゃないのかな。むしろ、大事なのはイメージと思考の幅の、拡がりと成長なんだからね。想像が肥大することを恐れちゃいけないよね。想像が肥大したら、一本苗を植えれば済むんだから・・・。

[380] エゼキエル 2007/08/02 07:20

>>379
>諸葛亮先生
光自体ね。了解。じゃあ、形や色は不確かだ(笑)

[381] 諸葛孔明 2007/08/02 16:43

>>380
エゼキエルさん
光によって運ばれる「色」や「形」の情報そのものが、『不確か』であるならば、認識する人間も、認識される形や色も、どちらも『不確か』ということになるよね。

じゃあ、『確かな色や形の情報』ってものは、人間にとって、永遠的に夢幻なのかな。もっと正確に言えばね。うん!この色とこの形は、この事物の本質の一部である、という確信は、得られないってことかな。?

[382] 諸葛孔明 2007/08/02 20:03

光が媒体となって運んでくる、事物の「形」や「色」の情報は、確かにそれ自体が「確か」という確証はない。空の色、太陽の色、人間の肌の色・・・しかしそうなると、この媒体である「光」が運ぶ「不確かな情報」には、「確かである」必要はないのだろうか。

言い換えれば、人間は「光」のお陰で、事物の「形」や「色」という、「不確かな情報」もっと辛辣に言えば「閉ざされた情報」を楽しんでいるのだろうか。

深海魚には深海魚の、猿には猿の、そして、人間には人間の、「光の運ぶ閉ざされた情報」に自足しながら、それぞれの生涯を全うするのであろうか。

「光」は、闇を照らす。確かに・・・。だが闇から躍り出た「形」や「色」といふものは、またその「正確さ」を問えば、再び闇に戻るしかないのだろう。すなわち、「光」といふ「媒体」とは、事物を「明らか」にするのではなく、光を当てられた事物の、「その影」といふものを、明らかにしたに、過ぎないのかも知れない。

すなわち、「光」は事物の「影」を映す、といふことか。!!光によってさらけ出される事物の「形」や「色」というものは、その事物の「影」でしかない!、ということなのか。!!?

「色」「形」=「影」

という、新たな図式が誕生した。エゼキエルさんが言われた

「光」=「影」

の論理も、「光」の運んで来る情報を、「閉ざされた情報」と観ることで、説明がつく。

[383] チーズ 2007/08/02 20:23

北風と太陽の話を思い出しました。
光と風と太陽と・・・
自分は北風であったと思いました。

[384] 諸葛孔明 2007/08/02 20:50

>>383
チーズさん!
貴方の短いレスっていうのは、何だか、タイミングといいポイントといい、本質を捉える「妙味」がありますな。この年寄りを、あまり驚かさないでください。(爆笑)

そうだね。貴方はご自分を北風だったと言われた。いいところに気が付かれたな。「北風」→「風」、「太陽」→「光」というところで、スレタイにも合っているし、sunsarさんやふくろうさんとの対話の反省にもなっていますね。

[385] エゼキエル 2007/08/03 07:16

>>381-382
>諸葛亮先生
レスいらないじゃん(笑)御自分で考察まで終えておられる;;
深海魚の体の色は深海で目立たないための色であり、地上の我々のための色じゃないんだよな。その色は深海においてのみ意味をなす色なわけで。そう考えれば、色の不確かさというものを理解できるんじゃないかと思う。
だが、不確かだからこそ、色の情報は開かれているのじゃないのかな?
例えば、太陽を日本人の子供はオレンジ色や赤で描くが、ヨーロッパの子供は黄色で描くというよ。そこに不確かな色が存在するが、その情報が行き来することで開かれた理解というものがあり得る気がする。
古来、「影」という言葉が「光」をも意味していたことを考えると、言葉とは物事の本質をよく捉えているということができるかもしれないね。

>>383-384
他スレの話になるが、チーズさんの言葉は反省するほどに辛辣かね?
sunsar氏の言葉の方がずっと棘があるように思うが(笑)まあ、sunsar氏も牙を剥き出しにしなくなった分、叩かれた甲斐はあったんだろう。氏もそれなりに変わっているってことだ。それを認めるほど寛容ではないだけで(笑)
sunsar氏がまた増長して因縁引っかけてきたら、その時はまた叩けばいいだけのことだしさ(笑)
でも、あいつもやっとどうやれば仲間に入れてもらえるかがわかってきたんだろうし、前みたいな暴走はしねえだろうけどね。

[386] 諸葛孔明 2007/08/03 08:35

>>385
飛んでもありません。エゼキエル太子の言葉が無ければ、こんな考察に行き着きません。(笑)「光=影」は貴方の定理ですからね。一人では届かない真理??かな。

まだまだ考察は続きます。チーズさんが提案したお釈迦様の光も面白そうですし・・・「光」が「概念の光」と、真・善・美に於いて一致するという大胆不敵な定理の証明もしたいですしな。(笑)その為には太子の洞察が必要です。(爆笑)

確かに・・・sunsarさんは変わってきてますね。ただ今の「明らかという概念」スレには、私や太子のような、謀叛人(笑)は居ません。まだまだsunsarさんには油断できません。まぁ貴方のおっしゃられた通り、また出て来れば叩けば良いこと。sunsarさんが変わってくれる、いや、お互いがともにこのカテで成長していけたら、ベストなんだけどね。(笑)

エゼキエルさん・・・不思議だな(笑)何か貴方に書いていると、学生時代良く親父宛に手紙を書いたときのことを思い出すよ。面と向かってはお互い話しもしないのに、手紙となると、お互い何十枚もの便箋になったのを、思い出すよ。(笑)

[387] エゼキエル 2007/08/03 10:38

>>386
>諸葛亮先生
一人では辿り着かない真理ってのはあるよな。掲示板で哲学するメリットだと思う。
光は見るべきところが多そうだ。

>ただ今の「明らかという概念」スレには、私や太子のような、謀叛人(笑)は居ません。

お互い成長していけたら、って偉いね、先生は。俺は俺のことしか考えてねえから(笑)
「明らかという概念」にはホント興味ねえなあ。食指がぴくりとも動かねえ。

父親に手紙か、いいね。親父さんは元気かい?元気だったら大事にしてあげることだね。

[388] 諸葛孔明 2007/08/03 16:21

>>387
エゼキエルさん。私の両親は、共に他界しました。(笑)この書き込みを、何処かで見てるかも知れないな。(笑)

「色」「形」=「影」

「光=影」

じゃぁ「影」とは何だろう。グランド大百科で、「影」を調べて見る。

「影・・・光の当たらない部分、目の届かない部分・・・」

なんだ下らない。これが常識というものの陳腐な限界か。影は光の当たらない状態ではなく、むしろ、光の当たっている状態を言うのだろう。ただ、事物に光が当たることによって、二つの影が出来る。暗い影と、「色」「形」という影が。

影は平面に当たりながら、その描く像は、極めて立体的である。古代の人の数学の妙味は、影の長さや動きによって、距離や時間を図った。影から現物の形を推測することも可能であろう。この歴史を辿りて行けば、影のもたらす恩恵は、計り知れないものがある。

ところが、光に物理的法則や科学的実験が見い出されるとも、影には未だ、科学の手が入らない。人類の発想が進化すれば、やがて、「影の力学」とか、「影の実用性」といふものも、期待出来るのかも知れないが、未だその報を聞かぬ。熱に対する冷を研究することによって、人類はクーラーを発明した。物事の裏表に閃きが及ぶとき、人間は新たな発明にいたる。

話しがそれたが、影が光であるならば、この世の事物や現象は、すべて、光にもたらされる影なのであろう。ここで、ひとつの定理を思い付く。

『人間は光そのものを認識することは出来ぬ。例えそれが太陽の光であろうとも、溶接機の放つ光であろうと、人間の視覚に「光」として認識されたものとは、認識された瞬間に、実は、光によってもたらされた「光」のように見える「影」なのではなかろうか、と』

[389] 諸葛孔明 2007/08/03 16:38

私は更に大胆不敵に考えた。もしかして人類はただの一度たりとも、「光」というものを「認識」したことは、無いのではあるまいか。「光」だと思って「認識」していたものは、実は、「光」のもたらす「影」でしか、無かったのではあるまいか。

もし私の出鱈目な定理が、真実だとしたら、科学は未だ、光を研究していないことにする。

私は妄想を進める。

「光」が「光の影」でしかないのなら、本物の光とは、どこにあるか。宇宙にあるか。?否。宇宙にある光さえも、光の影である。ならば光は・・・・・・!?

光とは、宇宙の陰陽の陽がもたらす副産物に過ぎぬ。更に、宇宙の陰陽もまた、宇宙の副産物に過ぎぬ。宇宙には、「光」という「独立した存在」は無いのである。人類が科学的に研究したのは、「光といふ概念」の方に、他ならなかった。

ここで、私の妄想を終える。

反論を待つ。!!

[390] エゼキエル 2007/08/03 17:47

>>388-389
>諸葛亮先生
>「影・・・光の当たらない部分、目の届かない部分・・・」
>
>なんだ下らない。これが常識というものの陳腐な限界か。影は光の当たらない状態ではなく、むしろ、光の当たっている状態を言うのだろう。

いや、違うって。辞典は合ってるんだよ。「光の当たっている状態」の「光の当たらない部分」が影なんだから。
科学的に考えるなら、光源としての光は存在するだろうなと思う。全然面白くないけど(笑)
光から七色の色彩を取り出したのも科学だし、光の速さを導き出したのも科学だしな。光は科学の俎上には乗っていたといえるんじゃないだろうか。
逆に「光という概念」は科学的に研究できない。概念を実験することはできないからな。哲学的、民俗学的、心理学的にアプローチしていくしかない。

確か古代ギリシア人は影を計って地球の大きさを割り出したんじゃなかったっけか。科学における影の恩恵はでかいだろうね。

[391] チーズ 2007/08/03 19:32

光の生成は核融合ですが
核融合を見ることは出来ません。
融合こそ一番価値あると思いませんか?
自分は光を融合であると思います。
陰と陽 善と悪 正と負 すべての融合の地点ではないでしょうか?
この衝突で四方八方に束を放つとして
受け取るものに影という衝撃の走るくらいの衝突であると思います。

[392] エゼキエル 2007/08/03 20:13

>>391
>チーズさん
そろそろレスアンカーつけようや(笑)

核融合は光も生成するが、他の諸々も生成するよな。
両極面で価値があるのかもしれん。つまりプラスにもマイナスにも、ね。
で、「光は融合である」という新たな説が出たわけだが。
スレ主の見解を聞きたいな。

[393] チーズ 2007/08/03 20:19

>>392
>エゼキエルさんすみませんでした。
 ネット接続に1時間かかりました。

[394] エゼキエル 2007/08/03 20:21

>>393
ん?どうした?
PC調子悪いのか?

[395] チーズ 2007/08/03 20:41

>>394

パソコンは最近切れやすく接続しにくいです。
 

[396] 諸葛孔明 2007/08/03 21:00

>>390
やはり暴論でしたか。(笑)エゼキエルさんが止めてくれなければ、暴論から新たな定理を導こうと思ったが・・・。(笑)

>>391
チーズさん!光が融合とな(笑)
また私の初めの直感に、真っ向から勝負して来たね。
確かに・・・核融合、いや、融合=愛、共存だよな。つまり、光=融合=共存=生か。・・・。

これは手強いねチーズさん(^-^)/

光は融合により、四方八方に放たれる衝撃だってね。チーズさん・・・光の本質の一部を、見事に言い表した名言だな。

>>390
エゼキエルさん・・・光を融合と考えるなら、そして、四方八方に放たれる衝撃と考えるなら、貴方が最初にされた神話の話しにも、見事に符号しますね。つまり、「光=生」が。

私は光を、ある直線光のイメージで捉えていたから、四方八方というイメージをチーズさんから与えられたとき、うーんと思いましたね。(笑)意表を突かれたかな。

[397] エゼキエル 2007/08/03 21:13

>>396
>諸葛亮先生
自分で言ったんじゃん(笑)光って漢字は四方八方に放たれるイメージだって(笑)違ったっけか?

放たれる衝撃と捉えるなら、神話でいえば、光の神=雷の神、の話との符合が妥当かもな。
衝撃と融合。
稲を孕ませるから稲妻なわけだしね。この場合の「妻」は配偶者の意味ね。現在の妻とは意味が異なるから要注意。
まさに愛だね(笑)
天と地を繋ぐという意味でも雷が妥当かもしれん。それはチーズさんの指摘の>>391 とも符合するだろう。

[398] エゼキエル 2007/08/03 21:15

>>395
>チーズさん
キレやすいのか?誰かさんみたいだな(笑)
悪い、忘れてくれ;;

チーズさんはもう少し自信持っていいよ。
俺はチーズさんの直感は尊敬しているよ。
「明らかという概念」改めて見てきたが、チーズさんの指摘は改めて的確だと思った。

[399] 諸葛孔明 2007/08/03 21:24

>>397
言ってた言ってた!(笑)
四方八方って使っていたな!(笑)、あの時は四方八方を漢字の符号として記憶したってことか。・・・符号が化けて出たんだな。(笑)エゼキエルさん!哲学は飛躍した直感では駄目だね。ちゃんと論理的に帰納的に推論していくなかで、ある直感を得る、というのはいいけど、・・・短気だったね。

よし!チーズさん!エゼキエルさん!・・・ここは一本取られた。!

「光=生」を認めて受け入れるよ。だが、そのことは即ち、「光≠死」ではない。

「光=生」かつ「光=死」だ。

[400] エゼキエル 2007/08/03 21:47

>>399
>諸葛亮先生
よし、400ゲット!ってアホか(笑)

こないだテレビで哲学の教授が言ってたよ。哲学っていうのは回りの人が当たり前と感じていることに疑問を感じて、またその当たり前に戻ってくる学問なんだとさ。当たり前を疑問視できても当たり前に戻ってこれない奴もいるんだろうな、と思ったが、先生はどうやら、飛躍してみて、論理と帰納の必要性に気づいたようだ(笑)
戻ってこれてよかったんじゃね?
確かに飛躍は楽しいからな。
飛躍が終着点ならそれは芸術だと思うね。
それはそれで面白いと思うが。まあ、現実に戻る哲学も面白いと思うんで、できれば戻ってきてくれ(笑)

「光=死」の直感は俺はやっぱり死後の世界とか原爆投下とか、そういうイメージなんだが、これを考察する場合、先生の直感の出所が焦点なんだよな。自分で辿れね?
そこは現実的な事象を辿る作業になると思うが、極めて個人的な経験から出発している直感だと思うんで、こればかりは先生本人にしかできねえしな。

[401] 諸葛孔明 2007/08/03 22:12

>>400
うーん・・・やっぱり400をGETした人の言葉は、含蓄があるねぇ・・・って、(笑)訳わからん(爆笑)

いやいや、そのとおり。!!飛躍して他人を無視して、自説を進めるのが快感なら、どっか他所行けってことやね。どこかの誰かさん見たいに・・・。(笑)

うん!「光=死」は、もはや光の現代的イメージから来る、私の個人的感覚だね。それでいいよ。納得・・・。!エホバの証人の雑誌のカバーじゃないけど、光にひざまずく人間の姿でいい。四方八方だよ、光を生たらしめるキーワードは・・・。

チーズさんて凄いな!!改めて尊敬するよ。

まてよ!?

すると

チーズさんが言ってた、南無阿弥陀仏とかの光も、命から放たれる、四方八方の光だってことだな。・・・・・・いやいや・・・飛躍か・・・!!

[402] エゼキエル 2007/08/03 23:20

>>401
>諸葛亮先生
いやいや、自棄になるなよ(笑)
それでいいよ、って投げるなあ。
丹念に自分の意識を辿ってくれよ。それが哲学に辿り着くんだからさ。無意識まで掘り起こすうちに思い当たる何かがあるはずなんだよ。丁寧に行こうや。

>四方八方の光
仏像の光背も円形だしな。それは四方八方へ広がる光のイメージなんだろう。
それは遍く照らすイメージだね。まさしく遍照だね。
仏教で、光明遍照十方世界というだろう。
浄土宗では、月影の至らぬ里はなけれども眺むる人の心にぞすむ、という宗歌がある。
仏の慈悲を月影になぞらえたわけだね。

[403] 諸葛孔明 2007/08/04 06:08

>>402
エゼキエルさん
なるほどね>>401 は私の自棄ということか。(笑)有難いね。自分の気が付かない哲学の姿勢の甘さを指摘してくれて。

>>401 は、安易に結論をまとめ過ぎたな。陳腐な椅子に腰をかけるところだった・・・ご指摘ありがとう。「光=死」「光=生」もっと無意識を辿っていくよ。(笑)サンキュー!

[404] 未完 2007/08/04 10:29

光と影。光と闇。
光源があっても反射するものがないと光はないも同然。夜空の星もこの目が光を捉える事ができなければ、また星もないのと同然。地球のまわりのガスに光源からの光線が当たり紫外線となって目に見える。目に見える範囲の光線だけを見ている。
目以外の機械が捉えた光の光線の分析のお陰で、UVとかSPとか(アヤフヤ)紫外線が肌に及ぼす影響なんかがわかってきている。
太陽光線一つとってみても、この体の細胞一つ一つが、無意識のうちに影響を受けている。太古より今にいたるヒト形成のブロセスを体の細胞は記憶している。自然に。と思います。

[405] 未完 2007/08/04 10:57

瞳の奧の水晶体は、太陽の光を七色に分けて見ることができますよ。
私の場合、老眼のせいかもね。
いつまでも、澄んだ瞳でありつづけたいと思います。何事にも拘らない自由な精神を持つために、精進に努めたいですね。ナム。

[406] 未完 2007/08/04 11:46

続けてゴメンナサイね。
また、視覚のない目の見えない人にとっては、光は熱として肌に伝わり、太陽光や、白熱灯、蛍光灯、蝋燭などの光の温度の違いや感じ方の違いで区別できるのでしょうね。もしかしたら、太陽の光の温度も七種に分けて捉える事ができる人がいるのかも知れませんね。目蓋にはどんな風に写っているのでしょうか…
モットモット美しい世界を見ているのかも…
潜在する太古からの記憶に目覚めていない感覚は、マダマダ計り知れない気がします。
謙虚でいれば自然が教えてくれる。と、感じます。

[407] エゼキエル 2007/08/04 11:47

>>403
>諸葛亮先生
いやいや、俺は遠慮がないからむかついたら言ってくれ。
ただもったいないと思ってさ。光に死を見る直感を陳腐にまとめるのはさ。

>>404-405
>未完さん
確かにね。光は対象物があって初めて認識することができる。
光は反射なんだろうな。

澄んだ瞳、ね。心の瞳は限りなく澄んだ状態にしておきたいね。事態を正確に認識できるように。

[408] チーズ 2007/08/05 13:59

>>405
未完さん
 ほんとうのことは目に見えない・・
 について
 どう感じられますか?

[409] 未完 2007/08/05 14:37

こんにちは、チーズさん。
例えば、目に見えないほんとうのこと
とは、チーズさんにとっては何ですか?
軽く説明して頂くと、助かります。ヨロシク。

[410] チーズ 2007/08/05 15:09

>>409
未完さん
 例えばですが
 淡々と事実だけを書く小説があったとします。
 ふと読んだあと作者の苦しみや人生の悩みを空想してしまったり
 裏と表を使い分けている人の言葉の裏を読んだり・・
 今星の王子さまの公式ホームページを見ましたが
 帽子の中に象が隠れていたりしました。
 他にも目以外で感じる物があるかもしれません。

[411] 未完 2007/08/05 22:31

>>140
空想、裏読み、ですか…
空想は空想だし、予想は予想でしょう。あなたが、空想や予想を思い描いたとして、それを「ほんとうです。」と、言ったとしたら、[空想]したという、あるいは、[予想]したというあなたの動作は、ほんとうでしょうが、空想した、あるいは予想した中身は、ほんとうだとは言えないでしょうね。
何度も、空想や予想が現実となって、事実として証拠に残るのならば、何かあなたに特別な才能があるのかも知れませんね。

[412] エゼキエル 2007/08/05 22:58

>>408
>ほんとうのことは目に見えない

有名なフレーズだな。
哲学の真理も目に見えないよな。
俺らは目に見えない本当のことを探し求めてレスを交わしているんじゃね?
それすらも確かじゃねえという見方もあるが、確かじゃねえと疑い出したら真理に辿り着くスタートも切れねえよな。
確かじゃねえから行って確かめてみるんだと思う。
そして、確かだと確証が得られたら、確かだったと言っていいんだと思う。
他の誰かがそれは実は確かじゃないと確かめるまでは、ね。

[413] 未完 2007/08/05 23:25

そうですね。
現場へ行きたくなる。感動を求めて納得するために、得心するために。

[414] 未完 2007/08/05 23:43

ですので、哲学も現場(現実)と則したものでないと、今、生きている人間にとっては意味がない。ちまり、則しているものに意味がある。
照合するという努力が必要だと思います。

[415] 未完 2007/08/05 23:46

自分で書いたものに爆笑してます。
ちまり→つまり
よろしく。m(__)m

[416] 2007/08/06 00:05

たしかにうけました,笑

[417] keita 2007/08/06 00:30

>>412
>確かじゃねえから行って確かめてみるんだと思う。

それは、ロマンチックで結構なことだが、

>そして、確かだと確証が得られたら、確かだったと言っていいんだと思う。

「確証」が確証であることは、どうやって「確かめる」のか?

>他の誰かがそれは実は確かじゃないと確かめるまでは、ね。

一度「確証が得られた」ものが、後で「実は確かじゃないと確かめ」られるのは、矛盾ではないのか?
矛盾を含む体系では、任意の主張が証明可能となるが、君の言う「哲学の真理」とは、その種のものか?

ある事柄が確かであると主張するのは容易なこと(言うだけ)であるが、
ある事柄が確かであると理解するためには、その事柄が確かであるか否か以前に、
「確かである」とはどういうことであるかを理解する必要がある。

「見る前に跳べ」も有名なフレーズだが…

[418] エゼキエル 2007/08/06 07:48

>>417
>keita氏
よお、ここまで出張ってきたかい?
確かめてみることがロマンティックだと思うなんて存外にロマンティストだな。

一度確証が得られたものが後で確かじゃないと確かめられることは学問の世界じゃ日常茶飯事だということは御存知ないのかな?
確かである、という箇所の絶対性に拘泥していては、学問の進歩はあり得ないよ。
sunsar氏の主張は、明らかであることは何もない、というものだろ。だから、可能な限り、明らかだと思われるものに近づけることが氏のやり方。
だが、それは単に表現の問題だ。
俺は明らかであることは何もない、ということは承知している。
全ては明らかではない。だが、それは言葉遊びでしかない。
何故、明らか、という言葉が存在するのか考えたことがあるか?
明らか、とは全てに存在する明らかではないことを踏まえた上で、その上で明らかであることを規定するために存在するんだよ。
つまり、他との差異に対して存在する言葉だよ。
言葉とは差異だ。差異に対して、言葉がつけられるんだ。
明らかであることに拘泥したければすればいいさ。俺は止めはしないよ。その証拠に俺は「明らかという概念」スレには一度として顔を出したことも、荒らしに行ったこともないはずだ。俺には既に答えが出ている問題だからな。
だから、拘泥したい奴はそこで止まっていればいい。
俺は先へ行く。それだけの話だよ。

哲学の真理とはその種のものか、との問いは後から来た人間が言う言葉だ。俺にとっては「今」この時に得られる真理を得るために動くだけだ。
確かであることを理解するために確かであるとはどういうことかに拘泥したければすればいい。カメとアキレスだ。常に進歩する真理の後ろ姿だけを追い続けるのもまた哲学だとは思うぜ。俺には納得のいかない方法だから、先に行かせてもらうというだけの話だ。
俺とsunsar氏とでは哲学に求めるものが違う。
だが、違うからといって、それを非難するのはおかしな話だと思うぜ。
sunsar氏は俺の哲学を間違いだと認めさせるのが目的だといって俺に議論をふっかけてきた。俺は奴の哲学は否定しない。だが、俺に哲学をやめさせるという目的は容認できない(笑)応戦させてもらったまでだ。俺は氏の哲学にはまるで興味がない。関わってこなければ俺から関わっていくことはないよ。
keita氏に対しても同様だ。他人の哲学の質をとやかく言うな。
俺は俺のやり方でいくだけだよ。

[419] ゲスト 2007/08/06 08:11

ここでもエゼキエルさんとkeitaさんの焦点がずれている。

エゼキエルさんのいう「確証」は内的な確証、
keitaさんのいう「確証」は外的な確証。

>一度「確証が得られた」ものが、後で「実は確かじゃないと確かめ」られるのは、矛盾ではないのか?

内的な確証ならば、それは矛盾ではない。
よって、417は412への批判になっていない。

[420] エゼキエル 2007/08/06 08:23

>>419
>ゲストさん
有難うな。
理解してくれて。
でも、いいんだよ。
理解されないのは別に。
レス見てわからなきゃそれも一興。
永遠に外的確証に拘泥したい人間もいるんだろう。
俺には興味のない話だが。

[421] 諸葛孔明 2007/08/06 08:59

>>417
keitaさん
相変わらず重箱の隅をつっつく、思考停止の哲学レスだね。(笑)
貴方の思考停止は、sunsarさんそのものだよ。確かなものを、明らかなものを求める真似事をして、一つの器に留まるという、貴方の哲学には、残念ながら、貴方ご自身が気が付かない悪臭を周囲に放っているんだよ。落ち武者さんは貴方と違って、まだご自身の哲学の悪臭に気が付いておられる。だからこの掲示板でもちょこちょこ悪ふざけをして、新鮮な空気を吸っている。落ち武者さんにはまだ、救いがある。keitaさん、貴方やsunsarさんには、救いようがないよ。分からないでしょ。?ご自分の言葉の悪臭といふものが・・・。

[422] エゼキエル 2007/08/06 12:52

>>421
>諸葛亮先生
そう言ってやるなよ。最初は誰でもそんなもんだよ。
ましてや、確かなものは何もない、という概念は普通に生活している人間には確かに新鮮に映るんだろうと思う。何かしらアカデミックな気がするからね。
最初の学問との出会いなんてそんなもんだろう。
問題はこの議論を通り過ぎた後だよ。
keita氏がこの議論を通り過ぎた後、どう動くか。
sunsar氏だってまだこの議論の途中なんだと思う。
何事も通り過ぎてみないと全体の風景は見えてこねえ。
見えてきた風景に、さてどう動くかを考えられれば、まだ救いようもあるってもんさ。
直感に恵まれない人間はそうやっていくしかないのさ。
俺だってそうやってきた。
ピンぼけの議論、空を掻く言葉、意味不明の論理の振りかざし、思考停止のパラドックス、それらの間を這いずり回りながら、筋を一本に繋げていくしかないんだよ。
先生のように直感に恵まれた人間にはわからないことだろうが(笑)
俺らはいつだってそうやっていくんだよ。
そして辿り着く高みがある。
高みはだが、もっと高い高みから見れば低い。だから、また繰り返す。
矮小な俺自身の哲学の殻を叩き割るためにね。

[423] 未完 2007/08/06 14:36

成る程、エゼキエルさんがエゼキエルとご自分を名付けなさった由来がナントナク解りました。
予め(強引?に)言って置いて、それに自分が近づこうとするそういう感じ。
前提があれば進む糧になると…
それにつけても、おやつは、サンジ。でしたぁー。(^^)

[424] 諸葛孔明 2007/08/06 14:55

>>422
エゼキエルさん!!了解

>>423
未完さん!!凄い・・・最近の貴方のレスは、深い驚きと深い癒しを私にも与えてくれるよ。ありがとう。

[425] 未完 2007/08/06 15:06

ナンデンカンデン、お役にたてます。ヤバッ! マイ ジャパニーズ!

[426] エゼキエル 2007/08/06 15:11

>>423
>未完さん
俺を買いかぶっているよ(笑)
エゼキエルの書にUFOもどきが出てくるからおかしくてつけただけ(笑)もったいぶった書物に混じる紛い物、その程度の意味だよ。正論を笑い飛ばす快感。寒山と拾得だね。聖を笑い飛ばす俗。その瞬間、転換する聖と俗の価値観。俺のHNはそんなとこから来てる。
聖を地べたに俗を天空に上げるスラプスティックなナンセンス、だな。色即是空空即是色だね。

>>424
>諸葛亮先生
未完さんは最初からすごいんだよ(笑)
最近は載りに載ってるな。胸にすとんと落ちる感覚がすげえ気持ちいい。俺は尊敬しているよ。昔も今もな。

っていうか、孔明の爺、早くこっちのスレに戻ってきやがれってんだ(笑)つまらねえだろがっ!!退屈してんだ俺は!!
今日の新聞に載ってたぜ。
アメリカのラジオだかテレビだかが原爆被害者のエピソードを紹介したそうだが、そのタイトルが「ホワイトライト・ブラックレイン」。「白い光・黒い雨」だそうだ。
死の光、はやはり原爆投下の光と見るのが妥当かもしれん。
今日は広島原爆投下の日だ。
今日語らないでいつ語るんだ。

[427] 2007/08/06 15:23

来年(笑)

[428] エゼキエル 2007/08/06 15:26

>>427
どひえーっ!!俺を殺す気かぁあああ!!
来年まで待てるかあああ!!

[429] 未完 2007/08/06 15:31

へぇーそうなの?
さて。阿部さんの発言が無謀だとかマスコミカがとやかく言っているけれど、政府が原爆被害者を救済するのは当たり前だ。但し、エセ被害者が出るような制度は止めてね。日本国民は、日本国憲法に護られている。と、信じたい。

[430] 2007/08/06 15:37

>>428
焦りはきんもちでっ
何事もゆっくり,じっくり

例えば,『あ』と発音したいなら明日までまつことなんでっ

皆そうやって生きてます

[431] エゼキエル 2007/08/06 15:38

>>429
>未完さん
何に対する「へぇーそうなの?」発言なのだろう(^^;;気になるな(笑)

安部さん、ね。原爆症認定基準見直しはまあ、救済が正論なんだよな。だが、この手の問題だと必ずその「エセ」問題がまとわりつく。どうなんだろうな?被害者をきちんと見分ける方法っていうのはあるんだろうか?そこらへん俺はまるで無知なんだが。
もしそれがあれば問題はもう少しスムーズなんだろうが。
まあ、英断といえば英断だね。無謀と見えるものもしてこなかっただけの話。小泉内閣から安部内閣にかけて評価できるのは、この無謀な英断をしてきた点かもしれん。それだけかもしれないあたりが問題なのだが(笑)
って、政治カテがふさわしい話題になってきたな(汗;;
哲学の話題に戻すか。

[432] エゼキエル 2007/08/06 15:39

>>430
>彼さん
ああ、俺にはできない相談だな…何せ気が短い。
明日まで「あ」の発音を待つ辛抱が俺には必要かもしれん。

[433] 未完 2007/08/06 15:44

エセ発見装置も近いうちにできるかもね。気が気でない人は、気が休まらんでしょう ね。

[434] 2007/08/06 15:46

>>432
私はお醤油様にいわれました。夢でですが

ゆっくりできなければ,パターンを掴みなさい。バタフライをしている気持ちを知っていますか?我慢ってます

パーマしている人を知っいます

ゆっくりパーマしてます

なんだか,パーマンを思いだしました

強かったパーマン

[435] エゼキエル 2007/08/06 15:46

>>433
>未完さん
エセ発見装置ができれば、見直し問題は解決だろう。多少の財源は食うだろうが、そこらへんは議員年金あたりを当ててもらうくらいの英断を議員先生方にはしてもらいたいね。

ところで「光」のお題については何か見解はあるかい?

[436] 諸葛孔明 2007/08/06 15:48

>>426
すまんすまん(笑)エ同志よ。!年寄りは道草と冷や水が好きでね。(爆笑)

今朝の紙面は単一色でしたね。

空洞の樹に虫の寄る原爆忌
この時期になると、決まってこの句を思い出すよ。原爆の光なんか、まさに
「光=死」
そのものなんだろうな。
光は主役となるとき、人間に畏敬と恵みをもたらす。だが、光が科学の副産物と化すとき、光は人間に恐怖と死をもたらす。

太陽の光だってそうだ。オゾンを破壊された光は、生命を失い、副産物となるのじゃないのかな。恵みにではなく、警告を放つ。恐ろしい紫外線や熱中症となってね。光にも人間に言いたいことがあるんだろうな。いや、人間が光に対し、科学的な饒舌をしたから、それが、自業自得で戻ってきたのかも知れないな。

光を人間に生たらしめるものは、人間の節度ということか・・・。

[437] エゼキエル 2007/08/06 15:48

>>434
>彼さん
コオロギ様の次はお醤油様と来たか(^^;
どこまで行く気だ;;
醤油からバターの連想でバタフライなんだろうか;;
が、バタフライからパーマの変換がわからん;;
パーマからパーマンの連想は簡単だな。

[438] エゼキエル 2007/08/06 15:53

>>436
>諸葛亮先生
退屈してたぜ〜お疲れさん。仕事か?

>光を人間に生たらしめるものは、人間の節度ということか・・・。

これはいいね。納得のいく説だ。
確かに現代では光の恩恵はその節度によってのみもたらされると言っていいかもしれん。
昔は餓鬼は元気に太陽の下で遊んでさえいればよかったが、今の餓鬼は首筋を紫外線から守る奇妙な帽子を被っている。
人間のやり過ぎがオゾン層を破壊し、過剰な光の供給を生み出したということなんだろう。

[439] 諸葛孔明 2007/08/06 16:30

>>438
光が主役であった古代には、光は天からおいで遊ばず「御来光」だった。

しかし、現代にあっては光は、科学の奴隷だ。

原爆はアインシュタインの相対性理論の応用から生まれたとも聞くが、科学の副産物である光が、何故に超危険な放射能となるのか。

多分理由はこうだ。

神話などに出てくる「御来光」としての「光」とは、人間とは別種の「生命体としての認識」が、根底にあった。しかし人間は光より立場を上にしたいと願い、光にひざまづくことをやめた。

光に神とか命という概念を付加しなければ、光は直ちに、「媒体」となる。

媒体とは人間の道具だよ。媒体である光に何が乗っかるかは、とうの人間にも分からないときがある。光が危険なんじゃなく、光に寄って運ばれる「何か」が危険なだけだ。

[440] エゼキエル 2007/08/06 16:37

>>439
>諸葛亮先生
確かにね。
光というより、科学は万物への畏敬を媒体に変えたといってもいいかもしれん。
それが20世紀という時代だろう。
科学者が自然への畏敬を忘れた時、科学は凶器ともなり得るということだね。

[441] 諸葛孔明 2007/08/06 17:02

>>440
エゼキエルさん
確かにそうだ。科学は万物への畏敬を媒体に変えた。数学は数への素朴な驚きを、厳密な符号に閉じ込めてしまった。

万物の対象を媒体とみなした科学が、人類にとって「有益なもの」ばかりを運んでくると盲信したところに、公害・薬害問題がでてきた。光もその例外では無かったんだろうね。

でね、エゼキエルさん。

光という媒体が運ぶ有害な情報を甘味しても、

「光=死」

という直感は、ちょっと大袈裟だと思いませんか。?でも私のなかで、「光=死」のテーゼは、これからなんだよね。

で、ひとつ閃いた。・・・
思考がパニクることを、「頭が真っ白になる」ていうでしょ。あれはきっと、脳と光の関係を表した言葉になるんじゃないのかな。極論すれば、脳は直接光にあたれば死滅するとか、そういうこと?かな?

[442] エゼキエル 2007/08/06 17:29

>>441
>諸葛亮先生
>光という媒体が運ぶ有害な情報を甘味しても、
>「光=死」
>という直感は、ちょっと大袈裟だと思いませんか。?

と自分で言ってしまうのかい(笑)
俺は原爆の衝撃を思えば大袈裟とは思わないが、まあ、これからその真骨頂を見せてもらえそうだから、黙っていよう(笑)

>頭が真っ白になる

白という言葉の原義を辿ると、確か「素」だったと記憶しているが、そこから辿ると「頭が真っ白になる」というのは、元の状態に戻る、という意味で、PCのデリートみたいな状態なのかな、と思うがね。

[443] 諸葛孔明 2007/08/06 20:17

>>442
エゼキエルさん
ちょっと寝てました。m(__)m

これは自分で否定したのではなく、問いかけですね。自分の出した直感を否定する場合には、その理由も説明しますよ。(((^_^;)

原爆の光が人間にもたらす死は、確かに=の立派な根拠なんですが、肉感的な私の不快ではありません。
「光=死」は、「現代的かつ肉感的不快」である。神話や歴史を不問に臥す、極めて個人的感覚だな。ちょっと考えているが、分からない。(笑)

真っ白は確かに色だはな。いったんリセットされるってことなのかな。でも、真っ白は私には、「強い白光」のイメージもあってね。(笑)脳は光を受けると、あらゆる記憶が動かされる、つまり、記憶のラムやロムは、脳の一番主幹の仕事で、光のもたらす新たな情報というものを、無限に更新することには耐えられぬ、という意味で、人間の脳は光の照射を受けると、人格破綻すら来すのではないか、故に脳は光を直接受けない構造になっているのではないか、等と妄想を膨らましてみたが・・・。(笑)

[444] エゼキエル 2007/08/06 20:49

>>443
>諸葛亮先生
お疲れさん。仕事で疲れてるんだな。あまり無理しなくていいよ(笑)…と爺と罵った俺が言うか(^^;

否定したとは思ってないよ。大丈夫だよ。
肉感的不快、か。こればっかりは先生にしかわからないね。記憶を辿ってくれるのを待つか。

脳はどうなんだろうな。俺は医学者じゃないから、詳細はちょっとわからないが…少し調べてみるから、ちょっと待っててくれ。

[445] クサンチッペ 2007/08/06 21:07

期待しながらレスを全て読んだけど…わざと低さをてらってるのだろうか?言葉遊びにもなってない。哲学なんて言葉は使うべきではない。あまりにもお粗末すぎる。もう少し歯ごたえある人はいないのかな?

[446] 諸葛孔明 2007/08/06 21:07

>>444
エゼキエルさん
俗世のしがらみをここに持ち込んだりして悪かったな。(笑)しかしこの度の貴方の言動には、改めて感心しますよ。この掲示板でも、他人への落ち着いた心配りを感じるんだからな。たいしたもんです。貴方は。

[447] 諸葛孔明 2007/08/06 21:14

>>445
クサンチッペさん
期待しながら読んで戴いてすまんな。(笑)正当な哲学を目指しておられるあなた方の目には、この長老の戯言は、見るに耐えられぬかな。まだまだ貴方はお若いとお見受けしたが、宜しかったらこの年寄りに、クサンチッペさんの哲学をお聞かせ願おうかのう。(笑)

[448] 2007/08/06 21:20

>>447
(゚ーÅ){丁寧で,美しき

[449] 諸葛孔明 2007/08/06 21:30

>>448
彼さん
ご無沙汰じゃの。有り難うな。貴方の一言はありがたいな。

思うにこの掲示板には、色んな人間が来るものだ。クサンチッペさんみたいな感想ご批判も、掲示板活性化のためには、大事なことやからな。(笑)

落ち武者さんの名言通りじゃよ。理解を求めようとも、同調を求めちゃいかんな。

彼さん。人間は若いも年寄りも関係あらへんわ。優れた意見は、心に応えるものだ。それでええ言うことが、分かりましたね。彼さんのスレは、爆笑もんでな。(笑)

[450] エゼキエル 2007/08/06 21:41

>>446
>諸葛亮先生
しがらみ上等だよ。
感心されるようなことはしてねえよ(笑)

低いと思ったら、自分で高めりゃいいのにな(笑)
低いところなら入りやすいだろうにさ。
言葉遊びがお望みらしいから、あちらの側の人間さんなんだろうさ。

>>448
>彼さん
あんたの目はホントに真実を捉えるね。
その曇らない視線には敬意を表するよ。

[451] 諸葛孔明 2007/08/06 22:29

>>450
エゼキエルさん。その他の方々

風を言語である、と見たのに比べ、光は言語を拒絶してはいまいか。人間との暗黙の了解が、なかなか上手く取れない、それが光じゃないのかな。人間の言葉が馴染まない、それが光じゃあるまいか。

だから光を概念として扱うことは、パンにマーガリンをぬることとすれば、言葉を概念として扱うことは、パンに砂糖と蜂蜜とガムシロップをかけるようなことかな。言葉はあまりに人間そのものであり過ぎるから、それを概念として扱えば、注意しないとむつこくなるよね。

光は言葉を拒んでいる。言葉が人間の命である故に、言葉を拒んでいる光は、まさに死である。これだな。!!「光=死」の正体は・・・。

ただ「光が言葉を拒んでいる」ということに関しては、その根拠を示さないといけないな。

[452] 2007/08/06 22:42


>>449

掲示板活性化のために、大事なことですか。(笑)なかなか考えてますね〜^^

>理解を求めようとも、同調を求めちゃいかんな。

たしかに名言ですね(笑)なんか名言ぽい〜〜・・・・でも理解と同調って何が違うのだろう・・・理解は理解すること(笑)同調は合わせるだけってこと?;;
>彼さんのスレは、爆笑もんでな。(笑)

(^∀^☆){はは

>>449

掲示板活性化のために、大事なことですか。(笑)なかなか考えてますね〜^^

>理解を求めようとも、同調を求めちゃいかんな。

たしかに名言ですね(笑)なんか名言ぽい〜〜・・・・でも理解と同調って何が違うのだろう・・・理解は理解すること(笑)同調は合わせるだけってこと?;;
>彼さんのスレは、爆笑もんでな。(笑)

(^∀^☆){はは

>>450
いえいえ僕からしたらエゼキエルさんから学ぶこと多いので,こっちが尊敬してます(笑)

>>451
横レス失礼しました;;

[453] 2007/08/06 22:44

>>452
ちょっとミスったね;;

[454] 諸葛孔明 2007/08/06 23:02

>>453
彼さん
理解と同調の差は、苦労して考えることと、苦労しないで同じ言葉を見つけて喜ぶことの、温度差じゃないのかな。

私なんかも狡猾にやる手なんだけどね。相手に自分を「貴方の理解者だ」と思わせる方法としてね。相手の言葉を引用して、その言葉に感心してへりくだる、という態度を見せることがある。これは、相手の意見を理解したときも同調したときも、同様に使う態度だよ。同調か理解かを見分けるのは、以後の本人の言動しかないんだよな。(笑)
でも本当に理解した人というのは、簡単に告白したりはしないな。でも、いざというときに、彼さん!貴方見たいに、たった一言二言で、理解した相手を後押ししてくれるものだ。

[455] ゲスト 2007/08/06 23:32

>>454
>理解と同調の差は、苦労して考えることと、苦労しないで同じ言葉を見つけて喜ぶこと

同意。

苦労して考えて理解することは、
苦労して考えた反論と同レベルの上級なものである。

苦労しないで同じ言葉を見つけて喜ぶことは、
苦労しないで反対の言葉を見つけて批判することと
同レベルの安易で低劣なものである。

ということも言える。

[456] 諸葛孔明 2007/08/07 07:29

>>455
ゲストさん
風のように現れ、一陣の「涼」を与え、風のように去っていく。まるで戦国乱世の草(忍者)の投げる手裏剣のようだな。(笑)今後も宜しく頼む。

[457] エゼキエル 2007/08/07 08:12

>>451
>諸葛亮先生
光が言葉を拒んでいる、か。なかなか考えたね。
根拠の提示を待つとするか。

>理解と同調

俺は理解は相手の意見をまるのまま受け取ること、同調はその意見に賛成すること、と考えているな。
どんな意見もまず理解すること、その後に同調するかどうかは決める。

彼さんのいいところは理解度の高さだな。
純粋にその意見を受け止めるから素直な理解ができるんだろう。
羨ましいね。
尊敬する相手は選んだ方がいいよ(笑)俺はそれに価しない。理解度も低けりゃ直感もない。ただ愚鈍なだけだよ(笑)

相手が理解したのか同調しているだけなのかは確かにその後のレスを待つしかないかもしれない。まあ、俺は安易な同調を避けるために、こういう憎まれキャラでいるわけだが(笑)

[458] 諸葛孔明 2007/08/07 08:48

>>457
深い理解の後に、それに同調するかどうか、自分の態度を決めるってことだな。確かにそうだね。正しい同調の仕方はね。でも大方は、言葉尻りだけ捕まえて、同調したり批判したりする人が多いよね。

彼氏は納得の行かない言葉があると、納得行くまでこちらに追求してくる。彼さんの思考の純なところであり、言動に責任もっている証だろうな。

エゼキエルさん
光が言語を拒んでいる印象の理由として、光のもつ「直線性」と「即時性」があるんじゃないのかな。光を理解しようとする前に、もうそこに来ている(笑)

光の直線性と即時性が、言語の曖昧さを拒んでいると考えたら、光は死であるという直感の説明の一部にはなるね。

[459] エゼキエル 2007/08/07 09:11

>>458
>諸葛亮先生
言葉とは点描みたいなものだ。言葉の羅列が一つの像を結ぶ。その点描の一つだけを取り出して云々するから「理解」ができない。「理解」ができないから、同調も批判も論点がずれたものになる。言葉尻を捕えるってのはそういうことなんだろうな。

彼さんの素直さは学問の上では大きなメリットだよ。誰に対しても公平であることも評価されていい。感情に左右された理解ほど無意味なものはないからね。
感情に左右された意見というのは、何でだろう、常に両義的みたいなんだ。相手のことを非難しているようでいて、同時に、自分をも鞭打っている。先生の言う鏡の兵法というやつかもしれないね。

>光の直線性と即時性が、言語の曖昧さを拒んでいる

この考えを肯定するには、光と言語を同列に語れるか、についてまず議論する必要があるかもしれないね。

[460] 諸葛孔明 2007/08/07 09:31

>>459
エゼキエルさん。閲覧の皆さん。

点描きに例えるとは絶妙だね。(笑)そうだよ。言葉は羅列ではない。色んな幾何模様を描き、音楽だって奏でるんだ。

光と風とは、媒体としての共通点があるよね。媒体として、同じ議論の卓上に挙げれば良いと思うが。

しかし私は昨日、光が単なる媒体となり人間の道具となる旨を言った。

だか、ここで卓上に挙げるからには、人間の属物としての媒体ではなく、純粋に何かを運びうる媒体としての、主役の扱いでいきたいな。

[461] エゼキエル 2007/08/07 09:48

>>460
>諸葛亮先生
ああ、なるほどね。光と言語ではなく、光と言語=風、の図式なんだな。じゃあ、「光は死である」「風は言語である」というふうに書くか。でないと途中参加すると意味不明になる。
もっとも俺はまだ「風は言語である」には納得してないが(笑)
今一つすとんと来ないんだよなあ。
まあ、いいや。とりあえず今は光で行こう。

[462] 諸葛孔明 2007/08/07 10:18

>>461
エゼキエルさん。閲覧のみなさん。

すみません。私の言葉足らずでしたね。風と光という二つの媒体と書くべきでしたね。

風と光という二つの媒体を自由に論じて下さい。

エゼキエルさんは、風=言語に、今ひとつ納得が行かないとのこと。私は「風=言葉」についても、振り出しに戻って議論してもいいと思う。

私の直感は

「風=生」「光=死」「風=言葉」「光≠言葉」だね。

[463] 2007/08/07 10:32


(;∇;){なんか,過大評価していただきありがとうございます〜

ちょっと涙ものですね,笑
(TωT){そんなにでもないので,褒め殺しはいけないぞ〜

死んじゃうよ〜,俺〜^^;

[464] エゼキエル 2007/08/07 10:40

>>463
>彼さん
褒めてねえって(笑)本当のことを書いただけだよ。

[465] 諸葛孔明 2007/08/07 10:47

>>463
そうだよ彼氏!謙遜しなくていい。ありのままの褒め殺しだから(爆笑)

いや、(笑)ウソウソ!!

しかしエゼキエルさん。貴方は「風=言語」が腑に落ちない。何か理由言えれますか。?孔明は医術にも長けているから、エゼキエルさんの「腑」を診断して差し上げますよ。(笑)

[466] エゼキエル 2007/08/07 12:20

>>465
>彼さん
おう、堂々としてろ。
それは彼さんの当然受けるに価する評価だ。それ以上でもそれ以下でもねえ。俺は世辞は言わねえよ。

>諸葛亮先生
俺にとっちゃ、風の方が媒体という気がするんだね。
風には意味がない。意味を読み取るのは人間という主体でね。それ自体に意味がないものは言語とは呼ばないだろうという固定観念がある。
そして、風=死。魂を天に運ぶもの、だな。そこでもやはり風は媒体として存在する。媒体であるからこそ、疫病も運ぶ。だから、=死。
風葬という風習もある。

うーん、しかし、風習、風俗とも言うな。どちらもある方向性になびくものとして解釈すれば、そこに言語を見ることもできる、か?

[467] 諸葛孔明 2007/08/07 12:38

>>466
風=死か。(笑)
ここはどうやら真っ向対決だな。(笑)

風が言語である、というのは、私の強い実感でね。確かに貴方のおっしゃる死も運ぶ。でもあくまで死も運ぶ、という程度でしかない。風習というのも、風に習うんじゃなく、風と同じ性格の言葉に倣う、ということだね。風とは、口から発することが無くても、何となく伝わって来る言葉を、言うのかも知れないな。

[468] エゼキエル 2007/08/07 12:44

>>467
>諸葛亮先生
いや、まだ対決じゃねえよ(笑)
簡単に結論づけんな。まだ思考の途中だ。

言語が言葉にならないというのは理解できる。俺の中で言語は3種類存在する。便宜上、俺はそれを未言語・原言語・言語、と呼んでいる。未言語とは自分の中で沸いてきた思考だ。原言語はそれが自分だけに理解できる形に体系化したもの。言語とは他人に理解できる体系を持ったものだ。
先生の言う、風が運ぶ言語が未言語や原言語というのなら、理解できる。
現代で言えば、風聞がこれにあたるかもしれん。これも風がつく。

ただ、もし「あくまでも死も運ぶ、という程度でしかない」と考えるのなら、「あくまでも言語も運ぶ、という程度でしかない」と置き換えることも可能じゃないか?
そうなると、風と言語はイコールで結べない。風と死がイコールではないように。

[469] 諸葛孔明 2007/08/07 13:13

>>468
エゼキエルさん。
思考の途中だな。了解!

「風を未言語・原言語だと言うなら理解出来る」
そうだね。(笑)風が言葉である、という主張は、常識の枠外だからね。それ自体が語り手、聞き手の感性を要する主張だ。

ただ、風が死を運ぶ、という程度でしかない、というなら、風は言語も運ぶ、という程度でしかない(笑)成る程、そう切り返してきたか。(笑)

確かに風が何を運ぶかは、風の都合であって、人間の都合じゃない。そういう意味では、貴方の相対化は正しい。

だがエゼキエルさん!

私は勝手に風という媒体に言葉を観た。その観点は確かに、私の勝手かも知れない。しかし勝手と思い込んでいたものが、実は、人間に内蔵されている、歴史的な共有だとしたら、どうなるか。人類が「風=言葉」という思想を、未言語のままで暗黙の了解のうちに、今日まで伝承してきたのだとしたら、もう私の勝手では無くなるだろうね。つまり、風=言語というのは、相対化の出来ない、歴史的重みをもっていると思う。

風葬の意味するところの根本は、やっぱり生じゃないのかな。人間が死して魂を風とともに自由にして生きるという。違うかな。(笑)

[470] エゼキエル 2007/08/07 13:42

>>469
>諸葛亮先生
>人類が「風=言葉」という思想を、未言語のままで暗黙の了解のうちに、今日まで伝承してきたのだとしたら、もう私の勝手では無くなるだろうね。

だから、それを証明するために歴史的事例の引用が必要となるわけだ。それがあればいいのだが、今のところ見つかってないんだよな。

>風葬
風とともに生きるというのは最近流行りの「千の風になって」だな(笑)それも一つの考え方だと思うが、かなり最近の思想だね。
歌詞は確かアメリカかどっかの作者不詳の詩だったっけ。
風葬の方は魂が天に還る、という意味合いがあるらしいね。
うーん、そうだな、死=別の次元で生きる、としたらどうかな。
そうしたら、死=生ということも可能となる。

[471] 諸葛孔明 2007/08/07 14:23

>>470
歴史的事実があれば、間違いなく「風=言葉」は、歴史の定説の一つになっていたでしょうね。でもそこが未言語・原言語ゆえの悲しい宿命。この暗黙の了解は、歴史の表舞台に顔を出すことは無いでしょう。

[472] エゼキエル 2007/08/07 14:28

>>471
>諸葛亮先生
いやいやいや、顔を出すことはない、で終わったら、妄想なんだよ;;頑張って探さにゃ。
死=生が可能ならば、死=風=生ともなるわけだしね。まさに媒体。

[473] チーズ 2007/08/07 17:06

>>471
>>472
自分は見るものの心の在り方によって
 世界が現象がいかようにでも見えると思います。
 物心一如
 すべては見るもの百人百様
 光も風も火も水も言葉を獲得したときの古代人には
 畏敬の念があったのではないでしょうか?

[474] 諸葛孔明 2007/08/07 17:26

>>473
チーズさん

今、帰宅してから風に関する歴史的事実とやらを探しているんだけど、見つからなくてね。レスが進められなくて困っていたんだが、貴方のレスを見て閃いたよ。何をって・・・

「過去の歴史事実を探すんじゃなく、自分達が風=言語の歴史的証人になればいいんじゃないのか。!」ってね。

チーズさん!貴方のレス>>473 のお蔭だよ。!!凄いありがとうな。(^-^)v

[475] 諸葛孔明 2007/08/07 17:36

無謀な試みは百も承知だが、チーズさんのレスで覚悟できたよ。何も難しいことしなくていいんだよ。昔の人間が考えたであろうことを、自分達も一緒になって考え議論して行けばいいのだ。!明瞭な事じゃないか。!

チーズさんの言うように考え、議論すればいいんだよ。自分達が証人になればいい。自分達が歴史の事実になれば、こんな面白いこと無いのじゃないか。!!

チーズさん!!貴方の何気ない一言は、飛んでもない飛躍への入り口を暗示してくれるな。ありがとう(^.^)(-.-)(__)マジで驚いたよ。

[476] チーズ 2007/08/07 17:51

>>474
諸葛孔明さんの反論を期待していましたが。
 今は風が何故人気があるのでしょう?
反論してくれないと肩透かしですよぉ・・

[477] 諸葛孔明 2007/08/07 18:09

>>476
チーズさん(笑)
それは申し訳無かった。

今、風が人気があるというより、スレ主である私が、風とは言葉である!という洞察にこだわったのだよ。だが、エゼキエルさんは「風=言葉・言語」という私の洞察に対して、成る程!と膝を打つような得心が行かないのだという。

でも、チーズさんが「水でも火でも、古代の人は畏敬の念を抱いた」の言葉で、閃いたよ。

でね、チーズさん。これは反論と言うより、貴方にお尋ねするのだが、古代人が抱いた畏敬って、未知ゆえの恐怖と興味だったのだと思うんだけど、これは、「火」も「水」も「風」も「光」も、どれも同等に神に匹敵する畏敬の対象だったのかな、それとも、火と水は怖かったが、風と光はそうでも無かったという、格差みたいなものが、あったのかな。

[478] チーズ 2007/08/07 18:46

>>477
諸葛孔明さん
 たぶん風さんは、植物の種を運んでくれたりする感覚でしょう。
 風鈴が風の心地よさを知らせてくれたりとかでしょう。

 古代人が火をおこす術を憶え、水を貯める習慣になり
 一日中光を用い、風を起こして今に至ります。

 怖がって逃げ回る人々だけでなく、恐怖に打ち勝ち智恵を絞った
 古代人の何パーセントの人々の遺伝子が今科学者の中にあると
 思えませんか?

[479] 諸葛孔明 2007/08/07 19:18

>>478
チーズさん
「恐怖に打ち勝ち知恵を絞った古代人の何パーセントの人々の遺伝子が、今の科学者の中にもあると思えませんか。」

成る程ね。あるでしょうね。実際科学の発展は、極一部の科学者の叡知だろうからね。そしてその叡知を信じた当世の人々が頑張ったから、科学は火や水や光や風の恐怖に打ち勝った、と言える。

じゃあチーズさん。こうも言えない。古代人の畏敬とは、それを克服して科学となった、故に、火や水に対する「古代人の畏敬とは、科学に克服されるためにあった」てことに、なりはしない。?

[480] チーズ 2007/08/07 20:11

>>479
 諸葛孔明さんレス有難うございます。

人間は自分一人さえ思い通りに出来なくて
 どうして社会や自然をコントロールできるでしょう。
 克服してきたのではなく暴走してきたと・・
 あえて反論してみました(笑)

[481] 諸葛孔明 2007/08/07 20:26

>>480
チーズさん
克服したのではなく、暴走した。?(笑)科学が?(笑)
恐れに対する反動としての、暴走ってことなのかな。

[482] チーズ 2007/08/07 20:30

>>481
何も原爆を作らなくても良かっただろうにと
 悔やまれてなりません。

[483] 諸葛孔明 2007/08/07 20:41

>>482
チーズさん
そうだな。原爆はまさに、科学の暴走だな。火や水や風や光に対する畏れの反動としての、人間の敵愾心とか猜疑心が、ああいうものを発明した。

戦争というものも詰まるところ、相手を殺さなければ自分が殺される、という猜疑心と被害妄想の塊なんだろうね。

いやいやこれは哲学ではないか。(笑)

[484] チーズ 2007/08/07 20:56

>>483
人間の欲望が悪と手を組むと
 限りなく負の方向へ進んで行ってしまいます。

 

[485] 諸葛孔明 2007/08/07 21:08

>>484
チーズさん
「人間の欲望が悪と手を組むと限りなく負の方に進む」

確かにそのとうりだ。しかしチーズさん。科学の発展に、もともと悪意は無かったと思うよ。人間の欲望は多次元なんだな、本来。多次元な欲望を、この三次元空間で満たそうとすると、どうしても羽目を外さなければならなくなる。

つまり、人間の欲望自体は、決して悪とは手を組まない。ただ「限りない」という一点に、悪魔が棲むんだろうね。

[486] チーズ 2007/08/07 21:13

>>485
朝は早いのでこれくらいにしておきます・・

 諸葛孔明さんのレスは、考える所があります。

[487] エゼキエル 2007/08/07 21:22

>>477
>諸葛亮先生
>火と水は怖かったが、風と光はそうでも無かったという、格差みたいなものが、あったのかな。

だから、それは最初に戻る、だよ。風の神はかつて非常に恐れられていた。それが神話での風の神の地位の高さに反映されている、って。

>自分達が歴史の事実になれば、こんな面白いこと無いのじゃないか。!!

だから、まさに証人となっているだろ。「千の風になって」はまさにそういう新しい価値観を生み出している。
とだけレスっておくか。

[488] ゲスト 2007/08/08 20:09

例のスレが終了したのでこちらに。
スレが終了するまえに言いたかった事を。

「孔明氏。私は貴方の主張に同意するところが
いくつかあったので、貴方の議論が成功することを願っている。
だから少し批判がましいことを言うが、真摯に受け止めて欲しい。

>>230 -のsunsar氏とのやりとりはちょっといただけない。
sunsar氏が誤読していたことを認めるか否かをやりあっても不毛。
そんなことよりもっと大切な主張をするべきだったのではないか。
貴方の本意は>>169 ->>188 であるはずなのだが、
なぜそれを本人にぶつけないのか。問い詰めないのか。」

以上が言いたかったことだが、
確かに全く哲学的ではないsunsar氏に哲学的な何かを
期待しても無駄であるという判断は正しいだろう。

>>0 で「このスレでは、内容に踏み込んだ貴方との
議論をしたい」とあるが、そもそもそれは無理というものだ。
sunsar氏の主張には内容がない。
反論のしっかりとした土台と成るべきsunsar氏の主張が
全然哲学ではないからだ。

スレを終了させた事は懸命かもしれない。

[489] sunsar 2007/08/08 20:14

僕にはウィトゲンシュタインのパラドックスが哲学的でないようにはとても思えませんがね。

[490] 諸葛孔明 2007/08/08 20:41

>>488
ゲストさん!ありがとう。貴方のご批判ごもっとも!私も後で読み返して、自分が本当に情けなかったよ。だから、もうこのスレを終わらせたいと思った。

貴方のその言葉は、今の私にはありがたい。有り難くて、それ以上に言葉がない。ゲストさん。これからも頼む。

[491] keita 2007/08/08 21:10

>>488-489
一部の人々にとって「哲学」という言葉は、実は哲学を意味している訳ではない
のだと思うようになった。このカテの名称にある「哲学」も、しかり。

哲学と彼らの「哲学」との関係は、数学と教育における「数学」との関係によく似ている。
数学志望でも数奇者でもない多くの大学生は、「数学」の名の下に、20歳を過ぎても
読み書き算盤の延長としての計算技術を教わる。だが、そこで教わるものは、
(歴史を通じて多くの先人が数学を行った結果として生み出された何か)でこそあれ、
教わったものを運用して、積分が求積できるかとか、微分方程式が解けるかとか、
そういった観点で行われる「数学」は、およそ数学とは縁遠く、
むしろ実態に即して「算数」と呼ぶべきものである。

自分の「信条」や生活上の「こだわり」を「哲学」と呼んでしまう人は少なくない。
特に、それが哲学や思想史の学習を通じて形成された「こだわり」である場合には、
哲学と「哲学」を区別することが困難なことも考えられる。
しかし、数学の例と同様に、哲学においても、哲学する行為と
(歴史を通じて多くの先人が哲学を行った結果として生み出された思想)を運用して
自己の置かれた社会状況に当てはめてみる行為とは、本来区別されるべきものだろう。

まづ、「哲学」を定義するところからだね。

[492] ゲスト 2007/08/08 21:13

>>489
哲学者の議論「について」語ることが哲学なのではない。
哲学者や議論相手の議論内容や反論内容を理解し、分析し、
自分の頭で組み立て、組み立てたものを
自分の言葉で論理立てて説明する、
そういった一連の作業を地道に繰り返していく。それが哲学だ。

ヴィトゲンシュタインの議論を自分の発言内容に入れたから
すなわち哲学的な内容を持っているとでも思っているなら
勘違いも甚だしい。

>>490
名前のとおり「ゲスト」なので、頻繁には来れないが、
こちらこそ宜しく申し上げる。

[493] ゲスト 2007/08/08 21:36

>>491
哲学者の議論「について」語ることが哲学なのではない
という理屈は容易に納得してもらえることと思う。

バッハの作品について語ることが作曲ではないのと同じことだ。
作曲せずに作品について語っているだけの人を
作曲家とか作曲しているとは言わない。

[494] sunsar 2007/08/08 21:46

僕はウィトゲンシュタインのパラドックスをただちに主張していたわけではありませんし、
実際その名称を知ったのは最近のことです。
要は、帰納的でかつ無矛盾な帰結はいくらでも構成できるというところに本質があります。

これは、別にそういう事実を適用したものではなくて、
考察によって得られる帰結ですが。

[495] エゼキエル 2007/08/08 22:24

>>491
>keita氏
微分積分は算数の範疇ではないのだが。正確には算数は小学校までの習得科目で、中学からは数学と呼ばれるのだが。ちっとも実態に即していない言語を振り回されてもな。広辞苑を引けばわかるが、「算数」とは小学校の教科名、もしくは計算、数えることを言う。
哲学の定義も適当だな。

>自分の「信条」や生活上の「こだわり」を「哲学」と呼んでしまう人は少なくない。

少なくない、じゃなくて、それも哲学と呼ぶのだが。広辞苑にもちゃんと書いてあるのだが。人生哲学、といった用例を引いて。
つまりkeita氏は広義の哲学と狭義の哲学を区別せよ、と主張したいようなのだが。
哲学の定義云々の前に、日本語の習得が先のようだな。

>>492-493
>ゲスト氏
同意。
sunsar氏は数学を専門とする学生であるから、哲学については全くの門外漢であり、彼が「哲学」と称するものは、keita氏の言う、自分の信条やこだわりというものなのであろうと思う。

彼の主張の危ういところは自分の主張と過去の哲人の主張を同列に並べる点にある。過去の哲人がこう評価されているのだから、自分も同様に評価されるべきだという主張が多い。
それもまた彼のこだわりであろうから、哲学と呼ぶことはやぶさかではないが。
彼の過去の発言より、おそらく彼にとって作品について語ることも、作曲している、と呼ぶのだろうと思われる。

[496] ゲスト 2007/08/09 02:23

学問の哲学カテで哲学したいと言うのであれば、
学問としての哲学では何を以って「哲学」というか
どんなやりとりを「議論」というかは知っておくべきである。

哲学で何かを正しいとして主張する時は、
その論が正しいことの論証を必ずしなければならない。

また、そのうえで、
その論に対する反論が正しくないことをも
論証しなければならない。

この両方を論理的に矛盾なく整えていく作業が
『哲学的議論』と呼ばれるものである。

そのような作業をする人を
『哲学的な人、哲学している人』というのである。

sunsar氏は哲学としての最も大切な要素を
両方とも放棄してしまっている。

そこが問題であるというのが孔明氏の主旨だと私は思っている。

>>495
エゼキエル氏。

孔明氏は、sunsar氏を学問的哲学をやりたがっている人と見て、
助言を与えたがっているのだとみたのだが、どうだろう。

数学と哲学の思考の仕方には非常に似通ったものがあるので
数学ができるなら哲学もできるだろうと期待されているのだと思う。

[497] 諸葛孔明 2007/08/09 05:33

>>496
ゲストさん
ちょっとだけ違うな。(笑)少し私を買いかぶりなされてますか。?(爆笑)実は私はヘラクレイトス見たいなところがある。エゼキエルさんや貴方見たいに、論理的考察をする方への憧れは物凄くある。所謂哲学のど素人なんだよ。(笑)

ゲストさん。貴方の言われた「哲学の本道」は、誠にそのとおりで、その通りと思いながら、私には弁慶の泣き所なんだ。体質的に論理が合わない、しかし、そんな自分と格闘しているだけなんだ。志は聖にして、言動は凡夫にも劣るんだ。

sunsarさんの哲学を、残念ながら、哲学と思わない。あの方には哲学に対する敬意に欠けていると感じる。しかし、哲学素人の私が彼に助言というのもおかしな話しだと思うし、sunsarさんと議論するなかで、人間としてともに成長して行けたらいいかな、という気持ちでレスしている。

だから、ゲストさん。私は貴方に期待されるほどの、議論はまだまだ出来ないかも、と申し上げて起きましょう。(笑)

[498] エゼキエル 2007/08/09 07:30

>>496
>ゲストさん
あなたの哲学の定義は胃の腑にすとんと落ちる。
そう俺も理解してきたし、哲学カテ利用者の多くがそのように理解していると思う。
その当たり前のことが、何故か、sunsar氏とその周囲の人間には理解されない。
哲学において「明らかであることはない」という主張など基本中の基本で、それを踏み越えて先へ行くのである。全てに「明らかではない」ことが存在することは「明らか」であるから、そのことは無視される事項であることを理解しなければならない。
言語とは差異である。そこに異なる事象を見出し、それに言語が与えられる。哲学における「明らか」とは全てに存在する「明らかではない」ことの上に「明らか」であると認められることに与えられる表現である。
そのことに彼らは気づかない。何故なら、彼らは哲学していないからだ。
そこに拘泥することは思考の停止を意味することをこれから彼らは知るのだろうと思う。彼らの若さに俺はまだ期待している。

孔明さんの立場の理解はゲストさんの指摘であっているだろうと思う。本人は卑下しているが、そんなのは知ったこっちゃねえ。
孔明さんもまた彼らに期待しているのだと思う。
少々気短過ぎるがね。もう少し気長にやらないと、単に揚げ足を取られるだけだ。

>>497
>諸葛亮先生
体質に合わないなどと言ってないで、論理的思考を身につけやがれ。
哲学やるには避けて通れない。論理を振りかざす奴の相手をするには、同じ技術を身につける必要はあることくらい、先生ならわかるだろう。俺は論理は単にテクニックの問題だと思っている。だから修練で身につくものだ。繰り返しているうちに身についてくる。
論理的思考が身につけば、もっと先へ行ける。
先の風景を見たくないか?哲学はもっと面白いぞ。
あんたもまだまだ若い。老け込むには早すぎる。

[499] 未完 2007/08/09 08:19

おはようございます。
エゼキエルさん、孔明さん、ゲストさん、sunsarさん、keitaさん。
私も、少なからず影響を受け、反応し、影響をあたえ、共に、このスレに出会えていることを光栄に思います。
有難う!(゚_゚)(。_。)
自分の考えのいたらなさを又つくづく思い知らされました。

また、いいアイデアが浮かんだら、お邪魔します。

黙して辞さず。
では、また。(^^)

[500] 未完 2007/08/09 08:22

ゲットー
しとこ。

[501] エゼキエル 2007/08/09 15:37

>>500
>未完さん
キリ番ゲトおめでとう(笑)

こちらこそだよ。
いつもいい刺激になっている。未完さんの直感と哲学には感謝している。

[502] チーズ 2007/08/09 19:28

影のない光の空間を美術館で見ました。
光だけの密室ですが・・

[503] 諸葛孔明 2007/08/09 22:09

>>502
そういえば、光を題材にした画家がいたよね。名前は忘れたが。画家なんかが感じる光って、凄い強烈なテーマじゃないのかな。

だって、色の三原則が(黄色、赤、青)のに比べ、光の三原則が(青、赤、緑)だからね。ある一つの色を再現する場合でも、色と光では、成分も配合も違う。そんななかで、あの絵の具で光を再現しようとするのだからね。

[504] エゼキエル 2007/08/09 22:49

>>503
>諸葛亮先生
光を題材にしたというと印象派か?それともラトゥールかな?
俺は餓鬼の頃、スケッチで光を描きたくて白を多用し、よけいに絵がくすんで戸惑ったことが何度もある(笑)学習能力がなかったんだな(笑)

[505] 諸葛孔明 2007/08/09 22:57

>>504 (爆笑)

エゼキエルさん。光を描くというのは、著名な画家でも永遠のテーマだった見たいですよ。印象派・・・確かルノアールだったか。

しかし、絵を生かすも殺すも、光が最大のテーマだというのは、誠に幽玄ですよね。

[506] エゼキエル 2007/08/09 23:06

>>505
>諸葛亮先生
俺は餓鬼の頃モネが好きで、モネみたいな絵が描きたかったんだよ(笑)餓鬼ってのは恐ろしいね;;
絵を見ると白を使ってあるから、水彩画でも白を使えば光が描けると思ったんだね。
油絵と水彩画の区別もついてなかったんだな。
スラーに憧れて点描にチャレンジしたこともある(笑)で、図工の時間内に描き終わらずにタイムアウトってこともあった;;

って、雑談になっちまってるな。すまん;;

[507] 諸葛孔明 2007/08/09 23:16

>>506
いやいやエゼキエルさん。なかなか面白い雑談ですよ。

その白っていう色は、すごく曲者じゃないですか。画用紙の白地も白だけど、子供心ながらに、白を着色することに対する嫌悪みたいなもの、ありましたね。

詳しくは分からないが、光というものは、画家にとっては、色の遠近法なんだな。どの当たりから色を明るく、あるいは白くしていくかで、光を表現していた。

画家には「光=影」が、ものすごい微妙な確信だったと思う。自分で絵を描いてみて、そう思うし。

[508] エゼキエル 2007/08/09 23:26

>>507
>諸葛亮先生
油絵はね、絵の具同士が勝手に混ざることはないから、キャンパスの上で白は白のままで光を演出できるんだよ。それを水彩画でやったら最後、滲んでくすんで光どころか曇り空になっちまうんだよな;;
せめて画用紙が乾くまで待てばいいのに、その理屈が餓鬼にはわからなかったんだね。
白は混ぜちゃいけないんだよ。赤はピンクになるし、青は水色になって、ぼやけた色になるからよけいに光は感じられなくなってしまうんだよな。

[509] 諸葛孔明 2007/08/09 23:33

>>508
エゼキエルさん(笑)
白は難しいんだね。
でもあれ?油絵では色同士では混ざらないの?だから油絵っていうのかな?

[510] エゼキエル 2007/08/09 23:38

>>509
>諸葛亮先生
いやいや、混ざるんだけど、油絵は水彩画のようには塗った上から塗っても滲まないだろう?だから油絵は重ね塗りができるんだろ。
絵の具の重なり具合も臨場感に繋がるから油絵は一度やってみたかったんだよな。結局、一度もしたことないんだよ。

光を絵画に取り入れようとしたのは印象派が最初ってことになるのかね。
印象派ってのは、ジャパネスクの影響は受けているんだっけな。
記憶曖昧だが。

[511] 諸葛孔明 2007/08/10 00:06

>>510
エゼキエルさん。ジャパネスク?

[512] エゼキエル 2007/08/10 00:13

>>511
>諸葛亮先生
…ジャポニズム、だよ…間違えてる俺;;

[513] 諸葛孔明 2007/08/10 19:49

今日も暑かった。光も感じなかったよ。本当に画家は光をどう感じているのかな。焼き付くような光と、涼しい風、この二つの媒体が、何を運んで来てくれたのかな。喉の乾きとぼんやりとした脳髄。光よりも風よりも、ビールが飲みたいという哲学。

そして、ビールと麦茶をがぶ飲みして、この掲示板に向かう無上の喜び。

一体光はいつ死神の顔をだすか。「光=死」私はやはり、この命題を、現代から受けたと思うが、原爆とか溶接機の光とか、そんな理由からではない、もっともっと本能に根差したもののような気がしてならない。

何だろう。この「光=死」の直感にまといつく荘厳さは。一杯のビールより、2リットルの麦茶よりも、私の乾きを潤す「光=死」の直感!!今日はとことんこだわって見るか。・・・

[514] エゼキエル 2007/08/10 23:36

>>513
>諸葛亮先生
何かこだわりの中から見えてきたかね?

[515] 諸葛孔明 2007/08/11 03:45

>>514
いや、こだわりの果てに、眠りが訪れた。(爆笑)
エゼキエルさん。私は思うが、直感も論理も、本当は弱く見えにくい、「蜘蛛の糸」見たいなものじゃないのかな。芥川龍之介の小説じゃないけど、皆が一様に辿ろうとすると、音も無く切れて仕舞いそうな、そんな代物じゃないだろうか。

私は貴方が指摘される通り、短気だよ。でも、この真理を焦る「短気さ」というものを、独創性の宝庫に到る「天与の特権」だと得手勝手に受け止めている私にとって、光と風からビールが飲みたいという卑劣な哲学を得ることも、美しく弱い目に見えない邂逅なのかも知れないな。(笑)何にも浮かばないから、また妄言を書いているが・・・。

[516] エゼキエル 2007/08/11 07:16

>>515
>諸葛亮先生
それでいいんじゃね?余人はいざ知らず俺はそれでもいいと思うよ。
俺は先生が心底短気とは思ってないよ。表面的に短気なんだよ。でなければ、一人の論者と向き合うことを選択するわけがねえ。心底短気なのは俺の方だね。すぐに結論づけて終わりにしちまうからな。
ただ、表面だけの短気が、俺みたく心底短気な奴と一緒に見られちまうのはもったいないだろ?天与の特権は生かし、蓄え、養ってこそ真価を発揮するんだよ。
ビールが飲みたいという哲学は人生哲学というやつだ(笑)
だが、その現象を論理的に考察すれば、ビールを飲むという行為から得られる「快」に辿り着くことを知ることも可能だ。
このカテにあって具体物は抽象に比べ、低く見られがちだが、それは具体物の彼方にある論理を見抜けぬ奴が間抜けなのさ。
妄言と思うよしなしごとの向こう側へ行け。
そのためには論理が要る。
論理を駆使して、その向こう側へ渡ってこその哲学だろう。

[517] 諸葛孔明 2007/08/11 18:22

>>516
エゼキエルさん
つまり光と風とビールの論理的共有点を論じればいいのだな。任せてくれ。(笑)エンゼルパイの定理より簡単明瞭だよ。

光は私に死を予感させる。いわば現代において光は、恵みではなく余剰物である。風は光と違い、余剰になることはなく、絶えず人間の親しい言語である。古代のままの風と、余剰物にまで進化した光の間に挟まれた人間は、底知れない心の乾きを覚えるのだ。

光と風、つまり、現代と古代の媒体の狭間にいる人間の乾きというものを、たった一杯のビールの苦味が、潤してくれる。

このビールは、喉の乾きを癒すのではない。光と風、死と生、現代と古代の狭間の葛藤を癒す、中庸の哲学と言えようか。

ビールの冷たさと苦味は、中庸の思想の核と言えよう。冷たさは人間を冷静にし、苦味は人間を謹慎にさせる。己れの思考停止に歯止めをかけるビールは、光と風による人間の疲弊ある故となろうか。

また新たな考察があれば、レスをします・・・っていうか、何じゃこれは?(笑)

[518] 諸葛孔明 2007/08/11 21:21

サーバーの状態が善くなかったせいか、接続エラーになっていた。(>_<)

私はふざけて>>517 を書いて見たが、なかなか面白い。風が極めて古典的な媒体、光が極めて現代的かつ飽和的な媒体であることの落差の中点に「ビールの中庸」を説いた。

照りつける光の暑さと僅かにそれをなだめる一陣の風・・・・・・その落差を受け止めるのに消耗する体力と精神力・・・・・。

恐らく、「暑さにまいる」ということの哲学的実情は、人間の言葉を拒む光に対して、人間が何かを必死で訴え、光とのコミュニケーションを図ろうとする、不毛の努力を言うのだろう。努力が不毛であればあるほど、人間は体力を消耗する。

その時であろう。風を感じるのは。コミュニケーションの取れない光のなかで、人間は言葉に餓える。その餓えが風を呼ぶ。風を感じるとき、光と暑さの意味が、少しだけ和らぐ。

そうだ。喉を潤すビールは、決して、本当の乾きを癒さない。ただ、喉ごしの良い「冷たさ」と「苦味」が、一時的に「光の死神」に出会った体験の厳しさを、忘れさせてくれるだけだ。

人間は中庸を得たからといって、中庸を長く保持することは出来ない。得ては失い、失いては得る、その繰り返しこそが、中庸の醍醐味であり、人間の深淵でもあろう。

恰かもビールの喉ごしを、長く楽しむことが出来ないように、中庸もまた、一時の邂逅の悦楽に他ならない。

[519] 諸葛孔明 2007/08/11 21:38

何だか私の独り言レスだな。悪い悪い。だが、直感は熱いうちに書かないと・・・(笑)

エゼキエル氏が何故、「風は媒体」は納得出来るが、「光は媒体」というのが、胸にストンと来ない、と言われたか。

それは、こうではないか。風は古典的な媒体であり、国によって、その様子が違うことからも、極めて国民性を含んだ媒体なのだ。神話を愛する氏にとりて、風というものの、日本的かつ古典的な匂いというものが、何よりも親しいのであろう。

風が言語であるということに、ふくろう氏が興味を示されたのも、本当は氏が、哲学の日本的かつ古典的な匂いというものを、真底愛し、その対比としての西洋哲学に傾倒したからに、他ならない。ふくろう氏は日本人であることの謎を解き明かしたい一心で、西洋の哲学を選んだ。

私はエゼキエル氏もふくろう氏も、日本語に対する強い情景、嫉妬にも酷似した美しい情景があるのを、強烈に感じる。

[520] エゼキエル 2007/08/11 22:57

>諸葛亮先生
いろいろ考えたね(笑)
残念ながら光=熱、じゃないあたりが少しずれてるな。
光がなくても日本の夏は暑いんだよ(笑)

光と風を人間がコントロール下に置いた、という考察はうなずける。そして、風の無力化にはある程度、成功したが、光に関してはコントロールに失敗したといったところか。

ただ、俺は哲学する時、国民性は考慮しない。
風に日本的なものを見ることはない。そこは分けて考えているよ。

[521] チーズ 2007/08/12 15:50

>>519
>>520
日本人らしい人は哲学版にはいないような気がします。

[522] エゼキエル 2007/08/12 16:24

>>521
>チーズさん
哲学という言葉自体、まだ日本語になじんでないきらいはあるよな。

[523] チーズ 2007/08/12 17:04

>>522
哲学書は翻訳した時点で間違いです。
 かといって原書で読むとなると・・
 膨大な原書を読めません。

 例えばニーチェの超人は平凡な善良な人々を罵倒し
 道徳を無視していて耐えられません。
 哲学や学問がこのような暴君ばかりでないと信じたいです。

[524] 諸葛孔明 2007/08/12 17:47

>>523
チーズさん。ニーチェは難解ですか。哲学を否定する哲学者の言葉は、貴方には耐えられませんか。(笑)

>>522
エゼキエルさん
私の推論はまだ妄語の域ですよ。(爆笑)
しかし、妄語妄想を冷静に繰り返すことで、妄想では収まらない美しい論理が現れるのを、一日千秋の想いで待ってる人間ですわ。孔明流哲学です。

それと、貴方が日本を意識しなくても、日本が貴方を意識してる見たいだよ。エゼキエルさん。貴方は今の日本人が忘れてしまった、古武士の気骨を、哲学の中に取り戻そうとしている異端児ですよ。だから、志は聖にして、言動は匹夫以下です。(笑)私の言葉の裏、貴方なら分かりますよね。

[525] チーズ 2007/08/12 19:01

>>524
諸葛孔明さん
 自分には、力を振りかざし踏みにじる人は耐えられません。
 正しい認識を妨げるイドラには光をあててほしいと思います。

[526] 諸葛孔明 2007/08/12 19:09

>>525
チーズさん
私は実ははっきりとニーチェを読んだことは無いのですが(笑)、何となく貴方は他人の言葉の裏を見ていないような気がしますよ。

[527] チーズ 2007/08/12 19:18

>>526
裏というよりも
 物事の全体を把握していないのだと思います。
 自分には表も裏もないので・・

[528] エゼキエル 2007/08/12 19:28

>>525
>諸葛亮先生
確かにな(笑)俺の意識しない俺の輪郭がそう見えるのなら、それはそれで否定しないよ。謹んで有難くお受けする(笑)
俺のスタンスは日本的かもしれないが、俺の哲学は対外的に日本を理解させるものとして構築しているつもりだ。

[529] 諸葛孔明 2007/08/12 20:35

>>527
チーズさん。裏を読めないのではなく、全体を把握していない。?成る程ね。でもときどき貴方の突っ込みにドキリとさせられるから、なかなか油断は出来ないな。チーズさんは曲者だよ。(笑)

>>528
エゼキエルさん
毎日根気よく妄言にレスして戴いてありがとう。

真面目に「光」=「死」の論証を考えてはいるのだが・・・・・・。断片なことしか想い浮かばない。現実と毎日の暑さに忙殺されているからかな。哲学をしているというより、何かを書かなければという気持ちになっているのだろうな。他人の思考停止は指摘するとも、自分の思考停止は理解しない。これが私なんだな。

で、光っていつから人間の異物になったのかな。いや、何から考えればよいのか。エゼキエルさん。このレスにはレスしないでくれ(笑)私は哲学する対象物を失い、瓢箪から出てくる駒の呪文を書いている。

光って本当に恵みなのか?本当に死なのか?単なる直感の余剰物でしかないのか?

[530] チーズ 2007/08/12 20:54

>>529
自分は曲者?(笑)
 自分はいつも人の思いと予想の遥か外にいますから・・
 諸葛孔明さんにとって哲学することは何ですか?

[531] エゼキエル 2007/08/12 23:39

>>529
>諸葛亮先生
明日からちょっくら里の方へ行ってくるからレスできんけど、暇だったらまた妄言(笑)書いといてくれよ。
自分の思考停止は理解しない、とわかっているなら、改めることができる。わかっていて改めないのが本当の思考停止だよ。

>>530
>チーズさん
俺にとっちゃチーズさんは想定内だけどな(笑)
ミクロに物事を見つけてくるよね。

[532] 諸葛孔明 2007/08/13 12:52

>>531
エゼキエルさん。
ゆっくりとお里帰りしてください。

元、公儀介錯人拝一刀。

彼には風は生であり、風は血である。この男には、死の美意識などない。名刀『どうたぬき』は、ひたすら人を斬り、敵の刀を斬るためにある。

大五郎は待ってる。腹がへっても、父を待っている。父をひたすら。

風が聞こえるのだ。大五郎には。だから、父の馬の蹄の音が。

光は無力である。風は力である。拝一刀がそのことを教えてくれた。風は命であり言葉であり血であり、そして力である。光は紛れもなく、無力である。論証は、馬の蹄である。

風は馬の蹄の音を運ぶが、光は音を運ぶことが出来ない。

[533] 諸葛孔明 2007/08/13 17:43

 風が音を運ぶのに、光が音を運ばないのは何故か。

風は空気の振動であり、音も存在と存在の触れ合う振動である。性質が同じだから、風は音を運ぶのであろう。

光は空気を振動ささない。光はもっと高い次元から生まれいづる存在だ。電力や火力による光は、確かに科学の副産物だろが、これも元を正せば、太陽の光からの発想と応用である。光は存在と存在が触れ合うことによって生まれる存在ではなく、光・・・それ自体が独立した存在と言える。

風が存在の依存に起因するのに比して、光はそれ自体が独立して存在している。風が極めて古典性を維持・継承したのに、光は「アニミズム的な恵み」の域を脱し、進化につぐ進化を遂げた。独立した光は、その強い明確なアイデンティティーのもとに、人間の従にもなり主にもなった。(笑)

突然だが私は、スレタイの「自由」に戻る。自由な議題で議論することが主旨だから、風や光にこだわる必要はない。

今の哲学カテには、ちょっと活気がないな。意見が断片的になりつつあるな。sunsar氏と議論していた頃には、もっと人が集まった。いや、哲学カテ自体が、もともとこういう静かさだったのだろうか。

[534] チーズ 2007/08/13 18:05

>>533
sunsarさんに余計なことをしてすみませんでした。
 実はちょっぴり数学(sunsarさんでなく)が好きだったんです。(笑)
 論理しいうものが如何に噛み合わないのか解りました。

[535] 葉隠武士(亡霊) 2007/08/13 18:20

哲学における自由な論議とは何であろうか。

 この掲示板に集まる人間は、当然に互いの素性を知らぬ。リアルな世界では、殆んど語られる機縁もないであろう言葉や論理を駆使して、哲学の妙味をあやつる。一体人間とは、どこまでも未知で謎めいた暗愚を抱えて、それでも他人との関わりを渇望するものか。

新しいスレタイが続々登場したり、古く眠っていたスレに書き込みしたり、全くリアルの世界と変わらないんだな。(笑)

哲学の自由な議論とは、人格同士の、ちょっと不自由な切磋琢磨を抜きにしてはあり得ない。人格の触れ合いがない哲学の議論は、不毛であろう。ちょっと関わりたい人が、このカテに単発書き込みをしてくる。
そもそも日本人には哲学議論というものに、慣れていないのかな。(笑)

長老諸葛孔明殿。!!ご貴殿はもっとこのカテを啓発すべきではないのか。万事において、少し慎重過ぎるぞ。その慎重さ故に、ご自分の暴走に迂濶なところも、しばしば見受けられるぞ。!!ご貴殿の実力は、そういうものではないはずと思うがな。エゼキエル殿やYotan殿を、もっと上手く使われてはいかがかな。

[536] 葉隠武士(亡霊) 2007/08/13 18:40

>>534
おうチーズさん(笑)はじめまして。葉隠武士でござる。貴方のご意見は、拙者も天界より拝見いたしておる。貴方はお若いし、面白い方ですな。(笑)sunsarさんへのご自身の態度を反省なされておられるが、ご無用(笑)

若いうちは、自らを省みず、とことん突っ走りなされ、とだけ申し上げておこうな、では拙者、長居無用にて帰依つかまつる。

[537] 2007/08/13 19:15

あなたに合掌

[538] チーズ 2007/08/13 19:17

>>536
シェイクスピアの小説はよく亡霊が出てきますが・・
 葉隠武士さまがお亡くなりになられた経緯が謎です。
 帰依された世界は光に包まれていますか?

[539] 諸葛孔明 2007/08/13 19:42

>>538

チーズさん。
葉隠武士殿は、私なんですよ。(笑)だが、ハンネを変えることで、ある魂の試みを変えようと心に誓ったのであります。粋な心意気でしょ(笑)と思うのは、私だけか(笑)

[540] チーズ 2007/08/13 20:14

>>539
死ぬ時の名前が真の名前なら
ほんとうの名前とは?

 戒名や法名は何故自分で考えないのでしょうね?
名付けるとはどういう行為でしょう。(軌道修正)

[541] 諸葛孔明 2007/08/13 20:23

>>540
戒名を生前から考える人も結構多いんだよ。チーズさん。

命名とはまさに、哲学そのものやね。人間の思考活動の原始は、「命名」なんだね。名前をつける=定義なんだね。古代人の哲学だよ。

[542] keita 2007/08/13 22:40

人名の命名は、名称を「定義」しているのであって、
人物を定義している訳ではないからね。
概念の命名とは、ちょっと異なる。
参考:鏡の国のアリス

[543] 諸葛孔明 2007/08/13 23:11

>>542
keitaさん
確かに「概念の定義」と「命名」を一色単にしたら、まずかったかな。

しかし私の古典的直感によれば、古代人にとって「命名」とは、「概念の定義」と同じくらい、切実な行為だった。

ものや人の名前を考えるという行為は、彼らの生活のすべてじゃなかったのかな。彼らにとって命名は、単なる言葉遊びじゃ無かった、その命名という思索行為そのものが、貴方のおっしゃられた「概念の定義」よりも、より重要な哲学行為だったのだろうね。

[544] keita 2007/08/15 14:00

>彼らにとって命名は、単なる言葉遊びじゃ無かった、
>その命名という思索行為そのものが、貴方のおっしゃられた「概念の定義」よりも、
>より重要な哲学行為だったのだろうね。

古代人にとっては、そうだったろう と私も思う。
彼らにとって、呪術のほうが科学よりも重要なものであった という意味では。
それは歴史的必然であって、何ら間違ったことでない。
さて、その上で、
哲学が呪術であるのか、科学であるのか 私は知らない。

[545] 諸葛孔明 2007/08/15 14:45

>>544
keitaさん
「哲学が呪文か科学か・・・」は、私にも分からない。(笑)しかし面白いですな。

哲学は恐らく、呪文も科学も、両方拒んだようにも思うな。論理的人倫かな。

[546] keita 2007/08/15 17:05

面白いね。
それは、「実学としての世の中に対する表の貢献」をすることを拒んだ
という意味かな?

[547] 諸葛孔明 2007/08/15 17:22

>>546
そうかも知れない。実学としての世の中への貢献を拒絶したのが、哲学だろうね。哲学はやがて、世の拗ね者としての学問の呈をそうしていく。誰もこの哲学の四面楚歌に、歯止めがかけられないんだろうな。

アニミズミや宗教、そして科学への反骨を示した哲学が、その反骨そのものを空洞化させているという、実に辟易たる現象だ。

[548] 諸葛孔明 2007/08/15 17:52

keitaさん
今の哲学の多くは、世捨て人の隠居道楽ですよ。何にも責任が必要ないんだから、気楽な趣味・道楽ですよ。和歌や川柳をたしなむように、哲学という言葉の遊びをたしなむ訳ですからね。

[549] 諸葛孔明 2007/08/15 18:51

keitaさん
私の言葉の字面をそのまま読まないでくださいな。(笑)言葉の行間に書いてあることを、読んでくださいな。志は聖にして、言動は匹夫以外という。

[550] エゼキエル 2007/08/16 14:14

帰ってきたぜ。

>>540
>チーズさん
>戒名や法名は何故自分で考えないのでしょうね?

名前というもの自体が自分でつけるものじゃないのが一般的だよ。
生まれ持った名前も自分でつけられるわけじゃないしな。

>名付けるとはどういう行為でしょう。(軌道修正)

その本質を表わすということ。
かつての名付けはその子の所属する親や一族であることを示すものであり、何番目の子であることを示すものであり、その後、目標とする人格を表わすものだった。現在でも、生まれた子供の本質がそのようになってくれたらという親の願いがこめられている。その願いが叶うかどうかは別として。

>>542
>keita氏
そういうわけで↑人名の命名は名称を定義しているわけではない。
「鏡の国のアリス」を参考に持ってきたってことは、名無しの森のエピソードを引用したいのだろうかと推測するが、あれで>>542 を補足するのは無理だろう。違うエピソードの場合はこの限りじゃないが。

>>543
>諸葛亮先生
そういうわけで↑命名と概念の定義はイコールとしてもよかろうと俺は思う。そういうわけで、>>545 は「古代人にとって」だけでなく、現代人にとってもそうだろう、と思う。科学なんてのは結局、呪術と同義なんだよ。信奉者にとってそれは絶対的なものだ。だが、結局はそれで全てが解決するわけではない。

>>547-549
同意。

[551] 諸葛孔明 2007/08/16 14:54

>>550
おぉっ!!エゼキエル大将お帰りなさい。(笑)

そこそこ退屈でしたよ。退屈だから、馬鹿ばかり書いていました。(爆笑)

レスが続くのは、貴方とsunsarさんくらいなもので(笑)、いやいやこれは失礼!!

確かに現代に於いても、命名は本質だよね。別スレでゲスト氏が「影の本質」について、有益な主張をされてましたが、名前があるものはすべて「存在」であり「本質」である、と考える。

[552] エゼキエル 2007/08/16 15:04

>>551
>諸葛亮先生
だから言ってるじゃねえか、俺とsunsar氏は同類なんだって。
口先ばかりで実がねえ(笑)それも一つの苦悩のあり方だとは思ってるけどね。

ゲスト氏のレス見たよ。よくわからんかった(笑)俺には難しいよ(笑)だからあのスレには参加してないんだが。もう少し鍛錬が必要だよな。

名前については、名前の歴史をつぶさに見ることをお薦めする。
北欧のある国では現代でも名字がない。その代わりに〜の息子(娘)という形容詞がつく。日本人から見るとちょうどこれが名字のように見える。
また、名字の起源を辿ると、たいていは人間の特徴や職業が語源だったりする。ブラウンさんはその祖先が茶毛だったわけだし、サムソンさんはサムの息子という意味だ。メイスンさんは石工の子孫。
名前も元は本質というわけだ。時代とともに本質が形骸化しているわけだね。哲学みたいなもんだ(笑)

[553] 諸葛孔明 2007/08/16 15:19

>>552
エゼキエルさん
悪いが爆笑した。(笑)謙遜の仕方が半端じゃねぇ。

貴方の謙遜はすべて、貴方の本心の鏡像と解しましたよ。(似ているが正反対)

名前も時代とともに形骸化している・・・同感ですね。時流や人気ある名前に意識が向いていたりする。どんな子に育って欲しいという親の願いが、読み取れない名前も多いな。

ゲストさんの主張は難しいが何となく読みやすい。私は頓珍漢なことを言って、よく指摘されましたが、まぁそうしながらでも、論理に強くならなければと思い、ついて行ってますが、落ち武者さんとゲストさんの会話は、私の理解の五歩六歩先を行くので、とても情けなくなります。

[554] エゼキエル 2007/08/16 16:55

>>553
>諸葛亮先生
謙遜じゃねえよ(笑)本当にそう思ってんだって。
二人は門外漢って意味でよく似ているよ。違うところは俺はそれを知ってるが、あっちは自覚ないところだろうね。
学問カテの大学受験スレ行ったことあるかい?なるほどなあ〜ってレスがあるぜ。必死なんだろうなあ、ってのがよくわかった。

>どんな子に育って欲しいという親の願いが、読み取れない名前も多いな。

一時期話題になった悪魔ちゃんとかね。インパクトあればいいって感じだな。

落ち武者さんの読解力のレスがあったが、俺は最近は?だね。本人も言ってたけど、買い被ってたね。俺の読解力もまだまだだなあ、と改めて思う。

[555] 諸葛孔明 2007/08/16 20:41

で、科学も呪術も絶対的信奉という点では同義語である、という大将の指摘は、なかなか面白いな。

哲学にはそれがない、というより、それを疑うためにある。勿論疑うことが目的ではないが、絶対的信奉を持たない故の、表面的な弱味と、それゆえに真実に近づくための「無私」を得る故の強味というものがあるよな。

私は切に思うよ。何の為に、論理を用いるのか、それは「人間としての無私」を得る為じゃないかってね。

命名が本質なら、また、本質は命名であるとも言える。哲学という学問の目指す目的が「無私」と「中庸」を得ることにあるなら、私は哲学における思考や考察の原点を、「命名」という行為に定めても、遜色は無いように思われる。

[556] エゼキエル 2007/08/16 21:08

>>555
>諸葛亮先生
呪術もその時代においては現代の科学と同じ役割だったんだよ。それを考慮に入れれば、同義で語れるっしょ、という発想だけどね。

先生は哲学について語る時、よく「無私」という言葉を使うね。
真理を得る、ということ自体が俺にとっては究極の欲だから、無私という発想はないんだけどね。
だから、先生の発想は面白いなと思ったんだけど。

哲学は俺にとっては最高に我欲を満たしてくれる理屈なんだよな。だから、「無私」と「中庸」という発想は最高に面白いね。そういう視点も持っていていいかもしれん、と思う。

[557] 諸葛孔明 2007/08/16 21:40

>>556
エゼキエルさん
無私と我欲は同じなんだな。私は新興宗教なんかが唱える無私には、糞ほどの興味もないが、哲学者や学問における無私には、興味深々なんだな。

無私を得る、というのは、「自分」という名の他人が、何を感じ、何を目指して考えようとしているのかを、敬虔に知ることだと思う。

だから、私、論理的に考えてますっていうポーズが、一番気に入らない。論理的に考えようとする「自分」を、構えて譲らないからね、そんなものは論理でも客観でもない、醜い我執だよ、と言いたい。

そのときそのときに主観や感覚は揺らぐ、という。でも、客観や論理だって揺らぐんじゃないのか、本当は。生きている論理に頼れば、客観的思考は揺らぐ、その揺らぎを直視しないで、揺らぎの傍観者になることに、いったい何の意味があろうか。揺れているものを直視するときの、気分の悪さこそが、真の客観に到る道では、ないのか。

持論の客観性や思考の方法論を過信して、他人との論の衝突に際しての、おのれの心の揺らぎに目を背け、何が論理だ。論理が聞いて呆れるというものだ。

命名はただ「ものの名前を考える」こと。大将が言われたように、「名前を考える」ことが、本質を知ることに到る。また、存在の本質とは、名前を確かめて号泣することだ。

今の哲学は、いわば、客観的に対象を洞察することの、おのれの心身の変化というものを、軽視しているような気がする。下らない傍観者が、生きた論理を振り回す。あまりにも滑稽である。

で、今、何が議題だったっけ。?

[558] エゼキエル 2007/08/16 22:15

>>557
>諸葛亮先生
興味津々、ね(笑)深々じゃなく。

>だから、私、論理的に考えてますっていうポーズが、一番気に入らない。論理的に考えようとする「自分」を、構えて譲らないからね、そんなものは論理でも客観でもない、醜い我執だよ、と言いたい。

言い切ったね(笑)なるほどね、だからsunsar氏のスタイルが気に入らなかったんだな。まあ、偏差値コンプレックスの大学生なんてみんなあの手のスタイルだけどね。コンプレックス抱えてると、型にすがりたくなるんだろうね。型とか権威とかポーズとかさ。
だが、結局見えているのは「論理的に考えようとしている自分」という自画像なんだよな。その「自分」に気を取られているから、議論自体が空洞になるんだよな。それはよくわかる気がする。
自分がいかに論理的であるかということに酔うんだろう。酔っているから冷静な判断が下せないんだよな。
その論者の本質を看破できない読解力ってのは大したことないな、と思う。浅いなあ〜ってね。
数学カテのやりとりも読んだが面白かったよ(笑)相手、かっか来てたじゃん(笑)あの悪口の向こう側にあるものになんで気づかないかね〜突っ込みたかったくらいだ。

命名は奥が深いね。
何事も言語で定義することは、その思考に命名することでもあるんだよな。我々が哲学を言語を用いて行う限り、命名することとは縁が切れないんだよな。
「名前を確かめて号泣すること」がよくわからなかったな。もっと噛み砕いて説明してくれないか?

>今の哲学は、いわば、客観的に対象を洞察することの、おのれの心身の変化というものを、軽視しているような気がする。

「我思う、故に我あり」だって自分の心身の変化に着目してるんだけどね(笑)
心身の変化を軽んじている割に自分の感情には素直だよな(笑)その自己矛盾なんとかしろよ、と思う論者が多い(笑)

議題は置いといて(笑)もう少し先生の哲学論議聞かせてくれよ。

[559] 諸葛孔明 2007/08/16 23:42

>>558
ヒヤー!?エゼキエル大将!何で数学カテでの書き込み分かったの?(笑)

ちょっとうとうとしてたら、sunsarさんが加勢に来たぞっ(笑)四面楚歌だよ。(笑)数学カテが哲学カテになりそうだった。

それから・・・興味津津失礼(笑)
・・・エゼキエルさん。私の素人談義をまともに聞いて戴けるのは、貴方だけですね。感謝しています。

そうですね。私にとってあの人の存在は、貴方と同様に、一つの衝撃的事件だったですね。

前レスでの「号泣」については、あまりにも奥が深いので、少しく後に説明させてください。

これから返事を書こうと思ってますが、「死の美意識について」スレでの貴方の回答!!・・・見事ですよ。一つの新たな境地に斬り込んだ、今までの貴方なら出来なかった、恐るべき回答です。

敬服脱帽ですわ。(笑)

[560] エゼキエル 2007/08/17 00:06

>>559
>諸葛亮先生
先生のレスの奥の数学への愛情がわからんかなあ〜と思いつつ見てたよ。四面楚歌かよ(笑)まあ、頑張れ。

>素人談義
素人でも直感のある人間の説を聞くのは楽しいよ。彼さん然り、よたん氏然り。まあ、二人は素人とは言えないかもしれないけどね。

>号泣
待ってるよ。

はっきり言うけど、俺にとっちゃsunsar氏はいいカモだった(笑)議論吹っかけられたくてこういうキャラだって言ったじゃん?まさに期待通りのカモだったね(笑)なんてお決まりな奴、とおかしかった。
相手の言説の向こう側まで見通す力のなさがsunsar氏の命取りだね。若さ故の浅さなんだろうし、それはそれでいいと思うんだよな。まあ、あれだけ粘着質ってのは想定外だったけど(笑)
たいてい見下して議論に入っても、殆どの奴は途中で気づくんだよ。俺のキャラづけに。でもsunsar氏は気づかなかったからね。そんな奴は正直初めてだったから辟易したよ。
まあ、粘着もやめてくれたし、今となっては過去の人だな。

「死の美意識」に俺、何書いたっけ?(笑)感心されるようなこと書いた記憶ないんだが;;ちょっと見に行ってくるわ(笑)

[561] チーズ 2007/08/17 18:01

>>559

諸葛孔明さんも数学をコーナーで発見!
数学は間違った解釈を受け入れない・・
 「自分の色眼鏡で見るな」とある先生に指摘された自分は
 数学だけは
 誰からも批判されない楽な学問なのだと思ったものです。

[562] 諸葛孔明 2007/08/17 19:21

>>561
チーズさん
ちょっと>>561 の主旨が読めなかったんだけど。(笑)
数学カテでの主張のきっかけは、あのスレタイと、sunsarさんが

「数学とは自明なものの集合である」

という言葉を、ご自分のスレタイでおっしゃったのを思い出したことに単を発する。

sunsarさんは、「自明の意味が違う」と言われたが、結局私の想像するところ、数学でいう「自明」とは、「数学の為だけの閉ざされた自明」でしかないのだろうな、と思う。その数学の自明さを、哲学の世界にまで拡大解釈して持ち込もうとされたところに、あの人の失敗があるんだろうね。

[563] 諸葛孔明 2007/08/17 19:24

チーズさん
数学は確かに気楽な学問ですよ。多くは、疑うことを前提としなくていいんだからね。

[564] チーズ 2007/08/17 19:26

>>562
 諸葛孔明さん

世界地図を見て
 数学のすばらしさを発見するのは
 世界の端っこに小さな我が国日本を発見して
 世界の中心ではなく極東なのだと落胆するときの
 哀しさを含みます。

[565] 諸葛孔明 2007/08/17 19:41

>>564
チーズさん
貴方は詩人ですね。貴方の言葉は詩そのものですよ。とても評価しますよ。

日本が世界の中心ではなく、極東だと落胆するとき、それがどうして数学の素晴らしさと繋がるのです。?

いや、何となく分かるんだが、チーズさんに答えて欲しい。

[566] チーズ 2007/08/17 19:48

>>565
諸葛孔明さん
心の拠り所は母国日本なのです。
 似ていますが生活の拠り所も数学の時が多いのです。
 実際は数学はそれほどまででないのですが
 正しい計算という安心感とでも言ってしまえば・・

[567] 諸葛孔明 2007/08/17 20:07

>>566
なるほど!

私は貴方のおっしゃる数学なら、きっと心の拠り所となると思いますよ。

[568] チーズ 2007/08/17 20:27

>>567
本当の拠り所ははやさしさと ひとりも泣かない
 この方針なのですが
 ちょっと自分の力では通用しないので
 後ろ盾が頼りなのです。(笑)
 

[569] 諸葛孔明 2007/08/17 20:31

>>568
はっはっは。チーズさんの若さが出たね。良い良い。!!

[570] エゼキエル 2007/08/18 06:49

>>563
>諸葛亮先生
俺は小学校に上がった時、算数がわからなくてね。
1の次になんで2が来るかがわからなかったんだね(笑)誰もその理由を教えてくれなかった。
今思えば、あれは疑っちゃいけなかったんだね(笑)
俺は何でも疑問に思う餓鬼だったから、算数はまるでダメだったよ。

あるスレである人が、答えがないかもしれない恐怖を感じつつチャレンジする、と発言していたが、答えがないことが恐怖なんてどんだけ利益至上主義なんだよとおかしかったな。学問ってのはそんなもんじゃねえだろ。答えがないことが恐怖なら哲学なんてやれねえよな。

ところで先生は随筆を持つ気はねえか?
俺はそろそろ撤退しようと思うのだが、先生が随筆を持ってくれれば、ちょくちょく議論できるなと思ってね。

[571] 諸葛孔明 2007/08/18 06:54

>>570
おはよう大将!・・・随筆!?・・・この「ザ・随筆」ってことかな。?

[572] エゼキエル 2007/08/18 06:57

>>571
>諸葛亮先生
おはようさん。
うん。そうだよ。ザ・随筆。

[573] 諸葛孔明 2007/08/18 07:12

>>572
分かった!登録してみるよ。

撤退考えてんだな。了解!私はまだ留まって見る。

[574] エゼキエル 2007/08/18 07:36

>>573
正直、最近は自己肯定に固執する論者が増えた気がしてね。
不毛だなあ、と思い始めてるところさ。
呟く論者にも興味ねえ。
ただ意見の羅列も見飽きたよ。

[575] 諸葛孔明 2007/08/18 08:03

>>574
なるほど・・・早い話しが、質の低下ってことだな。(笑)
エゼキエルさん。リアルの世界でも同じですね。

言葉に奥行きが無い人が多いよね。

[576] 諸葛孔明 2007/08/18 08:05

さっき随筆登録したけど、ハンネの色が変わらないな。・・・間違えたかな。?

[577] 諸葛孔明 2007/08/18 08:50

確かにこの哲学カテを眺めてみれば、議論になるのを嫌がるという論者が、物凄く増えてるな。

他人との論や意見の衝突を恐れ、他者との軋轢を回避することばかり考える。

哲学というものが、他者との議論無くしては成り立たないことを考えれば、議論を回避するなどというのは、まさに本末転倒なんだけどな。何故だろか。

[578] エゼキエル 2007/08/18 12:14

>>575
字面だけ見て必死に抗弁する奴が増えたね。
その主張を通して得られるものって何?と思うことが多くて辟易してる。本旨がまるで見えてないんだな。何を得るための議論なのか、という点で本末転倒している。
そして、自分の説に賛同してくれる奴を感情的に支持する。

他者との衝突を怖がるというのは、現代の若者の特徴だろうな。意見に反論されたら、自分自身が否定されたように感じ、必死で自己の肯定にかかる。意見と自己を分けて考えることができてないね。
夏厨なのかね。
あと一言居士ね。誰とも絡まず、自己主張だけしていく奴。
どっちにしてもコミュニケーション不足だろうね。
哲学以前の問題だよ。

[579] エゼキエル 2007/08/18 12:19

先生。
諸葛 孔明、と真ん中にスペースあけて登録してるんじゃね?
今、検索かけたら、それはあったよ。
HNも真ん中スペースあけたら色が変るんじゃねえかな?

[580] 諸葛 孔明 2007/08/18 12:32

>>579
そうか!やってみる

[581] エゼキエル 2007/08/18 12:36

>>579
ああ、見当外れだったみたいだな;;
スペースあけても色変わってねえや(^^;
悪ぃ悪ぃ;

[582] 諸葛 孔明 2007/08/18 12:42

うん・・・そうだね。携帯では駄目なんかなぁ。

[583] エゼキエル 2007/08/18 12:47

よく用いる四文字熟語は四面楚歌、って先生だろ?

[584] 諸葛孔明 2007/08/18 12:56

>>583
というと?

[585] エゼキエル 2007/08/18 17:32

>>584
あれ?随筆のところに書いてあった一文なんだが…覚えがないなら、同じHNの人がいるってことかな?

[586] 諸葛孔明 2007/08/18 19:04

>>585
多分それは私じゃないですね。(笑)

[587] エゼキエル 2007/08/18 22:25

>>586
なら、どうやら登録できてないみたいだね(笑)
同じHNの人がいるみたいだが、HN変えるかい?

[588] 諸葛孔明 2007/08/21 13:51

まぐたらさんの怒りが収まるまで、こちらで独り言でも言いますか。(笑)

私は最近自分のなかで、微妙な変化を感じる。今までこのカテに入って二ヶ月・・・論理的であることを、初めは軽蔑し、己れのスタイルで書き込みをしていた。大雑把なところで、今もそれは変わらない、と思うのだが、どうも最近、自分のなかで、少し中身が分裂しているような言葉が出始めたと思う。

言いたいことがないのに、無理矢理言葉を引っ張り出すところに、強烈な違和感を感じる。何か、一ヶ月前と比べて、発言が意図的になり狡くなったようにも感じる。いい変化なのか?悪い変化なのか?まだ分からないな。

[589] 諸葛孔明 2007/08/21 15:03

数学カテのやりとりを読み返した。確かに私の言葉は、時に辛辣であり、時に的はずれであり、それでも他人の批判を浴びるをよしと思い、堂々と主張した。

多分、論理的思考を重んじる識者には、私の主張は極めて主観的であるにも関わらず、その怯まぬふてぶてしい態度が、脅威と映ったのだろう。

直感のみ、感性で言葉を選ぶ私が、どんなに論理的破綻を指摘されても、痛くも痒くもない、というところは、まぐたらさんには理解外のことなのであろう。

それが彼の怒りをさそった。恐らく、彼からすると、私は論破しうる相手と信じていたのだろう。

ところが、私の数学不毛論には、もともと論点などない。私の主観をどんなに論破しようとも、主観は主観でしかないことに、彼は全く気付こうとはしない。

私が辛辣に言葉を尽くし、やっと彼の目が覚めた。今までの彼の行為を否定したのではないのに、彼は怒った。

まぐたらさん。もしこのレスを見ていたなら意見をください。私は貴方の誤解を解きたい。よろしく頼む。

[590] まぐだら 2007/08/21 15:57

荒らしに動機づけなど不要だ。あなたがやったことは哲学糧でも再現してやる。愚か者め。

[591] まぐだら 2007/08/21 16:04

言葉を綺麗に飾ろうが真剣に議論している人間に対して、数学糧での貴様の発言は議論をする人間への冒涜であり、貴様はそれについて反省しない。そんな奴の話など耳を傾ける価値はない。ゴミ虫の和解策等不要だ。数学糧の一連の発言を数学糧で謝れ。そうしたら許してやろう。

[592] 諸葛孔明 2007/08/21 16:07

>>590
まぐたらさん。
今貴方がされている書き込みこそが、正真正銘の荒らしなんだよ。とにかく、私を攻撃する為に書き込みしてるのだから、荒らしなんだな。

まぁそんなことはいい。まぐたらさん。そんなに私が憎い?私は貴方の言葉を素直に受け入れただけなんだけどね。

たださっき書き込みを見て一つの過ちに気付いた。私は自分が荒らしであることは、認めない。他人から荒らしとレッテル貼りされても、それは勝手だろうね。本当に荒らしと思うなら、管理者に連絡すればいい。
そこで貴方に質問?

貴方が私を荒らしと言う根拠は?

[593] まぐだら 2007/08/21 16:11

数学糧でテーマとは関係ない議題を延々と主張。議題している人間をクソ坊主や読解力がない挙げ句子供と揶揄。それが荒らしではないとでも?私が荒らそうが知ったことではない。やったことはやり返す。割に合わない。哲学という愚かな学問の場がどうなろうがもはや知ったことではない。私が荒らしなのは承知している。

[594] まぐだら 2007/08/21 16:14

議題→議論
残念ながら去らねばならない。反省を行動に表してくれることを切に願う。そうすれば哲学糧での無礼を私も詫びよう。

[595] 諸葛孔明 2007/08/21 16:20

>>593
まぐだらさん!

貴方本気でそう思っているの。(笑)

貴方に「読解力がない」とは本当のことだろ。今の今まで、私の主張が私の主観に過ぎないことが、分からなかった訳だろ。違うか?

keitaさんを「子供」といったのも「主張の未成熟」をそのように揶揄した。鳳統さんの糞坊主もな。これは罵倒であっても荒らしではない。私はきちんと自分の主張はしている。違うか?

[596] 諸葛孔明 2007/08/21 16:24

確かに・・・途中から数学と関係の無い話しをしたことに関しては、これは貴方にお詫びをする。申し訳ない。!!・・・

そして、数学カテのあのスレッドの皆さんにもお詫びをしておく。

[597] まぐだら 2007/08/21 16:27

あなたは上の発言を真剣にしているのかな?10:00まで外出する。それまでに行動に表してくれることを切に願う。

これは問題和解への交渉だ。一連の無礼な発言を私もまた詫びる。数学糧での無礼を帰宅するまでに、謝る姿勢がなければ交渉は決裂だ。あなたと私が和解することはないと判断する。

[598] まぐだら 2007/08/21 16:39

私に謝らなくてもいい。私はあなたに反撃したからおあいこだ。数学糧でやったことを数学糧で皆さまに謝るという指定に注意。迷惑を掛けたら謝る。これは最低限の筋だ。私はあなたが誤っていれば時間通りきっちり10:00にここで自分のした行為の愚かさを謝罪する。私が関わったすべてのスレで

[599] 諸葛孔明 2007/08/21 16:48

まぐだらさん。今数学カテで、お詫びしてきた。貴方の謝罪要求はもっともだ。

[600] チーズ 2007/08/21 17:22

>>599
諸葛孔明さん実験はどうでしたか?
自分は状況をのみこめませんが
 策士策におぼれる・・でしょうか?
自分との議論を避けられた時点で哲学的な態度として
 負けになってしまったのではないでしょうか?

主観の主張は哲学的でないと思いませんか?

[601] 諸葛孔明 2007/08/21 17:48

>>600
チーズさん
私の実験はまだ続いています。ただ、数学カテで哲学っぽい議論をし、貴方のご指摘通り、主観をもって居直ったところは、正直失敗でしたね。

やはりチーズさんとの約束を守らなかった時点で、私もある意味、非哲学的態度だったのかも知れないな。

[602] Magdalene 2007/08/21 21:05

話し合いの場をかき乱して申し訳ございませんでした

[603] 諸葛孔明 2007/08/21 21:48

>>602
まぐだらさん。ありがとう。ここは私のスレだからいいよ。

まぐだらさん。私は貴方を見直した。貴方にはもう、何も言うことはない。今までかなり厳しいことも言ったけど・・・けっして半端ないい加減な気持ちでしたレスは、ただの一つも無かったことは、はっきりと貴方に申し上げておく。

私とのやり取りに感謝する。もう貴方は立派に言葉の感性が備わった・・・と率直に確信してる。あとは臆せずに、自分の思想の動脈を、どんどん辿っていけばいい。リアルな世界にいっても、それはきっと、逆境にあって自分に負けない武器ともなるから。

私はこのカテで、まだしなければならないことがある。私は今、四十五歳になるが、このカテはいい刺激になる。

まぐだらさん!今日はともかく、・・・申し訳なかった。そしてありがとうな。

[604] 似非右翼オビツ 2019/11/17 20:25 v2/yQU0V8qj

舟橋市中山

[605] タンチョウ 2020/01/20 16:32 m9/upc2Wj9R

>>555

本質が命名・・前代未聞でございます・・

[606] タンチョウ 2020/01/21 10:13 m9/upc2Wj9R

本質は光(明らか)と闇・・

神(真理)は覆い隠されている・・らしい

[607] タンチョウ 2020/01/27 15:51 W5/upc2Wj9R

寒さに震えなければ温かいものを有難がらない・・

健康について考えるのは病気をしてから・・

若さで乗り越えられた時もあった・・

年寄りの冷や水はすべきではない・・

[608] タンチョウ 2020/02/02 16:04 W5/upc2Wj9R

流れる水(情報)を手ですくって命の糧にできるかどうか・・

[609] エセ右翼 オビツ 2020/02/08 08:47 yo/yQU0V8qj

舟橋市中山

[610] エセ右翼 オビツ 2020/02/12 07:52 ff/fAU2FO28

エセ右翼 オビツ 舟橋市中山

[611] 名も無きザビラー@ザ掲示板 2020/02/21 11:20 Bw/fHCTOO10

みんなはどんなコスプレ衣装を買いますか。中国から輸入のはどうですか。品質が必ずよくて、値段もあまり高くないです。「C2J.jp」という日中間サイトに関連商品があります。見ていただければ幸いでございます。

[612] 名も無きザビラー@ザ掲示板 2020/02/22 08:13 w0/lD6YrMse

半導体核スピンの電気的コヒーレント制御
澤田博昭 野村正明 美春直義 加藤仁 川村貴一 佐野俊 
北海道大学工学部

[613] 志保😄😄✨ 2020/02/22 09:53 ザ-000,024,682号

あ‼️又偽物かよ‼️😡💢‼️😡💢‼️
茄子うざ‼️😡💢‼️悪魔死ね😡💢‼️😡💢‼️😡💢‼️
テメエ死ねよ早く‼️😡💢‼️誰だよテメエ‼️😡💢‼️死ねよ早く‼️😡💢‼️💢🤛

[614] エセ右翼 オビツ 2020/03/12 17:25 ff/5YiAW7Gr

昨日の8月15日にいつもの浮浪者のおっさん(60歳)と先日メールくれた汚れ好きの土方のにいちゃん
(45歳)とわし(53歳)の3人で県北にある川の土手の下で盛りあったぜ。
今日は明日が休みなんでコンビニで酒とつまみを買ってから滅多に人が来ない所なんで、
そこでしこたま酒を飲んでからやりはじめたんや。
3人でちんぽ舐めあいながら地下足袋だけになり持って来たいちぢく浣腸を3本ずつ入れあった。
しばらくしたら、けつの穴がひくひくして来るし、糞が出口を求めて腹の中でぐるぐるしている。
浮浪者のおっさんにけつの穴をなめさせながら、兄ちゃんのけつの穴を舐めてたら、
先に兄ちゃんがわしの口に糞をドバーっと出して来た。
それと同時におっさんもわしも糞を出したんや。もう顔中、糞まみれや、
3人で出した糞を手で掬いながらお互いの体にぬりあったり、
糞まみれのちんぽを舐めあって小便で浣腸したりした。ああ~~たまらねえぜ。
しばらくやりまくってから又浣腸をしあうともう気が狂う程気持ちええんじゃ。
浮浪者のおっさんのけつの穴にわしのちんぽを突うずるっ込んでやると
けつの穴が糞と小便でずるずるして気持ちが良い。
にいちゃんもおっさんの口にちんぽ突っ込んで腰をつかって居る。
糞まみれのおっさんのちんぽを掻きながら、思い切り射精したんや。
それからは、もうめちゃくちゃにおっさんと兄ちゃんの糞ちんぽを舐めあい、
糞を塗りあい、二回も男汁を出した。もう一度やりたいぜ。
やはり大勢で糞まみれになると最高やで。こんな、変態親父と糞あそびしないか。
ああ~~早く糞まみれになろうぜ。
岡山の県北であえる奴なら最高や。わしは163*90*53,おっさんは165*75*60、や
糞まみれでやりたいやつ、至急、メールくれや。
土方姿のまま浣腸して、糞だらけでやろうや。
  

[615] タンチョウ 2020/07/22 16:52 Gx/2daRflbX

>>600

諸葛孔明さんチーズ(タンチョウ)を避けていたのですね・・

忘れていました・・

[616] 統合失調症のハーメル45歳#mixi #アメブロ 2022/05/13 04:06 wI/QPTGj0Mz

今日も聖恵ちゃんでシコってます。

[617] タンチョウ 2023/01/15 18:02 uZ/Iwn3Jbas

魂(哲学)は完成しているから古代から進歩していない・・

科学は完成しないからどんどん進歩する・・

哲学は完成された型の変形で過ごしている・・

[618] タンチョウ 2023/01/18 18:14 uZ/Iwn3Jbas

現象に光が当たり実体となる・・

光が当たるとは何か・・

光明とは何か・・

[619] タンチョウ 2023/01/19 17:02 uZ/Iwn3Jbas

◎主観性を客観性に溶解し客観性を主観性に溶解する運動が実存である。

実存の危機は、単なる主観性のうちに孤立化すること(主観性への身売り)であるか、

あるいは単なる事物の内に充足しきること(客観性への身売り)であるか・・

[620] タンチョウ 2023/01/20 17:50 uZ/Iwn3Jbas

現存在・一般意識・実存の何らかに絶対意識の或る神秘的な象徴(暗号化する)を帯びる瞬間に

超越者の最も明白な顕在がもたらされる・・

[621] タンチョウ 2023/01/21 18:50 uZ/Iwn3Jbas

人類学的な仕方、意識を解明する論理学の仕方、心理学的及び社会学的仕方は互いに分離されてはならない。

これらすべてを包越しながら超越者は人間自身について常により以上のものである。

人間は超越者の本質存在の一側面にして知る所のものである。

[622] タンチョウ 2023/03/19 21:52 v9/Iwn3Jbas

現存在的現象を全く無視して、それを軽蔑し、生滅流転を全く意に介しないならば逸脱する。

現存在として現象するとともに、現象以上のものであるとき、初めて可能的実存として現実的である。

隣人の死を通じて破壊されたものは現象であって

存在それ自身では無い。

そこに、消し難い痛みに基づいたいっそう深い明澄の心境が生まれてきたりもする・・

[623] 名も無きザビラー@ザ掲示板 2023/03/22 09:56 j1/dK6AK37i

今日はツイてるなあ。

[624] タンチョウ 2023/03/22 17:00 v9/Iwn3Jbas

侍と言う言葉は縁起の良い言葉です・・

武士の士は縁起の悪い言葉です・・

[625] タンチョウ 2023/04/01 22:13 v9/Iwn3Jbas

ヤスパースさんのおっしゃる実存の飛躍で

永遠の現実として保持する死は

死を超えて永続する交わりの真理を証示する・・

[626] 名も無きザビラー@ザ掲示板 2023/04/02 07:25 NN/rEVPwXI1

刀を携帯して切り捨て御免の自分勝手なやつらですよ
あんなやつらでも孔子の言葉は重んじる

[627] タンチョウ 2023/04/02 20:47 v9/Iwn3Jbas

我が先祖は平家の下級武士で海賊になり逃げ延びて江戸時代は山奥で百姓をしていましたが・・

日露戦争で乃木将軍に仕えて億万長者になり教育者の祖母をめとり幼稚園を建てました・・

海賊から教育者までご先祖様も様々に・・

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